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2005年10月22日 (17:09)

近代的二元論を超えて:認識的存在論・存在的認識論:超知性体理論的資本主義⇒生活世界

思惟と延長というデカルトの二元論。スピノザは、それを、心身平行論という形で、統合化した。しかし、不連続的差異論から見ると、それは、やはり、二元論である。ここで、フッサール現象学を考慮する必要がある。それは、近代的二元論を超克する哲学・理論であるからだ。近代的二元論をエポケー(判断停止)して、根源の「主観性」である志向性を取り出したのである。これは、カントの超越論的形式論をはるかに超えている。カントのは、いわば、形相論に過ぎない。それに対して、フッサールは、形相論より根源的な世界を取り出したのである。それは、不連続的差異論から見ると、イデア界である。イデア界における不連続的差異の作用をフッサールは指摘したのである。「主観性」とは、実際は、超主観性・超客観性であり、いわば、根源性と言うべきものである。根源性ではまだあいまいなので、もっと明確すると、ある不連続的差異の、他の不連続的差異に対する、志向性(指向性)である。いきなり、結論を言ってしまったが、これまで、この領域を、融合的統一体として捉えてきたと言えよう。西田哲学の絶対矛盾的自己同一であるが、これは、まだ、イデア界に達していない学説のように思える。自己同一となるのは、メディア界ないしイデア界とメディア界の境界(IM境界)においてである。イデア界には、同一性はないのである。ただ、不連続的差異性があるだけである。不連続的差異の共存・共立性があるだけである。
 さて、本論に戻ると、フッサールの志向性とは、イデア界における不連続的差異の志向性ということになる。即ち、「主観性」とは、イデア界の「主観性」=志向性である。そして、この「主観性」とは、存在的且つ認識的である。私はこれまで、仮説的に、知即存在と呼んだが、それは間違っていないだろう。換言すると、フッサール現象学はすでに、ハイデガーの存在論を内包していると言えよう。私見では、ハイデガーは独創的というよりは、フッサールの必然的展開に過ぎないのである。独創的天才性(大天才性)はフッサールにある。つけ加えると、ドゥルーズ&ガタリの内在平面という考え方も、実は、この展開である。ただし、彼らは、ニーチェやフッサールが逃れていた連続論をおぞましくも取り込んでしまったのである。(やはり、躓きの石は、ハイデガーだろう。ハイデガーの存在論的差異とは、フッサールの「主観性」の単独性・特異性を喪失しているのだ。思えば、ハイデガーはニーチェを形而上学者と呼んでいるが、これはまったくの錯誤であろう。ニーチェはポスト形而上学者である。私も昔、勘違いしたものだが。そう、ニーチェの絶対的不連続性をハイデガーは形而上学的次元と見たのではないだろうか。ニーチェは、内在的な絶対的不連続性を説いているのであり、それは、不連続的差異論的である。)ここで、現象学とポスト構造主義の問題がある。フッサールからハイデガーへの展開とは、極論すれば、理論的後退と見るべきである。ハイデガーはいかがわしいように思える。存在論的指向は、すでに、フッサールの「主観性」にあるのである。これは、テクストを読めば、わかることである。そして、後退した現象学を受けて、ポスト構造主義が起こったと言えよう。だから、後者は必然的に後退した理論なのである。つまり、ニーチェ/フッサールという不連続的差異論の先駆から後退しているということである。
 ということで、フッサールの「主観性」は、存在かつ認識(認識即存在)、知即存在というものと考えられる。【だから、フッサールの生活世界とは、イデア界的な社会である。それは、青年マルクスの個体的生活(「共産主義」)に通じるだろう。そう、若きマルクスもイデア界に通じていたのであるが、それが、後年、構造主義に退化した。つまり、メディア界的構造主義であり、イデア界的創造主義ではない。因みに、資本主義は、必然的に、このイデア界的生活世界に向かうだろう。これは、長い道のりではあるが。永遠革命、長い革命。】
 思うに、このイデア界が、本当の量子論の世界ではないだろうか。粒子/波動の相補性とは、メディア界的なものである。超ひも理論とかツイスティ理論とかは、思うに、イデア界的発想である。また、インテリジェント・デザイン論もそうである。イデア界が転じてメディア界になり、そこに、前「粒子」と前「波動」が生起して、現象化するということではないだろうか。そう、重力も同様に考えられないか。すなわち、差異連結体の差異の側面が重力に関係するのではないか。そして、強度は光の方に関係するのだろう。つまり、量子論的重力論があり、それと相対性理論とが相補性をなすと言えるではないだろうか。すると、量子論的重力論的相対性理論である。
 さて、結局、近代的二元論の超克としての不連続的差異論であり、それは、新しい知即存在、認識即存在という理論を提起している。物質とは何か。それは、知即存在、認識即存在の一面に過ぎないのであり、精神も同様である。根本は、知=存在、認識=存在という根源である。これを、何と名づけようか。不連続的差異、イデアであるが、もっと簡明にすると、知存在、認識存在であろうか。知存、認存、知有、知在、識有、識存、識在等々である。超越論的知的存在である。もし、神という言葉が使えるならば、それは、これを指しているだろう。確かに、全知全能ではあるが、これは、デュナミスとしてである。エネルゲイアとしてではないだろう。とまれ、超知存在である。超インテリジェンスである。そう、スーパー・インテリジェンスである。超知、超智である。超知性体である。超知性体理論である。  
 最後に、付加すると、これと資本主義はどう関係するだろうか。資本主義は、差異を創造しないといけないから、結局、この超知性体理論に行く着くはずである。超知性体理論的資本主義である。しかし、こうなると、まさに、フッサールの生活世界となるだろう。
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