2009年07月03日 (22:32)

諸宗教とは原神性=超越性に対する諸観点ではないのか:宗教の脱同一性化と絶対的脱構築主義

たびたび引用するアメリカの神話学者ジョセフ・キャンベルの主著に『神の仮面』Masks of Godという四巻本がある。この「神」Godを原神=超越性と見れば、私の考えが明快になるだろう。
 つまり、元々は根源的に一つの原神性=超越性が存するのであり、それを、各民族、各時代、各土地、等によって、すなわち、そのフィルターを通して、見ていたのではないだろうか。
 即ち、原神(神々)が存するが、それをユダヤ民族は、ヤハウェやエローヒームと、キリスト教徒はイエス・キリストと、マホメット(ムハンマド)は、それをアッラーと、また、仏陀は空と、そして、ザラシュトラはアフラ・マズダーと、そして日本民族は、三柱の神や八百万の神と、そして、インド人はヴィシュヌ、ブラフマン、シヴァと、そして他は別様に見たのではないだろうか。
 根本的な超越的普遍性があるのであり、それを多様に把握しているのである。これは、以前、Kaisetsu氏が説いた相対性理論の考え方に共通しよう。「光」の普遍性があり、それを多様に観測するということである。
 これは当然、宗教・神話に限られず、超越エネルギーがあるのであり、これを合理的に秩序化したものが自然科学ということと考えられる。しかしながら、近代科学は同一性=物質の観点から超越エネルギーの現象態を捉えようとしたに過ぎない。もっとも、量子論は、超越エネルギーを対象としているといえよう。ただし、唯物論の枠組みをまだ残存させてはいるが。
 また、東洋哲学は、基本的に超越エネルギーを対象としていると言えよう。だから、「気」という視点が生まれると考えられる。つまり、「気」とは超越エネルギーであるということである。陰陽論は超越エネルギーを対象としていると言えよう。
 宗教に戻れば、結局、諸宗教の教徒が相争うのは、普遍的超越性を同一性化することによって、相対立が起こることからだろう。普遍性を同一性化すれば、それは、二項対立を生み、自身が正しく、他者は誤謬であるとなるのである。
 根源的超越性を例えば、iとすれば、それを+1として見るのが同一性化である。わかりやすく言えば、「川」が存するが、riverやStromやrivièreや川、等々と呼ぶようなものである(追記:私が直感・直観を重視するのは、同一性言語に囚われない、原感覚・原知覚、言い換えると、普遍的感覚・普遍的知覚がそこにはあるからではないだろうか。だからこそ、言語よりも、美術や音楽の方が、対象を誤魔化しなく捉える傾向をもつと考えられる。つまり、言語意識よりも、感覚意識の方が対象を正しく捉えるということである。)。もちろん、各地域によって川の性質は異なるのは確かであるが。宗教の脱同一性化が必要である。脱フィルター化である。
 思うに、脱構築主義は、差延を問題し、同一性と差異との相対性を述べて、同一性的な構築を否定するという発想である。それは、正に、ポスト・モダンであり、ドゥルーズの連続的差異と類似する。
 そう、脱構築の脱構築が必要なのである。いわば、絶対的脱構築主義である。これまでの脱構築主義は、相対的脱構築主義ということになる。

追記1:思うに、一神教は同一性化が多神教よりも強化されたものと言えよう。とまれ、根本は超越的エネルギー論であるということである。

追記2:ウィリアム・ブレイクは、All Religions are One.(すべて宗教は一つである。)と述べていたのを想起する。

Title; E1| ALL RELIGIONS are ONE t2


AROepigraph; E1| The Voice of one crying in the Wilderness


ARO; E1| The Argument As the true method of knowledge is experiment
AROargmuent; E1| the true faculty of knowing must be the faculty which
AROargument; E1| experiences. This faculty I treat of.
ARO; E1| PRINCIPLE 1st That the Poetic Genius is the true Man. and that
AROprin1; E1| the body or outward form of Man is derived from the Poetic
AROprin1; E1| Genius. Likewise that the forms of all things are derived from
AROprin1; E1| their Genius. which by the Ancients was call'd an Angel & Spirit
AROpriin1; E1| & Demon.
ARO; E1| PRINCIPLE 2d As all men are alike in outward form, So (and
AROprin2; E1| with the same infinite variety) all are alike in the Poetic
AROprin2; E1| Genius
ARO; E1| PRINCIPLE 3d No man can think write or speak from his heart,
AROprin3; E1| but he must intend truth. Thus all sects of Philosophy are from
AROprin3; E1| the Poetic Genius adapted to the weaknesses of every
AROprin3; E1| individual
ARO; E1| PRINCIPLE 4. As none by traveling over known lands can find out
AROprin4; E1| the unknown. So from already acquired knowledge Man could not
AROprin4; E1| acquire more. therefore an universal Poetic Genius exists
ARO; E1| PRINCIPLE. 5. The Religions of all Nations are derived from
AROprin5; E1| each Nations different reception of the Poetic Genius which is
AROprin5; E1| every where call'd the Spirit of Prophecy.
ARO; E1| PRINCIPLE 6 The Jewish & Christian Testaments are An original
AROprin6; E1| derivation from the Poetic Genius. this is necessary from the
AROprin6; E1| confined nature of bodily sensation


ARO; E2| PRINCIPLE 7th As all men are alike (tho' infinitely various) So
AROprin7; E2| all Religions & as all similars have one source
AROprin7; E2| The true Man is the source he being the Poetic Genius
http://www.english.uga.edu/nhilton/Blake/blaketxt1/all_religions_are_one.html
Contents, The Complete Poetry and Prose of William Blake
edited by David V. Erdman 
The Masks of God, Vol. 1: Primitive Mythology (Paperback)
http://www.amazon.com/Masks-God-Vol-Primitive-Mythology/dp/0140194436/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1246617764&sr=1-1

2009年07月02日 (17:07)

超越性が個の原因である:超越性とMedia Pointと個

現代の日本人は自我中心的であるが、個がない。個とは、あるいはindividualityとは、超越性がなければ、存しない。何故なら、Media Pointを介して存する超越的道徳性が、自我主義であることを規制し、他者との差異共振的関係を保持させる力となるからである。
 現代日本の亡国性は、この個がないことに根因がある。やはり、戦後の近代合理主義に根因がある。後でもう少し説明したい。

追記:より正確に言えば、戦後日本人は、封建的近代主義者であり、二重性、二股性を使い分けている。
 即ち、一方では、封建的父権主義(男性中心主義)的であり、他方では、近代合理主義・唯物論的である。この二重性によって、Media Pointを抑圧しているのである。
 即ち、前者、封建主義によって、差別的自我が肯定され、個的道徳性が抑圧されるのである。そして、後者、近代合理主義によって、差別的自我が唯物論化されるのである。言い換えると、純粋な封建主義の場合でも、超越性(主従性において)があるが、近代合理主義化されて、超越性を否定するため、没道徳的な差別的近代的自我が誕生するのである。これは、最悪の事態であり、この自我に戦後日本人は陥ったのである。封建主義の短所と近代主義の短所の結合である。これは、端的に、悪神化=アンリ・マンユ化である。
 では、この悪魔化の根因は何か。私はずっと以前、戦争で有能な日本人が死んでしまったことが、戦後文化の劣弱さを生んだと思ったことがある。わたつみの声を読めば、なんという才能の喪失であるかがわかろう。
 やはり、ゾロアスター教化が必要である。

2009年07月02日 (14:19)

トランス・モダン認識と「内なる宇宙」:トランス・モダンの内面感性

以下、Kaisetsu氏と愚樵氏とのトランス・モダン的認識に関する「差異共振」的対話であるが、実に意味深長である。この「感情」、「感応」、「感性」、「パトス」、「共感」、「内なる自然」等々の問題は、きわめて重要である。今は余裕がないので、詳述的にコメントできないが、一言言えば、その通りである。
 また、安部公房であるが、学生の頃よく読んだ作家である。引用されている『砂の女』はおそらくいちばんの傑作ではないだろうか。
 とまれ、Kaisetsu氏の指摘で、安部公房の作品世界が、即非空間であることがわかった。そう、「情感」的には、いわば、乾いた叙情性(ドライ・リリシズム)があるのであるが、それも即非的感性と言えよう。
 思うに、安部公房は、村落共同体的日本を批判的に見ながら、何処にもない故郷(ユートピア)を求めていた。その「何処にもない故郷」とは、正に、「内なる自然」と通じると考えられる。
 また、愚樵氏の述べている「共感性」等の視点は、実は、誤解されている英国の作家D. H. ロレンスが既に提唱しているところである。晩年の『死んだ男(逃げた雄鶏』はいわば、差異共振コスモス、絶対的差異共振的コスモスを詩的に表現した中編小説である。 

参照:
D.H.ロレンスの『死んだ男』の画期的独創性:二項対立から不連続的差異へ

http://ameblo.jp/renshi/entry-10009910869.html

又は

D.H.Lawrenceの『死んだ男』
http://ameblo.jp/renshi/theme-10000374060.html

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不思議なこと。同じ所を見ているという感覚。

〔トランス・モダン〕へ至るには、各々のパトスへの没入――すなわち【共感】――が必要です。〔トランス・モダン〕は【共感】の機序の探求であり、その探求を支えるのは「内なる自然」への信仰です。)

 という愚樵氏の言葉です。


 つまり、「砂の女」も、「内なる自然」の物語であり、しかも、この小説の巧妙な点は、内なる「砂の女」が、外なる「砂の女」と差異共振している点だと得心したのです。

 その媒体(Media)として、「砂丘」と「砂丘の大きな穴」が設定されています。そうして、勿論、 Media Pointとして主人公(の内なる自然)が設定されています。

 砂丘の穴の外、穴の中、穴の中の人間の心の中。

 これらが、三重奏、三つ巴の共振をしているのです。

 砂丘の穴の「外」は物理的には見えないから、結局は、人間の心の中と同値です。

 「男」は、「砂の女」の「穴」に墜ちたという設定とも取れて、多次元の「相克・相乗」が生じています。

 「砂の女」は、「砂である女」とも読めますから。

 愚樵氏が「内なる自然」を旅されておられる時、海舌も「内なる荒野」を旅していたように想います。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=765851
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
参照:
〔トランス・モダン〕を阻むもの
2009-07-01
当エントリーは、海舌さんからのTB『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』を受けたもの。また、海舌さんのエントリーは私のエントリー『「選択の限界」〜好き嫌い』を発展させたもの。ですので、当エントリーを読み進めるより先に

『「選択の限界」〜好き嫌い』(愚樵空論)

『「選択の限界」から、構造主義からトランス・モダンまでを説明してみる。』(『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu)

の順序でご覧になってください。
http://gushou.blog51.fc2.com/blog-entry-271.html

愚樵空論

2009年07月01日 (11:50)

近代化とは何で「あった」のか:近代化と西洋文明:Media Pointと同一性=物質性との連続性:Ver2

今日・現代、トランス・モダン的転回の時代にあって、いったい、近代化とは何であったのか、普遍的であったのかと問いたい。
 プラトニック・シナジー理論は、諸主要概念をもつが、その中で超越性の概念は核心的な一つである。
 端的に言えば、西洋近代化とは、「同一性=物質」主義による超越性の否定であった。社会的には世俗化である。
 この視点から見ると、宗教的世界は胡散臭いものになる。とりわけ、イスラム圏はそうなるだろうし、かつて「国家神道」を奉ずる日本もそうであった。(この問題は宗教学の問題に関係するので複雑であるが、便宜的に単純化して述べることになる。)
 とまれ、超越性の視点に立つと、宗教は胡散臭いというよりは、ヒトにとり必然的なものであり、その発現は重大な問題があるものの、単純に否定できるものではないのである。つまり、宗教は批判的に積極的評価されるべきものであるということである。
 そうなると、近代化とは逆に問題視されることになるのである。それは、普遍的なものであったのか。
 答えはほとんど自明である。近代化とは、近代西洋化のことであり、西洋文明が内包する価値観の帰結であり、その点で限定されたものであるということである。言い換えると、強くキリスト教に限定された文明であるということである。
 先に述べたように、キリスト教とは超越性=物質性という「邪教」性というのか、誤謬・錯誤・倒錯をもった宗教である。それは、超越性を同一性=物質に還元してしまう、還元すると、唯物論に帰結する(これは哲学的にはフォイエルバッハの「哲学」に典型的に表現されている)という特殊な、パラドクシカルな宗教なのである。
 ということで、近代化とは、キリスト教化=唯物論化であったのであり、西洋文明のもつ特殊な宗教に拠るものであったのである。
 結局、近代化とは普遍的ではなかったのであり、キリスト教的な西洋文明の限定=限界をもったものであったのである。
 そして、近代化とは主観的には当然、近代的自我・近代合理主義を生んだのである。そして、これは、唯物論的自我・合理主義ということである。
 そして、正に、この視点から民主主義や自由主義の問題を考えなくてはならないのである。
 少し文化史的に戻ると、実は近代西洋文明は既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの両面をもつと述べてきた。そして、個の発動とは前者に基づくのである。そして、私は後者は前者を内在させていると述べた。
 重要な点は個とはMedia Pointから発しているのであり、近代西洋文明も、原点はMedia Pointである。しかしながら、キリスト教文明であるために、同一性=物質主義へと傾斜したと考えられる。言い換えると、近代西洋文明とは二重性をもつのである。Media Pointと同一性=物質性の二重性である。これが近代西洋文明の連続性・相対性・「混濁」ないしは混淆を生起させたのであり、その帰結がポスト・モダンの連続性に発現したのである(ただし、後期デリダはポスト・ポスト・モダンである)。
 ということで、近代西洋の重要な政治概念である民主主義や自由主義もこの二重の視点、端的には連続性の視点で批判的評価されなくてはならない。
 そして、近代西洋的民主主義は「同一性=物質」主義的な側面が強いために、宗教的文明、とりわけ、イスラム教文明を否定するのである。もっとも、宗教的である東洋文明一般に対してもそうであり、また、それ以外のアフリカや中南米や太平洋諸島の宗教的文明に対してもそうである。いわゆる、オリエンタリズムである。
 しかしながら、トランス・モダンの視点では、上記したように、宗教は批判的に積極評価されるべきものである。即ち、超越性の表現に対する批判的積極評価である。
 超越性の視点から見ると、「同一性=物質」主義=唯物論とは、まったき打破されるべき錯誤、誤謬ないしはイデオロギーである。いわば、幻想、妄念、倒錯である。
 だから、近代西洋民主主義の視点から単純にイスラム教文明の「反民主主義」性を否定するわけにはいかないのである。
 近代西洋民主主義は先ず、「自己批判」が必要である。自身の同一性=物質性の視点を批判し、乗り越える必要があるのである。すなわち、トランス・モダン的な民主主義の視点に立って、イスラム教文明と差異共振的に対話すべきなのである。
 さて、近代西洋文明と言ったが、オバマ大統領を生んだ米国と西欧では質的な違いの存在を考えさせる。
 私はオバマ大統領の政治・政策哲学は差異共振主義、トランス・モダンであると説いている。つまり、脱近代西洋文明、トランス近代西洋文明路線である。これはどうして生じたのか。
 以前、オバマ大統領の民族的社会的背景から差異共振主義を説明したが、ここでは、上記の西洋近代主義の二重ないしは連続性の視点から述べよう。
 結局のところ、西洋近代文明には、Media Pointが強く発動しているのであるが、キリスト教的傾斜のために、「同一性=物質」主義化したのである。
 しかし、米国と西欧の質的相違がある。キリスト教文明とは言え、米国の「国教」はピューリタニズム(清教徒主義)である。これは、実は、ユダヤ教的発想が強いのである。つまり、神の国を構築という「ユートピア」思想をもっているのである。
 確かに、イエスも神の国を説いたが、それは、内面的な側面が強い。しかし、ピューリタニズムは、社会的な神の国の建設を目指しているのである。
 そういう「プログラム」・「プロジェクト」をもった国として建国されたのが米国なのである。つまり、近代西洋文明でありながら、それとは異質な宗教性、即ち、超越性を色濃くもった反近代主義的国家なのである。
 そして、この超越性の側面を、私見では、オバマ大統領や彼を大統領に選出した米国民はもっているのである。そして、超越性と民主主義が結合・融合して、差異共振主義、トランス・モダン政治哲学が生まれたと考えられるのである。
 ということで、我が日本の衰退・退化・退行した現況を見ると、正に、亡国状況・事態である。世界は今やトランス・モダン的転回=「進化」を実現しつつあるのに対し、悪夢のように時代遅れの西洋近代文明の発想に取り憑かれているのである。
 根本的に、三島由紀夫が表現・体現したように、戦前と戦後の文化的切断にある。何度も既述したが、国家神道が否定されたとき、超越性までも、宗教的伝統までも否定・排除されたのである。三島由紀夫は「文化防衛論」で天皇の人間化を慨嘆したが、それは正確には、文化的切断を説いていると考えられる。また、切断は「断絃のとき」として表現されている。そして、戦後、天才的な折口信夫の新神道論が提唱されたが、戦後近代化において無視されたのである。
 結局、戦後日本は、Media Point、超越性を喪失した(一面では、つまり、戦後の占領政策によって喪失させられた、牙を抜かれたのである)のである。
 戦後、いわゆるアメリカ的合理主義が中心化された。しかしながら、それは、米国文化の一面に過ぎない。米国は「ピューリタニズム」の国である。超越性文化をもつ国なのである。
 とまれ、戦後の、いわば、ハイパーな近代化=唯物論化によって、日本文化は悪神の巣窟になったのである。そして、その帰結が今日の自民党官僚独裁主義の日本である。
 思うに、小泉構造改革が何であったのか、明確に整理しないと日本は立ち直れないだろう。
 構造改革の必要があるのは、今でも事実である。即ち、戦後の官僚主導・公共投資型超負債財政という構造の改革の必要である。しかるに、それを目指すはずであった小泉構造改革はまったく「二重人格」的に、裏では、官僚と結びついていて、国民生活の破壊に帰結したのである。このアイロニーの力学は何か。 
 Kaisetsu氏の瞠目する視点は小泉氏は構造主義者であるということであるが、それは、卓見であるが、ここでは私なりに考察を行いたい。
 私は最初から小泉元首相を胡散臭く見ていた。つまり、ペテン師と見ていたが、その思想的内容については深くは考えなかった。思うに、戦後の官僚主導公共投資/ケインズ型経済や国営事業に対して否と言った政治家として、小泉氏は、歴史に残る可能性が高い。
 私の作業仮説は、小泉元首相は、Media Pointからの同一性志向性を強くもっていた人物であるということである。だから、他者を徹底的に否定し排除するのである。典型的な二項対立性がある。だから、「構造改革」に反対する人物を潰したのである(「刺客」路線)。(もっとも、このことは、当時考えたことである。)
 官僚主導公共投資や国営事業は悪であるから、それは否定・排除するのである。つまり、民営化こそ善であるということである。
 小泉元首相の意識では、民営・善と官僚/国営・悪の二項対立図式が完全化していたと考えられる。中間はないのである。しかしながら、ここには、民営・善という同一性があるのであり、これが、いわば、差異・他者の官僚/国営を否定・排除したのである。(思うに、この二項対立は、意外に、橋下知事の発想と共通しよう。)
 しかし、問題は、官僚主導性を打破するには、差異・他者こそ肯定されるべきなのである。端的に言えば、絶対的差異、絶対的他者である。
 小泉元首相は「構造改革」という同一性に奉じて、本来の目的である絶対的差異・絶対的他者を否定・排除したのである。つまり、本来の国民の視点がここで消えているのである。「構造改革」という同一性主義によって、官僚と裏で結託することは問題ではなくなったのである。同一性主義が、自身を肯定したのであり、自身は善となったのであり、自身の欲望が肯定されて、官僚と結託したと考えられる。
 このMedia Pointから発し、反転した同一性主義こそ、Kaisetsu氏の説く小泉元首相の構造主義に一致するだろう。単なる、同一性=唯物論ではなく、超越性をもった同一性主義なのである。だから、超越的同一性主義である。だから、ヤハウェ/キリスト教に類似しているのである。また、ハイデガーに似ているのである。
 だから、ポスト/アンチ小泉構造改革路線とは、脱構造主義・「脱構築主義」、即ち、トランス・モダンでなくてはないのである。ポスト・モダンでは、元の木阿弥であり、それは、日本の軽薄な知識人に見られる事態である。何故なら、ポスト・モダンはモダンと連続的であるからである。
 とまれ、以上のように見ると、小泉元首相とは近代主義者であり、官僚や自民党は、私が呼ぶ封建的近代主義者である。この点でも日本のトランス・モダン的転回が必要なのである。即ち、トランス・モダン「平成維新」が必要なのである。
 最後に補足として、グローバリゼーション、ネオコン、新自由主義とは何であったか簡単に見てみよう。
 これは、超越的同一性主義的金融資本経済を意味していたと言えよう。ヤハウェ/キリスト的金融資本経済である。あるいは、構造主義的金融資本経済である。
 結局、これが、リーマン・ショックで大崩壊したのであり、トランス・モダン資本政治経済が発動する起点になったと考えられる。
 少し付け足すと、では、この視点では、ポスト・モダンとは何であったのか。ポスト・モダン哲学は差異・差延を問題にしたが、それは経済的には何であったのか。とまれ、ポスト・モダンは構造主義を「脱構築」するものであった。二項対立の「脱構築」である。しかしながら、後期デリダを除いて、それは、第3項としての「差異」を提示したのであるが、その第3項=「差異」ないしは「差延」は、同一性と連続的なものであったのである。つまり、ポスト・モダンは、差異の視点を中心化した点では功績があったものの、それは、連続的・相対的差異に過ぎず、実質は構造主義を乗り越えられなかったのである。
 この連続的差異である第3項の経済とは何であったのか。思うに、消費型経済ではないだろうか。「差異」としての商品の消費の経済ではないだろうか。直感では、ボードリアールのシミュラークルの経済ではないだろうか。連続的な第3項としてのシミュラークルの経済、言い換えると、大量消費経済ではなかったか。

追記:現代日本の「お笑い」似非文化もポスト・モダンであり、また、石原都知事、東国原知事もそうであろう。そう、アメーバ麻生首相もそうである。

参考:
シミュラークル しみゅらーくる(読書 )
kokada_jnet

フランス の思想家 、ボードリヤール が提唱した概念 。ポストモダン 社会 における、オリジナル なきコピー のこと。

元来は文化人類学 の用語であり、ある土地の伝統 文化が滅びてしまった後、後世の人間 がそれを惜しんで復活させた「まがいもの文化」を指す。

ボードリヤール 『シミュラークル とシミュレーション 』(ISBN:4588001361 )の冒頭から引用 。

「シミュレーション とは起源 も現実 性(realite)もない実在(reel)でつくられたもの、つまり(hyper reel)だ」(竹原 あき子訳、法政大学出版局 、1984年 、1−2頁)

http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%B7%A5%DF%A5%E5%A5%E9%A1%BC%A5%AF%A5%EB

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存在論的、広告的、キャラクター的

初出:『広告』2000年3+4月号、博報堂

そもそも、われわれがいま生きているのは複製技術の時代です。何でもコピーができてしまう。ベンヤミンが1936年に書いた『複製技術の時代における芸術作品』という有名な論文がありますが、そこでベンヤミンが取り上げたのは「アウラの消失」という問題だった。アウラ、つまりオーラです。1個しかないオリジナルのものにはオーラがある。たとえば油絵の絵画にはオーラがある。それに対して、コピーされたものにはオーラがない。絵画を印刷するとオーラがなくなる、という話ですね。オーラがなくなると、すべてがシミュラークルとして消費される。それが複製技術の時代であると。「シミュラークル」という言葉をまだベンヤミンは使っていませんが、おおむねこのようなことを彼は主張したわけです。

それで僕の考えでは、キャラクター文化の謎は、このベンヤミンの指摘と深く関係している。というのも、「キャラ立ち」とは、「複製技術時代のオーラ」と言えるものだからです。目の前の人間には、独得のオーラがある。人間は複製不可能なものだから。それに対して、イラストのキャラクターはいくらでも複製可能だから、これはオーラがない。ところが、「キャラが立って」くると、ひとはその複製からオーラを感じるようになってくしまう。

例えば最近の立っているキャラとしては、PSソフト「どこでもいっしょ」のトロでしょうか。トロには本当はオーラなどあるわけがない。売り出されるどのCDにも同じトロが入っていて、いくらでもコピーできるし、あっちにもこっちにもトロがいるわけだから。「このトロが」と言ったところで、それはニセモノでしかない。むろん、それぞれのトロは、飼主が教える言葉に応じて多少は違う会話をするようにはなるけれど、会話や絵日記のバリエーションだって、プログラムの範囲内でしかないですからね。全部決まり事なんですよ。ところが、消費者はそういうことを百も承知なのに、あえてそのトロに自分で名前をつけて、感情移入して、そこに独特のオーラを宿らせていくわけです。複製可能なものを複製不可能にすること、コピーをコピーのままでオリジナルにすること、これがキャラクター文化の核にある欲望だと思います。

http://www.hirokiazuma.com/texts/character.html


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Simulacra and Simulation
From Wikipedia, the free encyclopedia

Simulacra and Simulation (Simulacres et Simulation in French ) is a philosophical treatise by Jean Baudrillard that discusses the interaction between reality, symbols
Overview
“ The simulacrum is never that which conceals the truth--it is the truth which conceals that there is none. The simulacrum is true.[1] ”

Simulacra and Simulation is most known for its discussion of images, signs, and how they relate to the present day. Baudrillard claims that modern society has replaced all reality and meaning with symbols and signs , and that the human experience is of a simulation of reality rather than reality itself. The simulacra that Baudrillard refers to are signs of culture and media that create the perceived reality; Baudrillard believed that society has become so reliant on simulacra that it has lost contact with the real world on which the simulacra are based.

Simulacra and Simulation identifies three types of simulacra and identifies each with a historical period:

1. First order, associated with the pre-modern period, where the image is clearly an artificial placemarker for the real item.
2. Second order, associated with the industrial Revolution , where distinctions between image and reality break down due to the proliferation of mass-produced copies. The item's ability to imitate reality threatens to replace the original version.
3. Third order, associated with the postmodern age , where the simulacrum precedes the original and the distinction between reality and representation breaks down. There is only the simulacrum.[2]

Baudrillard theorizes that the lack of distinctions between reality and simulacra originates in several phenomena:

1. Contemporary media including television , film , print and the Internet , which are responsible for blurring the line between goods that are needed and goods for which a need is created by commercial images.
2. Exchange value , in which the value of goods is based on money rather than usefulness.
3. Multinational capitalism , which separates produced goods from the plants, minerals and other original materials and the processes used to create them.
4. Urbanization , which separates humans from the natural world .
5. Language and ideology, in which language is used to obscure rather than reveal reality when used by dominant, politically powerful groups.

A specific analogy that Baudrillard uses is a fable derived from On Exactitude in Science by Jorge Luis Borges . In it, a great Empire created a map that was so detailed it was as large as the Empire itself. The actual map grew and decayed as the Empire itself conquered or lost territory. When the Empire crumbled, all that was left was the map. In Baudrillard's rendition, it is the map that people live in, the simulation of reality, and it is reality that is crumbling away from disuse.

The transition from signs which dissimulate something to signs which dissimulate that there is nothing, marks the decisive turning point. The first implies a theology of truth and secrecy (to which the notion of ideology still belongs). The second inaugurates an age of simulacra and simulation, in which there is no longer any God to recognize his own, nor any last judgement to separate truth from false, the real from its artificial resurrection, since everything is already dead and risen in advance. [3]

Thus, Baudrillard further distinguishes three orders of simulacra associated with three historical periods: first order simulacra belong to the pre-modern era in which images were clearly copies or representations of some original; second order simulacra arise with the industrial revolution, photography and mass reproduction technologies in the nineteenth century - the image obscures (dissimulates) and threatens to displace the real; third order simulacra are part of our postmodern era; the image is said to completely precede and determine the real, such that it is no longer possible to peel away layers of representation to arrive at some original.

It is important to note that when Baudrillard refers to the "precession of simulacra" in Simulacra and Simulations, he is referring to the way simulacra have come to precede the real in the sense mentioned above, rather than to any succession of historical phases of the image. Referring to "On Exactitude in Science ", a fable written by Borges , he argued that just as for contemporary society the simulated copy had superseded the original object, so, too, the map had come to precede the geographic territory (c.f. Map–territory relation ), e.g. the first Gulf War (see below): the image of war preceded real war.

Henceforth, it is the map that precedes the territory - precession of simulacra - it is the map that engenders the territory and if we were to revive the fable today, it would be the territory whose shreds are slowly rotting across the map. [4]

[edit ] Criticism

With such reasoning, he characterised the present age ― following Ludwig Feuerbach and Guy Debord ― as one of "hyperreality " where the real object has been effaced or superseded, by the signs of its existence. Such an assertion ― the one for which he is most criticised ― is typical of his "fatal strategy" of attempting to push his theories of society beyond themselves. Rather than saying, that our hysteria surrounding pedophilia is such that we no longer really understand what childhood is anymore, Baudrillard argued that "the Child no longer exists".[5] Similarly, rather than arguing ― as did Susan Sontag in her book On Photography ― that the notion of reality has been complicated by the profusion of images of it, Baudrillard asserted: "the real no longer exists ". In so saying, he characterised his philosophical challenge as no longer being the Heideggerian /Leibnizian question of: "Why is there something, rather than nothing?", but, instead: "Why is there nothing, rather than something?"[6]


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イラン大統領選:再選を確認 ラフサンジャニ氏、動向焦点 改革派を背後で支援

 【テヘラン春日孝之】イラン大統領選の開票不正疑惑で、護憲評議会が29日、保守強硬派のアフマディネジャド大統領の「再選」を最終確認したことにより、抗議運動を続けてきたムサビ元首相ら改革派は合法的な対抗手段を失った。こうした中、注目されるのは、ムサビ氏を背後で支援してきたとされる体制の重鎮ラフサンジャニ元大統領(74)の動向だ。

 ラフサンジャニ氏は、開票直後に始まった改革派の抗議行動の中で沈黙を守ってきたが、27日、護憲評議会の結論に従うべきだとする立場を表明。再選挙を断固求めるムサビ氏と距離を置いて「事態収拾に乗り出したのでは」との観測も流れた。ムサビ氏は30日、自らのウェブサイト上で護憲評議会の決定に抵抗する姿勢を改めて強調した。

 ラフサンジャニ氏はイスラム革命(79年)の最大の功労者の一人で、国会議長、大統領(89〜97年)を歴任。最高指導者ハメネイ師に次ぐ体制ナンバー2の実力者とみられてきたが、05年の大統領選でアフマディネジャド氏と争って敗れた。体制の強硬派支配に危機感を募らせ、今回の大統領選ではアフマディネジャド氏の再選阻止を目指し、「黒衣」としてムサビ氏を支援したとみられている。

 アフマディネジャド氏は選挙期間中のテレビ討論で「ラフサンジャニ氏一族の金権腐敗」をやり玉に挙げ、ムサビ氏らを背後で「操っている」と指摘。「改革派を含む穏健派勢力つぶし」とみたラフサンジャニ氏はハメネイ師に異例の公開書簡を送り、「手遅れにならないうちに適切な対応を」と求めた。

 一方、ハメネイ師はこれを黙殺したうえ、選挙後の演説で大統領支持を表明し、ラフサンジャニ氏と一線を画す姿勢を明確にした。改革派による一連の抗議行動のさなか、治安当局は同氏の親族5人を一時拘束するなど圧力を強めた。

 だが、ラフサンジャニ氏は現在、最高評議会議長に加え、最高指導者の罷免権を持つ専門家会議の議長でもある。改革派のある評論家は「ラフサンジャニ氏は究極の現実主義者だ。体制の安定を考えて、ひとまず事態の沈静化を図り、強硬派への切り崩し策を模索するのでは」と分析する。

http://mainichi.jp/select/world/news/20090701ddm007030076000c.html

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2009年07月01日 (11:15)

近代化とは何で「あった」のか:近代化と西洋文明:Media Pointと同一性=物質性との連続性

今日・現代、トランス・モダン的転回をしている時代にあって、いったい、近代化とは何であったのか、普遍的であったのかと問いたい。
 プラトニック・シナジー理論は、諸主要概念をもつが、その中で超越性の概念は核心的な一つである。
 端的に言えば、西洋近代化とは、「同一性=物質」主義による超越性の否定であった。社会的には世俗化である。
 この視点から見ると、宗教的世界は胡散臭いものになる。とりわけ、イスラム圏はそうなるだろうし、かつて「国家神道」を奉ずる日本もそうであった。(この問題は宗教学の問題に関係するので複雑であるが、便宜的に単純化して述べることになる。)
 とまれ、超越性の視点に立つと、宗教は胡散臭いというよりは、ヒトにとり必然的なものであり、その発現は重大な問題があるものの、単純に否定できるものではないのである。つまり、宗教は批判的に積極的評価されるべきものであるということである。
 そうなると、近代化とは逆に問題視されることになるのである。それは、普遍的なものであったのか。
 答えはほとんど自明である。近代化とは、近代西洋化のことであり、西洋文明が内包する価値観の帰結であり、その点で限定されたものであるということである。言い換えると、強くキリスト教に限定された文明であるということである。
 先に述べたように、キリスト教とは超越性=物質性という「邪教」性というのか、誤謬・錯誤・倒錯をもった宗教である。それは、超越性を同一性=物質に還元してしまう、還元すると、唯物論に帰結する(これは哲学的にはフォイエルバッハの「哲学」に典型的に表現されている)という特殊な、パラドクシカルな宗教なのである。
 ということで、近代化とは、キリスト教化=唯物論化であったのであり、西洋文明のもつ特殊な宗教に拠るものであったのである。
 結局、近代化とは普遍的ではなかったのであり、キリスト教的な西洋文明の限定=限界をもったものであったのである。
 そして、近代化とは主観的には当然、近代的自我・近代合理主義を生んだのである。そして、これは、唯物論的自我・合理主義ということである。
 そして、正に、この視点から民主主義や自由主義の問題を考えなくてはならないのである。
 少し文化史的に戻ると、実は近代西洋文明は既述したように、ルネサンスとプロテスタンティズムの両面をもつと述べてきた。そして、個の発動とは前者に基づくのである。そして、私は後者は前者を内在させていると述べた。
 重要な点は個とはMedia Pointから発しているのであり、近代西洋文明も、原点はMedia Pointである。しかしながら、キリスト教文明であるために、同一性=物質主義へと傾斜したと考えられる。言い換えると、近代西洋文明とは二重性をもつのである。Media Pointと同一性=物質性の二重性である。これが近代西洋文明の連続性・相対性・「混濁」ないしは混淆を生起させたのであり、その帰結がポスト・モダンの連続性に発現したのである(ただし、後期デリダはポスト・ポスト・モダンである)。
 ということで、近代西洋の重要な政治概念である民主主義や自由主義もこの二重の視点、端的には連続性の視点で批判的評価されなくてはならない。
 そして、近代西洋的民主主義は「同一性=物質」主義的な側面が強いために、宗教的文明、とりわけ、イスラム教文明を否定するのである。もっとも、宗教的である東洋文明一般に対してもそうであり、また、それ以外のアフリカや中南米や太平洋諸島の宗教的文明に対してもそうである。いわゆる、オリエンタリズムである。
 しかしながら、トランス・モダンの視点では、上記したように、宗教は批判的に積極評価されるべきものである。即ち、超越性の表現に対する批判的積極評価である。
 超越性の視点から見ると、「同一性=物質」主義=唯物論とは、まったき打破されるべき錯誤、誤謬ないしはイデオロギーである。いわば、幻想、妄念、倒錯である。
 だから、近代西洋民主主義の視点から単純にイスラム教文明の「反民主主義」性を否定するわけにはいかないのである。
 近代西洋民主主義は先ず、「自己批判」が必要である。自身の同一性=物質性の視点を批判し、乗り越える必要があるのである。すなわち、トランス・モダン的な民主主義の視点に立って、イスラム教文明と差異共振的に対話すべきなのである。
 さて、近代西洋文明と言ったが、オバマ大統領を生んだ米国と西欧では質的な違いの存在を考えさせる。
 私はオバマ大統領の政治・政策哲学は差異共振主義、トランス・モダンであると説いている。つまり、脱近代西洋文明、トランス近代西洋文明路線である。これはどうして生じたのか。
 以前、オバマ大統領の民族的社会的背景から差異共振主義を説明したが、ここでは、上記の西洋近代主義の二重ないしは連続性の視点から述べよう。
 結局のところ、西洋近代文明には、Media Pointが強く発動しているのであるが、キリスト教的傾斜のために、「同一性=物質」主義化したのである。
 しかし、米国と西欧の質的相違がある。キリスト教文明とは言え、米国の「国教」はピューリタニズム(清教徒主義)である。これは、実は、ユダヤ教的発想が強いのである。つまり、神の国を構築という「ユートピア」思想をもっているのである。
 確かに、イエスも神の国を説いたが、それは、内面的な側面が強い。しかし、ピューリタニズムは、社会的な神の国の建設を目指しているのである。
 そういう「プログラム」・「プロジェクト」をもった国として建国されたのが米国なのである。つまり、近代西洋文明でありながら、それとは異質な宗教性、即ち、超越性を色濃くもった反近代主義的国家なのである。
 そして、この超越性の側面を、私見では、オバマ大統領や彼を大統領に選出した米国民はもっているのである。そして、超越性と民主主義が結合・融合して、差異共振主義、トランス・モダン政治哲学が生まれたと考えられるのである。
 ということで、我が日本の衰退・退化・退行した現況を見ると、正に、亡国状況・事態である。世界は今やトランス・モダン的転回=「進化」を実現しつつあるのに対し、悪夢のように時代遅れの西洋近代文明の発想に取り憑かれているのである。
 根本的に、三島由紀夫が表現・体現したように、戦前と戦後の文化的切断にある。何度も既述したが、国家神道が否定されたとき、超越性までも、宗教的伝統までも否定・排除されたのである。三島由紀夫は「文化防衛論」で天皇の人間化を慨嘆したが、それは正確には、文化的切断を説いていると考えられる。また、切断は「断絃のとき」として表現されている。そして、戦後、天才的な折口信夫の新神道論が提唱されたが、戦後近代化において無視されたのである。
 結局、戦後日本は、Media Point、超越性を喪失した(一面では、つまり、戦後の占領政策によって喪失させられた、牙を抜かれたのである)のである。
 戦後、いわゆるアメリカ的合理主義が中心化された。しかしながら、それは、米国文化の一面に過ぎない。米国は「ピューリタニズム」の国である。超越性文化をもつ国なのである。
 とまれ、戦後の、いわば、ハイパーな近代化=唯物論化によって、日本文化は悪神の巣窟になったのである。そして、その帰結が今日の自民党官僚独裁主義の日本である。
 思うに、小泉構造改革が何であったのか、明確に整理しないと日本は立ち直れないだろう。
 構造改革の必要があるのは、今でも事実である。即ち、戦後の官僚主導・公共投資型超負債財政という構造の改革の必要である。しかるに、それを目指すはずであった小泉構造改革はまったく「二重人格」的に、裏では、官僚と結びついていて、国民生活の破壊に帰結したのである。このアイロニーの力学は何か。 
 Kaisetsu氏の瞠目する視点は小泉氏は構造主義者であるということであるが、それは、卓見であるが、ここでは私なりに考察を行いたい。
 私は最初から小泉元首相を胡散臭く見ていた。つまり、ペテン師と見ていたが、その思想的内容については深くは考えなかった。思うに、戦後の官僚主導公共投資/ケインズ型経済や国営事業に対して否と言った政治家として、小泉氏は、歴史に残る可能性が高い。
 私の作業仮説は、小泉元首相は、Media Pointからの同一性志向性を強くもっていた人物であるということである。だから、他者を徹底的に否定し排除するのである。典型的な二項対立性がある。だから、「構造改革」に反対する人物を潰したのである(「刺客」路線)。(もっとも、このことは、当時考えたことである。)
 官僚主導公共投資や国営事業は悪であるから、それは否定・排除するのである。つまり、民営化こそ善であるということである。
 小泉元首相の意識では、民営・善と官僚/国営・悪の二項対立図式が完全化していたと考えられる。中間はないのである。しかしながら、ここには、民営・善という同一性があるのであり、これが、いわば、差異・他者の官僚/国営を否定・排除したのである。(思うに、この二項対立は、意外に、橋下知事の発想と共通しよう。)
 しかし、問題は、官僚主導性を打破するには、差異・他者こそ肯定されるべきなのである。端的に言えば、絶対的差異、絶対的他者である。
 小泉元首相は「構造改革」という同一性に奉じて、本来の目的である絶対的差異・絶対的他者を否定・排除したのである。つまり、本来の国民の視点がここで消えているのである。「構造改革」という同一性主義によって、官僚と裏で結託することは問題ではなくなったのである。同一性主義が、自身を肯定したのであり、自身は善となったのであり、自身の欲望が肯定されて、官僚と結託したと考えられる。
 このMedia Pointから発し、反転した同一性主義こそ、Kaisetsu氏の説く小泉元首相の構造主義に一致するだろう。単なる、同一性=唯物論ではなく、超越性をもった同一性主義なのである。だから、超越的同一性主義である。だから、ヤハウェ/キリスト教に類似しているのである。また、ハイデガーに似ているのである。
 だから、ポスト/アンチ小泉構造改革路線とは、脱構造主義・「脱構築主義」、即ち、トランス・モダンでなくてはないのである。ポスト・モダンでは、元の木阿弥であり、それは、日本の軽薄な知識人に見られる事態である。何故なら、ポスト・モダンはモダンと連続的であるからである。
 とまれ、以上のように見ると、小泉元首相とは近代主義者であり、官僚や自民党は、私が呼ぶ封建的近代主義者である。この点でも日本のトランス・モダン的転回が必要なのである。即ち、トランス・モダン「平成維新」が必要なのである。
 最後に補足として、グローバリゼーション、ネオコン、新自由主義とは何であったか簡単に見てみよう。
 これは、超越的同一性主義的金融資本経済を意味していたと言えよう。ヤハウェ/キリスト的金融資本経済である。あるいは、構造主義的金融資本経済である。
 結局、これが、リーマン・ショックで大崩壊したのであり、トランス・モダン資本政治経済が発動する起点になったと考えられる。
 少し付け足すと、では、この視点では、ポスト・モダンとは何であったのか。ポスト・モダン哲学は差異・差延を問題にしたが、それは経済的には何であったのか。とまれ、ポスト・モダンは構造主義を「脱構築」するものであった。二項対立の「脱構築」である。しかしながら、後期デリダを除いて、それは、第3項としての「差異」を提示したのであるが、その第3項=「差異」ないしは「差延」は、同一性と連続的なものであったのである。つまり、ポスト・モダンは、差異の視点を中心化した点では功績があったものの、それは、連続的・相対的差異に過ぎず、実質は構造主義を乗り越えられなかったのである。
 この連続的差異である第3項の経済とは何であったのか。思うに、消費型経済ではないだろうか。「差異」としての商品の消費の経済ではないだろうか。直感では、ボードリアールのシミュラークルの経済ではないだろうか。連続的な第3項としてのシミュラークルの経済、言い換えると、大量消費経済ではなかったか。

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イラン大統領選:再選を確認 ラフサンジャニ氏、動向焦点 改革派を背後で支援

 【テヘラン春日孝之】イラン大統領選の開票不正疑惑で、護憲評議会が29日、保守強硬派のアフマディネジャド大統領の「再選」を最終確認したことにより、抗議運動を続けてきたムサビ元首相ら改革派は合法的な対抗手段を失った。こうした中、注目されるのは、ムサビ氏を背後で支援してきたとされる体制の重鎮ラフサンジャニ元大統領(74)の動向だ。

 ラフサンジャニ氏は、開票直後に始まった改革派の抗議行動の中で沈黙を守ってきたが、27日、護憲評議会の結論に従うべきだとする立場を表明。再選挙を断固求めるムサビ氏と距離を置いて「事態収拾に乗り出したのでは」との観測も流れた。ムサビ氏は30日、自らのウェブサイト上で護憲評議会の決定に抵抗する姿勢を改めて強調した。

 ラフサンジャニ氏はイスラム革命(79年)の最大の功労者の一人で、国会議長、大統領(89〜97年)を歴任。最高指導者ハメネイ師に次ぐ体制ナンバー2の実力者とみられてきたが、05年の大統領選でアフマディネジャド氏と争って敗れた。体制の強硬派支配に危機感を募らせ、今回の大統領選ではアフマディネジャド氏の再選阻止を目指し、「黒衣」としてムサビ氏を支援したとみられている。

 アフマディネジャド氏は選挙期間中のテレビ討論で「ラフサンジャニ氏一族の金権腐敗」をやり玉に挙げ、ムサビ氏らを背後で「操っている」と指摘。「改革派を含む穏健派勢力つぶし」とみたラフサンジャニ氏はハメネイ師に異例の公開書簡を送り、「手遅れにならないうちに適切な対応を」と求めた。

 一方、ハメネイ師はこれを黙殺したうえ、選挙後の演説で大統領支持を表明し、ラフサンジャニ氏と一線を画す姿勢を明確にした。改革派による一連の抗議行動のさなか、治安当局は同氏の親族5人を一時拘束するなど圧力を強めた。

 だが、ラフサンジャニ氏は現在、最高評議会議長に加え、最高指導者の罷免権を持つ専門家会議の議長でもある。改革派のある評論家は「ラフサンジャニ氏は究極の現実主義者だ。体制の安定を考えて、ひとまず事態の沈静化を図り、強硬派への切り崩し策を模索するのでは」と分析する。

http://mainichi.jp/select/world/news/20090701ddm007030076000c.html

2009年06月28日 (23:05)

イデアとは具体的観念・現実的観念である:イデアは現象を生む:物質こそ抽象である

イデアと言うと、なにか非現実な、あるいは、形而上学的な理念・観念と思われるだろう。
 しかし、PS理論におけるイデアはまったく異なる。イデアは実に現実的である。現実の本質・本体・実質と言える。
 イデアこそ、現実の核心であると言えるのである。そう、イデアは現象を生む。これは実に驚異的にすばらしい。奇跡的でもある。いわば、自然の天才性である。
 近代においては、現象と物質が混同されているので、人間の認識・知覚は盲目になっているのである。小泉元首相等のいんちき政治家に騙されるのも、イデア ⇒現象と物質との区別がついていないからである。そう、イデアはエネルギーである。あるいは、デュナミス/エネルゲイアである。そして、物質はエンテレケイアである。
 アリストテレス哲学には現象に当たる用語がないようである。おそらく、エネルゲイアに含まれるかもしれない。

追記:あるいは、エンテレケイアを現象とするべきかもしれない。この点は後で検討したい。

2009年06月28日 (22:43)

プラトニック・シナジー理論の普及

以下、PS理論でGoogleで検索したらでてきたブログ記事であり、PS理論を実に的確にまた敷延して説明している。見事に正鵠を射ている。
 「混沌とした空っぽの器」という命名もすばらしい。量子論とプラトン哲学を結合したような言辞である。思うに、「カオスとしての空っぽの器」でもいいだろう。また、共振と反共振という考えも興味深い。
 
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[296] 混沌としての空っぽの器(1)
From: 生成門
イメージ

混沌としての空っぽの器(1)
<補完共振>

四次元能では、様々なナビゲーターとシムダンスをしています。ここで紹介するのは、rensi氏が主催するプラトニックシナジー(PS)理論です。

四次元能全体の文脈で、イデアと現象が交差する複素平面、自己認識の方程式{i*(-i)⇒1}、空(メディアポイント)が出てきたら、PS理論からの受売りです。ただし、独自の解釈をしていますので、忠実な受け売りかどうかは怪しいかもしれません。詳しくはPSのHPを参照してください。
http://ameblo.jp/renshi/
このHPの最初に、「ポスト・モダン理論を乗り越えるトランス・モダン理論として、プラトニック・シナジー理論を深化させています。非常にシンプルですが、多様な領域に適用可能だと考えています。」というイントロがあります。四次元能は、その適用を臨床的に実験していると思ってください。

その中でも、PS理論の中核はなんといってもイデアと現象が交差するメディアポイントでしょう。ここをしっかりと抑えておかないとせっかくのすばらしい理論も応用の段階で、とんだ間違いを犯してしまうでしょう。先端の物理理論を学んで、平和利用と称して原子爆弾を作ってしまうようなことなりかねません。

今回は、その真髄に触れてみたいと思います。ただし、そのまま紹介しても、ちんぷんかんぷんなので、独自の解釈をしていきます。ですから、タイトルも「メディア・ポイント」ではなく「混沌としての空っぽの器」です。詳しくは「英知の探求」を参照してください。
http://antares111.exblog.jp/5772459/

以下、編集引用しました。

http://www.c-player.com/ad00178/message/20090613?format=time

混沌としての空っぽの器(2) (0)
混沌としての空っぽの器(3) (0)

次も興味深い。

発言正4面体イデアはまるで生き物(2) (0)
発言正4面体イデアはまるで生き物(1) (0)
シムダンス「四次元能」
(サークルID:ad00178@circle)

2009年06月26日 (21:43)

精神と身体:ヒトとサル:精神的身体と物質的身体

進化論の問題は、精神的身体ではなく、物質的身体中心である点である。精神的身体から見ると、ヒトとサルとは不連続である。何らかの「精神の侵入」という変異があったと考えられる。
 今はざっと言うだけだが、精神的身体の形成があるのである。それは、⇒+1である。しかるに、物質的身体は、+1である。おおざっぱにいうと、気的身体がヒトの根源的身体である。
 しかし、知的身体もなくはならない。これは、自己的身体ではないだろうか。また、差異的身体と言えよう。つまり、知的・自己的・差異的身体である。そして、これは、差異共振・即非的身体であり、また、言語的身体である。
 結局、精神的身体と物質的身体の絶対的区別が必要であるということである。
 これを貨幣論に適用すると、精神的身体としての貨幣と物質的身体の貨幣があるということになる。あるは、差異的身体貨幣と同一性的身体貨幣である。
 デジタル・マネーは当然、後者である。トランス・モダン貨幣とは、前者である。それは、精神性をもった貨幣である。Kaisetsu氏が提唱される銀本位制はそのようなものである。
 
ヒトとサルの共通の祖先?=4700万年前の化石「アイダ」−NY

 【ニューヨーク19日時事】ノルウェーの研究者率いるグループは19日、米ニューヨークのアメリカ自然史博物館で、4700万年前の霊長類のほぼ完全な化石「アイダ」を公開した。同グループはアイダについて、ヒトやサルの共通の祖先に非常に近いとみており、進化の過程解明に大きな役割を果たすと強調している。
 米メディアによれば、アイダはキツネザルのような姿をした生後約9カ月のメスで、体長は約90センチ。指先のつめはヒトに近い特徴を備えているという。草食性で、水を飲んでいる際にガス中毒により意識を失って湖底に沈み、化石化したとみられている。(2009/05/20-10:22)

http://www.jiji.com/jc/zc?k=200905/2009052000252&rel=j&g=afp

2009年06月24日 (22:13)

諸検討問題:後で考察を行いたい。

1)同一性狂気:人間の脳と身体

2)光と現象と物質

3)物質主義的都市の終焉と自然的都市の勃興:物質的空間は不快である。コンクリートの建物が林立するのは、ストレスをもたらす。閉塞感情をもたらす。

4)キリスト教はカルトである。キリスト教が近代主義を生んだ。

5)気の文化の復興へ:気は差異共振エネルギーである。

6)Media Point教育へ向けて

7)東洋文化は本来Media Point文化であるが、父権文化の影響で、同一性主義へと傾斜した。西洋文化は、確かに、Media Pointがあるが、それが、キリスト教の影響で、徹底的に同一性主義に傾斜しているのである。

8)精神界について:西洋では近代以前までは、日本では、戦前までは、精神界が意識にあったと言える。しかし、西洋においては、コペルニクスの発見によって、日本では戦後、「天」が否定される。そして、その後、近代合理主義・近代的自我・唯物論が中心化される。
 精神界ではなく、物質界や自我が主導的になるのである。否、精神界が否定されたのである。この結果、精神は否定・抑圧・排除されて、自我中心主義になり、相克するようになったと考えられる。万人に対する万人の戦争。
 トランス・モダンとは、精神界の復興・復活でもある。例えば、「気」とは、精神界に属するものである。後でさらに展開したい。

9)自由について:愚樵氏が既に自由と自在について明快に説明されている。私なりに、「自由」感の発動について考察したい。自由と我が侭(自我中心主義)が混同されることの力学を考えたい。

10)ニーチェのディオニュソスとアポロについて:これは、2)の問題と関係する。思うに、ニーチェが考えていたのは、ディオニュソスとは超越性であり、アポロとは同一性である。しかしながら、ディオニュソスがアポロを生むという表現もあるのである。それは、PS理論から見ると、即非性である。つまり、 Media Pointにおいて、ディオニュソスとアポロが「一体」つまり、即非様相になるのである。差異共振化である。
 このとき、アポロは同一性ではなく、差異共振現象における現象である。あるいは、光の現象である。例えば、黎明に耀く山頂はアポロ的である。あるいは、秋における夕焼けの西空もアポロ的である。
 思うに、光の「極限」として同一性・物質形式があるのだろう。この同一性・物質形式を光の現象の下に、実体であると人間は一般に錯誤するのである。後でさらに述べたい。
 

追記:国家神道とは、人間が神になる思想(キリスト教)を背景にしていると思う。神になる思想(テオーシス)は、東方キリスト教の教義にある。
 しかし、これは、危険な思想ではないだろうか。神にはなれないだろう。死んだら神になれると思うが(成仏)。
 どうも、キリスト教は、神人一体の思想があり、シャーマニズムとは明確に異なる。後者は、神懸かりの宗教であり、神になることではない。
 もし古代ギリシア人から見たら、神になる思想とはとんでもない邪教と考えただろう。超越性と物質性を一致させているのであるから。永遠と一時性を混同しているからである。端的に、神と人とは不連続である。

2009年06月23日 (03:58)

■ 13兆円国債事件、逮捕された当人は、財務省職員であることを認めた!

■ 13兆円国債事件、逮捕された当人は、財務省職員であることを認めた! イタリア政府は罰金として5兆2千億円を支払わせるために、一切の交渉を拒否している。

 【連山引用: 日本の財務省の職員がスーツケースに入った1340 億ドルの米国債券を密輸しようとしてイタリアで逮捕された。二人の日本人男性がスーツケースに隠した1340億円のアメリカの財務省長期証券をイタリアの外、スイスへ密輸しようとしていてイタリアの警察によって逮捕されたのは、日本の財務省の職員です。


東海アマ氏
 ターナー無線ネットワークは、密かに前もって日本国によって持たれていた債券をダンピングしようとしてイタリアによって逮捕された二人の日本人男性を確認しました。逮捕された男達はイタリア警察に彼らは日本政府に債券を動かすように命令された、なぜなら日本政府はアメリカがその借金を返済する能力への信頼を失っているからだと言いました。
アメリカドルの信憑性に対する日本の「全くゆるがない」信頼についての日本の与謝野馨蔵相からの保証にもかかわらず、それは現在、1340億ドルが日本によって公式に持たれる米国の負債の6860億ドルの一部である債券のシリアル番号に基づいて確かめられます。
イタリアの法律実施によると、当局は当初、男達が「ヤクザ」(イタリアのマフィアに類似した日本組織暴力団)の一部であると思いました、そしてそれは、役人を債券の偽造を信じるように導きました、しかし、逮捕された男が2、3日以上の間刑務所に残ることを強制されたあと、彼らは彼らのカバーストーリーを捨てて、日本の財務省の従業員であることを認めました。
不思議なことに、極めて少ない大手メディア放送局が、この物語をカバーしました。それをカバーした少ないメディア放送局のひとつ- ブルームバーグビジネスニュース - 債券が「偽物」であったことを報告します。しかし、イタリア当局によると、それは他の国によって米国の財務の狼狽売りを避けるために米国政府によって開発されるカバーストーリーです。
ローマの法執行機関の情報源は、イタリア政府が発作が押収で有頂天であると主張します、なぜならイタリアの法律では密輸債券の40%を彼らが得るからです。日米両政府は債券の復帰のためにイタリアと交渉しようとしています、しかし、関係するお金の驚くべき総額のため、イタリアはでどんな交渉も全て拒否しています。
ターナー無線ネットワークは、それらが本物である証明として債券からシリアル番号を受け取ることを期待すると言いました。さらに私たちの情報源は同様にそれらの債券のいくらかの調べられた画像を得ることができると主張します。もし私たちがそのような画像や情報を与えられるのならば私たちはそれらを公的に報告します。
この状況の結果は恐ろしいです:アメリカ合衆国の同盟国は、密かに米国政府負債を処分しようとするのを見つけられました。これは世界中が今返済能力に対する信頼を失ったので米国政府が経済崩壊に率いられる紛れもない証拠です。
債券の134億ドルがイタリア警察によって妨害されたという事実は、ブルームバーグビジネスニュース(ここ)によって、2日前確かめられました。逮捕された男が日本財務省の従業員であったという今日の意外な事実は、TRNによって、世界中で突然で劇的な反応を引き起こす大きな進展です。

● これまで得られた未確認情報によれば、日本政府が今回と同じ手口で米国債を換金しようとしたのは数回目とのこと。携帯電話をCIAが盗聴し、すでにマークを受けていた。
 額面の1割程度で割り引いて現金化しないと、日本政府には手持ち現金がなく、7月以降の公務員給与を支払う力もない。これをアメリカ政府が察知して。イタリア政府に通告し、5兆2千億円を没収させるという顛末だったようだ。

東海アマチュア無線  地震予知研究会
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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