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2006年05月07日 (22:21)

「気」とは何か:エーテル体とアストラル体とは何か

ヌース理論との遭遇から、はっきり、メディア界が、量子・素粒子の世界であり、同時に、心身の世界であることが確認できた。
 私は、「霊」を否定しているのであるが、しかし、「気」とは、「地霊」のようなものは存在していると考えている。人間の心(心身)は、量子であるから、「気」も量子である。あるいは、電磁波である。これは、自然科学・物理学的に証明・検証できるのである。例えば、人間は歩くと電磁波を発生させるのであるが、それは、その人固有の電磁波で、飼い犬は、それをキャッチするのである。心も同様だと思うのである。心身の量子が、発出していると思うのである。雰囲気とは、それに関係するものだろう。
 そう考えると、いわゆる「霊(スピリット)」も、同様だと思うのである。量子である。しかし、ある固有な、特有な量子であろう。また、ユングの言った共時性(シンクロニシティ)も、これで説明できるだろう。量子が共振するのである。
 心を病む人は、心身の量子状態の共振エネルギーが滞っているのだろう。正しい知と正しい意志と正しい気持ちを持つ必要があるのであるが、それが、阻害されているために心身の病気になるのだろう。東アジアでは、風水が盛んであるが、これも、同様である。量子の共振エネルギーの賦活を目指していると考えられるのである。
 さて、問題は、霊学のシュタイナイーが説くアストラル体とエーテル体の違いである。これをどう説明するのか。私の直観を言おう。アストラル体(共感性)もエーテル体(「気」)も、基本的には、量子であろう。メディア界の事象である。ただ、アストラル体は、境界ゼロ度共振=量子に直に関係していると言えるだろう。光に対する感受性は、アストラル体に関係するだろう。夜明けの光を見て、歓喜するのは、アストラル体に拠るのだろう。
 では、エーテル体はどういう説明ができるのだろうか。同じく、量子に関係しているのであるが、直観では、より身体に関係している量子であろう。つまり、アストラル体が、より心・精神に関係している量子であるのに対して、エーテル体は、より身体・鉱物的身体に関係していると思えるのである。つまり、諸感覚に関係しているのである。即ち、根源的志向性であるノエシスは、根源的自我であり、それが、ノエマ(諸感覚)と即非となるが、このノエシス/ノエマにおいて、/のノエシス面がアストラル体であり、/のノエマ面がエーテル体ではないだろうか。換言すると、

1.ノエシス(根源的自我)→2.アストラル体→3.エーテル体→4.ノエマ(諸感覚・身体)

ではないだろうか。こう図式化すると、シュタイナーのアントロポゾフィー(人智学)の自我→アストラル体→エーテル体→鉱物身体の四層的人体論は、不連続的差異論/ヌース理論のイデア論に取り込むことができると考えられるのである。また、これが、肯定できれば、これまでの、オカルト主義は、イデア/量子論として、書き換えられて、吸収されるだろう。ポスト・オカルト主義である。そして、明確に、ポスト・モダン科学化されるだろう。

2006年05月06日 (21:10)

メディア/現象境界における差異と同一性の二律背反性:ポスト・モダンと不連続的差異論革命

メディア/現象境界における差異と同一性の二律背反性:ポスト・モダンと不連続的差異論革命

先に、構造主義の問題で、本件について考察したが、もう少し、細かく検討したい。メディア/現象境界MP境界は、差異と同一性とが発生している領域であり、構造的には、弁証法構造と言うべきである。これは、メディア界の対極性構造と現象界の同一性構造との中間領域である。本来は、矛盾の領域であり、二律背反・二項対立の領域と考えられる。しかし、これを、同一性構造=自我は、弁証法構造にするのである。だから、弁証法構造とは、この境界の現象面を指している見ることができる。

 さて、この領域の差異と同一性との二律背反・二項対立性であるが、これは、差異は同一性を否定しようとし、同一性は差異を否定しようとする相互否定の関係である。ここには、カオスがあるのである。だから、安定するには、どちらかを肯定するしかないのであるが、近代においては、同一性が肯定され、差異が否定されたのである。中世においては、差異は、共同体の信仰と結びついていたと考えられる。そして、バランスをそれなりに取っていたと考えられる。

 しかし、近代になると、自我が全面にでてくる。これは、志向性の必然である。根源的志向性・根源的自我が、イデア界/メディア界からはたらきかけて、エネルギーとなり、メディア/現象境界を活発にする。そして、デカルトのコギト主義が生まれる。これは、根源的差異と現象同一性自我との結合である。簡単に言えば、イデア界と現象界との結合である。これが、コギトである。(この後、排除されたメディア界をスピノザが掬うことになるのである。)問題は強度である。メディア界を否定している強度がここにはあるのである。メディア界が共感エネルギーをもているとすれば、それを否定する反感エネルギーがここにはあることになる。エネルギーと言っても、肯定的ではなくて、否定的である。それは、エネルギーとしては、どういうことなのであろうか。それは、差異共振性を否定するのであるから、本来、エネルギー強度は減退するのである。いわば、エントロピー的なのである。そう、エネルギーが滞るのである。この滞ったエネルギーが、反動エネルギーであり、いわば、負のエネルギーであろう。これが、攻撃・暴力・権力衝動となるのであろう。

 だから、同一性自我は、本来のエネルギーを反動化させて、攻撃・暴力・権力衝動に転化させているのであり、自他破壊的で不毛である。戦争とはここから発しているだろう。近代主義は、このようなものになったのである。ホッブズの世界である。

 問題は、否定された差異、メディア界を取り戻すことであった。近代的合理主義、近代科学は、唯物論化して、メディア界を無視してきたのである。(そして、現代日本の精神の荒廃は、この帰結である。)この取り戻しが、様々な分野で行われたが、一言で言えば、ポスト・モダン運動である。差異の復活としてのポスト・モダン運動である。本来、モダン運動は、差異から始まったのであるが、プロテスタンティズムの反動で、メディア界が否定されてしまい、ルネサンスの差異主義が否定されてしまったと言えよう。だから、モダンとは、矛盾した二重運動である。差異と同一性の二項対立の運動である。

 そして、19世紀後半から、ポスト・モダン運動が明確になり、そして、20世紀後半、フランス現代思想として、流行することになる。それは、既に述べたように、相対的差異と絶対的差異が混同されていて、行き詰まったと考えられる。

 とまれ、差異とは、個のことであり、個の肯定である。それは、鈴木大拙の用語、即非が一番適格に表現している。差異、個の即非である。「わたし」と「あなた」は共感しつつ、分離した存在であるということである。この差異即非性を、同一性自我は暴力的に抑圧・否定するのである。思うに、差異即非性とは、実は、本来の芸術的感性である。芸術に親しむ者は、この能力を涵養していると言えよう。つまり、差異の復活とは、芸術の復活でもある。フランス現代思想が流行したが、それは、実は簡単なことを意味していたのである。本来の芸術的感性(心身性)を取り戻そうということである。しかし、頭でっかちになり、相対主義だとか、脱構築主義だとか、用語が、独り歩きして、実質が抜けていたのである。

 結局、ポスト・モダン運動は、停滞・衰退してしまった。それは、資本主義の同一性が主流になったことが大きいだろう。グローバリゼーションである。これに対して、ポスト・モダン運動は、非力であった。しかし、グローバル資本主義は、脱コード化を行い、自我を脱関係化して、剥き出しの自我、即ち、単独の自我に還元する傾向をもつのである。つまり、グローバル資本主義自体も、自己矛盾的に、ポスト・モダン現象を引き起こすのであり、ポスト・モダン運動は必然なのである。しかし、上述したように、フランス・ポスト・モダンは、相対的差異と絶対的差異の区別を明確にしなかったために、このグローバル・キャピタリズムの引き起こすポスト・モダン現象に、対処できなかったと言えるのである。つまり、特異性、単独性がグローバリゼーションにおいて、多数(「マルチチュード」)出現するのであるが、この事象を、これまでのポスト・モダン知性は、これを十分に理論化できなかったのである。そのために行き詰まったと見る方が的確である。確かに、実質を喪失した用語の独り歩きもあったし、また、グローバリゼーションの同一性の力に非力だったこともあるが、一番の問題は理論的欠陥であったと考えられる。これは、日本においては、ポスト・モダンの旗手であった柄谷行人氏の理論的行き詰まりに見られることである。彼は、単独性の思想を追究してきたのだが、彼の唯物論のために、現象学やドゥルーズ哲学の理解が阻害されてしまい、探究が頓挫してしまい、カント/マルクス主義の近代主義に後退・退行してしまったのである。

 結局、鍵は、単独性・特異性の理論化である。そして、不連続的差異論は、単独性・特異性が、根源的に、イデア界に、不連続的差異として存することを提起して、この問題を解決したと考えられるのである。差異が差異でありつつ、共闘することが可能になることをこの理論は説いているのである。それまで、連帯・共闘するには、連続・同一化したために、反動・暴力化したのであったのである。

 世界は今や、ますます差異化(多極化)していくのであり、また、同時に、反動的な権力が全体主義を志向するのであるが、このポスト・モダン・キャピタリズムの状況において、後者を打破するには、差異を不連続化する必要があるのである。絶対的差異としての個となることが必要なのである。ここから、ポスト・モダンが真に革命的になるのである。それは、不連続的差異的共生共創主義である。不連続的差異論は、個を救うことで、世界共生を目指すのである。

2006年05月06日 (15:33)

1/4回転による境界ゼロの差異即非の時空間について:新アジア主義と狂愚日本の危険性

1/4回転による境界ゼロの差異即非の時空間について:新アジア主義と狂愚日本の危険性


メディア界とは差異が即非の状態にある。即ち、差異が分離しつつ、接合するという、絶対矛盾的自己同一の状態にある。これが、量子・素粒子時空間である。あるいは、心身空間である。
 問題は、この差異共振状態の時空間である。境界ゼロ度共振で、力が発生して、エネルギーとなる。これが、E=hν(=mc^2)であろう。ゼロ度エネルギーである。これは、差異ゼロ度接合によって発出するのであるが、ここで、差異1φ差異2φ・・・φ差異nとなるのであり、このφないし☯が、接合性であり、ここで、時空が生起していると考えられるのである。それまで、差異は、理念点に過ぎず、時空性をもっていなかったが、ここで、ゼロ度連結によって、時空性を発生させるのである。差異1・差異2・・・・・差異nこれが、不可分一体の時空間であると考えられる。ここでは、差異は粒子であり、波動である、波粒子wavicle(量子・素粒子)である。そして、量子時空間を形成している。ゼロ度エネルギーによって接合された差異は、いわば、差異の糸であり、差異の波である。差異糸波ととりあえず呼ぼう。この糸波が原空間であり、ここに流れるエネルギーが原時間を形成しているのではないだろうか。とまれ、この差異糸波(量子世界)において、時間・空間が不可分一体である。そして、共振の速度は一定であり、これが、光速度一定となるのだろう。そして、糸波の振動数が、おそらく、重力を産んでいるのではないだろうか。hν=mc^2であり、ν=mc^2/hであるからである。つまり、差異の共振速度と共振振動数が、量子・素粒子時空(差異糸波)を形成していると考えられるのである。いわば、光と重力は同時に発生していると言えるのではないだろうか。思うに、この重力が、捩れの原因ではないだろうか。差異の1/4回転によって、垂直に捩れるということであるが、発生した重力が、捩らせているのではないか。
 とまれ、これにより、二次元空間から三次元空間へと差異は跳躍するだろう。しかし、この三次元空間・立体空間は、時間と不可分一体であろう。つまり、三次元「時空」間である。時間が空間から分離していないのである。つまり、三次元空間に時間が不可分で、浸透しているとも言えるだろう。しかし、XYZの立体座標で考えると(Xが実軸、Yが虚軸、Zが捩れ軸?)、Z軸方向への捩れがあるのであるから、ここで、いわば、世界が開ける、「天地開闢」、「天地創造」が発生するのではないか。これが、天地の鉛直線方向ではないのか。思うに、-Z軸が天・上の方向で、+Z軸が、地・下の方向ではないのか。人間は、だから、いわば、上下逆さまではないだろうか。とまれ、Z軸が重力方向となるのだろう。左右がX軸で、前後がY軸方向だろう。思うに、右が、-X軸で、左が、+X軸ではないだろうか。そして、前は+Y軸で、後は、-Y軸ではないだろうか。
 とまれ、問題は時間である。共振振動数の差異が、重力の大小を発生させるならば、力の差異を産むのであり、これが、運動の差異を発生させるのであるから、これが、時間を発生させるのではないだろうか。つまり、重力の差異が、時間であるということではないのか。とまれ、これで、四次元空間/時間が生まれることになるだろう。
 では、時間が重力の差異、振動数の差異に拠るのならば、確かに、事象は生成消滅するが、重力や振動数は、普遍であるのだから、過去や未来は、イデア界・デュナミスとして、理念存在しているのではないだろうか。虚軸に過去や未来が理念存在しているのではないだろうか。ここは、いわば、原卵ないし原コーラであろう。多様な糸波と共振することで、原卵・原コーラにアクセスできるだろう。メディア界を介して、過去と未来にアクセスできるのではないだろうか。いわば、理念情報としての過去・未来である。仏教の阿頼耶識、神秘学のアカシック記録とは、ここのことではないだろうか。確かに、現象事象としては、個々の事象は、生成消滅するが、その振動数は、いわば、波形として、残るし、また、未来の波形も考えられるだろう。
 メディア界的共感性があれば、過去や未来にアクセスできるだろう。また、シャーマニズムやアニミズムと呼ばれるものの心性・精神・心身は、このことを指しているのではないだろうか。メディア界的感性・感覚・知覚・認識とは、前近代、即ち、中世、古代、超古代を、差異的に反復するのではないだろうか。このメディア界的「魂」・心身とは、ポスト近代としての、それであり、反動・退行ではない。新たな感性・知性である。新意識である。近代主義は、メディア界を否定して、無化・排除・隠蔽してきたのである。そのため、狂気・暴力に満ち満ちたのである。狂気・暴力を産めよ殖やせよである。
 この、いわば、新シャーマニズム・新アニミズム的知性の潜在性は、東アジアの伝統文化に存していると考えられる。ただし、日本の場合は、ハイパー近代主義と、前近代主義が混淆されていて、精神病の状態である。知性を磨いた後でないと、この新アジア主義は、狂気日本を超狂気日本にするだろう。ここが危険な点である。似非宗教の新興宗教がさらに蔓延するだろう。いったんは、叡智を磨かないといけない。哲学を学ばないといけない。安易に宗教に染まってはいけない。宗教とは、簡単に言えば、同一性のことである。差異としての、特異性・単独性としての自我を磨かないといけない。

2006年05月05日 (08:59)

ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディア界:作業仮説アトランティス文明



ウィリアム・ブレイクの『天国と地獄の結婚』の思想:「魂」とメディア界:作業仮説としてのアトランティス文明

ブレイクは、「人間は魂から区別される身体をもたない。なぜなら、身体とは、五感によって弁別される魂の一部分であるから。」と言っている。

 ブレイクの説く「魂」とは、不連続的差異論のメディア界に相当するだろう。私は、メディア界を心身と捉えているが、正確に言えば、メディア差異である。ここでは、思惟(精神)と延長(感覚・身体)とが、即非である。だから、ブレイクの「魂」とは、思惟(精神)「即非」延長(感覚・身体)である。そう考えれば、正に、「身体とは、五感によって弁別される魂の一部分である」。

 近代主義は、当然、この思惟と延長とを切断・分離したのである。主客二元論である。ブレイクが、「この時代の主なる入口」と五感を呼んでいるが、それは、近代主義ないし唯物論を意味していよう。

 また、「エネルギーが唯一の生命であり、身体から発するのであり、理性は、エネルギーの限界(境界)ないし外的な周囲(円周)である」と述べているが、これは、「魂」⊇身体からエネルギーが発生するということであり、「理性」とは、エネルギーの知性、メディア界の知性ということだろう。敷延すれば、エネルギーと知性とは一体ないし即非であるということになるだろう。

 思うに、ブレイクのエネルギーという言葉は、とりわけ、意味深長である。これは、メディア界のエネルギーであり、単純な物質的エネルギーではなくて、共振差異的エネルギー=共感的エネルギーである。そう、太陽のエネルギーでさえ、差異の共振性=共感性によって発生しているのだ。もし、共振性=共感性を「愛」と呼べるならば、エネルギーは、差異の「愛」から産まれているのである。(ついでに言えば、女性の本性は、メディア界である。今日、メディア界を喪失した現象界化した女性がほとんどである。)

 この視点から見ると、心身平行論と呼ばれるスピノザ哲学は、明らかに、メディア界の哲学である。即ち、スピノザの説く「思惟」・「心」・「精神」とは、メディア界の知性であり、それは、ブレイクの「理性」であり、ブレイクの「身体」(ないし「魂」)・エネルギーと結びついているのである。つまり、メディア界の心身性(心即非身体)を基盤とする心身平行論と考えることができる。スピノザは、デカルト哲学をベースにしているので、心と身体の二元論を保持しているが、実質的には、スピノザの心と身体は心身性=メディア界を共通基盤にしているのである。そう考えると、スピノザの実体(神即自然)とは、メディア界のことではないだろうか。もっとも、イデア/メディア境界をもっているのであるが。つまり、イデア界の縁はもっているのである。

 さらに展開すると、ドゥルーズがスピノザに至高の評価を与えるのは、ドゥルーズ哲学が、メディア界の哲学、メディア差異を対象にした哲学であるということを意味していると考えられるのである。

 さらにさらに、展開すると、西欧文化におけるメディア界的思想の起源は何だろうかという問題があるのである。ブレイクの場合は、ケルト・コスモス主義あるいは、ケルト/東方キリスト教的コスモス主義だと思われるのである。スピノザ哲学のメディア界的コスモス主義はどこから発生しているのだろう。オランダという「地霊」なのか、それとも、ユダヤ教からの逸脱なのか。ユダヤ神秘主義(カバラ)なのか。スピノザとブリテンのロマン主義は、通じるものがあるのである。ブレイクには、グノーシス主義的な要素がある。また、カバラ的なところもある。簡単に言えば、神秘学が背景にある。すると、ケルト・コスモス主義、東方キリスト教、グノーシス主義、カバラ、等となる。そう、超越論的高次元内在論の思想である。結局、これが、スピノザとイギリス・ロマン主義(さらには、ロマン主義全般)に共通する起源ではないだろうか。そして、これが、ニーチェやフッサールで、絶対的ポスト・モダンの展開をすると考えられよう。

 超越論的高次元内在論とは、本来のイデア論ないしプラトニズムである。また、超越論的知性である数学である。文化史的には、西欧ないしヨーロッパにおいては、ルネサンスに結びつく。しかし、スピノザの存在の一義性とは、中世のドゥンス・スコトゥスに拠るのである。彼は、スコットランド出身である。つまり、ケルト文化圏出身である。すると、ケルト・コスモス主義が起源として考えられる。もし、そうならば、ケルト文化とは何かである。ケルト神話は先に見たように、折口信夫の日本宗教観に近いのである。簡単に言えば、ケルトとは、東洋主義である。あるいは、前アーリア民族的な文化である(ケルト人は、アーリア民族であるが、イギリスの巨石文化を受け継いだと考えられるのである)。

 今、アトランティスという言葉が浮かんだのである。作業仮説として、アトランティス文明が起源としよう。こうすると、巨石文化の高度文化性も説明できるし、また、プラトンが『ティマイオス』等で、アトランティスに言及していたことにも符号する。そう、ケルト十字(⊕の+の部分を延長する)は、ガウス平面の円運動を表現していると見ることもできる。また、アトランティス文明を想定すれば、超越論的知性である数学の起源も説明できるだろう。そうならば、起源は、アトランティスの叡智(ソフィア)・般若である(そう考えると、仏教哲学とプラトン哲学の近さを整合的に説明できるだろう)。

 では、折口信夫の日本宗教観とどうつながるのか。記紀神話は、メディア界の表現(イザナミ/イザナミ、アマテラス/スサノオ)と見ることができるし、また、イデア界の表現【造化三神:天之御中主神 (あめのみなかぬし)、高御産巣日神 (たかむすび)、神産巣日神 (かみむすび)】と見ることができる。また、ケルト神話と同様に、他界・常世を、海の彼方と見たのである。海の彼方とは、アトランティス大陸の名残と見ることができるだろう。以上のように考えると、すべては、アトランティス文明で糸がつながるのである。パズルはこれで、解決するのである。

Marriage of Heaven and Hell PLATE 4

The voice of the Devil

All Bibles or sacred codes. have been the causes of the following Errors.

1. That Man has two real existing principles Viz: a Body & a Soul.

2 That Energy. calld Evil. is alone from the Body. & that Reason. calld Good. is alone from the Soul.

3. That God will torment Man in Eternity for following his Energies.

But the following Contraries to these are True

1 Man has no Body distinct from his Soul for that calld Body is a portion of Soul discernd by the five Senses. the chief inlets of Soul in this age

2. Energy is the only life and is from the Body and Reason is the bound or outward circumference of Energy.

3 Energy is Eternal Delight

http://www.english.uga.edu/nhilton/Blake/blaketxt1/marriage_of_heaven_and_hell.html

詩画(版画)は以下。

http://www.blakearchive.org/exist/blake/archive/object.xq?objectid=mhh.i.illbk.04&java=yes

参考:般若

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%AC%E8%8B%A5

Sophia

http://en.wikipedia.org/wiki/Sophia

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

http://en.wikipedia.org/wiki/Duns_Scotus

以下は、toxandria氏のスコトゥスに関する論考である。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050403

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050404

ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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ヨハネス・ドゥンス・スコトゥス(Johannes Duns Scotus 1266年 ? - 1308年 11月8日 )中世ヨーロッパの神学者 ・哲学者 。トマス・アクィナス 後のスコラ学 の正統な継承者。アリストテレス に通じ、その思想の徹底的な緻密さから「精妙博士」(Doctor Subtilis)といわれたフランシスコ会 スコットランド のドゥンスで生まれ、オックスフォードとパリ で哲学・神学を学んだ。最後はケルン で教え、そこで亡くなった。主著として「命題集註」が知られている。 士。盛期スコラ学と後期スコラ学をつなぎ、スコトゥス学派の祖となった。

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思想

トマス・アクィナス と異なり、スコトゥスは神学を「人間を神への愛に導く実践的な学問」であると考えた。また個物に本質を見出したアリストテレス から一歩進んで、存在が個物においてのみ成り立つ(「知性は個をとらえる」)と考えたところにスコトゥスの思想の特徴がある。さらには必然的なものである自然と、必然的なものでない意思の自由をわけて考えたスコトゥスにとって、人間の幸福は(トマスが言うような)神を直観することではなく神を愛することにあった。この考えは近代の主体主義 のルーツとなっていく。

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%83%88%E3%82%A5%E3%82%B9 " より作成

カテゴリ : キリスト教神学者 | 1266年生 | 1308年没

折口信夫『妣が国へ・常世へ 異郷意識の起伏

』から

「十年前、熊野に旅して、光り充つ真昼の海に突き出た大王个崎の尽端に立つた時、遥かな波路の果に、わが魂のふるさとのある様な気がしてならなかつた。此をはかない詩人気どりの感傷と卑下する気には、今以てなれない。此は是、曾(かつ)ては祖々の胸を煽り立てた懐郷心(のすたるぢい)の、間歇遺伝(あたゐずむ)として、現れたものではなからうか。

すさのをのみことが、青山を枯山(カラヤマ)なす迄慕ひ歎き、いなひのみことが、波の穂を踏んで渡られた「妣(ハヽ)が国」は、われ/\の祖たちの恋慕した魂のふる郷であつたのであらう。いざなみのみこと・たまよりひめの還りいます国なるからの名と言ふのは、世々の語部の解釈で、誠は、かの本つ国に関する万人共通の憧れ心をこめた語なのであつた。

而も、其国土を、父の国と喚ばなかつたには、訣(わけ)があると思ふ。第一の想像は、母権時代の俤(おもかげ)を見せて居るものと見る。即、母の家に別れて来た若者たちの、此島国を北へ/\移つて行くに連れて、愈(いよいよ)強くなつて来た懐郷心とするのである。併し今では、第二の想像の方を、力強く考へて居る。其は、異族結婚(えきぞがみい)によく見る悲劇風な結末が、若い心に強く印象した為に、其母の帰つた異族の村を思ひやる心から出たもの、と見るのである。かう言つた離縁を目に見た多くの人々の経験の積み重ねは、どうしても行かれぬ国に、値(あ)ひ難い母の名を冠らせるのは、当然である。

     二

民族の違うた遠い村は、譬ひ、母の国であつても、生活条件を一つにして居るものと考へなかつたのが、大昔の人心であらう。さればこそ、とよたまひめの「ことゞわたし」にも、いはながひめ等の「とこひ」にも、八尋鰐や、木の花の様な族霊崇拝(とうてみずむ)の俤が、ちらついて居るのだと思ふ。此方は、かう言ふ事実が、此島での生活が始つてからも、やはり行はれて居て、其に根ざして出て来たもの、と見ても構はぬ。

又、右の二つの想像を、都合よく融合させて、さし障りのない語原説を立てることも出来る。

ともかく、妣が国は、本つ国土(クニツチ)に関する民族一列の※(「りっしんべん+淌のつくり」、第3水準1-84-54)※(「りっしんべん+兄」、第3水準1-84-45)から生れ出て、空想化された回顧の感情の的である。母と言ふ名に囚はれては、ねのかたすくになり、わたつみのみやなりがあり、至り難い国であり、自分たちの住む国の俗の姿をした処と考へて居なかつた事は一つである。此は、妣が国の内容が、一段進んで来た形と見るべきで、語部の物語は、此形ばかりを説いて居る。いなひの命と前後して、波の穂を踏んでみけぬの命の渡られた国の名は、常世(トコヨ)と言うた。

過ぎ来た方をふり返る妣(ハヽ)が国の考へに関して、別な意味の、常世(トコヨ)の国のあくがれが出て来た。ほんとうの異郷趣味(えきぞちしずむ)が、始まるのである。気候がよくて、物資の豊かな、住みよい国を求め/\て移らうと言ふ心ばかりが、彼らの生活を善くして行く力の泉であつた。彼らの歩みは、富みの予期に牽(ひ)かれて、東へ/\と進んで行つた。彼らの行くてには、いつ迄も/\未知之国(シラレヌクニ)が横(よこたは)つて居た。其空想の国を、祖(オヤ)たちの語では、常世(トコヨ)と言うて居た。過去(スギニ)し方の西の国からおむがしき東(ヒムガシ)の土への運動は、歴史に現れたよりも、更に多くの下積みに埋れた事実があるのである。大嘗会のをりの悠紀・主基の国が、ほゞ民族移動の方向と一致して、行くてと過ぎ来し方とに、大体当つて居るのも、わたしの想像を強めさせる。東への行き足が、久しく常陸ぎりで喰ひ止められて延びなかつたことは事実である。祖たちの敢てせなかつたことを、為遂げたのは、毛の国から更に移り住んだ帰化人の力が多い。此は、飛鳥・藤原から、奈良の都へかけての大為事であつた。

祖たちが、みかど八洲の中なる常陸の居まはりに、常世(トコヨ)並びに、日高見(ヒタカミ)の国を考へたのも、此処に越え難いみちのおくとの境があつて、空想を煽り立てたからであつた。常世(トコヨ)を海の外と考へる方が、昔びとの思想だとする人の多からうと言ふことは、私にも想像が出来る。併し今の処、左袒多かるべき此方に、説を向けることが出来ぬ。

書物の丁づけ通りに、歴史が開展して来たものと信じて居る方々には、初めから向かぬお話をして居るのである。常世(トコヨ)と言ふ語の、記・紀などの古書に出た順序を、直様(すぐさま)意義分化の順序だ、との早合点に固執して貰うて居ては、甚だお話がしにくいのである。ともあれ、海のあなたに、常世(トコヨ)の国を考へる様になつてからの新しい民譚が、古い人々の上にかけられて居ることが多いのだ、とさう思ふのである。海のあなたの大陸は蒲葵(アヂマサ)の葉や、椰子の実を波うち際に見た位では、空想出来なかつたであらう。其だから、大后一族の妣(ハヽ)が国の実在さへ信じることが出来ないで、神の祟りを受けられた帝は、古物語を忘れられた新人として、此例からも、呪はれなされた訣になる。彼らは、もつと手近い海阪(ウナザカ)の末に、わたつみの国と言ふ、常世(トコヨ)を観ずる様になつて来た。いろこの宮を、さながら常世(トコヨ)と考へることは、やはり後の事であるらしい。 」

http://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/13212_14465.html

p.s. ケルト・ブリテンは、20世紀に入り、大爆発した。文学では、「モダニズム」と呼ばれるものである。(それは、完全に錯誤の命名であり、例えば、前期ポスト・モダニズムと呼ぶべきものである。)D.H.ロレンス、ヴァージニア・ウルフ、ジェイムズ・ジョイス、T.S.エリオット他である。とりわけ、ロレンスは、西方キリスト教を突き抜けて、さらには、皮相なプラトニズムを突き抜けて、ケルト・コスモス=メディア界を体現し、表現したのである。

 また、哲学では、巨人のホワイトヘッドが、『プロセスと実在』で、メディア界の哲学を打ち立てたと考えられるのである。

 結局、ケルト・ブリテンは、アトランティスの叡智に現代的に反復・回帰したと言えよう。

p.p.s. フランス人ドゥルーズが、英米文学を評価するのは、ドゥルーズには、ケルトの血が流れているからではないだろうか。そう、ニーチェに関しても、ケルトの血を感じるのである。これらについては後で検討したい。

3p.s. 前期ポスト・モダニズム文学として、ジョイスと並び称されるプルーストをあげられるが、ケルトと関係があるのではないかと検索していたら、あった。

「ここで、プルーストの作品構造と、時間が凝固してしまったようなヨーロッパ中世の教会堂建築との血縁性が明らかになる。

 プルーストは、ラスキンの翻訳や、その長い序文執筆によって、ラスキンの美意識と彼の鋭い観察眼をわがものとし、

ゴシック建築をはじめ、中世芸術に通じていた。

さきの引用で、言及されていたロマネスク建築を例にとれば、それは、

「歴史のすべてを監禁し、幽閉し、圧搾している」と表現されていた。

ここでは、時の流れとしての歴史は存在しない。その代わりに、重層する空間化された「時」が存在する。

 現代のわれわれにまで伝わる、例えば十二世紀のロマネスクの教会堂は、

後陣のこの部分は十世紀、柱頭彫刻のいくつかは十一世紀、壁画のこの部分は十三世紀、

この修復はバロック期・・・といった具合に、ひとつの建物の中に、それぞれ具体的な「時」が息づき併存している。

さらには、教会堂の地下にケルト時代の泉があったり、ローマ時代のミトラ信仰の祭壇があったり、

地下墳墓(クリプト)があったりすることもある。

一つの建築物の中に、可視的なレヴェルで、複数の「時」が重層したイマージュの構造をとる。

歴史の連続性が、視覚に訴えられるのである。

 したがって、『失われた時を求めて』の冒頭部、プルースト文学の核心をつくるマドレーヌ菓子の挿話も、

その前後で、古代ケルト人の信仰に触れた一文が置かれていることは、注意深い考察に値しよう。

それは決して偶然ではない。

私はケルト人の信仰をいかにももっともだと思う。それによると、われわれが亡くした人々の魂は、何か下等物、獣とか植物とか無生物とかのなかに囚われていて、われわれがその木のそばを通りかかったり、そうした魂がとじこめられている物を手に入れたりする日、けっして多くの人々には到来することのないをのような日にめぐりあうまでは、われわれにとってはなるほど失われたものである。ところがそんな日がくると、亡くなった人々の魂はふるえ、われわれを呼ぶ。そしてわれわれがその声をききわけると、たちまち呪縛は解 かれる。われわれによって解放された魂は、死にうちかったのであって、ふたたび帰ってきてわれわれとともに生きるのである。

 

 ここで、プルーストは、カエサルのゴール征服以前、フランスの土地にいたケルト人の信仰にある霊魂不滅の説をとりあげている。樹木の霊力や魂の再生に触れ、死を征服し、魂の甦りを信ずるケルト人たちの信仰について述べている。プルーストはこの話を、理性や意志の力ではいかんともしがたい隠れた記憶を、感覚が偶然的な契機によって喚起してくれるという、あのマドレーヌ菓子による至福の体験の描写にふかく繋げている。われわれの心の深層に、ふだんは眠っている反覆、繰り返しの単位であった太古の時間は、容易に変化しないものとして、歴史の基層に確かに存在する。」

http://osaka.cool.ne.jp/micay/temps.htm

『夢想書庫:プルースト』

4p.s. 先に、ケルトと結びついた東方キリスト教のことを述べたが、『叡智の禁書図書館』(http://library666.seesaa.net/ )

では、アリウス派であろうと推測している。これは、キリスト教異端で、イエスの神性を否定しているのである。いわば、三位不一体論である。これは、不連続的差異論の三層構成と一致するだろう。「父」/「聖霊」/「子」である。三位不連続である。

 また、D.H.ロレンスが、大天才的作品『死んだ男』で、「死んだ」イエスを、単独的な、コスモス的な人間に変えたことを想起するのである。ケルト・ブリテンも不思議ではない。ケルト・アリウス派と言うべきなのだ。

参考:アリウス派

http://www.hi-net.zaq.ne.jp/buakf907/bun041.htm

http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

5p.s. ケルト・アリウス派的ブリテン・コスモス主義を、より広く考えようとすると、19世紀後半から20世紀初めのロシア文学にぶつかる。文豪トルストイやドストエフスキーたちの文学は、奇蹟的である。ロシア文学は、ロシアの大地から切り離しては考えられない。そして、また、ロシア文化には、コスモス主義がある。これは、東方キリスト教から発しているだろうし、また、土着的なものがあるだろう。大地とコスモスの一体性がある。一言で言えば、メディア界文学・文化である。だから、当然、ケルトと通じるものがあるのである。しかし、アトランティス文明を根源として想定したとき、どうつながるのか。そう、キリスト教の問題があるのである。キリスト教は、本来は、アリウス派的な三位不一体であったと思われるのである。あるいは、グノーシス主義的なキリスト教であったと思われるのである。さらに、言えば、超越論的高次元内在コスモス主義である。これが、東方キリスト教に伝播しているのだろう。ギリシア正教である。ギリシアは、東西の結節点である。そう、ギリシアは、古代ギリシアは、古代エジプトの叡智を継承したと思われる(プラトンの『ティマイオス』で、ギリシア人は、エジプト人から見たら、子供であるという言葉が伝えられている)。これは、また、アトランティスの叡智であろう。つまり、東方キリスト教はアトランティスの叡智を継承しているのである。だから、ケルト・アリウス派的ブリテン・コスモス主義と共通点をもつのである。両者、アトランティスの叡智の継承なのであると考えられるのである。

 西洋文明は、アトランティスの叡智の破壊である。そう、アトランティス文明を破壊させたと考えられる同一性の悪魔アーリマンの邪悪な知性を西洋文明は発展させたのだ。それが、近代主義であり、とりわけて、アメリカ文明である。西洋文明は、占星術の双魚宮(魚座)にふさわしく、二面性をもっているのだ。一つは、アトランティスの叡智の継承とアトランティス破壊の悪魔的知性の継承である。今日、前者を批判的に継承しなくてはならず、今や、不連続的差異論やヌース理論として、日本で新生したと言える。ポスト西洋文明である。新アジア文明である。新アトランティス文明である。新アジア=新アトランティス=新ユーラシア=新地球ポスト文明・超文明である。

6p.s. 参考:ベルギー、オランダとケルト

「ベルギー

  国名はローマの征服以前住んでいたケルト系住民ベルガエ族に由来しています。オランダ、ルクセンブルク、ベルギーを含めてネーデルランドと呼んでいましたが、19世紀ごろから分裂してベルギーを国名として使うようになりました。」

http://www.mita.lib.keio.ac.jp/lib_info/display_history/189.html

「オランダの最古の都市Nijmegen(ネイメーヘン)とケルト」

http://plaza.rakuten.co.jp/patitani5555/diary/200601230000/

のコメント参照

その他

http://www001.upp.so-net.ne.jp/yasuaki/misc/forg/forg36.htm

http://www.geocities.jp/beerforum/bbhistory.htm

7p.s. 因みに、私がクラシックのCDで、一枚あげよと言われたら、グスタフ・レオンハルトの演奏によるバッハの『フーガの技法』である。とても、東洋的な幽玄な、わびさびのある、能楽のような、間のある演奏である。また、バッハの音楽、特にこの曲は、ケルト的な、多元的な入り組んだ文様を想起させないだろうか。バッハのポリフォニーとケルト文様は比較する価値がある。

8p.s. ロシアのコスモス主義

http://ameblo.jp/renshi/entry-10004906772.html

http://www.sanynet.ne.jp/~norio-n/FILE/ETHER1.html

http://bookweb.kinokuniya.co.jp/guest/cgi-bin/wshosea.cgi?W-NIPS=9970051296

http://72.14.203.104/search?q=cache:daaC_Cm1JH8J:blog.melma.com/00122700/20041103075652+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:mdjhiGAnGJ8J:blog.melma.com/00122700/20041103075342+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80sophiology&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:-OQecW1jCvYJ:blog.melma.com/00122700/20041103080036+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=2&client=firefox

http://72.14.203.104/search?q=cache:0b-_BYSqxikJ:blog.melma.com/00122700/20041103080425+%E3%83%99%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%BC%E3%82%A8%E3%83%95%E3%80%80philosopractical&hl=ja&gl=jp&ct=clnk&cd=1&client=firefox

映画ならば、タルコフスキーだろう。

2006年04月30日 (14:36)

メディア界の事象の意味:視覚的イデアから多感覚的イデアへ

先に、私は、メディア界において、差異が共振して、その結果、光が生まれると述べた。丁寧にみよう。差異1☯差異2が、メディア界であり、この☯の対極的共振において、光が発生するのである。しかし、私は、差異1/差異2(イデア界)において、差異1→差異2の志向性があり、差異1→がノエシスであり、差異1→/がノエマと言えよう。前者は、知であり、後者は、存在である。そして、これが、メディア界においては、極性共振のため、差異が量子=波粒子wavicleになるのである。そして、ノエシス・知は、知覚・認識性へ、ノエマ・存在は、感覚・質料性へとなるのではないだろうか。否、より正確に考察しよう。ノエマ・存在が、他者の差異に接して、共振して、量子性=波粒子性の属性をもつと言えよう。しかしながら、単に、ノエマ・存在→量子・素粒子を見るだけならば、唯物論である。ノエシス・知がそこには内包されているのである。ノエシス・知即ノエマ・存在であるから、量子・素粒子には、「知性」があるのである。とりあえず、共振差異(メディア差異)を光・光子とすれば、光には、「知性」があるのである。つまり、無数の共振差異は、いわば、光知(光智)をもっているのである。光知即光子である。そして、光子は、感覚・質料性を帯びていると言えよう。即ち、光知(知性)即光子(感覚・質料性)である。そして、私が先に、ウグイスの囀りの聴覚について述べたこと事象、即ち、主客未分化事象とは、この光知即光子のメディア事象と言えるだろう。ただし、この場合は、光子は、聴覚・質料性になっているのである。平明に言えば、認識即感覚(質料)、心即身体、思惟即存在である。これは、正確に言えば、即非であろう。だから、認識即非感覚(質料)、心即非身体、思惟即非存在である。これが、メディア界の差異、共振差異の事象である。そして、ここは、単に、視覚に関係するだけでなく、諸認識即諸感覚が、おそらく、共立しているのである。ニーチェのディオニュソスとは、この、いわば、渾然一体性を指すのではないだろうか。思うに、共振の度合い、周波数があるのであり、それが、諸感覚を生むのだろう。例えば、ナマズや他の動物には、人間にはない感覚をもっている。人間に感知できない電磁波を受容するのである。また、共振の周波数が低いと、触覚のようなものとなり、未分化性がより強くなるだろう。聴覚は、視覚と触覚の中間に当たるだろう。【ODA ウォッチャーズ氏が述べたことをここで、想起すべきである。
「人間の存在認識の多様性と(不連続的差異論上の)メデイア界について」『不連続的差異論研究』
http://blog.discontinuousdifference.org/?eid=223622 】
とまれ、メディア界は、諸認識即非諸感覚の「多様体」である。カオスモス、ディオニュソス、「一円混沌」(二宮尊徳)とも呼べよう。半田広宣氏が述べたように、プラトンのコーラ、西田哲学の場所に当たるだろう。『老子』の玄牝もここを指すだろう。また、D.H.ロレンスの黒い太陽dark sun、知られざる神unknown God、そして、コスモスcosmosもここを指しているのではないだろうか。そう、メディア界を宇宙は、太陽というよりは、黒い太陽であろう。黒い宇宙だろう。おそらく、ダークマターやダークエネルギーの領域だろう。ここが、同一性構造によって、諸認識(思惟・観念・心)と諸感覚(延長・質料・身体)が分化して、現象化して、白い太陽となるのである。(ここでは、これまで、イデア界と考えたものを、メディア界と変更したのである。自説の変更である。後で整理したい。)
 では、現象界に存する白い太陽は、メディア界においては何であるのだろうか。また、現象界の白い太陽とは何であろうか。現象界の白い太陽とは、同一性が視覚差異(メディア界の視覚差異)を分化したときに発生するものではないだろうか。つまり、メディア界においては、光知即非光子であり、この光・視覚のメディア差異が、同一性によって、分化して、白い太陽と視覚(眼)が生まれるのではないだろうか。つまり、白い太陽とは、元は、メディア界の光知即非光子である。原視覚・太陽である。
 おそらく、この原視覚・太陽(以下、原太陽)は、メディア界においては、主要なものであろう。しかしながら、メディア界には、他の諸感覚・「惑星?」があるだろう。これが、現象界の視覚以外の諸感覚を分化形成すると言えよう。メディア界をコスモス(又は、メディア・コスモス)とすれば、白い太陽とは、コスモスの光知即非光子の分化発現である。そして、光知即非光子とは、原太陽である。それを黒い太陽と呼べるかもしれない。しかし、コスモスには、諸惑星があるのであり、それは、原惑星であり、黒い惑星である。視覚以外の諸感覚を内包していると言えよう。
 ここで、思うのは、プラトンの白い馬と黒い馬である。前者が、善であり、後者が悪である。また、前者は太陽・精神で、後者が惑星・感覚(身体)であろう。白い馬を原太陽、黒い馬を原惑星と考えることができるのである。また、有名な洞窟の比喩における太陽であるが、それも、原太陽と考えられよう。しかし、それ以外の、原惑星が、洞窟の外にあるはずである。思うに、プラトンはこれを、排除しているのである。思うに、コーラであるが、コーラは、この排除されたメディア界を指しているのではないだろうか。原太陽から排除したものを、後で、プラトンは、こっそり、いわば、密輸しているのではないだろうか。正しくは、原太陽を含めたコーラであるメディア・コスモスがあるのではないのか。そして、これが、神話的には、太母、原母に当たるのではないのか。プラトンは、光知即非光子を中心化して、他を排除して、イデア論を立てているのではないだろうか。簡単に言えば、メディア界の、いわば、「闇知」即非「闇子」を排除・隠蔽しているように思えるのである。これは、視覚以外の諸感覚を指しているのである。身体である。だから、プラトンのイデア論は、イデア(視覚)とコーラ(他の諸感覚・身体)との分離・分化の上に成立しているように考えられるのである。この分離は、同一性構造から発していると思われるのである。プラトンの時代は、父権制の時代であり、父権的同一性構造が、メディア界に作用して、そのように視覚と他の諸感覚を分化させたように考えられるのである。私は以前に思ったのであるが、プラトン哲学は、父権主義から母権主義を見ているのである。前者の視点で、後者を理解しようとしているのである。そこに、プラトン哲学の一種の折衷性があると思うのである。
 さて、このように考えると、D.H.ロレンスの述べた黒い太陽、知られざる神、暗い神dark Godの意味がより明快になるように思うのである。それは、メディア界総体のコスモスを指しているように思うのである。それは、プラトンの視覚中心のイデア論よりは、包括的である。ロレンスは、メディア界の共振差異のコスモス全体を志向していると言えよう。それは、プラトン哲学の超克と言えるだろう。そして、不連続的差異論に、このことを、適用すると、ノエシス即非ノエマとは、単に概念的知性だけでなくて、いわば、感覚的知性を含むだろう。即ち、多元多様的ノエシス即非ノエマ的イデア界且つメディア界ということになるだろう。不連続的差異・イデアは、多元・多層・多重的イデアとなるだろう。一つ一つの不連続的差異・イデアが、いわば、特異性の宇宙・コスモスということになるだろう。

2006年04月29日 (10:55)

近代革命の力学構造はどういうものであったか:不連続的差異論の視点から

先に、近代革命を、単独性と主客二元論的合理主義の二重革命であると述べた。http://ameblo.jp/renshi/entry-10011899367.html
簡単に言えば、イデア界と現象界の二重性をもつ。
 問題は、このような二元的な発露をもつ力学とは何であるのかということである。集合的精神から切り離された単独的自我を発露させる力学とは何か。あるいは、主客二元論的合理主義を生む力学とは何かである。
 集合的精神は、素朴なメディア界の精神に拠ると考えられる。何故なら、ここにおいて、差異が共鳴して、連結しているからである。しかるに、同一性構造の発生によって、それらが、否定されるのである。だから、近代革命の根因として、同一性構造の発生が考えられるのである。しかしながら、同一性構造は、通常、あらゆるところで、発生すると考えられるので、なぜ、西欧において、近代革命が起きたかの十分な理由とはならない。
 ここで、持論を言えば、ルネサンスとは、差異の発動であったのであり、それを、デカルト哲学は、理論的に継承しているということになる。つまり、近代革命において、ルネサンス文化が基盤にあるということである。そして、後のプロテスタンティズム(宗教改革)は、これに対する父権的反動であり、当然、前提は、ルネサンスである。
 差異の発動がルネサンス・近代の基盤にあるということは、新たなイデア界からの賦活があったということと考えられる。だから、ルネッサンスにおいて、イデア/メディア境界からの発動があり、それが、メディア界を賦活し、そして、さらに、メディア/現象境界を活性化させたと言えるだろう。先の中世の集合的精神のメディア界性について言えば、それは、いわば、枯渇した、硬直した、形式主義となったメディア界と言うべきである。
 問題は、この差異の賦活が、自我の問題を中心にしていることである。単独的自我、単独性・特異性と関係していることである。ここで、私説を少し修正する必要がある。デカルト哲学は、ルネサンスを理論的に継承するものと述べたが、それは、不十分であると思う。ルネサンス且つプロテスタンティズムを継承していると見るべきであり、その方が、時代の流れから見て、説得力がある。つまり、こういうことである。ルネサンスは、イデア/メディア境界からのダイナミズムをもち、芸術・文化を創造した。これは、メディア界的である。それに対して、プロテスタンティズムは、超越神の下の個を説いたのであり、それは、メディア界を欠いていた。換言すると、ルネサンスは、イデア界→メディア界→現象界という、いわば、流出的な展開であったが、プロテスタンティズムは、この展開のメディア界を排除して、イデア界と現象界の二元論としたのである。プロテスタンティズムは、ルネサンス(母権制)に対する父権的反動と言うこともできる。これは、メディア/現象境界における同一性構造による差異の排除・隠蔽と結びついていると言えよう。つまり、プロテスタンティズムは、メディア界ないしメディア差異に対する同一性の反動的排除・隠蔽である。しかしながら、注意すべきは、デカルトにおいては、単純な反動ではなくて、ルネサンス的イデア界ないしイデア/メディア境界が生動していたことである。正に、そのように取るべきである。プロテスタンティズムにおける超越神は、イデア界的ではあるが、それは、正しく言えば、超越化されたイデア界なのである。(本来のイデア界は、超越論的である。超越性と超越論性との区別を、ここで、明確に注意しないといけない。前者は、絶対的超越性であり、後者は、内在的超越性である。
 デカルトの場合、ルネサンスとプロテスタンティズムの内面的闘争があったと考えられるのである。そして、メディア界を否定するように懐疑して(懐疑主義)、イデア界(単独性・特異性)と現象界(同一性)とを結合させたと考えられるのである。デカルトのコギトとは、単独性・特異性の自我と同一性の自我との結合と考えられるのである。そして、これが、近代革命の力学構造の意味である。つまり、この二重構造は、パラドクシカルな、分裂(精神分裂)的な二重構造である。有り体に言えば、近代精神とは、精神分裂症なのである。病理的精神、狂気なのである。そして、想像を絶する災厄を人類と自然にもたらし続けているのである。
 先にも述べたが、ポスト・モダン革命は、この二重構造の近代革命の超克である。同一性構造、弁証法構造を解体して、単独性・特異性に基づく差異的自我を説くのである。それは、不連続的差異としての自我である。
 最後に付加すると、ポスト・モダン革命において、同一性はどうなるのかということである。同一性構造は、もはや、反動的ではなくなる。それは、言語を形成する必要な構造となるだろう。つまり、差異に基づく、同一性言語構造となるだろう。即ち、差異に従属する同一性構造となるだろう。差異が主人であり、同一性は従者である。しかし、この従者は、単なる従者ではなくて、差異知覚・認識の主要な方法となるだろう。差異的知性の技術である。同一性はここでは、イデア界的普遍性に仕えているのである。不連続的差異・イデア的認識のための知性技術としての同一性・言語構造となっているのである。因みに、ロゴスとは、イデア界の言語認識と言っていいだろう。

2006年04月29日 (10:51)

近代とは何であったのか:ポスト・モダン革命から見た近代革命の意味

今や、近代主義は、ポスト・モダン理論の完成であると考えられる不連続的差異論の誕生・発見によって、完全に超克されたと言えるのであり、今や反動化した近代主義に対する闘争があるのであるが、ここで、近代の精神の革命的意義を確認しつつ、ポスト・モダン革命の意味を再確認したい。
 近代革命は、きわめて重大な革命であった。それは、中世までの、なんらかの集合的精神を切断したのである。端的に言えば、それは、コスモスと人間との集合的精神を断ち切ったのである。周知のように、人間は、絶対的自我に収縮したのである。あらゆる繋がりから切り離されて、単独的個体としての自我となったのである。この自我が、デカルトのコギト・エルゴ・スムに表現されていると言えよう。そして、同時に、デカルトは、コギトに客観的合理主義(近代的合理主義)を与えたのである。これが、デカルト革命であり、同時に、近代革命である。これは、二重の意義をもっている。一つは、単独的個体としての自我と、一つは、主客二元論的な合理主義である。近代革命とは二重革命であったのである。
 しかしながら、後者がいわゆる近代的合理主義として、過度に発展して、前者の意義が、例外的な少数者を除いて、忘失されたのである。そして、単独的な自我は、主客二元論的合理主義と同一化して、単独性(=特異性)が抑圧・排除されるのである。即ち、近代的自我の形成である。近代革命の反動として、近代主義があるのである。また、単独的自我の進展として、スピノザ哲学は、考えられるのであり、それは、単独的心身性の哲学である。だから、本来の近代革命は、デカルト/スピノザの路線に本来あると言えよう。それは、不連続的差異論から言えば、メディア界の知の形成である。
 ここで、ポスト・モダン革命の視点から見ると、近代革命とは、何であろうか。一方では、単独性があり、他方では、近代的合理主義がある。問題は、前者の意義である。私は、単独性=特異性を、イデア界の特性であると考えているから、近代革命とは、一種の、イデア界の発露であると言えよう。そして、同時に、現象界の発露である。この、いわば、矛盾が近代革命である。換言すれば、一方では、イデア/メディア境界の特性があり、他方では、メディア/現象界の特性があるのである。この両極化をどう見るべきなのか。これこそは、近代文明・文化の二分化と見るべきだ。前者を、いわゆる、文系が担い、後者を理系が担ったのである。C.P.スノウのいう二つの文化である。簡単に言えば、近代主義とは、デカルト哲学のもっていた二重性の分裂化と言えよう。
 この視点から見れば、ポスト・モダン革命とは何であるのか見やすいだろう。それは、前者の追究・探究による、後者の乗り越えだったのである。そして、後者は、それ自身の発展から、後者自身の乗り越えへと進んだのである。相対性理論と量子力学である。結局、ポスト・モダン革命とは、近代的合理主義の乗り越えだったのである。近代革命がもっていた単独性・特異性の進展であったのである。

2006年04月27日 (11:50)

同一性自我によって否定された差異は、どういう《作用》をもたらすのか

同一性自我によって否定された差異は、どういう《作用》をもたらすのか

差異とは、人間においては、心身と直観される。いわゆる《心》とは、心身であろう。チャクラ的身体であろう。不連続的差異論では、メディア界に当たる。問題は、近代的自我は、差異を否定したところに成立していることであり、この否定された差異はどういう影響を心身にもたらすのかということである。
 現代は、正しく、ポスト近代の時代と言えるが、近代的自我のままの人が多い。ポスト近代の時代にあって、近代的自我のままであるというのは、反動であると言うしかないが、自我の変容努力を、怠った人たちである。近代的自我の傲りでもある。とまれ、直観では、否定された差異は、近代的自我の心身に悪影響を与えていると考えられる。同一性自我と言ったが、正しくは、弁証法的自我であろう。差異を否定するということを問題にするので、今は、どちらでもいいだろう。
 メディア界において、差異は、対極性の関係をもって、共振している。差異の共感性が発生していると言えるだろう。いわゆる、神秘的感覚やコスモス的感覚(感性)は、ここから発生すると言えるだろう。このメディア界の心身感覚を近代的合理主義は否定し、排除しているのである。即ち、メディア界と現象界の関係は、否定・排除であるということである。二項対立的同一性がここにあるのである。これは、イデア界における不連続的差異の1/4回転の最終的帰結と言えるだろう。つまり、第1の1/4回転である。しかし、第2の1/4回転が起こるので、それは、消滅されるのである。しかし、以前にも述べたが、同一性形式である言語形式の強固さのため、消滅に抵抗して、反動化すると考えられるのである。
 だから、差異の否定の作用というテーマであるが、それは、反動化に関係すると言えるだろう。簡単に言えば、差異と同一性との生成消滅反復が本来あるのであるが、同一性形式のために、差異に対して反動化して、差異を否定するのである。差異の共立・共感性を否定してしまうのである。
 差異が共振するメディア界であるが、それは、差異の動態・エネルギー化(エネルゲイア・強度化:量子力学の世界)であり、心身を賦活させるものである。同一性主義により、差異を否定・排除すると、エネルギーが滞るのであり、平俗に言えば、溜まるのである。エネルギーの渋滞とも言えるだろう。この発露こそ、本来の自由であろう。ただし、素朴なメディア界は、同一性自我と結びついているので、自由が、利己主義、自己中心主義に変じるのであるし、また、全体主義やファシズムに通じるものとなるのであるから、メディア界の扱いは、最高度に慎重さを要するのである。思うに、根本的智慧・叡智が、秘教、密教等と呼ばれたのは、一つは、この危険性をともなうからだろう。大澤真幸氏の説くアイロニカルな没入とは、素朴なメディア界の事象を指していると言えるだろう。ポスト近代という時代は、差異の肯定の時代であるが、反動と全体主義の危険を、同時に、もつのである。
 本件であるが、差異に対する反動としての近代的自我であるが、それは、上記したように、差異共感性や差異エネルギーを抑圧するので、狂気・狂暴性・凶暴性等を帯びると言えるだろう。これは、言語同一性と関係するので、今日、とりわけ、近代的知識人が、狂気化しているのである。メディア界を認めないのである。文学や芸術の衰退とは、このことに関係しているだろう。
 差異を肯定することは、同一性自我にとり、最高度に難しいことである。自我の多層化を構築しないといけないのであり、それは、自我の心身化を意味するのである。身体論が流行したが、それは、これと関係するだろう。即ち、差異の肯定とは、自我の多元・多層的心身化である。(文学や芸術で言うと、これは、モダニズムの時期に生起した事象である。文学・芸術のモダニズムとは、実は、ポスト近代主義なのである。用語の混乱があると言える。だから、「モダニズム」としなくてはならない。そして、この「モダニズム」を、現代は、うまく、継承していないことに文学・芸術の衰退があると言えよう。)そして、多元・多層的心身化を真に実現するには、これまでのポスト・モダン理論では、不十分であったのである。【ニーチェ哲学は、ポスト・モダン理論の偉大な点火であったし、フッサール哲学は、それの偉大な深化であった。しかし、その後、ポスト・モダン理論は、混迷化したのであり、差異の肯定を十全に理論化できなかったのである。もっとも、ドゥルーズ哲学は、後一歩のところで、それを逃してしまったのである。そして、不連続的差異論が発見されて、差異の肯定が十全に理論化されたのである。そして、ポスト・モダン理論がここで完成されたと言えるだろう。(これを、ポスト・ポスト・モダン理論、パラモダン理論等と呼ぶこともできるだろう。)】そこへ、不連続的差異論が発見されて、差異の肯定への確実な、健全な視点が生まれたのである。絶対的ポスト・モダン理論である。近代主義からは、完全に断ち切れたのである。今や、完全に新しいエポックである。東西文明と文理科学の統一である。
 とまれ、この新時代において、反動狂気と全体主義暴力が、発生するのである。二つの巨悪である。しかし、同一性自我による反動狂気は、活動力が衰退して、病み衰えると言えよう。そして、全体主義暴力(例えば、共謀罪法案)であるが、これも、反動であるが、これは、自由な個の活動を完全に阻害するもので、社会は、確実に、衰退するのである。亡国となるのである。

p.s. 全体主義暴力であるが、これは、基本的には、近代的自我、近代主義の反動であり、反動狂気に含めることができるだろう。反動狂気・暴力と呼ぶことが、包括的である。即ち、ポスト・モダン・エポックにおける近代主義の反動狂気・暴力である。

2006年04月22日 (18:34)

心身=メディア界の様相について:認識された不連続的差異・イデア界の教化

心身=メディア界の様相について:認識された不連続的差異・イデア界の教化

心身=メディア界は、もっとも、「複雑怪奇」な領域であろう。ドゥルーズ&ガタリがカオスモスと呼んだのは、この領域を指すと考えられる。コスモスとは、イデア界・ガウス平面を指すと見るべきだろう。また、ラカン精神分析の想像界を脱エディプス化すれば、心身=メディア界になると考えられよう。
 私が今問題にしたいのは、この心身=メディア界の「心」の様相である。ここは、思うに、実に不安定な様相にあるだろう。一方では、イデア界的衝動があり、他方では、現象界的衝動がある。(前者が、シュタイナーの言うルシファー、後者がアーリマンに相応するのかもしれない。また、フロイトの死の欲動であるが、それは、前者なのかもしれない。そして、「エロス」とは、後者かもしれない。)即ち、心身=メディア界は、完全に分裂的な領域なのである。心身が引き裂かれる領域なのである。この「カオスモス」ないしカオスを安定化するため、人類は、宗教やイデオロギーやアイデンティティ等を欲望希求していると言えよう。
 近代とは、この心身=メディア界=カオスモスを、主客二元論で合理化した(近代自我合理主義)のであるが、しかしながら、この合理pしは、当然、差異である。メディア界の差異(メディア差異)である。メディア差異不安を排除隠蔽することが、暴力なのである。それは、自己と他者への暴力であるが、自己のメディア差異不安を他者へ投影して、自己→他者攻撃をするのである。オリエンタリズムとは、この展開であろう。また、白人が有色人種を差別するのも同様であろう。
 心身・メディア界・カオスモスは、共感性の領域であり、自己と他者とが、いわば、触れ合うのである。ドゥルーズ&ガタリの離接の領域である。大拙の即非の論理の領域である。しかしながら、同時に、反感の発生する領域であり、同一性自我=近代主義へと転化する領域である。問題は、反感によって同一性自我へと転化するのを防ぎ、共感性を保持する知恵である。スピノザの『エチカ』には、そのような知恵が能動的観念等として説かれている。しかしながら、このスピノザの叡知・般若も、完全に、同一性自我から脱却していないと考えられるのである。思うに、連続性が、スピノザ哲学にはあり、それが、反動となり、同一性自我につながると思うのである。心身・メディア界・カオスモスの共感性とは、連続性をもつのであり、そのため、反感が断ち切れないのである。
 しかし、不連続的差異論に拠れば、差異が不連続化するため、共感性が、不連続化するのである。つまり、共感性が独立・直立するのである。そのため、共感的歓喜が反感反動から分離して、同一性自我へと転化するのを防ぐのである。そう、不連続的共感性、不連続的心身・メディア界・カオスモスが形成されるのである。ODA ウォッチャーズ氏が説く差異の共立としてのメディア界とは、この事態を指していると考えられる。不連続的メディア界、不連続的差異的メディア界である。これは、イデア界化されたメディア界と換言することができる。また、半田氏が説いた聖霊としてのメディア界も、ほぼ同様のことを指していると考えられよう(聖霊とは、イデア界からメディア界へと作用するだろう。ならば、聖霊とは、不連続的差異の叡知ソフィアの力であろう。では、叡知ソフィアの力とは何か。イデア界の力である。イデア界の理念の力である。それは、コスモスの力である。エネルギーを超えたエネルギーである。スーパー・エネルギーである。しかし、単にイデア界の力ではないだろう。イデア界の1/4回転を生む力の認識だからである。つまり、これは、逆1/4回転であろう。イデア軸であるX軸へ回帰する力である。マイナス1/4回転の力である。あるいは、4/4回転の力である。そう、イデア界・ガウス平面への回帰・永遠回帰の力である。)。私が、これまで、イデア界の差異の共立に拘ってきたのは、メディア界がもっている連続性から脱却したいためであったのである。しかし、イデア界に達すると(親鸞の往相回向)、今度は、認識・覚知されたイデア界の作用が、他の領域へ浸透する(還相回向、理事無碍&事々無碍)と考えられるのである。そして、メディア界が不連続化されるのであり、さらに、現象界が不連続化されるのである。即ち、総合的不連続的差異化である。共感性も、不連続的共感性となり、イデア界的な共感性となるのである。
 ここで、D.H.ロレンスの真の代表作である『死んだ男』で、「死んだ男」=イエスが、宇宙の暗い薔薇に、神秘的に、触れるとき、それは、メディア界の共感性によるものであるが、しかし、それ以前、「死んだ男」は、イシスの巫女との不連続的差異の共立を体験しているのであるから、この宇宙の暗い薔薇との神秘的接触とは、不連続的メディア界の共感的接触、不連続的差異的共感的接触と見るべきである。ならば、それは、コスモスの不可視の薔薇との接触と呼ぶのは正しいのである。

2006年04月17日 (05:26)

現代思想を、不連続的差異論から、図式化する:私案1

現代思想を、不連続的差異論から、図式化する:私案1

1.イデア界:ニーチェ哲学、フッサール現象学 


2.イデア/メディア境界:ドゥルーズ(&ガタリ)哲学 


3.メディア界:(ベルクソン哲学?、ハイデガー哲学?、)レヴィ=ストロース構造主義 (ラカン精神分析):量子力学?


4.メディア/現象境界:(カント哲学、)デリダ脱構築哲学:相対性理論?


5.メディア/現象境界内同一性・弁証法構造:カント哲学、ヘーゲル哲学、マルクス主義 (サルトル実存主義?):近代主義


ポスト構造主義という言葉は、混乱を招くので、使用しない方がいいだろう。ドゥルーズ哲学を指すなら、脱構造主義である。また、ポスト・モダンは、広義では、1~4までの哲学・思想を指すだろうが、狭義には、1としたい。
 大乗仏教哲学は、おそらく、2の領域にあるだろう。文学で言うと、D.H.ロレンスや折口信夫は、ほぼ、1に到達していた。小説家のヴァージニア・ウルフも、ほぼ1に達していたように思える。少なくとも、2の領域には、達していただろう。私はよく知らないが、シモーヌ・ヴェイユも、ほぼ、1に達していたのではないだろうか。また、ヌース理論は、1と2との中間領域にあるように思えるが。
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