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2010年05月25日 (14:29)

女性の身体:精神的身体であり、身体は心である:女神に似せて創られたイブ

女性の身体:精神的身体であり、身体は心である:女神に似せて創られたイブ

テーマ:ジェンダー/セクシュアリティ/ヌード

以下、女性の自己身体に対する「執心」の男性との差異、特異性を述べているが、それは、狩猟時代からのことであると述べている。男性は女性の身体に注視してきたということである。
 これは、PS理論で説明できる。女性は正に、
(+i)*(-i)⇒+1であり、⇒+1の精神的身体を形成しているのであるが、男性は+iに傾斜しているので、(+i)*(-i)=+1
となり、唯物論的身体(近代的心身二元論)をもつ傾向があるのである。
 言い換えると、女性の身体は精神、心と同じなのである。だから、女性は身体と一体化、一如なのである。
 当然、身体姿態が重要ななのは言うまでもない。思うに、女性身体は美しいVector Modeとして説明できよう。
 聖書で神に似せて人間を創ったとあるが、神に似せたのは、女性、イブであろう。とすると、神は女神である。
Women and body image: a man's perspective
Ever wondered why a man can look at an advert featuring a six-pack and laugh, while a woman might look at a photograph of female perfection and fall to pieces? William Leith thinks he might have uncovered the answer

By William Leith
Published: 7:00AM BST 23 May 2010
Advertising for lingerie William Leath body image
Advertising for lingerie Photo: PHILIPPE HAYS / ALAMY

Plenty of guys have told me this story. The guy in question is preparing to go to a party with his girlfriend. She is trying on shoes and dresses. He is telling her how good she looks. She tries on more shoes, more dresses. And then: the sudden, inexplicable meltdown. She crumples on the bed. Something is horribly wrong. Now the party is out of the question.


http://www.telegraph.co.uk/fashion/stellamagazine/7725736/Women-and-body-image-a-mans-perspective.html




ポスト・モダン主義者によるtwitter微分論:ポスト・モダンtwitter微分論批判

テーマ:ポスト近代合理主義/ポスト・モダン批判

少しストリーミングを見たが、連続的差異⇒同一性(ないしはゼロ度)の発想であり、ポスト・モダン主義である。微分ではドゥルーズの発想である。
 これは、絶対的差異を同一性ないしはゼロ・無にするニヒリズム論である。つまり、⇒+1の精神的身体を解体して、+1のみを取りだして、それをゼロ度として、無機化するのである。おそらく、彼の言うtwitter身体は機械的「身体」になるはずであり、それは、本来の精神的身体⇒+1ではない。
 ポスト・モダンの起源であるハイデガーの研究者なので、冷たい機械主義、ニヒリズム、ポスト・モダンになるのは当然ではある。
 とまれ、これは、近代主義の極北の断片的ニヒリズムと言うことができよう。つまり、近代主義⇒ポスト・モダンである。
 思うに、PS理論は、実に有機体的である。というか、新しい「有機体」、身体を創造することができるのである。差異共振創造である。それは、新しい社会、新しい経済、新しい政治、新しい文化を生みだすことができるのである。

東京都庁講演「twitter微分論からtwitter身体論へ」 ― 当日のUst録画、およびパワポ原稿をUpしました。
2010年05月02日 | この記事の訪問者数 ( )
http://www.ashida.info/blog/2010/05/twittertwitter_ustup.html
芦田の毎日
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2009年03月29日 (00:53)

小稿:ユング心理学をPS理論は批判的に解明できる:付録:麻生首相の心性分析とうつ病分析試論

「自我」と「自己」の融合をユング心理学は説くが、「自我」とは同一性自己ないしは自己同一性であり、それは虚構・仮想・仮象である。だから、ユング心理学は不正確なのである。「自我」を主体差異+iに、そして、「自己」を他者差異-iにすれば、正確になるのである。主体差異+iと他者差異-iとの共鳴・即非様態が、真の自己状態である。
 ところで、主体差異とは言語知性に関係し、他者差異とは直感(直観)知性に関係すると考えられる。近代合理主義とは、前者を支配的にして、後者を抑圧してきたのである。
 例えば、前者を男性、後者を女性とすれば、通俗に女性は勘が鋭いと言われことが証明されよう。
 ここで麻生首相を心性分析すると、前者が欠落しているのであるが、とは言え、女性ではないから、勘も悪いのである。そうすると、どうしようもない心性ということになるだろう。このような「人格」が首相であるというのはどういうことなのか。また、同類が政治家となっている日本国とは何か。亡国である。
 とまれ、以上の図式で、うつ病等の心病の内因がよくわかる。-iを抑圧・排除しているので、-iの「力」をMedia Point において取りこめずに、+iと-iの共振によるエネルギーが形成されないから、生気が失せるのである。また、抑圧・排除された-iの「力」は衝動・発作的に逆襲するので、狂気となるのである。
 問題は、「力」である。最初、エネルギーとしようとしたが、それは、差異共振のエネルギーと混同してしまうのである。後で、+iと-iの「力」について考察を行ないたい。

参考:
集合的無意識
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
・・・・・
自我と自己元型 [編集 ]

ユングは、集合的無意識に様々な元型の存在を認めたが、それらは最終的に自己 (Selbst)の元型に帰着すると考えた。自己の元型は心 (魂 )全体の中心にあると考えられ、外的世界との交渉の主体である自我は、自己元型との心的エネルギーを介しての力動的な運動で、変容・成長し、理想概念としての「完全な人間」を目指すとされた。

諸元型と個性化 [編集 ]

このように、自我が自己との相互作用で成長し、球的完全性へと向かう過程を、ユング心理学(分析心理学)では、「個性化の過程」あるいは「自己実現の過程」と呼んだ。個性化の過程において、自己元型は、「影 」の元型や「アニマ ・アニムス 」の元型、あるいは「太母 (Great Mother)」や「老賢者(Old Wise Man)」の元型として力動的に作用する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%86%E5%90%88%E7%9A%84%E7%84%A1

2009年03月19日 (01:59)

試論:女性の本性とは何か:-iなのか、それとも、(+i)*(-i)⇒+1なのか

先に検討した同一性自己意識について、さらに述べたいことがあるが、余裕がないで行わない。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10225646212.html
 その代わりというか、関係がある女性の本性について考えてみたい。
 端的に、それは、-i傾斜性なのか、それとも(+i)*(-i)⇒+1なのか。-iとは、差異・他者である。身体的には、内臓精神身体である。(+i)*(-i)⇒+1、これは、当然、差異共振現象における同一性=物質現象である。
 予見では、後者の方が適しているのではないかと思う。何故なら、女性は、⇒+1の同一性=物質現象自体に興味・関心を強くもつ傾向が強いと思われるからである。感覚的なのである。だから、化粧やファッションに強く関心をもつし、また、差異共振の結果である子供に関心をもつと思われるのである。
 つまり、女性は、差異共振の目で現象を見るのではないだろうか。他方、男性は、言語同一性自己意識の目で現象を見るのではないだろうか。もっとも、当然、これは、理念的に述べているのであるが。
 問題は、父権社会で生きる女性は、男性の言語同一性自己意識-1を自然に真似てしまうことである。受動的に染まって、女性本来の差異共振性を排除してしまうと考えられる点である。
 男性は生来、差異共振性を排除する言語同一性自己傾斜があるから、ある意味で必然性である。しかるに、女性の場合は、言語同一性自己傾斜は本来的ではないので、その排除は重大な問題である。
 結局、女性の男性への同一性化、女性の非女性化がここで生じることとなろう。これでは、両性の間に「差異」が無くなり、差異共振力が無くなるはずである。当然、これは、少子化等と関係する。
 逆に言えば、男性の非男性化である。男性は言語同一性自己傾斜に従うことができずに、初期差異共振性へと退行すると考えられる。
 さて、本題の考察を続けよう。女性が男性的な言語同一性自己意識に染まったとき、差異共振性という本性の排除は、精神力学的にはどういうことなのか。
 男性の場合は、その排除は、生来のものなので、その意味では、精神は正常である。しかし、女性の場合は、本性・天性を否定するので、精神は異常になるはずである。
 そう、女性は男性に復讐しようとするはずである。自己本性を否定された、無意識、意識的な怨みを男性に向けるはずである。女性の夜叉化である。
 男性の場合、差異共振性の排除は、後天的な差異共振精神の「学習」や経験によって、解消されうると考えられる。
 女性の場合は、どうして、排除された本性・天性を復権させることができるだろうか。思うに、男性以上に現象学的還元が必要なのではないだろうか。
 男性の場合、-iへと回帰することが差異共振化へのキーポイントであった。女性の場合もそうなのか。
 これは推察であるが、女性の場合、+1と-1との混同があるのではないだろうか。つまり、差異共振的同一性を言語同一性自己意識にしているのではないだろうか。つまり、絶対矛盾状態である。絶対的短絡(ショート)である。思うに、これが、女性のヒステリーや否定的感情性をもたらす根因ではないだろうか。女性は勘違いしているのである。
 どういう女性の自己認識方法があるだろうか。簡単に言えば、女性の本性を肯定することである。ここで、男女平等観念が害悪となっているのである。
 女性と男性の天性の差異を肯定しなくてはならない。女性の本性とは、(作業仮説であるが、)差異共振性である。おそらく、これに目覚めた方が女性は解放されるはずである。
 つまり、差異共振的教養・文化を学ぶべきと言えよう。神話的には、女神の神話である。エジプト神話、ケルト神話、あるいは、折口信夫の日本神話に接すべきである。
 父権文明が五千年くらいは続いたので、女性の本性を表現する差異共振教養・文化・社会が希少になっているのである。(沖縄文化・社会は女性の本性を体現している面があるだろう。また、日本文化一般も本来そうなのである。)
 ただし、トランス・モダン的な女性差異共振教養・文化とならなくてはならない。単に復古調では反動的なのである。
 神話に言及したので、女神の神話を男性神の神話と対照的に描いた、ジョゼフ・キャンベルの神話学を私は推薦したい。
 より現実的にはどうなのだろうか。思うに、差異共振資本家に女性がなるべきように思うし、差異共振共同体を組織するのが適しているのではないだろうか。つまり、脱同一性主義資本主義、脱国家主義を目指すべきである。
 そう、私は新東洋文明・新母権文明を唱えているが、そこでは、女性の役割が主導的になるのである。女性の本性がもつ差異共振性を政治経済社会的に実現することになるはずである。
 では、女性のための、より現実的な差異共振教養とはどういうものかと言えば、実は、PS理論そのものである。
 これは、女性の本性を捉えている理論である。自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1が女性の本性を表現していると思う。何故なら、男性の場合は、強く言語同一性自己意識-1が入るからである。
 私見では、女性の場合、差異を不連続化することで、即、差異共振化が蘇るはずである。男性の場合は、いわば、内臓精神身体を形成する必要があるのである。女性は内臓精神身体は天性として備わっていると考えられるのである。
 最後に簡単に、本題と関連するプラトンのコーラに触れると、それは、受容の原理であるが、結局、差異共振原理ではないだろうか。つまり、女性原理・母権原理である。単に、-iということではないだろう。
 今はここで留めておく。


参照:

ISBN4-7917-5391-7.jpg

神の仮面(上)
西洋神話の構造

新版

ジョゼフ・キャンベル 著 山室 静 訳 
1985刊/四六判/422頁
定価2940 円(本体2800 円)
ISBN4-7917-5391-7


読み解かれた西洋神話
さまざまな民族の神話を背景に成立した西洋神話の重層的な構造をさぐり、集団としての人間の意識とそれが押し隠す無意識のうねりを、神話が形成される具体的な展開の内に跡づける、画期的な〈西洋神話の集大成〉。
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【目次】

第一部 女神 の時代

 序章 神話と祭式・東と西

 第一章 蛇の花嫁
   一、母神イヴ
   二、ゴルゴンの血
   三、地のはてのテュレ
   四、母権

 第二章 牡牛の伴侶
   一、神の母
   二、二人の妃
   三、ミノタウロスの母
   四、光の息子の勝利

第二部 英雄の時代

 第三章 レバントの神々と英雄たち(前一五〇〇‐前五〇〇年)
   一、主の書
   二、神話上の時代
   三、アブラハムの時代
   四、モーセの時代

 第四章 ヨーロッパの神々と英雄たち(前一五〇〇‐前五〇〇年)
   一、北と南の対話
   二、ゼウスの結婚
   三、夜の海の旅
   四、ポリス

第三部 偉大なる古典の時代

 第五章 ペルシヤ期(前五三九‐前三三一年)
   一、倫理的二元論
   二、宇宙の堕落と更新
   三、王の中の王
   四、残りの者
   五、愛の神
 第六章 ヘレニズム(前三三一‐後三二四年)
   一、東と西の結婚
   二、綜合的一神論と民族的一神論
   三、神秘教と黙示録
   四、死海の見張り番
http://www.seidosha.co.jp/index.php?%BF%C0%A4%CE%B2%BE%CC%CC%A1%CA%BE%E5%A1%CB

Joseph Campbell
From Wikipedia, the free encyclopedia
Joseph Campbell

Joseph Campbell, circa 1984
Born Joseph John Campbell
March 26, 1904(1904-03-26)
White Plains ,
New York ,
United States
Died October 30, 1987 (aged 83)
Honolulu , Hawaii , United States
Occupation Scholar
Nationality American

Joseph John Campbell (March 26 , 1904 – October 30 , 1987 ) was an American mythologist , writer , and lecturer best known for his work in the fields of comparative mythology and comparative religion . His work is vast and covers many aspects of the human experience, and his philosophy is often identified with the phrase he coined: "Follow your bliss".

http://en.wikipedia.org/wiki/Joseph_Campbell

参考1:
世界宗教史〈1〉石器時代からエレウシスの密儀まで(上) (ちくま学芸文庫) (文庫)
ミルチア エリアーデ (著), Mircea Eliade (原著), 中村 恭子 (翻訳)
内容(「BOOK」データベースより)
人類にとって宗教的現象とはいったい何か、人類史という壮大なスケールのなかでその展望を企てた本書は、20世紀を代表する宗教学者・エリアーデが最晩年に遺した畢生のライフワークである。この古今未曽有の偉大な業績は、仏教、キリスト教、ヒンドゥー教といった個々の宗教の理解を助けるばかりでなく、人類が創造した宗教そのものの姿を見事に描きだしている。文庫版第1巻は、古人類の宗教的営みから始まり、メソポタミア、古代エジプト、インダス川流域、地中海、ヒッタイト、「創世記」までを収める。
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%AE%97%E6%95%99%E5%8F%B2%E3%80%881%E3%80%89%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%84%80%E3%81%BE%E3%81%A7-%E4%B8%8A-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%A2-%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%87/dp/4480085610/ref=sr_1_2?ie=UTF8&s=books&qid=1237431702&sr=8-2
世界宗教史〈2〉石器時代からエレウシスの密儀まで(下) (ちくま学芸文庫) (文庫)
ミルチア エリアーデ (著), Mircea Eliade (原著), 松村 一男 (翻訳)
内容(「BOOK」データベースより)
人類にとって宗教的現象とはいったい何か、人類史という壮大なスケールのなかでその展望を企てた本書は、20世紀を代表する宗教学者・エリアーデが最晩年に遺した畢生のライフワークである。この古今未曾有の偉大な業績は、仏教、キリスト教、ヒンドゥー教といった個々の宗教の理解を助けるばかりでなく、人類が創造した宗教そのものの姿を見事に描きだしている。文庫版第2巻は、ヴェーダの神々、ギリシア宗教、オリュンポスの神々と英雄たち、ザラスシュトラ、イスラエルの宗教、ディオニュソスの密儀までを収める。
http://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%AE%97%E6%95%99%E5%8F%B2%E3%80%882%E3%80%89%E7%9F%B3%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%8B%E3%82%89%E3%82%A8%E3%83%AC%E3%82%A6%E3%82%B7%E3%82%B9%E3%81%AE%E5%AF%86%E5%84%80%E3%81%BE%E3%81%A7-%E4%B8%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%81%E3%82%A2-%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%87/dp/4480085629/ref=pd_sim_b_1


ミルチャ・エリアーデ
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ミルチャ・エリアーデ(Mircea Eliade,1907年 3月9日 ブカレスト - 1986年 4月22日 イリノイ州 シカゴ )は、ルーマニアの宗教学 者・宗教史家、作家 (主に幻想文学 および自伝 的小説で有名)である。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%AB%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%87



参考2:

デュメジル・コレクションについて
1 『ミトラ=ヴァルナ』『ユピテル・マルス・クイリヌス』
『マハラバータ』、ローマ建国伝説、ケルト神話を繋ぎ、はるかヴァグナ
ーの楽劇にまで延びるイデオロギーの力線。王権とは、暴力とは、法とは
何か。社会の秩序の概念はどこに由来するのだろうか。デュメジルの「発
見」は今日、いっそうアクチュアリチィをもって根源的な問題群に再考を
迫る。新比較神話学の金字塔であるのみならず、広く人類学・人間科学の
哲学的再建に向けられた知的武器とも言うべき、円熟期の神話論を集大成
する待望のシリーズ。
2 『ゲルマン人の神話と神々』『セルウィウスとフォルトゥナ』
危機の時代に書かれた『ゲルマン人の神話と神々』は、三機能体系説の拡
大と深化を目指したもの。後に『ゲルマン人の神々』と改題・改訂された
同書は、デュメジルの親ナチズム的傾向を批判するモミリアーノやギンズ
ブルグとの論争で話題を呼んだ。『セルウィウスフォルトゥナ』は、主に
インドとローマの資料を駆使しつつ王の推戴をめぐる儀礼と神話をアクチュ
アルな観点からも逸しえない。
3 『ローマの誕生』『大天使の誕生』
歴史の時間が流れ出す現場 - 草創期のローマ - の謎に挑んだ『ロー
マの誕生』。著者は三機能説の試金石として、あえてアカデミーの牙城を
選んだ。社会形成に対する神話の規定力、史実と歴史を語ることのクリティ
カルな関係、歴史意識の発生と変容といった主題をめぐる大胆な論争の書。
一方、ゾロアスター教神学の古層にインド=イランの機能神群を見出すの
が『大天使の誕生』。イラン学への本格的寄与となった画期的論考であり、
ユダヤ教、キリスト教、イスラームの天使学を考えるうえでも示唆に富む。
4 『神話から物語へ』『戦士の幸と不幸』
『神話から物語へ(ハディンスのサガ』は、サクソ・グラマティクス『デ
ーン人の事績』中の一物語の研究。特定者による神話の翻案・変奏の手法
分析の試みは文芸理論として読むこともできよう。『戦士の幸と不幸』は、
第二機能に焦点を合わせた重要作。戦士および戦士機能が宿命的に帯びる
諸相、その栄光と悲惨、功業と罪と罰がいきいきと描かれる。比較の触手
は北米インディアンの儀礼にまで伸び、いっそう広範な視野をもった。
ちくま学芸文庫より
http://209.85.175.132/search?q=cache:ZhRCffa5zgMJ:www.isca-japan.com/ENGLISH/pdf/Dumezil.pdf+%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%82%B8%E3%83%AB+%E3%82%B3%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3&cd=5&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a

ジョルジュ・デュメジル
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ジョルジュ・デュメジル(Georges Dumézil, 1898年 3月4日 - 1986年 10月11日 )はフランス の比較神話学者 、言語学者 。インド・ヨーロッパ語族 における比較神話学 の構造的体系化を行ない、クロード・レヴィ=ストロース の構造主義 に大きな影響を与えた。

また(比較言語学者だから当然ではあるが)非常に多くの言語を習得したことで知られ、ほとんどのインド・ヨーロッパ諸語に精通し、さらに複雑で知られる北西コーカサス語族 の権威でもあった。マルセル・グラネ の講座で中国語 を学び、南米のケチュア語 についての論文も発表している(デュメジルによれば、「中国語はケチュア語のようには簡単にはマスターできない」)。ただし本人によれば30の言語を勉強したが、そのうち英語を含めてどれ一つとして正確に話せない、という。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%83%A5%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%A5%E3%83%A1%E3%82%B8%E3%83%AB

2007年12月02日 (19:18)

女性の心について

女性の心について

テーマ:ジェンダー

私は、数日前、用事であるところへ行った。偶然にも、お世話になったある女性に会った。彼女は、すばらしい女性である。心が潤っていて母性性を深くもっている女性である。外見も悪くはないが、それ以上に、心が美しいのである。言葉では、表現しにくい。現代では、希有の女性である。しかしながら、彼女のような母性的タイプはいないことはないのである。
 それに対して、一般的な現代日本女性の心性のあり方には、大きな疑問を感じる。「こころ」が欠落しているのである。潤いがなく、不躾である。私は今年、上記の女性に会い、深い感銘を受けたので、はっきりこのことがわかるのである。
 私は男女の差異があると思っている。平等は間違いだと思う。女性の差異がある。男性の差異がある。私はすべての女性に母性が豊かにあるべきとは思っていないが、それでも、母性性は、基本的なものだと思う。そう、母性性が希薄なのである。
 私は、母性性に、女らしさを感じる。また、美しさとは、心から発すると思っている。そう、確かに、外見の美と内面の美がある。前者は表面的な視覚美である。それは、同一性の美である。それに対して、内面の美とは、差異・特異性の美である。
 結局、近代的自我・近代合理主義・民主主義が、女性の心を干涸びさせたのである。私は母性性を強要するつもりはないが、母性性は源泉にあるものだと思う。大女神、大母神である。Media Pointである。
 女性の場合、近代的自我を身に付けると、とりわけ浅ましくなると思う。何故か。ここが問題である。結局、女性性とは何かという問題になる。今は余裕がないので、簡単に示唆するに留めるが、なにか女性の場合、男性以上に、Media Pointを排除するような過程を経験するのではないだろうか。
 差異教育がなければ、女性は近代的合理主義と同一性化するだろう。このとき、女性性というか母性性であるMedia Pointが不要に思えるのである。それで、排除するのではないか。女性的な合理主義である。これは何か。この単純さ、軽薄さは何を意味するのか。もちろん、男性も同様な面があるが、女性の場合はより明瞭だと思えるのである。
 女性の心の乾きは何を意味するのか。とりわけ、日本の女性である。上記の女性はなにか別世界的な明るい菩薩のような例外である。
 近代主義教育の洗脳が一因ではあると思う。それに対して、なにか内因がないのか。女性の浅ましさを生み出す内因がないのか。女性の軽薄さを生み出す内因である。あるいは、女性の傲りと言ってもいい。思うに、女性は連続性が強いのではないだろうか。Media Pointから同一性志向が発するが、この同一性志向が強いのではないだろうか。私は男性の方が、同一性の志向は強いと思ったが、女性の方が強いのではないか。同一性の志向が強いとMedia Pointは深く隠蔽される。どうもこれが内因ではないか。
 一見男性の方が同一性が強そうに見えるが、そうではないのではないか。思うに、女性の方が、男性よりも、同一性がなめらかに形成されるように思う。男性の場合は、闘うのではないだろうか。
 私はこれまで、男性は+i中心で、女性は-iが中心ではないかと思ったが、逆ではないだろうか。女性が+i中心で、男性が-i中心ではないだろうか。だから、男性は同一性が形成しにくいのであるが、女性は形成しやすいということになる。
 もしそうならば、母性性はどうなるのか。-iが必要である。
否、どうも違う。やはり、男性は+i中心で、女性は-i中心ではないか。そして、+i中心の教育が為されると、女性は自己否定となる。やはり、これが内因ではないか。近代的自我・近代合理主義・民主主義教育は女性を軽薄にするのではないか。女性の差異を否定するのではないか。女性性が否定されるので、女性は、本性を喪失して、軽薄になり慢心するのではないのか。今はここで留める。

2006年07月27日 (18:12)

外観と精神:感覚と精神の関係

外観と精神:感覚と精神の関係
テーマ:哲学
外観から、ある程度、その人の性格がわかるだろう。私は、ある顔写真を見て、直観的に、この人物は、胡散臭い、ペテン師だと感じたが、実物と接して、やはり、そうであった。もちろん、すべてわかるというわけではないが、外観、とりわけ、顔には、その人の性格が現われやすいだろう。そう、風貌、顔貌という言葉があるのである。これは、このことを言っているのである。
 これは、どういうことかと言えば、外観に、内的精神の力が現れるということだろう。しかし、注意すべきは、表情でも、作った表情と、真率な表情との違いである。あるいは、表面・皮相な表情と、真相の表情である。
 思うに、自己に精神を意識していない限り、この区別がつかないだろう。そう、声音でも、ゴマカシの言葉かどうかはわかるものである。これも同様である。
 すると、感覚と精神とが、それなりにつながっているのがわかる。これは、バッハ音楽私見と共通するだろう。根源に、精神感覚・精神身体があるのであり、これが、発露するのである。いわゆる、感性というのは、この精神感覚・精神身体のことだろう。
 大事なのは、精神を霊と混同しないことだ。だから、聖霊とは、聖精神である。地霊も、地精神である。また、アニミズムもシャーマニズムも、万物の精神の問題である。そう、神も精神である。精神という言葉は、実に的確、正確だろう。魂という語も、精神で表現できるだろう。宗教は、精神知性となるべきだろう。
 とまれ、外観には、精神身体が内在しているということになる。
 では、外観美、視覚美とはなにか。それは、精神身体とどう関係するのだろうか。精神身体の美がある。それとは別に、外観美、視覚美がある。そう、現象美である。例えば、自然美がある。これは、否定できない。しかし、ここには、精神美がないのだろうか。紺碧の空には、谷川俊太郎の詩にあるように、単に自然美というよりは、精神美があるだろう。これは、我々の精神を空に投影しているのではないだろう。つまり、自然精神があることになる。思うに、西洋はこれを認めようとしないのである。スピノザ哲学(神即自然)が、どんなに異端視されたことか。思うに、自然精神とは、差異共振シナジー、あるいは、差異共振性と言うべきなのだろう。(この点を、後で検討したい。)
 微妙なところである。現象美は、精神美と重なるのである。しかし、正確に言えば、即非関係だろう。現象美即非精神美であろう。これを一致させているのが、一般に、女性であろう。男性は、言語観念中心主義から、現象美からは、引いているだろう。芸術で言えば、モーツァルトやフェルメールである。しかし、そこには、調和があるだろう。これが、精神美である。
 しかし、精神美と黄金分割(黄金比)はどう関係するだろうか。(これは、後で検討したい。)
 そう、コスモスという言葉の語源を考えるといいだろう。それは、宇宙であり、秩序であり、美である。化粧(cosmetic)の語源である。自然美=精神美=コスモスということになるだろう。そして、現代は、これの喪失した時代である。現象ではなくて、同一性中心主義になっているのである。拝金主義であり、戦争であり、狂気である。即ち、醜悪な時代なのである。

2006年04月14日 (08:31)

女性的なるものが、今日の問題の核心になっている

文学を一言で言えば、女性とは何かの探求だろうし、哲学もそうだろうし、自然科学もそうだろうし、工学もそうだろう。経済も、政治もそうだろう。一切合切がここにあるだろう。問題は、西洋文明は、これを、父の領域としてきたことである。神話・文化史的には、父権文明の視点である。
 しかし、今や、西洋文明=グローバリゼーションで、地球ガイアは、絶滅の危機に瀕している。日本の自然は、日本人に無視され、満身創痍、死に体である。愚鈍・愚劣な日本人に呪いあれ!
 思うに、現代は、西洋父権文明の末期にあり、今や新しい文明(文光と呼びたい)が、現れているだろうが、愚人たちは、何も気がつかない。問題は、女性的なるものである。これは、多くの女性にはわからないだろう。なぜなら、西洋父権文明化している女性がほとんどだからである。今日、女性的なるものである女性はいるのかわからない。とまれ、女性を見ていると、その余韻、残像は感じられるのである。
 それは、古代中国人が捉えた玄牝(げんぴん)だと思う。闇としての原宇宙である。神話的には、一般には、原初に混沌カオスが置かれるが、それは、一種後知恵だろう。父権的秩序(2項対立・構造主義的秩序)から見た、原初を混沌カオスと呼ぶのだと思うのである。光と闇との未分化の混沌である。初めに、ロゴスありき。このロゴスを父権的秩序のロゴスとするのは、誤りであり、デリダのロゴス中心主義批判とは、この批判である。原初のロゴスとは、玄牝のロゴスである。闇の原宇宙(以下、玄宇宙とも既述したい)のロゴスである。そして、この、言わば、玄ロゴスとは、不連続的差異であり、境界をもつ無数・無限のイデアだと考える。古代ギリシア哲学のヌース(精神)も、本来、このイデアを指していると考えられるし、ヌース理論のヌースの真意もこれにあるだろう。
 問題は、玄牝、玄ロゴスの総体をどう捉えるかである。今、ここでは、作業仮説として、直観を言えば、玄牝=玄宇宙(玄コスモス)=イデア界には、玄光、黒い光、闇の光が存しているのである。これは、また、フッサールの志向性、超越論的主観性/間主観性でもあると考えられる。この玄光=志向性が、イデア界を満たしているが、それの1/4回転によって、明光が生まれるのである。光の誕生である。光あれ。つまり、光の本体は、玄光、黒い光、闇の光である。それが、1/4回転で、ゼロ化して、共振・共鳴を起こして、極性化して、光になるのである。素粒子・量子=心身の創造・誕生である。大D.H.ロレンスが述べた黒い太陽・玄太陽dark sunとは、正に、これを表現していると考えられるのである。ロレンスの述べたコスモスも、この玄牝・玄宇宙であろう。名作『死んだ男』の暗い宇宙の薔薇も、これを指すだろう。(さらに言えば、プラトンのコーラであるが、それは、一見、メディア界的であるが、思うに、1/4回転事象ではないだろうか。)
 では、玄牝、玄コスモス、イデア界の力学はどうなのか。玄光志向性の原動力がある。それは、また、不連続的差異の志向性であり、極限志向であるが、絶対的に不連続なのである。無数・無限の特異性としての志向性である。これが、1/4回転で、無限遠点的に、一致するように見えるのである。しかし、それは、フィクションである。シミュラクルである。無限遠点はフィクションである。それは、ゼロ化・空(くう)化に過ぎない。ゼロ・空フィクションである。
 とまれ、この玄光の志向性力学、玄光の1/4回転志向性力学が、イデア界の力学であると言えよう。これが、玄牝の正体・実体・真相・実相であろう。ミクロの黒い光たちが、1/4回転して、光、太陽となるのである。ミクロの黒い光たちが1/4回転によって創造するイデア/メディア境界面が、量子力学の世界であろう。そこでは、粒子と波動とが相補していると考えられる。粒であり、同時に、波動である。粒かと思えば、波であり、波かと思えば、粒であり、両者不分離なのである。 ODA ウォッチャーズ氏が説く矛盾性の調和空間=メディア界とは、正にこの領域を指すだろう。
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