--年--月--日 (--:--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2012年04月29日 (11:22)

同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会

視覚と感覚物質同一性世界

テーマ:manichaeism: 哲学

以前、視覚や視覚的美はどうして、自我(同一性自己)と結びつくのか、疑問を呈した。
 視覚的美については後で述べるが、私の疑問は一種愚問であった。何故なら、視覚と感覚物質同一性世界が密接に結びついているからである。視覚は物質世界と同一性の点で親和的なのである。
 では、視覚的美との結びつきはどう説明できるのか。
 やはり、これも、感覚物質同一性世界との結びつきでほぼ説明できよう。ただし、美的感覚は、media pointと結びついているのである。media pointは単に感覚だけではなく、感情と深く結びついている。つまり、凹iの側面である。
 しかしながら、凸iの同一性的側面が強いので、視覚的美も自我と結びつきやすいと考えられる。





同一性と模倣欲望:同一性暴力力学・父権的暴力と民主主義的資本主義社会

テーマ:manichaeism: 哲学

リマスターされ、ブルーレイになった映画の古典『太陽がいっぱい』を見た。
 これは実に理論的な作品である。自分のライバルを模倣し、且つ、ライバルを否定する(殺す)ストーリーである。
 ルネ・ジラールの模倣欲望という理論に適合する作品である。
 これをPS理論から解明したい。
 同一性主義は他者を否定するということで、わかりやすいが、この場合の他者模倣と他者否定をどう説明するのかである。
 PS理論から丁寧に見てみよう。凸i(同一性、自我)は、凹i(他者m差異)を知覚する。しかし、同一性・自我は他者・差異を自己自身に取込むことができない。そこで、前者の後者への対応の主要な一つは、後者を同一性化することである。つまり、後者を同一性的に否定することである。他者・差異の否定である。これは極端に言えば、破壊である。とまれ、これで、他者否定は説明できた。
 次に、他者模倣についてである。
 これは、劣等感コンプレックスと関係するだろう。つまり、同一性・自我Aより、他者Bがなんらかの点で強者、優れている者である場合を考えよう。
 このとき、AはBに対して、嫉妬を感じる。そして、悪化すれば、敵意、さらに殺意を感じる。また、逆に、Bに対する支配欲も生じよう。
 とまれ、もう少し条件が必要である。AとBはライバル的な横並びの関係がなくてはならないだろう。最初から、上下、高低の隔たりがある場合は、否定的になることは少ないだろう。言い換えると、AとBとの存在としての同一性が存することが必要である。
 結局、同一性同士の関係の中に、他者・差異が現われるときに、ライバルへの嫉妬等の否定的感情・欲望・意志が生まれてくると考えられる。(『太陽がいっぱい』で言えば、当然、トムとフィリップの関係であり、フィリップの強者性(他者・差異性)はマルジュという恋人やボート等を持っている点である。)
 ここで他者模倣であるが、出発点において、AとBとの同一性があるので、AとBは自分を相互に重ねると言えよう。つまり、A=Bである。
 しかしながら、Bには、Aにはない有利さがあるのである。それ故に、AはBを否定しようとするのである。つまり、ここで、同一性模倣(他者模倣)と他者・差異否定が同時生起するのである。
 つまり、ライバルを否定して、ライバルの他者・差異性を模倣する(横取る)という事態が生じるのである。
 これで解明できた。結局、同一性による否定にしろ、他者模倣にしろ、根本は同一性力学、同一性暴力力学のしからしめる事態である。これは父権的暴力と言い換えることもできる。
 政治・経済的に言えば、民主主義化された資本主義社会は、この同一性暴力力学・父権的暴力が支配的に発現する場であると考えられる。

追記:A=Bについてもう少し説明が必要である。同一性の一致とは、他者凹iの位置に凸iが来ることを意味する。
 この他者凹iの位置がポイントである。A=Bにおいて、BはAにおける他者凹iの位置を占めているのである。そうでないならば、同一性暴力力学は作動しない。
 では、凹iの位置にA=Bを置く同一性力学とは何かを考える必要がある。
 本来、他者・差異であるBを同一性化(同一化)する力学とは何か。それは端的に、Aのもつ同一性力学であろう。他者・差異凹iを否定して、他者・差異凹iを同一性化しているのである。
 つまり、他者・差異であるBをそもそも同一性化している暴力力学がそこにはあるのである。父権的同一性暴力力学と呼ぶことができよう。カント哲学的に言えば、悟性暴力である。
 結局、模倣欲望とは、端的に、同一性暴力力学が原理であると言えよう。他者・差異の否定とは、他者・差異の模倣なのである。
 簡潔に言えば、否定とは模倣であるということになる。これは、偉大な法則ではないだろうか。


参考:
太陽がいっぱい (映画) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/太陽がいっぱい_(映画) - キャッシュ 類似ページ
一般公開で +1 しました 取り消す
太陽がいっぱい』(たいようがいっぱい、仏:Plein soleil)は、1960年のフランスとイタリアの合作映画。主演:アラン・ドロン、監督:ルネ・クレマン。 パトリシア・ハイスミスの小説「才人リプレイ君」(原題。邦訳本の題名は『太陽がいっぱい』、『リプリー』)を原作と ...

ルネ・ジラール - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/ルネ・ジラール - キャッシュ 類似ページ
一般公開で +1 しました 取り消す
ルネ・ジラール(René Girard、1923年12月25日 - )はフランス出身の文芸批評家。アメリカ合衆国のスタンフォード大学やデューク大学で比較文学の教授を務めた。いわゆるミメーシス(模倣=擬態)の理論を考案し、欲望のミメーシスな性格の発見によって ...
 






PS理論の生命への応用へ向けて

テーマ:biology

今は余裕がないので、詳述できない。
 結局、生命とは何かを、PS理論的に明快にしたい。簡単に予備考察をすれば、凸i*凹iが生命魂である。これで、植物、動物、人間の生命を説明できよう。
 問題は物質的生命体の形成や意義である。
 物質は凹(-1)で説明できる。では物質的生命体ないしは生命有機体はどう説明できるのか。
 ここで作業仮説であるが、凸i*凹凹i⇒凹(-1)という物質方程式であるが、凸iによる凹iの否定が凹凹iであるが、この否定に対して、凹iからの反発があるはずである。それは端的に、差異共振志向、光形成志向である。
 この志向が物質を巻き込んで物質生命体、生命有機体を形成するのではないのか。
 その巻き込み力学は、media pointに存するのではないだろうか。そう、凸iと凹iが共振するとき、渦巻きや螺旋が形成されると推測できる。このmedia pointでの渦動、螺旋的力学が、物質凹(-1)を巻き込んで、螺旋形態の物質的生命体、生命有機体を形成するのではないだろうか。
 そうならば、生命本体の核とは差異共振性である。そして、それが物質的形態を持っているのであり、その物質的形態を維持するために、食、その他の生命体の活動があると思われる。
 結局、生命も光を志向しているのである。
 今は以上で留める。

スポンサーサイト

2012年04月10日 (23:24)

カントの純粋悟性論と同一性世界:純粋理性と凸i主導のmedia pointにおける凹iの浸透様態

カントの純粋悟性論は明らかに、同一性、量、物質の世界を超越論的に捉えているものである。凸iの同一性が支配している世界である。だから、凸i*凹凹i⇒凹(-1)である。これは先にも述べたので、これ以上説明しない。
 問題は、凹iを凸iの同一性支配から解放したときに事態である。これは当然、不連続的差異論の事態であり、また、PS理論の事態である。
 これまで差異共振して、凸i*凹i⇒凸(+1)になると述べた。凸(+1)は精神である。
 思うに、解放された自由になった凹i(「時間」)がもし差異共振しない場合はありえるのだろうか。もし可能ならば、それはどういう事態なのだろうか。
 思うに、あり得るならば、それは、第四象限、コスモス、イデア界を意味するのではないだろうか。
 この問題はここで留める。
 次に、カントの純粋理性の問題について簡単に予見を述べたい。
 純粋悟性は凸i支配を意味する。それに対して、純粋理性はその超越論的なものである。つまり、それは、第一象限を意味するかもしれない。
 あるいは、簡単に言えば、凸iと凹iとの「差異」がアンチノミー、背理になっていると考えられる。もっとも、カントにおいて主導的なものは凸iであり、凹iが形成する差異共振をカントは認めていないと考えられる。
 しかしながら、先に述べたように、media pointにおいて、凸iに対して、凹iに拠る差異共振が浸透しているのであり、その浸透において、カントは差異共振の曖昧な像を予感して、純粋理性の問題を捉えているようにも思える。
 そう見ることができるならば、カントにおいて、ポスト・モダン、正確に言えば、構造主義抜きの同一性と差異の問題をカントは先駆的に扱っていたことになる。
 ポスト・モダンが混乱したのは、超越論的なもの、認識問題を、同一性、量的視点が排除してしまったからだと思われる。
 とまれ、カントの純粋理性とは、凸i主導のmedia pointにおける凹iが浸透するときの認識であると思われる。
 そうすると、PS理論ははるかに、カント哲学を超えていると考えられる。
 そう、以前述べたように、フッサール現象学の超越論的主観性は、カント哲学を超えて、凹iの浸透自体を捉えたように思える。しかし、完全に純粋化したかは疑問の余地がある。

純粋理性批判〈3〉 (光文社古典新訳文庫)/イマヌエル カント
¥1,100
Amazon.co.jp

2010年07月30日 (13:02)

連続性同一性力学と脱連続性純粋差異力学:史的精神力学における連続性と脱連続性の振幅運動

(以下は、次の追記2を独立させたものである。http://ameblo.jp/renshi/entry-10604717457.html )

以上のように、同一性が差異に対して、(錯誤的に)優位性をもつとするならば、逆にどうして、差異が同一性に対して、異議を唱えて、差異の精神性を説くのだろうか。
 だから、単に、同一性が差異に対して、優位性をもつというのは、不十分、不正確である。
 正確に言えば、同一性の差異に対する優位性の志向性があるものの、差異は差異として、同一性に対する独自性、独立性をもっているということと言えよう。
 言い換えると、Media Pointにおいて、同一性の優位的力と差異の独立的力との矛盾が生起していると見ることができよう。
 実際的には、両者を突き詰めることなく、曖昧に妥協させていよう。正確に言うと、同一性優位の下に、差異を保持させていよう。
 しかしながら、近代合理主義、唯物論は、同一性が差異を完全に否定している様態である。
 この力学の説明が必要である。これは、上述したような連続性の力学で説明がつく。
 では、また、元に戻ることになる。つまり、連続性の力学によって、同一性が差異に対して優位性をもつのに対し、差異は異議を唱えて、差異自体の価値をもつのである。これは近代文化の基底にある闘争的事態である。
 この闘争的力学を説明する必要がある。連続力学によって、同一性が優位になっても、本来の差異、不連続的差異は根源(虚軸)に存続して、優位な同一性に対して、異質性を保持すると考えられる。
 言い換えると、優位な同一性と根源的差異との断層(活断層)が形成されるのである。この相克が近代文化の深層にあることになる。
 そして、近代合理主義、唯物論は、前者に傾斜して、後者を否定するということである。
 整理すると、連続性の力学によって、差異(不連続的差異)に対する同一性優位の「精神現象」が生起し、それが原理化されたものが、近代合理主義、唯物論であるということになる。
 そして、(錯誤的に)優位な同一性に対する差異の闘争が反近代、脱近代の動きであり、それが、19世紀後半から活発化して、20世紀以降の深部の知的動向となったのである。
 これは、言わば、脱連続性、脱同一性主義の知の活動であり、多様な領域の出来事である。
 しかしながら、哲学においては、ポスト・モダンは連続性の力学に囚われて、差異を純粋化することができなかったのである(後期デリダの「すべての他者はまったき他者だ」というのは、十分に差異や他者を捉えていないと考えられる。何故なら、超越性がないからである。)。純粋差異論を確立できたのは、不連続的差異論とその進展であるPS理論である。

追記:再度、整理すると、連続性力学があり、それが同一性を(錯誤的に)優位化する。しかし、意識の深部では、差異と同一性の相克がある。
 また、以前述べたことだが、連続性力学に対して、脱連続性の力学が、バランス法則的に生起すると考えられるのである。図式化すると、

連続性力学⇄脱連続性力学 

となる。
 だから、意識の深部において、脱連続性力学が作用するようになるのであり、それに対して、連続性力学が反動化すると考えられるのである。
 つまり、賦活される差異を抑圧するように同一性力学がはたらくと考えられるのである。(思うに、これが、今日、現代の精神病理現象を説明するだろう。うつ病等や異常犯罪等である。)
 そう、初期近代においては、連続性力学は、積極的であったが、後期近代となると、反動的になるのである。
 ということで、連続性力学と差異力学の相克の問題であるが、それは、精神力学的歴史の視点によって説明されると言えよう。これで、混乱した本件の問題がこれで解決されたとしよう。
 今日、近代合理主義、唯物論は反動的なのであるし、近代資本主義も反動的なのである。
 同一性価値を資本とするならば、差異価値を新しい価値とする経済・エコノミーが必要なのである。それは、脱資本主義である。差異価値結合経済である。これについは稿を改めて検討したい。
 
追記2:先には捨てた考えであるが、差異の牽引のときに、共振化して、同一性現象が起こり、差異の反発のときには、脱共振化して、差異共立へと還元されるのではないだろうか。
 つまり、差異の振動・振幅があり、それが、連続性(同一性)と脱連続性(差異)の交互変換を形成しているのではないか。
 量子力学的には、連続性とは粒子であり、脱連続性とは波動である。哲学科学的には、物質と精神である。
 生成門氏が説いた反共振(非共振)であるが、それは、脱連続性とすれば、差異共立であり、凸i*-凹i⇒-1で数式化できよう。
 ならば、反共振=脱連続性のときは、ダーク・マターが形成されるということではないのか。
 また、共振=連続性のとき、発光現象が生起するなら、反共振=脱連続性のときは、「闇」現象が生起するということではないのか。しかし、「闇」は光の裏面であるし、逆に、光は「闇」の裏面である。つまり、可視性と不可視性の二重性があるのである。
 とまれ、「闇」=不可視性=ダーク・マターの「宇宙」があると仮説される。
 それは、光宇宙に対するダーク・コスモスである。
 とまれ、後で、マイナス1と差異共立の相互関係について検討する必要がある。これまで、マイナス1を源泉としたが、差異共立が源泉ということもここでは考えられたからである。
 もっとも、マイナス1と差異共立との相互性については、先に触れてはいるが。

2010年07月30日 (11:22)

連続性同一性力学(モダン)と脱連続性純粋差異力学(トランス・モダン)

(以下は、次の追記2を独立させたものである。http://ameblo.jp/renshi/entry-10604717457.html


以上のように、同一性が差異に対して、(錯誤的に)優位性をもつとするならば、逆にどうして、差異が同一性に対して、異議を唱えて、差異の精神性を説くのだろうか。
 だから、単に、同一性が差異に対して、優位性をもつというのは、不十分、不正確である。
 正確に言えば、同一性の差異に対する優位性の志向性があるものの、差異は差異として、同一性に対する独自性、独立性をもっているということと言えよう。
 言い換えると、Media Pointにおいて、同一性の優位的力と差異の独立的力との矛盾が生起していると見ることができよう。
 実際的には、両者を突き詰めることなく、曖昧に妥協させていよう。正確に言うと、同一性優位の下に、差異を保持させていよう。
 しかしながら、近代合理主義、唯物論は、同一性が差異を完全に否定している様態である。
 この力学の説明が必要である。これは、上述したような連続性の力学で説明がつく。
 では、また、元に戻ることになる。つまり、連続性の力学によって、同一性が差異に対して優位性をもつのに対し、差異は異議を唱えて、差異自体の価値をもつのである。これは近代文化の基底にある闘争的事態である。
 この闘争的力学を説明する必要がある。連続力学によって、同一性が優位になっても、本来の差異、不連続的差異は根源(虚軸)に存続して、優位な同一性に対して、異質性を保持すると考えられる。
 言い換えると、優位な同一性と根源的差異との断層(活断層)が形成されるのである。この相克が近代文化の深層にあることになる。
 そして、近代合理主義、唯物論は、前者に傾斜して、後者を否定するということである。
 整理すると、連続性の力学によって、差異(不連続的差異)に対する同一性優位の「精神現象」が生起し、それが原理化されたものが、近代合理主義、唯物論であるということになる。
 そして、(錯誤的に)優位な同一性に対する差異の闘争が反近代、脱近代の動きであり、それが、19世紀後半から活発化して、20世紀以降の深部の知的動向となったのである。
 これは、言わば、脱連続性、脱同一性主義の知の活動であり、多様な領域の出来事である。
 しかしながら、哲学においては、ポスト・モダンは連続性の力学に囚われて、差異を純粋化することができなかったのである。純粋差異論を確立できたのは、不連続的差異論とその進展であるPS理論である。

2010年07月30日 (01:39)

同一性が差異に対して(錯誤的に)優位性をもつようになる力学:連続的差異⇒連続的差異的同一性

これは復習であるが、凸iの「意志」にとり、凹iの様態は、理解不可能である。つまり、凹iは、凸iにとって、絶対的他者である。
 凸iの傾斜があるとき、その「意志」は、凹iを否定する。しかし、この否定の様態が問題である。単に、-凹iではないと直感される。
 問題は、既に、同一性自己が形成されている時点にあるように思える。即ち、凸i⇒凹iにおいて、⇒が連続化して、凸i=凹i=+1という(錯誤の)事態の問題ではないのか。
 差異的自己は差異的他者と一致して、同一性自己と変じているのである。しかしながら、精神、意識の原点には、Media Point、ないし、凸i*凹iがあり、絶対的差異性、絶対的他者性が存しているのであり、故に、同一性自己(自我)とそれらが、衝突すると考えられる。言い換えると、同一性自己(自我)は、差異、他者と対立するのであり、それらを否定、抑圧、排除すると考えられるのである。
 問題は、その対立力学である。一般に、同一性自己(自我)がどうして、差異や他者に対して、優位性をもつのか。逆に、どうして、差異や他者が劣位になるのか。
 直感では、同一性の「力」があり、それが、優位、優勢となっているのではないのか。つまり、同一性とはそれ自体、自己肯定的、且つ、排他的な「力」であり、そのために、差異や他者を否定、抑圧、排除、隠蔽等するのではないのか。
 言い換えると、同一性的「力」、同一性力であり、それは、当然ながら、それとは異質な差異や他者を否定する作用をすると考えられる。
 しかしながら、差異や他者もそれなりに「力」であり、それは、同一性の「力」とは異質な「力」である。
 だから、やはり、同一性の「力」が差異の「力」に対して、優位性をもつことが解明されなくてはならない。(シュタイナーの霊的科学で言うと、悪魔アーリマンに拠ると説明されるのであるが。)
 精緻に見る必要がある。同一性は確かに「力」であるが、差異は「力」ではなく、エネルギーである。この相違に注意すべきである。明確に言えば、同一性の「力」とは物質的な力であり、差異のエネルギーとは精神的エネルギーである。(あえて、物質的な力と精神的な力ということもできよう。)
 つまり、ここには、つまり、Media Pointにおいて、差異=精神的エネルギーと同一性=物質的力の並存・並立があると言える。しかしながら、この並存・並立には、優劣は本来ないはずである。あるのは、絶対的な対立・矛盾の不安定な、ゆらぐ様態である。いわば、宙ぶらりんの様態である。
 また、振り出しである。
 今、浮んだのは、以前、考察した連続性の概念である。差異から同一性へと連続性の力学がはたらくと考えられるのである。言い換えると、ポスト・モダン、とりわけ、ドゥルーズの差異=微分の連続的差異の力学の作用である。
 そう、Media Pointにおいて、差異共振作用がはたらくとは、連続性の力学が作用することと考えられるのである。不連続的差異論の段階でよく述べた連続的同一性の概念がここで重要である。
 本来、不連続な差異がMedia Pointを介して、連続的差異となり、その結果、同一性が発生すると考えられる。つまり、

不連続的差異⇒連続的差異⇒同一性

である。そして、連続的差異⇒同一性は、一言で、連続的同一性と述べることができる。換言すると、

不連続的差異⇒連続的同一性

である。また、連続的同一性とは連続的差異的同一性ということができる。
 結局、この連続性が差異を同一性に従属、服従させると考えられる。言い換えると、連続的差異の結果、同一性の力が発生するのであり、この力自体が、根源・基底の不連続的差異(絶対的差異、超越的差異)を端的に否定すると言えるだろう。
 言い換えると、差異を連続化すること自体が本来の差異、不連続的差異の否定なのである。だからこそ、同一性の力は、不連続的差異に対して、優位性を錯誤的にもつようになると言える。これで解明されたと考えられる。
 ところで、連続性の力を私はルシファーと呼んだ。これこそ、同一性=物質(アーリマン)と結びついて、唯物論を産み出したと考えられる。
 結局、連続性は自我の力学でもある。日本で言うと、やはり、本居宣長の国学がこれに当たる。だから、国学が日本文化の唯物論化の要因と考えられる。

追記:以上の連続性の視点から、凸iによる凹iの否定とは何を意味するのか。
 それは、誤謬ではないだろうか。凸iと凹iとが連続化して、連続的差異となり、同一性(物質)を形成する。結局、凸iが凹iを否定しているのではなく、連続化された凸iと凹iとが、凸iと凹iとMedia Pointを否定することになると言えよう。
 Kaisetsu氏が精神的フィルターの概念を提起したが、正に、Media Pointにおいて、連続性のフィルターが作用して、凸iと凹i、凸i*凹i、さらに、凸i#凹iを通過させずに、否定するのである。 
 ところで、後で、鏡像について解明したい。

2010年05月22日 (13:48)

視覚と言語:個・差異的視覚と言語・同一性的視覚:敗戦後の同一性傾斜の言語が視覚空間を破壊した

テーマ:美術・デザイン・ファッション・美容・整形

先に、+iと-iは言語的思考をすると述べたが、補足ないしは補正がいるが、その問題は以下の検討で解明されるだろう。
 さて、視覚と言語の関係について考えたいが、これは、他ならぬ、差異と同一性の関係の問題である。
 これまで、差異即非共振現象が根本にあり、それから、言語習得が為されて、言語同一性が形成される述べた。これは当然、自己同一性(自我)と密接に関係する。
 結局、本来、視覚は差異共振現象の感覚である。しかるに、+iの傾斜があると差異共振的視覚知覚を、同一性的形態・形式(構造:カントの超越論的形式)の枠で制限すると考えられるのである。この差異共振エネルギーの同一性的抑圧・排除は疎外・阻害である。
 精神はここで、矛盾を起こしているのである。差異的視覚と同一性的形態の矛盾である。しかしながら、同一性に傾斜しているので、差異の抑圧は一般には注意されないのである(フッサールの自然的態度、仏教の無明)。
 しかし、本来の正当な芸術家、アーティストは、この被抑圧の差異的視覚(Media Point Vision)を肯定的根拠として、創造活動を行なうのである。だから、差異的視覚と同一性的形態との二重ヴィジョンがそこに生じるのである。それは、 Kaisetsu氏が取り上げるルネ・マグリットの絵画空間に典型的に表現されていると考えられるのである。この二重ヴィジョンは、差異的空間と同一性空間との境界をもつ視覚空間と考えられるのである。
 さて、本題に戻ると、+i傾斜は同一性形態を生み、また、言語形成と結びつき、言語同一性を生み、結局、同一性自己(自我)を形成するのである。
 本来の差異、即ち、自己差異である+iと他者差異である-iは、同一性+1に還元されるのである。これは、
(+i)*(-i)=+1と表記できよう。自己同一性方程式である。
 日本は敗戦後、連合国(米国)と売国奴との占領政策によって、公教育的に敗戦以前の東洋・日本的伝統文化を排除して、近代合理主義をいわば金科玉条として受容したのである。
 近代合理主義とは取りも直さず、自己同一性主義(近代的自我の同一性主義)であるから、敗戦後以降の日本において、差異的視覚を抑圧して同一性的視覚が支配的になったと考えるのは自然である。
 これは、当然、思考においても同じである。差異的思考を抑圧して同一性的思考(果たして、思考と言えるか問題であるが、暫定的、便宜的に思考と呼ぶ)が支配的になるのである。
 日本の場合、父権的同一性が強いので、自己同一性主義は父権的同一性主義になったと考えられる。(西洋の場合、ルネサンスやプロテスタンティズムに基づく、個の原理が基底としてあるが、日本の場合は、本来、東洋・日本的伝統文化の個の原理があったが、それが、否定されて、残存している父権主義と自己同一性主義が結合したと考えられる。)
 結局、差異的視覚/差異的思考が同一性的視覚/同一性的思考によって抑圧・排除されたのであるが、ここで、言語の問題を入れると、差異的言語が同一性的言語に抑圧・排除されたということになる。
 つまり、敗戦後以降、日本社会において、同一性的視覚/思考/言語空間が支配してきたのである。これは、当然、政治・経済においてもそうである。
 とまれ、ここで、対象を芸術・アートに限定すると、敗戦後の日本を支配する同一性的視覚のために、芸術・アートは本来の差異的視覚を奪われて、正当性を喪失してきたと一般には考えられる。結局、擬似的芸術・アートが、似非権威となり、本来の、正統な芸術・アートを奪い、殲滅してきたのである。これは、当然、音楽や文学にも当てはまるのである。つまり、商業的には、同一性的美学を宣伝して、大衆を麻痺させて、ガラクタを与えてきたのである。ここには、似非評論家が強く洗脳活動を行ったのであり、害悪となっているのである。(例えば、村上春樹の作品である。言語観念を同一性観念として使用していて、差異的具体性を喪失した、非現実的な文学である。)
 ここで、言葉の問題があるのである。似非評論家は、差異的視覚/思考/言語を喪失したまま、同一性・抽象的言語の虚構を作り出してきたと考えられるのである。
 民衆、国民との接点を喪失した悪しき、閉鎖空間の構築を手助けしてきたのである。
  以上のことを換言すると、身体性の喪失と言うことが言えよう。視覚的表現にしろ、言語的表現にしろ、音楽的表現にしろ、身体性を敗戦後の日本は喪失してきたのである。
 より正確に言えば、視覚より、言語の方が同一性的である。つまり、言語的同一性主義によって、視覚本来の差異性、差異即非共振性を抑圧、排除してきたと考えられるのである。
 これが、正しい見解である。つまり、敗戦後の日本は近代合理主義=自己同一性をマインド・コントロール的に受容して、言語的同一性主義を形成して、視覚空間を同一性形態・フレームに抑圧、固定して、それを破壊してきたと言えよう。それは、開発という自然破壊、また、東京の醜悪な高層ビル等に如実に見て取ることができる。


参照:『光の帝国』は、白い雲の浮かぶ青空が「光」であり、シルエットのようになる木々や屋敷は「影」であり、真ん中の街灯が、両者の中心である Media Pointと考えられる。思うに、青空を差異とすると、シルエットが同一性となるし、逆に、青空を同一性とすると、シルエットが差異となるだろう。ネガとポジの陰陽性がある。そして、この極性をMedia Pointの街灯が産み出していると言えよう。
 とまれ、ここには、差異共振視覚空間が明快に表現されていると言えよう。

追記:参照の同一性であるが、正確に言うと、⇒の先端である。そして、差異は⇒の起点である。だから、Vector Modeである。だから、「光」は先端となり、「影」は起点となり、また、逆に、「影」が起点となり、「光」が先端となると考えられるのである。つまり、ここには、同一性はなく、ただ、差異の起点と先端の極性があるということになるのである。

art105.jpg

マグリット『光の帝国』

http://artguide.269g.net/category/242053-10.html
おまさんたアートでも見に行かんかね


1954年に描かれたマグリットの代表作,「光の帝国」。

この作品に,マグリットはこんな言葉を残しています。

 「 白昼の空の下に夜の風景が広がる。
   最初は判らないが,もう一度よく見て初めて,実写的に描かれた
  この舞台装置の超現実性が意識される。
   「光の帝国」の中に,私は相違するイメージを再現した。つまり,
  夜の風景と,白昼の空だ。風景は夜を想起させ,空は昼を想起させる。
  昼と夜のこの共存が,私達を驚かせ魅惑する力を持つのだと思われる。

   この力を,私は詩と呼ぶのだ。」

http://blog.livedoor.jp/kibora_hiro/archives/cat_50034005.html
ひろ空間

2010年05月20日 (09:21)

近代的二元論の他者否定性:+i=意識的思考(光)と-i=無意識的思考(影)

既述済みであるが、再確認したい。
 +iは言語的思想をするので、+1と結びつくのである。しかしながら、同時に、Media Pointにおいて、-iと即非共振している。つまり、同一性論理と即非論理の間に+iは存するのである。
 しかしながら、近代主義、近代合理主義、近代的自我は、同一性論理を肯定して、即非論理を否定するので、-iとMedia Pointが否定・抑圧・排除されるのである。
 同一性論理の肯定とは、やはり、男性、父権主義において、+iの優位(左脳優位?)があるために、-iを劣位とすることに基因があると考えられる。言い換えると、同一性論理と即非論理が生起するものの、言語に傾斜した+iは同一性論理に結びつくということである。
 とは言え、-iは言語的思考をしないのかという問題があるだろう。これまでの考察から見ると、-iは言語的思考をするのである。だから、正確に言う必要がある。+iは意識的思考をするのである。光の思考である。それに対して、-iは無意識的思考、影の思考をするのである。
 だから、+iに傾斜した思考とは、意識的思考ということであり、それは、-iの無意識的思考を排除するのである。そして、意識的思考は他者を排除するので、自己同一性(自我)となるのであり、それが、+1と結びついて、近代合理主義を形成するのである。
 だから、+i傾斜がルシファーであり、連続主義であり、それが、+1のアーリマン(アンラ・マンユ)と結合して、連続的同一性主義の唯物論を形成すると考えられる。
 イタリア・ルネサンスはMedia Pointの開花であったが、西洋文明という父権主義のコンテクストにあるので、連続的同一性主義の抑圧を被ったと言えよう。つまり、近代西洋とは、差異と同一性の混淆・混濁・混合の二重性があるのであり、それが、ポスト・モダンまで続いたと言えよう。
 日本においては、封建的同一性主義の抑圧が強いので、Media Pointが十分に開花していない欠点があるのあり、これが、今日の衰退・崩壊を生んでいると考えられる。第二維新が必要である。
 因みに、鳩山首相は-iの無意識的思考=差異・他者性がまったく欠落して、+i=+1という同一性の無限回転回路(ルーピー回路)状態なのである。

追記:これも既述済みの事項であるが、+i傾斜の意識的同一性思考、即ち、近代同一性的思考(近代合理主義)は、-i並びにMedia Pointを抑圧するので、エネルギーを枯渇するのであり、うつ病、その他の精神病理現象を引き起こすと考えられる。

2009年12月23日 (15:37)

思考実験:性欲とジェンダー:対の構造の意味:二元論と極性:トランス・セクシュアリティ?

以下は思考実験である。

例えば、女性を+i、男性を-iに、あるいは、逆に、女性を-i、男性を+iと仮定することができる。この超越的即非共振エネルギーが根源にあると考えられる。
 つまり、原点として、対差異即非共振エネルギーがあり、これは、女性であれ、男性であれ、それ自身においては、他者としての異性が存していると考えられる。
 例えば、女性の場合(性的意識、つまり、ジェンダーの問題に限定する)、内的異性としての他者の男性が存するのである。そして、男性の場合も同様である。内的異性としての女性が存するのである。
 しかしながら、二元論的な性差構造があると思われる。これは、極性ではなく、二元論である。女性か、男性のどちらかであり、この二元論構造(一種、二項対立、二値性)が、いわば、先験的にあるために、女性は外的男性に、男性は外的女性に、性欲を、一般的には、もつのである。
 つまり、ここには矛盾・齟齬があるのである。内的には、本質的には、対差異即非共振性があるが、外的、身体的には、雌雄二元論があるのであり、内的本質と外的身体において、齟齬が生じるのである。
 前者は差異であり、後者は同一性ないしは構造性であり、動物性とも言えよう。それは、構造的強制性をもっている。
 整理すると、本来、雌雄は即非共振様態であり、「わたし」は女性であり、男性ではないが、同時に、男性である。
 しかし、身体的雌雄構造はそれを否定して、「わたし」は女性であり、男性ではない。絶対的に女性であり、男性ではない、ということになる。
 思うに、精神的な異性性があり、また、身体的な異性性があるのであり、両者はまったく異質であると考えられる。
 後者はプラス1ではないだろうか。思うに、男性の場合、即非共振の牽引と反発の極性において、牽引に傾斜しているのではないだろうか。その為に、マイナス1を抑圧して、プラス1に没入すると思われるのである。このプラス1の傾斜が、いわば、プラス1の構造、二元論構造、二項対立構造を形成するのではないだろうか。
 これが、マイナス1を抑圧して、意識を同一性化するのではないだろうか。つまり、雌雄の区別を形成するのである。
 結局、女性には、男性のような二項対立的区別はないのではないだろうか。対差異即非共振があるのではないだろうか。
 思うに、牽引への傾斜が男性を形成し、二項対立構造を先験的に形成し、異性愛が本質であるかのように思わせるのではないだろうか。
 性欲とは、だから、この牽引への傾斜による同一性欲望と言えよう。差異への道が性欲を喪失させていくだろう。
 トランス・モダンとは、トランス・セクシュアリティを意味するのではないだろうか。
 後で再考し、整理したい。

2009年11月28日 (14:30)

差異的知性と同一性言語知性:トランス・モダン知性と東洋的身体の不連続的形成

この問題は以前から気になっていたのであるが、光の問題が解明されたので、
http://ameblo.jp/renshi/entry-10398589136.html
今、ここで検討したい。
 思考は確かに、頭脳で行う。しかし、正確に言えば、複雑であり、精神性や身体性を背景にもっている。
 問題は差異的思考と言語的同一性思考の局所についてである。
 具体的に考えよう。「わたし」が考えるとき、確かに、言語を介して、通して思考する。「わたし」は差異的に思考する。しかし、言語は同一性である。この一種の矛盾をどう見るのか。
 例えば、「森」という言葉を使用するとき、「わたし」は他者として「森」を考えているのであり、他者としての「森」に対して、「森」という言語を当てるのである。
 つまり、「わたし」の精神や内面や心象における他者を意識して、同一性である言語を当てているのであり、当然、他者(差異的他者)が主であり、言語(同一性)は従である。
 これで、本件はほぼ解明されたと言えよう。つまり、差異的思考とは、主体の精神、内面、心象、直感等において為されるものであり、それに対して、同一性の言語の器を当てて、差異的思考を明確化、合理化するのである。つまり、言語的同一性はいわば、指標に過ぎない。それは、目印である。差異的他者である「森」に対する指標に過ぎないのである。
 だから、差異的思考と言語的同一性思考は局所的にズレがあるのである。差異的思考においては、思考と言語とのズレがあるのであるが、言語的同一性思考は、思考と言語が一体化、連続化しているのであり、物事を正確に認識できないと言える。(鳩山首相がこのタイプである。)
 また、近代合理主義、近代的自我は当然このタイプであり、心眼がないのである。換言すると、真正な思考力がないために、真正な知性が形成されないのである。これは、衰退、退行をもたらす。今日の日本に知的創造的活力がないのは、ここに原因があると考えられる。端的に、有り体に言えば、現代日本人は思考していないのである。何も考えていないのである。同一性マシーンに過ぎない。
 結局、知性・知力を形成するには、内的他者、内的身体的他者を取り戻す必要がある。東洋的身体性を形成する必要があるのである。また、瞑想的思考・内省を培う必要があるのである。道教的に言えば、丹田を形成する必要がある。下丹田(肚)と中丹田(胸)と上丹田(頭)を均衡的に形成する必要がある。もっとも、大事なのは、このような身体的精神と言語的同一性は不連続であることをしかと認識することである。これで、抽象的にならず、具体的な知性を形成できるのである。

参照:
道教復興:下丹田(肚)の復権
テーマ:日本新生・東洋ルネサンス
東洋思想とは、身体思想である。これによって、西洋思想との区別が自明である。
 しかるに、近代日本、とりわけ、戦後日本は、東洋思想を切り捨てたのである。
 伝統的日本文化は、肚の思想をもっていた。これは、道教で言えば、下丹田の思想だと思う。因みに、道教では、上丹田(頭)ー中丹田(心臓)ー下丹田(肚)の身体性を説いている。(インドのヨガでは、七つのチャクラを説いている。)
 作業仮説するが、PS理論の+iが上丹田であり、-iが下丹田であり、Media Pointが中丹田はないだろうかと思うのである。
 今日、下丹田-iが喪失されていると思う。近代合理主義=近代的自我は、これを否定してきたと考えられる。そして、現代日本人の堕落が生じたのである。

追記:時間がないので、精緻に考察できないのが残念である。私が問題にしたかったのは、「近代化」は、中丹田から上丹田へかけての意識形成を行い、下丹田を抑圧・排除しているということである。
 つまり、中丹田に関わるので、Media Pointはそれなりに存するが、しかし、下丹田が排除されているために、Media Pointが上丹田的な同一性と連続化していると思われるのである。つまり、利己主義化された中丹田になっているのである。
 下丹田を「啓蒙」化するならば、中丹田は、超越化されるようになると考えれる。そこで、下丹田の差異と上丹田の同一性が衝突するのである。しかしながら、中丹田ー下丹田の領域と中丹田ー上丹田の領域は不連続であるとして、絶対的に切断することで、この衝突は、「調和」されるようになると考えられるのである。
 思うに、下丹田とは、小宇宙・ミクロコスモスだと思う。いわゆる、神秘主義は、ここから発するだろう。
 とまれ、余裕のあるとき精緻に考察を行いたい。

後記:今日の日本人にリリシズムが欠落しているのは、下丹田が埋もれているため、豊かな精神の水源が塞止められているためと考えられる。三島由紀夫が「断絃の時」と言ったが、これは、下丹田の喪失をしよう。これが、とりわけ、戦後に起ったと考えられる。日本民族・日本文化の絶滅の危機である。
 
参考:
丹田
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

丹田(たんでん)は、内丹術 で仙人 になるための霊薬 仙丹を練るため気 を集め練る体内の部位。東洋医学 における関元穴 に相当し、へその下3寸(へそと恥骨稜の間を5寸とする)に位置する。

意味は気 の田 のこと。古くは『素問 』遺篇本病論に「神游上丹田」、邊韶の書『老子銘』に「存想丹田」、張仲景の『金匱要略 』にもみられる。これらは後漢 (3世紀前半)の書として伝来するが、文献学的には唐代以後のものである。内丹術では、気を材料として下丹田を炉とみなし、呼吸 をフイゴとして仙丹を練る。なお女性の場合は乳房の間の膻中穴 を炉とする。

解剖学 的には該当臓器などはないが、心身医学 の領域では、自律神経 の働きと免疫 機構の関係が注目され、太陽神経叢 が丹田に相当すると考えられている。

丹田は男性での名称で、両眉の間にある上丹田、心臓の下にある中丹田、ヘソ下3寸(約9cm)にある下丹田などがある。上丹田は、鼎、泥丸(ニルヴァーナ(涅槃 )の漢字の音訳)という。下丹田は地、臍下丹田(せいかたんでん)、気海丹田(きかいたんでん)などとも呼ばれ、単純に丹田と言った場合、下丹田のことを指していうことが多い。丹田の概念はインドのヨーガ思想を模倣したものと言われる。

関連項目 [編集 ]

* 呼吸法
* 調和道丹田呼吸法
* 腹式呼吸
* 肥田春充
* 肥田式強健術

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%B9%E7%94%B0 " より作成
カテゴリ : 錬丹術 | 身体論

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生

身体感覚を取り戻す―腰・ハラ文化の再生
齋藤 孝/著 NHKブックス



◆ 日本は「腰肚(こしはら)文化」


日本の伝統的な文化は「腰肚文化」に集約されるのではないでしょうか。

腰や肚は精神的なことも含んでいますが、その基盤には腰や肚の身体感覚が実際にあるのです。

「腰をすえる」や「肚を決める」は、文化によって身につけられる身体感覚です。

腰と肚の身体感覚が強調されることにより、からだの「中心感覚」が明確にされるのです。
http://blog.livedoor.jp/longpa/archives/11396692.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

2009年03月19日 (00:01)

Kaisetsu氏の絶対的差異論:付録:PS理論によるトランス・ベルクソン哲学:持続の即非化

Kaisetsu氏の絶対的差異論で、同一性概念の不要に達している。
 確かに、他者-iは絶対的差異であり、同一性とするのは、ただ、言語概念や物質概念に拠ると言えよう。
 後で、近似値としての同一性について検討したい。
 ところで、ベルクソンの『物質と記憶』であるが、精神と物質との融合を目指しているが、やはり、これまで述べたように、持続の強度の発想で、連続化ないしは量化しているのである。
 確かに、持続と物質との異質性は説いているが、後者を前者へと連続的に還元してしまうのである。これが、大欠陥・大誤謬なのである。PS理論から言えば、持続と物質とは不連続であると言わなくてはならないのである。
 そして、持続とは、Media Pointの即非様態であると言うべきなのである。
 
@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@@

絶対的差異の「真性(the true) と同一認識の絶対的「疑性 (the doubtfulness)」)

・・・・・

次に、私たちは、絶対的差異、という立場から生まれる世界を考えよう。
これこそ、絶対的差異論の世界である。

分銅aと分銅bの絶対的差異を導く、分銅ab間の空間である。
この「分銅ab間の空間」こそ、「即非」の世界である。
分銅aに近い空間は、結局、フラクタルな形状になっていて、aの中にあるのか、外にあるのか、分別不可能になる。
つまり、即非の世界もまた、絶対的差異の空間となる。

差異は、差異を呼び、絶対的差異が宇宙に満ちるだけである。
ここに、同一性は不要となる。

つまり、同一概念は、結局、差異概念を必要とするが、絶対的差異概念は同一概念を不要とする。
http://blog.kaisetsu.org/?cid=9911
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

Appendix


ブログ内検索
RSSフィード
リンク
このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。