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2006年10月01日 (20:39)

深層心理学・心理学・オカルティズム批判:精神分析批判・ユング心理学批判・心理学一般批判、他

今は、簡単に触れるに留めるが、精神分析批判とユング心理学批判を主に行いたい。もっとも、心理学全般批判もあるし、シュタイナーの人智学、その他のオカルティズム批判もある。
 とりあえず、深層心理学批判に限定すると、フロイトもラカンもユングも、自我と無意識との融合を目指しているのであるが、自我とは、同一性・自我=近代的自我であり、これは、悪・悪魔・狂気であるから、解体するのがメタ・モダンとして正義なのであるが、それを、それらは温存してしまっているからである。思うに、深層心理学は、一時は、病者を癒すかもしれないが、結局は、悪化させると考えられるのである。ポスト深層心理学である。同一性・自我=近代的自我の解体が必要なのである。そして、「無意識」を解放するのである。「無意識」とは、差異共振シナジー様相である。そう、不連続的差異論のメディア界と言っては間違いになるだろう。メディア界とは、まだ、現象界と未分化状態にあるのである。つまり、連続・同一性構造(構造主義の構造、即ち、メディア/現象境界)の根があるので、自我と結びついているのである。これが、ポストモダン、ポスト構造主義を、中途半端なものにさせ、頓挫させたものである。
 そして、心理学一般も、自我を残す限り、批判され解体されなくてはならない。また、シュタイナーの人智学も、自我(エゴ)をベースにしているので、批判され解体されなくてはならないし、ヌース理論も、連続・同一性の理論なので、批判され解体されなくてはならない。また、精神世界論であるが、私は読んでないので、確定できないが、クリシュナムルティの思想は、優れているように思えるが、一般に、自我を無くすという考え方は、危険である。自我は批判され解体されなくてはならないのであって、単純に、自我を無くすということではないのである。自我を解体した後に、差異共振シナジー様態としての差異的個・自己が生まれる。このとき、疑似的自我、疑似的同一性は残っているのである。この問題は、とても微妙な点であり、後で検討したいが、今言えるのは、自我・近代的自我が解体して、差異的自己・差異共振的自己が誕生するということである。

p.s. コフートの自己心理学(参考:『〈自己愛〉の構造 「他者」を失った若者たち』和田秀樹著 講談社選書メチエ)が注目されているようだが、この理論は、プラトニック・シナジー理論に共通する面があると思う。つまり、共感性の面においてである。しかし、予測では、不連続的差異としての個・自己をベースにする点で、コフートの自己心理学と異なるように思えるのである。プラトニック・シナジー理論は、差異共振シナジー様相における共感性を説くが、しかし、この共感性は、不連続的差異性という特異性・単独性がベースになっているのである。つまり、個人主義の極限としてのプラトニック・シナジー理論であり、そこから、差異共振性を説くのである。この共振性は、共感性と呼んでいいと思うが、しかし、論理的には、即非の論理なので、不連続的差異の共振としての共感性であることに注意されることを述べておきたい。



参考:

1)クリシュナムルティとは(はてな)
http://d.hatena.ne.jp/keyword/%A5%AF%A5%EA%A5%B7%A5%E5%A5%CA%A5%E0%A5%EB%A5%C6%A5%A3

2)google検索
http://www.google.co.jp/search?q=%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3&start=0&hl=ja&lr=lang_ja&ie=utf-8&oe=utf-8&client=firefox&rls=org.mozilla:ja-JP-mac:official

ジッドゥ・クリシュナムルティ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ジッドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti 1895年 3月11日 - 1986年 2月17日 )はインド 生まれの思想家 。

一般的な分類としては宗教家・神秘思想家になるが、彼の思想は宗教団体的なものとは真逆の方向性を持っている。二十世紀最高の宗教的覚者の一人であるとする声もある。
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クリシュナムルティの生涯

クリシュナムルティは1895年、南インドに貧しいバラモン の家の子として生まれた。母親は神智学協会 の会員であったため、この協会の幹部チャールズ・リードビーターの目に触れる機会に巡り合う。リードビーターは人間のオーラを観る眼、霊視能力の持ち主であったという。リードビーターの目に留まったとき少年クリシュナムルティは泥と垢にまみれたみすぼらしい身なりをしていたが、彼の目には少年が内から発する神々しいオーラが映った。そのあまりのすばらしさに思わず恍惚となったリードビーターは、この少年をひきとろうと言い出す。

神智学協会の教義によればキリスト以来の救世主が現代に現れて人々を導くということになっていた。リードビーターにはクリシュナムルティこそ捜し求めていた救世主となるべき人物であるように思えた。クリシュナムルティはヨ-ロッパの神智学協会に連れて行かれ、「救世主」としての英才教育をうけることになる。

1911年、神智学協会会長アニー・ベザント女史はクリシュナムルティを救世主として星の教団という団体を設立した。クリシュナムルティはまわりの神智学信徒からとてつもなく大きな期待を注がれることになった。霊的修行として眠りについたときアストラル体 となってリードビーターとともにヒマラヤ山中に飛び、クートフーミー大師なる霊的指導者から教えを受けたりもした。翌朝、リードビーターと教えを復唱すると、二人の言葉は不思議と合致したという。このように不思議な体験のこともあって、会員たちはクリシュナムルティを通して語られる霊的教義に関心を集中させる。

しかし崇拝者に囲まれたクリシュナムルティはその状態を喜んでいなかった。彼の本音は神智学の体系的な教説と反対に、「真理は権威を持つものではなく、まして集団に属するものではありえない」というものであった。はじめのうちこそ押し付けられた救世主という役を演じていたクリシュナムルティだったが、徐々に反抗を示し始め、神智学の教義を信じていないとはっきり言うに到る。その後も神智学の信徒を裏切り続け、ついに1929年8月2日、3,000 人あまりの団員がいた星の教団を解散するに到る。この解散にあたりクリシュナムルティは「宗教やセクトによって真理に到達することは不可能である。自分は追随者は望まない。永遠を見つめ、真に生き、何の束縛も受けない自由な人間がいてくれれば充分である」という旨の宣言を行っている。

教団の崇拝者を失ったクリシュナムルティは「フリーの宗教家」としてインドやアメリカをはじめとする世界各地を回り、公開講話、各界著名人との討論会などを行う。講演は大きな反響を呼び、彼は以前にも増す名声をとどろかせる。もともと宗教的指導者であった人物が宗教の組織を真っ向から否定し、宗教から、そして神からも自由であれと言うのはインパクトが大きかった。教団の解散以後、56年間に渡って彼は説き続けた。

クリシュナムルティの最期については、死期を察して一人で静かに息を引き取った等の伝説があるが、「クリシュナムルティ・開かれた扉」によれば、真相はこうである。 1985年の暮れより、体調不良(発熱、体重減少)が続き、なかなか原因が判明しなかったが、翌1986年1月23日、精密な検査の結果、末期の膵臓癌が発見され、死期が迫っていることが明らかになった(これは、本人の予感していた死期よりも、かなり早いものであったらしいことが同書に記されている)。このころ以降、苦痛が耐えがたくなることがしばしばあり、栄養以外にモルヒネや睡眠薬の点滴(時には輸血も)を受けるようになった。しかし、それにも負けず、死ぬまでに整理しておくべき課題(クリシュナムルティ学校や出版の死後の体制等)を議論し、解決していった。そして遺言も済ませ、必要と思われることをなし終えた後、衰弱が著しい中、2月16日午後7時に睡眠薬を通常通り服用、(最初は、苦痛のためなかなか眠れなかったが)徐々に苦痛が減退するにつれ、意識を失いはじめ、2人の(友人でもある)医師と3人の友人が見守る中、1986年2月17日の午前0時10分に死去した。伝説とは違い、特別な最期ではないが、これは彼の思想や言葉の価値を何ら減するものではない。
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クリシュナムルティの思想

クリシュナムルティの思想の中心となる主題はあるがままの受容である。クリシュナムルティにとって「あるがまま」とは、実在、真理、神、愛、自由、無限、永遠、創造などと同義語である。その対極として闘争、矛盾、恐怖、欲望、習慣、努力、自我、観念などが挙げられる。後者が前者(真理)と対極になるのは、それらがあるべきものを求める精神の働きであり、あるがままのものからの逃避であるからにほかならない。人は物事を比較したり批判したりあるいは同一視して理解しようとするが、このような精神活動は観念を生み出すばかりである。

クリシュナムルティは観念は真理を捉えることができないと言う。真理を知ることができるのは直接の経験だけである。観念は正しい理解をもたらさないばかりか、争いをもたらす。政治的イデオロギーや民族のアイデンティティー、宗教的信条の対立は世界中で争いの源になっている。「神を信じる者は神を発見することはできない」とクリシュナムルティは明言している。神とか悟りを開いた人にすがろうとするのは不安から逃れようとする精神の働きであるという。

自分が矮小な存在であることに耐えきれない精神(自我)はより大きな存在、民族や国家や神と自分を同一視しようとする。そして他人も自分と同じ信念を持つように強いる。しかしこのような大きな存在の正体は自我が投影した幻影に過ぎないため、人を結合させるどころか分離させるばかりである。クリシュナムルティは行為が観念のしもべとなることを激しく糾弾する。

世界に争いをもたらす観念の正体とは何か。それは記憶と欲望だとクリシュナムルティはいう。過去の結果としての記憶、そして記憶に基づいて未来へ投影される欲望である。クリシュナムルティは時間を物理的時間と心理的時間に分け、心理的時間を否定する。物理的時間は事実であるため否定できない。事実は否定できないが、事実についての見解は否定できる。精神がつくりだす過去や未来といった時間の観念(心理的時間)は実在である今を犠牲にしようとする。過去の残り滓である記憶は物事に対する固定的な反応パターンを形成し、現在を新鮮に捉える妨げとなる。不安や恐怖も反応パターンの虜になっている精神が生み出したものだという。恐怖とは「未知なるものへの恐れ」というより「既知なるものを失うことへの恐れ」だとクリシュナムルティは指摘する。時間を媒介として物事を見ることは破壊的作用をもたらす。死が恐いのは生を失うのが恐いからである。孤独も屈辱も自分が愛着しているもの、記憶として価値ありと思っているものを失うことへの恐れである。

精神は失うことへの恐れから内部にも外部にも様々なものを蓄積しようとする。ところが蓄積したものはそれを失う恐怖を生む。かくして精神の活動は悪循環におちいる。新しい型を作ったり、古い型を強化したりしても型にはまっていることは変わらない。精神活動内での時間観念を拒否するクリシュナムルティは未来への希望や努力すら裁断する。未来はあるべきものという観念にすぎず、あるがままのものではないからだ。時間を当てにするかぎり、つまり「いつかは」こうなってやろうと思うかぎりあるがままのものと向かい合うことはできない。未来において何かになろうとする欲望は現実との矛盾で闘争となる。悟りを開きたいとか神の意志に従いたいというのも一つの欲望である。

時間から離れ、真理を理解するにはどうしたらよいのか。精神の活動が静まり、努力の産物でない静寂があるときに永遠のものが出現するとクリシュナムルティは言う。愛があるときに観念が終焉するとも言う。あるがままのものは常に動いており、神や真理は一瞬ごとに生じる。逆説的だが精神活動が終わったときに限りない創造が生まれ、自我が終わったとき絶対の自由が生まれる。常に新しい実在を知るには記憶、信念などの条件づけは邪魔な足かせである。クリシュナムルティは真理に到るための訓練方法は説いていないが、彼の方法に近いものが完全に受動的な自己凝視である。精神によって凝視するのではなく、精神を凝視すること。観念に目を向けず、観念を生み出す思考の過程そのものを理解することが彼の言う自己凝視である。精神の働きの全体を見つめることで自我を支配しているものを理解するのである。ただし自我を支配したり終わらせたりする実体があると考えてはならない。根源的自我とか神を想定するのもまた、自我のよりいっそう強い働きだと彼は言っている。

クリシュナムルティは自己を理解することは関係を理解することだという。人は単独では生きられない。生きることは関係の連続である。関係の理解が人と生の問題を解決する。クリシュナムルティにとって真の関係とは愛の関係である。ここで言う愛は「嫌い」の反対の「好き」とは違っている。好き嫌いや損得の関係は孤立なのだという。そのような感情に基づいて関係を求めれば、対象が得られなかったり飽きたりしたときには関係を変えてしまう。(私)の感情、(私)の利益からはなれ、ひたすら自分の全体を委ねる愛のことをクリシュナムルティは言っている。愛こそ人と生の問題を解決できる。思考によっては解決できない。

思考は今まで人の問題を解決しなかったし、これからも解決できないだろうとクリシュナムルティは極言する。思考は部分しか見ないので、思考すればするほど問題は細分化され、複雑になる。理論を探求するのではなく事実を見つめること、部分ではなく全体を見つめることで問題が解決されるという。特定の問題の枠組の中では思考や努力や知識や諸々の精神活動がうまく働くことはあるが、クリシュナムルティが提示しているのは個々の問題の解決方法ではない。問題を生み出している枠組そのものを変える、本質的な生の変容の方法をクリシュナムルティは提示しようとしているのである。
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参考文献

* 『自我の終焉』J.クリシュナムーティ 根本宏、山口圭三郎訳 (篠崎書林)
* 『自己の変容』クリシュナムルティ 松本恵一訳 (めるくまーる)
* 『クリシュナムルティ・人と教え』クリシュナムルティセンター編 (めるくまーる)
* 『20世紀の神秘思想家たち』アン・バン・クロフト 吉福伸逸訳 (平河出版)

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3 " より作成

カテゴリ : 神秘思想 | 思想家 | インドの宗教家 | インド哲学 | 1895年生 | 1986年没
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2006年04月23日 (19:27)

弁証法構造と同一性構造:メディア/現象境界の弁証法構造の超克とポスト・モダン理論

弁証法構造と同一性構造:メディア/現象境界の弁証法構造の超克とポスト・モダン理論

先の考察では、メディア界は、光知/光の差異の領域となった。光知=思惟であり、光=延長である。そして、これが、現象界では、分化して、思惟と延長の主客二元論が発生するのである。問題はこの分化の意味である。ゼロ度の徹底として、この分化があるのであるが、それは、同一性衝動である。差異と差異との空間をゼロ度から無へとする衝動である。これは、1/4回転による必然的衝動と言えるだろう。この同一性衝動の帰結として言語が発生するのである。とりわけ、表音文字言語である。
 問題は、この同一性衝動の力学である。これは、メディア界の差異を否定・無化する暴力をもつのである。他者である差異を否定・無化する暴力力学をもつのである。即ち、同一性による二項対立の発生である。西洋二元論の発生である。(ところで、先に、メディア界と現象界の境界として、弁証法構造を説いたが、これは、メディア界的対極性構造と現象界的同一性構造の混淆・折衷構造であり、あいまいな構造である。即ち、メディア界的側面をもっていたり、現象界的側面をもっていたりする、不明確な、一種虚偽的な構造なのである。倫理的には、無責任な構造である。差異であったり、同一性であったりするからであり、自我中心主義に利用されるからである。虚偽・ペテン・欺瞞構造とも呼べるだろう。これは、他者だけでなく、自我をも騙す構造なのである。これは、政治家、役人、マスコミ人、文化人、知識人等の精神構造とも言えるだろう。有り体に言えば、二重人格ないし多重人格構造である。そう、日本人の指導者層は、このタイプの人間に満ち満ちていると言えよう。これは、換言すれば、父権的自我構造である。
 ここで、付加すれば、この弁証法構造は、両義的であるとは言え、同一性衝動が主導的になるので、同一性構造の方が、対極性構造より支配的であるのである。また、この構造は分裂的であると言えるのである。一方で、他者を肯定しつつ、同時に、他者を否定するのである。しかし、支配的なのは、他者否定性=同一性なのである。即ち、他者・差異を肯定する姿勢を顕示する(パフォーマンス)が、実相は、他者・差異の否定・無化という暴力なのである。あくまで、他者・差異の肯定は、ポーズに過ぎず、主体・中心は、自我同一性主義・利己主義なのである。これは、権力者の「精神」である。
 もっとも、これは、無自覚の構造であり、傲慢の構造であり、自滅の構造なのである。自我は、他者・差異のためにあると錯誤しつつ、利己主義を行為するのである。無意識のうちに、専制的になっていて、暴君になっているのに気がつかないのである。独裁者の構造なのである。
 だから、この弁証法構造とはもっとも危険な構造であると言える。ヘーゲル/マルクスの弁証法が、どんなに、人類に災厄をもたらしたかは、想像を絶するのである。そして、キリスト教三位一体にも、この弁証法構造があると思えるのである。汝自身の如く隣人を愛せよ。これは、正に、弁証法構造であろう。隣人は差異であるが、それを自我=同一性とせよということである。
 問題は、弁証法構造と同一性構造との違いである。前者は対立物の統一の思想をもつ同一性構造である。同一性構造は確かに、暴力的構造であるが、前者のイデオロギー性はもっていない。前者は、他者・差異への志向の見せかけをもっているから、規模が全体的、全体主義的になるのである。同一性構造だけなら、例えば、言語同一性を考えればいいのであり、これは、誰でも日常行なっている暴力である。しかし、弁証法構造の暴力は、はるかに、たちが悪いと言えるのである。それは、利他的な見せかけをもっていて、他者や自己自身を欺くからである。つまり、イデオロギーや一神教的宗教の構造なのである。これは、ほんとうにたちが悪いのである。自己を善と思っているからである。
 この弁証法構造を解体するための知恵が必要なのである。仏教が、もともと、このような脱構造の知恵であったと言えよう。現代では、ポスト・モダンがそのような知恵を志向したと言えよう。結局、ポスト・モダンとは、同一性構造と弁証法構造を超克するものであったと言える。しかし、それは、後一歩で、挫折してしまったのである。その原因については、これまで述べてきたのである詳述しないが、簡単に言えば、対極性構造(=東洋思想)まで、ポスト・モダンやポスト構造主義は進んだのであるが、そこで、留まったのである。即ち、ニーチェやフッサールはその先の根源的差異まで進んでいたのであるが、ポスト・モダンはそこへ進展する途中で留まってしまい、根源的差異を十分に理解できなかったのである。
 結局、不連続的差異論によって、ポスト・モダンは根源的差異に到達して、ニーチェやフッサールの高みを回復して、根源的差異イデア論となったのである。フランス的ポスト・モダンの混乱を超克して、東西統一的ポスト・モダン理論が創造されたと考えられるのである。そして、現代は、ポスト・モダンに対する反動の時代となっているのである。弁証法/同一性構造主義者が、支配的なのである。理論的最前線がへたれているのである。今や、不連続的差異論の時代となったと言えよう。東西文明、文系・理系を統一する超理論である。そして、多様な分野・領域へと創造的に展開することで、絶対的パラダイムの変換、パラダイムの相転移を形成していくだろう。これは、人類・地球進化となるだろう。

2006年04月07日 (08:26)

どうして、現象界・同一性自我の世界観が強固なのか:言語同一性構造とポスト・モダン主義

以前も触れたが、どうして、人間は、無明、自己無知なのか。どうして、可視界を本当の世界と見るのか。どうして、物質的合理主義を信じるのか。どうして、近代合理主義は強固なのか。どうして、近代的自我、自我は強固なのか。
 これは、一つの問いである。イデア界の永遠の回転を考えると、不連続的差異・元素差異・イデアは、現象界で留まることはないのであるが、現象界の世界観が支配的なのは、何故か。しかし、これは、愚問かもしれない。イスラム教の信徒、キリスト教を信じるアメリカ人、など、信者が多いのである。おそらく、現代の日本人が、世界でもまれな唯物主義者なのだろう。
 問題は、自我はどうして強固なのかに変えなくてはならない。しかし、それも愚問かもしれない。何故なら、先の考察から、自我は、イデア界に関係していると考えられるからである。つまり、不連続的差異・元素差異・イデアの先端的表出としての自我が考えられるのである。つまり、ヘッド、キャップ、 capitalとしての自我である。終点・終端としての自我である。否、そうではない。問題は、同一性構造の強固さである。人間が、メディア界的エネルギーをもっても、それが、純粋にイデア界に達するよりは、現象界的同一性との結びつきをもつのである。これは、アイロニカルな没入の問題でもある。自我個体の枠を超えられないということでもある。これは、なかなか難問である。
 思うに、言語知性と関係するのではないだろうか。生活するために、言語は必須である。そして、言語は、本質的は、同一性である。固有名は確かに、特異性をもつが、しかし、それでも、共同体的な一体性を帯びるのであるから、純粋な特異性ではない。簡単に言えば、言語は、ヘーゲルの個別性=「普遍性」に相当する。あるいは、マルクスの交換価値である。そして、これは、同一性構造と共通する。例えば、「このコップ」という言葉は、基本的には、個別性=一般的普遍性をもっているだろう。つまり、言語は、個別=一般性の記号である。つまり、差異・特異性を排除して、同一性を確立する記号である。ここで、デリダのロゴス・音声言語中心主義批判を想起する。ロゴス批判はデリダの勘違いだと思うが、音声言語に関しては、正鵠を射ているのではないだろうか。なぜなら、音声言語は構造、構造論的であり、2項対立的であるからである。例えば、hon(本)とbon(盆)において、hとbとが対立構造を為していて、hかbかの二者択一となっているのである。つまり、この対立構造が、同一性構造と考えられるのである。つまり、中間的差異を排除してしまう排中律構造をもっているのだから、同一性構造と言えるだろう。 
 結局、言語使用によって、人間は、同一性構造が強化されたと言えるだろう。そして、近代的自我は、言語にウェイトを置いたので、同一性構造が、固着したと考えられるのである。つまり、人間における言語使用、とりわけ、音声言語使用が、同一性構造を固定化したと言えるだろう。これが、本件の問題の答えである。
 ここで想起するのは、天才的な先駆的なポスト・モダンの哲学的作家のD.H.ロレンスであるが、彼はプラトニズムを憎悪し、言語を超えた世界を希求したが、そのプラトニズムは、実は、近代西欧化されたプラトニズム、つまり、言語としてのイデアのプラトニズムである。それは、本来のプラトニズムとは異なるものである。そして、言語を超えた世界とは、差異の世界であり、イデアの世界であったのである。奇しくも、ロレンスは、近代主義の言語同一性主義を超えたメディア界やイデア界を希求したのである。
 この観点から、ポスト構造主義を考えると、それは、同一性言語構造からの脱却の探究であると言えるだろう。しかし、後一歩で、いわば、挫折してしまったと言えるだろう。イデア界とメディア界、不連続的差異と連続的差異を混同してしまったのである。しかし、広義のポストモダン主義は、脱構造、脱同一性構造、脱言語同一性構造への志向ということで、普遍性をもっているのである。そして、差異の不連続化によって、ポストモダン革命は、徹底するのである。言語同一性構造から脱出できるのである。
 ついでに、今日の反動的狂気について言及すると、それは、ポストモダン理論の行き詰まりに関係しているのであるが、賦活された反転のメディア界のエネルギーが、イデア界へと進展せずに、現象界へと還流していることによると考えられるのである。つまり、近代主義(近代合理主義、近代的自我)の枠組、唯物論的主客二元論の枠組から脱して、脱構造主義的な、内在的超越論的世界(メディア界やイデア界)を構築できないために、反転の賦活したメディア界のエネルギーが塞き止められているために、それが、狂気衝動となって、反復強迫的に、自我を急襲して、同一性暴力化するのである。これが、現代の、近代的反動狂気の正体・真相であろう。今日の精神病理の真相だと思うのである。
 私としては、ポストモダンの「進化」としてパラモダンへの転換を言うのである。それは、脱近代主義である。ディーモダンである。脱同一性構造主義である。ディー・アイデンティフィケーション主義である。ポストモダンの進化、進展としての不連続的差異論である。不連続的差異イデア論、不連続的差異プラトニズムである。脱自我個体主義である。脱個体としてのイデア界の肯定である。

2006年04月02日 (16:02)

差異共立問題:ポスト・ポストモダンないしパラモダン理論

後で検討したいが、政治経済社会文化自然総体としての世界の「科学」として、不連続的差異論を考えると、現象界、現象体は、イデアを内包したメディアの現象した世界・個体である。つまり、現象は、超越論的に、イデア/メディアを内在させている。簡単に言えば、(潜在界:イデア/IM境界/メディア/MP境界/)顕在界:現象界・個体・である。近代主義は、顕在界を超越論的形式(MP境界)=構造によって分節化しているのである(カント)。しかし、これは、まったく、潜在界を無視した認識である。近代以後、この潜在界への探究が様々な分野・領域で為される。ポストモダンやポスト構造主義と呼ばれた思想運動は、この潜在界の探究の運動である。
 結局、現実とは何かという問題でもある。現実とは、現象界だけでないのは、当然である。自然科学は、目に見えない、素粒子の世界を探究しているのである。また、哲学は、現象学によって、現象背後の世界を探究していると言えよう。超越論的世界を探究しているのである。それは、カントが理論的探究を放棄した物自体の探究と言っていいだろう。ポストモダン理論は、現象学をなんらかの形で継承する、現象背後の潜在界の理論であると考えていいだろう。
 しかし、不連続的差異論によれば、ポストモダン理論の潜在界の探究は中途半端であったのである。なぜなら、潜在界の二層を混同していたからである。即ち、イデア界とメディア界との混同である。とまれ、二層の潜在界がつきとめられたのであり、これによって、認識が決定的に革新されるはずである。例えば、現象が、二層の潜在界をもって力動していることがわかるのである。これまで、不連続的差異の内在するイデア界・イデア層が知られていず、メディア界・メディア層中心の潜在界をもって、現象の内在・潜在力学を捉えられていたと考えられるのである。メディア界・メディア層とは、連続的差異の潜在・内在界であり、そこは、差異が共振していると考えられるのである。ここでは、差異が生成変化するのである。量子力学の世界と考えるといいだろう。粒子は波動となり、波動は粒子となるのである。ここには、不連続性と連続性が並存しているのである。ここは、差異が共振するという連続性をもっているのである。
 しかし、不連続的差異論は、共振的連続性をもたない、根源の差異、不連続的差異を発見して、仮説しているのである。これが、究極の「素粒子」ということができるかもしれないが、しかしながら、これは、物質ではなくて、イデアなのである。ヌース理論で言えば、ヌース(精神)である。つまり、不連続的差異であるイデアが連続化・共振するものを素粒子と考えるのである。
 とまれ、そうなると、潜在界を認識するには、現実を理解するには、メディア界的理論、例えば、量子力学だけは不十分であることがわかるのである。不連続的差異の潜在・内在的現実があるのである。(思うに、ラカンが、無意識の原初を現実界と呼んだのは、鋭敏であったのだろう。)この事象を把捉しなければ、現実は捉えられないだろう。たとえば、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の真相を理解することができないだろう。
 ポスト構造主義を含めたポストモダン理論は、メディア界/現象界の理論、あるいは、IM境界/メディア界/現象界の理論であった。ここでは、不連続的差異、絶対的差異がないために、メディア界の差異は、現象界の同一性構造暴力に「感染」するのである。ポストモダン・リバタリアニズムが、原理主義に変容するのである。ここには、現象界の二項対立・二元論・父権的暴力が作動していると言えるだろう。(パース哲学で言えば、第二性である。)だから、ポストモダン理論では、現実は、現象界中心に回帰してしまう。正しく言えば、知性、認識、意識は、メディア界/現象界の連続・同一性の世界の袋小路から脱出できないのである。ポストモダン理論が、今日、衰退したのは、必然であると言えよう。なぜなら、それは、近代主義を解体し、メディア界を解放したが、現実がそれに追いつき、もはや、理論的価値がなくなってしまったからである。そして、アイロニカルな没入といういわば反動が襲っているのである。(現代日本の小泉全体主義は、そういうものだと思う。しかし、フランスの新雇用法CPEへの大抗議運動は、ポストモダンの乗り越え、即ち、ポスト・ポストモダンないしパラモダン運動を感じさせる。)
 不連続的差異論は、この状況の脱出の地平を切り開いたと考えられる。それは、本来、ポストモダン理論がもっていた特異性・単独性の理論を進展・深化させたと言えよう。現象界の暴力を乗り越える不連続的差異の共立の理論となったのである。これは、あらゆる連続的構築物を批判して、脱構築して、根源的差異、絶対的差異、不連続的差異を剥き出しにするのである。ここにおいて、真の連帯、共闘、真の民主主義が可能となるのである。私見では、新自由主義は、社会主義化した資本主義の清算の意味をもち、ある意味でポストモダンである。しかし、当然、それは、反動的なのである。
 結局、潜在界を二層とすることで、現実の把捉が深化したのである。これは、認識・意識・知性の大革新であり、知的進化とも言うべきもののように思えるのである。個体は不連続的差異なのである。ここでは、一切の旧態の関係が破壊されて、新たな共立関係が発生するのである。現実は、新たに、イデア界・イデア層・不連続的差異層を含んで、展開することになるのである。三重構造の現実が今や出現したのである。そして、これは、永遠回帰を志向しているのである。そう、根源的差異・イデアが今や、現実において、現象において賦活され活動しているのである。イデア・エネルゲイアである。イデアがエネルギーとなっていると言えるのである。これは、メディア・エネルギーとは異なる作用である。
 イデア・エネルギーとは何か。思うに、メディア界を介さずに、直接・直截に、イデアが現象界に作動するエネルギーのことではないだろうか。ここで、ドゥルーズがラカン精神分析における想像界、イマジネールな世界を嫌っていたのを想起する。確かに、想像力の世界は、メディア界であり、連続・同一性を強く帯びるのである。優れた芸術は、脱想像力的である。例えば、ルイス・キャロルの作品は、メディア界的連続性を破壊して、不連続的差異的世界を形成していると言えよう。「モダンアート」も本来そうである。メディア界の破壊なのである。つまり、「モダンアート」は、本来、脱メディア界、脱ポストモダンなのである。つまり、イデア・アートなのである。(コンセプチュアル・アートと呼ばれるものもそうだろう。)
 イデア・エネルギーとメディア・エネルギー。後者は、量子力学のエネルギーである。しかし、前者は、ポスト量子力学、ポスト素粒子論のエネルギーであろう。今日、ニュートリノに質量が確認されて、標準理論は破綻したのである。メディア界がエネルギーならば、イデア界は、ポスト・エネルギーではないのか。あるいは、超エネルギーである。光がメディア界のものならば、それは、超光である。ポスト光である。ロレンスが黒い太陽dark sunを説いていたのを想起する。ダークエネルギー? イデア・超エネルギーとしてのダークエネルギー? デュナミスの超力? とまれ、ここで、ポスト・エネルギーとして、イデア・デュナミスを仮説しよう。無量光の力? 太陽を超えた太陽、黒い太陽?そう、可視の太陽は、メディア界的太陽である。量子力学的太陽である。それを、現象界的同一性の視覚で、知覚しているのである。しかし、イデア界の太陽を、量子論では見ていないのである。これは、当然、プラトンの善のイデアであり、ロレンスの黒い太陽に相当するのではないだろうか。
 とまれ、このイデアの力を理論化しなくてはならない。後でさらに検討したい。

2006年03月31日 (04:02)

差延

差延
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差延 (différance) とは、哲学者 ジャック・デリダ によって考案された「語でも概念でもない」とされる造語。およそ何か或るものとして同定されうる(アイデンティファイできる)ものの不可避的な前提条件としての、根源的な「ずれ、遅れ」、空間的で時間的な差異化を指す。原・痕跡、あるいは原・エクリチュールとも表現される。
目次
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* 1 表記
* 2 前史
* 3 概要
* 4 フッサールの現象学との関係
* 5 ハイデッガーの存在論的差異との関係
* 6 関連書誌
* 7 関係事項
* 8 外部リンク

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表記

フランス語 の名詞 différence (差異 )は動詞 différer に由来する。この動詞には「異なる」という意味のほかに、「遅らせ、先延ばしにし、留保する」という意味もある。そこで、eをaに変えることで、 différer の現在分詞形である différant を経由して名詞化した形となり、 différence で失われた「遅らせ、先延ばしにし、留保し、後にとっておく」という意味を担わされた名詞として différance が得られる。

また、デリダは-anceの形からの名詞化であることから、ギリシア語 でいう中動態 のように、能動態 と受動態 の間で宙吊りにされた、再帰的なニュアンスを持つ名詞であることを示唆している。(différanceは能動・受動の差異の手前にあってその前提をなす自己差異化の運動を指す)

また、この二つの形は発音の上では区別がつかない。そのことによって、この区別が声の次元ではなく、文(エクリチュール )の次元に存在することが示唆される。(différanceは声(フォーネー)が直接性において文に優越するというモデルに依拠する音声中心主義 への批判を伴い、そうした直接性をその不可避な前提として予め成り立たせている間接性・媒介性を指す)
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前史

différance は差異についての20世紀に入って再び活発になった哲学的な思考の流れの中に位置する。

ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル は「AはAである」の同一性の判断について、この判断は同一性だけではなく非同一性をも意味している、と述べた。「Aは」のAと「Aである」のAは、少なくとも概念的には異なるものとして識別されている。すなわち、同定においてすら、Aは二重化され、自己自身に対して差異化されなければならない。ヘーゲルにおいては、この差異化が弁証法 を駆動するが、その差異化は止揚 において総合されることが、あらかじめ展望されている。

また、ヘーゲルは、さまざまな多様性をなす諸々の差異が構成されていく起源には、もはや何者にも媒介も規定もされない、根源的な直接性である一者があると考えた。この一者が、あたかも生物学的な卵割のように区分されて差異が生じて行き、弁証法的な運動によって多様化し、歴史が進展していく。

こうした、ヘーゲルによってひとつの完成に達した、同一性の支配に服した差異の概念と、それに依拠した「形而上学 」を批判する哲学的な傾向が、20世紀に入って、フリードリッヒ・ニーチェ 、フェルディナン・ド・ソシュール などの影響のもとに発生した。

ニーチェは差異を価値と意志と力の観点から考え、差異を必然的に価値的な、還元できない複数の力の拮抗として捉えることで、そこに安定した同一性への収束の保証も、同一性による支配の根拠も存在しない、と主張した。また、力は、二つの量の間の差異としてのみ現れえるもので、それ自体として力は把握できない。この原因のない効果としてのみ存在するという点で、différanceへと力としての差異は繋がっている。

ソシュールはその1906年 から1911年 に行った一般言語学に関する講義のなかで「言語には差異しかない」と述べた。彼によれば、記号の意味は、他の記号との違いによってしか規定されていない。ひとつの記号は他の諸記号が「不在において」介在している限りで意味しうる。しかも、その他のものは、その記号それ自体においては不在であるから、あらかじめどういうものかは決して規定されない。

このことは言語論的転回 を参照するまでもなく、それ自体ひとつの記号であるところの哲学的な概念、とりわけ、他のすべての概念がそこから意味を汲み取っており、他の概念には依存していないとされる、形而上学的で超越的な観念やそこからなる体系にも波及せざるを得なかった。
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概要

デリダはこのソシュール的な差異のあり方を痕跡として捉え、そこに時間的な遅れ、ずれを見出した。

言語においてある語が何かを意味するとき、その語は、意味されているものの代わりに、我々に対してたち現れて意味する。代理・代表・表象する(represent)するということは、一方では代理なしでは現前(present)しないものを現前させることだが、他方では直接には現前させない、ということでもある。代理するということは、不在の形で現前させるということでもある。

したがって、意味のあるところには、つねにすでに、他への参照、あるいは、他による媒介が働いている。そして、そこで不在の形で介在する他のものは、しかし、あくまでも、その記号とは異なるものである限りで、その記号自身によってはコントロールできないものであることから、そうした根源的な媒介性の関係、基本的な差異化の運動には、必然的にずれと遅れが孕まれざるを得ない。

このことは別の形で言い換えるとむしろ順番は逆であって、意味がそこにあるためには、その記号は、他との関係を必要とする。そして、その為には、他と異なることが必要になる。そこで、或る他との差異化の運動がまずはじめに必要となる。しかしこの差異化は、必然的に、時間的な差異化でもある。この、他との差異化の側面が「ずれ」であり、時間的な差異化の側面が「遅れ」である。意味を為すためには異ならねばならないのだから、形而上学 が想定するような、「透明でずれも遅れもない関係」=「直接性」というのは幻想に過ぎない。

また、およそ何かあるものが、それとして同定(アイデンティファイ)できるということは、それが反復可能性 を有していなければならない。繰り返されうる記号だけが、同定するものと、同定されるものとの二つに二重化されうる。識別可能な二つのものだけが同定可能であり、そこにはまずはじめに差異がなければならない。したがって、何か同一性を保ち、何らかの体系の支えになるような根源的な概念を考えたとしても、それがまさしく同一性を保ち、現前するものであるかぎりで、その手前にあらかじめ差異化の運動、différance が存在して、内的な同一性を引き裂いている。

ただし、デリダは差異化という表現に対しては、それが、その主語である何かの実体を想定させてしまう能動性を意味するという点で、次善の表現であるとして留保している。différance は、ひとつの効果、あるいは効果を生む作用であるが、その主語、主体、原因は持たない。

こうして、「つねにすでに」いかなる記号や表現、概念、存在、同一者においても、他への参照と他からの遅れ、他なるものの痕跡としての、不在のものとの関係、不可避で還元不可能な「ずれ」があらかじめ働いていて、そうした何ものも、根源的なものとして立てることはできない、というのが、différance によってデリダが思考しようとしたことである。
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フッサール の現象学 との関係

フッサール現象学は、経験される現象を、純粋に意識に直接与えられている、いわば疑いようのない確実なものだけにいったん還元して、そこから現象を再構成することで、認識の不確実性やそれにまつわる哲学的問題を克服しようという、デカルト 的な試みであった。

その為には、そこからすべての現象が構成される「根源」として、純粋かつ直接的に意識に与えられた現在(現前 present)というものが考えられなければならない。ここで、現象学にとって、時間性というものがアポリアとして現れる。意識に直接与えられているのは、あくまでも現在の瞬間であって、そこから他の時間を引き出すことはできない。そこでフッサールは過去と未来は独立した、現在と対等の何かではなく、唯一存在する「現在」が持っているひとつのモードであるとした。こうしてフッサール現象学において、根源的かつ自己充足した現在の、意識への純粋な自己現前という、絶対的な位置づけが成立する。

このような現在のあり方は他を必要とせず自らを、余すところなく提示するということであり、デリダは「声」がそのようなありようのモデルとしてフッサールだけでなく過去の形而上学を規定してきたと批判する。音声中心主義 。これに対して提出されるのがエクリチュール の概念である。声は直接的に意味を伝え、文書はそうした生き生きとした「声」の間接的な反響に過ぎないとされてきた。

差延 (différance)はデリダによるこの絶対的な現在への批判に関係する。(以下、主として『声と現象』ISBN 4480089225 による)彼の批判によれば、意識は現在を純粋かつ直接的に経験することはない。デリダはこうした、自己自身に直接的に、何ら媒介をともなわず、明晰に意味が現前( present )する、届くという想定を指して『自分が-話すのを-聞く』と表現する。「直観」や「明証」、また透明な理想的コミュニケーションとは、『自分が-話すのを-聞く』かのごとき概念なのである。しかし、聞く自己と話す自己の差異=差延が、またそれに加えて話される言葉の話されなかった他の言葉との差異=差延が、聞くことの条件である限りで、この直接性も実際には汚染されている。つねにすでに現在は、過去によって不在の形で、つまりその痕跡の形で取りつかれており、過去に間接的に媒介されない直接的な現在というものはない。現在は不可避的にすでに過去によって痕跡という形で汚染されている。

言い換えると、過去の痕跡との関係によってはじめて現在は意味を為すことができるのだが、痕跡の形で現在と関係している当の過去は、あくまでも痕跡の形でしか現在に含まれていないため現在にとっては不在であり、フッサールの受動的総合のように、現在にその一部として所有されているわけではない。こうして、現在はその自己充足性を失い、つねに欠如をはらんだ動的な時間性を帯びることとなる。現在は独立して存在することができず、その外部である過去とのひらかれた関係を必要とする。

現在を構成する記号や表現は、それが意味を成すためには、それ自身とは別の記号や表現を指し示すことが必要であるが、この参照は無時間的なものではなく、必然的に時間的な「遅れ」を伴う。記号は別の記号への参照によってはじめて記号として機能するのだが、この参照に不可避的に孕まれる「遅れ」によって、指し示す記号と指し示される記号は、同一の現在の内部にあることができない。こうして、現在において不在の記号が過去として、現在の記号に痕跡として憑依するのである。

デリダはこの事実から、根源的なものは、そもそも存在し得ない「意識に直接与えられた純粋な現在」ではなく、こうして不在の過去と現在とを引き裂きつつ関係付ける差異、記号参照において孕まれる「遅れ」「ずれ」としての痕跡の働きであるとみなし、これを、差延 (différance)と名づけた。
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ハイデッガー の存在論的差異 との関係

ものが存在するということをハイデッガーは、存在するものとして語りうるものとは、どうあっても異なるものであると考え、この違いを存在論的差異(Ontologische Differenz)と呼んだ。

この還元できない根源的な違いにこだわる限り、「ものが存在するということは、そのもののこれこれこういう性質である」という形式の説明は一切できない。存在することは、ものの属性ではない。また「ものが存在するということは、より基本的な何かの在り方のモードである」という形の説明も解決にならない。その基本的な何かは、依然として存在する何かなので、その存在がやはり問題として残るからである。

ハイデッガーは、従来の哲学はこのように存在する何かでもって存在するということを説明してきたとみなし、この存在論的差異の忘却によって、存在するということの意味を把握し損ねてきたと考えた。ハイデッガーに依れば、何かが「存在する」ということは、現に「いまここ」というものが不断に存在する、ということとの係わりでしか理解できない。そして、この、「いまここが現に不断に存在する」という出来事は、近似的にいえば、現象の場としての<私>の存在のことであり、これを現存在 と呼ぶ。

この現存在の概念は、認識論的なフッサールの超越論的主観性の概念を存在論的に作り変えたものと見ていい。フッサールの生ける現在(=現前 present)はここでは現存在として捉えなおされる。存在者に存在が不在なものとして必然的に介在するということは、現在に決して現在にはならない(現前しない)過去(の、あるいは、としての)痕跡がその前提を為して介在しているという事態と類比的な事態なのである。

このとき、ハイデッガーの存在論的差異は、思惟や行為の対象からなるものの総体の外部がつねに存在するということを示すという方法的意義を持っている。あらゆるものが思惟や行為の対象になりうるが、そのような思惟や行為の対象は、決して、その思惟や行為の対象をそういうものとして成り立たせているものとは同一ではない。

デリダは、この存在するものに不在という形で取り憑く存在するという出来事を、それ自体としては決して現れないが、そういうものとして存在するものに係わっているものとして、一種の痕跡とみなす。存在は、それ自体として存在者の世界(思惟や行為の対象の世界)に出現しない。現れてしまったら、それはもはや存在者だからである。

われわれが主題的に思惟する対象にできるのは存在者だけである。あるいは、対象として思惟したとき、それはもはや存在者としてわれわれの前に現れている。即ち、存在する何かとして語りうるものになっている。存在という概念によって存在するという出来事を主題化し対象として思惟することは確かにできるが、そのとき、存在するという出来事の特性を、この存在という概念、すなわち存在を意味する存在者を見つめることによっては把握できない。

そういう意味で、存在は、存在者の世界には不在である。しかし、存在者は、存在することによってはじめて存在者なのだから、そこには存在が、やはり或る形で介在している。不在であるがそこにある形で介在しているという意味で、やはりそれを痕跡として規定することができる。

デリダは、この差異、存在するものとその存在との間のずれから、より一般的にあらゆる同一者が前提として経なければならない内的な差異化の運動 différance を引き出す。存在論的差異は、それが存在という形式によって限定されて現れた姿として捉え直される。

しかし存在論的差異や存在は現存在から或る意味で派生するものであり、現存在に先立たれている。それに対して、différance は、存在や現存在に先立っており、それよりも「年老いて」いる。différance は何らかの存在や存在者や主体の作用ではなく、そのような「主体」などの、主語になりうるようなものを成立させ、そのようなものに先立つ。
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関連書誌

* La voix et le phenomene (初版1967年 3版2003年 ) 日本語訳 林好雄『声と現象』ちくま学芸文庫
* La Différance (1968年 1月27日 フランス哲学会における講演) 日本語訳 高橋允昭「ラ・ディフェランス」(『理想』1984年 11月号 「デリダ特集号」)

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関係事項

* ジル・ドゥルーズ  ドゥルーズはヘーゲル的な差異への批判をニーチェとアンリ・ベルクソン を範例としてデリダとは異なる形で遂行した。そこでは差異は微分(differenciation)と関係付けられ、自らを自己差異化する生産的な力、充溢した多様な強度として把握された。

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外部リンク

* Différance Alan Bassによる英訳

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%AE%E5%BB%B6 " より作成

カテゴリ : ポストモダン哲学
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■差延、超越論的主観性、存在:三者は類似的ではないだろうか

この差延の説明は、詳しく明敏に書かれていると思う。
デリダとフッサールの関係がとても興味深い。デリダのハイデガーに対する関係は、近親憎悪みたいだ。似ていると思う。(思うに、ハイデガーの存在的差異とは、カント的である。カント哲学を少し敷延すれば出てくるだろう。)
デリダのフッサール批判は、同一性批判になるが、それは、一面では当たっているかもしれないが、しかし、それは、皮相だと思う。フッサールの時間論は問題があるかもしれない。しかし、超越論的主観性は、実は、同一性ではなくて、差異と見るべきだと思う。つまり、志向性とは、差異1の差異2(他者)への志向性と考えるべきだと思うのである。
 後で、できれば整理したいが、デリダ、フッサール、ハイデガーは、ほとんど、同心円だと思うのである。中心は、当然、差異である。また、彼らの先駆にカントがいるだろう。カントの超越論は、現象形式と実践理念との差異論と見ることが出来るのではないか。ドゥルーズがこのように見ていると思う。カントの実践理念とは、実は、プラトンの善のイデアであろう。カントの近代主義の枠組はなにか小心翼々だ。自由と必然のアンチノミーは、実は、スピノザ的に、一致できるのである。個の自由とは、差異的必然性があるだろう。また、偶然性であるが、思うに、自由と必然の仲介のようなものになるのではないか。
ソフィオロジコ (2006-03-31 03:45:08)

■カントの物自体とメディア界&イデア界

カント哲学は、構造主義の先駆と言えよう。超越論的形式という超越論的主観形式が構造である。しかし、構造を超えて、理論化しなかった。物自体は、脱構造的存在であり、それは、メディア界且つイデア界を指しているのだろう。カント哲学の構造主義とその二元論的亀裂。ポスト・カント哲学は、超越論的差異哲学となる。フッサールであり、ハイデガーであり、デリダであり、ドゥルーズ、他であった。しかし、連続的差異と不連続的差異、相対的差異と絶対的差異を彼らは明確に区別できなかったために、ポストモダン理論は、頓挫した形になってしまったのだ。そのようなポストモダン哲学を超克するものとして、不連続的差異論やヌース理論があるだろう。それを、パラモダン理論、パラモダン哲学と呼ぼう。
ソフィオロジコ (2006-03-31 03:57:28)
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