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2011年12月03日 (23:56)

光とエーテル体(氣)

光とエーテル体(氣)
テーマ:検討問題

本件の問題を解明する必要がある。
 端的に言えば、光は当然、可視的であるが、エーテル体(氣)は不可視である。
 しかしながら、シュタイナー精神学をPS理論に引きつけると、光とエーテル体が同じものに、即ち、凸iになってしまうのである。この齟齬を解決する必要がある。
 少し整理しよう。私はシュタイナー理論を触れる前までは、氣とは、MP1(虚軸点)で形成されると述べた。そして、シュタイナーの発想からエーテル体=氣は凸iとなった。明らかに、齟齬、矛盾である。
 思うに、氣=エーテル体はやはり、MP1で発生する超越光とすべきだと思う。そして、光は凸iのままで済む。
 つまり、氣=エーテル体とは、光と闇の共振体ということになる。それが、Vector Modeを産み出し、物質体を形成すると考えられる。
 だから、現象体は光でありつつ、闇であるが、闇は当然不可視である。
 そうならば、さらに問題はアストラル体(謂わば、感性体)をどう見るかが問題である。
 私はアストラル体を凹iとしたのである。闇である。
 しかし、光と闇の共振が氣=エーテル体なので、アストラル体(感性体)を闇凹iにするのは、不具合である。
 思うに、media pointの感性がアストラル体ではないだろうか。同一性と差異がせめぎ合う点、それがアストラル体ではないか。ならば、media pointにアストラル体を、あえて言えば、media pointの凹i寄りにある。
 もう少し整理すると、自己(個)ichが凸i/凹iであるとすると、/がアストラル体になるだろう。凹i⇒凸iに対して、凸i⇒凹iが生じる。この衝突がアストラル体のように思える。
 つまり、凸i⇒凹iの自我(物質的自己)のベクトルが入るのである。それで、不調和を起こすのであり、それが、アストラル体と考えられる。つまり、自己と自我の不調和である。
 しかし、シュタイナーはアストラル体は動物のもつ体であると述べている。
 ならば、凸i⇒凹iはないのである。だから、凹i/凸i が自己・個ではなく、アストラル体かもしれない。
 整理すると、自己・個とは凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)であり、アストラル体が凸i/凹i(凹i⇒凸i)であり、エーテル体が凸i共振凹i(MP1)であり、物質体が凸ということになる。
 これで一応は整合性は保ったが。



直観学で哲学と芸術は括れる。科学は直観を数学化した?直観学に哲学、芸術、数学、科学が入る

テーマ:manichaeism: 哲学


neomanichaeist resurrection

直観学から見ると、物質科学、近代科学は、同一性主義であ り、現実(差異)ではなく、同一性の虚構を土台にしている。疫学がその帰結である。それは、資本主義権力に都合がよく、利己主義となっている。物質科学、 近代科学を打倒せよ!直観科学、差異科学こそ、正しい。似非科学、御用科学を唾棄せよ!


neomanichaeist resurrection
@
直観学で哲学と芸術は括れる。科学は直観を数学化した?直観学に哲学、芸術、数学、科学が入る @neomanichaeist 直観性は両者一致する。直観を概念化するのか、形象化するのか。 @neomanichaeist 哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。

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neomanichaeist resurrection
@
直観性は両者一致する。直観を概念化するのか、形象化するのか。 @neomanichaeist 哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。だから、両者の共通点はある。ただし、芸術は感覚・魂・想像力をベースにする。哲学は概念を。@Michael_Ende_jp
9分前 お気に入りに登録 返信 削除

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neomanichaeist resurrection
@
哲学と芸術の差異は至上に興味深い。深い芸術は認識をもつ。哲学的。だから、両者の共通点はある。ただし、芸術は感覚・魂・想像力をベースにする。哲学は概念を。 @Michael_Ende_jp 芸術の形式は、認識とは違うものです。哲学者は芸術家ではない。たとえ創造的な哲学者だとしても。




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Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

(シュタイナーなどは、芸術家ということになりますね?という問いに対して)いいえ、芸術の形式は、認識とは違うものです。哲学者は芸術家ではない。たとえ創造的な哲学者だとしても。 『芸術と政治をめぐる対話』
43分前 お気に入りに登録 リツイート 返信

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Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

シュタイナーの著作を読むときには、決して彼を現代の大学教 授のように思って読んではならない。そんなことをしたら、シュタイナーのことを絶対に理解できませんからね。彼自身、再三それを警告しています。しかし現 実には、やっぱり彼の願ったのとは反対のことが行われている。 『エンデと語る』
1時間前 お気に入りに登録 リツイート 返信

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Michael_Ende_jp ミヒャエル・エンデ

認識の所作とは反対の所作が、芸術の所作ということになりま す。芸術家は認識するものではありません。芸術はいまここで、もっとも広い意味において、むしろエロス的な原理と関係しているのです。エロス的原理は認識 の原理ではない。受肉と現実化の原理なのです。 『闇の考古学』



自然数の差異(質)と同一性(量)
テーマ:mathematics

一見、自然数はみな量的に見える。しかし、実際、数を数える場合、それは、差異である個体(個)を数えるのである。差異1を1,差異2を2,・・・差異nをnと数えるのである。
 しかし、自然数は当然、量的でもある。2=1+1
である。つまり、自然数概念は差異と同一性を併存・共立、同時生起させていることになる。
 思うに、自然数はmedia pointで形成されるのである。そこでは、凸iの同一性と凹iの差異が共振しているのであるから。
 ところで、吉田武氏の『オイラーの贈物ー人類の至宝e^iπ=-1を学ぶー』は実に名著であろう。文章が生きているのである。文理融合である。

オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ/吉田 武

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オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ (ちくま学芸文庫)/吉田 武

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5つ星のうち 5.0 『我々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』とまで言われているものを文系だから知らなくいいとは到底思えない。今日までゆっくり取り組んでみた, 2011/11/27
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レビュー対象商品: オイラーの贈物―人類の至宝eiπ=-1を学ぶ (単行本)
新装版としては、2010年1月23日リリース。この本を手に取ったきっかけは、2011年7月27日放送の『クローズアップ現代 「大人がハマる"数学 ブーム"の謎」』で、数学を学び直すことがブームになっているという話題が非常に印象に残ったことだった。中学・高校で学んだ三角関数やら素数やらを再度 自身で鉛筆を持ちながら解き直す。この鉛筆を持ちながらの所を再度試みてみたくなった。

その中で取り上げられたのが『オイラーの贈物』 だ。レオンハルト・オイラー(Leonhard Euler, 1707年4月15日 - 1783年9月18日)は数学者・物理学者であり、天文学者(天体物理学者)である。この人は視力障害があったらしく、フリードリヒ2世に『数学のサイク ロプス(単眼の巨人)』と讃えられた18世紀の歴史上最も多産な数学者と言われている人物である。この『オイラーの等式』に自力で挑戦する本である。

こ の『オイラーの等式』は、物理学者のリチャード・ファインマンにより『我々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』と呼ばれている。 数学は高校二年生でストップしているので、ウン十年ぶりに数学をやるわけだ。この本を買って時間を費やすかを自問したところ、どうしてもやりたい。やりた くて仕方が無いと思っている自分に気がついた。

自分が理系だから法律・経済に疎くとていいというのはありえない間違いであるように、『我 々の至宝』かつ『すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式』とまで言われているものを文系だから知らなくいいとは到底思えない。挫折する気は毛頭な く、ゆっくりゆっくり並列読書法で読み解いて、この18世紀の偉大な数学者の思考に近づきたいと思い、今日までゆっくり取り組んでみた。

そして感じたこと。昔々の数学の知識が少しずつ蘇ってくる。積分とは不定形な面の面積を探すことだったか。

微分係数を求める=導関数に数値を代入
定積分を求める=不定積分に数値を代入・・・・・結果は数値

関数を微分する=導関数を求める
関数を積分する=原始関数を求める・・・・互いに逆演算、結果は関数

最も面白かったのは、フィボナッチ数列はパスカルの三角形と重なる、ということだった。

そ して日々考えている世界のマネーの動きにこの数式を当てはめてみた。頭の中にS lowの連続する棒グラフとS upの連続する棒グラフがy=xとして連なる。そして棒グラフの各々のピッチは極限を目指して狭まり、世界中を蠢くマネーの分母のように瞬く。その正しい 数値を導くべく推論すること、すなわちマネーを積分しているのだな、と気がつく。

数学だけでなく、様々なことを感じさせてくれる素晴らしい一冊だと思う。

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2010年08月09日 (14:05)

シュタイナーの精神力学:3次元から2次元へ:PS理論との相違点:即非的理論と非即非的理論

以下は、先に途中のままになっていた論考をまとめたので、ここに投稿する。ここでは、タイトルを変更した。思うに、What is questionable with Steiner's spiritual theory? という副題をつけることもできる。

**************************

シュタイナーの精神力学:3次元から2次元へ:折り畳まれる精神的高次元?

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

シュタイナー精神学(精神理論)に最近触れているが、興味深いのは、精神的次元、高次元が四次元、五次元等ではなく、二次元になるという考えである。
 私は以前、二次元、平面から三次元の現象空間が生まれると考えた。それは、物質的次元(+1)が現象界が加わるという考え方である。すなわち、 Media Plane(メディア平面)があり、それから、物質次元が加わって、三次元空間になるという考え方である。(Kaisetsu氏が既にこの点を解明しているが、心象学的に考察してみたい。)
 単純に見れば、凸i#凹iが一次元、そして、差異共振凸i*凹iが一次元で、合わせて、二次元である。
 思うに、差異共振次元をガウス平面に直交するZ軸に見てもいいのかもしれない。作業仮説的に、虚軸Y軸と共振次元Z軸の形成する平面をMedia Plane、メディア平面としよう。
 このメディア平面から垂直に物質次元が形成されるということになる。三次元である。
 とまれ、精神次元は二次元である。そして、それが、Media Pointにおいて形成されるということだろうか。
 とまれ、二次元的視覚(精神的視覚)があるというように考えよう。視覚平面(精神的視覚平面、イデア/エイドス平面、霊視平面)である。
 そして、これが基盤となって現象物質空間、三次元空間が生起するということではないのか。
 しかしながら、この基盤は本来、不可視なのではないか。いわば、「闇」である。不可視界である。しかしながら、三次元空間のうちの二次元性は残っているということではないのか。
 それは、簡単に精神という不可視界を考えればいいのではないだろうか。正確、的確に言えば、精神視覚界(霊視界)である。この精神視覚界が光によっていわば、めしいているということではないのか。
 やはり、超越光を考えるべきである。つまり、精神次元には、超越光が「実在」するのである。そして、超越光を精神的視覚は見ているのである。
 しかし、差異共振によって同一性=物質化へと転換される。これは、同時に、現象光化と考えられる。
 つまり、不可視=超越光の二次元が可視=現象光=三次元へと転換するのであり、精神的視覚は物質感覚的視覚へと変換されるのではないだろうか。
 しかしながら、これは実に微妙・霊妙な事象である。いわば、Media Transformation (メディア変換)は、単純ではないのである。端的に言えば、即非的変換である。
 すなわち、精神は物質であり、且つ、物質ではない。精神的視覚は物質的視覚であり、かつ物質的視覚ではない。
 これは、Media Pointにおける精神的フィルターの作用である。しかし、単純なフィルターではない。即非的フィルターである。
 既知のことであるものの、ここでは不思議な事象が起きているのである。つまり、ダブル・ヴィジョンの現象である。即ち、精神的視覚は精神的ヴィジョン(Spiritual Vision: SV)を見ているが、物質的視覚は物質的ヴィジョン(Material Vision: MV)を見ているのである。
 しかし、そのように単純な二元性ではない。何故なら、ここには、即非的視覚が生じていると考えられるからである。
 実に霊妙である。つまり、精神的視覚もやはり物質的ヴィジョンを見ていると考えられるからである。つまり、精神的視覚は精神的ヴィジョンと同時に、物質的ヴィジョンを見ているということであり、物質的ヴィジョンという点では、精神的視覚と物質的視覚とが重なっていると思われるのである。
 だから、物質的現実、現象が、精神化されて見えるのである。その意味でもダブル・ヴィジョンである。
 しかしながら、近代合理主義は、この精神的ヴィジョンを否定しているのである。だから、抑圧があるのである。それは、同一性のメカニズムと言えよう。これは、反美的な視点である。言い換えると、近代合理主義は美学を排除しているのである。そして、この抑圧は不健全である。存するものを否定するからである。
 とまれ、私が以前よく述べた超越光であるが、それは、実際、私には「視覚」されたものなのである。陽光において超越光が感じられたのである。
 それは、結局、今述べたように、即非的視覚で説明ができるだろう。精神的視覚が現実界の光を視覚するのであり、そのために、超越光と重なるのである。つまり、精神的視覚とは、虚軸の超越的ヴィジョンを見ているのであり、そこに超越光があるのであり、その超越光を視覚しつつ、現象界の陽光を視覚するので、言わば、投影される形で、陽光を視覚するということのように思えるのである。
 しかし、この説明では、超越的主観性(フッサールの超越論的主観性は、本来、このように考えるべきである)中心であり、外界の光には超越性がないように考えられるだろう。
 しかしながら、光も本来、超越光から生まれるのであり、光のMedia Pointを介して、超越光がいわば洩れているのである。
 だから、結局、精神的視覚が光から洩れる超越光を見ているということでもあると考えられるのである。
 最後に即非的視覚の視点からシュタイナーの精神学を見ると、精神を物質から独立させる志向をもっている。物質から離脱する志向性をもっている。
 そう、精神は物質的現実からも独立して存在していると述べている。それは正しいだろう。しかしながら、精神的次元はMedia Pointを介して、物質的次元へと参入している点をシュタイナーは説いていないように思えるのである。つまり、即非的視点を欠いているように思えるのである。
 つまり、シュタイナーが物質界から精神界へと参与するとき、物質界から截然と独立した精神界へと参入するのであるが、それはPS理論から言うと、Media Pointの虚軸のゼロ点(MP1)に参入することと考えられる。それは、差異共立様態への回帰である。
 しかし、少し疑問に感じるのは、そのいわば、純粋な精神(霊)とMedia Pointとの関係についてである。シュタイナーはアストラル体とエーテル体を截然と区別する。しかしながら、PS理論の見地からは、両者は連関しているのである。つまり、アストラル体を例えば、凹iとすれば、エーテル体は凸iと凹tとの極性エネルギーと考えられる。だから、PS理論的なアストラル体とエーテル体とは、截然と分けられるが、連関しているのである。この点がシュタイナー精神学は欠けていると考えられる。言い換えると、それは、硬直してドグマになっている面が感じられるのである。
 今の予見では、PS理論からシュタイナー精神学の非即非的な構築・フレームを解体して、即非的に再構築することが必要であると考えられる。

追記:心とは端的に、Media Pointである。しかしながら、今日、一般には、それが自我形式=同一性形式によって枠付けられている(愚樵氏の知的フレーム)ために、虚軸的側面が解放されていないのである。せいぜい、愛情、情感、感情、気持ち、等にしかならないのである。
 禅仏教はこの同一性形式の徹底した解体を志向していた。なにか、デリダに似ているのである。ただし、デリダより、精神性をもっていた点では、優れている。
 さて、私が言いたいのは、不可視界であるが、それは、「闇」というよりは、超越光の世界である。D. H. ロレンスが述べたdark sunとは、正に、不可視の超越光のことだと思う。
 しかしながら、不可視とは言え、可視的であると思う。何故なら、精神的視覚(霊的視覚)があると考えられるからである。だからこそ、dark SUNなのだろう。
 そして、これこそ、アマテラス、アフラ・マズダー、大日如来等であろう。
 これは、色彩でいうと、黒でもある白、白でもある黒である。しかし、灰色ではない。思うに、黒と白とが相互浸透した様態とも言えるだろう。それは何色なのか。トランス・ブラック・ホワイト? トランス・ダーク・ライト?
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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