2009年11月25日 (08:56)

検討問題:複素数としての即非子の仮説

即非子を複素数と仮説する。それを、CNとする。

CN=±cosθ±isinθ/2

ただし、θはkπとし、kは整数が入る。
例えば、k=1のとき、

CN=±1 ±i

となる。
これが、即非子の数式ではないだろうか。
もっとも、一般に、虚数が隠れているのである。正確に言えば、実数によって、隠蔽されているのである。
 +1は光であり、-1は闇である。しかしながら、±iの「光」と「闇」がある。
 もっとも、Media Pointにおいて、±iは即非・共振様態であり、超越光(超光)・即非・光の様態と考えられる。
 思うに、光と言った場合、本来は超越光と一如(いちにょ)であるが、一般的には、+1の光、いわば、物質的な光しか見ていない。
 有り体に言えば、「気」としての光を「見て」いないのである。光は不可視の「気」をもっているのである。それは、アストラル体(虚数波動)とエーテル体(実数波動)である。
 光+1とは、超越光の同一性的側面、表層ではないのか。
 今はここで留める。

2009年11月24日 (22:46)

検討問題:即非子の様態について

先に、即非子を仮説したが、虚軸様態と実軸様態の即非様態についてさらに考察してみたい。
 実軸様態は端的に光様態(現象)である。では、虚軸様態は何であろうか。私はこれまで、超越光と考えてきた。
 ここで比喩的に考えたい。通常、光のベールをかぶっているのである。そして、夜睡眠するとき、このベールが取れて、「闇」に入る。しかし、この「闇」は光の彼岸であり、実は、闇ではない。やはり、超越光(トランス・ライト)であると思われるのである。
 そして、この超越光がアフラ・マズダーの光ではないだろうか。また、阿弥陀仏(無量光仏)の光ではないだろうか。そして、大日如来の光、そして、天照大神の光ではないだろうか。
 思うに、古代人ないしは超古代人はこの超越光(超光)を見ていたのではないだろうか。
 今はここで留める。

『-iとの共振エネルギーについて:「気」:アストラル体とエーテル体:即非子という仮説』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10395637508.html

2009年11月24日 (22:44)

-iとの共振エネルギーについて:「気」:アストラル体とエーテル体:即非子という仮説

私が問題にしたいのは、シュタイナーのアストラル体とエーテル体である。
 PS理論では、両者とも、超越エネルギーで説明できそうである。というか、区別がないように思えるのである。
 しかしながら、精神的「気」と身体的「気」は異なるように思えるので、シュタイナーの区別を肯定しておく。
 直感では、先に述べたように、アストラル体は、主に、虚軸のエネルギーであり、エーテル体は実軸のエネルギーのように思える。
 言い換えると、前者は精神的エネルギーであり、後者は物質的エネルギーである。
 私の内観では、先に述べたように、精神的情感がアストラル体である。これは、明らかに、-iとの共振によって起るのである。
 それは、身体的ないしは物質的「気」とは確かに異なる。なぜなら、霊妙であるからである。
 しかしながら、絶対的に物質的「気」と異なるとは言えないように思える。
 次のような作業仮説はどうだろうか。Media Point、即ち、精神的フィルターにおける様態を即非子と考えるのである。即非子は、虚軸的様態をもち、また、実軸的様態をもつが、それらは当然、即非様態である。虚軸的であり、且つ、実軸的であるが、両者は不連続であり、前者が主であり、後者は従である。
 この即非子は、量子、素粒子と見ていいだろう。虚数共振は波動的であり(正確に言えば、虚数粒子があると考えられるだろう)、その共振エネルギーが粒子(光子)を生成・産出する。
 ただし、光子はあくまで現象であり、実体は即非子と考えられる。つまり、光子は表層であり、深層には、即非子の虚軸共振があるということである。
 さて、ここで本題に戻ると、物質的「気」は端的に、光子ではないだろうか。そして、精神的「気」は即非子のエネルギーないしは、即非子の虚数共振である。
 光子は+1であり、即非子は⇒である。ここには微妙な問題がある。⇒+1を即非子と見ることができるだろう。
 実数様態を考えると、⇒+1が即非子である。そうすると、即非子は、Media Pointや精神的フィルターとは異なることになる。
 上記では、Media Pointや精神的フィルターの様態を即非子とすると言ったが、様態という点で、当然、Media Pointや精神的フィルターとは異なると言えよう。
 あくまで、Media Pointや精神的フィルターは変換器であり、弁のようなものである。端的には、境界である。あるいは、場である。
 それに対して、即非子とは、エネルギー体である。Media Pointや精神的フィルターを通過するものである。いわば、器に対する中身である。
 とまれ、本テーマに返ると、結局、「気」とは即非子であり、即非子の虚数共振様態が精神的「気」=アストラル体であり、即非子の実数様態が物質的「気」=エーテル体と考えられよう。
 ここで光子+1について考えると、これは、原物質であろう。物質自体ではないだろう。しかし、現象を構成する母胎的基礎である。
 しかしながら、光子+1はやはり抽象であろう。本体は⇒+1であり、その表層面に現れ、抽象されたものが光子+1のように思えるのである。これは、同一性構造による抽象だと思われる。
 とまれ、以上で、本テーマは作業仮説をもって説明された。

2009年11月23日 (13:33)

ペットを「犬死に」させる日本人と近代日本の悪霊と「モラル・ハザード」

テーマ:滅びゆく日本と新倫理社会へ

A rabbit wearing a tartan suit competes in a rabbit fashion contest near Tokyo. Some 8,000 rabbit lovers visited the annual two-day event

A rabbit wearing a tartan suit competes in a rabbit fashion contest near Tokyo. Some 8,000 rabbit lovers visited the annual two-day event

http://www.telegraph.co.uk/earth/earthpicturegalleries/6617101/Animal-pictures-of-the-week-20-November-2009.html

日本でウサギのファッションコンテスト


 日本では15日、ウサギのファッションコンテストが行われ、愛好家たちが様々なファッションでおしゃれした自分のウサギを連れて集まった。(編集YH)

 「人民網日本語版」2009年11月16日

http://j.people.com.cn/94475/6814548.html


以下、CNNニュースで、日本のペットの飼い主がペットを冷酷に捨て、そのため、集められたペットがガス室に入れられ、殺害の処分を受けることを伝えている。

 これは、『羊たちの沈黙』である。島根女子大生殺人事件の根も同じである。そう、いわば、ナチズムである。

 日本人の愚民は、道徳・倫理を喪失しているのである。これは、コイズミ主義と同根である。

 戦前・戦争中の731部隊の凶行と同根である。これは、ルシファー/アンラ・マンユ悪魔悪霊主義である。近代日本において、悪霊が侵入したのである。私見では、封建的父権主義と近代合理主義(唯物論)の結合に起因するように思う。そして、これは、東京中心主義と関係するのである。

 また、ここで想起するのは、夢野久作の『ドグラ・マグラ』の近代科学(近代医学)の実験の狂気である。

 後で整理したい。


追記:日本人の個の確立の問題がここにある。超越性の肯定なくして、個は確立しない。超越性が道徳・倫理をもたらすのである。また、審美意識をもたらすのである。


追記2:近代日本の中枢に巣くうモラル・ハザードの病巣の問題がここにある。

 

Added On November 22, 2009
CNN's Kyung Lah reports on the ugly truth of Japan's lucrative pet

*
o Japan's dog death row
o CNN's Kyung Lah reports on the ugly truth of Japan's lucrative pet industry.


http://www.cnn.com/video/?iref=videoglobal#


参考:
日本軍「慰安婦」問題の立法解決を求める緊急署名

我々は、過去の加害を反省いたします。

我々は特に、日本に侵略されたアジア諸国の人々に対する加害、つまり、わが国の歴史の傷ついた一章について反省いたします。

過去の過ちを正し、自信を持って未来へと進むことによって、日本の歴史の新たな一ページをめくるときが来たのです。

我々は、我々の隣国の人々に対して深い悲しみ、苦しみ、損失を与えてきた歴代の議会や政府による数々の歴史修正主義の誤りや戦争責任否定の誤りやアジア侵略の正当化の誤りについて謝罪いたします。

これら被害者とその子孫、残された家族の苦しみと痛みについて、我々は「申し訳ありませんでした」と申しあげます。

南京虐殺について、創氏改名について、重慶爆撃について、従軍慰安婦徴発政策、731部隊について、(...中略...)隣国の人々の家族や共同体を壊したことについて、我々は「申し訳ありませんでした」と申しあげます。

誇り高い民族と誇り高い文化に対して加えられたこれらの戦争被害と、歴史修正主義からなされた被害者への侮辱と誹謗について、我々は「申し訳ありませんでした」と申しあげます。

日本の国会は、この謝罪は国をいやす一環として捧げられるのであるという精神で、この謝罪が受け入れられることを謹んでこいねがいます。

未来に対して我々は勇気を出すのです。この偉大な日本の歴史に、いまや新たな一ページを書くことができるようになったと我々は議決するのです。

(引用ここまで)

日本は今こそ、こう発言するときが来たのではないでしょうか。

第二次大戦中の日本によるアジア各国とその人々への被害の件の中でも、元・従軍慰安婦の受けた被害をめぐる問題について、残された時間は多くありません。被害を受けて、名誉が回復されないまま亡くなった方々も多いことに心が痛むことは普通の感性だと思います。
http://muranoserena.blog91.fc2.com/blog-entry-1522.html
村野瀬玲奈の秘書課広報室

ドグラ・マグラ
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文学
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『ドグラ・マグラ』は、探偵小説 家夢野久作 の代表作とされる小説である。
構想・執筆に10年以上の歳月をかけて、1935年 に刊行された。
小栗虫太郎 『黒死館殺人事件 』、中井英夫 『虚無への供物 』と並んで、日本探偵小説三大奇書 に数えられている。

その常軌を逸した作風から一代の奇書と評価されており、本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす、と称されている[1] 。
「ドグラ・マグラ」の原義は、作中では切支丹バテレンの呪術を指す九州地方の方言とされたり、「戸惑う、面食らう」や「堂廻り、目眩み」がなまったものとも説明されているが、詳しくは明らかになってはいない。
概要 [編集 ]

本書は1935年(昭和10年)1月、松柏館書店より書下し作品として刊行された。「幻魔怪奇探偵小説」という惹句が附されていた。

本書の原型となったのは、夢野久作が作家として作品を発表し始めた頃に書き始められた、精神病者に関する小説『狂人の開放治療』である。10年以上にわたって徹底的に推敲され、夢野はこれを発表した1年後の1936年 に死去している。
内容 [編集 ]

注意 :以降の記述で物語・作品・登場人物に関する核心部分が明かされています。

大正15年頃、九州帝国大学 医学部精神病科の独房に閉じ込められた、記憶喪失中の若き精神病患者の物語(と思われる)であり、「私」という一人称で語られていく。彼は過去に発生した複数の事件と何らかの関わりを有しており、物語が進むにつれて、謎に包まれた一連の事件の真犯人・動機・犯行手口などが次第に明かされていく。そうした意味では既存の探偵小説・推理小説の定石に沿っている。が、その筋立てが非常に突飛である。

物語の骨格自体は非常にシンプルな物だが、冒頭に記された巻頭歌のほか、胎内で胎児が育つ十ヶ月のうちに閲する数十億年の万有進化の大悪夢の内にあるという壮大な論文「胎児の夢」(エルンスト・ヘッケル の反復説 を下敷きにしている)や、「脳髄は物を考える処に非ず」と主張する「脳髄論」、入れられたら死ぬまで出られない精神病院の恐ろしさを歌った「キチガイ地獄外道祭文」などの肉付けがされている。まともに要約することは到底不可能な奇書とも言われる所以である。

主人公とも言うべき青年が「ドグラ・マグラ」の作中で「ドグラ・マグラ」なる書物を見つけ、「これはある精神病者が書いたものだ」と説明を受ける場面では、登場人物の台詞を借りて、本作の今後の大まかな流れが予告されており、結末部分までも暗示している。このことから、一種メタフィクショナル とも評し得る。

その結末は様々な解釈が可能であり、便宜上「探偵小説」に分類されているものの、そのような画一的なカテゴリには到底収めきることはできない。一度の読了で作品の真相、内容を理解することは困難なため、多くの読者が数度にわたって再読することが多い。なお、この「内容が複雑なため読者は最低二度以上の再読を余儀なくされる」という事実は、上記の「ドグラ・マグラの作中のドグラ・マグラ解説シーン」で語られている。

長文に渡る大作であるが、2007年末、著作権が消滅した文学作品を公開しているウェブサイト 『青空文庫 』に収録されており、インターネット上で読むことができる。
登場人物 [編集 ]

前述の通り、この物語を要約することは難しい。登場人物を明確に記すことは困難である。よって、ここでは外面上に出た特徴を記すに留める。ここに記された情報は小説中で覆される可能性があり、またそのため断定的な説明はしていない。


「ドグラ・マグラ」の語り部の青年。九州帝国大学の精神病科の病室で目覚める。記憶を失っており、自分の名前すら判らない。若林博士の言葉によると、呉一郎が起こした二つの殺人事件の謎を解く鍵は彼の失われた記憶の中にあるらしい。次第に、自分は呉一郎ではないかと思い始めるのだが…。
呉 一郎(くれ いちろう)
この物語の最重要人物。二十歳。この人が「私」と同一人物であるかが作品の鍵。
呉 モヨ子(くれ もよこ)
呉一郎の従妹にして許嫁の美少女。「私」の隣の病室に入っている狂少女こそがモヨ子だ、と「私」は聞かされるのだが…。
呉 八代子(くれ やよこ)
呉一郎の伯母で、モヨ子の母。
正木 敬之(まさき けいし)
九州帝国大学精神病科教授。従六位。「狂人の解放治療」なる計画の発起人。学生時代から常人の理解を超越した言動で周囲を驚かせてきたが、すべては「狂人の解放治療」を見据えてのことだったらしい。若林博士の言葉によると、「私」が目覚める1ヶ月前に自殺したらしいのだが…。
若林 鏡太郎(わかばやし きょうたろう)
九州帝国大学法医学教授。正木教授とは学生時代の同級生。「私」の記憶が戻るようにと色々と取り計らってくれている。
呉 青秀(ご せいしゅう)
呉家の祖先で、唐 時代の画家。若くして天才と称せられた。玄宗皇帝 をいましめるために、自らの夫人を殺して死体が腐ってゆく様子をスケッチし、絵巻物にするという常軌を逸した行動に出る。その絵巻物が、事件の鍵となる。

・・・・・

外部リンク [編集 ]

* 青空文庫 ドグラ・マグラ - 2007年12月24日公開開始

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%82%B0%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%A9 」より作成
カテゴリ : 夢野久作 | 日本の小説 | 日本の推理小説 | 1930年代の小説 | 1988年の映画 | ミステリ映画 | アンチ・ミステリー


731部隊
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731部隊(ななさんいちぶたい)とは大日本帝国陸軍 の関東軍 防疫給水部 本部の事。関東軍管轄区域内の防疫・給水業務を行うことを目的に設置された。同時に細菌戦の研究の一環として人体実験を行っていたという証言[1] [2] [3] がある。また証言についても反対意見もある。

「731部隊」とは、1941年に付けられた通称号 の略である。初代部隊長の石井四郎 (陸軍 軍医中将)に因んで石井部隊とも呼ばれる。

部隊の活動実態に関しては確実な証拠の有無(確定的な証拠が証言しかないため)について反対もあり、議論が続いている。
軍組織における位置 [編集 ]

731部隊は日中戦争 (支那事変 )から太平洋戦争 (大東亜戦争 )中にかけて発足した旧日本軍のBC戦(生物兵器 ・化学兵器 )研究機関「軍医学校防疫研究室」の下部組織である。

当時からその特殊性よって機密性が非常に高い組織であった事、また終戦後のアメリカ軍 との取引により関係者の多くが研究成果を引き渡す事を条件に罪不問に付され、戦後医学 界の中枢を構成した経緯などから情報が不足し、実態は不明のままであった。近年になり米国の公文書が機密解除されて研究されたが、非人道的な実験が行われた記録は発見されていない[4] 。

従来、731部隊は旧軍の細菌戦部隊の中核研究機関のように言われてきたがこれを誤りとする研究者[要出典 ]も存在する。この主張によるとBC戦の研究組織の中枢は当時新宿にあった陸軍軍医学校 防疫研究室(または陸軍防疫給水部 、この組織は陸軍軍医学校と陸軍参謀本部の両方に指揮系統を有しており、前者による呼称が研究室、後者による呼称が防疫給水部)である。ここを中核として、当時の旧軍展開地域各所に設置された各部隊(平房の大陸本部、北支那防疫給水部(北京 の甲1855部隊)、中支那防疫給水部(南京 の栄1644部隊)、南支那防疫給水部(広東 の波8604部隊)、南方軍防疫給水部(シンガポール の岡9420部隊など))に指令が出され、さらに国内大学医学部のバックアップの元で広大なネットワークを構成してBC戦術の組織的な研究・開発を推進していた。

731部隊はそれらの部隊中で最大級の設備を有してはいたが、その中心ではなく実験・検証施設であったにすぎない。731部隊は表向き日中戦争 時の1941年 に各種流行性伝染病 予防と兵員用の飲料水 の水質浄化を目的として、関東軍が建国した満州国 のハルピン に配備された。731部隊で実施された内容は各部隊の中でも特殊なものであり、人間の生体を用いて非倫理的な実験が行われたと言われているが事実は定かでない。

陸軍参謀本部指揮下の『満州第731部隊』は関東軍防疫給水部本部を表す通称号 であり、1941年に陸軍の全部隊にそれぞれ付けられた秘匿名である。各支部などをまとめた関東軍防疫給水部は「満州第659部隊」と称した。 

・・・・・
戦後の状況 [編集 ]

石井四郎が京都大学 医学部 の出身であったように、731部隊をはじめとする生物化学兵器 研究の幹部は、エリートが多く、そのほとんどは戦後になって、東京大学 や京都大学 を初めとする医学部の教授、陸上自衛隊衛生学校 校長、国立予防衛生研究所 所長、大阪大学微生物病研究所 幹部等、日本の医学界、医薬品業界、厚生行政の重鎮となり、さらに満州のA級戦犯 岸信介 らが政界の重鎮となり日本国内での人道的見地からの責任追及の動きを封じていく。しかし、近年になり旧幹部の引退などに伴い除々に弱まって来ている。


・・・・・


1950年 、GHQとコネ ができた内藤は、後年に薬害エイズ を引き起こすミドリ十字 の前身の日本ブラッドバンク (6人の取締役のうち3人が731部隊関係者。731部隊隊長を一時務めた北野政次 とサンダース中佐が顧問)を創立した[8] 。

http://ja.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A

2009年11月21日 (22:20)

ルシファー問題:アンラ・マンユ=+1、ルシファー=-1ではないか:同一性に対する超越性の参入

先に、差異共振における+iの傾斜がルシファーと述べたが、それでは、不十分である。
 +iと-iの差異共振が、根源的に発動する。これが、原知覚である。差異共振現象とは、光現象であるが、それを、+iが認識しようとする。即ち、言語的認識を行うのである。例えば、「アレは、何。」「アレは船。」 「船」という言葉は+1である。「船」自体は-iである。つまり、「アレ」は他者-iであるが、「船」という言語は同一性+1である。
 問題は発話行為のとき、+iが優位であり、-iが劣位であることである。この二項対立が、男性においては、根源的にあるのである。
 差異共振現象=光現象における優位性である+iがルシファーであると考えられる。
 差異共振現象が基礎にあるので、根源は「神秘」であるが、+iが主導的になるので、他者-iに対して、「傲慢」なのである。堕天使というのは、的確である。
 そして、これが、+1のアンラ・マンユ(アーリマン)と結びついて、近代的自我/近代合理主義が生まれるのである。
 ルドルフ・シュタイナーは、両者の間に「イエス・キリスト」を置いている。しかし、シュタイナーのイエス・キリストはアフラ・マズダーの「化身」である。
 結局、他者-iの積極的肯定によって、差異共振均衡が生まれるのであり、それが、「善霊」であろう。
 問題は、-iの力学である。+iの傾斜(男性の場合)があるとは言え、元々、差異共振力学がある。それを+iの傾斜は歪めているのである。
 だから、差異共振力学は、反発すると考えられる。思うに、地震の力学と似ているのだろう。つまり、活断層である。精神的フィルターが活断層になっているのだろう。
 +i=+1(誤謬)となり、差異共振力を抑圧する。つまり、-iや差異共振を排除するのである。これは、-(-i)であろう。
 すると、やはり、-1が生まれると考えられる。だから、-1がルシファーではないだろうか。(+1がアンラ・マンユ〔アーリマン〕となる。)
 だから、±1で虚数の差異共振を抑圧していることになる。しかしながら、根源的エネルギーは差異共振エネルギーであり、これを抑圧することは、主体自体のエネルギーの枯渇を意味する。これが、鬱病等の精神的病気をもたらすと考えられる。
 しかし、エネルギーを補給しようとしても、+iが、±1の壁によりエネルギー回路を閉鎖しているので、取り入れられないのである。だから、エネルギーの枯渇が拡大するのであり、病気が進むのである。
 思うに、差異共振エネルギーは、初期的には、同一性を形成する(1/4回転)。しかし、その後、さらに、1/4回転を生じて、本来の差異共振性へと回帰するということではないだろうか。
 つまり、イデア・エネルギーとは、1/4回転を進展させるのであり、同一性と差異のサイクルが生じるのではないだろうか。奇数回の1/4回転は同一性、偶数回の1/4回転は差異を形成するということになる。
 最初の1/4回転はせいぜい20歳くらいまでであろう。そして、20歳を越えると、二回目の1/4回転が生じるように思う。
 しかしながら、最初の1/4回転(同一性)の影響が強いので、生じた差異がそれと葛藤状態になると思われる。いわば、分裂状態になるのである。
 その後、試行錯誤して、コントロールしようとする。しかし、これは、至難の業であり、多くは、妥協し、誤魔化すだろう。そして、いい加減な人間、愚人が生まれるのである。
 とまれ、中年で危機が来るだろう(参照:ユングの説く「中年の危機」)。そのとき、真摯に対処しないと狂気へと展開するだろう。
 そう、超越性が「侵入」するのである。ここで、ある人は、信仰者となるだろうし、ある人は、なにかに打ち込むようになるだろう。
 とまれ、超越性を包摂する身体的精神を形成する必要があるのである。
 とは言え、超越性は同一性の精神にとっては、本来、肯定できないものである。ここで躓くのである。
 超越性を受容することは実に困難である。つまり、同一性(物質)的現実とのバランスを形成することが難しいのである。
 また、超越性を否定する唯物論(近代合理主義)がハイパーに進展すると、超越性は衝動となり、同一性を駆り立てて、悪魔・悪霊的行為を為すようになるだろう。
 今日の猟奇的事件はこのような背景があるのではないだろうか。

2009年11月19日 (23:12)

諸考察:精神(心)の美、その他

1)同一性自己を+i⇒+1と考えたがそれでいいのか。やはり、(+i)*(-i)⇒+1の右辺とした方が適切である。
 思うに、左辺が無意識であり、右辺が意識である。しかし、その境界として、精神的フィルター/media pointがある。
 精神的教養とは、精神的フィルターをなんらか知覚させる文化ではないのか。しかし、近代合理主義文化においては、これが消滅して、単に、右辺の同一性主義文化に帰結するのである。
 そして、この+1が主体+iと他者-iを排除すると言えよう。つまり、同一性自己+1とは、差異的主体+iと差異的他者-iの双方を否定・排除・隠蔽していると言えよう。(ポスト・モダンで主体の解体というようなことが言われたが、それは、実は、その主体とは、同一性自己のことであるが、その結果、差異的主体まで否定してしまったと考えられる。)
 つまり、同一性自己(近代的自我)とは、同一性を実体と見ているのであり、差異である主体、差異である他者をまったく無視しているのであり、それは、妄想的であり、かつ、暴力的である。
 そして、この同一性+1がアンラ・マンユ(アーリマン)である。

追記:以上のように同一性自己を捉えると、うつ病のことがよく理解できるだろう。
 うつ病とは、近代的自我病である。つまり、同一性自己+1に執着して、差異的主体+iと差異的他者-i、つまり、真の自己、即非性(自己認識)を排除しているのである。だから、差異共振から生まれるエネルギー⇒を排除しているので、エネルギーが枯渇して、うつとなると考えられる。即ち、(+i)*(-i)⇒と+1が分裂しているが、前者が排除されているので、そのエネルギー⇒ が同一性自己+1に達しないのであるから、エネルギー枯渇、即ち、鬱状態になると考えられるのである。
 
 
2)ルシファーとは何か。これは後で考察。

参考:

●シュタイナーによれば、「ルシファー」とは、人間の中にあらゆる熱狂的な力や、あらゆる誤った神秘主義的な力を呼び起こす能力を備えた存在で、現実から乖離した夢想の世界に人を迷いこませるのに対し、

「アーリマン」は、人間を無味乾燥で、散文的で、俗物的な存在にし、人間を頑なにして唯物論という迷信へと導くという。

つまり「アーリマン」は「唯物論の悪魔」で、シュタイナーはメフィストフェレスと同一であるとしている。

それで歴史的に見ると、ルシファー的なものが人類に強力に働きかけていたのは、紀元前から西暦紀元初めの数世紀までで、15世紀以降は「アーリマン」の力が強力に働きかけ続けており、近い将来、「アーリマン」の影響力はピークに達し、「アーリマン」は人間の姿で現れ(受肉し)、ほとんどの人類が「アーリマン」の手に落ちる危険に直面すると警告している。

http://hexagon.inri.client.jp/floorB1F_hss/b1fha807.html



ヒトラーと「魔王ルシファー」

************************
シュタイナーの霊と物質−ルシファーの影響と物質
・・・・・

以前よりももっと強く、では物質的人間として、存在する人間とは一体何なのかと問う必要がある。我々人間が、外に出会うような人間とは、ただひたすらルシファーの影響による結果なのである。何故なら、ルシファーの影響がなければ、人間は今日の意味での神経、筋肉そして骨も有していなかったからである。唯物主義は、ルシファーが人間から造ったもの以外を記述しない。なので、唯物主義は、最も著しい度合いで、ルシファーの弟子であり、それ以外全てを拒絶するのである。
http://plaza.rakuten.co.jp/5dolphin/diary/200804010000/
シュタイナーから読み解く神秘学入門

***********************

ルシファー

・・・・・

過度の光は破壊をもたらすにせよ光は人間の創造力の源である。
ルドルフ・シュタイナーはルシファーを光の存在、即ち真の光であるキリストに向かって人間を照らす霊であるとして、この見解を発展させた秘教家である。
グノーシス主義はもちろん初期のデーモン学の考察にも深く食い込む二元論を土台に、シュタイナーは黒ぐろとした"アフリマン”の現代の敵対者としてルシファーを見ている。
アフリマンが人間を(人間にふさわしくない住処ではない)自然のなかに深く引き込み、デーモンのの世界に属する自然以下の諸力の中に陥れようとするのに対し、ルシファーは霊が真の自由をもつ光の領域へと人間を引き上げようとする。
大地に束縛されることなく、神のような者になりたいというこの衝動を、人間は芸術によって、もっとも直接的に誇らしげに表す。
シュタイナーの観をもし単純化するなら、人間を霊的に支持する者としてのルシファーを、正しく理解しなければならない。
霊的な領域にのっぽり、神の縮小版としての芸術家になる素晴らしい力を、ルシファーは人間に吹き込み、そうすることで、大地に縛りつけるアフリマンから人間を解き放つことができる。

人間はアフリマンがそうであると思い込ませようとしているような、大地にすっかり根を下ろした存在ではない、かといって天使のように大地から解き放たれた存在でもない。
しかしルシファーは(霊的な光を掲げる者として)人間が大地から解き放たれることを願っている。
しかし、ルシファーにはやり過ぎる傾向があり、そこにこそ危険が存在する,,,。
アフリマンが人人間を生命のない土に変えてしまえば人間は、霊的な祖先や運命を忘れてしまうだろうし、ルシファーが霊的な生命をふんだんに与えすぎれば人間は愛に満ちた大地の確実な再生に自らの運命がかかわり、これを足場にしなければならないことを忘れてしまう。
 いろいろな考察を見る限り、ルシファーが天より堕ち闇の存在になったと考えるより、堕ちてもなお、光の存在であると考えられるようです。
http://kobe.cool.ne.jp/suiko/akumagaku/lucifer.html
[事典のような物]



3)ツェッペリンの音であるが、それは、差異共振はあるが、それが、調和ではなく、垂直性へ展開していると思われる。
 一般的に叙情性・情感性(リリシズム、センチメント)は、-iが賦活されて喚起されると考えられる。そして、-iを肯定するのである。
 しかし、ツェッペリンの場合、-iの賦活があるが、それを+1に直結させるのである。そして、+1が金属的な響きをもつのである。
 言い換えると、音楽はたいてい、虚軸上の調和をもつが、ツェッペリンの「ヘビメタ」の場合、端的に、精神的フィルターを介して、同一性・物質・身体、それも鉱物的な身体へ通じる様態をもっていると考えられる。
 一種、モダニズムであるが、物質現象的な様態をもち、その点で特異であると言えよう。

2009年11月19日 (23:07)

検討問題:ルシファーについて

直感では、ルシファーとは、超越性や超越光である。
 しかし、問題は、他者性である。これは、小乗仏教と大乗仏教とも関係しよう。つまり、ルシファーは前者的だと思う。独覚である。それは、個人で閉じている。自己満足的である。
 思うに、単に、-iだけだと、ルシファー的になるのではないだろうか。神秘主義、ロマン主義、オカルティズム等になるのではないだろうか。
 重要なのは、+iを強く保持することである。つまり、+iと-iを衝突・共振させることで、現実的道徳・倫理のエネルギーが生起すると思われる。
 つまり、強い認識性+iと他者性-iとの即非的共振において、現実的社会的倫理道徳が生まれると考えられる。
 おそらく、問題は、-iが+1の同一性と結びつくときである。これが、ルシファー⇒アンラ・マンユ(アーリマン)-i⇒+1で途方ない悪・凶悪性を生むのではないだろうか。この-iはまた、反動的な様態になっているだろう。つまり、隠蔽されていて、闇になっているのである。
 先に、自己愛のことに言及したが、どうやら、自己愛はここに関係するだろう。
 後で精緻に検討したい。

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ルシファー
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ルシファー(Lucifer)とは、キリスト教 の伝統で、サタン の別名とされる。(イスラム教 ではイブリース に相当)「ルシファー」は英語からの音訳で、その他日本では、ルキフェル(羅)、ルシフェル(西 Lucifer, 葡 Lúcifer)、ルチーフェロ(伊 Lucifero)などとも表記される。
語源 [編集 ]

Lucifer はもともと、ラテン語 で「光を帯びたもの」(lux 光 + -fer 帯びている、生ずる)を意味し、キリスト教 以前から「明けの明星 」を指すものとして用いられ、オウィディウス やウェルギリウス などの詩歌にも見られる語である。無論、ヘブライ語 の旧約聖書 にも、ギリシャ語 の新約聖書 にも使われてはおらず、元来は、サタンや堕天使 といった伝説と一切無縁のものだった。
概要 [編集 ]

キリスト教において、この語を、サタンと結びつけたのは、オリゲネス が最初であると考えられている(ただし彼の著作はギリシャ語なので、おそらくオリゲネスのラテン語訳がサタンとしてのルシファーの初出)。彼は、「エゼキエル書 」、「イザヤ書 」、「ヨブ記 」(1章-)、「ルカによる福音書」(10章18節)に、隠された堕天使の存在を見出した。その後、テルトゥリアヌス を始めとする初期の教父 たちも、これについて論じた。さらに4世紀、ヒエロニムス は、聖書のラテン語訳(ヴルガータ )において、ヘブライ語の「明けの明星」を意味する言葉 הֵילֵל(イザヤ書 14章12節)を、(古ラテン語訳 を踏襲して?)Lucifer の語を当てて訳した(なお、この箇所の「明けの明星」は、本来バビロン の王・ネブカドネツァルを指すものである)。

その後のキリスト教の伝統的解釈によれば、ルシファーは元々全天使の長であったが、土から作られたアダムとイブ に仕えろという命令に不満を感じて反発したのがきっかけで神と対立し、天を追放されて神の敵対者となった。「ヨハネの黙示録 」の12章7節をその追放劇と同定する場合もある。また、アダムの最初の妻・リリス が夫の元から離れた後ルシファーと結婚したという説話もある。

上記の他に、被造物の中で最高の能力と地位と寵愛を神から受けていたために自分が神に成り代われると傲慢になり、神に反逆し、堕天したという説がよく挙げられる。この説は天使から悪魔に堕ちた経緯としてよく挙げられる説である。

こうした反逆神話のイメージ元としてはバビロニア神話 の雷鳥アンズー やカナン 神話の戦神アッタル が考えられている。アンズーは至高神エンリルの元から権威を司る「天命の書板」を奪うが奪回されている。また金星神にして灌漑を司るアッタルは主神バアル が神々の山・サフォンからその姿を消した時、自分こそが神々の王にふさわしいとサフォンの山に登った。だが、結局彼は玉座に座るには値せず、冥府(または地上)に降り、そこで王になったという。[要出典 ]
文学 [編集 ]

西欧文学において、ルシファーが登場する名高い文学作品としては、ダンテ の『神曲 』とジョン・ミルトン の『失楽園 』が挙げられる。特に後者は、神に叛逆するルシファーを中心に据えて歌い上げたため、その後のルシファーにまつわる逸話に多く寄与することになる。
俗説 [編集 ]

* ルシフェルが堕天した際、『エル』の称号を失って名前が「ルシファー」になったとされる。

ウェブサイト や学問的ではない神話・伝説の書籍で説の大元の典拠が示されることなく記述されている。
通常はラテン語としてのルキフェルが英語読みされてルシファーになったと考えられる。
単純にアルファベットで記述すると、『エル』の称号は『el』、『ルシフェル』の『ェル』は『er』である。
そのため、ルシフェルが『エル』を奪われたという説は、やはり日本人的な誤解であると言える。

関連項目 [編集 ]

* 天使の一覧
* 悪魔の一覧
* 『失楽園 』ジョン・ミルトン
* シャヘル
* 明けの明星
* ルシフェラーゼ - 生物の発光にかかわる酵素。
* トリックスター

参考文献 [編集 ]

* ゲティングズ, フレッド 『悪魔の事典』 大瀧啓裕訳、青土社、1992年(原著1988年)。

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阿修羅
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阿修羅(あしゅら、あすら、Skt :asuraの音写、意訳:非天)は八部衆 に属する仏教 の守護神。修羅(しゅら)とも言う。大乗仏教 時代に、その闘争的な性格から五趣 の人と畜生の間に追加され、六道 の一つである阿修羅道(修羅道 )の主となった。

概要 [編集 ]

古代ペルシャの聖典『アヴェスター 』に出る最高神アフラ・マズダー に対応するといわれる(以下、歴史的背景の項を参照)。それが古代インドの魔神アスラ となり、のちに仏教に取り入れられた。古くインドでは生命生気の善神であった。天の隣国だが天ではなく、男の顔立ちは端正ではない。醸酒にも失敗し、果報が尽きて忉利天 にも住めないといわれる。

本来サンスクリット で「asu」が「命」、「ra」が「与える」という意味で善神だったとされるが、「a」が否定の接頭語となり、「sura」が「天」を意味することから、非天、非類などと訳され、帝釈天 の台頭に伴いヒンドゥー教 で悪者としてのイメージが定着し、地位を格下げされたと考えられている。帝釈天とよく戦闘した神である。リグ・ヴェーダ では最勝なる性愛の義に使用されたが、中古以来、恐るべき鬼神として認められるようになった。

仏教に取り込まれた際には仏法の守護者として八部衆 に入れられた。なお五趣説では認めないが、六道説では、常に闘う心を持ち、その精神的な境涯・状態の者が住む世界、あるいはその精神境涯とされる。

興福寺宝物殿の解説では、「阿修羅」はインドヒンドゥーの『太陽神』もしくは『火の神』と表記している。 帝釈天 と戦争をするが、常に負ける存在。この戦いの場を修羅場(しゅらば)と呼ぶ。

姿は、三面六臂(三つの顔に六つの腕)で描かれることが多い。

奈良県 ・興福寺 の八部衆像・阿修羅像(国宝 )や、京都府 ・三十三間堂 の二十八部衆像・阿修羅像(国宝)が有名。

日本語では、争いの耐えない状況を修羅道 に例えて修羅場 (しゅらば)と呼ぶ場合もある。激しい闘争の行われている場所、あるいはそのような場所を連想させる状況を指す。
歴史的背景 [編集 ]

一般的には、サンスクリットのアスラ(asura)は歴史言語学的に正確にアヴェスター語 のアフラ(ahura)に対応し、おそらくインド-イラン時代にまでさかのぼる古い神格であると考えられている。宗教学的にも、ヴェーダ 文献においてアスラの長であるとされたヴァルナ とミトラ は諸側面においてゾロアスター教 のアフラ・マズダー とミスラ に対応し、インド・ヨーロッパ比較神話学的な観点では第一機能(司法的・宗教的主権)に対応すると考えられている。アスラは今でこそ悪魔や魔神であるという位置づけだが、より古いヴェーダ時代においては、インドラらと対立する悪魔であるとされるよりは最高神的な位置づけであることのほうが多かったことに注意する必要がある。

ただし、阿修羅の起源は古代メソポタミア文明のシュメール、アッシリア、ペルシア文明とする説がある。 シュメールやアッカドのパンテオンに祀られていた神アンシャル 。アッシリアの最高神アッシュル。ペルシアのゾロアスター教の最高神アフラ・マズダー。それらの神がインドに伝来してアスラとなり、中国で阿修羅の音訳を当てた。阿素羅、阿蘇羅、阿須羅、阿素洛、阿須倫、阿須輪などとも音写する。

シュメール、アッシリアの古代史と仏教の阿修羅にまつわる伝承との類似性も高く、信憑性のある事実として指摘される。

仏教伝承では、阿修羅は須弥山 の北に住み、帝釈天と戦い続けた。阿修羅は帝釈天に斃されて滅ぶが、何度でも蘇り永遠に帝釈天と戦い続ける、との記述がある。これらの伝承を古代史になぞらえると、以下のようになる。

アッシュルを最高神と崇めたアッシリア帝国は、シュメール(現在のイラク周辺)の北部に一大帝国を築き、シュメール・アッカドの後に勃興したバビロニアに侵略戦争を繰り返した。

バビロニア人はメディア人と手を結びアッシリアを滅ぼしたが、国を再興したアッシリア人達にバビロニアは滅ぼされた。後にてバビロニアの地にカルデアが勃興して、再びアッシリアを滅ぼした。その後、アフラ・マズダーを崇めるペルシアが勃興して、カルデアを占領下におさめた。その後、古代マケドニアがペルシアを滅ぼした。

また、シュメールと須弥山(サンスクリットでは「スメール」と発音する)の類似性。シュメールの最高神マルドゥークと帝釈天インドラの類似性を指摘する説もあり、阿修羅と帝釈天の構図はアッシュルとマルドゥークの構図と全く同じであり、これらの古代史を仏教の伝承として取り込んだ可能性が高いと主張する神学者もいる。
戦闘神になった背景 [編集 ]

阿修羅は帝釈天に歯向かった悪鬼神と一般的に認識されている。しかし事実は少し違うといわれる。阿修羅はもともと天部の神であった。阿修羅が天部から追われて修羅界を形成したのには次のような逸話がある。

阿修羅は正義を司る神といわれ、帝釈天は力を司る神といわれる。

阿修羅の一族は、帝釈天が主である忉利天 (とうりてん、三十三天ともいう)に住んでいた。また阿修羅には舎脂 という娘がおり、いずれ帝釈天に嫁がせたいと思っていた。しかし、その帝釈天は舎脂を力ずくで奪った(誘拐して凌辱したともいわれる)。それを怒った阿修羅が帝釈天に戦いを挑むことになった。帝釈天は配下の四天王 などや三十三天の軍勢も遣わせて応戦した。戦いは常に帝釈天側が優勢であったが、ある時、阿修羅の軍が優勢となり、帝釈天が後退していたところへ蟻 の行列にさしかかり、蟻を踏み殺してしまわないようにという帝釈天の慈悲心から軍を止めた。それを見た阿修羅は驚いて、帝釈天の計略があるかもしれないという疑念を抱き、撤退したという。

一説では、この話が天部で広まって阿修羅が追われることになったといわれる。また一説では、阿修羅は正義ではあるが、舎脂が帝釈天の正式な夫人となっていたのに、戦いを挑むうちに赦す心を失ってしまった。つまり、たとえ正義であっても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。このことから仏教では天界を追われ人間界と餓鬼界の間に修羅界が加えられたともいわれる。

阿修羅を意訳すると「非天」というが、これは阿修羅の果報が優れて天部の神にも似ているが天には非ざるという意義から名づけられた。
阿修羅王と住処 [編集 ]

阿修羅王の名前や住処、業因などは経論によって差異がある。パーリ語(Pl)では、阿修羅王にRāhu、Vepacitti、Sambara、 Pahārāda、Verocana、Baliの5つの名が見られる。ただし大乗仏典では、一般的に阿修羅王は4人の王とされることが多い。『法華経』序品には、4人の王の名を挙げ、各百千の眷属を有しているとある。また『十地経』や『正法念処経』巻18〜21には、これら4人の住処・業因・寿命などを説明しており、其の住処は妙高山(須弥山 )の北側の海底地下8万4千由旬 の間に4層地に分けて住していると説く。以下説明は主に正法念処経による。

* 羅喉阿修羅王(らご)
o Skt及びPl:Rāhu、ラーフ、Pl :訳:障月、執月、月食など、 
o その手でよく日月を執て、その光を遮るので、この名がある。

(住処) - 第1層、海底地下21000由旬を住処とする。身量広大にして須弥山のようで、光明城に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世 にバラモン であった時、1つの仏塔が焼き払われるのを防ぎ、その福徳により後身に大身相を願った。不殺生の実践したが、諸善業を行わなかったので、その身が破壊(はえ)し、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の500歳を1日1夜として、その寿命は5000歳

* 婆稚阿修羅王(ばち、婆稚とも)
o Skt及びPl:Bali、バリ、訳:被縛
o 帝釈天と戦って破れ、縛せられたためにこの名がある。正法念処経では勇犍(ゆうごん)阿修羅王。ラーフの兄弟で、彼の子らはみなVerocaと名づく。

(住処) - 第1層の下の第2層、さらに21000由旬の月鬘(げつまん)という地で、双遊城に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世に他人の所有物を盗み、不正の思いをなして離欲の外道 に施して、飲食(読み:おんじき)を充足させたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の600歳を1日1夜として、その寿命は6000歳

* 佉羅騫駄阿修羅王(きゃらけんだ)
o Skt:Śambara、Pl:Sambara、サンバラ、訳:勝楽、詐譌、木綿など
o 正法念処経では華鬘(けまん)阿修羅王と訳される。

(住処) - 第2層の下の第3層、さらに21000由旬の修那婆(しゅなば)という地で、頷(正字は金+含)毘羅城(かんびら)に住み、縦横8000由旬。
(業因) - 前世に食を破戒の病人に施して、余の衆は節会の日により相撲や射的など種々の遊戯をなし、また不浄施を行じたので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。
(寿命) - 人の700歳を1日1夜として、その寿命は7000歳

* 毘摩質多羅阿修羅王(びましったら)
o Skt:Vemacitra、Vimalacitra、Pl:Vepacitti、訳:浄心、絲種種、綺書、宝飾、紋身など
o 乾闥婆 の娘を娶り、娘の舎脂を産んだ。前出のように舎脂は帝釈天に嫁いだため、帝釈天の舅にあたる。

(住処) - 第3層の下の第4層、さらに21000由旬の不動という地で、頷(正字は金+含)毘羅城(かんびら)に住み、縦横13000由旬。
(業因) - 前世に邪見の心を以って持戒する者に施して、余の衆は自身のために万樹を護ったので、命終して阿修羅道へ堕ちてその身を受けた。

その他『起世経』では、須弥山の東西の面を去ること1000由旬の外に毘摩質多羅王の宮があり、縦横8万由旬であるといい、また修羅の中に極めて弱き者は人間山地の中に在りて住す、すなわち今、西方の山中に大きくて深い窟があり、多く非天=阿修羅の宮があるという。
外部リンク [編集 ]

* 仏様の世界 阿修羅王
* 興福寺 文化財データベース
* 阿修羅と仏像ブーム(西山厚・奈良国立博物館学芸部長)

2009年11月19日 (22:59)

(映画『クヒオ大佐』が小泉=竹中式“詐欺”に酷似するわけ)

テーマ:鳩山代表と民主党:ポスト・モダン反動政権

以下の民主党批判は正鵠を射ていると思うが、何故、民主党が市場原理主義へ傾斜するのか、という問題であるが、これは既述済みのように、鳩山政権は、ロックフェラー路線と「ロックフェラー」路線との未分化的連続性路線であるからであり、そのために、絶対的に、トランス・モダン(差異共振路線)ではないので、国家財政等の危機において、曖昧な、相対的な認識のまま、「アイロニカルな没入」を起して、前者の新自由主義路線に鳩山首相やその他の閣僚は傾斜してしまうのである。アンラ・マンユの囁きに魅入られてしまうのである。
 それに対して、オバマ政権は、トランス・モダン主導であり、ポスト・モダンを隠れ蓑にしていると考えられる。


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民主党の正体は、やはり映画『クヒオ大佐』流の小泉=竹中式“結婚詐欺集団”か?

・・・・・


(映画『クヒオ大佐』が小泉=竹中式“詐欺”に酷似するわけ)

・・・以下は、「山崎行太郎 の政治ブログ =毒蛇山荘日記 /2009.11.15/亀井 発言とロバート・フェルドマン の正体、http://d.hatena.ne.jp/dokuhebiniki/20091115/1258242811 」より転載 させていただく・・・

どうもこの国の最近 の経済 関係者は、つまりエコノミスト から経済学者 、経済官僚 、経済記者 まで、外国人 や外国 情報に弱いようで、というよりまったく経済や金融 の本質 が理解できていないようである。ここで、僕が言いたいのは、すでにわかっていると思うが、鳩山政権 の「行政刷新会議 ・事業仕分け チーム」のメンバー に、「モルガン・スタンレー証券 のロバート・フェルドマン経済調査部長 」なる人物が選ばれていることで、早速、この人選には、亀井静香 大臣 が、苦言を呈したようだが、例によって経済マスコミ は、亀井大臣の発言を愚弄するかのような記事を垂れ流し始めている。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20091119

toxandoria

toxandoria

『toxandoria の日記、アートと社会』

2009年11月19日 (16:32)

初考察:精神(心)の美、その他

1)同一性自己を+i⇒+1と考えたがそれでいいのか。やはり、(+i)*(-i)⇒+1の右辺とした方が適切である。
 思うに、左辺が無意識であり、右辺が意識である。しかし、その境界として、精神的フィルター/media pointがある。
 精神的教養とは、精神的フィルターをなんらか知覚させる文化ではないのか。しかし、近代合理主義文化においては、これが消滅して、単に、右辺の同一性主義文化に帰結するのである。
 そして、この+1が主体+iと他者-iを排除すると言えよう。つまり、同一性自己+1とは、差異的主体+iと差異的他者-iの双方を否定・排除・隠蔽していると言えよう。(ポスト・モダンで主体の解体というようなことが言われたが、それは、実は、その主体とは、同一性自己のことであるが、その結果、差異的主体まで否定してしまったと考えられる。)
 つまり、同一性自己(近代的自我)とは、同一性を実体と見ているのであり、差異である主体、差異である他者をまったく無視しているのであり、それは、妄想的であり、かつ、暴力的である。
 そして、この同一性+1がアンラ・マンユ(アーリマン)である。

追記:以上のように同一性自己を捉えると、うつ病のことがよく理解できるだろう。
 うつ病とは、近代的自我病である。つまり、同一性自己+1に執着して、差異的主体+iと差異的他者-i、つまり、真の自己、即非性(自己認識)を排除しているのである。だから、差異共振から生まれるエネルギー⇒を排除しているので、エネルギーが枯渇して、うつとなると考えられる。即ち、(+i)*(-i)⇒と+1が分裂しているが、前者が排除されているので、そのエネルギー⇒ が同一性自己+1に達しないのであるから、エネルギー枯渇、即ち、鬱状態になると考えられるのである。
 
 
2)ルシファーとは何か。これは後で考察。

3)ツェッペリンの音であるが、それは、差異共振はあるが、それが、調和ではなく、垂直性へ展開していると思われる。
 一般的に叙情性・情感性(リリシズム、センチメント)は、-iが賦活されて喚起されると考えられる。そして、-iを肯定するのである。
 しかし、ツェッペリンの場合、-iの賦活があるが、それを+1に直結させるのである。そして、+1が金属的な響きをもつのである。
 言い換えると、音楽はたいてい、虚軸上の調和をもつが、ツェッペリンの「ヘビメタ」の場合、端的に、精神的フィルターを介して、同一性・物質・身体、それも鉱物的な身体へ通じる様態をもっていると考えられる。
 一種、モダニズムであるが、物質現象的な様態をもち、その点で特異であると言えよう。

2009年11月18日 (01:33)

検討問題:虚数情報について:-iの情報が暗在的ではないか

主体知性+iは⇒+1と結びつき、明快である。しかし、他者-iは、主体知性には、不可知である。「まったき他者」である。絶対的他者である。カントの物自体は、これを指すと見るべきである。
 しかしながら、他者を仮定することで、主体知性は、即非的に、他者を確認することができるようになっている。
 しかしながら、私が問題にしたいのは、内的他者としての-iである。これは、いわば、深い闇(深淵)である。(創世記の天地創造の「水」は、これではないだろうか。)
 つまり、私が想定しているのは、-iには、主体知性が認知できない隠れた情報があるのではないかということである。
 Kaisetsu氏は、-iを豊穰の海と呼んでいたが、ここでは、深海と比喩的に呼んでおこう。
 さて、+iと-iの差異共振(即非)は、-iが深海であるために、不可知的に多様である。
 そう、思うに、「真正な」神秘主義者、オカルティストとは、本来、この深海を探索した人物ではないだろうか。瞑想とは、深海への旅ではないだろうか。
 そう、本題に返ると、隠れた情報、虚数情報のことであるが、それは、端的にどういうものなのか。
 私が想定しているのは、「記憶」ないし「記録」である。あるいは、「アーカイブ」である。
 ここでは、まったくの作業仮説であるが、+iの知識とは、-iに保存されるのではないのか。
 これは、日常のことを考えてもいい。通常、意識は、+iの様態である。(正確には、+i⇒+1である。)
 しかし、「無意識」には、情報があり、それが、その時、その時、想起されるのである。だから、「無意識」とは、深海-iと考えてもいいだろう。
 とまれ、隠れた情報が深海-iに存する(「暗在」する)としよう。
 では、その様態はどういうものなのか。これは、課題としておく。思いつきを言えば、-iは、知識+iを反映しているのではないだろうか。あるいは、写し取っているのである。つまり、-iは記憶媒体である。ここに、+iの情報が記録されているのではないのか。+iを光とすれば、光の情報が記録されているということになるだろう。言い換えると、フィルムである。感光紙である。
 精神的フィルターの虚軸情報を収蔵しているのではないのか。言い換えると、超越光の情報を保存しているのではないのか。これが、仏教では、阿頼耶識ではないだろうか。また、オカルティストのアカシック・レコードではないだろうか。
 今はここで留める。


参考:
明在系と暗在系
Birth

職業柄、どうしてもアチラの世界と此方の世界の境界を常に意識してしまいます。 

そして遅ればせながら、石に関しての象徴的な原型が日本の神話の世界にある事が分かりました。
古事記の中に黄泉の世界のイザナミを探しに行ったイザナギが、変わり果てた元妻イザナミの姿(体中にウジがわく)に慄き、猛ダッシュで此方の世界へ逃げ帰るくだりがあります。 そしてイザナギがイザナミに永久の別れを告げる場所・・・ヨモツヒラサカの巨石・・・そこがアチラと此方の境界線なのです。 アチラと此方を明確に分ける場所に石があるのです。

そして、この「アチラの世界と此方の世界」という表現からは、どうしても神話の世界の話、或いはスピリチュアル系、そしてもっと悪くするとオカルト系の世界だけの話だと思われてしまいます。

ところがこの「アチラの世界と此方の世界」という表現を「明在系と暗在系」という表現にすると・・・たちまち最先端の量子力学のお話しとなるのです。 量子力学で高名なディビット・ボーム博士によって、この「明在系と暗在系」の理論は世界に認知される事になります。 
私達の認識している世界を突き詰めると、最後は素粒子に行き着きます。 素粒子の観察過程で、その素粒子が消えたり現れたりと不可解な現象を起こす事が長年の謎でした。 結局、ボーム博士をはじめとする世界の物理学者たちは、世界には目に見えて私たちが認識出来ている世界と目には見えていないが確かに存在している世界があるに違いないと認識せざるを得なくなります。 そしてこの目に見えている世界を「明在系の世界」と呼び、目に見えていない方の世界が「暗在系の世界」と呼ばれる事になりました。 
そしてボーム博士自身は続けて・・・素粒子が暗在系の世界と明在系の世界を自由に行き来しているだけではなく、実のところ万物の発生の源は暗在系の世界にあると結論しています。 
これは孔子のタオと同じです。 暗在系の世界の現象が明在系の世界=私達の認識している世界へと投影されているのだと・・・。 要するところ、「アチラの世界と此方の世界」なのです。

そして最近強く感じるのが、この暗在系の世界と明在系の世界の狭間に私たちは存在しているという事です。 暗在系世界から切り離された存在として在るのではなく、暗在世界の部分として明在世界に現れて、明在世界の様々な現象を経験しているのです。 同時に明在世界で起きる(あるは私たちが起こす)様々な現象が、今度は暗在世界に影響を及ぼすのです。 
そして明在世界への次の現象の新たなる発生に影響を及ぼすことになります。

そして最近になって、人体のチャクラ(エネルギーセンター)の一つが暗在系世界(アチラの世界)と明在世界(此方の世界)のポータルサイトになっているのを実感しています。 

そのチャクラとは位置的にハートのチャクラと喉のチャクラの間に存在しています。ただ実感としてあるのは、身体に垂直に存在している第1チャクラから第7チャクラまでの配置と、この暗在系世界のポータルサイトとなるチャクラは存在次元が少し違っていて特殊です。 最近出版されたジュード・カリヴァン博士著の「宇宙につながる第8のチャクラ」の中にこのポイントと同じことが書かれていて、そのポイントが新たに活性化しつつある第8チャクラだと記されていました。 
最近までクラウン・チャクラの一つ上が第8チャクラと呼ばれていたので、ジュード・カリヴァン博士のいう第8番目と従来の第8番目とどちらが本当なのかは判りません。 ただカリヴァン博士もこの8番目が宇宙に繋がる為のエネルギーセンターだと書いていました。

チャクラの名称の順序についての詳細は判りかねますが、個人的に強く私が実感しているのは、このポイント(チャクラ)が本人の宇宙的魂のルーツにダイレクトに繋がっているという事です。

思いがけず長くなりましたが・・・この新しいチャクラの詳細は日を改めて続けることにします。


お終い
http://notes.karakaraso.com/?eid=1313766
唐々創日記 by Jewelry karakaraso

1950年


織り込まれた秩序


コペンハーゲン解釈に対するパイロット派解釈として、量子論の予言力はそのままに、量子論の精神分裂的な部分と取り除いた。

 アインシュタインが1935年に量子力学に対立するかたちで、もし量子力学の解釈が正しいなら、つぎのモデルが完成するはずだ――と挑戦状をつきつけた。EPR実験である。

この挑戦状にたいする回答は1964年にベルによってもたらされた。

これによってアインシュタインの最後の牙城「隠された変数」と量子力学の確率的予測が数学的に両立しないことがないことが証明されアインシュタインの理論は壊滅した。





この反証は1950年にデヴィット・ボームによって以外に身近なところから発せられた。既存の量子力学の体系をホログラムのアナロジー を使って決定論的に再公式化できることを反証したのだ。

ホログラフィーは立体画像だが、ここで注目してほしいのはそのフィルムの性質である。

このフィルムは半分に切断しても立体像全体を再現できる性質を持っている。若干ぼやけるが、理論的には、10分の1、100分の1、1000分の1に切断しても再現は可能である。まさに「不断の全体性」なのである。

これをボームは次のように定義する。

目に見える部分=「開かれた秩序(エクスプリケート・オーダー)

目に見えない部分=「織り込まれた秩序(インプリケート・オーダー)

この物理学で光の正体にせまると、非常に説明しやすい。

木の板に波状の溝を彫って、その中にベアリングを流したらどうなるだろう?



粒子なのに、波状にふるまう。



量子力学のパラドックスを、まったく簡単に説明できてしまうのだ。



一度は、アインシュタインのラムダ項のように消された理論だが、



暗黒物質、暗黒エネルギーの理論的台頭によってラムダ項が復活したように、ボームの理論も光があたり初めている。

http://kamakura.ryoma.co.jp/~aoki/paradigm/inpricateorder.htm



デヴィッド・ボーム
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デビッド・J・ボーム

デビッド・ジョセフ・ボーム(David Joseph Bohm, 1917年 12月20日 - 1992年 10月27日 )は、理論物理学 、哲学 、神経心理学 およびマンハッタン計画 に大きな影響を及ぼした、アメリカ合衆国 の物理学者 である。
来歴 [編集 ]
若き頃と学生時代 [編集 ]

ボームは、ペンシルベニア州 ウィルクスバレ(Wilkes-Barre,Pennsylvania)で、ハンガリー系の父とリトアニア系の母のユダヤ系家庭に生まれた。彼は、家具屋のオーナーでもあり、地域のユダヤ教司教(ラビ )のアシスタントであった父に主に育てられた。 ボームはペンシルベニア州立大学 を1939年 に卒業し、カルフォルニア工科大学 に1年間在籍後、カルフォルニア大学バークレー校 のロバート・オッペンハイマー の下で理論物理学 を学び、ここで博士号 を得た。 オッペンハイマーの下で学んでいた学生たち(ジョバンニ・ロッシ・ロマニツ , ジョセフ・ワインバーグ およびマックス・フリードマン )の近所で暮らすようになるとともに、徐々に物理学のみならず急進主義者 として政治面にものめりこむようになった。 オッペンハイマー自身を含めた1930年代後半の多くの若い理想主義者 たちのように、ボームは異なる社会モデルに惹かれるとともに、Young Communist League 、 the Campus Committee to Fight Conscription 、 the Committee for Peace Mobilization のような団体で活発に活動するようになった。 これらの団体は、後にエドガー・フーバー 率いるFBI によって、共産主義 のレッテルを貼られることとなる。
http://blog.ameba.jp/ucs/entry/srventryupdateinput.do?id=10390819508
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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