2007年09月25日 (21:54)

地球温暖化の問題は、結局、地球環境という特異性の問題を提起していると言えよう

地球温暖化の問題は、結局、地球環境という特異性の問題を提起していると言えよう。資本主義は交換価値=同一性を飽くことなく追求してきたのであるが、ここに来て、地球自然・宇宙環境という特異性に直面しているのである。つまり、同一性から特異性=絶対的差異へと視点を向けざるを得なくなっているのである。地球という身体という特異性が思い上がった資本主義に、いわば、逆襲しているのである。
 私は、これまで、同一性資本主義に対して、差異資本主義、差異共振共生資本主義を提唱しているが、これは、特異性としての差異を基盤とした「資本主義」であり、これから、企業が必然的に向かう経済システムであると考えられる。

Climate change spooks companies
A cyclist and a bus pass by the high rise buildings shrouded in a haze of smog, in Beijing
Investors want firms to measure and report on their carbon footprint

Ever more companies see climate change as a growing threat to their commercial interests, according to a study carried out on behalf of 315 global investors.

But others expect to benefit, says the Global Climate Change Report.

Investors want firms to quantify and disclose the likely costs and benefits derived from climate change.
"Increasingly, investors view good carbon management as a sign of good corporate management," said the head of the project Paul Dickinson.

"Our investors are using the quality of the disclosure as a very useful tool to assess how seriously a company is taking the issues of climate change."

US President Bill Clinton will be among the speakers as the Global Corporate Climate Change Report is launched in New York on Monday.

In addition to quantifying how climate change might affect their companies, many are also putting in place mechanisms to reduce their greenhouse gas emissions.

"A majority of firms recognise the financial and reputational benefits of improved carbon performance," the report said.
Nevertheless, "there is still a minority of companies who are not engaged in the issues of climate change", it added.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/7006451.stm

Man causing climate change - poll
Dry reservoir in Cyprus - 09/08/2007
Climate change is causing erratic weather around the world
Large majorities in many countries now believe human activity is causing global warming, a BBC World Service poll suggests.

A sizable majority of people agreed that major steps needed to be taken soon to address global warming.

More than 22,000 people were surveyed in 21 countries and the results show a great deal of agreement on the issue.
The survey is published a day after 150 countries met at the United Nations to discuss climate change.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_depth/7010522.stm

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「シロアリの腸内共生生物の酵素を利用」して、バイオエタノールの原料の糖を作るという発想が意外性があって面白い。シロアリ、それも、腸内共生生物というから、実に、共生的資本主義に通じる発想だと思う。

脱石油めざし、多様な技術開発進む
取材・文/岸上祐子
2007年9月13日(木)公開
シロアリの腸内共生生物がバイオ燃料を創る

 農水省など6府省による国家戦略であるバイオマス・ニッポン総合戦略。その外部有識者による推進アドバイザリーグループ委員でユニバーサルデザイン総合研究所所長の赤池学氏が大きな期待をかける新技術がある。シロアリの腸内共生生物の酵素を利用し、植物の主成分であるセルロースからバイオエタノールの原料となる糖を作り出す技術だ。

http://premium.nikkeibp.co.jp/em/report/20/

2006年10月01日 (20:41)

通貨・貨幣の問題:同一性通貨と差異共振シナジー通貨

通貨・貨幣の問題:同一性通貨と差異共振シナジー通貨

テーマ:差異資本論

『海舌』氏は、以下のように述べている。

「日本・中国・韓国は早急に銀本位制を検討するべきだ。

日本・中国・韓国は早急に銀本位制を検討するべきだ。
基本的にアジアの通貨の原点に回帰するべきである。」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=456534

そして、当記事のTBを私が以前書いた「貨幣と欲望と差異:他者の構造とポストモダン」http://ameblo.jp/renshi/entry-10009721808.html#t10013102309
に送っていただいた。

『海舌』氏の言明と私の論考を併せて見ると、私の論考を補足して、あらためて通貨・貨幣問題を、ここで考察する必要があると感じたので、簡単ではあるが、再検討したい。
 私の先の論考は、貨幣は、同一性構造と結合して、金融資本主義を形成しているのであり、ポストモダンを進展させるには、不連続的差異・特異性・単独性へと前進する必要があるというようなものであった。結局、プラトニック・シナジー理論の差異共振シナジー様相へと、「資本主義」を進展させることを示唆していたと言えるのである。そのときの契機が、不連続的差異・特異性・単独性の選択である。これは、概念・観念的には、その通りなのであるが、私は、それと、実経済とを結びつけられずに述べただけであったのである。頭では、不連続的差異性を選択して、同一性構造資本主義からの脱却を説いたのであるが、その、不連続的差異論的「資本主義」における通貨・貨幣については、言及できずにいたのである。
 その理由は、『海舌』氏が銀本位制ということに言及していることから、今理解できるのである。つまり、私は、通貨・貨幣を同一性構造のみのものとして考えていたので、不連続的差異・特異性・単独性としての通貨・貨幣を考えつかなかったからである。(思えば、地域通貨やゲゼルの消滅貨幣は、そのような資格があるとは思うが、それは、補完通貨としてであり、基軸通貨としてではないのである。)
 私が上記の論考で考えたのは、不連続的差異の共立する「資本主義」経済である。そして、それは、今、プラトニック・シナジー理論で言うと、差異共振シナジー的「資本主義」経済ということになる。そして、これは、あくまで、観念・理念的なものに留まっているのである。ただ、資本家の「精神」的様態が要求されるという当為に終わっていたのである。いわば、実践理性主義に留まっていたのである。
 しかし、『海舌』氏の東アジアにおける銀本位制という発想は、この壁を突破するものである。私が通貨・貨幣を同一性構造と考えたのは、交換価値の同一性構造からである。これは、マルクスの価値形態論である。あるいは、ヘーゲル哲学の理性論である。あるいは、カントの超越論的形式論である。ここには、差異、不連続的差異、特異性、単独性がないのである。そして、貨幣・通貨は本質的にそのようなものと思い込んでいたのである。
 しかし、「東アジア共同体」の銀本位制という概念を見ると、銀本位制という貨幣・通貨制が、同一性構造を突破していると言えるのである。何故なら、銀という量があるが、その量は特異性となるからである。つまり、特異性によって規定された通貨・貨幣であるということになるのである。そして、「東アジア共同体」ということで、これは、不連続的差異の共立する「資本主義」経済、ないし、差異共振シナジー的「資本主義」経済になりうるのである。銀本位制という特異性=不連続的差異が共振する「資本主義」経済のデュナミス(可能態)がここには発現していると見ることができそうである。後で、さらに検討したい。



参考:
銀本位制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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銀本位制(ぎんほんいせい)とは、ある国の貨幣制度の基礎となる貨幣 、すなわち本位貨幣を銀貨 とし、その自由鋳造、自由融解、強制通用力を認める制度を指す。

この場合、ある国の通貨は一定量の銀 の量で表すことができ、商品の価格も銀の価値を標準として表示される。

実際には、銀のみを法的に本位貨幣とする純粋な銀本位制の例は、歴史上あまり多くない。日本の江戸時代においても、東日本で主に金貨 、西日本で主に銀貨、そして補助貨幣として銭 という制度が施行されていた。このように、銀貨と金貨を共に本位貨幣とする制度を金銀複本位制という。

しかし、この金銀複本位制が形骸化して銀貨のみが流通し、事実上の銀本位制度となる場合が少なからず見られる。一例として、19世紀 、ヨーロッパ諸国の多くも金銀複本位制を採っていたが、銀産出高の増加などにより銀の市場価格が下落、金貨との法定比価との間に開きができた。この場合、銀貨を流通させて金貨を退蔵した方が有利な為(グレシャムの法則 )、なし崩し的に事実上の銀本位制となった。

この時期の銀の市場価格の変動は大きくまた下落傾向が顕著であった為、そして、その当時世界経済の主導的地位を占めていたイギリス が既に金本位制 に転じていた為、銀本位制諸国は深刻な影響をうけ、19世紀の終りにはほとんどの国が金本位制に転じた。

日本においては1871年 5 月に「新貨条例」を制定し、形式上は金本位制が採用された。しかし、当時は東洋市場においては銀貨による対外支払いが一般的であった為、1円銀貨(量目は 416グレイン)ならびに、当時のメキシコドルに相当する420グレインの量目の貿易銀を発行し、貿易などの対外支払用貨幣として使用した。

1878年 には1円銀貨の国内一般通用が認められ、事実上の金銀複本位制となったが、金貨の流出と政府不換紙幣の大量発行によって、金貨はほとんど流通しなくなった。さらに松方デフレ 後の1886年 には、初の日本銀行券 (大黒図案の100円、10円、5円、1円の兌換銀券)による銀兌換が開始され、1897年 に正式に金本位制を採用するまで、事実上の銀本位制が継続した。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%9C%AC%E4%BD%8D%E5%88%B6 " より作成

カテゴリ : 通貨制度 | 経済史





銀貨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2004年にアメリカで発行された銀貨
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2004年にアメリカで発行された銀貨

銀貨 (ぎんか)とは、銀 を素材として作られた貨幣 をいう。 古来、金貨 ・銅貨 とともに世界各地で流通した。

銀本位制 下では銀貨は本位貨幣として、自由鋳造、自由融解が認められた無制限法貨であった。その代表的な物に、アメリカ の1ドル銀貨、香港 の1ドル銀貨、フランス の5フラン銀貨、メキシコ の8レアル銀貨などがある。日本でも、明治時代には諸外国との貿易決済用に一円銀貨 が発行されていた。

現在でもフランス語 では、お金 を指して「銀」(アルジャン、argent)と言い、日本語でも銀行 、路銀などの言葉で、「銀」にお金の意味を持たせている。

日本では、飛鳥時代 に無文銀銭 と呼ばれる貨幣の形態をした銀地金が貨幣の代わりに流通したと言われており、日本最古の通貨 と言われている「和同開珎 」も銅銭 よりも先に銀銭 が発行されている。これ以降250年の間に、律令国家は、12種類の銅銭と2種の銀銭と1種の金銭を発行した。江戸時代 に丁銀 、豆板銀 といった秤量銀貨が、主に西日本で流通した。だが、南鐐二朱銀 の発行以後、額面表記銀貨への移行が進み、江戸時代末期には、五匁銀 、二朱銀 、一分銀 など、額面表記銀貨も発行された。

現代社会において、銀貨は最早流通用の物ではなく、ほとんどが収集家向けに特殊な仕上げ(プルーフ加工)をしたり、ケースに入れたりして販売されている。また、一部に地金型の銀貨も存在する。日本では、平成の時代に入ってからは、1,000円、5,000円の記念銀貨が収集家向けに発行されている。また、2005年には初めての記念500円銀貨も発行された。

銀貨の品位(純度)は、古来より様々であり、日本では明治時代の50銭から5銭の補助通貨が80%、一円と貿易銀の本位銀貨が90%であった。また戦後発行された100円銀貨は60%であった。外国には、オランダの1グルデン銀貨(1917年まで、品位94.5%)などの高品位銀貨が存在したが、一般的に本位銀貨は90%(SV900)を使用するケースが多く、コインシルバーと呼ぶ。また、英国の銀貨は伝統的に92.5%(SV925)の品位で作られており、これをスターリングシルバー と呼ぶ。
ウィキメディア・コモンズ に、銀貨 に関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E8%B2%A8 " より作成

カテゴリ : 硬貨 | 貨幣学





http://en.wikipedia.org/wiki/Image:Coin_cn_1996_panda_p_r.jpg
Silver coin
From Wikipedia, the free encyclopedia
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Silver coins are possibly the oldest mass form of coinage .
Contents
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* 1 Collector coins
* 2 Bullion coins
* 3 Silver rounds
* 4 See also
* 5 External links

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Collector coins

Many factors determine the value of a silver coin, such as its rarity, age, condition and the number originally minted. Silver coins coveted by collectors include the Denarius and Miliarense .
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Bullion coins

Other than collector's silver coins, silver bullion coins are popular among people who desire a "hedge" against currency inflation or store of value . Silver has an international currency symbol of XAG under ISO 4217 .

American Silver Eagle


Canadian Silver Maple Leaf


Chinese Silver Panda


British Silver Britannia

Major silver bullion coins include (major in terms of the number in circulation):

* American Silver Eagle (from 1986)
* Canadian Silver Maple Leaf (from 1988)
* Australian Silver Kookaburra (minted by the Perth Mint from 1990)
* Australian Silver Kangaroo (minted by the Royal Australian Mint from 1993)
* British Silver Britannia (from 1997, proof version only. Public issue from 1998)
* Chinese Silver Panda (from 1983)
* Mexican Silver Libertad (from 1982)

Minor silver bullion coins, or commemorative coins , include:

* New Zealand Silver Kiwi (from 2004)
* Isle of Man Silver Cats (from 1988)
* Zambia Silver Elephant (from 1999 - 2003)
* Gibraltar Silver Dogs (from 1991 - 1997)
* Russian Sable

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Silver rounds

Privately minted silver coins are known as silver "rounds" and silver "bars", which usually have a set weight of 1 troy ounce of silver (31.105 grams of 99.9% silver). These carry all sorts of designs, from assayer/mine backed bullion to engravable gifts, automobiles, firearms, adult-oriented, armed forces commemorative, holidays, etc.
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See also

* Gold coin
* Millesimal fineness
* Silver as an investment
* Store of value
* Precious metal

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External links

* Silver Coin Pictures

Retrieved from "http://en.wikipedia.org/wiki/Silver_coin "

Categories : Bullion coins | Coins | Silver coins


2006年04月02日 (00:33)

イデア界における不連続的差異の共立構造について:不連続的差異直立力学としての多元的共立倫理性

イデア界の不連続的差異・イデアの共立とは、どういうことか。差異の内在的十字原力が、超光速で、多者の差異をキャッチ(直覚)するのではないか。ライプニッツのモナド論では、相互反照があるが、反照ではなくて、直覚だと思うのである。即である。いわば、即覚である。分立しながらも、他者を直覚・即覚するのである。一種、他者に成ると言ってもいいかもしれない。これは、一致ではないし、同一性でもない。自己差異が、他者差異になるのである。化するのである。他化である。これが、共立の意味ではないだろうか。不連続的差異はそれ自体として存しつつ、他者の差異に化する、他化するのではないのか。これは、不思議な事象ではある。「私」が「私」でありつつ、他者へ転化、他化するからだ。これを、自他一致と考えていいのか。そうではないと思う。他化しても、自己は自己なのである。だから、自己における自他並存であろう。これは、一見、最初の1/4回転におけるゼロ化・ゼロ度の様相に似ているかもしれない。しかし、ゼロ化とは、一種の結合を意味するのであるから、ここでの、自他並存とは異なると言えるだろう。自他並存は、ゼロ化ではない。自己はゼロになっていない。自己が自己でありつつ、他者に化しているのである。
 いったいこの事態は何だろうか。不連続的差異であるとき、それは、他の不連続的差異と成る・化するのである(化成と呼ぼう)。イデアの他者化成である。これは、A且つBである。A且つ非Aである。これこそ、絶対矛盾的自己同一ではないのか。私が私でありつつ、他者であるという事態なのである。差異1が差異1でありつつ、差異2である。つまり、現象界とはまったく違う意味で、差異1=差異2となるのだ。正確に記述すれば、差異1≠&=差異2である。これは、自己多元性とも言えるだろう。差異多元性。ドゥルーズが、イギリスの小説家ヴァージニア・ウルフの言葉を引用して、「私」の複数・多元・無数性を述べていた。とまれ、ここで、自己多元性、差異多元性を作業仮説しよう。だから、イデア界は、不連続的差異・イデアの自己多元性・差異多元性が存するということになるだろう。これが、共立性であろう。
 とまれ、もう少し、丁寧に考えよう。不連続的差異は特異性であり、己に徹するのである。スピノザのコナトゥス(自己保存力)である。つまり、不連続的差異は、特異性・単独性である己を認識すると言えるだろう。この自己特異性・単独性の認識は、当然、他者認識にも作用するだろう。そう、他者への志向性はあるが、つながっていないのである。他者とは、連続していないのである。それぞれの差異が不連続に直立しているのである。(なにか、ルイス・キャロルの世界を想起する。不思議の国や鏡の国では、登場人物はつながっていないだろう。)私が共感性というのは、ここでの不連続的直立における心性にも関係するだろう。不連続的差異に対する関係心性である。西田哲学の、「個物の相互限定」に近いようなものがここにあるのように思う。つまり、不連続的差異の相互形成としての共感性である。不連続的差異倫理である。不連続的差異共立共感倫理である。不連続的差異の直立・共立から発生する倫理的多元性(共感性)がここにはあるだろう。イデア界の境界とは、この直立・共立性のことではないだろうか。とまれ、不連続的差異の直立から、多元共立性が発生すると言えよう。だから、差異が差異でありつつ、他者に化成するというのは、この直立から発生する他者肯定のことではないのか。「個物の相互限定」である。不連続的差異の直立から必然的に発生する多元的他者肯定が、共立性ということだろう。つまり、不連続的差異の直立とは、他者の不連続的差異を直立として見るのであり、そこで、直立相互の認識力学、即ち、共立倫理が形成されるのである。だから、不連続的差異の間主観性としての共立倫理である。そして、これが、生活世界、来るべき生活世界の様相であろう。複数の不連続的差異の直立力学、これが、共立の力学であると言えよう。

p.s. ここでは、まったく、微分=差異は問題外である。ここでは、ドゥルーズ&ガタリが『千のプラトー』で述べていたノマド的配分が問題になるように思う。不連続的差異直立の共立性のためには、複数の特異性を扱う「数学」が必要になるだろう。そう、複雑系でもあるだろう。ここでは、まったく一般論は成立しないのである。多元的特異性「数学」が構築されなくてはならない。不連続的差異1と不連続的差異2の共立力学と、不連続的差異3と不連続的差異4との共立力学はまったく別のものになるだろう。これは、不連続的差異多元主義である。これは、政治・経済で考えると一番分かりやすいだろう。国内の政治・経済ならば、国民の共立力学を考察しなくてはならない。また、国際的な政治・経済ならば、他国との共立力学を構築する戦略が必要である。例えば、アメリカ合衆国やソ連は、かつて、突出した超大国であり、覇権主義をもっていた。それに対して、共立力学は、冷戦や安保体制であった。しかし、現代、状況はまったく変化してしまった。この現状況また未来の構想によって、新しい共立力学が必要なのである。共立力学とは、基本的には、相互保存の力学であり、平和志向であることである。武力のための支出を削減する志向をもつと言えるだろう。そう、これまでの政治力学は、父権的な弱肉強食的な、二項対立的なもの、あれかこれかであった。つまり、同一性的二元論の政治力学であった。しかし、共立力学の視点は、それを乗り越えて、多元的共立性を志向するのであり、今日の多極主義のエポックにきわめて適切なものと言えるだろう。後で、この点をさらに検討したい。

2006年02月16日 (13:06)

倫理、共感性、近代的自我:日本「資本主義」、欧米資本主義、《イデア》資本主義

この問題は、ODA ウォッチャーズ氏が、述べていることと関係する。

《 これは、夢遊病患者が、まさに「現実」から「逃避する」と供に、「自分の想像上の『現実』」に「逃避する」という。二重の逃避を始めたことになる。》http://blog.kaisetsu.org/?eid=317032

即ち、近代的自我は、メディア界から1/4回転で捩れて、現象界化することによって形成されるのであるが、この捩れによって、排斥・隠蔽されるものが、倫理や共感性であると、これまで、私は考えてきた。
 しかし、いわば無意識として、倫理や共感性は《メディア》界に内在・潜在している。良心や良識の「元素」である。しかし、問題は、現象化した自我、近代的自我とは、利己主義であり、自己中心主義である。排他的である。悪魔的である。「狂気」である。仏教でいう色であり、無明である。(アポロンの神託の「汝自身を知れ」や仏教の解脱や神道の己を知るは、同一の教えである。万教帰一。)
 現象界の自我(近代的自我)とメディア界の良心との関係を見ないといけない。前者と後者は、パラドクシカルな関係にある。利己主義と倫理主義の二律背反性がある。近代的自我・近代的合理主義に徹すると、当然、《メディア》界に対する排斥・隠蔽が徹底化する。(これが、漱石の『こころ』や『行人』に描かれているものである。)
 問題は、近代的自我の傲慢化と独善化である。傲慢化は1/4回転ですぐ説明できる。独善化も1/4回転から発する。
 この点を細かく見よう。以前、連続・同一性化という言い方で、現象界の近代的自我を説明した。この観点は、メディア界から現象界への1/4回転によって、差異が排斥されて連続・同一性が自我を形成するということである。ここの力学は微妙である。メディア界において、不連続的差異と連続的差異が相補性を形成している。そして、連続的差異が不連続的差異を排斥・隠蔽するような形で、現象界化するのである。連続的差異は、ゼロ度共鳴によって形成されている。(ゼロ度共鳴とは共感性であると先に述べた。)このゼロ度共鳴=共感性=連続的差異が、1/4回転して、連続的差異に基づく連続・同一性という個体・近代的自我を形成するのだろう。この二回目の1/4回転で、不連続的差異が排斥・隠蔽されるのである。だから、近代的自我とは、個(個人主義)ではなくて、連続・同一性的個体である。それは、その個体のもつ観念と連続・同一性化しているのである。ここでは、共感性が自我と結合しているのである。この共感性と自我との結合が、ナルシシズム、自己中心主義、自己完結主義を生み、ODA ウォッチャーズ氏の説くような、現実から逃避して、想像上の現実へ没入する「夢遊病患者」を作るのだろう。
 ここで、排斥・隠蔽されているのは、不連続的差異=特異性=単独性であり、真の倫理である。先に述べた、メディア界におけるゼロ度共鳴=共感性は、現象界においては、反動となるのである。倫理にはならないのである。独善性となるのである。(この点について、すぐ後に検討する。)
この現象界における共感的連続・同一性的自我(近代的自我)が、近代主義の狂気・悪魔性をもっているのである。これが、ホッブズの説いた万人の万人に対する闘争を生むのである。そして、プロテスタンティズムとロックに始まる自由主義もここに発端があるだろう。そして、欧米による近代の暴力はここに拠ると言えるだろう。これは、自由主義とは利己主義の「自由」主義である。ここには、差異の「自由」主義はない。
 ここで、もう少し、細かく言おう。近代の問題は、デカルト哲学に典型的に現れていると考えられる。コギト主義である。コギトと近代的自我は、本来、別々のものである。コギトは、近代主義に排斥された不連続的差異・特異性・単独性を意味するのである。しかし、デカルトは、コギトと近代的合理主義・近代科学を結びつける。つまり、デカルトは、コギトと近代的自我を結びつけてしまったのである。ここに近代の混乱を生む原因があると言えよう。結局、自由主義は、近代的自我・利己主義に基づくのである。
 問題が複雑なのは、西欧近代が、イタリア・ルネサンスを半面としてもっていることである。イタリア・ルネサンスとは、一言で言えば、《メディア》の解放である。そして、当然、《イデア》界への接点が発生したのである。中世のフランスを中心とするルネサンスが、イタリアにおいて、大規模に開花したのが、イタリア・ルネサンスである。それは、中世のキリスト教的ヒエラルキーに排斥された「異教」・多神教の復権である。それは、《メディア》界の賦活であり、そのエネルギーの発動である。つまり、《メディア》の不連続的差異性と連続的差異性との相補性のエネルギーが発動したのである。つまり、一言で言えば、ルネサンスとは、《メディア》の開花である。
 西欧はこれを内在させつつ、プロテスタンティズムによって、排斥・隠蔽したのである。つまり、西欧近代とは、内在している《メディア》のエネルギーの賦活を、反動的に、《現象》化させて、排斥・隠蔽しているのである。このルネサンス/プロテスタンティズム、《メディア》/《現象》との内部矛盾が近代西欧を形成したのである。そして、西欧の資本主義もそうなのである。(アメリカの資本主義も、広義においてそのようなものと考えられるが、しかし、当然ながら、プロテスタンティズム・《現象》性が支配的、優勢である。)換言すると、個/自我二重構造的資本主義である。一方では、《イデア》を志向しているが、他方では《現象》を志向しているのである。民主主義は、本来、前者であるのに、自由主義によって、後者的にされている。ここには、曲解・捩じ曲げ・すり替え・欺瞞が発生するのである。《イデア》を《現象》にすり替えるのである。民主主義は、自由主義に利用されてイデオロギーとなるのである。(また、自由主義も捩じ曲げられていると思う。後で、検討したいが、本来は、ルネサンス・《メディア》から発している不連続的差異・特異性・単独性に基づくと思うのである。)
 ということで、西欧近代、資本主義のもつ分裂的二重構造が明らかになったと言えよう。これを、ドゥルーズ&ガタリが指摘したのであり、まったく乗り越えにはならないのである。だから、マルクスの『資本論』が、資本主義内部の分析であるのと同様である。
 さて、ここで、日本現代資本主義を見ると、この分裂的二重構造さえ、喪失している「資本主義」である。つまり、《現象》化が極度になされていて、本来の《メディア》が排斥・隠蔽され、埋没されているのである。欧米には、欺瞞性があるものの、良識派には、本来の《メディア》があり、《イデア》性をもっていると考えられる。とまれ、西洋資本主義の分裂二重構造を考えると、日本「資本主義」は、資本主義ではないことになる。それは、父権・封建的共同体的「資本主義」であり、似非資本主義である。国家資本主義即ち社会主義である。日本社会主義である。マルクス・レーニン主義は、日本で実現したのである。自民党が共産党である。とまれ、現代日本の混迷はここにあると言えるだろう。グローバリゼーションは、資本主義のプロテスタンティズム純化である。自由主義の純化である。しかし、ここには、やはり、個の発想が見なくてならないだろう。個としての自由主義である。企業を個とした自由主義である。この点で、やはり、グローバリゼーションは、《メディア》・《イデア》性をもっているのである。日本は、《メディア》・《イデア》が埋没して、《現象》的連続・同一性主義であり、資本主義の反動、社会主義になっているのである。 
 さて、問題は、グローバリゼーション、資本主義の自由主義的純化である。やはり、基本は、分裂的二重構造なのである。不連続的差異論から見ると、これは不徹底なのである。グローバリゼーションは、《メディア》の個の自由主義を説くものの、《現象》化=交換価値中心性を帯びているのである。つまり、自我、利己的自我の自由主義となっているのである。これを問題視しなくてはならない。《メディア》(=貨幣・資本)を、《イデア》化することが、資本主義に対する正答であると考えられる。不連続的差異的共立共創性という《イデア》をもつ資本主義である。これを、ポスト・グローバリゼーション=ガイアナイゼーションと呼ぼう。これは、地民衆主義である。地民衆資本主義である。不連続的差異的資本主義である。
 さて、長くなったが、ここで、自由主義について簡単に触れると、これも、分裂的二重構造をもつのである。ルネサンス/プロテスタンティズム、《メディア》/《現象》という分裂的二重構造をもつのである。不連続的差異論から見ると、《イデア》的自由主義が、統一的なのである。

2006年01月25日 (00:58)

自由主義と不連続的差異論:能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新へ向けて

私が、差異というとき、これは、個の自由ということとほぼ同じことである。そう、不連続的差異論は、一種自由主義である。しかし、通常の自由主義あるいは新自由主義とは決定的に異なる点をもつ。それは、差異の共存・共立・共生をも志向するからである。個の自由が同時に、個と個との共存であることを志向するのである。ここが、決定的に異なる点だと思う。
 イギリスそしてアメリカの自由主義は、簡単に言えば、近代的自我主義であり、個人主義だと思う。では、不連続的差異論から見たら、それは、どのように分析できるだろうか。これは、意外に難しい問題である。自我とは何かという問題があるからである。 
 まず、近代的自我であり個人主義的である自我が近代西欧に誕生する。これは、二重である。近代主義的であり、個人主義的である。しかし、デカルト的な合理的な主体というよりは、特異性をもった自我であると思う。つまり、不連続的差異論から見ると、自由主義の自我とは、不連続的差異性を帯びていると思われるのである。問題は、この不連続的差異の性質である。これは、先に二つのポストモダン(言わば、暗黒ポストモダンと光明ポストモダン)に述べたことと関連がある。即ち、反感的か肯定的かの違いが関係すると考えられるのである。二つの不連続的差異が存するということである。反動・憎悪・利己主義的不連続的差異と能動・歓喜・共生的不連続的差異である。ここまで、言うと、自由主義の自我がどちらであるか、ほぼ明瞭である。これは、前者でしかありえない。ニーチェ的に言えば、ルサンチマン的不連続的差異である。(おそらく、ホリエモン氏や小泉氏や竹中氏がこれである。)これは、極めて、破壊的な個人主義である。アナキストのシュティルナーの唯一者とは、ほぼこれに近いのではないだろうか。
 ということで、自由主義と不連続的差異論の「自由主義」の違いがこれで判明したと言えよう。前者は、イデア界から発しているものの、反動となった、いわば、凶暴な個人主義である。それに対して、後者は、イデア界に能動的に回帰した、差異共生共創的な個人主義である。前者は戦争主義であり、後者は平和主義である。一元論と多元論、一神教と多神教の違いとも言えよう。憎悪的であるか、歓喜的であるか。父権的あるか、母権的であるか。天上的であるか、大地的であるか、等々である。
 日本人は、戦後、USAの半植民地となり、アメリカ化した。それは、自我が反動・憎悪・利己主義を帯びたということである。本来、多神教の日本文化(ヤポネシア文化と言おう)は、差異共存主義の文化である。しかし、自覚乏しく、欧米化されて、自己を喪失しているのである。今、日本の政治・経済は大きく揺らいでいる。カオス状態である。結局、新自由主義的ポストモダン路線は、問題が多いのがわかる。これは、強暴な路線であり、他者を排斥するものであり、社会は荒廃する。確かに、新自由主義の小さな政府という理念は、「社会主義」的資本主義に対する処方箋の意味があることは否定できない。しかし、これは、いわば、副作用が大き過ぎるのである。社会をずたずたにするだろう。勝者と敗者の二極化が徹底するだろう。当然である。そして、今や、ライブドアや耐震強度偽装等で、そのダークさが誰の目にも明らかになったのである。
 今年は、戦後日本社会の一番の転換点となるだろう。アメリカの中国重視・多極化の政策という新たな黒船が来航しているからである。平成維新の可能性があるのである。ここで、ヤポネシア本来の文化の復活と、不連続的差異論が説く能動・歓喜・共生的ポストモダンの創造が、蓋然的になってきているのである。ポスト新自由主義としての能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新のエネルゲイアが、ふつふつと滾ってきていると思うのである。

2005年12月10日 (21:02)

資本主義の不連続的差異化へ:イデア界的資本主義:新黄金時代へ

資本主義の不連続的差異化へ:イデア界的資本主義:新黄金時代へ
テーマ:差異資本論
以下のアドルノの言は、いわゆる知識人的発想のものである。確かに、文化の商業化は今日起っている。 
 しかし、逆のことも言えるのである。近代的二元論、「もの」と「こころ」との二元論があり、「もの」中心の経済が近代的資本主義であった。しかし、こんにち、「情報資本主義」であり、それは、「こころ」が資本主義に入っているのである。つまり、文化が資本主義に取り入れられているのである。この点で、アドルノの言は、古いのである。不連続差異論から言うと、メディア界に資本主義が入っているのであり、また、さらに、イデア界にも入っていると言えるのである。つまり、資本主義は、不連続差異化してきているのである。現代資本主義は、イデア界・不連続差異的資本主義である。現代は、ポスト近代・ポストモダン革命の最中である。相転移期である。(今日のような悲観的時代ではあるが、私は、夢想的に、新黄金時代と呼んでいるが、それへと向っていると考えられる。)
 結局、不連続的差異論革命の最中である。イデア界が、人々に回帰しているのだ。だから、新自由主義的力の路線と相補の差異共存共生共創主義が生まれるはずである。後で、もう少し、詳述したい。

p.s. 新自由主義でさえ、それとも、だからこそと言うべきか、斬新な創造的企業が必要であるが、創造性は、イデア界から生まれるのである。そして、それが、メディア界化・想像力化されて、実現していくのである。創造的企業内において、不連続差異化が起きているのである。しかし、これは、力の側面においてである。もう一つは、共存的側面で、不連続差異化が起ると言えよう。

参照:『心の起源 生物学からの挑戦』木下清一郎著 中公新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/
4121016599/250-7564220-6771446


 
以下引用。_____________________________________ 
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自由主義時代を通って、文化は[資本]流通の領域に落ちた。
そして今、流通領域の漸進的壊死は文化そのものの生命中枢に
及んでいる。

十分に計算された産業の配分装置による商業とその非合理的潜
伏地の除去にともなって、文化の商業化はナンセンスなまでに
完成される。

完全に束ねられ、管理され、大体耕作されつくしたものとして
、文化は壊死する。

テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」
『プリズメン』ちくま学芸文庫p20
渡辺祐邦・三原弟平訳、1996年2月7日第1刷発行
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PUBLICITY
No.1270(2005/12/10/土)

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「PUBLICITY」(パブリシティー) 編集人:竹山 徹朗
E-mail:freespeech21@yahoo.co.jp
blog:http://takeyama.jugem.cc/

※転送・転載自由です。ただ、転送・転載される時には、
登録申し込み先(↓)も必ず合わせて併記してください。
http://www.emaga.com/info/7777.html

2005年12月10日 (19:17)

資本主義経済の問題点:不連続的差異政治哲学と差異共生資本:共生支出と共生控除

商品経済とは何か。すべては、商品となるのか。近代的資本主義は、ユダヤ・キリスト教的であった。それは、憎悪主義的自我合理主義である。想像力・直観力を排除している。「もの」の経済であった。
 現代資本主義、ポストモダン資本主義、想像力・直観力資本主義において、「もの」と「こころ」がいわば融合化し、一如である。つまり、芸術化しているのである。コストと品質が重要である。品質が「こころ」である。
 問題は、コストである。価格とは何か。これは、基本的には市場主義的である。売り買いである。生産者と消費者の売買である。新自由主義理念は、市場の自由化である。それは、形式として認めよう。国家社会主義は、財政赤字や非効率性をもたらすからだ。
 しかし、新自由主義は、経済原理の問題であり、社会の問題とは切り離される。社会形成のための原理が必要である。それが、差異共存共創主義と考える。つまり、政治において、経済と社会との均衡を取る必要があるのである。D.H.ロレンスのアレゴリー哲学を借りれば、政治は、「王冠」であり、「獅子」である経済と「一角獣」である社会とのバランスをとる必要があるのである。新自由主義と差異共存共創主義(差異共生主義、略して、差共主義ないし共差異主義 condifferencism)とのバランス・均衡がなくてはならない。結局、新自由主義は、経済原理に過ぎず、社会原理ではないのである。  
 この「王冠」哲学とは、政治哲学となる。これは、不連続的差異論的政治哲学である。不連続的差異論は、経済的には新自由主義を肯定するだろう。しかし、他方、社会的には、差異共生主義(差共主義)を肯定するのである。
 思うに、差異共生主義的な企業がこれから、注目され、また、評価されるだろう。差異共生主義的企業が、市場でも評価されるであろう。
 とまれ、差異共生主義社会のための、資本が必要である。これは、どこから得られるのか。差異共生資本はどこから得られるのか。後で、検討したい。

p.s. 共生主義的資本主義があるはずである。憎悪・他者排除的資本主義とは別に。地域活性化には、共生主義的発想が必要だろう。利己主義的資本主義では、地域零落となる。地域共生主義的資本主義である。

p.p.s. 新自由主義と差異共生主義とのバランスを取るには、このための政治理念・戦略が必要である。不連続差異政治哲学ではあるが、戦術として、差異共生主義のための資本を提供する企業にその分控除するのである。共生控除である。ここから、差異共生資本が捻出されるのである。共生主義が、これで、生命・血を得ることになろう。新自由主義と差異共生主義との結合である。「王冠」結合である。

2005年11月05日 (06:11)

対立物の一致:知=愛=力:超資本主義へ向けて

普通、知性、愛・共感性、力を別のものとする。
それは正しい。
しかし、この三位不連続性が、実は、一体となったときが、
最高・至高・究極の状態だろう。
父・子・聖霊の三位一体とは、そのような意味があるのではないか。
力・愛・知の三位一体。
これは、イデア界の超叡知であろう。
不連続的一体である。
そう、先に、考えていた不連続的差異の調律とはこのことではないか。
資本主義は、そのようになるだろう。
超資本主義である。
力と愛と知の三位一体としてのスーパー・キャピタリズム。
連続主義・近代主義的な政治経済社会文化は、淘汰される。

p.s. 角界で言われる心技体も、このことと共通だろう。

2005年10月29日 (00:34)

イデア界の共存力と瞑想・禅・気:イデア・メディア・現象三層共鳴:差異共存共創主義

イデア界とメディア界の境界において、イデア界の虚力と併存して、メディア界の連結力・強度・エネルゲイアが発生している。つまり、後者は、形相・原型・構造・「イデア」・型・雛型(イデア界の差異であるイデアではない)であり、現象界へと転化される。この後者に作用しているのが、いわば、メディア力・強度・エネルゲイアである。わかりやすく言えば、

1.イデア界の力・虚力・デュナミス
・・・イデア・メディア境界・IM境界・・・
2.メディア界の力・強度・エネルゲイア

1と2が、イデア・メディア境界・IM境界に併存しているのである。1⇒2は質的変換である。これが、自然の変化の中でもっとも不思議なものだろう。1/4回転・質的変換である。このとき、連結化が生じて、形相が発生する(連結化の仕方については後で考察しよう)。即ち、形相・エネルゲイア発生である。「無」から「有」の誕生とも言える。しかし、「無」は、不連続的差異の共存状態である。イデア界・虚界における状態である。これが、「有」ないし原有・前有となる。しかし、「有」は、不連続的差異の連結であるから、潜在的には、差異共存性をもっていると言えよう。形相・エネルゲイアは、潜在・内在的に「無」・虚力・デュナミスをもっているのである。とまれ、これが、現象化するのである。それは、連続・同一性化によるのである。微分⇒積分化である。これが、ベルクソン・ハイデガー・ドゥルーズの連続体論の意味するものであろう。連続的差異の有限化である(この点についても後で検討)。
 結局のところ、イデア界の差異は、メディア界化して、そして、現象界化している。だから、超越論的に現象界は差異共存性(思うに、これがプラトンの理性だろう。円だろう。)を内在しているのであるから、なんらかの方法で、差異共存性にコンタクトできるはずであるし、そうした場合、差異共存性の力が、メディア界、現象界に伝導するはずである。これが、思うに、瞑想等によって目指される心身状態だと思う。つまり、心身を差異共存性の状態に変化させるのである。そして、イデア界と共鳴するのである。これが、仏教・禅でいう「無」の境地であろう。空というのも、これと同様であろう。ヨガも同様だろう。また、聖地と呼ばれるところは、このような差異共存性にコンタクトしやすい場所に違いない。確かに、経験的に聖地と呼ばれるところは気持ちがよくなるものだ。(参照:ツボ、経絡、龍脈、レイライン等々)瞑想に関しては、科学的に検証されている。しかし、物質主義的科学では限界がある。
 とまれ、差異共存状態を励起させれば、イデア界が賦活されて、共鳴状態が生じるということになるだろう。おそらく、仕事でも、このような状態になると物事がはかどるはずである。日本一になった千葉ロッテマリーンズは、ボビー・バレンタイン監督の指揮下、このような差異共存状態になったのではないだろうか。イデア界的「超電導」状態である。これからの厳しいビジネス界において、差異共存性の「マジック」を活用すべきである。これは正に、差異共存共創主義である。

2005年10月12日 (13:50)

新自由主義と差異共存主義(「社会民主主義」)の融合:理屈だけ

市場の自由を肯定しよう。そして、政府の規模を小さくしよう。
新自由主義だ。
そして、差異市民が、(差異的)資本を共同出資して、差異資本的経営をしよう。株式会社としよう。この差異資本経営は、差異社会経済を形成するのである。有機農業をしよう。循環経済を造ろう。自然環境を破壊しないエネルギーを、自然から取り出そう(自然エネルギーの活用)。食料の自給自足を目指そう。子供たちに、自由な、愉しい、好奇心を刺激する教育を与えよう。福祉医療費の負担をわずかにしよう。そして、個的才能をもったものは、その才能を伸ばそう。学術の創造のためのシステムを創ろう。年金システムを公正な実効性のあるものとしよう。軍需・戦争経済を否定して、平世界平和共存のために差異的資本を使用しよう。等々。
この差異資本社会経済株式会社に賛同する人が、株を買うのである。そしてその人は、この差異株式会社から優遇的な便宜を得るだろう。
単純だが、これが、新自由主義と差異共存主義の融合である。これは、社会民主主義的であるが、民営化であるから、官製ではないから、社会主義を完全に排している。だから、新自由主義的差異共存資本主義である。

p.s. ここで、金融が問題となるだろう。市民バンクのような形態をとるのか。何らかの金融経営が可能だろう。それは、低利子等で、差異市民に貸すのである。差異資本銀行、差異市民銀行のようなものが望ましいが、それが可能なのか。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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