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2012年06月03日 (12:29)

精神と現象:精神(霊魂)が現象化して、自我意識等が生まれた?:超越界と超越論界と現象界

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

超越軸をもつガウス平面、つまり、ガウス平面をいわば底面としてもつ立体座標においてであるが、どうも、超越軸z軸と虚軸y軸との関係が不明解である。
 そこで、考え直したのである。これまで、自我(頭)を凸i、魂(肚)を凹iとし、前者に悟性、後者に感情・欲望を見たのであるが、そうすると、凸iは光子(電磁波)であり、凹iは闇子(重力波:仮説)であるから、宇宙・自然現象一般と人間が一致してしまうことになる。有り体に言えば、植物、動物、鉱物等と人間が区別されないことになってしまうのである。確かに、身体的には、植物、動物、鉱物等と共通するが、人間の精神・認識性はそれらにはないだろう。そう、簡単に言えば、自我は植物、動物、鉱物にはないだろう。(とは言え、動物には、小自我ないしは前自我のようなものはあるかもしれないが。)
 そこで、これまでの仮説を変更して、自我の根源は凸jであり、魂の根源は凹jであるとするのである。つまり、自我と魂は神霊と等しくなるのである。(ここで、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」を想起する。)
 では、神霊である自我と魂(両者併せて、以下、自己魂)がどうして、現象における自己魂(一般的に自我に傾斜しているので、自我魂)となり、神霊である自己を忘却ないしは喪失しているのだろうか。
 この理由・原因は分かりやすく説明できる。即ち、神霊的自己魂は、現象化して、物質界/身体界に組み込まれて、物質/身体の制限を受けるからと考えられるのである。
 つまり、根源は神霊的自己であるが、それが、虚軸の凸iと凹iへと転化するのが現象化、言い換えると、誕生である。つまり、虚軸の凸i=光子(電磁波)と凹i=闇子(重力波:仮説)の極性を帯びるのである。悟性は神霊的自我の凸jが凸iに、魂は神霊的魂の凹jが凹iにそれぞれ折り重なったものと考えられるのである。
 同一性とは凸iに関係するのであり、その同一性的認識を介して、人間は物質を認識するのである。そう、カントの超越論的形式は正に、凸iに折り重なった凸jで説明ができると考えられる。
 それは、空間形式であるが、時間形式は、凹iに折り重なった凹jで説明できよう。カントの内的感覚(内官)である。空間形式は外的感覚(外官)に関わるのである。
 そして、この超越論的形式(そう、凸iと凹iをそれぞれ、超越論的空間形式、超越論的時間形式と言えよう)が真に物質的現象化するのが凸(+1)と凹(-1)で説明できよう。つまり、凸i化された凸jと凹i化された凹jが結合して、純物質凹(-1)と宇宙・自然現象凸(+1)となると考えられるのである。
 わかりやすく言えば、虚軸y軸は、胎児の世界であろう。そして、実軸x軸が現象世界(いわゆる現実世界)である。
 そう、睡眠とは、実軸x軸(存在軸)から離脱して、虚軸y軸へと回帰して、さらには、media pointを介して、超越軸z軸の神霊世界に触れることではないだろうか。つまり、睡眠において、現象的自己は、神霊的自己に回帰しているということになる。つまり、霊魂に戻っているということになる。
 さて、ここで思考実験であるが、虚軸化作用を受けた神霊的自己の数学的記述であるが、凸j・凸iと凹j・凹iと積で記すことができるのか、それとも、明快に凸j⇒凸iと凹j⇒凹iとした方がいいのか。
 前者を使用するなら、結合は(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(-1)となる。
 結合という用語であるが、これは、同一性化作用と差異共振化作用の二重性を意味している。
 自然現象の場合は、差異共振化だけでいいのであるが、人間の場合は、自我凸iに傾斜しているので、同一性化作用を組み込む必要があり、その為に、二重性をもつ意味として結合という用語を用いたのである。
 ところで、結合式(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸(+1)と凹(-1)は整理して、

(凸j・凸i)*(凹j・凹i)⇒凸凹(±1)

と記述したい。凸凹は凸と凹の併存を意味しているのである。
 ここで、ルドルフ・シュタイナーの精神哲科学を考えてみると(もっとも、上述の睡眠事象はその視点に拠るのであるが)、超感覚(霊的感覚)的世界とは、自己から凸i*凹iの拘束から離脱させることで得られると言えよう。そう、同一性・物質の被拘束から精神意識を離脱させることである。
 ただし、シュタイナーは科学的合理精神を重んじていた。つまり、同一性・物質的な思考を重視していたのである。
 超感覚(霊的感覚)的世界を同一性・物質的言語で表現することを重視していたのである。その表現は、絶対的には不可能であるが、いわば、相似的に可能であるということである。
 同一性・物質的思考、科学合理的精神を重視するのは、現実離れをして、精神が混乱するのを防ぐためである。
 しかしながら、同一性・物質的思考、科学合理的精神は、悟性的精神であり、自我と結びつくので、自我の欲望を抑制する必要があるのである。そうでないと、合理的精神が自我欲望によって捩じ曲げられてしまうのである。
 言い換えると、同一性的自我を抑制する必要があるのである。つまり、差異(他者)、差異共振の思考が必要となるのである。具体的に言えば、頭脳中心の思考を抑制する肚の思考が必要なのである。そして、両者の中間に胸の思考(media point thinking)を形成すべきなのである。優しさや「愛」とは、そこから生まれるが、それを道徳・倫理として確立すべきである。そう、フィオーレのヨアキム的に言えば、それは「聖霊」的思考である。頭脳的思考が「父」であり、肚的思考が「子」であり、胸的思考が「聖霊」ということになる。(今や、「聖霊」のエポックであるが。)
 言い換えれば、同一性と差異とのバランスを保持するということである。
 以上から、これまでの不明であった超越軸z軸(超越界、神霊界、イデア界)と虚軸y軸(光・光子と闇・重力子)と実軸x軸(純物質と現象)の関係が明快になったと言えよう。
 最後に、⇒凸(+1)をこれまで、超光と仮説してきたが、この点を再検討する必要がある。
 原光・光と原闇・闇の差異共振が創産(造語)する凸(+1)は、宇宙・自然現象であるが、それを超光であると見ていいのか。
 それは、力ではないのか。powerないしはforceではないのか。
そう、宇宙・自然現象を形成する実際の力ではある。
 だから、超光というより、超力の方が相応しいのかもしれない。
 現時点では、訂正して、超力としたい。
 宗教的光であるが、それは、やはり、超越界に存すると言えよう。それは、凸j*凹jのmedia pointに存するのではないだろうか。そこに本当の超光があるのではないだろうか。それが現象的に発出すると超力になるのではないだろうか。
 今はここで留める。

参考:
意識と本質。 | 芸術生理学研究所(仮)
2005年1月30日 – この著作もすでに1991年に中公文庫より刊行されていたが、このご時世、新たに「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」という ... Tat tvam asi(「汝はそれなり」)は、ウパニシャドの宗教的・哲学的思想の精髄(エッセンス)を一文に収約したものと ...
http://green.ap.teacup.com/april/8.html

参照:
自分が主人公だった

ある有名人が、「世の中は、不公平なのが真理です」と発言されていました。
この言葉は、聞く人の心の深さによって、何を思うのかが変わります。
この世だけで、すべてが終わり完結すると思い込んでいる人には、この世が不公平に見えるようです。
しかし、私は「この世は、完全なる公平」であり、これが真理だと知っています。

1日には、昼と夜の時間帯があり、2つ合わせて丸1日なのです。
昼間とは、物が見える時間帯です。これは私たちが、この世で生きている間の時間帯(人生)でもあります。
そして、人は必ず死んで、夜の時間帯へと移行するのです。
つまり、この2つを経験して初めて、魂の1つの区切りと成るのです。

まだ半日しか生きていない人間が、「この世は不公平」だと思うのです。
物語を「途中で切り取れば」、話のつじつまが合わないのはアタリマエなのです。これを不公平だと、錯覚しては生けません。
人間は、この世では、まだ半分しか生きていないと言うことを知るだけでも、この短い人生の生き方が改善されます。
この半分の世界だけで終わると思い込めば、不公平、あやまち、不平不満、我良し、やった者勝ち・・・などと、感謝の心(内在神)から離れた行動と思考をします。

http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/e/bca3505a93808fef75fe69b83d7d1d8f

伊勢ー白山 道






日ユ同祖論と母権文化的原日本:父権と母権

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

日ユ同祖論が正しいと仮説すると、タイトな父権主義の「ユダヤ」文化が豊饒なる母権文化の原日本に「侵入」したとすると、それは、私が唱えている母権と父 権の衝突に拠る古代ギリシア的なタイプの文化が古代日本において形成されたことを意味することになる。もっとも、私は中国からの父権民族の侵入を想定した が。
 思うに、両極端の文化の衝突と融合が古代日本で生じたことになる。天皇がその中心(media point)である。
 しかしながら、江戸時代になり、古い結合融合(略して、結融)文化が崩壊して、父権と母権に分裂した。明治維新はこの両面をもっていたが、結局、父権が勝利して、全体主義的近代日本が形成された。
 今日、新しい融合を目指すべきである。それは、超日本となるだろう。近代を超克するトランス・モダン・ジャパンである。
 余裕のあるとき、丁寧に説明したい。

追記:新しい融合は、母権凹iが土台となり、父権凸iを取り込むように、それと共振して、形成されるのである。

http://www.googleadservices.com/pagead/aclk?sa=L&ai=BibtCmkDLT9ayB4H9kAWs76CWBKHd4rACubf5hkDAjbcBwIHFURABGAEg3qaUCjgAUKmu5ZoHYInrx4T4E6AB74-w0QOyAQlhbWVibG8uanDIAQHaATZodHRwOi8vYW1lYmxvLmpwL25lb21hbmljaGFlaXNtL2VudHJ5LTExMjY1OTMzODE5Lmh0bWyAAgGpAqS6gSZTfUs-qAMB6AOuAegD2gP1AwAAAMb1AwAAQBCIBgE&num=1&cid=5GjkQKSNfClfdo1pk2rx4fw3&sig=AOD64_2EFo3jT7uceTE4DgN4WSHlIfkaww&client=ca-cyberagent-ameblo_js&adurl=http://www.coway.co.jp





「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

先に、「天」の方向は、凸(+1)であり、「地」のそれは、凹(-1)であると述べたが、端的に考えれば、凸iが「天」の方向であり、凹iが「地」のそれ である。つまり、凸iは「頭」であり、凹iは「肚」であるから、単純に、当然、凸iが上昇の方向であり、凹iが下降の方向である。
 そうならば、凸(+1)と凹(-1)は何を意味するのか。
 前者は差異共振による現象界(宇宙・自然)を意味するだろう。後者は物質界である。
 また、前者は超光であり、後者はいわば、超闇である。
 また、凸iは実体としての光であり、凹iは実体としての闇である。
 ところで、先に、氣と電磁波は異なると述べたが、そうすると齟齬が生じる。何故なら、凸iは光・光子(電磁波)であり、陽の氣であるからである。(もっとも、凹iは闇・闇子であり、陰の氣であるが、それは、重力波ないしは重力子[作業仮説]であり、電磁波ではないが。)
 そう、先の説明を修正しないといけない。氣ではなく、超氣と電磁波は異なると言わなくていけないのである。超氣とは、凸(+1)の超光である。





物質が先か、それとも生命体が先か:生命体の解体から物質が生じたと考える

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

PS哲科学は、新イデア論であり、精神が根源にあると仮説している。そう、精神から物質が発生したと考えている。
 しかし、説明が必要である。精神から、最初、生命体が生まれたと考えているのである。その生命体は当然、物質性を帯びている。しかしながら、生命体の衰退によって、生命有機体は解体して、物質が生起したと考えるのである。
 つまり、精神(神霊・霊魂)⇒生命体⇒物質の順である。
 しかるに、物質科学=唯物科学は、逆に、物質⇒生命体⇒精神という順に発生を考えるのである。
 確率論的に言えば、後者の可能性は極めて低いのであり、仮説に過ぎないと言えよう。
 この問題の一つのキーポイントは、氣であると思う。氣を認めるか否かで、決定的に異なる結果となる。何故なら、氣は物質科学で説明できないからである。せいぜい、電磁波を氣と考えることができるくらいである。
 しかし、氣は生命の生成力であるから、それを単純に電磁波と捉えることは不可能である。

追記:上記の氣は超氣と訂正する。そうでないと齟齬を来すからである。即ち、凸iの光・光子は、陽の氣であり、電磁波であるからである。もっとも、凹iの闇・闇子は、陰の氣であるが、重力波(作業仮説)であり、電磁波ではないが。
 以下参照。

「天」と「地」について再考:凸iが「天」で、凹iが「地」ではないか
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11265898435.html






唯物科学から生命有機体科学へのパラダイム・シフト

テーマ:trans-modern:超近代的進化

飯山一郎氏の唱える乳酸菌ないしは光合成細菌による新農業ないしは、脱原発路線は、結局、近代の唯物論を超える、生命有機体論科学の提唱であると言えよう。
 端的に、物質と生命とは異なるのであるが、近代科学=唯物科学は、前者から後者が生まれると考えたのである。
 しかし、その結果は、例えば、福島第一原発の崩壊による放射能汚染である。
 原発は近代科学=唯物科学の帰結と言えよう。物質ではなく、生命有機体を基にした科学ならば、このような事態はありえなかったと言えよう。
 結局、脱近代科学=脱唯物科学として、トランス・モダン科学=生命有機体科学というものが必然となるのである。


6月2日(土)京都のえびす屋で講演会。 6月24日には東京でミトラについても話します。
新井信介 「京の風」


母なる海が人間を産んだ

伊勢ー白山 道  





不連続的差異論からPS哲科学への移行の問題について

テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

不連続的差異論は、哲学理論であったが、それに数学を導入して、PS哲科学(哲学-数学-科学理論〔仮説〕)へと発展した。
 この数学-科学への発展の妥当性について、後で、再検討したい。
 言い換えると、不連続的差異論は、精神的哲学であるが、その精神性を数学で記述するのは、どういう意味をもつのか等を検討したいのである。
 精神を数学で記述できるとは、結局、精神自体が数学的であるということになるのである。これは、ピュラタゴラス/プラトン哲学路線ではある。
 それは、結局、精神は数理的存在であるということである。しかしながら、私の疑問は、精神は精神の様態をもっているのであり、その様態は単に数理ではすべては捉えられないのではないのかということである。
 今の予備考察では、やはり、二重性があるのではないのかということである。即ち、精神的様態と数理的様態の二面を哲学はもっているのではないのかということである。
 だから、PS哲科学とは、精神-数理的哲科学ということになる。
 しかしながら、根本は精神であると考えられる。精神の科学的側面が数理的に記述されるのであり、精神の認識的側面が哲学的に記述されるということではないだろうか。
 以上、とりあえず、予備考察としておく。

追記:補足すると、根源は精神である。そして、それが、意識的側面では哲学となり、数理的側面では、数学-科学になるということである。
 しかしながら、意識的側面が中心であり、数理的側面は補完的側面であると考えられる。
 つまり、精神の意識様態が直観的表象であり、それの数学ー科学的表象があるということになる。
 精神の意識様態が基本であり、数理ー科学的記述は、知的様態であると言えよう。
 意識様態とは、知性、感情、意志を含むものであり、数理ー科学的記述は単に客観的知性による表象と言えよう。
 だから、数理的記述は、確かに、進展的ではあっても、意識様態に取って代わることはできないのである。
 故に、数学主導で、不連続的差異論からPS理論へと進展したことは、意識様態を客観的知性が取って代わったことになり、それは、一面的であり、そのために、本末転倒の状況が生じたのである。
 意識様態こそ、基本であり、数理的記述はその補完的知的表現と見なさないといけない。
 そう、意識的合理性と知性とは異なるのである。前者から哲学が、後者から科学が生じる。
 思うに、意識科学というものが考えられそうである。それは、端的に哲科学(哲学-科学)である。





肚の鍛練と頭脳の学習:肚と胸と頭の陶冶・涵養に向けて:新母権的自己形成へ

テーマ:新母権的社会:差異共振共同体

現代日本は魔境に入ってしまった。自我、父権的自我である利己的人間が蔓延してしまって、他者への認識、同時に、自己への認識が喪失されている。
 何度も述べたが、明治維新は、父権的封建的自我(一般的に長州勢力)が母権的個主義(坂本龍馬、西郷隆盛らの勢力)に勝利して、集団的中央集権国家が形 成された。そして、狂気の引き起こした「太平洋・東/東南アジア戦争」という大惨禍を経て、戦後は、米国的近代合理主義が主流となり、伝統的日本・東洋的 価値観は否定された。
 後者を象徴するものは、肚の喪失である。肚の鍛練の喪失である。
 思うに、西洋人は実は、無意識的に肚をもっているのであり、それを知らず、悟性、知性、合理性云々をいうのである。
 この無意識の肚を日本人は見落としているのである。
 この肚への回帰は瞑想とも関係しているかもしれないが、私は、瞑想は苦手である。
 とまれ、日本人の意識改造が必要である。意識構造改革である。

参照:
「天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義
sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1686.html - キャッシュ
2011年3月27日 – 天皇制」と封建制:近代日本の封建的国家体制:父権的自我優越妄想主義:トランセンデント・モダン. 以下、東海アマ氏は持論の「天皇制」批判を唱えているが、この問題については既述したので、繰り返さない。 ただ、今度の大震災における ...

精神世界の叡智アーカイブス:身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
blog.livedoor.jp/longpa/archives/11396692.html - キャッシュ 類似ページ
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2004年12月17日 – 齋藤 孝/著 NHKブックス ◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」 日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。 腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。





一体的感応性と個的独立性:コスモスと個

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私は子供の頃、田んぼと畑と防風林と林野のまったくの田舎に住んでいた。今思えば、別天地である。車も一日数えるくらいしか、町道を通らなかった。
 とまれ、水田の苗が大きくなり、緑のマットが敷かれたようになる頃、自転車通学していた私は、水田や防風林の緑の世界と神秘的に、そう官能的に一体化したものである。
 この環境との一体的感性はいかなるものであろうか。
 そして、反対に、個であるという意識のメカニズムはいかなるものであろうか。
 直観で言えば、環境的一体感とは、凹i(肚)が主導となった精神の様態ではないだろうか。そこでは、凸i(頭)の従の状態にあるのではないだろうか。(追記:正確に言うと、凹i(肚)は無意識的であり、それが胸・心胸に作用して、環境的一体感をもたらしたと思われる。)
 正確に言うと、凸i*凹iの未分化・連続的様態における凹iの主導的様態が環境的一体感(神秘官能感)を生むのではないだろうか。
 D. H. ロレンスの説くコスモスとはそのような様態を意味するのではないだろうか。
 では、それに対して、「わたし」は個であるという意識はどのような力学をもつのだろうか。
 これまで、個とは凹i、肚に基盤が存すると述べてきたのであるから、それは、環境的一体感と通じるものとなってしまうかもしれない。
 内的体験的には、個とは、肚=凹iと自我=頭=凸iとの均衡に存するように思われる。言い換えると、他者(肚=凹i)であり、且つ、即ち、即非的に、自我(頭=凸i=「わたし」)である。その対極が共振していると言ってもいいだろう。

 (お断り:実は、以下論述はかなり続くのであるが、専門的な独創的な知見なので、ここでの発表を差し控える。)





「天」は⇒凸(+1)の方向で、「地」は⇒凹(-1)の方向だろうか?

テーマ:PS哲科学:フィロソフィエンス:哲学科学

私の内的経験では、コスモスの光は肚から天へと上昇する。コスモスの光は、今の概念で言えば、超光である。これは、肚=闇=凹iと目=光=凸iとの共振によって、発出される。ベースは前者、肚=闇=凹iである。
 そうすると、「天」の方向とは、⇒凸(+1)になる。これはほぼ確定である。
 では、それに対して、「地」の方向はどうなるのか。単純に考えると、反対方向となる。即ち、⇒凹(-1)である。
 どうだろうか。そう、これも内的体験的に考えると、「地」とは、頭から肚へと意識が移動して、肚から「力意識」を大地へと向けた方向にあるだろう。それは、一種、凸i*凹凹i⇒凹(-1)で数式化されるのではないだろうか。
 少し違う感じもあるが、とりあえず、そう想定すると、「地」の方向は、⇒凹(-1)となる。そう、ここでPS哲科学(PSフィロソフィエンス:PS- Philosophience)的トーラス論で考えると、凸(+1)が「天」の極、即ち、天極で、凹(-1)が「地」の極、地極となろう。
 現時点での結論(仮説)としておきたい。
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2012年05月26日 (16:55)

超越軸における回転による超越円の形成と超越円をマトリクスとする現象螺旋形成

テーマ:映画ThriveのトーラスとPS哲科学

先に、ガウス平面において、凸i(+i)と凹i(-i)との揺動によって、回転が生じることを述べた。
 問題は時間現象である。私は先に、凸iが空間形式で、凹iが時間形式ではないかと言った。カント哲学的には、前者は、外的感覚(外官)であり、後者は内的感覚(内官)である。
 差異共振現象という自然現象は、当然、時空間の発現を意味するから、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺の凸(+1)が時空間現象を意味するかもしれない。
 しかし、螺旋運動こそが、自然現象であるから、凸(+1)は自然現象自体ではない。
 それは、これまでの考えでは、超光エネルギーである。あるいは、超氣である。
 思うに、⇒凸(+1)の活動において、螺旋運動が形成されるのであるから、螺旋を空間とすれば、運動が時間と関係すると言えよう。ここで作業仮説であるが、⇒凸(+1)の超光のベクトルが時間ベクトルと一致するとしよう。つまり、凸(+1)は時間を意味することになる。
 そう、時間は内的なものであり、不可視であるから、それは、考えられることである。
 これで、現象螺旋運動の説明は済んだとしよう。
 次に、超越軸における回転・螺旋運動である。
 凸j*凹jも揺動しているとすると、超越円において、回転すると考えられる。(ここで説明しておかないといけないのは、凸i*凹iが形成する螺旋運動であるが、その三次元は現象空間三次元であり、超越軸をもつ三次元ではない。つまり、ここで、現象三次元空間と超越軸を区別する必要があることである。
 結局、ガウス平面に直交する二つの軸があることになる。一つは超越軸であり、一つは、現象空間の第三次元の軸である。)
 しかしながら、果たして、超越円の回転は、螺旋運動を形成するだろうか。
 運動となるには、時間が必要であるが、超越円は時間を形成するだろう。そう、凸j*凹j⇒凸(+1)と形式化したのであり、右辺は時間を意味するのであるから、超越円も螺旋運動を形成することになろう。
 ここで整理したい。
 順序から言うと、超越軸における凸jと凹jの共振的揺動があり、それが回転をもたらし、超越円を形成する。
 この超越円の意味するものは、虚軸y軸の形成ではないだろうか。
 つまり、超越軸z軸と直交する虚軸y軸の形成である。これで、超越界からの凸i(光)と凹i(闇)の形成が説明できると言えよう。
 そして、凸i(光)と凹i(闇)の共振からの現象創造の説明もできる。
 そうすると、上述した超越軸と現象空間第三軸は異なるということはどうなるだろうか。
 つまり、超越軸と虚軸における超越平面と超越円が現象螺旋運動(時空四次元)を形成する基盤、マトリクスであり、それは、現象時空間とは一致しないと考えられる。
 そう、超越円はイデア界と言ってもいいだろう。それは、現象界からは不可視の存在であるが、現象創造の超越的根源ということになる。
 超越円(言わば、イデア・サークル)から可視の螺旋的現象界が形成されるということになる。
 そう、一見、超越軸と現象第三軸は重なるように見えるが、やはり、根本的には別物である。
 つまり、こう言ってもいいだろう。超越軸z軸と現象第三軸は表面的には重なるが、それは、見掛け上のことに過ぎないのであり、両者はまったく別個のものとして存在するのである。(追記:そのように区別したものの、凸j*凹j⇒凸(+1)であるから、media pointにおいて、両者は重なることになるだろう。思うに、media pointは、この重なりにおいて、超越軸の情報を受け取り、それを物質化するのである。そう、いわば、超越情報[イデア情報]を受け取り、それを物質・現象的に具現化すると考えられる。
 さて、そういうことで、超越円(イデア・サークル)から螺旋形状が形成されるが、それは、黄金比を基本的にもっていると言えよう。だから、五芒星形がなんらかの超越円において、形成された可能性が考えられる。(ピュタゴラス派)
 そうすると、超越軸には何らかの超越的意志が考えられないだろうか。超越的意志によって、現象形成が決められているのではないだろうか。
 しかし、そのように考えると、超越軸を超越した超-超越界を想定する必要があるのではないだろうか。
 この問題は難しいので保留しておき、一応、超越軸における超越円の創造に留めておきたい。
 最後に凸jと凹jについて簡単に考察してみたい。凸iが光、凹iが闇ならば、凸jは原光、凹jは原闇ということになるのではないだろうか。
 原闇と原光が共振して、闇と光の宇宙世界が生まれる。
 原闇が原母であり、原光が原父ということになろう。
 問題は、原父が主導的な場合である。最初期は、原母が主導性をもっていたと考えられるが、あるとき、原父が主導的になったと思われる。
 もし、原父が決定的に自身を原母に押し付けるならば、凸j*凹凹j⇒凹(-1)となり、それは、質料となるのではないだろうか。
 一神教がこのような性格をもっていると考えられる。そう、原母を質料化して、卑賎化するのである。「父」が上位であり、「母」が下位である。そして、それの極端化したものがユダヤ教、ないしは、旧約聖書であり、「母」はほぼ不在となっているのである。
 ここで簡単に日本神話について触れると、それは、原母による原父との共振による現象創造を語っていると思われる。
 天之御中主神とは、原母と原父との共振を意味するのではないだろうか。そう、超越的media pointである。
 そして、高産霊神と神産霊神は凸iと凹iを意味するのではないだろうか。
 では天照御大神とは何であろうか。それは、超光であろう。単に光ではなく、原母と原父との共振、光と闇との共振による超光を意味しよう。
 マニ教の光はそれであろうし、アフラ・マズダ、キリストもそれであろう。
 今はここで留める。後で、再考したい。

2012年05月23日 (08:29)

不連続的差異とはいったい何か:不連続的差異論の再検討:闇と光の共振造化作用

テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

もう一度、不連続的差異論に立ち返って、根底から再検討したい。基本は、自我的意識と他者的意識が一般には、連続的(未分化)であるが、両者を意識において切断することで、後者が不連続的差異になるのである。
 この自我的意識から切断され、独立的になった他者的意識(他者性)、不連続的差異は、実際、どういう事象を形成するのか。
 この点については、当然、既に考察して、それは、差異共振様態を形成すると考察しているが、それを今、再検討するのである。
 わかりやすく具体的に言えば、他者的意識=不連続的差異とは、肚の意識である。それに対して、自我的意識とは、頭の意識である。そして、その中間に胸(心胸)の意識があり、それは、media pointと考えている。
 では、独立した肚の意識とは何であろうか。直観では、他者を映す鏡である。他者をダイレクトに受容する鏡である。そう、優れた芸術家は、この能力をもっている。(英国の詩人、ジョン・キーツは、否定的能力negative capabilityを説いたが、これは、言わば、自我を無、空にして、他者を肯定する能力と考えられる。)
 かつては、そこで、「コスモス(宇宙)」を直感したが、今は感じなくなっている(「コスモス」はどこに行ったのか? おそらく、内在化して、一体化して、感じなくなっているということではないだろうか。)。
 とまれ、この他者の鏡の認知力と自我の意識が結合して、思考、認識が形成されるのである。
 そう、両者の間に存する胸(心胸)の意識はmedia pointであり、それは、媒介的な役割をするだろう。一面では他者的意識(肚)であり、他面では自我的意識(頭)である。中継的存在である。
 ということで、独立した他者的意識=不連続的差異は、結局、自我的意識=同一性的意識と対話的協働の関係をもつに至ると考えられる。両者は対話的であるから、常に変動する様態をもつと考えられる。
 不連続的差異は、自我と差異共振するとこれまで考察してきたが、この対話的協働が一つの差異共振であるとは言えよう。
 しかしながら、対話的協働だけでは、差異共振が発出すると考える超光(超光エネルギー)が考えられない。
 そう、ここで陰陽の視点が必要となるのである。即ち、他者的意識(肚)=不連続的差異は、闇darknessであり、自我的意識(頭)=同一性的意識は光lightであるということになる。
 闇と光の「対話」が生起すると考えられる。ここでは、物理学的視点も提起されているのである。
 言い換えると、闇の宇宙dark universeと光の宇宙light universeの交叉がここで形成されているのである。
 そう、闇宇宙は光宇宙に作用して、光宇宙を「侵略」する。光宇宙を闇宇宙に染めようとする。しかし、光宇宙は、それに対して(抗して)、光宇宙を闇宇宙に浸透させようとする。
 ここでは、両者の鬩(せめ)ぎ合いがあるのである。永遠の鬩ぎ合いである。闘争と言ってもいい。しかし、これは弁証法ではない。極性力学である。
 しかしながら、両者のバランスが形成される時点があるだろう。闇の宇宙と光の宇宙の調和均衡点である。
 D. H. ロレンスはそれを聖霊=王冠と呼んだのである。鈴木大拙の即非の論理学と一致しよう。
 ここで整理しよう。闇宇宙と光宇宙の争闘があるが、それは、それなりに、差異共振であり、「波動」を発出すると考えられる。そう、差異共振波動と呼んでいいだろう。
 闇宇宙に揺れたり、光宇宙に揺れたりするのである。闇と光の揺動する波動である。
 これは、数学的に見れば、ガウス平面において、円運動を形成すると見ていいだろう(ここでオイラーの公式が役立つのである)。そして、時間軸を考えれば、円運動は螺旋運動となるのはわかりやすいことである。
 そう、時間軸は、実軸の+1(凸)の領域に相当するだろう。つまり、螺旋運動はガウス平面の実軸の+1の方向に形成されるということになる。
 では、実軸の-1(凹)の領域はどういうことになるだろうか。
 ここが一つの重要なポイントである。ここで躓きやすいのである。光宇宙は自我的意識=同一性的意識であり、それは、他者的意識(闇宇宙)を否定するのである。
 これは上述した闇と光の争闘、差異共振波動とは異なると考えられるのである。
 何故なら、波動ではなく、言わば、凝固・固体化があると考えられるからである。
 そう、ここで、対話的協働と否定を理論・哲学的に区別する必要がある。換言すると、闇と光の闘争、差異共振における対立と他者的意識(闇宇宙)に対する否定を区別しないといけない。
 対立において、「否定に見えるもの」と自我的意識における否定との区別である。そう、前者の「否定に見えるもの」とはいったい何であるのか、これが、重大なポイントである。
 そう、これは、端的に矛盾と言われるものである。論理的は、パラドックス、背理、アンチノミーである。あるいは、鈴木大拙の即非である。
 しかし、これを厳密に詰める必要がある。
 今閃いたが、対立とは極性原理の問題である。極性とは考えたら、対立ではあるが、牽引するのでる。
 異質な、対極的なものは対立するが、同時に、牽引するのである。ここがポイントと考えられる。
 そう、対立的牽引があるのである。造語して、これを対引(ついいん)性と呼ぶことができよう。否定ではなく、対引である。
 元々一体である対立性である。対一性である。
 とまれ、暫定的に、闇と光の闘争、差異共振における「否定に見えるもの」を対引と呼びたい。
 これはまったく否定と異なるものである。それが、自然の生成力学の原理である。
 しかしながら、人間においては、否定が強く存しているのである。つまり、自我的意識=同一性的意識のもつ他者的意識=差異共振意識への否定である。
 つまり、人間においては、光宇宙へ傾斜して、バランスが崩れているのである。端的に言えば、自我・同一性原理の傾斜によって、極性原理がある意味で崩壊しているのである。もっとも、抑圧されていると言った方が正確であると考えられる。
 自我・同一性原理とは、ほぼ物質原理と言っていいだろう。何故なら、それは他者を同一性化するからである。つまり、本来、闇である他者を光化して、モノと捉えるからである。
 そう、ここには、対引性ではなく、否定性が作用しているのである。
 ここで、物質とは何かと考える必要がある。上述の思考から見ると、宇宙・自然は、闇と光の極性原理から形成されるのである。宇宙・自然には物質が形成されるのであるから、闇と光の極性原理は、物質を産出すると考えられる。
 思うに、極性原理の対引力とは、氣と見るといいと考えられる。(ルドルフ・シュタイナーならば、エーテル体である。)
 氣が宇宙・自然を創造形成する根源力と考えられる。
 では、氣と物質との関係はどうなるのだろうか。これも最重要な問題点の一つである。
 直観で言えば、極性、差異共振が「有機体」的宇宙・自然を形成するのである。つまり、基本は無機的な物質ではなく、「有機体」的な物質が形成されるのである。つまり、氣の生命体的形成原理によって物質が形成されるのである。しかし、この物質は生命体に付属するものであり、無機的物質ではないのである。
 闇と光の共振が生命体を形成し、そこに「有機体」的物質が付属すると考えられる。闇と光の共振における氣・対引力が、外在的に螺旋的に物質を形成するのである。内在的には氣・対引力が存しているのである。
 問題は、この外在性である。この形成原理はどういうものだろうか。
 直観では、光が闇と共振する時、物質を形成するのである。つまり、光と闇の共振において、氣的形成が為されるが、そこにおける光の要素が物質を形成すると考えられるのである。
 つまり、共振体における光の要素が物質体を形成すると考えられるのである。光が物質に転化しているのである。
 ならば、闇は共振体において、どうなっているのだろうか。
 直観で言えば、共振体の不可視の部分である。それは何か。思うに、端的に、氣の内在部分ではないだろうか。つまり、氣の外在部分としての物質は光が転化したものであるのに対して、氣の内在部分に闇は転化したと考えられる。
 では、氣の内在部分とは何か。
 どうも、短絡的になったようだ。闇と光の共振であるが、それを氣とするのは、勘違いのようである。そうではなく、それは、宇宙・自然形成力(造化力)と見るべきである。その形成力の外在・外部が物質であり、内部が氣であると考えた方が適切であると考えられる。
 つまり、造化力の外在・外部の物質を形成するのが、光の原理であり、造化力の内在・内部の氣を形成するのが闇の原理であるということになる。陰陽論で言えば、陽が物質を、陰が氣を形成することになる。
 もっとも、陰陽において、陽も氣であるから、陽が物質を、陰が氣を形成するというのは、齟齬である。
 だから、氣という用語を使用すると混乱することになる。
 だから、闇と光、陰と陽との共振作用とは、これまで述べたように、超光形成作用であると見た方がいいだろう。この超光エネルギーが造化力であり、光=陽の転化したものが、その外在の物質であり、闇=陰の転化したものがその内在の不可視の力であると言うことができよう。
 そう、一般には、後者の内在する不可視の力を氣と述べていると考えられるが、上述したように、陽も陰も氣であるから、それを氣とすると、混乱するのである。もし、氣という用語を使用するなら、内在する不可視の力は超氣、合氣、結氣とか呼ぶべきである。そう、超氣がとりあえずいいだろう。
 そうすると、闇と光の共振創造造化作用において、光=陽は、その外在的物質へと転化し、闇=陰はその内在的超氣へと転化するということができる。(ルドルフ・シュタイナーのエーテル体とは、後者の内在的超氣のことと言えよう。)
 最後に、カント哲学の視点から言うと、純粋悟性とは、自我的意識=同一性的意識であり、それは、他者・差異を否定して、同一性化=物質化するのであるが、それは、闇と光の差異共振体を同一性化するものと言える。つまり、それは光=陽の原理であり、闇と光の共振体である宇宙・自然という「有機体」を同一性という物質に断片化する原理である。無機性の原理である。
 それは近代の原理であり、今や、光の原理ではなく、闇と光の共振原理へと立ち返る必要があるのである。そう、トランス・モダンの哲科学へと進化する必要があるのである。
 以上のことは、これまで行なったように、数学的に説明できる。即ち、闇と光の差異共振作用は、

凸i*凹i⇒凸(+1)

であり、

光の同一性的他者否定作用は

凸i*凹凹i⇒凹(-1)

である。
 また、光は光子、電磁波であり、闇は闇子(造語したもの)、重力波(作業仮説)である。

追記:ヘーゲル哲学について一言述べておこう。
 思うに、ヘーゲル哲学とは、上記の闇と光の極性共振原理と光の同一性原理の混淆であり、後者が前者を取り込んでいる形になっていると考えられる。
 つまり、同一性原理が極性共振原理を支配している様態にヘーゲル哲学がなっていると考えられる。
 また、ヘーゲル弁証法の正反合であるが、正は光の同一性原理、そして、反は否定性、そして、合は否定を媒介として、同一性の確定と考えられる。
 つまり、ヘーゲル哲学一般は、かなり、極性共振原理的視点がある。つまり、矛盾によって成長するというような思考においてである。しかし、ヘーゲル弁証法は、同一性原理が中心になって、極性共振原理は後退して、その形骸が正反合になっていると考えられる。

追記2:極性原理における対引(ついいん)であるが、反引、対反(ついはん)と呼んでもいいだろう。

2012年05月22日 (05:50)

PS理論批判:PS哲科学:数学主導のPS理論に換えて哲学主導のPS哲科学

テーマ:PS哲科学(PS哲学-科学)

PS理論批判の批判は、カントの純粋理性批判の批判と同じ意味で使用する。
 結局、PS理論の前身の不連続的差異論は、端的に哲学的理論(仮説)であったが、その後、数学を導入して、プラトニック・シナジー理論(PS理論)となったのである。
 問題は、数学の導入の意義である。ここで、批判が入るのである。この問題について、これから、検討考察したい。
 端的に言えば、哲学に数学を導入したとき、つまり、哲学が数学化されるとき、哲学は数学的構築をもつようになる。
 問題は、果たして、数学的構築と哲学とが等しいのかということである。ベースには哲学があるが、それに数学的構築が付与されるのである。つまり、ここで、理論は哲学と数学の二重性をもつのである。つまり、哲学-数学理論である。
 この哲学-数学理論は、基本的には、主は哲学であり、数学は従である。つまり、あえて言えば、哲学のための数学であり、数学のための哲学ではないのである。哲学を質的に、ないしは、科学的に拡張するために数学を導入するのであり、本体は哲学である。
 結局、PS理論とは、哲学理論であり、数学理論ではないのである。この点はいくら強調してもし過ぎることはない。
 とまれ、数学を導入し、数学的構築をもったPS理論、あるいは、PS哲学(この呼び方の方が、明快である)は、数学の論理を借りて、飛躍的に展開したのは事実である。
 端的に言えば、科学的要素を哲学に組み込むことができるようになったのである。現代物理学等に適用することができるようになったのである。
 また、さらには、宗教等の超越性にも対応できる超越論的哲学にもなったのである。
 結局、森羅万象に対応できる哲学になったのである。
 しかしながら、数学的構築、数学的体系をもったPS理論であるが、やはり、基本的な二重性があるのであり、哲学と数学の間には、仮説があることを確認する必要があるのである。
 具体的に言えば、純粋悟性ないしは自我を凸i(わかりやすく言えば、虚数i)とし、また、それを光子や現象太陽としているのが、それは一つの仮説ないしは仮構に過ぎず、絶対的に一致するとは言えないのである。
 簡潔に言えば、果たして、自我を虚数凸i(i)とすることは、絶対的に正しいのかは問題である。自我ないしは純粋悟性を虚数に対応させて、計算した結果が、哲学的帰結と一致するように考えられる(仮説される)ので、哲学に数学を組み込んだのである。
 つまり、ここには、普遍的真理は、哲学だけではなく、数学にも発現するのであり、哲学に数学を組み込むことで、普遍的真理の認識が単に哲学では届かないものに達したということになるのである。
 しかしながら、上記の条件へと戻るが、数学を組み込んだものの、あくまで、性格は哲学である。このベースを忘れた時、数学が独走し、哲学が置いてきぼりになるのである。
 つまり、哲学が主で、数学が従であったのが、数学が主であり、哲学が従となるのである。
 そう、普遍的真理と言ったが、基本、根本は哲学的真理であり、数学的真理ではないのである。何故なら、哲学には、数学にはない、精神、意識、内面性等があるからである。数学はそれをもたないのである。
 だから、数学が主となり、独走すると、PS理論は、いわば、本末転倒となり、単に、数学的理論になってしまうのである。
 数学に拠る哲学の、言わば、隷属化が生じるのである。哲学が数学に支配されるのである。
 ここでは、PS理論は、もはや、本来の哲学ではなくなり、数学的理論になってしまっているのである。
 これが、PS理論批判の眼目である。
 具体的に、私の思考における問題点を言うと、端的に、自己認識方程式、即ち、

凸i*凹i⇒凸(+1)     (*は積を意味する)

において、オイラーの等式を適用するときである。オイラーの公式

e^iπ+1=0

を変形させて、

-1=e^iπ

となるとき、この-1を凹(-1)と見て、これが、根源であると考えたのである。そして、凸i*凹i⇒凸(+1)の右辺を物質と見たのである。
 これは、オイラーの公式の簡潔さに魅かれて、哲学を数学に合わせたことになるのである。
 しかしながら、哲学的思考では、同一性の思考は、凹(-1)を導くであり、差異の思考こそ、凸(+1)を導くのである。
 この点は、理論を展開する上で、大いに悩んだ点であるが、結局、オイラーの公式に服する形で、凹、-1を根源とし、凸、+1を
物質としたのであった。つまり、ここで哲学が数学に服したのである。
 しかしながら、最近、PS理論を再検討し、反省した結果、それが、間違いであることが判明したのである。
 これは、PS理論にとって、言わば、致命的な誤りである。ある意味で、決定的な誤謬である。
 そう、端的に言えば、PS理論はその点で破綻したのである。
 この誤謬は、結局、本来、哲学が主で数学が従であるべきことに反して、数学を主、哲学を従としたことに拠るのである。
 ここで、PS理論は終わったと言うべきである。そして、私は、本来の哲学的思考を基盤として、数学を導入し、また、ガウス平面を超えた超越軸をもつ新しいPS理論(NPS理論)を提唱することになったのである。
 思うに、新しい名前が必要である。明快な名前は、PS哲学である。あるいは、明確に言えば、Platonic Synergy Philosophy Assisted by Mathematics、即ち、数学によって支援されたプラトニック・シナジー哲学である。
 以上で、PS理論批判は明快になったと考えられる。

追記:PS哲学より、PS哲科学(PS哲学-科学)の方が適切である。PS philosophic science、又は、 PS philosophienceである。
 

参照:

オイラーの等式(オイラーのとうしき、英 : Euler's identity)とは、解析学 における等式

e^iπ + 1 = 0

であり、その名はレオンハルト・オイラー にちなむ。ここに、

e: ネイピア数 、すなわち自然対数 の底
i: 虚数単位 、すなわち2乗すると -1 となる複素数
π: 円周率 、すなわち円 の直径 と円周の比

である。

オイラーの等式 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/オイラーの等式 - キャッシュ 類似ページ
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この項目では、オイラーの公式の特別な場合について記述しています。オイラーの ... オイラーの等式(オイラーのとうしき、英: Euler's identity)とは、解析学における等式 ... オイラーの等式は、その数学的な美によって特筆すべきものと多くの人に認識されている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E7%AD%89%E5%BC%8F
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