2008年08月30日 (01:00)

A one-track mind:一つの観念に取り憑かれた心:差異の翳りに拠る同一性主義の発生

one-track mindという句があったので、辞書を調べたら、one-trackで、「一つの観念にとりつかれた」という語義があった。この「一つの観念にとりつかれた」というのは、正に、私がこれまで批判してきた同一性主義にあてはまる。
 では、この「一つの観念にとりつかれた」という事象を、PS理論的に解明したと思う。意外にあっさりと説明がつくのではないかと思う。
 今は簡単に考えたい。同一性主義とは、自己内差異(他者)を否定し、自己同一性(自我)を志向するあり方である。この自己同一性(自我)志向が、思うに、ただ一つの観念をもたらすと思われる。
 問題は、このただ一つの観念の正当性である。同一性主義は、このただ一つの観念を正当化する根拠をそれなりにもっているはずであるが、それは何か。
 それは、端的に、+1だと思う。これが同一性である。そして、ここから、-1の同一性主義へと転換するのである。
 +1、即ち、A=Aである。ナスはナスであるという、「自同律」である。これは、交換価値になるのである。すなわち、ナスは一袋158円であるということである。ナスが、交換価値となったのである。
 本来ならば、差異があるのであるが、同一性価値が主導化すると、差異が排除されて、同一性主義となる。
 結局、同一性主義(ただ一つの観念の正当化)とは、端的に、同一性傾斜に拠ると考えられる。父権制である。
 この父権制が同一性主義の根拠と考えられるのである。ここで、原差異共鳴性が否定されて、同一性主義という二項対立が発生するのである。
 これが本件の答えである。一つの観念にとりつかれるというのは、父権主義の為せる業である。宗教で言えば、一神教である。とりわけ、ユダヤ・キリスト教である。

P.S. 同一性主義の根拠として、+1、すなわち、同一性を提示したが、少しあいまいである。なぜなら、同一性+1とは、同一性主義ではなく、差異共鳴性の帰結であるからである。つまり、+1は、差異共鳴性に包摂されているのである。
 それは、同一性自己であり、差異共鳴「自己」に包摂されているということになろう。
 では、同一性自己が同一性主義自己(自我主義)になるのは、何が根拠かである。それは、これまで指摘したように、差異共鳴性において発生した苦・悲が原因である。それを否定するようにして、同一性主義自己が形成されると考えられるのである。
 だから、同一性主義の根拠は、+1ではなくて、ネガティブとなった差異共鳴性である。反動である。差異の反動が同一性主義の根拠である。
 とまれ、後で整理したい。

P.P.S. 結局、同一性主義とは、同一性が、ネガティブになった差異に対してとる反動性が、根拠である。いわば、「暗い」差異を否定して、「明るい」同一性の鏡像へと、いわば、再帰することが、同一性主義の力学である。言い換えると、差異に対して、自己投影して、同一性化するのである。即ち、差異に対して、同一性を投影して、その投影像=鏡像と同化することが同一性主義になるのである。
 これは、いわば、自己瞞着である。自己欺瞞である。自己を投影して、その投影像と一致するのであるから、自己重複である。自己盲目である。独善化である。
 いわば、結果から初めて、それを原因におくようなものである。
 とまれ、この場合の同化とはどういうことであろうか。投影された同一性自己に同化するとはどういうことなのか。(一種の疎外やナルシシズムである。)
 投影であるから、なんらかの光が出ているはずである。それは、同一性の光ではないだろうか。差異に対して、同一性の光を投影するということではないだろうか。
 本来、差異共鳴性から同一性が形成されたのであるが、それが逆に差異共鳴性へと自己投影するということになると考えられる。差異共鳴性とはいわば、超光(超越光)であり、それに対して、同一性は光である。この光が超光(超越光)へと自己投影するということになる。
 喩えて言えば、太陽を直視することはできない。だから、サングラスで太陽を見るようなことである。つまり、サングラスという「光」を太陽へと投影するのである。そして、超光の太陽は、サングラスの「光」となるのである。サングラスの「光」が鏡像である。
 これは、同一性による差異の遮蔽と言っていいだろう。同一性自体によって、同一性の壁を作り、差異を遮断するのである。これは、同一性の倒錯的統一化と呼べよう。あるいは、同一性の倒錯的自己目的化である。
 では、そもそも、投影とは何か。何故、投影するのか。それは、もともと、同一性が光であるからではないだろうか。同一性光である。だから、投影するのではないだろうか。この同一性光が、ネガティブな差異へと投影するということだろうか。
 否。同一性光はネガティブな差異に投影するのではなく、排除するのである。差異を隠蔽するのである。差異の否定である。否定の闇があるのである。そして、同一性光がその否定の闇に投影するのではないのか。
 この闇は盲目、無知、無明である。だから、結局、同一性のもつ力学、否定の力学が発生して、同一性主義になるのである。同一性の力学が、肯定と否定の二項対立なのだろう。
 しかしながら、同一性の二項対立の力学とは、内在的なものではなく、差異に駆動されているので、外在的なのである。だから、同一性主義とは、内在的には、根拠をもっていないのである。デリダの言うように、脱構築されるのである。原点が差異にあるからである。
 整理すると、差異に駆動されて、同一性の二項対立力学が発生するのである。しかし、原点・根拠の差異を隠蔽しているのである。
 結局、差異共鳴は本来的には、超光であるが、それが、ネガティブになったときに、同一性主義が発生するということになる。(思うに、ヤハウェ教の発生の根因がここにあるのではないだろうか。)
 差異共鳴性がネガティブになったとき、超光はどうなるのだろうか。そもそも差異共鳴性がネガティブになるとはどういうことだろうか。
 それは内在的なものではなく、外在的に阻害を受けた様態である。だから、負の差異共鳴様態である。だから、本体の差異共鳴性は、根本的には、肯定的なものであるが、現象において、負化されるということになるのである。(やはり、ここで、ヤハウェ教を想起するのである。ヤハウェとは、負化された差異共鳴性ではないだろうか。ネガティブな差異共鳴性ではないだろうか。)
 そう、負の差異共鳴様態というルサンチマンから同一性主義が発生するということだと思う。簡単に言えば、本体の超光が翳ったときに、同一性主義=光という父権暴力が発生するということである。(ここでも、ニーチェの大天才的慧眼が確認できる。)
 これで、本件の検討が終了した。最初は簡単だと思ったが、意外にも、難問であった。

2008年07月25日 (23:28)

視聴覚と心覚:同一性感覚と精神覚:視覚のもつ同一性自我感覚への傾斜

視覚は、問題が多いだろう。視覚について考察する前に、私の好きな音楽について、先ず、考えてみよう。
 もっとも、私が好きな音楽は、ほぼバッハに限定される。これまで、それなりに音楽を聴いてきたが、結局、大バッハに収斂するのである。
 では、大バッハの何がいいのか。これは愚問ではあるが、有り体に言えば、バッハ音楽の精神性である。聴覚を通して、確かに、精神性が喚起されるのである。つまり、聴覚という感覚を通して、精神が感得できるということであり、これは、感覚には、いわば、精神覚、心覚があるということになろう。これは、いわば、第六感である。
 そう、聴覚に言えることは、視覚にも言えることである。視覚的にいちばん感動したのは何かと言えば、美術で言えば、セザンヌの静物画である。リンゴではなくて、テーブルに上に陶器を載せた静物画に感動したし、その他、名のない絵画に感動したし、また、田舎の崇高な夕焼けの赤や紫に感動した。
 この場合では、視覚を介して、崇高さ、崇高な精神を感得していると言えよう。だから、視覚を介して、やはり、精神覚・心覚があると考えられるのである。
 これは、これまで、PS理論において、Media Pointによるイデア界と物質界との交差で説明してきたことであるし、それは今でも適切であると考えられるのである。
 つまり、感覚、五感において、Media Pointを介して、イデア性、即ち、精神性が表現されるということである。しかしながら、感覚=精神性ではなくて、感覚に重なるように、精神性が発現しているのである。
 ということで、視覚に関しても、精神覚・心覚が考えられることになる。では、私が感じた視覚への不信感は何だろうか。
 それは、視覚はあまりにも、物質性に囚われやすいことにあると思う。視覚における精神性・心性は、明快であろうか。
 視覚は電磁波の感覚である。思うに、視覚認識は、同一性に深く関係していると思う。だから、視覚においても、精神覚・心覚はあっても、同一性感覚=物質感覚性が強いので、視覚に対する不信感が生じるのではないだろうか。
 視覚は五感の中でも危険な感覚と言えよう。言い換えると、視覚は、幻惑的であるということになる。
 これで、本件の結論を得たことになる。そう、一言で言えば、視覚とは、鏡像を形成し、自我感覚の基盤となるものであるということになる。

2008年06月14日 (18:57)

差異と同一性:イデア差異極性と極傾斜:同一性勾配をもつ父権人類と差異共振性(コスモス)回帰

先に、作業仮説として、宇宙における、+1の-1に対する優位を述べたが、これは、思うに、人間存在においても、妥当する考えではないだろうか。しかし、こう述べることは、これまでの考察とは矛盾するように見えるだろうから、説明したい。
 これまで、人間において、同一性傾斜があると述べてきたが、自然自体にもあると考えられる。しかし、基礎は差異共振性である。この基礎に対して、同一性傾斜が発生するのである。
 実際、同一性傾斜の力学を考える必要があるだろうが、それをおいておき、今は、本件の、人間における、+1の-1に対する優位性について触れたい。
 端的に言えば、根源は、+1である(記述上の便宜で、自己認識方程式の右辺だけを記す)。しかし、同一性傾斜があるために、それが疎外、抑圧される。同一性の壁が出来るのである。自我の壁である。
 しかしながら、本来の差異共振性はエネルギーをもっているので、同一性=自我の壁を乗り越えようとするのである。ここで、同一性と差異との分裂があり、それが自己における満ち足りなさを発生させると言えよう。生の意味の空虚である。【心の病の内因はここに存しよう。】
 思うに、自我=同一性は、自己完結しよう(同一性主義=「自己中心主義」)とするので、活性化している差異共振エネルギー(差異)を抑圧排除すると考えられるのである。これが、広義の精神病の発生を意味するだろうし、また、同一性価値資本主義のイデオロギーの根因であると思われる。
 人間の攻撃・好戦性は、この差異を排除する同一性完結主義に拠ると考えられる。とりわけ、男性において生じるのである。父権主義ということである。
 だから、同一性主義とは、大宇宙の「法」に背いていると言えよう。【人間は、自然・宇宙の鬼っ子である。】人間において、同一性主義への傾斜が、他の自然存在に比べて、強大なのである。この同一性主義は父権主義になって顕著になったと考えられるのであり、前父権主義においては、人間と自然とは、いわば、共生・共存していたであろう。
 とまれ、今日の人間の精神的課題は、内的な差異共振性を「解放」することである(差異解放主義)。今日、近代合理主義/近代的自我による同一性主義によって、差異共振性が抑圧排除され、同時に、それが、反動となり、非合理主義的衝動(狂気・暴力・犯罪・病気)を発生させていると考えられるのである。
 だから、大宇宙・大自然(コスモス・ジネン)へ還れということになるだろう。【Media Point Energyは、神話的には、道祖神であり、ヘルメス神であり、トート神である。キリスト教の聖霊もこれだと思う。】
 思うに、差異共振エネルギーとは宇宙のエネルギーである。そして、それは、Media Pointを開くので、宇宙、大宇宙と共振・交信することになるだろう。伝統的に、コスモスと呼ばれていたものが復活することになるだろう。近代における多くの詩人や芸術家が表現してきたコスモスが復活するのである。トランス・モダンとしての、新コスモス主義、コスモス・ルネサンスである。
 このことは、当然ながら、政治・経済においても同様であり、かつ、最重要なポイントである。政治・経済の差異共振化が必須なのである。西洋文明的グローバリズムは地球自然社会人間破壊主義である。私は利子の廃止を提唱する。無利子金融ないし減価通貨金融を提唱する。
 さて、理論的な問題に戻ろう。問題は、同一性傾斜の発生の力学にあると言えよう。これは、それがただ生起すると言っただけであり、その原因については述べていないのである。
 私は自然にも同一性傾斜があると言ったので、なんらかの普遍的な原因を考える必要がある。以前は、引き付けに対する反発を原因とした考えたのであった。
 この問題は、また、根本の問題に還ることになる。不連続的差異論の時点では、シンプルに、不連続な差異の共振から同一性現象が発生すると考えたのである。非常に明快である。ただし、一番の問題は、なぜ、同一性が差異を否定(抑圧・排除)することが発生するのかということである。これは、PS理論になっても続いた問題(難問)である。
 結局、他者差異-iを否定するという同一性傾斜が原因であるが、この同一性傾斜の力学は何か、というのが本件の問いである。
 ここで思考実験であるが、差異自体に極性があり、一方の極では、単独性があり、他方の極では、共鳴性があるのではないだろうか。これは、先に述べた差異の分立性と水平性の二元論とほぼ変わらない。しかしながら、分立性と水平性とは、差異極性、イデア極性の極性を意味する。しかし、単独性と共鳴性の極性はそれとは異なるでなくてはならない。
 つまり、イデア極性=差異極性は、差異共振性を生むもので、⇒+1となる。ここには、破綻はないのである。純粋差異共振性があるのである。
 しかしながら、ここで思考実験しているのは、その純粋差異共振性を破綻させる別の極性力学のことである。
 極性が極性でなくなるのである。そう、これは、思うに、別に極性を作る必要はないかもしれない。つまり、最初の純粋極性のおける両極端を考えればいいのではないだろうか。
 これは、以前考えていたことである。+iを陽極として、-iを陰極とすれば、このイデア差異極性、イデア差異太極において、+i=陽極、ないしは、-i=陰極に総体的に傾斜するときが生じるのである。それは、極限ではなくて、一つのプロセスである。
 そして、+i=陽極に全体的に傾斜したときに、同一性傾斜が発生し、-i=陰極に全体的に傾斜したときにも、同一性傾斜が発生すると考えられる。前者は大陽であり、後者は大陰である。どちらのときも、対の極が消えているのである。いわば、裏側に潜在しているのである。そう、これが、端的に同一性傾斜と考えられよう。そして、物質化である。一般に自然・宇宙においては、この極性によって生成流転が生起すると言えよう。東洋哲学や前ソクラテス期の哲学は、これを捉えていた。
 それに対して、人間の場合は、大陽への強い傾斜があると考えられる。ヤハウェはこの大陽を意味しているように思う。もっとも、両極端の一致の法則から、これは、同時に、大陰でもある。この大陽への強い傾斜が西洋文明を支配したのであり、近代文明はその帰結である。
 問題は、どうも大陽への強い傾斜が固着的であり、差異を否定・抑圧・排除し続けることである。このために、西洋文明は「自然」(じねん)破壊的なのである。人類「自然」滅亡的なのである。大陽への傾斜とは、自我主義・同一性主義・父権主義であり、他者破壊的である。
 ジネン(自然)である差異共振性・イデア極性へと回帰すべきときが来ているが、未だに、人類の意識は、大陽主義に閉じこめられたままである。これが、恐るべき反動なのである。大陽の物質主義・自我主義・同一性主義に固着したまま、石化しているのである。
 しかしながら、自然・大宇宙(ジネン・コスモス)の永遠の生成流転を考えると、大陽主義に留まることはできないのである。大陽主義は、大反動になるのである。これは、大破壊的である。
 差異共振エネルギーは活性化されているが、それを純粋に受容することができないのである。【思うに、他力本願とはこの点では正しいのではないだろうか。差異共振エネルギーという他力を受容することが必要なのである。ただし、同一性の知性は保持しないといけない。】そのため、戦争、狂気、犯罪、他の暴力等々が蔓延するのである。
 以上の検討から、先の仮説である+1は-1に対して優位であるということは、ある意味で証明されたと言えよう。しかしながら、正確に言えば、-1は+1 に含まれるということになるだろう。ある特異点として、-1が発生するのである。それが、Media Pointであり、1/4回転である。言い換えると、イデアの極性の特異点として、物質が発生するのである。しかしながら、それは、裏面に差異共振性+1 を潜在させているのである。このように考えて、不連続的差異論の考え方をも包摂することができたと言えよう。
 さて、最後に、先に触れた、可視の光と不可視の「光」について、再考しよう。結局、現象とは何か、という問いになるだろう。端的に、光とは何か、である。
 先には、-1が可視光であり、+1が不可視の「光」であると言った。思うに、前者が粒子=物質であり、後者が波動である。そして、両者で相補性と形成する。量子論である。(これは、ハイデガー/初期デリダ哲学にほぼ相応しそうである。ただし、真の共振性はない。)
 また、先のダークエネルギーの問題であるが、+1が-1に対して、優位なので、その優位の分を計算していないので、ダークエネルギーが必要になるのではないのか、と述べた。
 思うに、物質現象は-1であり、それを支点にして、+1の波動を捉えると、全体のエネルギーが足りなくなるのではないのかと思われるのである。何故ならば、-1は、本来、差異共振性+1ないしはMedia Point Energy(メデルギーMedergyと造語したい)に包摂されるからである。言い換えると、-1は、後者の一面に過ぎないと考えられるのである。やはり、+1 or Medergy >-1である。この左辺がダークエネルギーになるのではないだろうか。【ただし、問題は、イデルギーとメデルギーと+1との関係である。それは、別稿で検討したい。】
 そう、思うに、これは、ハイデガー/初期デリダ哲学にも該当することだと思われる。超越性ないしは差異共振性の欠如である。そのために、本来の差異共振エネルギーが欠落しているように思えるのである。「ダークエネルギー」が必要に思われるのである。つまり、それは、やはり、物質主義-1から事態を考えているのであり、そのため、壁の向こう側が、それに対応するような超越性・差異共振性のない本来的存在や痕跡になると思われるのである。

参考:

「量子力学とは、目に見えない小さな粒子の世界のこと。つまり、分子や原子、またはもっと小さいものの構成要素を研究する物理学の分野の一つです。量子力学に関するサイトをまとめてみました。」
http://maglog.jp/rarirarihaha/Article319014.html
量子力学入門編

2008年04月15日 (19:52)

同一性志向性と同一性中心主義:苦悲の差異とルサンチマンと能動的差異肯定

今日は簡単に触れる(p.s. 簡単ではなくなった)が、これまで述べてきたことを繰り返すことになるかもしれないが、まだもやもやしていること、不明確に感じていることを述べてみよう。
 端的に、自己陶酔の力学とは何か。ここに諸悪の根源があると思える。何故なら、ここには、知、自己知、知恵が欠落しているからである。何故ならば、知、自己知、知恵とは、差異に基づくものであるのに、自己陶酔は、その差異を、同一性像によって暗ますからである。
 思うに、イデアは差異共振性であるから、自己と他者が共存しているが、Media Pointにおいて、同一性鏡像が生まれるのではないだろうか。そう仮定して考察を続けよう。
 Media Pointは、これまで述べたように、即非様相であり、簡単に言えば、AはBではなく、且つ、Bであるという論理である。いわば、矛盾論理である(参照:西田幾多郎の絶対矛盾的自己同一)。図式化すれば、

差異1=同一性=差異2

ということになる。【又は、(+i)=+1=(-i)ということになるのかもしれない。】この同一性が、Media Pointにおいて生じるのであり、これが、端的に、同一性鏡像であると思えるのである。イデアにおいてはなかった同一性がMedia Pointにおいて生じると考えられる。これは、先に述べたように、仮象・仮現性と見た方がいいように思う。つまり、像である。概念というよりは、像である。ヴィジョンやイメージである(参照:ideoとvideoの同根性)。思うに、プラトンの有名な洞窟の比喩であるが、洞窟の壁のスクリーンの影像が、この同一性仮象に相当するだろう。
 ここで、より精緻に考察しよう。洞窟の中には、影像化される物がある、この物の投影像が、スクリーンの影像である。この物と投影像との関係を見なくてはならない。
 つまり、Media Pointにおける同一性とは、この物なのか、投影像なのか、ということである。これは、実に興味深い、核心的問題である。
 思うに、その同一性は、物ではないだろうか。そして、投影像が同一性鏡像ではないだろうか。あるいは、考えを変えて、物が同一性鏡像であり、投影像は、仮象・現象であるという考えもできる。直感では、物が同一性鏡像であり、投影像が仮象である。つまり、後者である。
 つまり、Media Pointの同一性、上記した同一性は、同一性鏡像であると思う。そこに差異が自己陶酔するのであり、その同一性鏡像を原像として、外界の他者に同一性投影を行い、現象界を、いわば、発現させていくように考えられるのである。即ち、Media Pointにおける同一性鏡像が同一性原像であり、そこから、外界に同一性投影が行なわれて、同一性仮象界である現象界を発現させる、ないしは、形成するということと考えられる。
 では、ここで、本テーマの同一性志向性と同一性中心主義をどう考えるべきであろうか。以上に述べた同一性鏡像=同一性原像からの同一性投影とは、同一性志向性と考えていいだろう。では、それと同一性中心主義(自我主義)との関係はどうなのだろうか。
 同一性投影=同一性志向性は、いわば、毒のない同一性ではないだろうか。単なる自己陶酔である。しかしながら、同一性中心主義になると毒があるのである。ルサンチマンがあるのである。この相違をどう考えたらいいだろうか。
 思うに、同一性投影において、同一性化できない対象・他者が出現したとき、自我はルサンチマンを覚えて、その対象・他者に同一性を押しつけると考えられる。つまり、差異=他者が出現したときである。
 このとき、同一性投影=同一性志向性は、同一性中心主義に変質するのではないだろうか。つまり、同一性投影によって同一性化できない差異=他者に対して反感を覚えて、同一性中心主義となり、攻撃・暴力的になるのではないだろうか。
 この同一性化できないという事態はどういうことなのだろうか。直感で言えば、同一性鏡像=同一性原像を破壊してしまう差異=他者の出現する事態を意味するのではないだろうか。同一性投影=同一性志向性は、自己陶酔性をもっているだろう。これが、差異=他者によって解体されるのではないだろうか。
 では、この差異=他者の出現とは何だろうか。いったいどのようにして、差異=他者が出現するのか。同一性鏡像=同一性原像が破壊するとはどういうことなのか。
 少し角度を変えよう。自己の差異=他者性を抑圧している自己同一性=自我、すなわち、同一性主義=自我主義が確かに存するが、それは、どうやって発生するのか。
 同一性鏡像=同一性原像は、自己の差異=他者性を抑圧しているのだろうか。抑圧というよりは、隠蔽、自然隠蔽だと考えられる。ここには、まだ、抑圧はない。思うに、差異と同一性が未分化な状態かもしれない。
 端的に言えば、同一性鏡像とは、Media Pointにおいて自然形成される同一性像であり、差異から生まれるのであるから、抑圧はないと考えられる。それは、自然隠蔽である。自然(じねん)としての同一性である。
 ここで、一神教形成について述べたことを想起するといいのではないだろうか。苦や悲の発現である。苦や悲においては、同一性の自己陶酔は崩壊するだろう。そして、苦と悲を感じる領域であるが、それは、何か。それは、差異、Media Pointにおいてではないだろうか。差異的身体においてである。ここに影が生まれるのである。
 同一性鏡像=同一性原像に基づく自我は、苦や悲による差異に対して、正当的に対処できないのである。同一性は差異を取りこめないのである。すると、ここで、抑圧が始まると言えよう。苦や悲である差異を抑圧して、同一性鏡像=同一性原像に基づく自己同一性=自我は、同一性主義=自我主義に変質すると思われるのである。
 これは、先に言及したことであるが、ここではより精緻に検討したので、これで、同一性主義の発生を説明できたことになる。苦や悲という差異を否定・抑圧・排除・隠蔽する行為が同一性主義=自我主義を生むのである。
 では、差異を肯定する立場はどうだろうか。苦や悲の差異を感受し、それを耐える立場はどういうことなのだろうか。苦や悲の差異によって、同一性鏡像=同一性原像が破壊された心的事態を受けとめるのである。苦や悲を受けとめるのである。(参照:ニーチェの『悲劇の誕生』)これは、一種、闇である。しかしながら、ここから、真の光明が生まれるのである。
 苦・悲とは、差異共振性における否定態である。しかしながら、差異共振性であることには変わりがない。ここの否定態を肯定態に変ずることで、大転換が生じると言えよう。これは、スピノザの能動的観念の意味することだと思われる。否定的差異を肯定的差異へと変換するのである。
 苦や悲に対して、誠実であることがこの契機である。心や魂の再生のきっかけである。(ここで、神仏にすがったままになると、やはり、逃避となるだろう。苦や悲と直截に向かい合わないといけないのである。)そして、苦や悲を能動的に肯定的に、知的に捉え直すことで、大転換が起るのである。(スピノザ哲学は、実質的なイデア哲学のように思える。)とまれ、ここから、差異共振性が見いだされ、自己的自我が生まれうるのである。それは、普遍的人理であると思う。
 それは多くの人に確認できることであるが、問題は、差異共振性が発見されるとはどういうことなのか、ということである。これは、難しくはないだろう。つまり、源泉・根源に回帰するということだろう。源泉・根源・原点の差異共振性というエネルギーに回帰・再帰することである。
 また、問題は、この差異共振性のエネルギーが受動性において、捉えられるというはどういうことなのだろうか。言い換えると、差異共振エネルギーを受容するのであるが、それは、どういうことなのか。決して、攻撃的には、取得できないのである。
 思うに、差異共振性(魂・精神)とは、イデア界の根源的な差異共振エネルギーによって生起していると考えるべきだと思われる。というか、イデア界のもつデュナミス(潜在エネルギー)が、Media Pointにおいて、能動的エネルギー(エネルゲイア)になるのであり、この発現する能動エネルギー=差異共振エネルギーを、当然、受容することになるということではないのか。【魂・精神と差異共振性が混乱しているようなので、整理したい。思うに、魂・精神とは、Media Pointにおいて、形成されるのであり、一種、同一性の仮象ではないだろうか。その根源は、イデアであり、個体性はないように思えるのである。だから、輪廻転生もないのではないだろうか。これは後で検討したい。】
 思うに、同一性の規定を解体したとき、差異の能動的に肯定したとき、感情が共振化すると思われるのである。結局、差異自体が受動性と能動性をもっているのである。そして、苦・悲の受動において、根源的に、苦悩するのである。ここにおいては、苦・悲を能動的観念によって、肯定するしか乗り越える方法はないだろう。そして、そのとき、苦・悲の受容が、差異共振性の受容へと変化するということではないだろうか。今はここで留めたい。

2008年04月06日 (13:15)

性格と精神感覚現象について:性格が相貌に発現するのは、どう説明できるか

性格と精神感覚現象について:性格が相貌に発現するのは、どう説明できるか

テーマ:精神

http://ameblo.jp/renshi/entry-10086015761.html
で、性格と精神現象との関係について論考したが、不十分なので、ここで再検討したい。
 問題は、性格という精神性がどうやって相貌において感覚現象化するのかということである。つまり、端的に言えば、精神が視覚・可視化されるのは、どういう力学なのかということである。
 この問題は一見、超越的光が視覚されることに似ている。通常、現象光を視覚する。しかし、特異な時空間においては、現象光は超越光ともなるのである。これは、Media Pointが開かれる時空間と考えられる。Media Pointが開かれると、単に現象光があるだけでなく、超越光が直接放出されると考えることができるのである。つまり、現象光と超越光が重なるのである。
 しかし、本来、不可視の超越光がどうして、可視化されるのだろうか。思うに、精神的視覚を仮説することが必要なのかもしれない。あるいは、超越的視覚である。いわば、第六感覚である。それを仮定すれば、問題はなくなるのである。
 この視点から、性格の視覚化の問題を見ると、同様に、問題はなくなるだろう。即ち、精神的視覚によって、性格の相貌を見ていることになる。
 しかし、それでいいのだろうか。超越光の場合は、精神的視覚を考えていいように思うが、性格の相貌化の問題に関しては、違うのではないかと思われるのである。なぜなら、Media Pointにおいてではなくて、性格が直接可視化されると考えられるからである。
 問題は、性格が差異ならば、それが視覚化されるとは、どういうことなのかである。それは、同一性化なのだろうか。それは違うだろう。問題は、魂が同一性化によって視覚化=相貌化するときには、単に、同一性化だけではなくて、差異共振性をベースにした同一性化が本来的であると思われるのである。源泉の差異共振性があって同一性化するときには、相貌は善なる性格を反映したものになると思われるのである。
 しかるに、ベースの差異共振性が抑圧されて、同一性化するとき、つまり、同一性主義化するとき、相貌になんらか歪みが現われると思われるのである。
 思考実験的に考えると、魂の波動の問題があると考えられる。同一性化とは、いわば、粒子化である。しかるに、魂の波動は波動として、同一性化された粒子においても存していると考えられるのである。つまり、超越エネルギー(「電磁波」)は、粒子的には、同一性化して、物質化するが、同時に、波動は波動として同一性化すると思われるのである。つまり、エネルギーの二重の様相があると思われるのである。粒子化と波動化である。そして、性格の相貌化については、魂の波動の形態が性格相貌になるのではないだろうか。言い換えると、精神波動形態が性格相貌ということである。
 さらに言い換えると、精神波動の場合は、物質現象化されないということではないだろうか。精神波動は波動として、発現するということではないだろうか。今の段階ではそのように作業仮説しておこう。
 ところで、魂の物質化と波動化の二様を想定することになると、これは、超越光の場合にもあてはまることになるのではないだろうかと思われてくるのである。
 電磁波は端的に、粒子であり、波動でもある。そして、粒子が現象光を形成し、波動が超越光を反映するということにならないだろうか。そうならば、Media Pointを想定する必要がなくなるのである。
 しかしながら、波動感覚ないしは波動知覚があるなら、それは、Media Pointを介して、感覚知覚するということではないだろうか。例えば、性格相貌の場合、主体の開いたMedia Pointの感性として、他者の性格相貌を知覚するのではないのか。そして、陽光の場合も、同様に、主体の開いたMedia Pointの感性において、超越光を視覚するのではないのか。これまで、超越光に関しては、特異な時空間において、Media Pointが開いて、視覚すると考えてきたのである。それは客観的な事象であり、主体性・主観性ではないのである。
 そうすると、齟齬が生じている。思うに、超越光の場合、Media Pointの開きは、外界の場合、内界の場合、そして、両者の場合の三様があるのではないだろうか。そして、性格相貌ではあるが、この場合は、主体の Media Pointが中心であると思う。とりあえず、このように考えておく。
 簡単にまとめると、性格相貌とは、魂の波動形態であり、同一性化ではないということである。

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感覚現象と精神現象の関係:心と感覚身体の連続的同一性と即非性:ロゴス中心主義とルサンチマン

テーマ:メディア・ポイントMedia Point

先に、性格が相貌に現われるということをいい、理論化しようとしたが、不明瞭であったので、ここで再検討したい。
 問題は、精神現象と感覚現象が即非態であることの意味を明快にすることである。
 もう一度、性格が相貌に現われるという現象、いわば、感覚精神現象を出発点にして考察しよう。性格的相貌ということであるが、それは、顔貌という感覚現象において、性格という精神ないし心的要素が現われるということである。単に、目鼻立ち云々ではなくて、顔全体において、ある相貌があるということである。これは常識的な事柄である。
 これは、表面であると同時に、深部を意味する。そう、サインやシンボルと言ってもいいだろう。私見では、心や魂という内部の力学が表面に現われているのである。つまり、心や魂がある感覚的な力ないしは身体的な力を起して、顔の表面に影響しているのである。
 そう、表情というものとつながる面があるだろう。広義の情を考えると、性格的相貌とは、正に、表情である。
 とまれ、心的力学が身体へと転換して、相貌を形成するということである。心と感覚身体との繋がりである。あるいは、精神と感覚身体とのつながりである。あるいは、魂と感覚身体(顔)とのつながりである。
 これは、プラトニック・シナジー理論から明快に説明できる。即ち、Media Pointの魂が、同一性志向性をもち、同一性感覚身体を構成・構造化すると考えられる。この同一性志向性とは連続性であり、魂と感覚身体は連続化するので、魂と感覚身体(顔)が繋がるのである。魂を精神とすれば、精神と感覚身体の繋がりである。
 結局、魂=精神のもつ連続的同一性志向性が、魂=精神と感覚身体とを結びつけているのである。【所謂、心身論であるが、心と物質的身体とのつながりは、この視点から説明できよう。すなわち、物質性は、同一性を介して、心(魂=精神)に影響を与えるのであり、また、逆も同様である。この同一性は微妙である。これについては、後で考察したい。p.s. 結局、同一性は物質であるので、ここの説明は間違っている。結局、心は同一性=物質化されるということになる。しかし、心・即非・物質ということである。】これで、性格が相貌に現われることの解明ができたと考えられる。【p.s. これは、あまりに不注意な言明であるので、訂正して、さらに考察したい。つまり、魂=精神が連続化して感覚身体になるということだが、これでは、性格が相貌に発現することを説明していないのである。それでは、単に、顔の形成にしかならない。
 問題は、当然、顔の物質的な形成だけでなく、性格という精神性が相貌に現象化することの力学の解明である。連続的同一性化は顔の物質形成を説明するが、性格の現象化はどう説明できるのか。
 思うに、身体現象化と精神現象化を分ける必要があるように思える。身体現象化とは、端的に、物質身体化である。それは、遺伝子情報で説明できるが、それは、魂の原物質的波動の現象化のように考えられないだろうか。そして、精神現象化であるが、それは、魂の精神的波動の現象化ではないだろうか。即ち、魂(心・精神)において、波動の区別を考えるのである。ある波動が精神現象となり、別の波動は身体現象となると考えるのである。そして、性格の場合であるが、それは、前者が現象化すると考えることになる。
 しかしながら、問題は、ある波動が精神感覚現象となるとき、その波動が連続化すると考えるならば、それは、物質化となり、精神ではなくなるというように考えられてしまうのではないか。しかしながら、連続化が精神性を発現すると考えることはできるのであるが、それはどういうことなのであろうか。この問題は、重要なので、別稿で論じたい。http://ameblo.jp/renshi/entry-10086132005.html 】
 ここで、精神と感覚との即非態のことを考えると、それこそ、真相・真実であると考えられる。即ち、連続的同一性によって、心=魂=精神と物質感覚身体とが繋がる(連続化する)。それは、「即」の側面である。心・即・身体である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論から見ると、連続的同一性とは半面に過ぎず、実際は、心=魂=精神と物質感覚身体とは不連続性をもっているのである。連続性であり、且つ、不連続性であるということである。これで、本テーマの解明を終えたこととしたい。

 さて、上記で残しておいた、魂と物質を仲介する同一性について、ここで検討したい。この問題は、心(魂=精神)と物質との関係の本質を問う問題であり、実に興味深い。
 問題は、同一性、乃至は、連続的同一性とは何か、である。心=魂=精神がMedia Pointから発生させる同一性であるが、それは、Media Pointにおいては、構造と言えるだろう。即ち、同一性構造である。
 しかし、これは、あくまで、心的構成であり、物質ではないと考えられる。では、この同一性構造=心的構成と物質はどう関係するのか、ということになる。
 思うに、同一性志向性とは、感覚物質(感覚器官)を形成するのではないだろうか。だから、同一性構造とは物質構造であり、ほぼカントの超越論的形式に相当するのではないだろうか。
 とまれ、端的に、同一性とは物質ないしは感覚器官のことであるということになる。だから、魂=精神は、連続的同一性志向性(構造性)によって、物質的感覚器官になるということになる。そして、同一性構造がMedia Pointにおいて、存しているのであり、それは、超越論的形式と考えることができそうである。簡潔に言えば、同一性=物質=感覚器官である。
 だから、端的に言えば、物質とは、心=魂=精神の顕現なのである。正に、イデア論である。しかしながら、物質現象は、根源の差異を抑圧否定しているのである。つまり、差異共振的心・魂・精神を抑圧しているのである。
 この問題は、多神教的魂から一神教的魂への変換にも関係することで、実に重要な問題である。思うに、多神教的魂においては、同一性は差異に包摂されていて、いわば、未分化である。しかしながら、一神教的魂は、差異を否定した、ルサンチマン的同一性である。これは、自我主義の発達と関係するのである。
 連続的同一性による物質化は、最初は、未分化的である。しかし、自我の発達においては、同一性の中心化が起り、差異を抑圧否定するのである。この同一性中心化の意味を考察しよう。
 これは、端的に、差異共振化の排除である。自我中心化・自己同一性中心化(ロゴス中心主義)である。そして、ここには、ルサンチマン(原ルサンチマン)が駆動していると考えられる。この力学を考察しよう。
 この問題も難問の一つであり、また、情の問題から見ても、重要なポイントである。端的に、何故、差異を排除するのか、である。連続的同一性志向性においては、最初は、差異を排除するというよりは、差異をおいて、同一性形成を行うというものであり、差異は否定されていない。しかし、同一性中心化においては、それは否定され排除される。
 この問題は大難問で、明快な解答が出ずに、いわば偏執的に検討を重ねてきた問題である。これまでの答えは、父権的な同一性傾斜が原因となり、差異を否定する同一性中心化が行なわれたというものである。これはこれで、実に明快であり、単純である。
 しかしながら、今は、より精神現象的に考察したいのである。ここで、情の問題で考察したい。最初の連続的同一性においては、多種多様な同一性が形成されるが、根源の多様多元的な差異は残っている。ここでは、ギリシア神話を考えるといいだろう。多様なものが混淆しているのである。それは、差異の情報性(波動・振動)で説明がつくのはないだろうか。あるいは、回転速度かもしれない。
 では、この多様多元的な差異や同一性を否定する同一性中心主義の意味は何か。これは端的に、統一性志向性ではないだろうか。では、この統一性志向性はどこから発するのだろうか。思うに、これは、完全なショート(短絡)ではないだろうか。最初の連続的同一性は、根源の差異を残していたが、統一性志向性は、差異=同一性というショートの状態を志向しているのではないのか。
 ここで思考実験すると、最初の連続的同一性状態においては、差異と同一性が未分化的に併存している。そして、魂は、差異と同一性に間をいわば揺らいでいるのではないだろうか。ある意味で中途半端である。そして、同一性/差異の魂は、現象界における苦・悲哀を経験するのである。「わたし」(自我)は、未分化的であるが、それは、同一性において存すると言えよう。
 先に述べたが、差異共振性は、歓喜であり、そこにおいては、ルサンチマンはありえない。しかしながら、連続的同一性化において、差異と同一性が並存するが、そのとき、現象界において、魂は、苦・悲哀を感受するのである。苦・悲哀とは、差異である。それに対して、同一性(自我)は、怨むのである。そう、これが原ルサンチマンではないだろうか。現象界における差異が受苦するが、それに対して、同一性(自我)は怨恨を覚えるのである。ここがポイントである。
 この怨恨(ルサンチマン)が憎悪の反動力を生むのではないだろうか。つまり、同一性のもつ反動力としての同一性中心化(自我中心化)が発生するのではないだろうか。つまり、反動的同一性力が、同一性中心化、統一性志向性の原動力ではないだろうか。
 ということで、同一性化における怨恨の発生から反動的に同一性中心化が生起すると考えられるのである。この同一性中心主義(ロゴス中心主義)=一神教が生起するには、ルサンチマンが契機となっていると考えられる。この真因であるが、それは、やはり、男性的な同一性傾斜と同時に、言語を絶した酷烈苛烈な苦・悲哀の体験ではないだろうか。砂漠の父権的遊牧民が一神教を生んだのは、それで説明がつくのではないだろうか。砂漠における生存競争のおぞましい苛烈凄惨さがあると考えられるのであり、そこでは、怨恨が過剰に強化されて、統一性志向性が発生すると考えられるのである。そう、凄惨無惨酷烈苛烈な民族闘争があったと考えられるのである。そういう修羅場から怨恨が発生して、統一性志向性(同一性中心主義、ロゴス中心主義)が生まれたと推察できるのである。
 ショートであるから、統一性志向性は、Media Pointを同一性化して、超越神に化すと考えられるのである。

2008年03月31日 (22:15)

同一性主義の集合性について:父権的自己(自我)の問題

先に本件について検討したが、まだ、首尾一貫性が欠けていると感じられるので、再考したい。
 結局、同一性主義のもつ自己陶酔性・自己満足・うぬぼれ等の発生の仕組みについて考察したいのである。自己同一性のもつ快楽についてである。
 これは、憎しみ(ルサンチマン)と対(つい)になっている快楽である。おそらく、憎しみの方が先行している。原ルサンチマンの裏返しとして、この自己同一性=自我の快楽があると考えられる。
 差異(差異共振性)に対して、同一性はルサンチマンを覚え、それを否定し抑圧(制圧)することで、同一性は快楽を覚えるのである。原サディズムである。
 差異とは他者である。原初的には、内的な他者に対して、原ルサンチマンを発生させる。先に私は、内的な他者とは身体性であると言い、端的に、空腹であると言った。あるいは、諸欲望と言っていいだろう。言い換えると、物質身体的欲望である。
 これらは、根源的な魂(=イデア)においては、発生しえないだろう。根源的な魂(=イデア)においては、至福(涅槃?)だけがありえるだろうからである。
出生によって、この原至福状態から他者の生起する物質的現象界に移行したわけであるが、そのとき、端的に、他者が、自己の物質的身体性であると考えられるのである。
 そう、魂の「受精」は、Media Point様態であろう。ここは、まだ、至福の延長である。夢の様態である(思うに、人が見る夢はここではないのか。)しかし、魂ないしはMedia Pointの身体化が始まると、魂は、思うに、差異的身体になる。このとき、他者が生起するのであり、その他者である差異的身体に対して、魂は原ルサンチマン(原憎悪)を感じると思われる。
 つまり、魂は発生した物質的身体の差異と共振することができないのである。そして、この差異を否定するようにして、自己同一性像を投影するのである。つまり、この自己同一性像とは、本来の差異共振像(イデア的な像、おそらく、エイドス)である。この原差異共振像が外界の鏡像と一致して、自己同一性が現象化するということではないだろうか。結局、(原)差異共振像=自己同一性志向性であり、それが、外界に投影されて自己同一性像=自我像が形成されるのではないだろうか。だから、自己同一性像とは、本来は、自己同一性志向性として訂正されなくてはならない。
 とまれ、整理すると、根源における魂の差異・差異共振性があるが、これが、Media Point化して、出生すると、物質化されて、そこに、身体的差異が発生し、魂と身体との齟齬が発生する。そこにおいて、魂は差異共振性から自己同一性志向性を発動させて、外界に投影して、自己同一性像=自我像を形成するのである(鏡像段階)。ここにおいて、自己同一性=自我が発生すると言えよう。
 問題の核心は、魂による身体的差異に対する否定・抑圧の意味である。ここには、実に微妙な事象がある。魂は差異共振性であり、それが、受精し、物質化し、誕生において、身体的差異(他者)化が決定的になるのである。そう、出生がポイントである。胎児は、おそらく、Media Pointの様態にあるだろう。そこにおける物質化は、差異共振的物質化である。他者は明確には発生していないだろう。
 出生において、母胎から切り離されて、魂は身体的他者を感知する。しかしながら、身体的他者とは、本来、差異共振的身体である。つまり、差異共振性のマイナスの側面として、他者があるのである。
 それに対して、魂は自己同一性志向性を発動させて、自己同一性=自我を形成するのである。この自己同一性志向性とは、差異共振的身体のマイナスを否定・抑圧する差異共振的身体のプラスの価値の志向性である。
 だから、ここには、魂の身体の分裂が生起しているのである。本来、差異共振身体があり、そのマイナスが他者であるが、プラスを基盤にした魂の差異共振的志向性が、自己同一性志向性であると考えられる。
 この力学をどう把捉したらいいのだろうか。差異共振身体が歓喜であり、差異共振身体の否定態としての他者が悲哀である(ここでは、スピノザ哲学を基にして考えている)。この悲哀が原ルサンチマンの源泉と言えよう。歓喜の否定としての悲哀があり、そこから原ルサンチマン(原憎悪)が生まれる。
 では、問題はどうして、ここから、自己同一性志向性さらには自我が発生するのだろうか。ここは、問題の最大の核心である。端的に言って、それは、人間つまり幼児の根源的受動性・無力さに起因するのではないだろうか。最初に、差異共振的歓喜があるが、物質的身体における否定的な他者が発生する。それに対して、幼児は無力であり、反感(原ルサンチマン)を発生させると考えられる。
 では、この反感と自己同一性志向性との関係はどうなのだろうか。反感からどうして自己同一性志向性(自我志向性)が発生するのか。【これは、実に、父権神話ないしは一神教、とりわけ、「ヤハウェ教」の発生とパラレルだろう。】
 この身体的他者に対する反感とは、端的に、差異共振的様相に対する否定ではないだろうか。差異共振的身体が苦痛(悲哀)を与えるのであるから、それを端的に否定してしまい、自己救済を求めるのではないだろうか。言い換えると、差異共振様態に蓋をしてしまうのである。差異共振様態を覆ってしまうのである。隠蔽である。否定・抑圧し、隠蔽し排除するのではないか。
 では、この蓋をする、隠蔽するとは、力学的にはどういうことなのか。隠すこととはどういうことなのか。端的に、ヴェールであろう。差異共振様態をヴェールで覆うのである。
 では、このヴェールとは何なのか。これは、目隠しである。自己盲目化・幻想化である。そう、この問題は不連続的差異論において、鋭く追求した問題である。不連続な差異から連続的な同一性の発生の問題である。
 ニーチェは『悲劇の誕生』でディオニュソス的苦悩に対する救済のアポロ的ヴィジョンを提起した。その発想がここで参考になるだろう。ディオニュソスは差異であり、アポロが同一性である。
 思うに、ここで考えるべきことは、差異共振身体の意味である。Media Pointにおいては、差異共振性があり、そこでは、同一性は包摂されている。しかし、出生後、差異共振身体が形成されていくが、この身体とは、端的に、差異の同一性化である。つまり、差異同一性化として、身体化があるのである。そして、ここにおいて、苦・悲哀が発生して、原ルサンチマンが生まれるのである。たいへん微妙な感性意識現象である。言い換えると、身体化=差異同一性化は、差異共振的同一性化である。そして、ここにおいて、苦・悲哀、そして、原ルサンチマンが発生するのである。苦・悲哀・原ルサンチマンとは、基底に差異共振性があるから発生するのである。そして、苦・悲哀・原ルサンチマンが発生した差異共振的同一性様態において、差異共振性を否定・抑圧する同一性の志向性が発生するということではないだろうか。
 整理すると、苦・悲哀・原ルサンチマンが生起した差異共振的同一性身体において、その原因である差異共振性(=他者)を否定・抑圧するようにして、同一性が分離して、同一性志向性となり、自己同一性=自我を形成するようになるということではないのか。物質現象化という同一性化の過程において、差異共振性=他者を否定・抑圧する自己同一性=自我が形成されると考えていいのではないか。
 そして、この苦・悲哀を否定する同一性志向性は、原ルサンチマンを内包しているのであるが、この否定とは、抑圧であり、隠蔽である。すなわち、蓋であり、目隠しである。この原ルサンチマンを帯びた自己同一性=自我志向性は、この隠蔽化によって苦・悲哀を克服したと感じるように思えるのである。苦悩の差異共振性を否定することで、乗り越えたと勝利に陶酔し、そこに快楽を発生させると考えられるのである。【精神分析で言えば、死の欲動の快楽であろう。しかし、精神分析は、近親相姦という欲望を原点にしていて、差異共振性というイデア的根源を見ていないのである。】
 これで、父権的自己である自己同一性=自我のもつ自己陶酔・自己満足・快楽の解明ができたととしよう。
 後、集合性の問題であるが、それは、自我の反射性で説明ができるのはないだろうか。自我を他者に反射せて、自我の集合体を形成すると思えるのである。

2008年03月26日 (18:26)

同一性鏡像について:Media Point の二元性(二重性)と同一性志向性の一元性(二項対立性)

同一性志向性が自己同一性・自我を形成する契機となる鏡像については、これまで何度か述べてきた。しかしながら、まだ、厳密さが足りないと感じられるので、ここで検討したい。
 思考実験的に、かなり以前に使用した図式を使いたい。それは、差異1・同一性・差異2というものである。これは、差異1が差異2を認識するときに、同一性を発生させて、差異2を同一性として認識することを表わしている。基本的には、差異1⇒差異2であるが、この⇒を認識衝動とすると、この⇒の結果が同一性ということである。
 この同一性認識衝動(同一性志向性)であるが、差異1は差異2(他者)に対して、その差異2自体を認識せずに、同一性を投影して、同一性として、差異2を認識するのである。この同一性が一種の鏡像であると言えよう。
 いったいこれはどこから発生したのだろうか。ラカンは鏡像段階を考えているが、果たして、物質的な鏡を介して、鏡像である同一性像を形成するのだろうか。
 私は先に、差異のスクリーンに同一性像を形成する、ないしは、投影すると言ったが、この考え方は、鏡のような外的・物質的なものによる同一性像の形成以前に、内的な、心的な同一性像が形成されるというものである。
 つまり、こういうことである。原点にMedia Point があるが、ここから同一性志向性は、差異を抑圧否定して、同一性を外界に投影するようになるのである。この内的な、差異の抑圧否定において、同一性志向性は差異のスクリーンに同一性を押し付けているのである(いわば、押印である)。
 このメカニズムを考察しよう。先ず確認しておくべきことは、Media Point において、第一に、同一性志向性が発動するということである。これは、当然、差異(差異身体)を抑圧否定する志向性である。だから、Media Point に存する同一性志向性は、Media Point において存する差異を抑圧否定する際、差異に同一性を「押印」すると考えられるのである。このとき、差異がスクリーンであり、それに同一性像(同一性影像)が投影されると考えられるのである。そう、だから、投影とは「押印」・押し付けなのである。そして、このときの同一性像が、思うに、力のある同一性像であり、これによって、外的対象・外的差異に対して、(内的な)同一性を投影・「押印」するのである。
 思うに、内的差異に対する圧力(内圧)が同時に、外的差異に対する圧力(外圧)になるのであるが、この同一性志向性の衝動・発動・駆動であるが、これが、端的に自己同一性=自我衝動と言えるだろう。おそらく、意志と言ってもいいだろう。そして、これが、父権的衝動と言っていいだろう。言い換えると、同一性志向性=同一性衝動=自己同一性・自我衝動=意志=父権的衝動となる。【それに対して、母権的衝動とは、同一性衝動を牽制する意志であろう。つまり、差異志向性ないしは差異共振的志向性である。思うに、本来、人間において、同一性志向性と差異志向性の両極性があるのであり、このバランスが社会共同体・生活世界を保持してきたのではないだろうか。母権社会においては、差異志向性の方が、同一性志向性よりは、優勢であったと思われる。】
 簡単にまとめると、Media Point における内的差異のスクリーンに投影・「押印」される同一性像が内的な同一性像となり、それが外的対象・外的差異へと投影されて同一性認識が形成されて、自己同一性=自我が形成されるということになり、本稿のテーマであるどういう性鏡像であるが、それは、差異のスクリーンに投影される同一性影像がそれであるということになる。
 最後に以上の視点から、ラカンの鏡像段階を考えると、それは、原初の内的な同一性鏡像ではなく、外的な同一性鏡像を自己同一性=自我形成の契機としていることで、見方が転倒していると考えられる。外的な同一性鏡像とは、内的な同一性鏡像の投影像であり、第二義的であると考えられるのである。言い換えると、ラカンは内的鏡面を無視(正に、疎外)して、外的鏡面を媒介にしているのである。この結果は、外的感覚の中心化であり、内的感覚(内観)、言い換えると、感性(魂感覚・精神的感覚・心感)の喪失があると考えられる。つまり、精神分析は精神の分析ではなく、物質的心性分析になっているということになろう。

2008年03月17日 (23:36)

超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)について:狂信・カルトにも関連して

先に次のように述べた。

「そう、ここで、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)の問題(狂信性・カルト)について述べるのが適しているだろう。Media Point と自己同一性(自我)とが不連続であることが認識されていないと、母権多神教は連続的同一性化して、全体主義になると思われるのである。いわゆる、一体感を求めて、国家資本主義的同一性主義支配権力と同一性化するのである。これが大東亜共栄圏や八紘一宇の意味であろう。
 つまり、超越エネルギーと同一性主義のショート(短絡)とは、連続的同一性にあると言えよう。つまり、Media Point ないしは母権多神教は同一性主義のもつ連続的同一性志向によって、全体主義化するのであり、この全体主義化が、ショート(短絡)である。狂信やカルトと通じるのである。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10080680481.html

この考え方は、それ以前のものとは明らかに異なるのである。それ以前の考え方は、超越エネルギーが反動となって同一性主義に結びついていたのであるが、この考え方は、反動ではなくて、超越エネルギーが能動的でありながら、連続的同一性によって、同一性主義と溶融するというものである。
 問題は超越エネルギーが同一性主義に注入されてしまうことであり、本来の差異としての超越エネルギーが喪失されることである。
 では、これはどういうことなのだろうか。これは、正に、同一性志向のもつ連続性のしかるしむる精神行為と考えられる。Media Point から同一性志向が発動する。つまり、本来、差異であるMedia Point から同一性志向が発動するがあ、この同一性志向は連続的志向性なのであり、差異であるMedia Point と同一性(自己同一性=自我)とを連続化するのである。(ほとんど、双魚宮的様態である。対立物を結合しているのである。)
 本来、この差異(正しくは、不連続的差異)と同一性との連続化とはありえないことであるが、実際はありえているのである。これが言い換えれば、即非様態ということである。
 しかしながら、自己同一性・自我は連続的意識をもち、超越エネルギー(差異・不連続的差異・差異共鳴性)と連続してしまっているのである。これが、超越エネルギーと同一性主義とのショート(短絡)の事態である。
 連続的同一性自己意識(自我意識)の中心化により、差異=他者は否定されるのである。これは、同時に、自己における差異=他者の否定にほかならない。私が以前、差異の抑圧否定や反動と言ったのは、このことを指していると考えることができよう。結局、同じことなのである。Media Point からの連続的同一性化が同時に、差異=他者の抑圧否定・反動性なのであり、これが、ショート(短絡)であり、同時に、狂信・カルトへとつながるのである。
 では、問題は、差異=他者をどう認識するのか、その方法は如何に、となるだろう。近代合理主義に欠落しているのは、この点である。差異=他者の問題は西洋哲学的にはポスト・ヘーゲルからであり、(カント:カントはポスト・ヘーゲルになるだろう)シェリング、キルケゴール、ニーチェにおいて明確になると言えよう。もっとも、特異性・単独性(・独異性)ということでは、デカルトやライプニッツに現われている。
 この問題は、西洋近代哲学の根本的問題であるが、東洋哲学においては、仏教において、既に探究されていたあ問題である。
 端的に言えば、差異=他者認識とは、自己認識であり、西洋哲学の一つの出発点でもあるのである。「汝自身を知れ」。言い換えると、内省・省察・瞑想等の問題なのである。つまり、内観・内的認識・内的知覚等の問題なのである。
 これが、人間の知にとって根本的に重要なのである。教育とは本来、ここを基盤にすべきなのであるが、近代合理主義の価値観によって、これが喪失しているのである。外的な認識、外的な物質的認識、数量化された客観的認識が中心化されて、本来の根本である内的認識が喪失されてしまい、上記した連続的同一性が支配的になり、知がショート(短絡)し、狂信・カルト化するようになったと考えられるのである。
 結局、外的知の前提として、自己知が必要なのである。道元は「 仏道をならふといふは、自己をならふなり。」
http://www.satoshi-nitta.com/break/break-33.htm
と言っていたが、正鵠を射ているのである。

2008年03月03日 (02:29)

自我像(鏡像)への同化(同一性化)とは何か

Media Point の原自己(自他己)から自我(自己同一性)を形成するわけであるが、そのとき、自我像(鏡像)が媒介(メディア)となると考えられる。(ラカンは鏡像段階と言っているが。)
 この自我形成のシステムであるが、同一性エネルギーが放出されて自我像を結ぶわけであるが、そのとき、自我像への愛着・快感が生じて、それに固着するのであり、それを中心化するのであり、それが優位となり、それ以外のものが劣位に置かれ、いわゆる二項対立が発生すると考えられるのである。言い換えると、自我像への快楽・好感情(自己陶酔感情)とそれ以外のものへの嫌悪・憎悪の発生である。この自我像に基づく自我形成は、エゴイズム(利己主義・自我中心主義)をもたらすのである。そして、これが究極的には金銭欲、貨幣資本主義をもたらすのである。自我像への固着が原点にあるのである。そして、この自我像の原像・原点が聖書のヤハウェであると言えよう。「我有りて、有り余れる神なり」。これは、超越的自我像なのである。超越的自己同一性なのである。そして、ここに同一性価値としての貨幣・資本が結びつくのである。すての差異が同一性へと還元されて、自我中心主義的に他者=差異価値は裁断されるのである。これは明らかに自然・人類の「癌細胞」である。
 しかしながら、この「癌細胞」が西洋文明を構築したのであり、科学・技術を生み出し、その悲劇的な恩恵を今日先進諸国は享受しているのである。
 とまれ、自我像に基づく自我中心化によって、西洋文明は推進したことは認めなくてはならない。利己主義による推進である。自我中心主義による悲劇的進展である。そして、その結果として今日の「黙示録的終末論」的状況を迎えているのである。
 思うに、この自我中心主義とはいったい何なのだろうか。「わたし」、「わたし」、「わたし」、・・・。この自我の狂気的な衝動は何なのだろうか。このヤハウェ衝動とは何なのだろうか。この同一性狂気衝動とは何なのだろうか。(今日、これに支配されているのである。これがルサンチマン・憎悪、精神病、暴力、犯罪、戦争、自然破壊、等々を生み出しているのである。いわば、諸悪の根源である。)ここには、ある種の盲目性がある。目隠しされてニンジンを鼻先にぶら下げられた馬車馬のように同一性価値へと突き動かされているのである。そう、プラトンの洞窟内の人間でもある。また、仏教の説く無明状態である。自我像・鏡像・偶像(そう、ヤハウェこそ、究極の偶像ではないのか)に支配されているのである。自我像によってパラドクシカルに盲目化するのである。つまり、本来はイデア像・エイドスがあるのであるが、それが投影されて同一性像としての自我像となるのである。イデア像・エイドスの一種の物質化である。物質化としての自我像があるのである。この物質化が本源のイデア=差異を排除しているのである。マテリアル化された自我なのである。物質的自我なのである。物質エネルギーとなった自我なのである。これが同一性狂気衝動の正体であろう。物質エネルギーなのである。これが、世界を支配しているのである。物質狂気エネルギーなのである。これはエントロピーである。原自己であるMedia Point の差異共振エネルギー=イデア・エネルギー=超越的エネルゲイアが、物質エネルギー(エンテレケイア)に変換したままの様態にあるのである。終結・終末・終端様態なのである。
 これは当然自壊するのである。破局するのである。経済恐慌とはその一つの事象であろう。差異共振エネルギーの同一性化とは、本来、矛盾様態・パラドックスなのである。「我有りて、有り余れる」の「有り余れる」が矛盾様態・パラドックスを示唆していると考えられる。即ち、過剰となるのである。ハイパーとなるのである。それが端的に、狂気なのである。
 この過剰が同一性狂気衝動の真因であろう。自我・自己同一性は、その衝動の真の意味を知らないのである。ユダヤ・キリスト教徒ならば、神の衝動と言うだろうが。しかし、ヤハウェ衝動の意味は解明されていない。なぜ、「有り余れる」神なのか。それは、端的に、差異共振エネルギー=超越エネルギーがあるからである。E=m(+ic)*(-ic)⇒mc^2における左辺が存しているので、過剰となるのである。これが同一性狂気衝動=ヤハウェ衝動(おそらく、究極の知を探求するファウスト衝動もこれであろう。これについては後で検討したい。)の原因なのである。
 しかしながら、資本主義は単純なヤハウェ衝動ではない。そこには、差異共振価値創造が入っているのである。新しい差異価値としての商品であるし、また、技術革新も差異価値創造である。また、分業も差異価値創造である。つまり、資本主義には、同一性狂気衝動=ヤハウェ衝動とは別に、差異共振エネルギーが純粋に発動していると言えるのである。
 これは一体何なのだろうか。これまでの私の試論では、純粋な差異共振エネルギーの発現とは、太母文化に基づくのである。つまり、差異共振文化である太母文化の側面を資本主義はもっていると考えられるのである。【占星術的文化史から言うと、双魚宮(魚座)文化なのである。】思うに、イタリア・ルネサンスとは、この差異共振文化を意味しているように思えるのである。そして、プロテスタンティズムはそれの包摂的否定である。換言すると、差異共振性のヤハウェ化である。
 ここまで来ると問題はかなり明瞭になったと思われる。現代のグローバル資本主義の問題とは、「父」と太母との争闘が根源にあるということである。近代主義とは、太母と「父」との争闘エネルギーをもっていたのであるが、「父」が支配的であったのである。それがユダヤ・キリスト教西洋文明の意味である。「父」による太母の支配である。
 しかし、例えば、人間の成長を見てわかるように、成人へと身体の成長が終わると、今度は、精神・知的成長が重要になるのである。(思うに、これが、厄年の一つの意味ではないだろうか。)つまり、成長プロセスにおいて、同一性化=物質化が終了して、エネルギーが心的成長へと転換すると考えられるのである。同一性=物質形成から精神形成へと転換するのである。エネルギーの質的変換が生起すると考えられるのである。
 これが大規模で人類史ないしは文明史にも生起すると考えられるのである。ヤハウェ衝動が終焉して、太母エネルギーが純粋に発生すると考えられるのである。つまり、同一性価値=物質価値形成から差異共振価値形成へと転換するということである。つまり、原太母⇒「父」⇒「子」⇒「聖霊」としての太母という図式が文明史に考えられるのである。そして、現代が新たな太母エネルギー発生の段階であると考えられるのである。

2008年02月07日 (01:26)

自我同一性のもつ反差異共振性について:どうして、自我主義は、差異に敵意をもつのか

自我同一性主義ないしは自我中心主義は、差異共振性=心を憎悪する、敵意をもつ、攻撃する、抑圧する、征服する。他者支配の衝動・情動がある。
 同一性が差異を否定することについては、さんざん述べたが、また、ここで反復することになる。差異共振性=心を否定するというのは、同一性自我にとり、それが不都合であるからである。即ち、差異共振性=心を否定して、同一性自我が形成されているからである。ここには、差異共振性への否定という暴力があるのである。差異共振性=心という共感性を否定する暴力である。
 さて、直感で捉えたことを言おう。エネルギーの問題である。自我中心主義の攻撃衝動にあるエネルギーは何だろうか。これは、否定暴力である。同一性暴力である。他者=差異を自我同一性化する暴力である。
 だから、iが-iを否定する暴力である。否、+1が+1を否定する暴力ではないだろうか。否、+1が-iを否定する暴力ではないのか。三度、否、である。+1が(+i)*(-i)を否定する暴力である。つまり、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1において、右辺が左辺を否定する暴力である。
 宗教で言えば、自己認識方程式は多神教(太母神宗教)的である。しかるに、自我中心主義とは、一神教的である。前者は差異共振性を肯定し、後者は差異共振性を否定しているのである。
 では、後者の力学とは何だろうか。つまり、どういう風に発生するのだろうか。これは、正に、近代合理主義・近代的自我の発生を考えればいいのではないだろうか。即ち、形成された同一性自我(「コギト」)は、同一性を基盤にして思考するのである。そのとき、現前している差異共振性は異質なもの・「異物」となるのである。「差異」・他者であるが、同一性自我にとっては、それは、理解不可能のものであり、否定・排除する対象なのである。デカルトがあいまいなものを排除したのをここで想起すればいいだろう。
 即ち、同一性自我は、主体的に、同一性中心主義的に思考して、差異共振性を否定・排除して、同一性観念知を形成する。それが、近代合理主義になるのである。そして、同一性自我が近代的自我となるのである。
 では、同一性自我の主体性・主導性とはどこから発するのだろうか。これは、これまで述べたように、陽エネルギーの傾斜でいいと考えられる。即ち、+iのエネルギーである。この原同一性のエネルギーが、+1の自我に作用して、差異共振性を否定・排除・隠蔽する近代的自我を形成すると考えられよう。これが近代主義である。
 しかるに、太極の変転作用から、陽エネルギー(+iのエネルギー)が衰退して、陰エネルギー(-1のエネルギー)が賦活されることになる。そのとき、自我中心主義である近代的自我に対して、賦活された陰エネルギーが作用・作動することになる。しかしながら、近代的自我は、この陰エネルギーを正当に受容することができないのである。何故なら、陰エネルギーは、陽エネルギーが形成した自我中心主義を解体・脱構築するからである。つまり、同一性中心主義を解体して、差異共振性を復活させようとするからである。陰エネルギーを受容すると、陽エネルギーと共振して、差異共振性が生まれるからである。
 だから、近代的自我は陰エネルギー(-iのエネルギー)を排除するのである。この排除が攻撃・憎悪・敵対エネルギーになっていると思われるのである。つまり、陰エネルギーを同一性主義が否定するのであるが、そのときの反動エネルギーが攻撃・憎悪・敵対エネルギーであると考えられるのである。思うに、(+ i)*[-(-i)]⇒-1ではないだろうか。この-1が反動的な近代的自我、私がこれまで、口が酸っぱくなるほど言った狂気ではないだろうか。自我自体は+1であるが、近代的自我となると-1であろう。そして、攻撃衝動とは、-(-i)の-(-の部分、即ち、-と-との関係にあるように思われる。
 そう、ついでに言えば、ポスト・モダンとは、陰エネルギーの活性化の精神事態に対する哲学の試みであったと考えられる。しかし、同一性主義ないしは連続性の縛り・拘束が強かったため、差異共振性をもつMedia Pointに到達することができなかったのである。
 しかしながら、時代は、陰エネルギーの活性化が強化され、差異共振性がいわば自然発生するような状況になっていると考えられるのである。即ち、トランス・モダン・エラへの進展である。プラトニック・シナジー理論は、この時代を先取りし、主導する理論であると考えられるのである。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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