2008年07月28日 (19:28)
言語空間について:その2:同一性主義言語空間とMedia Point言語空間
言語空間という呼び方は、直近の検討問題を除いて、それまでしなかったものであるが、私自身の最近の経験から、そのように呼ぶことができる領域があると思えたので、そのように暫定的に命名して検討したいと考えている。
プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)から言うと、Media Point Space(以下、MP空間)が端的に存するが、言語空間とは、それに通じるものであるが、それに包括・包摂されるものと思われる。
しかしながら、言語空間は、それ独自の空間であるように思えるのである。確かに、感性空間があるだろう。美的空間があるだろう。しかし、言語空間は、それに重なる部分があるが、やはり、それとは異なる空間である。この独特と思われる言語空間について、さらに考察を続けたいと思う。
まず、イデアと言語空間との関係を見るべきであろう。イデアとは、有り体に言えば、精神身体現象であると思う。そこには、言語はあるのだろうか。ここで、ロゴスの問題が関係してくるだろう。PS理論では、イデアは、(+i)*(-i)と表現される。これは、差異と差異との共振・共鳴関係を表現している。ここに言語が入るだろうか。
今は思考実験的に言うだけであるが、先に述べたように、イデアは、Media Point において、原言語(プロト言語)になると考えられる。そして、それは、欲望となるから、Media Pointの発現によって、言語が形成されることになるのではないだろうか。以下は、まったくの思考実験であることをお断りしたい。
+iは原同一性である。否、根本的には、一つの差異、自己差異である。そして、-iも一つの差異であるが、他者差異である。両者は極性を形成しているのであり、それがイデアと考えられるのである。このイデアは同一性ではなく、差異極性としてのイデア(造語して、差極イデアとする)である。
差極イデアは、Media Pointにおいて、同一性(物質や自我)を形成する志向性をもつことになる。【同一性の表記は微妙である。私は先には、-1としたが、+1が同一性になると考えられないことはない。この問題は後で検討したい。】
この同一性とは、当然、自己差異+iが他者差異-iを否定して形成されるものであり、(+i)*〔-(-i)〕 →-1となると考えている。-1は自我、すなわち、同一性自己である。では、言語は何か。
思うに、意外に、+iが言語ではないだろうか。他者差異-iに自己差異+iをいわば、投影して、鏡像が生まれ、自我像が生まれるだろう。ならば、自己差異+iが言語であるということになる。思うに、以前から思っていたことであるが、+iは原形相になると思われるのである。ここに、言語というか、原言語が存しているのではないだろうか。
整理すれば、自己差異+iが原形相=原言語(プロト言語)ということになる。そして、それが、自乗して、-1が生まれ、それが、現象する言語ではないのか。
もっとも、同一性主義が発生する前は、差異共振性が存していたから、言語-1に対して、精神身体現象の+1が対峙して、それなりの平衡を形成していたと考えられる。
ここで、同一性主義である近代合理主義について言えば、それは、端的に、-1に閉鎖された言語である。差異共振性=精神身体現象である+1を排除しているのである。この近代合理主義言語空間とは、私が考える「普遍」的言語空間のほんの一面に過ぎない。【そう、ドゥルーズが内在平面と呼んでいたものをここで想起する。しかし、内在平面とは、同一性と差異とが連続化している空間であり、それは、私が想定する「普遍」的言語空間ではない。】
問題は同一性主義言語空間と「普遍」的言語空間である。後者は、PS理論的には、Media Point 言語空間(以下、MP言語空間)と呼べるように思われるのである。しかしながら、MP空間には包摂されるものとして、MP言語空間があると思われる。
だから、同一性主義言語空間<MP言語空間<MP空間 と表記できるように考えられるのである【包摂関係を<の記号でとりあえず表記した】。
ここで、問題の核心に踏み込もう。上記の説明では、言語とは、そもそも同一性である。つまり、差異を否定したものとしての言語なのである。ただし、正確に言えば、自己差異の肯定であり、他者差異の否定ということである。
しかしながら、MP言語空間(「普遍」的言語空間)はそうではない。ここが微妙な点である。私が直感するMP言語空間とは、他者差異を肯定した言語空間なのである。これをどう考えるべきか。
端的に言えば、MP言語とは、他者差異を肯定した言語であるのである。これはいったい何なのか。それは、言い換えれば、即非的言語であるということになろう。具体的に説明すれば、例えば、「山」という言葉であるが、それは、同一性主義言語では、辞書が説明するものであるが、MP言語では、「山」は全く異なる。それは、ヴィジョンやイメージ等を含んでいるのである。だから、想像的言語と言ってもいいだろう。だから、文学的言語、とりわけ、詩的言語に似ていると言えよう。あるいは、「あいまいな」言語と言ってもいいだろう。例えば、「山」は、空と接しているとか、川と「会話」しているとか、云々である。つまり、他者との共振が可能な言語なのである。アニミズム的言語(「言霊」)と言ってもいいだろう。
整理すると、MP言語には、同一性と差異とが共立しているのである。以前述べたように、差異が同一性を包摂していると言えるかもしれない。
以上まだまだ不明確であるが、MP言語とはそのようなものだと考えている。そう、明確にしておかなくてはならないのは、同一性と差異との共立と言ったとき、そこには、垂直的な差異、超越的な差異も含まれていることであり、デリダの哲学のように超越性を排除していないのである。
さて、最後に、整合化させないといけない。以上では、言語は、同一性主義から発生すると言い、MP言語は同一性と差異との共立であると言った。それでは、齟齬が生じている。
これは、この問題の最大の核心ではないだろうか。非常に微妙な難しい問題である。ここでは、示唆に留めたい。
思うに、以上の議論は、以前の私の言語観とは異なっているのである。私は、差異共振性が言語の原点であるとそれまで言ってきたのである。明らかな矛盾である。
結局、以上の議論は不十分となるのかもしれない。ここで、簡単に言うと、まず、差異共振映像があり、この映像に対して、自己差異+iは、観念形成を行う。それが、言語となるのではないのか。この差異共振映像とは、いわば、他者差異である。それに対して、自己差異+iはそれを否定するようにして、自乗化して、同一性自己を形成する。このときに、言語も発生すると考えられる。これが、同一性主義言語である。
だから、言語は発生的には、差異共振映像をなんらかのスプリング・ボードにしているのである。そう、差異共振映像を同一性主義の枠組みを切り取るように思えるのである。そして、切り取った後の残りは、排除するのである。つまり、同一性のスポットを差異共振映像に投影して、その光の部分を取り出して、残りの「影」を排除するように思えるのである。
整理すると、言語の基盤(前言語)には、差異共振映像があるのである。それを同一性で「合理主義」化して、同一性主義言語を構成すると考えられるのである。
この視点から見ると、私が言うMP言語空間とは、差異共振映像である、言語の基盤(前言語)を肯定して、同一性言語と共立させた言語空間であるということなるように考えられるのである。換言すると、差異共振映像を同一性主義言語に浸透させたものと言えるかもしれない。
しかし、正確に言えば、差異共振映像に包括された言語空間ではないだろうか。あるいは、差異共振映像という土台に浮かんだ同一性を包摂した言語空間かもしれない。ここで、ニーチェの用語を借りれば、差異共振映像がディオニュソスであり、同一性主義言語はアポロであり、比喩的言えば、アポロとはディオニュソスの大地ないしは大海に浮かんだ天空のようなものかもしれない。ニーチェのアポロとディオニュソスを二元論的に分離させるのは、誤りであると思う。『悲劇の誕生』をよく読めば、ディオニュソスを源基として、アポロ空間が浮上することがわかり、それらは、一体として見ることができるのである。【ドゥルーズのニーチェの見方は両者を分離させており、この点で凡庸だと思う。】
今ここで簡単に、暫定的な結論を出しておくと、MP言語空間とは、MP空間を母体とした言語空間である。先に述べたように、それは、言語・且つ・非言語の空間であり、同一性主義の二項対立空間とはまったく異なる言語空間であると言えよう。ニーチェでまとめれば、ディオニュソス的アポロ的言語空間ということになろう。
プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)から言うと、Media Point Space(以下、MP空間)が端的に存するが、言語空間とは、それに通じるものであるが、それに包括・包摂されるものと思われる。
しかしながら、言語空間は、それ独自の空間であるように思えるのである。確かに、感性空間があるだろう。美的空間があるだろう。しかし、言語空間は、それに重なる部分があるが、やはり、それとは異なる空間である。この独特と思われる言語空間について、さらに考察を続けたいと思う。
まず、イデアと言語空間との関係を見るべきであろう。イデアとは、有り体に言えば、精神身体現象であると思う。そこには、言語はあるのだろうか。ここで、ロゴスの問題が関係してくるだろう。PS理論では、イデアは、(+i)*(-i)と表現される。これは、差異と差異との共振・共鳴関係を表現している。ここに言語が入るだろうか。
今は思考実験的に言うだけであるが、先に述べたように、イデアは、Media Point において、原言語(プロト言語)になると考えられる。そして、それは、欲望となるから、Media Pointの発現によって、言語が形成されることになるのではないだろうか。以下は、まったくの思考実験であることをお断りしたい。
+iは原同一性である。否、根本的には、一つの差異、自己差異である。そして、-iも一つの差異であるが、他者差異である。両者は極性を形成しているのであり、それがイデアと考えられるのである。このイデアは同一性ではなく、差異極性としてのイデア(造語して、差極イデアとする)である。
差極イデアは、Media Pointにおいて、同一性(物質や自我)を形成する志向性をもつことになる。【同一性の表記は微妙である。私は先には、-1としたが、+1が同一性になると考えられないことはない。この問題は後で検討したい。】
この同一性とは、当然、自己差異+iが他者差異-iを否定して形成されるものであり、(+i)*〔-(-i)〕 →-1となると考えている。-1は自我、すなわち、同一性自己である。では、言語は何か。
思うに、意外に、+iが言語ではないだろうか。他者差異-iに自己差異+iをいわば、投影して、鏡像が生まれ、自我像が生まれるだろう。ならば、自己差異+iが言語であるということになる。思うに、以前から思っていたことであるが、+iは原形相になると思われるのである。ここに、言語というか、原言語が存しているのではないだろうか。
整理すれば、自己差異+iが原形相=原言語(プロト言語)ということになる。そして、それが、自乗して、-1が生まれ、それが、現象する言語ではないのか。
もっとも、同一性主義が発生する前は、差異共振性が存していたから、言語-1に対して、精神身体現象の+1が対峙して、それなりの平衡を形成していたと考えられる。
ここで、同一性主義である近代合理主義について言えば、それは、端的に、-1に閉鎖された言語である。差異共振性=精神身体現象である+1を排除しているのである。この近代合理主義言語空間とは、私が考える「普遍」的言語空間のほんの一面に過ぎない。【そう、ドゥルーズが内在平面と呼んでいたものをここで想起する。しかし、内在平面とは、同一性と差異とが連続化している空間であり、それは、私が想定する「普遍」的言語空間ではない。】
問題は同一性主義言語空間と「普遍」的言語空間である。後者は、PS理論的には、Media Point 言語空間(以下、MP言語空間)と呼べるように思われるのである。しかしながら、MP空間には包摂されるものとして、MP言語空間があると思われる。
だから、同一性主義言語空間<MP言語空間<MP空間 と表記できるように考えられるのである【包摂関係を<の記号でとりあえず表記した】。
ここで、問題の核心に踏み込もう。上記の説明では、言語とは、そもそも同一性である。つまり、差異を否定したものとしての言語なのである。ただし、正確に言えば、自己差異の肯定であり、他者差異の否定ということである。
しかしながら、MP言語空間(「普遍」的言語空間)はそうではない。ここが微妙な点である。私が直感するMP言語空間とは、他者差異を肯定した言語空間なのである。これをどう考えるべきか。
端的に言えば、MP言語とは、他者差異を肯定した言語であるのである。これはいったい何なのか。それは、言い換えれば、即非的言語であるということになろう。具体的に説明すれば、例えば、「山」という言葉であるが、それは、同一性主義言語では、辞書が説明するものであるが、MP言語では、「山」は全く異なる。それは、ヴィジョンやイメージ等を含んでいるのである。だから、想像的言語と言ってもいいだろう。だから、文学的言語、とりわけ、詩的言語に似ていると言えよう。あるいは、「あいまいな」言語と言ってもいいだろう。例えば、「山」は、空と接しているとか、川と「会話」しているとか、云々である。つまり、他者との共振が可能な言語なのである。アニミズム的言語(「言霊」)と言ってもいいだろう。
整理すると、MP言語には、同一性と差異とが共立しているのである。以前述べたように、差異が同一性を包摂していると言えるかもしれない。
以上まだまだ不明確であるが、MP言語とはそのようなものだと考えている。そう、明確にしておかなくてはならないのは、同一性と差異との共立と言ったとき、そこには、垂直的な差異、超越的な差異も含まれていることであり、デリダの哲学のように超越性を排除していないのである。
さて、最後に、整合化させないといけない。以上では、言語は、同一性主義から発生すると言い、MP言語は同一性と差異との共立であると言った。それでは、齟齬が生じている。
これは、この問題の最大の核心ではないだろうか。非常に微妙な難しい問題である。ここでは、示唆に留めたい。
思うに、以上の議論は、以前の私の言語観とは異なっているのである。私は、差異共振性が言語の原点であるとそれまで言ってきたのである。明らかな矛盾である。
結局、以上の議論は不十分となるのかもしれない。ここで、簡単に言うと、まず、差異共振映像があり、この映像に対して、自己差異+iは、観念形成を行う。それが、言語となるのではないのか。この差異共振映像とは、いわば、他者差異である。それに対して、自己差異+iはそれを否定するようにして、自乗化して、同一性自己を形成する。このときに、言語も発生すると考えられる。これが、同一性主義言語である。
だから、言語は発生的には、差異共振映像をなんらかのスプリング・ボードにしているのである。そう、差異共振映像を同一性主義の枠組みを切り取るように思えるのである。そして、切り取った後の残りは、排除するのである。つまり、同一性のスポットを差異共振映像に投影して、その光の部分を取り出して、残りの「影」を排除するように思えるのである。
整理すると、言語の基盤(前言語)には、差異共振映像があるのである。それを同一性で「合理主義」化して、同一性主義言語を構成すると考えられるのである。
この視点から見ると、私が言うMP言語空間とは、差異共振映像である、言語の基盤(前言語)を肯定して、同一性言語と共立させた言語空間であるということなるように考えられるのである。換言すると、差異共振映像を同一性主義言語に浸透させたものと言えるかもしれない。
しかし、正確に言えば、差異共振映像に包括された言語空間ではないだろうか。あるいは、差異共振映像という土台に浮かんだ同一性を包摂した言語空間かもしれない。ここで、ニーチェの用語を借りれば、差異共振映像がディオニュソスであり、同一性主義言語はアポロであり、比喩的言えば、アポロとはディオニュソスの大地ないしは大海に浮かんだ天空のようなものかもしれない。ニーチェのアポロとディオニュソスを二元論的に分離させるのは、誤りであると思う。『悲劇の誕生』をよく読めば、ディオニュソスを源基として、アポロ空間が浮上することがわかり、それらは、一体として見ることができるのである。【ドゥルーズのニーチェの見方は両者を分離させており、この点で凡庸だと思う。】
今ここで簡単に、暫定的な結論を出しておくと、MP言語空間とは、MP空間を母体とした言語空間である。先に述べたように、それは、言語・且つ・非言語の空間であり、同一性主義の二項対立空間とはまったく異なる言語空間であると言えよう。ニーチェでまとめれば、ディオニュソス的アポロ的言語空間ということになろう。
