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2005年10月15日 (19:40)

一神教について:新自由主義から不連続的差異自由経済へ

一神教について:メディア界と現象界との境界における、イデア界への反動、ないしイデア界とメディア界の境界への反動の超越・形而上学的表現ではないか。このイデア界への反動、ないしIM境界(イデア界とメディア界の境界)への反動の「力」が、一神教の神の超越領域となるだろう。この反動力が、一神教の神の「イデア界」である。だから、ヤハウェは、一種裏返しのイデア界ないしIM境界である。(反動の意味を後で検討)そして、これは、個体としては自我主義であり、「構造主義」であり、資本主義の一種の「精神」的原型、プロトタイプである。そして、この帰結が新自由主義である。(これは、ユダヤ/キリスト教的一神教のことであり、イスラーム教は、ここには当てはまらない。イスラーム教は、イデア界宗教である。また、ユダヤ/キリスト教とは、ヤハウェ教と言うほうが的確であろう。イエスの教えは、ここでは無視されるのであるから。イエス教とは、本来、イデア界の宗教であると考えられる。仏教と似ているのである。つまり、キリスト教は、D.H.ロレンスが説いたように、二重性をもっているのである。一つは、ヤハウェ教としてのキリスト教であり、一つは、イデア界的なイエス教としてのキリスト教である。ロレンスは、『死んだ男』で、多神教・コスモスのフレームで、イエスを復活させているが、コスモスとは、イデア界であるから、ロレンスは、ヤハウェ教としてのキリスト教を否定して、イエス教としてのキリスト教を復活させたと考えられる。)
 問題は、この一神教/新自由主義がどうなるのかである。ここで、一神教の過程をたどると、中世において、封建制を形成し、近世・近代において国民国家=近代主義を形成した。そして、今や、地球資本主義を形成しているのである。これは、近代主義の国民国家という連続・同一性を解体するのである。そして、交換価値の構造、超越論的形式へと収斂するのである。このポスト近代主義的変革の意味するものは、一神教的構造の実現である。そして、この一神教的構造変革として、地球資本主義が徹底され ると、変容が生じるのである。これまで、開放系的に富を形成してきたが、閉鎖系経済となると、差異を新たに創らなくては、富が発生しない状態になると言えよう。つまり、一神教が解体するのである。ポスト一神教となるのである。他者・差異を肯定することが、新たな富の形成となるのである。つまり、新多神教である。これは、また、ポスト・エゴイズムである。つまり、差異共存主義であろう。思うに、現在、イラクでの混乱は、一神教とポスト一神教との相克を意味するのではないか。新自由主義は、間接民主主義である。これは、イデオロギーとして機能する。これは、一神教の破壊主義、戦争主義である。しかし、同時に、今日、差異を肯定する必要が生じているのである。つまり、新自由主義は、今日、分裂的になるのである。一元・一神教的破壊主義と多元・多神教的差異主義との二重性をもっていると言えるだろう。
 さて、ここで、もう少し、経済を考えると、交換価値的構造の実現と言ったが、実は、使用価値/交換価値の相補性の実現と言うほうが的確である。これが、現代資本主義の真の構造であると考えられる。これは、不連続的差異論におけるメディア界の領域にあたる。メビウスの帯の領域である。陰陽の領域である。つまり、現代資本主義は、メディア界構造主義と言えるのである。情報資本主義という概念もここに相当するだろう。これが意味するのは、使用価値=差異的価値が交換価値を形成するのに絶対的に必要であるということである。差異的価値創造が欠かせないのである。では、創造的差異とはどこから発生するかと言うならば、それは、メディア界ではなくて、イデア界からである。ここにしか、絶対的創造性は生まれないのである。ニーチェ/フッサール哲学である。超越論的差異性、不連続的差異性に、絶対的創造性があると言えよう。ということは、現代資本主義は、メディア界からさらにイデア界へと進展するし、現在、そうなっているのである。つまり、イデア界/不連続的差異的資本主義であるということである。そして、これは、差異共存主義である。イデア界に達すると、差異共存主義に達するのである。すると、資本主義は、競争から共創へと変容・変態するだろう。つまり、差異創造が本質的な意味となるだろう。交換価値の創造というよりは、差異価値の創造自体が、経済行為の意味となるだろう。これは、脱資本主義、ポスト資本主義、差異共存共創経済と言えるだろう。イデア界的差異自由経済となるのである。
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2005年10月14日 (14:34)

検討課題:イデア界の不連続的差異共存の力学の試論

後で検討したいが、共存の力学とは何か。スピノザはコナトゥス(自己保存力)と言ったが、差異にはコナトゥスがあるだろう。これを、とりあえず、差異力と呼ぼう。この差異力には、思うに、垂直力と水平力、ないし分立性と「共感」性の相補的両極性があるのではないだろうか。この両極性は、位相的ではないだろうか。垂直力、分立性へ傾くと、独立・単独的になるだろう。しかし、水平力、「共感」性へ傾くと、連結ないし融合するように「見える」。思うに、この水平力とメディア界は何か関係がありそうだ。差異水平力が極限的になるのが、メディア界ではないか。(ところで、D.H.ロレンスが『無意識の幻想曲』で説いた無意識の四元性であるが、最初の二元性(コスモス性)は、イデア界に関係し、二番目の二元性(対他関係)は、メディア界に関係するのではないだろうか。後で要検討。) 
 とまれ、差異力とは、基本的には分離共存力、共立力である。これが、差異境界を形成すると言っていいだろう。

差異1/境界/差異2   d1/boundary/d2

差異力、垂直・水平力、分立・共感力、これは、同時に、知力である。知識と言ってもいい。差異のもつ両極的知識力である。垂直的知識力と水平的知識力。垂直・水平知識力。この二元的知識力は、無限速度で、他の差異と共存しつつ、それらを「認識」するだろう。言わば、差異は全知である。また、同時に、絶対的差異であるから、無限の多様性をもっているから知識は無限多様生成性をもつだろう。(思うに、量子論、物理学は、このイデア界を理論化しないといけない。)差異の無限知識力は、無限速度であるから、無時間的に、あらゆる可能性を実現していると言えるだろう。
 ここで、ホワイトヘッドの把握(prehension)を考えると、それは、メディア界でもありうるが、イデア界の事態と言えないか。差異は、他の差異を把握prehensionしているだろう。そして、この不連続的差異が水平力に傾いて、連結して、メディア界を形成する。このメディア界においても、不連続的差異は、無限知識をもっているから、把握が生起するだろう。そう、また、アフォーダンスであるが、それは、環境差異論であるが、しかし、環境だけでなくて、主体にもアフォーダンスがあるのである。つまり、アフォーダンスとは、差異無限知識力、差異無限認識力のことではないか。また、霊能力や超能力と言われるものも、この差異無限知識力だろう。天才と呼ばれる人は、この差異無限知識力を生得的にもっていると言えるのではないか。しかし、これは、万人、万物に内在しているのだから、だれでも、啓発すれば、この天才力、差異無限知識力を得られるだろう。また、さらに、アニミズムであるが、それは、環境差異無限知識力の表象だろう。また、多神教もこの差異無限知識力の表象だろう。また、一神教は、差異無限知識力を同一性で統一したものだろう。この同一性は、思うに、イデア界の差異の垂直力、分立性の極限性によるのではないか。つまり、イデア界の一面的表現としての一神教である。イデア界は、宗教的に表現すれば、当然、多神教的である。
 では、問題は、この差異無限認識力の連続化の関数である。これは、数学/物理学の表現となる。そして、連続化された現象界とは、有限エネルギーの世界である。しかし、脱連続化、脱フレーム化によって、差異が剥き出しになり、無限エネルギーが放出されるのではないか。差異無限認識エネルギーである。
 さて、宇宙論に関係すると、ビッグバンとは、イデア界がメディア界化した時のことだろう。つまり、水平力・共感力への志向が極限的になったときだろう。イデア界/メディア界の境界が生起して、後は、連続化作用で自然現象・造化が生起するということではないか。すると、思うに、当然、垂直・分立力の志向が反作用的に生じるから、宇宙は消滅するはずである。すると、生成消滅を反復する宇宙があるということになるだろう。これは、マヤ文明やアステカ文明の神話やヒンドゥー教やインドの哲学(ブラフマン)にある考え方だ。イデア界のもつ周期があるだろう。これで、宇宙が発生し、また、消滅するのだ。宇宙が膨張するのか、収縮するのかという議論はこれで超克される。

参考:ブラフマン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%95%E3%83%9E%E3%83%B3

p.s. コナトゥス(自己保存力)=差異力と言うことになるだろう。そして、資本主義は、これの経済的体現であるが、たとえば、新自由主義は、差異の垂直主義化と言えるのではないだろうか。社会主義、共産主義は、差異の水平主義化であろう。結局、差異無限知識力の経済が本来的となるだろう。差異的「資本主義」であるが、それを、資本主義と呼んでいいのか。脱資本主義ではないだろうか。資本を、量的、連続論的に捉える経済を資本主義と言うならば、資本を質的、差異的に捉える経済は、資本主義とは異なるのではないだろうか。つまり、資本を脱構築して、差異化しているのである。脱資本ではないのか。それは、何か。差異価値ではないか。差異経済である。差異無限知識経済である。脱資本主義としての差異共存共創経済? 不連続的差異的無限智識エネルギー共存共創経済。
 
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