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2015年07月25日 (02:03)

日本文化の最大の欠陥は主語なき日本語にあるのでは?

日本文化の最大の欠陥は主語なき日本語にあるのでは?

テーマ:日本亡国の凶相:黙示録日本

先に、主語subjectは主体subjectであり、主語なき言語は主体なき言語ではないかと述べた。
 自我はあるのであるが。
 主語=主体が対象=他者object or othersにはたらきかけるのであり、ここで、主語=主体と対象=他者の対極があるのである。
 しかし、主語=主体がない場合、対象=他者はどうなるのか。
 おそらく、自我と対象の未分化の一体性があるのではないだろうか。
 日本人の場合、自我と対象(他者)の区別があいまいのであり、未分化ではないだろうか。
 これでは、主体と対象を区別する科学は成立しないのではないだろか。
 そう、自我と対象(他者)の未分化あいまいな関係があるのであり、主体ないし個、さらに、他者が成立していないのではないだろうか。
 私は日本語に愛着をもってきたが、最近は、時代遅れ、時代錯誤の言語の可能性があるように思えている。

追記:
 主語=主体と対象=他者の相互関係において、主語=主体の精神において、ココロの端緒が発生するのではないだろうか。
 つまり、主語=主体とは異質なものとしての対象=他者があり、そこで、主語=主体は自我に抑制をかけると思われる。
 この自我抑制において、ココロの端緒や領域が発生すると思われるのである。
 問題は、主語=主体における感情・欲望である。
 しかし、自我の抑制は、自我の観念と同時に、自我の感情・欲望へ抑制ということではないだろうか。
 日本の「科学」が出鱈目で、妄想・妄念的なのは、以上から説明できるのではないだろうか。
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2012年02月27日 (16:13)

Neo-PS理論の言語発生論:凸j同一性力学に拠る母と自然の内外的イメージ支配的四元的言語論

テーマ:language

先に、初期PS理論(PPS理論)を用いて展開した以下の言語発生論をNeo-PS理論(原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html)によって、説明し直す必要がある。


言葉の力学について:言語発生のメカニズム:母権的イメージ音声言語から父権的抽象文字言語への転移
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11171075010.html

しかし、これは簡単に移行できる。
 即ち、凸i支配を凸j支配にすればいいのである。そして、母権的イメージ音声言語であるが、それは、原初差異共振、凹j☯凸j⇒凹(-1)で説明できる。その後の文字言語は同様に説明できる。
 表音文字言語は、だから、凸j同一性力学支配に拠るものであり、それは、凸j*凹i⇒凸(+1)の自我様態と結びつくのである。
 そして、表音文字言語-自我(自己同一性、父権的自己)は、3D-media pointにおいて、氣の差異共振(自然的差異共振)、凹i☯凸i⇒凹(-1)における凹iと同一性力学(父権的人間主義)における凹jに、その表音文字言語を刻印するように思われる。
 この点は先のもののようには簡単に考えられないのである。
 精緻に言うと、凹j☯凸j⇒凹(-1)の原初差異共振(今気づいたが、新しい差異共振凸j☯凹j⇒凹(-1)であろう)を凸jによって同一性支配するのであるが、その原初差異共振とは、思うに、母との原初差異共振イメージであり、それに対して、凸jは同一性支配し、表音文字言語化するように思う。そう、原初において、凹jは母と考えられる。原初差異共振は内外的(内的且つ外的)に母のイメージに刻印すると考えられる。
 それに対して、氣の差異共振(自然的差異共振)については、凸jの同一性支配は、凹i☯凸i⇒凹(-1)に刻印すると言えよう。即ち、氣的内外的(内的且つ外的)イメージに刻印すると思える。
 結局、原初差異共振の場合は主に、母のイメージに内外的に刻印し、氣的差異共振主義(自然的差異共振主義)の場合は、氣の内外的イメージに刻印すると考えられる。
 氣の内外的イメージとは、例えば、内的イメージは「元気」や生命感であろうし、外的イメージは端的に外的現象、外界のイメージと考えられる。
 そうすると、3D-media pointにおいて、母と自然の内外的イメージに凸jの同一性支配の表音文字言語は刻印するということになる。つまり、四元性(四相性)になるのである。
 そして、この視点によって、D. H. ロレンスの無意識論、四元的無意識論が解明できるように思うのである。

商品の詳細
Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious D. H. Lawrence (ペーパーバック - 2006/1/4)
新品 : ¥ 1,172


Product Details
Psychoanalysis and the Unconscious and Fantasia of the Unconscious by D. H. Lawrence (Paperback - Jan 2012)
2 used from £35.93

2010年08月20日 (18:25)

再掲(補正):文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値

文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値

甲斐駒ケ岳とkaikomagatakeは、認識において異なるだろう。単に、音声として、聴覚で捉えたとき、それは、きわめて、抽象的である。しかしながら、漢字情報として、視覚的に捉えられたときは、いわば、ニュアンスがあるのである。あえて言えば、漢字情報は、内面的、情感、イメージ等が喚起されるのである。そう、内包性が音声情報よりも大きいのである。
 また、あえて作業仮説的に言えば、音声言語は、左脳的であり、文字言語は右脳が入り、いわば、両脳的である。
 思うに、デリダがロゴス中心主義として、音声言語を批判し、書記言語(エクリチュール)を肯定していたが、それはやはり本質を突いていたのではないだろうか。
 だから、音声言語と近代合理主義、唯物論はつながり、書記言語、文字言語は、それを「脱構築」する性質があるのではないだろうか。
 しかしながら、音楽は本来そうではないが、現代音楽(クラシック)の場合、抽象化して、左脳中心となり、音楽本来の情感を喪失してしまったのではないのか。
 とまれ、文字言語のことにもどると、それは、絵画に似ているのではないだろうか。とりわけ、漢字の場合、象形文字なので、その側面があるのではないのか。
 私が想起したのは、絵画は実は、単に空間芸術だけでなく、時間芸術であるということである。鑑賞するには、絵画に内的に参入する時間が必要だからである。外的認識(物質的認識)は凸iが行うとすると、内的認識(精神的認識)は、凹iが行うのではないだろうか。【シュタイナーの『オカルト生理学』から言えば、脳=脳髄神経系が前者であり、交感神経系(自律神経系)が後者にあたるだろう。】
 つまり、絵画鑑賞には、凹iを参与させるので、Media Point的意識になると言える。思うに、この内面性、精神性が単に絵画だけでなく、文字言語に接するときも、なにかしら喚起されるのではないだろうか。
 言い換えると、存在、あるいは、身体、内的身体性の問題である。これは、物質的存在・身体のことではなく、精神的存在・身体のことである。(心精的存在・身体ということでもある。)だから、文字言語には、精神的存在・身体性があるのではないだろうか。そして、その面を強調したのが、書、カリグラフィーということになるだろう。「言霊」とは、音声言語ではなく、文字言語に存するのではないだろうか。
 視覚文化が言われるが、ここから言うと、疑問である。視覚とは、本来、精神性があると考えられるからである。つまり、今日の視覚文化とは、外的、物質的視覚文化ということが言えるだろう。結局、凸iが凹iに対して、支配的になっているから、そのようになると言えよう。同一性主義、マテリアリズムの支配である。
 話題を飛躍させると、資本主義も、同一性主義/マテリアリズムに支配されていて、精神性を喪失していると言える。資本的生産には、知恵が必要なのである。多様なものを結びつける知恵が必要なのである。それは、Media Point的な知恵である。しかしながら、資本主義の、いわば、出口は、同一性である交換価値が支配するのである。つまり、内部は、精神的でありながらも、出口は物質的であるという絶対的矛盾が資本主義にはあり、その外側の同一性が結局、支配的になり、近代の惨状を作り出したと言える。そして、リーマン・ショックとはその最終的帰結である。質的価値・精神的価値が量的価値・物質的価値に支配されたのである。
 結局、差異は光であり、同一性は闇であり、両者のゾロアスター教的闘争が今日生じていると言える。しかしながら、今日の光は外的光、物質的光、暗い光となっているのである。内的光、精神的光、明るい光を喪失しているのである。つまり、光は闇となり、闇が光というパラドクシカルな状況にあるのである。(「きれいはきたない、きたないはきれい」『マクベス』の魔女の言葉。また、D. H. ロレンスのdark godやdark sunは、この側面から理解されるべきであろう。つまり、内的神、内的太陽ということである。ちなみに、外的神とは、イエス・キリストを指すと言えよう。可視的な神である。)
 結局、トランス・モダン経済とは、精神主導的経済ということになるだろう。心精的経済である。多元的差異共立体としての新経済である。つまり、差異価値が評価される経済である。資本家よりは、知恵ある経営者、知恵ある勤務者が、評価されることになる。
 また、差異共立体なので、地域共立体の構築にもはたらきかけると言えよう。
 思うに、とまれ、地域共立体は、経済共立体と行政体との共立を基盤にもつことになるだろう。
 ということで、差異共立資本、共立資本ということが考えられてくる。思うに、差異共立銀行が形成されるだろう。貨幣・通貨は差異共立貨幣・通貨となるだろう。
 ここで思いつきであるが、例えば、貨幣を凸iとし、商品を凹iとしよう。つまり、貨幣価値を凸iと、商品価値を凹iとするのである。具体的に言えば、千円ではなく、√千凸i円であり、本は√千凹i円の価格がついていて、両者が共振して、プラス千円が発生するのである。即ち、

√1000凸i円貨幣*√1000凹i円本⇒+1000円

となる。
 そして、凸i円や凹i円では、虚数価値なので、現実性がないのである。ただ、ポテンシャルな価値に過ぎないとするのである。だから、企業評価は、資本金いくらではなく、どれほど、差異共振をして、現実的価値を生み出したかになるのである。
 一億凸i円という資本金があっても、それは、ポテンシャルな価値であり、企業の現実的価値ではないということになる。
 だから、差異共立体とは、差異共振的現実主義に基づくことになる。差異共立体という価値を形成した場合、それは、特別評価されて、減税対象となるとしたらどうか。
後で、検討を続けるので、ここで留める。

補記:東京弁は、外的音声言語だと思う。それに対して、地方言語は内的音声言語ではないだろうか。私は奈良県の吉野よりさらに南の地域で聞いた奈良弁は、内的音声言語というべきものであった。関西弁はそのような向きがあるが、今日、東京弁の影響を受けて、外的になっているのではないだろうか。
 ついでに、若者の音声言語であるが、聴くに堪えない、暴力的、粗暴な音調となっている。文字言語教養の欠損症である。当然、教育の問題であるが、結局、唯物論教育を廃止すべきであるということである。あるいは、音声言語教育を止めるべきである。外的中心主義を廃止すべきである。物質主義的科学を乗り越えるべきである。美術教育や文字言語教育が必要である。結局、今日の若者の粗暴性と狂気は、唯物論教育の帰結である。(追記:また、今日の肉感主義もそうである。つまり、物質的身体が支配的になっているのである。)
 言語教育を変革する必要がある。文字言語教養をつけるための言語教育が必要である。内的世界を形成するための教育が必要である。そう、内的教育である。そのためには、哲学教育や文学教育が必要である。

追記:日本の今日の歌謡の問題もある。内面性、リリシズムがまったく欠落して、利己主義的で汚い、酷い声になっているのである。
 日本復活のためには、脱唯物論、脱物質主義が必要である。それは、端的に、トランス・モダン化、トランス・モダニゼーション、トランス・モダン主義、越近代である。
 初めに、文字ありき。初めに、ヴィジョンありき。初めに、イデアありき。初めに視覚ありき。初めに光ありき。

追記2:以上の議論から、視覚が聴覚に先立つのである。とまれ、豊かな文字言語文化とは、豊かな視覚文化である。思うに、日本美術は、つまり、日本伝統美術はきわめてすぐれているのに、どうして、日本の音楽はそれよりも劣るのだろうか。確かに、筝曲など、すぐれているとは言え。思うに、どこかに、言語の「断絃のとき」があったと思われる。
 やはり、思うのは、江戸/東京の物質主義性である。悪魔が支配しているのである。だから、豊かな音楽が生まれないのである。
 とまれ、日本は視覚と聴覚の分裂・断層があると言えよう。これは、いったい何を意味するのか。精神意識の統一性の無さである。つまり、個の確立がないということである。
 精神が物質主義に抑えられているのである。個が自我に抑えられているのである。これは、江戸時代の封建体制が原因と私は考えている。
 日本の古典の文章は芸術的であるのに、現在の日本語・東京地方語は格調が低いのである。思うに、漢籍教養が喪失したからではないだろうか(追記:単に漢籍教養の欠如だけでなく、日本の古典教養の欠如でもある)。漢字言語教養を喪失したからではないだろうか。文科省の国語政策がまったく間違っているのである。とりわけ、戦後の国語教育政策である。教養的文盲を生んでしまったのである。外的教育に偏し、内的教育を疎かにしたせいである。
 戦後の唯物論教育の総括が必要である。負け犬教育だったのである。国の魂を捨てた教育だったのである。新精神教育が必要である。
 端的に、日本の精神・心精とは何か。それは、光の心精である。光の霊性である。超越光の精神である。正に、東洋的霊性である。光という文字言語教養である。

「心とは山河天地なり、日月星辰なり。」道元『正法眼臓』の「即心是仏」

2008年07月28日 (19:28)

言語空間について:その2:同一性主義言語空間とMedia Point言語空間

言語空間という呼び方は、直近の検討問題を除いて、それまでしなかったものであるが、私自身の最近の経験から、そのように呼ぶことができる領域があると思えたので、そのように暫定的に命名して検討したいと考えている。
 プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)から言うと、Media Point Space(以下、MP空間)が端的に存するが、言語空間とは、それに通じるものであるが、それに包括・包摂されるものと思われる。
 しかしながら、言語空間は、それ独自の空間であるように思えるのである。確かに、感性空間があるだろう。美的空間があるだろう。しかし、言語空間は、それに重なる部分があるが、やはり、それとは異なる空間である。この独特と思われる言語空間について、さらに考察を続けたいと思う。
 まず、イデアと言語空間との関係を見るべきであろう。イデアとは、有り体に言えば、精神身体現象であると思う。そこには、言語はあるのだろうか。ここで、ロゴスの問題が関係してくるだろう。PS理論では、イデアは、(+i)*(-i)と表現される。これは、差異と差異との共振・共鳴関係を表現している。ここに言語が入るだろうか。
 今は思考実験的に言うだけであるが、先に述べたように、イデアは、Media Point において、原言語(プロト言語)になると考えられる。そして、それは、欲望となるから、Media Pointの発現によって、言語が形成されることになるのではないだろうか。以下は、まったくの思考実験であることをお断りしたい。
 +iは原同一性である。否、根本的には、一つの差異、自己差異である。そして、-iも一つの差異であるが、他者差異である。両者は極性を形成しているのであり、それがイデアと考えられるのである。このイデアは同一性ではなく、差異極性としてのイデア(造語して、差極イデアとする)である。
 差極イデアは、Media Pointにおいて、同一性(物質や自我)を形成する志向性をもつことになる。【同一性の表記は微妙である。私は先には、-1としたが、+1が同一性になると考えられないことはない。この問題は後で検討したい。】
 この同一性とは、当然、自己差異+iが他者差異-iを否定して形成されるものであり、(+i)*〔-(-i)〕 →-1となると考えている。-1は自我、すなわち、同一性自己である。では、言語は何か。
 思うに、意外に、+iが言語ではないだろうか。他者差異-iに自己差異+iをいわば、投影して、鏡像が生まれ、自我像が生まれるだろう。ならば、自己差異+iが言語であるということになる。思うに、以前から思っていたことであるが、+iは原形相になると思われるのである。ここに、言語というか、原言語が存しているのではないだろうか。
 整理すれば、自己差異+iが原形相=原言語(プロト言語)ということになる。そして、それが、自乗して、-1が生まれ、それが、現象する言語ではないのか。
 もっとも、同一性主義が発生する前は、差異共振性が存していたから、言語-1に対して、精神身体現象の+1が対峙して、それなりの平衡を形成していたと考えられる。
 ここで、同一性主義である近代合理主義について言えば、それは、端的に、-1に閉鎖された言語である。差異共振性=精神身体現象である+1を排除しているのである。この近代合理主義言語空間とは、私が考える「普遍」的言語空間のほんの一面に過ぎない。【そう、ドゥルーズが内在平面と呼んでいたものをここで想起する。しかし、内在平面とは、同一性と差異とが連続化している空間であり、それは、私が想定する「普遍」的言語空間ではない。】
 問題は同一性主義言語空間と「普遍」的言語空間である。後者は、PS理論的には、Media Point 言語空間(以下、MP言語空間)と呼べるように思われるのである。しかしながら、MP空間には包摂されるものとして、MP言語空間があると思われる。
 だから、同一性主義言語空間<MP言語空間<MP空間 と表記できるように考えられるのである【包摂関係を<の記号でとりあえず表記した】。
 ここで、問題の核心に踏み込もう。上記の説明では、言語とは、そもそも同一性である。つまり、差異を否定したものとしての言語なのである。ただし、正確に言えば、自己差異の肯定であり、他者差異の否定ということである。
 しかしながら、MP言語空間(「普遍」的言語空間)はそうではない。ここが微妙な点である。私が直感するMP言語空間とは、他者差異を肯定した言語空間なのである。これをどう考えるべきか。
 端的に言えば、MP言語とは、他者差異を肯定した言語であるのである。これはいったい何なのか。それは、言い換えれば、即非的言語であるということになろう。具体的に説明すれば、例えば、「山」という言葉であるが、それは、同一性主義言語では、辞書が説明するものであるが、MP言語では、「山」は全く異なる。それは、ヴィジョンやイメージ等を含んでいるのである。だから、想像的言語と言ってもいいだろう。だから、文学的言語、とりわけ、詩的言語に似ていると言えよう。あるいは、「あいまいな」言語と言ってもいいだろう。例えば、「山」は、空と接しているとか、川と「会話」しているとか、云々である。つまり、他者との共振が可能な言語なのである。アニミズム的言語(「言霊」)と言ってもいいだろう。
 整理すると、MP言語には、同一性と差異とが共立しているのである。以前述べたように、差異が同一性を包摂していると言えるかもしれない。
 以上まだまだ不明確であるが、MP言語とはそのようなものだと考えている。そう、明確にしておかなくてはならないのは、同一性と差異との共立と言ったとき、そこには、垂直的な差異、超越的な差異も含まれていることであり、デリダの哲学のように超越性を排除していないのである。
 さて、最後に、整合化させないといけない。以上では、言語は、同一性主義から発生すると言い、MP言語は同一性と差異との共立であると言った。それでは、齟齬が生じている。
 これは、この問題の最大の核心ではないだろうか。非常に微妙な難しい問題である。ここでは、示唆に留めたい。
 思うに、以上の議論は、以前の私の言語観とは異なっているのである。私は、差異共振性が言語の原点であるとそれまで言ってきたのである。明らかな矛盾である。
 結局、以上の議論は不十分となるのかもしれない。ここで、簡単に言うと、まず、差異共振映像があり、この映像に対して、自己差異+iは、観念形成を行う。それが、言語となるのではないのか。この差異共振映像とは、いわば、他者差異である。それに対して、自己差異+iはそれを否定するようにして、自乗化して、同一性自己を形成する。このときに、言語も発生すると考えられる。これが、同一性主義言語である。
 だから、言語は発生的には、差異共振映像をなんらかのスプリング・ボードにしているのである。そう、差異共振映像を同一性主義の枠組みを切り取るように思えるのである。そして、切り取った後の残りは、排除するのである。つまり、同一性のスポットを差異共振映像に投影して、その光の部分を取り出して、残りの「影」を排除するように思えるのである。
 整理すると、言語の基盤(前言語)には、差異共振映像があるのである。それを同一性で「合理主義」化して、同一性主義言語を構成すると考えられるのである。
 この視点から見ると、私が言うMP言語空間とは、差異共振映像である、言語の基盤(前言語)を肯定して、同一性言語と共立させた言語空間であるということなるように考えられるのである。換言すると、差異共振映像を同一性主義言語に浸透させたものと言えるかもしれない。
 しかし、正確に言えば、差異共振映像に包括された言語空間ではないだろうか。あるいは、差異共振映像という土台に浮かんだ同一性を包摂した言語空間かもしれない。ここで、ニーチェの用語を借りれば、差異共振映像がディオニュソスであり、同一性主義言語はアポロであり、比喩的言えば、アポロとはディオニュソスの大地ないしは大海に浮かんだ天空のようなものかもしれない。ニーチェのアポロとディオニュソスを二元論的に分離させるのは、誤りであると思う。『悲劇の誕生』をよく読めば、ディオニュソスを源基として、アポロ空間が浮上することがわかり、それらは、一体として見ることができるのである。【ドゥルーズのニーチェの見方は両者を分離させており、この点で凡庸だと思う。】
 今ここで簡単に、暫定的な結論を出しておくと、MP言語空間とは、MP空間を母体とした言語空間である。先に述べたように、それは、言語・且つ・非言語の空間であり、同一性主義の二項対立空間とはまったく異なる言語空間であると言えよう。ニーチェでまとめれば、ディオニュソス的アポロ的言語空間ということになろう。

2006年04月10日 (18:09)

表意文字と不連続的差異論:表意文字の共存性・理念性と表音文字の対立性・現象性

漢字の「山」や「川」であるが、これは、自然の現象を直観で捉えた文字であろう。「山」は、三角形であり、あるいは、3つの峰であろう。これは、直観的抽象能力である。では、想像力とどう違うのか。
 思うに、これは、アレゴリーとシンボルの違いに相応するのではないだろうか。前者は、理念形象的な表現であり、後者は、理念情緒的表現ではないだろうか。換言すると、理念知性的表現と、理念情動的表現ではないか。ここでは、とりあえず、簡単に、直観力とは形象知性とし、想像力とは形象情動力としよう。ここで、形相という言葉を考えると、それは、前者に通じるだろうし、また、「イデア」であるが、花のイデアと言った場合の「イデア」であり、それは、当然、前者である。
 ここで、整理すると、表意文字、象形文字、絵文字等は、アレゴリー、形相、「イデア」的である。しかし、この「イデア」であるが、それは、不連続的差異論の3層構成では、どの領域にあるのだろうか。
 ここで、同一性の問題がある。「山」は、個々別々の「山」を抽象している。だから、同一性でもある。しかし、ここでは、表意文字で考えているのである。表音文字の場合、mountainとbountainは、音素mと音素bの対立構造・弁証法構造によって、対立するのである。つまり、表音文字の場合は、同一性構造が機能して、否定・排除的になるが、表意文字の場合は、同一性が発生するが、それが、構造とはならないと言えるだろう。例えば、「山」と「川」であるが、イメージ的には、似た面がある。「川」の下部に横棒を入れれば、ほぼ「山」になるだろう。だから、「山」と「川」とは、対立しているかと言えば、それは、表音文字のような対立にはならない、なりえないだろう。なぜなら、「川」を1/4回転すれば、位相的には、「三」となり、差異や変異が、2項対立・二者択一・排中律にならないで、共存・共立・共生しているからである。
 さて、問いに戻ると、どこに、「山」が位置しているのかと言えば、それは、少なくとも、メディア界に位置していると言えるだろう。それに対して、表音文字は、メディア/現象境界に位置している。換言すると、表意文字は、メディア差異的であり、表音文字は、メディア/現象境界的である。また、さらに言えば、表意文字は、自然の発生を捉えていて、先にも触れたが、イデア/メディア境界を指示ないし示唆していると思うのである。つまり、表意文字は、1/4回転の事象を指示ないし示唆しているのである。そして、表音文字は、現象界を指示・示唆しているのである。近代主義が西欧で発生したのは、この点から考えられるのである。
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  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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