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2005年12月24日 (22:09)

不連続的差異論

ガウス平面で、x軸を1/4回転させると、y軸と同化する。これは、z軸を考えると、(0,0、z)であり、これが、おそらく、現象界であろう。ここで、球座標を考えてもいいのかもしれない。宇宙は、球座標となる。
 問題は、時空四次元性である。私の直観では、時間が、空間の三次元性を創造するのである。思うに、z軸は、時空軸ではないだろうか。そして、これが、垂直に捩れて、現象界を形成するのではないか。これが、時空四次元ではないだろうか。xーyーzの三次元に対して、現象は、x-y-z-p(phenomena)の四次元として、発現するのではないだろうか。
 さて、x軸の1/4回転の意味をさらに展開させると、これは、プラスのx座標とマイナスのx座標があり、プラスのy座標とマイナスのy座標ができる。これが、メディア界の対極性を意味するのではないだろうか。陰陽である。極性である。そして、このメディア界の対極性のエネルギーが、ダークエネルギーだろう。つまり、これまで、プラスのy座標、「光」、「重力」しか見てこなかったのである。しかし、マイナスのy座標である、反「光」、反「重力」を考慮することで、超対称性が成立するのではないだろうか。思うに、反「光」、反「重力」が、暗黒物質、ダークマターではないだろうか。そして、y座標全体が、暗黒エネルギー、ダークエネルギーではないだろうか。そうならば、古代中国の道教は、まったく正しいのである。また、朱子学もほぼ正しいのである。ただ、理気説において、イデア界とメディア界を混同しているのと考えられるのである。ならば、易経もほぼ正しいと言えるだろう。八卦は正しいと言えるだろう。2の6乗=64は、RNAに関するコドンの数である。(参照:
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%86
)ならば、占いも、ほぼ正しいと言えるだろう。それは、メディア界の智であろう。
 結局、残った問題は、イデア界のことである。それは、超知性、超智性であろう。ここでは、万知帰一であろう。力は知である。知即存在である。スピノザの神である。フッサールの超越論的主観性ないし志向性である。イデアである。超知性としてのイデア界である。これを、神と呼んだのは、理解されることである。全知全能的である。しかし、これを、一神教的に解釈するのは、擬人化であろう。また、不連続的差異の多元界としてイデア界であるから、一元化するのは、誤謬である。一義性ならば、正しいのである。そう、SF作家のフィリップ・K・ディックのヴァリスの方が、超越唯一神より、適切であろう。結局、一神教とは、多元的なイデア界を、連続・同一性である現象界の視点から解釈しているのであると考えられる。
 最後に、4という数であるが、これは、基本的には、不連続的差異の垂直・水平相補性の直交性から発したものではないだろうか。ここには、弱い力と強い力、重力と電磁気力のペアがあるのではないだろうか。地水火風の四大もこれと重なるだろう。仏教の五大(地水火風空)、五輪であるが、これは、メディア界全体、ダークエネルギーを指しているのだろう。空海の「五大にみな響きあり」は、暗黒エネルギーのことだろう。(参照:
http://www.eel.co.jp/03_near/01_sei
gowchannel/
now_events/0807mikyo.html
)量子論である。そう、ダークエネルギーの振動を、空海は、響きと呼んでいるのだろう。また、円空の「法の御音」も、このことだろう。西洋文化で言う、天空の音楽もこのことであろう。D.H.ロレンスのコスモスの音楽もこれであろう。しかし、このダークエネルギーの「音楽」、ミューズとは、実は、イデア界の根源の「音楽」に通じているはずである。イギリス・ロマン主義の詩人のジョン・キーツは、「耳に聞こえない音楽」と表現したが、それは、イデア界の「音楽」のことであろう。
 結局、コスモスとは何かである。それは、メディア界の「宇宙」であると同時に、イデア界の「宇宙」であろう。空海の両界曼荼羅はこのことを意味しているのではないか。金剛界がイデア界のコスモスであり、胎蔵界がメディア界のコスモスだろう。
 さらに言えば、古事記の三柱の神・「造化の三神」であるが、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)とは、正にイデア界であり、高御産巣日神(たかみむすひのかみ)、神産巣日神(かみむすひのかみ)は、メディア界の対極性を意味しているのではないか。

参照:天之御中主神
http://ja.wikipedia.org/wiki/
%E5%A4%A9%E4%B
9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B8%BB%E
7%A5%9E
http://www.google.co.jp/search?q=
%E5%A4%A
9%E4%B9%8B%E5%BE%A1%E4%B8%AD%E4%B
8%BB%E7%A
5%9E&start=0&start=0&hl=ja&lr=
lang_ja&ie=ut
f-8&oe=utf-8&client=firefox-a&rls
=org.mozilla
:ja-JP:official
http://www.loops.jp/~asukaclub/
kami/kami_001.html





内在的イデア界と現象の光

なぜ、人間は、光に救いを感じるのだろうか。大江健三郎の傑作『万延元年のフットボール』の冒頭は、正にそうである。私は、闇が光に変容すると直観する。思うに、現象の光を通して、介して、人間は、イデア界の光を直感しているのではないだろうか。初日の出、ご来光、大日如来、ヒミコ、日御子、天照、ひじり、お水取り、お天道様、日=火=緋、等々。日の本、元、基は、イデア界の太陽であり、それを、人は、直感するのだ。個に内在するイデア界が、現象界の光を介して(光はメディアである)、イデア界の太陽を求めるのだ。現象界の太陽とは、実は、イデア界の太陽の影、影像、陰影であり、そのスクリーンを介して、根源のイデア界=超太陽を郷愁するのだろう。ゾロアスター教は正しいのである。日本の宗教も本来は、ゾロアスター教と共通であろう。
 イデア界の超太陽とは、大宇宙の根源の超太陽であろう。



イデア界の虚力とは、直観智であろう。

私は、イデア界=直観力、メディア界=想像力、現象界=物質力と、先に考えた。思うに、イデア界は、即の世界である。イデア界の差異の境界の虚力とは、無限速度の直観智ということができるだろう。フッサールの間主観性、相互主観性とは、このことだろう。インテレクトとは、本来、直観力のことであった。つまり、知性とは、直観力、直観智のことであった。それが、理性と入れ違ったのである。理性は、比率のことである。それは、メディア界の知性ではないだろうか。用語の混乱があるのだ。カントの純粋理性とは、直観智と比率智とのハイブリッドであろう。
 とまれ、直観智が、近代主義で、排斥、排出されたのである。直観智をもつ、天才たちが、近代において、狂人、精神病者とされたのである。実は、近代主義者こそ、狂人・精神病人・愚人であったのである。
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2005年12月03日 (04:56)

ゼロ・ポイント・フィールドとメディア界:永遠のイデア界

『フィールド 響き合う生命・意識・宇宙』リン・マクタガート著 インターシフト
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/
4309906079/250-7564220-6771446

この本は読んではいないが、ゼロ・ポイント・フィールドという考えが出てくる。これは、不連続的差異論においては、メディア界に当たると言えよう。あるいは、イデア・メディア境界である。思うに、D.H.ロレンスやドゥルーズは、このような考えに魅かれたであろう。しかし、私は、メディア界の力を問題にしたい。ここで、共鳴が起こると考えよう。ある意味、コスモスとは、ここの考え方である。神秘主義も、ここから発するだろう。とまれ、今は、科学を問題にしたい。
 イデア・メディア境界で、ゼロ化が生起し、それから、メディア界が形成される。これは、ゼロ度の連結体である。ここでは、力は融合して、不可分となっていると考えられる。現象界では、4つの力が分離するが、ここでは、一如である。思うに、これが、無量光ではないだろうか。つまり、メディア力が無量光ではないか。そして、これは、原4つの力である。言わば、第5の力である。超越論的力である。これが、言わば、根源力となって、4つの力として現象化するのであり、4つの力では、根源力は十分把捉できない。先にも触れたが、ダークマターやダークエネルギーは、この根源力で説明できるのではないか。しかし、根源力は、超越論的力であるから、現象界的な「物質」的エネルギーでは把捉できない。そう、この根源力、メディア力は、正に、エネルゲイアである。「マグマ」である。(プラトンのコーラは、やはり、ここに位置させるべきなのか。)
 とまれ、4つの力は、この根源力で統一されるだろう。超大統一論とは、これで、完成するはずである。超ひも理論のように、10次元は必要ないのではないだろうか。これは、5次元である。しかし、イデア界を考えるともっと複雑になる。とまれ、おそらく、4つの力は、根源力において不可分となる。未分化的になるだろう。光と重力が一如になる。
 ところで、これは、心身的には何になるのだろうか。おそらく、これが、「気」ではないか。身心体である。根源力=気ではないか。気は陰陽性があるが、根源力は、確かに、プラスとマイナスの極性がある。つまり、ゼロ度であるから、プラスマイナス、ゼロである。このプラスとマイナスが、陰陽となるのではないか。結局、メディア力=根源力=エネルゲイア=気=第5の力となるだろう。そして、この根源力が、現象力へと分化するのである。これは、四元性だろう。四大等々。十字架とは、現象界のシンボルだと思う。そして、メビウスの帯・輪とは、メディア界であろう。無限・∞もそうだろう。そして、量子力学は、メディア界を対象としているだろう。メディア界は二元論だろう。陰陽、プラスマイナス、粒子/波動。粒子・波動の絶対矛盾的自己同一だ。
 では、最大の謎であるイデア界であるが、これをどう見るのか。直観では、密教の金剛界の感じである。メディア界が胎蔵界だと思える。デュナミスである。ここは、何か、結晶の世界を想起する。絶対の世界である。ゆらぎゼロである。ゼロ以前の世界である。虚界である。理の世界である。「理気」である。真のイデアの世界である。不連続的差異の調和の世界である。おそらく、華厳経に近いのかもしれない。硬質の世界である。鉱物的な世界である。少し、宮沢賢治的な宇宙である。思うに、差異が境界となり、境界が差異となるような世界ではないか。差異/境界の相補性。この差異/境界の力が、超根源力であろう。絶対力である。垂直・水平の絶対力ではないか。discordia concord. 思うに、ここでは、理が力であり、力が理である。知が力であり、力が知である。理=力、知=力、理気である。理気界ではないか。いわば、超ゼロ度である。超越界である。ガウス平面である。超時空である。虚時空である。超根源界である。数学の世界である。超抽象の世界である。超調和の世界である。コスモスである。
 思うに、メディア界とイデア界は混同されやすいし、これまで、混同されてきた。しかし、イデア界は超エネルギーの世界であり、永遠である。問題は、メディア界は、永遠なのかどうかである。メディア界は、有限ではないか。メディア宇宙があるのだろう。思うに、これが、アイオーンではないか。そして、イデア界がブラフマンである。とまれ、メディア界は、有限だと思う。宇宙は、有限であり、それが、消滅して、新しく宇宙が生まれるだろう。今の宇宙は、例えば、死滅するだろう。そして、新たな宇宙が誕生するのだろう。インドの神話・哲学である。人間は、永遠である。梵我一如である。輪廻転生は問題にならない。それは、小さな、取るに足りない問題だ。永遠界と一如としての人間である。

2005年12月02日 (00:19)

物理学と不連続的差異論

物理学と不連続的差異論の関連を整理したい。例えば、電子とは、不連続的差異論においてどういうものになるのか。簡単に言えば、電磁気力とは、現象界のものなのか、それとも、メディア界のものなのかということである。現象界において、電磁気力は観察、観測される。しかし、だからと言って、電磁気力は、現象界のものなのか。電磁気力という実在する力は、現象界のものなのか。明確に言えば、現象界における現象から、電磁気力が想定できるということである。現象という発現の検証から、電磁気力が想定できるということである。一応、現象界における力として考えられているだろう。しかし、だからと言って、電磁気力が、絶対的に、現象界にあるとは言えないだろう。これは、仮説である。現象界に発現したある力を電磁気力としているとも言えるだろう。不連続的差異論から見ると、メディア界における力が、電磁気力として発現していると考えることができるだろう。メディア界の力とは、差異・ゼロ化の力である。これをメディア力と、とりあえず、呼ぼう。このメディア力(差異・ゼロ力)が、発現して、電磁気力となると言えるだろう。他の力である弱い力、強い力、重力も、同様に理解できるだろう。つまり、メディア力の現象界的顕現として、いわゆる、4つの力があるということである。だから、「起源」は、差異・ゼロ度の連続力である。これが、4つの力として現象・発現していると言えよう。そして、差異・ゼロ度の連続力、メディア力とは、まだ、4つの力に分離していない状態と言えるのではないだろうか。量子力学は、このメディア力を対象としているのではないか。粒子/波動の相補性とは、このメディア力を意味しているのではないか。
 これまで、イデア界における不連続的差異の垂直・水平力を根源力として見て、それが、1/4回転で、ゼロ化して、4つの力が発生すると考えてきた。しかし、4つの力は現象界における力であるから、これは、短絡的である。1/4回転で発生するのは、メディア力と見なくてはならない。メディア力とは、量子力学が対象とする力であると言えよう。4つの力とは、現象界における仮説であるから、思うに、メディア力を十分に捉えていないと思う。つまり、4つの力では、不足すると思われる。ここで、ダークマター、ダークエネルギーの問題を考えていいだろう。4つの力は、現象界における発現から仮説されているのであり、メディア力自体を捉えていないと考えられるのである。
 では、メディア力をどう捉えるべきか。これまで、イデア界における差異の垂直・水平力という即自・対自力を仮定してきた。そして、これが、1/4回転で、即自性と対自性とに分離すると考えたのである。しかし、この分離は、メディア力=差異・ゼロ度を考えると、決して、絶対的分離ではない。即自性と対自性は、不可分であると見るべきだろう。これが、メディア力であると言えるのではないだろうか。即自~対自のメディア力である。ここには、原4つの力が、あるだろう。相補的4つの力と言えるだろう。そして、これが、4つの力に分離するのである。差異・ゼロ度のメディア力が、現象界の4つの力として発現するのである。しかし、メディア力⊃4つの力 である。
 では、光の問題、相対性理論はどうなるだろうか。E=mccとは何か。アインシュタインの公式は、現象界の公式だろう。だから、このエネルギーは現象界のエネルギーである。メディア界の「エネルギー」ではないだろう。
では、光速度一定とは何を意味するのか。それは、メディア・現象境界における「構造」・形式を意味するのではないだろうか。カントの超越論的形式に当たるのではないだろうか。ならば、光とは、現象界に限定されるものであり、メディア界においては、別物であろう。それは、メディア界的な光である。メディア光と仮に呼ぼう。そして、通常の光を現象光と呼ぼう。
 さて、ここで、宗教の光を考えよう。それは、どうなるのか。これまで、イデア界の「光」と考えてきた。いわば、イデア光である。無量光とは何か。これは、イデア光でいいのか、それとも、メディア光なのか。無量光とは、メディア光ではなくて、メディア力ではないのか。原4つの力ではないのか。そして、原4つの力とは、本来、イデア界の力である。イデア力がメディア力となり、それが、宗教の光となっているのではないか。あるいは、イデア・メディア境界の力を考えてもいいだろう。そうすると、光は、特別の意味合いがあるだろう。現象界では、電磁気力となっているが、実際は、より根源的なものではないか。そう、メディア力が、光速度一定と関係するのではないか。相対性理論とは、メディア力を基盤とした理論ではないか。メディア力は、確かに、一定の力であり、位相的な力であろう。これが、現象化するときに、E=mccとなるのではないか。現象エネルギーとなるのではないか。そう、メディア力の現象化における形式を定数が、光速度なのではないだろうか。E=mccとは、正に、メディア・現象境界の構造力・構造エネルギーを意味するのではないか。ならば、アインシュタインの相対性理論は、メディア・現象境界の理論化であると言えるだろう。そして、量子力学とは、メディア界を対象としていると言えよう。だから、量子力学は相対性理論を包括・包摂できるのである。

2005年11月18日 (16:06)

絶対統一的不連続的差異論:4つの力について:メディア界の力の構造について

4つの力について:心物エネルギーと知覚

私の直観的作業仮説として、心物エネルギーにおける4つの力とは、始原的知覚を意味するのではないだろうか。これは、イデア界的根源的知覚というよりは、メディア界的中間的知覚ということになる。4つのメディア的知覚があることになる。ここで、深層心理学のカール・G・ユングが、性格に関連して、4元性を述べていたのを想起する。即ち、直観、知性、感情、感覚である。これは、神秘学の四大(地水火風)とも関係する。即ち、「地」が感覚であり、「水」が感情であり、「火」が直観であり、「風」が知性である。(これは、また、占星術が取り入れている考え方でもある。)そして、作業仮説として、この性格・知覚の4元性を、4つの力のメディア界的知覚と結びつけよう。すると、一応、次のようになる。

強い力・感覚・地
弱い力・感情・水
電磁気力・直観・火
重力・知性・風

(因みに、これに、単純ではないが、血液型が関係するだろう。)これらに、差異の連結・連続化が関係してくる。また、「わたし」とは、これら4つの力・知覚の統合体だろう。これらが、整合的に統合されていないと、「精神」の病気になるだろう。(近代主義とは、だから、「精神」の病気である。)思うに、「自我」とは、これら4つの力、それぞれに存しているだろう。即ち、感覚、感情、直観、知性、それぞれ、自我的機能をもつだろう。「わたし」である。 
 では、この自我、「わたし」の根源は何だろうか。これは、イデア界の差異の差異への志向性だと思う。簡単に言えば、差異境界が原自我・アートマンである。これが、メディア界において、4つの力・知覚の「自我」となると言えよう。【ここで、アフォーダンス理論も、このメディア界の4つの力・知覚(=自我)論で、説明できるだろう。フッサール現象学の超越論的主観性とは、この4つの力・知覚(=自我)と等価であるし、また、イデア界の原自我・アートマンと等価であろう。つまり、それは、根源的な自我を説いていると考えられる。】そして、この4つの力・知覚が、連続・同一性化して、現象界の自我・「わたし」となるのである。しかし、発生的には、4つの力・知覚が、整合的に統合化されているのではなくて、4つの力・知覚が不整合・混合・混同的に連続・同一性化されているのである。そして、幼児・小児の成長過程で、だんだん、整合化していくのであるが、しかしながら、時代の枠組み・フレームワーク・パラダイムによって、ある傾き・偏向・イデオロギーを帯びると言えよう。近代においては、近代主義のそれを帯びるのである。世界観の歪曲化と言えるだろう。
 4つの力・知覚の整合化が、自我形成と言えるだろう。これをユングに倣って、自己形成(自己実現・自己創造)、個性化と呼んでもいいかもしれない。しかし、問題は、この自我形成において、イデア・メディア境界IM境界に接触して、いわば、壁にぶつかることである。ポスト構造主義は、この壁にぶつかって、停滞し、混迷し、衰退したのである。そう、メディア界的4つの力・知覚の自我とは、基本は、連続性の自我なのである。そして、カオスモス的自我なのである(ドゥルーズ&ガタリのリゾーム論他)。連続性と不連続性とが矛盾同一している自我である。(これは、実際は、現代資本主義のあり方の一つである。つまり、現代資本主義は、メディア界的なのである。)これは、はっきり言って、分裂的自我である。連続的自我と不連続的自我の分裂的混同である。(精神病理もここに関係しているだろう。例えば、自己中心主義、パラノイア、自己愛性人格障害等とは、不連続的自我が、連続的自我を装ってしまうことだろう。不連続的自我・特異性という境界を超えて、連続・同一性へと僭越化するのである。ここに傲慢、厚かましさ、慢心、専制・支配・差別・権力・暴力等が生まれるのである。また、近代主義は、これを普遍化しただろう。)
 だから、4つの力・知覚の自我の整合化は、やはり、不十分なのである。結局、イデア界を想定しないでは、自我は真に整合・統合・調和化されない。イデア界のおける不連続的差異を想定することで、自我は、根源的に統一するだろう。つまり、連続的な4つの力・知覚(=連続的自我)を超えて、不連続的な根源的な力・知覚に達するからである。それは、不連続的差異の根源的な力、イデア界の力(虚力、複素数力)である。イデア界の原自我・アートマンに達して、自我は統一するのである。4つの力・知覚(メディア界的自我)は、不連続的差異の境界の力に還元されるかもしれないが、思うに、境界の力とは、不連続的差異の垂直志向性と水平志向性によって発生するのではないだろうか。
 すると、根源力は、不連続的差異の即自力に存すると言えるだろう。不連続的差異の即自的垂直/水平相補性の力である。(これが、古事記の三神の意味ではないだろうか。また、多くの根源的三元性(三美神他)もここに拠るのではないだろうか。)これは、差異と差異との境界を形成するだろう。また、フッサールの志向性も、このことになる。不連続的差異の即自的志向性が、同時に、対自的志向性となるのである。
 では、この根源力がメディア力となるのは、どういう構造からだろうか。1/4回転で、ゼロ化が発生する。これは、イデア界的即自=対自力を連続化させるのである。即ち、不連続的差異の即自=対自的垂直・水平相補性の元力・虚力にゼロ化を発生させて、不連続的差異と不連続的差異とを連続結合するのである(φ結合と呼ぼう)。このとき、即自的垂直・水平力と対自的垂直・水平力が分離するだろう。つまり、連続化とは、即自性と対自性の分離である。そして、即自性において、連続化は、垂直力と水平力との分離を発生させるだろう。これが、強い力と弱い力ではないか。そして、対自性において、同様に分離して、重力と電磁気力を発生するのではないだろうか。感覚と感情、知性と直観の二元的四元性である。(ここで、D.H.ロレンスが『無意識の幻想曲』で、無意識の二元的四元論を説いていることを想起する。後で言及したい。)地水火風の四大である。メディア・コスモスの発生である。ビッグバンである。ここで、前ソクラテス的哲学を想起してもいいだろう。また、ストア哲学、スピノザ哲学、また東洋哲学を想起してもいいだろう。(陰陽論の陰とは、即自性であり、陽とは対自性であろう。そして、対極性自体は、相補性であり、それは、力の統一を意味しているだろう。そう、量子論的である。)一応、これを作業仮説とする。
 では、次に問題は、時空間の発生、現象界の発生である。ゼロ化によって、4つの力が発生するのであり、差異が連続化されるのであるが、この連続化の終点が現象界である。つまり、エンテレケイア(終極態)である。デュナミス→エネルゲイア→エンテレケイアである。原時空間は、メディア界である。4つの力にあるだろう。そして、時空四次元性もここに起因するだろう。相対性理論とは、メディア界の原時空間性を説明するものであろうが、アインシュタインは、対自的力、即ち、重力と電磁気力にこだわり、他の二つの力への考慮が足りなかったのではないだろうか。つまり、メディア界の物理学である量子力学と等価的帰結として相対性理論が存するのであり、当然、相対性理論を包摂した量子力学が必然となると言えよう。重力を組み込むことがネックになっているが、また、標準理論は破綻しているが、不連続的差異論ならば、重力と量子とを統合化できるだろう。思うに、量子とは、メディア界自体の力であり、それは、4つの力自体である。つまり、量子は、強い力、弱い力、重力、電磁気力を内在しているのである。量子とは、連続化された不連続的差異、ゼロ化された不連続的差異のことである。ゼロ差異、φ差異、φdである。ゼロ差異が量子であり、これが、4つの力を内在しているのである。量子・ゼロ差異は、強い力、弱い力、重力、電磁気力を帯びるのである。量子力⊃重力である。そして、これで、超大統一理論が確立するだろう。無限大の問題は、連続的差異を仮定していることから発生する問題であるから、不連続的差異を仮定することで、無限大の問題は生じなくなるのである。即ち、ゼロ化とは、ゼロのことではなくて、空化のことである。これで、超大統一理論が完成するのではないだろうか。これは、単に物理学ではなく、理科系と文科系の分化を超えて、全科学を総合化しているので、絶対的統一理論である。絶対統一的不連続的差異論である。

p.s. 訂正:強い力が水平力で、弱い力が垂直力であろう。だから、強い力が感情で、弱い力が感覚ということになる。

参考
ティマイオス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ティマイオス(Timaeus ΤΙΜΑΙΟΣ)は古代ギリシア の哲学者プラトン (紀元前427年 - 紀元前347年)後期の著作である。古くから「自然について」という副題が付いており、アトランティス伝説、世界の創造、元素、医学などについて記されている。自然を論じた書としてはプラトン唯一のもので、神話的な説話を多く含む。後世へ大きな影響を与えた書である。

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内容

* 政治体制を論じた『国家 』の続編という設定で、対話が始まる。冒頭にクリティアスという人物がアトランティス伝説について語る。次いで、ティマイオスという人物が宇宙の創造、宇宙は無限か否か、四元素について、人間の身体についてなどを説いてゆく。(ティマイオスについてはピュタゴラス 派と考えられるが他の記録がなく、架空の人物という説もある)

* アトランティス の伝説については、『ティマイオス』の続編である『クリティアス』でさらに説明が続く(ただし、『クリティアス』は中断している)。

* 創造者「デミウルゴス 」について説明されている。デミウルゴス(δημιουργός) のギリシア語の原義は工匠、建築家である。イデアを見て、模倣しながら現実界(物質世界)を作る存在として、デミウルゴスの名を挙げている(善なる存在と捉えられている)。現実界はデミウルゴスが創造したイデアの似姿(エイコーン)である。

* 「範型」としてのイデアという思想はプラトン中期のイデア論とは異なっているとされる。

* 火・土・水・空気(地・水・火・風)の四元素説が説かれる。それぞれの元素は正多面体であり、その形状によって運動の性質や他の元素との親和性が決まる。たとえば火は正四面体であり、最も軽く、鋭い。これに対して土は正八面体であり、運動することが最も遅い。自然の諸物は元素がまざりあうことによって形成されている。

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影響

* フィロン

アレクサンドリアのフィロン (Philon 紀元前20/30年?-紀元後40/45年?)はギリシア思想に由来するロゴス やイデア論 の概念をユダヤ教 思想の理解に初めて取り込んだ。フィロンはプラトン の著作とくに『ティマイオス』に影響を受け、「デミウルゴス」の存在を「神」に置き換え、旧約聖書 とプラトン哲学が調和的であると考えた。フィロンはプラトンを「ギリシアのモーセ 」と呼んで、プラトンの思想にモーセが影響を与えたと考えた。フィロンの著作は、初期キリスト教と教父 たちの思想、いわゆるアレクサンドリア学派にも大きな影響を与えている。

* オリゲネス

オリゲネス (Origenes Adamantius 182?-251)は初期キリスト教の神学者、いわゆるギリシア教父 でアレクサンドリア学派といわれるグループの代表的存在。オリゲネスの世界観や歴史観は新プラトン主義(ネオプラトニズム )の影響を強く受けたものであった。プラトンの『ティマイオス』と旧約聖書の「創世記」の世界創造の記述を融合しようとし、「創造とは神が無に自分の存在を分かち与えたことである」と唱えた。死後異端 の疑惑をかけられた。

* グノーシス主義

カトリックの教義からは異端とされたグノーシス主義 では、宇宙を創造した神と真の神(至高神)を区別して次のように考えた。物質は悪であり、物質(自然、人間、宇宙)を創造したデミウルゴス(旧約聖書の神)は下等な神である。人間の身体も実体として悪であるが、その中に聖なる火を含んでいる。聖なる火とは、真の神から降りてきた聖霊 (プネウマ)で、善なるもの、本来の自己である。人間は知識(グノーシス)によって、自己を至高神に復帰させることが出来る。また、イエスは至高神の子で、人間に真理を啓示するため遣わされた。

* カルキディウス

カルキディウス(Calcidius 4世紀後半-5世紀初)は『ティマイオス』の一部をラテン語訳し、注釈書を著した。『ティマイオス』はプラトンの著作のうち、中世の西ヨーロッパに知られていた数少ない(唯一の?)著作であった。

* シャルトル学派

12世紀フランスのシャルトル学派の中で『ティマイオス』(カルキディウス訳)が再評価され、注釈書が作られている。

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邦訳文献

* 『プラトン全集6』(角川書店、1974年)
* 『プラトン全集12』(岩波書店、1975年)
* 『中世思想原典集成8』シャルトル学派(上智大学中世思想研究所編、平凡社)

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関連項目

* ネオプラトニズム
* ティマイオス (クレーター) - 月の北部に位置するクレーター 。プラトンの著書『ティマイオス』にちなんで名づけられた。

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外部リンク

* カルキディウス研究[1]

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%A
3%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%82%B9 " より作成

カテゴリ : 哲学書 | グノーシス | プラトン

2005年11月17日 (08:02)

エネルギーとは何か

エネルギーは、E=mccで表現できる。しかし、これは、物質量としてのエネルギーである。しかし、エネルギー自体は、単に物質ではない。それは、いわば身心的エネルギーである。知即存在的エネルギー、ないし心即物的エネルギーである。「心」・「物」エネルギー、これが、E=mccの意味するエネルギーである。例えば、思考したとき、脳神経を活動させている。このとき、エネルギー消費するが、単に、脳神経の物質のみが消費されるのではなくて、心的エネルギーが消費されるのである。この心的エネルギーは、心物エネルギーである。そして、それが、物質エネルギーとして、現象化される。
 思うに、「気」というものも、心物エネルギーであろう。「気」を、磁気として検出できるが、「気」=磁気ではない、磁気は、「気」の物質的現象である。さらに、量子力学の対象とするミクロの世界も心物エネルギーの世界だと思う。仏教の「空」も、心物エネルギーと関係するだろう。
 心物エネルギーは、メディア界エネルギー(エネルゲイア)、メディア・エネルギーである。そして、これが、現象界において、思惟(精神、意識、認識)と延長(身体、物質、物体)のデカルト的な二元論として発現・現象するのである。つまり、身体は、心物エネルギーの物質的表現・現象であり、精神・心は、心物エネルギーの思惟的表現・現象である。スピノザの心身平行論とは、デカルト哲学をベースにした心物エネルギー論ではないかと思う。ならば、スピノザの神即自然とは、心物エネルギーのこと、メディア界のことである。だから、スピノザ哲学は、イデア界に達していない。ドゥルーズがスピノザに魅かれたのは、ここに関係するだろう。即ち、メディア界のもつエネルギー的な知に魅かれたのである。それを、ドゥルーズは差異と考えていた。(しかし、他方、イデア界的な特異性も差異とも考えていた。ここにドゥルーズ哲学の混乱があるのである。)思うに、ポスト構造主義とは、主に、不連続的差異論が説くメディア界の知を説いていたと言えるだろう。デリダ哲学の脱構築は正にそのようなものである。しかし、メディア界を超えて、イデア界を示唆していたと言えるだろう。結局、不連続的差異論は、ポスト構造主義の完成であると言えるだろう。
 さて、問題は、量子力学と相対性理論、超大統一理論、超ひも論、ツイスター理論他である。思うに、現代自然科学は、メディア界を対象としている。問題は、重力と量子論との結合である。詳細はわからぬが、諸力は、メディア界に内包されると思われる。つまり、心物エネルギー、メディア・エネルギー、メネルギーにおいて、重力と量子は結合していると考えられよう。先にも触れたが、私の直観では、差異が粒子的側面であり、ゼロ度が、波動的側面である。そして、差異ゼロ度において、四つの力が作用しているだろう。差異と差異との間に、強い力、弱い力、電磁気力と重力が作用しているのではないか。私の直観は、先にも述べたが、
差異の垂直力が強い力で、水平力が弱い力で、ゼロ度が電磁気力ないし光であり、差異とゼロ度の力の間に重力が作用するのではないだろうか。

差異1⇔強い力・弱い力⇔差異2・・・重力・・・ゼロ度・電磁気力

もっとも、これは、単なる作業仮説に過ぎないが、結局、イデア界の境界が、ゼロ度を構築するのである。光を発出するのである。イデア界の境界は、原光であり、かつ、原重力をはらんでいるということになるだろう。そう、原四つの力のデュナミスである。しかし、思うに、強い力と弱い力を一つと見ると、三つの力で済む。古事記の三神、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)、高御産霊神(たかみむすびのかみ)、神産霊神(かみむすびのかみ)とは、これではないだろうか。差異力と中間力と光力である。また、父、聖霊、子である。どうも、重力が枢要なものに思えてきた。天と地とを結びつけるのは、光ではなくて、重力だろう。父と母とを結びつける聖霊とは、重力ではないか。天・光と地・差異を結びつける聖霊・天使・重力。 

2005年11月11日 (09:34)

アポロ的ヴィジョンの再考:イデア界的ヴィジョンか、それとも、メディア界的ヴィジョンなのか

先に、アポロ的ヴィジョンを、イデア界的ヴィジョンと言ったが、違う考え方もできるように思われる。即ち、イデア・メディア境界におけるヴィジョンと見られるということである。つまり、イデア界自体のヴィジョンではなくて、イデア・メディア境界自体のもつヴィジョンである。つまり、IM境界(イデア/メディア境界)という「カオスモス」、不連続的差異の共立性と連続性との矛盾同一という混沌とした領域において、複数の連続的なヴィジョンが発生しうると考えられる。すなわち、不連続的差異が複数的に連続化して、アポロ的ヴィジョン、多神教的ヴィジョンが形成されるということである。幻想と言ってもいいだろう。
 ということで、アポロ的ヴィジョンとは、どちらなのだろうか、イデア界的ヴィジョンなのか、それとも、メディア界的ヴィジョンなのか。(メディア界的ヴィジョンを、メディア面的ヴィジョン・心象風景とも言えるだろう。)ここはある意味で、核心的な問題である。神話/宗教的表現を理論的にどう把捉するのかという問題である。ニーチェのディオニュソス/アポロ的概念とは、多神教の表現概念である。つまり、多神教表現を、どのように位置づけるかである。IM 境界(カオスモス、絶対矛盾的自己同一)における、多数、複数、多元性の問題である。アポロ神(太陽神)とは、これは、当然、現象界の太陽という連続/同一性の表現をともなっている。だから、メディア界的ヴィジョンとは言えるのであるが、この太陽というメディアを構成しているものがあるはずである。太陽の構成要素である。ここは微妙な箇所である。IM境界において、不連続的差異の連結/連続化で、メディアの太陽が構成される。このメディア面の太陽は、背後に、複数の不連続的差異を内在している。しかし、この不連続的差異の連結/連続化には、ある種の必然性があるだろう。太陽の「イデア」が必要だろう。だから、問題は、太陽イデアが、イデア界にあるのか、それとも、IM境界にあるのかということになるだろう。
 ここで、観点を変えて考えよう。太陽とは、光の発生源であり、光とは、差異境界に関係するものと考えられる。差異境界が1/4回転で、差異「ゼロ」化となり、差異強度が発生する。この差異強度をメディア・エネルギーとすると、このメディア・エネルギーは、差異と光の関係であると考えられる。E=mcc (Eはエネルギー、mは質量、cは光速度である)。これが、連結・連続エネルギーである。つまり、太陽メディアとは、差異連結・連続自体と見てもいいだろう。すなわち、差異「ゼロ」である。つまり、イデア・メディア境界が太陽イデアであり、太陽メディアではないだろうか。「ゼロ」が太陽イデアないし太陽メディアに当たるだろう。ならば、太陽のイデアは、やはり、イデア界の境界にあるだろう。つまり、やはり、太陽は特殊ないし特異なのである。差異というよりは、差異の境界から発生しているのである。だから、太陽イデアが、差異の志向性ということになると思う。つまり、原自我、原我、超越論的主観性とは、太陽イデアということになる。
 ここで、本論にもどると、アポロ的ヴィジョンであるが、それは、結局、イデア界的ヴィジョンでもあるし、メディア界的ヴィジョンでもあるということになるように思える。
 では、多神教の神々の他のヴィジョンはどうなのだろうか。金星、ヴィーナスだとか、等々。ヴィーナスのイデアが、イデア界にあるのか、メディア界にあるのか。換言すると、イデア界の不連続的差異とは、多種多様なものなのか。共通単位なのか、それとも、個々別々のもの、特異体なのか。プラトンは、後者を考えていたと思うが。多種多様な類的な不連続的差異があるということでいいのであろうか。それとも、共通単位としての複数の不連続的差異が存するのでいいのだろうか。問題は、共通単位とすると、差異になるのかという問題も生じるだろう。例えば、不連続的差異として、A,B,C,・・・があるとしよう。これが、ゼロ化して、連結・連続化する。A-B-C・・・。だから、A-B連結、B-C連結、等々が生じるだろう。もし、A,B,C・・が、共通単位ならば、 A-B連結とB-C連結とが、同じものとなるだろう。つまり、共通単位の場合、連結・連続化は、いわば、ノッペラボーになるのではないだろうか。しかし、これは、数学的空間ではないだろうか。数学的ではあるが、まったくの同一性であり、差異が喪失しているのではないか。喩えて言えば、すべてが水のようなものである。共通単位の連結・連続化とは、水のように一様となるだろう。しかし、現実・現象は、水だけでなく、多種多様なものが存在しているのである。
 もっとも、共通単位の順列で、多種多様性が生じると考えることも出来るだろう。A-BとA-B-Cとは異なる。この考えで行くなら、ヴィーナスとは何か。マルスとは何か。差異の志向性自体にも差異があるのではないか。そう、差異には、垂直・水平対極相補性を考えたから、この対極相補性の構造に多種多様性を生む力学があるのではないかと考えられよう。例えば、垂直性の極限としてマルス、水平性の極限としてヴィーナスというように考えることができるかもしれない。だから、差異の内在構造による多種多様性である。そして、これが、ゼロ連結(太陽連結)する。ゼロ連結によって、差異連結の多種多様性が発生する。しかしながら、差異の内在構造による差異の志向性自体にもともと多種多様性の「イデア」があるということになるだろう。だから、多神教ないし神話の神々のイデアとは、イデア界にあると見ていいだろう。
 このように考えると、結局、この問題は、上位概念で包摂されて解決されることになるだろう。イデア界的ヴィジョンなのか、メディア界的ヴィジョンなのかとは、二項対立ではなくて、イデア界の原ヴィジョン(原意識、原自我、原我、超越論的主観性)が、メディア界のヴィジョンになるということになるのである。だから、多神教・神話の神々とは、イデア界において、神々のイデアとして存するということになるだろう。このように考えると、それは、神話構造論の根拠となるだろう。ジョゼフ・キャンベルの神話構造普遍主義は、この差異内在構造論で説明ができるだろう。即ち、イデア界に多神教・神話・宗教のイデアが存しているということである。一神教の場合も同様である。ただし、一神教は、メディア界の志向性の終結領域であるということである。
 すると、結局、不連続的差異は、共通単位として考えていいことになる。つまり、初めに、多種多様な不連続的差異があるというのはではなくて、初めは、単一の不連続的差異が境界を隔てて無数ないし多数存しているのであり、それが、差異内在的垂直/水平対極相補構造によって、多種多様性のイデアをもっているということになるだろう。無数ないし多数の単一的な不連続的差異が、多種多様なイデア、森羅万象のイデア、八百万の神々のイデアを内在しているということになるだろう。
 ここで、D.H.ロレンスの最晩年の『アポカリプス補遺』によると、まだ、生まれていない神々があるということになる。確かに、不連続的差異の内在構造の変化によって新しい神々(メディアそして現象)が生まれるだろう。結局、世界は、境界で隔てられた垂直/水平対極相補性を内在した無数の不連続的差異の共立するイデア界という純粋な数学的構造をもっているということになる。創造神とは、数学者である。初めに、数学ありき。
 
p.s. 太陽イデアとは、原自我、原我、超越論的主観性と結びつけたが、この視点から一神教を考えると、差異の垂直主義化が、一神教の動きと考えることができそうだ。先においては、メディア界化の極限と言ったが、どうだろうか。つまり、差異の志向性を一神教は廃棄しようとする動きである。つまり、差異→ 差異という志向性が、差異=差異=一神教的自我・同一性とするのが、一神教である。ならば、差異の垂直主義化とは、一見、一神教化に見えるが、そうではないことになる。差異の連続化の極限が一神教化と見るべきである。差異を廃棄するのが一神教である。これは、結局、連続・同一性主義であり、西洋文明の基本動向である。オリエンタリズム、植民地主義、帝国主義、覇権主義等々。しかし、同時に、差異が西洋文明には作用している。つまり、西洋文明とは、一神教と多神教との二重構造である。思うに、一神教は西欧性であり、多神教性は南欧性、地中海性であろう。そして、ルネサンス/宗教改革の二重性が近代において作動しているのである。そして、今や、不連続的差異論の成就によって、差異が純粋化しようとしている。ポスト・キリスト教、ポスト・一神教、新多神教の新時代である。

2005年11月05日 (06:15)

時空四次元について:備忘録

1/4回転で、差異が連続化される。
差異/強度連続体が発生する。差異⇔強度
差異は垂直/水平構造をもつ。だから、垂直/水平/強度連続体。
この水平志向と連続力はどう関係するのか。これを同一と見るか、別と見るか。これは、別だと思う。
この強度は、ガウス平面に直交するだろう。だから、これを、高度と捉えよう。強度軸、高度軸である。だから、垂直・水平・高度の直交座標があるだろう。三次元である。
強度・高度は何か。光なのだろうか。時間なのだろうか。思うに、原時間であろう。そして、差異は、原空間だろう。
即ち、差異・強度(高度)=原時空間(三次元)
そして、この強度が展開して、現象化するのだろう。
そう、差異/強度(高度)=原時空間が現象化する。
この時の、力学構造が問題だ。
差異/強度(高度)は、メディア界であり、中間界であり、プロセス界である。この強度(高度)(略して、高強度と言おう)の実現として、現象化があるだろう。現象軸が生起するだろう。垂直・水平・高強度→現象が発現する。
現象軸が、時空四次元体ではないだろうか。
なぜ、四次元となるのか。それは、垂直・水平・高強度の三次元性を内在している次元だからではないか。三次元性をもった一次元である。
つまり、垂直(縦)/水平(横)/高強度(高さ)の三次元性を内在して現象軸である。つまり、現象軸から三次元化するのだろう。現象軸を時間軸にすれば、いいのではないか。
ならば、現象軸とは、光速度の軸とも言えるだろう。
現象軸=時間軸=光速軸(光軸)
相対性理論とは、現象軸の理論だろう。
では、重力は、それは、高強度(高さ)のことではないだろうか。
ならば、量子力学との関連はどうなるだろうか。
量子力学は、メディア界の理論である。
差異/高強度の不可分一体・矛盾同一の理論である。
差異/高強度=粒子・波動/「力」ということだろう。
「力」が量子の力である。
だから、高強度=量子力である。
そして、高強度が重力だったのだから、
重力=量子力である。
量子力は、四つの力であるから、
これは矛盾する。
しかし、三つの力=重力としたらどうだろうか。
否、元へである。
現象における高強度が重力と言ったのである。
それは、メディア界の力ではない。
つまり、現象界の高強度と時間を別にしている。
しかし、メディア界においては、高強度は、原時間である。
だから、区別しないといけない。
メディア・高強度と現象・高強度である。
量子力は、メディア・高強度である。
重力は、現象・高強度である。
だから、量子力⊃重力である。
四つの力である。電磁気力、弱い力、強い力、重力である。
ならば、高強度を区別しないといけない。
メディア界の力を高強度と呼ぼう。
現象界の高強度は重度としよう。
つまり、現象化とは、高強度が、重力と三つの力に分離することではないだろうか。メディア界の高強度において、四つの力が不可分一体である。
では、高強度の原四つの力とは何か。その構造は?
差異の垂直/水平力がある。そして、高強度がある。つまり、差異連続体において、垂直力と水平力と高強度が内在している。 
ここでは、思考実験であるが、垂直力と水平力は、差異内在力、差異即自力であり、これが、強い力と弱い力となるだろう。そして、高強度自体は、光である。つまり、電磁気力であり、差異にとっては、外在的である。差異外在力、差異対自力である。そして、それらの架橋として、重力が発生するのではないか。即ち、重力は、即自と対自の中間力である。即ち、

差異即自力・・・差異中間力・・・差異対自力
垂直・水平力・・・中間力・・・高強度
強い力・弱い力・・・重力・・・電磁気力

となる。
これら四つの力が、メディア界において、不可分一体となっているのである。このように考えると、量子力学⊃相対性理論となるだろう。
量子・相対性理論である。
E=mccであるが、
これは、メディア界の力の公式であろう。
しかし、これは、差異即自力が欠けているのではないだろうか。
それとも、全体の力の公式だろうか。
質量と重力の関係。
質量とは、差異・重力ではないか。
光が重力によって曲がるというのは、当然だろう。なぜなら、重力は中間力で、電磁気力を帯びるからだろう。あるいは、四つの力は、凝縮力をもつと言うべきかもしれない。向心力。メディア界的向心力。
結局、現象界とは、メディア界の影であろう。
プラトンのイデアとは、一つは、メディアを指しているだろう。
そして、もう一つのイデアが、イデア界の不連続的差異共存体を指しているだろう。二つのイデア。メディ・イデア(メディデア)とイデア。中間イデアと原イデアである。形相と脱形相、構造と脱構造である。プラトンは、仏陀と並ぶ、ポスト・モダニストだ。プラトンの方が釈迦より、年長であるが、ほぼ同時代人で、それから、およそ2400年たっている。ようやく、
彼らに追いついたのである。人類の度し難き愚鈍さ!

プラトン:紀元前427年 - 紀元前347年
釈迦:前463年 - 前383年 、前560年 - 前480年 等

プラトン
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%97
%E3%83%A9%E3%83%88%E3%83%B3
釈迦
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%88%E8%BF%A6

参考
http://elekitel.jp/elekitel/special/2002/03/sp_
03_c.htm
http://www-jlc.kek.jp/hep/hep-c5-j.html
http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/yon.html
http://www.geocities.co.jp/SweetHome-Ivory/
6352/sub6/unified.html
http://wwwsoc.nii.ac.jp/jps/jps/butsuri/
50th/noframe/50(5)/50th-p316.html
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    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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