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2006年01月22日 (18:33)

父権的部族主義/近代/差異の近代日本と不連続的ポストモダン・ヤポネシア・レヴォリューション

近代日本は、半封建/半近代主義であったと考えられるし、戦後日本は、USAに対して、半独立国半植民地である。しかし、基本的な半封建/半近代主義はベースにあると考えられる。父権的部族主義を基底にもつ近代主義である。父権的共同体的近代主義である。ここで、近代主義を明確化すると、主客二元論による近代的自我主義・合理主義・科学主義のことである。それに対して、啓蒙思想、女性解放思想、自由主義、民主主義等は、近代主義ではなくて、差異主義であると考えられる。(資本主義も本来は、差異主義であると考えられる。)つまり、近代という時代は、少なくとも、近代主義と差異主義の二重構造をもっていた。
 だから、日本の近代主義は、当然、差異主義とは別のものである。勿論、差異主義も日本に入ってきたが、それは、教養主義的なものとなったと思われる。おそらく、日本の差異主義は、教養主義が維持してきたものと思われるのである。そして、これが、良識層を形成したのである。だから、近代日本とは、正確に言えば、封建/近代/差異(教養)的三元論性をもっていたと言えよう。しかしながら、権力においては、封建主義が支配的であったと言えよう。そして、これが、暴走して太平洋戦争へと突入して行った。
 戦後日本は、近代主義が強化されたが、しかし、基盤にある封建主義(父権的部族主義)は変わらなかった。つまり、封建/近代/差異という図式は変わらなかった。しかしながら、近代主義が強化されて、差異(教養)主義が、疎外されて行ったと言えよう。資本主義の強化である。つまり、差異(教養)主義を軽視ないし無視した、半封建/半近代主義的資本主義の発達である。そして、これを、自民党政府は形成してきたと言えよう。そして、これが、ケインズ的財政赤字経済(国家社会主義)を構築したのである。これは、近代主義と父権的部族主義(共同体主義)に上に乗ったものである。
 そして、バブル発生とバブル崩壊、グローバリゼーション、そして、小泉「改革」である。自民党は、封建/近代/差異の三元性をもっているが、封建/近代性の基盤に資本集合型経済(公共事業主義経済・ケインズ主義)が発展したのである。そして、バブル崩壊後の超赤字財政の事態から、小泉「構造改革」・新自由主義路線が生まれる。これは、自民党の封建/近代主義を否定する立場に立つものである。広義において、ポストモダンと呼べるだろう。しかし、新自由主義は、資本主義的自由主義の系譜にあり、リバタリアニズムである。そして、これは、差異主義の一つでもある。
 しかしながら、ポストモダン、差異主義の問題があるのである。ODA ウォッチャーズ氏は、小泉路線を構造主義路線と見ている。日本でこのような見方をしている人を、寡聞にして、他には知らない。しかし、構造主義という見方は、鋭敏であると思われる。構造主義という思想は、実は、本来的に、ポスト近代的なのである。構造主義=ポストモダンと言っていいだろう。だから、フランス現代思想における「ポスト構造主義」とは、ポスト・ポストモダンということになるのである。しかしながら、問題を複雑にして、錯綜させるのは、構造主義と「ポスト構造主義」とは、相補性になっていると考えられることである。だから、用語としては、両者をポストモダンと呼ぶことができるのである。つまり、構造主義は、現象を生みだす超越論的構造を指摘しているのであるが、この超越論的構造とは、実は、極性のある領域で生成変化するのである。すなわち、不連続的差異論におけるメディア界なのである。だから、構造主義/ポスト構造主義=ポストモダンとしていいのである。
 ということで、小泉「構造改革」路線は、ポストモダンである。差異主義である。しかし、この路線の欠陥は、何度も繰り返すことになるが、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対理論で見事に剔抉されるのである。ポストモダンは、共同体に転化してしまうのである。つまり、簡単に言えば、小泉「構造改革」は、自民党の守旧的な封建/近代主義的官僚体質に回帰してしまうのである。この力学については、先に述べたが、それは、ポストモダンは、メディア界的であるが、それが、連続主義に飲み込まれて、封建的なメディア界的集合性に一致するということと考えられるのである。これで、小泉首相の靖国参拝や安倍官房長官への支持が発生すると考えられるのである。
 結局、今日、ポスト小泉としては、ポスト・ポストモダン主義が必要なのである。ポストモダンを真に進展させるには、そうならなくてはならないのである。私は、仮に、ウルトラ・ポストモダンと呼んでいるが。あるいは、不連続的ポストモダンと呼ぶことが出来るだろう。先に述べたことを繰り返すが、小泉構造改革とライブドアは、ポストモダン改革の第一波であり、それを乗り越えて、不連続的ポストモダン改革へと進展すべきなのである。
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2006年01月21日 (18:02)

ライブドア問題を哲学する:その2:IT企業・ポストモダン・メディア界の両義性の落し穴

ホリエモンの側近の自殺を聞くと、何か、また、オウム真理教を想起する。私は、去年から、ライブドアに新興宗教の感じを受けていた。ホリエモンが尊師であり、社員は信者である。おそらく、この連想は間違っていないだろう。このことを含めて、大澤真幸/ODA ウォッチャーズ両氏の三幅対論の線に沿って、本件を考察しよう。

A.1.プレモダン/2.モダン/3.ポストモダン

B.1.原理主義/2.モダン/3.多文化主義

C.1.共同体/2.モダン(構造主義)/3.脱構造主義

A~Cは、等価構造である。そして、1と3は、相互依存、相補性を形成している(「アイロニカルな没入」)。IT企業は、3に相当する。そして、前近代的共同体(「父権的部族主義」)が残存している。そして、ライブドアは、この三幅対構造の力学から、プレモダン・原理主義・共同体に癒着したと言えるだろう。極めて、単純・明快である。これで、ライブドアの転落は説明できるのである。
 しかし、これは、ポスト・モダン主義にとっては、由々しき問題である。いわば、袋小路・閉塞である。実は、これは、ポスト構造主義のジル・ドゥルーズの哲学の閉塞と同質・等価と考えられるのである。この点について、不連続的差異論から究明しよう。
 この問題の中心は、メディア界にあると考えられる。近代主義は、主客二元論=二項対立を構築して、揺らぎの無い世界観をもった。しかし、とりわけ、20世紀後半において、近代主義が解体して、ポストモダンの状況が生まれる。これは、広義には、個人主義、自由主義、情報資本主義等の進展として捉えることができるだろう。これは、不連続的差異論におけるメディア界の領域の開拓に通じるのである。即ち、近代的自我・合理主義を脱構築する力の発動である。しかしながら、メディア界とは不連続性と連続性の連結している領域であり、また、イデア界と現象界の媒介の領域である。
 問題は、IT企業=ポストモダン=メディア界が、発展しようとするときに、危険な罠があるということである。それは、連続化である。ここは、非常に複雑な事態がある。不連続的差異論におけるメディア界とはエネルギー領域であるが、原動力はイデア界にある。即ち、メディア界は、本来、イデア界、つまり、不連続的差異によって駆動されているのである。しかし、それが、メディア界特有の様相によって、連続性が同時に作動しているのである。力動の根源は、イデア界・不連続的差異でありながらも、同時に、連続性の力学がそこには作用しているのである。だから、IT企業=ポストモダン=メディア界は、厳しい自己認識をもたないと、連続性の力学に流されるのである。それは、イデア界・不連続性の反動という形で、連続性が強化されるので、極めて悪しきもの、悪魔的なものになるのである。本来、不連続的差異性に駆動されていながらも、連続性の傾向のために、反動的な連続化が発生するのである。これが、大澤真幸氏が述べた「アイロニカルな没入」であろう。つまり、IT企業=ポストモダン=メディア界は反転して、前近代・原理主義・共同体へと転化するのである。これが、ライブドアに起ったことと考えられるのである。私が、新興宗教化と言ったは、ここから来ているのである。そして、経済倫理を喪失したのも、ここから発していると考えられるのである。悪魔化である。
 さて、この隘路からの脱出は、先にも述べたが、また、これまでの記述からわかるように、IT企業=ポストモダン=メディア界の不連続化、不連続的差異化、脱構造主義化である。つまり、共同体との関係を一切切断しないといけないし、不連続的差異の共立・共生・共存というイデア界の志向性・要請を実現する方向をもたなくてはならないということである。つまり、IT企業=ポストモダン=メディア界のイデア界化が必要なのである。IT企業が、不連続的差異としての市民や地域と共立・共生・共存することが絶対的に必須であるということである。
 思うに、ホリエモンは、出発点としては、彼自身、不連続的差異であったろう。そして、IT経済・ポストモダン・メディア界を構築する。しかし、この連続性の力動・エネルギーに彼は染まり、出発点の不連続的差異性を喪失・忘失するのであり、さらに反動化して、共同体化して、ダークな、違法な行為へ突き進んだのである。彼に欠落していたものは、真の理論・哲学・叡知である。彼に、ポストモダンの叡知があれば、正しく進むべき方向は察知できただろう。正しい方向とは、不連続化、不連続的差異化、イデア界化への方向である。それは、不連続的差異の共立・共生・共存・共創であり、それは、ポストモダン的民主主義の方向である。彼は、経済において、民主主義を否定していたが、それこそ、必要であったのである。傲り、倨傲によって、自滅したと言えよう。彼の倨傲・驕慢とは、反動的なポストモダン的心性に拠るのである。そう、メディア界とは、極めて危険な領域であり、不連続性と連続性がいわばせめぎ合い、相克様相にあるのである。不連続性が連続性を否定しようとしたり、連続性が不連続性を否定しようとする矛盾同一の力学がここにはあるのである。
 
 

以下資料。________________________________________

─ Dailymail Businessより ─────────────────────────
■ 堀江をもてはやしていたのは誰だ
■ 今になってマネーゲームだ錬金術師だなどと
■ 批判している大新聞・テレビ報道のバカらしさ
■ とにかくこの国を悪くした小泉ペテン改革5年間
──────────────────────────────────────

----------------------------------------------------------
竹中イカレ大臣が小泉デタラメ首相に吹き込んだ改革と称する
株式資本主義とIT至上主義はいよいよ馬脚をあらわしている

5年も経ってもいまだに「改革の芽を大きな木に育てたい」
とフザケたことを言っているが、こんな政治が続いていれば
第2第3のホリエモンが続出し国は滅びる
----------------------------------------------------------

「時価総額世界一は近い将来なんじゃないか」。昨年12月25日の株主総会でこう
ブチ上げ、自ら進んでフラッシュライトを浴びていた男が、今はマスコミから逃げ回
っている。近く、東京地検の事情聴取を受けるライブドア社長の堀江貴文(33)。
豹変ぶりは大新聞・テレビも同じで、今になって堀江批判を始めた。
「株式分割と株式交換を組み合わせた『錬金術』にメスが入った」「投資家を軽んじ
たマネー至上主義の実態はどこまで解明されるのか」なんて調子で、堀江を連日バッ
シングだ。「1株が3万株は法律スレスレ」とか「分割の時間差を利用して株価45
倍」と、もともと錬金手口が問題視されていたかのように解説する記事も多い。
 テレビのワイドショースタッフは、「局内は『とにかくホリエモンをたたけ』で突
っ走っている。もちろん数字(視聴率)が取れるからで、コメンテーターもアンチ堀
江派をどんどん使っていきますよ」と笑う。
 何を今さら、じゃないか。ウサンくさい「錬金術師」を百も承知で、これまでもて
はやしていたのは、一体、誰なのか。
 堀江はプロ野球新規参入、フジテレビ買収、衆院選出馬……と、株価を吊り上げる
ために話題を振りまいてきた。そのたびに、TVのコメンテーターたちは「旧体制を
ブチ壊す革命家」「時代の寵児」とヨイショしてきた。乗っ取られそうになったフジ
テレビやTBSまでが、バラエティー番組に呼んで喜んでいた。

◆ 女性広報までタレント扱い ◆

 さらにホリエモンのPR担当者・乙部綾子を「美人広報」とちやほやし、エッセー
集まで出版させてバカ騒ぎしていたはずが、事件発覚後は「(堀江は)会見で目が泳
いでいた」なんて小バカにしている。法大教授の須藤春夫氏(マスコミ論)がこう言
う。
「勝ち組・負け組社会の成功者として堀江氏を持ち上げてきた大マスコミの責任は重
大ですよ。当然、知っていたはずの違法スレスレの経営手法には目をつぶり、プロ野
球新規参入問題では、旧体制に一石を投じたベンチャーの旗手として扱った。だから
世間も、新時代の起業家として歓迎したのです。フジテレビの買収騒動にしても、む
しろ防衛策を講じなかったテレビ局の方が悪いという論調で後押ししていた。結果と
して大マスコミは、『違法でなければ何をやってもいい』という時代の雰囲気づくり
に加担したとも言えるでしょう」
 それでもまだ、朝日新聞などは「堀江流の功罪」とか「ライブドアが残したものは
『負の遺産』ばかりではない」なんて生ぬるいことを書いている。
「先の総選挙で朝から晩まで堀江氏を追いかけ回し、“選挙協力”していたTVは、
特捜部が動いた途端に手のひら返しです。なぜ、堀江氏のような存在を生み出してし
まったのかという問題の本質を突かず、ただ勝ち馬に乗るだけの報道姿勢を改めない
と、今後も第2、第3のホリエモンを生み出すだけです。個人投資家は、結局、メデ
ィアがつくった“ITバブル”に乗せられて痛い目に遭った。そういう意味でも罪は
重いですね」(須藤春夫氏=前出)
 今になってTV局は堀江や乙部出演の番組を大慌てで差し替えている。堀江をのさ
ばらせてきた大マスコミに、批判する資格などないのだ。無節操だし、調子がよすぎ
る。

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■ ホリエモン側近(野口英昭氏)はなぜ自殺したのか
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 ホリエモンの側近が自殺していた。地検特捜部の強制捜査後に失踪、18日に那覇
市内のホテルで遺体が見つかったのだ。亡くなったエイチ・エス証券副社長の野口英
昭氏(38)は、事件のキーマンだった。

▼ 不正事件のキーマンだった ▼

 ライブドアの違法行為は、自社の支配下にあった「JMAMサルベージ1号投資事
業組合」がすでに買収済みだった消費者金融「ロイヤル信販」など2社の株価吊り上
げのために、「今から買収する」とニセ情報を流していたことだ。
 この投資事業組合を運営する「日本M&Aマネジメント」の親会社「エイチ・エス
インベストメント」社長が野口氏。ライブドアの指示を受け、M&Aの契約書の作成
などを組合員に行わせていた。
 野口氏は元国際証券(現三菱UFJ証券)社員だったが、堀江社長に公開取引業務
の手腕を買われ、00年にライブドアの前身「オン・ザ・エッヂ」に入社、マザーズ
上場の立役者とされる。02年にエイチ・エス証券に移った後も、ホリエモンらライ
ブドア幹部との交流は続いた。

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
日刊ゲンダイ Dailymail Digest 2006年 1月21日号(平日毎日発行)

2005年10月31日 (03:59)

メディア・現象境界構造について:思いつき

本件は容易に分析できると考えていたので、これまで、特に問題化しなかったが、やはり、きちんと整理する必要がある。
 簡単に言えば、差異的多様性がメディア界にある。それを、「光」が主導して、連続・同一性化させるのである。即ち、差異的多様性をもっていた「光」が、言語的連続・同一性化されて、自我・現象界化するのではないだろうか。この言語的連続・同一性が、カントの超越論的形式に当たるだろう。
 思うに、メディア界においては、『鏡の国のアリス』の白の女王におけるように、時間が逆転することも可能であるが、この超時空性が、メディア・現象境界において、凝縮するのではないだろうか。つまり、簡単に言えば、差異1→差異2が、イデア界とすれば、差異1⇔差異2ないし差異1~差異2がメディア界で、双方向的である。これが、差異1ー差異2ないし差異1・差異2と固定化するのが、現象界だろう。メディア界の強度という原時間(⇔又は~)が、垂直化して、有時間(ー又は・)となるのではないだろうか。つまり、差異の垂直化としての現象界である。メディア界は、垂直性と水平性がゆらいでいるのである。位相体。垂直力によって、時間が生じて、水平性が空間化して、現象四次元空間が生起するのではないだろうか。メディア界は、超時空間位相体であるが、これが、垂直力の有時間化によって、有空間化するのではないか。垂直力が「光あれ」ではないか。言語行為である。というか、原言語行為である。そして、人間の言語とは、これを模倣しているのではないか。だから、現象界とは、「言語行為」によって形成されているということではないか。これが、超越論的形式ではないか。つまり、これは、数学である。数学=言語行為⇒現象ではないか。微分という言語行為があり、現象=積分(=異化)が生じたのでは。そう、垂直力が微分ではないか。垂直力=微分=時間ではないか。これで、空間=積分が生じたのでは。つまり、微分⇒積分である。つまり、時間が空間を形成する。つまり、志向性が、メディア連結を生み、さらに、現象界連続化を生んだのではないか。

1.イデア差異志向性⇒2.メディア連結志向性⇒3.現象連続志向性? 

ここで、簡単に現象界知覚について触れると、
差異1⇒差異2の⇒の終点の極限値状態つまり、差異1=差異2となったのが、現象界ではないか。では、どうして、主客二元論となるのか。差異1=差異2とは、正に、超越論的形式のことではないか。差異の連続・同一性化である。これが、フレーム化ではないか。差異の連続・同一性化によって、現象性が形成されるのではないか。言語とは、この記号化であろう。つまり、差異の喪失としての現象界化である。
 しかし、私は、現象界の個体は本来、特異性と考えている。これをどう説明できるのか。それは、連続・同一性(差異1=差異2)においても、差異(=特異性)自体が内在しているからではないか。つまり、本来、不連続的差異の共立である一種の特異性がそこには潜在しているということではないか。そう、不連続的差異の共立・共存体が、本体であり、それが、連続・同一性化されているのが、現象個体(=仮象)であり、不連続的差異=特異性の共立体である現象個体とは、当然、本来、特異性である。特異性の集合と言ってもいいのかもしれない。ここで、思うのは、やはり、ニーチェである。ニーチェは、特異性の共立体、不連続的差異の共立の垂直性を説いたと言えよう。そして、フッサールは、主に、その水平性であろう。ドゥルーズも最善のときは、存立平面として、それを説いているだろう。

2005年10月30日 (17:25)

近代的二元論が、諸悪の根源である:近代主義の彼岸としての不連続的差異論


近代的二元論とは、当然、近代的合理主義、近代的自我主義であるが、近代的合理主義とは、フッサールの説く近世・近代的自然科学の客観主義である。これは、デカルト哲学の一面化に過ぎず、その特異性の哲学を喪失している。
 近代的合理主義・近代的客観主義とは、ある主観性に規定されている。ある主観性のフレーム化をもっている。これは、カントの超越論的形式主義であるが、これは、不連続的差異論から見ると、メディア界と現象界の境界のもつ連続・同一性の構造性を意味する。即ち、メディア界→現象界の反転・反動・能動構造力学を作動していて、現象界は、メディア界を排出・隠蔽しているのである。(この力学構造の詳細に関しては、後で、検討する。)即ち、メディア・現象境界の連続・同一性構造という主観性構造・形式(一つの超越論的主観性)が、近代的合理主義・客観主義の主観性であり、近代的自我主義(利己主義)を形成しているのである。
 マルクスの説いた交換価値も、こことリンクしているのであり、これが、近代的資本主義や社会主義の基盤である。
 さて、ポストモダニズムやポスト構造主義は、この近代主義を解体したと言えよう。不連続的差異論から言えば、メディア界の極性的同一性、相補性を説いたのである。(しかし、これは、量子論や相対性理論に相当する哲学であろう。哲学の遅延。)簡単に言えば、近代的自我・合理主義/連続的同一性客観主義を論破したのである。近代的自我は、差異的多様性に変化した。しかし、この差異は、まだ、連続的差異である。つまり、ポスト構造主義等の脱近代主義は、連続主義を残しているのである。連続主義とは、集合主義、連合主義、連帯主義、全体主義である。これは、また、共同体主義、ナショナリズム、国家主義でもある。近代的自我主義を乗り越えたが、連続主義を残してしまっているのである。政治的には、全体主義・ファシズム、(国民)国家主義、ナショナリズム等である。
 だから、さらに、ポスト構造主義を超えて、不連続的差異主義へと進展する必要があるのである。これで、ポスト近代主義が完璧となるのである。 
 さて、最後に、ポスト近代主義において、心身はどうなるか見てみよう。近代的自我・合理・客観主義とは、連続・同一性構造主義であり、それは、精神と物質の二元論をもたらした。つまり、近代的機械論である。精神のない物質があり、その物質形式を精神が認識するということである。この主観性は、機械主義的合理主義である。いわゆる、感情や魂等は排除されている。感情や魂とは、不連続的差異論から見ると、イデア・メディア境界の事象である。これが、近代主義によって排除されるのである。イデア界の回転的変動・不連続的差異の垂直・水平的変動を排除するのである。この抑圧・隠蔽が反動・暴力であり、他者への差別・攻撃となるのである(日常の諸暴力に加えて、植民地主義、帝国主義、世界大戦、覇権主義等を派生した)。
 デリダ哲学は、メディア界的極性的生成変化(構築と脱構築の反復・相補性)を説いたが、ドゥルーズ&ガタリ哲学は、イデア・メディア境界に達したが、このいわばブラックホールに陥ってしまった。即ち、不連続的差異性と連続的差異性との混同が起こったのである。この点、絶対矛盾的自己合一を説く西田哲学の方が明敏である。そして、世界の大変動に対して、ポスト構造主義は衰退した。確かに、ドゥルーズ&ガタリは、資本主義の分裂性を把捉していたのである。思うに、ドゥルーズ&ガタリ哲学とは、現代資本主義の差異価値性を理論化したものと言えるのだろう。しかし、それは、メディア界的資本主義であり、イデア界的資本主義ではない。グローバリゼーションは、新自由主義は、ポスト連続主義である。即ち、イデア界的なのである。ある意味で、ニーチェ哲学の境域にあると言えよう。物自体も超えている。根源の差異、不連続的差異の世界である。これは、フッサール現象学の間主観性の世界・生活世界である。市場原理主義とは、一切の先入観を排しているのである。超物自体である。「空」である。「空」である差異と「空」である差異との共立原理である。ここは、偶然の世界である。必然性はないのである。骰子一擲の世界である。このニーチェ・フッサール哲学あるいは不連続的差異論の世界に、現代最新の資本主義は達しているのである。ハイパーリンクの世界である。これは、イデア界であり、また、イデア・メディア境界の世界である。ここで、突然変異が生起するのである。差異の組み換えが生起するのである。結局、こうなると、国家、社会、文化も不連続的差異化せざるを得なくなる。国家は人体の脳のように、内外信号の整合化機関(器官)として、ミニマム化されるだろう。もっとも脳とは、不連続的差異の器官ではないか。そう、ここで、アントナン・アルトーの器官なき身体を想起する。器官なき身体とは脳のことではないか。あるいは、「脳」。これは、イデア界の器官ではないか。不連続的差異の器官ではないか。そう、双方向的なイデア・メディア境界とも言えよう。ホワイトヘッド哲学のプロセスに相当するだろう。

2005年10月29日 (18:07)

プロテスタンティズムと聖霊の関係:ポストモダン・不連続的差異自由主義イデア界原点革命

問題は、イエス教の意味である。神の下の平等の問題でもある。これは、確かに、キリスト教原理である。ヤハウェとイエスの合体である。しかし、ロゴスを言葉と訳したため、イデア界が喪失されて、現象界中心となった。これは、近代的二元論と相応するだろう。思惟(精神)と延長(物質)の二元論である。ここから、フッサールが批判する物理学的客観主義が生まれた。近代的合理主義である。
 結局、聖霊が意識的には、喪失されたと言えるが、潜在的には、聖霊は存していた。つまり、ルネサンスがプロテスタンティズムに潜在していた。やはり、分裂症としての西欧近代主義である。宗教改革/ルネサンスの二重構造をもつ西欧近代主義である。つまり、イデア界と現象界の分裂である。メディア界を喪失しているとも言える。
 近代的資本主義は、二元論的資本主義であり、聖霊を喪失している。しかし、民主主義が勃興する。それは、実は、イデア界が作用しているからである。しかし、これは、イデア界自体としては理解されずに、現象界的「理性」として理解される。啓蒙思想・フランス革命。つまり、近代的合理主義の枠で、民主主義が創出された。これは、また、キリスト教の平等主義と見合うものである。それは、連続・同一性的平等主義である。「汝自身の如く隣人を愛せよ」 これは、差異の否定である。そして、近代的資本主義に対抗して、社会主義思想・運動が生まれる。これも、結局、近代主義的連続・同一性主義である。つまり、生産の政治的統制を意味するのである。計画経済である。ここにも、差異がない。そして、近代は、近代的資本主義と近代的社会主義に分離して、冷戦に帰結する。しかし、既述のように、資本主義は、ルネサンス、聖霊、差異を内在しているのである。つまり、資本主義自体、ポスト近代主義なのである。つまり、自由主義である。これが、社会主義と決定的に異なる点である。まとめると、近代的資本主義は、キリスト教化された差異自由主義である。イデア界/現象界の分裂症的資本主義である。差異/同一性分裂症的資本主義である。問題は、イデア界の力が、近代主義の枠に閉塞されることである。差異自由主義が、連続・同一性的合理主義のフレームに閉じ込められることである。ここで、キリスト教の用語である三位一体の用語を用いると、近代主義とは、父と子の合体である。一神教と神的平等主義。そして、一神教性は、戦闘・戦争・破壊主義となった。この父と子の合体に対して、無意識の聖霊・差異が作動するのである。これは、差異自由主義であるが、これが、父・子の近代主義をまとうのでる。つまり、差異自由主義が父・子・近代主義化されるのである。これが、植民地主義、帝国主義、世界大戦を生んだと言えよう。【また、社会主義国家の誕生に対応して、国家資本主義・社会主義性を、近代資本主義は取り入れた(ケインズ主義)。】
 この抑圧構造を近代的資本主義はもっていた。つまり、

1.差異自由主義(聖霊)/⇔/2.戦闘的経済自由主義(父)/3.連続的民主主義(子)

の三重構造である。(/⇔/は、抑圧構造の意味である。)
そして、3において、社会主義化したのである。これが、冷戦的資本主義である。しかし、冷戦の終了によって、社会主義が否定され、グローバリゼーションが発動し、新自由主義革命が起こる。これは、社会主義化した3の否定である。小さな政府はそのような意味をもつ。しかし、市場原理主義とは、これは、1の原理である。これは、2の側面をもっているので、極めて破壊的になってはいる。しかしながら、3を否定したので、キリスト教原理は崩壊する。それは、父と子の結合である近代主義の崩壊である。ポスト構造主義、ポストモダニズムは、理論的に近代主義の崩壊を準備したと言えよう。フランス革命を準備した啓蒙思想の位置に相当するとも言えるだろう。すると、近代主義の崩壊によって、実は、根源的な力が発動するようになる。つまり、1の差異自由主義が賦活されるのである。イデア界の力が躍動するようになると言えよう。そう、ネオコンとは、父の側面だろう。しかし、近代主義が崩壊したので、父も解体するのである。子が崩壊しても、父が残ることはありえない。なぜならば、父と子は近代主義において一体だからである。父とは近代的合理主義である。近代的自我主義である。結局、近代主義の終焉である。ポスト近代主義の噴火である。この震源は、差異自由主義・聖霊・イデア界自体である。そして、新自由主義は、その経済的発現である。ただし、国家の枠があるから、権力的で破壊的である。(国家とは何かの問題があるが、後で検討。)
 結局、現代は、ポスト近代主義「革命」(相転移)の新時代であり、近代主義がすべて否定・破壊されるエポックである。思うに、政治・経済の方が、ポスト近代主義を牽引しているのであるが、いまだ、近代主義に染まっている知識人・文化人・国民は、新自由主義をただ否定的に捉えることしかできない。今や、新自由主義は、社会・文化・生活においても発動されなくてはならないのである。それは、不連続的差異共存・共立・共生社会体の構築であろう。不連続的差異共存的民主主義の新構築であろう。
 不連続的差異革命である。イデア界という原点革命である。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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