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2014年11月04日 (00:52)

学ぶことを忘れたのが亡国の原因?:読書は読智である:脱日本一神教原理:新多神教・新陰陽原理へ

学ぶことを忘れたのが亡国の原因?:読書は読智である:脱日本一神教原理:新多神教・新陰陽原理へ

テーマ:哲学philosophy:ソフィアへの愛

私の両親は無学であった。読書をしなかった。農薬を使う野菜農家であった。父は胃ガンでなくなった。
 思うに、読書とは、読智なのである。知恵を得ない読書ならば、それは、皮相な読書である。知恵とは自分に役立てることである。内的、外的に実践的である。
 日本人は知恵を捨ててきたと思う。
 傲りがあると思う。知恵に対する冒瀆があると思う。
 それは、やはり、父権自我から来ていると思う。
 再論するが、西洋文化とは、二重文化であり、基層には、母権文化があり、その上に父権文化が支配しているのである。だから、常に、両者の対立と対話が為されるのである。そこで、知恵が生まれるのである。それが、哲学である。古代ギリシアから哲学の伝統が西洋には流れているのである。
 日本において、母権文化が衰退してしまっている。
 これは、やはり、明治維新と敗戦後の被占領体制に因るだろう。
 それまで、日本文化は東洋文化であり、中国、インド、韓国・朝鮮の文化を基礎としてきたのである。
 中国文化には、基層に母権文化があるし、インドもそうである。
正に、陰陽文化がそうである(ただし、『易経』は父権化されて解釈されている)。
 これを似非近代日本は否定したのである。つまり、自己否定したのである。端的に、脱亜入欧である。しかし、この欧米文化の輸入は、父権的であり、母権文化を見ていなかったと思う。
 とまれ、伝統を否定する極端な在り方が「近代」日本で生じたのである。これこそ、自虐的であるが。
 そう、バランス、均衡を失ったのである。
 いったい、この極端な自己否定的な「近代主義」とはどこから発するのだろうか。 
 これは、一神教の発想に近いと思う。
 私見では、国学の神学によっているのである。
 国学は、神道を一神教化したのである。
 国学神学が「近代」日本を支配しているということではないだろうか。一神教支配である。
 どうも、これが、日本の自己否定原理であるように思えてきた。
 本来、多神教である神道が一神教化されたのである。ここには、日本父権民族の視点があると思う。(やはり、日ユ同祖論を支持したくなる。)
 一神教は、非常に危険である。それは、帝国主義原理になるのである。キリスト教は本来は三位一体で、多義的であるが、一神教的に解釈されてきたのである。
 今の結論として、脱一神教化、脱国学神学であり、新多神教、新陰陽原理を提唱したい。
 ついでに、ハイデッガーのきわめておもしろい本を推奨したい。これは、主著の『存在と時間』より、ずっと優れていると思えるのである。わかりやすいのである。解説書は返って、深遠にしてしまっている。ハイデガーの説く「存在」は明快である。

追記:智は光であり、智のない人間は闇が支配している。闇の無智から智光へ。


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文芸空間 ハイデガー『形而上学入門』
literaryspace.blog101.fc2.com/blog-entry-27.html


* キャッシュ
* 類似ページ

2007年5月15日 ... 「2ちゃんねる」系のページのことである。 女子高生の書いたページにリンクを張って、
話題にしていた。 女の子のピースをした顔写真。 黒を基調とした背景。 短い言葉、
ほんの数文字で書かれた自己紹介。 大きく取られた余白に、殺とか狂とか ...

マルティン・ハイデッガー - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/マルティン・ハイデッガー


* キャッシュ
* 類似ページ

マルティン・ハイデッガー(Martin Heidegger、1889年9月26日 - 1976年5月26日)は、
ドイツの哲学者。ハイデガー、ハイデカーとも表記される。エトムント・フッサールの現象
学の他、イマヌエル・カントからゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルへと至る ...
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2013年12月31日 (14:40)

マックス・ウェーバー『古代ユダヤ教』を読みだす:ユダヤ教の二重性を剔抉する

マックス・ウェーバー『古代ユダヤ教』を読みだす:ユダヤ教の二重性を剔抉する

テーマ:二つの資本主義:自由共同体と掠奪暴利主義

年の瀬、仕事から解放され、気になっていた本書を読み出した。
 先にユダヤ教の二重道徳に関する記事を転載した(再掲:政治=経済的ゾロアスター教的闘争の時代:プーチン/オバマ平和資本主義路線VS戦争資本主義路 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11737871837.html)が、本書の訳者の内田芳明氏が下巻の解説で、明快に述べている。
 ここだけでも読む価値がある。ユダヤ教の二重の産物、賤民資本主義と合理的資本主義の対比が見事に叙述されている。
 現代日本、現代世界を解明する鍵がここにある。
私が批判するジェノサイド戦争資本主義は古代ユダヤ教社会の賤民資本主義に起源があり、プーチン=オバマ平和資本主義に存すると私見する自由共同体資本主義はキリスト教を媒介にした古代ユダヤ教合理的資本主義に由来する言えよう。

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『古代ユダヤ教』M.ウェーバー(2) - きおくのきろく - Yahoo!ブログ blogs.yahoo.co.jp#:#http://blogs.yahoo.co.jp/leic523/35325084.html
blogs.yahoo.co.jp/leic523/35325084.html‎
2010/01/27 - 『古代ユダヤ教』 マックス・ウェーバー 岩波文庫 ○ 対内・対外道徳の二元主義 隣人愛は古代ユダヤ教でもあったが、それはどうもすべての隣人ではなく、同じ宗派仲間を意味していたらしい。 隣人とは常に民族共同体員であるか、宗派的仲間 ...

バアルとヤハウェ ウエーバー『古代ユダヤ教』ノート(1) | 聖書における愛 ... 8661.teacup.com#:#http://8661.teacup.com/agapekainomos/bbs/32
8661.teacup.com/agapekainomos/bbs/32‎
2011/06/19 - 投稿 1 件 - ‎1 人の編集者
その後、バアル神信仰の詳細がひどく気になってきて、読みかけになっていたマックス・ウエーバー『古代ユダヤ教』(岩波文庫)を、第1章第13節「バアルとヤハウェ、偶像と神の箱」を中心にいくらか読み直しました。関連して、山我哲雄氏の『 ...

2013年11月22日 (15:25)

二重天皇制の精神力学分析:母権と父権のゆらぎ:氣・植物体的魂と動物体的自我の二元論主体

二重天皇制の精神力学分析:母権と父権のゆらぎ:氣・植物体的魂と動物体的自我の二元論主体

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように書いた。
 今は、新たに気づいたことを備忘録する。
 1)作業仮説の百済の父権主義であるが、それとイスラエルの失われた十支族と結びつきがあるとするのはどうか。先に日ユ同祖論を示唆したが、それ以前 に、百済ユダヤ同祖論がありうるのであり、それが、結果的に、日ユ同祖論に展開するということではないのか。そう見ると、日本の神社にユダヤ教と共通する ものがものが多く見られるというのは、百済ーユダヤ・ルートに拠るということになるだろう。
 私が探していた日本父権民族とは、実は、百済ーユダヤ父権民族ということになるのである。
 しかし、以下に示唆したように、この百済ーユダヤ父権民族とは、実は基盤の百済母権民族を支配しているという構造をもっていると考えるのである。この父 権/母権二項対立精神力学を百済民族はもっているということになるのである。あるいは、父権/母権二重構造と言ってもいい。
 とまれ、そのような百済ーユダヤ父権/母権二重天皇制が日本に到来して、それを日本国として実現したというよに考えられてくるのである。
 そして、日本国創建の証拠として、記紀、とりわけ、日本書紀が創作されたというように考えられるのである。
 聖典を記録するのは、父権文化である。そして、当然、母権文化を卑しめ、父権文化を称揚するのである。これが、父権文明の聖典形成の常套手段である。
 だから、日本書紀の天孫降臨民族は侵略した父権民族であり、土着的母権民族を支配したと考えられる。
 しかし、問題が複雑なのは、侵略した父権民族は、母権民族性を内包していたことである。
 母権内包型父権なのであるから、母権文化を保存する必要があるのである。それが、日本書紀、記紀に出ているはずである。
 わかりやすい徴表は、太陽信仰、太陽神である。
 これは母権文化と父権文化で共通するのである。太陽信仰を核にすることで、父権民族は母権民族を支配できる権威を得ることができるのである。
 そして、政治的には天皇制が中心となるのである。母権と父権の紐帯としての天皇制である。
 
2)1と関係するが、母権と父権の二重性をもつ精神の構造である。これは不安定なゆらぎの様態にあるのではないだろうか。
 そして、このいわば、混沌としたゆらぎ状態に日本人の意識はあるのではないだろうか。
 一方では、母権志向であり、他方では父権志向である。
 しかしながら、意識は父権へとなびきやすいので、日本人は父権志向になっているのである。
 しかしながら、これは、正に、父権民族支配の思うつぼである。彼らは、日本母権民族の未分化的二重様態における父権志向を利用して支配できるのである。そう、洗脳できるのである。
 結局、これは、日本母権民族が自身の原基盤たる母権文化を明確に認識していないことから来ると考えられる。
 この点では日本人は実に杜撰である。おそろしく杜撰である。そう、生ぬるく生きてきてしまったのである。甘えである。
 そう、日本母権民族の精神構造を考えると、百済ーユダヤ父権民族の父権文化が入ってきたために、純粋母権文化ではなく、父権文化が導入されることになるのである。
 つまり、母権+父権の混合状態になると考えられる。これは、言うならば、分裂状態である。齟齬様態である。
 これが、一般的日本人の精神の基本的様態ではないだろうか。つまり、一方では、母権志向でありながら、他方では、父権志向という分裂様態である。混沌様態である。
 しかしながら、イデオロギー的には父権優位で洗脳され、マインドコントロールするのである。
 結局、未だ、日本人は自己形成が未完成なのである。
 自身の本質である母権文化を見ないように、洗脳されているからである。
 母権文化を探求すると、実は、氣の文化に突き当たるのである。それは、肚の文化であり、また、当然、不可視の文化である。ディオニュソス文化である。
 しかしながら、父権文化は可視文化、現象・物質文化であり、それを否定的に捉え、母権文化を制止するのである。
 そう、女性を劣位に置くのである。
 しかしながら、極めて不思議なことは、日本語に語彙に「氣」という字や言葉溢れているのに、それを理論・哲学化していないことである。もっとも、例外の人物はいるが(『玄語』の概要http://www.coara.or.jp/~baika/wiki/guidance.html)。 結局、百済—ユダヤ的父権民族が日本母権民族を支配している図式がずっと続いているということだと思う。そして、現代、百済—ユダヤ的父権民族である自民党政権が剥き出しで、日本母権民族を殲滅させようとしているのである。
 ユダヤ選民主義は母権民族を否定するのである。正に、黙示録である。

最後に天皇制に戻ると、父権的天皇制とは、一種の専制を意味する。そして、母権的天皇制は、そこにD. H. ロレンスが『アポカリプス』で述べたようなコスモスの力の反映があると思われる。私の言葉では、氣の自然宇宙の文化共同体の力学を意味するのである。


二つの天皇制:母体の母権天皇制と父権天皇制:藤原氏と日本書紀

以下の説は、興味深いが、天皇制に関しては、一面的であると思う。
 私の仮説は、天皇制は二つあるというものである。母権的天皇制と父権的天皇制であり、両者が重なっているのである。
 思うに、藤原氏は父権的天皇制を作ったのであり、基盤の母権的天皇制を利用しているのである。
 日本書紀は、父権的天皇制イデオロギーの面が強いのではないだろうか。
 思うに、飯山一郎氏の唱える百済国亡命をベースにする日本国建設論であるが、宗像大社とその神話の壮麗さを見るとそれは、母権文化である。
 しかし、百済出身とされる藤原氏は、どう見ても父権主義である。
 この齟齬をどう見るのかである。
 私は先に、父権民族は、中国経由のアーリア系民族ではないかと示唆した。
 しかし、藤原氏が百済出身であるなら、日本父権民族の源流は考え直さなくてはならない。
 これは作業仮説であるが、百済国が実は、母権民族であったが、父権民族によって征服されたのではなかったのか。つまり、父権支配の母権民族としての百済国である。
 それが、原日本に亡命してきたという作業仮説である。
 つまり、元々、百済国は二重天皇制の国であったという作業仮説である。
 そして、その二重天皇制の百済国が原日本に「亡命」して、日本国を創建するということになるのである。
 そして、元来、母権民族である原日本において、二重天皇制は独自の発展したのではないだろうか。
 つまり、百済の母権天皇制は原日本の母権民族と結びついたのではないだろうか。
 そして、百済の父権天皇制は、それらを支配する方策をとったのではないだろか。それが、例えば、日本書紀の創作ではないだろうか。
 キリスト教になぞらえて言えば、ヤハウェ的天皇制とキリスト又は聖母マリア的天皇制が生じたのではないだろうか。
 そして、土着的母権的原日本人(縄文・弥生)は後者に惹かれたのであり、今でもそうである。
 そして、自民党のような明治維新的タカ派路線は当然、ヤハウェ的天皇制である。
 もう少し言うべきであるが、時間がないので、今はここで留める。
 
藤原氏の正体編: 心の尊さ(真実)と血筋の尊さ(虚飾)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11709761794.html



二つの天皇制:母体の母権天皇制と父権天皇制:藤原氏と日本書紀

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

以下の説は、興味深いが、天皇制に関しては、一面的であると思う。
 私の仮説は、天皇制は二つあるというものである。母権的天皇制と父権的天皇制であり、両者が重なっているのである。
 思うに、藤原氏は父権的天皇制を作ったのであり、基盤の母権的天皇制を利用しているのである。
 日本書紀は、父権的天皇制イデオロギーの面が強いのではないだろうか。
 思うに、飯山一郎氏の唱える百済国亡命をベースにする日本国建設論であるが、宗像大社とその神話の壮麗さを見るとそれは、母権文化である。
 しかし、百済出身とされる藤原氏は、どう見ても父権主義である。
 この齟齬をどう見るのかである。
 私は先に、父権民族は、中国経由のアーリア系民族ではないかと示唆した。
 しかし、藤原氏が百済出身であるなら、日本父権民族の源流は考え直さなくてはならない。
 これは作業仮説であるが、百済国が実は、母権民族であったが、父権民族によって征服されたのではなかったのか。つまり、父権支配の母権民族としての百済国である。
 それが、原日本に亡命してきたという作業仮説である。
 つまり、元々、百済国は二重天皇制の国であったという作業仮説である。
 そして、その二重天皇制が原日本に来て、日本国を創建するということになるのである。
 そして、元来、母権民族である原日本において、二重天皇制は独自の発展したのではないだろうか。
 つまり、百済の母権天皇制は原日本の母権民族と結びついたのではないだろうか。
 そして、百済の父権天皇制は、それらを支配する方策をとったのではないだろか。それが、例えば、日本書紀の創作ではないだろうか。
 キリスト教をなぞらえて言えば、ヤハウェ的天皇制とキリスト的天皇制が生じたのではないだろうか。
 そして、土着的原日本人は後者に惹かれたのであり、今のもそうである。
 そして、自民党のような明治維新的タカ派路線は当然、ヤハウェ的天皇制である。
 もう少し言うべきであるが、時間がないので、今はここで留める。
 
藤原氏の正体編: 心の尊さ(真実)と血筋の尊さ(虚飾)
長年に亘って藤原氏と関わって藤原氏を見てきた先祖を持つ清和源氏の一族の私には、藤原氏の顔がそのままハイド氏の顔に見える。安倍晋三は藤原系の政治家だ。同じく天皇制の 母体となっている神道の靖国神社では、お国のために死ねる若者育成セミナーをしているそうだ。戦前・戦中は「お国のために死ね、死ね」と叫ばれ、国民の命 が粗末にされた。今は天皇制の支持率は低いようだが、彼らはその事実を言論弾圧によって隠蔽している。彼らは天皇制を強化して、戦前・戦中の大日本帝国に 戻そうとしている。彼らは日本を再び戦争に引きずり込もうとしている。竹島問題、尖閣諸島問題も、彼ら右翼系政治家が日本側から火をつけて、わざと煽っ た。日本を戦争に引きずり込むための自作自演ではないか、と思われる。日中戦争は日本側からの自作自演で勃発したことを忘れてはいけない。安倍晋三らの藤 原系政治家が、「この1300年以上の間、しばしば日本を中国や朝鮮との戦争に引きずり込んできた、ルーツ不明の一族である藤原氏」の中心なのである。
藤原氏の祖・鎌足は日本の豪族である中臣氏出身であるということになっているが、有名な一族であるにもかかわらず、本当のルーツは不明だ。しかし、藤原鎌足の正体は、日本を白村江の戦い(663年) に引きずり込んだ、百済王子豊璋であると思われる。彼は白村江の戦いの決戦の直前に、負けそうだと思って、家臣を騙して手勢を少しだけ引き連れて逃げ出し (軍の将・王子豊璋が行方不明になったため、余計に大敗した)、高句麗に逃げたことにして、日本にこっそり逃げ帰って、天智天皇から中臣鎌足(後に藤原鎌 足)の名をもらって帰化した。人間として卑怯極まりない。藤原鎌足の直系子孫は「百済系朝鮮民族の王族である自分達は血筋が尊い」と考え、大和民族を侮蔑 している。祖国・百済を滅ぼした、唐(中国)、新羅(朝鮮)への恨みの気持ちをずっと持っており、「お国のために死ね、死ね」と大和民族を騙して、中国や 朝鮮との仇討ち戦争をもくろんでいる。それが、竹島問題、尖閣諸島問題をわざと煽っている、右翼系政治家の真の目的だ。唐(中国)、新羅(朝鮮)を仇討ち できるし、日本列島の上に「日本」という名の百済国を再建するにあたって、邪魔な日本土着民(大和民族、沖縄人、アイヌ人ら)も、戦争を通じて大量にわざ と殺害できて減らせる、と考えておるようだ。


http://seiwagenjisinjitury3.cocolog-nifty.com/blog/2013/08/post-ded1.html



松果体と脳下垂体の二重システム:人体(人心体)における動物体と植物体の結合における免疫力と生命力

テーマ:生命力/氣自衛医智学:唯物機械論医学批判

私はこれまで、人体の免疫力と氣の生命力は関係しているのではないかと思ってきたが、どうも異なるように思えた。
 つまり、人体を先に、四層で考えたが、その中に、動物体層と植物体層があるが、免疫力は主に前者で、氣的生命力は主に後者に関係するのではないかと思ったのである。
 しかしながら、植物体にも、なんらかの免疫力はあるだろう。
とは、免疫力は植物体というよりは、動物体に主に関係すると思われるのである。
 とまれ、今は問題提起のみである。血液、特に、白血球が免疫に関係する。マクロファージ等は、異物に攻撃するのである。異物を食するのである。食するという作用は当然、動物体的行為である。だから、その点では、やはり、免疫力は動物体に属すると思われるのである。
 植物体に本来の生命力、つまり、氣的生命力があると考えている。(それは、単に生命力だけでなく、認識力もあると考えているのだが。)
 つまり、陰陽調和力である。結局、免疫力と生命力とを考えるとき、動物体の生命力としての免疫力と植物体の生命力の氣をを考える必要があるだろう。
 ここで、想起するのは、シュタイナーが排出と認識の関係を述べていることである。(参照:以下の第五講である。)

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思うに、排出とマクロファージ等の食的攻撃力は関係しているのではないだろうか。つまり、異物の排除という点で共通すると考えられるのである。
 それに対して、植物体の生命力である氣であるが、それは、逆である。いわば、異物、他者と共鳴することに、本義、本質があるのである。
 だから、動物体の生命力と植物体の生命力は真逆であると言えるのではないだろうか。
 結局、動物体生命システムと植物体生命システム、2つの異なる生命系が人体(人心体)に存するということではないだろうか。
 しかしながら、とは言え、である。
 ここが急所、核心である。
 つまり、当然、動物体生命システムと植物体生命システムは繋がっているはずである。
 どうも、ここにシュタイナーが指摘する松果体(松果腺と述べているが)と脳下垂体の接続の意義が存するのではないだろうか。(上書の同じく、第五稿を参考。)
 即ち、松果体は光と関係し、それは、当然、氣と結びつくから、植物体と関係する。それに対して、脳下垂体は、内臓と関係するから、それは、当然、動物体と関係し、また、血液と関係するから、免疫力と関係する。
 言い換えると、松果体と脳下垂体の接続とは、植物体と動物体の接続を意味するということと考えられる。
 さらに言えば、氣と免疫力の出会いである。
 そうすると、日光(氣を背景にもつ)は松果体を介して、氣をもたらし、それは、脳下垂体を刺激して、内臓を強化する。それは、当然、免疫力を強化に繋がると考えられる。
 つまり、松果体ー脳下垂体システム(間脳システム)は、植物体と動物体の接合システムであり、それは、いわば、人体生命体システムの一つの核心であると考えられるのではないだろうか。
 卓抜な飯山一郎氏の生命力発展実践であるが、乳酸菌は当然、動物体・免疫力に関係し、日光浴や身体温暖保持等は植物体的氣的生命力システムに関係しよう。
 結局、人体保持には、両面が必須である。それは、また、相互補完となるのである。
 しかし、これも核心的問題の一つであるが、果たして、動物体・免疫系と植物体・氣生命系は単に両極で同等なのだろうか。単位、二元的なのだろうか。
 私は植物体・氣生命系が主であり、動物体・免疫系は従ではないのかと思えるのである。
 どうも、後者に対して、やや否定的なような言葉使いであるが、本意はそれではない。つまり、根源の問題なのである。
 生命の根源はやはり、氣に存すると思われるのであり、だから、植物体・氣生命系が主になるということなのである。
 あえて言えば、植物体・氣生命系から、動物体・免疫系は生まれたと思うのである。さらに言えば、
 
初めに、光ありき

初めに、日光ありき

さらに初めに、氣ありき

と思うのである。この氣に、動物体・免疫系が含まれていたと思うのである。
 つまり、松果体と脳下垂体の関係で言えば、前者が主ではないだろうか。それから、後者が発生したのではないだろうか。 
 その視点は、シュタイナーの考えと一致するのであるが。また、シュタイナーが影響を受けたゲーテの視点と通じると言えよう。
 しかしながら、松果体を受容する日光であるが、それは氣的光である。氣光線(氣光)である。そして、それは、究極は、無双太極である。
 つまり、無双太極(太水:陰陽未分化体)から氣光線(太陽)が生まれるのである。
 そして、肚が無双太極であるから、究極的には、肚と松果体は一致するのである。(内臓の光があるだろう。闇の光である。)
 しかしながら、無双太極は陰陽未分化様態である。だから、氣的光を介して、積極的に分化発展していくというのは、進化的であると考えられるのである。つまり、植物体・氣生命系・松果体を介してである。
 つまり、アポロ/ディオニュソス路線である。(そう、ここで、古代ギリシア文明の秘密が明らかになるのである。また、古代日本文明の謎も。即ち、それ は、本質は植物体文明・母権文明であるということである。それが本体であり、その上に動物体文明・父権文明が被膜のように存していると思えるのである。)
 つまり、古代ギリシア・古代日本路線が未来的であるということになるのである。プラトン/D.H.ロレンスで言えば、コスモス(氣的宇宙)路線である。日本で言えば、空海/南方熊楠路線である。当然、政治的には太陽信仰としての天皇制路線である。


参照:人体四層構造図

人体四層構造図:Ⅰ.太極点/Ⅱ. 植物体(氣=陰陽)/Ⅲ.動物体/Ⅳ.自我体・・・(Ⅴ.外界)
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11665314072.html

 Ⅰ        Ⅱ           Ⅲ       Ⅳ    (Ⅴ)
     |            |        |
     |            |        |
太極点 |植物体(氣・陰陽) | 動物体   | 自我   (外界)
     |              |        |
     |              |        |
 肚   |   胸         | 皮膚?    |   頭
      |               |         |
下丹田 |   中丹田      |         |  上丹田

         
      人体四層構造図



陰陽極性の2つの螺旋?:氣的螺旋と物質的螺旋?
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11683538652.html

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

明日早いので、今は一言。
 先に、純物質が−1で、生命体が+1と氣の方程式を使って説明した。
 私のこれまでのイメージでは、+1に生命物質があると見てきた。つまり、生命有機体である。
 しかし、陽凸iの極大化によって、純物質が形成と考えたが、それは、生命有機体がまとう物質性ではないだろうか。
 つまり、−1は生命有機体の物質であり、+1は生命有機体全体ではないのかということである。捉えにくいが、氣的身体、氣的物質体が+1なのではないだろうか。
 今は問題提起のみである。

追記:読み直して、思いついたことは、−1は動物体で、+1が植物体ではないのかということである。
 私の仮説では、人体は植物体と動物体によって主に構成されているのである。もっとも、細かく言うと、先には、四層構造体(無双太極+植物体+動物体+自我)と述べたが。
人体四層構造図:Ⅰ.太極点/Ⅱ. 植物体(氣=陰陽)/Ⅲ.動物体/Ⅳ.自我体・・・(Ⅴ.外界)
 もしそうならば、私の人体仮説がかなり明快になる。後で深く検討したい。

追記2:もし、追記のようならば、純物質はどう表記できるのか。思うに、⇒+1が植物体、⇒−1が動物体であり、±1自体が純物質ではないのか。有り体に言えば、枯れた状態、死体・遺体である。つまり、⇒はエネルギー状態、生命エネルギーである。
 そう、氣である。そして、⇒の尖端が光ではないのか。
 とまれ、要検討課題である。

追記3:追記、追記2のように考えるならば、2つの氣が存するだろう。⇒+1の⇒は陰の氣であり、⇒−1は陽の氣である。これまで、陰極、陽極は考えて、陰の氣、陽の氣は存在しないと見てきたが。
 やはり、根源の氣と極性の氣を別にしないといけないように思えている。例えば、太極氣と陰陽氣である。
 これも要検討である。
 
追記4:人間認識図であるが、これは活用できるように思える(ただし、『海舌』氏の認識布置は使用しない。)
思うに、⇒−1は動物体の極限として、自我ではないだろうか。
 とまれ、ざっと言うと、第一象限と第四象限が植物体に関係し、第二象限と第3象限が動物体と自我に関係する。

 『海舌』氏による人間認識図
Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory


参考:
前期PS理論とオイラーの等式の統合の再考:+1が生命物質体、−1が純物質:氣と同一性自己(自我)
氣の方程式(生命方程式):

凹i(陰)☯凸i(陽)⇒+1(生命物質体) 



現象界(物質界)と光と氣

テーマ:無双(太極)PS陰陽論:無双は陰陽未分化

先に以下のように、人間認識図の修正版を試みたが、不十分なところが多くある。
 とまれ、右半円が氣的自然、左半円を物質的自然と考えた。
 思ったのは、視覚、光の問題である。視覚は陽凸iと考えられる。それが、外界を見るとき、陰を否定して、+1ではなく、−1を見るのではないだろうか。
 そうすると、光は、⇒−1の⇒になるのではないだろうか。
 ここで、氣、不可視の氣について考えると、それは、⇒+1の⇒ではないだろうか。
 とまれ、視覚は陰陽調和の氣(不可視)を当然見ることはできないのである。視覚である陽凸iは、原点・中心を見るが、その時、陰凹iと出会う。
 しかし、陰凹iを見ることはできない。というか陰陽調和の様態である氣を見ることができない。
 陽凸iは陰凹iを否定することになる。
 それは、凸i*凹凹i⇒−1ではないだろうか。この⇒が光であり、視覚は−1の現象、物質現象を見るのではないだろうか。
 しかしながら、陰陽調和=氣は⇒+1であり、氣的自然は−1の対蹠に存在しているのである。
 そう、魂である陰凹iは、陰陽調和の様態をもち、⇒+1の氣的自然を「感ずる」ことができるのであるし、また、視覚をもっているので、氣と光を同時に心覚・知覚(心・知覚)できるのである。
 しかし、この様態はどのようなものなのか。陽凸iでは光を知覚し、陰凹iでは氣を心覚するのであるとは交点(MP)において、どうであるのか。
 思うに、氣は陰陽調和であるから、陰が陽へと即非的に浸透するのである。そして、その陰に浸透された陽は光を見るが、その光には、氣の陰影が刻まれるのである。
 だから、その光には氣の印刻があるのである。そして、思うに、これが、美的視覚ではないだろうか。
 陽と陰との即非的浸透に美的視覚が形成されると言えよう。
 これは、聴覚でも同様と考えられる。しかし、聴覚はより、陰に関係していると思われるが。
 今はここで留めておく。


      『海舌』氏に拠る人間認識図

Resurrection : ヤポネシア、夜明けと目覚めの光楽:無双(太極)PS陰陽論Nonpolar(Taiji) Platonic Synergy Yin-Yang Theory

『海舌』氏の人間認識図修正:右半円が氣自然、左半円が物質自然:陽凸i=自我・頭、陰凹i=魂・肚
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11704667691.html

2013年09月15日 (15:27)

政治経済的ゾロアスター教的闘争の時代:プーチン/オバマ平和資本主義路線VS戦争資本主義路線

政治経済的ゾロアスター教的闘争の時代:プーチン/オバマ平和資本主義路線VS戦争資本主義路線

テーマ:二つの資本主義:自由共同体と掠奪暴利主義

先に、以下の参照記事を投稿したが、これで、今日の世界経済闘争の世界・地球史的意味が明確になったと思う。
 プーチン/オバマ平和路線は、旧約聖書的戦争金融資本路線に対抗しているのである。そう、私の用語から言えば、新母権路線が旧父権主義路線と闘争しているのである。
 しかし、現代日本、痾屁゛凄犬(又は政権)は、内在的な父権主義と外在的な父権主義路線の、醜怪な野合であり、日本を破滅させるものである。そう、以前、述べたように、痾屁゛凄犬は新母権平和資本路線(根本的には、自由共同体資本路線)に対する大反動なのである。
 とまれ、日本は内なる「ユダヤ」が外なる「ユダヤ」に支配されて、母権的日本(日水湖宮ひみこく:日本の新国名)を破滅・滅亡させんとしているのである。否、ほぼ、破滅・滅亡なのであるが。
 思うに、以前、オバマ大統領を対ロスチャイルドのロックフェラー路線と考えたが、そういう呼び方は混乱・誤解させるので、それは、マックス・ウェーバーに倣って、プロテスタンティズム路線と言ってもいいだろう。これは、私の用語では、自由共同体資本経済路線である。
 アメリカは日本と同様に、二つの「民族」がある。父権民族と母権民族である。
 問題はキリスト教である。これも二つあるのである。
 「父」的キリスト教(旧約聖書)と「母」的キリスト教(新約聖書)である。
 これと戦争金融資本路線とプーチン/オバマ反戦・平和資本路線が重なるわけである。
 現代日本は恐ろしく厳しい状況にあると言える。内なる「ユダヤ」性を超克する必要があるからでもある。
 やはり、肚(太陰)に回帰する必要がある。日本民族は母権民族と父権民族の混淆であり、前者が後者を介して外的旧約聖書勢力に支配されているということになるのである。
 
追記:ロシアはポスト・ボルシェビキ(ソ連)で、古いロシアが復興したのである。ロシア新ルネサンスである。ロシア正教は、大地と新約聖書的キリスト教の融合であり、それは、母権的キリスト教であり、聖霊的キリスト教と言えよう。これについては、別の機会に触れたい。


参照:
ユダヤ教VSプロテスタンティズム:二重道徳のユダヤ教と二重道徳の日本父権は酷似する

『古代ユダヤ教』M.ウェーバー(2) - きおくのきろく - Yahoo!ブログ
(以下、強調は本ブログの管理者に拠る。)

●対内・対外道徳の二元主義



 隣人愛は古代ユダヤ教でもあったが、それはどうもすべての隣人ではなく、同じ宗派仲間を意味していたらしい。

隣人とは常に民族共同体員であるか、宗派的仲間なのである。このことは、「(隣人を)自分のように愛すべきだ」という心情倫理的説教においてもあてはまる。説教の道徳的内容は「兄弟」のみにかぎられていた。

では、宗派仲間以外の他者についてはどうなるのか。そこに、共同体の境における対内・対外道徳の二重化が発生する。たとえば、「兄弟」からは利子をむさ ぼってはならないが、それ以外の他者からの利子は許容されるとか。ここが、いわゆる「ブロテスタンティズム」の経済倫理と決定的に相違したことをウェー バーは強調する。



プロテスタントのピューリタニズムにとっても、同じ宗派仲間ではない者はやはり「神なき者」であることにかわりはないのだが、それに対して、どのような態度をとったかというと、

彼らはまさに「神なき者」との経済交渉において、ごまかしたり、だましたりするかわりに、合法的で正直で公明であった。彼らは固定価格の制度を遂行し、たとえ子供が買い物に来てもやはり公正価格で公正な商品を常に手渡した。預金もクレジットも彼らにおいてはまさに一般的な「信用」が出来たこと、だからこそ「神なき者たち」の多数が彼らの商業金庫や実業家の顧客となった。要するに、宗教的に制約された、優越せる経済的エートスをもっていたおかげで、「正直は最上の政略」という原則に従って、神なき者たちとの競争に勝った、ということである。 こうしたことはアメリカ合衆国においては、つい2、30年前までは中産階級の現実のエートスとしてそのまま体験することができたものなのである。

それに対して

ユダヤ教の場合は、これと相違した。経済的対外関係の倫理的合理化へと導く救済論的な動機づけが欠如していたからである。 ユダヤ人たちが特に通暁したのは、貨幣高利貸しや商業とならんで、国家・掠奪資本主義であり、これこそピューリタニズムが徹底的に嫌悪したものである。

ウェーバーはユダヤ民族が「客人民族」であったことを強調する。「客人民族」とは現地における部外者民族という意味で、ディアスポラ以降、国を失った彼らの置かれた必然的な状況なのである。




http://blogs.yahoo.co.jp/leic523/35325084.html


『古代ユダヤ教』M.ウェーバー(1) - きおくのきろく - Yahoo!ブログ

マックス・ウェーバー 「古代ユダヤ教」(岩波文庫・上)1/3 - 週に一冊
d.hatena.ne.jp/oshimayukinori/20130306/1362528942 - キャッシュ
2013年3月6日 ... マックス・ウェーバー 「古代ユダヤ教」(岩波文庫・上)1/3. 訳者(内田芳明)まえがき.
賤民宗教のユダヤ教が世界宗教に発展したのはなぜか. 近代西洋の文化形成の根底
にはウェーバーの言う「合理的(禁欲的)実践的生活態度」があるが、 ...
バアルとヤハウェ ウエーバー『古代ユダヤ教』ノート(1) | 聖書における愛 ...
8661.teacup.com/agapekainomos/bbs/32 - キャッシュ
2011年6月19日 ... その後、バアル神信仰の詳細がひどく気になってきて、読みかけになっていたマックス・
ウエーバー『古代ユダヤ教』(岩波文庫)を、第1章第13節「バアルとヤハウェ、偶像と神
の箱」を中心にいくらか読み直しました。関連して、山我哲雄氏の『 ...
 古代日本とユダヤ・キリスト教
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/yomu.htm#kodainihon

古代日本とイスラエル10部族の謎

もしイスラエル人が古代の日本に渡来し、日本民族の形成に大きな役割を果たしたという考えが事実だとすれば、私たちは少なくとも次の事柄を、心にとめることができるでしょう。
 一つは、私たち日本人にはイスラエル人の血が一部流れているかもしれない、ということです。アブラハム、イサク、ヤコブの血が、私たちの体にも一部流れているかもしれないのです。
 二つ目は、聖書の神ヤハウェは決して、日本人に遠いかたではないということです。
 古代の日本人は、聖書の神ヤハウェを知っていたのです。それが時代とともに「八百万の神」の多神教に堕落したとはいえ、私たちには古来からヤハウェの神への信仰の伝統があるのです。
 ある意味で、日本建国の神は聖書の神ヤハウェである、と言っても過言ではありません。今日の日本は、その堕落変形してしまった姿なのです。
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/032kodai.htm

参照:
母権的日本人(共自然的日本人)と父権的日本人(反自然的日本人):対立する異民族の混淆の日本人?

飯山一郎氏のように故郷喪失を慨嘆する人は前者である。しかし、私見では、今日の大半の日本人は後者である。
 やはり、まったく異質な民族の混淆としての日本民族を思う。
 敗戦後、アメリカ的都市化を受け入れたのは後者である。
 やはり、「大東亜戦争」で、前者の多くが戦死して、後者の人間が牛耳るようになってしまったように思えるのである。
 国学イデオロギーが、明治近代化のベースにある新父権主義だと思うのであり、それが、敗戦後もしぶとく支配しているのである。
 日本新父権主義の反自然主義は、結局、旧約聖書的なのではないだろうか。日ユ同祖論は、先にも述べたが、この点で考えられるのである。
 積極的な意味もあるが、もはや、否定的な意味が強過ぎよう。


参照2:

* 2013/09/15 : CFR : 2020東京オリンピックは明治維新そして第二次世界大戦以上に日本を改革するイベントとして行われる 宇宙への旅立ち H.25/09/14



「五輪担当大臣」に下村文部科学大臣を任命(13/09/13)
http://www.youtube.com/watch?v=YVbWVgNY7iQ&list=UUGCZAYq5Xxojl_tSXcVJhiQ

奴等は本気だ。この2020東京オリンピックは明治維新そして第二次世界大戦以上に、日本にビッグインパクトを与えるイベントとして扱われるそうだ。オリンピックだけでは終わらないオリンピック、それが2020東京オリンピックだ。2020東京オリンピックを利用し、ますますこの日本をユダヤの国に変えていくという事だ。そう、ユダヤに対して「お.も.て.な.し」をするというのだ。
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-6471.html
『文殊菩薩(ブログ版)』

参考:
2013/09/15 : 美しき日本の心 : 国の援助なし ホンダジェット  きのこ組長 「建築とかあれこれ 呪いもあれこれ」 H.25/09/012
圧倒的に性能が違う! “航空業界のシビック”ホンダジェットで革命を
http://www.sankeibiz.jp/business/news/121121/bsc1211210504006-n1.htm

いかに他人からパクリ、開発費人件費を浮かし、
品質劣化でコストを下げ、
政治家と官僚に賄賂をわたし、
税金で買ってもらって、
さらにボッタクリ価格を設定し、
みなで、山分けをするか。

霞ヶ関&経団連&外郭団体 
偽善集団 なんでもかんでも戦争強奪マルチポチ

こんな日本には、本当の市場原理などなく、
ただのマルチまがい詐欺なので、
資本主義構造がわるいんだーと喚いている陰謀論は、
ばかばかしいほど、子供騙しのはぐらかし。

政府とはかかわらず、
ここまでやったホンダの開発チームに、
おめでとう。
『文殊菩薩(ブログ版)』

2013年07月28日 (20:19)

日本の大地とは何か:縄文的自然:地霊の波動

テーマ:森の哲学:気超科学:ゼロ地場と聖地

今日、最近見つけた貯水池(沈澱池)の畔で過ごした。
 折りたたみアームチェアで、ボーっと過ごした。
心地よい風に吹かれ、また、近くの畑地や遠くの山を見て過ごした。
 弛緩して、半意識状態であった。
 さて、その後、近くのスーパーに行って来たが、途中、地霊ということを考えた。確かに、私が今日過ごした緑濃き土地一帯には、地霊と呼びたいものを感じたのである。
 そう、なにかこわいものである。怖いもの。畏怖すべきものだろう。分厚い強い波動、霊気のようなものを感じた。
 とまれ、緑の大地のこのような力への畏れは、思うに、かつて、奈良の吉野で感じたものに近いかもしれない。吉野では、山地に蠢く龍のような、不気味なものを感じたのである。それは、確かに恐怖であった。
 しかし、今日感じたものは、恐怖というよりは、畏れである。
 合理的知性では捉えられない力の存在である。思うに、これが、縄文の霊なのではないだろうか。
 大陸の合理的精神をもった渡来人は、恐怖を感じたと思う。
 それは、古事記に書かれているだろう。
 また、それは、ゲルマンの暗い森に遭遇して感じた古代ローマ人の恐怖に近いかもしれない。
 とまれ、大地の霊、濃い緑の大地の霊力と言いたいような波動である。気という言葉では弱すぎる。地霊というより、大地霊である。土霊である。

参照:
第25 国譲りという名の侵略を考える前提問題 - point.ne.jp

鈍感な人たちがいまだに国譲りと言う

 さてさて,やっと,国譲りという名の侵略です。実際には,天菩比神(あめのほひのかみ),天若日子(あめわかひこ)が役立たずだったので,建御雷神らを派遣して侵略となるのですが,私は,その全体を,国譲りという名の侵略といいます。

 ところで,一般には「国譲り」という文言が使われています。しかし誤りです。私は,「国譲りという名の侵略」という言葉を使います。その,叙述と文言にあまりにも鈍感な精神が許せないからです。さらに,時代精神にも鈍感だからです。さらに,そうした鈍感さは,世の中に害毒をまき散らすからです。

 古事記にも日本書紀にも,「国譲り」という文言はありませんし,そんなお話など,どこにも書いてありません。

 日本書紀を見てみましょう。そのころ葦原中国は,「多に(さわに)蛍火(ほたるび)の光く(かがやく)神,及び蠅声なす(さばえなす)邪しき神(あしきかみ)あり。復(また)草木咸に(ことごとくに)能く(よく)言語有り(ものいうことあり)」。すなわち葦原中国は,蛍火が輝くような多くの神がおり,蠅のように小うるさい邪神がたくさんおり,草木さえもものを言って人を脅かすような国だったのです。
 そこで高皇産霊尊は,「八十諸神(やそもろかみたち)を召し集へて」,「吾(われ),葦原中国の邪しき(あしき)鬼を撥ひ(はらい)平け(むけ)しめむと欲ふ(おもう)」と述べ,誰を派遣したらよかろうかと問うたのです。

 まるで,鬼ヶ島の鬼退治ですね。未開の地に対する軍事的侵略。キリスト教の看板を掲げたヨーロッパの植民地主義みたい。人類共通のお約束の構図。人間ふぜいがやることは,1000年たっても同じなんですね。

 古事記を見ましょう。天菩比神の次に派遣される天若日子は,天之麻迦古弓(あめのまかこゆみ)と天之波波矢(あめのははや)という武器を携行します。次の建御雷神(たけみかづちのかみ)は,武神であり雷神です。この神は,大国主神に対して,十拳劔(とつかのつるぎ)を逆さまに立て,胡座をかいて,「汝がうしはける葦原中国は,我が御子の知らす国と言依(ことよ)さしたまひき。故,汝が心は奈何(いか)に。」と問いかけます。お前が治めている葦原中国はわが皇子が治める国との命令があったが,お前はどうするんだ,なんていう意味です。内容は,日本書紀も同じようなもんです。

 恫喝そのものですね。現代なら強盗か恐喝か。もっと大きなことを言えば,一方的な宣戦布告です。イラク戦争前夜のアメリカの態度と同じです。

 逆らった建御名方神(たけみなかたのかみ)は,腕をへし折られ,諏訪湖まで逃げていき,生涯そこから出ないと,誓わねばなりませんでした。「恐し(かしこし)。我をな殺したまひそ。」というのが,彼の命乞いです。建御雷神は,高天原に帰り,葦原中国を「言向け和平(やわ)しつる状」を「復奏」したのでした。将軍の凱旋と申せましょう。

http://www3.point.ne.jp/~ama/old/25.html
日本書紀を読んで古事記神話を笑う・初版 - point.ne.jp
by 天 語 人 (あまがたりびと)
日本書紀を読んで古事記神話を笑う - point.ne.jp

今回の改訂新版は,「古事記神話を笑う」という点から,「日本神話を解明する」という点に,軸足が移っている。
 我田引水かもしれないが,論述は,より体系的で,全面的になっている。

 古事記の「へんてこりん」を訴えた初版と違い,日本神話を,ほぼ全面的に論じたものになっている。

 そんなわけで,この改訂新版には,「物語読者として日本神話を解明する」という副題をつけた。


改訂新版の読書案内(1)

 初めて読む方は,

「第19 日本神話の故郷を探る」
「第23 日本神話の体系的理解(日本書紀を中心に)」
「第24 日本神話の構造と形成過程」
「第30 日本神話のコスモロジー」
「第43 アマテラス神話は確立していない(日本書紀を中心に)」
「第70 古事記独特の三種の神宝」
「第77 日向神話の体系的理解」
「第79 三種の宝物再論」
「第80 日本神話の大きな構成(三輪山のオオナムチとの出会い)」

を,まず最初に読んでいただきたい。

 これで,日本神話の全体像が得られるだろう。

 次に,

「第25 生まれたのは日の神であってアマテラスではない」
「第26 日の神の接ぎ木構造」
「第34 日本神話のバックグラウンド・縄文から弥生への物語」
「第35 海洋神アマテラスと産霊の神タカミムスヒ(日本書紀を中心に)」
「第36 支配命令神は誰なのか(ねじれた接ぎ木構造)」
「第37 アマテラスとタカミムスヒの極めて危うい関係」
「第45 異伝に残された縄文の神スサノヲ(日本書紀を中心に)」
「第49 オオクニヌシの王朝物語」
「第52 偉大なるオオナムチ神話(大八洲国を支配したオオナムチ)」
「第59 『皇祖』『皇孫』を奪い取る『皇祖神』タカミムスヒ(国譲りという名の侵略の命令者)」
「第61 古事記における命令神(国譲りという名の侵略の命令者)」

 これで,日本神話のたて軸が理解できるだろう。

 古事記に対する批判はいらない,日本神話の全体像をとりあえず知りたい,という方にもお勧めしておく。

http://www3.point.ne.jp/~ama/

2013年07月13日 (03:14)

西日本が日本を変える?:西日本は母権的で、東日本は父権的?:西日本の母権的地霊とスピリット

西日本が日本を変える?:西日本は母権的で、東日本は父権的?:西日本の母権的地霊とスピリット

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私はちょうど20年前頃に、奈良への旅行や九州旅行をした。
 奈良は日本でいちばん好きな場所である。また、九州も好きである。宮崎と鹿児島が好きである。特に、霧島高原は好きである。
 私はそれまで、信州が好きで、あちこち行ったし、また、東北や北海道にも行った。
 しかし、私が魅かれるのは、西日本である。これは感性、感受性の問題である。西日本の人間は、柔らかな感性があると思う。どうも母権的と呼びたいのである。それに対して、関東の人間は父権的と感じられる。
 そして、今、ポスト311の時代である。放射能が東日本を汚染しているのである。
 それと精神風景を考えると、どうやら新しい日本は西日本が創るようである。
 そう、奈良に魅かれることについて述べよう。大阪のベッドタウンとして、痛ましく開発されている奈良盆地であるが、やはり、古代の雰囲気が未だに残っているのがいい。奈良盆地の気が円かでいいのである。しなやかである。気持ちが安らかになるのである。
 それはいいだろう。それより、私にとって再生の地となったことを述べておこう。
 私の精神史の問題であるが、いわば複雑怪奇で説明するのが難しいので、ポイントだけ述べる。
 私は関東の精神的空気、というか、東京の精神的空気をひどく息苦しく感じていたのである。そう、今でも、東京、関東の精神的空気を抑圧的であると感じるが、20年前はそれをとても苦痛に感じたのである。
 有り体に言えば、周囲の人間と私の精神のあり方の違いを痛感していたのであり、そのため、孤立していたのであり、どうにも息苦しく、奈良へ、関西圏へと逃げ出したという感じである。
 そう、新幹線で名古屋まで行き、そして、近鉄に乗り換えて、奈良へ向ったときの車内の柔らかな精神的空気に自由に息ができ、ほっと安堵し、救われたものである。それほど、当時は、感受性が敏感になっていたのである。そう、病的と言えるほど、敏感になっていたのである。(その原因は身体的なものであるのが、後で分かったのであるが。)
 当時は、新宗教ブームであり、奈良の某神社のある地へと数回足を運んだものである。そのとき、確かに不思議な体験をしたことはしたのであるが。(それはあまりに主観的なので、述べても通じないだろうから、言わない。)
 とまれ、その奥吉野のさらに南の奈良の地で、私は喫茶店に居て、当地の人のあたたかな、やわらかな声を聞き、ほっと深く安堵したのである。私の心、魂に安らかに響く声を聞いたのである。あるいは、宿泊した民宿の女主人の真摯な態度にやすらぎを感じたのである。(そう、奈良盆地の旅館の女主人の態度にも安堵した。)
 そう、私は私の心、魂と通じる人たちをその奈良の地に見つけたのである。私の心は癒されたのである。東京の違和感のある精神的空気に苦痛を感じていた私の心は癒されたのである。
 私は心の支えを見出して、私の精神的態度が間違っていないことを確認したのである。
 とまれ、その後、いろいろなことが起きたが、奈良の地での、心の確認は残っていると言えよう。
 結局、今、哲学的に言えることは、西日本には、母権的精神が残っていることである。魂、心が残っていることである。関東、東京の父権的な利己主義とは異なる、日本本来の母権的精神が残っていると思われるのである。
 今年6月に小倉に出張したが、精神的空気に感動したのである。九州の地霊とでも言うのか、それは、母権的と思われるのである。
 今日の狂った日本を蘇らせるのは、西日本の母権的地霊、精神であると思われるのである。 



太陰から陽へ、陽から物質への生成力学

テーマ:不連続太陰イデア論:無双太陰原理

最近は余裕がないし、当分余裕がないので、哲学的科学的考察ができない。
 一言本件について述べよう。
 太陰を中心点とし、陽を円(円周)ないし球(球面)とするのが、今の仮説である。
 そして、陽から物質が生まれるのである。
 これまでは陰陽共振から螺旋生命物質体が生じると考えたが、今はどう考えるのか。
 直観では、陽は物質性を帯びるのである。陽を光(太陽光)とすると、それは、物質的外面を帯びるのである。
 この陽と物質との連関がまだあいまいそのものである。
 作業仮説であるが、円周において、内側と外側を分けてみる。
 内側が陽であり、外側が物質である。
 そう、円を気円とする。これが、原子モデルである。
 とまれ、陽が同一性化し、物質になるとそれは、プラスである。そして、同時に、マイナスが極性として生起する。
 ここでは、電子を考えている。
 プラスは陽子で、マイナスが電子ということかもしれない。
 ならば、原子モデルは円周で形成されるということになる。正確に言えば、円周の外側に原子があり、内側は陽である。そして、中心点は太陰である。
 言い換えると、気円(中心点が太陰で、円周内側が陽)の外側に原子が考えられるということである。つまり、気円の外側が物質であり、内側は気であるということである。そして、気に霊を含めていいのではないだろうか。
 今は問題提起に留める。

追記:円周の外側、内側という言い方はわかりにくい。
 仮に3本、線を書く。

外側________
境界________
内側________

以上、3本は実際は一本の円周であるが、便宜的に、3本に分けてある。
 外側に原子が存し、境界を隔てて、内側に陽、そして、中心点に太陰が存するという概念である。
 境界はいわば、スピリットと物質の境界である。これをどう捉えるのか。以前、MP(メディア・ポイント)という考え方をしたが、これは、ポイントではない。ラインである。
 後で検討したい。

追記2:追記で、ラインの境界を提起したが、果たして、それが必要なのか。一元論なので、不要なようなに思えるのである。

2013年05月13日 (22:23)

ポスト父権的日本へ向けて:新母権的日本の誕生へ:日本人と個:集団的父権主義と個的母権主義

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私が見るところ、現代日本人は、個を排除している。そして、集団原理における自我原理で生きているように見える。
 とまれ、個について、もう一度考えてみたい。
直観で言うと、やはり、個は、個の原理は、肚、陰、陰イデアに存するのである。
 「わたし」の基盤、基底、ベースは肚、陰、陰イデアにあると直感するのである。
 そして、「わたし」が感じる苦しみもそこに存するように思うのである。(喜び、嬉しさもそこだろうか。それは、胸のような気がするが。)
 そう、私は今日も森を散策したが(まるで、低山の尾根道を歩いているみたいだ。ただし、眺望のない。)、森と私は共振している。森は陰である。陰で森と共振するのである。
 もっとも、視覚(陽)は森の姿を捉えているのであり、陰と陽の共振があるのである。森の陰陽共振と私の陰が共振している(私の主体における森の陰陽共振と私の陰陽共振の共振である。共振の共振である。)ということだと思う。
 とまれ、私にとり、森は陰である。それは、イデア的生命である。
 そして、この陰に私の個もあるのである。私と森は陰=個的に連結していると言えよう。
 しかしながら、現代日本人を見ると、陰が欠如しているように見えるのである。
 「わたし」という自我=陽(正しくは、超陽)は、ベースに肚=陰をもっているのである。ここに、「わたし」の個の原点がある。それは、陰陽共振である。ここで、植物的生命(グリーン・イデア・エロース)と調鳴するのである。つまり、陰は、陰陽共振、陰陽イデア、気イデアを指しているのである。言い換えると、気イデア界を指している。というか、気イデア界の分有がそこにあるのである。つまり、気イデア界に陰において、「わたし」は個として、帰属しているのである。
 気イデア界とは、「わたし」の個の本体・本質である。つまり、「わたし」の根源である。
 だから、私が現代日本人に陰が欠落していると見るとき、それは、現代日本人が本体・本質を喪失しているということと同じことになる。
 これは、どういうことなのか。明らかに、個の本体・本質・原基を排除して生きているのである。つまり、本当には生きていないのである。皮相に、物質的に生きているに過ぎないのである。魂が抜けているのである。
 これは、不連続的差異陰陽論から見ると、同一性主義=自我(超陽)によって、陰=他者を排除・隠蔽していることを意味するのである。
 有り体に言えば、他者自体を知りたくないのである。自我、それも集団社会的自我でありたいからである。
 実に軽薄な、皮相な、また、後退した生き方である。サブ・ヒューマンである。
 この同一性主義を肯定するためのなんらかの基準があると考えられる。
 当然、集団的鏡像である。それが、価値判断の基準となっているのである。
 そう、その集団的鏡像の基準であるが、それは、近代的科学・技術と資本主義の物質主義をベースにもっていると考えられる。そう、唯物論である。正しくは、唯物教、唯物崇拝であるが。
 つまり、唯物的集団的自我が現代日本人の主体の基調である。
 問題は集団主義である。この根源は何か。
 集団主義とは自他未分化様態を意味するだろう。
 では、自他未分化とはどういう力学をもつのだろうか。
 ここでこれまでの考えを言うと、集団主義は弥生農耕文化社会の産物であったので、一種の母権主義であると考えていたのである。
 しかし、今、ふと、自他未分化とは、父権主義に拠るのではないのかと思えたのである。
 母権主義は、陰をベースにするので、陰陽共振があるので、自他は未分化ではない。
 ならば、弥生農耕文化の母権的集団主義は、自他未分化ではないということになる。
 だから、私の視点を訂正する必要がある。集団主義は必ずしも自他未分化ではない。自他未分化の集団主義と自他分化の集団主義があるということになる。
 ということで、問題は、唯物的自他未分化的集団的自我の問題となる。そして、自他未分化的集団主義は父権主義と考えられるのである。
 故に、唯物的父権的集団的自我が現代日本人の主体ということになる。
 だから、父権的集団的鏡像が価値判断基準ということになる。
 端的に言えば、父権主義的鏡像である。つまり、父権的価値ということである。父権的イデオロギーである。
 強固な父権主義があるということになる。
 結局、現代日本人に陰が欠落しているということは、とりもなおさず、父権中心主義が支配しているということになるのである。そう、今日、若者を見ると一見、女性がイニシアティブ、主導力をもっているように見えるが、実は、女性が父権主義を模倣しているということだろう。倒錯なのである。決して、母権主義ではないのである。
 結局、現代日本人が個を排除しているということは、父権主義が支配していることが原因ということになったのである。
 自我(超陽)は、陰、陰陽共振、気的イデア界、根源界、母権原理を恐れるということなのである。
 結局、私の持論をまた証明することになった。つまり、近代日本は、父権的民族の日本人が作ったのであり、母権的民族の日本人は抑圧・排除されていることになるのである。
 日本人は本来は後者である。父権的民族の日本人は、本来的ではないのである。それは、外来種である。しかしながら、それは、一つの要素である。
 現代日本の超危機は日本民族本来の母権的民族が排除、隠蔽されているということである。
 そう、この父権的民族支配は、実は、某国による日本の植民地支配によって強化されていると言えよう。
 日本内部の父権主義と外部の父権主義が結合して、日本本来の母権民族性を抑圧・排除・隠蔽しているのである。
 ここに亡国の超危機があるということになるのである。
 後で整理したい。

2012年07月28日 (09:13)

日本支配層の集団主義的父権主義に拠る狂気錯乱の解明

日本支配層の集団主義的父権主義に拠る狂気錯乱の解明

テーマ:二つの日本民族:母権民族と父権民族

日本国の支配層が金目当てで、狂気錯乱しているのは、常識のある人間の目にはまったく明らかであるが、では、どうして、それほど、アホ的に狂うのか、その原因を考えてみたい。(もっとも、これは、既述済みであるが。)
 既述したように、明治維新以降、父権主義が支配的になった。これは、同一性主義である。唯物論である。
 それは、陽・凸i・自己を中心とする視点をもつ。しかしながら、日本父権主義は、集団主義が混入している。
 故に、完全に、自我主義にはならない。集団主義的父権主義である。
 つまり、権力的集団が主となり、それに従う父権主義である。
 権力的集団が中心であり、単に、それに服従する父権主義なのである。
 無双PS原理から言えば、陽・凸i・自己と陰・凹i・他者が未分化で、両者の間で揺れ動いているのである。つまり、半陽と半陰の未分化様態である。
 半陰は、外在的権力に従う。つまり、集団主義である。半陽は、内在的権力、つまり、自我に従うのである。父権主義である。
 つまり、権力には唯々諾々と服従し、それ以外では、内なるエゴイズムを放らつに行なうのである。
 これで、一応、解明した。

追記:丁寧に言うと、権力的集団と一体化している半自我的父権主義である。つまり、外在的権力集団と父権的自我が一体化しているのであり、権力的集団と自我の区別がつかない、未分化様態にあるのである。
 また、集団主義的父権主義の狂気錯乱と述べたが、それには、邪悪さも当然あるのである。
 

(07/27)大阪の子どもを福島県へ-福島ステークホルダー調整協議会の黒い霧
http://onodekita.sblo.jp/article/57285153.html


チェルノブイリが起きた時に、ソビエト政府は一週間で子どもを含めて、避難させました。そして、徐々に避難区域を拡大し、いまでは0.28マイクロシーベルト以上の放射線量の村が全て廃村に。チェルノブイリから180キロ圏内のほとんどの村が消えた。 という状況です。

 翻って日本は、警戒区域を解除し、今度は楢葉町まで解除し、子どもを戻すそうです。なぜ、ソビエトと正反対のことをやるんでしょうか。どちらかが間違っているのは間違いありませんが。日本人は、ヒロシマ・ナガサキを経験したから特別放射能に強いとでも言うのでしょうか。

 大阪の茨木市の教育委員会がにわかには信じがたい企画をこの夏休みにします。

院長の独り言


オスプレイ問題で見えてきたこと:グア...
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/30014843.html

2012/7/27(金) 午後 0:51
新ベンチャー革命 2012 年 7 月 27 日  No.608 タイトル:オスプレイ問題で見えてきたこと:グアム移転したがっている沖縄米軍を必死で引き留めているのは日米安保マフィア日本勢だった 1.大手テレビ局、オスプレイ報道に限って、まともになった?   2012 年 7 月 26 日のテレ朝報道番組モーニ ... すべて表示

新ベンチャー革命


2012/07/28 : 政治・権力・陰謀 : 尖閣問題、オスプレイ、原発再稼働にみる“煽動的噴き上がり”想像以上に危険な水域  『世相を斬る あいば達也』
http://iiyama16.blog.fc2.com/blog-entry-947.html#more


『文殊菩薩(ブログ版)』





人間には、悪人と善人がいるという単純な事実認識:父権的人間は冷酷利己主義で共感・霊愛性が欠落する

テーマ:二つの日本民族:母権民族と父権民族

以下、『「10年に一度の大物次官」と言われるのなら、増税後に購入して、少しでも庶民の痛みを感じることぐらい、簡単にできるハズなのだが。』とあるが、これは、実に甘い認識だと思う。
 人間を一様と思うのは、現実的には誤りだと思う。悪人もいれば、善人もいるのである。
 もっとも、理念・宗教的には、全員が救いの対象ではあるが。
 渇穢夷痔牢氏は、明らかに、・・・である。そのような人間に対して、「少しでも庶民の痛みを感じることぐらい、簡単にできるハズなのだが」とはまったくの大甘の認識である。
 これまでの私の議論から言えば、父権的人間は、利己主義であり、共感性・霊愛は欠落しているのである。

追記:丁寧に言うと、一人の人間の精神・心の内部には、善と悪の極性があると考えられる。ただ、悪人は、悪の極性が極大的で、善の極性を圧倒しているのである。
 とまれ、近現代日本人の問題は、既述したように、端的に、集団主義的父権主義に存すると言える。
 それは、これまでの仮説では、弥生的農耕文化的集団性と大陸的父権主義の混淆である。
 今、思いついたが、前者の弥生農耕文化的集団性であるが、単純にそれが、そのまま、今日の集団主義になっているのではなく、江戸時代の封建制を通じて、形成された、封建的集団主義を経過して、今日の集団主義になっていると推測される。
 だから、集団主義的父権主義とは、江戸時代の封建制を経過した明治維新の中央集権主義のもつ父権主義を内在しているということになる。

【経済の死角 】
消費増税案が衆院通過して、アタマの中は優雅な老後のことですか 勝栄二郎(財務事務次官)が駆け込み購入か?「豪華すぎる新居」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33106



その一方で、こんな皮肉な見方をする人もいる。
「家賃の安い公務員宿舎に住んでいる間にずいぶんと蓄財したんでしょう。ただし、実際のところ、消費増税の実施までまだ2年あるとはいえ、こんな時期に買うなんて駆け込み購入と国民に非難されても仕方ない」(前出・経済部記者)
 勝氏本人を直撃した。
---新居の住み心地はいかがですか。
「・・・・・・・・・・・・」
---このタイミングで引っ越した理由は? 駆け込み購入ですか。
「・・・・・・・・・・・・」
 終始仏頂面で、ひと言も発さず迎えの車に乗り込んだ。「10年に一度の大物次官」と言われるのなら、増税後に購入して、少しでも庶民の痛みを感じることぐらい、簡単にできるハズなのだが。
「フライデー」2012年8月3日号より
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/33106?page=2

2012年07月24日 (21:18)

二つの母権:縄文的精神と弥生的精神:個の精神と集団の精神:「天皇」仮説:東洋の母権・父権的王

二つの母権:縄文的精神と弥生的精神:個の精神と集団の精神:「天皇」仮説:東洋の母権・父権的王

テーマ:二つの日本民族:母権民族と父権民族

Primitive Mythology: The Masks of God, Volume I/Penguin Books
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途中で読書が止まっていた神話学の本の続きを少し読んだが、旧石器時代はシャーマンによる「個」の精神の時代であったが、新石器時代は、農耕に伴う「グループ」(集団と見ていいだろう)の精神の時代であったというようなことが書かれてあったが、実に新鮮な視点であった。
 狩猟・採集の時代である縄文時代は、それに倣えば、「個」の時代であり、農耕の時代である弥生時代は、「集団」の時代である。
 そして、私の分類では、どちらも、母権文化である。
 私はこれまで、日本民族を母権民族と父権民族に分けて考えたが、前者における「差異」を見るべきだと思う。
 これまでの国家に従順な国民は、「集団」的国民であり、それは、弥生時代の精神を継承しているとしよう。
 それは、自己否定的に、陰・凹iへ、言わば、傾斜しているタイプと考えられる。
 個とは、先に述べたように(個とは何か:太極・MP・霊愛的陰陽均衡点に個が存する:個とは他者と自己の陰陽均衡である (07/13) http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1842.html)、自己と他者との陰陽均衡に存するのであり、それは、太極・MDに帰属するのである。
 とまれ、日本民族は、母権的民族として、縄文的民族、弥生的民族と父権的民族との混淆であるというように見た方が適切と考えられる。
 結局、江戸時代の封建制と明治維新の父権的中央集権主義と戦後民主主義は、縄文的精神を抑圧して、父権的権力が弥生的集団主義の国民を支配してきたと言えるのではないだろうか。
 国民が集団主義なので、父権的出鱈目がまかり通ったということなのだろう。
 後で、もう少し丁寧に論説したい。 

追記:日本に渡来した母権民族で忘れてならないのは、飯山一郎氏が説く大陸北方からのツングース系民族である。(参照: 飯山一郎の古代史 http://grnba.com/iiyama/html/16kodaisi.html)
 古代朝鮮の神話を見ると、明らかに、母権的文化であることがわかるのである。(参照:日中韓三国通史
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/index.htm
高句麗の歴史
http://members3.jcom.home.ne.jp/sadabe/koukurigaisi/koukuri-tsusi-mokuji.htm)
 ただし、日本に渡来(侵入?)した父権的民族がよくわからないのである。中国からの父権民族、あるいは、イスラエルの失われた十支族の父権民族、又はその他か、浅学・管見で不明である。
 以前の仮説では、北方から渡来した民族は、母権と父権の混淆したものであった。
 景教も関係するかもしれない。
 ところで、これまで、日本父権主義を激しく批判してきたが、上記の視点から新たに考えられることは、弥生的集団的母権民族と父権的民族が混淆して、日本人の精神には、集団主義と父権主義の混淆が存するということであり、日本父権主義とは、純粋な父権主義ではなく、集団主義的側面をもつということになると考えられる。
 この、言わば、集団主義的父権主義は、最低最悪のものと考えられる。どうも、日本父権主義とは、そのように見た方がいいようだ。
 後で丁寧に考察する必要がある。
 まとまりのない論説になったが、最後に一言、直観的予見を記しておきたい。
 つまり、古墳時代の問題である。前方後円墳は一体、どの民族のものなのか。それは父権的民族のものなのか、母権的民族のものなのか。私見では、後者である。
 しかし、問題は、王の捉え方である。王は母権的王と考えられる。端的に言えば、太陽神を体現する「天皇」である。
 いったい、前方後円墳の王(「天皇」)は、農耕民族の王なのか、それとも、遊牧民族の王なのか。(モンゴル民族的な遊牧民族の渡来が考えられるのである。) それとも、狩猟・採集民族、つまり、縄文民族の王なのか。(この問題は、ずっと、私の心の中で、問うてきたが、謎のままである。)
 あるいは、母権民族の王ではなく、父権的民族の王、例えば、イスラエルの失われた十支族の王なのか。
 現時点での、作業仮説を言えば、前方後円墳の王(「天皇」とは、農耕民族と(母権的)遊牧民族と父権的遊牧民族、三民族の三重の王である。
 そして、排除されたのが、狩猟・採集の王である。それは、端的に、縄文的民族の王(「太陽神」・太極)である。言い換えると、個の王が排除されたのである。
 とまれ、三民族三重王としての「天皇」が権力・権威の中心となるが、思うに、好戦的な父権的民族がそれを利用するように日本国を支配するようになったのではないだろうか。それが、記紀、とりわけ、日本書紀に現われているのではないだろうか(撃ちてし止まん)。
 本来、母権的民族の王である「天皇」が父権的民族によって利用されたのではないだろうか。
 しかしながら、やはり、「天皇」は三民族三重王である。混淆的王である。
 とは言え、排除された縄文的民族の「王」が、根源的に日本人の精神の内に存しているのではないだろうか。
 そう、表向きは、三民族三重王とは言え、民衆は、そこに縄文的民族の王を見ていたのではないだろうか。
 つまり、四民族四重王としての「天皇」である。しかも、縄文的王が中心である。
 とまれ、以上の作業仮説からすると、前方後円墳の王である「天皇」はきわめて複合的な存在であり、思うに、東洋・アジアの統合的王と言えるのではないだろうか。
 簡単に論点を整理すると、前方後円墳の王は、農耕民族、母権的遊牧民族、父権的遊牧民族の三重の王である「天皇」であり、そのとき、縄文的民族の王は排除されている。しかしながら、民衆は縄文的王をそこに見い出しているのである。つまり、実質は四民族四重王であり、縄文的王主導のそれであるということである。
 今はここで留める。


参照:
夫余 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/夫余 - キャッシュ
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夫余. 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』. 移動: 案内, 検索. 2世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。 4世紀頃の東夷諸国と夫余の位置。 夫余(ふよ、拼音:Fūyú、旧字体:夫餘)は、現在の中国東北部(満州)にかつて存在した民族およびその国家。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AB%E4%BD%99

縄文と古代文明を探求しよう! | 朝鮮半島に前方後円墳があるのなんで?
www.jyoumon.com/blog/2008/10/000617.html - キャッシュ
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2008年10月21日 – みなさんもよく知っている前方後円墳。私は日本固有の古墳だと思っていたのですが近年では朝鮮半島西南部でもその前方後円墳が10数カ所発見されているそうです。 :shock: 前方後円墳は日本では3世紀頃に登場して7世紀前半に消滅 ...
http://www.jyoumon.com/blog/2008/10/000617.html

前方後円墳 - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/前方後円墳 - キャッシュ 類似ページ
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朝鮮半島南部の前方後円墳 に移動‎: 1983年に韓国慶尚南道固城の松鶴洞一号墳が前方後円墳であるとして紹介されて以来、朝鮮半島南西部で前方後円墳の発見が相次いだ。その後の調査により、松鶴洞一号墳は築成時期の異なる3基の ...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E6%96%B9%E5%BE%8C%E5%86%86%E5%A2%B3

イスラエルの失われた十支族 | ミントの忙中閑あり
demosika.blog35.fc2.com/blog-entry-529.html - キャッシュ
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皆さんは、「日本人は、イスラエルの失われた十支族である。」という説をご存じでしょうか?イスラエルの失われた10支族 - Wikipedia日本民族とユダヤ民族には、驚くべき共通点があります。それは、様々な研究者によって指摘されてきました。『古事記』と『日本 ...
http://demosika.blog35.fc2.com/blog-entry-529.html


参考:
事実なら、許し難い外務省日米安保マフィアども 新ベンチャー革命 H.24/07/22
http://blogs.yahoo.co.jp/hisa_yamamot/archive/2012/07/22


事実なら、許し難い外務省日米安保マフィアども:オスプレイ日本配備強行をけしかけている張本人だった?


新ベンチャー革命  No.605 2012/7/22(日) 午後 3:11


1.オスプレイ日本配備を強行させているのは日本の外務省だった?

 2012 年7月22日の日曜日朝のテレ朝報道番組に、軍事評論家の神浦氏(注1)が登場し、超過激な発言をしました、それは『日本国民の強い反対にもかかわらず、米軍がオスプレイの日本配備を強行するのは、外務省がそのように米国政府にけしかけている可能性がある』という発言です。これが事実なら、日本の外務省はまさに米務省そのものということになります。

 なぜ、外務省がこのようにけしかけているかというと、もし、ここで米軍が日本国民の要求に屈したら、前例ができて、日本全国にて在日米軍撤退を要求する声が高まり、日米安保が危うくなるからだそうです。

続きを読む


『文殊菩薩(ブログ版)』

2012年07月14日 (08:32)

個的自由独立(自独)と太極的超越性:母権的超越性(個的超越性)と父権的超越性(同一性的超越性)

個的自由独立(自独)と太極的超越性:母権的超越性(個的超越性)と父権的超越性(同一性的超越性)

テーマ:他者とは何か:Otherness

個とは何か:太極・MP・霊愛的陰陽均衡点に個が存する:個とは他者と自己の陰陽均衡である (07/13)
http://sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-1842.html

先に以上のように、個について検討し、定義したが、日本人が個になれない理由が閃いた。
 それは端的に、超越性を否定するように洗脳・マインドコントロールされているからと考えられる。
 そう仕向けるのは、支配側である父権民族である。その民族文化は、陽・凸i・自己傾斜して、自我主義(利己主義)、(連続的)同一性主義であり、霊愛・魂のない悪魔・悪霊的なものである。そして、彼らの超傲慢・狂気・狂信・妄想・妄念・独善・偽善・詐欺・ペテン・二枚舌等の根因もこれである。
 思うに、現代日本において、個となるには、世間から外れ、孤独になることは当然である。悲劇は必要である。
 とまれ、個となるとき、個的超越性が作用するのである。それは、宗教性であるが、あくまで、個的宗教性である。何々教ではない。(キリスト教の用語を用いれば、聖霊的宗教と言えようが。)もっとも、日本民族の場合、民族宗教である神道や仏教等が重要である。
 とりわけ、神道が重要である。個的超越性は神道を復興するだろう。それは、新しい天皇制を生むだろう。何故なら、天皇制とは太陽神信仰(正確には、天照御大神)の具現であるからである。(明治維新の天皇制は疑似天皇制であり、本来、母権的である天皇制の父権化であった。)
 とまれ、個的自由独立に伴う超越性の流入ないしはそれへの参入を阻害してきたものは、やはり、父権民族文化社会である。これは、同一性・自我・物質中心主義であり、超越性を抑圧するのである。
 しかし、この問題は丁寧に扱う必要がある。私がここで言う超越性とは、太極のことである。それは、母権的超越性である。しかしながら、一神教でわかるように父権的超越性もあるのである。
 この二つの超越性を区別する必要がある。
 父権的超越性とは同一性的超越性であり、母権的超越性とは個的超越性である。
 思うに、一神教は本来前者であるが、その後、物質主義の発展にともない、超越性を喪失し、完全な世俗主義へと頽廃すると考えられる。
 今はここで留める。





父権的民族と母権的民族:中央集権同一性集団主義と個的民衆共同体:太極=天照御大神への回帰

テーマ:二つの日本民族:母権民族と父権民族

以下転載した記事の次の言葉が興味深い。即ち、「渡来系の偽日本人がPR戦略の司令塔をしていたような”電通”の配 下にある日本のマスコミのことですから、真性日本人の美意識を求めてもしょうがないのかもしれませんね。」(赤色はresurrection強調)
 「渡来系」というが、日本民族は多様な渡来系が存するだろう。しかし、上述に関わる「渡来系」は、私見では既述したように、父権的民族である。
 彼らが、母権的民族の日本人を日本史を通して、裏で支配しているように感じるが、とりわけ、明治維新以降にそれを感じるのである。
 私説日本史では、母権的民族と父権的民族の陰陽結合が日本民族であるが、元々は別の民族なので、両者は相互に異質的であると言えよう。
 明治維新以前は、両民族の比較的統合が存していたと考えられるが、その後、父権的民族が中心化して、母権的民族を否定するようになったと思われる。
 その帰結が今日の悪魔的全体主義的日本国家である。
 そう、陽・凸i・自己傾斜の為に、陰・凹i・他者を連続的同一性化(否定)してしまうのである。
 やはり、従来述べているように、新母権主義が日本には必須である。それは、太極=天照御大神の新回帰である。

**************************

「そもそも、3年前の政権交代選挙での約束を平然と反古にしながら、議会内党派の多数派談合で、霞ヶ関の無駄は放置する一方 で、国内経済を沈没させ未来にも多大なマイナス効果を与える大増税路線をすすめる毒ブタ大王”ノダ”民主党政権の居座りに加担するということは、国政選挙 という民主主義の根幹を踏みにじる行為だと思います。

その意味で、純粋な義侠心から当たり前の行動をとった人たちに対して、”世間は支持していない”というマイナスイメージの洗礼を連日繰り返すマスコミ報道は、とうてい日本人とは思えないえげつないものだと思います。

日 本人であるならば、新党参加者一人一人のさばさばした表情を見るだけで、また、その会場に流れる空気を感じ取るだけで、マスコミ報道のいうような”選挙目 当て””私的権力闘争”というレッテルがいかに的外れかということは明白だと思います。渡来系の偽日本人がPR戦略の司令塔をしていたような”電通”の配 下にある日本のマスコミのことですから、真性日本人の美意識を求めてもしょうがないのかもしれませんね。
せめて、土着氏族の流れを汲む日本人のひとりとして、偽日本人企業”電通”が誘導する心無いマスコミ世論誘導を、”生暖かい””侮蔑の視線”で見下し続けていきたいと思います。」
財政再建の「方法論」を持っていた政治家 = 小沢一郎 太陽光発電日記 H.24/07/12

財政再建の「方法論」を持っていた
政治家 = 小沢一郎


太陽光発電日記 by 太陽に集いしもの 2012年7月12日 (木) 

昨日、財務官僚の傀儡政権と化した”毒ブタ大王”ノダ民主党を離党した小沢一郎氏を代表とする新党が誕生しました。
個人的には”国民の生活が第一”という新党名は、上滑りな宣伝文句みたいで、個人的にはあまりいいと思いませんでしたが、平然と国民に対する裏切りを重ねる民主党と決別し、けじめをつける一歩を踏み出したという意味では、なにはともあれ、よかったと思います。
『文殊菩薩(ブログ版)』
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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