2007年01月22日 (21:43)

中沢新一の映画的理論とプラトニック・シナジー理論の比較:形態の発生に関する思考実験

昨日の夢は、いわば、予知夢であった。今朝は危ないところであった。動悸がして、胸が締めつけられ、心臓辺りが痛むようになった。これは、まずいと思った。心筋梗塞か何かだと思った。病院に行き、検査してもらうが、循環器系の専門医がいないというので、救急車で、隣の市の循環器専門の病院に行き、治療した。結果は、安心したことに、不整脈であった。血液検査から、心筋梗塞の時に生じる細胞の破壊はないということであった。餅は餅屋である。まぁ、日本の救急医療体制のシステムには、感心した(いろいろ、不祥事が起きてはいるが、すばらしい。職人的である。)
 とまれ、発作性上室性不整脈(発作性上室性頻拍)ということであった。【発作性上室性頻拍(PSVT:Paroxysmal supraventricular tachycardia)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8D%E6%95%B4%E8%84%88
】http://mmh.banyu.co.jp/mmhe2j/sec03/ch027/ch027d.html
予知夢であることを言うと、見知らぬ車は、救急車であり、ノートパソコンは、私であり、そして、賠償額を払えないというのは、最初、保険証がないと思い、自費で支払うことになったが、それだと、所持金が足りなかったのである。ただし、予知夢と異なるところは、保険証があったので、比較的少額の医療費で済んだことである。
 以上は枕であるが、以下の『不連続な読書日記』で説かれている中沢新一の映画的理論は、プラトニック・シナジー理論と似ている部分があるので、少し検討したい。もっとも、中沢新一の宗教論は、霊的唯物論である。つまり、プラトニック・シナジー理論で言うと、-(-i)*(-i)⇒−1の理論である。心的主体性を否定して、身体的他者中心主義(霊的唯物論)を説いていると考えられるのである。
 先ず、映画的理論の第一の要素の「第一に、フィルムに喩えられるヒトの心。そこには、表現へと向かうヒトの心の深部の構造(記号を生み出そうとする意志のプログラム)がデータとして刻まれている。」の箇所であるが、これは、プラトニック・シナジー理論で言えば、心的主体性iに相当するだろう。第二の要素の「第二に、このフィルムに記録されたデータを背後から強力に照らし出す光源(ヒトの知性のおおもとをなす流動的知性)。」であるが、これは、志向性であろう。心的主体性の志向性であろう。→である。つまり、i→(-i)の→である。第三の要素の「第三に、この光によって心の過程が濃淡変化の像(イメージ)として投影される外部のスクリーン。」であるが、これは、身体的他者性-iである。
 以上から、中沢新一の映画的理論は、プラトニック・シナジー理論の構成と共通していると言えよう。
 次に、イメージの三つのタイプについて見てみよう。
第一のタイプ:「第一に、現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群。それらは内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子 のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわる。映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが欠けている。」この点は、私が昨日夢について考察したことに共通するだろう。この「現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群」とは、プラトニック・シナジー理論では、即非様相・事象・事相と考える。これは、イデア・メディア界的事象であり、ここには、現象/物質界的なイメージはないのである。内在超越的な次元であり、不可視であり、「無」である。思うに、この点で、中沢氏の映画的理論とプラトニック・シナジー理論は、根本的に踵を分かつと言えよう。つまり、即非事相ないし差異共振シナジー事象は、前物質的な様相なのである。
 第二のタイプ:「第二に、動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群である。それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージは洞窟の壁画をスクリーンとして映写される。」この第二のイメージ群は興味深い。これは、プラトニック・シナジー理論では、正に、垂直から水平への展開(回転)を意味するのであり、中沢・映画的理論と共通である。ただし、中沢氏が垂直を虚軸、水平を実軸として捉えているかはわからない。とまれ、この第二のイメージ群とは、連続的同一性に相当すると言えよう。ここは、具象の問題である。心的主体性と身体的他者性とが結合するのであるが、この連続的同一性のイメージの問題は、まだ、明確にしていないので、中沢・映画的理論は参考になる。中沢氏は、精神と物質との接触において、具象イメージの発生を考えているが、プラトニック・シナジー理論はそのようには考えない(思うに、中沢氏の理論は矛盾しているのではないだろうか。根源的領域が唯物論的であり、かつ、現象領域が物質的である、というのは、矛盾だと思う。論理的に破綻していよう。)。即非様相が連続的同一性(連一性)/水平化して、現象・物質が発生すると考えるのである。予め、物質があるのではないのである。物質は仮象なのである。プラトニック・シナジー理論では、心的主体性iと身体的他者性-iとの接触において、現象・物質の形成を考えるが、このイメージ発生の論理・力学をどう説明するかが未だに未解決の問題である。ただ、連続的同一性という形式・形態をそこに見出しているに過ぎない。(そう、以前、この問題については、差異の数を考え、それが、円環して、内在的な正多角形を形成すると仮定したことがある。例えば、差異が三つあれば、正三角形を形成し、五つあれば、正五角形を形成すると考えた。)おそらく、この問題が、現時点でのプラトニック・シナジー理論のアポリア(難問)であろう。例えば、どうして、木は、木のイメージをもつのか、山は山の。思考実験的に私の経験から考えよう。ずいぶん、以前に述べたことがあるが、晩秋の秘境を旅していて、そのとき、窓外の山を見て、いかにも、 △に見えて感動したのである。山は、山だから、山なのだ、というような理屈にならない感想をもったのである。そのときの感想を論理的言葉にすれば、ロゴスないしイデアとしての山=△であり、それが、窓外に見る山として顕現しているというようなことではなかったかと思う。少しハイデガー的であるが。
 私は何を言いたいのだろうか。やはり、イデア論である。形相としてのイデアがあり、それが現象化しているというようなことである。では、形相=イデアは、どこにあるのかと言えば、それは、意外に、即非事象に発生しているのではないのかと想定するのである。中沢氏は根源的領域を闇の領域としているが、即非領域とすれば、そこには、差異と差異の無碍の様相が発生するように思えるのである。そう、多様性と言ってもいいだろう。そう、プラトンのコーラに相当すると思う。形態形成発生領域である。問題は、この多様性領域をどう力学化するのかである。この問題は保留したい。
 次に、第三の要素:「第三に、垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」とメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動によって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。」についてであるが、これは平明であろう。単純な水平化である。水平的連続化である。これは、小説・物語的連続性と言えよう。あるいは、時間的連続性と言えよう。では、保留の問題に立ち返り、検討しよう。
 先の考えでは、イデア・メディア領域・即非領域において、形相・原型・イデアがあるのである。ここでは、具体的に、螺旋のモデルを考えよう。これは、様々な現象に見ることができる。巻貝、渦巻星雲、弦巻植物、等々。これは、イデア・メディア平面(ガウス平面)における回転と垂直の捩れを考えれば、説明できるように思う。+の虚軸Y軸と−の虚軸・Y軸の回転を考えると、それが−1や+1となる。そして、垂直、Z軸へと螺旋を描くのではないだろうか。そう、Z軸が時間軸とすれば、Z軸方向へと螺旋形状が発生するのではないのか。つまり、イデア・メディア平面・ガウス平面での回転が、垂直に捩れて、螺旋形状を発生させるという作業仮説である。(細かい齟齬は無視しておく。思うに、Z軸が前後方向ではないだろうか。X軸が左右方向で、Y軸が上下方向である。)
 しかし、そのように考えると、即非次元には、イメージはないことになるだろう。それは、やはり、連続的同一性化において発生することになろう。それはいいとしよう。
 では、正多角形はどうやって発生するのか。ここで思考実験で、回転円において、複数の差異が存するとしよう。差異の等価性という仮説を立てると、円上の複数の差異が正多角形の頂点を形成するだろう。三つの差異の場合が正三角形であり、四つが正方形であり、五つが正五角形であり、等々。(ここで、角運動の問題があるだろう。)とまれ、このように回転円上の等分割の複数の差異を仮定すると、正多角形の形態が生じると言えよう。これらを螺旋形状に乗せると、花弁等の形状が考えられるだろう。
 今はここで留めたい。


資料:
2007-01-20 映画としての宗教

 『群像』1月号に掲載された「映画としての宗教 第一回 映画と一神教」で、中沢新一は、フォイエルバッハの唯物論的宗教論や旧石器時代 の洞窟壁画のイメージ群を素材にして、「あらゆる宗教現象の土台をなしている人類の心の構造というものが、今日私たちが楽しんでいる映画というものをつくりあげている構造と、そっくりだという事実」──「映画は発明される以前から、すでに存在していて、ヒトの心にとって重大な働きをしてきた」「映画が発明される数万年も前に、人類は映画的構造をつうじて、自分の本質をなしている心の本質をのぞき込もうとする実践を始めた」というヒトの心の本質とイメージの運動と宗教の発生に関する考古学的事実──について語っている。以下、手短に要約してみる。

 イメージの興亡もしくはイメージの運動とその構造としての宗教をめぐる「映画的理論」は、次の三つの要素からなる。第一に、フィルムに喩えられるヒトの心。そこには、表現へと向かうヒトの心の深部の構造(記号を生み出そうとする意志のプログラム)がデータとして刻まれている。第二に、このフィルムに記録されたデータを背後から強力に照らし出す光源(ヒトの知性のおおもとをなす流動的知性)。第三に、この光によって心の過程が濃淡変化の像(イメージ)として投影される外部のスクリーン。

 また、イメージには次の三つのタイプがある。第一に、現実世界に対象物をもたない抽象的イメージ。もしくは非物体的かつ唯物論的な直接的イメージ群。それらは内部光学[entoptic]と呼ばれる現象(「無から無へ」向かうイメージの氾濫、素粒子 のようにはかない精霊たちの立ち現われ)がヒトの心の内側に開く超越的領域にかかわる。映画の構造として見ると、このレベルのイメージ群は底なしの暗闇に向かって映写される。そこにはスクリーンにあたるものが欠けている。

  第二に、動物やヒトを具体的に描いた具象的イメージ群。ヒトの認知能力を超えた領域に触れている第一イメージ群の「おそるべき力」(ヌーメン)が現実の物質的世界との境界面に触れたときに意味が発生する、その(「無から有へ」向かう)垂直的な運動の過程を保存しようとしているのがこの第二イメージ群である。それは同時に記号的世界の発生をも意味している。これらのイメージは洞窟の壁画をスクリーンとして映写される。

 第三に、垂直的な意味発生のプロセスによってあらわれてきた具象的イメージを(「有から有へ」とメタモルフォーシスをくり返す横滑りの運動によって)水平的に結合し、物語(神話やイデオロギー)を通じてこれを統御するイメージ群。こうして第二群のイメージを組織的に組み合わせた「娯楽映画」が発生する。身体(三次元の動くスクリーン)が演じる儀礼が発生する。

 これら旧石器の洞窟壁画に現われたイメージ群、とりわけ第二群(記号性)と第三群(幻想性)の層に属するイメージに基づいて、新石器の都市世界を中心に豊かな多神教 (物質性をまとったイメージ=偶像としての神々)の世界が造形されていく。

 物質イメージの魔力(そして偶像としての神々と結託した王権・帝国、すなわち幻想としての国家の呪縛)からの脱出(エクソダス )をはかったのがモーセ の革命である。すなわち非イメージ的なことばの象徴力に基づく一神教(モノティスム)の宗教思想であった。しかしイメージの魔力の上に立つ「メタ・イメージ」の方向に抜け出ようとした一神教は、かえって宗教を巨大な映画館にしてしまい、自らのまわりに物質的な力を呼び集めてしまった(ハリウッド映画はそのカリカチュア)。

 イメージの魔力からのエクソダスには、これとは違う二つの道がある。その一は、イメージの第二群・第三群(観念的イメージ群)の働きを否定し、イメージ作用の第一群(差異の運動がくりひろげられている裸の現実世界、唯物論的イメージ群)の方に向かう唯物論。その二は、ブッダの道。人間の本質である「心」、その「心」の本体である流動的知性の無限の働きにたどりつくこと。身体を使い第一群のイメージの深い淵に踏み込んでいく実践を通して、流動的知性に直接触れていくこと。(要約終わり)


(注:RENSHIが色分けした。)

http://d.hatena.ne.jp/orion-n/20070120
不連続な読書日記
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2006年06月10日 (15:56)

メディア界《コスモス》の幾何学とは何か

以下は、「検討問題:新しい螺旋的回帰の意味:新しい主客合一・一体化の意味:コギトとポスト・コギトの関係」の第四の項を独立させたものです。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10013453062.html

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4)メディア界《コスモス》の幾何学とは何か

(思うに、簡単に言えば、多様体である。あるいは、フラクタルな宇宙であろう。ここでは、知と存在、ないし、心と身体が両極的に共振結合しているだろう。
 この両極共振結合とは、原生命を意味するだろう。また、当然ながら、森羅万象の母型(マトリックス)である。ついでに言えば、質料とは、ここ、メディア界を指しているだろう。そして、これは、アリストテレスのデュナミスである。そして、プラトンのコーラである。そして、同時に、アリストテレスのエネルゲイアである。
 これまで、デュナミスをイデア界に置いていたが、微妙なところである。デュナミス⇒エネルゲイアであるが、デュナミス「即非」エネルゲイアとすることができる。こういうことだろう。メディア界において、差異と差異とが共振する。それは、ノエシス(知性)がノエマ(感覚・身体)の交信を介して、他のノエシス(知性)と連結するということである。この差異共振は、多様な可能態であり、同時に、現実態(エネルギー態)である。即ち、可能態(デュナミス)「即」現実態(エネルゲイア)である。
 こう考えると、デュナミスは、イデア界に置かない方がいいように思える。しかし、潜在性を言うならば、デュナミスは、イデア界に置いた方がいいだろう。すると、問題は、可能態と潜在態をどう考えるのかということである。アリストテレスは、質料と形相との結合で、個物が形成されると考えたのである。しかし、メディア界においては、質料は、ノエマ的共振「身体」性と考えることができるし、また、形相は、ノエマ的共振的原形態で説明できるだろう。だから、アリストテレスは、プラトンを補完したに過ぎないように思えるのである。
 そうならば、可能態はメディア界の半面のノエマ的身体(ノエマ的質料)であり、潜在態をイデア界と区別するのが適切のように思える。結局、私のデュナミス/エネルゲイア/エンテレケイアという三層論を訂正して、

イデア潜在性/メディア界(デュナミス・エネルゲイア)/現象界(エンテレケイア)

となる。
 さて、ここで、Kaisetsu氏のラディカルなイデア界のイデア不在論に少し言及すると、方向性とは、不連続的差異の《力》(=虚力?)のことと考えられる。これは、前メディア界の領域であり、まだ、まったくの無形と考えられる。「絶対無」とも言えるだろう。ここで、想起するのは、ハーマン・メルヴィルの『白鯨』で、エイハブ船長が白鯨を探求している最中に、存在の究極を知りたいと言い、そして、結局、段ボールのように、向う側には何もないかもしれないが、それでも、いいと言っていることである。段ボールをメディア界とすれば、メディア界の彼岸に何もないというのは、イデアの不在に通じるように思えるのである。これは、ニーチェでは、力の意志であり、ヌース理論では、NOOS・NOSA&NOOS*・NOSA*であろう。これは、おそらく、潜在イデアと呼べるだろう。あるいは、前イデアである。
 さらに問題は、これは、何を意味するのかということである。私はだいぶ以前に、イデア界史というようなことを言った。イデア/メディア界的螺旋的「歴史」=進化史のことである。第一の1/4回転、第二の1/4回転、第三のそれ、・・・はそれぞれ、異なる進化的意味があると思えるのである。ニーチェ流に言えば、生成の無垢であるが、この無垢は、進展的無垢だと思うのである。第一の1/4回転で、ゼロ度共振が発生する。これは、宇宙の誕生である。そして、第二の1/4回転で、それが消滅するのではないだろうか。そして、第三のでは、新たに、宇宙が生成する。それは、最初の宇宙とは正反対となるだろう。第一の1/4回転は+虚軸への回転であり、第三のは、−虚軸への回転である。これは、いわば、負の回転とも言えるだろう。これは、作業仮説として、分離からの再統一を意味すると言えないだろうか。ヌース理論から言うと、等化であったろうか? とまれ、+虚軸回転を対化(二元論化)として、−虚軸回転を一元論化としよう。この点については、後で、検討したい。
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2006年06月02日 (00:21)

半田広宣氏の「三つの無意識機械」に関して

半田広宣氏の「三つの無意識機械(1)」に関して

半田氏の言葉を《  》で括る。

《ドゥルーズも言ってましたが、無意識の構造は地層を持ち、多層化しているように思います。一神教の発明が「オイディプス化」の意ですが、おそらく近代自我の形成はこのオイディプス化におけるヌーメン(神霊)の力が、さらなる下部に独自の生殖領域を作り出すことによって出現してくる第三の無意識回路の生産物ではないかと考えています。ドゥルーズの言葉で言えば、末端性器、つまり資本主義機械ですね。》

この言葉は、暗示的である。「独自の生殖領域」・・・「第三の無意識回路」=「資本主義機械」。
 一神教の形成、これは、旧約聖書のモーゼと神との関係を、不連続的差異論の図式に置くと、メディア/現象境界(MP境界)になると考えられる。「ヌーメン(神霊)の力」とは、この境界におけるメディア界の力であろう。即ち、母権・女神神話の力である。(だから、旧約聖書の神は、ヤハウェとエローヒーム【神々】なのだろう。つまり、メディア界の力がエローヒームであり、現象的同一性がヤハウェなのだろう。)
 「独自の生殖領域」とは何だろうか。本来の生殖領域は、メディア界の差異共振性にあると思う。母権的なものである。イシス・オシリス的な共振結合である。(因みに、まったく誤解されたD.H.ロレンスの『チャタレイ夫人の恋人』の性交とは、このメディア界的共振結合を表現しているのである。ロレンスは、真正なメディア界的生殖関係を表現しているのである。『死んだ男』の暗い宇宙の薔薇とは、このメディア界宇宙・コスモスの表現と考えられる。)これが、近代自我の形成において、変質すると考えられる。「独自の生殖領域」とは、メディア/現象境界におけるメディア界と現象界との接点ではないだろうか。即ち、差異と同一性との接点ないし接合点である。共振差異「性交」が、同一性的二項対立的「性交」(暴力的な性交:例えば、バタイユの冒瀆としての性交)に転換した事態を意味しているのではないだろうか。同一性(父権制)が、差異(母権制)を支配する領域が、「独自の生殖領域」だろう。共振差異を否定する暴力的同一性の生殖である。火星(マルス、軍神)ないし白羊宮的と言えるのではないだろうか。【イエス・キリストは、双魚宮である。「愛」とは、差異の共振性、即ち、ゼロ度の差異共感性のことだろう。イエス・キリストは、正に、中間なのだ。父権制と母権制の中間である。現象界からメディア界回帰(一つの永遠回帰、聖霊主義)への過程であろう。そう、ロレンスは、「愛」という言葉を避けて、「やさしさ」と表現したのである。】
 もう少し、精緻に見ると、差異共振性という母権的性交に対して、同一性が否定・暴力的に介入する。差異共振性への同一性暴力、即ち、「サディズム」生殖領域がここに発生しているだろう。(因みに、「マゾヒズム」とは、同一性暴力を受ける差異共振性の側、母権制の側であろう。ここで、ドゥルーズが「サディズム」に対して、「マゾヒズム」を肯定評価していたことを想起する。)この「サディズム」生殖領域=「独自の生殖領域」を、近代自我はもつのである。そして、これが、「末端性器」=「資本主義機械」ということになる。つまり、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械である。これが、半田氏の叙述の説明になるだろう。
 また、ここで、toxandria氏が「ヴァルカノス」=小泉政権論を説いていることを想起する。小泉「ファシズム」政権は、正に、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械(=「新自由主義」)的であると考えられる。私は、先に、小泉政治を弁証法構造主義として、メディア/現象境界に位置づけていたが、以上の論考から、小泉政治=弁証法構造主義は、近代自我=「サディズム」生殖的資本主義機械と一致するのである。

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半田氏の「三つの無意識機械(2)」に関して

《■三つの無意識機械(2)

今のところ、次のような方向性で考えています。

第一機械/原始土地機械………C^2(前後に虚軸/前後のみ二本)
第二機械/専制君主機械………C^3(左右に虚軸)
第三機械/資本主義機械………C^4(上下に虚軸)

 これはゲージ対称性の拡張にともなう次元進展に同じですが、ヌース理論では虚軸が持った直交性とは「観察」と考えます。イデアは複素n次元多様体の中でこうした直交変換を重ねていくことによって、無意識の観察の進展を推し量っているのではないかと思います。ペンローズも指摘していたように、おそらく、無意識構造は極めてアルゴリズム的なんですね。骨格は極めてシンプルなものではないでしょうか。》

ここの記述から、半田氏が、何故、この論考をODA ウォッチャーズ氏に差し向けているかがわかるだろう。思うに、虚軸の問題なのである。ODA ウォッチャーズ氏は、虚軸として、i,j,kを提示しているのである。つまり、実軸とijkによるメディア界四次元を提示しているのである。半田氏は、これに沿って、この論考を展開していると思うのである。これは、直観的にとても明快な記述である。物理学や数学の素人である私にも、きわめてわかりやすいのである。そう、半田氏が述べているように、シンプルな内容なのである。これは、すばらしい記述だと思う。

《C^3の虚軸(視線)は左右から介入してきますが、C^4の虚軸は上下に貫かれるように降りてくることになります。発生論的に言えば、人間にとっての絶対的上下とは、宇宙空間と地球内部の方向に当たりますから、この無意識の視線によって、初めて地球が球体として対象化されることになります。これが近代パラダイムの骨格である地動説を誘因してきたのかもしれません。フーコーのパノプティコンを例に出すまでもなく、近代コギトの中に潜むこの高見の塔に住まう巨人の目は常に、この上空からの視線を所持しています。》

ここの記述も実に興味深いものである。第二機械/専制君主機械ならば、常識的には、上下と思うかもしれないが、左右と半田氏は述べているのである。
 とまれ、ここは微妙な事柄である。直観的には、第二機械は、上下であり、第三機械は、左右である。しかし、確かに、「近代コギト」は、「上空からの視線を所持」していると考えられる。不連続的差異論から見ると、近代的自我の二項対立は、正に、上下観念である。だから、半田氏の説明と一致するだろう。では、第二機械/専制君主機械をどう考えるべきか。半田氏の記述に即せば、Z軸が左右になることになる。そして、第四の軸(仮に、F軸としよう。the Fourth軸である)が上下となる。
 ここで歴史的に考えてみると、封建制とは、上下ヒエラルキーではないだろう。西欧では、領主が群雄割拠したのであるし、日本でも、同様だろう。江戸時代は、徳川幕府が中心とは言え、分割統治であった。つまり、多元性である。横並びである。これを取りたい。半田氏の記述を肯定しよう。第二機械/専制君主は、左右の軸である。そして、近代が、上下を形成したのである。絶対主義は、近代の始まりと言える。これは、正に、上下ヒエラルキーである。日本においては、当然、明治天皇制近代である。


《しかし、この「帝国」的視線はC^5の登場によってまもなく勢力を無くしていくことになるのではないでしょうか。C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。》

まったく同感である。C^5は、メディア界回帰=ポスト・キリスト教=聖霊主義である。確かに、ニーチェである。ニーチェ/ロレンスである。「始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まる」とは、正に、メディア界回帰である。聖霊発出である。日本で言えば、縄文回帰である。多神教への回帰である。母権神話への回帰である。イシス-オシリス、キュベレー-アッティス、ヴィーナス-アドニース、イザナミ-イザナギの回帰である。簡単に言えば、自然回帰である。自然が、都市を包摂するのである。スピノザの時代でもあろう。
 ただし、偶然と必然の問題がある。これが今や大問題である。これは、また、ホワイトヘッドの「有機体」哲学の問題に関係するだろう。思うに、これは、イデア界の展開の問題であろう。イデア界の展開は、必然であろう。そして、メディア界は、極性の世界であり、差異の偶然の領域ではないだろうか。そして、現象界は、同一性の必然性の領域ではないだろうか。コップはコップである。しかしながら、現象界の同一性的必然性に対して、メディア界の差異偶然性が存するだろう。換言すると、必然性に偶然性が内在しているだろう。スピノザ哲学は、必然性の哲学と言われているが、それは、誤謬ではないだろうか。スピノザ哲学は、メディア界の哲学であるから、偶然性の哲学のはずである。心身平行論や能動的観念とは、必然性の思想ではなく、偶然性の思想と考えることができるだろう。つまり、スピノザ哲学は、偶然性→必然性の哲学と呼ぶべきだろう。

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半田氏の「三つの無意識機械(3,4)」について

>C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。

《対峙し合う自他の関係性が、○(視野空間)と・(他者の目)の双対(○・○・)から、○○(二つの視野空間の同一化)と・・(二組の目の同一化)へと乖離してしまうということだと思います。このへんは初期ラカンが用いたシェーマLの図式と同じです。象徴的同一化と想像的同一化の作用と解釈することができると思います。C^2で顕在化していた純粋強度の場としてのメディア界(これが不連続的差異の場だと思っているのですが……)は、これら両者の間に沈み込み、文字通り、メディア界として無意識の欲望回路となるのだと思います。対象aのことだと思います。黄金比的運動が起こっているところですね。》

ここの半田氏の応答も、明快であり、深い。象徴的同一化と想像的同一化とは、不連続的差異論では、メディア/現象境界に相当する。ラカンで言えば、現実界が、象徴界と想像界の分離するのである。おそらく、象徴界/想像界というペアで考えるべきなのだろう。現実界は、半田氏がいみじくも述べていたように、メディア界である。
 ところで、半田氏が、メディア界が不連続的差異の場ではないかと述べているが、その考えは、ODA ウォッチャーズ氏の考えと共通のものと思える。私自身は、不連続的差異の領域は、原理的には、イデア界と考えているのである。しかし、実質的には、不連続的差異の領域は、メディア界なのである。つまり、イデア界=デュナミスの発露としてのメディア界=エネルゲイアということなのである。だから、ODA ウォッチャーズ氏・半田氏の考えは実に慧眼なのである。思うに、イデア/メディア界と見るべきなのである。これが、プラトンのイデア界の考え方と一致すると思うのである。プラトンのイデア界やコーラとは、イデア/メディア界を指していると考えられる。
 また、半田氏が以前述べていた、潜在的差異と顕在的差異のことであるが、私は、初め勘違いしていたが、今やはっきりと了解できるのである。半田氏の言う潜在的差異とはイデア界のことであり、顕在的差異とはメディア界のことなのである。
 
《上に挙げた群SU(2)はパウリ行列で表現することができますが、4次元空間を虚時間と見て、虚時間を実時間に符号を換えると、SU(2)はローレンツ変換群にかわります。時間t→虚時間itはウィック変換と呼ばれていますが、おもしろいことに、あのホーキングが「無境界仮説」の中で、特異点を解消するために使用したトリッキーな数学的技法です。宇宙の始まりの前には虚時間宇宙があった。。これが実は原始土地機械なんでしょう。》

この箇所は、少々難解であるが、虚時間→実時間は、メディア/現象境界の領域の事象と見ることができると思う。正に、ローレンツ変換であろう。

「三つの無意識機械(2)」で、次のように半田氏は述べている。

《C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。》

ヌース理論と不連続的差異論は、私が最初思っていた以上に、同一の理論なのである。ヌース理論の方が、不連続的差異論よりは、成立は早いが、しかし、両者、相互補完的に見た方が、建設的だろう。つまり、ヌース理論は、不連続的差異論のメディア界の「物理学」を独創先端的に展開しているのに対して、不連続的差異論は、哲学・数学的に、ヌース理論を包摂するようにして、全体理論を表現しているのである。以前にも述べたが、不連続的差異論的ヌース理論、あるいは、不連続的差異論/ヌース理論が考えられるのである。
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2006年05月30日 (21:57)

「思考実験:XYZNの直交4次元座標」のコメント

以下は、次のエッセイのコメントを独立させたものです。
「思考実験:XYZNの直交4次元座標」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10012934213.html#c10021972478

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■虚数空間が現時点では、あくまで、比喩であること

ヌース理論の半田広宣氏の説明は、一つの比喩として捉える方が、より半田氏の考察を有意義にすると考えています。
不連続的差異論誕生の当初、私の教え子で、数学オリンピックの選考に残った青年のことを書いたように思いますが、彼も、「平面のカラーリング、色づけ」という表現を用い、さらに、それを「ウェイト」と見る手法を語っていました。
ここで言う、ウェイトとは、「力」「エネルギー」「傾向」というような意味だと思います。
 思考実験的に考察すると、実軸に居るというイマジネーションを得るには、虚軸に居るイマジネーションが必要であり、虚軸の想起には実軸の想起が必要になる。
 人間の認識構造の、この『ジレンマ』をエポケーに入れて、これを「ゼロ」に還元するしか、現在の哲学は進んでいない。
 つまり、「カフカの『審判』の無実の逮捕である。」
ODA ウォッチャーズ (2006-05-28 00:47:03)

■“受胎告知の形象化”を連想しました

ダニエル・アラスの著書『なにも見ていない』の問題提起の一つは“形象不可能なるものの形象への降臨”こそが“受胎告知図”という画家の仕事だ、ということのようです。
toxandoria (2006-05-28 06:50:18)

■第三の複素平面(1)

お久しぶりです。わたしの拙い思考内容を取り上げていただき感謝しています。ODAウォッチャーズ氏のおっしゃる通りですね。

意識の様々な特性を幾何学的に形式化していくには、複素空間における多様体が最も適している材料であると思っていますが(ドゥルーズも内在平面をn次元多様体と表現していましたね)、現時点では、メタファーの域を出ていないのは確かです。今後、量子論の確率解釈や、観測者問題などを含めた上での細かい検討が必要になってくるでしょう。個人的には、比喩ではなくそのものだとなるように、論理のクラルテを磨いていくつもりです。
半田広宣 (2006-05-28 14:52:20)

■第三の複素平面(2)


>思考実験的に考察すると、実軸に居るというイマジネーションを得るには、虚軸に居るイマジネーションが必要であり、虚軸の想起には実軸の想起が必要になる。

全くその通りだと思います。そうしたイマジネーションのトポスがC^3にあると考えています。

 プログで取り上げていたC^2上においては、虚軸を認識するための虚軸(虚軸に直交する虚軸)は存在していません。その意味でも、対象と主体の分離を表現することが不可能なんですね。こうした他者なき世界、自他なき世界としての「知覚野そのもの」として世界の在り方をC^2上におけるSU(2)対称性(4 次元空間における回転対称性)と見なすのがヌース理論の考え方です。つまり、ここが「無人島」なわけです。

 SU(2)は3次元球面S^3のことでもありますから、コンパクト化が可能で、4次元時空上では、文字通り〈差異化=微分化〉の領域として、分子機械として作動するようになります。

 このミクロな機械内部に広がる連続的な内在面に排他的な離接を用意させてくるのが、第三の複素平面を加えたC^3ということになると思います。対称性で言いますとSU(3)です。「アンチ・オイディプス」的に言えば、原始土地機械から専制君主機械への相転移。ラカン風に言えばファルスのトポスの発現。モーゼの登場というか、脱エジプト的事件がここで起こるわけです。(現代宇宙論がいう「自発的対称性の破れ」がこれに当たります)。

 この C^3において、双対力(SU(2))として実現していた不連続的差異のゼロ度のシステム(+−+−)である聖霊領域は、(++,−−)という父(象徴界)と母(想像界)へと偏曲し、SU(2)によって実現されていたゼロ度のシステムそのもの(現実界)は、その間に眠るメディア界として潜在化させられてしまいます。カバラのいう器の破壊がここに起こるわけですね。

 かなり大まかで申し訳ないのですが、こうした考察からすると、いわゆる左右方向からの視線を持つイマジネーションと、それとともに奥行き方向に侵入してくる乖離感覚がこの第三の複素平面の虚軸と実軸に相当しているのだと思います。イデア構成にこうした第三の複素平面が加わることをヌース理論では「オイディプス化」として説明しています。
半田広宣 (2006-05-28 14:53:47)

■半田広宣様 詳しい解説、感謝します

私自身は、幼い頃から数的に考える「癖」をもっていることと、いつも、文字の「曖昧性」に怯える性質から、余りに端的に表現しすぎる「癖」があります。この点で、的確にポイントを突いて頂いてのコメント、とても感謝しています。
まさに、
「比喩ではなくそのものだとなるように、論理のクラルテを磨いていく」
ことに、私自身も貢献したいと考えています。
さて、「c^3」(勿論、c^2からの連想)についてですが、やはり、「光」が「自然対数のe」と同じ正確を有すると考えることがポイントになるような気がします。高校で習った時から、そんな気がしていました。
この点について、何か、閃きが御座いましたら、御教授ください。
ODA ウォッチャーズ (2006-05-28 18:07:17)

■toxandoria様 とても示唆に富む文章です。


次の文章、とりあえず、当方のブログの巻頭に置いて、毎日、黙考します。
http://blog.kaisetsu.org/


ダニエル・アラスの著書『なにも見ていない』の問題提起の一つは“形象不可能なるものの形象への降臨”こそが“受胎告知図”という画家の仕事だ、ということのようです。
Kaisetsu of ODA ウォッチャーズ (2006-05-28 18:12:14)

■コメント感謝します:C^2=メディア界の幾何学へ向けて

半田広宣さま

ご執筆でお忙しいとき、TBでお邪魔して、少しは気にしています。
どうも、不連続的差異論に沿った、丁寧な解説ありがとうございます。とても、明快です。
C^2とC^3は、明確に、不連続的差異論のメディア界と現象界(ないしメディア/現象境界)に相当することが、わかりました。この点で、ヌース理論と不連続的差異論は、まったく同じことを記述していますね。
 とまれ、「オイディプス化」とは、見事な命名ですね。私は、父権制化ないし近代的自我化と見ています。左右感覚と奥行き感覚の乖離の事象がとても気になります。C^2=メディア界では、乖離せずに、一種未分化的に合一しているわけですが、この空間は、球面として見ていいのでしょうか。ここは、量子論の《空間》です。私は、まだ、量子論の幾何学が明確に描けずにいますが。
 とまれ、ODA ウォッチャーズ氏の指摘にありましたように、虚軸と実軸の対極性が、C^2=メディア界にあり、それが、オイディプス化=現象化によって、奥行きと左右に乖離するという風に考えていいようにも思えるのですが。C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。
 とまれ、おかげで、私なりに、幾何学化のイメージが出てきました。C^2=メディア界(=メディア平面、内在平面?)は、現象界において、潜在化していて、これが、時間軸と関係していると思います。そして、この時間軸とエネルギーが関係しているのでしょう。相対性理論は、C^2=メディア界をオイディプス化=現象界から定式化していて、また、量子論は、なんとか、それを、相補性等で把捉しようとしていますが、まだ、オイディプス化=現象界のへその緒、つまり、唯物論に囚われていると思います。
 いろいろ、アイデアが浮かんできます。本文で書いてみます。
 
 

PHILOSOPHIA (2006-05-29 05:44:23)

■三つの無意識機械(1)

Kaisetsu of ODA ウォッチャーズさま

>ご執筆でお忙しいとき、TBでお邪魔して、少しは気にしています。

とんでもありません。哲学との関連性に関してたくさんの示唆を与えていただいているのは、わたしの方です。
おかけで、ヌース理論の思想的位置が極めて明瞭になってきています。改めて不連続的差異論との邂逅に感謝しています。
?>とまれ、「オイディプス化」とは、見事な命名ですね。私は、父権制化ないし近代的自我化と見ています。

ドゥルーズも言ってましたが、無意識の構造は地層を持ち、多層化しているように思います。一神教の発明が「オイディプス化」の意ですが、おそらく近代自我の形成はこのオイディプス化におけるヌーメン(神霊)の力が、さらなる下部に独自の生殖領域を作り出すことによって出現してくる第三の無意識回路の生産物ではないかと考えています。ドゥルーズの言葉で言えば、末端性器、つまり資本主義機械ですね。
半田広宣 (2006-05-30 15:28:33)

■三つの無意識機械(2)

今のところ、次のような方向性で考えています。

第一機械/原始土地機械………C^2(前後に虚軸/前後のみ二本)
第二機械/専制君主機械………C^3(左右に虚軸)
第三機械/資本主義機械………C^4(上下に虚軸)

 これはゲージ対称性の拡張にともなう次元進展に同じですが、ヌース理論では虚軸が持った直交性とは「観察」と考えます。イデアは複素n次元多様体の中でこうした直交変換を重ねていくことによって、無意識の観察の進展を推し量っているのではないかと思います。ペンローズも指摘していたように、おそらく、無意識構造は極めてアルゴリズム的なんですね。骨格は極めてシンプルなものではないでしょうか。C^3の虚軸(視線)は左右から介入してきますが、C^4の虚軸は上下に貫かれるように降りてくることになります。発生論的に言えば、人間にとっての絶対的上下とは、宇宙空間と地球内部の方向に当たりますから、この無意識の視線によって、初めて地球が球体として対象化されることになります。これが近代パラダイムの骨格である地動説を誘因してきたのかもしれません。フーコーのパノプティコンを例に出すまでもなく、近代コギトの中に潜むこの高見の塔に住まう巨人の目は常に、この上空からの視線を所持しています。しかし、この「帝国」的視線はC^5の登場によってまもなく勢力を無くしていくことになるのではないでしょうか。C^5の虚軸は、おそらく再び、原始土地機械に被ってくるように回帰してくるのではないかと思われます。ニーチェですね。永劫回帰。始源的秘蹟が示され、生産の生産のための機械へと再接続が始まるのではないかと思います。手前味噌にはなりますが、不連続的差異論やヌース理論はその作業に関わっているのでしょう。

>左右感覚と奥行き感覚の乖離の事象がとても気になります。C^2=メディア界では、乖離せずに、一種未分化的に合一しているわけですが、この空間は、球面として見ていいのでしょうか。ここは、量子論の《空間》です。私は、まだ、量子論の幾何学が明確に描けずにいますが。

はい、おっしゃる通り球面です。4次元空間上の3次元球面S^3になります。C^2で言えば、SU(2)という群です。まさしく、量子論が展開するスピノールの空間です。

半田広宣 (2006-05-30 15:29:52)

■三つの無意識機械(3)

>とまれ、ODA ウォッチャーズ氏の指摘にありましたように、虚軸と実軸の対極性が、C^2=メディア界にあり、それが、オイディプス化=現象化によって、奥行きと左右に乖離するという風に考えていいようにも思えるのですが。

はい、C^2上のSU(2)はメディア界そのもののトポロジーになっていると思います。メビウスの帯のように捩じれを持って内部=外部、外部=内部という交通空間を作っていますね。浅田彰さんが「構造と力」でクラインの瓶の比喩で説明していましたね。

>C^2=メディア界の複素平面から現象空間に転化するときに、虚軸(虚軸と実軸の対極性)が、無限から有限になり、単なる前後になると見ていいのでしょうか。

対峙し合う自他の関係性が、○(視野空間)と・(他者の目)の双対(○・○・)から、○○(二つの視野空間の同一化)と・・(二組の目の同一化)へと乖離してしまうということだと思います。このへんは初期ラカンが用いたシェーマLの図式と同じです。象徴的同一化と想像的同一化の作用と解釈することができると思います。C^2で顕在化していた純粋強度の場としてのメディア界(これが不連続的差異の場だと思っているのですが……)は、これら両者の間に沈み込み、文字通り、メディア界として無意識の欲望回路となるのだと思います。対象aのことだと思います。黄金比的運動が起こっているところですね。
半田広宣 (2006-05-30 15:34:36)

■三つの無意識機械(4)

>とまれ、おかげで、私なりに、幾何学化のイメージが出てきました。C^2=メディア界(=メディア平面、内在平面?)は、現象界において、潜在化していて、これが、時間軸と関係していると思います。そして、この時間軸とエネルギーが関係しているのでしょう。相対性理論は、C^2=メディア界をオイディプス化=現象界から定式化していて、また、量子論は、なんとか、それを、相補性等で把捉しようとしていますが、まだ、オイディプス化=現象界のへその緒、つまり、唯物論に囚われていると思います。

はい、そうですね。わたしも全く同じように考えています。現在のわたしたちの意識は、主体が自他ともに鏡像空間で把握されているために、4次元の方向が反転しているのではないかと思います。上に挙げた群SU(2)はパウリ行列で表現することができますが、4次元空間を虚時間と見て、虚時間を実時間に符号を換えると、SU(2)はローレンツ変換群にかわります。時間t→虚時間itはウィック変換と呼ばれていますが、おもしろいことに、あのホーキングが「無境界仮説」の中で、特異点を解消するために使用したトリッキーな数学的技法です。宇宙の始まりの前には虚時間宇宙があった。。これが実は原始土地機械なんでしょう。物理学がモノ的イメージから脱却することができれば、新世界は一気に訪れてきますね。楽しみです。
半田広宣 (2006-05-30 15:36:43)
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2006年05月29日 (09:47)

思考実験:メディア界の空間・幾何学について

作業仮説として、メディア差異(ゼロ度共振差異)を、三次元時空体としよう。あるいは、n次元時空体としよう。この時空体とは、時間と空間が未分化一体となっているということである。E=mc^2である(とりあえず)。この差異時空体が、メディア/現象境界領域において、同一性化されるわけであるが、この同一性化によって現象化が為されるのである(半田氏は、オイディプス化と呼んでいる)。このとき、思惟と延長が分化するのである。主客二元論化するのである(近代西欧化)。この同一性化による延長の発生が、半田氏の言う奥行きに相当するのではないだろうか。
 ガウス平面=イデア界での、1/4回転によって差異が虚軸化する。そして、それが、垂直に展開して、Z軸化するとしよう。このZ軸が、メディア/現象境界ではないだろうか。そして、ここにおいて、現象化に際して、延長が発生するのではないだろうか。Z軸と延長方向が重なることになる。このようなことは、以前考えたことがある。とまれ、Z軸を前後方向としよう。すると、ガウス平面=イデア界とは、Z軸=現象界と直交している関係にある。これは、ヌース理論が表現している世界観と重なるだろう。
 問題は、この現象界とメディア界の「空間」関係である。Z軸が前後方向あるいは時間軸方向ならば、左右方向、上下方向はどうなるだろうか。それらは、互換できるものになるだろう。つまり、X軸が上下方向に、Y軸が左右方向になったり、Y軸が上下方向に、X軸が左右方向になったりするだろう。しかし、根本的には、無数の上下左右方向が可能になるということである。つまり、上下左右は回転するからだ。しかし、前後方向/時間軸は一つしかないだろう。これが、半田氏が奥行きという言葉で表現したものに通じるのかもしれない。
 とまれ、ここでは、作業仮説として、Z軸が前後方向・時間軸であり、ここで、延長空間=現象化が発生するのであり、この一次元に対して、ガウス平面=イデア界の二次元が加わって三次元空間=4次元時空間が発生すると言えないだろうか。それは、1/4回転による捩れによって、ガウス平面=イデア界に垂直に差異(ゼロ度差異=共振差異)が「発出」するという事象で説明できるだろう。つまり、Z軸の発生によって、差異は、三次元化しているのである。そして、これが、同一性化によって時空4次元化すると言えるだろう。考えれば、確かに、左右上下は、多様性であるが、前後も多様である。この点を説明しなくてはならない。
 これは、感覚の中でも、視覚に関係する。正面や背後の問題である。直観的に、正面は枢要なものである。同時に、背後の意識も喚起される。正面と背後・背面の体極性があるだろう。視線が基礎であり、ここから、前後方向が規定されて、左右上下が決定されるだろう。視線ないし視点の問題である。そして、これは、同一性化の問題である。光の同一性の問題である。光の同一性が、視線・視点を形成するのであり、これが、延長空間・前後方向・現象化を発生させると考えられる。ということで、前後方向の問題は、光の同一性⇒視線・視点による正面・背面で説明できるだろう。即ち、前後方向(=奥行き)とは、光の同一性=視線・視点によって一義的に決定されるということである。
 ここで、時間軸が光軸であるということになるだろう。相対性理論は、ここを理論化しているのだろう。つまり、Z軸理論である。ついでに、量子論は何かと言えば、それは、メディア三次元体の理論ではないだろうか。ただし、ガウス平面=イデア界を外しているように思えるのである。差異が現象化する以前のXYZ三次元事象が真の量子空間ではないだろうか。つまり、絶対エネルギーの空間(ガウス平面=イデア界)を入れて、完全な量子空間となるのではないだろうか。つまり、現在の量子論は、ゼロ度共振差異=量子のみを扱っているのであるが、その原初に、絶対的差異の回転エネルギーがあるのであり、この回転エネルギー=絶対(絶対値)的エネルギー(=デュナミス)を計算する必要があるのではないだろうか。この点は後で検討したい。
 ここで、最後に、メディア界の空間・幾何学の形態について触れると、それは、二重らせん形状、あるいは、円柱、あるいは、球体等になるのではないだろうか。ここに形態の原型があるのだろう。そして、プラトンは、ここを、イデア界、コーラと呼んだのだろう。そして、ここは、D.H.ロレンスの『死んだ男』の暗いコスモスの薔薇に相当するだろう。多重多層な時空間多様体である。また、善のイデアであるが、それも、メディア界を指していると見ることができるように思われる。しかし、なにか、イデア界自体の示唆も感じるのである。また、大乗仏教であるが、《空》とはメディア界を指しているだろう。また、キリスト教は、同一性の極致を意味しよう。Z軸=ヤハウェからの同一性の展開としてのイエス・キリストだろう。そして、ここは、極点であるから、反転して、メディア界へと回帰するだろう。これが、聖霊教を意味しよう。そして、私の直観では、これが、宝瓶宮(水瓶座アイオーン)の意味するものである。水瓶の水は、聖霊であると考えられるのである。っ伝統的には、ミューズ(ムーサイ・詩神たち)である。また、天使や精霊である。霊感である。そして、メディア界は、確かに、差異調和の世界である。コスモス的ハーモニーCOSMIC HARMONYの世界である。ロレンスが、『馬で去った女』で表現した宇宙、月と太陽の調和の世界である。華厳経宇宙である。モーツァルトの音楽の世界である。また、円空の言う「法の御音」の世界である。高天原である。常世である。新エデンの園である。新八百万の神々の世界である。新多神教である。
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2006年05月27日 (21:39)

思考実験:XYZNの直交4次元座標

ヌース理論の半田広宣氏は、以下のように述べている。

「ヌース理論では奥行き方向を虚空間の方向と考える。というのも、奥行き方向は知覚が世界へと降り立ったときに生じる干渉場のようなものであり、3次元の中で人間の現実が息づく唯一の方向性でもあるからだ。その意味で、奥行き方向は左右方向や上下方向とは絶対的な差異を持っている。その差異の方向を実軸(左右や上下)の手前側への90度回転と見立て、虚軸として考える――。筋書きとしては至って簡潔である。実際に、そこには一つの直線が息づいてはいるのだが、その直線は目で見ることはできない。それがゆえに、それは「虚」の次元であると考えてみようということだ。。奥行きを実の1次元として、左右・上下と無理矢理、同一化させて見ている現在の空間認識よりも、心理的には極めて自然な空間解釈と言えるだろう。  この考え方でいけば、モノを中心に自他が向かい合った状態では、二本の虚軸が奥行き方向に重なり合って存在しているということになる。知覚正面に十文字に実の2次元平面が広がり、奥行きに二本の虚軸が重畳する――これがヌースが21世紀の人類に向けて提言するこの存在空間のベーシックな描像だ。」
《最終兵器C^2》
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/05/c2_99a2.html

これをヒントにして、不連続的差異論の1/4回転による虚軸の様相を、再考しよう。
 半田氏は、虚軸を奥行きの方向であると述べている。不連続的差異論では、虚軸Y軸は、メディア界が形成される軸である。ここでは、差異(不連続的差異)は、ゼロ度共振連結するのである。そして、メディア界の差異は、垂直に捩れて、Z軸を形成する。ここで、立体空間が発生するが、Z軸を境界ゼロ度軸とすることができるだろう。そして、境界無軸N軸(Nはnothing)を考えよう。すると、XYZN軸直交座標の4次元空間がある。
 問題は、時間軸をどこに設定するかということである。Y軸にするのか、Z軸にするのかである。ここでは、Z軸を時間軸と仮定しよう。Z軸は、量子軸と言ってもいいかもしれない。ここでの、時間とは、光速に関わる時間だろう。境界ゼロ度の量子時間である。ならば、結局、XYNで、空間三次元を形成するということになり、Zが時間一次元である。
 ここで、半田氏の考えを借りると、X軸が左右軸、Y軸が前後軸(奥行き)、N軸が上下軸となるだろう。不連続的差異論では、Y軸虚軸は、境界ゼロ度を形成する軸であるが、イデア界とメディア界の境界、即ち、イデア/メディア境界ではないだろうか。完全な境界ゼロ度軸は、Z軸と考えたい。(因みに、YZNの三次元が、メディア立体空間であろうか。ドゥルーズ&ガタリの内在平面とは、YZ平面かZN平面のことではないだろうか。それとも、ガウス平面のことなのだろうか。)
 虚軸は、イデア/メディア境界とここでは、考えたい。ここは、正に、不連続的差異の特異性と差異の共振共感的連続性とが、混淆する領域であるが、直観では、「魂」の領域である。ここで、心身的な無限が発生するのである。そう、虚軸は、「魂」・心身的無限を意味しているように思えるのである。ここは、深度の軸と言ってもいいのかもしれない。深みである。そして、これが、上下に適用されて、高さ、深さが発生するのではないだろうか。確かに、半田氏が説くように、虚軸は、奥行きの軸なのかもしれない。無限軸と言ってもいいだろう。おそらく、ここに、森羅万象の核心があるのではないだろうか。だから、実軸(左右)ー無限軸(虚軸:前後)ー時間軸ー現象軸(無軸:上下)となるだろう。
 そして、この無限軸が、上下左右に向けられるのではないだろうか。ここで、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を想起するが、鏡は、正面にあるのであり、無限軸を意味するだろう。そこでは、特異性と差異の対極性が併存している「カオスモス」の世界のはずであるし、実際、時間の可逆性(差異の対極性)があるし、また、特異性の人物が跋扈しているだろう。また、宇宙論では、特異点が問題になるが、それも、無限軸のことではないだろうか。いちおう、ここで、留めたい。
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2006年04月23日 (14:20)

二元論と不連続的差異論:東西統一哲学・理論としての不連続的差異論

今、ここにおいて、中沢新一氏の『フィロソフィア・ヤポニカ』を取り上げると、中沢氏のイデア論と唯物論との折衷のハイブリッド哲学を、どう見るかである。中沢氏が言わんとしていることは、よくわかるのである。即ち、光(思惟)に対して、闇(質料)を対峙させて、その混淆・ハイブリッドを説く思想である。つまり、中沢氏のグノーシス主義的な二元論が、ここにも、確認できるのである。しかし、不連続的差異論は、不連続的差異=イデアを思惟即質料、即ち、光即闇と見ていると言えるだろう。私は、先に、イデアの光を黒い光と呼んだが、黒い光(複数)が、正に、そういうものだろう。この思惟即質料、光即闇、黒い光・玄光(複数)としての不連続的差異=イデアとは、東西統一哲学・理論をもたらすと言えるだろう。これは、中沢氏のハイブリッド・折衷哲学を超克していると思うのである。
 とまれ、このように考えると、イデア界の志向性とはどうなるのだろうか。差異の志向性としてのノエシス/ノエマは、思惟/質料となるだろう。そして、ヌース理論のNOOSとNOSであるが、NOOSが質料で、NOSが思惟であると説明されている。これは、中沢氏のハイブリッド哲学の質料主義と似ているところがある。しかし、不連続的差異論では、思惟と質料を不可分一体として捉えるだろう。不連続的差異論から見ると、NOOSが、思惟で、NOSが質料となるだろう。というか、NOOS即NOSである。もっとも、この問題は後で、検討されなくてはならない。
 とまれ、光=闇というのは、いわゆる、光、光子とは異なる。思惟即質料、認識即物質である。思惟即質料、光即闇(「黒い光子」)である不連続的差異・イデアが、1/4回転して、光を創造するのである。この力学はどういうものだろうか。差異1→差異2が、差異1☯差異2となるのであるが、→が、光即闇であり、☯が光である。この光は、いわば、闇が共振して、差異同士が交信するということではないだろうか。換言すると、闇が光明になり、思惟・認識の光が、ネットワーク化するということではないだろうか。これが、量子・素粒子の世界であろう。しかし、ここに2種類の光が存していることになるだろう。イデア界の思惟の光と闇の光である。後者が光子である。つまり、後者が、質量であろう。量子・素粒子の世界において、思惟・認識の光と質量・物質の光の2種類の光が生成しているように思われるのである。そして、それらは、いわば、融合しているだろう。西田哲学の場所の論理の世界だろう。
 それから、この量子力学の世界が、同一性化して、現象界となると言えるだろう。ここで、思惟・知覚の光と質量・物質の光が分離して、主客二元論、近代主義が生まれるのである。聖書のエローヒーム(神々)の「光あれ」という「言語行為」は、何を意味するのか。その光とは何か。それは、やはり、光子の光であろう。闇の光である。(聖書の「神」は、自然界の神である。)
 問題は、思惟即質料という不連続的差異・イデアを意味することである。メディア界は、主客合一の領域であり、西田哲学やヌース理論が、とりわけ、見事に分析している領域である。イデア界も、確かに、主客合一の領域と言えるのであるが、メディア界とは構造が異なる。思うに、思惟即質料というよりは、思惟即存在の方が適切だろう。これは、原知覚である。イデアの知覚である。イデアの知覚が、他のイデアの知覚を志向するのである。イデアの境界が、このときの、存在であろう。つまり、不連続的差異・イデアの志向性、ノエシス/ノエマは、一つの不連続的差異・イデアの即自且つ対自的様相なのである。対自性が、境界を意味するのである。つまり、不連続的差異・イデアの志向性は、思惟=ノエシスは、存在=ノエマ=境界をもつのである。そして、これが、不連続的差異・イデアの即自且つ対自性、即ち、思惟即存在、知即存在、光即闇である。これは、正に、デュナミスの世界だろう。絶対的可能性・潜在性の世界だろう。いわば、原卵・非受精卵である。あるいは、原コーラである。原場所である。そう、眠りのような世界である。「他界」である。涅槃・ニルヴァーナである。しかし、イデア界において、不連続的差異・イデアは可能性・潜在性・デュナミスにおいて、他者の不連続的差異・イデアを認識しているだろう。即ち、イデア界に存している知・般若・叡智・ソフィアとは、可能性・潜在性・デュナミスとしての全知全能である。「超越神」の全知全能とは、これを指していると見ることができるだろう。プラトンの想起説は、まったく正しいだろう。原型として、人間は、全知全能であろう。このいわば、非受精卵としての不連続的差異・イデアが、1/4回転して、「受精」すると言えよう。これが、メディア界化である。西洋二元論では、父と母の比喩で、この「受精」を説くが、しかし、これは、不正確である。「非受精卵」であるイデアが、いわば、内在必然的に、「受精」するのである。単性生殖、処女生殖なのである(聖母マリア信仰、聖母マリアの母、聖アンナ信仰、黒い聖母等は、この反映であろう)。一種クローン主義なのである。そして、この1/4回転は、光の誕生である。太陽の誕生である。日御子(「天皇」)である。オシリスである。「光あれ」である。「イエス・キリスト」である(一神教の父は、母・玄牝に訂正変更しなくてはならないだろう)。つまり、「日御子」・オシリス・イエスとは、光子である。つまり、メディア界とは太陽であろう。しかし、この太陽は二重の光をもっているのである。一つは、知(智)であり、一つは、光子である。知・智・叡智・般若としての太陽が存してもいるのである。唯物論的な現代物理学は、これを見ていないのである(聖とは日知りである)。天照大神とは、このメディア界の太陽であり、「日御子」(=光子)を内包した・抱えた大女神である。『ヨハネの黙示録』にある「日を着たる女」とは、正に、メディア界自体である。因みに、ヌース理論で説かれている内在的知覚理論であるが、それは、正しいだろう。即ち、メディア界において、内在的知覚(ノエシス)があるからである。この知覚・知が、現象界においては、延長と分離された思惟となっているのであるが、メディア界においては、延長・光子と一体化(主客合一)しているのである。光知☯光(光子)のメディア界であるが、これは、イデア界のノエシス/ノエマ、知即存在、思惟即延長のメディア的変容である。だから、量子力学は、このイデア論を組み込まなくては、発展不可能であると考えられるのである。ヌース理論はこの点で正しい方向にある。思うに、非局所性の問題はメディア界の事象として把捉されるようになるだろう。現象界においては、パラドクシカルになってしまうのである。思うに、素粒子を個物として捉えるのが間違っているのかもしれない。1/4回転によって発生した光・光子とは、いわば、闇の光である。ノエマの光である。存在/境界の光である。これは、差異と差異とのゼロ度結合として発生したものである。だから、対なのである。光子は、対の差異・イデアをもっているのである。それは、同時に、影・シャドウとなるだろう。光知/光子のメディアであるが、光知はブラインドとなるだろう。差異と差異との相互作用としての光子・光であるのだから、それは、一種双対性であり、少なくとも複数ではないだろうか。あるいは、境界、間として、光子を捉えるべきである。これを現象界的に個物化すると、非局所性のパラドックスが発生するのではないだろうか。だから、光子は、差異中間子のようなものであろう。また、ダークマターやダークエネルギーの問題であるが、これは、光子を発生させている共存在である光知=ノエシスの《力》を考量していないので発生するのではないだろうか。直観で言えば、ダークマターとは、光子とともにある光知ではないだろうか。そして、ダークエネルギーとは、光知/光子の共存在のエネルギーのことではないだろうか。あるいは、ノエシスの《力》がダークエネルギーと言えるのかもしれない。この点は後で検討したい。

注:尚、以上は次の記事の付記からの引用である。
「検討問題:モナドと不連続的差異論、その他」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10011676817.html
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2006年04月10日 (14:49)

言語構造と差異:文法と不連続的差異/特異性:「一神教を解体する」を含む

問題は、例えば、一人称の主語と特異性の「私」とは、どういう関係があるのかということである。また、いったい、言語における人称や文型とは何か、という問題がある。問題を単純化しよう。言語における「わたし」、英語で言えば、一人称単数であるIとは何か。あるいは、「これ」thisとは何か。さらに、述語動詞とは何か。
 先ず、一人称単数のI「わたし」を考えよう。これは、当然、自我(エゴ)を指す言葉(代名詞)である。これは、同一性としての自我と特異性としての自我の両面をもつ言葉であろう。前者は、他者と比較しての自我であり、この比較の基準に同一性があるのである。つまり、差異・特異性を排除した「わたし」である。だから、この「わたし」とは、「あなた」や「かれ」、「かのじょ」と等価である。つまり、一般性の「わたし」である。ヘーゲル哲学の「わたし」である。
 それに対して、特異性の「わたし」がそこには、入っている。それは、メディア界の「わたし」であり、イデア界の「わたし」である。根源的自我・エゴである。即ち、三重の「わたし」が、言語の「わたし」に内包されていることになる。イデア界/メディア界/現象界の三層の「わたし」である。(シュタイナーの言う自我・アストラル体・エーテル体・物質体は、この三層・三重の「わたし」として見ることができるのではないだろうか。)思うに、文学言語とは、この人称の三層・三重性を活用したものだろう。
 では、次に、述語動詞を見よう。I think.このthinkは、当然、三層・三重となる。イデアとして、メディアとして、現象として、thinkするのである。このように見ると、言語とは、不連続的差異論における三層性を表現するものであることがわかるのである。ただし、音声言語においては、二項対立構造・同一性構造が強くはたらくと言えるだろう。
 とまれ、言語は、本来、多層・多重性をもつのであるが、音声言語のもつ同一性・弁証法構造によって、現象界へと限定される傾向があると言えるだろう。とりわけ、西欧・欧米言語の場合、表音文字を使用しているので、その傾向があると言えるだろう。例えば、bigとpigである。それに対して、表意文字の場合、象形文字であり、イメージを活用していて、直観的であると言えるだろう。漢字の場合、「大」(dai)と「豚」(buta or ton)である。問題は、このイメージをどうとるのかである。視覚の問題である。そして、直観と想像力の問題である。視覚は、一見、現象に関わると思われるだろう。表音文字の場合、音素上の対立、pとbが生じるのである。つまり、対立・弁証法同一性構造が発生するのである。しかし、視覚優位の表意文字・象形文字の場合、それは、発生しえない。対立・矛盾ではなくて、基本的には、並存・共存である。つまり、それは、自然を直観している記号であると考えられるのである。自然は、確かに、淘汰があるが、必要以上ではない。バランスを保つ淘汰である。共存的淘汰である。共生と言ってもいい。この自然の直観の記号が、表意文字・象形文字ではないだろうか。結局、自然をどう見るかということでもあろう。
 視覚とは、当然ながら、光の感覚・知覚である。これは、メディア界的であり、同時に、イデア界的ではないだろうか。光とは何かである。また、視覚文字・視覚言語の問題である。ここで、直観で言うと、光とは、イデア界の不連続的差異・イデアの志向性そのものであると考える。それは、原光と言ってもいいかもしれない。おそらく、1/4回転によって、生起するメディア界が、光の世界である。より正確に言えば、イデア/メディア境界が光の世界であろう。表意文字・象形文字は、ここを捉えていると思うのである。それに対して、表音文字は、メディア/現象境界を捉えているだろう。浄土宗の阿弥陀如来の無量光(アミターバ)であるが、それは、このイデア/メディア境界を指しているだろう。この境界で、原光が光に変換するのではないだろうか。それが、無量光として、認識されるのではないだろうか。【今、思ったが、原光とは、闇ではないだろうか。D.H.ロレンスが言った黒い太陽dark sunではないだろうか。『老子』では、《玄牝げんぴん》というが、それは、闇である。元暗である。初めに、闇ありきである。そう、これを、西洋は恐れてきたのではないか。初めの闇、これを恐れたのではないか。ここから、光が生まれたのではないだろうか。「光あれ」。そうすると、旧約聖書の天地創造の神(ヤハウェではなく、エローヒームであろう。p.s. その通りであった。)は、この闇ではないだろうか。天地創造の神は、自身の原暗から、光を創造したのではないか(p.s. 正統的には、創造神は、無から天地を創造したことになっている。しかし、無=母=イデア界=エローヒームとするなら、一神教の神は、超越神ではなくなり、スピノザの神のような内在的な神であり、また多神教的母神・女神となる。超越一神教の「脱構築」である。正に、ポスト・一神教である。これは、大いに愉快である。)。また、さらに言えば、白人が恐れるのは、この闇、原初の闇ではないのか(コンラッドの『闇の奥』[『闇の心』と訳せる]を参照)。思うに、東洋は、この闇を捉えているだろう。つまり、「無」である。「母」である。ここで、想起するのは、ゲーテの『ファウスト』の「母の国」である。これこそ、根源的イデア界であろう。闇から光が生まれるのである。ここで、大江健三郎の名作『万延元年のフットボール』の冒頭を想起する。】
 ずいぶん、飛躍したが、ここで、簡単に整理すると、表音文字は、メディア/現象境界的であり、表意文字は、イデア/メディア境界的であるということである。同一性的か、差異的かということになるだろう。だから、三重・三層性をもつ言語ではあっても、表音文字と表意文字の表現によって、質的に異なることになるのである。つまり、表音文字は、二重・二層性になる傾向にあり、表意文字は、本来の三重・三層性を保持する傾向があるだろう。

参考1:玄牝
http://www.netwave.or.jp/~m-kenji/page/rousi/rousi006.htm
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Tachibana/8318/roushi_4.html
http://homepage2.nifty.com/ETSUGEN/gai2.htm
http://www.nature-n.com/manga/htm/1004-j.htm
http://d.hatena.ne.jp/antares/20051231
http://www.asahi-net.or.jp/~qh4s-kbym/Tao1.html

参考2:エローヒーム
エローヒームの由来は実に興味深い。「神々」であり、最高神エルの息子たちである。そして、エルとは、民衆に、バールと呼ばれていたと述べられている。バールとは、ヤハウェが攻撃した自然宗教の神である。おなじみのバール神であろう。すると、旧約の神とは何ぞや、ということになるだろう。ヤハウェはバール神を攻撃する。しかし、バール神は、エローヒームの父である。そして、エローヒームはヤハウェと同格である。すると、ヤハウェは、分身を攻撃していることになるだろう(p.s.  ここは、論理がすべってしまっている。エローヒームはヤハウェの同格ではなくて、分身の子供たちである。だから、バール神を攻撃するとは、自分の父を攻撃していることになる。しかし、この父エルであるが、これは、母だと私は思うのである。つまり、ヤハウェは、自分の母を攻撃しているのである。そのように見れば、典型的な父権神話のパターンを確認することができる。参照:バビロニア神話。また、そうみると、ギリシア神話の世代交替の出来事を想起する。ウラノス→クロノス→ゼウス。)。一種、分裂症である。しかし、これは、不連続的差異論から見ると、正しいのである。メディア/現象境界において、ユダヤ教が発生している考えられるのであるから。即ち、同一性(ヤハウェ)が、メディア差異(バール神)を否定し、排除すると考えられるのである。
 ここで、付け加えると、旧約聖書は、単に一神教の書物ではなくて、多神教の書物と考えべきであろう、D.H.ロレンスが述べていたように。つまり、明瞭に、エローヒーム(神々)が存しているのだから。そして、さらに言えば、エローヒームとは、《母》であろう。イデア界であろう。神々(無数・無限の不連続的差異)が、天地創造するのであろう。この点は後で、検討したい。
http://en.wikipedia.org/wiki/Elohim_%28gods%29


「新井奥邃の「父母神」とグノーシス派の「母父」なる至高神 」
http://shumpu.com/ohsui/geppou04-1.html

その他、エローヒーム関連
http://www.hat.hi-ho.ne.jp/ists1970/holiness06fr.html
http://www.kirisuto.info/msg1/m12step02.htm
http://www.pandaemonium.net/menu/devil/El.html
http://72.14.203.104/search?q=cache:K49LTthmnwcJ:hw001.gate01.com/yuji-toki/nazotoki-1.html+%E3%83%90%E3%83%93%E3%83%AD%E3%83%8B%E3%82%A2%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%80%80%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%80%80%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%82%AF&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=17&client=firefox

参考3:バビロニア神話、シュメール神話
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%A2%E3%83%9E%E3%83%88
http://blogs.yahoo.co.jp/sinagawa50/archive/2005/10/2
http://en.wikipedia.org/wiki/Mesopotamian_mythology
http://en.wikipedia.org/wiki/Mesopotamian_religion


参考4:ギリシア神話:ウラノス、クロノス、ゼウス等
http://elaela.ndap.jp/myths.html
http://www.sparta.jp/file18.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A1%E3%83%86%E3%82%A3%E3%82%B9
http://www.kitashirakawa.jp/~taro/lit59.html
http://www.mirai.ne.jp/~panther/myth/myth04.html
http://himika.m78.com/12sign/sinwa/souseiki.html
http://nekomusa.hp.infoseek.co.jp/zeus2.html
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2006年04月05日 (16:54)

イデア界・ガウス平面における不連続的差異の一回転の意味について:Ver. 1

半田広宣氏から本件について質問があったので、ここで、現時点での私の考えを述べたい。
 イデア界・ガウス平面における不連続的差異=イデアの回転の問題は、いろいろ試行錯誤を続けてきて、これまで、3回の1/4回転で、現象界が発現し、そこから反転して、6回目の1/4回転でイデア界、即ち、出発点に戻ると考えてきた。この考えからみると、一回転は、4回目の1/4回転を意味し、それは、現象界からメディア/現象境界への反転を意味することになる。
 だから、この考えからみると、一回転はあまり意味をもたない。6回の1/4回転で、出発点、X軸へと回帰することになる。
___________________________________

以上が、半田氏の質問に対する答えとなるのであるが、半田氏の鋭い質問を受けて、もう一度再考したいと思う。 
 6回の1/4回転でワン・サイクルという考えは、3回の1/4回転で、現象界へ達するのであるが、その考えをもつ以前は、2回の1/4回転で現象界へ達すると考えていた。確かに、後者の方が、構造的には、より整合的になりうるのである。なぜなら、4回の1/4回転、即ち、一回転で、出発点の原イデア界、X軸へと回帰するからである。
 では、問題点はどこにあるのだろうか。それは、ODA ウォッチャーズ氏が指摘した垂直へ捩れる事態・事象をどう捉えるかである。このことが、本件におけるいちばんのポイントと言えよう。1回目の1/4回転で、不連続的差異(以下、元素差異ないし元素イデア)が、Y軸上へ回転移動する。このとき、元素差異のX座標はゼロになっているのであり、これが、ゼロ化・ゼロ度化の事象を意味し、それが、メディア界を発出させるのである。このとき、垂直に捩れるので、元素差異の座標は、(0,Y、Z)となる。即ち、立体座標に転換するのである。ガウス平面上では、回転移動した元素差異は、(0,1)ないし0+iであるが、イデア/現象境界としては、(0,y、z)になると考えられるのである。 
 問題は、このZ軸の発現の意味である。これは、1回目の1/4回転で発生すると考えられそうである。この考えで展開すると、2回目の1/4回転で、(−1、0,z2)となるだろう。このとき、元素差異は、原イデア界(X軸)の対蹠点にある。即ち、ゼロ化が解消されるのであるから、発生したメディア界の差異(以下、メディア差異)は、消滅するだろう。つまり、元素差異はいわば、マイナス元素差異、反元素差異となると考えられる。ならば、1回目の1/4回転がメディア差異の生成を、2回目の1/4回転がメディア差異の消滅を意味する。つまり、(−1,0,z2)の座標において、メディア差異が消滅しているのである。つまり、この座標はいわば、《空》(くう)になるのである。
 さらに、この考えを展開すると、3回目の1/4回転では、再度ゼロ化により、メディア差異が再生成する。イデア界・ガウス平面の座標は(0,−1)であり、元素差異が垂直に捩れるが、座標がどうなるのかが問題である。単に1回目の1/4回転と対称となる位置、即ち、(0,−y,z)となるのだろうか。これならば、永遠に、同位置でのメディア差異の生成消滅が起こるのであり、おそらく、陰陽だけの世界で、現象界が発生しないだろう。だから、考えられるのは、3回目の1/4回転で、メディア差異の座標が(0,−y、3z)となることである。つまり、ODA ウォッチャーズ氏が指摘したように、時間軸をZ軸として見ることである。即ち、1回目の1/4回転は、Z軸(時間軸、T軸)でT1経過するのであり、2回目の1/4回転で、T2経過し、3回目の1/4回転で、T3経過すると考えれるのである。また、さらに、4回目の1/4回転では、元素差異は、元のX軸へと回帰するが、メディア差異は再消滅してその、《空》の座標は、(1,0,4z)になるだろう。これが、一回転の事象となる。
 そして、回転がさらに続いて、不連続的に螺旋形状のメディア差異の生成消滅が起こることになる。メディア差異の生成消滅の進展的反復である。有と無との螺旋的反復である。また、−X軸もあるから、メディア差異の生成消滅は、対(つい)生成消滅となるだろう。
 では、こうすると、現象界の発生はどういうことになるのであろうか。それを考察する前に、メディア差異の様相について確認しておこう。元素差異は、X軸上に共立している。だから、これが、メディア差異に転化するとき、1回目の1/4回転(以下、第1回転)のとき、イデア/メディア境界が発生するが、それは、いわば、線である。しかし、回転移動の過程の領域を考慮すると、第1回転では、X軸からイデア/メディア境界(以下、メディア軸)への回転領域が生起するだろう。それは、いわば、捩れた平面ではないだろうか。そして、これが、メディア平面となるのではないだろうか。そして、このメディア平面とイデア界・ガウス平面とで「構築」される立体が、現象界ではないだろうか。そして、第2回転では、メディア差異の消滅プロセスとなり、いわば、突如、現象事象が消滅するのではないだろうか。しかし、正に、ここで、《差延》が発生して、徐々に消滅するのではないだろうか、ちょうど、『不思議の国のアリス』のチェッシャ猫の笑いのように。そして、第3回転では、第1回転と同様に、メディア差異が生成して、現象が発現する。そして、回転自体は無時間、無限速度で発生するのであるが、《差延》で、徐々に生成すると考えられる。おそらく、現象の形成は、この《差延》事象に拠るのではないかと思われる。例えば、植物の生長が典型的であろう。種があり、発芽し、葉と茎が螺旋的に生長し、花をつけ、実をならす。種子は、おそらく、第一回転に当たるだろうし、発芽が、第2回転等々となると考えられるのではないだろうか。(この点について、別稿で、詳しく検討したい。予見的に言えば、生命体だけでなく、鉱物の発生も同様ではないだろうか。)
 以上のように作業仮説して、検討を進めると、大きな問題は次元である。回転により、垂直的捩れが発生して、それが、メディア差異と現象を構築する。メディア差異は連続的差異=微分であり、それが、積分されたものが現象界と言えよう。ドゥルーズの言う異化である。確かに、イメージとしても、メディア差異が積もった様態として現象が理解される。とまれ、この現象体は、立体である。しかし、実際は、メディア差異の《差延》であるから、立体ではないだろう。ここでも作業仮説して言えば、メディア平面(おそらく、メディア円ではないだろうか)の積分として、現象立体が発現(仮現)するのだろう。だから、2次元が3次元を発現(仮現)させるのである。
 では、次元の問題に戻ると、3次元までは、構築できたが、現象時空四次元性にまでは達していない。ここで、超越論的主観性の視点を考察しないといけない。これは、正に視点である。これは、元素差異の主観・認識・意識であり、直観である。直観知性である。これが、メディア界においては、想像力的になる。そして、現象界においては、言語と結合して、同一性、同一性自我となるのである。これは、自我の他者への同一性関係と言い換えることができる。すると、現象界は、この同一性次元が入ることになるのである。3次元+同一性次元=4次元である。丁寧に考えると、元素差異の志向性が回転の原動力である。これは、垂直/水平志向性である。そして、これが、回転して、メディア差異となるのである。元素差異と元素差異とが共振して、メディア差異となるのであるが、このとき、平面を形成すると考えられる。これは、垂直/水平志向性原動力の展開と見ることにしよう。そして、メディア差異(メディア平面)の《差延》=積分として、現象界が発現するのであるが、この立体3次元の内部に同一性の視点が入っていると考えられる。おそらく、Z軸が、同一性の視点となり、深さや高さの次元となり、立体次元を発現(仮現)するのである。これで、空間3次元の説明がつくが、時間次元はどこにあるのだろうか。それは、この垂直の捩れ自体が時間次元ではないだろうか。だから、立体空間3次元からは、時間次元が見えないのである。捩れた空間3次元の、言わば、捩れ次元に時間次元があるのではないだろうか。これで、現時点において、暫定的に、本件の問題に答えたこととしよう。
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2006年04月02日 (16:38)

ヌース理論は、フッサール哲学と似ている点で、イデア論的なのではないか:VER2

以下は、「ヌース理論は、フッサール哲学と似ている点で、イデア論的なのではないか」http://ameblo.jp/renshi/entry-10010778699.html
の記事とそのコメントである。
___________________________________
ヌース理論は、フッサール哲学と似ている点で、イデア論的なのではないか。
2006年03月31日 04時05分48秒
テーマ:ヌース理論

ヌース理論のNOOSとNOS、NOOS*とNOS*の双対性であるが、それは、フッサールの超越論的主観性や間主観性(相互主観性)に似ているように思えるのである。ノエシスとノエマは、NOSとNOOSに対応するかもしれないし、また、双対性は、間主観性として、つまり、主観性1と主観性2との相互関係として見ることができるかもしれない。
 ヌース理論は、フッサール哲学よりも、ずっと精妙に構成されているのだが、しかし、基本的概念には、なにか、共通するものがあると思われるのである。だから、ヌース理論は、単に、メディア界のイデア論ではなくて、イデア界のイデア論と考えることができると思うのである。
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■表象なき思考

肯定的なご意見、どうもありがとうございます。
ヌース理論の構築は、大森荘蔵のいう「面体分岐」をより精妙に幾何学化する作業から着手しました。「面体分岐」とは、純粋知覚においては主客分離は存在しておらず、主客認識は世界の見えにおける「面的なもの」のと「体的なもの」の分離の結果であるという考え方です。
 大森氏は、ここから、この面体分離のアイデアを深く追求することはなかったのですが、この細部を幾何学的に丹念に構成していくと極めて興味深いトポスの構造が見えてきます。
 人間の世界認識において、主観形式や客観形式がいかなる無意識の手続きによって構造化されてくるのか、また、そこに果たす他者存在の役割、さらには、もの自体と時空概念の関係など、比較的シンプルな幾何学性の中に、それら相互の連携システムが高次の対称性構造を母胎に構築されていることが朧げながらも見えてきました。さらには、この構造がラカンが晩年取り組んだ言語構造のトポロジーとも同型対応する部分があることも分かってきました。
 これだけなら、哲学の分野のみで閉じてしまうところなのですが、そこに垣間見られる対称性構造が素粒子世界を貫くゲージ対称性と酷似していることから、事態はがぜんエキサイティングなものになってきています。

 哲学的に言えば、フッサールが示した超越論的主観性の視座をライプニッツに接続させる、とでもいうのでしょうか、つまり、大地的なものを極小のモナドへと反転させ同一視するということですね。そして、このモナドロジーに双対性(鏡像関係の反照性)を導入することによって、まずは物理的な光子の構造(電磁場における双対構造)が出現してきます。ここからは対称性は自然に拡張していき、パースベクティブとしての主観位置や、他者における主観位置、さらには間主観位置などを、それらの対称性の中にマッピングしていけるのではないかと考えています。

 こうして思考が一般表象から解放され、物体の起源そのものである素粒子に、素粒子そのものの形相としてアクセスできるようになること。ヌース理論はそこに理念の出現を見ています。スピノザのいう能動知性として、生成世界の内部(実体側)に基底側から入り込むということですね。ヌース理論が考える始源(アルケー)がここにあります。
半田広宣 (2006-03-31 14:15:33)

■ヌース理論とメディア界

半田様

「面体分岐」はよくわかりませんが、ヌース理論の構造は、以上の説明でよくわかります。それは、やはり、不連続的差異論の言うメディア界の理論に相当し、その点では、驚異的な対称的体系性をもっていると思います。そう、一見、三浦梅園の対極二元論体系を想起します。
http://www.coara.or.jp/~baika/
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0993.html
思うに、ヌース理論のアルケーは不連続的差異論で言えば、第1回目の1/4回転で生起するイデア/メディア境界に当たるような気がします。ですから、 NOOSとNOSのアルケーには、さらに、原NOOSと原NOSがあるのではと思います。これが、不連続的差異論のイデア、顕在的イデアの「デュナミス」ではと思います。
ソフィオロジコ (2006-04-02 16:23:34)
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プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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