--年--月--日 (--:--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2005年11月14日 (15:39)

一神教と自然:自然と均衡をもった社会・政治・経済・文化へ向けて

私は日本の天皇制、つまり、明治の天皇制は、一神教的であると言った。そして、日本人の基底には、多神教性があると言った。もっとも、多神教性は、堕落・腐敗しているし、また、埋れて、休火山状態である。冬眠とも言えよう。そして、象徴天皇制においても、近代一神教性は日本人の精神の上層にあると思う。
 しかし、この一神教は、ユダヤ・キリスト教ないしイスラム教的一神教とは異なるだろう。それは、後者が、超越的一神教、超越神的一神教であるのに対して、日本の一神教は、いわば、多神教と共存しているようなそれではないかと考えられるからである。つまり、日本一神教は、超越神ではないのではないだろうか。もし、超越神としても、ユダヤ・キリスト教ないしイスラム教のそれに比べると、はるかに弱いだろう。自然を排除してはいないだろう。例えば、医学での動物実験で、犠牲になった動物の供養をするというのは、ユダヤ・キリスト教では考えられないだろう。人間は被造物の最高位であるからである。
 何を言いたいのかというと、一神教(ユダヤ・キリスト教)と資本主義が結びついているので、欧米、特に、アメリカ資本主義は、自然破壊に対して、無頓着になりやすいということである。アダム・スミスの見えざる手による予定調和は、一種一神教的で、楽天的である。ここには、神と人間の調和があるだけであり、自然が盲点になっている。
 私は、ユダヤ・キリスト教的資本主義は、地球を破壊すると考えるので、結局、多神教、新多神教的資本主義が必要ではないかと思ったのである。これは、自然、環境、地球、宇宙とのバランス、均衡、相互作用を意識した資本主義である。現代の地球環境の悪化、新型ウィルスの猛威、新しい感染病等々に見舞われているのは、ユダヤ・キリスト教的資本主義のあり方が問題だからと思うのである。これは、青少年の暴力・狂気化にも関係していると思うのである。
 新多神教的・自然均衡的資本主義が必要だと思うのである。新自由主義は、いわば、市場原理という純粋形式を尊ぶものであり、自然との均衡という発想はない。つまり、自然との交換が必要だと思うのである。今や、自然からいわば奪取している面が強い。石油資源、漁業資源等において。この新多神教的理性・ロゴスとは、いわば、多元的理性・ロゴスである。また、不連続差異的理性・ロゴスである。
 後で、詳述したい。
スポンサーサイト

2005年11月03日 (18:09)

「神」とのコラボレーションとしての新創造:新天地創造へ

後で詳述したいが、これまで、メディア界の連続的差異・多様体・微分・形相・波動形態等、そして、メディア・現象境界のもつ同一性・積分的実体化に、人間は、制約されてきた。自然でさえも、メディア界/現象界に制約されているのである。しかし、不連続的差異論の解明から、無数の不連続的差異の存立するイデア界に注目すると、不連続的差異的創造が可能である。イデア界を「神」とするならば、「神」でさえ、自分の可能性(デュナミス)を、十分に実現できないのである。なぜならば、イデア・メディア境界の連続化という必然性に囚われて、自由度を喪失するからである。つまり、「神」でさえ「自然」に捕えられ、不自由なのである。全知かもしれないが、全能ではないのである。ここで、新しい人類、不連続的差異の人類が、「神」とコラボレーションすることで、まったく新しい創造、新天地創造が可能になると言えよう。これは、「神」と人類と自然との解放である。万有万物の「新自由主義」である。思うに、ホワイトヘッドのプロセス哲学であるが、確かに、「神」と自然と人類の協働がプロセスとなり、ポスト自然主義となるだろう。自然でさえ、新創造されるのである。

2005年10月17日 (19:00)

イデア界の力学について:仏教とイデア界:ポスト・新自由主義としての新天地創造へ向けて

ガウス平面のイデア界があり、そこでは、例えば、不連続的差異d1は、d1+0・iとして表記できる。そして、90度回転して、0+d1・iとなる。実数軸は、当然、水平性であり、虚数軸は、垂直性である。しかし、ガウス平面において、水平性は、共存性ではないか。垂直性は、不連続性(分立性)ではないか。問題は、90度回転である。ここにおいて、差異は、水平的共存性を喪失して、確かに、0(ゼロ)となる。つまり、連続化を意味すると考えられよう。しかし、問題は、垂直性である。90度回転で、d・iとなる。しかし、実際は、0+d・iである。この実数の0が重要である。0があるのである(存在)。だから、共存性は無に見えるが、実は、ゼロとして存している。そして、垂直性であるが、これは、不連続性であるが、この場合は、分立性である。これは、連続性の分立性を意味するのではないだろうか。つまり、連続的個体性への潜在性ではないだろうか。換言すれば、連続的個体性の原型・「イデア」であろう。メディア界という連続的差異=微分を、この90度回転(1/4回転)は意味しているだろう。
 さて、ここで、大乗仏教の「空」(くう)を考えてみると、これまでは、メディア界の事象と考えてきた。しかし、ガウス平面における1/4回転によって、差異の実数の0(ゼロ)を、「空」と見ることができるだろう。しかし、問題は、このゼロ化によって、不連続的差異が連続化することである。共存性がゼロであり、分立性によって、連結・連続・同一性化する。だから、このゼロ化を「空」とするならば、「空」とは、イデア界とメディア界の境界の事象であると言うのが的確だろう。このIM境界は、西田哲学の絶対矛盾的自己同一に相当する。
 では、これまで、メディア界を「空」としてきたこととこれとはどういう整合性があるだろうか。メディア界とは連続的差異=微分、原型・類型・形相の領域である。構造主義の領域である。これは、また、相補性、陰陽的対極性の領域である。簡単に言えば、+と-の二元論の世界である。無と有との一致の領域である。一種弁証法の世界である。量子論の領域、相対性理論の領域である。差異が連結化して、差異連結と強度が不可分一体の領域である。また、ポスト構造主義(脱構築の領域)である。
 ということで、IM境界とメディア界の両領域を「空」と呼べるのである。しかし、大乗仏教は、仏性を説くのであり、それは、私見では、超空だと思う。プラトンのイデアと同じように、仏教の空も、複雑だと思う。基本的には、IM境界であり、メディア界であるが、仏性という点では、超空になっていると思う。華厳経の調和宇宙は、イデア界だと思う。この空の哲学は、だから、少し問題があると思う。後で、検討したい。
 
p.s. IM境界(イデア界とメディア界の境界)とメディア界は、「空」と言っていいだろう。なぜならば、IM境界では、不連続性と連続性との絶対矛盾的自己同一性が存在して、「無」であり、かつ「有」であるからである。また、メディア界においては、連続的差異の多様体があり、それもまた、対立性の統一だからである。即ち、粒子であり、また、波動であるからである。あるいは、イデア極(IM境界をメディア界から見たもの)と現象極(MP境界をメディア界から見たもの)との相補性があるからである。即ち、前者においては、「無」の志向性、後者においては、「有」への志向性があるからである。
 では、イデア界が超空であるというのと仏教の関係はどうなのだろうか。実体がないという意味では、メディア界は多様体であるから、現象界的な実体性はない。ゆらいでいるので、実体性はない。しかし、仏教の空とは、単にこのことだけなのだろうか。あるいは、単に、IM境界やメディア界の事象を指しているだけなのだろうか。仏陀は輪廻転生から脱することを説いたのである。輪廻転生は、メディア界に起源があると考えられる。ならば、仏陀は、脱メディア界を志向したと言えよう。つまり、イデア界を志向したのだと言えよう。このイデア界志向と空とはどう関係するのだろうか。ここが一番のポイントである。(一度この問題に触れたことがあるが、解明はされてはいない。)
 ここで、私の直観から叙述しよう。もう今から十数年前になるだろうか。私が考えた、色即是空、空即是色とは、欲望があるが、それは無である。しかし、無はまた、同時に欲望である。そして、この両極性には、私の直観では、間(ま)が生じるのである。欲望の極と無の極があり、欲望が無によって相対化されるのであり、また、逆に、無が欲望によって相対化されるのである。ドゥルーズ風に言えば、欲望「と」無の「と」が間である。これが、空である。しかし、これは、虚無ではない。虚空ではない。均衡、バランスの思想である。思うに、この間、空、バランスという中間領域において、何かが、第三のものが動き出すと思うのである。これは何か。これはある種の力であろう。それは、メディア界に基盤があるのだろうか。ドゥルーズ風に言えば、これは、正に差異であるが、それは、連続的なのか、不連続的なのか、それとも両義的なのか。これは、陰陽論とも関係するだろう。「気」の力とは、何なのか。ここでも、直観で述べよう。これは、ある種超越的な力である。上位・高次の力だと思う。ただそのようなものとして認識されにくいと思う。D.H.ロレンスは、「王冠」で、ライオンと一角獣との二項対立ないし対極性を説き、それらの「止揚」として、王冠というものを説いているのである。それは、ロレンスにとり、「聖霊」というものである。ライオンが「父」であり、一角獣が「子」であり、王冠が「聖霊」なのであり、王冠=「聖霊」が両者を止揚するのである。そして、これは、ロレンスにとり、コスモスや「暗い神」(ダーク・ゴッド)に繋がるのである。コスモスがイデア界とするならば、「聖霊」は、イデア界的なものである。そして、この考えを適用すれば、ここで問題にしていた第三のもの、上位・高次の力とは、やはり、イデア界的なものと言えるだろう。つまり、「間」、「空」、バランスという中間領域にはたらきだす力とは、イデア界的なものであるということである。しかしながら、問題は、「空」の力が、IM境界的ではないかということである。ここは微妙である。IM境界において、イデア界の力とメディア界の力が働く。しかし、両極性がメディア界の力とするならば、「空」の力はイデア界の力と見なくてはならない。これで、問題は解決された。「間(ま)」、「空(くう)」、バランスの第三の力とはイデア界の力(虚力)である。これは、不連続性の力であり、また、差異共存の力である。(ここで、ロレンスが、「星の均衡」という男女関係思想を述べていたことを想起していもいいだろう。)ということで、論証が迂回路を通ったが、「空」とは、単に、IM境界、メディア界領域に当てはまることだけではなくて、イデア界の力を指しているのである。だから、空の思想はイデア界の思想でもあることが証明、検証、確認された。すると、大乗仏教が出現するのは、論理的帰結と言えよう。かつて、切断があったのではと言ったが、そうではなくて、仏陀の解脱の思想から大乗仏教の思想が生まれるのである。進展的展開である。色即是空、空即是色とは、衆生救済の思想となるのである。これは、イエス教やムハンマド教と等価である。つまり、イデア界教、叡智教である。プラトン教である。究極は、イデア界が起源であり、この多数・無数の不連続的差異の共存力が作動するのである。これは、身心的力である。この力は、デュナミスによる力である。メディア界の力をエネルゲイアと呼んだのであるので、これをエネルゲイアとは呼べないのではないだろうか。デュナミスとエネルゲイアとの関係を明確にしないといけない。
 イデア界=デュナミスからメディア界=エネルゲイアは生起する。人間以外の現象体において、この図式はあてはまる。しかし、人間において、イデア界の力が過剰である。というか、イデア界自体が作用するのであるが、それをすべてメディア界化できないのである。余剰のイデア界・デュナミスが人間において作動しているのである。このエクストラ・デュナミスの力が、人間の無意識に作動する力である。では、これをエネルゲイアと呼んでいいのか。メディア界の力=エネルゲイアと区別して、イデア・エネルゲイアとは言えるかもしれない。とまれ、このエクストラ・デュナミス、イデア・エネルゲイアが、人間を人間にしていると言えよう。これは、人間を善人にも、悪人にもする過剰なものである。ニーチェのディオニュソスとはこのことでだろうし、アポロ的なものとは、イデア界的なヴィジョンであろう。そう、折口信夫の『死者の書』の郎女のヴィジョンはそのようなものだろう。そう、イデア・エネルゲイアとは、芸術を創造する力でもあるのである。(今日、芸術はこの力を喪失しているだろう。)
 また、このイデア・エネルゲイアは反動化して、一神教やプロテスタンティズムを生んだと考えられる。資本主義は、経済的帰結である。新自由主義はこのおそらく最終的帰結である。これは、差異を否定して、エゴイズムに徹する。しかし、地球資本主義(グローバリゼーション)になるとき、閉鎖系経済となる。もう否定する対象は限られたものでしかない(アフガン/イラク「戦争」)。ネオコン的一元主義は富を生み出さなくなる。イデア・エネルゲイアの反動・一神教・グローバリゼーションは、壁にぶつかるのだ。これはベルリンの壁以上であろう。他者・差異の肯定である。即ち、ここで、反動が否定されるのである。差異、特異性の差異が肯定されるのである。これは、当然、メディア界ではなくて、イデア界の肯定である。メディア界を否定する一神教ではあるが、他者・差異・特異性の肯定とは、当然、イデア界の肯定である。(メディア界は実はマイナーな問題に過ぎない。)ここで、ポスト一神教、ポスト資本主義、ポスト・グローバリゼーションの方向が拓かれるのである。新しい多神教、新しい経済、新しい地球主義である。これは、イデア・エネルゲイアの創造、創発、能動に関わるのである。イデア界的創造・生産が為される。不連続的差異創造経済の新地球世界となるだろう。差異共存共創経済。それは、真の創造である。イデア・エネルゲイアを主導的になり、現象界経済を新秩序化、新コスモス化するのである。そう、イデア・コスモス・エネルゲイア創造エコノミーであり、差異共存共創経済が、脱資本主義として、創発されるだろう。現象界がイデア界化されるだろう。イデア界化された経済、差異共存共創経済とは、哲学・芸術・科学的経済である。それは、作品としての経済だろう。イデア・エコノミー。それは、新しい天地創造であろう。イデア・ニュークリエーション。

2005年10月15日 (08:48)

一神教とは何か:新自由主義とは何か:我々は何処へ行くのか?:新地球文明へ向けて

一神教を不連続的差異論から整合的に説明する必要がある。これまで、何度も、試論を行ったが、今一つ、一貫性が足りないようだ。
 そう、折口信夫の『死者の書』に関連して調べていたら、平田篤胤は、キリスト教の影響を受けて、一神教の要素を取り込んだと言う。だから、国学が、明治維新のイデオロギーになったとするなら、天皇制は、キリスト教・一神教の影響を受けていると言わなくてはならない。多神教は否定されたと言えるだろう。今日、日本文化が多神教であるというのはあまりにもノウテンキな話である。
 旧約聖書は、当然、ユダヤ民族と結びついている。そして、天皇制は、近代日本国民国家と結びついている。一神教と国民国家との結びつきがあるのではないか。カトリックは、国際的であり、国民国家的ではない。一神教とは言え、カトリックは、純粋に一神教ではない。それは、地中海沿岸の異教、女神教、多神教が濃厚に入っているだろう。イエスも、ヤハウェというよりは、女神の子供である(ピエタ、イシス/オシリス、ピカソの『ゲルニカ』の牡牛は、女神の聖獣である。また、ダリの妻/「聖母」の絵画。)
 ここで、一神教と国民国家ないし民族主義(ナショナリズム)との結びつきという命題を仮説しよう。一神教/民族主義は、多神教を排斥するが、何故だろうか。多神教は、簡単に言えば、多元主義的であるから、一神教=一元論にとっては不都合である。「国」の危機において、「民族」の危機において、一神教が喚起されるのではないだろうか。ユダヤ民族の危機。日本民族の危機。つまり、集合化する必要があるときに、一神教が形成されるのだろう。プロテスタンティズムは、正に、一神教的であり、ナショナリズム的である。近代国家のベースにある。アメリカ合衆国という集合は、プロテスタンティズムをベースにしている。独立宣言を見よ。
 結局、この命題を不連続的差異論から分析しないといけない。以前、私は、自我とナショナリズム(国民国家主義)が結びついていると考えた。(デカルトのコギトは、自我ではなくて、個、単独者、特異性と見るべきである。後で、「エゴ」の問題を検討しよう。)もし、特異性の個体ならば、ナショナリズムを脱するのである。しかし、自我という個体ならば、ナショナリズムに染まる。何故かといえば、自我とは、連続・同一性の一種であり、それは、アイデンティティ(同一性)を求めるからである。そして、アイデンティティは、民族主義に向かうと考えられるのである。「わたし」のアイデンティティは日本人である。もう少し、丁寧に見ると、この同一性の原動力を見ないといけない。これは、不連続的差異論のメディア界のもつ連続・同一性の志向性と見ることができるのではないだろうか。メディア界は、差異があるが、それは、連続的差異であり、一者に収斂するのである。この一者が、民族主義と重なると言えるだろう。
 そのように考えるならば、一神教は、やはり、メディア界の連続・同一性の志向性に関わると言えるだろう。先の考え、一神教とはイデア界の垂直主義であるという見方は、放棄・破棄しないといけないだろう。元へである。多神教は、イデア界とメディア界の境界に基礎があるのではないか。そして、一神教とは、メディア界と現象界の境界に基礎があるのではないか。これは、カントの超越論的形式と等価となるだろう。天地創造は、天と地との分離であり、これは、二項対立(ヒエラルキー)的であり、やはり、自我と関係するだろう。つまり、以前述べたように、自我とは反動性である。それは、イデア界への反動である。つまり、イデア界を排出・隠蔽するのである。そのため、自身は、優越主義となるのである。ここで、優劣の二項対立(ヒエラルキー)が生じるのである。以上のように、自説を訂正したい、というか、元へ戻したのである。
 では、この論理を新自由主義に適用してみよう。それは、やはり、自我主義であるが、問題は、ナショナリズムとインターナショナリズムの中間体であることである。この点が、新しいと言えるのではないだろうか。自我/ナショナリズムは、近代主義である。しかし、新自由主義は、インターナショナリズムであり、国家主義ではない。つまり、国民・国家主義ではないということである。注目すべき点は、民族主義と国際主義が結びついていることである。つまり、国民・国家主義という近代主義を、言わば、否定して、民族主義的国際主義となっていることである。(靖国参拝は、国民国家主義というよりは、民族主義であろう。)
 これは理論的にはどういうことなのだろうか。資本主義は、今や、地球資本主義(グローバリゼーション)であり、「帝国」であり、「閉鎖系」である。国民国家という近代主義が終焉したのである。ポスト近代主義、ポスト国民国家である。つまり、国際的民族主義の時代になっているだろう。国家は、この機関に過ぎないだろう。地球資本主義の「地域」的法的機関としての国家に過ぎないだろう。では、この地球資本主義の国際的民族主義とは何か。それは、確かに、自我主義ではあるが、近代的自我主義ではない。(思うに、文学が衰退したのは、このことと相関である。近代主義と文学が結びついていたのである。このことも後で検討。)ポスト近代的な自我主義とは言えるだろう。それは理論的には何か。それは、近代的自我が、メディア界/現象界という構成ならば、メディア界自体を否定した、現象界中心主義であろう。つまり、感情を排除して、現象界的資本主義的利潤に忠実であるということだろう。簡単に言えば、拝金主義の貫徹である。マモンの支配である。否、現象界中心主義というよりは、利潤的抽象性に忠実なのである。資本主義の完成であると言っていいだろう。ということは、当然、ポスト資本主義の契機が出たことである。これは、そう、マルクスの『資本論』の世界の完成とも言えるだろう。交換価値の勝利である。(ここで、使用価値=差異価値の問題は置いておく。)つまり、カントの超越論的形式の支配なのである。これは構造の世界である。現象界的ではない。つまり、図式化すれば、 イデア界⇒メディア界⇒現象界の志向性が近代主義とすれば、現象界⇒メディア界と反転したと言えるだろう。すると、このポスト近代主義の動きは、加速して、さらに、メディア界⇒イデア界となるはずである。原点回帰となるはずである。らせん的回帰となるはずである。このような意味を新自由主義、国際的民族主義はもっていると考えられる。これは、不連続的差異主義の方向である。資本が不連続的差異化される。それは、新たな創造を意味するだろう。不連続的差異的資本である。それは、私見では、ポスト資本である。ここにあるのは、純粋な国際主義であり、ポスト民族主義であろう。ということは、ポスト国際主義である。つまり、世界主義、コスモポリタニズムの新生となるだろう。新しいヘレニズムである。地球主義である。宇宙主義である。コスモス主義である。(D.H.ロレンスのコスモス論とは、おそらく、ここに達しているだろう。)これは、新しい古代である。らせん的回帰である。また、前古代的である。前アーリア民族的文明、母権・女神的文明の新生である。新地球文明の誕生である。



参照:平田篤胤
平田篤胤
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平田篤胤 凡例
平田篤胤
拡大
平田篤胤
時代 江戸時代 後期
生誕 安永 5年8月24日 (1776年 10月6日 )
死没 天保 14年閏 9月11日 (1843年 11月2日 ))
別名 大壑、大角、気吹乃舎、真菅乃屋
神号 神霊能真柱大人
藩 備中松山藩
父母 大和田清兵衛祚胤、平田篤穏
妻 織瀬、織瀬
子 鉄胤 、千枝、他

平田篤胤(ひらた あつたね、安永 5年8月24日 (1776年 10月6日 ) - 天保 14年閏 9月11日 (1843年 11月2日 ))は、江戸時代 後期の国学者 ・神道家。号は気吹舎(いぶきのや)、真菅乃屋(ますげのや)。

秋田藩 士の四男として生まれ、成人してから備中松山藩 士の兵学者平田篤穏 の養子となる。本居宣長 らの後を引き継ぐ形で儒教 ・仏教 と習合した神道 を批判し、その思想は後の神仏分離 や廃仏毀釈 へと結びついてゆく。文献研究を超えた独自の神学を打ち立て、国学に新たな流れをもたらした。異界に大きな興味を示し、死後の魂の救済をその学説の中心に据えた。また、篤胤の独自の宗教観に基づき、当時としては珍しく仏教 ・儒教 ・道教 ・蘭学 ・キリスト教 など、さまざまな宗教も進んで研究分析していたようで、ラテン語 の教養まであったようである。篤胤の学説は学者にのみ向けられたのではなく、庶民にも向けられた。一般大衆向けの著作を記しており、町人・豪農層の支持を得て、国学思想の普及に貢献した。庶民層に彼の学説が受け入れられたことは、土俗的な志向を示す彼の思想が庶民たちに受け入れられやすかったことも示している。 荷田春満 、賀茂真淵 、本居宣長 とともに国学四大人(うし)に位置付けられる。

[編集 ]

生涯

1776年(安永5年)8月24日に秋田佐竹藩の大番組頭であった大和田清兵衛祚胤の4男として現在の秋田市に生まれる。養子になる25歳までの事蹟ははっきりしない。現存する史料から推察するに、不幸な幼年期を送ったらしい。のちに懐古するに「己は何ちふ因縁の生れなるらむ」(『仙境異聞』)と述べている。両親に育てられなかったとも述べているがどういう意味なのかははっきりしない。父親からは、頭が悪く、落ちこぼれと見なされて、出仕することを許されず、雑用をさせられていたという。20歳になったばかりの1795年(寛政7年)1月8日に郷土を出奔し、江戸にでる。

無一文同然で江戸に出た篤胤は、生活難と戦いながら、勉学に勤めていた。25歳の1800年(寛政12年)に備中松山藩の藩士で代々江戸在住で山鹿流兵学者であった平田藤兵衛篤穏(あつやす)の養子となる。翌年には織瀬と結婚する。


[編集 ]

思想
[編集 ]

古代研究
[編集 ]

幽冥論
[編集 ]

主な著書

* 『古道大意』
* 『俗神道大意』
* 『西籍概論』
* 『出定笑語』
* 『歌道大意』
* 『霊能真柱』
* 『古史成文』
* 『古史伝』
* 『古史徴』
* 『玉襷』



"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E7%94%B0%E7%AF%A4%E8%83%A4 " より作成

カテゴリ : 神道 | 江戸時代 | 1776年生 | 1843年没 | 歴史関連のスタブ項目
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

Appendix


ブログ内検索
RSSフィード
リンク
このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。