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2007年08月31日 (14:41)

仏教・神道とキリスト教:Media Pointの諸様相の視点から

仏教や神道は、根源を超越的差異の領域(超越界)においていると思う。もっとも、空はMedia Pointであるが。
 ところで、キリスト教や一神教はどうだろうか。私は、超越神を、これまで、超越的差異の領域においてきたが、どうだろうか。問題は、一(いつ)、あるいは、唯一にある。
 先にも触れたが、キリスト教は、超越論的同一性構造に規定されていると思う。では、超越性はないのかとなる。問題は、超越論的差異とキリスト教は関係があるのかである。
 思うに、超越論的差異とはほとんど関係ないように思える。問題は、超越性が超越論的同一性構造と直結している点にあるのではないだろうか。考えると、以前、一神教の構造を考えたときも、この点に関係していた。だから、超越性⇒超越論的同一性構造がキリスト教の構造なのではないだろうか。
 ここでは、差異は問題になっていないと思う。まだ、その段階ではないと思う。しかしながら、超越性は、本来、超越的差異である。この点はどうなのか。古代ギリシアにおいては、超越的差異はあったと思う。しかしながら、超越論的同一性構造が支配していて、イデアも、同一性イデアの面をもっていた。思うに、古代は超越的差異と超越性はほとんど区別されていなかったと思う。
 キリスト教は、明確に、超越論的同一性構造が支配的である。古代ギリシアが超越性⇒超越論的同一性構造の⇒とするなら、キリスト教は超越性⇒超越論的同一性構造の⇒の終点ではないだろうか。⇒の始点は、ヤハウェとされたが、しかし、それは、ほとんど⇒の終点と一致していた段階ではと思う。言い換えると、極限的に、超越性=超越論的同一性構造というような段階ではなかっただろうか。しかしながら、実際はパラドクスではないだろうか。超越性としてのヤハウェであるが、同時に、超越論的同一性構造のヤハウェである。
 どうだろうか。やはり、超越性ではなく、超越論的同一性構造としてのヤハウェではないのか。つまり、超越性と超越論性の混同があるのではないだろうか。
 どうも行き詰まっている。発想が間違っているようだ。キリスト教を、Media Point⇒超越論的同一性構造とするならば、明瞭だろう。
 そうならば、1.超越的差異⇒2.超越論的差異⇒3.超越論的同一性構造⇒4.同一性としたMedia Pointの様相を考え直さないといけない。Media Pointが1⇒2の⇒に存しているだろう。だから、まとめて図式化すると、

1.超越的差異⇒2.Media Point⇒3.超越論的差異⇒4.超越論的同一性構造⇒5.同一性

となる。
 後で、これまでの考えを整理しよう。

p.s. 最後に、図式を変更したが、これまでのハイデガー哲学の位置づけは、変わらない。即ち、3⇒4⇒5である。ただ、フッサールやニーチェは Media Point、ないしは、2⇒3に位置するだろう。ドゥルーズは、2⇒3⇒4であろう。デリダは、2⇒3の⇒の始点、ないしは、⇒くらいに相当するのではないか。
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2007年02月09日 (18:07)

『大乗起信論』とPS理論

『大乗起信論』、現代語訳、文庫で120ページに満たない小さな書ではあるが、大乗仏教理論の神髄・要諦を説く古典である。

 高崎直道(じきどう)氏の現代語訳が明快ですばらしい。現在、岩波文庫は、けしからんことに、品切れで、重版未定となっている。(岩波書店は、良書を、すぐ品切れにして、古本屋で高く買わせるシステムなのか。)

 とまれ、この書の理論は、プラトニック・シナジー理論PS理論と同形であると直観した。今は余裕がないので、極く簡単に触れると、この書の「心」とは、内界であり、特異性であり、内在的超越性の精神のことと見ることができると思う。真如というのもほぼ同じものである。

 この「心」が心身を形成し、現象界を発生させるのである。プラトン哲学のイデアに相当すると言ってもいいだろう。

 そう、阿頼耶識がでてくるが、それは、連続的同一性化した意識のことである。つまり、初めは、「心」=真如が転化して、差異的同一性(如来蔵)を形成するが、それが、連続化して阿頼耶識になると考えられるだろう。つまり、差異的同一性と連続的同一性の混淆した意識が阿頼耶識であり、連続化が進むと、無明へと進むのである。無明とは、正に、連続的同一性の意識と言っていい。これは、フッサールの自然的態度である。あるいは、妄分別である。

 そして、この無明=連続的同一性自我=自然的態度からの脱却して、如来蔵や「心」=真如に回帰する教義を説いているのである。これは、PS理論では、特異性に徹して、差異共振シナジー様相へと転化することを意味しよう。そう、差異共振シナジー様相とは、ほぼ如来蔵を意味するだろうが、当然、「心」=真如(=イデア界)を指しているのである。

 思うに、PS理論が『大乗起信論』さらには、大乗仏教を現代的に解明できるのではないかと思えるのである。また、さらに言えば、PS理論こそ、宗教を現代的思想として解明できるように思えるのである。キリスト教も、PS理論によって、その意味することが明晰にされると思うのである。また、当然、イスラム教も同様であるし、神道も同様である。

 付け加えると、心理学もPS理論が明晰なものにすることができると思えるのである。偏頗な精神分析、不明晰なユング心理学を乗り越えて、真に理論的な心理学を提示できると思えるのである。そう、超越論的心理学である。

参考:
http://blog.livedoor.jp/epokhe/archives/cat_497286.html
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2005年10月16日 (22:42)

「霊」と「輪廻転生」:仏教とイデア界:最勝超至高不連続的差異論

今の私見を言えば、「霊」や「輪廻転生」とは、一言で言えば、メディア界の夢ないし錯誤ではないかということです。
そう、個ないし魂とは何かということにもなるでしょう。
ここで、用語を精密に規定する必要があるでしょう。
個ないし魂とは、特異性ないし差異のことです。しかし、より精緻に言えば、
特異性や差異とは、イデア界とメディア界の境界事象のことだと思います。
ここで、混同、混乱が起こるのです。
つまり、不連続的差異論から見ると、この境界(IM境界)は、不連続的差異と連続的差異との交差する領域であり、両義的なのです。個ないし魂と言ったとき、それは、連続的差異的なのです。しかし、その本体は、不連続的差異ないし不連続的差異の共存・共立状態(イデア界)なのです。「霊」や「輪廻転生」という観念が生じるのは、この境界からです。不連続的差異の集合に過ぎないものを、連続的差異の側から見て、「霊」や「魂」とするのです。つまり、連続・同一性化しているのです。これは点描画等を考えればわかりやすいでしょう。新聞や印刷のドットを考えればいいのです。
 では、何故、『オーラの泉』に出てくるような霊能者の言葉は当たっているように思えるのでしょうか。これは、占いがなんとなく当たることと共通でしょう。では、これはどう合理的に説明できるでしょうか。これは、私見では、メディア界のトリックなのです。メディア界は類型性、原型、類似性の世界です。イデア界におけるある特異な出来事は、メディア界的変容作用を受けます。このとき、類型化されると考えられます。この類型が「霊」だと思います。そして、この類型は、共鳴作用で、過去の類型の現象を記録していると思います。ホワイトヘッドの把握(prehension)の一種でしょう。つまり、メディア界の類型が過去を記録しているのです。そして、類型は、未来を志向するので、「来世」を予測するでしょう。なぜならば、メディア界においても差異は、イデア界の「記憶」、「知識」をもっているからです。それは、差異共存性という「記憶」、「知識」です。これに照らして、過去の記録が是正されるでしょう。
 ですから、「霊」とはメディア界の類型、原型であると言えるでしょう。あるいは、「魂」、「個」と言っていいでしょう。だから、メディア界において、「霊」、「輪廻転生」はあると言っていいでしょう。メディア界の原型としての個です。ここでは、多様な「霊」があるでしょう。「霊」・「魂」・「個」のネットワークです。しかし、これは、あくまで、擬制、虚構、仮構と見なくてはなりません。これは、幻想の一種です。しかし、単なる幻想というよりは、教育的意味をもつ幻想ではないでしょうか。「わたし」は、メディア界において、輪廻転生します。メディア界の差異連結が「魂」、「霊」です。しかし、本体は、不連続的差異であります。それは、イデア界に本来存しています。思うに、仏教が輪廻転生からの脱出を意図しているというは、イデア界への回帰を意味しているでしょう。そう、阿頼耶識とは、メディア界のことでしょう。仏教は、メディア界(輪廻転生界)を空(くう)と捉えて、イデア界へ回帰することを説いているのではないでしょうか。イデア界はいわば、超空であります。仏性です。そう、仏教は霊能者のようなものを超越することを説いているのです。それは、やはり、邪道だからです。自我だからです。解脱できないからです。そう、だから、「霊」、「輪廻転生」は存すると言っていいでしょう。しかし、それは本質的問題ではなくて、そこからの解脱が本質です。イデア界を確認することだと思います。大乗仏教は、イデア界から救済を説いているのでしょう。それは、イエス教と共通するでしょう。

p.s. 霊学で、「アカシャ年代記」というのは、メディア界のことだと言えるだろう。だから、その「永遠の記録」は外れるのである。つまり、本体のイデア界をそれは捉えていないのである。イデア界は不連続的差異の共存体であり、不連続的な歴史を形成するだろう。つまり、イデア界はメディア界を介して現象界とインタラクティブ宇であり、ホワイトヘッドのいうように、プロセス的であると考えられる。決定論ではないのだ。

p.p.s. ここで、プラトンが説いた「魂の不死」のことを考えると、やはり、それは、メディア界の「魂」のことを言っていると考えられる。プラトンのイデア論とは、誤解しやすいのであるが、実は、不連続的差異論と同様に三層性である。善のイデアとプラトンが呼んでいる領域が、不連続的差異論のイデア界であり、コーラがイデア界とメディア界の境界領域であり、馬のイデアとか言うのは、メディア界の「イデア」、つまり、原型、類型であろう。そして、現象界は同じである。不連続的差異論は、だから、プラトン哲学のある種の晦渋さ、難解さを解明していると言えるだろう。ここで、想起するのは、「最勝超至高」と、昨年の秋、本理論が生まれた後、私が形容したことである。これは、確かに、尊大大仰に聞こえるが、1年経って、実際のところ、その通りのように思えるのである。最勝超至高不連続的差異論。

3p.s. ここでまた、プラトンの『ティマイオス』の宇宙創造神のデミウルゴスをことを思うと、それは、宇宙の魂を創るのであるが、それは、やはり、メディア界における宇宙の魂ということだろう。そして、その魂は、円運動を記憶しているのである。円運動がプラトンにとって、美、真理の極致であった。記憶が確かでないが、円運動が理性である。これは、不連続的差異論から言うと、正に、イデア界である。イデア界はガウス平面であり、差異が回転するのである。畏るべき、プラトンである。とまれ、宇宙創造神のデミウルゴスとは、IM境界のことであろう。これが、デミウルゴスだろう。そして、そう、現代宇宙論のビッグバンであるが、それも、IM境界と言えよう。プラトンと現代宇宙論が一致するのである。
 ところで、占星学であるが、それは、この点から見ると、宇宙の魂、メディア界の宇宙に関係するだろう。そう、メディア界宇宙論である。ここでは、「霊魂」とメディア・コスモスが相関するだろう。ミクロコスモス(霊魂)とマクロコスモス(メディア・コスモス)の照応(把握prehension)である。そう、メディア・コスモロジーが成立するだろう。メディア・コスモグラフィーとも言えよう。思うに、メディア原型があり、それが、「ホメオパシー」的に、共鳴的に、共可能性的に、メディア・フラクタルを形態形成するのではないだろうか。この連続的差異・共可能性・共鳴波動性によって、「霊魂」と「コスモス」が照応すると言えるのではないだろうか。つまり、メディア共可能性世界において、「霊魂」と「コスモス」が「襞」・フラクタルとなるのではないか。バロックである。ライプニッツ哲学である。これが、神秘学、霊学、オカルト主義の秘密ではないだろうか。
 現代は、今、このようなメディア界的連続主義の時代になっている。倒錯的衆院選挙。しかし、資本主義、新自由主義は不連続主義である。それは、イデア界を志向している。
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