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2005年11月08日 (00:45)

靖国問題:脱靖国神社

後で検討したいが、靖国神社信仰は、1.民間の祖霊信仰に、2.国民国家主義、3.一神教的天皇制、4.軍国主義のイデオロギーが重なったものであった(ある)。だから、とても複雑で難しい問題である。この四つの要素・差異が連続化しているのである。政治家が靖国参拝する問題は、4に関わるからである。4の問題をクリアしない限り、解決しない。
 ここで、直観から述べよう。問題は、「英霊」の問題である。これは、ナショナリズムのフレーム・前提から発している。ここが問題である。太平洋戦争を、ナショナリズムの視点ではなくて、インターナショナリズムの視点から見ることが前提である。インターナショナリズム的民主主義の視点である。だから、英霊は「英霊」である。「お国のため」である。現象学的還元をしないといけない。エポケー(判断停止)である。ここから、靖国問題を見ないといけない。ここで、アジア、アメリカ他と日本が共通の基盤に立つことができる。太平洋戦争とは何であったのか。これは、近代国家的資本主義のもたらした世界戦争である。近代主義の戦争である。つまり、国民国家イデオロギー、国民国家主体性に起因するものである。ここに批判を加えないといけない。これは、連続・同一性主義である。これを批判解体しないといけない。「英霊」は、アジア他に、甚大な被害をもたらしたことは事実である。これは非難すべき点である。「お国のため」は国家主義のイデオロギーである。しかし、それに応じた戦死した若者の心には、真率なものがあったであろう。ここが問題である。この戦死した若者の真率な心をどうするかである。これは、利用された事柄ではあるが、その心性の真率性は疑えない。(勿論、批判はできるが)
 ここに、答えなくては、この問題は解決しないだろう。これは、不連続的差異論から見ると、基本的にはイデア界の問題であるが、それに連続主義が関係している。だから、イデア界心性として、それらを評価すべきであり、同時に、軍国主義的には、批判すべきである。だから、やはり、イデア界「神社」に彼らを祭り、同時に、歴史的には、軍国主義批判ということで、靖国神社批判を行なうべきである。心的には矛盾するようなことを為さなくてはならないのである。とまれ、脱靖国神社である。イデア界「神社」参拝ならいいだろう。
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2005年10月21日 (15:00)

靖国問題の哲学試論:ポスト・ナショナリズムとしての個人主義

国民国家的ナショナリズムにしろ、封建的ナショナリズムにしろ、ナショナリズム(民族主義)の発生構造は何だろうか。不連続的差異論から見ると、民族とは何だろうか。これは、これまで、あまり考察して来なかった問題だが、宗教問題に関して、ナショナリズムに言及した。日本の場合、国学が、キリスト教・一神教的要素を取り入れて、日本に天皇一神教のイデオロギーを形成したと考えられ、それが、明治維新の国民国家に帰結したと考えられる。問題点は、明治国家を形成した天皇一神教イデオロギーと日本民衆の宗教性である。私見では、日本民衆の宗教性は、受動的な自然崇拝が中心であり、ここでは、一神教、多神教というような区別はあまり意味をなさないと考えられる。基本は受動的な自然崇拝だと思う。神仏習合はそのような意味があると考えられる。
 だから、日本のナショナリズムと言ったとき、それは、このような宗教性を背景にした民族を考えなくてはならないだろう。受動的自然崇拝であるが、これは、受動感情であるから、反動性をもつだろう。つまり、主体的意識は欠落している。また、感情とは、何だろうか。これは、メディア界における心身一体性における感覚反応の一つであるが、それは、知的意識を連続・同一性化する一種非合理主義的事象である。それは、差異の連続・同一性化の一種であると考えられる。差異の溶解である。これは、対象との連続・同一性化である。一種神秘主義と言ってもいいだろう。即ち、感情のもつ対象との連続・同一性化である。ここでさらに欲望との連鎖を考えると、感情・欲望は、正に、文化人類学者ルネ・ジラールのいう模倣欲望暴力につながるだろう。
 ということで、日本のナショナリズムの基盤として、民衆の受動感情性、メディア界的対象連続・同一性の「欲望」を見ることができた。この基盤の上に、権力への意志が生じて、ナショナリズムになると言えよう。もう少し、丁寧に見ると、ここで、言論、言説、メディア等が重要な働きをするだろう。即ち、その基盤に上に、イデオロギーの枠組み、網が投げられて、基盤の受動感情が加工されて、ナショナリズムになるのである。内在的メディア界に外在的メディア界が働き掛けて、イデオロギーとしてのナショナリズムが生じるのである。(先の衆院選挙が典型的であろう。)
 ならば、現代、ナショナリズムからの解放が必要と考えられるので、それをどうしたらいいのか考えると、ここでは、現象学的還元やスピノザ的能動的観念や仏教の解脱方法等が必要である。私見では、個人の感情への能動的意識化が必要である。自分の感情へ知性を測深させることである。そして、自己感情を理性的に分析することである。そこには、おぞましい感情が渦巻いているはずである。これをある意味で、解消しないといけない。感情に知性のメスを入れないといけない。そして、感情をコントロールするようにしないといけない。東洋の身体論はそれに役立つだろう。結局、ナショナリズムの超克とは、主体の能動化、主体の知的能動化を意味するだろう。では、それによって、ナショナリズムはどう変容するのだろうか。
 主体の知的能動化ないし現象学的還元によって、ナショナリズムは解体して、個化されるだろう。コギト化されるだろう。個人主義化するだろう。個人と民族、国家の間に境界、距離が生まれるのである。この個人主義は、国際主義に通じるのである。それは、靖国問題を解決するだろう。なぜならば、もはや、個人は、A級戦犯、戦没者、「英霊」と連続・同一性化していなからであり、第二次世界大戦に対して、公平な目をもって、考察するだろうからである。アジアの犠牲者に対しても、公正であることができるのである。これは、個人主義的国際民主主義である。

p.s. 日本民衆の宗教として、自然崇拝の他に、アニミズム、シャーマニズムを当然考えなくてはならないが、それら三者、メディア界の事象であると考えることができる。御霊信仰もあるが、それは、シャーマニズムの派生と考えられる。結局、メディア界宗教として、日本民衆の宗教を捉えればいいだろう。ただし、仏教や神道は、本来、イデア界的であるとしないといけない。しかし、日本民衆において、それが、集団的表象(メディア界)に溶け込んでいて、劣弱なものになってしまっていると考えられる。明治維新革命は、イデア界的である。小泉首相も、反動ではあるが、イデア界につながっているようだ。

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