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2014年08月12日 (16:06)

不連続的差異論が誕生してから今年の9月で10年になる

不連続的差異論が誕生してから今年の9月で10年になる

テーマ:不連続的差異論とPS哲科学

ブログを始めて、もう10年経った。
 そして、2004年9月、ブログ上でkaisetsu氏と遭遇して、まったく予期しなかった不連続的差異論が誕生して、10年になろうとしている。
 残念ながら、kaisetsu氏とは、一昨年、理論的見解の違いから、断絶してしまった。
 しかし、不連続的差異論の誕生の感動は、ほんとうに大歓喜、狂喜であった。感動のあまり、最勝超至高不連続的差異論と呼んだりしたものだ。(簡単に説明すると、自我とこころが不連続であることの認識、両者が切断できたことが、本当に喜びであったのである。つまり、それは、解放の歓喜である。自我とこころが連続であるとそれまで感じて、自我とこころが衝突していたのである。自我は、こころを否定しようとするが、こころは、その自我の否定から脱して、バランスを取ろうとするのである。しかし、両者、不連続であると認識し、自我にこころを否定させるようなことは、ほとんどなくなったのである。その事態は今でも存在しているのである。)
 その後、ガウス平面を取り入れたPS理論(最初は、
i*(-i)⇒+1という自己認識方程式が基礎となった)が誕生した。これは、kaisetsu氏のいわば、天才的創造である。
 その後、PS理論を展開していったが、ある意味で行き詰まったのである。
 私から言うと、kaisetsu氏と私の視点が乖離してきたのである。
kaisetsu氏は、より物理学的な解明を行なった。
 そう、虚軸の解釈が両者でずれていると感じていた。私は、今で言えば、氣的視点をもっていたが、kaisetsu氏は、物質に忠実な物理学的視点を発展させていったのである。(追記:虚軸だけでなく、実軸の解釈もずれていたのである。もっとも、一番の問題点は、i*(-i)⇒+1の、積である*の解釈であった。今思えば、私の勘違いであったが、陰陽調和は、陰-iを否定する必要があると思えて、⇒-1になると思って、kaisetsu氏の⇒+1とは逆に考えたのである。しかし、陰 -iを否定するのは、実は、陽i自我であり、それは、⇒-1の同一性=物質認識になるのである。とまれ、当時、あまりに数学中心主義に危惧を感じたのであり、私は、哲学的視点を放棄すべきではないと考えて、kaisetsu氏からの乖離を強く感じたのであった。)
 また、私は、精神・霊的学者のルドルフ・シュタイナーの著作等からの刺激で、ガウス平面だけの視点では、足りないと感じていたのである。
 結局、霊的視点の問題が起ったのである。
 そして、ここで、私とkaisetsu氏は、分離してしまったのである。
 具体的には、kaisetsu氏は、ガウス平面から離れて、四元数をベースに、立体的視点へ移行したのである。
 私は、陰陽論やガウス平面の結びつきは見事であり、そこから、離れるつもりはなかったのである。
 私はkaisetsu氏から分離し、独自の路線を歩き出していたのである。
 PS理論から離れていったのである。しかし、その後のいわば、混迷に近い試行錯誤から、再び、PS理論の基本を取り入れてて、今のPS陰陽論を唱えることになったのである。
 そう、非常に残念なkaisetsu氏との断絶であるが、結局、私は、こころ・精神の現象を中心にしたのに対して、kaisetsu氏は、物理学、物質力学を重視していたと思える。
 そう、言い換えると、私は哲学的思考が中心であったが、kaisetsu氏は、物理学的視点が中心であったと思う。
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2006年11月27日 (02:30)

パースの哲学は、連続的差異論である

先に、アメリカの哲学者パースの『連続性の哲学』(岩波文庫)に言及して、その連続性とは、差異共振シナジーではないかと示唆したが、それは、まったくの誤りであったので、ここで、お詫びかたがた、訂正したい。
 訳の問題があるのかもしれないが、それを考慮に入れずに、コメントすると、パースの記述自体にそもそも問題があると感じた。即ち、きわめて、不明瞭な、不明確な用語使用をしていると考えられるのである。
 それはともあれ、以下の叙述から、パースの哲学が、ベルクソンの連続的差異論と等価であることがわかるだろう。

「・・・次のような個体をメンバーとする特別な集合を考えてみることにしよう。それは、あらゆる種類の非可算的集合をすべて包含するような集合である。
   ・・・
したがって、われわれはここに至って、その数多性があまりにも広大であるために、そうした集合を構成する個体どうしは互いに溶けあい、その個々の同一性を失ってしまうような、そういう特別な多にまで至ったということに気づく。そのような集合こそが連続的なのである。」
(p.113~114)なお、傍点は、下線に替えた。青色文字は私の強調。

上記の「個々の同一性」は、私が言う差異的同一性のことであり、それを失うということは、反差異・連続的同一性になるということであり、ベルクソン的連続的差異以外のなにものでもないだろう。
 今夏、期待してホワイトヘッドの『過程と実在』を読み出したが、実に、純然たる連続論であり、たいへん失望したが、いくらか期待したパースの『連続性の哲学』であったが、タイトルに偽りなく、連続論であった。また、それだけでなく、パースの叙述表現に大変問題があると感じた。とても、あいまいであり、矛盾していると感じるのである。独りよがりな叙述も散見するのである。どうも際物であるように直観されるのである。ドゥルーズが、ホワイトヘッドやパースを評価していたが、ドゥルーズ自身の哲学が怪しいものなので、類は類は呼ぶというところであろうか。
 もっとも、パースの三元的論理学は、それなりに正しいだろう。第一性、第二性、第三性に分けている(p.86~p.93)。それを、プラトニック・シナジー理論的に敷延してみる。

第一性:不連続的差異
第二性:差異共振シナジー
第三性:即非性・対極性

としておこう。

2006年08月18日 (16:12)

狂人は、自分が狂人であることを認識できない:いかに狂気を乗り越えるのか

後で検討したいが、大江健三郎のエッセイで、『我らの狂気を生き延びる道を教えよ』
http://www.ops.dti.ne.jp/~kunio-i/personal/oe/oebook.html#wareranokyouki
があったが、私が思っているのは、「我らの狂気」ではなくて、近代主義の狂気をどう乗り越えるかである。
  私は何年も前から、近代的自我は、狂気であるという論を証明しようと努力してきたが、今や、それは、正しいことが証明されたのであるが、では、実際、どうやったら、この狂気の現実を乗り越えることができるのかが問題である。とは言え、近代化とは、無意味であったのかと言えば、そんことはないだろう。でも、なんという犠牲を生んだことだろう。
 近代化を評価するなら、それは、何と言っても、個を形成したことだろう。デカルトである。コギトである。単独的自我の形成である。しかし、すぐに、これが、近代合理主義・唯物科学へと転換されてしまい、狂気を生んだのである。この二重性を直視しないといけない。単独的自我の形成、これこそ、近代のエッセンスである。そして、近代合理主義・唯物科学という狂気に道を拓いてしまったのである。悲劇的近代としか言いようがないだろう。
 しかし、デカルト以前、イタリア・ルネサンスの原動力は、実は、単独的自我だと思われるのである。いわば、デカルトが定式化したように思うのである。そう、デカルトは、いわば、ルネサンス/プロテスタンティズムの二重性を代表していると言えよう。
 とまれ、単独的自我を近代合理主義へと転化せずに、進展させることが至難であったのである。これは、主に、詩人、哲学者の担ったのである。デカルトからの最初の進展は、スピノザであり、その次は、カントであった。決定的進展は、ニーチェであった。そして、フッサールであった。そして、文学者では、ヘルダーリンやD.H.ロレンスであった。結局、20世紀前半で頓挫してしまった形である。フランス・ポストモダンの流行現象は、反復ではあったが、未熟であった。
 結局、その間、政治・経済の現象界は、近代合理主義という狂気が発展したのであり、今も、グローバル資本主義という狂気の経済が駆動しているのである。ブッシュ/小泉狂謀コンビが登場したのである。マスコミは、当然、狂気のマスコミである。狂気が世界を支配しているのである。
 しかし、2004年、Kaisetsu氏との遭遇により、いわば、奇蹟的な理論、不連続的差異論が生まれたのである。これこそ、失われた単独的自我の真の近代の理論の創造的発展であったと考えられるのである。
 結局、この理論そして進展形態であるプラトニック・シナジー理論によって、狂気の近代主義を乗り越える地平が開けたと言えるのである。
 しかし、この理論を理解している人が、どれほどいるのか。この理論をさらに発展させ、普及することが、狂気の近代主義・唯物科学を乗り越える実践的方法であるということだろう。そう、この理論は、近代主義的理論をほぼ全滅させるだろう。近代主義の書物を反故にするだろう。これは、超知的革命なのである。超ニーチェ的理論なのである。超破壊的超創造的理論である。この理論を理解した人は、至福、至上の歓喜を得よう。超至高・超最勝の理論である。

2006年07月13日 (22:41)

不連続的差異、連続性、同一性について

最近の考察において、連続性と同一性が問題になっているので、ここで、整理するために、検討したい。
 この問題は、不連続的差異論の基礎論に関係する重要な問題である。即ち、イデア界における不連続的差異が、1/4回転によって、零度共振連結をして、メディア界を形成する。このメディア界は、差異共振界であり、不連続的差異=原イデアが共振しているのであるが、基礎として、ここでの原イデアは、不連続性と連続性を併存させているのである。
 さて、哲学者のジル・ドゥルーズは、差異=微分として、彼の哲学の半面の基礎としている。この差異=微分の差異とは、連続化した差異である。
 では、この連続化した差異と同一性とはどう関係するのだろうか。ここで、精緻に考えよう。メディア界において、不連続的差異が共振する。図式化すると、

差異1・即非・差異2・即非・・・即非・差異n

(ただし、差異とは、不連続的差異のことである。)


となる。即ち、差異零度共振様相(シナジー)において、共振による差異の連結様相が発生する。そして、この差異連結様相が、連続性である。差異=微分とは、この差異連結様相における連続性をもつ差異のことである。
 問題は、連続化された差異と同一性と現象の関係である。連続化された差異は、まだ、同一性ではないだろうがい、しかし、同一性の単位元素ではないだろうか。例えば、酸素分子を同一性とするならば、酸素原子が連続的差異にあたるだろう。(これは、あくまで、比喩である。因みに、不連続的差異が、量子・素粒子に当たるだろう。ヌース理論の問題点は、これらを、同一視しているところである。素粒子、原子、分子とは、物質主義的連続観による見方であり、「物自体」ではないのである。)
 私が、これまで問題にした差異と同一性の問題であるが、この差異とは、今確認した連続的差異のことではなく、不連続的差異のことである。整理して言えば、
不連続的差異と連続的差異・同一性の問題である。(先に、差異現象と同一性現象、あるいは、差異言語と同一性言語との区別等を述べたが、これらの差異と同一性も、今、ここで、述べたことが適用されることを明確に確認しておきたい。)
 そして、メディア界とは不連続的差異の零度共振シナジー界であるが、不連続性と連続性が即非的に共存しているのである。不連続的差異の共振的共立である。(イデア界における不連続的差異の共立とは、接することのない、共立、絶対的共立であり、メディア界の共立とは、即非的共立である。しかし、単に相対的共立ではない。)
 これに対して、現象界とは、メディア界から発する連続的差異・同一性が顕現した世界である。【因みに、光であるが、それは、これまで、同一性=光としてきたが、そうではなくて、不連続的差異共振シナジーが原光であり、それが、現象界においては、光として発光しているのではないだろうか。つまり、原光を連続的差異・同一性の視覚で、捉えているものが光ではないだろうか。ここは、実に繊細微妙な問題フィールドである。感覚も不連続的差異感覚(略して、不連続感覚)と連続的差異・同一性感覚(略して、同一性感覚)の二種類があると思うのである。不連続的感覚で捉えるものが原光であり、同一性感覚で捉えたものが、光ではないだろうか。とまれ、ここで言うべき点は、アインシュタインの相対性理論とは、メディア界の原光事象を、連続的差異・同一性の現象界の物質主義的数式で捉えているということではないだろうか。(後で、さらに検討を深めたい。】
 問題は、複雑微妙である。不連続的差異と同一性の関係と、同一性と言語の関係の説明である。あるいは、差異と同一性と自我の関係の問題である。
 問題を端的に絞ると、不連続的差異と同一性とは、共立するのか、排斥関係にあるのかである。また、それ以前に、同一性とは何かの問題がある。同一性とは、端的に、差異を否定した連続性の固定である。ならば、原理的には、同一性は差異を排斥するものである。では、同一性と連続的差異の関係はどうなのであろうか。同一性の「アトム」が、連続的差異であった。だから、両者は、「連続」的である。だから、問題は、連続的差異と不連続的差異との関係である。まとめると、連続的差異・同一性と不連続的差異の関係の問題である。これは、基本的には、二律背反である。即ち、即非の論理である。そして、これが成立しているのが、メディア界・差異共振シナジー界であり、これを、矛盾律・排中律・二律背反の同一性の論理で排除したのが西洋文明である。同一性の論理が成立するには、同一性中心主義ないし同一性的二項対立論理が必要である。この点を考えよう。
 同一性を優性、不連続的差異を劣性と見る力学はどうして成立するだろうか。メディア界においては、そのような力学はない。それは、これまでの考え方では、メディア/現象境界に成立する力学である。連続的差異・同一性を中心とする傾向とは何なのであろうか。
 やはり、これもこれまでの考え方に拠れば、1/4回転による共振エネルギーの志向性である。それは、同一性の志向性である。即ち、1/4回転で、不連続的差異共振シナジー様相をもつメディア界が形成されるが、しかし、この1/4回転、即ち、イデア界の原力(KAISETSU氏の発見では、方向性・ベクトルである)は、不連続的差異→差異共振性→同一性という志向性をもつのである。この同一性の志向性が、不連続的差異を否定し排除・排斥・排出・隠蔽すると言えるだろう。(ここで、幾何学を考えると、同一性軸があるはずである。Z軸をそうするのか。第四の軸をそうするのか。思うに、Z軸は差異共振プロパーの軸である。思うに、YZ平面がメディア平面(参考:ドゥルーズ&ガタリの内在平面)で、これが、さらに、同一性化して、三次元空間が発現するのではないだろうか。メディア平面の立体化が、現象三次元空間ではないのか。つまり、Y軸ーZ軸ー第四軸の三次元空間である。この点については、後で検討したい。)
 このように考えると、メディア/現象境界が、同一性力学の境界であり、ここで、同一性が支配し、差異が否定・排除され、現象界が発現すると言えるだろう。では、同一性と言語はどう関係するのだろうか。思うに、同一性のシンボル化が言語ではないだろうか。ラカンが象徴界と呼んだものは、正しくは、同一性現象界と言うべきであろう。これで、問題が解決したと言えるだろう。
 では、1/4回転が不連続的差異(原イデア)→同一性の志向性をもつならば、これとは、逆の志向性が考えられるのではないだろうか。+1/4回転があるなら、-1/4回転が考えられるだろう。あるいは、二回目の1/4回転である。即ち、2/4回転である。これは、差異共振が解消されることになるのである。これは、同一性→差異共振性→不連続的差異の志向性(負の志向性)をもつのではないだろうか。ならば、2/4回転によって、不連続的差異が新たに発現して、同一性主義が破壊されると言えるだろう。思うに、不連続的差異論とは、この負の志向性を理論化したものではないだろうか。負の志向性が、同一性中心主義(「ロゴス中心主義」)を、破壊すると言えよう。何故なら、同一性中心主義の力学である正の志向性が、もはや、消滅して、不連続的差異・絶対的差異への志向性が生成したのであるから。現代は、思うに、負の志向性の時代なのであろう。そして、ポストモダン/ポスト構造主義とは、この動きの不明晰な潮流であったのではないだろうか。そして、不連続的差異論が、この潮流を明晰に把捉し、理論化したということではないだろうか。【思うに、ヌース理論もポストモダン/ポスト構造主義の流行の一種であると言えよう。それは、ベルクソン/ハイデガー/ドゥルーズ(の半面)(/田邊ー中沢)の連続・同一性の、ファシズム・全体主義の哲学の系譜である。】
 では、先に提起したプロトモダンとは何か。それは、基本的には、負の志向性のエポックということではないのか。イタリア・ルネサンスが、これの体現であるが、正の志向性が主導的である西欧において、負の志向性が反動化して、プロテスタンティズム/西欧近代主義を生んだと言えるのではないだろうか。ポスト西欧近代主義であり、プロトモダンの貫徹が必要なのである。それは、南欧近代主義の進展ということになるだろう。
 とまれ、負の志向性によって、不連続的差異の共振シナジー領域(メディア界)が、純正化したと言えるのだろう。正の志向性においては、メディア界は、同一性を帯びたのである。しかし、負の志向性においては、脱同一性によって、共振シナジーが純粋化したと言えるだろう。ただし、危険は、ニーチェのように、絶対的不連続的差異へと意志して、差異共振性である共生・共立性を破壊してしまうことである。この点、フッサールの方がバランス性をもっていたと言えるのである。ニーチェは、とまれ、同一性中心主義の絶対的破壊という歴史的意義をもっているのであり、今日では、ポスト・ニーチェとして、フッサールやD.H.ロレンスの哲学・思想が評価されなくてはならないだろう。それは、NEW PLATONIC SYNERGY THEORY に内包されるのである。

2006年07月12日 (23:45)

コスモスと特異性と不連続的差異:そして、自我と差異について

不連続的差異論誕生に際して、差異=コスモス性の不連続化によって、私は、至高に歓喜した。この点は、先にも述べたが、まだ、この差異=コスモスの不連続化の意味について、十分述べていないと感じられるので、ここで、再考する。
 その後の問題は、先に述べたように、特異性である差異=コスモス性と、イデア界の不連続的差異の共立性との一致の説明をどうするのかであった。ここで、また、当時(二年弱前)の考えを辿って考察しよう。私が感じていて、差異=コスモスとは、それで、全体的なものである。そして、それ自身が、不連続的差異であると感じたのである。問題は、不連続的差異であるコスモス・全体としての私と、イデア界総体における一つの不連続的差異である私との、矛盾である。私は、全体である。そして、私は、全体の一部である。これを、不連続的差異の共立であるイデア界を考えて、これらを一致させようとした。差異が共立しているイデア界は、コスモスを形成しているだろう。そして、その中の一つの不連続的差異である「わたし」は、コスモスを感じるだろう。多即一、一即多である。「わたし」は「一」である、と同時に、「わたし」は、「多」の一つである。しかしながら、「わたし」のコスモスを特異性と感じていた。特異性とコスモス一体性とが結びついていた。簡単に言えば、「わたし」が全体である。このコスモス一体感覚は、イデア界の総体性とは異なるだろう。というのが、先の、そして、今の結論である。やはり、私の解釈はおかしかったのである。
 ここで、今の考えを書こう。「わたし」の特異性とは、不連続的差異性とは、一つの不連続的差異性である。この一つの不連続的差異が、コスモスを形成しているのである。そして、コスモスとは、差異共振シナジー・コスモスということである。つまり、「わたし」の特異性=コスモスとは、「わたし」である一つの不連続的差異=特異性と、それが共振している差異共振シナジー・コスモスとを、同時に、指しているということである。つまり、メディア界の差異共振シナジーを、指しているのである。図式化すれば、たとえば、

dd1(「わたし」=特異性)☯dd2☯dd3☯・・・☯ddn

(ddとはdiscrete又はdiscontinuous difference不連続的差異の略号である。また、☯は、共振シナジーを意味する記号である。)

となり、dd1からddn総体=コスモスである。こう考えると、不連続的差異論誕生以降に感じた主観を明快に表現するだろうし、不連続化以前において、これが、現象界的連続・同一性と結びついていたと言えよう。即ち、大澤真幸氏の言う「アイロニカルな没入」と同質の様態にあったと言えよう。言い換えると、差異が、連続・同一性かしていたために、反動化=ファシズム・全体主義化していたのである。付け加えると、ヌース理論が、この連続・同一性・反動性に陥っていると思う。
 差異の不連続化とは、メディア/現象境界における連続・同一性を切断したということである。これによって、メディア界が独立したのである。差異共振シナジー界が発現したのである。
 では、差異の不連続化とは何か。それは、特異性である差異(一つの差異=単独志向性)を、連続・同一性の現象界から切断することである。即ち、メディア界→現象界の連続性を断ち切ることである。道元の身心脱落である。エポケーによる現象学的還元である。間主観性・生活世界の発現である。内在倫理・道徳の出現である。この問題をもっと精緻に考えよう。
 差異(単独志向性)が、不連続化する以前は、差異は、連続・同一性である現象界と「連続」していた。これは、メディア/現象境界のもつ両義性によるだろう。一方では、メディア界(差異共振シナジー・コスモス)を指しつつ、他方では、現象界の連続・同一性の自我を指しているのである。(思うに、アナキストのシュティルナーの唯一者とは、このことを意味しているのでないだろうか。)この境界において、連続・同一性が主導的だと、弁証法構造となり、いわば、構造主義となる。しかし、差異が主導的だと、「ポストモダン」又は「ポスト構造主義」となる。しかし、この差異は、連続・同一性から離脱していないために、「アイロニカルな没入」を引き起こすのである。ドゥルーズ&ガタリ哲学では、差異=微分の理論であり、再領土の思想である。また、デリダでは、脱構築自身が、解体してしまうというアイロニーである。結局、弁証法構造・構造主義と「ポストモダン」・「ポスト構造主義」は、メディア/現象境界事象の両面に過ぎなかったのである。
 さて、この境界の連続性の問題であるが、その連続性とは、何なのか。自然発生なのであるか。思うに、連続性と同一性とを分離させる必要があるのではないだろうか。現象連続性と現象同一性との区別である。これらは、質的に異なると思うのである。私は、先に、差異現象と同一性現象の区別のようなものを言った。そして、前者にルネサンスを、後者にプロテスタンティズムを当てはめた。(ついでに言えば、差異言語と同一性言語があるのである。「初めにロゴスありき」の「ロゴス」とは、差異言語ないし差異論理のことであろう。それを「言葉」としたとき、差異言語と同一性言語が混同したと言えよう。)
 ルネサンスにおいては、差異は連続的に現象化した。しかるに、宗教改革においては、差異は、同一性的に現象化したのだろう。境界の連続性の問題とは、的確に言えば、同一性化の問題であろう。即ち、境界の同一性化、境界の構造主義化である。カントで言えば、超越論的形式化である。これは、近代合理主義、近代科学・技術主義の形式である。
 ここでも、直観で述べよう。同一性形式とは、ある種の知性形式である。二項対立の形式である。コーヒーカップがあるとする。これは、グラスと対立し、相互排除する。これが、二項対立・同一性である。A=Aであり、A≠Bである。排中律でもある。単に連続性だけならば、AとBとは、対立しないだろう。A= A、B=Bである。ある意味で、AとBとは無関係である。
 では、同一性はどうやって成立するのだろうか。ここには、弁証法があるだろう。否定・排除・反動・暴力があるだろう。この点は、以前述べた、

差異1⇔同一性⇔差異2

の図式を考えればいいだろう。同一性が、差異1や差異2を否定・排除するのである。ここでは、同一性をコーヒーカップとし、差異をグラスや湯呑み茶わん等にすれば、いいのである。連続性ならば、差異と同一性が並存・共存するだろう(ルネサンス)。しかし、同一性主義だと、同一性が差異を否定し、排除するのである。この違いについて、先に、スピノザ哲学(『エチカ』)をあげて、説明した。歓喜と悲哀との相違で説明した。これは、能動的観念と反動的観念をそれぞれ生むだろう。前者が、差異と同一性との共存させるのであり、後者が、同一性が差異を否定し排除すると考えられるのである。歓喜を共感性、悲哀を反感性としてもいいだろう。あるいは、共振性と凝固性とでも言えよう。あるいは、曲線性と直線性と。思うに、シナジー創造エネルギーと反シナジー破壊エネルギーとでも区別できるだろう。
 思うに、差異の質的様相を区別する必要がある。差異の共振シナジー相は、差異の極性作用相であるのに対して、差異の否定的相は、差異の脱極性化作用であろう。
図式化すると、
 
--差異1++差異2--差異3++差異4--・・・

という極性による排斥化の様相ではないだろうか。だから、脱極性化という呼び方は正しくないだろう。つまり、極性共振(牽引)様相と極性排斥(反発)様相の二つの極性様相があり、前者が共存性を生み、後者が同一性中心主義を生むだろう。ということで、差異極性排斥化が、同一性主義を生むということになった。そして、差異極性排斥性とは、一般的に、男性・父権・北方的であり、差異極性共振性とは、女性・母権・南方的と言えるだろう。プロテスタンティズムとルネサンスの相違に通じるのである。
 以上から見ると、差異の不連続化とは、同一性主義・二項対立を解体したことになろう。それは、言い換えると、連続性と同一性とを不連続化したと言えるだろう。
 では、これは、経済的には何を意味するのだろうか。また、社会や政治的に。思うに、同一性主義経済とは、金融資本主義である。拝金主義である。マモン主義である。不連続主義経済は、差異と同一性を併存させる。つまり、特異性(個人、自然、地域社会)と同一性(貨幣・資本)とを共存させる。思うに、これは、「有機体」的資本主義、差異共振シナジー資本主義と言えるのではないだろうか。今日・現代、個人は、差異ではなくて、同一性主義化・アトム化・モナド化しているのである。

2006年06月11日 (12:36)

スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志

スピノザの心身平行論と三重の「自我」・知性覚:単独・特異性の前自我の力の意志
テーマ:身体と精神
不連続的差異論では、メディア界は、心身一体の領域となるが、不可視の領域である。これは、スピノザの神即自然の領域であろう。しかし、スピノザは、心身論を説かなかった。心と身体の二元論をあくまで保ったのである。スピノザは、思惟と延長を属性とした。これをどう捉えるべきか。即ち、実体(神即自然)の属性とすることで、デカルト哲学から、離れたと言えるだろう。思うに、思惟と延長、ないし、心と身体は、不連続的差異論的には、どこに位置するのだろうか。
 思惟・知性・心はどこに位置させるべきか。確かに、メディア界に置くというのは考えやすい。しかし、問題は、メディア/現象境界である。ここでは、差異と同一性の弁証法が生起しているのである。即ち、思惟と言った場合、差異の思惟と同一性の思惟があるのである。近代自我は、同一性の思惟をもつし、また、同一性の身体をもつだろう。しかし、差異の思惟と差異の身体があるだろう。ここには、二重の思惟と身体があることになる。スピノザの思惟と延長、心と身体とは、メディア/現象境界における差異と同一性の弁証法を、差異を肯定することで、解消し、メディア界の対極性の回路を開く契機となっていると言えよう。だから、スピノザの思惟と延長、心と身体は、メディア/現象境界にあり、それが、差異の能動観念的肯定からメディア界へと浸透していくと言えるだろう。
 ということで、スピノザの心身平行論における思惟と延長、心と身体の属性を不連続的差異論的に位置且つ意味づけることができた。

 以上のようにスピノザの心身平行論を不連続的差異論的に布置できたが、では、スピノザ哲学の自我は、どういう意味をもつのだろうか。私は、これまで、デカルト哲学からの進展としてのスピノザ哲学を説いてきたが、デカルトのコギトをスピノザは、継承しているのだろうか。私はこれまで、そう考えてきたのであるが、以上のような布置からすると、再検討が必要である。
 スピノザ哲学の実体に相当するメディア界的思惟・身体(心身)は、単独的自我と同一性自我との中間であろう。おそらく、少なくとも、三つの自我がある。即ち、

1)単独自我
2)心身自我
3)同一性自我

である。そして、自我をフッサール哲学からノエシス/ノエマとしよう(簡単に、ノエシスマないしノエシマとしよう)。ノエシマとは、知と感覚との統一体であろう、本当は。というか。知覚そのものと言うべきかもしれない。ヌース理論で言えば、NOOS即NOSである。志向性は、感覚知覚、知覚、知性感覚である。物質的に言えば、神経である。神経の正体は、ノエシマである。ヌース理論的に言えば、造語して、 NOOSAであろう。不連続的差異論的には、差異のベクトル(方向性)である。また、造語して、知性覚としよう。知性覚が、神経の正体である。そして、これは、不連続的差異であり、また、共振差異である。そして、同一性において、身体と知性に分離する。
 とまれ、上図式は、

1)単独知性覚
2)心身知性覚
3)同一性知性覚

となるだろう。少なくとも、この三重の知性覚が存していることを確認しよう。これは、当然、イデア界知性覚、メディア界知性覚、現象界知性覚である。
 ここで、デカルト哲学に何度も言及することになるが、コギトは、1と3とが重なり合っているものであり、単純に近代自我と見ることはできない。しかし、考えると、もともと、根源には、単独知性覚があり、その展開としての同一性知性覚が生じるのである。図式化すると、

3)表層:同一性知性覚
____________

2)中間層:心身知性覚
____________

1)基層:単独知性覚


となり、基層の展開としての中間層、表層であると言えよう。とまれ、近代自我の潜在意識として、基層があることは確かである。これを、ニーチェやフッサールは明確に、探求し突き止めたと考えられるのである。スピノザはそこまで達していないと思う。ドゥルーズは、中間層と基層を混同していたと考えられる。(キルケゴールは、先駆的に達していたと考えられる。シュティルナーの唯一者は、デカルトのコギトの展開のように思える。)
 近代自我とは、中間層を排除し、かつ、また、基層も隠蔽している。つまり、近代自我/近代合理主義は、中間層と基層を排除し隠蔽しているのである。近代自我の暴力性は、この排除・隠蔽という反動性にあるだろう。思うに、近代自我暴力は、基層の単独性・特異性の力に対応しているものだろう。つまり、ニーチェ的に言えば、力の意志に対応して、近代自我暴力が反動として発生していると言えるだろう。
 問題は、単独性・特異性の力は、自我においてどういう意味をもつのかである。これは、自我の根源である。原自我である。前自我である。これは、不連続であるから、メディア界的共振的連結性を断ち切る、切断、断裁すると言えよう。つまり、破壊/創造の力と言えるだろう。あるいは、独創の力、天才の力である。これは、メディア界→現象界的連続・同一性の現象を断ち切り、新しい《メディア》を創造するのではないだろうか。古い《メディア》を破壊して、新たな独創的《メディア》を新構築すると考えられるのである。その基盤は、単独・特異性の力、力の意志(イデア界の力・虚力)である。
 結局、不連続的差異論によって、この《潜在イデア》の力が明確化して、連続性を断ち切り、メディア界を純粋化したと言えるのである。それまで、メディア界は現象界と連続していたのである。つまり、両者未分化状態にあったのである。これが、明晰に分化したのである。だから、現象界からメディア界への進展がここで、明確になったと言えよう。近代の崩壊・解体・瓦解である。即ち、西洋文明の終焉である。新たな東洋文明(ユーラシア文明)の起動である。

2006年05月24日 (22:11)

イマジネーション知性へ向けて:イマジネーションと知性の結婚:同一性を包摂する不連続的差異・真実在

啓蒙主義/ロマン主義(・象徴主義)の問題、即ち、理性と感性の対立の問題であるが、これは、英米文学モダニズムにおいては、古典主義的回帰で、反動化して、問題から逸れてしまったと思う。
 この啓蒙主義/ロマン主義問題は、知性とイマジネーションとの結婚ということで解決できると思うのである。これを、不連続的差異論が可能にすると考えられる。なぜなら、近代ないしポスト近代の《精神》とは、差異と同一性の分裂、即ち、差異の心身性(感性、イマジネーション、ヴィジョン等)と同一性の言語知性との分裂があり、これを、不連続的差異であるイデア界を仮説することで、統一できると考えられるからである。つまり、不連続的差異の仮説によって、差異を現象界の同一性(同一性自我)から切断して、差異を差異として、同一性から独立させることができるのであり、このとき、不連続的差異に対応した不連続的差異的知性が生起するのである。言い換えると、それまでは、差異は、知性というよりは、心身性、感性、「身体」であった。即ち、「非合理」なもの(ロマン主義・神秘主義・象徴主義)であったのである。そして、その「非合理」な差異と同一性の近代科学(唯物論的科学知性)の知性とが分裂・矛盾していたのである(これは、おなじみの図式であるが)。また、フランス・ポスト・モダンにおいては、差異の理論化への明確な知的営為があった。(これは、フランス・ポスト・モダンの偉大な功績である。)しかし、それは、絶対的差異である不連続的差異と連続的差異とを理論的に峻別しなかったので、ブレークスルーまでには達しなかったと考えられるのである。即ち、差異が、同一性から完全に脱却できなかったのである。これは、ドゥルーズの差異哲学にはっきりと確認できることである。差異=微分の積分として、現象界(連続・同一性)を把捉したことに見られるのである。
 といういうことで、フランス・ポスト・モダンは、近代主義の矛盾から差異の理論への不十分な出発であったのである。
 結局、不連続的差異論によって、不連続的差異の知性が形成されたのであり、これにより、感性・心身(差異)と言語知性が統一されたと考えられるのである。即ち、イマジネーションと知性が結合・「結婚」したと考えられるのである。
 さて、問題は、この統一において、同一性はどうなったのかということである。先に三つの理性ということを言ったが、差異と知性の統一とは、現象界的同一性を包摂していると言えるだろう。確かに、知覚できる物は物であり、同一性である。もっとも、三重の知覚がここにはあるだろう。不連続的差異としての対象、対極的な対象、そして、現象界的な対象への知覚である。ということで、同一性は、差異に包摂されたのである。超越論的高次元の差異に、現象界の同一性は包摂されたのである。ここで、ウィリアム・ブレイクの箴言を想起する。即ち、身体は、魂の一部であり、五感によって知覚されているものであるという内容のものである。即ち、身体を現象界の同一性とすれば、それは、超越論的高次元的差異の一部分であるということになるだろう。私たちが見ている、知覚しているこの世界・現象界は、超越論的高次元的差異の世界の一部に過ぎないということである。この光の世界は、真実在のほんの一部に過ぎないということである。真実在の先端の光の相(phenomena)を見ているに過ぎないのである。真実在の高次元多重多層界を喪失している「無明」にあるのである。

2006年05月17日 (07:19)

ゾロアスター教と一神教:光と闇とは何か:二つの一神教、二つの理性

ゾロアスター教と一神教:光と闇とは何か:二つの一神教、二つの理性


キリスト教は、ヨハネの黙示録において、ゾロアスター教の影響を受けていると考えられている。後者は、光・《善》であるアフラ・マズダと闇・《悪》であるアンリ・マンユとの闘争史を予言的に説くのである。そして、これが、前者の最後の審判のヴィジョンの基盤となっているということである。
 先に、『光の彼方へ:・・・』(以下、『光の彼方へ』)http://ameblo.jp/renshi/entry-10012425552.html
の論考において、同一性の光と差異の闇というレベルの違いを明確に提示した。西洋文明は、前者をいわば「理性」にしてきたのであり、後者を「非合理」として、否定・排除してきたのである。いわゆるロゴス中心主義である「理性」の問題は少し複雑であるが、同一性の光を、とりわけ、近代的合理主義(近代科学・近代的自我)では、「理性」としたと言えよう。後で、「理性」の問題を詳しく考察する予定であるので、ここでは、同一性の光が「理性」とされたとして、論考を進めよう。
 不連続的差異論から見ると、キリスト教のヤハウェは、同一性の光の神である。あるいは、メディア/現象境界の弁証法構造の神である。これは、プラトンのデミウルゴス(創造神)にほぼ相当すると考えられるのである。そして、グノーシス主義は、これを邪悪な創造神と考えたのである。
 とまれ、ゾロアスター教に戻ると、ここでの光と闇が、そのまま、キリスト教や西洋文明の同一性の光と差異の闇となったと見ていいのだろうか。私は、以前から、そうではないと直感してきたし、そのように論じてきた。即ち、ゾロアスター教の光・善は、差異の闇であり、その闇・悪は同一性の光だと思われるのである。私の直観はそのように告げるのである。何故だろう。それは、その光・善が火・火焔だからではないだろうか。つまり、根源的エネルギーを感じさせるからである。拝火教とも呼ばれたのであり、火を聖なるものと見たのである。火と光では、ニュアンスが異なるのである。火は古いものを焼尽するものであり、新たなものを産む契機となる。不死鳥・フェニックスの神話に通じるだろう。しかし、光は、白光は、それとは異なり、視覚的な輪郭・線の形成を感じさせるのである。極言すれば、両者、まったく別個のものである。
 ということから、ゾロアスター教の善・光・火とは、不連続的差異論のメディア界のエネルギーであり、悪・闇とは、同一性の光だと思うのである。即ち、ゾロアスター教とキリスト教(ユダヤ教も含めて)は、価値観が逆転しているということである。ならば、ゾロアスター教の一神教性はどう説明するのかということになるが、それは、思うに、メディア界⇒メディア/現象境界の⇒の領域において、ゾロアスター教が発生して、差異が同一性の様相を得たために、一神教となったと考えられるのである。それに対して、ユダヤ・キリスト教は、メディア/現象界⇒現象界の⇒が一神教となったと思われるのである。(また、これまで述べたことから考えると、イスラーム教の一神教もゾロアスター教と同類ではないかと思われるのである。しかし、前者は、メディア/現象界⇒メディア界の⇒ではないだろうか。だから、タウヒード【一性の思想】は、個体性・差異の原理を含むと考えられよう。また、今村仁司氏は、イスラーム教とスピノザ哲学の類似性を指摘していたが、スピノザ哲学は、メディア界の哲学と考えられるので、それは、考えられることである。不連続的差異論を導入すれば、イスラーム教は、不連続的イスラーム教となり、真にイデア界のイスラーム教となるだろう。)

 さて、ここで、「理性」の問題を考えよう。西洋は、同一性の光を「理性」としてきたと上述したが、正確に言えば、二つの理性があるのである。そして、近代において、これが混同されて、同一性の光だけが、理性とされたのである。啓蒙主義/ロマン主義の問題でもあるのだが。中世において、いわゆる、信仰と理性の調和が問題とされた。トマス・アクゥイナスが、代表である。そして、ギリシアの教父たちは、イエス・キリストをロゴスの受肉と考えたのである。そう、当然ながら、ヨハネの福音書は、「初めにロゴスありき」と冒頭にあるのである。このロゴスが問題なのである。このロゴスが、理性と同一視されたわけである。つまり、西洋において、伝統的には、形而上学的な理性(ロゴス)と地上的な理性(同一性の光)とがあったのであるが、これが、近代革命によって、自我の理性に収斂したのである。つまり、形而上学的理性は、同一性の理性に吸収されたのである。ロゴスは、言葉となったのである。言葉こそ、同一性の媒体(メディア)である。即ち、欽定聖書やルター訳聖書では、ヨハネの福音書は、「初めに、言葉ありき」と訳されたのであり、ロゴスが言葉に還元されたのである。近代主義が、理性を同一性の光に限定したと言えるのである。しかし、先に論述したように、デカルトのコギト主義は、それとは異なるのである。コギトの理性は、ロゴスと同一性言語が重なっているのである。それは、イデアと同一性理性が重なっているとほぼ言えるだろう。
 カントは、メディア/現象境界の弁証法構造から、純粋理性批判を行い、ロゴス/イデアと同一性を混同したという大錯誤を犯した。それに対して、ニーチェは、同一性を、自身の単独的存在性から、すべて破壊したのである。そして、フッサール現象学は、カントによって奪われたロゴス/イデアの探究を行い、志向性・ノエシス/ノエマの大発見を行ったのである。そして、相対性理論は、同一性の光を基礎として、時空の相対性を発見した。それは、同一性の観点からのメディア界の取り込みであると考えられる。さらに量子力学は、メディア界の事象を対象として、相補性という概念を発見したのである。しかし、現象界の同一性の概念をまだへその緒のようにもっているのが限界であると考えられる。
 そして、フランス・ポスト・モダン運動が起こる。これは、同一性の理性に対する批判、即ち、メディア界による同一性の理性への批判であると言えるだろう。これは、文化史的に見ると、ロマン主義や象徴主義を哲学的に展開したもののように思えて、理論的には、独創性は乏しいと思われるのである。それは、ニーチェ/フッサールの真の独創性とメディア界の論理を整合化することができなかったのであり、それが、欠陥であった。そして、不連続的差異論がこれを実現したと考えられるのである。それは、三つの理性を提示したことになるだろう。イデア界の理性/メディア界の理性/現象界の理性である。簡単に、イデア理性/メディア理性/現象理性と呼べよう。あるいは、イデア知性/メディア知性/現象知性としてもいい。特異性/対極性/同一性と見ることもできるだろう。あるいは、不連続性/不連続・連続性/同一性と見ることができよう。
 世界は、グローバリゼーションにおいて、現象理性資本主義であったが、今や、多極化において、イデア理性のエポックになったと言えるだろう。ポスト・モダンはメディア理性であったが、それは、現象理性と完全には、切断されてはいなかった。そのため、大澤真幸氏のアイロニカルな没入が発生したと言えるだろう。市場はメディア界と考えられるから、新自由主義は、メディア/現象境界に属すだろう。そう、多極化とは、差異の共立であり、メディア界的である。しかし、このためには、イデア理性に達する必要があるのである。それは、現象学的還元である。判断のエポケー(停止)である。不連続的差異=イデアへと根源回帰する必要があるのである。これによって、現象理性との癒着から切断されるのである。多様な、多元的な不連続的差異を思考し、共立させる発想が現代・未来的なのである。

2006年05月13日 (21:18)

光の彼方へ:同一性の光と差異の闇:光の西洋文明の終焉と新コスモスの地平

光の彼方へ:同一性の光と差異の闇:光の西洋文明の終焉と新コスモスの地平


「 同様にクアトロチェントを代表するレオナルド・ダ・ヴィンチはチェンニーノの影響を受けて著書『絵画論』を著しました。その著書でレオナルドは“物体と物体を区切る線は想像上のもので実在しない”という謎めいた言葉を残しています。レオナルドが言いたかったのは“私たちが現実空間の中で物体の形を認識できるのは、個々の物体の間に色彩や明るさの違いがあるからで、現実を冷静に観察すれば明瞭な輪郭線などは存在していない”ということです。しかし、こう理解したとしても、一方では“そこに線があるように見える”ということも事実です。なぜ、このような矛盾した現実認識が存在し得るのでしょうか?実は、私たちの視覚的な認知メカニズムの中では、周辺の環境情報を簡略化することによって認知速度を速めるという驚くべき機能が作用しているのです。
 私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。無論、私たちが少しでも目の位置をズラせば、これらグループ間の関係は瞬時に変わってしまいます。従って、どのようにリアルに描かれたとしても、絵画上のリアリティは様々な人々が動きながら個々に認識している現実とは異なることになるのです。このような考え方は、近年、再評価されつつある20世紀前半のアメリカの認知心理学者ジェームズ・ギブソンのアフォーダンス理論に近いものがあります。」
『2006-05-10 イタリアにおける「大ラファエロ展」、その現代的意味を考える』
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060510/p1
toxandriaの日記



「私たちは、無意識のうちに、光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすることで各グループの間に恰も明瞭な<線>が存在するかのように見なし、脳内処理としての認知速度を上げているのです。」とtoxandria氏は述べている。この「線」とは、何だろうか。つまり、不連続的差異論から、理論的に分析したら、何であろうかということである。
 ここで、メディア界を考えてみると、それは、差異と差異とが、共振して連結して、量子・素粒子が形成されている場である。その共振は、不連続な、多重・多層の共振である。この多重共振事象が、現象の、いわば、内在的裏面である。そして、これに対して、同一性の知覚(自我)が、「線」や「輪郭」を与えているのではないだろうか。「光の強さや光の波長の違いなどを一くくりにグルーピングすること」ということであるが、「一くくりにグルーピングすること」が、同一性の知覚に当たるだろう。同一性が「線」や「輪郭」であろう。
 では、メディア界的極性的多重多層の差異(=量子)を、個別の同一性=「線」・「輪郭」にする「力」は何であろうか。メディア界の共振する差異の多層多相(模様)性を、ある「線」、ある「輪郭」に変換する「力」とは何か。これは、また、実に、量子力学の問題である。非局所性の問題である。
 ここで、私は、ウィリアム・ブレイクの箴言を想起するのである。即ち、理性とはエネルギーの周囲(円周)circumferenceであるという箴言である。エネルギーは、メディア界の共振差異と見ることができる。エネルギーの周囲(円周)とは、エネルギーの末端と考えることができるから、これを、境界無である現象界ないし現象界の「線」・「輪郭」と考えることができるのではないだろうか。そうならば、同一性である「線」・「輪郭」とは、メディア界の共振差異=エネルギーの振動的形態ではないだろうか。それは、光の形態ということではないだろうか。ここでは、作業仮説とするが、同一性とは光のことではないだろうか。メディア界に多重・多層な共振差異=量子・素粒子があるが、これが、同一性化されるとき、光を発生させる現象体となるのではないか。これが、E=mc^2のことではないのか。同一性とは光なのではないか。光が、いわば、闇である差異、共振差異を有形化(線化・輪郭化)するのではないのか。また、アインシュタインの光速度一定も、同一性ということだろう。
 もし、そうならば、光速度一定とは、現象界にのみ当てはまることであり、メディア界には当てはまらないだろう。そこは、時間・空間不可分・未分化一体の超時空間であるからだ。速度という概念が当てはまらなくなる。強いて言えば、無限速度である。超光速である。現象界を光の世界、メディア界を闇の世界とすれば、光の世界とは、闇の世界の同一性化である「周囲」・「円周」であるが、問題はエネルギーである。メディア界の共振差異は、確かに、エネルギーであるが、それは、E=mc^2でのみ考えられるべきものなのだろうか。これは、いわば、同一性・現象化されたエネルギーではないのか。同一性=光化されたエネルギーではないのか。その背後・裏面には、暗いエネルギーがあるのではないのか。つまり、メディア界の原エネルギーである。こういうことではないだろうか。メディア界の量子・素粒子の原エネルギーがあるが、それが同一性=光化されて現象界の「物質」を形成する。即ち、同一性=光化された現象を、人間は知覚認識して、自然科学を構築しているのであるが、しかし、それは、原エネルギーをもつメディア界の同一性=光化の面に過ぎないと考えられよう。つまり、原エネルギーの光面=一面しか観察・観測していないと考えられるのである。謂わば、光エネルギーだけであり、闇のエネルギーを看過しているのである。これが、ダークエネルギーの問題ではないだろうか。また、標準理論が破綻したことに関係するのではないだろうか。現代物理学、量子力学は、量子・素粒子の世界であるメディア界を、同一性=光化の現象界の視点から把捉しようとしているのであるから、壁にぶつかっているのではないだろうか。不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界即ち、弁証法構造から、メディア界を見ていると考えられるのである。即ち、カント的なのである。
 そうならば、E=mc^2は、書き直されなくてはならないのではないだろうか。それは、現象界の公式であるから。今は、疑問の提起に留めることにして、本稿では、メディア・エネルギー(原エネルギー)の「周囲」(「円周」)として、現象界の「線」・「輪郭」を考えたこととしよう。また、D.H.ロレンスの言を想起すれば、黒い太陽とは、メディア界であり、また、太陽はわれわれに背中を向けているという言の太陽も、黒い太陽であり、メディア界の原エネルギーであると言えるだろう。また、『死んだ男』の闇の宇宙の薔薇も、メディア界を指しているということになる。そして、当然、ロレンスの言うコスモスもメディア界である。また、ここで、プラトンに言及すれば、洞窟の外の太陽(善のイデア)も、メディア界であり、また、コーラもメディア界であろう。デミウルゴス(創造神)とは、弁証法構造であろう。光の文明である西洋文明の限界が今や露呈されたと言えよう。新しい闇の「文明」が始まるのだろう。それは、新コスモス文明である。そう、文化である。新コスモス文化である。
 とまれ、量子力学を考えると、どうなるのだろうか。それは、相対性理論的量子力学から脱して、メディア界的量子力学となるだろう。ポスト・モダン量子力学となるだろう。つまり、不連続的差異論的量子力学、不連続的《差異イデア》論的量子力学である。そう、真の宇宙は、共振差異螺旋的玄宇宙=玄牝だろう。この宇宙・母宇宙が、神話では、イシス/オシリス神話等として、表現されたのだろう。イシスは、メディア界であり、オシリスは太陽である。そして、このオシリス=太陽が独立したのが、父権制の太陽である。つまり、英雄である男性の太陽神である。父権神話の太陽である。『ギルガメシュ叙事詩』のシャマシュであり、その他である。そして、キリストは、この面をもっているのである。そう、イエス・キリストの二面性があるのである。一つは、オシリスであり、一つは、父権制の太陽神である。
 さて、不連続的差異論が創造発見されるまで、認識は、メディア界(心身不可分性)と現象界(心身二元性)に分裂していたと言える。しかし、不連続的差異の存するイデア界を明確に提起したことにより、現象界からメディア界へと進展する地平が出現したと言えるのである。

2006年05月08日 (14:07)

差異と同一性の弁証法:なぜ、男性は同一性を志向し、女性は差異を保持するのか:ガウス平面的占星術

問題は、メディア/現象境界の弁証法構造において、どうして、父権主義・同一性主義と母権主義・差異主義の違いが発生したのか。
 以前は、劣弱な差異と高貴な差異とに分けて考えたが、より整合的な理論はないのか。確かに、同一性へと最初の1/4回転は進むが、二回目の1/4回転は、同一性を解消すると考えられるから、同一性から差異へと回帰するのである。しかし、父権主義・一神教は、そうならないのである。ウィリアム・ブレイク、ニーチェ、ロレンスが、確認した二種類の人間の問題でもある。精神的賎民か精神的貴族かの問題でもある。
 思うに、仮定であるが、男性の遺伝子は、+エネルギーに限定されて、-エネルギーが欠落するのではないだろうか。それに対して、女性の遺伝子は、±エネルギーを兼備するのではないか。一種、スイッチの問題である。男性の遺伝子のスイッチは、+エネルギーの展開までを意味して、-エネルギーへと展開しないのであり、それに対して、女性の遺伝子のスイッチは、+エネルギーの展開の後に、-エネルギーへと転化することを意味するのではないだろうか。つまり、男性遺伝子の場合は、-エネルギーに対するブラインド、盲目性があるのではないだろか。差異盲目である。ならば、男性の遺伝子は、精神病理的である。生命として、欠陥のある遺伝子である。つまり、ヒト・オスの問題としてである。ヒト・オスの遺伝子は、基本的に、差異に盲目なのではないか。同一性の展開でストップするのではないか。そう考えると、男性の攻撃性がよく説明できるだろう。
 思うに、±エネルギーの遺伝子があるのだ。換言すれば、陰陽遺伝子である。ヒト・メスは、これをもっているが、ヒト・オスは、+エネルギー・陽遺伝子・同一性遺伝子しかないのではないだろうか、一般に。しかし、遺伝子の対極性を仮定すれば、中間様相が考えられる。即ち、一般に、女性遺伝子は、対極的、つまり、メディア界的であるが、男性遺伝子は、同一性的、現象界的であるが、この区別は絶対的ではなくて、いわば、相対的ではないだろうか。つまり、こう考えたらどうだろうか。女性遺伝子にも、男性遺伝子も、本来、対極的であるが、傾向がことなり、いわば、偏差があるのではないかと。即ち、対極性において、 -極・差異極と+極・同一性極があるが、女性の場合は、前者への偏差があり、男性の場合は、後者への偏差があるということではないだろうか。そして、これは、個人差がある。極端の場合、片方が、ゼロに近いだろう。また、こう考えれば、性同一性障碍も説明できるだろう。つまり、精神・心性の対極性遺伝子の問題である。また、こう考えると、女性と男性との間の相互誤解も説明できるだろう。つまり、視点が根本に違うのである。
 結局、女性は差異に傾き、男性は同一性に傾くということである。こう考えると、高貴な差異と劣弱な差異の二元論が克服できるだろう。つまり、対極論である。そう、男性は、差異がありつつも、それを同一性傾向が否定してしまうし、女性は、同一性がありながらも、それを差異傾向が否定してしまうのだろう。
 このように考えると、父権制とは、男性遺伝子が中心になった社会と言えるだろう。これは、どういうことなのか。本来、女性遺伝子と男性遺伝子が均衡しているはずであるのに。男性遺伝子に傾く時代があったことになる。これは、+エネルギーが強化される時代があったということだろう。占星術からいうと、白羊宮(牡羊座)♈時代だろう。そして、その後の双魚宮(魚座)♓時代は、二項対立となる。そして、今や近づいたと考えられる宝瓶宮(水瓶座)♒時代は、統一・調和の時代である。対立が共振する時代である。これは、仮説では、イデア界の回転の問題である。奇数1/4回転は、+エネルギーであり、偶数1/4回転は、-エネルギーと考えられるのである。しかし、思うに、1/4回転を細分化して、1/12回転を考えていいのではないだろうか。1/12,2/12,3/12回転で、ゼロ度となる。後は同様である。
 ここで、空想すると、1/4回転が、牡羊座であり、2/4回転が、蟹座であり、3/4回転が、天秤座であり、4/4回転が、山羊座である。しかし、春分点は、逆行するのである。牡羊座から魚座へと移動した。それは、2/12回転である。そして、魚座から水瓶座は、1/12回転である。しかし、この図式は、整合性に乏しい。一つずらして、1/4回転が牡牛座、2/4回転が獅子座、3/4回転が蠍座、4/4回転が水瓶座としよう。そうすると、牡羊座から魚座への移動は、1/12回転であり、魚座から水瓶座への移動は、0/12=0回転である。これは、純粋イデア界回帰となるだろう。純粋差異共立の時代ということになるだろう。これは、メディア界の共振より純度が高く、絶対共立である。もし、メディア界がコスモスならば、イデア界は超コスモスである。グノーシス主義の至高天である。とまれ、母権制の波動だろう。それも根源的母権制、原太母性である。双魚宮(魚座)西洋文明期で、二元論的時代として、宝瓶宮(水瓶座)新文明期は、絶対的統一の時代となるだろう。つまり、原軸回帰、イデア軸回帰の時代だからである。原点回帰だからだ。リセットとも言えよう。リストアである。「革命」revolutionである。これは、超ジェンダーの時代である。男性でも、女性でもない、両性具有でもない、超ジェンダーの時代であろう。
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