2008年07月03日 (02:15)

唯物教育の終焉とトランス・モダン教育:イデア・エネルギーとPS理論

私自身のことを考えると、戦後の唯物教育を受けて、精神を疎外することになったと思う。それは、生のエネルギーの枯渇を意味するのである。それは、また、ニヒリズムを生じさせるのである。
 今日の日本人の学力低下や日本総体の劣化は、確実に、戦後唯物論の帰結であると考えられるのである。唯物論は、精神を滅ぼす考え方であり、端的に、悪魔的な思想である。これは、自滅・自壊的な思想であり、これを乗り越える必要があるのである。
 私は神道の復活を唱えているが、結局は、イデア・エネルギーを心身に取り込むことを意味するのである。あるいは、Media Pointを知的に開放することを意味する。即ち、Media Pointを心身において開くことにより、差異共振エネルギーであるイデア・エネルギー(コスモス・エネルギー)が流入し、心身が賦活すると考えられるのである。
 学力は、この流入したイデア・エネルギーによって、向上すると考えられるのである。このイデア・エネルギーを取り込む技法に関しては、東洋は豊饒である。そう、「気」とは正に、イデア・エネルギーであると考えられる。(電磁波の本体もこれであると考えられる。これについては、後で検討したい。)
 また、今日蔓延する心の病であるが、これも、私見では、戦後唯物論の帰結である。イデア・エネルギー(生エネルギー)が枯渇しているので、心身が衰退していると考えられるのである。日本人は、疾く、戦後唯物論から脱出すべきである。
 イデア・エネルギーは、いわば、宗教エネルギーと言えるが、しかしながら、知的に捉えるならば、イデア・エネルギーと言うのが正しい。
 おそらく、イデア・エネルギーを取り込むための問題点は、そのエネルギーがあまりにも強力であるため、あるいは、物質的知性にとって、あまりにも異質であるために、一般に、知性が混乱させられる点ではないだろうか。
 そう、宗教、信仰へと救いを求めるのはいいとしても、問題は、知性を麻痺させて盲信、狂信する点が問題なのである。そう、今日、必要なのは、いうならば、知的宗教、知的信仰であろう。知性なき宗教、信仰は邪道である。
 思うに、知性の鍛練が、イデア・エネルギーを取り込むための大前提となるだろう。そのためには、哲学が必須である。哲学は本来、感性を包摂する形式の知性を探求する学、プロト学知である。そこには、論理学や数学的知性も関係する。
 とまれ、哲学は、学・知性の根本である。ここを鍛えないと、イデア・エネルギーを知的に取り込むことはできず、返って、大変危険であると言わなくてはいけない。そう、ここには、スキュラとカリュブデスの危険があると言えよう。一方では、新興宗教的盲信であり、他方では、オカルティズムである。(ただし、宗教やオカルティズムは、批判的に見れば、叡知が隠されていると考えられる。)
 思うに、19世紀後半から20世紀全体にかけての、哲学的問題の核心は、イデア・エネルギー(認識存在エネルギー)にあったと思われるのである。それは、プラトニック・シナジー理論から見ると、トランス・モダンを志向していたと考えられるのである。
 ポスト・モダン哲学は、トランス・モダンの志向の一つの試論であったと考えられる。しかしながら、フッサールの捉えた超越性(超越論的主観性)を否定してしまったために、ポスト・モダンは行き詰まってしまったと考えられるのである。
 これを打破したと自負するのが、不連続的差異論であり、また、そこから深化したプラトニック・シナジー理論である。この理論により、イデア・エネルギーと物質との関係が解明されたと考えられるのである。これによって、唯物論が乗り越えられたと考えられるのである。Kaisetsu氏による数学化によって、イデア論的科学が生まれたと言えるのである。これは、トランス唯物論である。(これによって、量子論は、イデア論的量子論となったと考えられるのである。)
 結局、プラトニック・シナジー理論は、知的な、合理的な、イデア・エネルギーの取り込みを可能した理論と考えられるのである。このトランス知性によって、安心して、イデア・エネルギーを心身に取りこめることができるのである。とりわけ、本理論は、日本人にとって、福音となるはずである。
 神道的源流を忘れた亡国日本人は、これによって、自身を再発見するだろうし、現代の大危機的状況を乗り越える知を得ることになろう。聞く耳を持つ者は聞くがいい。

2008年06月30日 (22:51)

古典的問題:必然性と自由:偶然性とは何か:即非の論理あるいはMedia Point Logic

古典的問題:必然性と自由:偶然性とは何か:即非の論理あるいはMedia Point Logic

テーマ:検討問題

最近は、私は、いわば、運命論的である。しかし、諦めはないのである。これをどう考えるべきか。
 この問題は、私が小学生の頃から考えていたことである。必然性(運命)と自由の問題である。これは、哲学の根本的問題の一つではある。
 そう、当然、カント哲学の問題である。カント哲学では、アンチノミー(矛盾)が生起するのである。また、マルクス「哲学」の問題でもある。
 直感では、私はどう考えているのだろうか。思うにこの問題は既に解決されているのである。差異共振的イデア=太極を考えた時点で、それは、いわば、科学的法則的である。必然である。運命である。
 しかし、個を深化させると、この必然性に到達するのである。即ち、必然即自由である。スピノザ/マルクス主義である。
 問題は偶然である。偶然性をどう考えるのか、である。直感では、偶然性は、実は、必然性である。結局、差異の問題であろう。
 そう、的確に言えば、Media Point(MP)の問題である。MPは同一性と差異を形成するのである。つまり、同一性的必然性と生み、同時に、差異的必然性を生むのである。後者が偶然性であろう。九鬼周造の偶然性はこれだと思う。
 結局、Media Point論理が支配するのである。即非の論理とは、Media Point Logicと言えるだろう。

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Mon, June 30, 2008 22:09:00
「ポスト・近代国家」としての差異共振主義

テーマ:トランス・モダン差異共振共同体圏

国家とは何ぞ哉。今日、国家主義と民族主義との衝突が起っているのだろう。国家主義は、ヘーゲルの国家理性からわかるように、同一性主義である。しまし、民族とは本来、差異である。ここに矛盾が起るのである。
 結局、単純化して言えば、今日、差異共振的国家が要請されていると言えよう。このモデルは、実は、きわめて不十分とは言え、アメリカ合衆国である。
 日本も最近、アイヌを先住民族を認めたのである。これは差異共振主義への大きな一歩である。思うに、近代の国民国家、民族国家、ネーション・ステートが、今や意味をなさなくなっていると言えよう。
 ポスト近代⇒トランス・モダンである。国家は、グローバル経済における支店に過ぎなくなると思われる。もっとも、私は、民族の差異を絶対的価値としている。しかし、諸民族の価値と価値が共振するのが、差異共振主義という未来である。

セルビア系住民が独自「議会」=分断状態に拍車−コソボ

6月29日8時0分配信 時事通信

 【ベルリン28日時事】コソボからの報道によると、独立に伴い同国で少数民族になったセルビア系住民は28日、北部ミトロビツァで独自の「議会」を創設した。
 同議会は「コソボ独立を認めない」と宣言、多数派のアルバニア系が主体のコソボ政府や欧州連合(EU)の文民支援隊との協力を拒否しており、新生国家は新たな火種を抱えた形だ。
 この日の初会合には、セルビアのコソボ担当相らも駆け付けた。一方、コソボ政府は「違法であり受け入れられない」と批判している。 
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080629-00000006-jij-int

2008年06月28日 (17:06)

新万教帰一とイデア・エネルギー(コズミック・エネルギー)のMedia Point位相

今日は余裕がないので、論考できないが、結局、宗教とは、イデア・エネルギーのMedia Pointにおける位相を表現しているのではないかと思えるのである。神とは還元すれば、イデア・エネルギー(コズミック・エネルギー)である。それが、 Media Pointの諸位相によって、多様な表現(mode)になると考えられる。この多様な表現modeが諸宗教ないしは諸神話と考えられるのである。
 結局、プラトニック・シナジー理論から、新たな万教帰一が考えられるのである。Media Pointの位相の違いによって、人類は言わば、流血惨事を起していると言えよう。Media Pointのmodeの諸相に気づけば、イデア・エネルギーで統一できると考えられるのである。一神教も多神教も一である。

2008年06月21日 (02:27)

検討問題:イデア・エネルギーと物質エネルギーと現象の関係

問題は、ダークエネルギーである。宇宙の加速する膨張のエネルギーが可視される物質のエネルギーと大きく釣り合わない事態が生じていることをどう見るのか、である。
 私は以前に、-1と+1との相違を想定したが、それは訂正されて、イデア・エネルギーと物質エネルギーの相違を説いた。しかしながら、それでは、不十分である。
 そこで考え直して、元に戻して、-1と+1の相違が、ダークエネルギー問題に関係するのではないかと作業仮説する。先程、思いついたことから考えると、可視化される物質宇宙とは、-1であり、それは、差異共振エネルギーの帰結の+1の表面に過ぎず、当然、-1と+1は不連続であり、-1の物質宇宙から+1のエネルギー宇宙を導き出すことは、理論的に不可能ではないだろうかと思うのである。
 そうすると、アインシュタインのエネルギー公式はどうなるのだろうか。E=mc^2におけるm(質量)は当然、物質宇宙の事象である。問題は、c(光速度)の意味である。
 ここでは、思考実験するが、mは、-1に関係し、cは+1に関係するのではないだろうか。すると、この公式は、折衷になるのではないだろうか。
 直感で言えば、+1から-1が派生するのであるから、mは+1から派生するのであり、+1における、いわば、原質量とは何かということが考えられるのではないだろうか。
 そう、いま思いついたのであるが、この原質量がダークマターに相応するのではないだろうか。では、問題のダークエネルギーは何だろうか。
 原質量をXとすれば、+1のエネルギーは、Xc^2となるだろう。+1のエネルギーを、primary energy として、PEと表記すれば、PE=Xc^2となるだろう。思うに、このPEがダークエネルギーではないだろうか。この問題は今はここで留めておく。
 さて、以上の考え方によれば、ダークマターやダークエネルギーは、+1の世界の事象に過ぎず、イデア界には、達していないのである。+1は四次元と考えると、五次元のイデア界を捉えていないのである。言い換えると、イデア・エネルギー(仮説)を看過しているのである。
 思うに、「気」とは、イデア・エネルギーではないだろうか。また、コスモスとは、イデア界のことではないだろうか。もっとも、Media Pointとの関係を見ないといけないが。つまり、Media Pointを介して、イデア界が現象界へと「流入」するのである。このとき、イデア・エネルギーは、例えば、「気」として、発出されると思われるのである。もっとも、イデア・エネルギーすべてが、「気」というわけではないと思うが、とりあえず、作業仮説的に、イデア・エネルギー=「気」として、考えたい。
 そして、イデア界=コスモスとなるのだろうか。(ここで、プラトンの古代宇宙論を説いた『ティマイオス』を想起するといいだろう。)
 では、魂とはどうなるだろうか。これまでは、Media Pointが魂であるとおおむね考えてきた。今思うと、微妙である。イデアを魂としてもいいと思えるのである。
 その方が、整合的だと思うのである。イデア界は思うに、多数、ないしは、ほとんど無数のイデアがあるのではないだろうか。(先には、唯一のイデアを構想したが。思えば、不連続的差異論のときに、イデア界は、多者の世界であると考えたのである。)
 そうならば、Media Pointと魂=イデアの関係はどうなるのだろうか。Media Pointは、いわば、宇宙の臍(へそ)である。存在の臍である。現象の臍である。森羅万象の臍である。
 現象界の人間にとって、Media Pointは、イデア界と交流する「場」である。一般的に、魂というものは、Media Pointを介してのイデアではないだろうか。それとも、Media Pointとともにあるイデアのことなのだろうか。
 死者の「魂」は、イデア界に帰還すると思われる。純粋な、差異共振様相となるのである。確かに、天国である。しかし、イデアは認識体であるから、現象界の記憶があるだろう。言わば、イデア・アーカイブである。
 ということで、魂に関しては、これまでの考えを変更して、イデア=魂ということにしたい(まったく、純粋なプラトニズム、プラトン原理主義である)。もっとも作業仮説である。

2008年06月14日 (18:57)

差異と同一性:イデア差異極性と極傾斜:同一性勾配をもつ父権人類と差異共振性(コスモス)回帰

先に、作業仮説として、宇宙における、+1の-1に対する優位を述べたが、これは、思うに、人間存在においても、妥当する考えではないだろうか。しかし、こう述べることは、これまでの考察とは矛盾するように見えるだろうから、説明したい。
 これまで、人間において、同一性傾斜があると述べてきたが、自然自体にもあると考えられる。しかし、基礎は差異共振性である。この基礎に対して、同一性傾斜が発生するのである。
 実際、同一性傾斜の力学を考える必要があるだろうが、それをおいておき、今は、本件の、人間における、+1の-1に対する優位性について触れたい。
 端的に言えば、根源は、+1である(記述上の便宜で、自己認識方程式の右辺だけを記す)。しかし、同一性傾斜があるために、それが疎外、抑圧される。同一性の壁が出来るのである。自我の壁である。
 しかしながら、本来の差異共振性はエネルギーをもっているので、同一性=自我の壁を乗り越えようとするのである。ここで、同一性と差異との分裂があり、それが自己における満ち足りなさを発生させると言えよう。生の意味の空虚である。【心の病の内因はここに存しよう。】
 思うに、自我=同一性は、自己完結しよう(同一性主義=「自己中心主義」)とするので、活性化している差異共振エネルギー(差異)を抑圧排除すると考えられるのである。これが、広義の精神病の発生を意味するだろうし、また、同一性価値資本主義のイデオロギーの根因であると思われる。
 人間の攻撃・好戦性は、この差異を排除する同一性完結主義に拠ると考えられる。とりわけ、男性において生じるのである。父権主義ということである。
 だから、同一性主義とは、大宇宙の「法」に背いていると言えよう。【人間は、自然・宇宙の鬼っ子である。】人間において、同一性主義への傾斜が、他の自然存在に比べて、強大なのである。この同一性主義は父権主義になって顕著になったと考えられるのであり、前父権主義においては、人間と自然とは、いわば、共生・共存していたであろう。
 とまれ、今日の人間の精神的課題は、内的な差異共振性を「解放」することである(差異解放主義)。今日、近代合理主義/近代的自我による同一性主義によって、差異共振性が抑圧排除され、同時に、それが、反動となり、非合理主義的衝動(狂気・暴力・犯罪・病気)を発生させていると考えられるのである。
 だから、大宇宙・大自然(コスモス・ジネン)へ還れということになるだろう。【Media Point Energyは、神話的には、道祖神であり、ヘルメス神であり、トート神である。キリスト教の聖霊もこれだと思う。】
 思うに、差異共振エネルギーとは宇宙のエネルギーである。そして、それは、Media Pointを開くので、宇宙、大宇宙と共振・交信することになるだろう。伝統的に、コスモスと呼ばれていたものが復活することになるだろう。近代における多くの詩人や芸術家が表現してきたコスモスが復活するのである。トランス・モダンとしての、新コスモス主義、コスモス・ルネサンスである。
 このことは、当然ながら、政治・経済においても同様であり、かつ、最重要なポイントである。政治・経済の差異共振化が必須なのである。西洋文明的グローバリズムは地球自然社会人間破壊主義である。私は利子の廃止を提唱する。無利子金融ないし減価通貨金融を提唱する。
 さて、理論的な問題に戻ろう。問題は、同一性傾斜の発生の力学にあると言えよう。これは、それがただ生起すると言っただけであり、その原因については述べていないのである。
 私は自然にも同一性傾斜があると言ったので、なんらかの普遍的な原因を考える必要がある。以前は、引き付けに対する反発を原因とした考えたのであった。
 この問題は、また、根本の問題に還ることになる。不連続的差異論の時点では、シンプルに、不連続な差異の共振から同一性現象が発生すると考えたのである。非常に明快である。ただし、一番の問題は、なぜ、同一性が差異を否定(抑圧・排除)することが発生するのかということである。これは、PS理論になっても続いた問題(難問)である。
 結局、他者差異-iを否定するという同一性傾斜が原因であるが、この同一性傾斜の力学は何か、というのが本件の問いである。
 ここで思考実験であるが、差異自体に極性があり、一方の極では、単独性があり、他方の極では、共鳴性があるのではないだろうか。これは、先に述べた差異の分立性と水平性の二元論とほぼ変わらない。しかしながら、分立性と水平性とは、差異極性、イデア極性の極性を意味する。しかし、単独性と共鳴性の極性はそれとは異なるでなくてはならない。
 つまり、イデア極性=差異極性は、差異共振性を生むもので、⇒+1となる。ここには、破綻はないのである。純粋差異共振性があるのである。
 しかしながら、ここで思考実験しているのは、その純粋差異共振性を破綻させる別の極性力学のことである。
 極性が極性でなくなるのである。そう、これは、思うに、別に極性を作る必要はないかもしれない。つまり、最初の純粋極性のおける両極端を考えればいいのではないだろうか。
 これは、以前考えていたことである。+iを陽極として、-iを陰極とすれば、このイデア差異極性、イデア差異太極において、+i=陽極、ないしは、-i=陰極に総体的に傾斜するときが生じるのである。それは、極限ではなくて、一つのプロセスである。
 そして、+i=陽極に全体的に傾斜したときに、同一性傾斜が発生し、-i=陰極に全体的に傾斜したときにも、同一性傾斜が発生すると考えられる。前者は大陽であり、後者は大陰である。どちらのときも、対の極が消えているのである。いわば、裏側に潜在しているのである。そう、これが、端的に同一性傾斜と考えられよう。そして、物質化である。一般に自然・宇宙においては、この極性によって生成流転が生起すると言えよう。東洋哲学や前ソクラテス期の哲学は、これを捉えていた。
 それに対して、人間の場合は、大陽への強い傾斜があると考えられる。ヤハウェはこの大陽を意味しているように思う。もっとも、両極端の一致の法則から、これは、同時に、大陰でもある。この大陽への強い傾斜が西洋文明を支配したのであり、近代文明はその帰結である。
 問題は、どうも大陽への強い傾斜が固着的であり、差異を否定・抑圧・排除し続けることである。このために、西洋文明は「自然」(じねん)破壊的なのである。人類「自然」滅亡的なのである。大陽への傾斜とは、自我主義・同一性主義・父権主義であり、他者破壊的である。
 ジネン(自然)である差異共振性・イデア極性へと回帰すべきときが来ているが、未だに、人類の意識は、大陽主義に閉じこめられたままである。これが、恐るべき反動なのである。大陽の物質主義・自我主義・同一性主義に固着したまま、石化しているのである。
 しかしながら、自然・大宇宙(ジネン・コスモス)の永遠の生成流転を考えると、大陽主義に留まることはできないのである。大陽主義は、大反動になるのである。これは、大破壊的である。
 差異共振エネルギーは活性化されているが、それを純粋に受容することができないのである。【思うに、他力本願とはこの点では正しいのではないだろうか。差異共振エネルギーという他力を受容することが必要なのである。ただし、同一性の知性は保持しないといけない。】そのため、戦争、狂気、犯罪、他の暴力等々が蔓延するのである。
 以上の検討から、先の仮説である+1は-1に対して優位であるということは、ある意味で証明されたと言えよう。しかしながら、正確に言えば、-1は+1 に含まれるということになるだろう。ある特異点として、-1が発生するのである。それが、Media Pointであり、1/4回転である。言い換えると、イデアの極性の特異点として、物質が発生するのである。しかしながら、それは、裏面に差異共振性+1 を潜在させているのである。このように考えて、不連続的差異論の考え方をも包摂することができたと言えよう。
 さて、最後に、先に触れた、可視の光と不可視の「光」について、再考しよう。結局、現象とは何か、という問いになるだろう。端的に、光とは何か、である。
 先には、-1が可視光であり、+1が不可視の「光」であると言った。思うに、前者が粒子=物質であり、後者が波動である。そして、両者で相補性と形成する。量子論である。(これは、ハイデガー/初期デリダ哲学にほぼ相応しそうである。ただし、真の共振性はない。)
 また、先のダークエネルギーの問題であるが、+1が-1に対して、優位なので、その優位の分を計算していないので、ダークエネルギーが必要になるのではないのか、と述べた。
 思うに、物質現象は-1であり、それを支点にして、+1の波動を捉えると、全体のエネルギーが足りなくなるのではないのかと思われるのである。何故ならば、-1は、本来、差異共振性+1ないしはMedia Point Energy(メデルギーMedergyと造語したい)に包摂されるからである。言い換えると、-1は、後者の一面に過ぎないと考えられるのである。やはり、+1 or Medergy >-1である。この左辺がダークエネルギーになるのではないだろうか。【ただし、問題は、イデルギーとメデルギーと+1との関係である。それは、別稿で検討したい。】
 そう、思うに、これは、ハイデガー/初期デリダ哲学にも該当することだと思われる。超越性ないしは差異共振性の欠如である。そのために、本来の差異共振エネルギーが欠落しているように思えるのである。「ダークエネルギー」が必要に思われるのである。つまり、それは、やはり、物質主義-1から事態を考えているのであり、そのため、壁の向こう側が、それに対応するような超越性・差異共振性のない本来的存在や痕跡になると思われるのである。

参考:

「量子力学とは、目に見えない小さな粒子の世界のこと。つまり、分子や原子、またはもっと小さいものの構成要素を研究する物理学の分野の一つです。量子力学に関するサイトをまとめてみました。」
http://maglog.jp/rarirarihaha/Article319014.html
量子力学入門編

2008年06月11日 (23:46)

新母権主義と父権・母権の大調和主義の関係:自己意識と他者意識:精神的身体と精神エネルギー

先に、同一性主義と差異共振主義の相違を明確にしたが、そうすると、それ以前に述べた父権主義と母権主義の大調和主義という私の考えは、変更を受けるのではないだろうか。この点を検討したい。
 大調和主義以前には、新母権主義を唱えていた。新母権主義と大調和主義ではたいへん異なるだろう。
 結局、直近の考察は、Media Pointにおいて、イデア極性の傾斜によって、同一性主義が発生するということであった。そして、それとは別に、本来の差異共振主義があるということであった。即ち、Media Point(以下、mp)を境界にして、一方(意識)では、同一性主義(同一性)が生起して、他方(無意識)では、差異共振主義(差異)が生起するということであった。【これは、心性の分裂である。問題は前者は言語をもつ自我意識であり、それが、無意識の差異共振性を抑圧排除することである。自我意識は言語意識を形成できるが、無意識の差異を包摂できないのであり、不十分な自己なのである。つまり、自己が自我意識主義であると、無意識の差異を包摂できないので、分裂したままになるということである。これが、心の病気の一つの典型ではないだろうか。自己の他者を肯定する必要があるのであるが、それは、他者を明確に確認する必要があるのである。つまり、トランス自我の自己意識形成が必要であるということである。
 問題は、思うに、他者は身体ないしは身体に関係するものではないかということである。他者を内的身体と呼んだりしたのであるから、身体に関わるのである。しかし、この身体は物質身体なのだろうか。後で検討したい。】
 言い換えると、自己は一面では、同一性であり、他面では、差異であるということである。しかしながら、同一性主義である限り、差異は否定されたままである。問題は差異の肯定が意味することである。
 差異(差異共振性)が肯定されたとき、同一性主義は当然、解体する(脱構築)。しかしながら、同一性自体は消滅はしない。何故なら、同一性は、意識の主要な様相であるからである。つまり、同一性中心主義のみが解体して、同一性は保持されるということである。つまり、差異の肯定によって、同一性と差異とが両立することになるということだと思われるのである。
 これを以前は、同一性を包摂する差異と呼んだのである。そして、これが新母権主義と述べたのであるが、先には、父権主義と母権主義の大調和主義を唱えたのであるが、それは、どういうことだろうか。
 同一性中心主義を脱構築して、同一性を包摂する差異が発現しても、思うに、同一性傾斜は変わらないのであるから、父権主義が反復することになるのであり、そのために、単に新母権主義だけでは、不十分なので、父権主義と母権主義の大調和主義が必要であるということだと思う。
 新母権主義と大調和主義の関係をどう考えたらいいだろうか。前者に即せば、差異の肯定によって確かに、同一性主義は解体する。同一性中心主義はありえないことになる。しかしながら、自己差異傾斜=同一性傾斜という事態が残っているのだから、常に、それを解体して(永遠解体、永遠脱構築)、差異の肯定へと志向する必要があるだろう。
 父権主義と母権主義の大調和主義とは、結局、新母権主義と同義であると言えよう。新母権主義であることは、反復生成する父権主義を永遠脱構築するということであるのである。ということで、本件は解明された。自説の齟齬はなかったのである。
 さて、上記の括弧内のことであるが、他者差異と身体の関係を考察しよう。これも一つの核心的問題である。
 これまで、他者差異を内的身体と考えてきたが、より詳しく精査したい。結局、差異共振性と身体の関係の問題にもつながると言えよう。
 これまで、差異共振性を精神的身体と考えてきた。そう、これは、物質的身体、言い換えると、同一性的身体とは異なるのである。同一性主義ないし同一性は自我と同時に物質身体を形成すると考えられる。-1とは、自我且つ物質身体の形成を意味するのである。
 それに対して、+1は、差異共振性であり、且つ、精神的身体の形成を意味すると考えられるのである。【精神的身体とは、言い換えれば、魂と言っていいだろう。】とまれ、端的に、他者差異-iとは何か。これまでの考えでは、+iは原知性であり、-iは原身体である。【思うに、アリストテレスの質料の根源は、この原身体のことではないだろうか。】
 しかしながら、他者差異-iを原身体としなくて、端的に、他者の原知性と考えることも出来るのではないだろうか。他者の意識である。そう、他者の意識とは自己を知る意識ではないだろうか。少なくとも、自己を対象とする意識であろう。どうも、このように考えた方が、積極的であるようだ。
 つまり、自己意識と対になる他者意識が他者差異ではないか、ということである。ならば、どうして、私は、自己差異と他者差異との共振を精神的身体と考えるのだろうか。
 思うに、それは、同一性(自我)における対象としての物質身体からの類推で、他者差異との共振を精神的身体と考えてしまうのではないだろうか。しかし、これはどれほど意味があるのだろうか。
 思うに、差異共振エネルギーが、この精神的身体と等値なのではないだろうか。自己差異(自己意識)と他者差異(他者意識)が共振するとき、エネルギーが発動する。このエネルギー様態を身体として、つまり、精神的身体と感じるのではないだろうか。言い換えると、精神エネルギーである。そう、この精神エネルギーが、内的身体を形成すると考えていいのではないだろうか。例えば、「気」とは、この精神エネルギーの一つであると思われる。また、霊感と呼ばれるものも、この一種であろう。そして、直感もこれの一種であろう。勘もこれで説明できよう。私がコスモスと呼ぶものも、この精神エネルギーが賦活された様態なのではないだろうか。また、プラトンのエロースもこれで説明できよう。
 私のイメージでは、精神エネルギーが内的身体を形成するが、この内的身体が個々においては、内臓となったり、神経となったり、血液となったりするのではないだろうか。
 そう、精神エネルギー(差異共振エネルギー)が、いわば、情報エネルギーであり、物質身体を構成するのではないだろうか。
 この場合、情報とは、精神エネルギーの振動ではないだろうか。電波を見てわかるように、その周波数には、多様な情報の信号が入っているのであり、それが、端的には、人体の形成する情報であろう。つまり、イデアとしての遺伝子、ないしは、原遺伝子が、精神エネルギーに込められていると考えられる。そして、DNAとは、原遺伝子の物質的表現であると思われるのである。本来は、遺伝子エネルギーがあるのであり、それが物質的に発現したのが、DNAではないだろうか。
 後でさらに精緻に考察を続けたい。

2008年06月10日 (01:52)

同一性主義と差異主義:Media Pointの様相について:原差異と差異/同一性

いったい何が問題なのだろうか。
 端的に言えば、同一性主義の意義・意味である。これは事実として認めざるを得ない。
 先の私の考えは、Media Pointにおいて、反発と引き付けの二元性が発生し、反発が同一性主義となり、引き付けが、差異共振性になるというものであった。
 もっとも、丁寧に言えば、反発とは、イデア極性における斥力の極限を意味する。陰陽で言えば、陽の極限である。極限において、同一性主義が発生し、-1 が生起するのである。この同一性エネルギーがヤハウェである。しかしながら、引き合いの極限が発生すると考えられよう。
 これが、+1ではないのか。そうならが、その二つの極限の中間に差異共振様態があるのではないだろうか。即ち、-1/差異共振/+1である。また、思うに、差異共振とはMedia Point(MP)と考えることが出来るだろう。即ち、-1/MP/+1である。
 思うに、簡単に言うと、-1が同一性であり、+1が差異である。そして、構造は、実軸化されたMP、即ち、ゼロ・ポイントと考えられる。
 思うに、量子論的には、-1が粒子であり、+1が波動と見ていいのではないだろうか。つまり、両者は相補性を形成するのである。
 しかしながら、反発と牽引の極限として、-1と+1があるのであるが、それは、事実なのか。それとも虚構なのか。否、両者は現象ないしは仮象と考えられる。矛盾した現象事象である。
 ならば、その視点から見ると、例えば、磁気とは何であろうか。N極とS極とは何であろうか。それは、基本的には、+iと-iとの関係と見るべきであろう。対立が-1であり、牽引が+1ではないだろうか。
 結局、混乱させるのは、自己認識方程式の左辺(+i)*(-i)と右辺+1との意味である。差異とはどちらなのか。
 思うに、左辺が原差異であり、右辺が差異である。大雑把に言えば、ポスト・モダンは、右辺=差異を問題にしていたのではないだろうか。しかしながら、それは、-1といわば、鏡像関係であろう。
 だから、同一性-1と差異+1とは対称関係にあると言えよう。同一であるが、ズレがあるのである。これは、差延であろう。脱構築性であろう。いわば、鏡像のゆらぎである。
 だから、根源的には、原差異が問題なのである。イデアである。原差異=イデアが問題なのである。私が言う、個=差異=特異性とは、この原差異=イデアのことである。しかしながら、実際は、Media Pointにおけるそれであると考えられる。
 さて、先の父権主義と母権主義に戻ると、前者を-1、後者を+1としたが、それは誤りではないだろうか。
 ここは難しい点であるが、私がいう太母とは、原差異=イデアないしはMedia Pointだと思う。そして、-1と+1とは、物質とエネルギーの関係ではないだろうか。
 ここで、神話でいうと、イシスは太母であり、原差異=イデアである。そして、光のオシリスは+1である。そして、それを殺害するセトが-1であると思う。
 +1が生成ならば、-1は消滅であろう。いわば、両者で生死である。これが、現象の生成消滅のリズムではないだろうか。±1⇒ゼロである。(思うに、資本主義経済であるが、成長とは何だろうか。結局、反成長があるのではないだろうか。成長衰滅があるのではないだろうか。衰滅力が恐慌を発生させるのではないだろうか。)
 とまれ、以上から、先の父権主義と母権主義の対立の誤謬を指摘したことになる。つまり、母権主義とは、根本であり、父権主義は派生なのである。だから、太母主義があり、その派生としての父権主義である。
 では、宇宙物理学の問題はどうなるだろうか。これは、簡単に、原差異=イデアの極性の傾斜で説明がつくのではないだろうか。つまり、引き合いに対して、反発に傾斜しているということではないだろうか。つまり、反発に傾斜しているので、膨張の加速度が増加しているのではないだろうか。今はここで留める。

2008年06月08日 (17:10)

MPの即非二元性:父権的同一性主義と母権的差異共振主義:新ギリシア・ルネサンスあるいは大調和主義

超越神の発生は、イデア極性における反発による同一性主義によるというこれまでの仮説を基に検討を進展させたい。
 自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、左辺を否定して、⇒-1となる。これが同一性主義であるが、⇒の左辺は超越神になると仮説している。たとえば、プロテスタンティズムはこれで説明できるだろう。
 私が不思議に思ったのは、結局、近代主義においては、左辺の超越神が消失していくことであるが、その原因は何であろうか、ということである。別の例として、戦後の日本人を見ると、宗教観念が稀薄となり、近代合理主義・唯物論を信じている。これも、同一性主義の帰結であるが、日本人の場合、超越神ではないが、神はどこへ行ったのか。
 ここでは、プロテスタンティズムについて考えよう。初期においては、超越神の観念が生きていたが、今や、ほとんど死滅しているだろう。アメリカは例外的であるが、イギリスやドイツではそうだろう。
 だから、一枚岩ではないのである。とは言え、アメリカ人が宗教的とは言え、私見では、近代合理主義・近代的自我的である。
 結局、同一性主義は、初期は神観念があるが、結局、物質主義の近代合理主義・近代的自我に帰結する力学は何だろうか。
 同一性主義は、自我観念を発達させる。近代において、近代科学・技術と資本主義の発達があったが、これらが、神観念を切り崩していったものだろう。
 では、神観念の喪失とは何を意味するのか。それは、Media Pointにおける壁の完成ではないだろうか。そこには、絶対的な壁ができ、もう壁の向こう側のエネルギーがなくなるのだ。ということは、壁の消失でもあるだろう。それまで、超越性と現象性を区別していた壁がなくなったのだろう。無壁の状態とは何か。
 これは、無意識に支配される状態ではないだろうか。差異共振性が無意識として潜在している。そして、壁無の状態では、この無意識=差異共振性が支配するようになるのではないのか。
 否、無意識=差異共振エネルギーがありながら、それを排除・抑圧する自我意識体制が生まれるだろう。これは、明らかに、全体主義である。同一性主義資本主義である。マネーゲームであろう。当然、人間は機械化するのである。同一性主義の「悪魔」に支配されるのである。言い換えると、同一性主義構造に支配されるのである。そう、これが、現代世界の真相であろう。
 これまでの考察からみると、これは、イデア極性の反発による力学の帰結に因ると考えられる。言わば、自然の傾斜がこのような狂気的状況を生んでいるのである。
 ここで、シュタイナーの悪魔論を想起するのである。アーリマンとルシファーの「二人」の悪魔がある。前者は物質主義ないしは同一性主義である。後者がわかりにくいのである。思うに、ルシファーとは、差異共振主義ではないだろうか。
 そして、シュタイナーは両者のバランスをとる力として、「キリスト」をおいているのである。私見では、この「キリスト」は、Media Point知性(理性)である。
 簡単に言えば、アーリマンとは物質主義であり、ルシファーは精神主義である。そして、「キリスト」は物質と精神との均衡・調和である。
 これは確かに明快である。私なりに言い換えると、アーリマンは父権主義であり、ルシファーは母権主義である。そして、「キリスト」は、両者のバランスである。
 これは、かなり説得力のある考え方である。もっとも、これまでの私の考察に拠るなら、アーリマンは反発であり、ルシファーは引き合いである。そして、「キリスト」は、Media Point調和知性である(余談だが、調知、調知性という言葉を作ってもいいだろう。共立知性、共知性である。)。
 そう、この視点から、たとえば、ドゥルーズ哲学を見ると、それは、ルシファー主義と言えよう。アーリマン主義=同一性主義を否定して、ルシファー主義=差異共振主義になっているのである。そうならば、先に、ドゥルーズ哲学は+1+(-1)=ゼロと言ったことと齟齬を来す。
 直感では、ドゥルーズの差異とは、確かに、+1における力動を捉えているが、不鮮明なのである。曖昧なのである。大雑把なのである。つまり、ドゥルーズの差異は、+1的であるが、同時に、内在主義なので、+1が同一性主義へと展開するのである。つまり、ここで、+1+(-1)=ゼロが生起すると思われるのである。これで齟齬が解消した。
 また、ハイデガー/初期デリダ哲学を見ると、それは、アーリマンとルシファーの「差異」を提起していると言えよう。しかし、「キリスト」(Media Point 認識)がないのである。
 さて、以上の考察から帰結するのは、今日の同一性主義=アーリマン主義は確かに極端であるが、ポスト・モダンのような差異共振主義=ルシファー主義も反動的極端さをもつということであろう。
 必要なのは、Media Point Intelligence-sophiaである。これはMedia Point調和知性、調和理性、調和叡知と呼べよう。同一性主義と差異共振主義を調和させる大調和知性である。
 私は新母権主義を唱えているが、それは、端的に、この大調和理性主義である。(占星術では、水瓶座文化期となろう。)
 そうすると、これまで、差異共振主義と言ってきたものは、一面的であったことになる。私は同一性を包摂した差異共振性としての差異共振主義を考えてきたのであるが、それは弱いと言えよう。そうではなくて、同一性主義と差異共振主義との調和が必要なのである。簡単に言えば、同一性と差異との調和ということである。
 これは、先には、ギリシア悲劇において確認できたことである。そう、ギリシア悲劇を含めて、ギリシア神話は、この大調和を志向していると言えよう。思うに、イタリア・ルネサンスは、ギリシア・ルネサンスではなくて、差異共振主義=母権主義=ルシファー主義ルネサンスではなかったのか。それは、厳密に言えば、母権ルネサンスであり、ギリシア・ルネサンスではない。
 ということで、結論的には、新ギリシア・ルネサンスがこれから勃興するということであり、それを志向すべきである。

p.s. 以上の結論から、政治について明快な理念が生まれてくるだろう。自由主義は同一性主義であり、民主主義は差異共振主義である。両者の調和主義が新理念となるのである。だから、大調和主義が新政治理念となろう。
 また、D.H.ロレンスの「王冠」の思想も解明される。父と子の対立を相克するものとして聖霊を考えているが、これは、父権主義(ヤハウェ:一神教)と母権主義(イエス:多神教)の対立を相克する調和主義と言える。

p.p.s. Media Point大調和主義から見ると、モダンとは、同一性主義の病であり、ポスト・モダンは差異共振主義の病である。トランス・モダンが両者の傾斜を乗り越え、両立調和主義へと主導するのである。これは、自由主義と民主主義の大調和主義である。D.H.ロレンスの王冠主義である。

3p.s. 用語の的確さ、適性さのことであるが、上記では、同一性主義=アーリマン主義に対するに、差異共振主義=ルシファー主義を説いたが、果たして、差異共振主義でいいのか。差異主義ではないのかと疑問に思うのである。
 やや微妙であるが、たとえば、ポスト・モダンの場合、同一性主義とのなんらかの連続性があった。だから、その「差異」主義とは、厳密には、差異共振主義ではない。しかしながら、包摂する視点から見ると、ポスト・モダンの「差異」は本来は差異共振主義から発生しているものである。だから、広義的に、差異共振主義としても間違いではないと考えられる。差異主義とは、差異共振主義の派生ということである。

2008年06月07日 (21:03)

物質とは何か:現象三相性:同一性主義-1と差異共振主義+1とMedia Pointの三相性

物質とは何か。問題は、現象ではないだろうか。ワインという現象がある。それは、一面では物質=同一性である。しかし、他面では、差異共振性⇒共一性である。
 否、どうも、習慣・慣性から、用語を使用してしまう。物質とは、実に不思議であり、±1が物質現象ではないだろうか。一面では、-1であり、同一性主義の面、他面では、+1の共一性=同一性の面がある。しかしながら、正しく言うと、Media Pointの面があるのであるから、少なくとも、三相である。即ち、-1の同一性主義の面、+1の共一性=同一性の面、そして、Media Pointの差異共立主義の面である。
 物質現象とは、表面的には、±1であろう。しかしながら、「気」=電磁波=イデア波動を考慮すると、Media Pointを内在しているのである。
 Media Point(以下、MPないしはmp)とは、実に「不思議な」、いわば、神秘的な境界である。(ここにすべての鍵があると言ってもいいくらいだ。)MP は、超越エネルギーの反発において、同一性主義-1となり、それは、いわば、物質の壁を形成する。これは、マイナス(排除的否定)の壁と言えよう。しかしながら、壁の向こうには、差異共振の結果の共一性=同一性の物質が存する。-1は、同一性主義エネルギーであり、+1は、同一性エネルギーである。
 化学記号における物質は、-1である。では、+1の物質とは何か。思うに、エネルギーとしての物質ではないだろうか。E=mc^2としての物質ではないだろうか。
 そうすると、相対性理論は、物質の+1の側面を発見したことになる。では、量子力学はどうなるのか。先には、±1を包括するのが、量子論であると言ったが。先に、-1と+1との相補性を言ったがどうだろうか。思うに、粒子と波動との二項対立は、-1において発生しているだろう。ならば、相補性は、+1に成立しているのではないのか。そうすると、相対性理論と量子論は、共通の物質現象を捉えているということになるのではないだろうか。
 それは、おいておくとして、問題は、MPである。MPにおいて、イデアが物質現象へと変換するのである。言い換えると、MPは、イデア/物質変換回路、「イデア/物質」トランスである。超越エネルギーが物質エネルギーに変換するとも言える。問題は、MPの様態ないしは様相である。
 -1の同一性主義とは、明らかに、MPにおいて、超越性と物質性を切断している。これは、超越神に通じる。超越性と現象性の絶対的分離がここに生じると考えられる。
 しかし、+1の同一性は、果たして、MPにおいて、切断されているだろうか。あるいは、+1とは、MPから分離させて、純粋に取り出すことができるのか。
 差異共振性によって、+1が発現するのであるが、そのとき、差異共振性を排除するのだろうか。直感・経験では、+1とは、差異共振性に基づく同一性であるから、それを排除してはいないのである。差異共振性を基盤にもつ同一性である。そうすると、+1とは、必ず、少なくとも⇒+1とならなくてならないのではないだろうか。
 ここで哲学史を想起すると、フッサール現象学は、⇒+1で表わせる。しかし、ハイデガー存在論は、⇒を否定して、+1を本来的存在としたとこれまで述べた。しかしながら、今の議論からすると、単独の+1は本来、ありえないのである。これはどうしたことだろうか。
 +1だけを分離するのは、⇒を排除しないといけないのである。そして、⇒を排除するとは、同一性主義-1に因ることになると考えられる。すると、ハイデガー存在論は、-1を基盤にして、⇒を排除して、+1を提起しているのではないだろうか。世界内存在とは、-1のことであり、ハイデガーはこの現存在を出発点としているので、⇒を排除した形で、+1を本来的存在として論じているということではないだろうか。
 つまり、ハイデガーは同一性主義の物質(自我主義)から出発しているので、超越性⇒が排除されて、+1を本来的存在として説いているのではないだろうか。端的に言って、+1とは、奇形的である。不自然である。私は、ハイデガーの存在に差異共振性が欠落しているのを奇異に感じたが、それの原因はこれで説明ができると言えよう。つまり、同一性主義-1の壁があるために、超越性が排除されているのである。(やはり、ハイデガーはまったくフッサールのブレークスルーを誤解していたのである。ハイデガーの現象学とは、似非現象学である。)
 そう見ると、初期デリダがハイデガーを踏襲するようにして、フッサールの超越性を否定したと考えられる。初期デリダは、同一性主義-1と同一性+1の差延によって、同一性主義を脱構築したと言えよう。やはり、ハイデガーのエピゴーネンである。ハイデガー存在論における-1と+1との亀裂を、初期デリダは差延の揺らぎに変えただけのように思えるのである。
 以上のように見ると、物質現象とは、実は、-1の同一性主義と⇒+1の差異共振主義との二面性をもっているということになる。そして、前者は後者を排除するという不思議な様相をもっているのである。即非様相である。問題は、物質現象はこのように自己矛盾(絶対矛盾的自己同一)の様態をしているので、同一性主義知性(自我)は、自己をほとんど捉え損なうのである。つまり、一般に知性とは、同一性主義に因るので、同一性主義の視点から差異共振性を捉えようとするのであり、その結果、ショート(没入)が起こるのである。ドゥルーズ哲学がその典型であると思う。ドゥルーズは、差異共振性(差異)を、同一性主義と連続化するのである。
 この連続化とは、思うに、和ではないだろうか。(-1)+(+1)=ゼロがドゥルーズ哲学ではないだろうか。だから、繰り返すが、それは、構造主義なのであり、弁証法なのである。それに対して、初期デリダは、ハイデガーを踏襲して、-1と+1との差延を維持したので、構造主義からは脱していると考えられる。そう、確かに、いわば、ポスト構造主義と言えるのであり、脱構築主義とは言えるのである。それは、脱構造主義と言ってもいいのである。
 ゼロないしはゼロ・ポイントであるが、これは、同一性主義の観点から発生する疑似MPないしは似非MPであると考えられる。ここには、超越性が排除されていて、±1の和としてのゼロが構造となっていると考えられるのである。
 では、ここで、物理学を考察するとどうなるだろうか。先に、相対性理論は、ハイデガー存在論と相応すると言ったがどうだろうか。結局、問題は、相対性理論は、⇒+1なのか、それとも+1なのか、である。思うに、相対化とは、-1 の同一性主義を相対化したということと考えられるので、-1を脱していると考えられる。だから、+1ではなくて、⇒+1と推察される。ならば、相対性理論は、フッサール現象学に相応するのである。
 では、量子力学はどうなるだろうか。先には、±1と述べた。しかし、ここでの議論からそれは誤りであることがわかる。確かに、粒子の概念は、-1であろう。しかしながら、波動、乃至は、相補性であるが、波動は相対性理論に通ずるだろうし、相補性であるが、それは、ほぼ、Media Pointの即非相の概念に近いのではないだろうか。相補性とは、粒子と波動との相補性であり、それは、-1と⇒+1との相補性ということになるから、ほぼMPに近い、ないしは、MPにほぼ相応すると考えられるのである。そうならば、量子論は、±1ではなくて、MPに対応する理論と考えられる。これは、明らかに、相対性理論/フッサール現象学を超えていると考えられるのである。
 以上、これまでの議論を訂正した、新たな結論が出たことになる。
 では、量子力学とプラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)はどう関係するのだろうか。ほぼ対応することはわかるが、精密にはどうなのだろうか。とは言え、その前に、物質について整理しておこう。
 物質とは、たとえば、ワインは、-1の同一性主義であり、即非的に、差異共振現象⇒+1である。両者はMPにおいて、即非性=相補性を形成している。では、差異共振現象としての物質とは何か。
 それは、エネルギー現象であるということである。波動現象であるということである。電磁波現象であるということである。ただし、それを、同一性主義-1 によって、+1に限定してはいけない。それは、端的に、イデア現象としてのエネルギー現象ということになる。イデア・エネルギー(エネルゲイア)が、物質エネルギーに変換しているということである。だから、物質現象とは、同一性主義-1であり、差異共振主義⇒+1のエネルギー現象であり、かつ、イデア現象である。この三相性がMPに存すると考えられる。
 そのように考えて、量子論とPS理論について考えると、これは、以前既述したことであるが、量子論はまだ、物質主義に囚われているので、物質の真相を捉えていないということである。電磁波とは、物質というスクリーンに移るイデア「現象」の影であると思われるのである。この場合の物質のスクリーンとは、 MPの物質の面である。
 丁寧に見よう。量子論は⇒+1の波動=エネルギーを捉えている。しかしながら、差異共振性(+i)*(-i)を的確には捉えていないと考えられるのである。量子の波動とは何か。それは、思うに、差異共振エネルギー(イデア・エネルギー、「イデア波動」)を同一性主義-1にスクリーンに映したものではないだろうか。
 有り体に言えば、イデア波動の同一性主義的影像であるということではないだろうか。だから、本来、⇒+1の差異共振現象を+1に変えているのではないだろうか。言い換えると、超越性を排除しているのである。差異共振性を同一性主義化しているということである。
 つまり、量子論の波動とは、イデア波動の影(影像)であり、実体ではないということになるのである。言い換えると、量子論は影を実体と捉える誤謬を犯していることになろう。
 ここで、宇宙物理学の問題に関係させると、それは、影を実体としているので、ダークマターやダークエネルギーが必要になったということではないだろうか。言い換えると、本体は、イデア波動=イデア・エネルギーである。つまり、(+i)*(-i)⇒+1を応用させて、
m(+ic)*(-ic)⇒mc^2となるが、右辺のmc^2のエネルギーとは、差異共振エネルギーではあるが、左辺のない形の右辺の数値は、同一性主義-1に規定されたものと考えられる。つまり、本体である左辺のエネルギーを考慮していないということである。
 単純に見て、イデア・エネルギーが宇宙を駆動させていると考えられるが、思うに、それが、ダークエネルギーの正体ではないだろうか。
 これをどう考えたらいいだろうか。思うに、MPにおいて、-1と⇒+1のエネルギーが生まれる。反発と牽引である。宇宙が膨張するとは、前者の力によるということではないだろうか。重力は、後者で説明がつくのではないだろうか。そうすると、反発>牽引ということになろう。この反発のエネルギーは、当然、 MPのイデア・エネルギーによって説明されるのであり、牽引である差異共振エネルギーでは足りないことになると考えられよう。
 そう、ということで、暫定的ながら、ダークエネルギーとは、イデア・エネルギーであり、厳密に言えば、同一性主義エネルギーへと展開するイデア・エネルギーということになろう。
 今はここで留める。
 
******************************

1日1杯のワインは肝臓によい効果

1日1杯程度のワインであれば、肝臓に害がないばかりでなく、非アルコール性脂肪性肝疾患(NAFLD)のリスクを軽減する可能性さえあることが新しい研究により示され、医学誌「Hepatology(肝臓学)」6月号に掲載された。

今回の地域集団ベースの研究は、米カリフォルニア大学サンディエゴ校(UCSD)の研究グループによるもので、飲酒の習慣のない人7,211人、1日に平均ワイン4オンス(約120ミリリットル)、ビール12オンス(約360ミリリットル)または蒸留酒1オンス(約30ミリリットル)程度の控えめな(modest)量の飲酒をする人4,543人を対象に実施された。

その結果、1日1杯のワインを飲む人は、飲酒しない人に比べ血液検査に基づくNAFLD疑いのリスクが半分であることが判明。しかし、ビールまたは蒸留酒を控えめに飲むとした人では、NAFLD疑いの比率はワインを飲む人の4倍であった。研究を行った同大学小児科部門消化器病学准教授の Jeffrey Schwimmer博士は、「この結果は常識を覆すものだ」と述べている。

しかし、多量のワインを摂取した場合に予防効果がさらに高まるとの証拠(エビデンス)は示されておらず、「アルコールを飲み過ぎるリスクのある人は、ワインもそのほかの酒類の摂取も考えるべきではない」とSchwimmer氏らは強調している。この効果はワインだけにみられ、ビールや蒸留酒には認められないことから、効果がアルコールによるものなのか、それ以外の成分によるものかを見極めるためにさらに研究を重ねる必要があるという。

NAFLDは米国では最もよくみられる肝疾患で、4,000万人を超える成人が罹患しており、患者の5%が肝硬変を発症するという。NAFLDの主な危険因子(リスクファクター)は、肥満、糖尿病、高トリグリセリド(中性脂肪)および高血圧など。

(2008年5月29日/HealthDayNews)
http://health.yahoo.co.jp/news/detail/?idx0=w20806053

2008年06月07日 (01:28)

Media Pointとゼロと±1

今は、簡単に触れようと思うだけであるが、一番の問題は、⇒+1と+1とゼロとの関係である。あるいは、ゼロの問題である。
 私は、先に、ハイデガーの本来的存在を+1と考えた。しかし、それ以前には、ゼロ⇒+1と考えた。このブレは何であろうか。いったい、どちらが正しいのだろうか。
 -1とは、差異共振性の否定であり、その排除・反発の同一性(主義)である。これは、ハイデガーの頽落した現存在だと考えられる。
 では、本来的存在はどうなるのか。そう、⇒+1と+1はどう異なるのか。端的に言えば、フッサールとハイデガーの違いである。あえて言えば、⇒がノエシスであり、+1がノエマである。ということは、ハイデガーはノエマを本来的存在としたということである。これは、いわば、超越論的シニフィエではないだろうか。ならば、⇒は何であろうか。超越論性であろうか、超越性であろうか。
 この問題については、精緻な検討が必要であるが、直感で言えば、超越性である。何故なら、⇒は、通常の意識を超えているからである。不連続的差異論では、不連続的差異と捉えたものである。思うに、連続性として捉えれば、超越論性となるだろう。しかしながら、不連続性と捉える限り、それは、超越性である。【もっとも、用語の厳密な検討が必要である。かなり以前は、それを、わたしは、内在的超越性と呼んだが、以後、それを破棄した。なぜなら、即非様相を表現するのに、内在性の発想は不正確であるからである。即非様相とは、内在且つ外在である。しかし、この外在とは、客観的外在ではなく、超越的外在ということである。】
 ということで、⇒は即非様相を意味する。そして、⇒+1とは、即非的同一性の形成を意味しよう。すると、+1は同一性である。すると、先に述べた、+1=共一性、-1=同一性と齟齬を来す。これをどう考えるべきか。
 あえて言えば、+1=共一性=同一性であり、-1は同一性主義である。すると、整合性はどうなるのか。-1とは、差異を排除否定した同一性であり、+1とは、差異共振性に包摂された同一性である。だから、齟齬が生じないと言うことができる。
 用語の同一性は、語弊を生じやすいと言えよう。とまれ、そういうこととして考察を続けると、ハイデガーの本来的存在は+1=共一性=同一性ということになる。これはどうか。
 +1とは、即非性ないしは共振性が消失しているので、それは、正しいと考えられるのである。⇒+1ならば、超越性のある共一性=同一性であり、それは、物質的現象を超越する源泉・根源をもつ。
 しかるに、⇒のない、単なる+1は、即非性・共振性が欠落している共一性=同一性であり、思うに、同一性反復性と言えるものではないだろうか。同一性における反復であり、ここには、他者=差異がないのである。そして、それは、本来的存在に適合するように思えるのである。ある意味で、自己陶酔・鏡像主義である。ということで、本来的存在は+1でいいように思える。
 では、ゼロとはどうなるだろうか。ハイデガーの場合は、+1(本来的存在)と-1(頽落した現存在)の亀裂があったが、思うに、ゼロはなかったのではないだろうか。
 ゼロとは、やはり、構造主義の構造ではないだろうか。-1は二項対立であり、+1はいわば純粋同一性である。思うに、構造とは、-1の二項対立を発生させるものとしてのゼロということではないだろうか。何故なら、+1は、二項対立を発生させない純粋同一性であるからである。
 ドゥルーズ哲学はほぼ構造主義と見ていいと思う。しかし、ハイデガー/デリダ哲学は、+1が介在して、-1との差延を指摘しているのではないだろうか。
 ドゥルーズは、これまで繰り返し述べたように、差異を連続化させていて、+1に達していないと思われるのである。もし、差異を不連続として捉えるならば、⇒+1ないしは+1が生起するのである。しかし、連続化すると、帰結としての+1はなくなり、-1になると考えられるのである。つまり、ドゥルーズの差異論は、これまで、指摘したように、弁証法になると考えられるのである。同一性主義という二項対立を帰結する差異とは、単なる排除的否定であり、弁証法的否定であると考えられるのである。
 ということで、ここで、検討を終えたい。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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