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2011年12月27日 (09:33)

言葉とは何か:差異共振的同一性作用としての言語

テーマ:language

PS理論から、本件はどう捉えるのだろうか。これまで、この点についてはあまり論じてこなかった。
 しかし、基本的には凸iに言語、ないし、原言語があるとは仮定してきた。
 つまり、同一性を形成する凸iに言語作用があると見てきたのである。
 ここで具体的に想像してみよう。眼前に「山」があるとしよう。それを「わたし」は感覚知覚する。しかし、それは「他者」であるから、凹iである。凹iを凸iに取込もうとするところに言語作用があると考えられる。
 それは凹i⇒凸iであり、凸i⇒凹iであろう。聴覚と視覚の衝突、差異共振と言えよう。「山」はyamaである。
 だから、言葉とは単に凸iの同一性作用だけではなく、凹iとの共振作用が働いていることになる。
 差異共振作用を同一性側、凸i側に取込んだものが言葉であると考えられる。
 構造主義が有名になったソシュールのシニフィアンとは一見、凸iのように思えるが、そうではなく、凹iの記号であると言えよう。そして、シニフィエが同一性概念、悟性的なものであると考えられる。
 しかし、ソシュール側に寄るのではなく、PS理論の概念から読み直すことで、新たな言語哲学が生まれると考えられる。
 とまれ、ここで差異共振同一性作用としての言語概念を得た。だから、言葉の深層には差異、他者、個があると言えよう。それが、表層では同一性、物質性、自我を帯びているということである。
 後で更に検討したい。

追記:いろいろ言うべきこと、述べたいことがあるが、一言付け足せば、言語は第二象限に属するだろう。第二象限は一つの光の領域ではあるが、実は深層に闇があるのを忘却しているのである。これはデカルト哲学にも言えよう。その闇をフッサールは現象学でほぼ解明したと言えよう。

追記2:精神的フィルターsemantic filterの悟性フレームが言語と言えるかもしれない。
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2010年02月20日 (11:06)

マイナス1とは何か:虚軸の精神と実軸の意識:Media Pointにおける不連続的即非的秩序

テーマ:Media Point/精神的フィルター

いろいろ付加されたので、また、重要と考えられる不連続的即非的秩序という概念が生まれたので、再掲する。

************************
マイナス1とは何か:虚軸の精神と実軸の意識:Media Pointにおける不連続的即非的秩序
テーマ:Media Point/精神的フィルター

今はポイントだけ記そう。

『生存する脳―心と脳と身体の神秘 (単行本)』
アントニオ・R. ダマシオ (著), Antonio R. Damasio (原著), 田中 三彦 (翻訳)

の冒頭を読み、そこで説かれる身体は私の考えている-iに近いと感じた。そこから、本題へと転じた。(amazonのコメントにもあるが、訳語に問題がありそうである。)
 今は作業仮説であるが、感情とは、マイナス1ではないだろうか。とまれ、プラス1を陽光とすれば、マイナス1は、「陰光」である。私は不可視光と呼んでいる。
 思うに、プラス1の自我に付随するのが、マイナス1の感情ではないのか。思うに、これは、嫉妬深い感情ではないのだろうか。ヤハウェは嫉妬深い神であるが、その嫉妬はマイナス1ではないだろうか。
 私は、本来の自己は+i、そして、他者は-iと考えている。そして、道徳心や倫理は、-iへの共振から生まれるのではないか。
 つまり、Media Pointの虚軸領域に倫理・道徳があり、それに他指定、実軸は自我知覚と自我感情があるのではないのか。
 どうもうまく表現できていない。私が先に思ったのは、ロマン主義、神秘主義がマイナス1であり、近代合理主義は、プラス1ではないのかということである。
 どうも、今は不明確な状態である。例えば、即非的現象ないしは、即非的知覚はどこに生じるのか。これは、当然、Media Point(以下、MP)である。MPにおいて、虚軸と実軸が交差するのであり、対象の+1と-iがダブルのである。
 思うに、プラス1がなければ、知覚・認識はできない。虚軸だけでは、不明瞭である。つまり、「あれは、蝶である」というのは、プラス1の認識であり、虚軸の前知覚を、確定しているのである。
 そうならば、マイナス1とは何か。プラス1がポジならば、それはネガである。ポジを浮き上がらせるネガである。つまり、プラス1とマイナス1が結合して、現象が生起するのである。
 から、やはり、マイナス1は不可視光、陰光、「闇」と言える。ダーク・マターはやはりこれに関係しよう。
 問題は、感情、情感である。即非的情感というとき、それは、何か。虚軸領域のみでは、それは起こらない。実軸化が必要である。プラス1が生じるとき、つまり、±1が生じるとき、即非的情感が起こる。「私は樹木であり、且つ、樹木ではない。」 つまり、前者において、一体的情感が生じているのである。それは、マイナス1ではないだろうか。
 そうすると、情感は、マイナス1ということになる。近代合理主義・近代的自我はプラス1中心であり、マイナス1を阻害・疎外していると言えよう。つまり、マイナス1を排除しているのである。
 また、それに対する反動が歴史的には、ロマン主義や神秘主義として起こったと言えよう。それは、プラス1を否定して、マイナス1を中心化したのである。しかしながら、当然、それは、反動である。プラス1を否定することは、プラス1中心主義と同様に、主観の歪みをもたらすのである。しかしながら、マイナス1は、即非的情感なので、虚軸の超越性に通じているとは言えよう。
 結局、問題は、不連続的差異論に戻るが、プラス1とマイナス1(ないしはMP)との不連続性を確認するがもっとも重要であるということである。言い換えると、MPにおいて、実軸のプラス1とマイナス1とは不連続的であるということである。MPは、謂わば、不連続点である。そう、特異点である。ここが認識のすべての要諦なのである。(追記:プラス1とマイナス1とが不連続であるということである。それは、即非の論理の展開である。この不連続性は、一種の調和性をもっている。あるいは、秩序をもっている。これを不連続的即非的秩序と呼べよう。あるいは、簡略して、不連続的秩序ないしは即非的秩序と呼べる。これはとても重要なポイントである。)

追記:マイナス1は虚軸に通じていると言ったが、そうならば、プラス1も虚軸に通じていないのか。しかし、そう思うのは幻想だろう。やはり、MPにおいて、虚軸と通じるのである。
 では、ほんとうにマイナス1は虚軸と通じているのか。これは、どうもそのように思える。後で検討したい。 

追記2:一般に、意識において、プラス1とマイナス1とが齟齬を来すだろう。これは、近代における矛盾である。例えば、啓蒙思想ないしは近代合理主義とロマン主義の対立、あるいは、実在論(唯物論)と観念論の対立に見られるだろう。
 しかしながら、近代合理主義が近代科学・技術、資本主義に伴って進展すると、ロマン主義と観念論は衰退すると考えられる。つまり、プラス1が強化されて、マイナス1が抑圧されるのである。それは、また、超越性の否定でもある。
 現代日本人の主観性を考えると、ほぼ以上のような状態である。マイナス1の情感と虚軸の精神が喪失されているのであり、また、それは道徳心・倫理の欠落を意味しているのである。
 とまれ、このプラス1傾斜の力学というか、暴力がある。その暴力、意識暴力が蔓延していると観察される。
 どうして、マイナス1と虚軸を否定するのかと言えば、それは、プラス1の日常(自我と物質の生活)を破壊するからである。マイナス1と虚軸こそ、精神の領域なのであるし、神秘や宗教の領域である。これを現代日本人は恐れているのであるから、マイナス1と虚軸を抑圧しているのである。しかしながら、これは、自己抑圧であり、自己暴力である。
 とまれ、一般にはプラス1とマイナス1とは、絶対矛盾、絶対齟齬の状態であるが、それは、両者が不連続であることを認識せずに、プラス1の同一性ないしはマイナス1の差異で、両者を統一しようとするからである。前者が当然、近代合理主義であり、後者がポスト・モダンである。
 プラス1とマイナス1とが不連続であることを認識すると、MPが開けてくるのであり、超越性が理解されるのであるし、開眼するのである。それは心眼であり、第三の眼と言えよう。

追記3:東洋的身体的自然観を否定したことも、マイナス1と虚軸の精神の喪失につながるだろう。

追記4:うつ病ないし精神病であるが、それは、マイナス1の排除に存するのではないだろうか。
 つまり、まったき近代合理主義は、情感を不合理として排除するのであるから、マイナス1を排除するのである。ただ、同一性の合理性を信奉して、それ以外の精神を不合理としての否定するのである。差異のまったき否定がある。
 しかしながら、マイナス1を完全に封殺したとき、当然、情感を抑圧しているのである。情感エネルギーが枯渇すると考えられるが、情感エネルギーとは何か。例えば、よい音楽を聴くとき、よい自然の光景を見たとき、よい文学作品を読んだとき、友人や仲間と歓談したとき、等に生起するだろう。それは、精神的エネルギーである。つまり、マイナス1を封殺するとき、精神的エネルギーを封殺するのであり、当然、それが枯渇するのであり、うつ病等を発生させると考えられる。近代合理主義は、情感(精神的エネルギー)を抑圧しすぎたのである。

追記5:以上の視点を参考にして、悪とは何かを少し考えてみよう。
 近代合理主義に染まったとき(+1中心主義)、情感のマイナス1が否定される傾向となる。その否定されたマイナス1はどうなるのだろうか。それは、反感となるのだろう。憎悪であり、嫉妬であり、怨恨である。そう、ルサンチマンである。あるいは、悪意である。近代合理主義は、故に、いわば、無意識の、つまり、不合理な攻撃エネルギーをもつと考えられる。これが、悪である。
 シュタイナーはアーリマンという悪魔(追記:これは、ゾロアスター教の悪神アンラ・マンユに当然相当する。)について述べているが、この近代合理主義の無意識がアーリマンと言えよう。(思うに、シュタイナーの説くもう一つの悪魔ルシファーであるが、それは、マイナス1の傾斜であろう。それは、ロマン主義、神秘主義である。)
 そして、シュタイナーは、アーリマンとルシファーの間にキリストを置いているが、それは、プラス1とマイナス1の間のMedia Pointに相当しよう。しかし、注意すべきは、それが不連続点=特異点であることである。これをシュタイナーは述べていない。後でもう少し検討したい。

************************

参考:
書評『生存する脳』
どちらを選んでも構わない選択肢がある場合、しばらく迷ったとしても、やがてどちらかを選んでいることでしょう。しかし、まったく同じ価値をもつ選択肢なのに、なぜ人は「こっち」と選ぶことができるのでしょう。

『生存する脳 心と脳と身体の神秘』アントニオ・R・ダマシオ著 田中三彦訳 講談社 2000年 402ページ


原題は『デカルトの誤り』。「脳と身体は切り離して考えることができる」というデカルトの「心身二元論」を否定する。つまり、身体なしに感情や意識といった脳の役割を考えることはできない、と著者はいう。デカルトに詳しければ読書に深みは増すだろうが、デカルトを知らなくても読める。

脳と身体の関わりについて多く述べられる本書の中で、本質的かつ独自的な著者の弁が「ソマティック・マーカー仮説」だ。

この仮説は、人がある選択を迫られたとき、何もないまっさらな状態から、どれが最善かを考えるのではなく、すでに蓄えられた知識や経験から起きる感情から、どれが最善かを考えている、というもの。

仮説を支持する例として、アメリカ人の工事監督フィアネス・ゲージに関する逸話や、著者が実際に接したエリオット氏(仮名)の言動などが紹介される。彼らは、事故により脳の前頭前野を損傷してしまった経歴の持ち主(表紙カバーの絵がゲージの事故当時の状態を示している)。だが、理性は失わず生活を続けることはできた。

ところが、しばらく経つと判断力の欠如がおこり、人生が豹変してしまう。たとえば、人と会う約束を15日にするか17日するか、どちらの日でも問題ないのに「どちらのほうが天気がよさそうか」とか「どちらのほうが交通機関の乱れはなさそうか」とかで延々に考え込んでしまうのだという。

裏返せば、私たちのいろいろな選択の場面では、過去のよい体験・いやな体験などが作用して、直観的に将来予測をして、判断しているということになる。生活の中において、帰納法はしっかりと役割を果たしているということを実感した。。

翻訳の精度について、いろいろな書評子から問題とする指摘もあるが、かといって読み控えされるのはもったいない。患者の事例のところとソマティック・マーカー仮説の部分はわかりやすいので、そこを読むだけでも得られる知見はあるだろう。

『生存する脳』はこちらで。
http://www.amazon.co.jp /生存する脳?心と脳と身体の神秘-アントニオ・R-ダマシオ/dp /406210041X/ref=sr_1_2/250-3461571-9880240?ie=UTF8&s=books&qid=1194099166&sr=1-2

http://sci-tech.jugem.jp/?eid=696
科学技術のアネクドート
参考2:
生存する脳―心と脳と身体の神秘

生存する脳―心と脳と身体の神秘


 ソマティック・マーカー仮説の提唱者 ダマシオ博士の著書である世界的ベストセラーである。
 ソマティック・マーカー仮説とは、ものすごく乱暴に言うと人間の「第六感」「直感」が人間の行動を規定するという考え方である。
 本書の言葉を借りれば、
「特定の行動がもたらすかもしれないネガティブな結果にわれわれの注意を向けさせ、いわばつぎのように言い、自動化された危険信号として機能する(生存する脳より引用)」
 ということになる。
 要するに、「嫌な予感がすることはしない」我々の能力のことである。
 
 我々が苦境に耐えられるのも、誰かのために利他行動をするということは、目先の利益よりも長期的な利益を優先させた方が有利であると取捨選択を行なった結果である。
 卑近な例であれば、「頑張って勉強してよい大学に入る」とか「普段は節約して休暇は海外旅行に行く」とか。
 親が自らよりも子供の幸せを願うのは利他行動の最たるものである。
 ちなみに、このような遺伝子を共有するもの同士の利他行動は、今まではむしろ
利己的な遺伝子 のような考え方で説明されることも多かった。 
 これ自体は、別に目新しい仮説ではないと思う。
 それどころか、誰もが日常レベルの経験で納得がいくものであろう。

 ダマシオ博士の斬新さは、これらの事実もこのソマティック・マーカー仮説により説明可能であると打ち立てた点にあるだろう。

 つまり、こうした有利不利の取捨選択に、我々の思考のみならず、直感が深く関わっているというのだ。
 ここまでは誰にでも理解できる。
 「何となく虫が知らせる」
 ということは誰にでもあるものだ。
 しかし、これらの直感の獲得に、脳のみならず身体反応が関わっているという点がこの仮説の最も斬新な点であろう。

 そして、この仮説によると、我々の思考に直感が大きく関わっており、むしろ思考よりも直感が先に来るという。
 しかもその直感に脳、身体、社会的文化的側面すらも大きく関わっているという画期的な説なのである。
 勿論ここでいう、「脳」には解剖学的な脳の機能と神経伝達物質のような脳の機能的な部分の両者が含まれる。
http://blog.livedoor.jp/dogmania/archives/14615469.html
小枝の超!極私的読書術
参考3:
脳ノート(12)-「生存する脳」ダマシオをめぐって

⑥  情動について(つづき)


まず、<一次の情動>の神経回路を、おさらいしておこう。
「一つの適切な刺激が扁桃体を活性化すると、次のようないくつかの反応がこれに続く。内的な反応、筋肉反応、内臓反応(自律神経系の信号)、神経伝達物質を生産する核への信号、視床下部への反応。視床下部はホルモンなどの化学的反応を生み出す。この反応は血流を利用する。…われわれが情動を表現する時の姿勢などの筋肉反応は、おそらく基底核内の構造(いわゆる腹側線条体)を使っている。」

情動というものが、身体の具体的な変化としてまず現れるもの、そしてその時、脳内ではその変化しつつある身体の変化が、身体マップとして、体性感覚皮質に指示的表象として、あるいは、神経的表象として現れているような、状態であるということ、ここを押さえておこう。
そして、神経回路としてはまずその始まりが、あるいは活性化の最初の脳部位が、扁桃体であるということを覚えておこう。


二次の情動

「二次の情動を検討するために、大人の経験から引き出される例に目を向けることにする。たとえば長い間会ってなかった友人と再会するとか、同僚の予想外の死を告げられるとか、そういった状況を考えてみよう。それらが現実である場合―そしてたぶん、それを単に想像する時でさえ―われわれは情動を経験する。そのような情動が生じるとき、神経生物学的には一体どんなことが起きるのだろうか?<情動を経験する>とは、本当のところ何を意味しているのだろうか?」

「あなたがそうした状況の一つを想像しているとき、もし私がその場にいれば、私は観察結果をいくつか列挙することができるだろう。そうした状況(長いこと音信不通だった友人との再会、同僚の死)の中心的局面に対するメンタルイメージが形成されると、身体状態に変化が起こる。その変化は、様々な身体領域におけるいくつかの変化によって定義される。旧友に会えば、心臓の鼓動は速くなり、顔は紅潮し、口と目の周りの筋肉が変化してうれしそうな表情になり、他の筋肉も弛緩するだろう。また、もし知人の死を耳にすれば、心臓はドンドン高鳴り、口は渇き、顔は蒼ざめ、腸管の一部は収縮し、首と背中の筋肉は緊張し、顔の筋肉が悲しげな形相を生み出す。」

「いずれの場合も、内臓(心臓、肺、腸管、皮膚)や骨格筋(骨の付いている筋肉)や内分泌線(たとえば、下垂体や副腎)の機能のいくつかのパラメータに変化が起こる。いくつかのペプチド調節物質が脳から血流に放出される。免疫系も急激に変化する。動脈壁の平滑筋(心臓金を除く内臓の筋肉)の基本的な活動が増加し、血管を収縮させ、細くする(その結果、蒼白になる)。逆にその活動が減少すれば、平滑筋は弛緩し、血管が膨張する(その結果、紅潮する)。全体として、一連の変化は機能的バランスあるいは恒常性(ホメオスタシス)と対応する平均的状態の範囲からの逸脱を示している。平均的状態にあるとき、有機体の経済は、少ないエネルギー支出と単純かつ迅速な調節で、おそらく最善に機能している。」

「この機能的バランスの範囲を静的なものと考えるべきではない。それは上限と下限の範囲での一連の連続的な変化である。それをウォーターベッドの状態と結びつけて考えることもできるかもしれない。ウォーターベッドの上をさまざまな方向に歩くと、ある部分はへこみ、またある部分は膨らむ。さざ波が立つ。そしてベッドが全体的に変化する。しかしその変化はベッドの物理的限界、つまり、ある量の液体を内に含んでいる境界によって規定される範囲の中にある。
この仮想的な情動経験において、身体の多くの部分が新しい状態―つまり、意味ある変化が生じている状態―に置かれる。
有機体の中で何が起こり、そのような変化をもたらすのか。」
http://blogs.yahoo.co.jp/holesson460712136/18076027.html
ho-ho-ho雑記

2010年02月09日 (13:11)

存在的現象と物質的現象:四元的世界:虚数的差異とMedia Pointと混淆と物質

先に以下の考察を行ったが、まだまだ不明なところがあるのでさらに検討したい。
「存在について:現象と存在と物質」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10454122532.html

物質的現象が通常の現実と考えられるものである。例えば、眼前にある杉の木は、物質的現象である。しかしながら、同時に、それは存在的現象である。つまり、存在的現象と物質的現象が一体化しているのである。
 そして、両者は通常区別されないのである。混同されていると言えよう。

 (ここで立ち止まって、厳密に見ると、果たして、物質的現象という用語を用いていいのか疑問である。先には、現象=存在と物質を区別したのだから、物質的現象というと一貫性がなくなるからである。
 しかし、夢の現象や映画の現象と物質の「現象」を考えると、物質的現象という言い方は可能ではある。
 思うに、先の考え方を訂正して、存在的現象と物質的現象の区別をここで作業仮説的にしてみたい。
 だから、本論を続けることになる。)
 
 存在的現象には、例えば、夢現象、映画現象、美的現象、精神現象、宗教現象等がある。それに対して、物質的現象とは、近代科学で分析するような対象の現象である。ps理論で言えば、+1である。
 問題は、どうして二つの現象があるのかということである。あるいは、存在的現象はどうして物質化しないのかということである。あるいは、どうして、物質化する現象があるのかということである。
 丁寧にみよう。例えば、精神現象である「わたし」という存在(自己と他者の即非共同態)は、身体として現象している。身体を物質とするならば、「わたし」という存在的現象は物質化していることになる。
 思うに、「わたし」という存在的現象は身体という物質的現象と「混合」しているのである。キリスト教の用語を使えば、「受肉」しているのである。
 だから、身体や存在という事態があいまいになりやすいと言えよう。思うに、混合様態があると思う。感覚なのか心的様態なのかあいまい状態があるのである。
 例えば、「苦しい」とは、身体が「苦しい」のか、心が「苦しい」のか、あいまいである。
 思うに、存在的現象と物質的現象(この場合は身体的現象)が混合していると見るべきであり、この混合様態、ないしは、混合的現象を確認すべきであろう。
 そうすると、三種類の事象を考えるべきであろう。即ち、

1)超越(虚数)的差異:(+i)*(-i)
2)存在(精神)的現象(Media Point or ⇒)
3)物質的現象(+1)

である。(追記:ここでは混合様態、混合的現象の記述が不正確である。あるいは、2の存在的現象の考え方が混乱している。正しくは、以下の四つの世界の3の世界が正しいのである。)
 思うに、誕生以前の世界(「前世」:追記:「前世」は誤りである。「前世」の後の死後の世界である。)や死後の世界(「他界」)は1の世界ではないだろうか。そして、現世は2と3ではないだろうか。また、近代科学・技術や資本主義は3の世界のみを発達させたと言えよう。
 さて、本論に戻ると、問題は、2と3の世界の混同・混淆にあることである。だから、四つの世界が考えられる。即ち、


1)超越(虚数)的差異:(+i)*(-i)
2)存在(精神)的現象(Media Point or ⇒)
3)混淆的現象(2と4)
4)物質的現象(+1)
 
である。一般には、3の混淆的現象の世界を生きているのであるが、近代科学・技術/資本主義が発達したので、4の世界へ傾斜しているのである。唯物論の世界である。うつ病・精神病の世界、交換価値中心主義(金融資本主義)の世界、暴力・差別・疎外・被搾取の世界、カルト・原理主義・洗脳/マインドコントロール・狂気の世界でもある。(因みに、この根本的内因は、ヤハウェ神にあるだろう。ヤハウェはある意味で、アンラ・マンユ悪神である。)
 ここでフッサールの開拓した現象学を考えると、それは、3と4の世界をエポケー(判断停止)して、2の超越的現象を取り出したことに大画期性(ブレーク・スルー)があると言えよう。
 しかし、ハイデガーの存在論は、それを看過して、あるいは、無視して、あるいは、それに無理解で、3の世界を存在的世界として提起したのである。これでは、現象学が混乱したのは当然である。存在は2の世界に求めるべきであるのに、ハイデガーは3の世界に求めたのである。そして、なんとか、2の世界を取り戻そうと努力したが、フッサールの超越論的現象には届かなかったと考えられる。(ハイデガーの現存在や世界内存在は端的に、3の混淆的世界である。そして、本来の存在とは、2の世界であるはずなのに、それを3の世界の内奥、内在性に求めているのである。つまり、連続論なのである。)
 今日、通常、一般、4の物質的世界に傾斜した3の混淆的世界に生きているので、2の超越的現象、存在的現象、精神的現象のことに無知になっているのである。そのために、経済・社会・文化が混乱・狂乱しているのである。
 トランス・モダン社会とは、意識においては、2の世界を取り戻すことにある。2の世界観をもつことで、モダン・ワールド(ないしはポスト・モダン・ワールド)から脱出(エクソダス)することができる。
 ps理論的に「解脱」した人が増えれば増えるほど、新世であるトランス・モダン・ワールドがやってくると言えよう。一人一人の覚醒(ブッダ)が今や肝心なのである。

追記:ヘーゲル精神現象学の根本的問題は、2の世界と4の世界を一致させたことである。精神=物質としたのである。これは、観念論的唯物論である。以前述べたように、マルクスやレーニンはヘーゲル哲学を唯物論的に継承したのである。

追記2:Media Pointないしは⇒はエネルゲイアであり、(+i)*(-i)はデュナミスと言えるだろう。しかし、言わば、霊界と言えるだろう。

2010年02月08日 (23:49)

存在について:現象と存在と物質

「存在」とは何であろうか。
 サルトルは、即自存在と対自存在という区別をする。前者は、ps理論的には、自我同一性(+1)であり、後者は、Media Pointに相当すると考えられる。
 問題は、これまで、強いて「存在」については述べてこなかったことである。
 ここでは、直感的に考えよう。私は有り体に言えば、「存在」に疑問を感じる。なぜなら、「わたし」は果たして「存在」しているのか、疑問である。というのは、いつかは、「わたし」はこの世から居なくなるからである。つまり、「不在」になるのである。
 それは置いておくとして、「わたし」の存在とは何であろうか。
 わたしはよく夢を見るが、夢をみているときは、夢は現実であり、夢は「存在」している。
 そう、私は夢と現実との「存在」を問題にしたいのである。夢において、夢の世界は確かに、「存在」しているが、夢から覚めると、それは、非存在である。
 もっともわかりやすい例をあげれば、映画である。映画は映像であるが、それを見ている者は、映像を現実存在であると思う。これは、夢ととても似ていると言えよう。そして、現象の問題にきわめて似ているだろう。
 そう、現象と夢はどう違うのかという問題が立てられよう。
 端的に言えば、違いは物質の有無ではないだろうか。夢現象は「存在」しているが、物質ではない。映画の映像は「存在」しているが、物質ではない。だから、「存在」と物質の違いがある。
 具象的に考えよう。「わたし」が「木」を見ているとしよう。これが、現実においてである。つまり、「木」現象を見ているのである。
 そして、その「木」を伐採すれば、材木という物質が取れるのである。これは事実である。もし、夢の中の「木」ならば、材木は不在である。
 これまでの検討から言えば、物質としての「木」とは、+1である。これが、夢現象にはないと言えよう。つまり、夢現象とは、⇒に留まるのではないだろうか。
 そうすると、現象、現実的現象においては、⇒+1が生じているのであり、+1の物質を伴っていると言える。
 ここで、存在を考えると、思うに、存在は、⇒であり、+1の物質ではないと考えられる。
 だからこそ、即自存在、対自存在が考えられるのではないだろうか。つまり、存在と物質とは別のものであるということになる。
 では、即自存在とは、+i中心の⇒であり、対自存在とは-i を包摂した⇒ではないだろうか。
 ということは、超越性を存在と見ることである。超越的差異である+iを即自存在、超越的他者である-iを包摂して対自存在を考えるのである。
 いちおう以上を仮説として、ハイデガーの存在論を考えると、それは、ある意味で、フッサールの現象を単に、存在と言い換えただけではないのかという疑問が生じる。思うに、ノエマとは、-iと見ればいいのではないだろうか。
 そのように考えると、現象と存在は区別がなくなるだろう。つまり、現象=存在である。だから、根本的なのは、現象(=存在)と物質の区別ということになるだろう。
 これが決定的であると思う。では、物質とは何か、である。
 簡単な例で考えよう。水H2Oである。 
これは、水素イオンと酸素イオンの結合である。だから、虚軸において、水素イオンと酸素イオンを定置できる。
 そこから考えると、水素イオンと酸素イオンは存在であり、物質は水H2Oである。つまり、水という現象=存在は、物質としての水H2Oとは異なるということになるのである。
 今はここで留める。後で、新たに検討したい。

追記:冒頭では、即自存在を自我存在+1としたが、それは、不正確なので訂正する。即自存在とは、Media Point=+1になっている自我同一性の様態である。つまり、自己認識方程式における⇒が=になってしまい、差異エネルギーを喪失して、硬直した状態なのである。仏教で言えば、「色(しき)」である。

2010年02月06日 (10:59)

-iの身体知覚について:感一知覚と不可視光知覚

直感では、-iは察知する能力がある。人の心を読むときに使う能力である。そう、一種占いの能力である。
 しかし、それは、また、Media Point(以下、mp)の能力のようにも思える。つまり、-iとmpが明晰に区別されていない。
 例えば、冬の落葉した木を見るとき、視覚において、対象としていると同時に、一体的知覚がある。先の検討では、後者はmpの知覚である。
 しかし、mp知覚であっても、対象的知覚は+iで、そして、一体感的知覚は-iが形成しているのではないのか。
 そう、mp知覚は即非的知覚であり、そこにおいて、+iは対象的認識を-iは一体的認識を行うのではないだろうか。言い換えると、+iは知性的認識であり、-iは感性的認識(美的認識)ということになるだろう。
 しかし、感性的認識(美的認識)というのは不十分である。なぜなら、-iの知覚認識はダイレクトなそれだからである。対象と一(いつ)の知覚認識だからである。言い換えれば、「物自体」、対象自体である。
 それを存在と言えるのだろうか。存在という言い方は、客観的対象を意味するので、使えないだろう。強いて言えば、主体(主観)的対象である。
 とまれ、思いつくまま、命名してみよう。感融認識、感一認識、感和認識、感即認識。
 一応、感一知覚、感一認識とすると、それは、先に述べた不可視光と関係するのである。+iが可視光と関係するならば、-iは不可視光と関係するのである。以前、+iを原光、-iを原闇と言ったが、それとも関係するだろう。
 しかし、問題は、原光を可視光、原闇を不可視光としていいのか、である。ある意味でそれは正しいのではないだろうか。現象光とは、原光と原闇の共振に基づくのであり、そこには、可視光と不可視光が結合していると言えるだろう。
 そう考えると、-iは不可視光的知覚をもつのである。これが、対象と一になるのである。
 可視光における対象を+1とするならば、不可視光における対象とは-1ではないだろうか。(一種、ダーク・マターではないか。)
 そして、近代的知覚は可視光中心で、不可視光の世界を排除していると考えられる。とまれ、今の段階では、-iは不可視光知覚としておく。
 さらに考えると、先に述べた超越光と現象光の関係である。私は現象光の中に超越光が含まれると述べた。そして、超越光は可視光、不可視光とも異なると述べた。
 それは、mpの虚軸で発生するものと思われる。そして、それが、実軸において、現象光となるということではないかと言った。
 少し不明瞭であるが、ここで留めておく。

2010年02月02日 (22:59)

検討問題:Multiple Media Pointについて:X*Y⇒+1

例えば、n個の差異と共振する事態をどう記述するのか。
 X1, X2, X3, ・・・Xnの差異があるとすると、
X1*X2*X3*・・・*Xnとなる。
ここで、単純化して、例えば、
X1*(X2*X3*・・・*Xn)と変換できる。そして、
X2*X3*・・・*Xn=Y1とすれば、
X1*Y1となる。これで、即非共振させることができるのである。X1*Y1⇒+1である。
 思うに、( )の括りは、他の場合でも同様であると考えられる。即ち、任意に多重差異共振を単位的な即非的共振に変換できると考えられるので、
X*Y⇒+1となる。ただし、XとYは、任意に括られた差異共振である。

2010年01月21日 (12:53)

検討問題:視覚と植物と大気:気覚と気視覚

近くに落葉広葉樹の森があり、また、農地もある。しかし、国道があり、車の通行も多い。それにもかかわらず、ここの空気・大気には、清新な気を感じる。
 ここで仮説として、気的感覚(以下、造語の気覚)を提起する。それは、当然、空気の気を感覚する能力である。
 これは、視覚がなくても、いわば、肌で感じるものである。
 思うに、木々をみるとき、都会と田舎(郊外を含めて)では異なる。視覚から言えば、都会の木々も田舎のそれも、絶対的には異ならない。もっとも、葉の生気感や色等が異なるだろうが。
 端的に、東京で見る樹木は、一体感が乏しい。もっとも、一体感がないことはない。駅前のイチョウの木に一体感を感じうるが、それは、限られた経験である。
 私は気覚の充足を求めているのだろう。東京の空気においては、気覚は充足されず、ただ、視覚がはたらく。
 そう、気覚が充足されないことから、息苦しさを感じると言える。
 今住むところでは、気覚が充足され、そして落葉した冬の木々を見ると、針のような枝が心地よい。
 気覚をもった木々の、とりわけ、網状の扇状の枝分かれした木々の視覚が心地よい。これを気的視覚(以下、造語で、気視覚)と言ってもいいだろう。気視覚は、「自然」と共振する。山、森、土、川、等。
 端的に、「気」とは何か。直感で言うと、大地の呼吸と関係すると思う。東京はコンクリートで大地が窒息しているので、気が欠乏していると思う。
 大地の呼吸とは、植物と水や空気を介したものだろう。土や植物から水蒸気や気体が発生する。そこに気があるのではないのか。
 H20は、水素イオンと酸素イオンをもつのではないのか。つまり、Media Point化しているのではないのか。そのときに、気が発生するのではないのか。
 つまり、大地の水がエネルギーを受けて、水蒸気になるとき、イオン化して、Media Pointが発生するのではないのか。そのとき、気が発生するということではないのか。
 熱エネルギーが再Media Point化が発生するということではないのか。これを
Re-mediapoint(re-mp)化
(Re-MediaPointenment)と呼ぼう。
思うに、このとき、超越エネルギーが生起するのではないのか。先に、超越光と呼んだものと類似するように思えるが。(もっとも、先には、気はマイナス1と考えたが、それはおいておく。)
 結局、エネルギーの再活性化ではないだろうか。水は、+1となっているが、賦活されて、Media Pointが開くのではないのか。
 つまり、虚軸のエネルギー、超越エネルギーが生起するのではないのか。ここで作業仮説で、気を超越波と呼ぼう。つまり、超越波が発生して、空気が活性化するのではないだろうか。
 これは、調和的電磁波と言えるかもしれない。プラスとマイナスの差異が共振した電磁波ということになる。階調的電磁波である。
 では、人工物の電磁波はどうなるのか。例えば、私はコンクリートの集合体が大嫌いであるが、その場合のコンクリートの電磁波はどうなるのか。
 そこへ光が当たっても、共振はないと思う。コンクリートは、プラス1だけであり、Media Pointはないと思う。物質である。そう、物質とは、Media Pointを喪失したものであり、エンテレケイアである。
 東京とは、物質の集合であり、気はないのである。唯物論の都市である。アンラ・マンユの都市であり、没精神の都市、悪魔の都市である。
 気は調和的電磁波と考えられるので、気が多いと、心身に調和志向をもたらすだろう。つまり、心において、精神性をもたらすと言えよう。
 今日、日本人が精神を喪失しているのは、ここにも原因があるだろう。とりわけ戦後の唯物論(近代合理主義)的都市化によって、気を喪失して、精神を失ったのである。三島由紀夫の断絃の時とは、このことと関係しよう。気は音楽をもたらすのである。気の喪失によって、音楽が死んだのである。

追記:気を調和的電磁波と言ったが、まだ、どこか、気と電磁波は異なるのではないという感じがある。それとも、私の偏見であろうか。後で検討したい。

参考:
氷・水・水蒸気…水の三態

私たちは日常の中で、水を冷やせば氷になり、氷に熱を加えると水に戻り、さらに熱を加えていけば水蒸気になることを当たり前のように体験しています。しかし、水は人為的な作用を加えずに、自然条件の中でも固体、液体、気体と姿を変えることができます。私たちにとって、水ほど当たり前のものもありませんが、実は水ほど不思議な物質もありません。水のもつ能力や謎には、いまだ解明できていない部分があります。
1. 水分子の構造

水の分子は、化学記号からわかるとおり水素原子(H)2つと酸素原子(O)1つが結合してできていますが、この水分子1つでは液体になりません。水という液体になるためには、水分子がたくさん連なることが必要です。物質を構成する分子と分子がつながるための力にはいろいろな種類がありますが、水分子の場合は酸素側がマイナスの電荷、水素側がプラスの電荷を持つようになり、いわば磁石のような働きを持っているために、正負で引き合う電気的な力によって結合します(水素結合)。この水素結合により、水分子間がつながり、水分子の集合(水クラスター)が形成されます。常温の水では、5~6個から十数個の分子がクラスタを形成しています。
氷・水・水蒸気


http://www.suntory.co.jp/company/mizu/jiten/know/kn_01_01.html



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SUNTORY

2010年01月20日 (12:57)

検討問題:「光」の複雑性:Media Point/精神的フィルターの複合様相について

思考実験である。
 Media Point(以下、mp)の虚軸において、超越光が発生すると仮定する。それがmpの実軸において、現象光(通常の光)を発生させると仮定する。
 問題はジェンダー的視点である。父権的視点では、+iに傾斜して、-iが抑圧される。それが、父権的プラス1の意味である。
 しかるに、母権的プラス1は、本来、マイナス1を排除せずに、内包、包摂している。つまり、高純度の場合、母権的認識とは、即非的認識になると考えられる。これは「+iであり、且つ、-i」であるということであり、その結果、プラス1とマイナス1を共立させているということと考えられる。そのときのmp は、「心」である。
 しかしながら、プラス1とマイナス1も即非的様態である。例えば、プラス1である粒子は、マイナス1である波動であるということになるだろう。(即非子である。しかしながら、即非子総体は四元ないしは五元的と見るべきである。+i,-i,+1, -1、ないしは、それにmpが入るからである。)
 さて、本題を続けると、mpの虚軸(以下、imp)において、超越光が生起し、それが、mpの実軸(以下、rmp)に転移して、現象光(+1)が発生する。しかしながら、同時に、不可視光(-1)が発生する。そして、両者は即非的様相ないしは、共立様相にある。
 心眼というとき、それは、不可視光に関わる。また、勘とか、直感も不可視光に関係しよう。(女性の勘が鋭いのは、ここに拠るだろう。)
 そうすると、「光」は、超越光と現象光と不可視光が少なくともあることになる。
 しかし、+iは原光であり、-iは原闇である。原闇も「光」に入れると、五つの光があることになる。
 思うに、超越光がmpの中心にあるのではないだろうか。つまり、超越光の反映・投影がmpに存するのではないだろうか。それが、現象光と不可視光の即非的様相を生んでいるのではないだろうか。
 私が先に、「光の中の光」と言った超越光は、かすかに、mp、即ち、「心」を介して、視覚できるのだろう。
 また、絶対的超越光と現象的超越光が区別できるのではないだろうか。そうすると、六つの光がある。
 また、両者を即非化してみれば、即非的超越光があり、七つの光となるのではないだろうか。
 
追記:上記のジェンダー的視覚の確認であるが、父権的視覚は+iの傾斜があり、そのため、他者-iを圧迫する。母権的視覚は本来、傾斜はなく、+iと-i の均衡がとれている。
 
追記2:マクロコスモスはimpで、ミクロコスモスはrmpであろう。もっとも、mpが共通である。
 では、メゾコスモスである社会はどうなるのか。物質的社会が+1で、共同体社会が-1である。この現実的対立が常に発生しているのがメゾコスモスである。
 ミクロコスモスにおいては、ある時に、調和の時(悟り)をもつが、メゾコスモスには、ほぼ永遠の闘争があると言えよう。
 しかしながら、+iの父権的傾斜による+1を中心価値とする近代文明は今や解体期である。
 他者である-iが正当な評価を求めているのである。それは、+1と-1との調和を志向する。それは、父権的物質文明を基礎とした新母権的共同体文明となろう。
 いわば、ヤハウェが踏み台となる多神教的文明である。
 ここで、「父」の問題がある。ヤハウェは本来、義父的である。実父とは、impの超越光であろう。それは、アフラ・マズダーである。つまり、実父が帰還するのである。だから、新母権・新父権文明である。

追記3:「心」の問題であるが、いわゆる、「心」は、マイナス1であり、同一性知性はプラス1である。本来の頭脳とは、両者の対話に存しよう。

2010年01月09日 (22:27)

検討問題:即非的エネルギーと身体:即非的身体と物質

検討問題:即非的エネルギーと身体:即非的身体と物質
テーマ:検討問題:思考実験・仮説
Media Pointで、超越対子(造語)は、即非的エネルギーになり、プラス1で、物質となり、マイナス1で、「ダーク・マター」となる。
 身体と言うとき、先に、物質的身体と精神的身体に分けたが、もっとも、両者は即非的に一体である(即非的身体)。
 そして、自然、生命とは、この即非的身体である。つまり、森羅万象、「精神」(マイナス1)をもつのである。しかし、近代合理主義、唯物論は、プラス1の物質しか認めないのである。そのため、自然は、総合的に認識・理解されないであり、ただ、即非的身体を同一性(物質)の側面から見ているだけなのである。
 遺伝子も、物質的側面であるDNAしか見ていないのである。遺伝子は正しくは、即非的身体であり、マイナス1に遺伝子情報があると見るべきである。
 それは、差異共振的情報であり、多様な波動的情報と考えられる。言い換えると、多様な電磁気(=気)的情報と考えられる。

2009年12月24日 (14:49)

検討課題:フォルムと同一性:ディオニュソスとアポロ:差異と同一性

先に、視覚と同一性の連関に関して検討したが、特に、視覚だけが同一性に関係するのではなく、言語が同一性に関係すると述べた。
 しかしながら、現象界における物のフォルム、つまり、輪郭を見ると、それが、同一性の単位ではないのかと思った。
 例えば、車がある。車のフォルムがある。そのフォルムと車という同一性が結びつくのではないのか。
 即非現象の場合、「車」はフォルムをもつものの、他者、絶対的他者、絶対的差異となるのである。その時のフォルムは確かにフォルムとしてあるが、もはや、「車」のフォルムではない。
 とまれ、視覚現象において、物や人のフォルムがあり、それが、物と人の同一性を形成するのではないのか。
 鏡像の場合、そのフォルムによって、「わたし」の同一性が形成されるだろう。
 思うに、⇒+1の+1はフォルムも意味すると考えられよう。つまり、形態である。これは、アリストテレスの形相(エイドス)と関係しよう。(また、ニーチェが問題とした感覚の問題がここにあると言えよう。因みに、イデアはMedia Point[⇒]に存すると言えるが、形相は思うに、⇒の先端にあり、その結果がフォルムであろう。)
 つまり、形相(エイドス)⇒フォルム(形態、輪郭)ということになる。
 結局、同一性認識とは、エイドス⇒フォルムに拠るのではないだろうか。そして、これは、固定したものであり、二項対立的になるだろう。つまり、フォルムは物の同一性を決める根拠であり、ここにおいて、他者と背反の関係になるのである。例えば、「花」のフォルムがあり、それは、「石」のフォルムとは絶対的に異なり、両者は区別されるのであり、一如となることはありえない。「花」は「花」であり、「石」は「石」である。
 このフォルム的同一性が、物質の根拠となるのではないだろうか。本来、物とは、即非現象であり、物質ではないのである。
 結局、フォルム的同一性という視覚が、支配的になり、超越性を喪失させると考えられる。イタリア・ルネサンスにおいて、遠近法が発達するが、これは、正に、フォルム的同一性を構築するものではないだろうか。そして、デカルト哲学によって、近代合理主義が生まれてくるのである。(もっとも、デカルト哲学は Media Pointをもつが。)
 結局、フォルム的視覚が同一性主義、物質主義の根拠になると考えられる。言語も同一性主義の根拠の一つではあるが、フォルム的視覚の方が、言語よりも、主導的であると考えられる。
 そう、端的に、言語には、内面性を志向する側面があるからである。
 
追記:ニーチェの「アポロ」は、二面性をもっていると考えられる。一つは、⇒+1としての「アポロ」(光)であり、一つは、以上のフォルム的同一性としての「アポロ」である。
 そして、これは、ある意味で当然ながら古代ギリシアの二面性に通じよう。つまり、古代ギリシアはディオニュソス的な差異共振性をもっていると同時に、フォルム的同一性の「アポロ」をもっていたのである。つまり、差異と同一性の大矛盾が古代ギリシアに存したのである。これは、プラトンとアリストテレスの対立に見ることができよう。
 注意すべきは、差異共振・即非現象としてのアポロ、⇒+1である。これは、超越性の背景があると言えよう。しかし、同一性のアポロは+1で、もはや、超越性は消えている。
 思うに、ヘルダーリンやシェリングは超越性を志向したのであり、ヘーゲルとは対峙する。
 また、ディオニュソスであるが、それは、Media Pointと見るべきであろう。私はプラトンとニーチェは意外に似ていると言ったが、それは、ここから説明できる。つまり、両者ともに、Media Pointにおいて、超越性を説いていたのである。
 ところで、ニーチェの説いた「大地」とは何だろうか。地上性は何だろうか。後で検討したい。


参考:
形相
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形相(けいそう ギリシャ語 エイドス)とは、哲学用語で質料 に対置して使われる用語。日本語としては、「ぎょうそう」とも読めるが、哲学用語として使う時には「けいそう」と読む。
アリストテレス哲学における「形相」 [編集 ]

「質料」(ヒュレー)と「形相」(エイドス)を対置して、内容、素材とそれを用いてつくられたかたちという対の概念として初めて用いた人は、古代ギリシアの哲学者アリストテレス である。彼の『形而上学 』の中にこういう概念枠組みが登場する。

プラトンが観念実在論を採り、あるものをそのものたらしめ、そのものとしての性質を付与するイデアを、そのものから独立して存在する実体として考えたのに対し、アリストテレスは、あるものにそのものの持つ性質を与える形相(エイドス)は、そのもののマテリアルな素材である質料(ヒュレー)と分離不可能で内在的なものであると考えた。

プラトンは元来イデアを意味するのにエイドスという言葉も使っていたのだが、アリストテレスが師の概念と区別してこの言葉を定義した。

大雑把に言えばプラトンのイデアは判子のようなものであるが、アリストテレスのエイドスは押された刻印のようなものである。イデアは個物から独立して離在するが、エイドスは具体的な個物において、しかもつねに質料とセットになったかたちでしか実在し得ない。

エイドスが素材と結びついて現実化した個物をアリストテレスは現実態(エネルゲイヤ)と呼び、現実態を生み出す潜在的な可能性を可能態(デュナミス )と呼んだ。今ある現実態は、未来の現実態をうみだす可能態となっている。このように、万物はたがいの他の可能態となり、手段となりながら、ひとつのまとまった秩序をつくる。

アリストテレスはまた、「魂とは可能的に生命をもつ自然物体(肉体)の形相であらねばならぬ」と語る。ここで肉体は質料にあたり、魂は形相にあたる。なにものかでありうる質料は、形相による制約を受けてそのものとなる。いかなる存在も形相のほかに質料をもつ点、存在は半面においては生成でもある。

質料そのもの(第一質料)はなにものでもありうる(純粋可能態)。これに対し形相そのもの(第一形相)はまさにあるもの(純粋現実態)である。この不動の動者(「最高善」=プラトンのイデア)においてのみ、生成は停止する。

すなわち、万物はたがいの他の可能態となり、手段となるが、その究極に、けっして他のものの手段となることはない、目的そのものとしての「最高善」がある。この最高善を見いだすことこそ人生の最高の価値である、としたのである。
関連項目 [編集 ]

* 質料
* デュナミス
* イデア論

執筆の途中です この「形相」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています 。(Portal:哲学 )
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BD%A2%E7%9B%B8 」より作成
カテゴリ : 哲学の概念 | 形而上学

第一章 宇宙(世界)と人間
2.(2) 理想世界の追求-現実の分析からの世界。

アリストテレスが世界を考える場合、彼はプラトンの弟子として、当然、プラトンのイデア論を引き継いでいます。彼もまた、理想世界を追う点では、プラトンに劣らぬものがありました。

ただ、彼はプラトンに比べると現実主義的でした。プラトンが現実の世界をイデアの影のようだと見なしたことには、納得がいかなかったのです。

彼にとっての世界は、自分が現実に存在する世界以外の何ものでもありませんでした。彼は、現実を見つめ、現実を分析し、さらにこれを統合しようとしました。

そこには、プラトンのようにイデアの世界に住むことができないアリストテレスの厳しい現実があったのかもしれません。人が運命に翻弄されるように生きなければならないとき、人はその現実の厳しさを見つめなければならないからです。

ともあれ、彼は、現実に存在しているものを見つめ、これを、プラトンの用語法にならって、しかも、プラトンとは異なった考えであることを示すために、「形相(イデア=物事の本質)」と「質料(ものごとを形作っている材料)」に分けて考えました。

ものが存在しているのは、「形相」が「質料」をとって、それが一つになって形を取っているからであると考えたのです。

物事のイデアはある。しかし、プラトンが主張したようにイデア=形相は、どこか他のところにあるのではなく、存在している物事のその中にある、というのです。

哲学用語を塚っていえば、形相=イデアは、超越しているのではなく、内在しているということになります。

「本当のこと」はわたしの外にあるのではなく、わたしの内にある、といってもいいかもしれません。

感覚できる現実の世界は、形相と質料が一つになった世界であり、形相は、その世界のそれぞれの事物の中にあり、質料は、デモクリトスらの原子論者の言う「原子」でもあります。

たとえば「木」を考えてみましょう。アリストテレスは、現実に存在している「木」は、そのどれをとっても「木」であるとうい「木」の形相=イデアを備えています。「木」をみれば、どこでも「木」の特徴である「木の形相」を見出すことができます。だから私たちは、そこにあるのが、「木」であると知ることとそれを分類することができます。

そして、私たちが見ているのは、「ある特定の木」です。それは「木の形相」が、特定の質料を取るから、「特定の木」になって、現実に存在している、というのです。

この木は、やがて木の板になり、家具になります。ここでは、木は質料となり、家具は、その木が現実のもので現したい「形相」になります。

「形相」は、どこまでいっても変化はしませんが、それが質料を取ることによって、様々な特定のものに変わり、さらに、現実に存在する木は、新しい家具の質料となって、「家具の形相」を現すものになります。

良く例に出される彫刻家の例では、たとえば、プラトンの場合は、イデアをもつ彫刻家は大理石とは別に存在し、独立して自由でした。彼は自分のイデアに従って大理石を彫ります。

アリストテレスの場合は、彫刻家と大理石は一つです。彼が彫ろうとする石像のイデアは、実は大理石の中にあり、彼はそのイデアに従って、のみをふるうだけです。

石をじっと見つめていると、そこに彫るべき像が見えてくる。こういう、いわば石と一体になった名人の姿、これが世界であるというわけです。

分かり易くするために、後世で問題になったことを引き出して、たとえば、「真理」とか「神」とかについて言ってみましょう。

プラトンは、「真理」は世界の「外」にあると考え、アリストテレスは、「真理」は世界の内にある、と考えたと言えます。あるいは、プラトンは、「神」は、あらゆるものを越えて、「外」にあるものだが、アリストテレスは、「神」は、あらゆる事物の中にある、と言ったとも言えるでしょう。

この両者の違いは、生き方においても決定的に違ってきます。プラトン的な生き方は、常に外なるものに向かって求めていきますし、アリストテレス的生き方は内なるものに向かい、現実に存在しているものに向かいます。

ともあれ、アリストテレスは、この質量から形相、そしてその形相が作るものによる新しい形相へと運動が無限に繋がり、いろいろと違ったものができる、と考えたのです。

そして、質料は常に新しい形相になろうとして運動するし、この運動によって宇宙のすべてが説明できると考えました。

この「世界を運動によって理解する」こと、これがアリストテレスが、これまでのギリシャ思想を統合して新しく提示したことでした。

これについては、次回触れることにしましょう。今回はこれまでです。
http://homepage.mac.com/berdyaev/mm/prmnd/utyu/prmnd15.html

「思想の世界」Vol.2 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆No.15 _____ 2001.1.10
西洋思想の散歩道(第 15 回配信) -A Promenade of Western Thought- K. Wiseman, O. Mai 著
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    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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