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2006年08月12日 (02:57)

ヤハウェと連続・同一性衝動:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明と新コスモス文明創造:人類大進化期

ヤハウェと連続・同一性衝動:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明と新コスモス文明創造:人類大進化期
テーマ:一神教/多神教
ユダヤ・キリスト教の神であるヤハウェ(エホヴァ)であるが、それを、プラトニック・シナジー理論から分析したらどうなるだろうか。これは、既に論じた事柄であるが、最近の観点から、見てみたい。
 差異共振シナジーの+エネルギーが連続・同一性力動となり、現象界を仮象すると考えられる。そして、このエネルギーがヤハウェと表現されたと考えられるのである。もっとも、エネルギーの度合いがあるが、ヤハウェ力動の場合は、+エネルギーの極限のような強度があったのではないだろうか。それは、全体的連続・同一性自我衝動と言っていいように思えるのである。換言すると、全体主義的衝動である。あるいは、全体主義的自我衝動、即ち、独裁者的衝動である。そして、これが、また現象自我の根源と共通すると考えられるのである。そう、現代日本の、あるいは、現代世界の、精神病理的な傲慢な人間の意識の基盤はこれと共通するのではないだろうか。
 とまれ、この、いわば、連続・同一性全体主義的自我衝動(ヤハウェ衝動とも呼べよう)は、当然、徹底して、差異・特異性を排除する。旧約聖書におけるヤハウェの異教への酷烈無惨な排除を見よ。これは、連続・同一性衝動としては、当然である。それは、差異の否定の衝動であるからである。そして、これが、イエス・キリストないし救世主・メシアを生み出すというのも、論理的である。連続・同一性の果ては、現象であるのだから。だから、ユダヤ・キリスト教は一体として捉えてもおかしくないのである。(今、ふと思ったが、イスラーム教とは、ユダヤ・キリスト教を取り込む形の啓示宗教であるが、預言者ムハンマドに啓示された超越神の言葉であるが、しかし、これを、より広いコンテクストで見ると、聖霊教の始源的な形ではないかと思ったりするのである。即ち、聖霊が、ムハンマドに訪れたと考えるのである。)
 そして、さらに論理展開すると、連続・同一性の+エネルギーが終了して、-エネルギーへと反転する時が来るのである。それは、差異共振性への回帰であり、さらには、イデア界への回帰のように思えるのである。図式化しよう。

1.差異共振シナジー:

差異1∞差異2∞・・・∞差異n (∞を零度共振の記号とする)


2.連続・同一性+エネルギー作用:

差異1=差異2=・・・=差異n   (=は同一性化の記号)


3.不連続・共立性-エネルギー作用:

差異1/差異2/・・・/差異n   (/は、境界の記号)


つまり、-エネルギー作用は、単に、差異共振性へ戻るだけでなく、その極性の反対極の、イデア極に戻るように思うのである。そう、思うに、これが、不連続的差異への志向性ではないだろうか。連続・同一性の全体性・集合性・集団性を断ち切るように作動するように思うのである。そして、その結果、純粋な差異共振シナジー場が発生するように思えるのである。即ち、-エネルギーによって、メディア界のイデア極へと振れることによって、現象界の連続・同一性の構造(の桎梏・拘束・束縛)から解き放たれて、脱して、純粋な差異共振シナジー界を形成するように思えるのである。不連続的差異論が正に、これを成就したと思うのである。これまで、おそらく、プラトン除いて、ほとんどの者が明確に達成するのに失敗した「イデア界」にこれで、到達できたと考えられるのである。思うに、これは、-エネルギーの発動が基本的に、「宇宙」・コスモスにあるのだろう。そう、イデア界の変動、そして、メディア界での-エネルギーへの転換があってのことだと思われるのである。つまり、「宇宙」・コスモス全体が、今や、発出された-エネルギーに浸透されていると思われるのである。-エネルギーが「宇宙」・コスモスを貫いているように思えるのである。イデア界への方向へのエネルギーの流れである。しかし、正確には、イデア極への方向である。
 だからこそ、反動が強烈なのである。グローバリゼーションは、大反動だと思う。新自由主義もそうである。そして、日本や世界の精神病理現象もそうだと思うのである。これまでの、ほとんどの知では、この事態は対処は不可能だと思うのである。特に、近代主義の知は、無能である。だから、今日、学芸・アカデミズムが地に落ちているのである。プラトン、ニーチェ、フッサール、ホワイトヘッドくらいを除いて、ほとんど、現代の事象に対処することは不可能である。しかし、不連続的差異論&プラトニック・シナジー理論こそ、この事象を明晰に解明している今日、唯一の理論であろう。
 ここでは、簡単に現状を述べて終えたい。今日、-エネルギー、即ち、不連続的差異への方向性があり、それは、差異共振シナジーを形成するものであるが、それに対して、+エネルギーが構築した連続・同一性全体主義自我の構造の反動が強烈なのである。そのために、現代人は、精神分裂状態に陥っているのである。-エネルギーが実際には、作動・作用しているのに、意識は、+エネルギーの連続・同一性全体主義自我=近代的自我のままであるから、この事態に対処できず、狂気・無能状態に陥っていると考えられるのである。
 そう、現在、ヒズボラへのイスラエルの攻撃は、結局、この大反動の一環と見ることができるだろう。アメリカ(キリスト教・プロテスタンティズム)とイスラエル(ユダヤ教)との「共謀」ペアは、正に、現代における、過去の+エネルギーによる連続・同一性全体主義自我の大反動を象徴的に意味するだろう。確かに、現在は、逆ハルマゲドンである。結局、どうなるのだろうか。「宇宙」・コスモスの力は、それらに味方していないのである。彼らこそ、「アンチキリスト」である。直観では、新多神教、新母権制、新コスモスの文明が生まれるのである。それは、ポスト西洋文明である。差異共振シナジー文明が、これまでの父権超越神西洋文明の成果を活用して、差異共振シナジー資本経済文明を創造することだろう。後一歩である。今や、大陣痛の時である。このユダヤ・キリスト教西洋文明の大反動を乗り越え、新たなコスモス文明を創造する時である。超転換期である。人類大進化期を今、迎えているのである。
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2006年05月24日 (07:06)

キリスト教問題:罪の赦しとは何か

私は、昔、キリスト教が一番の問題であると考えていた。ダ・ヴィンチ・コードで、問題が復活しているようだ。
 私の立場は、脱キリスト教であるが、この場合のキリスト教とは何か。キリスト教会で行われた葬儀の真面目さには感銘を受けた。葬式仏教のずさんさは、何をか言わん。そう、キリスト教を問題にするとき、個別の人は度外視して、考えたい。つまり、個々の信仰は、基本的には肯定する立場である。
 不連続的差異論から見ると、イエス・キリストとは、現象化の極限の面をもつと思われるのである。ヤハウェは、弁証法構造であるが、そこから、同一性化が徹底されたのが、イエス・キリストと見ることができるように思うのである。思うに、イエス・キリストは、現象化の極限であるから、同時に、転換点である。自我中心主義の極点であり、同時に、ポスト自我中心主義の始点ではないだろうか。ここで、聖霊の問題があるのである。つまり、絶対的自我に達したイエス・キリスト(神人)は、傲慢の極致にあり、そこからは、脱現象化作用としての聖霊が意味をもつと考えられるのである。つまり、キリスト教は、終焉するのが正しいのであり、聖霊教ないし、聖霊叡知となるべきなのである。グノーシス的イエス主義とも言えよう。かつて、この問題にずいぶん拘った。聖霊教が生まれるだろう。参照:http://ameblo.jp/renshi/entry-10002164656.html
 では、罪の赦しはどうなるのだろうか。ここに一つのポイントがあるだろう。やはり、罪の赦しは、一種同一性であり、差異ではないと思うのである。例えば、私に害を与えた人間に私は、復讐心をもつと同時に、また、同時に、赦しているかもしれない。復讐と赦しが併存していると思うのである。だから、罪の赦しという教義は、立派であるが、やはり、同一性の教義だと思われるのである。聖霊は、メディア界の事象であるから、矛盾が対極的に共立するのであるから、罪の赦しと復讐が共立するというのは正しいと思うのである。やはり、ポストキリスト教としての聖霊教ではないだろうか。D.H.ロレンス的宇宙教と言ってもいいだろう。この点では、ロレンスは、誰よりも、ラディカルであると思うのである。

p.s. メディア界は、差異共振の世界だから、ある意味で、罪の赦しは成立しているのかもしれない。しかし、罪の赦しとは、不正の擁護ではないのか。思うに、メディア界に受けた傷(言わば、外傷・トラウマ)は、事象として、残ると思うのである。それを、赦すというのは、事象に対する不誠実ではないのか。存するものは、存するものである。それを解消するのではなくて、それに耐えることが、差異的ではないだろうか。確かに、メディア界には、共感性があり、一種赦しがある。しかし、同時に、外傷・トラウマが事象として、存するのだから、それを否定するのは、反科学的である。トラウマを赦すとはどういうことなのか。それは、赦せないからトラウマではないのか。
 罪の赦しは、観念論だと思う。それは、偽善の一種だと思う。後で、できれば、もう少し考えたい。

2005年12月21日 (03:02)

占星術とは何か:イデア界とメディア界の関係:超光と光:根源闇と光

不連続的差異の共存する「コスモス」
であるイデア界に対して、不連続的差異
がゼロ化して、連結しているメディア界は、
形相が形成されるだろう。この形相は、
いわば、文様のようなものだろう。

 とまれ、イデア界の回転によって、
メディア界的
らせんが形成される。このらせんの円を
12分割したのが、占星術の星座ではないか。

とまれ、西洋中世的宇宙論は、四つの星座を
基本とする。牡牛座、獅子座、蠍座、水瓶座で
ある。これらは、直交していて、円の90度
分割された領域に当たる。不連続的差異論は、
1/4回転・90度回転が基本である。両者、
関係があるのか。90度とは何か。

 とまれ、中世的宇宙論では、4つの星座と
キリストが結びつく。キリストは、光である。
4つの星座と光ないし太陽が関係する。
イデア界の無限速度の回転が、光を生むの
ではないか。それは、イデア界においては、
超光であり、メディア界においては、光であ
ろう。

 今、想起したのだが、ゼロ度によって、
光が発生するのではないか。そして、それ以前、
イデア界においては、前光があり、それは、
闇なのではないか。ここで、D.H.ロレンス
の言ったdark sun, dark godを想起するし、
また、ダークマター、ダークエネルギーを
想起する。ゼロ度において、太陽や恒星と
なるのではないか。しかし、その背後、
裏面は、闇である。イデア界の闇。しかし、
それは、超光であろう。ロレンスは、
われわれは、根源の背中しか見ていないと
いうようなことを述べていた。とまれ、
イデア・メディア境界ないしメディア界が
太陽、恒星であろう。光である。差異・ゼロ度
である。エネルギーである。しかし、それは、
表面ないし裏面に過ぎない。根源は、
不連続的差異の共立調和界(コスモス)である。
そう、ここで、華厳宇宙を想起する。あるいは、
無量光(阿弥陀如来)を。

 問題は、どうして、不連続的差異の共立調和が、
超光となるのかである。そう、闇と見た方が、
わかりやすいかもしれない。道教では、玄牝である。
玄(くろ)である。そして、同時に、これは、
白である。(cf. 『白鯨』)

 思うに、無限速度で回転する不連続的差異
があり、それが、1/4回転と3/4回転で
ゼロ度となるのではないか。1/4回転で、
光が発生し、3/4回転で、反光が発生する
のではないか。そう、無限速度で回転する
不連続的差異の共立調和界が、闇=超光の
世界ではないか。そして、1/4回転と
3/4回転において、光を発生するのだ。
ただし、3/4回転は、反光であろう。
反世界であろう。つまり、不連続的に、
イデア界は、光を発生するのである。
これが、太陽、恒星、銀河、星雲等であろう。
そして、イデア界が、ダークコスモスであろう。
闇から光が生まれ、そして、闇に吸収されるの
だろう。光より闇の方が根源である。古代中国
の道教は、正しいのだ。玄牝。闇が母胎なので
ある。

_____________________
JIJI PRESS 時事通信社

◎ふたご座は交通事故に注意?=星座、
干支別の発生率を公表-石川県警

 ふたご座のあなたは歩行者に注意?-。
石川県警は、交通死亡事故をめぐる星座別、
干支(えと)別の発生・遭遇件数を公表した。
若者や高齢者による事故が増えていることから、
関心を持ちやすい切り口で注意喚起した。

 データは2003年1月から今年10月までの県内の死亡事故277件が対象。それによると、星座別で最も事故が多かったのはふたご座で、32人が起こした。やぎ座30人、おひつじ座28人と続き、最低はおとめ座の14人だった。

 危険度上位の星座については、事故の傾向を分析。「歩行者に注意」「スピードは控えめに」などとワンポイントアドバイスを付けた。

 また、交通死者の4割強を占める高齢者(65歳以上)向けに、干支別の事故遭遇率も示した。最も死者が多かったのは酉(とり)年で17人。以下、申(さる)年、卯(う)年の順で、「横断歩道を渡りましょう」などと注意を促した。 

2005年12月18日14時46分 時事通信社 / 提供元一覧

http://news.livedoor.com/webapp
/journal/cid__1562807/detail?rd

2005年10月28日 (12:04)

一神教、キリスト教、プロテスタンティズムの構造について:再論

一神教の図式

Ⅰ)
1.イデア界/IM[光/闇]/2.メディア界/MP[光/闇]/3.現象界

二つの境界に光/闇の閾(いき)を作業仮設する。そして、一神教の場合、両境界の光に対してブラインドとなっている。つまり、闇の側面が生じている。これは、イデア界の排出・隠蔽、メディア界の排出・隠蔽を意味する。だから、次のように図式化してもいい。

Ⅱ)
1.イデア界/IM[光⇒闇/2.メディア界/MP[光⇒闇]/3.現象界

とまれ、一神教は連結・連続・同一性への能動的志向であり、不連続的差異、連続的差異を排出・隠蔽して、それらに対して、ブラインドである。
 これがヤハウェ教である。では、イエス教はどうなのか。思うに、イエス教は、新たに、イデア界が賦活された場合ではないだろうか。それが、イエスの連続・同一性の平等性の教えとなったのではないか。つまり、イエス教は、プロテスタンティズムに似ているように思う。つまり、イエス教の場合、イデア界の触発が新たな触発があるのであり、その不連続的差異、聖霊性が出現していると思う。つまり、イエス教は、精神分裂症があるのである。これは、新約聖書の解読と一致する。矛盾同一性を洞察するのである。だから、イエスは、聖霊の最重要性を説くのだろう。つまり、イエス教は、聖霊教と一神教とのハイブリッドであるということになる。その教えは、聖霊教(不連続性)と一神教(連続性)との折衷となる。
 これに基づくならば、キリスト教本来とプロテスタンティズムはとても酷似しているのだ。カトリックの方が、異教性が強い。とまれ、そういうような作業仮説に立って、資本主義を考察すると、それは、聖霊教と一神教の分裂性をもっているもので、その自由主義とは、この分裂性をもっているだろう。つまり、不連続的自由主義と連続的自由主義である。前者が、経済的には市場主義であり、後者は、経済的には公共事業、社会主義、官営主義と考えられよう。政治的には、両者、代議制民主主義であるが、前者は、自由主義的民主主義であり、後者は、社会主義的民主主義である。
 とまれ、問題は、不連続性と連続性の関係である。資本主義は分裂的に両義的である。これが、いわば、近代主義を構成したのだろう。そして、冷戦的二項対立を生む。しかし、連続主義が敗北する。すると、資本主義は変質して、不連続性を強化したと言えよう。つまり、プロテスタンティズムは、キリスト教性を否定して、聖霊教性を肯定し出したと言えよう。ただし、ヤハウェ性があるから、超越神性、非妥協的絶対的暴力性があるのである、極度に破壊的である。つまり、聖霊とヤハウェがいわば結合して、連続・同一性的社会主義性を破壊するのである。これが新自由主義ではないか。そう、これはイエス教の破壊的側面と言ってもいいかもしれない。イエス教の連続・同一性をイエス教の不連続性(聖霊性+ヤハウェ性)が破壊するのである。
 問題は新自由主義の市場原理である。これは何か。市場原理とは、基本的には聖霊性・不連続性である。経済的聖霊性・不連続性と言えよう。しかし、新自由主義の場合、ヤハウェ性とそれが結びついているので、連続・同一性、社会主義、平等主義を破壊するのである。いわば、自分自身を破壊するのでる。ヤハウェ/イエスが構築した連続・同一性の社会を破壊するのである。なぜならば、聖霊・不連続性による駆動があるからだ。つまり、ヤハウェ/イエスは自分自身に反動化するのである。これは、自己破壊以外の何ものでもないだろう。つまり、聖霊・不連続性・イデア界の威力によって、ヤハウェ/イエス教は、自己破壊、自害するのである。つまり、新自由主義は正に転換点である。これは、キリスト教の超克である。近代主義の超克である。西洋文明の超克である。ただ、この破壊主義は至上に凶暴であるので、純粋イデア界に帰還して、新秩序化する必要がある。即ち、聖霊・不連続的差異に即した(則した)、社会・政治形成が必要であるということである。経済的には、市場原理が勝利したのである。これは、聖霊・不連続性の勝利である。経済以外の政治・社会・文化において、聖霊・不連続的差異の自由主義を新構築する必要があるのである。

p.s. ヤハウェ教の構造とは、上図式のⅡのイデア界⇒メディア界⇒現象界の移行全体を意味すると考えられる。ただし、光が闇へと転じている事象は、光の差異が闇の同一性へと転化していることと考えられる。この転化の力学は、否定・反動の力学だと思われる。簡単に言えば、差異から自我同一性を形成する力学である。私がこれまで、一神教における、反動性、捩り、拗くれと言ったものは、この転化過程のことと考えられるのであり、これは、一つの自然過程と見ることができる。権力・暴力もこの自然力学である。そして、ジェンダー論的には、これは、父権制の過程である。そして、近世になり、ルネサンスにおいて、イデア界の再賦活が起こり、再構造化が起こったのである。それは、一神教構造においては、プロテスタンティズムとなったのである。つまり、不連続的差異・聖霊の自由主義が発動したのである。これは、ポスト近代主義、ポスト西欧の動きである。結局、一神教構造と自由主義の矛盾・衝突(二律背反)が生じて、それは、冷戦終焉で、基本的に終了したと言えよう。新自由主義とは、経済領域における自由主義の貫徹である。現代は、ポスト近代主義、ポスト西欧主義、ポスト・キリスト教の超新代である。イデア界の不連続的差異的自由主義のスーパー・エポックである。ポスト・ヒューマン、「超人」、生まれ変わりのアイオーンである。西洋文明のサイクルが終焉して、らせん回帰的に新たな文明のサイクルが始まるアイオーンであろう。

2005年10月27日 (23:21)

プロテスタンティズムの構造について:基盤としてのルネサンス・聖霊・イデア界

先の考察を明快に整理しよう。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10005552330.html
宗教改革はルネサンスへの反動と考えていたが、それは単純過ぎるだろう。ルネサンスは、イデア界⇔メディア界⇔現象界の図式でいい。宗教改革は、聖書、超越神信仰から発するメディア界の喪失である。この力学の原因は何か。それは、中世的枠組みの支配への反抗がある。絶対主義王権への反抗がある。封建制への反抗がある。プロテストは、異議申し立てである。ルネサンスの個人主義、自由主義との違いは、共存性の有無ではないか。だから、宗教改革は、非協調主義である。この力学構造は何か。確かに、垂直主義である。非妥協的垂直主義である。これは、ヤハウェ主義である。この根源は何か。これは、先に書いた図式でいいのではないか。即ち、

イデア界⇒メディア界⇒現象界 
 ↑          ↓  
 ・・←・・←・・・←・・

⇒が近代的自我主義・エゴイズムであり、←が父への志向性である。この父への志向性であるが、父とイデア界は実は一致しない。父自体がイデア界への示唆であろう。つまり、父とは、イデア界の一種影であろう。即ち、イデア・メディア境界が父ではないだろうか。だから、図式を修正しないといけない。

イデア界⇒メディア界⇒現象界 
 ↑          ↓  
 ・・/父/←・・・←・・

だいたい、このようになるだろう。//は、イデア・メディア境界である。つまり、父とは、イデア・メディア境界の「力」(おそらく、デュナミス/エネルゲイア)である連続的差異主義である。父は統一的な力となるだろう。なぜ、そうなるのかと言えば、それは、現象界の連続・同一性主義を帯びているからだと思う。現象界的連続・同一性を帯びたイデア・メディア境界が父=ヤハウェだと思う。だから、これは、多神教の構造とよく似ているのである。多神教の場合は、 ⇔となるのであり、神々は、父=ヤハウェと同様に、イデア・メディア境界にあるだろう。だから、ルネサンスが、現象界主義になったのがプロテスタンティズムと言えよう。
 では、この修正をポスト近代主義に当てはめると、新自由主義の勝利とは、一神教・父の勝利であるが、子という近代的水平主義の敗退である。そう、父の勝利を正当に認めなくてはならない。確かに、父の勝利である。
 では、父とは何かである。存在場所は、イデア・メディア境界である。そして、ここが、連続・同一性によっていわば、硬化している。つまり、差異共存性が、同一性化している。差異がいわば一枚岩のようになっている。これが父だろう。そして、それは、メディア界をも支配する。この連続・同一性化した父は、当然、連続・同一性そのものではない。そう、差異共存性、志向性(フッサール)を否定した唯一者である(参照:シュティルナー)。これが、父である。つまり、イデア界の志向性を否定した唯一者である。これは、イデア界の反動と言ってもいいだろう。ここには、冷酷無惨さ・超悪魔性があるのである。(旧約聖書のヤハウェの野蛮酷烈無惨さを見よ。また、西洋文明の同様さと比較せよ。)
 すると、新自由主義が父とするならば、そして、子を滅ぼしたとするなら、それは、聖霊、不連続的差異、イデア界への扉を開いたことになるだろう。問題は、西欧近代主義と聖霊の問題である。ルネサンスは、聖霊的である。そして、ルターの聖書の独訳を見ても、それは音楽的であり、いわば、聖霊的である。つまり、プロテスタンティズムにも本当は、ルネサンス性が存しているのである(参照:バッハ音楽)。つまり、イデア界の志向があるのである。ここは非常に複雑である。やはり、持論である反動と見るのが正しいのではないだろうか。否、単なる反動ではない。二重性である。異教とキリスト教の二重性と言ってもいい。この構造はどうなっているのかである。
 こう考えたらどうだろうか。ルネサンス的志向をもちつつ、反体制的な自由主義に立った時、聖書がイデオロギーとなったということではないか。つまり、プロテスタンティズムとは、ルネサンス且つ聖書である。ルネサンス的キリスト教原理主義である。だから、折衷ではある。ハイブリッドではある。だから、プロテスタンティズムは、イデア界・聖霊性をもつと同時に、それを遮蔽する抑圧性をもつのだ。分裂症である。精神分裂症としてのプロテスタンティズム・資本主義である。ここで、ドゥルーズ&ガタリの『アンチ・オイディプス』、『千のプラトー』を想起する。副題が、「資本主義と精神分裂症」である。確かに、プロテスタンティズム/資本主義は分裂症である。
 とまれ、プロテスタンティズムが以上のように分裂症的なものであるなら、新自由主義とは、父を超えているのではないか。父は抑圧的であり、不連続的差異を認めない。しかし、市場原理は、不連続的差異を肯定するのである。すると、経済的自由主義とは何かの問題にもなるだろう。それは、本来やはり、聖霊、差異、ルネサンス的なのである。しかし、父である国家や子である平等主義・社会主義がそれに対して、規制的である。そうすると、新自由主義の勝利とは、一神教の勝利ではなくて、ルネサンスの勝利である。聖霊の勝利である。父と子の近代主義を破壊したのである。結局、現代とは、ルネサンスの再来であるが、繰り返すが、グローバル・コスモス・ルネサンスである。聖書によって、抑圧されたルネサンスがここで、復活したのである。それは、イデア界の復活である。聖霊の復活である。結局、キリスト教・西洋文明・近代主義が崩壊・解体したのであり、イデア界的自由主義の全面的開花である。

2005年10月27日 (17:21)

聖霊差異自由主義地球資本主義エポック:冷戦の終了、グローバリゼーション、新自由主義とは何か

近代主義とは何であったか。あるいは、近代西欧主義とは。ルネサンスとプロテスタンティズムの二重構造が近代主義と言えよう。持論を繰り返すが、差異が近代の震源であり、それが、最初に開花したのが、イタリア・ルネサンスである。それは、ギリシアの差異経済文化、そして、イスラムの差異経済文化を継承したものである。しかるに、西欧のプロテスタンティズムが勃興し、これが、西欧資本主義を駆動させる。即ち、ルネサンス的差異経済文化性は、いわば、無意識へと排出・隠蔽されるのである。しかし、二重構造性は保持されていると見るべきである。
 簡単に言えば、ルネサンス/キリスト教の二重構造経済文化が西欧近代主義である。そして、キリスト教のもつイエス教が、連続・同一性=水平的平等性を生み、平等民主主義、近代的民主主義、社会主義、共産主義、左翼を生んだのである。そして、他方、キリスト教の一神教性・ヤハウェ教性が、自由主義経済を進展させてきたのである。しかし、これは、植民地主義、帝国主義、世界戦争という人類的災厄をもたらしたのである。結局、キリスト教、とりわけ、プロテスタンティズム、近代的キリスト教のもつ弁証法、父と子との弁証法が、世界を社会主義と資本主義に分離してきたのである。これが冷戦であり、55年体制である。しかるに、これが、周知である、89年ベルリンの壁崩壊、91年ソ連崩壊、92年以降の中国の改革開放路線の進展によって、大崩壊・大解体したのである。ビッグバン、グローバリゼーション、新自由主義の発動が起こった。
 この出来事は、結局、西欧近代主義の破産・終焉を意味すると考えられる。近代主義の終焉である。それ以前に、思想領域では、フランス現代思想と呼ばれたポストモダン、ポスト構造主義が流行したが、それは、基本的には、西欧近代主義の批判的解体を志向したのであり、社会主義、共産主義の大崩壊・大解体を、ある意味で、予見したものを言えるだろう。しかしながら、史的大事件後、思想としてのポストモダン、ポスト構造主義は衰退した。これは、思想として、不徹底・未成熟であったからである。つまり、簡単に言えば、近代的合理主義の批判ではあったが、近代主義の連続主義を残存させていたからである。不徹底な近代主義批判であったからである。(不連続的差異論は、これを徹底して、絶対的な近代主義批判・解体を行なったと考えている。テーマ「不連続的差異論の誕生」のブログを参照。)
 さて、グローバリズム、新自由主義というポスト近代主義とは、理論化するとどうなるだろうか。それは、不連続的差異の経済ということになるだろう。市場原理とは不連続的差異の新しい連結であり、創造的生産/消費主義である。これは、不連続的差異論から言えば、イデア界とメディア界の境界の出来事である。イデア界のデュナミスの新しい連結であるメディア界の創発・創出(エネルゲイア)である。これは、絶対的差異から発しているから、近代主義徹底的に破壊するのである。官営的連続・同一性主義に対する新自由主義の破壊主義である。
 これは、キリスト教的三位一体の用語で考えると、父は資本主義、子は社会主義、官営主義、聖霊は不連続的差異主義である。そして、西欧近代主義において、聖霊=不連続的差異主義が排出・隠蔽されて、潜在・無意識化されたのである。しかし、この聖霊こそが、イデア界であり、不連続的差異であり、これが、資本主義の震源・駆動・起動源である。そして、グローバリゼーションとは、顕在的にはキリスト教の父・一神教・ヤハウェ教、プロテスタンティズムの勝利であるが、しかし、これは、子を破壊しているのある。つまり、キリスト教の崩壊・解体を意味しているのである。キリスト教において、子がなくなれば、それは、キリスト教の死である。神の死である。父の勝利とは、父の死である。これは、どういうことかと言えば、資本主義は、真実在的には、聖霊=不連続的差異によって駆動されているのであり、それが、グローバリゼーションにおいて、父の子に対する勝利となって顕在化したのである。つまり、資本主義は、近代主義の枠を解体したのである。つまり、プロテスタンティズムという仮象・仮装・仮面を突き破ったのである。地(ぢ)のルネサンスが噴出したのである。聖霊・不連続的差異が噴出したのである。換言すれば、父と子の弁証法である近代主義が破壊されたのであり、その弁証法の彼岸である聖霊が出現したのである。聖霊グローバル・エポックである。不連続的差異のグローバル・コスモス・エポックである。そう、絶対的ポスト・キリスト教=西洋文明のエポックである。そう、前古代、古代、中世がらせん的に回帰するのである。思うに、EUもそういう意味合いがあるのではないだろうか。すると、東アジアもそういうことになるだろう。東アジアに前古代、古代、中世がもどってくるのである。聖霊・グローバル・コスモス的超新時代である。
 新自由主義に相応するように新社会民主主義、自由社会民主主義が発動されるだろう。グローバル・コスモス・ルネサンスのスーパー・エポックである。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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