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2011年12月11日 (13:16)

悪とは何か:その2:第四象限と他者:不連続化、純粋差異化と第三象限

悪とは何か:その2:第四象限と他者:不連続化、純粋差異化と第三象限

テーマ:evilness, egotism

先に(悪とは何か http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11103585697.html)悪の根拠について考察してみたが、同一性の問題と結びつける必要がある。
 しかし、これは自明である。media pointからの連続化によって、自己同一性(自我)が形成されるが、そのとき、凸iと凹iは一致しているからである。即ち、悪の根拠の凹iは凸i(同一性)と結合しているということである。
 結局、他者性(魂)の有無が悪の問題の一つの中核的問題である。
 悪は同一性主義によって、他者(差異)を否定するのであり、他者は利己主義の対象となるのである。言い換えると、他者は物体化、物質化するのである。
 問題は、他者とは何かである。これまで、他者は凹iとしたが、これが凸と結合すると、悪になるのである。しかし、他者は単に凹iでいいのだろうか。
 所謂、道徳は第二象限に存する。それは規範的な倫理である。
 それに対して、第三象限の道徳・倫理があると考えられる。それは内在的な個的道徳・倫理である。
 他者性は根本的にはここに関係すると推察されるのである。
 ここで、不連続性の問題に戻って考えると、不連続的差異(絶対的差異)とは、端的に、凹iである。つまり、連続性(連続的同一性)である凸(+1)からの切断によって、凹iが独立することである。言い換えると、凸iと凹iが分離するのである。
 このとき、凸i(知性)の立ち位置が微妙である。それは、同一性(凸)、物質、外界との関係をもつと同時に、凹iと極性を形成して、差異共振作用をもつ のである。(思うに、カントの純粋理性とはこの凸iの二重性を問題にしているだろう。しかし、カントは凹iの視点をもたなかったので、アンチノミー、背理 しか見なかったと考えられる。)
 とまれ、不連続化によって、凹iが独立し、第三象限への道が開けるのである。東洋・日本の道である。
 だから、他者凹iとは第三象限と結びつく存在と考えるべきである。
 しかしながら、例えば、「心」、「良心」、「善意」、「心情」、「魂」という場合、それは、まだ、第三象限へは達していない前段階と考えられる。言い換 えると、不連続化以前である。一種未分化である。不連続化できて、他者凹iは第三象限(内在的超越性領域)へと結びつくのである。
 では、端的に、不連続化とは何であろうか。それは認識行為である。精神の領域での行為、観念的行為である。認識的進化と言ってもいいだろう。それは、純粋差異化と呼んでもいいだろう。
 では、純粋差異化の仕組みはどういうものだろうか。これも結局は既述済みである。即ち、自己は凸i主導的であり、そのために、凹iは連続化を被っているのである。
 つまり、凸iがもつ連続的志向が凹iに作用して、凹iとの連続性を保持しているのである。しかし、純粋差異化によって、凸iの主導性が覆り、凹iの独立性が形成されるという事態が生起することである。
 言い換えると、価値転換、自己のコペルニクス的転回である。あるいは、価値の東洋化、ないし、母権化である。
 政治的に言うと、真の民主主義、経済的に言うと、真の自由主義の形成の出発点である。
 そして、自由主義は、差異共振化をもつために、自由共同体主義となるのである。それは差異共振的資本主義であろう。そう、新しい民主主義も差異共振的民主主義となるだろう。




悪とは何か
テーマ:evilness, egotism

今は、簡単に指摘するに留める。
 本件の問題は、人間認識図から言えば、第四象限に属する。つまり、凹iと凸が結合した領域である。
 私の直観は、凹iはシュタイナーの説くアストラル体(感性体)と等価であるので、凹iが陶冶されない場合、それが、物質凸と結合して悪となるのではないということである。
 つまり、凹iは粗野のままでは、欲望の渦であり、それが、物質と結合して、第四象限を形成するように思えるのである。
 もし、凹iが教化されるならば、それは、他者性をもち、media point形成への出発点となると考えられる。
 とまれ、悪とは粗野な凹iが物質凸と結びつくのであるが、凸iはこの場合、凹iに隷属しているように思える。
 凸iが形成する同一性は粗野な凹iに従属して、都合のいい、つまり、一時的なもののように思える。
 つまり、嘘、詐欺、虚偽である。利己的欲望のために、同一性を利用して、欺すのである。
 そうならば、悪とは、「教養」を欠落した存在であると言えるのではないだろうか。
 そう、凹iを教化する「教養」の欠落である。「教養」とは、本来、知恵、叡知、文化の謂いである。
 近代「文化」は物質文化であるために、この「教養」を欠落するのである。故に、人間は悪へと傾斜すると考えられる。
 資本主義が新自由主義ないし国家資本主義になるのも、「教養」の欠落、言い換えると、魂の欠落に拠ると
考えられるのである。
 言い換えると、精神の貧困、心の貧しさに拠るのである。
 民主主義も結局、「教養」がなけられば、愚民主義、衆愚政治になるほかないのである。
 今はここで留める。


参照:
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208

http://googleads.g.doubleclick.net/aclk?sa=l&ai=BbLAmwCzkTtb5EYPrkAXksoCVCLSptuACtPnS0jq8idTthgGA_qwNEAEYASDeppQKKAM4AFCT1dzk_P____8BYInrx4T4E6AB5K2J2AOyAQlhbWVibG8uanDIAQHaATZodHRwOi8vYW1lYmxvLmpwL25lb21hbmljaGFlaXNtL2VudHJ5LTExMTAzNTg1Njk3Lmh0bWyAAgGpAoM7to2-qUs-wAIFyALUqugWqAMB6APFCOgDDugDiAT1AwAAAMT1AwAAQBA&num=1&sig=AOD64_0DPkxjAiEUT5AX6SenrZ0gZILNcw&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://wimax-toppa.jp

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2011年12月04日 (13:54)

超越的存在とプラトンの善の太陽:マニ教の光とmedia point twilight

テーマ:manichaeism: 哲学

オイラーの公式

-1=e^iπ

これをPS理論は

凹(-1)=e^iπ

とする。
 そして、凹(-1)は超越的存在である。私はこれに四大の火を当てた。
 思うに、プラトンの洞窟の外に存する太陽、善の太陽は、凹(-1)を指していると考えられる。
 ただし、どちらかいうと、第二象限的な太陽だと思う。しかしながら、洞窟の外部なので、第三象限性を確かにもっていると考えられる。
 思うに、凹(-1)の元太陽の発現様態が問題である。それは、凸iの光と凹iの闇の差異共振様態として、発現するのであり、二つの要素に分離するのである。
 だから、二つの太陽がある意味で生起すると言えよう。光の太陽と闇の太陽である。
 しかしながら、両者の関係は微妙である。なぜなら、前者は後者と交わり、後者は前者と交わると考えられるからである。相互浸透があるのである。つまり、光の太陽は闇の太陽を志向し、闇の太陽は光の太陽を志向すると考えられるからである。
 二重の太陽、三重の太陽がそこにはあると言えよう。そ三重の太陽はmedia point sunと言えるだろう。
 ここでD. H. Lawrenceのdark sun, dark Godを考えると、dark sunは闇の太陽を指していると見ていいだろう。そして、dark Godは凹(-1)である。あるいは、第三象限である。
 しかしながら、ロレンスは最晩年、太陽とともに始めよStart with the sunと唱えたのである。それ以前のロレンスはdark sunを説いていたのであり、これは何を意味するのか。
 これは、二重の太陽、ないし三重の太陽で説明できよう。光の太陽は闇の太陽や相互浸透を意味しているからである。
 また、ルドルフ・シュタイナーの説く物質的太陽と霊的太陽であるが、前者は光の太陽の物質的映像と見ていいだろうし、霊的太陽とはmedia point sunであり、さらに、第三象限へと連なる太陽であろう。
 いわゆる、精神・霊界spiritual worldとは、media pointの虚軸点MP1に既に存すると言えようし、狭義では凹i(-1)であろうし、広義では、media point の虚軸点MP1を含んだ第三象限であろう。
 次にマニ教の光について少し触れたい。この光は先に超越光であると述べた。ほぼmedia point lightと言っていいだろう。そう、media point twilightとも言えよう。正確に言えば、凹(-1)と結びついた第三象限を含む「光」である。
 さて、ここで問題が生じている。先にエーテル体とはmedia pointの差異共振によって形成されると述べたのであるが、MP1は超越光を意味するのであるから、エーテル体(氣)=超越光になってしまうのである。
 ここで先に図式を少し変容させて考えよう。先には次のように述べた。

光とエーテル体(氣)

「整理すると、自己・個とは凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)であり、アストラル体が凸i/凹i(凹i⇒凸i)であり、エーテル体が凸i共振凹i(MP1)であり、物質体が凸ということになる。」
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11096912752.html

自己・個凸i/凹i(凹i⇒凸i)且つ(即非)凹i/凸i(凸i⇒凹i)を

凸i/凹i(凹i⇒凸i)*凹i/凸i(凸i⇒凹i)⇒凸(+1)

と変換させる。
 思うに、この自己・個の差異共振が超越光を意味するのではないだろうか。正確に言えば、凸i/凹i(凹i⇒凸i)にとりわけ超越光が属するであろう。
 しかしながら、左辺全体に超越光が属すと言うべきだろう。
 結局、超越光は単純なMP1の差異共振ではなく、それは、自己・個的差異共振によって発生すると言うべきなのである。それでこそ、ウパニシャッド哲学の梵我一如『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)と一致しよう。つまり、梵が超越光ということであり、それが「我」=自己・個ということである。
 以上の考察(思考実験)で問題点がかなり整合化されたと言えよう。
 そう、シュタイナーがキリストとはアフラ・マズダのことであると述べていた。アフラ・マズダとはPS理論では凹(-1)と考えられる。ならば、キリストとは凹(-1)の超越的存在ということになる。ウパニシャッド哲学で言えば、汝とキリストは一致するということになるだろう。神人一致である。

追記:正しくは善の太陽ではなく、善のイデアの比喩としての洞窟外の太陽である。

プラトン洞窟

http://www.geocities.co.jp/NatureLand/4270/imanishi/natuphy.html

自然哲学:その1

《ガウス平面で表した人間認識の図》
人間認識図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


参考:

汝はそれなり
(2006.09.26/00:04) CM:4 | TB:0

『汝はそれなり』(tat tvam asi タット・トヴァン・アスィ)という言葉があります。

これは、ウパニシャッドの宗教的・哲学的思想の中で、ウッダーラカ・アールニが語った有名な格言『我はそれなり、汝はそれなり、全てはそれなり』の一部で、この言葉は、ウパニシャッド哲学のエッセンスを一文に凝縮したものであると言われています。

では、『汝はそれなり』とは、いったい何を意味しているのでしょうか?

一般に「汝」=「アートマン」であり、「それ」=「ブラフマン」であると言われています。

「アートマン(atman 真我)」とは、意識の最も深い内側にある個の根源で、個の中心にあり認識自体を司るもので、真我は「知るもの/知られるもの」の二元性を超越しているため、「真我」自体を認識の対象にすることはできません。つまり、知覚すること自体ができないのです(笑)。デカルトの非常に有名な言葉『我思う、故に我あり』(cogito, ergo sumコギト・エルゴ・スム)は、この掴み所のない「真我」の残した足跡を捉らまえて、間接的に存在性を表現したものなのですね。

また、「ブラフマン(Brahman 梵天)」は、全存在世界の根源的リアリティ、つまり、宇宙の根源原理、宇宙の源のこと指しており、神聖な知性としても考えられています。

要するに、『汝はそれなり』の意味することは、究極的には個人の真我と宇宙原理は一致し、全く同じものであることを言っているのです。

このことを、『梵天一如』とも表現されます。

自分の心の中を深く深く入り込んでいくと、自己認識している核の部分にまで至るが、でもそれは、途轍もなく広大な全宇宙存在のソースでもあった。更に、先に先に進むと宇宙空間となり、最も遠い所、つまり、自分の周囲に行き着いてしまうというわけです。

画像

このことは、かなり前の記事「現実世界って? 」にも書いたのですが、自己と宇宙は、まるで「クラインの壷」状の構造になっているのですね。

では、これを確かめるにはどうしたらいいのでしょうか?

このことは、瞑想を通して体験するしかないのですが、ブラフマンを体験するには、「無私」の状態にまで達しないと体験できないと言われています。

瞑想する場合には、例えば、マントラを唱える場合でいうと、マントラを唱えていることを知覚できている状態ではダメなのです。自分がマントラ自体にまでならないと「無私」とはいえないのです。(参照:幸せ天使さんのブログ )

これって、ななかか難しいです。

http://aioi.blog6.fc2.com/?mode=m&no=186

煩悩くん フルスロットル



とうとうコルマンインデックスが終了した4 (11/30)

コルマンインデックスが指摘する思想的な変化とは、以下のような長期の傾向が10月28日のコルマンデックスの終了で次第に現れるとする予言である。

「人間の外部に存在し、人間を支配する超越的な存在としての神の概念から、一人一人が神や仏の一部であることを実感する方向へとシフトする。」

このような変化が本当に起こるとするなら、それは我々が世界を感じたり認識したりする方法が転換する、人間と世界の関係の変化が伴うはずである。いわゆるパラダイムシフトと言われる現象となって現れるはずだ。
http://ytaka2011.blog105.fc2.com/blog-entry-229.html

ヤスの備忘録 歴史と予言のあいだ

2011年11月23日 (15:16)

カント哲学の連続性と不連続性の未分化

カント哲学の連続性と不連続性の未分化

テーマ:manichaeism: 哲学

D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学
の論点から、カント哲学の本質的意義が明瞭になると考えられる。
 つまり、カント哲学はMP1(虚軸点)とMP2(実軸点)が未分化なのであり、それ故に、純粋理性のアンチノミー(背理、パラドックス)が生じるのである。
 しかし、カント哲学は凸iが優位であるため、あるいは、MP2(実軸点)が優位であるために、ロレンスとは異なり、第二象限の理論になっているのである。
 ロレンス文哲学の場合は、本質的には第三象限に根源をもっていると考えられるのである。
 思うに、ロレンス文哲学はマニ教的と言えるだろう。諸宗教の普遍化への志向が見られるからである。



D. H. ロレンスの連続性と不連続性の揺動力学

テーマ:literature

D. H. ロレンス文学哲学(略して、文哲学)のいちばんの問題点は、先に述べたように、母権と父権の混淆である。未分化とも言えるが、それより、連続性と不連続性の混淆と言うべきである。
 直観で言えば、ロレンスは凸iへの傾斜と凹iへの傾斜が揺らいでいるのである。だから、primitive media point dynamicsがロレンス文哲学力学と言えよう。
 PS理論は、凸iと凹iの闘争、衝突、拮抗、対立、矛盾等のダイナミクスを説いているとは言え、ロレンス文哲学力学の様態とは異なる。
 これは芸術と哲学・理論との違いに拠るとも言えよう。
 しかしながら、やはり、違いは不連続性の様態にあると思う。即ち、ロレンス文哲学の場合、凸i主導の連続性へ傾斜したり、凹i主導の不連続性へ傾斜したりする、極端な揺らぎがあるのである。
 それに対して、PS理論は凸i主導性は同一性主義として、批判して、基本的には凹iを基礎とするmedia pointの様態を肯定するのである。
 つまり、PS理論は脱連続性の理論であり、不連続性を基礎とする理論であるということになる。
 これで、ロレンス文哲学とPS理論の違いは明瞭である。もっとも、ロレンスはPS理論の一つの先駆と考えられるので、その点で評価すべきであるが。
 ロレンス文哲学の問題は、凸iの連続性へ傾斜したときであるが、いったい、それは何を意味するのか。
 端的に、反動性への傾斜を意味するだろう。主体がなんらかの攻撃を受けて、主体的精神が反動的様態になったとき、凸iの連続性への傾斜が生じると思われる。
 外部からの強い攻撃にあったとき、精神は反動化しやすいのである。
 ロレンスにおいても、このような事態が生起して、凸iの連続性へと傾斜したと思われるのである。
 具体的には、妻フリーダとの関係が否定的になったことが根因のように思えるのではあるが、実際は社会的事件等も大きく関わっているのである。そう、重層・複合的反動化があると言える。


コスモス:宇宙と精神:マクロコスモスとミクロコスモスの照応とフラクタル

テーマ:manichaeism: 哲学

この問題は長年検討中であるが、未だに導きの糸が見出せない。
 直観では、MP1(虚軸点)にコスモスの原動力が存するのであり、それがMP2(実軸点)へと展開して、宇宙現象となるのである。
 問題はコスモスの原動力の力学なのである。私は占星術、古代宇宙論のマクロコスモス(大宇宙)とミクロコスモス(小宇宙:人体)の照応を正しいと直観しているのであり、その力学、コスモス力学を打ち立てたいのである。
 そう、マクロコスモスとミクロコスモスの照応とは、結局、フラクタルで説明できよう。 
 しかし、問題はフラクタルの質的力学なのである。
 正五角形はVector Modeで説明できる。これは自然事象である。黄金比の事象である。
 思うに、ここから帰納させれば、自然事象には、比率が支配していると言えるだろう。プラトンの比例がそのような視点である。
 とまれ、比率が西洋文明の理性になったのは哲学的常識である。(理性の問題はそれが量化されてしまったことにあると言えよう。つまり、科学、物質科学、近代科学の問題である。)
 ここで簡単な作業仮説を立てよう。すなわち、MP1(虚軸点)において、実数による等分割が為されるというものである。
 ということは、MP1において、つまり、一(いつ)において、等分割原理が支配するということになる。
 2等分割、3等分割、4等分割、5等分割、6等分割、7等分割、・・・n等分割である。
 ということは、端的に、凹(-1)は虚数原理において、実数分割原理を内在、内包、包摂しているということではないだろうか。いわば、虚数的実数等分割原理である。あるいは、簡単に虚軸的等分割原理である。
 そう、直観では、凹(-1)は卵である。これが、等分割するのである。
 さらに作業仮説を行なうと、等分割原理において、質的差異が生じるということである。
 これは、陰陽原理から説明できるだろう。明らかに、2等分割において、陰と陽は質的差異をもつのであるから。その他の等分割においても同様と考えられるが、ただし、陰陽の差異的比率が異なると考えられよう。
 この陰陽的差異比率原理については、検討課題としよう。しかし、陰陽的比率ということで、既に、予測、予見はできる。



音楽と超越性

テーマ:music

思えば、音楽を視覚の事象のように論じてきたが、音楽を音、聴覚の事象として捉える必要があるので、簡単にコメントしたい。
 結局、感覚とは何か。知覚とは何か。これが問題である。
 これまでの考察から、感覚器官とは超越性によって、あるいは、虚軸性によって形成された物質的器官ということになる。
 しかしながら、同時に、そこにはmedia pointが存するのであり、media pointの「感覚」によって、本来の超越性を直覚すると考えられる。
 では、すぐれた音楽の事象とはどういうことなのか考察しよう。
 精神性の感覚的表現がすぐれた音楽である。(もっとも、これは音楽に限定されないが。)
 結局、感覚には先に考察したように精神性が存するのである。
 しかしながら、感覚器官は同時に物質的器官である。この点で、感覚を物質的感覚として限定しまうことになる。
 感覚を物質的感覚として捉えるのは、明らかに、物質科学(近代科学)が原因である。何故なら、感覚事象を物質事象として把捉するからである。
 そう、確かに感覚は物質的感覚ではあるが、それだけではない。
 これは先に述べたように、実軸点(MP2)における事象・事態である。ここでは、精神性があると同時にないのであり、物質的感覚、同一性感覚が生起するのである。
 物質科学(近代科学)はこの実軸点(MP2)における物質性を特化した科学と言えるのである。
 本題に戻ると、音楽は実軸点(MP2)における聴覚事象であり、そこに反映される精神性を表現していると言えよう。
 では、音、音響、音波とはどうして、精神性を表現できるのか考えてみよう。
 結局、空気自体が単に物質ではないと言えよう。そこには、差異共振エネルギー、つまり、氣が存するのである。その氣を活性化するのが音楽であり、氣的聴覚的現象が音楽であると言えよう。
 だから、単に、音、音響、音波ではないのである。氣的サウンドなのである。

2011年11月19日 (21:49)

凸i中心父権的民族と凹i中心母権的民族:ヤハウェとエローヒーム:一神教と多神教:マニ教の光の教会

テーマ:manichaeism

これは既述済みで復習である。
 父権的民族は凸i中心主義なので、他者凹iを否定する力学をもつ。具体的に言えば、西洋文明は東洋文明他を否定する。
 凸i中心主義は同一性主義であり、超越神であるヤハウェからわかるように、超越性をもった同一性主義である。基盤は第二象限である。
 この超越的同一性主義は、他者・差異凹i(-i)を自己同一性化して止まない。同一性化が極大化すれば、他者の殲滅を志向する。
 つまり、自己を脅かす他者は殲滅させる力学(暴力力学)をもっているのである。これは容赦のないものであり、いわば、悪魔的である。
 この同一性主義は結局、ゾロアスター教のアーリマンと重なるだろう。(思えば、グノーシス主義は旧約の創造神を邪神と見たのである。でも、シュタイナーは実に興味深いことを述べている。ヤハウェはキリストの裏返しであるというのである。キリストの光を第三象限に置けば、ヤハウェの光は第二象限に属すると言えよう。あるいは、キリストの光をD. H. ロレンス的に闇と呼ぶことも可能だろう。凹iである。)
 さて、父権主義は既述したように、明治以降の「近代」日本国家の支配層に基本的に見られるものである。
 だから、権力者は国民に酷いのである。国民のlifeのことなど、一顧だにしないのである。また、封建的心性があるために、集合的であり、個がないために、的確な判断ができないのである。主従関係があるので、主の権力に服従するのである。(思うに、ここに西洋的父権主義と日本的父権主義の違いが見られるだろう。前者はルネサンスやプロテスタンティズムを経ているために、個的自我を基盤とするが、日本は日本的個・母権的個を否定してしまったのである。また、日本の愚民であるが、やはり、封建的心性、主従性があるので、主に対して盲従して、無・没思考的になっていると考えられる。)
 今日、明らかに、父権的文明の終末を迎えているのである。PS理論から言えば、決定的に他者・差異を欠損した文明の終焉であり、当然、他者・差異を肯定する新文明が必須である。
 ここでマニ教の光の粒子、光の教会の概念を導入するとどうなるだろうか。
 これは世界普遍的に作用する理論である。多様性の中に普遍性を見る理論である。そう、正に、他者・差異の理論である。
 このマニ教の光であるが、それは、media point、差異共振を意味するのであり、私の言葉では超越光である。
 これは、光であり、また、闇である。しかし、基本は闇凹i(-i)であると考えられる。
 闇が光と共振する超越光がマニ教の光であると思われる。第三象限に属するのである。確かに、第二象限にも光がある。これは西洋文明ないし父権主義の光である。所謂、理性の光である。(ヘラクレイトスの万物の根源の「火」とはそれではなく、超越光であると思う。そう、超越火である。陰と陽の闘争・衝突のエネルギーとしての「火」と考えられる。「万物は流転する」とは正に、media pointの本質である。)
 第二象限の光、理性の光とは、実は当為、格率にしか過ぎない。その実体は強制なのである。到達できない超越的存在を同一性で強制するための「暴力装置」である。(超越神のことを言うと、原同一性である凸i(i)からは凹(-1)は絶対的に把捉できない彼岸に存するものであり、凸i(i)中心主義からこそ、超越神が生まれたと言えよう。正確に言えば、超越的唯一神である。凹i(-i)がベースの母権主義は内在的超越的多神教を産むと考えられる。この問題は課題としよう。)
 ということで、マニ教の光、光の粒子は第三象限の光、超越光(超越火)ということになる。
 では、光の教会とは何か。(そう、私は「父」の時代⇒「子」の時代⇒「聖霊」の時代と進展するフィオーレのヨアキムの精神・霊的史観は、マニ教に起源があるのではと直観している。)
 光の教会とは、今日では、一つの中心として、インターネット世界ではないだろうか。
 インターネットは母権主義のメディア、他者・差異のためのメディアと言えよう。だから、それは光の教会と呼べるのである。また、あえて言えば、マニ教的であるPS理論を伝播するので、ネットこそ、正に、光の教会と言えよう。

2011年08月02日 (09:49)

最近の小さな論考集成:マニ教的新文明へ

最近の小さな論考集成:マニ教的新文明へ
テーマ:manichaeism
カオスの二乗、無限乗とは、media resonance:MP共振と言えよう

テーマ:PS 理論:プラトニック・シナジー理論

resurrection

neomanichaeist resurrection


PS理論はi*(-i)⇒+1が根本原理、左辺がカオスの種子で⇒がカオス。その内在的カオスが外在的カオスと共振するのがカオスの二乗、無限乗だろう@Novalis_bot 未来の世界は理性的なカオスである。自己自身を貫き―自己の内と自己の外にあるカオス。カオスの二乗、あるいは無限乗



Novalis

Novalis_bot Novalis


未来の世界においては、いっさいがかつての世界のごとくである―それでいて、すべてはまったくちがっている。未来の世界は理性的なカオスである。自己自身を貫き―自己の内と自己の外にあるカオス。カオスの二乗、あるいは無限乗。 『一般草稿』



法とは差異と同一性の二重構造であるが、今日、同一性中心主義で差異が排除されている

テーマ:manichaeism

以下の記事に対して、簡単にコメントしたい。
 法とは本来、差異に対する公平さを制定するものであるが、結果は当然、同一性としての法である。だから、法とは二重構造をもつのである。差異と同一性の並立・共立である。しかるに、今日、法は同一性のみで把握されていて、差異を無視している。これは、法の堕落以外の何ものでもない。法律家よ、御用学者、権力の走狗に甘んじていいのか?!

追記:正確に言えば、法とは差異が主であり、同一性は従である。これは正に、万物の力学そのものである。法=科学=哲学。

追記2:法とは「差異と同一性の並立・共立」と上述したが、そうではなく、差異と同一性との一種の対立ではないのか。あるいは、両者の極性ではないのか。正に、陰陽極性では? 後で十分検討したい。

gama

gamagamagaman gama


tokaiamaがリツイート


国会、ふくいちで働いていた父を亡くし、浪江町のアパートの家賃収入で子供二人を育てていた母親が、避難先から家賃収入がゼロになり、損害賠償を東電に求めたところ、今住んでいるところが、圏外居住であることから賠償を認めないとの返事。公明党浜田議員による質疑。氷山の一角と思われます。



万物にみちみちている一切智智について、もしも決断の徳を明らかにするときには、「智」という名で

テーマ:manichaeism

以下、空海の説く「智」、「心」、「法」とは、PS理論のmedia pointのモードと一致するのではないだろうか。
 決断である「智」とは、不連続であるmedia pointの最初の認識ではないだろうか。また、「心」は当然、media pointの最初期モードである。そして、「法」はmedia pointの「知」そのものではないか。
 とにかく、空海の仏教哲学は根本的、本質的にはPS理論に通じると直観される。

『・・・ 万物にみちみちている一切智智について、もしも決断の徳を明らかにするときには、「智」(ジュニャーナ)という名でこれをよぶ。諸現象の生起する原因の集まり、という意味をあらわすときには、「心」(チッタ)という名でよぶ。真理が軌範となって人の心に理解を生じさせる意味をあらわすときは「法門」(ダルマ)という名でよぶ。
 「智」と「心」と「法」という名は、いずれも「人」を離れてあるものではない。このような「人」は、数がはななだ多く、国土を砕いて塵にした数量より以上にもおよぶのである。だから、すべての人びとがそなえている智慧、という意味で、「一切智智」と名づけるのである。』
「八 心数心王過刹塵 各具五智無際智」:弘法大師:空海全集第二巻「即身成仏義」:筑摩書房 p. 251


参考:〈薩般若(さはんにゃ)〉とは、梵語である。・・・。漢訳では、「一切智智」という。「一切智智」の「智」とは、「決断し」「えらびとる」という意味である。同上 pp. 25~26
弘法大師空海全集〈第2巻〉思想篇2 [-]

空海 (著), 弘法大師空海全集編輯委員会 (編集)
内容(「BOOK」データベースより)

真言密教の神髄を開示する諸論集!精神の発達を十段階に分けて説く『秘蔵宝鑰』、顕教と密教の違いを明示する『弁顕密二教論』、身体論・言語論・記号論を展開して現代思想に大きな示唆を与える『即身成仏義』『声字実相義』『吽字義』など、真言密教の神髄を端的に開示する諸論。

5つ星のうち 5.0 甚深の書, 2004/9/16

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輿聖龍 - レビューをすべて見る

レビュー対象商品: 弘法大師空海全集〈第2巻〉思想篇2

秘蔵宝鑰は普通、十住心論(本全集の巻1)のダイジェスト版と言われているが、読んでみると、必ずしもそうではなさそうである。余談だが、多くの仏者は頭を剃っても欲は剃っていない、とか、誦すだけなら鸚鵡(当時は極希少であったろう)でもできるとかが書いてあって、親しみがもてる。弘法大師はユーモアのセンスもまた豊であったようだ。

本巻なかで、極めつきは吽(ウン)字義である。千経万論の全仏教は大日経の三句に要約できる。この三句をさらに束ねると吽の一字となる、ということからして、王冠の中のそのまた、一番大粒のダイヤモンドである。言葉による概念の圧縮、象徴化(真言)である。視覚によるイメージ操作とは類似だが別個の回路を形成すると思われる。これは、祈りの集中力を強化して、その効率を飛躍的に高めるための、すぐれた技法でもあろう。真言を原始的、幼稚なまじないくらいに思っているあなたに薦めたい。

尚、十巻章とは、菩提心論一巻、弁顕密二教論二巻、秘蔵宝鑰三巻、即身成仏義一巻、声字義一巻、吽字義一巻、般若心経秘鍵一巻、これである。このうち、菩提心論(本全集第八巻に収録)以外はすべて本巻に収められてある。梅原猛著、講談社学術文庫の「空海の思想について」も解説書として参考になる。


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自己双極子が「霊魂」だろう:凸i*凹i、又はi*(-i)が「霊魂」となろう

テーマ:自己認識方程式:凸i
*凹i⇒
凸(+1)

PS理論的には凸i*凹i⇒凸、又は、i*(-i)⇒+1において、左辺が⇒から分離する事象だろう。即ち、独立した左辺が霊魂である。

ルドルフ・シュタイナー

R_Steiner_jp ルドルフ・シュタイナー


アストラル体:繰り返して没意識状態から意識を目覚めさせる、人間の第三の本性。アストラル体の働きは、人間が眠りに落ちた時に消えてしまうように見えるが、超感覚的に観察すれば、その場合も存在し続ける。ただその場合のアストラル体は、エーテル体から離れて、または抜け出て存在している。



蝉の哲学:これは物質から精神への飛翔を意味しよう

テーマ:森羅万象

resurrection

neomanichaeist resurrection

@

目覚ましい哲学的問いである。蝉は地 earthの要素を強くもつのであり、そこから、風air、空気の要素へと変換するのである。これは物質から精神への飛翔を意味しよう。 @2I000mg 何で土中に6年も居る必要が?とは人間の考えであって、大宇宙から見ると大きな意味があるのだろう。



父権的2項対立と近代日本:新マニ教的精神形成の時代

テーマ:manichaeism

父権的二項対立が近代日本を支配している心的メカニズムである。例えば、日本VSアジア。しかし、脱亜入欧路線は西洋VS自国やアジアである。結局、西洋>日本>アジア(日本を除く)の力学がある。原発路線もこの図式である。日本における父権的二項対立は国学が作ったと思う。国学は実はキリスト教の影響で一神教的なのである。八百万の神々の日本。

2011年04月08日 (22:57)

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Japonesian Apocalypse:Trans-Modern Platonic Trans-Creation

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Japonesian Trans-Apocalypse:Manichaeistic Aeon 新しい理論、プラトニック・シナジー理論を深化させています。哲学と数学が結びついた日本の独創的理論です。是非、学んでみてください。どの領域でも扱えるマスター・キーの理論です。

http://ameblo.jp/neomanichaeism

2011年04月08日 (00:51)

放射能とは何ぞ哉:放射能と生命:放射能への耐性・免疫の形成

テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

以下、飯山氏の説明は実に興味深い。
 この説明を読む前に、私は、これからの人間(もっとも、一般的には何十年、何百年の先のことだろうが)は、放射能に免疫があるようになるのではないかと思ったのである。
 というか、端的に言えば、放射能のを光合成細菌のように、吸収できる体質の人間が生まれるのではないかと想像したのである。
 今、想起したが、ヘッケルの反復説を借りて、飯山説を適用すれば、現在の人間にも、放射能への耐性が人間にあると考えられるし、それは潜在して、いわば、休眠状態であるということになろう。だから、この休眠状態から活性化すれば、放射能への耐性、光合成細菌的「食性」が再生するのではないだろうか。
 ヘッケルの反復説を借りなくても、PS理論的に言えば、他者である凹iに放射能を考えて、それに対する耐性的受容性の形成を考えることができるのである。それは、進化である。
 DNAには、未知の遺伝子が眠っているのである。それの活性化によって、放射能への耐性・免疫が形成される可能性はないとは言えないだろう。
 
追記:未知の遺伝子という考えとは別に、新しく遺伝子が創造されるということも当然、考えられる。
 
************************

◆ 2011/04/07(木) 放射能は生命誕生のエネルギーだった!

きょうは,中国人をはじめ来客が多く,接客に忙殺されている.
この間,メールやスカイプやツイッターに問い合わせが殺到していて整理がつかない.
光合成細菌による放射能の除去の話,中国大陸の砂漠緑化の話,廃乳処理の話.
話が錯綜しており,なかなか対応がむずかしい.
申し訳ない.

ここで,少々理屈っぽくなるが,「光合成細菌の放射能利用の原初形態」を述べる.
 1.原始地球には海水と岩石しか存在せず,有機的エネルギーがなかったので,
   地球最初の生命体は,宇宙からの紫外線や放射線をエネルギー源とした.
   当初,紫外線や放射線の破壊力を色素で減じさせ,無機的環境下で光合成
   を行うというシンプルな生命体であった.
 2.微生物や植物は,炭水化物・脂質・蛋白質等の有機物を必要とせず,紫外線や
   放射線をエネルギー源として,炭酸ガスと水から体細胞を合成している.
 3.光合成細菌は,水の代わりに硫化水素などの無機物を栄養源として紫外線や
   放射線の電磁粒子で炭酸同化して体細胞を合成できる.この際,放射性物質
   を体内に吸収すれば,電磁粒子のエネルギー受容率は格段に高まる.

ようするに…,
原始地球において,紫外線や放射線という強大なエネルギーが存在したからこそ,
最初の生命体が誕生できたのであり,紫外線や放射線という強大なエネルギーを
利用しつくす光合成細菌が誕生したからこそ,生命の進化の基礎が築かれた,と
いうことを,イメージングできるヒトは,私の仲間になれるのですが….

中国大陸の砂漠緑化の話,廃乳処理の話も,質問殺到です.
これは,順々に話をしていきますので,気ながに付き合って下さい.
今回は,面倒な理屈っぽい話ばかりしました.いったん置筆します.
御免.

たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 .

2011年04月05日 (07:47)

父権的自我が資本主義と連続する:父権的自我の資本主義的被洗脳:新母権的個的「内臓」精神へ

テーマ:アイオーン・エポック:母権霊的ルネサンス

今は余裕がないので、簡単に触れるだけだが、以前、ヤハウェが唯物論の根源であると粗っぽく述べたことがある。
 今思うのは、父権的自我が資本主義的意識と連続化しているということである。
 近代の問題と言うよりは、父権的自我の問題である。PS理論では、凸iの傾斜問題である。
 そう、単純化して言えば、父権とは凸iであり、母権とは凹iと見ることができる。
 西洋文明は両者があるが、前者が支配的なことは言うまでもない。 
 日本は、本来、後者をベースに前者を取り込んでいるが、私見では、後者がデカダンスとなり、前者の暴走が始まったのが、江戸時代後期以降の日本である。とりわけ、明治以降の日本である。
 思うに、日本の母権主義はある意味で、坂本竜馬らの開国主義において、蘇ったが、無軌道な父権主義によって、葬り去られたと思う。
 ここで、有り体に言って、金儲けという利己主義的欲望は、父権的自我に自動的にセットされていることを問題視したい。
 これは、差異共振(母権精神)の連続的同一性体であり、貨幣・資本崇拝(カルト)となるのである。これは、優越的妄想・狂信・盲信性、ナルシシズムをもっているので、度し難いのである。
 原発路線も当然、この父権的自我の貨幣・資本崇拝に拠ると言えよう。
 結局、今日の日本の「黙示録」の意味することは、この父権的自我主義を超克する、新母権主義へとパラダイム・シフトすることと考えられる。
 伝統的東洋的日本文化に回帰する必要がある。脱亜入欧、戦後の被占領によって喪失した肚の文化を取り戻す必要がある。
 「内臓」が直観するのである。「頭脳」は単なる媒体に過ぎない。
 民主党が国賊・亡国的に無能なのは、「内臓」的精神がないからである。「頭脳」だけだからである。それは、単なる反射主義であり、積極・創造的自主性・主体性、臨機応変・創意工夫がまったくないのである。端的に、『個』的共同体性がないのである。
 「内臓」とは、実に、第三象限=光の王国に通じていると思われる。そして、「頭脳」は第四象限=闇の世界に通じていると思う。
 「内臓」はスピリチュアルである。
 今はここで留める。

追記:端的に言えば、グノーシス主義が否定する創造神とはヤハウェないしは父権神である。
 ヤハウェの根源には、母権神(おそらく、エローヒーム=神々)が存するのである。これが、グノーシス主義の至高神である。それは、第三象限に属するのである。

追記2:グノーシス主義の創造神(デミウルゴス、ヤハウェ)と至高神の二元論的区別であるが、これは、マニ教となると違うものになるのである。何故なら、マニ教においては、物質界において、光の粒子が存して、これが、物質界を克服して、光の世界へと回帰するプログラムをもっているからである。
 光の粒子とは何だろうか。それは、media pointである。物質に内在するmedia pointが光の粒子だと考えられる。
 そう、光子にもmedia pointがあるだろう。
 そして、media pointから凹iを経て、第三象限=光の世界へと再帰するように思える。
 「救世主」とは、結局、media pointに存する「聖霊」であろう。あるいは、差異共立である。

人間認識図

人間認識図

Japonesian Apocalypse:アイオーン・エポックを迎える
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208

Japonesian Apocalypse:アイオーン・エポックを迎える
黙示録論 (ちくま学芸文庫) [文庫]

黙示録論


参照:
「天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義:トランセンデント・モダン
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1686.html

プラトニック・シナジー理論(旧不連続的差異論)のページ


参考:
 このようなヤハウェを、グノーシス主義では《デミウルゴス“dëmiürgos”》と同義とした。デミウルゴスとはギリシャ語で《製作者》を意味し、元々はプラトン哲学において、原型としてのイデアにのっとって、素材から世界を形成する創造神をさしている。この場合のデミウルゴスは、ユダヤ教のヤハウェと同じくそれがいわば至高の存在である。これらヤハウェやデミウルゴスといった創造神による被造としての宇宙万物(あるいは世界)と、その中にいる人間は、当然のことながらその創造神が至高の存在であるので、《美しく善きもの》として称賛されたものであった。そしてこれらと並行する形で、いわゆる常識として形成されていった民間における星辰(星座)信仰によれば、星辰は人間の霊魂の故郷とみなされており、とりわけ偉大な政治家や皇帝の死後、その魂は星辰界に帰着すると信じられていた。

 ところがグノーシス主義における宇宙・世界・人間観は、これまで常識と考えられていた価値観を根本から覆す思想体系を構築した。ヤハウェおよびデミウルゴスは、人間がおかれている可視的宇宙そのものを作った存在にあたることはかわらない。しかしその宇宙がグノーシス主義では《人間即神也》で説明したように、「人間の本来あるべき場ではない倒錯状況にある」から、それらは転じて倒錯状況を生み出した悪なる造物主、すなわち無知蒙昧なる《偽りの神》と化すのである。そして《美しく善きもの》として賞賛されていた宇宙は、この造物主の無知が作り出した牢獄とでもいうような捉え方へと一変し、人間の運命を司るとされた星辰は、この悪なる造物主の支配下にあり、人間の運命を決定する支配者たちとして《アルコーン(=執政官の意、悪なる霊質)たち》、《番天使》などと呼ばれ、かえって、人間の本来あるべき場である究極的存在の住まう世界へと帰着する霊魂を捕縛し、妨害するものへと転じることになった。これが《反宇宙的二元論》を反宇宙的と言わしめるゆえんである。

 この考え方は、先述したヤハウェの特徴である《愛の神》、《義の神》としての側面と、《荒ぶる神》としての側面という、対立している概念が一刀両断されたことをも意味する。前者は究極的存在である至高神に、後者は無知蒙昧なる偽りの神である造物主に割り当てられたのだ。これは後に成立することになる原始キリスト教と融合して「キリスト教グノーシス主義」を形成し、愛を説き福音をもたらすメシア(救世主)としてのイエス・キリストを遣わした神が、この世を創世した造物主ではなく、究極的存在である至高神による啓示であると位置づけられることになる。グノーシス主義の神に関する概念は、このようにして、既存の神の二元的な側面を、真の神たる至高神と偽りの神たる造物主とに引き裂いた上で、はっきりと対立する二者に分けたのだ。
http://homepage3.nifty.com/kiraboshi2/Abraxas/Gnosis_intro3.html
グノーシス主義概論

2011年04月02日 (22:10)

光と物質:ならば、心(精神)が光である:肉体は闇である

後で検討したいが、簡単に所見に触れたい。
 物質界が闇ならば、物質界の光とは何かが大問題である。
 これは、「哲科学」的な最重要な問題の一つであろう。
 「光」とは物質なのか精神なのか?
 思うに、凸i*凹i⇒凸において、凸は物質である。そして、「光」は⇒である。
 故に、「光」は物質ではなく、前物質である。精神である。
 ならば、光子は何か。それは、media pointとしての「光」ではないか。media pointは点となるので、この点が光子という素粒子ではないか。
 以上のようであれば、「光」とは、第三象限の根本光に属するのである。
 ならば、この世は闇であり、光である。

追記:では、「気」と光との関係はどうなるだろうか。直観で言えば、「気」が光となって出現するのである。だから、「気」=光と考えていいのだろう。光の根源が「気」ということになる。

追記2:結局、物質界・現象界の「心」とは、media point(凸i*凹i⇒)と連続的同一性(⇒凸)が混淆・混濁・連続化しているのである。そう、ポスト・モダンないしポスト構造主義とはほぼこれに注目したと言えよう。
 しかしながら、media pointの超越性を排除してしまったのである。そう、やはり、近代主義=唯物論なのである。
 

Japonesian Apocalypse:日本黙示録
《ガウス平面で表した人間認識の図》http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208  

2011年04月02日 (20:45)

世の人の極め付けの愚かさは自分が生まれる以前、死んだ以降のことを考えないことだ:この世主義者

テーマ:マニ教とPS理論:光と闇の陰陽双極子

世人は、自分が生まれる前は何であったか、考えたことがあるのだろうか。あるいは、死んだ以降どうなるのかということを。
 もし、自己がこの世だけの存在ならば、いったい、誕生前は何であったのか自問すべきである。
 無から有、そして、有から無?
物質界に染まった人間は、物質界を越える視野をもたない。
 明らかに、精神は超越界、光の世界に所属する。それが、物質界という闇に包まれているのだ。
 この闇の支配が近代文明を生んだと言える。悪魔アーリマンの仕業である。
 物質界に支配されているので、「死」を恐れるのである。しかし、本体は、精神界=光の国(ウルトラマンみたいだ。光の王国と言うべきである。)に属するのである。
 そう、「わたし」は精神界=光の国から生まれ、そして、そこへと帰還するのである。
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