アポロ的ヴィジョンの再考:イデア界的ヴィジョンか、それとも、メディア界的ヴィジョンなのか
先に、アポロ的ヴィジョンを、イデア界的ヴィジョンと言ったが、違う考え方もできるように思われる。即ち、イデア・メディア境界におけるヴィジョンと見られるということである。つまり、イデア界自体のヴィジョンではなくて、イデア・メディア境界自体のもつヴィジョンである。つまり、IM境界(イデア/メディア境界)という「カオスモス」、不連続的差異の共立性と連続性との矛盾同一という混沌とした領域において、複数の連続的なヴィジョンが発生しうると考えられる。すなわち、不連続的差異が複数的に連続化して、アポロ的ヴィジョン、多神教的ヴィジョンが形成されるということである。幻想と言ってもいいだろう。
ということで、アポロ的ヴィジョンとは、どちらなのだろうか、イデア界的ヴィジョンなのか、それとも、メディア界的ヴィジョンなのか。(メディア界的ヴィジョンを、メディア面的ヴィジョン・心象風景とも言えるだろう。)ここはある意味で、核心的な問題である。神話/宗教的表現を理論的にどう把捉するのかという問題である。ニーチェのディオニュソス/アポロ的概念とは、多神教の表現概念である。つまり、多神教表現を、どのように位置づけるかである。IM 境界(カオスモス、絶対矛盾的自己同一)における、多数、複数、多元性の問題である。アポロ神(太陽神)とは、これは、当然、現象界の太陽という連続/同一性の表現をともなっている。だから、メディア界的ヴィジョンとは言えるのであるが、この太陽というメディアを構成しているものがあるはずである。太陽の構成要素である。ここは微妙な箇所である。IM境界において、不連続的差異の連結/連続化で、メディアの太陽が構成される。このメディア面の太陽は、背後に、複数の不連続的差異を内在している。しかし、この不連続的差異の連結/連続化には、ある種の必然性があるだろう。太陽の「イデア」が必要だろう。だから、問題は、太陽イデアが、イデア界にあるのか、それとも、IM境界にあるのかということになるだろう。
ここで、観点を変えて考えよう。太陽とは、光の発生源であり、光とは、差異境界に関係するものと考えられる。差異境界が1/4回転で、差異「ゼロ」化となり、差異強度が発生する。この差異強度をメディア・エネルギーとすると、このメディア・エネルギーは、差異と光の関係であると考えられる。E=mcc (Eはエネルギー、mは質量、cは光速度である)。これが、連結・連続エネルギーである。つまり、太陽メディアとは、差異連結・連続自体と見てもいいだろう。すなわち、差異「ゼロ」である。つまり、イデア・メディア境界が太陽イデアであり、太陽メディアではないだろうか。「ゼロ」が太陽イデアないし太陽メディアに当たるだろう。ならば、太陽のイデアは、やはり、イデア界の境界にあるだろう。つまり、やはり、太陽は特殊ないし特異なのである。差異というよりは、差異の境界から発生しているのである。だから、太陽イデアが、差異の志向性ということになると思う。つまり、原自我、原我、超越論的主観性とは、太陽イデアということになる。
ここで、本論にもどると、アポロ的ヴィジョンであるが、それは、結局、イデア界的ヴィジョンでもあるし、メディア界的ヴィジョンでもあるということになるように思える。
では、多神教の神々の他のヴィジョンはどうなのだろうか。金星、ヴィーナスだとか、等々。ヴィーナスのイデアが、イデア界にあるのか、メディア界にあるのか。換言すると、イデア界の不連続的差異とは、多種多様なものなのか。共通単位なのか、それとも、個々別々のもの、特異体なのか。プラトンは、後者を考えていたと思うが。多種多様な類的な不連続的差異があるということでいいのであろうか。それとも、共通単位としての複数の不連続的差異が存するのでいいのだろうか。問題は、共通単位とすると、差異になるのかという問題も生じるだろう。例えば、不連続的差異として、A,B,C,・・・があるとしよう。これが、ゼロ化して、連結・連続化する。A-B-C・・・。だから、A-B連結、B-C連結、等々が生じるだろう。もし、A,B,C・・が、共通単位ならば、 A-B連結とB-C連結とが、同じものとなるだろう。つまり、共通単位の場合、連結・連続化は、いわば、ノッペラボーになるのではないだろうか。しかし、これは、数学的空間ではないだろうか。数学的ではあるが、まったくの同一性であり、差異が喪失しているのではないか。喩えて言えば、すべてが水のようなものである。共通単位の連結・連続化とは、水のように一様となるだろう。しかし、現実・現象は、水だけでなく、多種多様なものが存在しているのである。
もっとも、共通単位の順列で、多種多様性が生じると考えることも出来るだろう。A-BとA-B-Cとは異なる。この考えで行くなら、ヴィーナスとは何か。マルスとは何か。差異の志向性自体にも差異があるのではないか。そう、差異には、垂直・水平対極相補性を考えたから、この対極相補性の構造に多種多様性を生む力学があるのではないかと考えられよう。例えば、垂直性の極限としてマルス、水平性の極限としてヴィーナスというように考えることができるかもしれない。だから、差異の内在構造による多種多様性である。そして、これが、ゼロ連結(太陽連結)する。ゼロ連結によって、差異連結の多種多様性が発生する。しかしながら、差異の内在構造による差異の志向性自体にもともと多種多様性の「イデア」があるということになるだろう。だから、多神教ないし神話の神々のイデアとは、イデア界にあると見ていいだろう。
このように考えると、結局、この問題は、上位概念で包摂されて解決されることになるだろう。イデア界的ヴィジョンなのか、メディア界的ヴィジョンなのかとは、二項対立ではなくて、イデア界の原ヴィジョン(原意識、原自我、原我、超越論的主観性)が、メディア界のヴィジョンになるということになるのである。だから、多神教・神話の神々とは、イデア界において、神々のイデアとして存するということになるだろう。このように考えると、それは、神話構造論の根拠となるだろう。ジョゼフ・キャンベルの神話構造普遍主義は、この差異内在構造論で説明ができるだろう。即ち、イデア界に多神教・神話・宗教のイデアが存しているということである。一神教の場合も同様である。ただし、一神教は、メディア界の志向性の終結領域であるということである。
すると、結局、不連続的差異は、共通単位として考えていいことになる。つまり、初めに、多種多様な不連続的差異があるというのはではなくて、初めは、単一の不連続的差異が境界を隔てて無数ないし多数存しているのであり、それが、差異内在的垂直/水平対極相補構造によって、多種多様性のイデアをもっているということになるだろう。無数ないし多数の単一的な不連続的差異が、多種多様なイデア、森羅万象のイデア、八百万の神々のイデアを内在しているということになるだろう。
ここで、D.H.ロレンスの最晩年の『アポカリプス補遺』によると、まだ、生まれていない神々があるということになる。確かに、不連続的差異の内在構造の変化によって新しい神々(メディアそして現象)が生まれるだろう。結局、世界は、境界で隔てられた垂直/水平対極相補性を内在した無数の不連続的差異の共立するイデア界という純粋な数学的構造をもっているということになる。創造神とは、数学者である。初めに、数学ありき。
p.s. 太陽イデアとは、原自我、原我、超越論的主観性と結びつけたが、この視点から一神教を考えると、差異の垂直主義化が、一神教の動きと考えることができそうだ。先においては、メディア界化の極限と言ったが、どうだろうか。つまり、差異の志向性を一神教は廃棄しようとする動きである。つまり、差異→ 差異という志向性が、差異=差異=一神教的自我・同一性とするのが、一神教である。ならば、差異の垂直主義化とは、一見、一神教化に見えるが、そうではないことになる。差異の連続化の極限が一神教化と見るべきである。差異を廃棄するのが一神教である。これは、結局、連続・同一性主義であり、西洋文明の基本動向である。オリエンタリズム、植民地主義、帝国主義、覇権主義等々。しかし、同時に、差異が西洋文明には作用している。つまり、西洋文明とは、一神教と多神教との二重構造である。思うに、一神教は西欧性であり、多神教性は南欧性、地中海性であろう。そして、ルネサンス/宗教改革の二重性が近代において作動しているのである。そして、今や、不連続的差異論の成就によって、差異が純粋化しようとしている。ポスト・キリスト教、ポスト・一神教、新多神教の新時代である。