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2007年11月03日 (11:21)

差異と同一性の世界最終戦争としての現代のカオス:新多神教と旧一神教の大戦争

現代のカオスは、非常に簡単に定式化できると思う。一見、アメリカ一極主義とEU、ロシア、中国等の多極主義との闘争に見えるが、それは、表面的ないしは一時的であると考えられる。私見では超巨大資本層によるグローバリゼーションと、差異共振的脱資本主義との大闘争、それも、世界最終戦争(ハルマゲドン)であると考えられる。
 簡潔に言えば、差異と同一性との闘争なのである。後期近代/ポスト・モダンの現代にあって、偉大な差異が回帰しているのである。これが、これまでの同一性の王国(帝国)を揺るがしているのである。この差異と同一性との争いにおいて、多様な力が発生しているのである。差異という超大地震が地球を襲っているのである。これは、単発ではなく、永続する地震である。波動・振動である。電磁波である。あるいは、霊的なものと言ってもいい。
 この偉大な差異の発動によって、同一性のあらゆる仕組みが解体・瓦解・崩壊の危機にあるのである(正確に言うと、同一性中心主義ということであるが)。例えば、今日、社会に蔓延しているうつ病等の精神病は、これが根因・起因・原因であると考えられるし、あまりに無惨な、凶悪犯罪も同様であると考えられる。また、小泉似非改革現象もそうであったし、また、イラク侵略戦争もそうであった。
 言い換えると、狂気、大狂気、超狂気が世界を襲っているとも言えるのである。
 差異、差異共振性、Media Pointの女王・大女神・太母が、今や、復活しようとしているのである。父権的一神教の世界は滅びつつあるのである。後で、もう少し詳述したい。
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2007年11月01日 (20:25)

Media Pointと同一性の関係:プロテスタンティズムにおける超越性と同一性の関係

本件の問題を最近は追求しているが、既に解決済みと思っていたが、簡単には済まない。結局、Media Pointから差異が同一性へと転換するときの様相の問題である。
 私はイタリア・ルネサンスが差異の発動であり、その後の差異の展開はプロテスタンティズムであると述べた。差異の発動とは、新たなMedia Pointの賦活であると考えられる。超越界=イデア界において、おそらく、新たな回転が生起して、Media Pointが新たに活性化したと考えられる。即ち、Media Point=i*(-i)において、A) i→-iとB) -i→iとが発動したと考えられる。この両面が混淆ないしは未分化様態であったのが、イタリア・ルネサンスであったと思われる。
 私は先に、iが能動性ないしは父権性であり、-iが受動性ないしは母権性ではないかと提示した。これを作業仮説とするなら、Aは、能動性であり、Bは受動性である。そして、iには形相性、-iには質料性を考えると(これも作業仮説)、Aは能動的同一性の形成、Bは受動的身体性の形成を意味するのではないだろうか。
 以上の作業仮説から、次に、プロテスタンティズムを考えると、それは、Aが主導的になったキリスト教であると考えられる。
 問題は、A主導における神性とは何か、である。Media Pointにおける超越的エネルゲイアから、A主導性は駆動されていると考えられる。問題は、Media Pointの超越的エネルゲイア(以下、超越的エネルギー)は、差異共振・差異即非に拠るのであるから、プロテスタンティズムの神性のエネルギーも、それに拠ると考えられる。そう、これまで、私はプロテスタンティズムはルネサンスを否定的に内包していると述べてきたが、ルネサンスの内包とは、この差異共振・差異即非を意味すると言えよう。
 ということで、プロテスタンティズムはMedia Pointの超越的エネルギーに賦活・駆動されていると考えられる。しかしながら、問題は、A主導的であるということである。これは、差異を否定する同一性衝動であるから、プロテスタンティズムは、自己否定的に発展すると言えよう。差異共振エネルギーに駆動された同一性衝動である。
 そして、近代の進展とともに、近代合理主義と結合して、根源のMedia Point=差異共振エネルギーを喪失していったと考えられる。いわば、プロテスタンティズム近代合理主義の形成である。そして、これに自由主義と民主主義が結合して、西洋近代主義が完成すると言えよう。
 もっとも、自由とは起源的には、ルネサンスのMedia Pointから発しているし、民主主義は、起源的には、絶対王制に対するプロテスタンティズム的市民(資本家を含めた)の権利意識から発したと言えよう。つまり、民主主義は、キリスト教的であるということであり、これは、やはり、ルネサンスをベースにしたプロテスタンティズムの近代的自我意識に基づくと考えられる。
 だから、簡潔に言えば、西洋近代主義はルネサンス/プロテスタンティズムと近代合理主義(近代科学・技術)の結合によると言えるだろう。
 結局、根源のMedia Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーを近代主義は喪失していくのであるが、その換わりに、いわば、同一性的力動(力学)を強化していくと考えられる。
 これはどういうことなのだろうか。これは、端的に、超越的エネルギーが、同一性エネルギーに転換するということだろう。同一性エネルギーとは、おそらく、物質エネルギーと言っていいのではないだろうか。というか、力である。物質的力に変換するのだと思う。能動的な力ないしは暴力、権力である。
 では、この超越性から同一性への転換において、神性はどうなるのだろうか。そう、同一性への転換において、神性はどうなるのか。初期においては、 Media Pointの差異共振エネルギー=超越的エネルギーが発動しているが、これが、同一性エネルギー=力へ転換するとは、基本的には、根源の神性を喪失するということになる。そして、これが、欧米近代化においって発生したことだろう。
 しかしながら、根源の神性とは、Media Pointの超越的エネルギーのことである。そして、これは、確かに、同一性衝動へと転化したと言えよう。
 だから、問題は、超越的エネルギーと同一性衝動の関係である。前者はすべて後者へと転化したということなのだろうか。それとも、後者においても、前者は残っているのであろうか。
 ここでも直感で考えよう。つまり、根源の超越的エネルギーが、同一性力動に転化されるということは、基本的には、根源の超越的エネルギーは残っているのであるが、それが変質する、変化するということなのである。
 この超越性⇒同一性エネルギー(超越性/同一性エネルギー)がプロテスタンティズム的力動であると考えられる。この超越性⇒同一性の様相がプロテスタンティズム的一神教の様態であると考えられるのである。
 問題は、超越性が同一性へと変換してしまい、Media Pointの差異共振性が喪失されることである。つまり、個人主義化されるが、ここには、差異、差異共振性が喪失されるのである。絶対性があるが、それが、個人主義化すなわち近代的自我化されるのである。そして、これこそ、ハイデガーの本来的存在を意味しよう。そして、また、ニーチェの超人(否定的に見た場合)も意味するだろう。ここには、傍若無人な、非社会的な、そう、ホッブズ的な個人があるのである。シェイクスピアで言えば、『リア王』のエドマンド、ゴネリル、リーガンであろう。
 ユダヤ/キリスト教はプロテスタンティズムに帰結したと言えよう。ここでは、イエス・キリストの本来の教え(差異共振性と考えられる。仏教と同じである。)は喪失されて、ユダヤ/キリスト教的一神教の自我の力学が実現したと言えよう。
 結局、プロテスタンティズムとは、ルネサンスから発して、ルネサンス的差異共振性の否定・排除・隠蔽であるということである。そして、このプロテスタンティズムが資本主義と融合しているのである。つまり、唯一神と資本とが一体化しているのである。これは、いわば、絶対的同一性=資本主義であり、差異=他者を否定する暴力・破壊・悪魔主義と言えるのである。
 ここでは、資本が唯一神であり、資本を妨害する差異は排除されるのである。しかしながら、ユダヤ/キリスト教的資本主義が鈍感にも理解していないことは、資本=同一性は、差異(差異共振性)がなければ、発生しないことである。企業とは、差異共振性がなければ、創造性・協力性がなく、成り立ち行かないのである。
 結局、ここには、暴力・破壊・悪魔的なユダヤ/キリスト教的資本主義の乗り越えとして、差異共振的トランス・キャピタリズムが発現する必然性があると言えよう。トランス・モダン政治経済である。

2006年09月14日 (18:33)

正気教へ向けて:キリスト教が、現代の狂気の原因である

現代日本の狂気は、また、世界の狂気は、はっきり言って、キリスト教が原因であると私は考える。キリスト狂である。あるいは、ユダヤ・キリスト狂である。なぜなら、これは、自我狂であるからである。古代の叡知は、プラトンや仏教を含めて、自我からの脱却を説いているのである。しかるに、ユダヤ・キリスト狂は、自我狂なのである。このために、日本や世界は、狂っているのである。狂気の神である、ヤハウェは。グノーシス主義は、世界の神は、邪悪な神としたが、世界の神ではなくて、ユダヤ・キリスト狂の神は、狂気の神だと思う。狂気神が、ユダヤ・キリスト狂の神である。
 狂気の神が、世界を動かしているのである。正気の神はいないのか。ポスト・ユダヤ・キリスト狂としての正気教が必要だ。
 
狂気の神からの脱出。
出狂気神である。

問題は、なぜ、狂気の神が信仰されるようになったのかである。邪教信仰である。あるいは、何故、狂気が必要とされるのかである。それは、欲望のためだろう。自我欲望の満足のために、狂気が必要となったのだと思う。仏教は、これからの脱却を説いたのである。また、プラトン哲学も、共通しているだろう。しかるに、ユダヤ・キリスト狂は、自我狂である。そう、イデアの反転としてのヤハウェ狂気神があるだろう。
 どうも、はやり、ニーチェのキリスト教批判は正しいように思う。賎民の宗教である。賎民の反乱である。賎民たちの反乱としての、狂気神信仰であろう。ならば、ユダヤ・キリスト狂とは、退化の宗教ではないのか。人類の退化を意味する宗教ではないのか。そうすると、この二千何百年と、人類は退化しているということになるだろう。
 ジョージ・ハリスンが、クリシュナ神に祈ったのは、正しいのだ。今や、進化のための宗教が必要であろう。進化のための叡知が必要であろう。正気の進化のために。

2006年08月30日 (03:06)

連続・同一性自我は、何故、全体主義的になるのか:自我絶対的暴力とは内在超越的暴力・狂気である。

これについては、ある意味では、検討済みではあるが、ここで、明確にしたい。
 連続・同一性自我・近代的自我は、差異・他者を否定・排除する。この否定・排除の暴力の度合いが問題なのである。狂気の暴力である。凶暴性があるのであるが、これは、全体主義的なのである。つまり、自我絶対的なのである。そう、これを問題にしたいのである。自我絶対的な暴力が、ここにはあるのである。この自我絶対的暴力の絶対性がどこから発しているのかである。父権暴力と言ってもいい。アメリカ国家暴力と言ってもいい。
 これは、根本から考えなくてはならない。即ち、極性エネルギーにおいて、プラス・エネルギーが連続・同一性志向性となると、これまで、考えてきた(仮説)。プラス・エネルギーが連続・同一性自我、換言すると、近代的自我を形成すると言える。すると、同一性自我・近代的自我とは、本来、超越的であるのがわかる。つまり、超越次元、コスモス次元から発動しているのであるから。この典型が、ヤハウェである。ヤハウェが、プラス・エネルギーによる連続・同一性自我の典型的表現だと考えられよう。超越神となるのは、正しいのである。不連続的差異論で言うメディア界という内在超越(超越論)界から発しているからである。そう、同一性自我暴力とは、言わば、内在超越的暴力であり、神的暴力なのである。私は、近代的自我を狂気と呼んできたが、ここから見ると、その狂気とは、内在超越的暴力であると解明できるのである。

ancient days

 これで、ようやく、この問題に、究極的に結論が出たような感じがある。近代的自我・近代合理主義について、これまで、おそらく、何百回と議論してきて、それなりに解明を試みてきた。これまでの、結論は、複合的なもので、粗差異とプラス・エネルギーの複合と見てきたのである。これは、これなりに正しいのであるが、ここでの究明によって、これが、内在超越次元の暴力狂気であることが明確になったのである。神的狂気、一神教的狂気、ヤハウェ的狂気ということになったのである。
 近代的自我の暴力・狂気とは、内在超越的・父権一神教的・ヤハウェ的狂気なのである。形而上学的暴力・狂気なのである。近代主義とは、明確に、形而上学的なのである。そう、だから、近代的自我の問題は、通常の理性・知性では解決しないのである。形而上学的事象なので、形而上学的解決が必要なのである。そう、結局、近代主義を形而上学的に解明する必要があるのである。そして、これは、新イデア論である不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論によってこそ、なされ得るのである。なぜなら、現代において、形而上学ないし哲学は、ほぼ壊滅状態であり、近代主義・近代的自我・近代合理主義を、批判的超克ができないからである。

p.s. これで、小泉首相の「狂気」も完璧に説明できるだろう。

p.p.s. 資本主義批判も、この根底から為され得るだろう。交換価値=貨幣経済とは、やはり、この形而上学・内在超越構造(ほぼ、カントの超越論的形式、あるいは、構造主義の構造に相当する)から発しているのであり、この構造を解体しない限り、暴力を振るうと言えよう。結局、資本主義は、この内在超越的暴力・狂気と結びついているのである。この内在超越的連続・同一性構造の脱構造化・解体・「脱構築」が必須である。これによって、差異共振シナジー経済・ポスト資本主義が可能となると考えられるのである。不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が、この革命をもたらすだろう。内在超越論的連続・同一性自我=近代的自我の解体なくして、人類の未来はないだろう。ポスト近代的自我としての差異共振シナジー自我への変容が必須である。人類進化の黎明が、これで、もたらされるだろう。

注:画像The Ancient of Days by William Blakeは、以下からのものです。
http://www.ibiblio.org/wm/paint/auth/blake/
WebMuseum
Blake, William
© 14 Oct 2002, Nicolas Pioch - Top - Up - Info

2006年08月01日 (00:13)

一神教と近代主義について:一神教と近代主義のポジティブな面は何か:超越神と内在的超越性

一神教と近代主義について:一神教と近代主義のポジティブな面は何か:超越神と内在的超越性
テーマ:一神教/多神教
Mon, July 31, 2006 20:38:37
旧約聖書から見る限り、ヤハウェは、ユダヤ民族が、偶像崇拝を行っているのを忌み嫌い、懲らしめたのである。金牛の崇拝、バアル神崇拝、等々を憎悪して、超越唯一神である自分を崇拝するように、強制したのである。
 バアル神崇拝等は、多神教、自然宗教と考えられるのである。おそらく、母権的な女神崇拝もあったと思われるのである。
 さて、もし、一神教が生まれなかったら、どういうことになったのであろうか。ユダヤ民族は、偶像崇拝、多神教、自然崇拝、母権制を維持したのであろう。偶像崇拝を考えよう。これは、日本で言えば、御神体崇拝である。山岳を御神体とする信仰は日本では普通である。現在でも、奈良の三輪(みわ)山は、大神(おおみわ)神社の御神体である。これを、ヤハウェは禁じたと考えればわかりやすいだろう。これは、超越神か否かの問題である。内在的神を、ヤハウェは禁じたということになる。(スピノザの神即自然は、内在的神を説いているので、ユダヤ教の逆鱗に触れたということで、スピノザは破門されたということだろう。)
 問題は、超越性である。あるいは、内在性である。私は、神が存在するなら、内在的超越性のものと考えていたのであり、超越神の考えは、まったく、考えられなかったのである。三輪山が御神体であるという神道は、内在的超越神の宗教であると言えるだろう。
 ここで、新プラトン・シナジー理論から考えると、超越とは、虚軸・Y軸の問題となるのである。思うに、実軸・X軸から見ると、Y軸・虚軸は、零度の位置にあるので、存在するような、しないような、不確定の存在である。(量子・素粒子とは、実は、この領域の物質的反映であると考えられる。)そして、連続・同一性中心主義になると、完全に、Y軸・虚軸は消えてしまうだろう。あるいは、無意識の内に、抑圧・削除してしまうのである。
 ここで、日本人の宗教心を考えると、結局、内在的超越信仰・多神教は、実際のところ、日本人の意識から、ほぼ消えてしまったと言えるだろう。開発主義やゴミや汚染で自然が破壊された国土を見れば、瞭然である。結局、ある意味では、キリスト教の国の方が環境対策は進んでいるのである。とくに、ヨーロッパであるが。アメリカの国土は広く、環境破壊が目立たないのではないだろうか。イギリスのナショナル・トラストは、自然を保護しているだろう。
 とまれ、内在的超越神信仰は、消えゆく必然性があり、超越一神教の方が、進歩的であることを仮に認めよう。思うに、これは、自我形成の歩みを反映しているように思うのである。前者は、情感的であるが、後者は契約的である。ロゴス・言語的である。
 ということで、大雑把ではあるが、超越一神教は、自我とロゴスの形成においてポジティブであったと言えよう。
 次に、近代主義であるが、これも複雑であるが、ここでは、近代合理主義としての近代主義を考えたい。これは、ルネサンス的個人主義を前提にした、超越一神教の個人主義化と、おおまかには、言えるのではないだろうか。超越性とは、ロゴスが引き受けているのだろう。だから、超越的ロゴス・理性・合理性である。
 最後に検討したいのは、消えた内在的超越性と超越神性との比較である。内在的超越性は、多者においては、消滅する必然性にあったのであるが、優れた少数者においては、継続したと言えよう。哲学で言えば、スピノザ哲学である。また、文学・芸術では、ロマン主義や象徴主義等になったと言えよう。そして,キリスト教は、実は、微妙である。イエス・キリストという具体像が、内在的超越性を喚起しないとは言えないからである。だから、キリスト教とは、内在的超越性と超越神性との中間態であると言えるだろう。
 私が考える内在的超越性とは、実は、差異共振性のことである。これは、連続・同一性や自我の発達にともない、衰退する傾向にあるのだろう。連続・同一性主義・自我中心主義が、差異共振性を否定・排除・隠蔽してしまうのである。新プラトン・シナジー理論は、差異共振性を主唱するのであるが、それは、内在的超越性の復活を意味するのである。当然ながら、それは、かつての多神教ではありえない。これは、ポスト連続・同一性中心主義・ポスト近代主義・ポスト近代自我主義を意味するのである。つまり、西洋文明の極限から反転して発生する内在的超越性を意味するのである。言い換えれば、ポスト一神教としての内在的超越性であり、新たな内在的超越性である。この力学は何であろうか。
 それは、一言で言えば、差異である。特異性としての差異である。それは、正しくは、不連続的差異、絶対的差異に基づく力学である。ここには、近代の正統性の問題があるのであるが、私見では、近代は、イタリア・ルネサンスにおける差異の発動が起点なのである。それは、特異性としての差異、不連続的差異としての差異の発動である。それは、実は、イデア界から発動・起動・作動しているものと考えられる。そして、宗教改革によって、差異が、超越神的に否定・排除・隠蔽されるのである。つまり、新たな内在的超越性の超越神化が宗教改革にあったと考えられるのである。そうだ、近代(原近代と呼ぶ)は、新内在的超越性=不連続的差異の発動の新時代であったと考えられるのである。これを、似非近代主義=近代合理主義が、隠蔽していったのである。しかるに、正統近代(例えば、哲学では、ニーチェやフッサールである)とは、これを批判的に見るのである。この鬱勃たる内在的超越性=不連続的差異性が、不滅である。結局、近代合理主義とは、新内在的超越性=不連続的差異性を、超越神的合理主義で否定・排除・隠蔽したものであろう。似非・近代主義なのである。プロテスタンティズムは、イタリア・ルネサンスの差異主義に対する父権的反動と正当に呼べるのである。これは、換言すれば、差異共振性に対する反動なのである。Y軸・虚軸への反動なのである。これを、執拗に否定・排除・隠蔽せんとするのである。これを魔女狩り的に攻撃するのである。さらに、換言すると、差異共振性とは、キリスト教では、聖霊に当たるのである。純粋に、聖霊を肯定すると、実は、キリスト教会が崩壊・瓦解・解体するのである。聖霊は差異共振性であり、内在的超越性であるから、超越神宗教を破壊するのである。西洋文化・文明は、超越神性のために、差異共振性を否定・抑圧・排除・排出・隠蔽してきたのである。
 ここで、簡単に整理すると、超越一神教・近代主義のポジティブな面は、自我や合理主義を形成したことにある。しかし、同時に、差異共振性を排斥してきたのであり、そのため、今日、地球世界は、絶滅の危機にあるのである。そう、超越一神教がなければ、近代合理主義が発達しなかったであろう。そして、それは、反転的に、アイロニー的に、逆説的に、差異共振性=新内在的超越性を示唆ないし指示しているのである。そう、近代合理主義がなければ、パソコンもなかったのである。
 さて、ここで、ついでながら、いわば、おまけとして、バッハ音楽やバロック音楽について考えると、バッハ音楽はドイツ・プロテスタンティズムの音楽であるが、例外的に、カトリック教会でも認められているのである。バッハ音楽は、確かに、キリスト教的芸術であるが、しかし、本当は、イタリア・ルネサンスによる差異共振性=不連続的差異性が基盤にあり、それがプロテスタンティズムをまとっていると考えられるのである。また、ヘンデル音楽もそうだと思うのである。彼らは、音楽のダ・ヴィンチ、ラファエル、ミケランジェロである。これが、モーツァルトになるとはっきりするだろう。モーツァルト音楽では、キリスト教的様態が薄くなっているのである。それは、差異共振の現象音楽と言えよう。

2005年10月25日 (15:39)

子の国の時代、キリスト教の時代とは何か:聖霊の国の時代・ポスト西洋文明=新地球文明に向けて

キリスト教とは不思議な宗教である。三位一体という連続・同一性論は、脱構築しないといけない。それも、単に脱構築の戯れだけではなくて、分解しないといけない。つまり、脱構造化、脱連続・同一性化しないといけない。思えば、フィオーレのヨアキムの三時代論とは、それに当たるだろう。脱三位一体論である。ポスト三位一体論である。
 とまれ、キリスト教は、三つの不連続的差異を内包していると言うべきである(ポスト・キリスト教)。

1)ユダヤ教(ヤハウェ教):一神教の本家本元であるが、しかし、実は、多神教と矛盾同一にある。
2)イエス・キリスト教(イエス教):これは、実は、イシス・オシリス神話等と共通である。死んで甦る神である。だから、異教、多神教、女神教である。
3)聖霊教:これは、グノーシス主義(ソフィア主義)、密儀・秘儀、秘教・密教、天使・妖精・精霊等と関係する。プラトン主義と通じる。

この三つの不連続的差異が「野合」しているのがキリスト教だろう。たいへん、いかがわしい。邪教である。「新興宗教」である。とまれ、これが、西洋文明の根幹なのである。これは否定できない。そして、西方教会はフィリオクェ問題で、聖霊を軽んじてしまった。三層性が解体したのである。とにかく、1と2の要素が西洋文明の構成要素である。1は、資本主義であり、2は、社会民主主義である。そして、近代西欧は、実は、3の次元を喪失したのである。これは、不連続的差異論が明らかにしている。現代哲学は、この次元の復権である。ニーチェ/フッサールが震源である。今日、新自由主義の勝利とは、1の勝利であり、2が衰退・崩壊したことを意味する。ヤハウェ教の勝利である。しかし、これは、黙示録的終末論に向かうのだ。アンチ・キリストの時。新自由主義がアンチ・キリストである。子が敗北したのである。この点を不連続的差異論から解明してみよう。
 結局、西洋文明とは何かという問題になる。これは、不連続的差異論の視点による私見では、イデア界とメディア界の境界、imbに西洋文明の起源があるのではないだろうか。ここは、不連続的差異の共存性があり、差異の連結が生じ、両者の矛盾同一性(西田哲学の絶対矛盾的自己同一)が生じている。わかりやすくするために、図式化しよう。

A) d1/d2/d3/・・・/dn (イデア界である。/は境界であるが、同時に共存・共立性を意味する)

B) d1~d2~d3~・・・~dn (メディア界であり、差異が連結・連続化する。~は連結・連続とゆらぎを意味する。)

C) 差異共存と差異連結・連続とが矛盾的に同一化している(絶対矛盾的自己同一)

A~C の事象がイデア界とメディア界の境界、IMB、イデア・メディア境界で生起している。ここでキリスト教を当てはめれば、父はCであり、子はBであり(ほんとうは、Dとして現象界も加えるといい)、聖霊はAであろう。そして、Cは弁証法の世界であり、二項対立・二元論・二律背反の領域である。西洋は、近代以前までは、このバランスを取っていたが、近代以降、Aを喪失して、BとCの併存となった。Bが社会民主主義、社会主義であり、Cが資本主義である。そして、Cは、グローバリゼーション、新自由主義に帰結した。これは、実は、私見では、イデア界の差異の発動から生じている。差異の不連続性から生じている。つまり、Bの水平的連続性の破壊である。つまり、新自由主義の根源として、Aが考えられるのである。ただい、Aの不連続性が強化される形となり、共存性が欠落しているのである。つまり、先にも述べたが、イデア界の力の変化があるのである。水平的共存から垂直的独立へと極性変化したのである。つまり、新たな差異力学の発動である。差異の垂直力への変動である。これは、子の時代(社会民主主義)の終焉はもとより、父の時代(新自由主義)の終焉でもあるだろう。つまり、イデア界の新しい変化があるのである。即ち、差異共存性の時代である。つまり、近代西欧という、イデア・メディア境界中心の時代が、イデア界の垂直的変化によって、終焉したということではないだろうか。つまり、イデア界の活動として新自由主義が発動したと考えられるのである。これは、天使を内在した悪魔、超悪魔である。アンチ・キリストである。近代西欧、イデア・メディア境界時代が、新しい不連続的差異のイデアのエネルゲイアによって、震撼させられ、終焉期に達したのではないか。「天」を震源とする天震である。地殻変動というよりは、天界変動である。ただ、これは、まだ、イデア・メディア境界に囚われているので、反動性をもち、破壊的なのである。アンチ・キリストなのである。天界の新たな発動であるが、それが、捩れて、裏返しになって、反動となって、アンチ・キリスト、超悪魔となっているのである。 
 ということで、やはり、聖霊の国の時代である。これは、ポスト新自由主義、聖霊自由共存主義である。ポスト西洋文明であり、新地球文明、聖霊の地球の時代である。実際どうなのかは、後で、考察したい。

2005年10月25日 (10:52)

一神教(ユダヤ/キリスト教)の帰結としての新自由主義とそれ以後

前に述べたことの繰り返しになるが、新自由主義は一神教とパラレルであり、その官営資本主義への勝利は、いわば、多神教に対する一神教の勝利である。日本経済文化は、明治維新から一神教的になっている。多神教性は衰退している。先の衆院選挙は、ニッポン一神教の勝利である。ニッポン民衆の多くが、小泉ファッショ政府を支持したことは、やはり、小泉天皇を信奉しているということである。玉砕である。これから、自殺者がますます増加するだろうし、・・・。
 しかし、一神教の完全勝利とは、力学的に、次の段階を意味する。隠れていたものが顕在するようになるだろう。私見では、これは、イデア界の垂直的な不連続性の「モーメント」の作用(水平的共存への反作用)であり、水平的連続性を解消した。しかし、ここに新しい共存志向性が始動することになる。つまり、社会民主主義、社会主義という古い連続的共存志向が滅びたのである。古い連続的共存志向が、不連続性の力学に対して、桎梏となっていたのである。不連続性の力学とは、資本主義の力学である。資本主義は差異から発動・駆動・起動していると私は述べてきたが、差異にとって、古い連続的共存性は桎梏・阻害的なのである。そして、この拘束を徹底的に破壊したとき、新しい共存性が生まれる。それは、不連続的共存性であり、それは、ポスト資本主義である。世界は新しいサイクルに入るだろう。
 では、古い連続的共存性の起源は何であったろうか。これは、私見では、封建的前近代的共同体志向である。地縁血縁的コネクションである。「連合」主義である。これは、受動的な、惰性的な、停滞的な、保守的な世界観である。私見では、これは、多神教のデカダンスである。差異共存性の水平的展開のデカダンス・帰結である。そして、一神教の能動的な、攻撃的な、発展的な、革新的な世界観が勝利した。ここで、一神教と多神教との争闘は終焉した。同時に、ポスト一神教が始動する。これが、新しい多神教である。ポスト新自由主義である。これは、不連続的共存主義である。思うに、現在、アメリカがこのような状況に達しているのではないだろうか。イラク問題、カトリーナ問題、これらは、一神教的方策の結果である。多極主義が本当なら、それは、多神教ということである。新多神教ということである。これは、あらゆる分野で生起する出来事である。新自由主義という災厄を経て、古い連続集合主義が終焉して、新たに個・差異・不連続性が発芽する。ようやく、本質的民主主義が始まるのである。これが、ポスト・プロテスタンティズム、ネオルネサンスである。
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  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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