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2012年01月05日 (13:25)

D. H. ロレンスの父権主義的志向性力学:同一性=父権的志向が差異=母権的志向を支配する反動化:後期、晩年は逆転して、純粋差異共振化=新母権主義へと到達する

D. H. ロレンスの父権主義的志向性力学:同一性=父権的志向が差異=母権的志向を支配する反動化:後期、晩年は逆転して、純粋差異共振化=新母権主義へと到達する

テーマ:literature

これは先に述べこと(D. H. ロレンス哲学の絶対的矛盾について:凸iと凹iの衝突と揺らぎ http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11126422047.html)
から、明らかであると考えられる。即ち、凸iが父権主義的志向性で、凹iが母権的志向性であると考えられ、ロレンス文学・哲学中期までは、後者が主導的、前者は補完的であり、中期以降のリーダーシップ小説期において、天秤が逆転して、前者が主導的なり、後者がそれに対して、均衡を目指すようになったと考えられる。
 PS理論から言えば、中期までは凹i⇒凸iが主導的で、中期以降のリーダーシップ小説期では凸i⇒凹iが主導的になったと考えられる。前者は差異共振志向であり、後者は同一性志向である。
 先に、ロレンスは即非の論理、乃至は、不連続化を知らなかったため、西欧の歴史的危機等に直面して、凸iと凹iを一致させようとしたと言ったが、それは、凸i*凹i=凸(+1)と数式化できよう。
 では、さらに考察を深めると、どうして、両者を一致させる、あるいは、一体化する力学が生じたのか解明する必要がある。
 それは、主に20世紀初期ないし前期における女性の存在の社会的台頭がきっかけとなり、ロレンスの内面、精神に、母権的原理への恐怖を起こさせ、そのために、ロレンスの凸iの父権的原理は、凹iの母権的原理を支配する方向にとりわけ傾斜したということで説明できるだろう。
 勿論、女性の台頭だけではなく、第一次世界大戦による文明破壊やロレンス個人における国家権力からの攻撃、あるいは、結婚生活における妻フリーダとの関係もそこに重なって、父権主義化への反動的エネルギーになったと考えるべきである。
 簡単にまとめると、ロレンスの内面において、凸i=父権主義と凹i=母権主義が元々衝突していたのであり、初期、中期において、後者が主で、前者が従であったが、中期以降のリーダーシップ小説期では、これが上記の理由で逆転したということになる。
 付け加えると、後期、いわば、ポスト・リーダーシップ小説期において、ロレンスの内面の力学は再び凹iへ と傾斜して、新母権的力学が誕生したと考えられる。代表的作品が中編小説の『逃げた雄鶏(死んだ男)』、紀行文『エトルリアの地』と評論『黙示録論』であ る。とりわけ、『逃げた雄鶏』に著しい。そこでは、女神イシスに仕える女性司祭、イシスの巫女が登場して、その母権主義と「死んだ男」=復活したイエスと のコスモスの超越的意識とが結合して、第三象限の世界を構築していると考えられるのである。
  ところで、リーダーシップ小説期のリーダー探求、ないし、新しい共同体(コミュニティ)の探求は、同時代のファシズムと関係があるように思える。ここで簡 単に示唆すれば、ファシズムは反動的同一性=父権主義志向と言えるのではないだろうか。もっとも、ロレンスの指導者探求をファシズムと一致させるのは強引 であるが、傾向においては類似性、共通性があると思われる。
 もっとも、忘れてはいけないのは、ロレンスの場合、父権主義的志向がある場合でも、それと対立する母権主義的志向に裏打ちされていることである。ファシズムにはこれはなかったと考えられる。

D. H. ロレンス哲学の絶対的矛盾について:凸iと凹iの衝突と揺らぎ
テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンスは実に稀有な文学者である。作家と哲学者が並存しているのである。(三島由紀夫もその面があるが。) 明らかに、彼の哲学は絶対的矛盾を呈している。例を挙げれば、融合・一(いつ)の志向性と個・多の志向性があるからである。
 そして、この極性哲学がロレンス哲学である。
 しかしながら、中期以降、この極性哲学が破綻して、二項対立に傾斜するのである。言い換えると、極端に父権主義化するのである。
 これをどう見るか。ロレンスの精神は凸iと凹iの衝突、激突の戦場である。しかし、ロレンスは鈴木大拙の即非の理論を知らなかったために、常時、激しく揺れ動いていたのである。不思議の国のアリスのように、大きくなったり、小さくなったりしたのである。
 中期以降、ロレンスは精神の危機に陥った。極性バランスが崩れて、凹iでありつつ、凸iであろうとしたのである。差異でありつつ、同一性であろうとしたのである。即非の論理を知っていたなら、同一性であろうとはしなかったであろう。
 言い換えると、ロレンスは母権的でありつつ、父権主義化したのである。人間認識図で言えば、第三象限でありつつ、同時に、第二象限であろうとしたのである。
 そのため、ロレンスの作品は過度に混沌化したのである。それはリーダーシップ小説と呼ばれるものに、現れている。
 ロレンスの精神は凹iが天才的であり、第三象限に根ざしていた。しかし、凸iと凹iが不連続化していなかったため、あるいは、即非の論理を知らなかったために、時代の暗黒化等に触発されて、精神の混沌、混乱を起こしたのである。
 以上で、ざっとであるが、長年の謎の解明ができた。

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2010年07月09日 (23:50)

D. H. ロレンスの動物-人物相関象徴主義:即非的双極志向性芸術論

ロレンスの短編・中編小説作品に鮮烈に存在する動物と登場人物(人物)とを相関させる表現方法を理論化する必要がある。
 とりあえず、動物ー人物相関象徴主義と呼ぶことにする。この表現方法はPS理論的に解明するとどうなるのだろうか。
 これは、今閃いたが、MP1(虚軸のゼロ点)の差異共立一如体の表現方法ではないのか思う。即ち、人物凸iと動物凹iが存するとする。
 動物を例えば、狐としよう。そして、人物を、ブラウン氏としよう。
 即ち、MP1において、凸i(ブラウン氏)*凹i(狐)が存する(これまで、共立を#としたが、MP1と限定すれば、*で足りる)。
 重要なのは、凸iは凹iへと志向し、且つ、凹iは凸iへと志向することである。しかしながら、ここでは、MP2におけるように共振作用はなく、あくまで、共立一如様態があるのである。
 具体的に言えば、ブラウン氏は狐へと志向し、狐はブラウン氏へと志向するということである。しかしながら、ブラウン氏はブラウン氏で、狐ではなく、また、逆も同様である。だから、ここにも即非様態があると言えるだろう(先に、MP1とMP2の関係が即非であると述べた)。
 とまれ、この即非的志向性が、ロレンスの動物ー人物相関象徴主義(象徴美学)の解明になるのではないだろうか。つまり、即非的双極志向性美学があるということになるだろう。
 どうも天才的芸術家はこの美学を体得しているようである。一種のポリフォニーと言える。
 とまれ、ざっとであるが、ロレンスの美学の核心の一つがこれで明確になったであろう。

追記:対位法とも呼べよう。即ち、動物ー人物対位法的象徴主義である。

追記2:ドゥルーズ&ガタリが『哲学とは何か』で述べていた生成変化(子ども、女性、動物、マイノリティへの生成変化)、変様態(いわば、即非的情感)・被知覚態(他者に知覚されうこと)は、正しくは、MP1の様態力学で説明できるだろう。
 彼らの問題は、当然、超越性の否定と内在性(実数性)の肯定にある。結局、MP1とMP2との連続的混淆様態にあるのが彼らの理論である。それが、「離接」という概念に表れていよう。つまり、「接」に連続性があるのである。
 即非的様態とは、連続性はないのである。連続性ではなく、一如性があるのである。
 例証すると、生成変化という概念であるが、例えば、動物になるという生成変化を考えよう。ある人物Xが鯨に生成変化するとしよう。しかしながら、このとい、人物Xは鯨と連続態になっているのである。
 しかしながら、上述したロレンスの芸術的方法論は、あくまで、即非様態なのである。つまり、ブラウン氏は狐へと志向するが、究極的に狐になるのではない。あくまで、ブラウン氏と狐は不連続であり、差異共立一如態なのである。言い換えると、生成変化の場合、ブラウン氏は狐へと連続化するということである。このような連続性は、当然、不連続性や超越性を否定していることから発するのである。

外国文学(イギリス文学他)
D・H・ロレンス短篇全集〈第1巻〉 (-)
D.H. ロレンス (著), 西村 孝次 (翻訳), 鉄村 春生 (翻訳), 上村 哲彦 (翻訳), 戸田 仁 (翻訳)
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  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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