2005年10月25日 (21:37)
イデア界とイデア・メディア境界とメディア界の区別:神の死と聖霊エコミューン
うまくまとまらない。問題点は、イデア界とイデア・メディア境界とメディア界を明確に区別していないことにあるだろう。ここで、整理しよう。
1.イデア界の回転がある。
2.イデア・メディア境界において連続性が発生する。
3.メディア界は基本的には、連続性の領域である。
宗教表象は、イデア・メディア界IMBにおいて生じると考えるべきである。だから、イデア界の事象は、そこで表象される。1/4回転は、IMBにおいて多神教となる。2/4回転は、IMBにおいて、一神教となる。もっとも、ここでは、IMBからイデア界が志向される。そして、3/4回転では、IMBにおいて、キリスト教となる。これは、イデア界から現象界への志向である。そして、4/4回転では、IMBにおいて、「新自由主義」になる。しかし、これは、一時的な表象である。
問題は、IMBにおける弁証法が形成されることである。これは、人間の知覚構造に起因すると言えるだろう。人間の知覚は、メディア界に起因するから、基本的には、せいぜい、IMBにしか達しない。とまれ、「新自由主義」は、やはり、IMBの弁証法をもった作用である。これまでの、連続性を否定するのである。社会主義、社会民主主義、官営資本主義を否定するのである。しかし、本源は、イデア界であり、差異共存志向性である。これが本当の原動力である。これが、反動的に、弁証法的に、新自由主義となるのだ。本体が認識されていないのである。
これは、近代主義の問題である。近代的二元論の問題である。思うに、3/4回転のイデア・メディア境界IMBにおいて、連続作用が生起するが、このとき、思うに、イデア界が連続・同一性化されるのではないか。ここは、キリスト教の発生期である。つまり、イデア界が連続・同一性かつ自我化される。ここで、思うに、不連続的差異が根本的に喪失されるのだ。父=子。イデア界=現象界。つまり、現象界の知覚が基礎となるのだ。イデア界がここで喪失されるのだ。つまり、キリスト教によって、イデア界が喪失されるのである。だから、一神教である新自由主義は、イデア界的次元の意識をもっていない。現象界のみである。少なくとも、イデア・メディア界の境界における弁証法の反動になっているが、それは、イデア界の共存性を欠いているのである。つまり、新自由主義は、聖霊=差異共存志向性を欠いている。聖霊とは、フッサールの相互主観性であろう。新自由主義は、本当に、闇である。ブラックホールである。壁を超える聖霊が不在である。キリスト教によって、聖霊が排出されている。これは、近代主義で決定的になった。
しかし、現代哲学は、イデア界を説いているのである。これは、聖霊の風を意味しよう。当然、現代は、聖霊の時代である。これを現象化しないといけない。聖霊の息吹、聖霊実践。聖霊共存自由経済。新しい社会民主主義があるならば、ここからしかないだろう。神は死んだのであるから。
1.イデア界の回転がある。
2.イデア・メディア境界において連続性が発生する。
3.メディア界は基本的には、連続性の領域である。
宗教表象は、イデア・メディア界IMBにおいて生じると考えるべきである。だから、イデア界の事象は、そこで表象される。1/4回転は、IMBにおいて多神教となる。2/4回転は、IMBにおいて、一神教となる。もっとも、ここでは、IMBからイデア界が志向される。そして、3/4回転では、IMBにおいて、キリスト教となる。これは、イデア界から現象界への志向である。そして、4/4回転では、IMBにおいて、「新自由主義」になる。しかし、これは、一時的な表象である。
問題は、IMBにおける弁証法が形成されることである。これは、人間の知覚構造に起因すると言えるだろう。人間の知覚は、メディア界に起因するから、基本的には、せいぜい、IMBにしか達しない。とまれ、「新自由主義」は、やはり、IMBの弁証法をもった作用である。これまでの、連続性を否定するのである。社会主義、社会民主主義、官営資本主義を否定するのである。しかし、本源は、イデア界であり、差異共存志向性である。これが本当の原動力である。これが、反動的に、弁証法的に、新自由主義となるのだ。本体が認識されていないのである。
これは、近代主義の問題である。近代的二元論の問題である。思うに、3/4回転のイデア・メディア境界IMBにおいて、連続作用が生起するが、このとき、思うに、イデア界が連続・同一性化されるのではないか。ここは、キリスト教の発生期である。つまり、イデア界が連続・同一性かつ自我化される。ここで、思うに、不連続的差異が根本的に喪失されるのだ。父=子。イデア界=現象界。つまり、現象界の知覚が基礎となるのだ。イデア界がここで喪失されるのだ。つまり、キリスト教によって、イデア界が喪失されるのである。だから、一神教である新自由主義は、イデア界的次元の意識をもっていない。現象界のみである。少なくとも、イデア・メディア界の境界における弁証法の反動になっているが、それは、イデア界の共存性を欠いているのである。つまり、新自由主義は、聖霊=差異共存志向性を欠いている。聖霊とは、フッサールの相互主観性であろう。新自由主義は、本当に、闇である。ブラックホールである。壁を超える聖霊が不在である。キリスト教によって、聖霊が排出されている。これは、近代主義で決定的になった。
しかし、現代哲学は、イデア界を説いているのである。これは、聖霊の風を意味しよう。当然、現代は、聖霊の時代である。これを現象化しないといけない。聖霊の息吹、聖霊実践。聖霊共存自由経済。新しい社会民主主義があるならば、ここからしかないだろう。神は死んだのであるから。
