2008年07月05日 (13:45)

同一性主義は、何故、否定感情的なのか:新イデア文明としての新太母文化:新超母・新超女文明の誕生へ

これは、既に答えが出ている疑問かもしれないが、再考したい。
 思うに、差異を否定するときに、否定感情が発動するということではないだろうか。差異を肯定するならば、肯定感情になり、共感(共鳴)的になると言えよう。
 思うに、差異は、異質であり、いわば、異文化的なので、不快感をもたらすであろう。ここにも、否定感情がある。
 ところで、白人が有色人種に感じる不快感の原因は何だろうか。それは、視覚印象から来ているのではないだろうか。もし、心眼があれば、不快感はなくなるだろう。思うに、差異への不快感とは、同一性形象がいわば、原型となり、それを基盤として、視覚の快・不快が形成されると考えられる。そう、同一性視覚形象がモデルとなり、それにそぐわないものが排除されるという力学になるのだろう。
 思うに、白人の場合、この同一性視覚形象モデル主義が根強くあるのである。そして、これが同一性主義の基盤にあるものではないかと思われるのである。そこに欠落しているのは、心眼である。共感性である。端的に、差異共振性という知恵である。他者への配慮である。
 キリスト教は本来、これをもっていたが、一神教性によって阻害されると考えられる。イエスの教えは、本来、差異共鳴性である。
 そう、ここであえて言えば、イエスの原型とはディオニュソスである。ディオニュソスは、端的に、イデア・エネルギーであり、それは、太母・大女神文化的である。イエスにとって、母・妻・恋人の女神が本来必要なのである。
 父を+iとするなら、母-iが必要である。だから、キリスト教には、母が欠けているのである。これが、白人文明の欠陥であると考えられる。
 では、太母と「父」と「母」という対イデアとの関係はどうなるのだろうか。私は、直感では、対イデアを太母と考えてきたのであるが、「父」と「母」との対イデアを考えると、「母」が太母なのかもしれない。
 しかしながら、直感は、対イデア自体が太母である。この齟齬をどうみるのか。私は、太母文明は、差異共振文明であるとこれまで述べてきた。それは、「父」と「母」との共鳴文明でなければならない。思うに、文明史・文化史的に、太母と「母」とで混乱が起きたのではないだろうか。
 思うに、大地母神と呼ばれるものは、本来、太母であり、「父」と「母」との共鳴エネルギーではなかったか。それが、「母」に同定されていると考えられるのである。つまり、これは、対イデアである太母が、父権主義=同一性主義によって、「母」へと、いわば、貶められた結果ではないのか。
 即ち、父権主義の「父」は、+iであり、劣位に置かれた「母」とは、-iである。そして、後者が太母のように考えられたのである。
 ギリシア神話で言えば、デーメーテールが大地母神である。しかし、本来は、太母であり、対イデア(イデア共鳴体)と考えられる。
 この勘違い・錯誤は、「父」が対イデア(イデア共鳴体)を支配してしまうことに発すると言えるのではないだろうか。
 そう、端的に、一神教の神(ヤハウェ)の、いわば、簒奪である。ギリシア神話では、ゼウスの簒奪である。オリュンポスの神々とは、思うに、父権神話と母権神話の、前者中心の混淆ではないだろうか。言い換えると、父権化された母権神話である。
 おそらく、これは、多くの神話において生じた混乱ではなかっただろうか。太母が「母」とされたのである。思うに、ギリシア神話では、太母は、アルテミスのような処女神ではないだろうか。アフロディーテ(ヴィーナス)となると、「母」になるのではないだろうか。
 とまれ、問題は、母権文化と言ったとき、太母文化なのか、「母」文化なのか、である。一般に混同されていると考えられるのである。ジェンダーによる混乱である。
 私が唱える新母権文化とは、新太母文化であり、新イデア(イデア共鳴体)文化である。新ディオニュソス文化と言ってもいいだろう。
 例えば、イシス・オシリス神話で言うと、オシリスはディオニュソスになるのであるが、イシスとは何かである。イシスは、イデア共鳴体でなくてはならない。「母」ではなく、太母である。
 では、イシスの内包する+iと-iとは何だろうか。それは、天と地である。(そうすると、先に述べた天の柱であるが、それは、虚軸であろう。)天と地との共鳴としてのイシスであり、その現象光としてのオシリスではないだろうか。正に、自己認識方程式が表現するものではないだろうか。
 今はここで留めるが、結局、太母と「母」を絶対的に峻別する必要があるということになる。イシスは太母であり、「母」=地ではない。
 ここには言葉の問題がある。思うに、超母という言葉を造語して、太母の替わりに使用するのがいいのかもしれない。あるいは、超女であろうか。

2007年04月08日 (14:09)

ヘーゲル、ハイデガー、構造主義/ポスト構造主義:現象MePoの連続的閉鎖系:新東西哲学PS理論

(注:先の論考に後記をつけ加えた。)

以前から感じていたが、構造主義は、ヘーゲル弁証法に由来するのではないかということ等に関してここで、簡単に検討したい。

PS理論のメディア・ポイントMePo(以下、mepo)の視点から考えたい。

結局、現象mepoが基点となる。ここでは、差異は、連続的志向性をもち、同一性化へと向かう。

この連続化が、差異の裏返しにするようにして、同一性を形成するのである。

ドゥルーズが襞のことを言っていたが、確かに、この連続化は、差異を襞にするように折り込むと言えるだろう。しかし、これは、あくまで、現象mepoに事象に関してである。

現象mepoにおける連続的志向性であるが、これは、本来は、超越エネルギーのよると言えよう。ここが造化の不思議なところで、超越エネルギーは、連続化されて、現象・連続的エネルギーになると言えよう。

しかし、否定された差異は、超越エネルギーを保存していると言えよう。

とまれ、この現象mepoであるが、まとめると、連続的志向性=顕在化と否定された差異の潜在性の非対称的二重性がある。

そして、前者が構造性と言っていいだろう。ここから、同一性が発現するのであるから。そして、構造性は、差異を否定するので、ここで、同一性と差異との二項対立を形成するのである。これが、構造主義でお馴染の二元論である。

連続性が+なら、差異は-である。あるいは、符号が逆になるだろう。

ここで、構造主義の構造をまとめると、現象mepoにおける連続性と差異との対立構造であると言えるだろう。

ここで、ヘーゲル弁証法を考えると、正反合であるが、正は、連続性であり、反が差異であり、合が現象mepoであろう。

結局、現象mepo⇒連続性(正)⇒差異(反)⇒現象mepo(合)である。

だから、構造主義とは、ヘーゲル弁証法の対立構造を取りだしたものと言えるだろうし、構造主義の対立を弁証法的対立と呼ばれるのも適切であると言えよう。

ただ、両者の相違は、ヘーゲル弁証法は、ジンテーゼへの志向性を強くもっていることである。

この相違を説明すると、ヘーゲル弁証法において、反(アンチテーゼ)が、連続化された超越性をもっていることによる全体的志向をもっているからではないだろうか。ある意味で、宇宙的志向と言ってもいいだろう。

ただし、裏返しにである。

とまれ、連続化された現象mepoにおける対立と全体的統一性、これが、ヘーゲル弁証法の核心であろう。

だから、形式的には、ヘーゲル弁証法は、構造主義と同じである。

両者、同形であるが、ただ、ヘーゲル弁証法は、対立と統一の両面が明確であるのに対して、構造主義は、対立の方にウェイトがあると言えるだろう。

では、ヘーゲル弁証法とポスト構造主義(ドゥルーズ哲学)の関係であるが、先に、ドゥルーズ哲学は構造主義であると言ったが、それから言うならば、やはり、それもヘーゲル哲学と同形になることになる。

しかし、同形ではあるが、強調点が異なると考えられる。即ち、ドゥルーズの場合は差異を共通するのである。連続化された現象mepoにおける差異の強調である。これは、連続的同一性(テーゼ)を否定するのである。この点で、ヘーゲル弁証法とは異なる。

すると、連続的現象mepoにおける、1.ヘーゲル弁証法⇒2.構造主義⇒3.ポスト構造主義(ドゥルーズ哲学)の発生が見えてくる。

即ち、1において、連続的現象mepoのポテンシャル・エネルギーが強いので、それへと回帰する。2においては、連続的志向性が強く、差異と対立する構造形式をもつ。3においては、連続的同一性への反動否定性が強く、連続的差異の思想となっている。

ここで、ハイデガー哲学を考えると、それは、この三つの中では、構造主義に近いだろう。即ち、存在が連続的現象mepoであり、存在者が連続的同一性である。

さて、最後にデカルト、ライプニッツ、カント、ニーチェ、フッサールに簡単に触れたい。

デカルトのコギトは、連続的志向性を否定した上で成立する思考である。おそらく、現象mepoにコギトがあるのではないだろうか。それは、超越mepoとも通じるだろう。とまれ、コギトは、明確には、超越mepoにはないが、少なくとも、現象mepoに存すると思う。超越性と現象性との境界である。

ライプニッツのモナドであるが、それは、コギトをより超越mepoに近づけたものだろう。正確に言えば、現象mepoを否定した超越mepoと言えるかもしれない。(後で検討。)

カント哲学であるが、それは、超越論的形式を導入して、同一性の構造を発見したものである。これは、対立の構造ではないが、構造である。そして、mepoを物自体や実践的理性にしたのである。純粋理性とは、現象mepoのことであろう。

ニーチェであるが、彼は、連続的志向性を全否定した。それは、超越mepoと言えるかもしれない。それは、ほとんど、純粋差異の思想である。ただし、⇒+1までは達していない。i*(-i)⇒の思想である。(ライプニッツのモナドに近いように思われるかもしれない。しかし、ニーチェには、ポスト構造主義的な反反動性が少し入っていたと思う。)

フッサール現象学は、現象mepoを志向性ということで発見したものだろう。間主観性とは、差異的同一性と言えるのではないだろうか。おそらく、超越mepoを捉えていたが、明確に、即非性とは把握していなかったと思う。

さて、つけ加えると、シェリングは、明晰に即非性を捉えてはいなかったものの、実質的には、即非性を捉えていた。それは、超越/現象mepoの思想である。そして、同一性への展開。最後に、差異的同一性を把捉していたと思う。

ウスペンスキーは、即非の思想を「ターシャム・オルガヌム」として、ほぼ捉えていた。

以上のようにざっと見ると、西洋近代・現代哲学は、メディア・ポイントの根源的事象(特異性)と連続的様態(同一性)とを探求していたと言えよう。

しかしながら、両者が根本的に異質なもの、不連続なものであることを、西洋哲学は認識できなかったと言えよう。不連続的差異論を包摂したプラトニック・シナジー理論がこれを解明したのである。

後、検討問題として、数学と哲学の関係がある。これは、論理学の問題とも言えよう。数学、論理学、哲学との関係は何か。

数学とは、超越/現象の知の論理を構成化するものではないだろうか。数学、論理学、哲学は、超越/現象におけるイデア・知的事象の論理を表わすものではないのか。

p.s. メルロ=ポンティの現象学について触れたいが、これは、私の想像である。身体論の問題である。主客共振性があるので、これは、メディア・ポイントの共振性である。Kaisetsu氏のメディア共鳴である。しかしながら、それが純粋化されていない。即ち、連続化が混淆されていると思うのである。おそらく、表記すれば、i*(-i)⇒+1とi*-(-i)⇒-1との混淆である。なぜ、混淆なのかと言えば、それは、後者を切断して、身体を不連続化して、意識化していないからだと思う。身体意識に留まっているからだと思われる。

p.p.s. キルケゴールの宗教哲学であるが、超越mepoに達していて、連続的志向性を乗り越えるものになっている。いわゆる、ヘーゲルの量的弁証法に対する質的弁証法であるが、これは、不連続な飛躍する「弁証法」であり、PS理論と類似した性格をもっていると言えよう。つまり、連続的な現象界と超越界とは不連続な関係であるというPS理論の観念と似ているのである。しかし、違いは、キルケゴールが信仰という不合理な立場に留まったのに対して、PS理論は、特異性=差異共振的同一性i*(-i)⇒+1という超越的差異同一性論理、超越的即非論理を提示している点で異なる。(p.s. キルケゴールの宗教性とカントの実践理性は共通するだろう。当然、プラトンの善のイデアに通じるのである。)

ところで、キルケゴールの言う倫理とは、連続的志向性のもつ「倫理」である。連続的志向性と「倫理」・「道徳」の関係であるが、これは、以前に述べたが、これは、連続的志向性が本来、超越的エネルギー、超越性によって発生しているのである。つまり、本来、善のイデアから発していると考えられるのである。しかし、この善のイデアが、連続化されているのが、連続的志向性の「倫理」・「道徳」である。これは、似非倫理・似非道徳、偽善・独善・欺瞞なのである。

3p.s. 以上のように、近代・現代西洋哲学(ヨーロッパ大陸の哲学)をざっと見たが、抜けているのは、イギリスの経験論哲学に関してである。興味深いのは、シェリングの『哲学的経験論の叙述』である。やはり、経験論の革新性が根本にあるのである。経験論とは直観論・直感論であろう。

さて、その著の最後に経験論から超越性への飛躍が示唆されていることである。もともと、本書は、現象学的であった。だから、フッサール現象学への先駆とも言えるのである。しかしながら、フッサール現象学を超えて、PS理論の先駆であると言うべきである。

4p.s. 英米の哲学に関しては、志向性の概念は、言語哲学の言語行為論(ジョン・オースティン)やintentionality(ジョン・サール)に、限定された形ではあるが、現われているように思える。また、特異性に関しては、ストローソンのindividualismと関係するのではと推測している。

5p.s. デリダ哲学であるが、それは、既述したように、現象mepoにおける連続性と連続的差異との両義性の遊戯である。

6p.s. ベルクソン哲学であるが、これは、連続的差異(=微分)の哲学であり、ドゥルーズ哲学の先駆である。

ついでに、ハイデガー哲学との関係を述べると、ハイデガーの存在とは、現象mepoであるが、それは、連続的差異性を含んでいるように思える。だから、ベルクソン、ハイデガー、ドゥルーズの哲学は、同類であると考えられる。

結局、現象mepoは、連続的同一性の志向性と連続的差異の反動性の両義性ないし極性をもっているのである。ポスト構造主義の大欠陥は、現象mepo、連続主義的な現象mepoに囚われて、それからの超脱・超越を志向していた西洋哲学の創造的伝統を継承しなかったことにあるだろう。それは、西洋哲学における「断絃の時」である。そして、それにかぶれた現代日本の哲学は、地に墮ちたのである。

7p.s. 東洋哲学、とりわけ、日本近代哲学を評価しなくてはならない。大乗仏教の伝統に基づいた論理(即非の論理)を駆使して、西洋哲学の超克が為されたと言っていいだろう。清沢満之、鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造らによって、超越的論理の哲学が基礎づけられたのである。そして、PS理論は、即非の論理に基礎付けられて、西洋哲学と東洋哲学を統一する理論となったのである。ここには、数学の論理が適用されて、ピタゴラス/プラトンの数学的哲学の復興ともなったのである。

8p.s. スピノザ哲学について言及すると、思惟と延長の近代的二元論をベースにして、所謂、心身平行論を提起したのが、既述したように、スピノザ哲学には、心身共振性の部分が隠れているのである。この部分が、超越性=神=自然と、思惟/延長を結びつけるのである。だから、PS理論から見ると、連続的現象mepoを前提としているが、隠れた心身共振部分、即ち、メディア共鳴性をもっている。これは、i*(-i)⇒+1に相当すると言えよう。結局、スピノザ哲学も、PS理論の先駆の一つではあるが、連続性と不連続性とが混淆共存している曖昧さを残していると言えよう。

もう少し、明確に言うと、スピノザの説く能動的観念とは、差異共振性を形成する。それが、⇒+1となる。だから、メディア共鳴を形成すると言える。この能動的観念は、連続性を解体すると言えるのである。しかしながら、いわば、経験的に解体するのであり、理論的な不連続化ではない。ここは微妙な点である。能動的観念はメディア共鳴の方法であるが、充分な不連続性の形成ではないと考えられる。なぜなら、意識において、自我意識と能動的観念とは、決定的に分離せずに、連続しているからである。確かに、実質的な不連続性はあるが、同時に、連続性が残っているのである。

つまり、無意識的な不連続性の形成であり、意識的な不連続性の形成ではないのである。この無意識である点が、不徹底であると言えよう。

2006年12月03日 (14:23)

ジキル博士/ハイド氏の構造を解明する:光認識の盲目性と仏教という最初期ポスト・モダン哲学

以下の記事を参考にして、ジキル博士/ハイド氏の構造をプラトニック・シナジー理論から解明しよう。ジキル博士の内面とは、-(-i)であるが、この意味は何だろうか。つまり、最初の−の意味である。これは、当然、自己投影の−である。しかし、これは、隠蔽であるから、(-i)自体は存在しているのである。つまり、iである自己と(-i)の他者とが、完全に乖離・分裂しているということであろう。つまり、i/(-i)である(ここで、/は乖離・分離・分裂を意味する)。これが、ジキル博士/ハイド氏の数哲理構造であると言えよう。また、流行の自己愛性人格障害もこれで解明できよう。
 では、精緻に見ると、どこにハイド氏が存するのだろうか。それは、自己投影ないし反差異・連続的同一性であるi→(-i)に存するだろう。つまり、陽意識・認識=+エネルゲイアである。しかし、陰意識・認識=−エネルゲイアが存するはずである。即ち、(-i)→iである。結局、陽意識の−1と陰意識の −1の2つの−1が存するだろう。前者は、押しつけ・暴力である。そして、後者は、影・シャドウであろう。だから、ハイド氏は、後者である。ジキル氏の影・シャドウであるから。すると、前者が押しつけ・暴力であると言ったのを修正しないといけないだろう。確かに、前者は、押しつけ・暴力であるが、それは、作用・能動である。後者の力を取り込めば、対極化されて、自己認識+1が形成される端緒となるだろう。問題は、後者をまったく否定した場合である。
 ここで、精密に見ると、+エネルゲイアと−エネルゲイアは同時発生であると言える。連続的同一性化(陽認識)と他者的同一性化(陰認識)が同時発生するのである。思うに、自己投影とは、この同時発生の事象・様態ではないだろうか。自己即他者である。(思うに、愛とはこのことではないか。)思うに、これは、実に不思議な事象・様態であろう。自己と他者が実際は、乖離・分裂しながら、自己即他者と錯誤されるのであるから。
 とまれ、押しつけ・暴力(いじめ)の問題を考えると、それは、この±エネルゲイアの様態ではないだろうか。より正確に言えば、両者の並存様態であろう。+エネルゲイアの連続的同一性と−エネルゲイアの他者的同一性が並立していると思えるのである。さらに正しく言えば、+エネルゲイアが−エネルゲイアを隠蔽しているのだろう。ここで、視覚的認識の問題があるのである。視覚的認識は、+エネルゲイアの認識であり、−エネルゲイアの他者的同一性の認識に対してブラインドになると考えられるのである。つまり、光認識には、闇認識はできないということである。反差異・連続的同一性認識は、言語観念認識を形成するだろう。ある対象は、「リンゴ」と呼ばれる。これは、リンゴという現象個体、視覚的個体による言語観念認識である。つまり、ここでは、唯名論と実念論は同一である。−エネルゲイアの認識は、いわば、身体的認識、身心的認識を必要とすると考えられるのである。視覚的同一性と身体的同一性の相違があるだろう。視覚空間の「リンゴ」と身体空間の「リンゴ」では異なるのである(ついでに言えば、セザンヌの静物画は、後者を表現・描出しているのだろう)。光と闇、光と影である。光と闇、光と影を併せ持って、真如となると考えられるのであるが、光認識・視覚認識は、闇認識・身体認識を隠蔽してしまうのである。なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると、闇認識・身体認識が看過され、無視され、さらには、無化・否定化・排除化されるのである。これが、近代合理主義・近代的自我の様態である。これが、また、遠近法空間を形成するのである。つまり、三次元空間を形成するのである(時間を加えて、四次元時空間であるが、時間空間が不可視なのである)。
 この排除された身体認識・陰認識・−エネルゲイアであるが、これは、認識されないので、非合理衝動つまり狂気になると考えられるのである。だから、この否定・排除・隠蔽された身体認識が、暴力を狂気的なものにするのである。陽認識は、単に暴力であろうが、否定された陰認識は、非合理衝動・狂気となり、狂気的暴力を反復強迫させるようになると考えられるのである。これが、ハイド氏であろう。悪魔と言ってもいいのである。私が近代的自我は狂気であると言ったことである。そして、自己愛性人格障害も、これで説明ができるだろう。つまり、近代主義の帰結としての精神病理なのである。
 では、ここで、「なんらかの原因・理由で、光認識・視覚認識が強化されると」と述べたときの、「なんらかの原因・理由」を考えてみよう。これは、既述の事柄であるが、再確認しよう。一つは、私の仮説であるが、男性は、光認識・視覚認識・陽認識に傾斜しているということである。つまり、+エネルゲイアが−エネルゲイアよりも強化されているのが男性であると私は考えるのである。おそらく、これは、奇形と言えるのかもしれない。それに対して、女性は、逆に傾斜しているのではないだろうか。つまり、−エネルゲイアの傾斜が強いということである。一種、性差である。この対極的傾斜のため、男性は、連続的同一性暴力を狂気化するのである。これが、戦争であろう。そして、女性は、他者的同一性暴力を狂気化するのである。これが、ヒステリーやオカルト主義であろう。とまれ、実害としては、当然、前者の方がはるかに巨大である。
 これが一つの原因・理由である。しかし、この性差的傾斜仮説以外を考えると、民族的傾斜仮説が考えられそうである。ここで、想起するのが、ニーチェの有名なアポロ(美術)とディオニュソス(音楽)の区別である。これを借りれば、アポロ的民族とディオニュソス的民族があることになる。そして、古代ギリシア人は、両民族の混淆であると考えられる。そして、これは、文化史的には、インド・ヨーロッパ語族・父権的民族と古ヨーロッパ民族・母権的民族との混淆であると言えるだろう。神話学的には、軍神アレス(マルス)と美神アフロディーテ(ヴィーナス)で代表されるだろう。宗教的には、一神教と多神教であろう。
 ここで、アポロ的とは、古典的芸術を考えるべきである。シンメトリカルな、幾何学的に均整の取れた美学を考えるべきである。古代ギリシアの壺を考えるといいだろう。現象リアリズムである。
 さて、そうすると、アポロ的なもの、即ち、反差異・連続的同一性に傾斜した民族が、光認識・視覚認識を強化したと言えるだろう。これが、二番目に考えられる原因・理由である。
 そして、三つ目は、キリスト教である。光の宗教としてのキリスト教である。本来、この光は、原光としての光であるが、善悪二元論から、闇を激烈に排除する結果、陰認識を排除してしまったのではないだろうか。これは、一神教の問題と言っていいだろう。多神教を否定した一神教は、偶像崇拝、感覚像を否定するのである。これは、身体否定と言っていいだろう。身体と他者と陰認識が結びついているのであるから、当然、陰認識が排除されるのである。つまり、一神教は精神と身体ないし自己と他者という次元において、前者の精神・自己を中心化して、後者を否定・排除するのである。結局、陽認識中心・主導となり、陰認識は否定・排除・隠蔽されるのである。
 ということで、1)性差、2)民族差、3)宗教差の三点を原因・理由としてあげた。さらに考えてみよう。
 思うに、認識の根本問題があると思う。フッサールに倣い、志向性を認識の根源的様相と考えよう。つまり、自己→他者、自己から他者への志向性、これが、根源的認識様相である。問題は、他者である。これは、本来、自己内の他者の認識、つまり、垂直的認識であるが、これが、自己外の他者の認識、つまり、水平的認識に変化するのである。垂直的志向性が初めにあり、次に、水平的志向性があることになる。垂直志向性においては、精神と身体とが一如である。つまり、ここでは、まだ、差異的同一性が保持されているのである。+1があるのである。しかるに、自己外認識、自己外の他者認識、水平認識に移ると、外的他者は、内的他者とは異質なのが認識されるのである。おそらく、最初は、内的他者に対するのと同様に、外的他者にも遇したであろう。つまり、差異共振的関係を投影するだろう。しかるに、外的他者は、それを跳ね返してくるのである。このとき、認識主体は、共感から反感へと転化するのである。このとき、主体の認識は、即非的なものから、主客二元論的なものに変換すると考えられるのである。つまり、主体Aと客体Bにおいて、A≠Bが成立し、A=B且つA≠Bという即非・対極共振関係が消滅するのである。コスモスの消滅である。これが、四つ目の原因・理由であるが、おそらく、これが、いちばん根本・基本的なものであろう。
 さて、では、問題は、外的他者の跳ね返しとそれによる反感化の問題を考えよう。主体は、即非的視線を外的他者に投影するとしよう。しかし、外的他者は、それに対して、反差異・連続的同一性の視線や言動を返すのである。これは、何か。思うに、原始時代、太古、人類は、狩猟採集生活において、動物を狩るが、基本は、差異共振シナジーがあるから、殺した動物を祭るだろう。これが、例えば、アイヌのイオマンテに儀礼に残ったものであろう。人類と動物ないし生物は同類なのである。熊=人である。
 しかし、この差異共振シナジー社会が崩壊するときがくる。それは、反差異・連続的同一性=自我の社会が到来するときである。簡単に言えば、国家社会の誕生であろう。それ以前の部族社会では、部族長中心の「王権社会」であり、国家はないだろう。自我の誕生が国家の誕生と通じるだろう。これは、文化史的には、父権主義の誕生である。神話学的には、父権神話、龍退治をもつ神話である。この点では、ユング心理学が詳しいだろう。龍とは、差異共振シナジー様相と考えられるのである。これを、排除するのが父権神話であり、父権主義・国家であると考えられよう。
 では、これは何を意味するのか。外的他者の乖離的対象化であろう。これは、当然、内的な他者との乖離でもあるだろう。つまり、主体内部には、本来、差異共振シナジー性が存するのであるが、それを否定するようにして、外的対象を自己から乖離するのであるから。つまり、精神と身体との乖離である。心身二元論の形成である。
 さらに突き詰めると、主客分離とは何なのか。ここで、もう一度、原点に返ろう。志向性である。陽の志向性である。自己→他者である。i→(-i)である。これは、光の志向性である。光認識である。視覚認識である。それに対して、(-i)→iは、闇の志向性、闇認識である。身体認識である。光認識とは、自己投影である。つまり、反差異・連続的同一性認識である。これは、内的世界ではなく、外的世界の認識である。そう、内的世界から外的世界へと認識が向かったときが、光認識であろう。このとき当然、闇認識は隠れるのである。排除されるのである。身体認識は排除されるのである。これが、発達すると、自我拡大であり、傲慢・自己盲目である。ヒュブリスである。おそらく、聖書に出て来る悪魔のルシファー(ラテン語では、原義は光を帯びたもの)は、これを意味するように思われるのである。
 すると、問題は、外的認識にあると言えよう。視覚認識である。しかし、私は、二つの視覚認識があると考える。外的視覚認識と内的視覚認識である。私がヴィジョンと呼ぶのは、当然、後者である。また、イマジネーションや直観と言うのも、後者である。だから、ここで、問題になっているのは、外的視覚認識である。陽認識である。おそらく、内から外へと転換するときに、精神位相が変換するのである。垂直から水平変換するときに位相が変化するのである。つまり、思うに、差異共振位相から反差異・連続的同一性位相へと変換するのである。おそらく、初めは、差異共振的に外界認識するはずであるが、これが、反差異的になるのである。何故だろうか。ここに光や現象の意味の問題があるだろう。原光は、差異共振シナジー事象であるが、これが、光現象となるときは、反差異的になると思えるのである。つまり、i→(-i)が光現象だと思えるのである。つまり、連続的同一性化が光現象だと思えるのである。そして、光認識は、当然、反差異・連続的同一性認識であると考えられるのである。闇認識、身体認識がなければ、原光の差異共振シナジー認識は形成されないだろう。(内省・瞑想や禅やヨガ等は、この闇認識、身体認識の形成方法であろう。正確に言えば、陽認識と闇認識の均衡認識形成であろう。)
 ということで、志向性の帰結(エンテレケイア・終局態)として、反差異・連続的同一性認識・現象が生起すると考えられるのである。それに対して、東洋哲学は、これを解体する認識を初期から形成したのである。闇認識・身体認識の形成方法を形成したのである。とりわけ、仏教哲学である。これは、どういうことだろうか。どうして、東洋・アジアは、光認識に対する闇認識を形成できたのだろうか。ここに仏陀の大天才・超天才性があると言えよう。彼は、目を内化したのである。志向性を再び、内的に変えたのである。回帰である。そして、調和を取ったのである。(仏陀は、人類最初のポスト・モダン哲学を説いた人物とも言えるだろう。)どうして、これが可能になったのだろうか。必然的に人間認識は、反差異・連続的同一性認識となり、差異・他者を排除するようになるのである。無明である。どうやって、闇認識に気がつくのか。(-i)→iの−エネルゲイアは常にあるのであるが。悟りはどうやってやってくるのか。そう、仏陀の内面には、おそらく、差異共振シナジーのエネルゲイアが潜在していたはずである。それが、外的現象を見て、苦しんだはずである。苦界の現世を見たのである。病苦する人間界を見て、仏陀は差異共振化したのである。深い、本質的な苦に仏陀は囚われたのである。そして、座禅して、瞑想して、解脱し、開悟・悟達したのである。空認識である。それは、差異共振界の認識である。自我の執着、つまり、連続性からの脱却にこそ、救いがあったのである。
 これはどういうことなのだろうか。瞑想によって、外的視覚認識を断ち、内的認識、身体認識へと仏陀は向かったと言えよう。フッサール的に言えば、現象学的還元によって、志向性という空を発見したのだろう。色即是空・空即是色とは、正に、i*(-i)⇒+1であろう。つまり、仏陀は、外的視覚認識を断ち、それによって闇認識、−エネルゲイアを把捉したのであると考えられる。おそらく、魔境がやってくるのである。闇認識は、過剰になると−1となり、邪道・魔道となるのである。つまり、(-i)→iは、自己を否定して、他者的同一性になるのである。(どうも、イエス・キリストは、このような様相に思えるが。)悪魔の誘惑がこれであろう。(オウム真理教や新興宗教の問題もこれであろう。)つまり、闇認識に没入した場合、自己が喪失されて、他者に帰依するのである。しかし、自己は隠蔽されるのであり、連続的同一性である自我は残るのである。やはり、−1の位相である。
 仏陀の反転によって、自己認識方法が誕生したのである。ここで、簡単に整理すると、光認識は、闇を排除するので、反差異・連続的同一性認識となるということである。つまり、必然的に、人間の認識は、光認識に達するので、闇認識を喪失する必然性があると考えられるということである。光の盲点、光の闇があるのである。つまり、光とはヴェールであり、闇を覆って、闇を見えなくさせているのである。ヴェールされた現象veiled phenomenaなのである。(参照:unveiled Isis。イシスは、やはり、差異共振シナジー事象、即ち、原光・玄光である。)光は人間を盲(めしい)にするのである。正に、無明である。無知である。これは、たいへんなアイロニー、パラドックスである。根源的転倒・倒錯性である。これで、本件の解明が済んだとしよう。
 さて、ここで、人類文明のことを考えると、おそらく、かつては、差異共振シナジー文明が普遍的であったに違いない。しかし、あるとき、陽認識・光認識に傾斜する事態となり、バランスが崩れたのである。しかし、人類は、天才たちが、叡知を形成して、差異共振シナジー位相を保持することを説いてきたのであり、仏陀に至っては、座禅・瞑想という身体的方法を発見したのである。(もっとも、これはヨガの発展と言えるだろう。)しかし、西洋文明は、この叡知を破壊する形で、光認識中心の近代主義を形成したのである。つまり、悪魔的文明を形成したのである。これは、人類史における驚天動地の事態である。人類絶滅の危機である。この原因は以上で述べたことの綜合で説明がつくだろう。大危機・超危機である。そして、東西の偉大な天才たちが、この人類の最大の危機(と言っていいだろう)に対して、「処方箋」を提示してきたのである。そして、20世紀後半にポスト・モダンが生起する。これは、光認識の解体であり、西洋文明の乗り越えを意図したものであるが、連続性の観念が強固であり、きわめて、不十分なものであった。この点は既述済みなのでここでは詳論しない。しかし、この不備を乗り越えて、不連続的差異論が生まれ、そして、それの進展であるプラトニック・シナジー理論が創造されて、ポスト・モダン、つまりポスト・オクシデント(ポスト西洋文明)の理論が真に結実したのである。これは、超東西文明の理論であり、新世界文明の理論となると考えられるのである。新ヘレニズムの理論と言ってもいいだろう。人類文明の、いわば、鬼っ子である西洋文明を乗り越える理論がようやく誕生・創造されたのである。確かに、一つの人類史の終焉である。新たな人類史が始まるのである。新コスモス人類史が始まるのである。
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■今の日本はハイド氏に変身したジキル博士のような世界



かの有名なスティーブンソンの小説『ジキル博士とハイド氏』のハイド氏のように、夜になると抑圧された無意識が悪の化身に変身して、色と欲を楽しみ、結果的に殺人等の邪悪な事件を起こしてしまう。この小説は、人間の「こころ」の仕組みを見事に描いている。社会生活で人格者であっても、潜在意識の奥深くで、「無意識」が奇妙で邪悪な欲望を隠し持っていたりする。屋外を散歩すると、私たちの身体に張り付くように「影」ができているが、日常に於いて私たちはそのことをほとんど意識していない。



私たちは、日の当たる都合のいい自分の姿だけを自分だと思い、当然のごとく自分を良い人間だと信じて疑わない。自分の影の部分、認めたくない欠点やコンプレックスは抑圧されて、「無意識」という影の部分に追いやってしまっている。その結果として、日の当たる意識の部分には上ってこなくなってしまう。もちろんこれらの邪悪なよからぬものが、「無意識」のまま抑圧され続けている限り問題はない。



私たち人間の「こころ」が、いつも健全であり続けるには、邪悪な「無意識」を抑圧し続けるための強い意志が必要となってくる。この意志のパワーが鍛えられていないと、ある日突然、このよからぬものが意識に昇ってきて、私たちの「こころ」を乗っ取ってしまう。「こころ」を乗っ取られてしまった私たちは、突然人が変わったように道徳やルールをどんどん無視して、社会のタブーである犯罪や殺人を犯すようになり、精神的な荒廃化現象が一気に表面化する流れになってしまう。

http://www.chibalab.com/news_otoshiana/documents/060810.htm

2006年11月11日 (22:07)

ネオコン/共和党の支配の終焉:ニュー・ポスト・モダンとプラトニック・シナジー理論

以下の論評で、ポール・クルーグマンは次のように述べている。
"But I do hope and believe that this election marks the beginning of the end for the conservative movement that has taken over the Republican Party."
「保守的運動」とは、当然、新保守主義、ネオコンのことである。つまり、保守主義のアイロニカルな没入であったネオコンの終焉がここでは説かれているのである。自己認識方程式から言うと、ネオコンは、(-i)*(-i)⇒−1である。つまり、(-i)がキリスト教であり、ダブルになって、原理主義になっているのである。−1は、「闇」である。
 また、次のように述べている。
"The election wasn’t just the end of the road for Mr. Bush’s reign of error. It was also the end of the 12-year Republican dominance of Congress."
即ち、12年間の共和党の支配の終焉でもあると述べている。つまり、1994年からの共和党支配の終焉。これは、ほぼ、グローバリゼーションの時期と重なっているだろう。
 すると、ネオコン/共和党の支配の終焉とは、何を意味するのか。おそらく、田中宇氏の慧眼が早くから認識していた世界多極化路線が、全面に顕現することが考えられるのである。これは、哲学的には、後期デリダを包摂した「ニュー・ポスト・モダン」の世界の出現であろう。従来のポスト・モダンの連続的同一性を批判し、ポスト・モダンの核である不連続性や特異性を進展させた理論であるプラトニック・シナジー理論が、真に活眼的に有効となる世界の顕現であろう。
 今思うに、ネオコンと旧いポスト・モダンは関係があるのではないだろうか。つまり、ネオコンと新自由主義が結託した政治・経済観念は、ネオコン/新自由主義は、(-i)*(-i)⇒−1であり、旧ポスト・モダンは(i)*(i)⇒−1なのである。両者、アイロニカルな没入に陥ったと考えられるのである。
 とまれ、今回の米中間選挙結果は、この状況の終焉を考えさせるのである。つまり、アイロニカルな没入の時代が終焉したということである。つまり、新ポスト・モダンの時代に突入したと考えられるのである。つまり、真正ポスト・モダン/真正ポスト・構造主義である。これは、正に、プラトニック・シナジー理論(後期デリダ哲学も包摂した)の時代であろう。
 つまり、これは、アメリカ国民の連続性の縛りが消滅したことを意味するだろう。つまり、連続的同一性、反差異的同一性=近代的自我が消滅したことを意味するだろう。メディア空間が、現象空間とは別に、出現(内現)したのではないだろうか。個と国家とは不連続であるという、アメリカ本来の視点が復活したのではないだろうか。アメリカ文化・文明の特徴は、キリスト教のもつメディア空間性であろう。そして、ネオコンの場合は、キリスト教が原理主義化して、国家と一体化していたのである。原理主義とは、連続的同一性・反差異的同一性・近代的自我である。
 おそらく、アメリカは第二のルネサンスを迎えるかもしれない。19世紀に、文学的に「アメリカ・ルネサンス」があったが、今回は、南部と北部の因縁の対立を超えて、国民ルネサンスになる可能性があるだろう。アメリカ民主主義の復興があるように思えるのである。そう、差異共立共振シナジーのメディア空間のアメリカである。
 いったい、何がこの変革の根因なのだろうか。当然、様々な要因がある。とにかく、国民の《空気》が変化したのだ。《空気》とは何か。これは、正に、精神のオーラである。精神のエネルゲイアであろう。つまり、《力》のことである。メディア空間のエネルゲイア・《力》である。
 これは、世界全体に影響しないはずがないだろう。「泰平の眠り」に現を抜かす、食蓮人(lotus-eaterロトパゴス)の日本人は、愡け茄子状態で、どうするのだろう。
 後でさらに考えたい。

参考:
「今後、ブッシュ政権は、保守本流の道を歩み、合理的で現実主義な政策を打ち出す。

日本の多くの新聞、マスコミ、似非評論家の言うように、レイムダックなどしない。ブッシュ政権は、ようやく冷静さを取り戻し、ライス氏を中心とした、合理的で現実主義な政策実行に舵を取り、安定感のある政権になる。
・・・」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=477080
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 『New Platonic Synergy Theory』   
Conservativeの源流へ!

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The Great Revulsion

By PAUL KRUGMAN
Published: November 10, 2006


I’m not feeling giddy as much as greatly relieved. O.K., maybe a little giddy. Give ’em hell, Harry and Nancy!
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Paul Krugman.

Here’s what I wrote more than three years ago, in the introduction to my column collection “The Great Unraveling”: “I have a vision ― maybe just a hope ― of a great revulsion: a moment in which the American people look at what is happening, realize how their good will and patriotism have been abused, and put a stop to this drive to destroy much of what is best in our country.”

http://select.nytimes.com/2006/11/10/opinion/10krugman.html?em&ex=1163307600&en=7b7e899c66684330&ei=5087%0A

2006年10月22日 (21:41)

現代日本の亡神的エゴイズムとプラトニック・シナジー理論

先の考察から、現代日本の狂気が、亡神によることが判明した。これは、一つのブレイクスルーに近い考え方であろう。戦後日本、天皇が人間宣言をして、現人神は消滅した。と同時に、日本の神が喪失されたと言えよう。戦後、日本人が、アメリカの物質主義文明の洗礼を受けて、唯物科学・技術・資本主義を発達させたのである。象徴天皇制になり、神のシンボルが消えたのである。あるいは、神のアレゴリーが消えたのである。人間は不可視のものに対しては、鈍感である。可視的ならば、信じるのである。神のシンボル・アレゴリーの喪失とアメリカ物質文明とが、相俟って、戦後日本、今日の日本が形成されたと言えよう。
 思うに、戦後は折口信夫を例外として、神の精神を喪失していったと言えよう。私見では、初期〜中期の大江健三郎には、神の精神が作動していたと思う。(三島由紀夫は反動である。戦後日本への反動である。)結局、近代合理主義/唯物科学・技術/戦後民主主義が戦後近代主義を形成したのであり、それは、日本人の神の精神の喪失のもたらしたのである。現代の日本人の精神の荒廃は、この帰結である。精神の悪魔化である。
 この点について、理論的に考察しよう。端的に問おう。何故、神を避けるのか、排除するのか、排斥するのか、等々。戦前、戦中は、現人神/天照大神を信仰していたのに。棄神がある。折口信夫は、敗戦に際して、日本の神敗れたりと、無念の極みにあった。神道の神が、キリスト教の神に敗れたと考えたのである。しかし、不思議なことに、日本人は、アメリカ物質文明を貪欲に取り入れたが、キリスト教は取り入れなかった。これは、韓国において、クリスチャンが多いのに比すと、なおさら、不思議である。とは言え、積極的に日本人が神の信仰を表わしたわけではないのである。
 思うに、日本の神は、隠れたのではないだろうか。一種「お隠れ」である。だからこそ、潜在的に作動しているのである。そのため、邪教が蔓延り、人々に被害をもたらしていると言えよう。政治とつるんだ宗教団体、霊感商法、カルト、等々、淫祠邪教が蔓延っているのである。
 日本人の不幸は、隠れた日本の神のエネルゲイアがありながら、それを知性・理論・合理・科学化できないことにあったのではないだろうか。戦後の公教育の基本はいわば唯物科学教育であり、神の精神教育は喪失されているのである。これは、戦前の反動である。つまり、日本人の神のエネルゲイアはありながらも、戦後の唯物教育のために、日本人はそれを意識・認識・知性化できなかったのではないだろうか。仏教はともあれ(私は葬式仏教を廃止すべきと考えているが)、神道アレルギーがあるだろう。そうかと言え、キリスト教に改宗する気持ちは少ないだろう。否、キリスト教に改宗しても、日本的宗教としてのキリスト教になるだろう。
 結局、戦後から現代、日本人の神のエネルゲイアは潜在してきたが、これを意識・知性に取り込むことができずに、唯物科学・技術・産業を進展させてきたと言えよう。戦後の日本の発展は、根源には、この日本の神のエネルゲイアが駆動していたと考えられるのである。しかしながら、政治家、官僚、知識人等は、これを利己的に利用したのである。日本人の神のエネルゲイアを国民に意識化させない方向で、導いたのである。(おそらく、ここには、北米合州国の意向もあったろう。)そう、国民自身も、神のエネルゲイアを差別して、排除してきたと思うのである。アイヌや沖縄、在日人への差別は、これと関係するだろう。連続・同一性共同体信仰によって、差異を差別排除したのである。しかし、差異こそ、神のエネルゲイアの発現である。
 私見では、オイル・ショック以後、日本は、USAと「連帯」化して、現代のような神無し砂漠となってしまったのである。亡国である。
 議論が逸れてしまったが、ここで、神のエネルゲイアと唯物無神論の関係をまとめると、戦後米国的近代主義によって、神のエネルゲイアを排除・排斥するようにして、唯物論/近代的自我・合理主義が日本人の精神に定着するようになったのである。神のエネルゲイアとは、プラトニック・シナジー理論では、差異共振シナジー・「エネルギー」(=メディア界)のことである。(このエネルゲイアを物質的エネルギーと取ってはいけない。心身・精神的エネルギーである。)このエネルゲイアの排除・排斥が、今日、日本の常態になってしまっているのである。とりわけ、東京である。これは、利己主義であり、自我中心主義である。他者の喪失である。悪魔化である。差異の排除が、精神の構造になってしまっているのである。差異否定・排除・差別の連続・同一性=二項対立精神構造が形成されているのである。この悪魔的否定精神が、日本人にいわば、憑依しているのである。ニーチェ的に、ルサンチマンと言ってもいいだろうし、現代風に、自己愛性人格障害と言ってもいいだろう。偏執狂・パラノイア・分裂症である。近代主義狂気である。
 この神のエネルゲイアの排除構造を突破しないといけない。このためには、ポスト近代主義/ポスト唯物論しかないのである。これは、ポスト西洋文明である。アジア的神の新文明が生まれなくてはならないし、理論的には、プラトニック・シナジー理論によって、誕生しているのであるが。
 最後に、何故、神のエネルゲイアを否定・差別・排除・排斥・隠蔽するのか。恐怖であろう。それは、戦後日本、近代日本を破壊するからである。近代主義のアイデンティティを破壊するからである。そう、単独・孤独となることを恐れるからである。しかし、そのために、未来は閉ざされるのである。怯懦な日本人であり、未来を喪失しているのである。とまれ、もう一度問うと、何故、差異を恐れるのか。これが、疑問である。同一性自我陶酔がそこにはあるだろう。差異を否定して同一性自己である近代的自我を形成しているのである。そう、差異とは、特異性、単独性、不連続的差異に他ならない。他者とは、まったく異なる自己が差異である。だから、差異を意識したとき、自己と他者との距離ができるのである。不連続性があるのである。しかしながら、この不連続性・不連続的差異性を、人は恐れるのである。そう他人の目である。あるいは、世間の目である。それを恐れて、自己の差異・不連続的差異を否定・排除・隠蔽するのである。これである。つまり、差異が劣弱なのである。もし、差異が強ければ、他人の目・世間の目を恐れずに、差異を肯定して積極的に思考し、実践するだろう。差異の弱さである。
 思うに、差異を肯定するには、差異の理論が必要なのである。差異の思想・哲学・科学が必要なのである。差異の文化である。差異の言語である。差異の論理である。差異の芸術である。近代主義は、連続・同一性主義であるから、差異の理論は見つかりにくいのである。また、差異は、内在超越性であるから、近代的内在主義では、見出せないのである、もっとも、きっかけは、そこにあるとしても。
 とまれ、神のシンボルの喪失、近代的自我・近代合理主義・近代資本主義、差異理論の稀少さ、連続・同一性共同体の存在、等々によって、日本人は、差異である神のエネルゲイアを排除して、近代唯物的連続・同一性=集団狂気化したと考えられるのである。この差異=日本の神のエネルゲイアの否定・排除・隠蔽とは、暴力・傲慢・狂気・不毛である。

2006年10月22日 (15:45)

《神》について:《神》は《存在》するが、近代主義は殺神を行った:《神》の復活

初めに、コトバありき、とは、あまりに有名なヨハネの福音書の冒頭言。しかし、原語のギリシア語では、コトバではなく、ロゴスであった。私見では、ロゴスとは、正に、《理》である。ダルマ(法)である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B3%95_%28%E4%BB%8F%E6%95%99%29
そして、プラトニック・シナジー理論(簡略して、シナジー理論)では、これは、差異共振シナジー・フィールドないしメディア・スペース(コスモス)である。そして、これが、主観的には、《神》となるのである。結局、正に、「初めに、《神》ありき」である。そして、この《神》を多様多元的に表象してきたと言えるのである。《神》も、一つの表象ではあるが。
 しかるに、西欧近代は、神殺しを行ったのである。西欧近代において、どうして神殺し、殺神を行ったのか。これは、経緯が複雑であるが、結局、これまで、論考してきたように、西洋文明、ユダヤ・キリスト教文明自体が、神殺しに帰結にしたと言えるだろう。つまり、ユダヤ・キリスト教は、連続・同一性の視点の傾斜をもっているので、それが、古代ギリシアの理性主義と結びついて、神殺しに帰結したと言えよう。ニーチェの「神は死んだ」は、ニーチェが神を殺したのではなくて、西欧、近代西欧が神を殺したということを意味しよう。
 ポスト近代主義とは、だから、神の復活なのである。D.H.ロレンスは、「知られざる神」unknown Godに言及した。これは、西洋という文脈で見ないといけない。「知られざる神」とは、東洋では、「知られた神」だと私は考える。ロゴス=ダルマの神である。それは、差異共振シナジー・フィールド=メディア・スペースの神である。アジアの神である。ヒンドゥー教の神であり、ゾロアスター教の神であり、仏教の空であり、道教のタオであり、朱子学の神であり、神道の神(「カムイ」)であり、(アメリカ大陸をユーラシアの延長と見て、)ネイティブ・アメリカンのグレート・スピリットであり、・・・、思うに、ヤハウェの母体の神でもある。神話学者のジョセフ・キャンベルが説いた「神の仮面」の神である。カントの物自体と言ってもいいだろう。スピノザの神(即自然)でもある。
 現代日本を見ると、近代西欧を模倣して、禁神である。亡神である。

今や、差異共振シナジー神がやってきたのだ。

普遍神の復活である。

唯物論は滅びたのである。
当然、唯物科学も滅びたのである。

ポスト西洋文明である。

新アジア・世界文明の時代である。

2006年09月23日 (15:08)

プラトニック・シナジー音楽としてのビートルズ音楽:プラトニック・シナジー文明の創造

f:id:sophiologist:20060923145123j:image

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Liverpool_2008_Flag.jpg

今、ある目的から、ビートルズを聴き返しているが、今更感じるのは、その多様性である。一つ一つの歌が、個性が強いのである。これは、特異性と言うべきである。また、各メンバーの特異性とそのシナジーに拠るし、また、特異性が賦活された時代環境にも拠ると言えよう。

 歌自体が、不連続的差異 であり、また、メンバーの不連続的差異 の(零度)シナジーでもある。整理して言うと、不連続的差異 である各メンバーのシナジーとしてのビートルズというグループがある。そして、このプラトニック・シナジー様相から、不連続的差異 である歌が創造される。しかし、この不連続的差異 である歌とは、実は、シナジー様相におけるそれである。つまり、ビートルズ音楽とは、正に、プラトニック・シナジー音楽であるということである。

p.s. 私説では、イギリス文化とは、基層にケルト 文化をもっている。これは、単に、ケルト 民族的(アイルランド、スコットランド、等々)というよりは、ブリテン文化全体の基層・古層・基盤としての意味においてである。

f:id:sophiologist:20060923145324j:image

http://en.wikipedia.org/wiki/Image:KellsFol034rChiRhoMonogram.jpg



 ケルズの書等における組み紐紋の流動的に絡まるケルト 紋様は、有名であるが、これは、メディア 平面ないしプラトニック・シナジー空間的であると考えられよう。私の仮説は、ケルト 文化とは、プラトニック・シナジー文化であることである。(参考:

ケルズの書:

http://www.shajisitu.or.tv/c2l2.htm

http://www.boudicca.gr.jp/shop/celtic_design/celtic-design4.html )

 この仮説から、ビートルズ音楽は、正に、イギリス文化の基層(「地霊」)であるケルト 文化の20世紀的発出であると言えよう。つまり、プラトニック・シナジー文化の一つの様相であるケルト 文化の20世紀的発現としてのビートルズ音楽ということになるのである。

 21世紀は、プラトニック・シナジー文明・文化が超創出されるだろう。

p.p.s. ケルズの書を見て、失われた文明という観念が浮かんできたのである(p.s.  D.H.ロレンスの、自然美が満ち溢れた処女作 『白孔雀』の中で、花スノードロップに失われた叡知が示唆されていたことを想起する。因みに、D.H.ロレンスは、プラトニック・シナジー文化であるケルト ・ブリテン文化の文学・哲学 的な超噴火を意味すると考えられる。今日、ロレンスが忘却されていることは、大問題である。モダニズム志向が、抹殺したと言えよう。

f:id:sophiologist:20050327134524j:image

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Galanthus_nivalis.jpg

参考:スノードロップ

http://www6.ocn.ne.jp/~pruitt/snow/index.html )。プラトニック・シナジー文明ないし文化がかつてあったと思うのである。それが、現代の狂気的文明によって破壊されてしまったと思うのである。現代の狂気的文明とは、当然、ユダヤ ・キリスト教 的資本主義 西洋文明である。プラトニック・シナジーの叡知が、やはり、これまで述べてきたことから理解されるように、ユダヤ ・キリスト教 によって、破壊され、排除されたのである。

 プラトン 哲学 ・イデア 論哲学 とは、この、失われた叡知であるプラトニック・シナジー理論の積極的な発現である。(思うに、プラトン 哲学 が、野蛮・狂気のユダヤ ・キリスト教 西洋文明によって焚書されずに、遺産相続されたのは、奇蹟的である。この点に関しては、後で検討したい。)

 問題は、イデア 叡知が、超越的・超次元的普遍知・叡知・智慧・般若 であるならば、この喪失とは何を意味するのかである。普遍的叡知の喪失とは何なのだろうか。換言すると、ユダヤ ・キリスト教 とは何か。一神教 とは、宗教 とは、神話 とは、何か、である。あるいは、神秘思想やオカルティズムとは何か、である。あるいは、東洋思想とは何か、である、等々。

 思うに、かつて、イデア 叡知体を見ること(ヴィジョン:ギリシア語 、ラテン語 のvideo見ること、ideo観念には、この名残があるだろう)ができたのではないだろうか。オカルティズムで、「霊視」や「透視」が言われるが、それは、イデア 光の視覚ではないだろうか。つまり、イデア 光視である。これが、なんらかの理由・原因で、かき曇って、不可視になったのだろう。現象知覚が中心となり、イデア 知覚が失われたのだろう。(ここから見ると、プラトン 哲学 は、喪失されつつあったイデア 叡知知覚を、遺産相続すべく、言語化したものだろう。また、この点から見ると、「イエス・キリスト 」も、このイデア 叡知を、なんらかの形で、現象界に伝えようとした試みと言えるように考えられる。私は、グノーシス 主義のイエス が本来の形であろうと述べているが、グノーシス 主義とは、イデア 叡知の一つの様態であると考えられるので、やはり、「イエス 」は、イデア 叡知の伝達者であると考えられるのである。それが、ユダヤ ・キリスト教 という信仰 に、歪曲されてしまったと考えられるのである。)

 イデア 叡知の喪失、現象化とは、連続・同一性化である。「物質」化である。これは、メディア 平面の同一性面の事象と考えられるだろう。つまり、メディア 界を同一性面の視点から見ると、連続・同一性=現象化が出現して、メディア 界の本体である「イデア 」、プラトニック・シナジーが不可視になると言えるだろう。そうならば、ユダヤ教 化とは、父権的一神教 化とは、メディア 界の極性が同一性極・陽極に傾いた事象と言えるだろう。あるいは、視点の同一性への傾斜と言えよう。そして、この究極的帰結が、ユダヤ ・キリスト教 的資本主義 西洋文明であり、今日、衰退・衰滅・衰亡しつつあるのである。

 結局、ユダヤ ・キリスト教 的西洋文明とは、古代ギリシア やイタリア・ルネサンス等を内包していることを考えると、メディア 平面の同一性視点の文明であり、差異、即ち、メディア 界・差異共振 シナジーを基盤として、内包した、その連続・同一性視点の文明であると言えるだろう。簡単に言えば、差異の同一性視点である。換言すると、差異を同一性視点から観察しているのである。差異は、カント 哲学 で言えば、物自体である。同一性が、超越論的形式である。そう、近代的自我、近代合理主義、近代主義とは、同一性の帰結である。同一性中心主義ないし同一性絶対主義である。これは、唯物科学・技術となり、また、グローバル資本主義 となったと言えよう。ついでに言えば、いわゆる、自己愛性人格障害、私の言葉では、近代的自我同一性狂気症が、この帰結の病理であると考えられる。同一性自我の極点である。

 さて、次に問題にしたいのは(別稿の予定であったが、ここで述べた方がいいだろう)、プラトニック・シナジー理論(プラシナ理論)の創造、イデア 叡知の復活・ルネサンスの意味である。これをどう見るのかである。これまで、メディア 面の極性力学を説いてきた。つまり、差異面・陰極と同一性面・陽極の極性力学である。これまでの考え方から見ると、父権一神教 以前は、差異面・陰極の文明・文化であったことになり、ポスト同一性文明とは、これに回帰するように見えることになるのである。

 しかしながら、先に指摘したように、イシス /オシリス神話 からヤハウェ/キリスト教 が投影されたように見えるのであるから、前者への回帰とは、結局、前進にならないだろう。

 ここで指摘すべき点は、極性力学自体は、間違っていないのであり、左右的交互的変化の考え方が間違いであるということである。つまり、ポスト同一性文明とは、確かに、差異面への回帰であるが、これは、正しくは、螺旋的回帰と見るべきであるということである。1/4回転による垂直方向への捩れというイデア 界の力学を考えると、螺旋的回帰運動は、当然である。つまり、ポスト同一性文明とは、差異面への螺旋的回帰を意味するということである。こう考えると、先の疑問も解決すると言えよう。即ち、ポスト・ヤハウェ/キリスト教 文明とは、一見、イシス /オシリス神話 への回帰に見えるが、そうではなくて、新たな差異面の文明の創造ということになるのである。私がイデア 光と呼ぶ零度差異共振 シナジーの発する「光」も、この新たな差異面の文明に関係すると言えよう。

 結局、永遠普遍的なイデア 叡知のイデア 光を知覚することになると考えられる新たな文明とは、何を意味するのか。思うに、これまで、地球上に、様々な文明が生成消滅してきたのであり、新たな文明とは、始点においては、この永遠普遍のイデア 叡知光を見ていたと思うのである。それが、文明の展開によって、かき曇らせられ、不可視になり、当文明が、堕落 腐敗して、終末をむかえ、終焉すると思うのである。だから、ユダヤ ・キリスト教 的西洋文明も始発点においては、イデア 叡知光を見ていたはずである。しかし、同一性の展開によって、それが、濁り、不可視になってしまったと言えるだろう。現象光だけになってしまったのである。そう、ヤハウェとは、本来、イデア 叡知光の一様態(同一性の一様態:「我在り」・スム)であったろう。そう、イデア 叡知光の一様態の展開から、キリスト教 的西洋文明が発現して、近代的文明が帰結したのであり、これが、USAグローバリズム と最終帰結したと言えるだろう。おそらく、この同一性化とは、つまり、螺旋的極性力学、的確に言えば、対極性力学は永遠に反復されるのかもしれない。そうだ、正に、ニーチェ の永遠回帰 ・永劫回帰 である。

 しかし、そうなのだろうか。ポスト・永遠回帰 ではないだろうか。イデア 叡知光を可視する新たな文明とは、同一性の悲劇を体現した文明であり、もはや、同一性へ回帰しないはずである。それとも、愚行を繰り返すというのだろうか。理論的に考えよう。螺旋的回帰運動を考えると、確かに、永遠回帰 となり、愚行は繰り返されるだろう。本当にそうなのだろうか。

 新たな文明においても、同一性化が発生するのだろうか。確かに、メディア 平面における同一性面があるから、その極性はあるのである。だから、同一性化は生起するだろう。しかし、今や、デジタル情報化の時代である。これは、知識がかつてのようには消失しない。焚書できないということである。情報・知識の公開が前提なのである。これが、これまでの情報・知識が権力的少数者に支配された時代と決定的に異なる点である。このように考えると、もはや、同一性の全体化は生じないと思うのである。情報・知識、即ち、イデア 叡知の独占・寡占の時代は、永遠に過ぎ去ったのである。つまり、極性力学はあっても、もはや、それは、ほとんど意味をなさなくなったと言えるだろう。

 ということで、新たなイデア 叡知の文明は、決定的に、過去の文明とは異なることになるのである。そう、ポスト人類の地球エポックと言っていいだろう。同一性的自然からの解放と言えるだろう。そうならば、これは、逆に、永遠回帰 と言えるだろう。

 最後に、イデア 叡知光の可視化を意味を考えてみよう。これは、永遠普遍のイデア 叡知光の可視ということであり、いわば、精神感覚として、第6感覚となるだろう。これに基づく新文明が創造されるということである。これは、イデア 叡知光ないしイデア 叡知に基づく新文明の創出ということでもある。プラトン の哲人政治 が実現することになるのである。そう、ポスト同一性国家としての新国家である。これは、プラトニック・シナジー国家・連邦 となるだろう。いわば、世界連邦 ないし地球連邦 となるだろう。

 では、理論的に考えると、このイデア 叡知光の文明とイシス ・オシリス神話 との関係はどうなのだろうか。イシス ・オシリス神話 とは何か、である。また、神話 とは何か、である。簡単に言えば、神話 とは、イデア 叡知の文学化である。そして、民話は、その地方・地域的変異であろう。そうならば、イシス ・オシリス神話 は、イデア 叡知の神話 ・文学であると言えるだろう。プラトニック・シナジー理論の神話 である。(この点は、アメリカの神話 学者 ジョゼフ・キャンベルの主著を読めば理解されるだろう。『神の仮面』)

 では、宗教 は何であるのか。これも、当然、イデア 叡知ないしイデア 叡知光を志向する何らかの表現である。ただし、信仰 や情緒の作用が主導的になるので、盲目になる危険が常にあると言えよう。推察するに、イデア 叡知光を見た人、たとえば、仏陀 やモーゼ やイエス やマホメット (ムハンマド )が、その神々しい姿にひれ伏して(cf. イスラーム )、信仰 が生起したのではないだろうか。だから、宗教 は美的なのである。芸術よりも、美的な反応であろう。

 そう、では、叡知学とは何か。それは、不合理な形式で、神秘学、オカルティズム、秘教・密教 に伝えられたと言えよう。しかし、プラトン 哲学 においては、純正な形を保持していると言えよう。そう、仏教 哲学 にも、叡知学が保持されてきたと言えるだろう。そして、鈴木大拙 の即非の論理 学として、結晶したと言えるだろう。そして、神秘学的には、ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」に発現したと言える。

 また、哲学 philo-sophia(愛好・叡知)であるが、これも、その名前から、叡知学の一部であったと言えよう。しかし、西洋哲学 は、同一性への傾斜を強くもっていたのである。叡知のロゴス (論理 ・合理)が、言語に帰結したと言えよう(近代主義)。

 最後についでに、今日、流行している文学形態のファンタジー であるが、この源流であるトールキンの指摘から、ファンタジー とは、正に、ヴィジョンであり、イデア 光ないしイデア 叡知光に通じるものであると考えられるのである。つまり、ファンタジー =ヴィジョン=イデア 叡知光文学である。

以上、http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/
から

2006年07月25日 (19:57)

差異共振シナジー・宇宙(コスモス)について:人類史の終焉と超宇宙神時代

現代の自然科学・工学技術は、唯物主義に基づいている。すなわち、現象は、物質であると考えているのである。そして、精神や生命等を、物質から説明しようとしている。たとえば、遺伝子は、DNAに集合体であるゲノムに存すると考えているし、また、精神現象を、脳の物質現象として、捉えようとしている。《ヌース理論は、精神を、量子現象として、捉えようとしている。量子は、霊と等価になるだろう。なぜなら、霊とは、精神を、連続・同一形式によって捉えたものだからであり、量子とは、イデア・シナジー(差異共振シナジー)=精神を連続・同一性形式で捉えたものと考えられるから、霊=量子となるのである。中沢新一の霊的唯物論と一致すると言えよう。》
 しかし、唯物論的自然科学・工学技術とは、カント哲学が明らかにしたように、超越論的形式=主観性に規定されているのであり、いわゆる、物自体、言い換えられば、自然自体を把捉していない、主観形式に限定された世界観である。近代主義的自然観である。
 これに対して、プラトニック・シナジー理論は、不連続的差異論をベースにした、新たなイデア論であり、イデア論的科学(イデア・シナジー・サイエンス)、イデア論的技術(イデア・シナジー・テクノロジー)、その他を目指していると言えよう。これによれば、現象は、イデア・シナジーの発現ないし仮象である。すなわち、差異イデア共振シナジー現象である。つまり、現象は、イデア共振シナジーが本体であるということであり、物質とは、イデア共振シナジー現象の同一性化であると言えるのである。換言すると、物質主義的自然科学は、イデア共振シナジー現象の同一性的表面のみを捉えているのであり、差異的本体を捉えていないということができるのである。すなわち、イデア的真実在を捉えていないということである。正に、表層・皮相科学である。
 これは、端的に言うと、どういうことであろうか。それは、差異共振シナジーという事象事実を取り逃がしているということである。より明快に言えば、差異共振という事象事実を看過しているということである。より平明に言えば、差異調和という事象によって、全宇宙が成り立っているという事実を見逃しているということである。差異のハーモニーによって、全宇宙は成立しているという事象事実の見落としである。これが、全宇宙の真実・真相・真理である。(華厳経は正しいのである。また、欧州の古代・中世の知の伝統における、コズミック・ハーモニーの思想(宇宙的調和観)は、正しいのである。)
 これは何を意味しているのか。差異共振調和を否定する現代の人類の社会は、宇宙の根本的法則を踏みにじっている、違反している、否定しているということである。そう、今や、地球世界は全宇宙のガン細胞となっていると言えよう。全宇宙・コスモスの調和を乱す地球・人類の存在は、全宇宙にとり、ゆゆしきものであろう。宇宙・コスモスの真理に違反して、宇宙・コスモスを阻害していると言えよう。
 もう少し、詳しく見ると、差異共振エネルギーが本体としてあり、それが現象しているのであるから、現象の本体・真実在は、差異共振エネルギーないし差異共振シナジー・エネルギーである。しかし、今日・現代の地球・人類の意識・生活様態は、差異共振シナジー・エネルギーを否定・排除・排出・隠蔽するものである。すなわち、自然破壊のような外的な破壊以外に、内的な破壊が行われているのである。内的エネルギーの枯渇が、人類に起こっているのである。当然、精神・肉体の病気になるだろうし、また、創造も枯渇するのであるし、戦争が、常態となるだろう。つまり、人類壊死である。古木に栄養が行き渡らなくなるような事態になっているのである。栄養源に対して自閉しているのである。そう、地球人類衰退・滅亡の過程になっていると言えるのである。そして、差異共振シナジー・エネルギーを新たに導入するポスト人類・超人類が、出現しつつあると思えるのである。
 そして、経済的には、ポスト資本主義として、差異共振シナジー経済が生まれるだろう。差異共振シナジー宇宙・コスモスに接続するスーパー・エポックとなったと言えよう。人類史の終焉・終末である。
新アポカリプスである。新コスモスの超時代である。スピノザ/カント/ヘルダーリン/フッサール/D. H. ロレンスの時代である。ポスト・キリスト教/大乗仏教&コスモス・ルネサンスである。差異共振シナジー・コスモスのエネルギーが参入する超時代である。大宇宙・超宇宙ルネサンスである。差異共振シナジー宇宙が、今や、顕現するのである。
超宇宙神の時代である。

2006年04月18日 (19:38)

差異の共立とは何か:東西統一と新コスモス超文明の誕生

次のODAウォッチャーズ氏の論考は、とても意味深長であるので、この問題に関して検討したい。

「人間の存在認識の多様性と(不連続的差異論上の)メデイア界について」『海舌』http://blog.kaisetsu.org/?eid=363490

結局、Aという命題と非Aという命題が、同時成立する事象をどう見るのかということである。イデア界においては、不連続な差異が共立しているので、まったく問題はない。問題は、メディア界においてである。即ち、心身=メディア界を問題とするとき、差異の相互の関係はどうなるのかということである。差異の共立が成立するならば、どういうものであろうか。
 toxandria氏の論考《『1439年、東西統一公会議』の現代的意味(1)http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20060414/p1 》
を受けて、西洋文化における視覚優位性に対して、ODA ウォッチャーズ氏は、メディア界における諸感覚の共立について、述べているのである。一種共感覚に通じる考察である。とまれ、各差異でありつつ、同時に、各差異ではないという矛盾同一が指摘されているのである。この共立事象は、メディア界を考えると、とりわけ、イデア/メディア境界を考えると、わかりやすいのである。不連続性と連続性が共立しているのである。狭義的には、イデア/メディア境界の事象であるが、広義においては、メディア界の事象と言って間違いないのである。なぜなら、メディア界とは、上端にイデア/現象境界ともち、下端にメディア/現象境界をもっているからである。
 では、なぜ、西洋文化は、視覚優位なのかと、単純に考えると、これは、やはり、西洋文化の根本的二元論によるのではないだろうか。霊肉二元論でもいいし、善悪二元論でもいいし、主客二元論でもいい、心身二元論でもいい。これは、これまでの私の検討から見ると、同一性構造によるのである。つまり、西洋文化・文明において、同一性構造が、他の文化・文明よりも徹底的に作用して、二元論化したと思えるのである。同一性構造とは、差異を徹底して否定して、無化して、同一性で感覚・知覚・認識を満たす構造のことである。これは、弁証法構造とも言える。図式化すると、差異1・同一性・差異2・同一性・差異3・・・・・差異nであり、差異1=差異2=差異3・・・・=差異nとなるのである。これは、自我同一性構造とも呼べるだろう。丁寧に言えば、自我同一性弁証法構造(自同律)と言えるだろう。これは、ユダヤ・キリスト教的構造である。(私見では、古代ギリシアは、基本的には、差異に関わっていた。もっとも、パルメニデスのように不動の一者に関わっていた哲学者もいた。)この自我同一性とは、メディア/現象境界に必然的に発生するものである。1/4回転によって、差異の境界がゼロ化し、さらに、垂直に捩れて、ゼロ度が、ゼロ化されて、無となる。つまり、差異が完全に一体化するのである。このゼロのゼロ=無=差異の否定が同一性構造である。これは、確かに悪魔的である。シュタイナーはこれを、アーリマンと呼んだと考えられるのである。これは、暴力である。二項対立暴力である。西洋文明が本質的にもっている暴力である。アメリカ合衆国国家に如実にある暴力である。覇権暴力である。父権暴力である。戦争の原動力である。 
 視覚優位性と同一性構造の関係であるが、差異の否定性=無=同一性構造が、差異を否定するのであるが、このとき、同一性と差異の間に、既に、《距離》が生じていたわけである。この透き間、間隙を消去しようとするのが、視覚なのではないだろうか。では、なぜ、視覚であって、聴覚、触覚、嗅覚、味覚、等々の諸感覚ではないのか。これは、視覚のもっている特殊性を考えるとわかりやすいだろう。視覚は、主体と対象(客体)との距離を発生させて、主客二元論化するのである。つまり、個体の同一性を確固のものとするのである。他の諸感覚では、同一性ではなくて、他の差異との関係が発生して、同一性が形成されないのである。例えば、触覚を考えればいい。自分の両手を合わせてみれば、どちらが、主体か客体がわからなくなるだろう。同一性構造にとって、視覚が重要なのである。
 では、同一性と視覚との直接的結びつきはないのだろうか。思うに、これは、光と関係しているだろう。メディア界は、光子の領域である。そして、これが、現象化するのであるが、メディア界における光とは、差異のある光である。差異的光子である。これが、現象化すると、差異が同一性によって無化されて、いわば、同一性の光となるのではないだろうか。この同一性の光が、主客二元論の視覚を形成するのではないだろうか。つまり、差異の光ではなくて、同一性の光が、西洋文化・文明における視覚優位性を発生させると考えられるのである。
 もし、そのように考えられるならば、少なくとも二種類の光があることになる。アインシュタインの光とはどちらなのか。思うに、同一性の光を観測しているのではないだろうか。これが、光速度一定となるのではないだろうか。差異の光は、量子力学が扱っているのではないだろうか。確かにそうだろう。2つの光。ここで、飛躍的に言うと、イデア界が黒い光ならば、現象界が白い光ならば、メディア界の光、差異の光とはどう形容できるのか。一面は白い光だが、他の一面は黒い光だろう。白と黒が合わさっている光である。両面的光、ヤヌス的光である。(D.H.ロレンスの、太陽は背を向けているという言葉を想起する。)これは実に不思議な光、二重光であろう。陰影のある光。光と思えば闇であり、闇と思えば光である。少し、真夏の太陽を想起する。つまり、光に闇が透けているし、闇から見ると、底に光が輝いているのである。《ここで、シュタイナーが、青空の青は、闇が光の領域に入った時の色で、夕焼けの赤は、光が闇に入る時のいろであるということを言っていた(?)ことを想起する。》
 とまれ、メディア界の光は、対極的であり、グラデーションのある光ではないだろうか。虹色かもしれないし、さらに、微妙かもしれない。もっとも、陰影多彩である。幻想的な感覚性をもつのではないだろうか。また、ここで、電磁波のスペクトルを想起するのである。黒は紫外線を、白は、赤外線を想起する。この事柄は後で検討しよう。
 二重光の問題に戻ると、量子力学の対象とする差異の光とは、二重光であり、黒い光と白い光である。あるいは、陰陽光と呼んでもいいだろう。直観では、これは、無限速度であり、同時に、光速であろう。先に、非局所性について言及したが、これは、黒い光を考えると、正しいのではないだろうか。否、精緻に考察しよう。イデア界に黒い光、現象界に白い光があるならば、メディア界には、二種類ではなくて、三種類の光があるのではないだろうか。即ち、不連続的差異の光(黒い光)、共振的差異の光(陰陽の光)、同一性の光(白い光)の三種類である。そして、量子力学は、この陰陽の光を対象としているだろう。確かに、一面では、同一性の光を帯びるから、光速度一定であろう。しかし、同時に、差異共立的に、超光速度を帯びるだろう。メディア界は不可分時空間である。ここでは、時空間が揺らいでいるのだろう。光が無限速度になったり、通常の光速度になったり、あるいは、その中間速度になったりするのではないだろうか。ベルの定理、非局所性とは、本当は、メディア界のこの事象を指しているのではないだろうか。
 本件のテーマからずいぶん離れてしまったが、ここで、テーマに即すと、西洋文化・文明において視覚優位性があるのは、同一性の光が支配的だからであるということを、ひとまず、確認したい。そうすると、量子力学を含めてポスト・モダン理論やパラ・モダン理論は、明らかに、脱西洋文化・文明、ポスト西洋文化・文明を説くことになる。それは、「東洋文化・文明」的である。しかし、さらに、超東洋文化・文明も説くだろう。これまでのポスト・モダン理論は、イデア界とメディア界を混同していたのであり、そのため、行き詰まってしまったと考えられるのである。しかし、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン理論である不連続的差異論の出現によって、混同・混乱が解消されて、ポスト・モダンの問題が明晰・明確になったのである。つまり、これまでの東洋文化・文明も、古ポスト・モダン理論と同様であったと思われるのである。即ち、差異の連続性までは達したが、不連続性までは、明瞭に達していたなかったと考えられるのである。だから、新ポスト・モダン理論=パラ・モダン(トランス・モダン)理論は、単に東洋文化・文明への回帰ではなくて、それを超えた新東洋文化・文明を説くことになるのである。そして、それは、プラトン主義の創造的発展となるのである。ここで、東洋と西洋とが、創造的に、新たに、合体し、統一するのである。東西統一文化・文明の誕生がここに出現したと言えよう。新地球世界宇宙文化・文明、即ち、新コスモス超文明の誕生である。

p.s. 西洋文化・文明の視覚優位性の問題を解明しようとしたのであるが、視覚優位性とは、同一性の光の支配性に起因することが結論となったのであるが、では、メディア界の光、イデア界の光とは、やはり、視覚優位になるのかどうかということに、明快に答えてはいない。メディア界の光とは、差異の共立を意味するので、多様な感覚が共振するだろう。共感覚的になるだろう。そして、イデア界の光であるが、それも、一種共感覚的であるが、ここでは、Aは、非A とはならずに、あくまで、Aであり、且つ、非Aを直観するのである。A→非Aである。志向性の世界である。視覚は、触覚へと志向するのである。聴覚は味覚へと志向するのである。そう、メディア界の即非的共立ではなく、絶対的共立、直立的共立がある。一と多の共立でもある。一即多は、メディア界で成立するのである。

2006年04月15日 (13:24)

不連続的差異と素粒子:ポスト量子力学とポスト大乗仏教:新イデア文明に向けて

不連続的差異・イデアの垂直/水平十字志向性強度とは、ミクロの黒い光たち、ミクロの玄光たちであり、そのデュナミス/エネルゲイアの発動である1/4回転によって、原初的光=素粒子・量子(=メディア)時空間を発生させる。聖書の光あれである。エローヒームによる光の創造である。1/4回転事象において、イデア界のイデアの境界が、ゼロ・空化するのであり、イデア1とイデア2が、言わば、接するのである。この時、ゼロ度共鳴・共振が発生する。これが、素粒子・量子の生成を意味するだろう。即ち、共振するイデア・「ネットワーク」の生成である。(思うに、華厳経宇宙は、このメディア宇宙ではないだろうか。)つまり、ゼロ度となることで、イデア同士が共振して、振動・共振粒子が発生して、それが、波動となるということだろう。即ち、不連続的差異であるイデアが共振して、素粒子・量子となるということだろう。即ち、この共振する不連続的差異=イデアが、粒子即波動ということである。問題は、この粒子即波動の意味である。
 問題は、ベルの定理、非局所性にある。粒子即波動で考えると、無限距離を、超光速で、粒子即波動が移動する事態となる。これは、矛盾である。問題点は、観測の意味にあるのだろう。観測によって、量子の位置が決まったり、速度が決まったりするが、そこでは、ハイゼンベルグの不確定性原理がはたらく。しかし、この事象は、現象界(近代主義的自然科学)からの観測を介入させるから、発生すると考えられるのである。考えれば、量子の存するメディア界においては、粒子即波動であり、不確定なことはなにもない。例えば、ある量子q1があるとしよう。これは、メディア界においては、粒子p1であり、且つ、波動w1である。即ち、量子q1=粒子p1即波動w1である。
 しかるに、これを、現象界(粒子と波動を分離する二元論的近代主義的自然科学)の観点から見ると、量子を、粒子か、波動に分離させてしまうのである。もともと、粒子即波動である量子を、粒子と波動に分離するのは、誤りである。メディア界の次元を、現象界の次元から把捉するのは、誤謬である。例えば、光子である量子を、2つのスリットに通す周知の実験を行なったとき、スリットを通った光子が一個観測される。そして、どちらのスリットを通ったのかということになるのである。これは、愚問である。なぜなら、量子は、粒子即波動であり、波動自体が粒子であるのだから。光子は、両方のスリットを通ったのである。一個の光子が2つのスリットを通ったのである。これを、確率とするのは、誤りである。
 非局所性の問題に返ると、その問題が生じるのは、今述べたことに関わる。即ち、不確定な量子が、例えば、地球からアンドロメダ星雲の距離に存しているが、それが、観測によって、一瞬のうちに収束して、粒子として、確定されるのであり、この距離を量子が超光速で移動したことになるのである。しかし、これは、誤りである。不確定な量子とは、現象界の観測から考えられたものに過ぎず、実際は、確定した量子が存在しているのである。一瞬のうちに、超光速で移動するのではないのである。量子は、メディア界の事象として把捉しなくてはならない。
 イデア界をガウス平面として、X軸・実軸をイデア軸、Y軸・虚軸をメディア軸、それらに直交するZ軸を現象軸と作業仮説すると、メディア界は、Y軸―Z軸平面となるだろう。そして、この平面から、空間/時間4次元の現象界(仮象界)が発現(仮現)するのである。量子力学は、メディア界の量子の確定の事象を、現象界から観測して、不確定の事象として把捉するのである。つまり、現象軸Z軸の同一性構造によって、主客二元論の近代主義的自然科学が発生して、それは、共振イデアである量子を、物質化して、延長の時間・空間次元に置くのである。そのため、非局所性となった量子が、言わば、超光速で、粒子に収束することになるのである。換言すると、非局所性とは、もともと、メディア界の事象である量子・素粒子(素粒子の方が的確であろうから、これから、素粒子とする)を、現象界・時間/空間4次元の視点からの観測から発生すると言えるだろう。現象界の観測から不確定となるに過ぎない。すると、ここで、非局所性の考え方が崩壊するのである。また、量子力学自体も、崩壊するだろう。素粒子を不可分時空間であるメディア界での事象と見る科学が必要となるのである。それは、メディア界的物理学である。イデア論的物理学である。
 ここで、光子について考えてみると、それは、本来、無限速度であろう。なぜなら、イデア界の事象であるし、また、時空間そのものであるからである。問題は、光速の問題である。相対性理論の問題である。直観で言うと、現象軸Z軸の同一性が、主客二元論的時空間=現象界を発現させるのであり、この同一性構造形式が、光速を発生させているのではないのか。つまり、現象軸の同一性構造形式が、素粒子・光子を測定して、光速度を観測しているのだろう。つまり、現象界=同一性構造の枠から素粒子・メディア界を観測すると、光速度一定という事態となるのだろう。つまり、光子は、もともと、無限速度である。というか、不可分時空間事象であるから、無時間・無空間である。だから、光子、素粒子を記述するには、メディア界の科学が必要であり、それは、虚軸であるY軸と現象軸であるZ軸との複素平面となるだろう。ODA ウォッチャーズ氏の『不連続的差異研究』の座標はそのように見ることができるだろう。また、ヌース理論のヌース界もそのように捉えることができるように思えるのである。
 考察をイデア界へと進展させると、そこは、完全なイデアの領域である。もはや、共振によるイデアのネットワークは存していない。ただ、「超越論的主観性」による「間主観性」があるのみである。不連続的差異であるイデア、不連続的イデアの共立空間があるのみである。それは、黒いイデアたちである。ここが、究極の世界・玄界・叡知界である。このイデア界・ガウス平面における不連続な黒いイデアたちの永遠回帰がここにはあるだけである。「至高天」である。双対的生成消滅が反復されるのである。地球や宇宙を生成消滅させるのである。ゲーテの『ファウスト』の「母の国」であり、折口信夫の「常世」であり、ケルト神話の他界である。死者たちの住み処・冥界即ち浄土・天国である。ここでは、最後の審判はありえない。一神教はまがい物である。ただただ、永劫回帰である。絶対的永劫回帰である。ここでは、無数・無限の自我たちが存するのである。無数・無限の「わたし」たちが存するのである。そして、おそらく、「対話」していているのである。ポリフォニー的に対話しているのである。これこし、コスモスの音楽であろう。モーツァルトの音楽であろう。円空のいう「法の御音」であろう。D.H.ロレンスが、「馬で去った女」で表現したコスモスの妙音であろう。コズミック・ハーモニーである。
 では、これは、メディア界の音ではないのかという疑問が起こるだろう。確かに、メディア界の共振するイデアの音楽があるだろう。しかし、これは、純粋な音楽ではないだろう。つまり、不連続的イデアが、ここでは、その純粋性を喪失して、いわば、協和音となっているからである。ゼロ化によって、共振的連続化が生起して、イデアは、言わば、不純になっているのである。だから、メディア界の音楽とは、濁った音楽であると言えよう。
 ここで、禅の瞑想について言うと、それは、イデア界へと心身を回帰させることだろう。つまり、空(くう)とは、イデア界のことである。しかし、大乗仏教の問題は、メディア界的矛盾同一とイデア界的絶対的差異の共立性とを混同していると考えられる点である。ちょうど、ドゥルーズ哲学の問題点と重なると言えよう。
 結局、ポスト量子力学、ポスト大乗仏教である。つまり、ポスト西洋文明、ポスト東洋文明であり、新世界文明の誕生である。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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