--年--月--日 (--:--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2009年12月11日 (21:23)

今や真剣にトランス・モダン経済を考え、実施すべきときである

終身雇用制度とは、連続的な共同体経済制度だと思う。
 思うに、マルクスの言ったプロレアリアートとは、本当は、不連続的差異=絶対的差異と見るべきである。
 しかし、マルクスはシュティルナーに似て、それらを連続化、ないしは、連合化してしまったのである。
 マルクスには、キルケゴール/ニーチェの発想が欠けていたのである。これは、プルードンでも同様である。
 端的に、社会主義、共産主義的発想には、絶対的差異の発想が欠落しているのである。
 もっとも、近代資本主義も同様であるが。
 現代、絶対的差異の社会経済が必要なのである。言い換えると、絶対的差異の社会共振経済である。
 ここでは、絶対的差異の価値を単位とするのである。企業の利益は、差異共振的価値そのものであり、例えば、株主の持ち分は、差異共振的価値の一部に妥当するに過ぎない。例えば、株主の収入を一億円とすると、その一億円とは、同一性価値ではなく、差異共振価値の一億円である。社会共同体的負荷のある一億円である。
 第一義的には、企業の従業員の生活を保持すべきような賃金を設定すべきである。
 そう、個的自由共同体としての企業にならなくてはならないのである。共同体である企業である。
 

****************************

「終身雇用崩壊」は最近の話じゃないぞ! 日本の転職の歴史を振り返る【昭和50~60年代】

2009年12月11日09時00分 / 提供:CAREERZine
CAREERZine
 「日本型雇用の特徴の1つであった、終身雇用制度もついに崩壊…」とはよく言われることですが、本当に「ついに」なのでしょうか。どうやら30年ほど前にも、そんな話はあったようで…。■バブル期なら転職先も山ほど…と思いきや 前回に続いて、文献から読み解く転職の歴史編です。今回は昭和50~60年代。

記事全文
スポンサーサイト

2005年10月25日 (21:37)

イデア界とイデア・メディア境界とメディア界の区別:神の死と聖霊エコミューン

うまくまとまらない。問題点は、イデア界とイデア・メディア境界とメディア界を明確に区別していないことにあるだろう。ここで、整理しよう。

1.イデア界の回転がある。
2.イデア・メディア境界において連続性が発生する。
3.メディア界は基本的には、連続性の領域である。

宗教表象は、イデア・メディア界IMBにおいて生じると考えるべきである。だから、イデア界の事象は、そこで表象される。1/4回転は、IMBにおいて多神教となる。2/4回転は、IMBにおいて、一神教となる。もっとも、ここでは、IMBからイデア界が志向される。そして、3/4回転では、IMBにおいて、キリスト教となる。これは、イデア界から現象界への志向である。そして、4/4回転では、IMBにおいて、「新自由主義」になる。しかし、これは、一時的な表象である。
 問題は、IMBにおける弁証法が形成されることである。これは、人間の知覚構造に起因すると言えるだろう。人間の知覚は、メディア界に起因するから、基本的には、せいぜい、IMBにしか達しない。とまれ、「新自由主義」は、やはり、IMBの弁証法をもった作用である。これまでの、連続性を否定するのである。社会主義、社会民主主義、官営資本主義を否定するのである。しかし、本源は、イデア界であり、差異共存志向性である。これが本当の原動力である。これが、反動的に、弁証法的に、新自由主義となるのだ。本体が認識されていないのである。
 これは、近代主義の問題である。近代的二元論の問題である。思うに、3/4回転のイデア・メディア境界IMBにおいて、連続作用が生起するが、このとき、思うに、イデア界が連続・同一性化されるのではないか。ここは、キリスト教の発生期である。つまり、イデア界が連続・同一性かつ自我化される。ここで、思うに、不連続的差異が根本的に喪失されるのだ。父=子。イデア界=現象界。つまり、現象界の知覚が基礎となるのだ。イデア界がここで喪失されるのだ。つまり、キリスト教によって、イデア界が喪失されるのである。だから、一神教である新自由主義は、イデア界的次元の意識をもっていない。現象界のみである。少なくとも、イデア・メディア界の境界における弁証法の反動になっているが、それは、イデア界の共存性を欠いているのである。つまり、新自由主義は、聖霊=差異共存志向性を欠いている。聖霊とは、フッサールの相互主観性であろう。新自由主義は、本当に、闇である。ブラックホールである。壁を超える聖霊が不在である。キリスト教によって、聖霊が排出されている。これは、近代主義で決定的になった。
 しかし、現代哲学は、イデア界を説いているのである。これは、聖霊の風を意味しよう。当然、現代は、聖霊の時代である。これを現象化しないといけない。聖霊の息吹、聖霊実践。聖霊共存自由経済。新しい社会民主主義があるならば、ここからしかないだろう。神は死んだのであるから。

2005年10月24日 (18:02)

新自由主義と社会民主主義の反動性:不連続的差異自由共存経済へ向けて

先に、両者、IM境界の弁証法の内にあると述べたが、もう一度整理したい。つまり、新自由主義が社会民主主義・社会主義に対する「反発」はどういう事象なのか。市場原理主義という理屈ではなくて、その力学を見たい。つまり、水平的連続性に対する反発ということになるが、その起点である。先に、imbの矛盾同一性にそれを求めた。 
 ここで、もう一度確認しよう。imbは、不連続的差異性と連続的差異性との矛盾同一領域である。差異共存性とは、前者にあるのであり、後者には、差異連結性ないし差異連続性が生起している。新自由主義は、社会民主主義、社会主義のような水平的連続性を「憎んで」いる。それは、新自由主義が、市場原理主義という不連続性を志向することから来ていると考えられよう。しかし、この不連続性とは何だろうか。これは、市場に参入する個体(法人を含めて)の不連続性のことである。この点で、不連続的差異性と言ってもいいかもしれない。そう、だから、新自由主義において、不連続的差異の共存性がある意味で成立しているのだ。しかし、この共存は前提としてあるのであり、結果は、弱肉強食である。だから、結果は、非共存である。つまり、自由競争である。この不連続性であるが、先の論では、imbを基軸にして、イデア界における垂直的不連続性の反作用が原因であると述べたが、ここは、難問である。イデア界で、垂直的不連続性の反作用は、絶対的独立性を志向する。それは、イデア/メディア境界において、水平的連結・連続性を否定・排斥するだろう。反連続性である。問題は、差異共存性、差異共存志向性である。これが、そのとき、どうなるのかである。連結・連続性とは、もともと、不連続的差異の水平的共存性によって形成されたものである。だから、イデア/メディア境界imbにおいて、連結・連続性とは、水平的共存性と結びついていたのである。しかし、垂直的不連続性が作用(反作用)するとき、この水平的共存性が弱化し、また、連結・連続性も否定されるのである。この時、連結・連続性への否定・排斥とは、思うに、水平的共存性を忘失するのではないだろうか。つまり、イデア界の反作用が生起している事態である。それは、水平共存の極から垂直独立の極への転換である。つまり、共存から独立への志向である。揺り戻しである。だから、共存から生まれた連結・連続性は解体していくだろう。もっとも、共存性自体はなくならない。
 私は先にこの点で、反動という言葉を用いたがどうなのだろうか。つまり、一神教からの視点でそうなったのである。一神教と新自由主義とが結びついていると判断して、反動を考えたのである。一神教とは、垂直性と水平性との統合、つまり、矛盾同一であるが、必然的に生じる多神教を排斥しようとするのであるからである。つまり、新自由主義を、矛盾同一において捉えようとしたのである。思うに、この考えの方が適切である。なぜなら、イデア界の垂直的不連続性は、純粋な力(虚力)であり、それは、新自由主義には当てはまらないからだ。新自由主義は利己・自我主義であるから、連続・同一性をそれなりにもっている。しかし、社会民主主義、社会主義のような水平的連続性はもっていない。いわば、垂直的連続性はある。だから、新自由主義は、矛盾同一における反動と見るのが正しく、それは、共存性を否定してしまうのである。イデア界における差異の反作用は共存性を否定はしない。何故なら、不連続性と共存性は相補性だからである。イデア・メディア境界imbの矛盾同一性において、弁証法が形成されて、二律背反・二項対立的になるのである。即ち、新自由主義は、社会民主主義、社会主義を否定するのである。そして、後者は前者を否定するのである。
 しかし、実際は、不連続的差異自由共存経済を志向すべきである。それは、新自由主義と社会民主主義の弁証法の超克である。自由共存市場のようなものが必要となるのではないだろうか。

p.s. 自由共存資本主義である。つまり、現在の自由資本ではなくて、自由共存資本にするのである。自由共存資本市場が成立するのである。だから、自由共存資本経営を行なうようになればいいのではないだろうか。自由共存資本産業である。農林水産業、福祉医療学校等はこのようにすべきではないだろうか。また、エネルギー産業もこのようにすべきではないか。脱原発として、自由共存資本エネルギー産業である。Liberal Coexistence Capitalism. Liberal Difference-Coexistence Capitalism.

2005年10月24日 (00:49)

IM境界の枢軸性:連続性(社会主義)とアンチ連続性(新自由主義)の弁証法の彼岸としての不連続的共存性

後で、検討したいが、簡単に触れると、諸問題のかなめは、イデア界とメディア界の境界、IM境界、IMBにあると言えよう。この「絶対矛盾的自己同一」の領域において、様々な混乱、混同、混沌が生じるのである。この「カオスモス」を明快明確に提起できただけでも、不連続的差異論のパラダイムの変換的画期性(第三のコペルニクス的転回)があると言わなくてはならない。とまれ、ここで、弁証法が生起するのである。資本主義と社会主義、一元論と多元論、一神教と多神教、等々。ドゥルーズ哲学もそうである。ライプニッツ、ベンヤミンもそうだろう。そして、ニーチェでさえ、ここに捉えられている。ここから脱却しているのは、プラトンとフッサール、そして、デカルトくらいかもしれない。
 経済で言えば、新自由主義は、市場原理主義であるが、それは、IM境界における連続性の反動であり、アンチ連続性であり、不連続性を志向するが、それは不明快である。また、社会民主主義も、IM境界から発しているが、それは、水平的連続主義となっている。ニーチェの憎んだ同情主義である。これが、癒着を生むのである。しかし、ここには、差異性があるのだろうか。平等主義は同一性主義である。ここに民主主義の問題がある。つまり、社会民主主義は差異から、差異共存性から発しているのか。これは、サルトルにも関係するだろう。社会主義の問題、それは、差異、差異共存性から発しているのか。そう、起源的には、正義を求めていているので、差異共存性があるのだろうが、しかし、それは、連続・同一性に覆われてしまい、自我化している。例えば、共産党のように。ドグマ化である。差異が隠蔽されているのだ。社会主義は、差異への反動性をもっている。やはり、IM境界の矛盾同一性に捕らえられているのだ。新自由主義は、その点、市場原理主義なので、社会主義よりは、不連続性の志向が強い。もっとも、連続性への反動性の側面が強い。結局、両者、IM境界の弁証法の内にある。そこから抜け出せないのだ。問題は、差異、不連続性、共存性を解放することである。今の私の予見を言うと、差異共存的コミュニティと新自由主義的有産階級とに二分化するのではないだろうか。何か、キリスト教誕生前夜になってきた。前者は、おそらく、地方、地域、マイノリティにおいて、形成される。一種コミューンである。後者は、いわゆる、ブルジョワである。この階層二分化が生じるだろう。たぶん、資本家の中でも、前者に共感する者が出てくるだろう。そして、徐々に、差異共存経済コミューンが増加するだろう。それは、他のものと共存するだろう。共存・共立・共生ネットワークが形成されるだろう。

2005年10月23日 (15:42)

一神教と多神教の構造について:イデア界の相補的力学:新自由主義から差異共存主義へ

問題点を整理しよう。一神教の起点は何処に有るのかである。

1)イデア界内部
2)イデア界とメディア界の境界、IM境界
3)メディア界と現象界の境界、MP境界

一神教はなんらかの反動、反作用だと思う。歴史的に、多神教の後からである。多神教は、差異共存性をもっている。だから、それは、イデア界の差異共存性から発していると考えられる。そして、それが、メディア界化して、連結性をもち、現象界と連続化する。
 それに対して、一神教は、多神教を否定する意志をもつ。自己絶対的である。他者を排斥する。これは、差異共存性への否定である。これをイデア界の否定と見るのか、それとも、イデア界内部の反動と見るのかが問題である。最近以前までは、これは、イデア界の否定ないし反動と見てきた。しかし、先に、イデア界内部の力学として、差異共存志向性への否定としての絶対的不連続性と見た。また、より以前には、メディア界と現象界の境界における連続・同一性化において、反動性を見た。
 ここで思考実験をしよう。先ず、2が正しいとしよう。その場合、境界で、反転が起こり、イデア界が隠蔽される。つまり、イデア界とメディア界の境界で、多を否定する一の志向が発動するということになる。それは、やはり、自我主義的志向がなくてはならないだろう。すなわち、二つの境界における連続化が連動しなくては、一神教化が起こらないだろう。
IM境界において、差異共存性と差異連結性の矛盾的同一が生起する。そして、一神教は差異共存性を排斥する。この力学が問題である。この両義性に対して、メディア界と現象界の境界、mp境界において、連続・同一性化が生起する。これは、自我化である。この時、im境界の二重性のうちの、差異共存性が排出・隠蔽されるのではないか。ということは、im境界の差異共存性が否定され、差異連結性が肯定されて、自我化されるということになる。しかし、差異共存の否定とは言え、それは、元々存在しているので、一神教は差異共存的多神教を否定しようとするのである。差異共存への否定・排斥の意志があるのである。これが、一神教の破壊主義・戦争主義であろう(ヤハウェ主義)。ということで、これは、2と3の連動ということであった。
 では、1の場合を考えよう。これは、先に述べたように、イデア界の垂直性(不連続性)と水平性(共存性)との相補性力学から見るものであり、メディア界化が水平化によるものであるのに対して、それへの反作用として、垂直化が起こり、共存性や連続性の破壊が生起するということである。問題は、共存性と連続性の関係である。これは、やはり、im境界(略して、imbとしよう。即ち、im-boundaryの略である。)において、共存性と連続性との矛盾的同一・即非が生起する。このいわば混淆が現象界において生起する(例えば、社会主義)。それに対して、イデア界の差異は絶対的不連続性である。これは、この混淆状態に対して、非、否を唱えるだろう。絶対的不連続性を主唱する(新自由主義)。しかし、このイデア界内部から発する力は、基本的には相補的である。確かに、絶対的であるが、差異共存性を完全否定はできない。ただ、連続性を否定できるだけである。旧約聖書を見て、ヤハウェが異教を排斥しようと努力しているということは、異教は究極的には否定できないということを意味しよう。つまり、やはり、垂直性と水平性との対極的争闘がここにあるということになるだろう。一神教と多神教との相補的争闘が。結局、一神教は、連続性を否定するのであり、共存性は否定さることはできない。というか。一神教自体、多神教そのものと言えるのである。ここで、D.H.ロレンスが最晩年に書いた『アポカリプスの補遺』を想起する。そこで、ロレンスは、旧約聖書は多神教的であると明言しているのである。つまり、一神教=多神教なのである。ただ、相補的争闘の関係にあるということである。
 以上のように考えると、一神教は反動ではなくて、反作用であるということになるだろう。(反動と反作用の違いであるが、前者は作用を押さえ込むのであり、反作用は作用から必然的に発生する純粋な力である。)

 さて、以上、二つの思考実験をしてみた。

1.二つの境界の連動、反動的連動
2.イデア界の相補的力学の作用・反作用

この二つの結論が出たのであるが、どちらが正しいのだろうか。1は従来の考えであった。2は最近の考えである。今の直観では、2の方がやはり、正しいように思える。また、その方が、簡潔であり、明快である。なぜならが、1の場合、反動がうまく説明できないからである。この点、かつて、高貴な差異、劣弱な差異云々のような区別、あるいは、自然力の豊かさ、乏しさの相違というような考えを提起したが、それは、必ずしも、整合的ではない。しかし、2ならば、極めて整合的に説明できるのである。細部、各論は無視して、大局、総論を見るならば、2の方が優れていると判断できる。
 だから、先にも述べたが、一神教、絶対的不連続性、新自由主義は、差異共存性を内在していると考えることができるのである。これは、ニーチェ/フッサール哲学の力学である。新自由主義はニーチェ的であるが、同時に、それは、フッサールを内在している。即ち、差異共存共創主義である。結局、これは、繰り返すが、個体差異自由共存経済(イデア界経済学)を意味する。初期マルクスの個体経済学である。悪魔は天使を潜在させている。
 では、これをイデア界=ガウス平面で考えるとどうなるだろうか。1/4回転は、水平化・多神教化であろう。そして、それに対して、垂直力が作用・反作用する。これが、2/4回転を生む。これは、一神教化であるが、しかし、共存性を内在している。そして、さらに、3/4回転して、新たな多神教化となる。そして、再び、4/4回転して、原点回帰となる。これは、一神教化であるが、しかし、共存性を内在している。
 ならば、問題は、原点の一神教=差異共存性である。これは、正に、イデア界の原点である。差異共存性が一神教となるのである。即ち、正しく言えば、一神教とは絶対的不連続性のことである。思えば、ニーチェが新約聖書を罵倒、愚弄し、旧約聖書やナポレオン等を賛美、肯定していたことを想起する。これは、一神教というよりは、絶対的不連続性の肯定と見るべきである。そして、力への意志も同様に理解すべきであろう。しかし、これは、同時に、共存性(志向性)が潜在していることを認識・確認しないといけない。絶対的不連続性/共存性なのである。この点は、本当はフッサールが『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』で説いていることである。そこには、絶対的不連続性/共存性の相互主観性(間主観性)が説かれているのである。そして、生活世界とは、初期マルクスの「共産主義」である。しかし、これは、共同主義とすべきである。(差異共存主義である。)結局、新自由主義は、差異から発動しているのであり、それは、差異共存へと志向するのである。差異の開花であり、ルネサンスのルネサンスである。

p.s. 思うに、1と2とを結合させた見方の方がよくはないかと思った。イデア界の不連続性の反作用が生起する。それは、共存/連結/連続化を否定する。この時の「自我」の問題である。不連続性の反作用はヤハウェの「われ」である。これが、反作用というよりは、反動に「見える」のである。ここは微妙な、重大な問題である。水平力の発動に対して、垂直力の反作用が生じる。これは自然である。垂直力が発動すると、それは、水平力の発現に対して、反発するように見えるのである。反動のように見えるのである。そう、旧約聖書のヤハウェは猛烈に嫉妬深いのである。このルサンチマン(怨恨)はどこから発するのか。単に、反作用ならば、それは生じないのではないだろうか。どうして、嫉むのか。嫉みが発生するのは、同一視があるからである。同一性があるからである。つまり、もし、純粋な不連続性ならば、嫉みは生じるはずがない。だから、ヤハウェは、同一性を帯びているのである。だから、同一性を帯びた不連続性という混淆がヤハウェにはある。これは、やはり、IM境界的事象に関係するように思う。つまり、IM境界(imb)における、作用と反作用であろう。水平作用は、連結・連続化へと進展し、現象化する。しかし、ここでの反作用は、両義的になる。即ち、水平的連結・連続化への反作用であるが、この境界imbは、矛盾同一(西田哲学の絶対矛盾的自己同一)なので、反作用は、イデア界の作用/反作用のようには、純粋にはならずに、混淆・混同的になるのである。だからこそ、ヤハウェは偏執的に嫉妬深いのである。ということは、一神教の発生構造とは、イデア界の垂直/水平力の相補力学と同時に、IM境界における垂直/水平力の矛盾的同一性に基づくと言えるだろう。すると、結論が変化して、一神教発生構造とは、イデア界内部とIM境界との複合性によると考えられることとなる。
 すると、一神教である新自由主義はどうなるだろうか。それは、やはり、純粋ではない。差異共存性に対して、嫉みをもっているのだ。差異共存性への言わば、ルサンチマンがある。ここを脱却しないといけない。脱新自由主義である。ポスト新自由主義である。これは、ポスト構造主義、とりわけ、ドゥルーズの混乱と通ずるものがある。思うに、ニーチェ哲学も、そのような面があるだろう。差異共存への嫉みがあるだろう。本当は、不連続性への純粋化が必要なのだ。差異共存への嫉みと怨恨があるのだ。だから、新自由主義も早晩、社会主義的となるだろう。革命のもつ弁証法がある。
 では、どうしたらいいのだろうか。理論的には、IM境界、imbから脱することである。imbにおける垂直的反動が、水平的システム(国家)を嫉み、市場原理主義を生んでいるのである。しかし、この嫉妬は、水平的システムと一体(同一性)だから、国家主義的になる。独裁的になるだろう。市場原理国家独裁主義である。ポイントは、イデア界の垂直性、不連続性である。これは、本来、差異共存志向をもつのである。ここで、端折って言えば、自由市場性と差異共存システムの相補的システムが必然であるということである。これまでの公共投資型資本主義、官営資本主義、社会主義的資本主義は、水平主義であり、垂直を排してきた。しかし、新自由主義は反動であり、今度は、水平性を排して、垂直主義である。つまり、社会主義(社会民主主義)と自由主義との自己同一的な二元論、弁証法がここにあるのであり、両者の超克はここではありえない。二元論的反復があるのみである。だから、本質は、この弁証法から脱出することである。つまり、イデア界の差異の不連続的共存性を肯定する経済を志向すべきであるということである。これは、差異共存的自由市場経済システムということになるだろう。差異共存と自由市場との相補経済である。共同主義と資本主義の統一である。それは、自由共存資本主義であろう。自由共存主義である。自由共存資本市場が成立するだろう。共存資本である。これによって、新自由主義と社会民主主義との弁証法から脱出できるだろう。

2005年10月23日 (02:20)

個体差異自由共存経済と輪廻転生

差異への志向とは、これは、イデア界への志向である。それは、自我に囚われた多くの衆生には、理解できないものである。仏教の空とは、イデア界を指向している。しかし、差異への志向を早く悟った者たちもこの世にはいる。かれらは、いわば、差異者である。覚醒者である。目覚めた者、仏陀である。しかし、現世、娑婆に染まったどん欲な者たちは、輪廻転生を経て、差異覚醒へと転化するのではないだろうか。とまれ、輪廻転生を経て、人類は、個体差異自由共存経済を構築するようになるだろう。これが、初期マルクスの共産主義であろう。
 とまれ、現世では、悟らぬ、度し難き縁なき衆生は、来世で学習し、仏陀となるだろう。それは、個体差異自由共存経済へと向かうだろう。そう、仏陀とは、また、イデア界の力のことだろう。不連続的差異の共存体が仏陀であろう。華厳宇宙とはイデア界のことだろう。阿弥陀如来もイデア界であり、仏陀である。光背、後光とは、イデア界の超光のことだろう。浄土もイデア界である。曼荼羅もイデア界のことだろう。
 思うに、悟り覚醒した仏陀は、死んだとき、何処へ行くのだろうか。凡人は輪廻転生を繰り返す。仏陀は、イデア界へ回帰するのだろう。思うに、一つ一つの差異が仏陀ではないだろうか。多数、無数の仏陀たち。イエス教では、父の国だ。エデンの園。思うに、仏陀たちの力が現世に作用しているのではないか。そうだろう。イデア界の力、仏陀たちの力が現世、現象界に作用しているだろう。これが、現世を個体差異自由共存経済へと向かわせると言えるだろう。

2005年10月23日 (00:54)

ポスト新自由主義へ向けて:単純利己主義から相互利己主義へ:個体差異自由経済=個体差異共存経済

新自由主義とは、資本主義の純粋化である。国家の規制を最小として、市場原理を絶対とするのである。しかし、市場とは何かである。というか、それ以前に、交換価値とは何かを考えなくてはならない。これは、量的価値であり、マルクスが説いたように、一般的価値であるが、しかし、単に一般的価値だけではなくて、個人の力と結びついた価値であろう。つまり、これは、イデア界と結びついていると考えられるのではないだろうか。そう、交換価値とは、きわめて、現象界的である。あるいは、自然的である。不連続的差異の連続・同一性化である現象界と一致すると言えよう。自然のもつ仮象性と結びついているだろう。だから、これを解体するのは容易ではない。それは、いわば、反自然的行為が必要である。資本主義、新自由主義は自然なのである。そして、この自然は、破壊的なのである。エントロピーの増加である。死へと邁進している。結局、新自由主義は、自然のいわば摂理である。破壊的自然である。ここで、シェイクスピアの『リア王』のグロースターの私生児エドマンドを想起する。彼とゴネリルとリーガンが「新自由主義」的自然である。この破壊衝動は何なのだろうか。これは、一神教的衝動である。ヤハウェ的衝動である。我有り有りて、有り余れるものなり。これは、イデア界の過剰、イデア・エネルゲイア、ディオニュソス的なものである。小泉首相はディオニュソス的である。私はこれまで、一神教的衝動を反動として捉えてきた。しかし、連続・同一性という自然のシステムから見たら、反動ではないのではないだろうか。ならば、多神教はどうなるのだろうか。
 ここで、再点検しよう。イデア界とメディア界の境界、IM境界で、最初の連続化が起こる。そして、メディア界と現象界との境界、MP境界で、自我化が完成するだろう。しかし、ここで、多様性を自我統合しようとするだろう。自我中心的に、他者を統括しようとするのである。だから、多神教と一神教との「差異」とは、このメディア界と現象界との境界、MP境界にあると言えるだろう。両者、IM境界は共通である。しかし、MP境界において、相違が生じる。多神教は、IM境界の差異共存性を肯定しつつ、「自己実現」する。つまり、MP境界は、形式⇒個体現象というようになる。しかし、一神教においては、捩れが入るのである。差異共存性を捩じ伏せるようにして、自我統合を図るのである。この捩じ伏せが問題点である。この起点はどこなのか。もし、差異共存志向性があれば、それを捩じ伏せないといけないだろう。だから、この起点は、MP境界ではなくて、IM境界となるだろう。ここで、作業仮説であるが、IM境界において、90度回転に対する反動が生じるとしよう。それは、メディア界化に対する反動・反作用である。つまり、差異共存から差異連結化への反動・反作用である。つまり、不連続的差異性の反作用ではないか。これが、一神教の起源・震源・起動点ではないだろうか。水平化に対する垂直化の反動・反作用・反発である。だから、差異共存性に基づくメディア界的多様性である多神教を否定しようとするのではないだろか。つまり、これは、ガウス平面で言えば、さらに90度回転ということで、180度回転、1/2回転ではないだろうか。しかし、さらに、これが、90度回転するだろう。270度回転、3/4回転である。これは、新たな差異共存/差異連結化であり、これからさらに90度回転して、4/4回転で、回帰する。つまり、根源の起源回帰である。
 とまれ、一神教とは以上のようなものとするならば、差異共存性を破壊し、無、カオスへと向かう。というか、連続・同一性を破壊するのであり、差異を志向しているのである。連続・同一性を徹底的に破壊するのである。それは、新たな差異共存性を志向していると言えるだろう。
 ここで、経済に適用すると、一神教とは新自由主義であり、それは、連続・同一性である国家資本主義、官営資本主義、社会主義的資本主義を破壊する。その市場主義とは、不連続性の志向である。そして、その不連続性は、差異共存性を志向するに違いない。その差異共存的経済とは何だろうか。それは、個体的差異に基づく経済である。若きマルクスの経済学だろう。フッサールの生活世界である。ロレンスの『死んだ男』である。折口の『死者の書』である。個体的差異を単位とする経済である。それは、IBMのような企業では実際起こっている事象である。個体的差異的経済である。そのための、市場経済である。新自由主義は、個体差異的自由経済を内在・潜在している。悪魔の新自由主義は、天使の個体差異自由経済を内在させているのだ。結局、私が言う差異共存主義とは、このことではないだろうか。個体差異自由経済が、差異共存主義ではないか。個体差異は明らかに、共存共創するだろう。なぜなら、差異はそういうものだからだ。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

Appendix


ブログ内検索
RSSフィード
リンク
このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。