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2013年12月01日 (21:57)

MP1とMP2:前期PS理論は生きている:但し、『海舌』氏の人間認識図は大修正を要する

MP1とMP2:前期PS理論は生きている:但し、『海舌』氏の人間認識図は大修正を要する

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

氣と太陽と現象(生命体を含めて):氣の現象力学(現象科学):氣の哲学ー科学へ向けて
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11715571610.html

先に以上のように述べたが、結局のところ、前期PS理論はほぼ生きているのである。

   『海舌』氏による人間認識図(要大修正)

人間認識図


 今は、MP1とMP2について簡単に触れる。
MP1とは、ガウス平面における虚軸上の陽凸iと陰凹iの共鳴における交点である。
MP2は実軸上における陽凸iと陰凹iの共鳴における交点である。
 先の説明では、MP1に霊的太陽、MP2に現象太陽の、それぞれのコアがあるということである。
 霊的太陽とは氣の太陽と言えるのではないだろうか。
 思うに、MP1からMP2への次元転換があるのであり、それは、二次元から三次元への転換ではないだろうか。円から球への転換であろう。
 とまれ、後で、詳述したい。
 最後に一言。結局、PS理論の問題点は、自己認識方程式凸i*凹i⇒+1の解釈と人間認識図の解釈にあると言えよう。
 両者とも、『海舌』氏の独創である。天才的独創と言えよう。しかしながら、解釈が拙速であったと思う。
 しかし、PS理論は、陰陽論の太極一元論の見方が欠落していたのであり、私はPS理論から離脱して、それを追求したのであった。
 また、『海舌』氏は、四元数を用いて、新たなPS理論を展開して行った。それは、もはや、PS理論ではないように思えるが、一応、後期PS理論と言うことができよう。
 とまれ、結局、私は数学主導を排して、太極一元論を展開して行ったが、結局、前期PS理論に回帰するようにして、それと太極的陰陽論を結びつけて、無双(太極)PS陰陽論とし、今に至ったのである。
 そう、『海舌』氏と2004年9月ブログ上で遭遇して、不連続的差異論が誕生し、その後、(前期)PS理論が誕生した。それらは、哲学と数学の奇蹟的な 融合と言えよう。(前者は哲学主体であり、思うに、私が主導したものである。後者は上述したように『海舌』氏の陰陽論の独創的数学化である。)
 しかし、その後、哲学志向と数学志向で分裂したのである。
 そして、その分裂前の奇跡的な不連続的差異論/(前期)PS理論へと私は、太極的陰陽論をもって回帰したのである。

追記:後で簡略に、修正人間認識図を作図したい。
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2012年03月13日 (23:18)

「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題

「イデア(エイドス)」とは何か:原像・純粋像問題
テーマ:manichaeism: 哲学
直観で言うと、凸iに「イデア(エイドス)」、原像があると思う。
 凸iとは私説では、純粋自我であるし、純粋言語能力(チョムスキー)である。
 これは、父権的自我である。男性(凸i)が女性(凹i)に見るものは、凹iに投影した凸iの鏡像であろう。つまり、男性は女性を見ても、女性を見ているのではなく、女性に投影した自己自身を見ているのである。つまり、女性としての男性自身である。
 では、女性はどうなのだろうか。女性は凹i自身であり、それは、凸iを包摂すると思う。つまり、女性は男性を男性自身として見るのではなく、男性を包み込んでしまうのである。つまり、内包化である。言い換えると、母権的自我化である。
 だから、女性も男性を男性自体としては見ていないのである。
 とまれ、本題に戻ると、「イデア」は男性的知性であろう。プラトンが説いた「コーラ」とは女性的感性凹iであろう。
 思うに、凸i(「イデア」)が主導的であると、⇒凸(+1)であり、凹i(「コーラ」)が主導的であると⇒凹(-1)となるのではないだろうか。
 前者は積であり、後者は商ではないのか。光と闇の二重世界である。
 今閃いたが、第一象限が男性世界であり、第三象限が女性世界ではないだろうか。以下の左のグラフとなるのではないだろうか。


y=12/x の2つのグラフは、左の図のようになります。2つの曲線になるので、双曲線といいます。

   

 一般に、y=a/x で、0<a なら左の図、a<0 なら右の図になります。

http://mtf.z-abc.com/?eid=415437
反比例のグラフ | 中学から数学だいすき!





「見る」とは何か:凸iと・・・:nudeとnaked: ケネス・クラークの識別
テーマ:art & design
いったい、「見る」とは何なのか。直観では、経験性と超越論性が併存していると思う。
 しかし、本質は超越論性ではないのか。つまり、凸iの純粋自我である。あるいは、超越論的感覚(視覚)である。
 また、直観では、聴覚は凸iというよりも、凹iに関係する。これはおいておこう。
 思うに、純粋視覚と経験視覚を区別すべきではないだろうか。美術とは当然、前者に関わるのであるが、現代、認識が混乱してそれが、わからなくなっていると考えられる。
 ヌードとネイキッド(裸体)の区別がわからなくなっていることと同じ事態と考えられる。
 ヌードは純粋視覚に関わると考えられる(例えば、古代ギリシア美術)。しかし、ネイキッド(裸体)はポルノと関わると言えよう。それは、物質的身体である。
 性(sex)の問題も同様である。D. H. ロレンスが唱えた性とは、純粋視覚における純粋精神(凹i)であると思われる。(この点は検討したい。)
 そう、純粋視覚(凸i)とは古代ギリシアのアポロであり、純粋精神(凹i)とはディオニュソスではないだろうか。
 絶対的純粋視覚において、絶対的純粋精神が生起するのであり、古代ギリシア人はそれは端的に把捉した民族ではなかったか。
 今はここで留める。
 
追記:プラトンの黒い馬(欲望)と白い馬(精神)の区別であるが、これも、経験的自我と純粋自我の区別で説明できよう。
 D. H. ロレンスは、前者から後者への転移を説いたと思われる。





母権的自我と父権的自我について再考
テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)
後で検討したい。
 ところで、PS理論であるが、私は先にNeo-PS理論を唱えたが、それまでのPS理論(後期PS理論)で十分対応できるので、一種のコンパクト化ということで、従来のPS理論、即ち、オイラーの公式を組み込んだガウス平面上の数学・哲学を継続したい。





cosθ+isinθとは実在的に何を意味するのか
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
以下のKaisetsu氏の論考は興味深い。問題は、私の直観では、cosθ+isinθが実像として浮ばないのである。私の想像力不足かもしれないが。
 とまれ、一言述べてみよう。
 わかりやすく、θ=π/3(60度)としよう。そして、
P=cosθ+isinθとする。
 すると、

P=1/2 +i(ルート3)/2

である。実軸1/2と虚軸(ルート3)/2である。
 このPとは実在的に何を意味するのか。私説では、純粋自我(凸i)の要素が(ルート3)/2あるのであり、物質の要素が1/2あるということになる。
 これは何なのか。思うに、これは、自我の様態の一つではないのか、ということである。
 ここで明確に区別すると、凸iは自我ではなく、先に、原自我と呼んだものであるが、改めて、純粋自我と呼びたい。
 そして、θがゼロのとき、P=凸(+1)となり、絶対的物質的自我になるということだろうか。しかし、そのとき、純粋自我はi(ゼロ)=ゼロになっている。
 そうならば、無思考ということになる。(ひょっとすると、現代日本人の精神様態はこれかもしれない。)言い換えると、唯物論である。
 そして、θがπ/2のとき、純粋自我状態になり、絶対的自我はゼロである。思うに、これは、同時に、θ=3π/2の位置を対蹠点としてもつのではないだろうか。端的に、凹iである。
 そう、だから、P=cosθ+isinθは、他者として、対極点のQ=cos(θ+π)+isin(θ+π)を具備すると思えるのである。
 これが、双極子と考えられる。
 今はここで留める。
 

【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係とフェルミ粒子、及び双極構造への助走(鏡像関係)
海舌 SeaTongue@Kaisetsu
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モダン・アート(セザンヌ、ピカソ)とKaisetsu氏の【プランク単位系表示の人間認識図】
テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論
いろいろ述べたいことがあるが、一点に絞って簡単に予備考察を述べたい。
 私の発想は、ピカソの絵画の切断的進展についてである。青の時代は確かに、繊細で、憂愁・悲哀があり、デッサンがきれいである。
 実は知人からピカソの実人生での女性問題が赦せないほど杜撰であったことを聞かされたのでである。ピカソの女性問題は一般的に知られているが、それ以上のものがあり、知人は赦しがたいというものであった。
 とまれ、今は道徳・倫理問題には触れないでおく。
 私は想起したのは、果たして、ピカソの絵画は具象から抽象への転移において、不連続的進展があったのか否かである。ピカソのデッサン力は正に天才的であるが、キュービスム等のデフォルメの時期において、その古典的美学が継続したのか否かということである。
 最初、具象的美学が抽象的美学にも継続していると私は考えたが、果たして、連続性を見ていいいのか疑問に思ったのである。
 私は生で、ピカソの『ゲルニカ』を見て、魅了された。それは、音楽的であった。
 その美学は青の時代と共通するのかである。
 これは難しい問題である。今の直観では、共通するものと、不連続のものがあるように思えるのである。
 調和という点では共通だと思う。
 しかし、質がなにか異なるように思う。
 キュービスム以降は、連続的同一性を破壊した「フォルム」による絵画をピカソは描いたでのである。
 つまり、現象の否定である。ここがポイントである。否定された現象による「フォルム」による絵画、それが、キュービスム以降のピカソの絵画である。
 思うに、イデア的美学にピカソ(あるいは、モダン・アート)は近づいたのではないだろうか。
 イデアとしての「デフォルメ」である。その美学をピカソは表現したのではないのか。
 端的に言えば、差異共振美学がピカソの根源にあり、それが、連続的な青の時代の絵画を形成した。
 しかるに、キュービスム以降、連続性を否定して、不連続的な差異共振の美学、「デフォルメ」の美学を追求したのではないのか。
 どうも、そう思われるのである。
 ここで、ピカソの不道徳性・没倫理性を考えると、世間的な連続的「道徳」・「倫理」をピカソは否定したということかもしれない。この問題はここで留める。
 ただし、ピカソはイデア的絵画には完全には到達していないと思う。彼は直観的であったが、哲学・理論的ではなかったと思う。
 思うに、これは、結局、モダニズムの問題である。イデア的根源と経験的執着の絶対的矛盾様態をもつモダニズムとして。
 とまれ、今はここで留める。

追記:肝心なことを言うのを忘れていた。以上の問題とKaisetsu氏の指摘【プランク単位系表示の人間認識図】 シュレーディンガー方程式の一般化と、存在性と精神性の関係 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.htmlとの関連である。
 どうも、モダン・アートとKaisetsu氏のオイラーの公式的に説明された人間認識図は関係するように直観されるのである。これは、後で、検討したい。

参照:


http://blog.goo.ne.jp/herbie600033/e/9642a096966ba2e0ee91dc914a40cbae


http://img374.imageshack.us/img374/5968/guernica1937pradomadryt3bx.jpg


es posted by (C)天花一海

http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11186274828.html

2012年02月26日 (16:37)

新しい差異共振は凹i☯凸i⇒凹(-1)なのか凹j☯凸j⇒凹(-1)なのか

先に以下のように書いた。

原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11175759478.html

ふと、ガウス平面で足りるのではないかと思ったので、少し検討したい。
 問題は新しい差異共振の位置である。これまでのPS理論の考え方から言えば、新しい差異共振とは、凸i*凹i⇒凸(プラス1)の凸i支配の連続性から、不連続化された凹iが主導する凹i*凸i⇒凹(-1)に存するのである。
 しかし、これは、私見では、氣の差異共振であり、精神の差異共振ではないのである。あるいは、両者が区別がつかないのである。
 私説では、1.原初差異共振⇒2.同一性力学⇒3.新差異共振というように推移するのであるが、

1. 凹i☯凸i⇒凹(-1)

2. 凸i*凹i⇒凸(+1)

3. 凹i☯凸i⇒凹(-1)

という方程式になる。
 問題は2から3への推移である。あるいは、1から2への推移である。後者を考えると、氣から精神へと転化できるのかという問題である。
 純粋に氣を考えると、凹i☯凸i⇒凹(-1)であり、凸i*凹i⇒凸(+1)はありえないのではないか。もし、それが可能ならば、氣が硬直化することになるのである。氣は常に変動しており、「陽」が「陰」を支配することはありえないのではないだろうか。言い換えると、常に差異共振様態としての氣と考えられるのである。
 だから、1から2への転移は不可能と思われるのである。また、それは、2から3への転移の不可能性でもある。何故なら、それは、精神から氣への転換となるからである。
 故に、先に作業仮説したように、精神軸としてのz軸を提起することは、問題解決の意味をもつと考えられるのである。
 故にやはり、新しい差異共振は凹i*☯凸i⇒凹(-1)ではなく、凹j☯凸j⇒凹(-1)と現段階では考えられるのである。
 整理すると、

1. 氣の差異共振方程式:凹i☯凸i⇒凹(-1)

2. 自己同一性力学方程式:凸j*凹j⇒凸(+1)

3. 新しい(自己)差異共振方程式:凹j☯凸j⇒(-1)

となる。但し、凸i*凹i⇒凸(+1)は成立しないことになる。
 最後に、ルドルフ・シュタイナーの精神学の四元的体との関連を言うと、自我は凸(+1)であり、エーテル体(生命体、氣)は、凹i☯凸i⇒であり、アストラル体(感情欲望体)は、凹jであり、物質体は凹(-1)ということになるように思える。そして、「悪魔」であるが、アーリマンは凸j優位、ルシファーは凹j優位、そして、「キリスト」は自己である凹j☯凸j⇒凹(-1)と考えられる。

2012年02月26日 (10:11)

原初差異共振と凸i支配と新差異共振:Neo-PS理論へ向けて:人間・自然認識立体図

これまで、原始差異共振と呼んだものを原初差異共振primary difference(co-difference?) resonanceと呼び直す。これは凹i主導のもので、まだ、凸i支配の同一性は形成されていない。虚軸上のmedia point(imaginary axis media point)での事象である。凹i優位(凹i superiority)があるのである。言い換えると、凸i劣位(凸i inferiority)があるのである。これはまた、原初母権文化的意識primary matriarchal culture senseということもできよう。
 そして、連続性、凸i支配の力学が生起する。これは、人間固有の連続性支配である。凸i優位、凹i劣位の力学である。同一性力学の支配である。実軸上の media point(real axis media point)における連続性様態である。ここに、精神的フィルターがあるし、また、カント哲学の超越論的「精神」が存するだろう(後で再検討。純粋理性は原初差異共振と新差異共振の両方に関わるようだ。これも再検討)。
 問題は原初差異共振、虚軸上のmedia pointの様態の方程式である。
 後期PS理論において、凸i*凹凹i⇒凹(-1)とそれを方程式化したが、差異共振は凹凹iというような凹iの否定ではなく、あくまで、凹iの肯定でなくてはならないから、それは間違いと考えられる。
 凸i*凹i⇒凸(+1)の*であると、凸i支配の力学と勘違いするので、原初差異共振を凹i☯凸iと表記する。この虚軸上のmedia pointの事象であるが、これはどういうベクトルを形成するのか。それとも、そのままなのか。
 また、問題は、凹(-1)の意味である。果たして、それが、差異共振のベクトルの方向の終点でなければ何なのか。
 今想起したのは、☯は積ではなく、商ではないのかということである。つまり、凹i÷凸iないし凸i÷凹iである。そうすると、当然、⇒凹(-1)になる。だから、凹i☯凸i⇒凹(-1)となる。(これは作業仮説である。)
 以上のようにPS理論を再確認すると、初期PS理論ではなく、後期PS理論の妥当性、整合性が明らかになる。結局、差異共振と同一性との区別が凸i*凹 i⇒凸(+1)の場合、不明瞭であるので、疑問が生じたわけであるが、原初差異共振を凹i☯凸i⇒凹(-1)としたので、区別が判明となり、疑問が解消したのである。
 そうすると、先に、差異共振を表記するのに、想定したz軸は不要となる。
 そうすると、オイラーの公式と統合したガウス平面(仮称:Euler's formula integrated Gaussian plane:EGP)上の円において、左半円(虚軸を含めて)は光(マニ教の光)の様態であり、右半円は闇(無明)の様態となる。(凸iは陽、原光であり、凹iは陰、原闇と見るのがいいだろう。しかし、これは紛らわしい。後で用語を考えたい。)
 では、物質はどう表記されるだろうか。これまで、凸(+1)としてきた。思うに、自然現象は差異共振現象であり、それは、⇒凹(-1)を意味しよう。Vector Modeはこちらに生起しよう。
 ならば、⇒凸(+1)は何か。これは、同一性ではないだろうか。凸iが超越論的同一性精神とするなら、その力学の結果の⇒凸(+1)は同一性でないのか。あるいは、自我(自己同一性)である。(今はそう作業仮説する。)
 ここで、氣を考えると、やはり、それは、差異共振様態と考えられるが、そうすると、精神、光と同一体になってしまうだろう。
 先に述べたように、氣と精神を区別したいのである。すると、z軸が必要になるのである。
 氣を凹i☯凸i⇒凹(-1)とすると、精神は凸j☯凹j⇒凹(-1)と考えられないだろうか。jはz軸という第二の虚軸の虚数記号とする。
 そうすると、これまでの考え方を変更しないといけない。つまり、原初差異共振とは凹j☯凸j⇒凹(-1)であり、同一性力学は凸j*凹j⇒凸(+1)となる。そして、当然、凸iは氣の陽であり、凹iは氣の陰である。
 だから、三重、三次元のmedia point(three-dimensional media point)において、精神と氣と原自我(凸j)の混合することになるように思われる。
 しかし、そのように作業仮説したとき、問題は、氣が物質を生み出すこと(造化)はいいとしても、精神も物質を生むことになるが、それでいいのだろうか。
 それは正しいと思う。精神様態によって身体、肉体は変化するのは当然である。ストレスを考えればいいのである。ということで、この点もクリアされた。
 最後に、凸jの支配からの脱却である不連続化に拠る新しい差異共振についてであるが、それは、凹j☯凸j⇒凹(-1)と考えられる。そう、精神と氣と物質が一体となっているのである。
 今はここで留める。

追記:人間認識図であるが、それは、人間・自然認識立体図となるだろう。

追記2:光や量子はどう記述されるのだろうか。凹i☯凸i⇒凹(-1)の⇒が光ではないだろうか。そう、マニ教の光は凹j*凸j⇒凹(-1)の⇒ではないだろうか。前者が現象光であり、後者が精神光(霊光)である。
 しかしながら、3D media pointにおいて、それらは、融合しよう。
 では、量子はどうなるのかと言えば、それは、光の⇒の振動数、波動の違いで説明できるかもしれない。思うに、ここで濃度概念を使用できるだろう。凹iの最高濃度(凸iが最大強度)の場合と凹iの最低濃度(凸iの最小強度)の場合の両極における中間値(極大の場合も含めて)をもつように思える。

追記3:そうすると、円ではなく、球ないし球面が人間・自然認識立体図の主要な空間となる。

2011年11月17日 (23:24)

大地とは何か:第三象限、凹i(陰)、「地」とコスモス

テーマ:manichaeism

宇宙への志向、「天」への志向はわかりやすい。
 では、大地、「地」への志向とは何を意味するのか。
 PS理論では端的に、凹i、陰であろう。これは、第三象限と通じている。つまり、四大で言えば、地と水が存する。
 直観では大地の中心とは第三象限である。宗教は一般には「天」を志向するが、天才的宗教家は「地」を志向する。
 鈴木大拙は『日本的霊性』で正に、地、大地の霊性を説いたのである。
 ここで作業仮説であるが、情報、根源的情報、霊・精神的情報が第三象限ないし凹i(陰)に存するとしよう。これを凸i(陽)が取り込むのでないだろうか。しかし、合理性、論理性、そう、ロゴスに従って。プラトンのイデアはそのようなものだろう。一般に西洋文化はそのような知的原理をもっている。つまり、第二象限である。
 ここで飛躍するが、コスモス(宇宙、ないし、「天」)の根源は何であろうか。
 単純に言えば、media pointの虚軸点がそうだと思うが、上記の考えからすれば、第三象限、ないし、凹i(陰)に根源があると言えよう。言い換えると、大地、「地」に根源がある。
 だから、凸i(陽)、「天」とは凹i(陰)、「地」の反映、反照、投影ではないだろうか。(シュタイナーの考えがそうであるし、D. H. ロレンスもそうである。)
 物理学的に言わば、ダーク・エネルギー(おそらく、「ダーク・レイ」)がライト(光)を映出しているのである。
 闇が光を産み出しているということになる。(そのようなことがありえるのだろうか。)とまれ、光は現象界へと投影されるのである。
 では、第三象限、ないし、凹i(陰)、「地」にどのように、精神的情報が存するのだろうか。
 思うに、それは直観的情報、直観知である。不連続的差異論の段階で、知即存在という概念を述べたことがあるが、直観的情報、直観知はそのようなものではないだろうか。(あるいは、即非知と言えよう。)
 すると、直観知的源宇宙(コスモス)、即非知的源宇宙(コスモス)が存することになる。
 ダーク・マターはここに存すると言えようが、果たして、マターと呼んでいいか疑問ではある。
 結局、第三象限、凹i(陰)、「地」から開始され(天地開闢)、凸i(陽)、「天」が能動化するのではないだろうか。
 そう、それが、ゲーテ/シュタイナーの上昇ではないだろうか。
 西洋文明は根源にヤハウェが存したが、それが今や枯渇してしまったと言えよう。新たに、第三象限、凹i(陰)、「地」へと回帰すべきときである。
 これがロレンスが『黙示録論』で説いたことだろう。
 とまれ、以上はまったくの思考実験である。

2011年10月04日 (21:26)

気と電磁波:ニュートリノと光:差異共振を包摂する即非気的根源身体?

余裕がないのでざっと書く。先にも述べたが、D.H.ロレンスのFleshの概念をどう考えるかである。私は凹(-1)に関わっていると推測した。(今、ふと閃いたが、ニュートリノは凹(-1)と関係しているのではないだろうか。)

思うに、ひょっとして、「気」は凹(-1)が根源ではないだろうか。これは、私は凸i*凹iを電磁波ではなく、超電磁波のように考えてきた。つまり、気として考えた。

今の直観では、凹(-1)は凸i*凹iを包摂しているということである。後者は即非的であるが、即非的様態と凹(-1)が一如ではないだろうか。言い換えると、凹(-1)は虚軸に顕現していて、それが、凸i*凹iを包摂しているのではないだろうか。凸i*凹iの即非はほぼそれと一致するのではないだろうか。

もしそうならば、即非様態、ないし凹様態が「気」である。これは、根源様態であり、電磁波を包むものであり、電磁波の視点、物質科学の視点からは認識できないものである。

思うに、光を凸i*凹⇒とするならば、ニュートリノは凹(+1)⇒凸i*凹iではないだろうか。つまり、凸i*凹iを包摂した「気」の粒子ということではないだろうか。

今はここで留める。ロレンスのFleshについては後で検討したいが、やはり、「気」やニュートリノと関係しているのかもしれない。

2011年09月19日 (19:50)

D. H. ロレンスの「王冠」論はPS理論に酷似

D. H. ロレンスの「王冠」論はPS理論に酷似

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

先に、Foreword to Sons and Loversの特異な三位一体論について言及したが、それよりも、The Crownの評論の方が、PS理論に近い。light とdarknessの衝突、そして、合流として、The Crown or The Holy Ghostが両者に超越的に生成するのである。
 問題はPS理論ではThe Crownは何になるかである。それは、media pointではないだろうか。media point は凸iと凹iの極であると同時に、極を超えているだろう。
 これは、極性、即非の問題である。端的に、即非がThe Crownだろう。先に第3のものが生じると言ったが、それも関係するが、一致はしないのではないだろうか。
 これは、凸i/凹i⇒凹ということなのか。media pointの方程式が必要なのではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:「王冠」はMP1、つまり、虚軸上のmedia pointではないだろうか。ならば、凸i/凹iはMP1にあるということになろう。
 しかし、凸i/凹i=凹i/凸i⇒凹(-1)と表記する方が的確である。「王冠」とはロレンスは光と闇の対立を超越した絶対、永遠であると述べているのである。

追記2:「王冠」論から見ると、「天」の方向は光の方向だから、凸iの上昇方向であり、「地」の方向は闇の方向で凹iの下降方向となるので、先に指摘した「天」の方向は⇒凸(+1)で、「地」の方向は←凸というのは考え直さないといけない。
 とまれ、「王冠」論のようにすると、重力は当然、闇の方向であるが、では、反重力はどうなるのか。今のままでは、光と重なってしまい、不整合である。
 直観で言うと地・闇凹iから天・光凸iへと、コスモスの光とでもいうものが発せられるのである。もしそれがあるならば、コスモスの光が反重力になる可能性はある。
 それは、方向的に確かに、重力とは正反対であり、光の方向と同じである。しかしながら、それは、いわば、不可視の光である。いわば、dark rayである。そうならば、確かに、反重力としての力の可能性、そして、dark energyの可能性はある。
 とは言え、もしそうならば、逆に、反光があるはずである。しかしながら、宇宙においては、反重力、dark energyの方がはるかに強力であるということになる。
 とまれ、そうすると、ロレンスのdark sunは凹iの上昇するコスモスの光ということになるだろう。
 また、直観では、コスモスの光、不可視の光は超越性と結びついているのである。そう、コスモスは以前、第三象限であると言ったが、それを考えても、コスモスの光、不可視の光は第三象限から発しているということになる。
 思うに、簡単に考えると、第三象限と凹iは隣接しているのであるから、両者が一如的であるのは当然かもしれない。
 後で整理したい。
 


D. H. ロレンスのカウンター三位一体論とPS理論

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

ロレンスはSons and loversの序言で、ヨハネの福音書の冒頭の言葉を転倒させた。言葉Wordが身体Fleshになったのではなく、身体が言葉になったと変更(いわば、換骨奪胎)した。そして、身体が「父」であり、言葉が「子」(キリスト)である。また、「父」は「母」でもあると言っているのである。
 そして、身体Fleshはa formless primal unindividuated source of being or lifeということである。言葉はそれから生まれた独一的な個である。
 閃いたのは、身体=「父」は凹(-1)であり、言葉=「子」は陰陽ではないかということである。しかし、今、それは、光凸i(+i)と見た方がいいのではないかと思う。
 ロレンスの発想から言うと、身体=「父」は未分化的根源で、それは、凹(-1)に関係するだろう。そして、言葉=「子」は分節する凸i(+i)にふさわしいだろう。
 そして、大局的に見ると、「父」(=「母」)と「子」の関係は、第三象限と第一象限の関係になるように思われる。
 ロレンスがdark Godやdark sunと呼んだものは、やはり、第三象限に属すると言えよう。そして、彼が批判したキリスト教や近代世界とは第一象限を指していると言えよう。
 ここで宇宙力学の問題に触れると、dark matterやdark energyはやはり第三象限に帰属し、可視の世界、光が照らす物質の世界は第一象限に帰属すると考えられる。
 今はここで留める。

参考:Foreword to Sons and Loversの冒頭を引用:

John, the beloved disciple, says, 'The Word was made Flesh.' But why should he turn things round? The women simply go on bearing talkative sons, as an answer. 'The Flesh was made Word.'
 途中。



Sons and Lovers: Cambridge Lawrence Edition (Classic, 20th-Century, Penguin): Lawrence, D. H.

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Sons and Lovers: Cambridge Lawrence Edition (Classic, 20th-Century, Penguin)
(ISBN: 0140188320 / 0-14-018832-0 )
Lawrence, D. H.

* Bookseller: C-books.co.uk (Lowestoft, Suffolk, ., United Kingdom)

http://www.abebooks.com/Sons-Lovers-Cambridge-Lawrence-Edition-Classic/5531561926/bd

2011年08月22日 (14:33)

思考実験としての再考:粒子と反粒子の生成力学に関して:粒子/反粒子は物質的対であり、反粒子/反物質は超越的存在、霊的存在ではない

思考実験としての再考:粒子と反粒子の生成力学に関して:粒子/反粒子は物質的対であり、反粒子/反物質は超越的存在、霊的存在ではない

先に、+1を粒子、-1を反粒子(反物質)としたが、それは、勘違いであり、訂正したい。⇒+1において、粒子/反粒子の対生成があると考えられる。それを作業仮説的に共役複素数とする。とまれ、粒子/反粒子の対を電子と陽電子とすると、原子核とはMedia Pointではないだろうか。思うに、原子核のMedia Pointを中心として、電子と陽電子が回転するのである。それが、物質の原像ではないだろうか。
ここで、「空」について触れると、それは、やはり、Media Pointと考えられる。有と無を生み出すものである。(思うに、ハイデガーの存在論はこの点でまったく一面的ではないだろうか。存在ではなく、「空」である。もっとも、「空」が「在る」ということになるが。しかしながら、「空」=Media Pointは、「在る」を超えている。)
さらに、それは、-1に通じる。しかし、正確には、第三象限である。なぜなら、「空」=Media Pointは陽である凸i、+1を滅却して、到達できるからである。つまり、凹i、-iの根源的優位性があると考えられるからである。前者を個我とすれば、後者は非個我である。しかしながら、個我を経過して、非個我には達するべきである。そうでないと、全体性ないし集合性に飲み込まれるからである。
ここで個やアートマンについて考えると、それは、陰陽ないし霊魂と考えられる。それをブラフマンと考えること、即ち、梵我一如と、「空」=Media Pointとは異なるだろう。
後者は前者を包摂していると考えられる。なぜなら、空即是色、色即是空であるからである。言い換えると、個/アートマンとは、「空」=Media Pointの「存在」あるいは陽=凸i=+1の傾斜と考えられるからである。後者から前者が生成するのである。
ここでジェンダー論的に説くと、前者が父権であり、後者が母権である。母権から父権が生まれ、今や新たに母権に回帰しつつあるのである。



龍樹(ナーガールージュナ)をちらと見たが、PS理論に通じると直観される

テーマ:Buddhism

「空」とは端的に、PS理論のmedia pointのことであると言えよう。それは、在ると同時に、無いのであるから。問題はウパニシャッド哲学のアートマンの問題である(梵我一如)。
 私は個は他者であると言った。つまり、アートマンは他者(ブラフマン)になるのである。
 ならば、ウパニシャッド哲学と仏教哲学はPS理論において統一されると言えよう。
 D. H. ロレンスの唱えるコスモスも個=他者=「神」と同じことである。個でありつつ、他者なのである。「個」即非「他者」である。
空 (仏教) - Wikipedia
ja.wikipedia.org/wiki/空_(仏教) - キャッシュ
龍樹の空観 に移動‎: この空の理論の大成は、龍樹の『中論』などの著作によって果たされた。 龍樹は、存在という ...
インドでの基本概念 - 仏典の用例 - 空とは何か - 類似の発想の西洋での芽生え



『平家物語』と『源氏物語』:民衆的文学と貴族的文学:どちらが日本を代表する文学か

テーマ:二つの日本:父権的日本と母権的日本

以下、kaisetsu氏の日本文化に関するコメントは徹底している。想起するのは、以前、私が日本文学を代表するのは『源氏物語』ではなく、あえて『平 家物語』であると述べたことである。前者の権威が強いために、断言するのは勇気がいるのであるが、面白さから言えば、端的に、後者の方が面白いのである。 日本語の簡潔で力強い口語体がすばらしいし、私はトルストイの叙事的文学の文体を想起したものである。そう、私が日本で一番好きな人物は木曽義仲である。 個に徹した人物、日本では稀有である。坂本龍馬に通じる人物だと思う。
 思うに、『源氏物語』の美学は当然に貴族趣味的であり、なにか生活感情から言うと、繊細すぎて、ぴんとこない点が強いのではないだろうか。閑人の感情と言おうか。
 それに対して、『平家物語』は野太い声が聞こえるが、清冽な感情が漲っていると思う。あえて言えば、ホメロスの叙事詩に匹敵するのではないだろうか。それにしても、端正な生活的な言語である。
 思うに、kaisetsu氏の日本美学大転換は大きな意味があるだろう。舶来趣味にかぶれた日本知識人や愚民への大痛打である。

倭国と日本国は異なる。よって、他国が倭(ウェイ)と揶揄しても日本人は「平気」だ。

注:基本的に、鎌倉以降の日本人的精神は、貴族趣味を嫌い、土着的で泥臭い文化を愛しているのである。

 倭国が百済や新羅的な貴族趣味的な傾向を持つのに対して、天武朝は地方豪族と半農半武、半漁半武の土着的で泥臭い気風と皇族との結託によって、中央勢力である倭国が打倒され、日本国が形成されたのである。

 平安期になると、また、百済的、新羅的な貴族趣味が蔓延するが、やはり、鎌倉期に、地方の武士階級と浄土宗などの泥臭い庶民階級によって、日本的精神の覚醒が起こるのである。

 日本人は、泥鰌掬いの踊りを、誇りを持って、眺めるのである。「カッコイイ」と感じるのである。

海舌
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile



2011年08月06日 (08:40)

There is the Unseen World inside the Seen World.

今日は東京に用のあった日だった。
 仕事の帰り、午後7時前頃、交差点で見た空に神秘を感じた。最近は神秘を特に感じない生活をしたが。
 とまれ、西空に神秘を感じたし、また、全体に神秘を。
 途中。

追記:後で説明したいが、簡単に言うと、目に見える世界(現象界)以外に、the unseen, dark worldがあるということを直感したということである。
 その不可視の世界こそが本当であり、可視世界は単なる仮象に過ぎない。物質的仮象世界に過ぎない。

追記2:以前述べたが、言うならば、ガウス立体を構想したくなる。即ち、垂直の軸が平面を貫くものである。
 z軸が直交軸で、x軸とy軸による平面を貫くのである。z軸は精神軸(霊軸)であり、xy平面は物質平面(現象平面、仮象平面)である。

凸i*凹i⇒(x^2+y^2)^1/2⇒+1

後で検討。

追記3:二次元空間と三次元空間の問題:以前、三次元とは二次元に時間ないしエネルギーが加わったものではないかと述べことがあるだろう。
 つまり、立体とは平面の時間的展開ということになる。ならば、現象界とは平面の時間的展開空間となる。
 しかしながら、現象界、可視界において、虚軸界が不可視である。あるいは、media pointが。さらにはマイナスの世界が。⇒+1の⇒の先端と+1の世界が現象界で、光に拠る可視界である。
 しかし、⇒の起点、media point、-1は不可視界である。D. H. ロレンス的に言えば、dark God, dark sun、darkness, the unseenの世界である。当然、近代はこの世界を排除したのである。超感覚的世界。
 また、ロレンスはコスモスを「暗い」薔薇と喩えていた。それは、⇒と言えよう。それが不可視の薔薇宇宙なのだろう。
 結局、近代は+1を知るのみで、⇒+1を理解しなかった。

2011年07月10日 (10:35)

「気」とは何か:東京の空気と田舎・郊外の空気:同一性体と多元差異共振体

後で考察を展開するが、一言言うと、経験・体験から、明らかに、田舎・郊外の空気と東京の空気は質的に異なる。
 私は1979年から2009年まで東京の区内に住んでいたし、その他、農業地帯の田舎には16年間、また、ここ十数年に頻繁に田舎に帰っているし、今2年間であるが、郊外(国道が近くにあるが、その向こうには、かなり大きな森や畑がある)に住んでいる。
 だから、長い経験・体験を経た実感、肌・皮膚の感覚で言うのである。一時の印象ではない。
 直観では、田舎・郊外の空気(以下、自然的空気)は有機体的、差異共振的であるのに対して、東京の空気(以下、都市的空気)は無機的、物質的である。
 思うに、自然的空気(以下、自然気)は、植物から排出される酸素や二酸化炭素や水蒸気が有機的、差異共振的である。多元的差異共振様態をもっていると思われるのである。つまり、単独で孤立しているのではなく、media pointで「つながりあって」いるのである。そう、media resonanceを形成しているのである。
 ということは、自然気とは、media pointによるmedia resonanceによって産出されるということではないだろうか。
 それに対して、都市的空気(以下、都市気)は、media resonanceがなく、単に、物質体としての酸素、二酸化炭素、水蒸気等が併存、混合しているように思える。
 差異共振様態が欠落しているのである。故に、感触は不快なのである(都市気は「痛く」感じる)。
 生命体、精神的生命体を考えると、それは、差異共振体であるから、当然、自然気と調和するのであり、都市気とは相反すると考えられる。
 健康から言うと、前者が肯定的であり、後者は否定的である。
 都市、大都市に住むと明らかに健康に悪い。
 後、問題点は物質的文化である。建築物や乗り物等である。そして、物質主義的な人間の集合である。
 これは、明らかに、差異共振波動がないので、精神を物質化するように思えるのである。この点は検討課題である。
 今、差異共振「波動」という言葉を単純に使用したが、これは、量子論的である。そう、何度も既述したが、量子は差異共振子と見るといいのである。差異双極子である。当然、PS理論的に見るのである。
 虚軸の領域は差異共振波動でいいように思えるのである。しかし、それは、端的に、気波動である。エーテル体である。それが、media pointを介して、粒子、物質を発現・形成すると考えられるのである。
 以前述べたように、長距離相関問題であるが、それは、虚軸の双極子を考えれば、疑似問題である。そう、量子力学は気(精神的双極子)と物質をまだ混同しているのである。
 量子力学は精神波動力学となるべきである。
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