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2005年10月28日 (02:47)

「父」と資本主義:戦闘的自由主義と不連続的差異共存社会

これまで、「父」・一神教と資本主義を同一視してきたが、先に考察によって、そうでないことが判明した。即ち、プロテスタンティズムは「精神分裂症」であるのであり、ルネサンス/キリスト教原理主義である。そして、資本主義はこの両義性・分裂性をもって進展してきた。
 ここで、父と資本主義の関係を明確にしたい。先の考察で、プロテスタンティズムは、キリスト教原理主義/ルネサンスということになった。そして、父とは、同一性化したイデア・メディア境界である。これと資本主義はどう関係するのか。自由主義とは、基本的には、ルネサンス的である。そして、父とは、自由主義にとって、アンチ封建的国家のイデオロギーの中心だろう。自由主義は、基本的にイデア界的である。しかし、イデオロギーとして、キリスト教原理主義をまとったと言えよう。つまり、ルネサンス的では、平和主義的である。推進力をもつためにキリスト教原理主義を採用したと言えるのではないだろうか。つまり、差異の垂直化である。そう、ここはとても複雑である。不連続的差異の垂直化としてのプロテスタンティズム・父である。ここで、二重構造を確認しないといけない。イデア界の不連続的差異の垂直化と、イデア・メディア境界における同一性化(反動化)である。これがプロテスタンティズムの父である。つまり、自由主義的解放性と二律背反・弁証法的破壊主義が併存しているのである。
 ここで、新自由主義を考えると、これは、プロテスタンティズムの父のイデア界的解放性をもつと同時に、父の破壊性をもっているだろう。すると、やはり、新自由主義とは、プロテスタンティズムの現代的展開であると言えるだろう。これは、一切の連続・同一性主義を破壊するだろう。できれば、国家も破壊するだろう。アナキズム的リバタリアニズム。結局、旧来の官営的社会民主主義は破壊される。とまれ、戦闘・破壊的自由主義である。しかし、イデア界の差異は、共存性を志向するのであるから、これに対する相補力が喚起される。これが、不連続的共存主義であろう。これをどうするかである。ネグリの考えているマルチチュードとは、マルクス主義に囚われているが、これを潜在的に志向しているのではないだろうか。結局、自由主義的社会民主主義、自由主義的差異共存主義をどう構築するのかということだろう。これには、個人が不連続的差異になって共存する社会を構築するしかないだろう。おそらく、娯楽する余裕がなくなるだろう。不連続的差異の共存する社会構築のために、資金を共立共生化するしかなくなるのではないだろうか。個人がイデア界に達して、不連続的差異共存コミュニティ・エコミュニティを構築するしかないのではないだろうか。イデア界的差異共存社会である。これを共同社会と呼んでいいのであろうか。共生社会、共存社会とは言えるだろう。しかし、共同社会と言えるのだろうか? 
 とまれ、自由主義的差異共存主義の政治・社会が対抗として打ち出されなくてはならない。
 とまれ、父は、子である社会主義、平等民主主義、即ち、近代的民主主義を破壊するのである。これは、先に述べたように、結局、キリスト教の終焉であり、父自身の崩壊であるのだろうか。否、ユダヤ教の支配だろう。キリスト教は崩壊するが、ユダヤ教は残るだろう。父は残るのだ。結局、ユダヤ教/ルネサンスという「父」である新自由主義である。これに対しては、やはり、イデア界的自由主義的共存主義を打ち出すしかないだろう。イデア界への絶対的回帰しか生存の方法はないだろう。不連続的差異共存民主主義だろう。これを政治・社会化する必要があるのだろう。自由差異共存主義である。これは、連続・同一性的民主主義は否定するだろう。思うに、多神教的イスラム教的なもののようになるだろう。不連続的差異的イスラム教。不連続的差異共存コミュニティ(共同体?)が必要だろう。
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2005年10月27日 (21:14)

近代主義の閉塞と聖霊差異性:根源的自由主義とポスト近代的資本主義

ルネサンスの差異起動に対して、宗教改革はどのように排出・隠蔽して、近代的資本主義を形成したのか。それは、反動である。この反動の構造はどうなっているのか。思うに、ここが決定的契機である。不連続的差異論から言えば、イデア界へのコンタクトが途切れたのである。三島由紀夫的に言えば、「断絃の時」である。それまで、古代宇宙論、コスモス論が持続していた。アリストテレスやネオプラトニズム的宇宙・世界観があった。これは、ある意味で連続主義である。これが崩壊したのである。コスモスの崩壊である。物質主義的近代主義が始まっている。思いつきでは、これと、宗教改革とはつながっている。唯物論的近代主義とプロテスタンティズムはパラレルだと思う。また、これは、聖書のロゴスを言葉と訳したプロテスタンティズムとパラレルだと思う。端的に言えば、イデア、聖霊が隠蔽・遮蔽されたのである。つまり、当時において、イデア界の意識が希薄になっていたのである。しかし、ルネサンスという強力なイデア界志向もあったのである。ネオプラトニズムとは、そのように見ることができる。フィレンツェのプラトン・ルネサンス(フィチーニのプラトン・アカデミー)。つまり、イデア界の駆動があり、イデア・メディア境界が賦活されていたのである。宗教改革は、カトリックという、いわば異教的キリスト教に対する、キリスト教原理主義の勃興である。この力学は何か。ここがポイントである。これは、聖書から触発された超越神信仰である。超越神とは、現象界を超えた神ということである。ここでは、内在性が否定されている。不連続的差異論からの私見では、内在性とは、ここでは、イデア・メディア境界である。これが、排出・隠蔽されているのである。これは、メディア・現象境界が強固になって、それ以前のイデア・メディア境界が衰退しているということではないだろうか。排出・隠蔽があるのだろうか。ここは実に微妙な論点である。当時、ルネサンスによって、イデア・メディア境界の賦活があった。また、一方、メディア・現象境界の強固もあった。つまり、近世とはヤヌス(両面)的である。つまり、メディア界的である。メディア界の両極性を帯びていたと言える。即ち、一方では、イデア界への志向があり、他方、現象界への志向があった。これは、絵画で言えば、ボッチチェルリに体現しているだろう。つまり、

イデア界⇔メディア界⇔現象界

という構造であったと言えよう。これが、近世の構造である。そして、イデア界⇔メディア界の賦活がルネサンスであり、メディア界⇔現象界の賦活が宗教改革であったろう。後者は、前者にどのように作用するのだろうか。後者は、連続・同一性の構造である。だから、これは、差異を排出・隠蔽するのである。差異をシャットアウトするのである。だから、正確に言えば、宗教改革とは、メディア界を否定した現象界主義である。つまり、メディア界⇔現象界は誤りであり、メディア界⇒現象界である。メディア界⇔現象界は、ルネサンスである。だから、訂正すると、

ルネサンス:イデア界⇔メディア界⇔現象界

宗教改革:イデア界⇒メディア界⇒現象界        
      ↑←・・・・・・・・←↓
 
である。
つまり、宗教改革は現象界主義から不連続となったイデア界へと帰還しようという発想である。つまり、連続・同一性主義ではあるが、そこには、不連続性が残っているのである。そう、反動というよりは、残響として、イデア界があり、それが、父となっていると言えよう。そして、これが、西欧資本主義の精神構造である。アメリカ独立宣言のGod created us equal(神がわれわれを平等に創った)というのは、このことである。連続・同一性の平等主義があり、同時に、父がある。
 ということで、宗教改革は、メディア界を排出・隠蔽しているのである。一方では、明確な現象界があり、他方では、イデア界の残響、名残、残照等があるのである(だから、アレゴリーではなくて、象徴主義的になるのである。)近代主義の閉塞性とは、メディア界の閉塞であったと言えようし、ルネサンスの閉塞であったのである。しかし、潜在、無意識の内に、メディア界やルネサンスは作動している。とりわけ、天才や庶民において。
 とまれ、近代主義とは、現象界中心主義であり、それが、近代的二元論を創ったと言えよう。即ち、思惟と延長、精神と身体の二元論である。思惟や精神とはこの場合、言語知性である。だからこそ、ヨハネ福音書のロゴスが言葉と訳されねばならなかったのである。近代主義は、現象界主義であるから、精神は言語知性ないし言語意識となるのであり、ロゴスという理性は言葉・言語となったと言えよう。そして、このキリスト教的近代主義は、連続・同一性の平等主義を生み、これが、近代的民主主義となったし、また、資本主義への反動として、社会主義を生んだ。それは、キリスト教的近代主義からの派生である。そして、プロテスタンティズム的構造をもった近代的資本主義が発達する。これは、現象界主義(物質主義)であるが、本質的には、イデア界から駆動しているのである。つまり、自由主義の問題である。自由主義とは、思うに、プロテスタンティズム/ルネサンスという二重構造をもっているが、経済的自由主義とは、プロテスタンティズム的である。
 さて、ここで問題なのが、近代的民主主義の発生である。それは、当然、経済的自由主義と関係するし、また、キリスト教的道徳と関係する。神の下の平等。隣人愛。自由は、悪からの解放等であろう。しかし、キリスト教的民主主義とは、連続・同一性の「道徳」であり、それは、差異を抑圧している。メディア界とイデア界を抑圧して、閉塞している。しかし、神はイデア界的ではないかという反論が生じるが、しかし、神は、示唆されても、イデア界ではなくて、連続・同一性の神である。キリストと一体化された神である。キリストとは、連続・同一性の神である。言葉の神である。ロゴスの神ではない。つまり、キリストは、現象界の神であるから、父も現象界的になるのである。即ち、連続・同一性=言葉の神となるのである。だから、イデア界への示唆も現象界に飲み込まれてしまうのである。これが、神の死である。つまり、近代主義とは現象界主義である。現象界中心主義である。そして、これが、現代日本の姿である。ということで、近代主義は、資本主義と連続・同一性の民主主義を生み出すことになる。そして、後者は社会主義を生むのである。つまり、資本主義と社会主義の二項対立である。これは、近代主義の分裂である。 
 問題は、資本主義である。自由主義の問題である。これは、近代主義ではあるが、不連続性をもっている。つまり、プロテスタンティズムの不連続性である。ここには、特異性が生じるのである。つまり、不連続的差異の垂直性がある。ルネサンスは、いわば、優等生で、垂直/水平性の均衡があった。即ち、イデア界の差異の純粋発動があったのである。だから、宗教改革はいわば、不良である。捻くれ、拗くれ、である。拗ね者である。そう、パスカルの宇宙的孤独である。とまれ、特異性があることを認めなくてはならない。そして、ここで、自由主義の資本主義と平等主義の民主主義との二律背反が生じているのである。これが、冷戦に帰結する。資本主義と社会主義の弁証法である。そう、やはり、父(特異性)と子(同一性)の対立が近代主義にはあるのである。
 結局、現代、後者が敗退したのである。連続・同一性が敗退したのである。これは、西欧近代主義の崩壊を意味する。そう、冷戦崩壊以前のポスト構造主義を考えると、それはメディア界の復権であり、それは、それで、近代主義の解体を意味した。プロテスタンティズムの特異性とは絶対的エゴイズムを意味するだろう。唯一者である(シュティルナー)。ここでは、共存性はない。ただ、唯一者と唯一者の連合(同盟)があるだけである。問題は、近代主義の水平的連続・同一性(キリスト教・社会主義)が崩壊して、不連続的・絶対的エゴイズムが勝利したのであるが、しかし、この近代主義の崩壊とは、現象界主義の崩壊を意味する。ポスト構造主義はメディア界を復活させた。それは、ある意味で、ルネサンス的である。そして、近代的民主主義(社会主義的資本主義)が崩壊して、いわば、差異の水平性・共存性が発動するようになったと言えよう。結局、近代主義の現象界中心主義が解体したのであり、メディア界が復権し、また、イデア界自体が賦活されたと言えよう。問題は、ポスト構造主義において、イデア界に到達できずに、イデア/メディア境界への進展で留まったことである。新自由主義は、ある意味でイデア界に達しているのである。経済的イデア界主義に達しているのである。それに対して、社会・政治・人文学的には、遅れているのである。
 もう少し、整理しよう。近代的資本主義は、マルクスが説いたように交換価値という連続・同一性に基づいていた。しかし、現代資本主義は、差異価値に基づいているのである。情報資本主義である。メディア界的資本主義である。また、これは、当然、イデア界的でもある。創造とは、イデア界から生起するのであるから。だから、現代資本主義はポスト近代的資本主義である。これが、新自由主義の意味であろう。旧資本主義、官営資本主義を否定するのである。そう、ポスト構造主義とは確かに、現代資本主義に対応しているだろう。とまれ、ポスト近代的資本主義に対して、意識、理論が、遅れているのである。未だに、近代的民主主義であるのである。つまり、連続・同一性・平等的民主主義なのである。これは、新自由主義に負けているのである。先の衆院選挙は、いわば、「理性の狡知」である。下層民が上層階層を支持したのである。上層階層は、新自由主義である。
 結局、経済領域においては、ポスト近代主義が勝利したのである。即ち、差異が勝利したのである。これは、ルネサンス的である。一面的であるが。そう、既に、イデア界が啓かれているのである。ただ、意識がひどく遅れているのである。阿弥陀如来の無量光が差しているのであるが、気がつかないのである。新自由主義はイデア界に達しているのである、経済的に。後は、政治、社会、文化的に、そこへ達することが必要なだけである。つまり、近代主義において、潜在していた差異、不連続的差異、聖霊が今や開花したのであり、大地の聖霊(これは、天界の聖霊でもある)のエネルゲイアを意識し取り込む時である。これは、聖霊差異共存主義となるはずである。この差異共存主義が新自由主義と相補併存して、新しい地球文明が生起するだろう。それは、聖霊差異自由主義地球資本主義スーパー・エポックである。根源的自由主義によって、不連続的共存主義が賦活されるのである。

2005年10月26日 (15:30)

イデア・メディア境界とメディア界の相違点について:ポスト近代的自由社会民主主義と創造的消費主義

問題点に触れると、イデア・メディア境界とメディア・現象境界の違いを精緻に解明することである。今、図式化すると、

イデア・メディア境界

d1/d2/・・・/dn
・・・・・・・・・・・・・
d1~d2~・・・~dn



メディア・現象界境界

d1~d2~・・・~dn
・・・・・・・・・・・・・
d1≅d2≅・・・≅dn

(尚、dは不連続的差異の記号である。)

となり、明らかに異なる。宗教事象は、やはり、イデア・メディア境界事象と見るべきだろう。自由主義に関して言うと、それは、本来は、イデア界から起動している。それが、近代主義となると、思惟と延長との二元論が支配的になり、イデア界を喪失する(cf. ハイデガーの存在の忘却)。これは、イデア・メディア境界を喪失して、メディア・現象界境界が基礎となったということだろう。つまり、メディア界が思惟であり、現象界が延長である。そして、この近代主義に対する批判が様々な領域・分野でなされる。ニーチェは、イデア・メディア境界を超える形で、不連続性を説き、フッサールは明確に、イデア界の差異の志向性を説いた。そして、ポスト構造主義(デリダ、ドゥルーズ、フーコー他)は、メディア界の存在を解明した。だから、近代的自由主義からポスト近代的自由主義への転換が現代的である。
 近代的自由主義は、フランス革命の自由・平等・博愛でわかるようにキリスト教的価値観の世俗化である。これは、キリスト教の連続・同一性主義によっているのであり、社会主義、共産主義もこれを基盤にしていると言えよう。ここには、差異が欠如している。つまり、近代主義は、差異が欠落しているのだ。近代的自由主義とは、自己撞着した思想である。なぜなら、自由とは、本来、差異に原点があるからである。思うに、欧州の個人主義は、キリスト教からではなくて、古代ギリシアから発してると思う。キリスト教からの「個人主義」とは、連続・同一性主義である。つまり、自我主義である。これが、プロテスタンティズムになると言えよう。イタリア・ルネサンスは、表面的にはキリスト教的な表象があるが、原理は、やはり、教科書通り、古代ギリシアである。(もっとも、古代ギリシアと言っても、複合的である。イタリア・ルネサンスも複合的であり、後で、できれば、触れたい。)つまり、欧州個人主義は、古代ギリシアの原理であり、キリスト教的平等主義とは異なるのである。つまり、近代的自由主義は、キリスト教化されているのであり、個人主義と混淆しているのである。そして、ポスト近代主義が、脱キリスト教化を図ったと言えよう。差異へと志向したのである。しかし、それは、ポスト構造主義の限界のために、頓挫した形になったが、不連続的差異論によって、ポスト近代主義が整合的に徹底貫徹化されたと言えよう。
 とまれ、近代的自由主義は、一方で、社会主義、社会民主主義を生んだと言えよう。しかし、これが、公共事業型財政破綻をもたらしたのである。つまり、近代主義の破産が今日明瞭なのである。そして、新自由主義であるが、これは、ポスト近代主義である。市場原理主義とは、差異と差異との交換を前提にしている。差異の理解を前提としていると言えよう。ここでは、近代主義である連続・同一性は排されている。だから、経済的には、新自由主義は、差異的な自由主義という原則に適っている。 
 結局、ここで、解体される「社会主義」的政治の穴をどうするかが、今日の社会・政治的問題である。ポスト近代的社会的自由主義である。新自由主義は、思うに、イデア・メディア境界の経済である。メディア・現象界的連続・同一性に対する反動性がある。それは、小泉首相の二律背反主義、弁証法力学を見ればわかるだろう。とまれ、本源は、イデア界の不連続的差異にある。だから、その穴を埋めるには、不連続的差異的自由主義でなくてはならない。それは、経済的次元とは別の社会・政治的次元で形成されなくてならない。それは、ポスト近代的自由社会民主主義である。このための政治原理、政策が必要となる。それは、差異的民主主義である。差異共存的民主主義である。そのためには、差異共存共創のための消費が必要となる(これは、投資とすると、マイナスになるから、消費にしないといけないだろう、出発点として。)即ち、自由社会民主主義、差異自由主義のための消費、差異自由社会創造的消費が必要である。これが、ポスト近代的自由社会民主主義の政治社会である。

p.s. 新自由主義は、ポスト近代主義ではあるが、イデア・メディア境界を起点にしているから、反動性をもっているのである。つまり、一神教である。多神教を排斥するのである。多神教の問題もあるが、多神教とは、思うに、イデア・メディア境界の事象ではあるが、受動性、純粋受動性のために、イデア界を直視(「霊視」)していると思う。イデア界の無数の不連続的差異を直視していると考えられる(八百万の神々)。そして、イデア界とメディア界と現象界が連続化するのである。連続的共存性がある。一神教(ヤハウェ教)は、これをすべて排斥しようとする。なぜならば、矛盾同一性があり、一神教は垂直力に駆り立てられて、多神教を否定しようとするのであるが、しかし、実際のところ、一神教と多神教は矛盾同一なのである。つまり、イデア・メディア境界において、水平力が作用すると多神教となり、垂直力が作用すると一神教となるのである。ただ、イデア界の力学に拠るのである。この弁証法を超える必要がある。新自由主義が、新しい多神教と相補性となればいいのである。経済と社会との要である政治が、差異自由主義、ポスト近代的自由主義に立てばいいと考えられる。不連続的差異的自由主義的政治の体制にすればいいのである。

p.p.s. 近代的自由主義の問題は、哲学的には、デカルト哲学のコギトの位置づけに関係する。自由主義は、本来、差異を震源としているのであり、近世において、イタリア・ルネサンスがその発動である。そして、哲学的表現はかなり遅れて、デカルト哲学のコギト主義となったと言えるだろう。しかし、デカルト哲学は両義的である。確かに、近代的二元論の創始者であると同時に、ポスト近代主義の原点でもある。つまり、特異性の哲学である。問題は、コギトの「われ」とは何かである。この「われ」は、近代的合理主義の「われ」ならば、近代的自我ということであり、近代的民主主義に通じていくだろう。しかし、特異性としての「われ」ならば、それは、差異としての「われ」、不連続的差異としての「われ」であり、それは、ポスト近代的自由主義に通じるのである。つまり、特異性としての「われ」とは、イデア界の「われ」である。ニーチェ的な「われ」である。デカルトは、後者の「われ」の端緒を基盤として、前者の「われ」を構築したと言えるだろう。近代主義は、後者を忘却していくことになるのである。そして、ニーチェやフッサールは後者を探求することなり、真のポスト近代主義を打立てたと言えるのである。この偉業が、一般の人に伝わって、理解されていないのは極めて遺憾である。これは、哲学研究者の怠慢があるのかもしれないが、フッサール哲学のあまりの晦渋さにも要因がある。また、現象学という名前にも、問題があると思う。本当は、超越論的現象学である。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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