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2010年10月28日 (08:31)

《個》独立宣言:トランス・デモクラシーの新国民主義へ:大資本的民主主義から差異共立・共振主義へ

今は余裕がないので、詳述できないが、結局、民主主義、代表制民主主義、間接民主主義、代議制は、大資本、大企業、グローバリズムの利益が中心となる制度ではないかと考えられる。
 アメリカの独立宣言にある、God created us equal.[
神は我々を平等(対等)の存在として創造した]であるが、これは、当時、宗主国の英国と戦っていた植民地米国の人間が、独立を勝ち取るために、形成した大義である。
 聖書にこの言葉はないだろう。これは創作であろう。とまれ、宗主国と植民地の主従のヒエラルキーを打破するための、「大義」として形成されたと思う。
 しかしながら、私見では、「我々」は、この場合、個を指していると思う。植民地米国の人間の個である。この独立的尊厳を認めよということではないだろうか。
 だから、平等・対等とは、個の原理と見るべきではないか。個としての平等・対等というのは理解できることである。言い換えると、矛盾した言い方であるが、差異として平等・対等ということである。だから、個人主義、individualismの宣言と見ることができよう。(追記:「差異としての平等・対等」という表現は問題がある。思うに、アメリカ独立宣言の「平等」とは、差異の共立を意味していると察せられる。つまり、宗主国英国の人間という差異と植民地アメリカの人間の差異の共立を「平等」と表現したのではないだろうか。だから、民主主義とは、差異共立原理と見るのが本来的であると考えられる。)
 しかしながら、既述したように、西洋の個人主義は、個と自我が混淆、連続化しているのであり、真の「個」主義・差異主義ではないのである。凸iの傾斜が強いために、そうなると考えられる。
 その視点から見ると、民主主義は、自我の原理をもつのであるから、資本主義にあっては、大資本、大企業、グローバル資本の「自我」が中小資本、諸民の「自我」を凌駕するのは当然である。つまり、「自我」は互いに争うものであるから、両者の「自我」の闘争は、当然、強大な権力をもつ前者の「自我」が勝利することは、火を見るより明らかであるということである。
 故に、民主主義を真の《個》の原理に基づいて乗り越える必要がある。つまり、自我的民主主義、同一性的民主主義、近代的民主主義から、個的、差異的民主主義、トランス・モダン民主主義へと転換する必要がある。それは、差異共立・共振主義である。
 ただし、日本の場合、半封建/半近代主義なので、複雑であるが、ともかく、個的還元が為される必要がある。個的還元とは、PS理論から言えば、超越性を認識することに存するのである。
 後で、個と民族的特有性について検討したい。

追記:以前述べたが、参政権に関してであるが、参政権資格制度を設置すべきである。それに合格しない人間には、参政権を与えないことにするのである。政治に関して適格な認識をもつ者に参政権を与えるというのは、合理的である。無知蒙昧な愚民に参政権を与えるというのは、気狂いに刃物である。
 だから、今日の愚民には参政権は付与されないということになる。愚民的民主主義から賢民的民主主義へ。

追記2:結局、差異的位階を認めよということになるだろう。人間は平等ではないのである。差異的なヒエラルキーがあるのである。確かに、もっとも根源的には同一であろうから、その点では、平等である。否、同一である。
 個々人の差異を認めることこそ、実質的平和への大前提であると考えられる。差異を認めないことから、争いが起るのである。西洋文明の東洋文明、その他の文明に対する暴力的干渉は、そこから来ていると言えよう。


マガジン9

* それでも消費増税は必要なのか - どん・わんたろう 10月27日14時43分
* 報道の原点を見失うな - 柴田鉄治 10月27日14時43分
* 何でも「悪いのは小沢」で片付ける大手メディア - 岡留安則 10月27日14時43分
* 議員って自分の給料を自分で決めるんだよ - どん・わんたろう 10月20日17時07分
* 国際貢献のウソ - 芳地隆之 10月20日17時07分


アメリカ独立宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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アメリカ独立宣言

アメリカ独立宣言(アメリカどくりつせんげん、The Unanimous Declaration of the thirteen United States of America)とは、イギリス (グレートブリテン王国 )によって統治されていた13の植民地 が、独立したことを宣言する文書である。1776年 7月4日 大陸会議 (the Continental Congress)によって採択された[1] [2] 。このため、7月4日はアメリカ合衆国 の独立記念日 として毎年盛大に祝われる。

沿革 [編集 ]
「独立宣言への署名」(ジョン・トランブル 画)
この絵は、2ドル紙幣 の裏面図版に使用されている。

1763年 2月、フレンチ・インディアン戦争 が終結すると、イギリス国王ジョージ3世 とグレンビル内閣は、植民地アメリカへの課税と支配を強化した。この本国政府による植民地圧迫策は、次第に植民地住民の本国に対する不満を鬱積させ、本国からの離反機運の醸成をもたらす(詳細は、アメリカ合衆国の歴史 の項目と、アメリカ独立戦争 の項目を参照)。

それぞれに独自の発展を進めていた13植民地 は、1772年 11月、連絡組織として通信連絡委員会を発足させる。この委員会は、1774年 9月、第1回大陸会議 (ジョージア植民地 を除く12の植民地代表の集会)に発展し、本国政府との和解策を練った。1775年 4月、レキシントン・コンコードの戦い で、イギリス軍と植民地民兵 隊の間に銃火が交えられ、独立戦争の火蓋が切られた。翌5月、第2回大陸会議が開かれ(全13植民地代表がそろう)、ここ武力衝突に至っても本国政府との和解の道を探っていた。しかし、情勢は日増しに悪化し、翌1776年 1月、独立論を訴えるトマス・ペイン の著書『コモン・センス 』が刊行されてベストセラーになると、住民の間でも植民地代表者の間でも、独立論は最高潮に達した。

同年6月7日、バージニア植民地 代表のリチャード・ヘンリー・リー は大陸会議に『独立の決議』を提案し、これに基づいて同月10日、独立宣言起草委員会が発足した。この委員会は、トーマス・ジェファーソン 、ジョン・アダムズ 、ベンジャミン・フランクリン 、ロジャー・シャーマン 、ロバート・R・リビングストン の 5人で構成されたが、ジェファーソンが宣言案を起案(起草)し、フランクリンとアダムズがわずかに修正して委員会案とされた。委員会案は大陸会議に提出されて、さらに多少の推敲がなされた。そして、1776年7月2日、リチャード・ヘンリー・リーの『独立の決議』がまず可決され、『アメリカ独立宣言』は7 月4日に採択された。
内容 [編集 ]

独立宣言は、基本的人権 と革命権 に関する前文、国王の暴政と本国(=イギリス)議会・本国人への苦情に関する28ヶ条の本文、そして独立を宣言する結語の3部から成る。

中でも、「全ての人間は平等に造られている」と唱え、不可侵・不可譲の自然権として「生命、自由、幸福の追求」の権利を掲げた前文は、アメリカ独立革命の理論的根拠を要約し、後の思想にも大きな影響を与えた。その理論は、名誉革命 を理論的に正当化したジョン・ロック の自然法理論 の流れを汲む。
日本への影響 [編集 ]

宣言公布当時、日本 は江戸時代 の鎖国 中であったため、直接の影響は見られない。
学問ノススメ [編集 ]

江戸時代末期から明治時代 にかけて、西欧文明が押し寄せてくるのに先立ち、福澤諭吉 はその著書『西洋事情 』で、「千七百七十六年第七月四日亜米利加十三州独立ノ檄文」としてアメリカ独立宣言の全文を和訳して紹介した。

天ノ人ヲ生スルハ、億兆皆同一轍ニテ之ニ附與スルニ動カス可カラサルノ通義ヲ以テス。即チ通義トハ人ノ自カラ生命ヲ保シ自由ヲ求メ幸福ヲ祈ルノ類ニテ他ヨリ如何トモス可ラサルモノナリ。人間ニ政府ヲ立ル所以ハ、此通義ヲ固クスルタメノ趣旨ニテ、政府タランモノハ其臣民ニ満足ヲ得セシメ初テ眞ニ権威アルト云フヘシ。政府ノ処置此趣旨ニ戻ルトキハ、則チ之ヲ変革シ、或ハ倒シテ更ニ此大趣旨ニ基キ人ノ安全幸福ヲ保ツヘキ新政府ヲ立ルモ亦人民ノ通義ナリ。是レ余輩ノ弁論ヲ俟タスシテ明了ナルヘシ

– 『西洋事情 』初編 巻之二

このうち、冒頭の章句および思想は、後の『学問のすすめ 』初編冒頭、に引用され、人々に広く知られるところとなった。
日本国憲法 [編集 ]

1946年に公布された日本国憲法 の第13条にも、その影響は見られる。

第十三条  すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

関連項目 [編集 ]

* アメリカ合衆国憲法
* アメリカ独立戦争
* 独立記念館 (アメリカ)
* アメリカ合衆国建国の父
* アーブロース宣言

脚注 [編集 ]

1. ^ jpeg版“In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America ”. 2009年9月8日閲覧。アメリカ議会図書館
2. ^ テキスト版“In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America. ”. 2009年9月8日閲覧。アメリカ議会図書館

外部リンク [編集 ]
ウィキソース
ウィキソース にアメリカ独立宣言(和訳) の原文があります。
ウィキソース
ウィキソース にアメリカ独立宣言(英文) の原文があります。

* In Congress, July 4, 1776. The unanimous declaration of the thirteen United States of America. アメリカ議会図書館
* 福澤諭吉 訳 『アメリカ独立宣言 』(青空文庫 )
* 福澤諭吉訳 『西洋事情 巻之二 合衆国 』(近代デジタルライブラリー )
* 福澤諭吉訳 『福沢全集 巻1「西洋事情(初編)」 』(近代デジタルライブラリー)
* katokt訳 『独立宣言 』(プロジェクト杉田玄白 )

執筆の途中です この「アメリカ独立宣言」は歴史 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (P:歴史 /P:歴史学 /PJ歴史 )。
執筆の途中です この「アメリカ独立宣言」は、アメリカ合衆国 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などして下さる協力者を求めています (P:北アメリカ /PJアメリカ合衆国 )。
「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E7%8B%AC%E7%AB%8B%E5%AE%A3%E8%A8%80 」より作成
カテゴリ : アメリカ独立戦争 | アメリカ合衆国の歴史 | 民主主義 | フィラデルフィア
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2010年08月19日 (19:33)

文字言語と音声言語:内的認識と外的認識:差異共立経済:虚数凸i通貨と虚数凹i商品と差異共振実数価値

甲斐駒ケ岳とkaikomagatakeは、認識において異なるだろう。単に、音声として、聴覚で捉えたとき、それは、きわめて、抽象的である。しかしながら、漢字情報として、視覚的に捉えられたときは、いわば、ニュアンスがあるのである。あえて言えば、漢字情報は、内面的、情感、イメージ等が喚起されるのである。そう、内包性が音声情報よりも大きいのである。
 また、あえて作業仮説的に言えば、音声言語は、左脳的であり、文字言語は右脳が入り、いわば、両脳的である。
 思うに、デリダがロゴス中心主義として、音声言語を批判し、書記言語(エクリチュール)を肯定していたが、それはやはり本質を突いていたのではないだろうか。
 だから、音声言語と近代合理主義、唯物論はつながり、書記言語、文字言語は、それを「脱構築」する性質があるのではないだろうか。
 しかしながら、音楽は本来そうではないが、現代音楽(クラシック)の場合、抽象化して、左脳中心となり、音楽本来の情感を喪失してしまったのではないのか。
 とまれ、文字言語のことにもどると、それは、絵画に似ているのではないだろうか。とりわけ、漢字の場合、象形文字なので、その側面があるのではないのか。
 私が想起したのは、絵画は実は、単に空間芸術だけでなく、時間芸術であるということである。鑑賞するには、絵画に内的に参入する時間が必要だからである。外的認識(物質的認識)は凸iが行うとすると、内的認識(精神的認識)は、凹iが行うのではないだろうか。【シュタイナーの『オカルト生理学』から言えば、脳=脳髄神経系が前者であり、交感神経系(自律神経系)が後者にあたるだろう。】
 つまり、絵画鑑賞には、凹iを参与させるので、Media Point的意識になると言える。思うに、この内面性、精神性が単に絵画だけでなく、文字言語に接するときも、なにかしら喚起されるのではないだろうか。
 言い換えると、存在、あるいは、身体、内的身体性の問題である。これは、物質的存在・身体のことではなく、精神的存在・身体のことである。(心精的存在・身体ということでもある。)だから、文字言語には、精神的存在・身体性があるのではないだろうか。そして、その面を強調したのが、書、カリグラフィーということになるだろう。「言霊」とは、音声言語ではなく、文字言語に存するのではないだろうか。
 視覚文化が言われるが、ここから言うと、疑問である。視覚とは、本来、精神性があると考えられるからである。つまり、今日の視覚文化とは、外的、物質的視覚文化ということが言えるだろう。結局、凸iが凹iに対して、支配的になっているから、そのようになると言えよう。同一性主義、マテリアリズムの支配である。
 話題を飛躍させると、資本主義も、同一性主義/マテリアリズムに支配されていて、精神性を喪失していると言える。資本的生産には、知恵が必要なのである。多様なものを結びつける知恵が必要なのである。それは、Media Point的な知恵である。しかしながら、資本主義の、いわば、出口は、同一性である交換価値が支配するのである。つまり、内部は、精神的でありながらも、出口は物質的であるという絶対的矛盾が資本主義にはあり、その外側の同一性が結局、支配的になり、近代の惨状を作り出したと言える。そして、リーマン・ショックとはその最終的帰結である。質的価値・精神的価値が量的価値・物質的価値に支配されたのである。
 結局、差異は光であり、同一性は闇であり、両者のゾロアスター教的闘争が今日生じていると言える。しかしながら、今日の光は外的光、物質的光、暗い光となっているのである。内的光、精神的光、明るい光を喪失しているのである。つまり、光は闇となり、闇が光というパラドクシカルな状況にあるのである。(「きれいはきたない、きたないはきれい」『マクベス』の魔女の言葉。また、D. H. ロレンスのdark godやdark sunは、この側面から理解されるべきであろう。つまり、内的神、内的太陽ということである。ちなみに、外的神とは、イエス・キリストを指すと言えよう。可視的な神である。)
 結局、トランス・モダン経済とは、精神主導的経済ということになるだろう。心精的経済である。多元的差異共立体としての新経済である。つまり、差異価値が評価される経済である。資本家よりは、知恵ある経営者、知恵ある勤務者が、評価されることになる。
 また、差異共立体なので、地域共立体の構築にもはたらきかけると言えよう。
 思うに、とまれ、地域共立体は、経済共立体と行政体との共立を基盤にもつことになるだろう。
 ということで、差異共立資本、共立資本ということが考えられてくる。思うに、差異共立銀行が形成されるだろう。貨幣・通貨は差異共立貨幣・通貨となるだろう。
 ここで思いつきであるが、例えば、貨幣を凸iとし、商品を凹iとしよう。つまり、貨幣価値を凸iと、商品価値を凹iとするのである。具体的に言えば、千円ではなく、千凸i円であり、本は千凹i円の価格がついていて、両者が共振して、千円が発生するのである。即ち、

1000凸i円貨幣*1000凹i円本⇒+1000円

となる。
 そして、凸i円や凹i円では、虚数価値なので、現実性がないのである。ただ、ポテンシャルな価値に過ぎないとするのである。だから、企業評価は、資本金いくらではなく、どれほど、差異共振をして、現実的価値を生み出したかになるのである。
 一億凸i円という資本金があっても、それは、ポテンシャルな価値であり、企業の現実的価値ではないということになる。
 だから、差異共立体とは、差異共振的現実主義に基づくことになる。差異共立体という価値を形成した場合、それは、特別評価されて、減税対象となるとしたらどうか。
後で、検討を続けるので、ここで留める。

補記:東京弁は、外的音声言語だと思う。それに対して、地方言語は内的音声言語ではないだろうか。私は奈良県の吉野よりさらに南の地域で聞いた奈良弁は、内的音声言語というべきものであった。関西弁はそのような向きがあるが、今日、東京弁の影響を受けて、外的になっているのではないだろうか。
 ついでに、若者の音声言語であるが、聴くに堪えない、暴力的な音調となっている。文字言語教養の欠損症である。当然、教育の問題であるが、結局、唯物論教育を廃止すべきであるということである。あるいは、音声言語教育を止めるべきである。外的中心主義を廃止すべきである。物質主義的科学を乗り越えるべきである。美術教育や文字言語教育が必要である。結局、今日の若者の狂気は、唯物論教育を帰結である。
 言語教育を変革する必要がある。文字言語教養をつけるための言語教育が必要である。内的世界を形成するための教育が必要である。そう、内的教育である。そのためには、哲学教育や文学教育が必要である。

追記:日本の今日の歌謡の問題もある。内面性、リリシズムがまったく欠落して、利己主義的で汚い、酷い声になっているのである。
 日本復活のためには、脱唯物論、脱物質主義が必要である。それは、端的に、トランス・モダン化、トランス・モダニゼーション、トランス・モダン主義、越近代である。
 初めに、文字ありき。初めに、ヴィジョンありき。初めに、イデアありき。初めに視覚ありき。初めに光ありき。

追記2:以上の議論から、視覚が聴覚に先立つのである。とまれ、豊かな文字言語文化とは、豊かな視覚文化である。思うに、日本美術は、つまり、日本伝統美術はきわめて、巣すぐれているのに、どうして、日本の音楽はそれよりも劣るのだろうか。確かに、筝曲など、すぐれているが。思うに、どこかに、言語の「断絃のとき」があったと思われる。
 やはり、思うのは、江戸/東京の物質主義性である。悪魔が支配しているのである。だから、豊かな音楽が生まれないのである。
 とまれ、日本は視覚と聴覚の分裂・断層があると言えよう。これは、いったい何を意味するのか。精神意識の統一性の無さである。つまり、個の確立がないということである。
 精神が物質主義に抑えられているのである。個が自我に抑えられているのである。これは、江戸時代の封建体制が原因と私は考えている。
 日本の古典の文章は芸術的であるのに、現在の日本語・東京地方語は格式が低いのである。思うに、漢籍教養が喪失したからではないだろうか。漢字言語教養を喪失したからではないだろうか。文科省の国語政策がまったく間違っているのである。とりわけ、戦後の国語教育政策である。教養的文盲を生んでしまったのである。外的教育に偏し、内的教育を疎かにしたせいである。
 戦後の唯物論教育の総括が必要である。負け犬教育だったのである。国の魂を捨てた教育だったのである。新精神教育が必要である。
 端的に、日本の精神・心精とは何か。それは、光の心精である。光の霊性である。超越光の精神である。正に、東洋的霊性である。光という文字言語教養である。

「心とは山河天地なり、日月星辰なり。」道元『正方眼臓』の「即心是仏」

2007年09月25日 (21:54)

地球温暖化の問題は、結局、地球環境という特異性の問題を提起していると言えよう

地球温暖化の問題は、結局、地球環境という特異性の問題を提起していると言えよう。資本主義は交換価値=同一性を飽くことなく追求してきたのであるが、ここに来て、地球自然・宇宙環境という特異性に直面しているのである。つまり、同一性から特異性=絶対的差異へと視点を向けざるを得なくなっているのである。地球という身体という特異性が思い上がった資本主義に、いわば、逆襲しているのである。
 私は、これまで、同一性資本主義に対して、差異資本主義、差異共振共生資本主義を提唱しているが、これは、特異性としての差異を基盤とした「資本主義」であり、これから、企業が必然的に向かう経済システムであると考えられる。

Climate change spooks companies
A cyclist and a bus pass by the high rise buildings shrouded in a haze of smog, in Beijing
Investors want firms to measure and report on their carbon footprint

Ever more companies see climate change as a growing threat to their commercial interests, according to a study carried out on behalf of 315 global investors.

But others expect to benefit, says the Global Climate Change Report.

Investors want firms to quantify and disclose the likely costs and benefits derived from climate change.
"Increasingly, investors view good carbon management as a sign of good corporate management," said the head of the project Paul Dickinson.

"Our investors are using the quality of the disclosure as a very useful tool to assess how seriously a company is taking the issues of climate change."

US President Bill Clinton will be among the speakers as the Global Corporate Climate Change Report is launched in New York on Monday.

In addition to quantifying how climate change might affect their companies, many are also putting in place mechanisms to reduce their greenhouse gas emissions.

"A majority of firms recognise the financial and reputational benefits of improved carbon performance," the report said.
Nevertheless, "there is still a minority of companies who are not engaged in the issues of climate change", it added.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/business/7006451.stm

Man causing climate change - poll
Dry reservoir in Cyprus - 09/08/2007
Climate change is causing erratic weather around the world
Large majorities in many countries now believe human activity is causing global warming, a BBC World Service poll suggests.

A sizable majority of people agreed that major steps needed to be taken soon to address global warming.

More than 22,000 people were surveyed in 21 countries and the results show a great deal of agreement on the issue.
The survey is published a day after 150 countries met at the United Nations to discuss climate change.
http://news.bbc.co.uk/2/hi/in_depth/7010522.stm

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「シロアリの腸内共生生物の酵素を利用」して、バイオエタノールの原料の糖を作るという発想が意外性があって面白い。シロアリ、それも、腸内共生生物というから、実に、共生的資本主義に通じる発想だと思う。

脱石油めざし、多様な技術開発進む
取材・文/岸上祐子
2007年9月13日(木)公開
シロアリの腸内共生生物がバイオ燃料を創る

 農水省など6府省による国家戦略であるバイオマス・ニッポン総合戦略。その外部有識者による推進アドバイザリーグループ委員でユニバーサルデザイン総合研究所所長の赤池学氏が大きな期待をかける新技術がある。シロアリの腸内共生生物の酵素を利用し、植物の主成分であるセルロースからバイオエタノールの原料となる糖を作り出す技術だ。

http://premium.nikkeibp.co.jp/em/report/20/

2006年10月01日 (20:41)

通貨・貨幣の問題:同一性通貨と差異共振シナジー通貨

通貨・貨幣の問題:同一性通貨と差異共振シナジー通貨

テーマ:差異資本論

『海舌』氏は、以下のように述べている。

「日本・中国・韓国は早急に銀本位制を検討するべきだ。

日本・中国・韓国は早急に銀本位制を検討するべきだ。
基本的にアジアの通貨の原点に回帰するべきである。」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=456534

そして、当記事のTBを私が以前書いた「貨幣と欲望と差異:他者の構造とポストモダン」http://ameblo.jp/renshi/entry-10009721808.html#t10013102309
に送っていただいた。

『海舌』氏の言明と私の論考を併せて見ると、私の論考を補足して、あらためて通貨・貨幣問題を、ここで考察する必要があると感じたので、簡単ではあるが、再検討したい。
 私の先の論考は、貨幣は、同一性構造と結合して、金融資本主義を形成しているのであり、ポストモダンを進展させるには、不連続的差異・特異性・単独性へと前進する必要があるというようなものであった。結局、プラトニック・シナジー理論の差異共振シナジー様相へと、「資本主義」を進展させることを示唆していたと言えるのである。そのときの契機が、不連続的差異・特異性・単独性の選択である。これは、概念・観念的には、その通りなのであるが、私は、それと、実経済とを結びつけられずに述べただけであったのである。頭では、不連続的差異性を選択して、同一性構造資本主義からの脱却を説いたのであるが、その、不連続的差異論的「資本主義」における通貨・貨幣については、言及できずにいたのである。
 その理由は、『海舌』氏が銀本位制ということに言及していることから、今理解できるのである。つまり、私は、通貨・貨幣を同一性構造のみのものとして考えていたので、不連続的差異・特異性・単独性としての通貨・貨幣を考えつかなかったからである。(思えば、地域通貨やゲゼルの消滅貨幣は、そのような資格があるとは思うが、それは、補完通貨としてであり、基軸通貨としてではないのである。)
 私が上記の論考で考えたのは、不連続的差異の共立する「資本主義」経済である。そして、それは、今、プラトニック・シナジー理論で言うと、差異共振シナジー的「資本主義」経済ということになる。そして、これは、あくまで、観念・理念的なものに留まっているのである。ただ、資本家の「精神」的様態が要求されるという当為に終わっていたのである。いわば、実践理性主義に留まっていたのである。
 しかし、『海舌』氏の東アジアにおける銀本位制という発想は、この壁を突破するものである。私が通貨・貨幣を同一性構造と考えたのは、交換価値の同一性構造からである。これは、マルクスの価値形態論である。あるいは、ヘーゲル哲学の理性論である。あるいは、カントの超越論的形式論である。ここには、差異、不連続的差異、特異性、単独性がないのである。そして、貨幣・通貨は本質的にそのようなものと思い込んでいたのである。
 しかし、「東アジア共同体」の銀本位制という概念を見ると、銀本位制という貨幣・通貨制が、同一性構造を突破していると言えるのである。何故なら、銀という量があるが、その量は特異性となるからである。つまり、特異性によって規定された通貨・貨幣であるということになるのである。そして、「東アジア共同体」ということで、これは、不連続的差異の共立する「資本主義」経済、ないし、差異共振シナジー的「資本主義」経済になりうるのである。銀本位制という特異性=不連続的差異が共振する「資本主義」経済のデュナミス(可能態)がここには発現していると見ることができそうである。後で、さらに検討したい。



参考:
銀本位制
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銀本位制(ぎんほんいせい)とは、ある国の貨幣制度の基礎となる貨幣 、すなわち本位貨幣を銀貨 とし、その自由鋳造、自由融解、強制通用力を認める制度を指す。

この場合、ある国の通貨は一定量の銀 の量で表すことができ、商品の価格も銀の価値を標準として表示される。

実際には、銀のみを法的に本位貨幣とする純粋な銀本位制の例は、歴史上あまり多くない。日本の江戸時代においても、東日本で主に金貨 、西日本で主に銀貨、そして補助貨幣として銭 という制度が施行されていた。このように、銀貨と金貨を共に本位貨幣とする制度を金銀複本位制という。

しかし、この金銀複本位制が形骸化して銀貨のみが流通し、事実上の銀本位制度となる場合が少なからず見られる。一例として、19世紀 、ヨーロッパ諸国の多くも金銀複本位制を採っていたが、銀産出高の増加などにより銀の市場価格が下落、金貨との法定比価との間に開きができた。この場合、銀貨を流通させて金貨を退蔵した方が有利な為(グレシャムの法則 )、なし崩し的に事実上の銀本位制となった。

この時期の銀の市場価格の変動は大きくまた下落傾向が顕著であった為、そして、その当時世界経済の主導的地位を占めていたイギリス が既に金本位制 に転じていた為、銀本位制諸国は深刻な影響をうけ、19世紀の終りにはほとんどの国が金本位制に転じた。

日本においては1871年 5 月に「新貨条例」を制定し、形式上は金本位制が採用された。しかし、当時は東洋市場においては銀貨による対外支払いが一般的であった為、1円銀貨(量目は 416グレイン)ならびに、当時のメキシコドルに相当する420グレインの量目の貿易銀を発行し、貿易などの対外支払用貨幣として使用した。

1878年 には1円銀貨の国内一般通用が認められ、事実上の金銀複本位制となったが、金貨の流出と政府不換紙幣の大量発行によって、金貨はほとんど流通しなくなった。さらに松方デフレ 後の1886年 には、初の日本銀行券 (大黒図案の100円、10円、5円、1円の兌換銀券)による銀兌換が開始され、1897年 に正式に金本位制を採用するまで、事実上の銀本位制が継続した。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E6%9C%AC%E4%BD%8D%E5%88%B6 " より作成

カテゴリ : 通貨制度 | 経済史





銀貨
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2004年にアメリカで発行された銀貨
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2004年にアメリカで発行された銀貨

銀貨 (ぎんか)とは、銀 を素材として作られた貨幣 をいう。 古来、金貨 ・銅貨 とともに世界各地で流通した。

銀本位制 下では銀貨は本位貨幣として、自由鋳造、自由融解が認められた無制限法貨であった。その代表的な物に、アメリカ の1ドル銀貨、香港 の1ドル銀貨、フランス の5フラン銀貨、メキシコ の8レアル銀貨などがある。日本でも、明治時代には諸外国との貿易決済用に一円銀貨 が発行されていた。

現在でもフランス語 では、お金 を指して「銀」(アルジャン、argent)と言い、日本語でも銀行 、路銀などの言葉で、「銀」にお金の意味を持たせている。

日本では、飛鳥時代 に無文銀銭 と呼ばれる貨幣の形態をした銀地金が貨幣の代わりに流通したと言われており、日本最古の通貨 と言われている「和同開珎 」も銅銭 よりも先に銀銭 が発行されている。これ以降250年の間に、律令国家は、12種類の銅銭と2種の銀銭と1種の金銭を発行した。江戸時代 に丁銀 、豆板銀 といった秤量銀貨が、主に西日本で流通した。だが、南鐐二朱銀 の発行以後、額面表記銀貨への移行が進み、江戸時代末期には、五匁銀 、二朱銀 、一分銀 など、額面表記銀貨も発行された。

現代社会において、銀貨は最早流通用の物ではなく、ほとんどが収集家向けに特殊な仕上げ(プルーフ加工)をしたり、ケースに入れたりして販売されている。また、一部に地金型の銀貨も存在する。日本では、平成の時代に入ってからは、1,000円、5,000円の記念銀貨が収集家向けに発行されている。また、2005年には初めての記念500円銀貨も発行された。

銀貨の品位(純度)は、古来より様々であり、日本では明治時代の50銭から5銭の補助通貨が80%、一円と貿易銀の本位銀貨が90%であった。また戦後発行された100円銀貨は60%であった。外国には、オランダの1グルデン銀貨(1917年まで、品位94.5%)などの高品位銀貨が存在したが、一般的に本位銀貨は90%(SV900)を使用するケースが多く、コインシルバーと呼ぶ。また、英国の銀貨は伝統的に92.5%(SV925)の品位で作られており、これをスターリングシルバー と呼ぶ。
ウィキメディア・コモンズ に、銀貨 に関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8A%80%E8%B2%A8 " より作成

カテゴリ : 硬貨 | 貨幣学





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Silver coin
From Wikipedia, the free encyclopedia
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Silver coins are possibly the oldest mass form of coinage .
Contents
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* 1 Collector coins
* 2 Bullion coins
* 3 Silver rounds
* 4 See also
* 5 External links

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Collector coins

Many factors determine the value of a silver coin, such as its rarity, age, condition and the number originally minted. Silver coins coveted by collectors include the Denarius and Miliarense .
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Bullion coins

Other than collector's silver coins, silver bullion coins are popular among people who desire a "hedge" against currency inflation or store of value . Silver has an international currency symbol of XAG under ISO 4217 .

American Silver Eagle


Canadian Silver Maple Leaf


Chinese Silver Panda


British Silver Britannia

Major silver bullion coins include (major in terms of the number in circulation):

* American Silver Eagle (from 1986)
* Canadian Silver Maple Leaf (from 1988)
* Australian Silver Kookaburra (minted by the Perth Mint from 1990)
* Australian Silver Kangaroo (minted by the Royal Australian Mint from 1993)
* British Silver Britannia (from 1997, proof version only. Public issue from 1998)
* Chinese Silver Panda (from 1983)
* Mexican Silver Libertad (from 1982)

Minor silver bullion coins, or commemorative coins , include:

* New Zealand Silver Kiwi (from 2004)
* Isle of Man Silver Cats (from 1988)
* Zambia Silver Elephant (from 1999 - 2003)
* Gibraltar Silver Dogs (from 1991 - 1997)
* Russian Sable

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Silver rounds

Privately minted silver coins are known as silver "rounds" and silver "bars", which usually have a set weight of 1 troy ounce of silver (31.105 grams of 99.9% silver). These carry all sorts of designs, from assayer/mine backed bullion to engravable gifts, automobiles, firearms, adult-oriented, armed forces commemorative, holidays, etc.
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See also

* Gold coin
* Millesimal fineness
* Silver as an investment
* Store of value
* Precious metal

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External links

* Silver Coin Pictures

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Categories : Bullion coins | Coins | Silver coins


2006年04月02日 (00:33)

イデア界における不連続的差異の共立構造について:不連続的差異直立力学としての多元的共立倫理性

イデア界の不連続的差異・イデアの共立とは、どういうことか。差異の内在的十字原力が、超光速で、多者の差異をキャッチ(直覚)するのではないか。ライプニッツのモナド論では、相互反照があるが、反照ではなくて、直覚だと思うのである。即である。いわば、即覚である。分立しながらも、他者を直覚・即覚するのである。一種、他者に成ると言ってもいいかもしれない。これは、一致ではないし、同一性でもない。自己差異が、他者差異になるのである。化するのである。他化である。これが、共立の意味ではないだろうか。不連続的差異はそれ自体として存しつつ、他者の差異に化する、他化するのではないのか。これは、不思議な事象ではある。「私」が「私」でありつつ、他者へ転化、他化するからだ。これを、自他一致と考えていいのか。そうではないと思う。他化しても、自己は自己なのである。だから、自己における自他並存であろう。これは、一見、最初の1/4回転におけるゼロ化・ゼロ度の様相に似ているかもしれない。しかし、ゼロ化とは、一種の結合を意味するのであるから、ここでの、自他並存とは異なると言えるだろう。自他並存は、ゼロ化ではない。自己はゼロになっていない。自己が自己でありつつ、他者に化しているのである。
 いったいこの事態は何だろうか。不連続的差異であるとき、それは、他の不連続的差異と成る・化するのである(化成と呼ぼう)。イデアの他者化成である。これは、A且つBである。A且つ非Aである。これこそ、絶対矛盾的自己同一ではないのか。私が私でありつつ、他者であるという事態なのである。差異1が差異1でありつつ、差異2である。つまり、現象界とはまったく違う意味で、差異1=差異2となるのだ。正確に記述すれば、差異1≠&=差異2である。これは、自己多元性とも言えるだろう。差異多元性。ドゥルーズが、イギリスの小説家ヴァージニア・ウルフの言葉を引用して、「私」の複数・多元・無数性を述べていた。とまれ、ここで、自己多元性、差異多元性を作業仮説しよう。だから、イデア界は、不連続的差異・イデアの自己多元性・差異多元性が存するということになるだろう。これが、共立性であろう。
 とまれ、もう少し、丁寧に考えよう。不連続的差異は特異性であり、己に徹するのである。スピノザのコナトゥス(自己保存力)である。つまり、不連続的差異は、特異性・単独性である己を認識すると言えるだろう。この自己特異性・単独性の認識は、当然、他者認識にも作用するだろう。そう、他者への志向性はあるが、つながっていないのである。他者とは、連続していないのである。それぞれの差異が不連続に直立しているのである。(なにか、ルイス・キャロルの世界を想起する。不思議の国や鏡の国では、登場人物はつながっていないだろう。)私が共感性というのは、ここでの不連続的直立における心性にも関係するだろう。不連続的差異に対する関係心性である。西田哲学の、「個物の相互限定」に近いようなものがここにあるのように思う。つまり、不連続的差異の相互形成としての共感性である。不連続的差異倫理である。不連続的差異共立共感倫理である。不連続的差異の直立・共立から発生する倫理的多元性(共感性)がここにはあるだろう。イデア界の境界とは、この直立・共立性のことではないだろうか。とまれ、不連続的差異の直立から、多元共立性が発生すると言えよう。だから、差異が差異でありつつ、他者に化成するというのは、この直立から発生する他者肯定のことではないのか。「個物の相互限定」である。不連続的差異の直立から必然的に発生する多元的他者肯定が、共立性ということだろう。つまり、不連続的差異の直立とは、他者の不連続的差異を直立として見るのであり、そこで、直立相互の認識力学、即ち、共立倫理が形成されるのである。だから、不連続的差異の間主観性としての共立倫理である。そして、これが、生活世界、来るべき生活世界の様相であろう。複数の不連続的差異の直立力学、これが、共立の力学であると言えよう。

p.s. ここでは、まったく、微分=差異は問題外である。ここでは、ドゥルーズ&ガタリが『千のプラトー』で述べていたノマド的配分が問題になるように思う。不連続的差異直立の共立性のためには、複数の特異性を扱う「数学」が必要になるだろう。そう、複雑系でもあるだろう。ここでは、まったく一般論は成立しないのである。多元的特異性「数学」が構築されなくてはならない。不連続的差異1と不連続的差異2の共立力学と、不連続的差異3と不連続的差異4との共立力学はまったく別のものになるだろう。これは、不連続的差異多元主義である。これは、政治・経済で考えると一番分かりやすいだろう。国内の政治・経済ならば、国民の共立力学を考察しなくてはならない。また、国際的な政治・経済ならば、他国との共立力学を構築する戦略が必要である。例えば、アメリカ合衆国やソ連は、かつて、突出した超大国であり、覇権主義をもっていた。それに対して、共立力学は、冷戦や安保体制であった。しかし、現代、状況はまったく変化してしまった。この現状況また未来の構想によって、新しい共立力学が必要なのである。共立力学とは、基本的には、相互保存の力学であり、平和志向であることである。武力のための支出を削減する志向をもつと言えるだろう。そう、これまでの政治力学は、父権的な弱肉強食的な、二項対立的なもの、あれかこれかであった。つまり、同一性的二元論の政治力学であった。しかし、共立力学の視点は、それを乗り越えて、多元的共立性を志向するのであり、今日の多極主義のエポックにきわめて適切なものと言えるだろう。後で、この点をさらに検討したい。

2006年02月16日 (13:06)

倫理、共感性、近代的自我:日本「資本主義」、欧米資本主義、《イデア》資本主義

この問題は、ODA ウォッチャーズ氏が、述べていることと関係する。

《 これは、夢遊病患者が、まさに「現実」から「逃避する」と供に、「自分の想像上の『現実』」に「逃避する」という。二重の逃避を始めたことになる。》http://blog.kaisetsu.org/?eid=317032

即ち、近代的自我は、メディア界から1/4回転で捩れて、現象界化することによって形成されるのであるが、この捩れによって、排斥・隠蔽されるものが、倫理や共感性であると、これまで、私は考えてきた。
 しかし、いわば無意識として、倫理や共感性は《メディア》界に内在・潜在している。良心や良識の「元素」である。しかし、問題は、現象化した自我、近代的自我とは、利己主義であり、自己中心主義である。排他的である。悪魔的である。「狂気」である。仏教でいう色であり、無明である。(アポロンの神託の「汝自身を知れ」や仏教の解脱や神道の己を知るは、同一の教えである。万教帰一。)
 現象界の自我(近代的自我)とメディア界の良心との関係を見ないといけない。前者と後者は、パラドクシカルな関係にある。利己主義と倫理主義の二律背反性がある。近代的自我・近代的合理主義に徹すると、当然、《メディア》界に対する排斥・隠蔽が徹底化する。(これが、漱石の『こころ』や『行人』に描かれているものである。)
 問題は、近代的自我の傲慢化と独善化である。傲慢化は1/4回転ですぐ説明できる。独善化も1/4回転から発する。
 この点を細かく見よう。以前、連続・同一性化という言い方で、現象界の近代的自我を説明した。この観点は、メディア界から現象界への1/4回転によって、差異が排斥されて連続・同一性が自我を形成するということである。ここの力学は微妙である。メディア界において、不連続的差異と連続的差異が相補性を形成している。そして、連続的差異が不連続的差異を排斥・隠蔽するような形で、現象界化するのである。連続的差異は、ゼロ度共鳴によって形成されている。(ゼロ度共鳴とは共感性であると先に述べた。)このゼロ度共鳴=共感性=連続的差異が、1/4回転して、連続的差異に基づく連続・同一性という個体・近代的自我を形成するのだろう。この二回目の1/4回転で、不連続的差異が排斥・隠蔽されるのである。だから、近代的自我とは、個(個人主義)ではなくて、連続・同一性的個体である。それは、その個体のもつ観念と連続・同一性化しているのである。ここでは、共感性が自我と結合しているのである。この共感性と自我との結合が、ナルシシズム、自己中心主義、自己完結主義を生み、ODA ウォッチャーズ氏の説くような、現実から逃避して、想像上の現実へ没入する「夢遊病患者」を作るのだろう。
 ここで、排斥・隠蔽されているのは、不連続的差異=特異性=単独性であり、真の倫理である。先に述べた、メディア界におけるゼロ度共鳴=共感性は、現象界においては、反動となるのである。倫理にはならないのである。独善性となるのである。(この点について、すぐ後に検討する。)
この現象界における共感的連続・同一性的自我(近代的自我)が、近代主義の狂気・悪魔性をもっているのである。これが、ホッブズの説いた万人の万人に対する闘争を生むのである。そして、プロテスタンティズムとロックに始まる自由主義もここに発端があるだろう。そして、欧米による近代の暴力はここに拠ると言えるだろう。これは、自由主義とは利己主義の「自由」主義である。ここには、差異の「自由」主義はない。
 ここで、もう少し、細かく言おう。近代の問題は、デカルト哲学に典型的に現れていると考えられる。コギト主義である。コギトと近代的自我は、本来、別々のものである。コギトは、近代主義に排斥された不連続的差異・特異性・単独性を意味するのである。しかし、デカルトは、コギトと近代的合理主義・近代科学を結びつける。つまり、デカルトは、コギトと近代的自我を結びつけてしまったのである。ここに近代の混乱を生む原因があると言えよう。結局、自由主義は、近代的自我・利己主義に基づくのである。
 問題が複雑なのは、西欧近代が、イタリア・ルネサンスを半面としてもっていることである。イタリア・ルネサンスとは、一言で言えば、《メディア》の解放である。そして、当然、《イデア》界への接点が発生したのである。中世のフランスを中心とするルネサンスが、イタリアにおいて、大規模に開花したのが、イタリア・ルネサンスである。それは、中世のキリスト教的ヒエラルキーに排斥された「異教」・多神教の復権である。それは、《メディア》界の賦活であり、そのエネルギーの発動である。つまり、《メディア》の不連続的差異性と連続的差異性との相補性のエネルギーが発動したのである。つまり、一言で言えば、ルネサンスとは、《メディア》の開花である。
 西欧はこれを内在させつつ、プロテスタンティズムによって、排斥・隠蔽したのである。つまり、西欧近代とは、内在している《メディア》のエネルギーの賦活を、反動的に、《現象》化させて、排斥・隠蔽しているのである。このルネサンス/プロテスタンティズム、《メディア》/《現象》との内部矛盾が近代西欧を形成したのである。そして、西欧の資本主義もそうなのである。(アメリカの資本主義も、広義においてそのようなものと考えられるが、しかし、当然ながら、プロテスタンティズム・《現象》性が支配的、優勢である。)換言すると、個/自我二重構造的資本主義である。一方では、《イデア》を志向しているが、他方では《現象》を志向しているのである。民主主義は、本来、前者であるのに、自由主義によって、後者的にされている。ここには、曲解・捩じ曲げ・すり替え・欺瞞が発生するのである。《イデア》を《現象》にすり替えるのである。民主主義は、自由主義に利用されてイデオロギーとなるのである。(また、自由主義も捩じ曲げられていると思う。後で、検討したいが、本来は、ルネサンス・《メディア》から発している不連続的差異・特異性・単独性に基づくと思うのである。)
 ということで、西欧近代、資本主義のもつ分裂的二重構造が明らかになったと言えよう。これを、ドゥルーズ&ガタリが指摘したのであり、まったく乗り越えにはならないのである。だから、マルクスの『資本論』が、資本主義内部の分析であるのと同様である。
 さて、ここで、日本現代資本主義を見ると、この分裂的二重構造さえ、喪失している「資本主義」である。つまり、《現象》化が極度になされていて、本来の《メディア》が排斥・隠蔽され、埋没されているのである。欧米には、欺瞞性があるものの、良識派には、本来の《メディア》があり、《イデア》性をもっていると考えられる。とまれ、西洋資本主義の分裂二重構造を考えると、日本「資本主義」は、資本主義ではないことになる。それは、父権・封建的共同体的「資本主義」であり、似非資本主義である。国家資本主義即ち社会主義である。日本社会主義である。マルクス・レーニン主義は、日本で実現したのである。自民党が共産党である。とまれ、現代日本の混迷はここにあると言えるだろう。グローバリゼーションは、資本主義のプロテスタンティズム純化である。自由主義の純化である。しかし、ここには、やはり、個の発想が見なくてならないだろう。個としての自由主義である。企業を個とした自由主義である。この点で、やはり、グローバリゼーションは、《メディア》・《イデア》性をもっているのである。日本は、《メディア》・《イデア》が埋没して、《現象》的連続・同一性主義であり、資本主義の反動、社会主義になっているのである。 
 さて、問題は、グローバリゼーション、資本主義の自由主義的純化である。やはり、基本は、分裂的二重構造なのである。不連続的差異論から見ると、これは不徹底なのである。グローバリゼーションは、《メディア》の個の自由主義を説くものの、《現象》化=交換価値中心性を帯びているのである。つまり、自我、利己的自我の自由主義となっているのである。これを問題視しなくてはならない。《メディア》(=貨幣・資本)を、《イデア》化することが、資本主義に対する正答であると考えられる。不連続的差異的共立共創性という《イデア》をもつ資本主義である。これを、ポスト・グローバリゼーション=ガイアナイゼーションと呼ぼう。これは、地民衆主義である。地民衆資本主義である。不連続的差異的資本主義である。
 さて、長くなったが、ここで、自由主義について簡単に触れると、これも、分裂的二重構造をもつのである。ルネサンス/プロテスタンティズム、《メディア》/《現象》という分裂的二重構造をもつのである。不連続的差異論から見ると、《イデア》的自由主義が、統一的なのである。

2006年01月25日 (00:58)

自由主義と不連続的差異論:能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新へ向けて

私が、差異というとき、これは、個の自由ということとほぼ同じことである。そう、不連続的差異論は、一種自由主義である。しかし、通常の自由主義あるいは新自由主義とは決定的に異なる点をもつ。それは、差異の共存・共立・共生をも志向するからである。個の自由が同時に、個と個との共存であることを志向するのである。ここが、決定的に異なる点だと思う。
 イギリスそしてアメリカの自由主義は、簡単に言えば、近代的自我主義であり、個人主義だと思う。では、不連続的差異論から見たら、それは、どのように分析できるだろうか。これは、意外に難しい問題である。自我とは何かという問題があるからである。 
 まず、近代的自我であり個人主義的である自我が近代西欧に誕生する。これは、二重である。近代主義的であり、個人主義的である。しかし、デカルト的な合理的な主体というよりは、特異性をもった自我であると思う。つまり、不連続的差異論から見ると、自由主義の自我とは、不連続的差異性を帯びていると思われるのである。問題は、この不連続的差異の性質である。これは、先に二つのポストモダン(言わば、暗黒ポストモダンと光明ポストモダン)に述べたことと関連がある。即ち、反感的か肯定的かの違いが関係すると考えられるのである。二つの不連続的差異が存するということである。反動・憎悪・利己主義的不連続的差異と能動・歓喜・共生的不連続的差異である。ここまで、言うと、自由主義の自我がどちらであるか、ほぼ明瞭である。これは、前者でしかありえない。ニーチェ的に言えば、ルサンチマン的不連続的差異である。(おそらく、ホリエモン氏や小泉氏や竹中氏がこれである。)これは、極めて、破壊的な個人主義である。アナキストのシュティルナーの唯一者とは、ほぼこれに近いのではないだろうか。
 ということで、自由主義と不連続的差異論の「自由主義」の違いがこれで判明したと言えよう。前者は、イデア界から発しているものの、反動となった、いわば、凶暴な個人主義である。それに対して、後者は、イデア界に能動的に回帰した、差異共生共創的な個人主義である。前者は戦争主義であり、後者は平和主義である。一元論と多元論、一神教と多神教の違いとも言えよう。憎悪的であるか、歓喜的であるか。父権的あるか、母権的であるか。天上的であるか、大地的であるか、等々である。
 日本人は、戦後、USAの半植民地となり、アメリカ化した。それは、自我が反動・憎悪・利己主義を帯びたということである。本来、多神教の日本文化(ヤポネシア文化と言おう)は、差異共存主義の文化である。しかし、自覚乏しく、欧米化されて、自己を喪失しているのである。今、日本の政治・経済は大きく揺らいでいる。カオス状態である。結局、新自由主義的ポストモダン路線は、問題が多いのがわかる。これは、強暴な路線であり、他者を排斥するものであり、社会は荒廃する。確かに、新自由主義の小さな政府という理念は、「社会主義」的資本主義に対する処方箋の意味があることは否定できない。しかし、これは、いわば、副作用が大き過ぎるのである。社会をずたずたにするだろう。勝者と敗者の二極化が徹底するだろう。当然である。そして、今や、ライブドアや耐震強度偽装等で、そのダークさが誰の目にも明らかになったのである。
 今年は、戦後日本社会の一番の転換点となるだろう。アメリカの中国重視・多極化の政策という新たな黒船が来航しているからである。平成維新の可能性があるのである。ここで、ヤポネシア本来の文化の復活と、不連続的差異論が説く能動・歓喜・共生的ポストモダンの創造が、蓋然的になってきているのである。ポスト新自由主義としての能動・歓喜・共生的ポストモダン・ヤポネシア平成維新のエネルゲイアが、ふつふつと滾ってきていると思うのである。

2005年12月10日 (21:02)

資本主義の不連続的差異化へ:イデア界的資本主義:新黄金時代へ

資本主義の不連続的差異化へ:イデア界的資本主義:新黄金時代へ
テーマ:差異資本論
以下のアドルノの言は、いわゆる知識人的発想のものである。確かに、文化の商業化は今日起っている。 
 しかし、逆のことも言えるのである。近代的二元論、「もの」と「こころ」との二元論があり、「もの」中心の経済が近代的資本主義であった。しかし、こんにち、「情報資本主義」であり、それは、「こころ」が資本主義に入っているのである。つまり、文化が資本主義に取り入れられているのである。この点で、アドルノの言は、古いのである。不連続差異論から言うと、メディア界に資本主義が入っているのであり、また、さらに、イデア界にも入っていると言えるのである。つまり、資本主義は、不連続差異化してきているのである。現代資本主義は、イデア界・不連続差異的資本主義である。現代は、ポスト近代・ポストモダン革命の最中である。相転移期である。(今日のような悲観的時代ではあるが、私は、夢想的に、新黄金時代と呼んでいるが、それへと向っていると考えられる。)
 結局、不連続的差異論革命の最中である。イデア界が、人々に回帰しているのだ。だから、新自由主義的力の路線と相補の差異共存共生共創主義が生まれるはずである。後で、もう少し、詳述したい。

p.s. 新自由主義でさえ、それとも、だからこそと言うべきか、斬新な創造的企業が必要であるが、創造性は、イデア界から生まれるのである。そして、それが、メディア界化・想像力化されて、実現していくのである。創造的企業内において、不連続差異化が起きているのである。しかし、これは、力の側面においてである。もう一つは、共存的側面で、不連続差異化が起ると言えよう。

参照:『心の起源 生物学からの挑戦』木下清一郎著 中公新書
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/
4121016599/250-7564220-6771446


 
以下引用。_____________________________________ 
----------------------------
自由主義時代を通って、文化は[資本]流通の領域に落ちた。
そして今、流通領域の漸進的壊死は文化そのものの生命中枢に
及んでいる。

十分に計算された産業の配分装置による商業とその非合理的潜
伏地の除去にともなって、文化の商業化はナンセンスなまでに
完成される。

完全に束ねられ、管理され、大体耕作されつくしたものとして
、文化は壊死する。

テオドール・W・アドルノ「文化批判と社会」
『プリズメン』ちくま学芸文庫p20
渡辺祐邦・三原弟平訳、1996年2月7日第1刷発行
----------------------------


/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄/ ̄◆

PUBLICITY
No.1270(2005/12/10/土)

◆_/_/_/_/_/_/_/_/_/


「PUBLICITY」(パブリシティー) 編集人:竹山 徹朗
E-mail:freespeech21@yahoo.co.jp
blog:http://takeyama.jugem.cc/

※転送・転載自由です。ただ、転送・転載される時には、
登録申し込み先(↓)も必ず合わせて併記してください。
http://www.emaga.com/info/7777.html

2005年12月10日 (19:17)

資本主義経済の問題点:不連続的差異政治哲学と差異共生資本:共生支出と共生控除

商品経済とは何か。すべては、商品となるのか。近代的資本主義は、ユダヤ・キリスト教的であった。それは、憎悪主義的自我合理主義である。想像力・直観力を排除している。「もの」の経済であった。
 現代資本主義、ポストモダン資本主義、想像力・直観力資本主義において、「もの」と「こころ」がいわば融合化し、一如である。つまり、芸術化しているのである。コストと品質が重要である。品質が「こころ」である。
 問題は、コストである。価格とは何か。これは、基本的には市場主義的である。売り買いである。生産者と消費者の売買である。新自由主義理念は、市場の自由化である。それは、形式として認めよう。国家社会主義は、財政赤字や非効率性をもたらすからだ。
 しかし、新自由主義は、経済原理の問題であり、社会の問題とは切り離される。社会形成のための原理が必要である。それが、差異共存共創主義と考える。つまり、政治において、経済と社会との均衡を取る必要があるのである。D.H.ロレンスのアレゴリー哲学を借りれば、政治は、「王冠」であり、「獅子」である経済と「一角獣」である社会とのバランスをとる必要があるのである。新自由主義と差異共存共創主義(差異共生主義、略して、差共主義ないし共差異主義 condifferencism)とのバランス・均衡がなくてはならない。結局、新自由主義は、経済原理に過ぎず、社会原理ではないのである。  
 この「王冠」哲学とは、政治哲学となる。これは、不連続的差異論的政治哲学である。不連続的差異論は、経済的には新自由主義を肯定するだろう。しかし、他方、社会的には、差異共生主義(差共主義)を肯定するのである。
 思うに、差異共生主義的な企業がこれから、注目され、また、評価されるだろう。差異共生主義的企業が、市場でも評価されるであろう。
 とまれ、差異共生主義社会のための、資本が必要である。これは、どこから得られるのか。差異共生資本はどこから得られるのか。後で、検討したい。

p.s. 共生主義的資本主義があるはずである。憎悪・他者排除的資本主義とは別に。地域活性化には、共生主義的発想が必要だろう。利己主義的資本主義では、地域零落となる。地域共生主義的資本主義である。

p.p.s. 新自由主義と差異共生主義とのバランスを取るには、このための政治理念・戦略が必要である。不連続差異政治哲学ではあるが、戦術として、差異共生主義のための資本を提供する企業にその分控除するのである。共生控除である。ここから、差異共生資本が捻出されるのである。共生主義が、これで、生命・血を得ることになろう。新自由主義と差異共生主義との結合である。「王冠」結合である。

2005年11月05日 (06:11)

対立物の一致:知=愛=力:超資本主義へ向けて

普通、知性、愛・共感性、力を別のものとする。
それは正しい。
しかし、この三位不連続性が、実は、一体となったときが、
最高・至高・究極の状態だろう。
父・子・聖霊の三位一体とは、そのような意味があるのではないか。
力・愛・知の三位一体。
これは、イデア界の超叡知であろう。
不連続的一体である。
そう、先に、考えていた不連続的差異の調律とはこのことではないか。
資本主義は、そのようになるだろう。
超資本主義である。
力と愛と知の三位一体としてのスーパー・キャピタリズム。
連続主義・近代主義的な政治経済社会文化は、淘汰される。

p.s. 角界で言われる心技体も、このことと共通だろう。
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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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