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2007年10月21日 (12:39)

心の問題:その2:米主日従の米日関係が日本滅亡の根因である

朝目覚めて、ふと、思いつくことがあったので、心について再考したい。
 問題は「知」の様相である。PS理論では、差異から差異へと志向性が存する。いわば、差異的志向性である。この差異的志向性が「知」である。ここにおいて、知情意が発生しているのである。知情意を含めて、「知」と捉えたい。
 直感では、「知」は、本来、差異と差異との「あいだ」に生起するもののように思える。とまれ、「知」は一方においては、同一性相であり、他方では差異相である。
 私のイメージでは、「知」は、両極的なのである。一方では、同一性を志向し、他方では差異を志向している。もう少し、正確に言うと、「知」は一方では、外界的他者(外界的対象)を志向しているのと同時に、他方では、内界的他者(内界的対象、おそらく、自己)を志向しているのである。言い換えると、「知」とは外界志向・即・内界志向なのであり、近代合理主義、近代的自我のように、単純に、一面的に、外界を志向しているものではないのである。「知」のもつこのような二重性、両極性は、PS理論の自己認識方程式i*(-i)⇒+1に表現されている。
 問題は、本来、「知」とはこのような二重性、内外両極性をもっているのに、近代主義において、外界中心主義へと転化したことである。つまり、近代的知とは、「知」の内外両極性(主客両極性)を否定して、外界中心主義になったのであるが、この意味は何であろうか。これは、端的に、近代科学の成立を意味するのである。外界的同一性・数量性が中心化したのであり、内界的差異・質性が捨象されたのである。
 外界的同一性・量性中心主義の近代合理主義が、一般に中心的な価値となっているのであるから、「知」が歪曲され、混乱しているのである。哲学史は、フッサールの現象学が、この近代合理主義の「知」を問題化して、判断停止(エポケー)、現象学的還元等によって、近代的「知」の画期的な乗り越えを行なったことを説いているが、ハイデガーの似非現象学によって、哲学は混迷化してしまったのである。近代的「知」に対する突破口が発見されたら、すぐに塞がれてしまったのである。ここに、今日の「知」の停滞・混迷の要因があると言えるのである。
 実際、差異の「知」は、いわば、霊妙なのである。同一性・量性の、いわば、粗雑・粗略な「知」では、まったく、把捉・理解できるものではないのである。とまれ、近代合理主義に対して、いわば、内界の「知」が必要になったわけであるが、それは、一般には、反近代主義や非合理主義等々によって表現されてはきた。しかしながら、結局のところ、内界の「知」は、公的には、「科学」化されずにいるのである。心理学はいまだ曖昧である。
 問題を整理すると、「知」は、上述したように、本来、両極的である。同一性と差異、外界と内界の両極性をもつのであり、両極を二元論的に分離するのは、間違いであろう。(だから、即非論理なのである。)
 とまれ、差異の科学が必要なのである。そして、PS理論は、それを意味するのである。PS理論は、差異から同一性を解明しているのであり、差異において、同一性を包摂しているのである。
 この差異の「知」は、知情意を包括したものである。それは、知情意をおのおの特化すれば、差異科学、差異芸術、差異倫理となり、差異哲学がそれを統括することになろう。
 最後に一言添えると、近代合理主義ないし外界中心主義の支配はいったい何なのか、である。どう考えても不自然なのである。ニーチェのように精神的弱者の支配を弾劾したくもなる。
 学問や科学の発達から考えて、とっくに、近代合理主義や外界中心主義は終焉していなくてならないのに、一般には、それらは主流である。この「知」的遅延の原因は何なのか。何かが、一般の人間の「知」の進展を押しとどめていると思われるのである。それは単に「知」の停滞だけでなく、社会の停滞・後退・衰退を意味するのである。だから、この「知」(知情意を含めた「知」を智と呼ぶことができるだろう。以下、智とも呼びたい。)の進展を押しとどめているものの正体を知る必要がある。
 具体的には、教育の衰退がある。ゆとり教育はアメリカの日本亡国の陰謀・策謀ではなかったのかと思ってしまうが。私の経験から言うと、「新人類」の出現からおかしいのである。彼らには、合理主義はあるが、「知」ないしは智性がなかったのである。 
 そう、戦後の近代合理主義信仰がもたらしたものとも言えるだろう。近代科学信仰、近代科学カルトである。カルトなのである。
 ここで宗教について考えると、通俗には、日本人は無宗教である、ないしは、宗教には関心がないと言われている。しかしながら、近代科学カルトという点では、一種宗教的である。カルト宗教的である。(ここで、批判的宗教ないしは智的宗教とカルト宗教を区別する。)この問題は、上述した同一性主義の問題と同質の問題である。「知」・智の差異を無視して、同一性・量性に同一化するのである。これは、実に精神・智の単純化である。己を失って、安易に同一性・量性に適応するのである。
 ここには、なにか致命的な欠陥が感じられる。「知」・智の冒瀆があるとさえ言えるだろう。言い換えると、「知」・智の後退・退化があるとさえ言えよう。もし、そうなら、それは、端的に、滅亡の徴・予兆・前兆である。日本民族の滅亡の徴である。また、巨視的に言うと、人類の滅亡の徴であろうか。
 それとも、同一性主義亜人類が発生したのだろうか。サブ・ヒューマンである。そう、日本においては、欧米化、とりわけ、アメリカ化と言えよう。しかし、アメリカのようには、合理主義は徹底してはいないが。
 とまれ、ここには、智への不誠実さがある。そう、科学から見ても、誤りであろう。少なくとも、科学は、真理に対して誠実である。自我中心主義によって、知が貶められているのだ。
 同一性主義=自我であるが、この自我が肥大化して、知をも否定しているのである。つまり、同一性の知さえ否定しているということになる。同一性自我中心主義は、知を捨てて、自我カルトとなっているのである。
 ここにあるのは、自我欲望中心主義である。これは、現象の連続性と関係していると思うのである。それでは、別稿で、先に検討問題としてあげたこの問題について考察したい。

p.s. 同一性中心主義(自我カルト)を日本滅亡の徴と言ったが、なにか、ここには、マインドコントロールが感じられるのである。そう、日本人の近代的自我、近代合理主義には、マインドコントロールが感じられるのだ。誰が、差異の知をタブーにしているのか。個であること、単独であることをタブーにしているのか。このマインドコントロール、差異タブーがあるために、日本は亡国となり、絶滅に瀕しているのである。温暖化問題よりも、根本的である。
 誰が、何が、洗脳しているのか。それは先に述べたように、戦後のGHQの占領政策である。戦前的なものを一切タブーとした占領政策である。つまり、日本の精神的伝統を否定した占領政策である。そして、その後はプラザ合意からの米国への明(あか)らさまな従属による知的隷属が生まれた。日本がアメリカとは異なる個であり、差異であることが否定されているのである。
 やはり、アメリカ的近代合理主義に洗脳されているのだろう。ヨーロッパの知は、明らかに、もっと複合的である。つまり、智的である。アメリカのプラグマティズムは、いわば、没理論的経験主義である。
 では、この洗脳/マインドコントロールの仕組みはどういうものなのだろうか。それは、近代合理主義・近代的自我の権力ヒエラルキーが存在して、支配しているということである。近代合理主義の権力ヒエラルキー、近代合理主義の中央集権主義が支配しているということである。つまり、米主日従の近代合理主義/近代的自我の中央権力機構があるということである。この米主日従の二項対立こそ、脱構築・脱構造化する必要があるのである。(日本のポスト・モダンがだめだったのは、日本自体にある二項対立に気づいていなかった点にあるだろう。)
 結局、政治経済における米主日従の米日関係を介して、今日の日本における同一性中心主義が発生したと言えるだろう。日本は、アメリカによって、個であること、差異であることを否定されているのである。ここにこそ、今日、日本滅亡の根因があると言えよう。


参考:心身問題と量子力学 (単行本)
マイケル ロックウッド (著), Michael Lockwood (原著), 奥田 栄 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E5%BF%83%E8%BA%AB%E5%95%8F%E9%A1%8C%E3%81%A8%E9%87%8F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E5%AD%A6-%E3%83%9E%E3%82%A4%E3%82%B1%E3%83%AB-%E3%83%AD%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%A6%E3%83%83%E3%83%89/dp/4782800754/ref=sr_1_1/249-4622683-4381126?ie=UTF8&s=books&qid=1192925462&sr=8-1

心についてあれやこれやとその1 : リスト作成者: 川流桃桜

http://members.jcom.home.ne.jp/natrom/boardtree1600.html
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2007年10月21日 (02:14)

心の問題

心の知情意とはよく言われることであるが、いったい心の構造はどうなっているのだろうか。
 これまで、差異と同一性の視点から、自我について考察してきた。近代的自我=狂気という見解を展開してきたのだが、差異と同一性を知情意に関係させるとどうなるのだろうか。
 とまれ、ここでは、近代的自我において考えてみたい。差異を否定している近代的自我(以下、自我)において、近代合理主義という知と意志が結びついている。この、いわば、知意志は、同一性中心主義である。
 この知意志=同一性知性は、対象との差異共振性を否定している。主体の知において、同一性の面が顕在的であり、差異又は差異共振の面が、同一性の面によって否定される様態で、潜在化しているのである。
 差異(以下、差異共振をも含める)を否定する同一性という知意志は、感情的には、当然否定的感情を帯びるのである。それは、嫌悪であり、憎悪であり、嫉妬であり、等々の否定的感情である。(感情には、欲望も含める。)
 同一性の知意志、これは、正に、自我である。他者と同一化している自我であり、他者を嫉視するのである。同一性の投影が支配しているのである。
 では、問題は、否定され潜在した差異はどういう様態になっているのだろうか。それは、無意識の領域にあると言える。この無意識の差異と同一性(自我)の知意志=意識の関係はどうなっているのだろうか。
 同一性の知意志(自我意識)は、差異を否定しているのであるが、その否定を意識しているのであろうか。これは微妙である。同一性の意識にとっては、本来、差異は認識できない。認識できないから、否定もしないのではないだろうか。
 否、差異のエネルゲイアに対して、それを理解できない異質なものとして、排除するのであるから、否定しているのである。しかしながら、何十回と既述したように、差異はそれ自体の認識性をもっているのである。つまり、主体(自己)とは、本来、同一性認識と差異認識の両面をもつのであるが、一般には、前者が先行して、後者を否定するが、その後、後者を肯定するようになると言えよう。
 しかしながら、近代的自我のように同一性中心主義になると、後者が徹底して排除される。このとき、後者はどうなるのかである。
 以前は、賦活された差異のエネルゲイアが反動的に狂気となり、自我意識を襲うと述べたが、差異認識という考え方から見ると、近代的自我は分裂化するのである。(最近は、統合失調症という名称を使うが。)即ち、同一性意識(自我意識)と差異認識とが分裂するのである。前者は後者を抑圧するが、後者は潜在するだけでなく、活動するので、ここにおいて、両者の相克が発生すると考えられるのである。
 簡単に言えば、同一性は差異を否定し、差異は同一性を否定するのである。これは、精神病である。近代的自我的精神病である。今日、うつ病、自己愛的人格障害、統合失調症、等と言われるものは、これが起因であると思われるのである。
 結局、自己とは、同一性の極と差異の極の両極があるのであるが、近代主義は、差異の極を無視したために、自己は自我となり、狂気化しているのである。
 PS理論から言うと、自己はMedia Pointを根源としているので、当然、エネルゲイア=電磁波をもつのである。私は先に精神電磁波と呼んだ。結局、自我の電磁波があり、それは差異を否定する否定的電磁波=毒気・瘴気である。差異の電磁波があり、それは、肯定的電磁波であり、いわば、差異共振的生気である。(シュタイナーのエーテル体やアストラル体は、ここと関係するだろう。)
 自我は、差異の肯定的電磁波を当然否定する。ここで、対人関係において、ストレスが発生するのである。自我=否定的電磁波と自己=肯定的電磁波の相克があるのである。狂気と正気の相克である。そして、現代日本において、狂気が正気を凌駕しているのである。
 問題は、このような精神病日本は、当然、亡国なのであるが、これは、さらには、滅亡へと向かうのではないだろうかということである。

p.s. 後半、知情意の視点が抜けてしまったが、同一性=自我には、否定的感情があり、差異=自己には、肯定的感情があるということになる。これは、ほぼスピノザの悲しみと歓びの二つの感情の視点と同じである。

p.p.s. 結局、近代的自我の問題とは、感情に対して無意識であるということではないだろうか。差異は感情に関係している認識であろう。つまり、感情を認識して、感情を陶冶・コントロールするのである。同一性=自我によって、否定的感情(嫌悪・憎悪・慢心等)が発生するが、差異的感情認識がなければ、自己の否定的感情に気がつかない。自己盲目である。そう、これが、現代日本人の精神病の意味することではないだろうか。
 また、感情とは身体に密接に関係しているのであるから、感情身体が喪失しているとも言えよう。そう、差異感情身体の喪失である。(Media Pointは、同一性的知と差異感情身体の中間にあるだろう。)
 差異感情身体を否定しているので、日本人の精神は病的であり、非創造的なのである。

2007年09月09日 (23:54)

感情とは何か:否定的同一性感情と肯定的差異感情

感情とは何だろうか。同一性主義は差異を否定しているから、このとき、否定的感情が発動すると考えられる。そして、差異を肯定するときは、感情はいわば、理性的になり、理性に統制されたものであろう。共感的感情になるだろう。否定的感情と共感的感情がある。これを同じ言葉で言うのは混乱するだろう。
 とまれ、同一性志向により差異が否定されたとき、差異には歪みが生じる。これが否定的感情の源泉だろう。ということは、もともと、Media Pointには原感情があるのだろう。それは、i*(-i)の共振感情であろう。
 では、感情とは何か、である。山登りをしていて、展望が開けたとき、よろこびの気持ちが起る。また、ひろびろと眺望できる尾根道を歩くのは、よろこびである。また、やさしい、思いやりのある人に接するのはよろこびである。歓喜の情がこころに生起する。そう、情である。情感である。
 ここには、他者に対する共感があるだろう。彼方のひろびろとした光景への共感、おもいやりのある人への共感から、歓喜の情が生まれると言えよう。
 では、共感によって、心に生まれる喜びとは何だろうか。思うに、正に、イデアから発しているのだろう。イデア界にある美や善や真から、この共感の情が生まれるのだろう。絶対的な美や善があるから、そこを源泉にして、共感による歓喜の情が発生するのだろう。
 つまり、超越的差異であるイデアは、真善美等であり、それらは、根源的な、歓喜の情態をもつと言えよう。
 では、イデアの情態とは何か。絶対的真善美の情態とは何か。思うに、形相差異iと身体差異-iとが共振するとき、身体差異に発現する力が情態ではないだろうか。形相差異は認識であり、知である。しかし、身体差異に発現するものが情態ではないだろうか。知と情とが一対になっているのである。
 思うに、私が音楽を聴いて楽しむのは、身体差異の情態において喜びを感じるからだろう。もっとも、形相差異において、知を感じるのではあるが。
 今はここで留めることにする。

2007年04月18日 (23:11)

ヴァージニア工科大学で起きた大量殺人事件であるが、ニューヨークタイムズの以下の記事の最後の箇所に、当事件の原因があるのではないかと思った。

ヴァージニア工科大学で起きた大量殺人事件であるが、ニューヨークタイムズの以下の記事の最後の箇所に、当事件の原因があるのではないかと思った。

次の赤色の箇所を見ていただきたい。「心理的問題の治療に関係する処方された薬物(薬物治療、薬物処理)prescription medicationsが、Cho氏の作用(効果)effectsの中に見つかったと職員は言った。」となっている。

なにか、あいまいな書き方である。

つまり、精神・神経に関する、処方された薬をCho氏は服用していて、その薬とCho氏の症状は相関性があるということか、それとも、薬の副作用とCho氏の行動とが関係があるということなのか、等である。

Cho's effectsという表現があいまいである。Cho氏のeffectsとは何か。普通は、効果、作用、結果、作用、等である。薬物の効果、作用の意味にもなる。

印象、実行という意味もある。

単純に読めば、精神治療の薬による効果が、Cho氏に見いだされた、ということだろう。

これでは、意味がないだろう。(p.s. しかし、これが、いちばん穏当な読みである。)

やはり、副作用ではないのか。

後で再考したい。


p.s. どうも、私の未熟さであった。effectsは、身の回りの品、所有物の意味がある。これで、明快である。

副作用は考えられるだろう。


"

Mr. Cho awoke before 5 a.m., then sat down to work on his computer and awakened Mr. Aust in the process. Mr. Grewal, who shares a room in the same suite, saw Mr. Cho in the bathroom shortly after 5 a.m.

As usual, Mr. Cho did not say anything to Mr. Grewal. No good morning, no hello, Mr. Grewal said. Mr. Cho stood in the bathroom, brushing his teeth, wetting his contact lenses and applying a moisturizer.

He also took a prescription medicine. Neither Mr. Aust nor Mr. Grewal knew what the medicine was for, but officials said prescription medications related to the treatment of psychological problems had been found among Mr. Cho’s effects.
"
Gunman Showed Signs of Anger

By MANNY FERNANDEZ and MARC SANTORA
Published: April 18, 2007
BLACKSBURG, Va., April 17 ― Cho Seung-Hui rarely spoke to his own dormitory roommate. His teachers were so disturbed by some of his writing that they referred him to counseling. And when Mr. Cho finally and horrifyingly came to the world’s attention on Monday, he did so after writing a note that bitterly lashed out at his fellow students for what he deemed their moral decay.

Mr. Cho’s eruption of violence, in which 32 victims and himself were killed on the Virginia Tech campus here in a rampage of gunfire, was never directly signaled by his actions or words, several of his acquaintances said Tuesday. But those acquaintances were frequently disturbed by his isolation from the world and his barely concealed anger.

Joe Aust, who shared Room 2121 at Harper Hall with him, said he had spoken to Mr. Cho often but had received only one-word replies. Later, Mr. Aust said, Mr. Cho stopped talking to him entirely. Mr. Aust would sometimes enter the room and find Mr. Cho sitting at his desk, staring into nothingness.

“He was always really, really quiet and kind of weird, keeping to himself all the time,” said Mr. Aust, a 19-year-old sophomore, who, though finding Mr. Cho strange, had not thought him menacing.

Yet there were signs that his behavior was more than just bizarre.

Lucinda Roy said that in October of 2005 she was contacted as head of the English Department by a professor who was disturbed by a piece of his writing. Ms. Roy, rebuffed by Mr. Cho, contacted the campus police, counseling services, student affairs and officials in her department. Ms. Roy described the writing as a “veiled threat rather than something explicit.”

University officials told her that she could drop Mr. Cho from the class. Or, they said, she could tutor him individually, and she agreed to do so three times from October to December 2005. During those sessions, she said in an interview, he always wore sunglasses and a baseball cap pulled low.

“He seemed to be crying behind his sunglasses,” she said.

Ms. Roy said she had been so nervous about taking him on as an individual student that she worked out a code with her assistant: if she mentioned the name of a dead professor, her assistant would know it was time to call security.

In another writing class, Mr. Cho submitted two profoundly violent and profane plays. Ian MacFarlane, a classmate who now works for America Online, posted the plays on the company’s Web site Tuesday, saying they had horrified the rest of the students.

“When we read Cho’s plays, it was like something out of a nightmare,” Mr. MacFarlane wrote. “The plays had really twisted, macabre violence that used weapons I wouldn’t have even thought of.”

As a result of them, Mr. MacFarlane added, “we students were talking to each other with serious worry about whether he could be a school shooter.”

In one play, called “Richard McBeef,” Mr. Cho wrote of a teenage boy who accuses his stepfather of murdering the boy’s father and of trying to molest the boy himself.

“I hate him,” the boy says of the stepfather in a copy of the play on the Web site. “Must kill Dick. Must kill Dick. Dick must die.”

Though the level of anger was clear to those who knew Mr. Cho, there is little that points to a precise motive for Monday’s events. Or, as a federal law enforcement official who spoke on condition of anonymity put it: “What was this kid thinking about? There are no indications.”

There are just the snippets of a lonely young life: prescription medicines, ominous words and two newly bought handguns.

Mr. Cho was a 23-year-old senior, skinny and boyish-looking, his hair cut in a short, military-style fashion. He was a native of South Korea who grew up in Centreville, Va., a suburb of Washington, where his family owns a dry-cleaning business. He moved with his family to the United States at age 8, in 1992, according to federal immigration authorities, and was a legal permanent resident, not a citizen.

In the suite in Harper Hall where he lived with five other students, he was known as a loner, almost a stranger, amid a student body of 26,000. He ate his meals alone in a dining hall. Karan Grewal, 21, another student in the suite, recalled that when a candidate for student council visited there this year to pass out candy and ask for votes, Mr. Cho refused even to make eye contact.

On Tuesday, investigators were examining a note Mr. Cho had left behind in his dorm room, a rambling and bitter list of the moral laxity he found among what he considered the more privileged students on campus.

)

Though the level of anger was clear to those who knew Mr. Cho, there is little that points to a precise motive for Monday’s events. Or, as a federal law enforcement official who spoke on condition of anonymity put it: “What was this kid thinking about? There are no indications.”

There are just the snippets of a lonely young life: prescription medicines, ominous words and two newly bought handguns.

Mr. Cho was a 23-year-old senior, skinny and boyish-looking, his hair cut in a short, military-style fashion. He was a native of South Korea who grew up in Centreville, Va., a suburb of Washington, where his family owns a dry-cleaning business. He moved with his family to the United States at age 8, in 1992, according to federal immigration authorities, and was a legal permanent resident, not a citizen.

In the suite in Harper Hall where he lived with five other students, he was known as a loner, almost a stranger, amid a student body of 26,000. He ate his meals alone in a dining hall. Karan Grewal, 21, another student in the suite, recalled that when a candidate for student council visited there this year to pass out candy and ask for votes, Mr. Cho refused even to make eye contact.

On Tuesday, investigators were examining a note Mr. Cho had left behind in his dorm room, a rambling and bitter list of the moral laxity he found among what he considered the more privileged students on campus.

Centreville is an unincorporated community of 48,000 about 20 miles from Washington in Fairfax County. Mr. Cho graduated in 2003 from Westfield High School in nearby Chantilly, a large school that sends dozens of its students to Virginia Tech. At least two of Mr. Cho’s victims had also attended Westfield.

The Cho residence in Centreville is on Truitt Farm Drive in a subdivision of attached townhouses called Sully Station II. The family was not at home on Tuesday. But neighbors said three unmarked police cruisers arrived at the house about 10:30 p.m. Monday, and came and went throughout the rest of the evening. The neighbors had only nice things to say about the Cho family; the father sometimes cleaned the snow off his neighbor’s car across the street.

Every 10 years, lawful permanent residents are required to renew their green cards. Mr. Cho did so, and was issued a new card on Oct. 27, 2003. Applicants seeking a green-card renewal undergo a criminal background check through various law enforcement databases, said Chris Bentley, a spokesman for United States Citizenship and Immigration Services. “Nothing showed up in those checks that told us he couldn’t have his green-card renewal,” Mr. Bentley said.

Mr. Cho went to bed early by college standards, about 9 p.m. He often rose early, but in recent weeks he had been doing so even earlier, frequently before dawn, said Mr. Aust, his roommate. Such was the case Monday.

Mr. Cho awoke before 5 a.m., then sat down to work on his computer and awakened Mr. Aust in the process. Mr. Grewal, who shares a room in the same suite, saw Mr. Cho in the bathroom shortly after 5 a.m.

As usual, Mr. Cho did not say anything to Mr. Grewal. No good morning, no hello, Mr. Grewal said. Mr. Cho stood in the bathroom, brushing his teeth, wetting his contact lenses and applying a moisturizer.

He also took a prescription medicine. Neither Mr. Aust nor Mr. Grewal knew what the medicine was for, but officials said prescription medications related to the treatment of psychological problems had been found among Mr. Cho’s effects.

Christine Hauser contributed reporting from New York.

http://www.nytimes.com/2007/04/18/us/18gunman.html?th&emc=th

2007年02月16日 (20:37)

予知夢と老賢者

今朝、不思議な夢を見た。私の夢は正夢というか、言わば、予知夢になるので、検討したい。

 何か、バスの中で、あるいは、会場で、私の前に座っていた老人がこちらを向いて話してきたのである。目が大きく光っている印象である。そう、遮光土器の目のような感じもあるが、大きな、丸い目であった(フクロウの目と言うべきか)。彼は、(そう、バスの中である)福島出身で、なにか農業をしていて、今や、退職して、ドイツの詩人のヘルダーリンを研究するようなことを言った。そう、バスは、山を上って、ドイツの高山に向かっているようなであった。
 その後、場面は学会になって、誰かが、誰かの著書を見せて、ここには、間違いあるようなことを辛辣に指摘した。その後、何か、口論のような感じがあったが、目が覚めたのである。

 ある意味では他愛のない夢であるが、どうも、福島出身の、ヘルダーリン研究するという、ドイツの高山に向かう老人(と言っても、元気がある老人である)は、ユングが説いた老賢者に相当するのはないかと思ったからである。夢の中で、私は、老賢者に智慧を学んでいたのだろうか。

 大きな丸い、暗く光る目、なにか眼鏡をかけている目が印象的であった。フクロウのような目、これは、ミネルヴァの梟(ふくろう)=智慧の女神アテネ=ソフィア(叡知)に相当するのではないだろうか。つまり、哲学を示唆しているのではないだろうか。では、なぜ、ヘルダーリンなのだろうか。なぜ、ドイツなのだろうか。ユングは、スイス人である。とまれ、山岳ということで、アルプスであろう。アルプスならば、スイスもドイツも一連なりである。なぜ、ヘルダーリンなのか。そう、ヘルダーリンは、古代ギリシアを志向した大詩人である。ここでは、やはり、哲学を意味していると言えよう。端的に言えば、イデア界=叡知界であろう。

 思えば、不連続的差異論が誕生する二日前にも、夢を見て、美しい女の子が生まれるたのである。それは、ソフィア(叡知)ではないかと思ったのである。
 
 とまれ、彼が老賢者ならば、これも、叡知・哲学を意味しよう。そう、太母と老賢者は一体であると言えよう。太母の中に、老賢者がいると言ってもいいだろう。

 後、夢や眠りについて述べたいが、後で考察することとして、簡単に言うと、以前述べたように、眠りや夢は、「心」がイデア界に回帰しているのではにかと思えるのである。そこで、差異共振シナジー・エネルギー=元気を補給されるのではないかと思えるのである。そう、それは、シュタイナー的に言えば、霊界であり、死者もいるのである。

 なぜ、予知夢となるのかと言えば、それは、イデア界の原事象を知るからではないのか。体のことで言えば、それは、身体の細部を理解しているのである。身体のイデア/物質事象を認識しているからではないのか。誰が認識しているのか。それは、「心」ではないだろうか。個化された「心」が認識しているのではないのか。

 では、個化された「心」とは何か。これは、特異性の「心」であろう。では、イデア界と「心」はどう関係するのか。「わたし」の「心」と他者の「心」はどう違うのか。イデア界の特異性化とは何か。これらは、後で検討しよう。

___________________________________

参考:

太母と老賢者 - 太母は、自己元型の主要な半面で、すべてを受容し包容する大地の母 としての生命的原理を表し、他方、老賢者は太母と対比的で、同様に自己元型の主要な半面で、理性的な智慧 の原理 を表す。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%83%E5%9E%8B

* 老賢者(Alte Weise) : 自己の主要な一面としての父権的な選択的精神 原理 (ロゴス )として、老賢者の元型が作用する。太母 の対語。
* 太母(Magna Mater) : 自己の主要な一面としての母権的な受容的生命 原理 (エロス )として、太母の元型が作用する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%86%E6%9E%90%E5%BF%83%E7%90%86%E5%AD%A6

Wise old man
From Wikipedia, the free encyclopedia
Jump to: navigation , search
A wise old man: "The Scholar in Mediation" by Rembrandt
A wise old man: "The Scholar in Mediation" by Rembrandt

The wise old man (or "Senex ") is an archetype as described by Carl Jung . It is also a classic literary figure, and may be seen as a stock character .[1]

This kind of character is typically represented as a kind and wise, older father-type figure who uses personal knowledge of people and the world to help tell stories and offer guidance that, in a mystical way, may impress upon his audience a sense of who they are and who they might become, thereby acting as a mentor . He may occasionally appear as an absent-minded professor , losing track of his surroundings because of his thoughts.

The wise old man is often seen to be in some way "foreign", that is, from a different culture, nation, or occasionally, even a different time, than those he advises. In extreme cases, he may be a liminal being , such as Merlin , who was only half human.

In medieval chivalric romance and modern fantasy , he often appears as a wizard .[2] In the same works, he can also feature as a hermit , who often explained to the knights -- particularly those searching for the Holy Grail -- the significiance of their encounters.[3]
Contents
[hide ]

* 1 Terminology
* 2 Examples
o 2.1 Historical
o 2.2 Mythology
o 2.3 Literature
+ 2.3.1 Fantasy literature
+ 2.3.2 Comics
o 2.4 Television and film
+ 2.4.1 Science fiction
+ 2.4.2 Animation
o 2.5 Computer and video games
* 3 References
* 4 See also
* 5 External link

[edit ] Terminology

Jung dubbed this character as a senex . This is Latin for old man in general, and in fact, two stock characters of the stage are the senex iratus , an old man who irrationally objects to the love of the younger characters, and the senex amans , an old man foolishly in love with a woman too young for him. This senex, unlike these characters, has grown old graciously. His wisdom is not only in his increased knowledge and judgment, but his knowing that younger people have taken on the role of hero, and that his position has changed to one of mentor.

Merlin fell from the role of senex to senex amans when he fell in love with Nimue ; this lapse from judgment is what led to his being enchanted and imprisoned.

http://en.wikipedia.org/wiki/Wise_old_man

2006年03月01日 (01:09)

反動狂気化した近代的自我のもつ支配・威圧・恫喝・暴圧的な「精神」=《メディア》とは何か

本件については、数年来何百回となく検討したが、まだ、経験にぴたりとはまっていない憾みがあるので、また、反復して、考察することにする。
 そう、反動的な近代的自我の言語行為は、人を刺すのである。人の感情を踏み躙るのである。本人には、攻撃的であることが自覚されていないのである。この攻撃性はどこから生まれるのか。憎悪があるのは確かであるが、無意識の憎悪・傲慢さ・怨恨・反感である。無意識であるのがポイントであると思う。また、否定性をあげなくてはならない。不連続的差異論から考察しよう。
 《心》とは《メディア》空間にある。ここは、中間領域であり、イデア界と現象界両方に通じている。そして、人倫・共感性とは、イデア界の力から発しているが、特異性が教養、努力、苦悩等によって涵養・陶冶されて形成されるものである。しかし、特異性が人倫・共感性へと涵養されない場合は、反動化する。何故か。おそらく、生得的に、共感・倫理性の種子は誰にもあり、発芽するだろう。しかし、それが、ねじくれた場合が、反動なのである。何故ねじくれるのか。おそらく、成長過程での、歓喜の欠落があるのだろう。悲哀のある家庭で育った場合、子どもの心には、悲哀の影が印刻される。それは、無意識の暗さである。心の感情が闇となっているのである。ここには、ネガティブな感情が支配的である。憎しみが支配するのである。ニーチェのルサンチマンである。
 ここでのポイントは、特異性が否定的になったということである。マイナスの特異性となったことである。これをもって、近代的自我を形成すると、二項対立が極端となる。自己優越主義的な攻撃性を帯びるだろう。他者への共感性が閉ざされているからである。一般に、近代的自我自体、イデア界性を排除する傾向があるから、邪悪な要素がある。悪魔的である。しかし、完全に排除するわけでない。イデア界性が無意識となるのである。
 しかし、ポストモダン時代になると、近代的自我は、反動性を強める。これは先に述べた。もっとも、反動性を強めても、無意識に特異性が肯定的ならば、共感性が小さなものでもあるのである。しかし、私が考えている攻撃性は、それとは異なる。やはり、特異性・人倫の基礎が否定・反動化されているものと考えられるのである。つまり、近代主義的反動性があるものの、それ以外の反動がある。即ち、根源的反動性があるのである。特異性の心性の否定である。個としての自由・歓喜を否定された者のルサンチマン(怨恨)である。シェイクスピアのイアーゴを想起する。
 一昨年にこの点に関して、劣弱な差異ということで説明しようとした。しかし、今考えるに、やはり、経験が大きいように思う。特異性の自由な成長を阻まれたことから発生する無意識のルサンチマンである。これが、ポストモダン時代の近代的自我の反動をともなって、異常な攻撃衝動をもった病理的性格になると言えるように思う。 
 つけ加えると、イアーゴがオセロを憎んだのは、オセロには、自分には否定された特異性の自由な発露があり、それに嫉視して、憎悪したのである。その憎悪とは、歓喜への憎悪である。自由への憎悪である。スピノザの『エチカ』の視点から言えば、悲しみ、悲哀の心から発する憎悪である。喜びを完全に否定された特異性の心は、怨みに満たされる。喜びの心の表情や言葉に接すると、自分の悲しみ、悲哀が刺激されて、反動的に、反感・憎悪を催すのである。歓喜を否定された特異性の闇の心、これが、今日、日本社会の壮年・若年層にあるのではないだろうか。オウム真理教、ライブドア、去年の衆院選挙/小泉支持、等々、どうも、日本社会にルサンチマンが狂気的に衝動化しているように思える。ファシズムや全体主義の危険である。

補足:
一つ大事なことをつけ加えたい。それは、否定された、ルサンチマンをもつ、反動的な特異性は、中年になると、はっきり心身的危機を迎えるだろう。精神病や身体の病気になる可能性が高いと思われるのである。これも、偉大なスピノザ哲学の視点から説明すると、否定的な特異性は歓喜が欠落しているから、イデア界から発するエネルギーが衰退するので、そうなると考えられるのである。否定的な特異性の心とは、イデア界の力と共鳴する歓喜の心がないので、イデア界の根源的な力によるエネルギーによって賦活されないから、エネルギーが枯渇して、反動的な衝動に駆られて、ますますエネルギーが衰退させて、心身的に病気を引き起こすと考えられるのである。

2005年11月20日 (23:48)

日本人の想像力・創造力・差異力が枯渇・消滅・死滅した理由について

ロマン派は想像力を強調する。また、大江健三郎もそうだった。想像力をやたらに言うのは、鼻につく。しかし、芸術からこれを除いたら、単に感覚だけになる。先にも触れたが、想像力は唯物論によって衰退し、死滅させられたのではないか。かなり想像力のある中沢新一でさえ、霊的唯物論という奇妙な唯物論を説いている。唯物論とは、主体の外部に、客体である物質が存しているのであり、その真理を、主体が認識するという考えである。この考えを認めると、主体のもつべき想像力は、衰退する。どうも、戦後日本は、唯物論の道を歩み、現在のように、想像力の枯渇した国になってしまったようだ。イギリスの版画家で詩人のウィリアム・ブレイクは、詩的精神である想像力を強く説き、物質主義の近代に対抗した。そう、ディケンズもそのような面があるだろう。二つの文化(理科系と文科系)の問題は、実は、フッサール現象学で、乗り越えられているだろう。西洋人はプラトン主義が大伝統であるが、日本人は、アリストテレスは理解できるが、プラトンが苦手なようである。
 ところで、日本文学で、想像力がもっとも豊かなものは何だろうか。私は、折口信夫の『死者の書』をあげる。ただし、難解である。精読しないと理解できないだろう。緻密で、複雑にできているのである。

p.s. 想像力とは特異性においてあるものでもあろう。つまり、イデア界の力でもある。これは、軽薄ではない。想像力が消滅すれば、軽くなる。知識人に想像力がない。優れた知識人であった柄谷行人氏にも、想像力が欠落している。
 思うに、知識は、想像力を排除するような方向ではたらくようだ。想像力は理念的な力でもあり、また、主体の力でもある。民主主義を健全なものにするには、想像力が不可欠である。想像力的民主主義である。想像力の欠落した多くの日本国民に対して、民主主義は、洗脳する政治家の道具となる。
 とまれ、何故、想像力を排除するのか。どうして、想像力をもった知性を発展させないのか。それは、やはり、近代的合理主義的知性にとって、想像力は、夾雑物に思えるからだろう。これは、デカルトの責任があると思う。想像力はあいまいに見えてしまうのである。しかし、想像力はあいまいではなくて、明快なものである。虚構想像的な力である。スピノザの能動的観念には、想像力が含まれているだろう。

p.p.s. 想像力を排斥・排除した場合、それは、逆襲するだろう。想像力は本質的に人間に内在するものであるから、否定できないのである。だから、排斥・排除されれば、逆襲する。想像力はイデア界の力である。それは、ほぼ、イデア・メディア境界の力となるだろう。カオスモスの力である。これが排斥されたときは、反作用・反動が生じる。それは、どう現象するのか。それは、衝動となる。非合理な衝動、つまり、狂気となるだろう。もっと正確に言うと、志向性、他者への志向性を排除しているので、連続化だけとなり、現象自我へと集中する。自己中心主義、パラノイア、自己愛性人格障害、分裂症等になるだろう。つまり、想像力の排除に対して、反動衝動が起こるのである。現象自我中心性に、他者排除的反動衝動が加わるのである。つまり、憎悪・暴力が現象自我に内在しているのである。想像力的他者を攻撃しないではないだろう。反感、ルサンチマンからである。そう、ニーチェがキリスト教に見たルサンチマンとは、想像力の排除と等価だろう。想像力とは他者への志向性である。一神教は他者を否定するのである。ここから逆に言うと、一神教とは、ユダヤ・キリスト教とは、想像力を排除したものである。イデア界の志向性を排除しようとする連続・同一性の宗教であろう。やはり、イデア・メディア境界において、イデア界を暴力的に閉ざそうとするあり方であろう。それは、連続・同一性の展開のあり方である。そう、おそらく、+エネルギー的あり方と言えるのではないか。-エネルギーを否定するのである。-エネルギーを認めまいとする不合理な暴力性をもつ。そう、これは、無意識となったイデア界の力が衝動化して、現象自我に狂気をもたらすのである。そう、差異・他者を否定しているので、コスモスがカオスとなった衝動が襲うのである。これは、明らかに精神病である。西洋文明、キリスト教文明は精神病となるのである。

2005年11月13日 (03:39)

心身平行論とエネルギー:メディア・エネルギー(心的且つ身体的エネルギー)

心的エネルギーについて、うまくまとまらないので、角度を変えて、スピノザ哲学を参考にして考えたい。
 『エチカ』では、いわゆる心身平行論が述べられている。即ち、デカルトの思惟(精神)と延長(物質、身体)の二元論を活用して、それらを属性として、実体=神=自然を説いているのだ。思うに、スピノザはいわば無限遠点として、実体を考えているようである。精神と身体とは平行であり、交わらないが、無限において交わるように考えていると思う。とまれ、能動的観念によって精神を積極化すると、それに応じて、身体が積極化されると考えている。これは、エネルギー論的に考えられるのではないだろうか。心的エネルギーの賦活が、身体的エネルギーの賦活となるということである。
 ここで、気をつけるべきは、エネルギーと代謝の関係だと思う。心的エネルギーとは、精神的エネルギーであり、それは、代謝エネルギーと即ではないだろう。それらは、異質だろう。前者は、いわば、「気」のようなエネルギーであるのに対して、後者は、物質エネルギーである。どうも、先の諸試論では、それらを混同して、混乱したようだ。ならば、心的エネルギーと物質エネルギーの関係を考察すべきである。
 先ず最初に、メディア界のエネルギーを把捉すべきである。差異の連続化としてのメディア界であるが、連続化とは、ゼロ境界を意味する。そして、ゼロ境界が心に、そして、連続化された差異が身体、物質になるのだろう。

メディア界:差異1φ差異2φ差異3φ・・・φ差異n

である。このφが、精神、心、知覚、意識等であろう。そして、差異の連結が身体、物質等であろう。しかしながら、差異とφとは不可分一体である。つまり、相補性を成している。
 では、このメディア界のエネルギーとは何だろう。これは、精神と身体の不可分一体の心身エネルギーではないだろうか。このエネルギーは純粋な心的エネルギーでもないし、純粋な物質エネルギーでもない。一種混合的エネルギーではないだろうか。つまり、ある側面では、心的エネルギーであり、別の側面では物質的エネルギーである。これは、量子力学の粒子と波動の相補性に類似していると考えられよう。
 とまれ、メディア界エネルギー(メディア・エネルギー)とは、心身エネルギーと言えそうだ。これが、現象界の基礎エネルギーではないか。物質エネルギーとは、この心身エネルギー=メディア・エネルギーの近似値ではないだろうか。つまり、物質主義のフレーム(近代的二元論)で、現象界を測定した結果のエネルギーではないか。物質エネルギーとは、仮構であろう。それは、心身エネルギー=メディア・エネルギー(略して、メネルギー)の物質主義的還元であろう。つまり、現象界を構成している心身エネルギー=メネルギーを測定していないのである。思うに、「気」が、この心身エネルギー=メネルギー、ないし、その一種ではないだろうか。つまり、自然界は、メネルギーで満ちているのだ。この点は後で検討するとしよう。
 さて、この観点から、心的活動を考えると、それは、メネルギーを賦活しているということだろう。では、代謝エネルギーとは何だろうか。摂食によるエネルギー補給とは何か。一つは、身体活動によるエネルギー消費に対するエネルギー補給である。これは、物質エネルギーと考えられているが、しかし、これも本当は、メネルギー補給ではないか。摂食とは、物質エネルギー補給ではなくて、メネルギー補給だろう。メネルギーとしての糖質、タンパク質、脂質等であろう。ビタミンはよりメネルギーという感じがするだろう。
 このメネルギー観によると、量子力学ないし自然科学はどうなるだろうか。物質的自然科学は、変更されねばならないだろう。メネルギー的自然科学とならなくてはならないのではないだろうか。量子力学は、本当は、メディア界を対象としているのである。心身エネルギー=メネルギーを物質主義的フレームで対象化しようとしているのである。粒子/波動の相補性とは、差異/φないし身体/精神の相補性であろう。
 では、この視点から睡眠を考えるとどうなるか。昼間消耗する知覚・意識・精神とは、メネルギーであろう。摂食もメネルギーの補給ではあるが、それは、メネルギーの身体的回路で消費するエネルギーの補給であろう。そして、睡眠とは、メネルギーの精神・心的回路で消耗するエネルギーの補給ではないだろうか。ということは、メネルギーは、身体的現象と心的現象をもっているのであり、両者の現象エネルギーの補給源は異なるということではないだろうか。
 では、心的現象のエネルギー補給として、睡眠があるとして、その構造はどうなっているのか。思うに、メディア・現象境界での消耗から回復することではないか。つまり、現象界的連結から外れて、メディア界に心的知覚が回帰する。それは、夢の世界である。しかし、夢を見ていない熟睡状態は、どうだろうか。それは、これまで述べたように、心的知覚が、メディア界から離れて、イデア界へと帰入しているのではないだろうか。つまり、メディア界のφの状態から、イデア界の境界の状態にもどっているのではないか。これは、メディア界が解体しているということだろうか。そうではないだろう。メディア界の差異・φの状態は残っている。しかし、イデア・メディア境界がいわば賦活されて、差異境界が作用しているのではないだろうか。φが夢知覚とするならば、境界は原知覚を帯びる。イデア知覚である。つまり、熟睡において、夢知覚からも離れて、原知覚・イデア知覚へと回帰するのではないか。これは、純粋知覚である。フッサールの超越論的主観性に近いだろう。つまり、志向性そのものである。この状態に回帰して、心的知覚は、エネルギーを回復するのだろう。思うに、ここで、心的知覚・「魂」が目覚めて戻ってくるのは、メディア界/現象界が存在しているからだろう。因みに、死ぬとは、人間メディア界構造の崩壊によるのだろう。そして、φが消失して、知覚は原知覚へと還元するのだろう。つまり、差異の志向性へと回帰するのだろう。
 そうならば、人間を形成するメディア構造とはどうやって発生するのだろうか。動物の形態をもっている。類人猿。しかし、心的要素が大きい。これは、以前述べたが、メディア界化においても、完全にメディア界化されない、差異が過剰にあるのが人間存在ではないか。普通の動物の場合は、メディア界化によって、差異はほぼ連続化し、現象化する。しかし、人間は、差異が過剰にあり、メディア界では、完全に取りこめないのではないか。そのため、反動化しやすいのではないか。
 ならば、言語の発生はどう説明できるのか、これは後で考察したい。


参考:
睡眠
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(REM睡眠 から転送)
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睡眠(すいみん)とは、幅広い脊椎動物にみられる静的状態で、刺激に対する反応がほとんどなくなり、移動や外界への注視など様々な活動の低下を特徴とする。一般的には、閉眼し意味のある精神活動は停止した状態となるが、適切な刺激によって容易に覚醒する。このため睡眠と意識障害 とはまったく異なるものである。 またヒトをはじめとする大脳の発達したいくつかの動物では、睡眠中に夢 と呼ばれるある種の幻覚を体験することがある。

睡眠の目的は休息、傷病の治癒などのほか、記憶 の再構成など高次脳機能にも深く関わっているとされるが、その意義は完全には解明されていない。短期的には睡眠は栄養の摂取よりも重要である。ラットを用いた実験では、完全に睡眠を遮断した場合、約10~20日で死亡するが、これは食物を与えなかった場合よりも短いからだ。

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ヒトの睡眠

ヒト に必要な睡眠量には個体差があり、6~8時間の場合が多い。統計的には7時間の場合に平均余命が最も長くなる。睡眠不足した場合に最も影響のある精神活動は集中力である。計算能力、記憶能力、連想能力などはあまり低下しない。

睡眠の取りやすさにも個体差がある。さらに、入眠時の身体状態や精神状態、外部環境に依存するため、睡眠が取りやすかったり、睡眠が取りにくいなど、同一個体でも状態による差が大きい。そのため、睡眠を快く取る為の安眠法 が幾つも発明 されている。後述する入眠ニューロン は体温の上昇によって活動が亢進するため、入眠前の入浴や入眠時に寝室を暖かくすることが有効である。

ヒトの睡眠は、脳波 と眼球運動のパターンで分類できることが知られている。成人はステージI~REMの間を睡眠中反復し、周期は1.5時間程度である。入眠やステージI~IVとレム睡眠間の移行を司る特別なニューロン群が存在する。入眠時には前脳 基部に存在する入眠ニューロンが活性化する。レム睡眠移行時には脳幹に位置するレム入眠ニューロンが活動する。覚醒状態では脳内の各ニューロンは独立して活動しているが、ステージI~IVでは隣接するニューロンが低周波で同期して活動する。

* ステージI

傾眠状態。脳波上、覚醒時にみられたα波 が減少し、低振幅の電位がみられる。ステージI~IVをまとめて、ノンレム睡眠と呼ぶ。

* ステージII

脳波上、睡眠紡錘 (sleep spindle)がみられる。

* ステージIII

低周波のδ波 が増える。20%~50%

* ステージIV

δ波が50%以上。

* レム(REM)睡眠

急速眼球運動(Rapid Eye Movement)の見られる睡眠である。脳波は比較的早いθ波 が主体となる。この期間に覚醒した場合、夢の内容を覚えていることが多い。レム睡眠中の脳活動は覚醒時と似ており、エネルギー消費率も覚醒時とほぼ同等である。急速眼球運動だけが起こるのは、目筋以外を制御する運動ニューロンの働きが抑制されているためである。人間では、6~8時間の睡眠のうち、1時間半~2時間をレム睡眠が占める。記憶の固定にレム睡眠が必要だという説に対しては、支持しない証拠が多い。1953年 にシカゴ大学のナサニエル・クライトマンとユージン・アゼリンスキーがレム睡眠の存在を発見した。

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動物の睡眠

必要な睡眠時間は種ごとの体の大きさに依存する。例えば小型の齧歯類 では15時間~18時間、ネコ では12~13時間、イヌ では10時間、ゾウでは3~4時間、キリンではわずか1~2時間である。これは大型動物ほど代謝率が低く、脳細胞の傷害を修復する必要が少なくなるためとも考えられている。

すべての陸生哺乳類にレム睡眠が見られるものの、レム睡眠時間の種差は体の大きさとは無関係である。例えば、カモノハシは9時間の睡眠時間のうち、レム睡眠が8時間を占める。イルカはレム睡眠をほとんど必要としない。

脊椎以外の動物、例えば節足動物にも睡眠に類似した状態がある。神経伝達物質の時間変化を観察すると、レム睡眠と似た状態になっているらしい。

ヒトと異なり、生物の中には、長い期間覚醒しない種もある。これは冬眠 と呼ばれる。哺乳類は冬眠時であっても低体温状態とはならない。冬眠する生物の例として、クマ 、リス 、カエル などが挙げられる。

睡眠の際の姿勢も生物によって異なる。魚は単に水中を漂う形で睡眠状態に入る。フラミンゴ は片足で立ったまま眠るとされる。
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睡眠と文化

睡眠をとる時間や場所は文化によって異なる。多くの文化では睡眠を取る場所(寝室)と時間は決まっている。現代日本人の場合、電車やバスによる通勤・通学をする者も多いため、これらの交通機関の中で眠る者も多い。高校の生徒や大学の学生の中には、授業中に眠るものもいる。これら、座った状態での眠りは「居眠り」と呼ばれる。夜の睡眠は、伝統的には布団の中でとられるが、これは「寝る」(横になること)とも呼ばれる。風呂の中で居眠りをすることは疲れの現れと一般に考えられている。

年をとると早寝早起きの習慣が身につくと一般に考えられている。

頭を北に、足を南に配置する形で寝ることは北枕 と呼ばれ避けるべきこととされてきた。

地中海地方などに見られる午睡(シエスタ)の風習は日本にはない。
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睡眠をめぐる言語表現

恐らくは他の多くの言語と同じく、日本語 でも死 と性行為 は睡眠にたとえられる。

死はしばしば「永眠 」と呼ばれ、「寝る」という語は性的交渉を持つことの意で用いられることがある。

果報は寝て待て

寝る間も惜しんで

寝る子は育つ




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関連項目
Wikiquote
ウィキクォート に{{{2}}}に関する引用句集 があります。

* 寝具
o ベッド
o 枕
* ナルコレプシー

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9D%
A1%E7%9C%A0 " より作成

カテゴリ : 人の一日 | 神経 | ホルモン

2005年11月12日 (14:29)

知覚・精神・心的活動の構造分析:原自我/連続的自我/同一性自我

代謝の本質構造について検討していたら、知覚・精神活動とは何かということが新たに問題となった。知覚の根源は、超越論的主観性・原自我・原我、即ち、イデア界の差異の志向性である。これが、1/4回転で、差異の境界がゼロ化して、連続化が生起する。つまり、メディア界の形成である。これは、差異・ゼロ=強度である。(思うに、これが、アインシュタインの有名な公式E=mccと通じるだろう。ゼロが、光速度と関係する。そして、これは、また、量子力学と粒子と波動の相補性と通じていると思う。)
 問題は、メディア界と知覚との関係である。思うに、メディア界から現象界へと進展して、感覚活動が生じる。外的世界と内的世界との交互領域としの感覚である。そして、外的知覚、外的知性、外的認識の活動が起こる。内的知覚と外的知覚との相互作用。しかし、近代主義となり、内的知覚が外的現象界、物質界に限定される(近代的二元論、フッサールの近代的科学批判)。
 結局、原知覚から、現象知覚への進展をどう見るかである。また、精神活動、脳神経の活動をどう捉えるかということである。思考活動とは、エネルギー活動ではあるが、どういう構造なのか。エネルギー活動ということは、メディア界的であるということである。しかし、ここには、知覚作用はあるのか。あるなら、どういう構造なのか。思うに、メディア界知覚があるはずである。それは、夢のような、幻想のような、超時空間的知覚である。多様体的な、位相的な知覚であろう。つまり、メディア・エネルギー知覚は、現象界で、思惟(精神)と延長(物質)に二元化される以前の身心一如界、身心不可分界であろう(絶対矛盾的自己同一)。ここから、カントの超越論的形式という同一性の閾と介して、現象界が形成される。(これは、言語形式と通じているだろう。)
 では、精神活動とは、どうなのかというと、思うに、精神活動は、メディア界の活動であろう。ここで、エネルギー消費されるのだ。想像力・イマジネーション・構想力、心的空間、直観等々は、このメディア界空間の作用であろう。芸術は、主に、この領域の活動である。身心性もこの領域である。身体性というのも、この領域である(メルロ=ポンティは、この領域の現象学を探求したのだろう)。これで、一応、精神活動の代謝の構造がわかった。
 では、原自我、原我、超越論的主観性、差異の志向性にとっては、これは、どういうことなのだろうか。つまり、原自我にとって、メディア界的精神活動とはどういうことなのだろうか。換言すると、メディア界の知覚とイデア界の知覚との関係はどうなのかということである。イデア界の知覚は、原光知覚ないし超光知覚であるが、メディア界のそれは、光知覚であろう。(思うに、「気」とは、このメディア界の事象ではないか。これまで、イデア界の原力と考えてきたが。後で検討。)つまり、心的活動とは、光活動である。ならば、それは、イデア界的心的活動(イデア界的超心的活動)とどう関係するのか。
 少し整理すると、光活動であるメディア界知覚とは、連続的知覚である。イデア界知覚は差異的知覚(差異共存的知覚ないし不連続差異的知覚)であるのに対して、メディア界的知覚、心・精神的活動は、連続的知覚、連続差異的知覚である(ベルクソンの持続、内的時間とはこれを指すだろう)。そして、現象界的知覚が同一性的知覚である。結局、不連続的知覚と連続的知覚の関係の問題である。そして、イデア・メディア境界、IM境界の問題である。心的活動(メディア界的知覚活動)を行なうときに、イデア界的知覚、超越論的主観性、不連続的差異の志向性はどうなっているのかということである。これは、連続性にいわば包まれているのだろう。包蔵隠蔽されているだろう。というか、不連続的差異が連続的差異に変容しているのだ。ここが、ポイントである。これが、また、フッサールの自然的態度を形成しているのだ。煩悩の形成である。自我形成である。権力、暴力、差別の形成である。(デカルトの「自我」とは、メディア・現象界の自我を超えて、イデア界の原自我に達していると見るべきだろう。特異性、単独性。)
 しかし、知覚において、どこかで、イデア界に通じているはずである。(日本人は、一般に、メディア界/現象界中心で、イデア界を喪失している。イデア界忘却である。仏教は、日本人に、イデア界を想起させたと言えよう。神道的世界観のデカダンスがあるのだろう。折口信夫は、新たに神道を復活させようとした。これは、日本人に、イデア界を主体的に復活させようということである。この課題は、今でもある。)簡単に言えば、コギト(我思う)にイデア界に通じる知覚があると言えよう。これはどういうことなのだろうか。メディア界/現象界における知覚自我があるが、それが、コギトとなるとき、それは、イデア界に触れていると言えるだろう。ただし、出発点として、原点としてである。換言すると、それは、ニヒリズムになるということである。コギトは、現代では、ニーチェが説くようにニヒリズムになるのである。無になるのである。実存とは、このことだろう。コギト的ニヒリズムが実存である。
 さて、では、自我やコギトとは何かである。メディア界的知覚における自我、メディア界的自我(これは、現象界的自我とほとんど同じだろう)は、連続的差異の自我であるが、自我であるということは、当然、「我思う」の知覚である。これは、当然のことながら、イデア界の原自我から発しているのである。即ち、差異の志向性である原自我が根源的知覚作用であり、これが、メディア界的自我においても作用しているのである。連続的自我であるが、ここには、我思うがあるのであう。メディア界においても、コギトがあるのである、当然と言えば、当然であるが。このメディア界的コギトが、イデア界的「コギト」、原コギト・原自我・アートマンに通じているということとなる。そして、このメディア界的コギトは、連続的差異や同一性に覆われているので、イデア界に明確に達することはできないのである。そう、部屋の中に飛び込んだ鳥や蝶のように、天井の方に羽ばたくばかりで、窓を認識できないのである(比較:モナド)。そう、メディア界に窓、イデア界への窓があるのではないだろうか。これは、どういうことだろうか。これは、イデア・メディア境界を思えば、簡単にわかることである。即ち、メディア界は確かに連続界であるが、イデア・メディア境界、IM境界を内在しているのである。つまり、メディア界とは完全な連続界ではなくて、IM境界において、不連続性と接しているのである。このIM境界において、コギトがイデア界、イデア界の原自我に接するのである。プラトンの善の太陽の領域である。そして、諸宗教の「神」の領域である(本当は、「神」と言うべきである)。結局、メディア界のコギトにおいて、イデア界の不連続的差異が介在しているのである。しかし、一般には、メディア界/現象界の自我に囚われていて(無明)、イデア界的不連続的差異を忘失しているのである。(大乗仏教の空とは、メディア界的中間性・相対性を説いて、イデア界を感得させるものだろう。禅もそうだろう。デリダ哲学は、現代大乗仏教である。イスラム教や東洋哲学研究家の井筒俊彦氏が、デリダ哲学に注目していたことを想起する。)
 ということで、自我、知覚とは、おおまかには、メディア界的事象であり、メディア界の強度・エネルギーを消費するのである。それは、摂食によって、エネルギー補給されると言えよう。しかしながら、それは、単純化、一面化である。自我、知覚は、イデア界と関係しているのである。イデア界の原自我と結びついているのである。原自我の不連続性が連続化されているのである。そして、連続化は有限化である。この連続的エネルギーは、脳神経という物質有機体と結びつき、物質エネルギーを消費するのだろう。問題は、メディア界的自我連続エネルギーと脳神経の物質エネルギーの関係である。思うに、自我連続エネルギーと物質エネルギーは違うのではないだろうか。前者は、イデア界のデュナミス・ポテンシャルの変容したものである(エネルゲイア)。活動態である。この活動態と現象態の関係である。思うに、自我メディア体と、身体メディア体があるのではないか。
 先に、心的活動は、メディア界的であると述べた。そして、光活動であると述べた。そして、身体的活動は、差異活動となるだろう。だから、メディア界の差異・ゼロ的相補性のエネルギー体(エネルゲイア)とは、精神と身体の両面ともつのである。心身体である。そして、心的活動とは、エネルギー活動である。これは、消費・消耗する。これを、摂食・代謝と通じて、補給するということだろう。あるいは、睡眠によってエネルギーを補給する。ここで、問題は、心的エネルギーと栄養エネルギーの関係である。
 心的エネルギーが、消耗・消費されるとはどういうことだろうか。これは、メディア界の連続的差異的心身性を活発化させることによるものだろう。何が消えるのか。連続的差異が消費されるということか。そうだろう。おそらく、これに対して、睡眠というエネルギー補給作用があるのだろう。消費された連続的差異・自我を新たに形成するのが、睡眠ではないか。では、摂食・代謝はどういうことなのか。確かに、心的活動もエネルギー消費する、身体運動と同様に。だから、心的活動と代謝の関係を考えなくてはならない。心的活動は、光活動であり、それは、差異活動=脳神経と結びつく。だから、心的活動は、脳神経エネルギーを消費するのである。ここで、脳神経という物質の消費があるのである。これを補うために、摂食が必要であるということではないだろうか。つまり、メディア界において、差異・ゼロ、差異・光相補性があり、これは、身体・精神、身心相補性であり、心的活動は、このエネルギー消費活動であるから、脳神経という身体エネルギーを消費するので、摂食によって補給すると言えよう。そして、また、心的活動、身心活動は、連続的差異の活動であり、それが消耗して、睡眠を取り、新たに、連続的差異を形成すると言えるのでないか。そうならば、睡眠においては、自我は、連続的差異の自我は解体しているのではないか。夢は、メディア界の位相的多様体の知覚であろう。しかし、熟睡しているときは、自我知覚は解体しているのではないか。つまり、ゼロ化が解体しているのではないか。つまり、再差異化である。redifferenceである。つまり、知覚は、イデア界に回帰しているのである。そして、原自我、原我、アートマンとなっているのではないか。そう、この覚醒と睡眠のリズムと、イデア界の力とメディア界の活動とは結びついているのだろう。これは、宇宙、コスモスの活動とつながっているだろう。地球の自転と月の公転。宇宙・コスモスの力と人体や地球のリズムがつながっているのだろう(二十四節気)。また、寿命等にもつながっているだろう。ここで、遺伝子の問題がある。遺伝子とは何かである。
 本件が長くなったので、稿をあらためて、検討しよう。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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