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2007年10月18日 (08:51)

「昼と夜のあいだに」:闇と光のあいだに:TwilightとMedia Point

近代的自我の現代の世界は確かに病気、いわば、自我精神病の世界である。しかし、他方、オカルト主義も、他方の病気であろう。前者が昼の病気ならば、後者は夜の病気である。合理主義の病気と非合理主義の病気である。
 そこで私は考えた。夜と昼、闇と光の間にこそ、正常な健全な意識があると。霊の世界ではなく、また、光の世界でもなく、両者の中間に、健全な世界があるのではないかと。
 Media Pointの原点に螺旋的に回帰したとき、この中間の意識がやってくるように思う。超越性と地上性との中間の意識である。ルネサンスは、両者が未分化な点があり、結局、プロテスタンティズムに席を譲った。しかし、プロテスタンティズムは超越性を失い、地上的合理主義となった。昼の世界だけである。近代的意識の世界、利己主義、自己中心主義の世界である。
 それに対して、夜、霊、神秘、ロマンの世界があるが、それは、裏返し。合理主義と神秘主義の間に、その両極の間に、本当の世界があるだろう。
 D.H.ロレンスは、Twilightの世界を求めていた。神話で言えば、ヘルメス神、日本で言えば道祖神。Medium、Mediaである。そう、やはり、Media Pointの世界である。

p.s. 言い換えると、物と心の中間の世界である。虚と実の中間とも言える。Media Point. Media Centre. Media Twilight. Media Cross.

p.p.s. 後で詳述ないしは補足したい。


参考:
「昼と夜のあいだに」ふたりの私。「沢尻エリカ」の新曲??
2007年10月07日08時09分


"Two surface characteristics"(制作:池野 徹)10月6日。
【PJ 2007年10月07日】- 人間は二面性のある動物である。精神性が崇高で優れていても、肉体性が欲高で品性に欠けるかも知れない。マジメのようでも、フマジメな部分もある。昼は女王であっても夜はしょう婦かも知れない。マジメによく働くビジネスマンでも、浮気好きな亭主かも知れない。トップに立つリーダーの男でも、家に帰れば尻に敷かれている男かも知れない。つまり、生存本能があるうちは、人間機能が発揮され、生きるエネルギーになってバランスをとっているのだ。人間的と言われれば、ごく普通の事であり、それが人生であって、喜怒哀楽の世界をつくり、面白き人間世界をつくっており、一生を過ごしているのだろうけど。
http://news.livedoor.com/article/detail/3335396/
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2005年11月06日 (19:45)

イデア界の変容としての現象界:原我(アートマン)は、記憶するだろう


後で、検討したいが、イデア界の不連続的差異の志向性(原我=アートマン)が、メディア界を形成し、そして、現象界を発現させるのだから、現象界・現実とは、根源界であるイデア界の不連続的差異の変容であると言えよう。経験界は、イデア界なのである。イデア界の座標の出来事なのである。不連続的差異の事象・出来事なのである。当然、経験は、イデア界の事象であるから、永遠である。つまり、現世は、永遠に記憶されているということである。プラトンの霊魂不滅説や想起説は正しいのである。

2005年10月30日 (03:09)

自我の根源とは何か:「わたし」はどこから来て、どこへ行くのか

今は、思考実験でしかないが、作業仮説的に、自我の根源をイデア界の差異共存体としよう。これが、メディア界的遺伝子・形相化して、メディア界と現象界の境界で、有機体化して、個体として誕生するとしよう。即ち、自我個体とは、根源は、イデア界の差異共存体であり、それが、メディア界・遺伝子・形相化されて、現象界で有機体となるのである。図式化すると、

3.現象界:心身体・・・フッサールの自然的態度
________________________
2.メディア界:遺伝子・形相
___________超越論的主観性・生ける現在
1.イデア界:差異共存体・・・絶対的自我・原自我・「神」


このようになるだろう。つまり、人間の根源はイデア界自体である。そして、たとえば、睡眠中は、「わたし」は、イデア界に帰還しているのだろう。というか、原自我にもどっているのだ。不連続的差異の共存体に回帰しているのだ。そして、また、死んだ時は、絶対的に、イデア界に帰還するのだろう。これで、一応、理論化できたのであるが、問題は、個の問題である。自我、「わたし」は、不連続的差異共存体である原自我・イデア界に回帰するのであるが、そのとき、現象界での個はどうなるのか。
 角度を変えて、考えよう。つまり、イデア界の差異を個のように捉えていいのかどうかである。確かに、d1,d2,d3,・・・dnと考えてきたのだから、差異は「個」である。これを、「霊魂」のようなものとしていいのだろうか。(この問題は、解決したが。)
 ここで、また、直観で考えよう。つまり、睡眠中、「わたし」はどうなっているのかという問題を考えよう。夢を見ている時は、「わたし」はメディア界にいるだろう。というか、メディア界を知覚しているのである。ゆらぐ、時空間を超越した世界を知覚しているのである。そう、メディア界自体に存していると言っていいのではないか。 
 次に、夢を見ていない時は、どこにいるのか。先に、「幽体離脱」ではないかと述べた。直観で言えば、メディア界とともに「幽体離脱」状態ではないか。差異連結体であるメディア界が、肉体現象から離脱する? 否、知覚を考えなくてはいけない。知覚とは、根源は、差異境界、差異の強度だろう。つまり、「光」である。思うに、「幽体」とは、メディア界の強度である。エネルギー体である。これが、イデア界へ帰還するのではないか。つまり、メディア・エネルギーが、脱連結化して、差異共存体の「光」へと回帰するのではないか。つまり、即ち、差異共存体の「光」・超光に回帰して、その根源のエネルギーを補給されるのではないだろうか。(だんだん、ファンタジーになってきた。)そして、「バッテリー」が充電されて、再び、メディア界、現象界へと戻るのではないか。すると、知覚とは、エネルギー体である。差異エネルギー体である。そう、光の一種ではないか。結局は、イデア界の差異共存体の「光」、原光ではないか。すると、この原光は、記憶媒体となるのではないか。現象界の記憶媒体となるのではないか。つまり、原光としての知覚である。ということは、無数の差異とは別に、無数の生成変化する原光の知覚があるということになるだろう。この無数の原光知覚が、原自我ではないか。多数の原自我があるということになる。これが、霊魂と言われるものではないか。プラトンは霊魂の不死と言ったが、この原光知覚・原自我のことではないか。ウパニシャッド哲学で、梵我一如(ブラフマンとアートマンの一体性)というが、ブラフマンとはイデア界であり、アートマンが、原自我であろう。そして、これは、無数あるということになる。
 ならば、差異は何かということになる。差異は、自然の質料を主に形成するのではないだろうか。差異=質料であり、原光=知覚である。そして、差異・原光=質料・知覚である。これが、知即存在ではないか。
 ここで、ひとまず、筆を置く。
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