2007年12月02日 (19:18)

女性の心について

女性の心について

テーマ:ジェンダー

私は、数日前、用事であるところへ行った。偶然にも、お世話になったある女性に会った。彼女は、すばらしい女性である。心が潤っていて母性性を深くもっている女性である。外見も悪くはないが、それ以上に、心が美しいのである。言葉では、表現しにくい。現代では、希有の女性である。しかしながら、彼女のような母性的タイプはいないことはないのである。
 それに対して、一般的な現代日本女性の心性のあり方には、大きな疑問を感じる。「こころ」が欠落しているのである。潤いがなく、不躾である。私は今年、上記の女性に会い、深い感銘を受けたので、はっきりこのことがわかるのである。
 私は男女の差異があると思っている。平等は間違いだと思う。女性の差異がある。男性の差異がある。私はすべての女性に母性が豊かにあるべきとは思っていないが、それでも、母性性は、基本的なものだと思う。そう、母性性が希薄なのである。
 私は、母性性に、女らしさを感じる。また、美しさとは、心から発すると思っている。そう、確かに、外見の美と内面の美がある。前者は表面的な視覚美である。それは、同一性の美である。それに対して、内面の美とは、差異・特異性の美である。
 結局、近代的自我・近代合理主義・民主主義が、女性の心を干涸びさせたのである。私は母性性を強要するつもりはないが、母性性は源泉にあるものだと思う。大女神、大母神である。Media Pointである。
 女性の場合、近代的自我を身に付けると、とりわけ浅ましくなると思う。何故か。ここが問題である。結局、女性性とは何かという問題になる。今は余裕がないので、簡単に示唆するに留めるが、なにか女性の場合、男性以上に、Media Pointを排除するような過程を経験するのではないだろうか。
 差異教育がなければ、女性は近代的合理主義と同一性化するだろう。このとき、女性性というか母性性であるMedia Pointが不要に思えるのである。それで、排除するのではないか。女性的な合理主義である。これは何か。この単純さ、軽薄さは何を意味するのか。もちろん、男性も同様な面があるが、女性の場合はより明瞭だと思えるのである。
 女性の心の乾きは何を意味するのか。とりわけ、日本の女性である。上記の女性はなにか別世界的な明るい菩薩のような例外である。
 近代主義教育の洗脳が一因ではあると思う。それに対して、なにか内因がないのか。女性の浅ましさを生み出す内因がないのか。女性の軽薄さを生み出す内因である。あるいは、女性の傲りと言ってもいい。思うに、女性は連続性が強いのではないだろうか。Media Pointから同一性志向が発するが、この同一性志向が強いのではないだろうか。私は男性の方が、同一性の志向は強いと思ったが、女性の方が強いのではないか。同一性の志向が強いとMedia Pointは深く隠蔽される。どうもこれが内因ではないか。
 一見男性の方が同一性が強そうに見えるが、そうではないのではないか。思うに、女性の方が、男性よりも、同一性がなめらかに形成されるように思う。男性の場合は、闘うのではないだろうか。
 私はこれまで、男性は+i中心で、女性は-iが中心ではないかと思ったが、逆ではないだろうか。女性が+i中心で、男性が-i中心ではないだろうか。だから、男性は同一性が形成しにくいのであるが、女性は形成しやすいということになる。
 もしそうならば、母性性はどうなるのか。-iが必要である。
否、どうも違う。やはり、男性は+i中心で、女性は-i中心ではないか。そして、+i中心の教育が為されると、女性は自己否定となる。やはり、これが内因ではないか。近代的自我・近代合理主義・民主主義教育は女性を軽薄にするのではないか。女性の差異を否定するのではないか。女性性が否定されるので、女性は、本性を喪失して、軽薄になり慢心するのではないのか。今はここで留める。

2006年07月27日 (18:12)

外観と精神:感覚と精神の関係

外観と精神:感覚と精神の関係
テーマ:哲学
外観から、ある程度、その人の性格がわかるだろう。私は、ある顔写真を見て、直観的に、この人物は、胡散臭い、ペテン師だと感じたが、実物と接して、やはり、そうであった。もちろん、すべてわかるというわけではないが、外観、とりわけ、顔には、その人の性格が現われやすいだろう。そう、風貌、顔貌という言葉があるのである。これは、このことを言っているのである。
 これは、どういうことかと言えば、外観に、内的精神の力が現れるということだろう。しかし、注意すべきは、表情でも、作った表情と、真率な表情との違いである。あるいは、表面・皮相な表情と、真相の表情である。
 思うに、自己に精神を意識していない限り、この区別がつかないだろう。そう、声音でも、ゴマカシの言葉かどうかはわかるものである。これも同様である。
 すると、感覚と精神とが、それなりにつながっているのがわかる。これは、バッハ音楽私見と共通するだろう。根源に、精神感覚・精神身体があるのであり、これが、発露するのである。いわゆる、感性というのは、この精神感覚・精神身体のことだろう。
 大事なのは、精神を霊と混同しないことだ。だから、聖霊とは、聖精神である。地霊も、地精神である。また、アニミズムもシャーマニズムも、万物の精神の問題である。そう、神も精神である。精神という言葉は、実に的確、正確だろう。魂という語も、精神で表現できるだろう。宗教は、精神知性となるべきだろう。
 とまれ、外観には、精神身体が内在しているということになる。
 では、外観美、視覚美とはなにか。それは、精神身体とどう関係するのだろうか。精神身体の美がある。それとは別に、外観美、視覚美がある。そう、現象美である。例えば、自然美がある。これは、否定できない。しかし、ここには、精神美がないのだろうか。紺碧の空には、谷川俊太郎の詩にあるように、単に自然美というよりは、精神美があるだろう。これは、我々の精神を空に投影しているのではないだろう。つまり、自然精神があることになる。思うに、西洋はこれを認めようとしないのである。スピノザ哲学(神即自然)が、どんなに異端視されたことか。思うに、自然精神とは、差異共振シナジー、あるいは、差異共振性と言うべきなのだろう。(この点を、後で検討したい。)
 微妙なところである。現象美は、精神美と重なるのである。しかし、正確に言えば、即非関係だろう。現象美即非精神美であろう。これを一致させているのが、一般に、女性であろう。男性は、言語観念中心主義から、現象美からは、引いているだろう。芸術で言えば、モーツァルトやフェルメールである。しかし、そこには、調和があるだろう。これが、精神美である。
 しかし、精神美と黄金分割(黄金比)はどう関係するだろうか。(これは、後で検討したい。)
 そう、コスモスという言葉の語源を考えるといいだろう。それは、宇宙であり、秩序であり、美である。化粧(cosmetic)の語源である。自然美=精神美=コスモスということになるだろう。そして、現代は、これの喪失した時代である。現象ではなくて、同一性中心主義になっているのである。拝金主義であり、戦争であり、狂気である。即ち、醜悪な時代なのである。

2006年04月14日 (08:31)

女性的なるものが、今日の問題の核心になっている

文学を一言で言えば、女性とは何かの探求だろうし、哲学もそうだろうし、自然科学もそうだろうし、工学もそうだろう。経済も、政治もそうだろう。一切合切がここにあるだろう。問題は、西洋文明は、これを、父の領域としてきたことである。神話・文化史的には、父権文明の視点である。
 しかし、今や、西洋文明=グローバリゼーションで、地球ガイアは、絶滅の危機に瀕している。日本の自然は、日本人に無視され、満身創痍、死に体である。愚鈍・愚劣な日本人に呪いあれ!
 思うに、現代は、西洋父権文明の末期にあり、今や新しい文明(文光と呼びたい)が、現れているだろうが、愚人たちは、何も気がつかない。問題は、女性的なるものである。これは、多くの女性にはわからないだろう。なぜなら、西洋父権文明化している女性がほとんどだからである。今日、女性的なるものである女性はいるのかわからない。とまれ、女性を見ていると、その余韻、残像は感じられるのである。
 それは、古代中国人が捉えた玄牝(げんぴん)だと思う。闇としての原宇宙である。神話的には、一般には、原初に混沌カオスが置かれるが、それは、一種後知恵だろう。父権的秩序(2項対立・構造主義的秩序)から見た、原初を混沌カオスと呼ぶのだと思うのである。光と闇との未分化の混沌である。初めに、ロゴスありき。このロゴスを父権的秩序のロゴスとするのは、誤りであり、デリダのロゴス中心主義批判とは、この批判である。原初のロゴスとは、玄牝のロゴスである。闇の原宇宙(以下、玄宇宙とも既述したい)のロゴスである。そして、この、言わば、玄ロゴスとは、不連続的差異であり、境界をもつ無数・無限のイデアだと考える。古代ギリシア哲学のヌース(精神)も、本来、このイデアを指していると考えられるし、ヌース理論のヌースの真意もこれにあるだろう。
 問題は、玄牝、玄ロゴスの総体をどう捉えるかである。今、ここでは、作業仮説として、直観を言えば、玄牝=玄宇宙(玄コスモス)=イデア界には、玄光、黒い光、闇の光が存しているのである。これは、また、フッサールの志向性、超越論的主観性/間主観性でもあると考えられる。この玄光=志向性が、イデア界を満たしているが、それの1/4回転によって、明光が生まれるのである。光の誕生である。光あれ。つまり、光の本体は、玄光、黒い光、闇の光である。それが、1/4回転で、ゼロ化して、共振・共鳴を起こして、極性化して、光になるのである。素粒子・量子=心身の創造・誕生である。大D.H.ロレンスが述べた黒い太陽・玄太陽dark sunとは、正に、これを表現していると考えられるのである。ロレンスの述べたコスモスも、この玄牝・玄宇宙であろう。名作『死んだ男』の暗い宇宙の薔薇も、これを指すだろう。(さらに言えば、プラトンのコーラであるが、それは、一見、メディア界的であるが、思うに、1/4回転事象ではないだろうか。)
 では、玄牝、玄コスモス、イデア界の力学はどうなのか。玄光志向性の原動力がある。それは、また、不連続的差異の志向性であり、極限志向であるが、絶対的に不連続なのである。無数・無限の特異性としての志向性である。これが、1/4回転で、無限遠点的に、一致するように見えるのである。しかし、それは、フィクションである。シミュラクルである。無限遠点はフィクションである。それは、ゼロ化・空(くう)化に過ぎない。ゼロ・空フィクションである。
 とまれ、この玄光の志向性力学、玄光の1/4回転志向性力学が、イデア界の力学であると言えよう。これが、玄牝の正体・実体・真相・実相であろう。ミクロの黒い光たちが、1/4回転して、光、太陽となるのである。ミクロの黒い光たちが1/4回転によって創造するイデア/メディア境界面が、量子力学の世界であろう。そこでは、粒子と波動とが相補していると考えられる。粒であり、同時に、波動である。粒かと思えば、波であり、波かと思えば、粒であり、両者不分離なのである。 ODA ウォッチャーズ氏が説く矛盾性の調和空間=メディア界とは、正にこの領域を指すだろう。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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