2008年07月03日 (02:15)

唯物教育の終焉とトランス・モダン教育:イデア・エネルギーとPS理論

私自身のことを考えると、戦後の唯物教育を受けて、精神を疎外することになったと思う。それは、生のエネルギーの枯渇を意味するのである。それは、また、ニヒリズムを生じさせるのである。
 今日の日本人の学力低下や日本総体の劣化は、確実に、戦後唯物論の帰結であると考えられるのである。唯物論は、精神を滅ぼす考え方であり、端的に、悪魔的な思想である。これは、自滅・自壊的な思想であり、これを乗り越える必要があるのである。
 私は神道の復活を唱えているが、結局は、イデア・エネルギーを心身に取り込むことを意味するのである。あるいは、Media Pointを知的に開放することを意味する。即ち、Media Pointを心身において開くことにより、差異共振エネルギーであるイデア・エネルギー(コスモス・エネルギー)が流入し、心身が賦活すると考えられるのである。
 学力は、この流入したイデア・エネルギーによって、向上すると考えられるのである。このイデア・エネルギーを取り込む技法に関しては、東洋は豊饒である。そう、「気」とは正に、イデア・エネルギーであると考えられる。(電磁波の本体もこれであると考えられる。これについては、後で検討したい。)
 また、今日蔓延する心の病であるが、これも、私見では、戦後唯物論の帰結である。イデア・エネルギー(生エネルギー)が枯渇しているので、心身が衰退していると考えられるのである。日本人は、疾く、戦後唯物論から脱出すべきである。
 イデア・エネルギーは、いわば、宗教エネルギーと言えるが、しかしながら、知的に捉えるならば、イデア・エネルギーと言うのが正しい。
 おそらく、イデア・エネルギーを取り込むための問題点は、そのエネルギーがあまりにも強力であるため、あるいは、物質的知性にとって、あまりにも異質であるために、一般に、知性が混乱させられる点ではないだろうか。
 そう、宗教、信仰へと救いを求めるのはいいとしても、問題は、知性を麻痺させて盲信、狂信する点が問題なのである。そう、今日、必要なのは、いうならば、知的宗教、知的信仰であろう。知性なき宗教、信仰は邪道である。
 思うに、知性の鍛練が、イデア・エネルギーを取り込むための大前提となるだろう。そのためには、哲学が必須である。哲学は本来、感性を包摂する形式の知性を探求する学、プロト学知である。そこには、論理学や数学的知性も関係する。
 とまれ、哲学は、学・知性の根本である。ここを鍛えないと、イデア・エネルギーを知的に取り込むことはできず、返って、大変危険であると言わなくてはいけない。そう、ここには、スキュラとカリュブデスの危険があると言えよう。一方では、新興宗教的盲信であり、他方では、オカルティズムである。(ただし、宗教やオカルティズムは、批判的に見れば、叡知が隠されていると考えられる。)
 思うに、19世紀後半から20世紀全体にかけての、哲学的問題の核心は、イデア・エネルギー(認識存在エネルギー)にあったと思われるのである。それは、プラトニック・シナジー理論から見ると、トランス・モダンを志向していたと考えられるのである。
 ポスト・モダン哲学は、トランス・モダンの志向の一つの試論であったと考えられる。しかしながら、フッサールの捉えた超越性(超越論的主観性)を否定してしまったために、ポスト・モダンは行き詰まってしまったと考えられるのである。
 これを打破したと自負するのが、不連続的差異論であり、また、そこから深化したプラトニック・シナジー理論である。この理論により、イデア・エネルギーと物質との関係が解明されたと考えられるのである。これによって、唯物論が乗り越えられたと考えられるのである。Kaisetsu氏による数学化によって、イデア論的科学が生まれたと言えるのである。これは、トランス唯物論である。(これによって、量子論は、イデア論的量子論となったと考えられるのである。)
 結局、プラトニック・シナジー理論は、知的な、合理的な、イデア・エネルギーの取り込みを可能した理論と考えられるのである。このトランス知性によって、安心して、イデア・エネルギーを心身に取りこめることができるのである。とりわけ、本理論は、日本人にとって、福音となるはずである。
 神道的源流を忘れた亡国日本人は、これによって、自身を再発見するだろうし、現代の大危機的状況を乗り越える知を得ることになろう。聞く耳を持つ者は聞くがいい。

2008年03月26日 (08:25)

イデア論と宗教:知と信仰:イデア論と仏教の接近:トランス宗教としての新イデア論

先に述べたように、私は超越エネルギーを神として捉えている。そして、超越エネルギーとはイデア・エネルギーである。だから、超越エネルギー=神=イデア・エネルギーである。
 だから、イデア論は、宗教論でもあるのである。そして、宗教が信仰の次元とするものを、イデア論は知性の対象とするのである。(もっとも、仏教は信仰宗教ではなくて、知性的宗教である。)
 理念(イデア)化による知性化は、トランス宗教の面があるだろう。だから、イデア論と宗教では、微妙な差異があるのである。神観念を知性の対象とするのは、宗教側から見たら冒瀆に見えるだろうが、それが、イデア論のいわば強みである。
 これは、いったい何を意味するのだろうか。合理性・知性を保持したまま、超越エネルギーの感性を肯定することではないだろうか。決して、信仰を否定するのではなく、根源的受動を基礎とする知的態度である。そう、信仰の基礎である根源的受動をもちながら、それをイデア(理念)として、知性化する行為である。つまり、トランス宗教性である。超越論的宗教である。
 宗教をイデア化することで、宗教のドグマを脱することができるのである。そう、宗教の独善・独断・狂信性等を解体するのである。簡単に言えば、宗教の知性化である。だから、知性・認識・叡知宗教である。
 そして、直感では、この叡知宗教は、仏教につながるのである。つまり、イデア論と仏教の接近がもたらさせるのである。

p.s. 仏教であるが、思うに、信仰を中心とする心的態度を宗教とするならば、仏教は宗教ではない。何故なら、仏教は、解脱や悟り等の認識を中心化しているからである。だから、仏教は、仏陀哲学と言うべきものだろう。その面から、イデア論と通じると言えよう。
 では、信仰とは何か。私は根源的受動性を言うが、それが信仰の原因である。つまり、根本的信仰性、ないしは、原信仰性があるのである。言い換えると、原宗教性である。それを私は否定しない。
 しかしながら、ここから、それぞれ、信仰を中心化する宗教と、叡知を中心化する哲学の二通りの心性が発生する。
 近代合理主義/近代的自我に積極的な意味があるとするなら、一つは、自我知主義を形成したことであろう。思うに、ここから、螺旋的に、原宗教性に回帰できるのである。それは、仏陀哲学・イデア論的になると考えられる。
 だから、トランス宗教としての根源哲学(仏陀哲学・イデア論)が必要であると考えられる。
 いわゆる、信者たちであるが、それは、苦に対する癒しを宗教に求めていると思うが、問題は、苦とは、本質的に、個であり、差異であり、特異性であり、一般的な救済はないのである。そこを忘れて、一般的な救済を求めて、宗教へと向かうのは、誤りである。それは、認識的誤謬である。ただ「私だけの」神がいるだけである。この意味で、神は唯一神である。そして、唯一神が多数・複数存することになるだろう。しかしながら、結局、この多数・複数の唯一神が、共鳴化すると言えよう。
 言い換えると、特異性唯一神(複数)が共鳴する新多神教が生じるだろう。特異性としての神。それは、信仰の対象ではなく、心的現象化するのである。ヌミノーゼである。原神。原宗教。だから、正しくは、特異性としての原神(ヌミノーゼ)である。そして、これが、超越エネルギーである。
 だから、簡潔に、超越エネルギー(ヌミノーゼ)を対象とする哲学として、イデア論があると言えるだろう。超越エネルギーを神として、普遍化したのが宗教である。しかし、PS理論は、それをイデア論化するのである。知性化するのである。だから、トランス宗教・脱宗教の立場である。
 
p.s. 精緻に言えば、個・差異・特異性の「神」とは、内的に深化して、差異共振エネルギー(超越エネルギー)へと発達するだろう。ここにおいて、多数・複数の「単独神」は、普遍共通的(キルケゴールの普遍という意味ではなく)になると言えよう。特異性が普遍性へと発展するのである。そう、この特異性に基づく普遍性とは、一般的普遍性ではなく、超越的普遍性である。ここがキー・ポイントである。
 そして、この超越的普遍性こそ、超越エネルギーであり、イデアである。これが、一神教の根因であろう。原一神教である。ヤハウェは、これを連続化・同一性化したものだろう。
 ならば、エローヒーム(神の複数)とは何だろうか。多神教の名残なのか。今の私の解釈として、それは、差異共振性の「太極」を意味するように思う。陰陽論的多様性ないしは多元性である。
 想像するに、三柱の神とエローヒームは通じるのではないだろうか。ある神社にダビデの星のシンボルがあるということであるが、それは、考えられる。ダビデの星とは、正に、陰陽(太極)性を意味すると考えられるからである。
 とまれ、ついでながら、やはり、一神教はMedia Pointの陽化であると思う。陽化の神がヤハウェであり、Media Pointはエローヒームなのだろう。そして、必然的に陰化があるだろう。それが、イエス・キリストの意味かもしれない。ここで思考実験であるが、ヤハウェが+iならば、キリストは-iではないだろうか。しかし、両者はそれぞれ、極限である。あるいは、極性である。両極である。
 これを一元化するのは、誤りである。父と子は極性である。陰陽である。そして、両者の調和があるだろう。それが聖霊だろう。それが、Media Pointであろう。調和の霊としての聖霊、Media Pointである。(参照:ヴィヴァルディの『調和の霊感』)
 どうも、父と子の対極性とは、父権原理だと思う。それに対して、聖霊は母権原理だと思う。差異共振原理である。
 どうも、今日、これが発現していると思えるのである。父の原理が自由主義で、子の原理が民主主義ではないのか。聖霊が差異共振原理なのである。ヨアキム主義、聖霊の時代である。
 先に、自由主義も民主主義も個人主義も多神教原理に基盤があると言ったが、自由主義や個人主義は一神教原理に拠るだろうし、民主主義は多神教原理であろう。
 (脱線を続けるが、)今日、両者が衝突しているのである。新自由主義と共同体主義の衝突である。
 結局、調和として、差異共振原理が生起するのである。これは、自由主義(一神教)と民主主義(多神教)の超越的調和を意味する。Media Point原理である。トランス・モダン原理である。

2007年12月25日 (18:06)

ユダヤ・キリスト教の父なる神ヤハウェは太母を排斥した:最勝超至高プラトニック・シナジー理論

後で詳述する予定だが、創世記に書かれているヤハウェが排斥したバアル崇拝やアシェラ崇拝は、古代中近東の「異教」・女神信仰・太母宗教であったのであるが、その排斥は他の東洋の宗教、世界の土着的な宗教を否定することになったのである。ここにオリエンタリズム等の西洋中心主義の土台が築かれたと言えよう。ここに西洋文明の諸悪の根源があると言わざるをえないだろう。これは、西洋神話の聖ジョージの龍殺しと通じるのである。龍とは端的に、太母・大女神である。東洋はこれを肯定してきたのである。正反対の文明が生じたわけである。
 これまで、考察したように、キリスト教は、ユダヤ教が否定した太母・大女神宗教の一部を取り入れた、それをユダヤ教的父の神の支配においたのである。太母の息子の一人のイエスは、父の独り子とされたのである。カトリックはいわば、この進展であるが、父のヒエラルキーを残したままの折衷宗教である。
 結局、ユダヤ・キリスト教は世界普遍的な太母・大女神宗教を抹殺していったと言えるのである。それはとりもなおさず、西洋文明の世界支配を意味するのである。そして、今日、超貧富格差の世界固定化、自然の破局的破壊、心の破壊等を行なっているのである。
 しかしながら、今や、ユダヤ・キリスト教を形成した同一性エネルギーが枯渇して、差異エネルギーが賦活されていると考えられるのである。それは、排斥された太母・大女神宗教の復活を意味すると考えられるのである。ポスト・ユダヤ・キリスト教西洋文明、すなわち、新「東洋」文明の黎明をむかえていると考えられる。
 プラトニック・シナジー理論が新しい文明を主導する理論となるだろう。

参考1:西洋文明が太母文明を抹殺する狂気・暴力については、D.H.ロレンスの名著の一つ『アメリカ古典文学研究』における、メルヴィルの『白鯨』におけるエイハブ船長が白鯨を偏執狂的に追跡する事態の解明に説明されていると言えよう。「白鯨」が太母文明であり、エイハブ船長が西洋文明である。エイハブ船長はアメリカ合衆国国家の象徴である。
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%8F%A4%E5%85%B8%E6%96%87%E5%AD%A6%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-D-H-%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%82%B9/dp/4061976826/ref=pd_bbs_sr_1?ie=UTF8&s=books&qid=1198593615&sr=8-1

参考2:

「やや要約的な言い方になりますが、アメリカに来てからも彼は、すべてを大脳の管理下に置き、「意識化」することを善であるとするヨーロッパ文明の人間中心主義、ヨーロッパ独善主義を徹底的に批判し続けたのです。その批判の代表的な一例として、『アメリカ古典文学研究』におけるメルヴィルの『白鯨』の解釈があります。強固な大脳意識と強烈な支配欲に取り憑かれた白い人種の代表、エイハブ船長は黒い人種、黄色い人種、赤色の人種などを引き連れて「白鯨」を追いかけますが、彼らの船ピークォド号は「白鯨」によって打ち砕かれるのです。この「白鯨」を、ロレンスは、われわれ人間の「深奥にある血の本質」であると言っています。「血」とは、万物の中を流れる「命」であると考えれば分かりやすいかもしれません。そして最後にこの小説はすべての「命」をあくまで破壊し尽くし自分たちの意志の下に組み敷こうとする白い人種の終焉を予言する物語だと結論づけています。」
http://www.tenri-u.ac.jp/tngai/americas/files/newsltrs/23/special.html

アメリカと D. H. ロレンス

                   吉 村 宏 一

2006年12月05日 (07:12)

光認識は、何故優位になったのか:2

先に本件について検討したが、まだ問題が残っているので、再検討したい。
 ここで、仮定として西欧近代主義がなかった場合の人類社会を想定してみよう。当然、近代科学・技術・産業の物質主義的文明は発達しない。自然を物質化したことで、それらは発達したのである。思うに、ルネサンス的科学・技術・産業が可能であろう。コスモス的科学・技術・産業である。そして、コスモス的文化・経済・政治・社会が可能であろう。(私は、これを目指すべきだと考えている。)そして、コスモス的自己が誕生するだろう。そう考えると、西欧近代主義は、どうも、常軌を逸していると言わざるを得ないだろう。
 父権主義の暗さ、キリスト教の暗さがあるのである。闇を否定する故の暗さ・闇である。このように見ると、根本の父権神話に、古代における父権国家の検討に戻ることになる。母権神話から父権神話への移行。母権制から父権制への移行。狩猟採集・農業社会から、遊牧民の、それも、定住した社会へ。思うに、陰陽世界から、陽中心主義世界への変化である。この革命的変化は何なのか。ここに人類史の最大の謎の一つがあるだろう。
 何故、インド・ヨーロッパ語族(アーリア民族)は、中央アジアから、周辺へと移動したのか。気候変動に拠るのか。作業仮説として、彼らは、天神の文化民族であるとしよう。iの文化民族である。
これは、同一性暴力・支配の文化民族である。つまり、明らかに、陽エネルギーに傾斜した文化民族である。陽光の民族であり、暗黒を否定する。一種、ゾロアスター的である。しかし、私の直観では、陽光・光明とは、闇・暗黒から生まれるものである。夜明け・黎明・曙光である。イメージとしては、イシスの闇からオシリスの光が誕生するのである。輝かしい太陽は、イシスの闇・子宮・母胎から誕生するのである。(これは、日御子・「天皇」神話と共通であろう。)これは、母権神話である。問題は、いわば、オシリスがイシスから分離・独立することである。エジプトで言えば、ファラオー信仰である。太陽・日の独立とは何なのか。月と日との太極が解体しているのである。易経で言えば、陰から陽への転化である。陽へとすべてが、変じて、陰を否定するようになったということのように思えるのである。つまり、(-i)→iである。身体から精神への移行である。これは、革命である。身体の闇から精神の光へと転換したのであるから。これは、実質的な意味があると考えられる。この陰から陽への転換、これが、父権主義の意味だろう。そして、これが、究極・終極的には、西洋文明、西洋近代文明を形成したと言えるだろう。
 このような仮説に立つなら、西洋近代文明、近代合理主義の意味も理解できるだろう。つまり、人類史における陰から陽への転換の帰結であるということである。しかし、古代ギリシア文明、イタリア・ルネサンス文化のように、太極を保持する文化も形成されたのである。しかしながら、陽中心主義によって、それらは、破壊されたと言えるだろう。そう、一神教は明らかに、陽中心主義であり、キリスト教は本来、ユダヤ一神教に対する太極智のルネサンスであろうが、それも、一神教への取り込まれて、三位一体「セントラル・ドグマ」が形成されたのである。
 結局、陰から陽への転換とは何か、ということになる。今の考えでは、何らかの宇宙・コスモス・地球的変動があったということである。そのために、太極文明が崩壊して、陽中心主義文明が形成されたのである。2/4回転によるつまり、i*i⇒−1の文明の発動ではないのか。すると、現代は、3/4回転に達しつつあるのである。それは、i*i*i⇒-iである。つまり、身体である。闇である。しかし、零度共振である。闇・身体・地の零度共振である。一先ずここで留めて、後でさらに検討を続けたい。

2006年12月04日 (14:20)

光認識は、何故優位になったのか:「左脳」が何故、「右脳」より優位になったのか:精神・光と身体・闇

本件は、以前からの難問(アポリア)である。簡単に述べると、外界認識の必要から、光認識が闇認識(身体認識)よりも優位になったとは、常識的に考えられるだろう。しかし、狩猟採集の時代では、人間は、メディア・現象空間に生存していたと考えられる。つまり、差異共振界と同一性現象界との融合の内に生活していたと考えられるのである。前者がコスモスであり、後者が感覚界である。つまり、精神と感覚が融合していた生活空間に生きていたと考えられるのである。
 その後、近代主義により、両者は分離して、物質や近代合理主義が生まれる。簡単に言えば、内界を隠蔽した、外界優位・中心の認識の世界となったのである。近代が確かに分水嶺であるが、それまで、内界は、例えば、芸術では、アレゴリーとして、視覚化されていた。抽象観念の視覚的具象化としてアレゴリーである。だから、内界と外界との結合文化があったのである。しかし、近代は、外界から内界を規定するのである。つまり、外界視覚的観念・表象から、合理性を確立したのである。簡単に言えば、唯物論である。(唯名論ともだいたい言えるだろう。)
 この傾斜の力学は何なのか、ということである。自己認識は、本来、内界と外界の接点の認識であるが、(近代的)自我認識は、内界を無意識にした、外界中心の認識である。
 先の考察では、光認識は、必然的に、闇認識を覆ってしまい、盲になると言った。この光認識とは、自己投影認識である。つまり、i*-(-i)⇒−1である。光⇒闇である。そして、-(i)*(-i)⇒−1の場合もある。これは、他者の同一性の場合である。つまり、自己を否定して、他者に同一化する場合である。これが、信仰ではないだろうか。中世という時代は、-iが中心になった時代であったのだろう。そして、自己iが否定されて-(i)となったのだろう。逆に、近代は、自己iが肯定されたのである。そして、それが行き過ぎて、他者-iを否定して、-(-i)となったと考えられるのである。
 そのように見ると、二つの自然があるだろう。-iとiである。これは、二つの光と言ってもいいだろう。あるいは、-iが闇で、iが光と呼んでもいい。近代は、i→(-i)の光であり、中世は、-i→iの闇であろう。中世人は闇を見ていたのであり、近代人は、光を見ていたのである。しかし、どちらも、一面的、半面的、偏頗である。光と闇との対極 i*(-i)⇒+1に真如があるのであるから。+1を真如光と呼ぼう。思うに、近代は、新たな差異の時代プロト・モダンであり、iの新たな発動の時代である。それが、自己投影に終っているのである。つまり、iの光は、-iの闇を受け入れられない様相になっているのである。これは不思議である。-iを否定して、-(-i)となっているのである。そして、i*-(-i)が反差異・連続的同一性であり、数量化されて、物質となったのである。−1が物質を表象するのだろう。
 何故、iの光は、(-i)の闇を受け入れられないのか。何故、闇を否定するのか。これは、戦後日本の認識状況と似るだろう。戦前の闇を否定して、戦後近代の光を肯定したのである。戦前の闇は、確かに、-i中心と言っていいだろう。つまり、-iとは、天皇あるいは国体である。-i中心主義も誤りなら、i中心主義も誤りである。偏頗・錯誤である。先に述べたように、i→(-i)という光認識(光志向性)は、iの同一性を投影するということであるが、それは押しつけ・強制である。厚かましさ、尊大、無礼、傲慢、等々ということである。これは、喩えて言えば、光の不器用さであろう。他者を他者自体・自身として認識できないからである。つまり、iの超越論的形式を-iに当てはめるのである(カント)。つまり、iが時空間形式(カント)であろう。近代において、主体は、iの光で、他者・対象を観測しているのである。他者-iの闇=「光」を受容できないのである。i*(-i)において、真如光(原光・玄光)があるのに、単なる自己の光を投影しているに過ぎないのである。これは、自己満足であり、他者破壊である。
 では、主体iが他者-i を受容するには、どうしたらいいのだろうか。一つの有力な方法がスピノザの能動的観念の形成である。つまり、他者-iを肯定して、+(-i)とする方法である。簡単に言えば、他者の言葉を傾聴し、それを積極的に理解するということである。(これは、連詩の方法ととても似ているのである。)つまり、差異共振シナジー的合理的態度ということである。
 しかし、現代の問題は、唯物科学・技術・産業の超肥大化である。つまり、i中心主義である。i中心合理主義(近代合理主義)である。i中心主義とは、- iの否定であるが、主体においては、これは、内界・身体・身心の否定である。プロト・モダンとしての近代は、iと-iの両面が、本来、賦活・活性化された時代である。それが、i中心主義にされてしまったのである。
 私の直観を言えば、-iとは実は、女性的な要素があるのである。父権主義の強固な西洋文化において、これは受容できないものであろう。つまり、共感性ということである。つまり、身体情的な側面があるのである。そう、-iとは主体においては、身体情となるだろう。これが、iの光の合理主義にとっては、不愉快なのである。それで、どうも疎外したように思えるのである。デカルト合理主義である。そして、スピノザがこれを掬ったのである。-iの身体情を包摂した能動的観念・能動的合理性をスピノザの『エチカ』は説いているのである。これで、コギト哲学は完成して、真如光が生まれるのである。
 以上で、-iは、女性的な要素があり、共感性であると言ったが、正確に言い直すと、共感性とは、i*(-i)の*が共感性であろう。そして、これが、女性的要素である。ならば、-iとは、実際何なのかということになるだろう。それは、わかりやすく言えば、身体であろう。iが精神ならば、-iは身体であろう。おそらく、精神のiは、身体の-iを認めるのが難しいのである。何故ならば、端的に、身体は、他者であるからである。この点では、プラトンでさえ、身体の情念を黒い馬として排除していると考えられるのである。とまれ、簡単に記せば、精神*身体である。あるいは、光*闇である。有り体に言えば、人間とは、二重人格なのである、少なくとも。身体や闇を多重・多元性と見ると、多重人格である。明確に言えば、対極的人格である。プラトンを出したので、プラトンの場合を考えると、霊魂、魂が主体となっているのであるから、単に精神ではないのである。思うに、*が霊魂、魂ではないだろうか。つまり、即非性が霊魂・魂ではないだろうか。即ち、零度差異共振シナジーである。
 とまれ、先の問題、身体として-iの問題に返ると、何故、精神は、身体を身体自体として認識できずに、身体を精神の同一性で捉えようとするのである。つまり、精神の論理で身体を捉えようとするのである。しかし、当然、身体の論理があるのである。精神の論理と身体の論理の齟齬(差異)があるのであるが、主体は精神の論理を身体に適用するのである。精神同一性を身体差異に適用するのである。当然、身体は把捉できないのである。換言すると、精神と身体とは、それぞれ、不連続的差異であり、同一化することはありえないのである。この差異の共立・共振に自然の妙があるのだと思う。即ち、即非論理である。これが、自然の根源的論理であると考えられる。これがなければ、自然は成立しないだろう。不連続的差異の、言わば、無機質な共立だけであり、いわば、ニルヴァーナ(涅槃)の様態である(私はこれが、イデア界ではないかと思う。これから、1/4回転で、メディア界・メディア空間・差異共振シナジー空間が生起するのだと思う。原生命の様相である。)。
 零度共振によって、精神と身体が共振・即非共生しているのである。この零度共振が、魂・霊魂・聖霊であろう。そして、これが、共感性として発現しているのである。つまり、精神が身体を把捉するには、零度共振様態にならなくてはならないということと考えられるのである。iをゼロ度にしなくてはならないのである。ゼロ度のとき、精神は、身体を認識することができるのである。そして、ゼロ度を生成するには、瞑想が有力な方法である。つまり、iの自己投影である、反差異的同一性化を瞑想によって回避できると考えられるのである。瞑想によって、精神のiは、身体の-iと共振するようになると考えられるのである。数式化すれば、i*-(-i)である、反差異・連続的同一性化から、i*(-i)の差異共振シナジー化が発現すると考えられるのである。つまり、-(- i)という反差異性を、瞑想によって、-{-(-i)}という差異性に変更するのだと考えられる。これは、換言すると、i→(-i)という反差異的同一性化に対して、i←(-i)という差異的同一性を加えて、均衡を取るということではないだろうか。つまり、i⇔(-i)である。精神⇔身体、光⇔闇である。 i→が陽エネルギー
=光ならば、i ←が陰エネルギー=闇であろう。精神は、光の方向ではなくて、闇の方向に向かうことで、他者である陰エネルギー、身体を受容することができるようになるのである。換言すると、光の反転によって、差異共振が発生するのである。この差異共振シナジーの叡知を、東洋は保持してきたが、西洋は、とりわけ、近代西洋は、破壊して、陽エネルギー、精神同一性中心主義になり、二元論化して、唯物科学を生んだと考えられるのである。また、近代の反動として、陰エネルギー中心主義である神秘主義やオカルト主義が発生したと考えられるのである。
 結局、本件の問題の解答とは、イタリア・ルネサンスにおいて、新たな差異、差異共振の発動があったと考えられる。i*(-i)が活性化し、現象界がダイナミック化したのである。それは、陽エネルギーと同時に陰エネルギーの賦活である。しかし、前者だけだと、他者、身体を否定するようになるのである。イタリア・ルネサンスは、両者の発動があったと考えられる。しかし、ヨーロッパは、キリスト教化されているので、陰エネルギーを十全には、認めることができなったと考えられるのである。わかりやすく言えば、父権的宗教であるキリスト教は、陰エネルギー肯定による母権化を肯定することができないのである。だから、陰エネルギーを否定する意味で、宗教改革が起こったと言えるのである。ルネサンスへの反動である。そして、デカルト哲学が正にこの矛盾を体現していると考えられるのである。コギト哲学は、ルネサンス哲学である。差異の哲学であるが、その合理主義は、陽エネルギー中心主義で、近代合理主義を方向づけるものとなったのである。そして、何度も既述したが、スピノザが、デカルト哲学を補完して、コギト哲学を完成したと考えられるのである。つまり、スピノザは、陰エネルギーを能動的に包摂して、陰陽エネルギーの統合知性を形成したと考えられるのである。結局、南欧、地中海文化から発した差異の賦活は、西欧キリスト教文化によって、歪曲化されて、途轍も無い偏頗な合理主義を形成することになったのである。父権主義イデオロギー、父権暴力によって、捩れているのである。これが、現代の不幸を根因であると考えられるのである。
 さて、最後に敷延して考えてみよう。近代科学は、陽エネルギーを観測していると考えられるが、陰エネルギーを無視しているだろう。前者を光エネルギー、後者を闇エネルギーとも呼べよう。現代物理学で問題になっているダークエネルギーであるが、それは、後者のことであると同時に、更には、差異共振シナジー・エネルギー、即ち、原エネルギーをも示唆しているのではないだろうか。そう考えると、ダークエネルギーの方が量的に大きいということの説明になるのではないだろうか。
 プラトニック・シナジー理論による物理学革命は近い。

p.s. もし、精神がiならば、それは、死んだときは、-iの身体から解放されて、iの世界に回帰・回向するだろう。i の世界とは何処なのだろうか。あるいは、-iの世界とは。メディア界は零度差異共振するので、生命を賦活されることになるのだ。そう、考えられるのは、i や-iの世界とは死の世界、冥界である。しかし、iの世界は光の冥界(天国・浄土)であり、-iの世界は、闇の冥界(地獄?)であるのだろうか。とりあえず、iの世界を天界、-iの世界を地界と呼ぼう。否、明確にするために、天霊界と地霊界と呼ぼう。天霊であるiと地霊である-iとのゼロ度連結して、人霊、生命霊となるのだろう。
 ここで、推測だが、男性は、iで、女性は、-iではないだろうか。私は、ジェンダーとは異文化であると考えている。男性と女性は、互いに異星人ではないかと思うのである。この点では、D.H.ロレンスが天才的な理解をもっていたと考えられるのである。

2006年12月03日 (06:19)

差異共振シナジーと虚無の闇空間、並びに、メディア空間の表裏面問題:イデア・メディア空間の可能性

先に、虚無暗黒空間が、光の現象界を包んでいるが、それが、不明であると述べた。この点をさらに検討したい。
 問題は、差異共振空間の事象の事柄である。自己差異と他者差異との共振、i*(-i)の意味である。先には、これを原光と考え、この同一性として光の現象を考えた。また、さらに以前には、神話学的にイシスとオシリスの空間であると見た。つまり、イシスが闇で、オシリスが光と考えたのである。イシスの闇に浮かぶ光がオシリスであると考えたのである。この場合、当然、オシリスが太陽(太陽光)である。このオシリスの光が現象界を満たしていると見たのである。
 虚無暗黒空間を考える上で、後者の方が適しているようである。しかし、イシスの闇空間は、オシリスの光空間を生むのであるから、虚無暗黒空間ではない。自己認識方程式では、i*(-i)がイシス闇空間・原光空間・母体空間であり、⇒+1がオシリス光空間・太陽空間であろう。
 ここで、先に想定した区別、i→(-i)という陽意識・認識と(-i)→iという陰意識・認識に触れると、一神教は、前者に傾斜して、後者を否定している点に本質があるのではないかと考えられる。(明日野氏の垂直方向の認識方程式をこの場合使用すべきであるが、ここでは、おいておく。http://theory.platonicsynergy.org/?eid=422900 )つまり、陽意識・認識においては、iという自己は、自己自体を他者である(-i)に投影して、i*-(-i)⇒-1になるのである。それに対して、後者、陰意識・認識(-i)→iは、逆に、いわば他者投影して、(-i)*-(i)⇒-1になるだろう。これは、先に触れたが、近代合理主義とオカルト主義が一致することを意味するように思う。つまり、どちらも、反差異・連続的同一性なのである。つまり、物質を意味すると考えられる。《以前、オカルト主義は、差異を連続的同一性の枠・構造で見たものであると述べたが、ここで、それが数学&哲学(数哲理)的に証明されたと言えるだろう。》だから、陽意識・認識と陰意識・認識との均衡・即非・対極(太極)性において、真相意識・認識(「汝自身を知れ」(グノーティ・セアウトン)・コギト哲学)が形成・成立・確立すると言えよう。(一神教・西欧近代主義は、結局、ここから見るとおそろしく邪道・魔道・悪道なのである。)
 以上から推論すると、虚無的暗黒空間とは、やはり、-1の空間であると言えるだろう。私の心は、虚無的暗黒空間とつながっていると言ったが、それは、心には、「悪魔」が潜在すると言うことでもあろう。つまり、心には、+1の「天使」・「神の国」と-1の「悪魔」・「魔界」が、潜在しているのである。おそらく、揺れ動いているのだろう。(ここで、ユング/ヘッセのグノーシス主義のアブラクサスを想起する。http://www.joy.hi-ho.ne.jp/sophia7/y1-abrax.html )この考え方は、また、「アイロニカルな没入」にも適用できるだろう。また、宗教(キリスト教であれ、仏教であれ、イスラム教であれ)が、権力化して、反動化することの説明にもなるだろう。そう、国家ナショナリズム、全体主義・ファシズムの説明にもなるだろう。
 これで、本件の問題は、これで解明できたとするが、私のイメージ空間では、少し違う問題があるのである。私の直観イメージでは、差異共振シナジー空間(メディア空間)の二面(表裏二面)があるのであり、それが未整理なのである。+1の光の面と-1 の闇の面があるということでいいのだろうか。思うに、私の原風景的イメージの原光と光の空間は、i*(-i)と+1で説明ができるようである。不連続的差異論が創造されたときの私のメディア界(メディア空間)のイメージは、例えば、右側面が連続面で、現象界につながり、左側面が差異面で、イデア界につながるものであった。そして、前者を光に、後者を原光に関係させていた。D.H.ロレンスの黒い太陽、黒い神、未知の神が、後者であると考えたのである。ロレンスは、コスモスを志向したのである。当然、それらは、コスモスを意味するだろう。そして、プラトニック・シナジー理論では、i*(-i)ないしi*(- i)⇒+1がコスモスと考えられるのである。ロレンスが探究して発見したのは、このコスモスだと思う。とりわけ、i*(-i)のコスモスだと思う。しかし、ここは、実に両義的であり、揺れ動く世界であり、ロレンス自身、激烈に+1と-1の間で揺れ動いたと言えよう。明日野氏が、ロレンスの黒い太陽を-1 に置くのは、この点で理解できるのである。そう、ロレンスは、ある意味で、近代的分裂症を被っているのである。つまり、近代合理主義と神秘主義との分裂である。もっとも、「黒い」とは、「玄い」の意味で考えるべきであろう。だから、黒い太陽は、玄光となるだろう。つまり、真如の光である。阿弥陀仏である。大日如来である。天照である。
 結局、私の当初からの直観イメージによるメディア界の二面・表裏面性とは、+1と-1ではなくて、i*(-i)と±1のことであったと言えるのではないだろうか。換言すると、原光・玄光と光・闇の二面・表裏面性である。これで、私の長きに渡る疑問がいちおう、氷解したと言えるだろう。そこで、さらに直観イメージを発展させると、原光・玄光空間とは何であるのかということになるのである。つまり、イデア・メディア空間が考えられないのかという想起があるのである。メディア・現象空間がi*(-i)⇒+1であると考えられるのに対してである。メディア・現象空間をガウス平面とすると、それに垂直な平面が考えられないのだろうかと思うのである。つまり、Z軸を想定するのである。これが、e軸とならないのだろうか。Z軸ないしe軸上のイデア素ないし祖イデアが1/4回転して、i*(-i)のメディア様相を形成するのではないだろうか。つまり、零度差異共振シナジー様相である。とまれ、ここでは、直観イメージとして、イデア・メディア空間、YZ平面を提起するに留めよう。連想を続けると、量子・素粒子とは、i*(-i)を物質科学から捉えようとしたものであると考えられる。では、イデア素・祖イデアとは何なのだろう。絶対零度? 絶対共立? これは、何か、金剛界曼荼羅を想起させる。純知性界・純叡知界・純数知界である。イデアのイデアである。私の感じでは、プラトンは、これもイデアと呼んでいるように思えるのである。つまり、プラトンのイデアは、純知性界のイデアとメディア界のイデアの二つを意味しているように思えるのである。

2006年11月28日 (21:11)

自己認識方程式とキリスト教会:陽意識としての理性と陰意識の隠蔽としての信仰:聖霊の時代と人類ルネサンス

自己認識方程式とキリスト教会:陽意識としての理性と陰意識の隠蔽としての信仰:聖霊の時代と人類ルネサンス

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

先に、キリスト教会(キリスト教ではなく)が、陰意識をタブー化して、単に信仰にしたと述べたが、この点に関して、精緻に検討したい。
 中世のスコラ哲学の頂点であるトマス・アクィナスの理性と信仰との調和の思想をキリスト教会の代表的思想として、考えよう。この理性とは何だろうか。これは、簡単に言えば、自然界の知性のことであり、超自然界の事象は、理性(自然界の知性)では、理解不可能であり、信仰の対象でしかないということと考えられる。
 陽意識[i→(-i)]は、ほぼ、この理性にあたると言っていいだろう。そして、陰意識[i←(-i)]は、他者の認識であり、超自然的認識をも含むと考えることができるだろう。本当は、単に超自然的認識だけで、他者一般の認識である。「すべての他者はまったき他者である」というデリダの言葉がここで想起されなくてはならない。
 とまれ、神の認識をキリスト教会は、否定しているので、陰意識が否定されているということができるだろう。だから、先に述べた陰意識をタブーにしているというのは、正しかったと言えるのである。
 ここでは、さらに考えてみると、陰意識とは、他者の認識であり、−エネルゲイアで、他者の力動であると言えよう。この他者の力動とは何であろうか。これは、ある意味で、神秘的な力である。宗教的な力と言ってもいいだろう。そう、東方キリスト教会でいう神のエネルゲイアとは、このことを指していると言っていいのではないだろうか。あるいは、三位一体論で言えば、聖霊に当たるように思われるのである。シンボルでは、鳩である。そう、−エネルゲイア、陰意識、他者の認識とは、自我超越的なのである。それは、ほとんど宗教的経験であろう。ルドルフ・オットーのヌミノーゼに相当するだろう。また、神秘主義的経験もこれで説明がつくだろう。そして、一神教の預言者の経験もこれで説明がつくだろう。そして、さらに言えば、イエス・キリストの経験もこれで説明がつくのだろう。神の子とは、この−エネルゲイアを肯定して、差異共振シナジー精神を体現した者のことだろう。つまり、神を−エネルゲイアと考えれれば明快であろう。【しかしながら、今疑問として、イエス・キリストは、−エネルゲイアが過度になり、自己であるiを否定してしまっているのではないだろうか。つまり、 (-i)*(-i)⇒−1になっている向きがあるような感じがするのである。】
 とまれ、キリスト教会は、−エネルゲイアである聖霊を独占することで、西洋人から、陰意識、他者認識を奪い、陽意識・自我認識を強化したのだと言えるだろう。先に述べた、デカルトが、コギト哲学を明晰な合理主義に限定した理由はキリスト教会の陰意識のタブー化に拠るとしたというのは、これで根拠付けられたと言える。
 では、キリスト教会の陰意識の独占化とは何を意味するのか。当然、信者をキリスト教会に従順にさせることを意味するだろう。ありていに言えば、洗脳である。自己認識を喪失させて、他者否定の自我主義を肯定させることでもあるのである。やはり、ここに近代的自我、近代合理主義、近代唯物論の源泉があると言えよう。キリスト教会が、唯物論の源泉なのである。そして、ニーチェの神の死とは、まったく正しいのである。キリスト教会が聖霊を独占したことで、神が死んだのであるからである。
 中世イタリアのフィオーレのヨアキムの聖霊の時代という考え方は、正しいのである。ポスト・キリスト教会として、聖霊の時代が訪れると考えられるのである。それは、他者の時代である。スーパー・ポスト・モダンの時代である。今世界のカオスの中から生まれようとしているのは、明らかに、人類ルネサンスである。万教帰一の時代である。そして、文理帰一・東西帰一の時代である。すごい世界が訪れようとしているのだ。ただし、日本は今のままでは、滅亡するだろう。日本滅亡である。

2006年11月28日 (08:03)

i*(-i)、又は、i⇔(-i)の事象の構造について:二つの認識(対象認識と自己認識)

i*(-i)、又は、i⇔(-i)の事象の構造について:二つの認識(対象認識と自己認識)

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

空も白み始めた、烏の遠鳴きが増しつつあるなか、東京の今の時刻(6時過ぎ)、仕事前の余裕の時間、本件について考察しよう。この問題は、認識論の核心であると考えられる。
 先に私は、陽意識i→(-i)と陰意識i←(-i)に分けた。そして、前者は、他者である(-i)を否定すると考えたのである。即ち、-(-i)であり、結果は、i*-(-i)⇒-1である。この否定-は、何を意味するのか。それは、陽意識のエネルゲイア、+エネルゲイアではないだろうか。これまで、差異1=同一性=差異2という図式で考えたが、より単純に、i*i⇒−1と考えていいのではないだろうか。つまり、陽意識は、他者(-i)を自己自身iとして観るということでいいのではないだろうか。他者(-i)を否定(−)して、-(-i)=iである。
 陽意識の他者否定はどういうことなのであろうか。差異とは、本来、他者への志向性であるのに、陽意識の他者否定は、本筋ではないように思えるのである。思うに、ここには、主観認識の問題があるのである。陽意識の志向性は、i→(-i)であるが、このとき主観iの認識手段は何だろうか。主観iのメディアは何だろうかという問題があるのである。今作業仮説的に言うと、それは、主観i自身が認識手段、認識メディアであるということではないだろうか。つまり、i が他者(-i)の認識手段・メディアであるということである。即ち、主観iは、主観自身をもって、他者-iを認識しようとするという矛盾事態にあるということである。換言すると、自己投影して、他者を認識するのである(、もし、これが他者認識と言えるならば)。
 結局、陽意識・+エネルゲイアは、自己投影して、他者認識するということである。これは、神話的には、ナルシスの神話である。(精神分析は、ここから、発想を借りたのであり、精神分析の独創ではないのである。)そして、この自己投影(ナルシス、反射像)は、正に、同一性、反差異・連続的同一性を形成するのである。即ち、i→(-i)は、i=(-i)であり、自己即他者なのである。
 この陽意識・+エネルゲイアの自己投影・ナルシスは、志向性の問題に当然関係する。つまり、差異の志向性は、自己から他者への志向性であるが、陽意識は、これが、自己投影となり、倒錯となるのである。だから、陽意識の志向性は、差異の志向性ではなく、反差異・連続的同一性の志向性であると言える。
 ここで問題は、言語と陰意識i←(-i)のことがあるが、先に、言語について考察しよう。陽意識・+エネルゲイア・自己投影・ナルシスにおいて、他者は、自己と等価となるが、自己投影像の名付け行為が起こると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の多様な現象に対して、名付けが行なわれるのである。私はある対象Aと同一であるが、この連続的同一性像を他の対象Bの連続的同一性像と区別する必要があるので、対象Aを花と名付け、対象Bを虫と名付けるのである。結局、陽意識・+エネルゲイアは、反差異・連続的同一性言語を形成し、自己形成ではなくて、自我形成すると言えるだろう。
 では、次に、陰意識・−エネルゲイアについて考えよう。これが、自己iにとり、障碍なのである。陽意識によって、自己投影して、反差異・連続的同一性・言語自我表象が出来るが、それに対して、他者(-i)は、陰意識・−エネルゲイアを自己に作用するのであり、いわば、陽意識の反差異・連続的同一性言語表象自我体系を解体するのである。正に、ここに差異が発生するのである。反差異・連続的同一性=自我に対して、他者の差異が発生するのである。連続的同一性の体系にひびが入るのである。だから、ここに陽意識自我の反動態勢が生まれると言えるだろう。つまり、連続的同一性を阻害する陰意識・−エネルゲイアを、いわば、塞き止める、ブロックするのである。陽意識の自己投影は本来、能動的であるが、この陰意識の阻害においては、当然ながら、反動的になるのである。これが、フロイトの説いた「死の本能」の真相であろう。結局、能動的反動がここには生起しているのである。これが、暴力の根源であると言えよう。近代合理主義は、陽意識の同一性の合理性であり、この陰意識の「理性」・「合理性」を否定・排除・隠蔽しているのである。
 結局、陽意識では、陰意識を取り込めないだろう。何故なら、陰意識は、−エネルゲイアであり、正反対であるからである。正に、絶対的他者(デリダ)である。陰意識を形成するには、陽意識は、自己脱却しないといけないのである。ここには、自己革命・革新・変革・変容が必要なのである。結局、この叡知を、仏教が、二千年以上も前から説いてきたのであるし、西洋哲学の少数の大天才たちもこれを説いてきたのである。スピノザ、(カント、)キルケゴール、ニーチェ、ウスペンスキー、フッサール、他である。日本では、鈴木大拙の即非の論理として、結実したのである。
 とまれ、陰意識は、共同体的伝統においては、宗教や習慣や儀礼によって、代理的に形成されてきたのであるが、近代における共同体コードの破壊によって、これが喪失されたというのは、見やすいことである。(日本において、toxandoria氏も神仏分離の「野蛮性」を述べていられるが、近代において、仏教が阻害されて、日本人の自己認識に「故障」・障害が生じたと言えるのではないだろうか。)
 近代とは、既述したように、本来、差異発動・力動・実現等の時代なのであり、近代初期において、ルネサンスや諸哲学が創造されたのである。ルネサンスの問題は置くと、差異の哲学として、デカルト哲学、スピノザ哲学、等が創造されたのである。デカルト哲学は、ほぼ誤解されて、その差異性を無視されている。コギトは、差異である。だから、デカルトには、陰意識があったのである。しかるに、その合理主義は、陽意識の合理主義へと傾斜したように思えるのである。デカルト哲学の革命性と不十分さを確認しないといけない。
 そして、この不十分さを補ったのが、スピノザであると考えられる。スピノザの能動的観念とは、正に、陰意識の合理的取り込みであると考えられるのである。だから、先にも触れたが、デカルト/スピノザ哲学というようにセットで考えて、差異哲学の形成を見るべきであると考えられるのである。
 では、陰意識・−エネルゲイアとは何だろうか。それは、精神・倫理・道徳の問題である。能天気な陽意識にひびを入らせるもので、自己覚醒作用があるのである。差異の発動である。他者からのエネルゲイアの発動なのである。おそらく、これは、本来、自己認識はできないはずである。他者である(-i)は、いわば、物自体であり、完全認識不可能であろう。しかし、その−エネルゲイアは感得できるはずである。これは、感情知覚の問題である。これは、陽意識のもつ明晰な合理性とは異なる、いわば、不明晰な合理性の問題であろう。そう、デカルトは、この不明晰な合理性を排除してしまったと言えるだろう。そして、スピノザが、この不明晰な合理性を能動的観念の手法で自己認識に取り込んだと考えられるのである。この他者の陰意識の取り込みとは、積極的共感的知性の形成であると考えられるのである。つまり、スピノザ哲学において、共感性が生起しているのである。換言すると、スピノザ哲学に、即非の認識論が生起していると考えられるのである。自己と他者との即非の認識哲学である。何故ならば、陽意識的合理主義は、他者を排除してしまうからであり、陰意識的合理主義によって、自己と他者との差異・分離を肯定した上で、新たに、陽意識的合理主義が形成されて、差異的同一性認識【i*(-i)⇒+1】が実現すると考えられるからである。
 ということで、差異哲学は、西洋においては、デカルト/スピノザ哲学において、既に形成されていたと言えるのである。その後、西洋哲学は、混乱して、カントで差異の確認があり、キルケゴールやニーチェで差異が強調され、そして、フッサール現象学でデカルト/スピノザ哲学が継承的に進展したと言えるだろう。その後、いわゆる、生の哲学(ベルクソン)や実存主義(ハイデガー、サルトル)で、連続化し、反動化するのである。そして、構造主義は、カント哲学の再確認であるし、ポスト・モダン、ポスト構造主義は、差異哲学の現代的復興を目指したが、それ以前の反動化の側面を帯びていて、不十分なものであったのであり、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が、連続化・反動化を乗り越えて、差異哲学を創造的に発展させつつあるのである(スーパー・ポスト・モダン理論)。これは、東西文明の超克であり、文理統合的理論の創造を意味すると考えられるのである。
 さて、最後に簡単に触れると、陰意識は、不明晰な合理主義は、共感的感情・精神的感情に関係するのであり、また、心身性無いし身体性に関係するのである。この心身性・身体性について、新たに考察して行きたい。

2006年11月26日 (01:03)

近代的自我の発生の原因とルネサンス:自己認識方程式の視点から

明日野氏の卓越した一人称自己認識方程式e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1をまず前提として確認しておこう。(これ以前は、(i)*(-i)⇒+1である。)
 私の問題にしたいのは、i-i=0のところである。これは、差零度共振を意味すると考えられる。そして、これは、自己e^iと他者e^(-i)を知る本来の自己認識である。
 私の考えは、e^i⇒e^(-i)の陽意識と逆のe^(-i)⇒e^iの陰意識があるというものである。簡単に言えば、自己⇒他者、他者⇒自己である。そして、前者、陽意識(+エネルゲイア)は、光と関係する。例えば、遠近法がこれに当たるだろう。しかし、後者、陰意識(−エネルゲイア)は、闇と関係する。簡単に言えば、前者は、普通の意識であり、後者は、言わば、無意識である。そう、明意識と暗意識と言ってもいい。
 ここで、e^i⇒e^ (-i)を単純化して、i⇒-iとし、また、e^(-i)⇒e^iを、-i⇒iとして考えることにする。i⇒-iの解釈であるが、これは、他者への志向性でもあるが、ここで、知覚が生じて、何らかの言語を-iに与えると思うのである。(太古においては、言語ではなくて、絵文字のようなもの、音声言語のようなものを与えていたであろう。)思うに、言語を他者に与えて、同一性化するのである。ここで作業仮説として、言語=−1とすれば、i⇒−1・(-i)=i となるのである。つまり、i=iという図式である。思うに、これが自我の数式であろう。つまり、他者である-iを自己iと解釈するのである。(ここで、言語=−1の発生の意味は次の考察の中から考えよう。)
 次に、陰意識・暗意識のことを考えると、これは、他者から自己への志向性なのである。これは、換言すれば、他者の眼、他者の視線と言ってもいいだろう。思うに、原初の自己は、とりわけ、この陰意識・暗意識を恐れたであろうと思われる。これは、他者から自己への志向であるから、自己は基本的には、受動であるしかないのである。陽意識が能動性であるのに対して、陰意識は受動性である。(おそらく、物の怪とか、アニミズム、シャーマニズム等は、後者的表現であろう。)
 思うに、近代以前は、両者の双方向関係から世界観が生まれていたのである。陰意識に「霊」とか、「魂」とか、精霊、等々と名づけたのである。つまり、陽意識と陰意識は、交流して、世界観を形成したのである。いわゆる、コスモスというのも、ここから生まれた宇宙観であろう。しかしながら、正しく言えば、例えば、中世においては、陽意識より陰意識の方が強く、この強い陰意識の上にキリスト教が成立していたと考えられよう。そして、ルネサンスが起こり(中世において、例えば、12世紀ルネサンスがあるが、それは、先駆と見ればいいだろう)、陽意識が活性化されたと考えられるのである。つまり、自己の能動的意識 i⇒-iが賦活されたと考えられるのである。つまり、中世においては、-i⇒iの陰意識(暗意識・闇意識)が優勢であったが、ルネサンスになり、逆転して、i⇒-i の陽意識(明意識・光意識)になったと考えられるのである。これは、正に、革命・革新・進化である。陰から陽へと転換したのである。おそらく、人類史において、このような陰から陽への転換は繰り返されたに違いない。古代ギリシアが代表的なものであろうし、他の古代文明期においても、類したものがあったのであろう。
 とまれ、ルネサンスないし近代(プロト・モダン)にもどると、能動的な陽意識が、おそらく、爆発的に賦活・活性化されたのである。そして、芸術的には、イタリア・ルネサンスという偉業を生み、哲学的には、デカルト哲学を生んだと言えよう。能動的な陽意識がコギトの原点なのである。しかし、注意すべきは、ルネサンスないし近代初期においては、単に陽意識があったのではなくて、それまでの、陰意識を伴っていたと考えられることである。否、正しく言えば、新たな陽意識の賦活とは、新たな陰意識の賦活と見ていいだろう。つまり、陰と陽の両極性が活性化されたと考えられるのである。これが、ルネサンス哲学が、神秘哲学やコスモス哲学になったことの要因であると考えられるのである(参照:マルシリオ・フィチーノのネオプラトニズム)。また、オカルト思想が流行した理由もここにあると考えられるだろう。そして、デカルト哲学(コギト・エルゴ・スム)において、コギトは、能動的陽意識であり、スムは、受動的陰意識であろう。つまり、e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1である。しかし、その後、コギトの陽意識に限定されて、陰意識が否定されていったのである。いわゆる、近代合理主義である近代科学・技術・資本主義の前進である。
 以上のように考えると、アポリア(難問)である、何故、差異が否定されたのかということを考察してみよう。ルネサンスにおいて、陽意識と陰意識の均衡が取れていたはずである。しかし、近代合理主義(近代的自我、近代唯物論)は、前者中心に、後者を否定していったのである。これまで、反差異的同一性を近代合理主義に見てきたのであるが、どうして、この、いわば、怪物が生まれたのかである。先にも述べたが、デカルトが明晰な判明な観念を求めて、あいまいなものを排除したことが起因ではないだろうか。つまり、能動的陽意識に傾斜したのである。この光意識は、+エネルゲイアをもち、-iである他者を+化するように思うのである。つまり、ここに-iに対する−作用があると推察されるのである。つまり、+エネルゲイアとは、反差異的同一性作用であると考えることができるのではないだろうか。(逆に言うと、−エネルゲイアも反差異的同一性作用だろう。つまり、(-i)*(-i)⇒−1である。)そのように考えられるならば、何故、近代的自我のもつ反差異性の発生したのかという理由は自明となる。
 ここで、整理すると、原近代(プロト・モダン)において、陽意識と陰意識の両極性が賦活されたのである。換言すると、コスモスが発動したのである。しかしながら、デカルト哲学は、もともと、原近代を基盤としているが、陽意識・+エネルゲイアに傾斜したため、陰意識・−エネルゲイアを否定してしまったということである。そして、この路線が近代合理主義となったのである。デカルトの後、スピノザが出て、陰意識を取り込んだ哲学を創造したのである。(ライプニッツは、予定調和という観念で、陽意識が強かったと言えよう。)だから、デカルト/スピノザ哲学と、本来理解することで、「ポスト・モダン」となると考えられるのである。そう、デカルト自身は、陽意識を徹底する試論を行ったのであり、その点では問題はないのである。ただ、陰意識の探求が不徹底であったということである。
 近代合理主義の発生は単にデカルト哲学の問題だけでなく、他に発生する原因があると考えられるだろう。有り体に言えば、ルネサンス/プロト・モダンとは、太極性の活性化である。あるいは、東洋文明の新生であると言えるのである。宗教的に言えば、異教の再生であると言えるのである。つまり、実は、ルネサンスは、西洋文明にとって都合の悪いものが発生したことになるのである。キリスト教を否定するものが出現したのである。思うに、キリスト教は、陰意識を信仰の次元に変えていたのであり、陰意識の認識をタブーにしていたのである。中世スコラ哲学の頂点であるトマス・アクィナスの理性と信仰の調和がキリスト教としての基本的枠組みであったと言えよう。理性である陽意識は、確かに認めるが、信仰の対象となる陰意識の合理性・理性をキリスト教会は、絶対タブーとしたのである。(これは、イデオロギーと見るべきだろう。民衆支配のイデオロギーである。そう、二つの合理性・理性があるのである。陽意識の理性と陰意識の理性である。)
 結局、ルネサンスは、キリスト教にとってタブーの陰意識を賦活・活性化したのである。そして、デカルト哲学の明晰性とは、この路線に忠実であったと言えよう。デカルト的合理主義は、陽意識を肯定して、陰意識を排除したのである。つまり、キリスト教会のバイアス・イデオロギーが西洋社会・文化に存在するのであり、それが、脱西洋文明的なルネサンス/プロト・モダンを否定して近代主義へと捩じ曲げたと言えるだろう。プロテスタンティズムも、同様の捩じ曲げであると見なくてはならないだろう。
 これで、これまでの最大の難問であった近代的自我の否定性の発生について、自己認識方程式を活用して、整合的に説明できたのではないだろうか。もう一度整理すれば、ルネサンス/プロト・モダンにおいて、差異が賦活・活性化された。それは、陽意識と陰意識の双方を活動させたのである。だから、e^i*e^ (-i)⇒e^(i-i)=e^0=1が生起したのである。しかるに、近代西欧は、キリスト教会のバイアス・イデオロギーがあるために、本来的に、東洋・異教再生であるルネサンスを認めることができずに、否定・排除・隠蔽的に対処したのである。それが、近代合理主義であり、魔女狩りや植民地主義や帝国主義、オリエンタリズム等を生んだのである。東洋・異教復興であるルネサンスを継承したのは、少数の天才たちであった。(そう、スピノザ哲学、神即自然の思想は、正に、東洋・異教新生であろう。これは、ポスト・ユダヤ・キリスト教である。正しくは、ポスト・キリスト教会であろう。)カントは、両者の中間であった。そして、キルケゴールが超越的特異性を復活させ、シェリングが自然と理性との融合した「メディア」界を示唆し、また、ニーチェが近代合理主義やキリスト教を破壊し、フッサールが決定的に超越論的現象学を打ち立てて、超越論的志向性を突き止めたのである(ただし、+エネルゲイア、陽意識の志向性であったろう)。他の分野・領域でも、キリスト教会的発想、陰意識合理性の否定と東洋・異教再生との闘争が闘われたと考えられるのである。そして、ポスト・モダンは、明確なこの闘争であるが、西欧の陽意識の強固さによって、陰意識を完全に解放できずに、不十分な立場に留まってしまったと考えられるのである。(しかし、後期デリダは、ポスト・モダンを哲学的に徹底したように思える。)
 そして、現代日本において、不連続的差異論が誕生して、停滞・衰退したポスト・モダンを前進させたのであり、それから、プラトニック・シナジー理論へと発展したのである。これで、完全にポスト・モダン理論が形成されたと考えられるのである。つまり、新東洋・異教ルネサンスの理論の誕生である。西洋文明の終焉である。(思うに、西洋文明とは何かということになるだろう。それは、東洋文明の一種展開であったと思うのである。それが、イデオロギー的に東洋文明から、切断したのである。しかし、文明自体は、東洋文明が原点であるから、当然、東洋文明は再帰するのである。そして、時が熟して、内在的に東洋文明が復興したのである。そして、プラトニック・シナジー理論が、日本という東洋文明の終点、そして、西洋文明の最大の輸入国において、東西文明を超克する形で、創造されたのは、意味深長である。おそらく、本来、東洋文明も西洋文明もないのである。ただ、差異共振シナジー的人類文明があるだけである。)
 後で、不連続的差異論とプラトニック・シナジー理論との関係を考察したいと思う。思うに、後者は、前者を修正する形の理論なのである。

p.s. 以上から、何故、近代的自我は狂気なのか、という私の長年の疑問も解決されるだろう。近代合理主義は、能動的陽意識中心で、受動的陰意識を否定・排除しているのである。つまり、陽意識のエネルゲイアだけでなく、陰意識のエネルゲイア、−エネルゲイアの発生があるが、それを、陽意識である近代的自我は、否定・排除・隠蔽するのである。しかし、排除された−エネルゲイアは、陽意識に対して、非合理な衝動として発動するのである。これが、狂気なのである。暴力でもあるのである。
 現代日本の狂気シンドロームは、これで説明できるだろう。エクソ・モダンexomodern、これしかないのである。

2006年11月24日 (00:05)

(i)*(-i)の虚空間について:(i)と(-i)の関係の考察:その2

先の考察で、(i)*(-i)【e^i*e^(-i)⇒e^(i-i)=e^0=1
http://theory.platonicsynergy.org/?eid=414738
Theories for the Platonic Synergy Concept. 】を(i)⇔(-i)と表記して、双方向の志向性を考えた。陽の志向性と陰の志向性である。そして、また、牽引と反発を考えた。すると、2×2=4種類の様態があるということになるだろう。とまれ、[(i)⇔(-i)]⇒+1となるだろう。つまり、[(i)⇒(-i)]⇒+1と[(-i)⇒(i)]⇒+1ということであろう。双方向の志向性は、+1なのである。おそらく、正確に言えば、⇔の双方向の均衡において、+1があるのだろう。つまり、双方向とは即非なのだろう。
 さて、問題は、−1の場合である。(i)^2ないし(-i)^2が−1である。原自己の二乗、ないし、原他者の二乗が、−1=自我(近代的自我)である。そして、ここで、私は、感情のことも問題にしたいのである。明らかに、−1=自我は、否定感情ないし反動感情的である(いわゆる、感情的とは、理論的には、否定感情・反動感情的と呼べるだろう)。そして、+1=自己は、肯定感情・能動感情をもっていると言えるだろう。あるいは、零度感情・中立感情をもっているだろう。思うに、知性とは、本来、肯定・能動・零度・中立感情を伴っているだろう。おそらく、共感性とは、この感情と通じているだろう。反感は当然、否定・反動感情である。すると、知性とは、肯定・能動・零度・中立・共感感情をともなうことになるだろう。この感情は、即非関係を維持しようとするものである。否定・反動感情によって、知性が曇らなくなるようにするのである。否定・反動感情は、他者を否定するので、当然、即非を否定することになるのである。それは、(i)*−(-i)⇒−1である。これは、既述済みである。
 問題は、−1と言語の関係である。あるいは、(i)*(-i)ないし(i)⇔(-i)と言語の関係である。あるいは、同一性と言語の関係である。これは、作業仮説であるが、言語は、即非関係から生まれたのではないだろうか。
 問題は、とりわけ、同一性と言語である。即非関係において、例えば、私は山と一如である。私は、山であり、且つ、山ではないという即非事象・現象が発生する。このときの、即非関係の「対象」-iである「山」を主体が志向して、「やま」という音声言語が生じるのであるし、文字化して、「山」となるのではないだろうか。おそらく、音声言語は、エネルゲイアの表出であろう。(i)が(-i)を志向するとき、即非における志向性(双方向の志向性:陽の志向性と陰の志向性)において、対象(-i)が、「やま」ないし「山」と表出されるのである。つまり、即非表出・表現としての言語となるのである。つまり、差異的同一性の表現としての言語である。+1の表現としての言語である。これは、芸術としての、詩としての言語でもある。
 しかし、言語が、近代において変質すると言えよう。つまり、反差異・連続的同一性の言語となると考えられるのである。つまり、−1としての言語である。この変質をどう考えたらいいのか。これは、メディア空間の言語から現象空間の言語への変移とも言えるだろう。つまり、近代以前は、「わたし」即非「山」であるメディア空間言語であったが、近代においては、「わたし」≠「山」の現象言語である。差異共振シナジーが喪失しているのである。詩の喪失、コスモスの喪失である。ここには、即非関係の否定があるのである。マイナスが入ったのである。(i)*-(-i)、あるいは、-(i)*(-i)となったのである。 (i)*(i)ないし(-i)*(-i)の関係である。自尊自大と自虐・卑下である。(ここで、D.H. ロレンスの『死んだ男』の言葉を想起する。贈与は、貪欲の一種であるというような言葉である。)
 これまでの見解では、近代は、差異が原点としているということであるが、差異の新たな活性化としての近代であり、イタリア・ルネサンスにおいて、開花したと考えられるのである。そして、西欧に拡大するのである。差異の活性化としての近代である。そして、哲学として、デカルト哲学が創造されるのである。問題は、明晰性である。デカルトは、明晰な合理性として、即非性を排除して、反差異・連続的同一性を求めたと思えるのである。コギト哲学は、差異の哲学であったが、デカルト合理主義は、反差異の哲学であったと思えるのである。思うに、デカルトは、感情そのものを排除してしまったのである。即非関係は、共感性、一如感情、コスモス感情をもたらすのであるが、即非関係を排除したとき、感情も排除したと言えるだろう。いったい、デカルト合理主義の合理性は何か。それは、反感情的同一性合理性であろう。実は、感情性を排除すること自体が、否定感情的であろう。他者との即非的つながりを切断した同一性は、自尊・自大的同一性である。(これは、遠近法と関係しているだろう。)
 ここで、仮説的に言うと、(i)⇒(-i)の陽の志向性と(i)←(-i)の陰の志向性による双方向志向性があると先に述べたが、デカルト合理主義においては、前者の陽の志向性が中心となり、後者が否定されたのではないだろうか。つまり、陽の志向性に対して、陰の志向性が共立することで、即非関係が生起するが、片方だけでは、即非バランスが崩壊されるだろう。おそらく、両方の志向性の極限として、−1が帰結するのだろう。陽の志向性は、(i)が(-i) となり、陰の志向性においては、(-i)が(i)となるのである。即ち、(-i)*(-i)⇒−1であり、(i)*(i)⇒−1となる。思うに、前者が、近代的自我であり、後者がプロテスタンティズムではないだろうか。
 さて、ここで、言語の問題にもどると、即非言語と反差異的言語であるが、志向性の極限によって、後者が生まれたのである。(i)*(i)と(-i)* (-i)が反差異的同一性の源泉である。だから、問題は、反差異と言語の関係である。ここで、訂正的に考察すると、(i)→(-i)において、(-i) ^2を考えたが、これは、実は、(i)=(-i)という事態(錯誤)であろう。この等号が、反差異的同一性であり、反差異的言語の母体であろう。この反差異的同一性言語を介して、主観は、客観を見ているのである。山は以前は、即非的山であったが、今や、反差異的同一性の山である。
 では、遠近法的距離ないし延長はどう説明できるのだろうか。あるいは、三次元的空間は、どう説明できるのか。確認して考察していくと、即非関係においては、本来、遠近法主義は、生まれない。有限と無限とのパラドクシカルな関係がそこにはある。しかし、反差異的同一性が成立すると、無限が消失する。即非の即がなくなり、非がなくなる。A=A且つA=非Aである即非関係から、A≠非Aとなる。つまり、「わたし」と山は、別々になるということで、もはや、「わたし」と山は、一如になることはないのである。言い換えると、「わたし」と山との間には、反差異的同一性の空間(距離)が発生したということになるだろう。そして、この反差異的同一性空間が、数量化されるわけである。1kmの距離。そして、時間も数量化されるのである。カントの超越論的形式が、この反差異的同一性時空間形式である。ここで、直観で言うと、この同一性は、光速度のことである。なぜならば、あらゆる差異関係において、反差異的同一性が発生するのであるから。例えば、差異1=差異2=差異3=差異4=・・・・・=差異n となり、この等号の同一性空間において、つまり、「わたし」と月との距離における同一性、あるいは、「わたし」とブリュージュとの距離にける同一性、これは、光速しか考えられないだろう。そうすると、−1とは、光速の数ということになるだろう。つまり、1/4回転ならぬ、2/4回転である。(ここで、想起するのは、現象空間は、2回の1/4回転、ないし二種類の1/4回転によって生起すると述べてきたことである。つまり、イデア界から一回の1/4回転で、メディア界が形成されて、第二回目の1/4回転で現象界がされるということである。)
 さて、光速が同一性であるということから、ここで、光の現象に関連して考察する必要があるだろう。有り体に言えば、光とは何かということである。ここでも直観で言えば、光は本来、光でないものである。つまり、光=非光である。そう、即非エネルゲイアの反差異的同一性が光の現象になっているのであるから、本来、差異的同一性の光が存していると考えられるのである。つまり、(i)*(-i)の原光があるはずである。私のこれまでの試論から言うと、これは、宗教的光、例えば、浄土教の光である。阿弥陀如来の光、無量光である。無限の光である。これは、換言すると、陰陽光・太極光であろう。いわば、闇をもった原光と考えられるのである。D.H.ロレンスの黒い太陽、『老子』の玄牝(げんひん)はこれではないだろうか。あるいは、黒い聖母像もこれを指しているのではないだろうか。 ということで、光現象とは、零度差異共振シナジーの原光(玄光?)の同一性現象である。とりわけ、反差異的同一性現象であると言えるように思えるのである。
 では、これを数式化するとどうなるのだろうか。明日野氏の自己認識方程式から考えると、原光=(i)*(-i)⇒+1である。そして、光=(i)* (i)=(-i)*(-i)⇒−1である。ここで、雑駁ではあるが、ダークエネルギーについて言うと、それは、前者に関係するだろう。ただし、正しくは、虚次元・虚空間におけるエネルギー、つまり、虚エネルギーである。つまり、いい足す形になるが、闇があるのである。思うに、(i)⇒(-i)の反差異的同一性が光であり、(-i)⇒(i)の反差異的同一性が闇である。両者は−1で同一となるのである。ただし、方向性が異なるだろう。天から地が光となり、地から天が闇となるのではないだろうか。
 とりあえず、ここで留めたい。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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