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2015年02月11日 (12:02)

後期弥生稲作民族(伽倻族)が、母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を支配する

リンクは以下から見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11988393633.html

後期弥生稲作民族(伽倻族)が、母権(扶余百済族)的と父権的(スキタイ新羅族)両騎馬民族を支配する

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

先に以下のように、日本国を主導(支配)している民族を推測した。
 やはり、2が支配的であると思う。その力学をもう少し説明すると、以下に仮説したように、日本古代において、三つの主要な民族の三幅対、三重構造、三つ巴があったとする。
 しかし、主導・支配的なのは、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻族)と考える。
 彼らが背後、影で、母権的な百済族(天皇族)と父権的な新羅族(好戦的民族)を利用-操作-支配しているように推察されるのである。
 『日本書紀』はそれを物語っているように思える。
 例えば、有名な神武東征であるが、それは、伽倻族が好戦的な新羅族を利用して、為さしめた(あるいは、創作した、虚構した)ことではないだろうか。
 また、天皇制自体であるが、それは、母権的な百済族の天皇王国の政体を簒奪して、加工利用しているように推測できるのである。
 好戦性と平和性がイデオロギー的に利用されているのである。
 そして、伽倻族の集団主義が、日本国民全体に「伝染」しているように思うのである。これは、支配者「伽倻族」の思うつぼである。
 また、強調すべきは、伽倻族は、狡猾で利に敏いが、頭はよくない点である。つまり、集団的思考なので、明晰明確・的確正確な思考ができないと考えられる。
 そして、敗北主義であり、強者に媚び、屈従・隷従し、弱者に強圧暴虐的に振る舞うのである。
 それで、その末裔が後代、千争邪に騙されて、殲滅破滅を被るという図式ではないかと思う。
 東アジア世界戦争(「大東亜戦争」)は、伽倻族が千争邪の謀略・計略に嵌められた戦争だと思う。
 犠牲になったのは、母権的天皇族であり、父権的好戦的新羅族であろう。もっとも、伽倻的人民も犠牲になったことは当然であるが。

追記:上記のように考えれば、アマテラスがスサノヲを嫌ったことの意味も判明するだろう。つまり、伽倻族が、百済天皇王制を利用しつつ、好戦的新羅族をアマテラスに投影しつつも、天皇制イデオロギーから同じく、新羅族であるスサノヲを排除したということではないだろうか。
 ただ、問題は、出雲神話とスサノヲ(新羅族)の関係である。出雲神話は母権神話と考えるが、それと新羅をどう結びつけるのか。
 思うに、母権と父権の違いはあれ、二つの騎馬民族は友好的であったのではないだろうかと今仮説するのである。


追記2:果たして、スサノヲを父権的新羅族と見ていいのか。ちょっとマザコンぽいスサノヲは、母権民族ではないだろうか。ならば、新羅族の好戦性を投影されたアマテラスが、天皇制父権的イデオロギー位階秩序から、母権的スサノヲを否定排除するのは、まったく必然の力学である。

結局、薬局、北極、日本において何民族が主導しているのか

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私の仮説では、二つの主導民族がある。

1.後期弥生農耕集団父権民族とスキタイ(/ユダヤ)系遊牧父権新羅民族の融合した民族

2.後期弥生農耕集団父権民族

である。
 最近のイメージでは、2に傾いている。しかし、確定的ではない。
 私の脳裏では、藤原不比等の存在がある。彼は、1というより、2に属するような感じである。
 どうも、今のイメージでは、三つの主要な民族が基本にある。後期弥生民族(伽倻)と父権遊牧民族(新羅)と母権遊牧民族(扶余・百済)の三つである。
 日本古代において、この三幅対が存在していたのではないだろうか。そして、後期弥生民族(伽倻)が支配的であり、他の二つの民族を服属させていたのではないだろうか。
 伽倻は敗北主義ながら、隠微狡猾である。これは、今の現政権に繋がると思うのである。
 そう、現政権の好戦性であるが、実は、これは、父権遊牧民族(新羅)のそれを利用しているだけではないだろうか。ずる賢い、悪賢い賤民である。
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2015年02月08日 (13:32)

鯊似本に、風朕、緒葉真、秋欣瓶が畿内のか?:父権遊牧民的好戦性と農耕父権集団民的屈従性の融合

画像等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11987177642.html

鯊似本に、風朕、緒葉真、秋欣瓶が畿内のか?:父権遊牧民的好戦性と農耕父権集団民的屈従性の融合

テーマ:総て出鱈目日本の元凶ヤハウェ父権自我悪魔

私は日本父権民族批判をしている。今の支配層・権力層の人間をそう見るのである。
 強者に媚び、屈従隷従し、弱者は暴虐的に利用する。
 私は後期弥生農耕的集団民族と遊牧系父権民族の混淆が源泉と考えている。
 しかし、私の疑念は、農耕的集団民族は、母権的なのだろうかという点である。意外に父権的なのではないだろうか。
 そうすると、遊牧系父権民族を仮説する必要がなくなるのである。
 しかしながら、問題は好戦性の源泉である。それを考えると、遊牧系父権民族が想定されるのである。
 思うに、農耕的集団父権民族と遊牧系父権民族の混合(追記:これを融合と見れば、明快になるのである)が、日本父権民族を形成したのではないかということが考えられる。
 つまり、後者の好戦性と前者の屈従性が融合して、日本父権民族の性格が生まれたということではないだろうか。

追記:以下の最初の参考記事「天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷」に、日本支配層の敗北主義の説明があるが、私の説とは異なる。
 伽倻(これが、私の仮説する農耕父権集団民族)が日本に到来するのは、肯定しよう。しかし、伽倻が既に到来していた新羅勢力を服属させるという点は肯定しない。
 私は思うに、新羅民族(スキタイ系遊牧民族)が、伽倻民族を服属させたように思うのである。新羅民族の好戦性と伽倻民族の屈従性の混合が日本父権民族の性格を形成したのではないだろうか。
 さらに、検討しないといけない。

追記2:日本父権民族の好戦性を、後期弥生農耕父権集団民族(伽倻民族)の性格で説明できるだろうか。
 もしできるなら、以下の説明は納得できることになるが。
 しかし、凶暴無惨残虐暴虐な好戦性は、農耕民族の性格からは説明できないのではないだろうか。
 しかし、私の仮説の新羅民族の好戦性にも欠点がある。何故、スキタイ系遊牧民族が伽倻民族と融合して、屈従・敗北主義的になるのかという問題があるからである。
 今、思いついたが、日本民族は、二重構造ではなく、三重構造ないし四重構造ではないかということである。
 つまり、日本民族は、

1,ツングース系扶余・百済母権民族
2.スキタイ系新羅父権民族
3.後期弥生農耕父権集団民族
4.土着的縄文母権民族

の四つの民族から、少なくとも構成されると見るのである。
 三重構造というのは、4を外して考える場合である。
 いちおう、三重構造で考えると、以下の記事にあるように、3が主体になって、1と2を服属させ、支配したとしよう。
 3は狡猾な民族であり、1の母権天皇制と2の父権遊牧民族の好戦性を利用して、『日本書記』をメイクアップしたのではないだろうか。
 そう、日本父権民族の好戦性は新羅民族から来ていて、それを、巧妙狡猾卑怯卑劣な3の父権民族が利用しているのではないだろうか。
 つまり、後期弥生農耕父権集団民族が二つの、異なる遊牧民族(母権扶余民族と父権スキタイ系新羅民族)を利用支配しているということではないだろうか。 
 四重構造で見れば、さらに、土着的母権縄文民族を新羅民族を利用して、迫害虐殺したと考えられる。ターゲットは蝦夷や隼人等である。
 3はとんでもない賤民民族である。

追記3:3が日本父権民族の主体としても、その好戦性は、2の好戦性を狡猾に利用しているということではないだろうか。本当は、好戦性はないのである。2をイデオロギー的に利用していると考えられるのである。
 つまり、現実的に言えば、椅子羅謀黒への闘争を宣言すれば、日本民族の構成員の2が反応すると現似本背腐は重っているということではないだろうか。

追記4:今、ふと想起したが、3の農耕父権集団民族と2のスキタイ系新羅父権民族は、一国両制の統治システムをとったのではないだろうか。つまり、スキタイ系新羅父権民族は「北面官」が、後期弥生的農耕集団父権民族を「南面官」が支配するようになったのではないだろうか。つまり、二つの民族を並行的に支配するシステムである。だから、中心は二つのあるのであり、「北面官」と「南面官」である。
 そして、新羅系は、扶余・百済系の母権天皇制を簒奪して、父権制に変えてしまったのではないだろうか。その改竄的記録が『日本書記』ではないか。
 とまれ、一国両制システムを仮説したい。
尚、この制度概念は、陳舜臣氏の『桃源郷』の冒頭の説明にある。
 「遼の独特の制度は、なんといっても、契丹族をはじめ遊牧の人民は北面官が治め、定住の漢族は南面官が担当するという一国両制のシステムである。」 (上巻)7頁

追記5:一国両制システムをとっていたとしよう。しかし、時間が経つに連れて、後期弥生農耕集団父権民族(伽倻民族)とスキタイ系遊牧父権民族(新羅民族)は融合して、上述したような、強者に服従し、弱者を虐待する性格が生まれたのではないだろうか。敗北主義と暴政主義である。

追記6:好戦的遊牧父権民族であるが、それにユダヤ民族を含めてもいいかもしれない。つまり、多重複合的な好戦的遊牧父権民族を見ていいのではないだろうか。

追記7:天孫降臨族とは、2と3の融合した父権民族であり、天孫ないし天孫降臨という理念は、1の扶余・百済母権民族の天皇王国制度のそれをイデオロギー的に借用・利用した、奪った・横取りした、「パクった」ものではないだろうか。父権民族は狡猾である。

桃源郷〈上〉 (集英社文庫)/集英社

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参考:尚、緑色文字、イタリック、下線は管理人resurrectionに拠る。

天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷

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画像はこちら からお借りしました。
「天皇制国家の源流6 朝鮮の支配階級の源流」 では、次のことを明らかにした。
【1】韓人(呉人)・倭人(越人)が農耕部族連合を形成していた朝鮮半島に、遊牧騎馬民族である扶余族(ツングース系)が断続的に南下してきた。彼らが建てたのが、辰国→馬韓→百済や高句麗である。
このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)である。
【2】それに対して、秦に追われて華北から逃れてきた秦亡民(主力はモンゴル系)が建てたのが辰韓→新羅である。
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、
弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、
辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。
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以下、『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、辰国→馬韓→百済や高句麗の出自を要約する。

ユーラシア大陸の極東に位置する韓半島の地理は、西海岸から大陸文化が流れ込みやすいようになっている。もちろんシベリア沿岸州経由で東海岸ルートもあるが、山脈が海岸線に迫り、島もなく、文明の主流は西側であり、国家の形成も遅れた。そのような地勢学を背景に南韓には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)があった。
三韓の馬韓・辰韓・弁韓の後身が百済・新羅・伽耶。伽耶は6世紀に滅亡し、韓半島の三国(百済・新羅・高句麗)となる。
重要なことは、南韓のほとんどの国の王が扶余系出身だったということ。
辰国領土の各地に馬韓・辰韓・弁韓の三韓が派生するが、実質的に辰王族出身の馬韓王系が、辰韓・弁韓の王になった。
倭国を訪れた隋の使節は『隋書』に、倭の秦王の国があるとしている(この「秦」は「辰」の誤写)。
倭国は7世紀半ばまでも辰王の国と見なされていた。韓半島と日本列島の古代王国の首長は、すべて騎馬民族出身で同じ扶余系、つまり辰王家出身者であった。
天皇の辰王系説を正式に否定したのは『記紀』以後のことで、それまでは辰王・辰国につらなる正当性を以って、半島と列島での主権を主張していた。

辰国は扶余族の一部で、同じ扶族出身の高句麗建国に先立ち紀元前4世紀頃、韓半島に入り、遼河と平壌にわたる一帯に建国し、鴨緑江流域に高句麗勢力が建国すると南下し、平壌が中心となる。
その後、漢の植民地漢四郡が設置されると、辰国はそれに押されて帯方郡に隣接した漢江以南に国を移した。
それ以前、南韓には、緩い組織の稲作中心の諸部族国家が散在していた。
辰国は馬韓以外の地域を直接統治してはいなかったものの、辰国の王族の子弟を派遣して在地の諸部族の連合体を構成し、辰韓・弁韓にまとめあげた。
それら分国(辰韓・弁韓)の王が辰王家出身で、辰王の直系が馬韓で「辰王(馬韓)だけが南韓の王になれる」という信仰は、北から民族移動をしてきた扶余系の騎馬民族集団が共有した。
但し、辰王は宗教的・象徴的な性格の存在であり、強力な統一国家ではなかった。
『後漢書』によると、辰王は馬韓の中に別途に目支国を置き、そこで南韓全体を支配していたという。それはヴァチカン市国がローマの中にあり、ローマ法王が宗教面で欧州の各王の上にあったのに相当する権威が、辰王にもあったと考えられる。すなわち、「扶余系の太陽神の直系が各国を治める権威を持つ」という思想である。
辰王は、宗教的権威で三韓に君臨して馬韓の中にある目支国を拠点にしていた。辰王を戴く辰国から農耕民を母胎とした三韓が生まれ、紀元前後に扶余系の遊牧騎馬民族が南下し、三韓をもとにした三国を樹立する。しかし尚、その初期においては辰王の権威は無視できなかった。
辰王の直系が馬韓王、その王族が辰韓・弁韓の王となって派遣されたという。
扶余系の高句麗から百済が分派・南下し(つまり、百済と高句麗は同根)、辰国の正当継承者である馬韓を吸収することで、百済王が辰王の地位を得る。百済王はその権威をもって新羅・加耶の王を任命した。初期三国の王家は辰王家出身であることが原則で、その権威は大きかった。
紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓から三国(百済・新羅・伽耶)に移行する。その変革の最も大きな理由は鉄器の普及にあり、百済・新羅がはっきりした国の体制になり、伽耶も統一こそしなかったものの連合勢力の王権が強化された。
初期の新羅王までは辰王系を継承した百済王家出身だったが、その後の新羅ではその原則が守られなくなった。新羅には姓の異なる複数の王が登場し、その後の新羅は辰王推戴の原則が守られなくなり、その時点で百済は扶余王直系と主張するようになってゆくと考えられる。
三国間の争いが激しくなるにしたがい、辰王の物理的な実力のない宗教的な権威は無視され、半島の正史にすらその名を留められないようになる。韓国史家の間でも、辰国は想像の産物と思われるようになった。

【2】このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)だが、新羅は別の部族(モンゴル系)らしい。
以下、『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、新羅の出自を要約する。

新羅は高句麗・百済とは別系統でありながらも、初期に馬韓王に指名された王、すなわち百済人を推戴している。中国史書の記録では「新羅人は辰韓の出身でありながら、辰韓王は常に馬韓人」(『梁書』「新羅伝」)、「新羅の前身辰韓王は馬韓人」(『晋書』「辰韓伝」)とある。
しかし、その後の王族は扶余系ではない別系統の王を輩出する。
新羅王家には朴・昔・金という3つの姓氏があった。
王の称号も第1代が「居西干(コセガン)」、2代が「次次雄(チャチャウン)」、3代から18代が「尼師今(イサグム)」、19代から22代は「麻立干(マリッカン)」であり、23代以後は中国式の「王」を使うが、それ以前は4つの王号があった。号が異なるということは民族が異なることを示唆する。
新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い勢力であったと思われる。
実際、新羅の文化は、扶余系の高句麗・百済のものと大きく異なり、シベリア・スキタイ系文化の特色が見られる。また、『後漢書』「辰韓伝」によると新羅の前身である辰韓の言葉は高句麗や百済の言語とは違っていた。
中国史書『晋書』「辰韓伝」によると、新羅の前身である辰韓の建国は、秦の始皇帝の
万理の長城建設に動員された塞外地帯の民がその労役をさけて移動をしてきたため、馬韓が領土の東部の一部を割譲したことから始まったとある。このことは、辰韓→新羅が扶余族とは異なる民族であることを示唆している。
新羅王家は少なくとも朴・昔・金の三家が交代していることから、「王は神であり、他の姓とは替えられない」という扶余系の現人神思想が新羅にはなかったと推測できる。

まとめると、次のようになる。


【1】紀元前5~4世紀、中国戦国時代に滅んだ呉人(韓人)、越人(倭人)が朝鮮半島に流れ着き、農耕社会を形成した。(一部は日本列島に流れ着き、弥生社会を形成)。


【2】紀元前4世紀~、遊牧騎馬民族であるツングース系の扶余族が朝鮮半島を南下。朝鮮半島西部に辰国をつくり、朝鮮半島南部・東部の韓倭農耕部族連合を服属させた。
これがそのまま、馬韓(西部)・弁韓(南部)・辰韓(東部)となる。
つまり、三韓とは、ツングース族(扶余族)が韓人・倭人(呉越人)を服属させた社会である。


【3】スキタイ系部族の影響を受けた(or混融した?)モンゴル系部族が、秦に追われて南下し、馬韓から辰韓の地を割譲してもらい支配した。これが新羅の源流である。そして、辰韓は馬韓に服属していた。
秦支配から逃げる過程で一部は海に脱出、出雲・敦賀に流れ着き丹波・大和に拠点をつくったのがスサノオ・オオクニヌシ・ニギハヤヒなどの新羅勢力だと考えられる。(管理者:この点は疑問がある。)
(秦の始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福の伝説と同じ構図である。)


【4】さらに、辰国とは別の扶余系部族が、高句麗を建て南満州~北朝鮮を支配。その分派の百済が朝鮮半島を南下し馬韓を奪取。弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を服属させた。
つまり、ツングース系の扶余族(百済)が、韓倭農耕部族連合(伽耶)とモンゴル系(新羅)を服属させた。ところが、新羅はすぐに百済から独立し、弁韓(→伽耶)を侵食しながら、百済と対抗するようになる。
そして、百済(ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシやニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷(天孫族)である。
つまり、大和朝廷の原点は、春秋戦国時代に滅亡した呉越の生き残り(韓人・倭人)が、さらに、ツングース系の扶余族(高句麗・百済)やモンゴル族(新羅)に追われて日本列島にやってきた二重の敗残者である。
これが「属国意識の源流~日本の支配階級に刻印された敗北思考(体裁思考)」 の理由ではないだろうか。
敗北主義にもかかわらず彼が生き延びることができたのは、流れ着いた先の日本列島は、圧倒的大多数を縄文人が占める平和な共同体社会とお上捨象体質だったからである。それをいいことに、彼ら伽耶勢力は日本に君臨することになった。
つまり、大和朝廷(伽耶勢力)とは、敗北思考にも拘わらず君臨するという、世界中でも稀に見る特異な性格の支配者なのである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2410.html



天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流
天皇制国家の源流(葛城ネットワーク)まとめ1 日本と朝鮮の支配部族の源流

 いままで十数回にわたり天皇制国家の源流を追求してきました。ここで、いままでのまとめを行いたいと思います。ちょうど年末のなんでや劇場で、日本の闇勢力について追求が行われました。その内容も併せて、四回程でまとめてみたいと思います。
まず、古代以前のユーラシア大陸の状況からです。
●北方モンゴロイドの南下
・5万年前~2.1万年前、極寒化で北方モンゴロイドは小部族で南下。シベリアは無人状態に。
・2.1万年前~1.3万年前、温暖化で人口爆発し、モンゴル平原に北上。アルタイ系3祖族を形成(新モンゴロイド)。父系集団で垂直的な上天信仰、熊神信仰、冬祀りetcの文化。
・1.3万年前、急激な冷え戻りで、南下。チュルク族は西方に、モンゴル族は南方に、ツングース族は東方に拡散。(下図参照)
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(画像はリンク よりお借りしました)
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・6千年前~4千年前、中央アジアの乾燥を契機にアーリア族による略奪闘争が発生し、東西に玉突き的に伝播。アーリア族→チュルク族→モンゴル族→ツングース族と玉突き的に急激な移動・拡散が起こる。
チュルク族は、早くからアーリア族と混融。馬と金属の文化で、西アジアから地中海、あるいは東欧・ロシアにまで分布。
モンゴル族は、東アジアから中央アジアに広域に拡散。北方は遊牧を続け、南下した部族は農耕に転換。
ツングース族は、極東で長く狩猟を維持(馬とトナカイを飼い慣らす)。モンゴル族と混融。シベリア・満州・朝鮮の源流。
・3.5千年前、モンゴル族が殷を建国。3.1千年前、チベット族が周を建国。
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☆日本には3~1万年前から、主に南方のスンダランドから列島にやってきた人々が縄文人を形成、そこに新たに大陸の戦乱から逃れた江南人がやってきて弥生人が生まれます。
●縄文人+江南流民=弥生人
 日本人の基層を成すのは縄文人であるが、2480年前の呉、2340年前の越、2235年前の楚の滅亡に伴って江南人の一部が日本列島に亡流した。彼ら江南流民は、何れも少人数で、周りの縄文人に受け入れられ、混融していった。これら少数の江南流民と縄文人の混血を弥生人と呼ぶことにする。
 彼らは2400年前~2200年前までに、九州、出雲、北陸、あるいは瀬戸内、高知、尾張、紀伊、伊豆に国を作っていった。=弥生人の小国。
 ここで、倭人について触れたいと思います。倭人とは、日本史では古代の日本人そのもののように言われていますが、明らかに間違いで、上記の中国南方からの流民(江南人)を指しています。日本列島に流れ着いたのは一部であり、その主力は朝鮮半島へ流れ着いていました。
●倭人とは江南人(呉・越・楚人)
 倭人とは、2500年前~2200年前に発生した江南人(呉人、越人、楚人)の流民である。2480年前の呉滅亡→呉人が弁韓へ、2340年前の越滅亡→越人が馬韓へ、2235年前の楚滅亡→楚人が辰韓へ(いずれも一部は日本列島へ亡流)。
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〔呉・越・楚の滅亡と遺民(倭人)の移動〕(図版はリンク よりお借りしました。)
 倭人が江南人のことであることの証拠に、中国からみた倭(人)の範囲が時代を追うにつれ南に下がってゆく。
 最初、中国は南朝鮮全体を倭と呼んでいたが、百済・新羅国家が形成されると、国家が形成されずに部族連合として残った伽耶を倭と呼ぶようになり、伽耶滅亡後には、倭は日本列島だけを指すようになった。
 魏志倭人伝の時代は主に伽耶の倭人が活躍していた時代であり、そこで登場する倭は日本ではなく、朝鮮半島にあったのである。高句麗の広開土王が戦った倭も朝鮮半島の伽耶のことである。
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☆倭人は、朝鮮半島で水田稲作を始めていました。そこに稲作民を支配する様式を持つ北方部族が南下して、国家を形成し始めます。
●倭人+扶余族=韓人
 朝鮮半島では、これら江南流民がほぼ原住民=倭人であるが、後に朝鮮半島へツングース族(一部モンゴル族)が南下する。後から侵入してきた扶余族との倭人との混血を韓人と呼びます。
1.2300年前、ツングース系の扶余族が南下し、半島西部に辰国を作り、南部(弁韓)、東部(辰韓)を服属させる。つまり、三韓とは、扶余族が韓倭人(呉・越人)を服属させた国である。扶余族と倭人(呉・越人)が混血したのが韓人である。
2.2235年前、秦に強制移住させられていたモンゴル系部族(スキタイとも混融?)が大量の楚人と共に脱出・南下。辰国(中心が馬韓)から東部の辰韓を割譲してもらい、これを支配。
3.1950年前、別の扶余族が半島北部に高句麗を建国。その分派が南下して馬韓を奪い百済に。百済が、弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を支配。
 新羅は、百済=扶余族に従属するモンゴル系部族が江南流民(主に楚人)を支配した国である。新羅が扶余族ではない証拠に、新羅はシベリア・スキタイ系文化の色彩を帯び、言葉も扶余系とは異なる。従って新羅には「王は神で、他の姓は替れない」という扶余族の現人神(天孫降臨)信仰はなかった。
 秦の長城建設の為に強制移住させられていた楚人とモンゴル族(スキタイ族?)が、モンゴル族に率いられて脱出し、極東を東端まで横断した後、日本海沿岸を南下して慶州平野に進出した。中国「辰韓伝」によると、馬韓が脱出してきた民に、馬韓領土の東部を割譲したとあり、辰韓は馬韓に服属することで成立した。
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〔秦帝国と万里の長城、朝鮮半島の付け根まで万里の長城が伸びている。そこで強制労働させられていた人々が逃げ出し(図中の矢印)朝鮮半島の辰韓を形成 〕
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
☆この時代までは、日本へは流民として命からがらやって来て、原住民の縄文の人々に受け入れられた人々でしたが、中国の秦の時代になると様相が変わってきます。計画的に大集団がまとまってやってきます。伝説でも有名な徐福です。彼らが、それ以後の日本でネットワークを形成し支配勢力の中核となっていきます。(続く)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/01/2475.html

2015年01月28日 (09:03)

新仮説:二つの日本民族:百済・出雲・縄文母権民族と大陸系父権民族が従えた後期弥生農耕母権集団民族

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11982543599.html

新仮説:二つの日本民族:百済・出雲・縄文母権民族と大陸系父権民族が従えた後期弥生農耕母権集団民族

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

『日本書紀』(二)の第十一巻、仁徳天皇の記事の最後の方になってようやく、騎馬の記述が出てきた。もっとも、それ以前にあったのを見過ごしているかもしれないが。

日本書紀〈2〉 (岩波文庫)/岩波書店
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 「精騎」(すぐれるうまいくさ:p. 270)の言葉があり、これは、騎馬と考えられる。これは、「田道(たぢ)」が率いるのであり、彼は、百済出身の考えられる。
 以下の東海アマ氏の記事と相関させて、百済騎馬民族が倭国に到来したのは確かなようである。
 私はこれまで、簡単に、百済人は母権民族と考えてきた。しかし、『日本書記』での記述は、倭国の土着的ないわば、反抗的な異民族(蝦夷:えみし)に対して、執拗に攻撃を行なっているのである。
 好戦性が強いのである。好戦性は父権民族の特性である。そうならば、百済民族は父権民族となる。
 ただし、私の作業仮説、『日本書記』は父権民族の視点で母権民族を含めた大和朝廷の形成の史的神話が語られているということから見ると、『日本書記』に見られる百済騎馬民族に当たるとされる民族の好戦性は、必ずしも、実際の百済騎馬民族のものではなく、父権民族のそれが投影されていると見ることは可能である。
 そうすると、百済騎馬民族とは母権民族であり、それとは別に、好戦的な父権民族が支配的ということになろう。
 仁徳天皇は、確かに聖王として、理想化潤色されているのは確かだろうが、しかし、やはり、そこには母権民族の共同体の精神が感じられるのである。
 百済騎馬母権民族の史的神話があり、それに父権民族の好戦性が上塗りされているように思えてきたのである。
 そして、父権民族をこれまで、ユダヤ・大陸系としたのが、一端、ユダヤ民族は外したい。
 今は後期弥生農耕集団民族と大陸系父権民族の混淆が日本父権民族ではないかとしたい。好戦的なのは、当然後者だと思う。だから、大陸系父権民族が率いた後期弥生農耕集団民族が日本父権民族としたい。
 問題は、後期弥生農耕集団民族が父権なのか母権なのかである。農耕民族ならば、母権民族ととるのが普通である。だから、大陸系父権民族が従える後期弥生農耕集団母権民族が、日本父権民族ということになる。
 しかしながら、それは齟齬を来す。父権+母権だから、純粋父権にはならないはずである。そうすると、私が考えた日本父権民族とは、誤りであり、日本父母権集団民族とでもしないといけない。
 とまれ、そう見ると、「日本父権民族」の脆弱さがよく見えてこよう。もし、純粋に父権民族ならば、愚鈍のはずはないからである。
 そう、父権・母権未分化集団民族とでもするといいかもしれない。(本文内追記:しかし、以下の追記にあるように、ベースに後期弥生農耕母権集団民族を置き、それとは別に大陸系父権民族を考えれば、日本父権民族とは考えられることである。それが、スキタイ・新羅系父権民族と言えるのかどうかはわからない。でも、二つのツングース民族が考えられよう。母権的ツングース民族と父権的ツングース民族である。)
 ということで、新たな作業仮説として、二つの日本民族とは、
一つは百済・出雲・縄文的母権民族であり、
一つは大陸系父権ー後期弥生農耕母権集団民族ということになる。
 『日本書記』は後者の視点から前者の神話を改竄的に包摂して、書かれていると思われる。
 もっとも、圧倒的力をもつ大中国に対抗するために大和朝廷史実に似せた神話であることは確かと思われる。
 最後に大陸系父権民族であるが、それに新羅を含めるのかはまだ未確定である。東海アマ氏は、女真族をあげている。その可能性はあるだろう。
 とまれ、日ユ同祖論はいったん、取り下げよう。

追記:後期弥生農耕母権集団民族を従えたと述べたが、そうではなく、既に存在していた後期弥生農耕母権集団民族を到来後に支配したというように考えた方が適切かもしれない。
 ところで、百済母権騎馬民族と仮説したが、思うに、大陸系父権騎馬民族というのも考えられる。後者が、いわゆる江上波夫氏の騎馬民族説に当たるのではないだろうか。
 また、東海アマ氏が聖徳太子に見る騎馬民族は、百済母権騎馬民族ということになろう。
 つまり、二つの騎馬民族の到来の仮説である。

追記2:ひょっとして、母権騎馬民族と父権騎馬民族の闘争が古代日本においてあり、後者優位の下で、前者の神話を取り込み、改竄的に書かれたのが『日本書記』かもしれない。
 結局、土着的倭国が下敷きにあり、両騎馬民族の相克的日本国家創建のフィクション的史実が『日本書記』ということかもしれない。

参照:
日本父権民族と母権民族:だいぶその出来がわかってきた:母権的百済と父権的新羅・高句麗
テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

アマちゃんだ @tokaiama · 1時間 1時間前

私の住む蛭川村は、家々が孤立し、大きな城のようだ
これは百済由来の騎馬民俗に共通する「一所懸命」思想から来ている
満州高句麗を本拠地とした女真族は武家社会で「家=国」の価値観を創り出してきた
こうした民俗は、二千年前から変わっていない
日本の地域社会に深く息づいている


アマちゃんだ @tokaiama · 1時間 1時間前
歴史というものの本質は民族大移動と融合である
民族と民俗の変遷の法則を解き明かすのが考古学であり民俗学である
日本史を語るにあたって、弓月氏、満州族と天皇家の関わりを抜いてはアンのないぼた餅にすぎない
その本質は民俗にある
例えば聖徳太子のズボンは乗馬風俗を意味する
騎馬民俗だ

参考:きわめて、私の説に関係すると思われるので、全文を資料として転載させていただく。
 なお、緑色文字且つイタリック且つ下線は、管理者resurrectionに拠る。
 また、紫色・下線部は管理者が疑問をもつ箇所である。
 
追記:以下の記述は私の新仮説に通じるものがある。「百済(ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシやニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷(天孫族)である。」という箇所であるが、これは、私が仮定する後期弥生農耕母権集団民族に通じよう。
 しかしながら、後半の部分はそのまま受け取れない。私はそこには、なんらかの大陸系父権民族が支配的であったと思うからである。私の仮説(「妄想」)では、おそらく、スキタイ系新羅の父権民族が、伽倻(韓倭農耕部族連合)を主導したのである。
天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越 ...

天皇制国家の源流7 ツングース(百済)やモンゴル(新羅)に追われた呉越(伽耶)が大和朝廷

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画像はこちら からお借りしました。
「天皇制国家の源流6 朝鮮の支配階級の源流」 では、次のことを明らかにした。
【1】韓人(呉人)・倭人(越人)が農耕部族連合を形成していた朝鮮半島に、遊牧騎馬民族である扶余族(ツングース系)が断続的に南下してきた。彼らが建てたのが、辰国→馬韓→百済や高句麗である。
このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)である。
【2】それに対して、秦に追われて華北から逃れてきた秦亡民(主力はモンゴル系)が建てたのが辰韓→新羅である。
馬韓(後の百済)ではツングース系の扶余族が呉越系の韓人・倭人を直接支配し、
弁韓(後の伽耶)では扶余族が韓倭農耕連合を服属させ、
辰韓(後の新羅)では秦に追われたモンゴル系部族がツングース系の扶余族に服属しながら、韓人・倭人を支配していた。
これが、古代朝鮮の支配構造である。
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以下、『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、辰国→馬韓→百済や高句麗の出自を要約する。

ユーラシア大陸の極東に位置する韓半島の地理は、西海岸から大陸文化が流れ込みやすいようになっている。もちろんシベリア沿岸州経由で東海岸ルートもあるが、山脈が海岸線に迫り、島もなく、文明の主流は西側であり、国家の形成も遅れた。そのような地勢学を背景に南韓には馬韓・辰韓・弁韓(弁辰)があった。
三韓の馬韓・辰韓・弁韓の後身が百済・新羅・伽耶。伽耶は6世紀に滅亡し、韓半島の三国(百済・新羅・高句麗)となる。
重要なことは、南韓のほとんどの国の王が扶余系出身だったということ。
辰国領土の各地に馬韓・辰韓・弁韓の三韓が派生するが、実質的に辰王族出身の馬韓王系が、辰韓・弁韓の王になった。
倭国を訪れた隋の使節は『隋書』に、倭の秦王の国があるとしている(この「秦」は「辰」の誤写)。
倭国は7世紀半ばまでも辰王の国と見なされていた。韓半島と日本列島の古代王国の首長は、すべて騎馬民族出身で同じ扶余系、つまり辰王家出身者であった。
天皇の辰王系説を正式に否定したのは『記紀』以後のことで、それまでは辰王・辰国につらなる正当性を以って、半島と列島での主権を主張していた。

辰国は扶余族の一部で、同じ扶族出身の高句麗建国に先立ち紀元前4世紀頃、韓半島に入り、遼河と平壌にわたる一帯に建国し、鴨緑江流域に高句麗勢力が建国すると南下し、平壌が中心となる。
その後、漢の植民地漢四郡が設置されると、辰国はそれに押されて帯方郡に隣接した漢江以南に国を移した。
それ以前、南韓には、緩い組織の稲作中心の諸部族国家が散在していた。
辰国は馬韓以外の地域を直接統治してはいなかったものの、辰国の王族の子弟を派遣して在地の諸部族の連合体を構成し、辰韓・弁韓にまとめあげた。
それら分国(辰韓・弁韓)の王が辰王家出身で、辰王の直系が馬韓で「辰王(馬韓)だけが南韓の王になれる」という信仰は、北から民族移動をしてきた扶余系の騎馬民族集団が共有した。
但し、辰王は宗教的・象徴的な性格の存在であり、強力な統一国家ではなかった。
『後漢書』によると、辰王は馬韓の中に別途に目支国を置き、そこで南韓全体を支配していたという。それはヴァチカン市国がローマの中にあり、ローマ法王が宗教面で欧州の各王の上にあったのに相当する権威が、辰王にもあったと考えられる。すなわち、「扶余系の太陽神の直系が各国を治める権威を持つ」という思想である。
辰王は、宗教的権威で三韓に君臨して馬韓の中にある目支国を拠点にしていた。辰王を戴く辰国から農耕民を母胎とした三韓が生まれ、紀元前後に扶余系の遊牧騎馬民族が南下し、三韓をもとにした三国を樹立する。しかし尚、その初期においては辰王の権威は無視できなかった。
辰王の直系が馬韓王、その王族が辰韓・弁韓の王となって派遣されたという。
扶余系の高句麗から百済が分派・南下し(つまり、百済と高句麗は同根)、辰国の正当継承者である馬韓を吸収することで、百済王が辰王の地位を得る。百済王はその権威をもって新羅・加耶の王を任命した。初期三国の王家は辰王家出身であることが原則で、その権威は大きかった。
紀元前2世紀から紀元後1世紀にかけて、三韓から三国(百済・新羅・伽耶)に移行する。その変革の最も大きな理由は鉄器の普及にあり、百済・新羅がはっきりした国の体制になり、伽耶も統一こそしなかったものの連合勢力の王権が強化された。
初期の新羅王までは辰王系を継承した百済王家出身だったが、その後の新羅ではその原則が守られなくなった。新羅には姓の異なる複数の王が登場し、その後の新羅は辰王推戴の原則が守られなくなり、その時点で百済は扶余王直系と主張するようになってゆくと考えられる。
三国間の争いが激しくなるにしたがい、辰王の物理的な実力のない宗教的な権威は無視され、半島の正史にすらその名を留められないようになる。韓国史家の間でも、辰国は想像の産物と思われるようになった。

【2】このように、辰国→辰韓→百済と高句麗は元々は同じ扶余族(ツングース系)だが、新羅は別の部族(モンゴル系)らしい。
以下、『「日本=百済」説~原型史観でみる日本事始め』(金容雲著 三五館刊)「第四章 謎の辰国を追ってみると」 から、新羅の出自を要約する。

新羅は高句麗・百済とは別系統でありながらも、初期に馬韓王に指名された王、すなわち百済人を推戴している。中国史書の記録では「新羅人は辰韓の出身でありながら、辰韓王は常に馬韓人」(『梁書』「新羅伝」)、「新羅の前身辰韓王は馬韓人」(『晋書』「辰韓伝」)とある。
しかし、その後の王族は扶余系ではない別系統の王を輩出する。
新羅王家には朴・昔・金という3つの姓氏があった。
王の称号も第1代が「居西干(コセガン)」、2代が「次次雄(チャチャウン)」、3代から18代が「尼師今(イサグム)」、19代から22代は「麻立干(マリッカン)」であり、23代以後は中国式の「王」を使うが、それ以前は4つの王号があった。号が異なるということは民族が異なることを示唆する。
新羅の支配階級は、シベリアを横断して日本海側を南下して、迎日湾付近から慶州平野へ進出したスキタイ族に近い勢力であったと思われる。
実際、新羅の文化は、扶余系の高句麗・百済のものと大きく異なり、シベリア・スキタイ系文化の特色が見られる。また、『後漢書』「辰韓伝」によると新羅の前身である辰韓の言葉は高句麗や百済の言語とは違っていた。
中国史書『晋書』「辰韓伝」によると、新羅の前身である辰韓の建国は、秦の始皇帝の
万理の長城建設に動員された塞外地帯の民がその労役をさけて移動をしてきたため、馬韓が領土の東部の一部を割譲したことから始まったとある。このことは、辰韓→新羅が扶余族とは異なる民族であることを示唆している。
新羅王家は少なくとも朴・昔・金の三家が交代していることから、「王は神であり、他の姓とは替えられない」という扶余系の現人神思想が新羅にはなかったと推測できる。

まとめると、次のようになる。


【1】紀元前5~4世紀、中国戦国時代に滅んだ呉人(韓人)、越人(倭人)が朝鮮半島に流れ着き、農耕社会を形成した。(一部は日本列島に流れ着き、弥生社会を形成)。


【2】紀元前4世紀~、遊牧騎馬民族であるツングース系の扶余族が朝鮮半島を南下。朝鮮半島西部に辰国をつくり、朝鮮半島南部・東部の韓倭農耕部族連合を服属させた。
これがそのまま、馬韓(西部)・弁韓(南部)・辰韓(東部)となる。
つまり、三韓とは、ツングース族(扶余族)が韓人・倭人(呉越人)を服属させた社会である。


【3】スキタイ系部族の影響を受けた(or混融した?)モンゴル系部族が、秦に追われて南下し、馬韓から辰韓の地を割譲してもらい支配した。これが新羅の源流である。そして、辰韓は馬韓に服属していた。
秦支配から逃げる過程で一部は海に脱出、出雲・敦賀に流れ着き丹波・大和に拠点をつくったのがスサノオ・オオクニヌシ・ニギハヤヒなどの新羅勢力だと考えられる。(管理者:この点は疑問がある。)
(秦の始皇帝を騙して日本列島に脱出した徐福の伝説と同じ構図である。)


【4】さらに、辰国とは別の扶余系部族が、高句麗を建て南満州~北朝鮮を支配。その分派の百済が朝鮮半島を南下し馬韓を奪取。弁韓(→伽耶)と辰韓(→新羅)を服属させた。
つまり、ツングース系の扶余族(百済)が、韓倭農耕部族連合(伽耶)とモンゴル系(新羅)を服属させた。ところが、新羅はすぐに百済から独立し、弁韓(→伽耶)を侵食しながら、百済と対抗するようになる。
そして、百済(ツングース)や新羅(モンゴル)に追い詰められた伽耶(韓倭農耕部族連合)の一派が、日本列島に逃れてきた。そして、先着していた新羅勢力(オオクニヌシやニギハヤヒ)を追い出しor服属させたのが、第一期大和朝廷(天孫族)である。
つまり、大和朝廷の原点は、春秋戦国時代に滅亡した呉越の生き残り(韓人・倭人)が、さらに、ツングース系の扶余族(高句麗・百済)やモンゴル族(新羅)に追われて日本列島にやってきた二重の敗残者である。
これが「属国意識の源流~日本の支配階級に刻印された敗北思考(体裁思考)」 の理由ではないだろうか。
敗北主義にもかかわらず彼が生き延びることができたのは、流れ着いた先の日本列島は、圧倒的大多数を縄文人が占める平和な共同体社会とお上捨象体質だったからである。それをいいことに、彼ら伽耶勢力は日本に君臨することになった。
つまり、大和朝廷(伽耶勢力)とは、敗北思考にも拘わらず君臨するという、世界中でも稀に見る特異な性格の支配者なのである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2012/11/2410.html

2015年01月12日 (16:33)

仮説:出雲神話は倭国権民族の神話:天孫降臨・アマテラス神話は日本父権民族の神話

リンク等は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11976232153.html

仮説:出雲神話は倭国母権民族の神話:天孫降臨・アマテラス神話は日本父権民族の神話

テーマ:二つの日本民族:母権と父権:日本古代史

私は先に日本書紀を読んでいて、スサノヲは母権神話の英雄であり、また、当然、出雲神話が母権神話の源流と考えた。
 アマテラスは基本的には父権民族の神である。
 飯山一郎「大博士」の説くツングース族=扶余=百済日本民族起源説であるが、それは、私見では、日本母権民族と重なるのである。
 つまり、出雲神話と百済・日本母権民族は結びつくのである。
 そう、作業仮説として、扶余・百済⇒出雲と日本母権民族の国の流れがあり、日本母権国があったと思う。
 それに対して、天孫降臨の「アマテラス」を中心とする好戦的な日本父権民族が侵略してきたのである。私はそれは弥生民族を従えたユダヤ民族(中国系父権遊牧民族も入るかもしれない)だと仮説しているのである。
 分かりやすく言えば、古代日本とは、百済・出雲母権民族とユダヤ・ヤマト父権民族の闘争が行われた場であり、ほぼ後者の勝利を作為的に記述したものが日本書紀ではないだろうか。
 しかし、まったく父権民族が母権民族に対して勝利したということではなく、後者は実際、存続していたのではないだろうか。
 そう、端的に、日本書紀は、一つの役割として、母権民族の洗脳があったと思うし、それが、今日までも続いて、単一民族説を為していると思うのである。二つの異質な民族を見ないといけない。
 また、もう一つの役割は、大中国に対する日本国家権力の誇示にあったろう。

追記:日本父権民族を弥生民族を従えたユダヤ民族と仮説したが、以下からわかるように、出雲の遺跡は弥生中期である。それを考えると、弥生民族を従えていたのは、父権民族ではなく、母権民族ではなかっただろうか。それを、父権民族はあたかも自分たちが弥生民族(稲作民族)を従えたようなフィクションを日本書紀で作ったのではないだろうか。

参照:

* 日中韓三国通史
* 高句麗の歴史

参考:

倭国の時代 (ちくま文庫)/筑摩書房
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内容(「BOOK」データベースより)
日本建国以前の列島の状況を知るには、当時の文献の活用が欠かせない。しかしそのことが、さまざまな誤解を生んできたのも事実だ。本書では、中国大陸の政治動向が列島に及ぼした影響をたどることによって「魏志倭人伝」「日本書紀」の成立事情を解明し、卑弥呼の出現、倭国王家の成立から日本建国までの倭人の実像を、世界史的視点で描き出す。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
岡田/英弘
1931年東京都生まれ。東京大学文学部卒。57年『満文老档』の研究で日本学士院賞受賞。東京外国語大学名誉教授。その研究は中国史、モンゴル史、満洲史など広範にわたる(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)

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New! 【出雲学談義(4)】「出雲神話=虚構」は崩れ去った…空白地帯の山陰で青銅器が次々発見

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古代史を書き換える発見として注目を浴びた荒神谷遺跡(島根県出雲市提供)
 

 昭和59年夏のことであった。出雲市斐川町神庭(かんば)の谷奥の道路建設予定地から、358本という驚愕的な数の銅剣が発見された。そもそも出雲は青銅器文化の空白地帯とされ、ほとんど出土例はなかった。全国から出土した銅剣は約300本とされていたから、空白地帯のただ1カ所から出た数量は圧倒的であった。この遺跡は、付近に荒神が祀ってあったことから荒神谷(こうじんだに)遺跡と名づけられた。全国の熱いまなざしが荒神谷に注がれた。

 誰が、何のために埋めたのか。何故、整然と並べて埋めてあるのか。そして、最大の謎は、何故、神庭の谷の最奥部に埋められていたのか。

 翌60年の夏、再び荒神谷は熱気にわいた。前年出土した大量の銅剣のわずか右7メートルの地点から、今度は銅矛16本、銅鐸6個が発見されたのである。今回も数々の驚きがあったが、なんといっても最大の驚きは、銅矛・銅剣という武器型祭器と銅鐸という鳴り物祭器が同じ場所に埋納されていたということであった。

 荒神谷遺跡はいくつかの定説を覆すとともに、多くの謎を提示した。その謎はほとんど解明されないまま30年が過ぎた。ただ一つ言えることは、荒神谷を中心とする西出雲に、弥生中期頃、大きな政治勢力が存在していたのではないかということである。
2015年01月12日[ 産経WEST ]
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【出雲学談義(3)】「出雲神話」は政治性の強いフィクションだった?
 壬申の乱(672年)に勝利して樹立した天武天皇の中央集権国家において、その中核となったのは、天皇家の祖神アマテラス大神を祭る伊勢神宮である。その宗教的権威を高めようとするとき、邪魔になるのが大和の古い豪族たちが斎(いつ)く神々であった。この神々を何処かへ流し...
2014年12月14日[ 産経WEST ]
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【出雲学談義(2)】日本の代表的神話は「出雲」発なのに、平凡な遺跡が謎を呼ぶ
 ヨーロッパ人が日本人に対して、「われわれヨーロッパには、ギリシャ神話、ローマ神話などたくさんの神話があります。日本にも神話がありますか」と尋ねたら、おそらく日本人は憤然たる面持ちで、こう答えるだろう。「もちろんありますよ。日本はヨーロッパに劣らぬほど、長い歴...
2014年12月07日[ 産経WEST ]
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【出雲学談義(1)】下世話な話も飛びだす「無住法師」のような面白い説法を
 この作業をすすめるためには、歴史学をはじめ、関連諸科学の学際的研究が必要であるが、残念ながら、とても私にはそんな能力はない。だから、これから述べる内容は、極めて粗っぽいものになることは必定であるが、ただ、馬齢を重ねた者のわずかばかりの知識が、お役に立てばと思...
2014年11月30日[ 産経WEST ]

http://www.sankei.com/apr_news/images/v1/basic/logo_header_news.png

【萌える日本史講座】神話の世界 考古学界騒然「出雲王朝VS大和王権 ...
013.4.29 12:00 (1/6ページ)[萌える日本史講座]
荒神谷遺跡で見つかった銅鐸と銅矛。出土した状態でレプリカが公開されている=島根県出雲市

荒神谷遺跡で見つかった銅鐸と銅矛。出土した状態でレプリカが公開されている=島根県出雲市

 朝鮮半島などから土地を引き寄せて島根半島が出来上がったという「国引き神話」、オオクニヌシノミコトによる「国造り」に続く天照大御神(あまてらすおおみかみ)への「国譲り」…。日本誕生にまつわる数々の神話に彩られた神の国・出雲。実は考古学界では数十年前まで「神話だけの世界で実証性に乏しい」と軽視され続けた。昭和59年の荒神谷(こうじんだに)遺跡(島根県出雲市)での大量の銅剣や銅鐸(どうたく)発見で「出雲王朝論」が唱えられても、関西の学者たちは「大和勢力(畿内)が『僻地(へきち)』の出雲に埋めた」と主張。「出雲VS大和」は、古代だけでなく考古学界でもし烈な火花を散らした。5月10日は出雲大社の大遷宮。出雲神話が再び熱い。(小畑三秋)

 

論争ヒートアップ

 「荒神谷の発見は、出雲に巨大勢力の存在を示す画期的な成果だ。大和や九州と一線を画した出雲王国が存在した」

 「出雲に大量の青銅器を造る力はなかった。出土した銅剣や銅鐸などは、大和の勢力が、支配圏の最も縁辺部に埋めることで外敵の侵入を防ぐ祭祀(さいし)の役割があった」

 荒神谷遺跡から、国内の総出土数を上回る銅剣358本、さらに銅鐸6個と銅矛16本がセットで見つかって以来、各地で「青銅器の謎」をめぐる学会やシンポジウムが開かれ、そのたびに「出雲王国派」と「大和派」が議論を戦わせた。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/130429/wlf13042912000007-n1.htm

2015年01月06日 (09:34)

仮説:日本民族における、天照大神を介する二つの神の衝突:ヤハウェVS太陽女神(大日孁貴)

仮説:日本民族における、天照大神を介する二つの神の衝突:ヤハウェVS太陽女神(大日孁貴)

テーマ:『日本書紀』解読:日本民族の根源書を読む

『日本書紀』は今や第二巻(岩波文庫)に入った。垂仁天皇の記事を読んでる。狭穂姫(さほひめ)の悲劇が痛ましいが、素晴らしい。『平家物語』の白拍子、仏御前の物語で感動して以来の久々の感動である。
 とまれ、今言いたいのはそのことではない。もっとも、本質では関係するが。
 今、私の仮説は、先に、アマテラスは二神であると言ったが、そのことの発展である。
 即ち、アマテラスの二神とは、端的に、一つは父権神であり、それは、ヤハウェであり、一つは母権神であり、大日孁貴(おおひるめのむち)、または、日の神(日の大女神、太陽女神ないし太陽大女神)である。
 西洋民族の代表神と東洋民族の代表神が激突しているのが日本古代であり、『日本書紀』である。
 かつて古代において、世界中で、父権神と母権神の闘争が行われ、前者が後者を殲滅させるようにして、父権文明が誕生したのである。
 しかし、例外的に、地域があった。例えば、古代ギリシアである。そこは、アナトリア(今のトルコ)に接し、古代母権文化の協力な場所であるが、そこへ父権的遊牧民像が侵入して、母権と父権の大衝突が起きたのであるが、古代ギリシアは、父権優位とは言え、希有な母権と父権の結合文化を生んだのである。それは、ニーチェの天才的視点、アポロとディオニュソスに提示されている。そう、古代ギリシア、陰陽極性を形成したのである。
 その他は、アイルランドであろう。ケルト文化があり、それは、母権文化であるが、キリスト教と融合したのである。
 そして、三番目が古代日本である。
 私の仮説では、失われたイスラエルの十支族が日本に到来したのである。当然、ヤハウェ信仰をもっていたはずである。
 しかし、日本は、世界に稀なる長期な縄文時代を経ていた。それは、母権文化である。
 そして、飯山一郎「大博士」が説く日本民族ツングース族起源源流説を借りれば、ツングース族は太陽神母権文化をもっていたのであり、それが、私の唱える母権天皇文化の原点である。
 今思うに、ツングース族の太陽女神母権文化であるが、同時に、強力なシャーマニズム文化であったと思うのである。
 とまれ、縄文的土着シャーマニズム母権文化とツングース族太陽女神母権シャーマニズムが結合したのが、古代倭国母権文化である。
 そう、父権宗教の最勝であるヤハウェと母権宗教の最勝である太陽女神が衝突したのが、古代日本、『日本書記』ということである。
 そして、何が生まれたのか。それは古代天皇制である。
 それは、その宗教の主宰神は天照大神である。そして、それが、媒介となって、ヤハウェと太陽女神が衝突していると考えられるのである。
 ヤハウェが優位なときが、父権天皇制である。神武天皇、崇神天皇の御代である。
 しかし、太陽女神が優位なときが、例えば、上記した、狭穂姫悲劇であり、あるいは、豊玉姫の物語(海幸山幸の物語)である。
 そう、決定的なのは、伊勢神宮の起源である。
 岩波文庫の補注から引用したい。

「これらの諸学説は細部では異なる見解を示しているけれど、はじめは伊勢の地方神であった伊勢神宮が、紀[日本書紀]の所伝よりもはるかに新しい時期になってから皇室の神に転化した、と考える点では共通しており、その点に関するかぎり、今日学界の通説として認められているといってよい。記紀神代巻の天照大神が太陽神であるとともに皇祖神でもあるという二重の性格は、このような伊勢神宮の祭神の転化と考え合わせるとき、いっそうよく理解されよう。」 『日本書紀』(二) 351-2頁

この引用箇所の太陽神が私の言う太陽女神であり、皇祖神がヤハウェとなる。
 つまり、ヤハウェが天照大神の仮面をつけて、太陽女神をヤハウェ化しようとしているのである。その結果が古代天皇制である。
 しかし、日本という大地世界はあまりに太陽女神が強烈なのであるから、男性神を中心化することができなかったと言えよう。 
 これは、世界において、唯一の事象ではなかっただろうか。
 とまれ、天照大神という神の仮面を用いて、ヤハウェは、古代天皇制という支配システムを創るのに成功したと言えよう。
 そう、日本父権民族(弥生民族を従えたユダヤ民族)は、日本母権民族のアニミズム、シャーマニズム等の母権文化の破壊に取りかかったと言えよう。
 そう、それはほぼ成功したのではないだろうか。その結果、日本母権民族の精神・霊的世界観が破壊されたと言えよう。精神・霊的次元が忘れられて、物質・感覚・世俗的次元、あるいは、内在的感情次元が強調されていったと考えられるのである。
 分かりやすく言えば、氣の世界を喪失していったのである。

追記:古代インドのことを失念していた。古代インドもベースは母権文化であり、そこへいわゆるアーリア民族(今は、この言葉は違う意味になっている)、印欧語族が侵入したのである。
 生まれたのは、インド哲学である。ブラフマン(梵)が中心的神である。しかし、それは女神ではないのである。
 梵我一如というすばらしい哲学が生まれたが、大女神は消えているのである。ブラフマンこそ、大女神と見るべきなのである。
 そう、大女神文明は、端的に、古代エジプト文明と言えよう。イシス・オシリス神話が完全に大女神神話である。
 

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『日本書紀』の中でも、特に好きな部分です。
投稿者 e90j77gn 投稿日 2004/8/27
形式: 文庫

 第2巻には、第11代垂仁天皇から第20代安康天皇を収録しています。『日本書紀』の歴史観は、この巻で一つの画期を迎えます。つまり国内統一事業をほぼ終えて、いよいよ海外に進出し始める過渡期として描かれているのです。そのため、ヤマトタケルや神功皇后といった、皇位継承はしないけど、英雄的な活躍をする人物が登場するわけです。
 しかし、史実性を帯びてくる一方で、『日本書紀』の記述と実際の年代が一致しないという《紀年問題》も深刻に…。たとえば神功皇后の場合、皇后が摂政になってから死ぬまでは69年ですが、この69年間に起きたと述べられている海外の出来事を実際の年代に照らし合わせると、神功皇后は189年間摂政の地位にいたことに…。なぜこんなことになってしまったかというと、神功皇后を邪馬台国の女王卑弥呼に模したためらしいですが。
 ところで個人的には垂仁天皇が興味深かったです。皇后が謀反に手を貸すという悲劇が語られたり、伊勢神宮が創始されたり、古墳文化が始まったと述べられたり、民俗学などからも注目されている人物です。
 史実と伝説、あるいは史実と虚構の境界を散歩できる、面白い1冊です。

2015年01月03日 (00:39)

二神のアマテラス:『日本書紀』に日本民族の秘密が:『聖書』とホメロスの叙事詩と並ぶだろう

画像は以下を見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11972474237.html

二神のアマテラス:『日本書紀』に日本民族の秘密が:『聖書』とホメロスの叙事詩と並ぶだろう

テーマ:『日本書紀』解読:日本民族の根源書

今や、『日本書紀』に魅せられ、虜になっている(今風に言えば、ハマっている)。
 とまれ、主観的な修辞は止めて、端的に、真夜中過ぎに思いついたことを備忘録しよう。
 イザナキノミコト(伊弉諾尊)とイザナミノミコト(伊弉冉尊)は、創造する対極的根源神である。そして、彼らは、天神族(以下、天族)に属する。
 しかしながら、私は先に、イザナキを父権民族、イザナミを母権民族に配した。
 こう定置することは、実は、視点(パースペクティブ)の革命なのである。
 天族を実は、異質な二つのものに分化するからである。これは、いわば、脱構築である。
 つまり、天族は、地族とは本来別である。しかし、イザナキを父権民族、イザナミを母権民族とすることは、天族を天族と地族に分化することであり、天族はその時点で解体しているのである。
 つまり、天族はフィクションなのである。
 また、冥界から帰還したイザナキは、「みそぎ」によって多様な神々を生むが、アマテラス、ツクヨミ、スサノヲも生み出すのである。(追記:この箇所を引用する。「〔主語はイザナキである〕 然(しかう)して後に、左の眼を洗ひたまふ。因(よ)りて生める神を、号(なづ)けて天照大神(あまてらすおほみかみ)と曰(まう)す。復(また)右の眼を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて月読尊(つくよみのみこと)と曰す。復鼻(みはな)を洗ひたまふ。因りて生める神を、号けて素戔鳴尊(すさのをのみこと)と曰す。『日本書紀』(第1巻)48頁)
 しかしながら、ジョーゼフ・キャンベル的神話的解釈では、この神を産み出す、イザナキは、実は、母神的なのである。つまり、この場合、イザナミ的要素を帯びているということである。
 とまれ、天族と地族の結合によって、神々が誕生すると言えよう。
 問題は、アマテラスである。
 アマテラスは天族の主宰神である。しかるに、実は、地族的なものを背景にしているのである。
 とまれ、アマテラスは天族の代表、つまり、父権民族の代表の神である。これが、私の考える父権的天皇に通じるのである。
 しかるに、母権的天皇はどう考えたらいいのだろうか。
 その前に整理すると、PS陰陽哲理学から見ると、凹i=陰に当たるのは、イザナミであり、凸i=陽に当たるのはイザナキである。
 そして、両者の結合からある造化が起るのである。
 PS陰陽方程式凹i*凸i⇒±1から見ると、⇒+1は光であり、⇒-1が重力である。


        陽凸i
         |
         |
         |
         |
地-1___________MP_______________天+1
         |
         |
         |
         |
        陰凹i

     陰陽ガウス平面

 だから、太陽は⇒+1と関係する。そして、大地は⇒-1と関係する。私見では、前者は陰主導であり、後者は陽主導である。
 そして、前者は母権主義であり、後者は父権主義である。
 だから、天族的アマテラスは後者であると思うのである。
 そして、地族的アマテラスは前者である。地族=母権的アマテラスとは、いわば、陰主導の太陽である。
 それは、陰陽ガウス平面のMP=原点=交点に存するのである。(追記:この点は以下の考察から否定される。)
 『日本書紀』の天族・父権的アマテラスではない、地族・母権的アマテラスは『日本書紀』の何なのだろうか。
 今、思いつきで留めるが、それは、国生みの説話以後の山川草木、月日などを産む説話にある「日の神」、「大日孁貴(オオヒルメノムチ)」ではないだろうか。それは一書では、天照大神と、ある一書では、天照大日孁尊(アマテラスオオヒルメノミコト)と呼んでいる。
 しかし、私はこの「日の神」、「大日孁貴」、こそ、地族・母権的アマテラスだと思う。
 そして、これが、母権的天皇制に通じると思うのである。
 本文を引用したい。

《既にして、伊弉諾尊(イザナキノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)、共に議(はか)りて、曰(のたま)はく、
「我已(われすで)に大八洲国(オオヤシマノクニ)及び山川草木(ヤマカワクサキ)を生めリ。何(いかに)ぞ天下(あめした)の主者(きみたるもの)を生まざらむ」とのたまふ。是(ここ)に、共に日の神を生みまつります。大日孁貴(オオヒルメノムチ)と号(まう)す。・・・ 一書に云はく、天照大神といふ。一書云はく、天照大日孁尊といふ。此の子、光華明彩(ひかりうるは)しくして、六合(くに)の内に照り徹る。故(かれ)、二(ふたはしら)の神喜びて曰(のたま)はく、「吾が息(こ)多(さわ)あれと雖(いへど)も、未だ若此霊(かくくしび)に異(あや)しき児有らず。久しく此の国に留めてまつるべからず。自づから当(まさ)に早(すみやか)に天(あめ)に送(おくりまつ)りて、授(さづ)くるに天上(あめ)の事を以(も)てすべし」とのたまふ。》 『日本書紀』(第1巻)34頁

(追記:この箇所の「日の神」、大日孁貴(オオヒルメノムチ)である「アマテラス」がある一方、上記(上述の青色の追記を参照)にあるように、明らかに、イザナギの居る黄泉の国から帰還して、穢れを濯ぐイザナキの身体から、ツクヨミ、スサノヲとともに「アマテラス」が生まれるのである。
 この二つの事柄は明らかに矛盾である。一方において、イザナキとイザナミが協力して、「天照大神」である「日の神」、大日孁貴を生んでいるのに対して、他方では、イザナキの「ミソギ」によって、「天照大神」が生まれているのである。)

さて、最後に陰陽ガウス平面を本文に合わせて変形すると、以下のようになる。


            陽凸i(イザナキ)
               |
               |
               |
               |
父権天照-1______________MP_____________日の神+1(母権天照)
               |
               |
               |
               |
            陰凹i(イザナミ)

        陰陽ガウス平面(『日本書紀』版)

追記:思うに、本当のアマテラスは、霊的アマテラスでなくてはならないだろう。しかし、『日本書紀』のアマテラスは霊的というよりも、物質的な太陽光である。
 しかし、日の神、大日孁貴は、霊的意味合いが感じられるのである。
 思うに、征服民族である父権民族は、霊的太陽であるアマテラスを利用して、父権的太陽=物質的太陽としてのアマテラス像を構築したのではなかったろうか。
 それは、権力的太陽神像である。

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5つ星のうち 4.0 なぜ神話は広範に日本をカバーしているのでしょう, 2007/10/5
投稿者
DJ LINDSAY (山口県周南市) - レビューをすべて見る
レビュー対象商品: 日本書紀〈1〉 (岩波文庫) (文庫)
 日本書紀にはなぞがいくらかあります。日本の国生み神話が、島を生むこと自体大陸を意識しています。そこでまずスサノオがなぜ出雲に降り立ったのか、ヤマト中心の世界観とは反します。出雲に一大勢力があったことが神話上証明されたことになるのではないでしょうか。神無月には神々が出雲に集まります。
 天孫降臨はなぜ高千穂なんでしょう。天岩戸も高千穂にあるとされています。九州が神話に取り込まれています。九州にも勢力があったのでしょう。神武天皇の日向の国からヤマトへの東征は何を表しているのでしょうか。ヤマトが日本という国、日本という国号自体音読みで、訓読みに直せばヒノモトですが、これ自体、中国、朝鮮を意識した名称なんですが、を統合する過程を表しているのではないでしょうか。古事記ではヤタガラスが天つ神を導いて国つ神に引き合わせるという場面がありますが、なぜからすなんでしょう。そういう日本の国の成り立ちを神話から想像すること自体楽しいのではないでしょうか。
 途中で突然海幸彦と山幸彦の逸話が出てきますが、古事記、日本書紀が日本に伝わる数々の神話を集めたものであることがわかるのではないでしょうか。
 日本書紀は聖書のように、天孫降臨、天岩戸の高千穂とか、スサノオの八岐大蛇の出雲とか、神武東征の日向、ヤマトとか大まかな地域名は出てきますが、もっと細かい具体的な地名は出てきません。かなり曖昧です。その辺が解釈の分かれる元でしょう。 

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  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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