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2006年08月01日 (16:07)

『「半田広宣氏の NOOS 理論」の批判的検討』

『「半田広宣氏の NOOS 理論」の批判的検討』
テーマ:ヌース理論批判
コメントの「名無し」氏から、『■「半田広宣氏の NOOS 理論」の批判的検討』が紹介された。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015189659.html#c10026214737
その内容が妥当なものを含んでいると考えられるので、ここにリンクを貼り付ける。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/noos_cri.html

_______________________________

「半田広宣氏の NOOS 理論」の批判的検討
2001年6月22日作成
◇はじめに

以下では「半田広宣氏の NOOS 理論」を検討した私の文章を掲載いたします。これらは全て、ある掲示板に投稿した私の記事です。 (記事の中に私以外の投稿者の記事の一部を引用していますがその投稿者の名前は伏せ字にしています)

「半田広宣氏のNOOS理論」についてある程度の知識をお持ちの方を対象にしています。NOOS理論について不明の方は 半田広宣氏の著書やインターネットの 検索エンジンで調べることができます。

◇投稿記事の目次

No. タイトル 作成日時
1 書評:『光の箱船』半田広宣、砂子岳彦 共著 2001年5月27日(日)
2 書評:『光の箱船』半田広宣、砂子岳彦 共著(続き) 2001年5月27日(日)
3 半田広宣氏の NOOS 理論における詭弁と妄想(1/3) 2001年6月2日(土)
4 半田広宣氏の NOOS 理論における詭弁と妄想(2/3) 2001年6月2日(土)
5 半田広宣氏の NOOS 理論における詭弁と妄想(3/3) 2001年6月2日(土)
6 半田広宣氏と冥王星の意識体 2001年6月9日(土)
7 光の箱舟』とトンデモ 2001年6月9日(土)

書評:『光の箱船』半田広宣、砂子岳彦 共著


>……あの、半田さんが物理学者と共著の本を出しましたけど、今度は読みますか(笑)?

半田広宣氏の主催する Web ページで刊行が告知されていたこともあり入手し
ました。以下、辛口ですが率直な感想を書いてみます。

まだざっとしか読んでいませんが、内実に乏しいと感じました。処女作の二番
煎じの域を出ていないとも。どうも1冊目、2冊目、3冊目と後になればなる
ほど現実との接合が失われ、逆に現実と乖離した妄想理論(=詭弁)のみが肥
大化しているように感じました。現代的に装ってはいるが本質はスコラ神学の
同類だと判断しました。

以前、ここでも少しふれましたが半田氏の説は既に足場から崩壊しています。

---{ 
「……僕らはまだ4次元についてさえ明確な理解には至っていないのですよ。
1999年といえばあと10年ほどしかありません。そんな短い期間の間に、今の人
間が4次元のみならず5次元世界に対する理解を完全なものにすると言われるの
ですか……。とても信じられません。」「あなたが信じる、信じないにかかわ
らず、必ずそうなります。」オコットは極めて平然と言い切った。そして、そ
の口調は絶対の確信に満ち溢れていた。

もし、わたしたちの知性が4次元対称性を発見すれば、それはコペルニクスや
アインシュタインがもたらしてきた世界認識の革命より、さらに驚異的な変革
を人類の知性にもたらすことになるだろう。そして、それが、さらに5次元対
称性の発見までいくとしたら……。オコツトが言うように、確かにその次元の
対称性を感覚化できた知性の持ち主は、もはや人類と呼ペる存在ではないかも
しれない。
---}『2013:人類が神を見る日』 88ページ

と断言しておきながら、1999年はとうに過ぎたのに「4次元のみならず5次元世
界に対する理解を完全なものにする」ことができた人間、「感覚化できた知性
の持ち主」は半田氏、砂子氏を含め誰もいないゆえに(他にも理由は挙げられ
ますが、分かりやすい例として)。

仮に半田氏、砂子氏が「4次元のみならず5次元世界に対する理解を完全なもの
にする」ことができるとか、「感覚化できた知性の持ち主」だと主張しても事
態は一向に変わりません。それが事実の場合のみ体験しうること、表現しうる
筈のことが全く述べられていないからです。

概念的な空間理解や推測および錯覚を交えた浅い神秘体験(これが半田氏、砂
子氏の4次元、5次元理解の実態でしょう)と本物の次元を超えるような感覚的
実感・体験とは全くの別物でしょうから。

まさか「世界とはわたしである」「いつでも今、どこでもここ」(『光の箱船』
145ページ)程度の実感で「もはや人類と呼ペる存在ではない」とまで自認する
とも思えませんし。

半田氏が自説の足場の崩壊を深刻に受け止めた様子がないのは、それが元々現
実との接続(=足場)を求めない空中の楼閣であり、半田氏はより純粋なイデ
ア(=悪く言えば妄想)を目指しているからだと推察します。

以前、半田氏の主催する Web の掲示板に上のような趣旨の批判(表現はかな
り和らげたもの)を書き込む直前に気が変わって止めた事があります。半田氏
は(ご本人がどう思っていようと)既に自著の主張を「現実世界において」信
じていはいないと気づいたので、野暮な営業妨害は止めた訳です。私も大人に
なりました(笑)

閑話休題。
『2013:人類が神を見る日』 266ページの「オコツトから送られてきた回路図に
基づいて制作されたエネルギー発生装置」の写真(透明な樹脂製の円板に模様
を描いただけのもの、に見えます)が全てを語っているような気もします。



書評:『光の箱船』半田広宣、砂子岳彦 共著(続き)



先に半田氏の説を「現実と乖離した妄想理論(=詭弁)」だと断じましたので
氏の説のキーポイントでかつ、分かりやすい具体例を選び、その根拠を述べる
ことにいたします。

半田氏は
---{
わたしは3次元空間に生きている生物などではない……<私>の本性は、より高
次の世界から3次元世界をのぞき込んでいる意識生命体だったのだ。
---}『2013:人類が神を見る日』195ページ。

---{
それは、モノを知覚している<わたし>の位置は、決して3次元空間内で規定で
きるものではなく、3次元空間においては「無限遠点」と見なされる場所に存
在している――という仮説です。
---}『光の箱船』85ページ。

と述べ、その理由は

(1)「立方体の頂点に立てられた鉛筆」の図(『2013:人類が神を見る日』192
  ページ、『光の箱船』95ページ)を用いた説明。
(2)射影幾何学におけるリーマン球面を用いた説明(『光の箱船』93ページ)。
(3)「観察の次元は1次元上位にある」という説明(『光の箱船』図10、89ペ
  ージ)
(4)「本来、点的な描像として描かれている特異点が、私たちが実際に観察し
  ようとすると、なぜかどうしても巨大なガスタンク内壁のような球面状の
  ものとしてイメージされてしまう」というビッグバンによる説明(『光の
  箱船』101ページ、もう一つの無限遠点)

などであり、これらによって「観察行為が生まれている空間と四次元の関わり
の仕方が、信じられないほど一貫したロジックで表現できる」(『光の箱船』
109ページ)とまで述べています。

この(1)~(4)は全て詭弁に過ぎません。まず、(4)は一点から球状に膨張した
という前提なのでごく当たり前の話で、「なぜかどうしても」といった疑問が
生じる余地はありません。

(3)は全然、説明になっていません。観察者が3次元空間の内部に存在したと
して、その内部からの観察によってそこに縦、横、奥行きがあることを認識す
ることが不可能と立証されなければ、(3)は意味を持ちません。四次元の世界
から三次元が認識できうること、と四次元からでなければ三次元が認識できな
いことは全く別ですから。

(2)のは氏の仮説の比喩であり、根拠の説明にはなっていません。三次元世界
と我々の意識の関係が平面とリーマン球面の射影であると「仮定すれば」、そ
ういう比喩が成立するというだけで、その仮定が成立する根拠を述べていませ
んので説明にはなりえません。

さらに、その仮定を受け入れた時こそ、氏の説は破綻します。なぜならその場
合、この三次元世界の無限遠に近づけば近づく程、我々の意識の地点に近づく
ことになります。つまり今、目の前に見ている画面の文字よりも、太陽の方が
我々の意識に近く、さらに太陽よりも冥王星の方が我々の意識に近く、冥王星
よりもアンドロメダ星雲の方が我々の意識の地点に近い筈です。これがリアル
な意味をもつ仮説ではありえず、詭弁である事は明白でしょう。

(1)も明らかな詭弁です。立方体の8つの頂点全てに鉛筆を立てて、それらを
同時に同じ方向から鉛筆の軸に沿って見ることができるならば、その場合は成
立する話です。立方体のたった1つの頂点に鉛筆を立てて、その軸に沿って見
たからと言って、何も成立しません(笑)。






半田広宣氏の NOOS 理論における詭弁と妄想(1/3)


先日の予告のとおり半田広宣氏の NOOS 理論の批判をいたします。以前、半田
広宣氏の処女作と第二作を読んだときにはその内容の新奇さ、理論付けの目新
しさに眩まされて、この掲示板で好意的に紹介いたしました。

しかし、氏の説が詭弁と妄想に過ぎないことが明瞭となった今、その反省の意
味を含めて具体的な批判をしたいと思います。

半田氏は自称、物理学者で著書でも盛んに物理学の知識を披露しています。そ
の知識がどれほどのものかを示す顕著な例を次に引用いたします(全て『光の
箱船』からの引用)。

---{
 皆さんは、アインシュタインが党見したE=mc^2という公式をご存じでしょう。
これは、20世紀物理学の中で最も偉大な公式と呼ばれている「質量・エネルギ
ーの等価変換式」です。(skip)
この式は、「質量に光速度の二乗を掛けたものが、その物体の持つエネルギー
に等しい」ということを示しているのですが、自然は、この式の右辺から左辺
への変換は認めても、左辺から右辺への変換は許してくれません。つまり、質
量からエネルギーの変換は実際に現象として認められるのですが、エネルギー
を質量に変えるという方向性は、宇宙のどこを探しても見当たらないのです。
 そして、この一方通行は、当然のことながら「エントロピー増大法則」とも
密接な関係を持っています。つまり、物理状態は低エントロピー状態から高エ
ントロピー状態にしか向かわない、というのにも似て、物質を莫大なエネルギ
ーに変換することはできても、反対にエネルギーを凝固、凝結させて物質へと
変容させることはできないのです。これは、この公式が生成から死への方向し
か持っていないことを意味しています。
---} 200ページ

この箇所は完全な誤りです。「エネルギーを質量に変えるという方向性は、宇
宙のどこを探しても見当たらない」どころか、対生成として遙か昔から既に観
測されています。対生成だけではなく、高速運動下での質量増大としても観測
されています(これも相対論の昔から)。

これらは物理学者はおろか教養課程での常識レベルに過ぎません。タキオン関
連商品の製造販売者にそのような知識レベルを期待するほうがどうかしている
とも言えますが、むしろ大学で物理を専門とする助教授すら見抜けないでいる
ような氏の巧みな詭弁、妄想論理構築の力量の方に感心します(笑)。

先の錯誤に基づいて半田氏は「エントロピー増大法則」との密接な関係や、
「公式が生成から死への方向しか持っていないことを意味しています」などと
述べていますが、むろんこれらはヨタ話にすぎません。

さて、物理学の知識はいい加減でも、あれだけの独創的な理論(笑)をものに
するだけあって空間に関する思索は凄いのでは…という期待も残念ながら裏切
られるようです。




半田広宣氏の NOOS 理論における詭弁と妄想(2/3)


---{
 空間を3次元と見る認識は、古くはギリシアから始まったものだと言われてい
ます。しかし、今のように、多くの人々の共通認識となったのは、それほど古
い話ではありません。絵画様式の変遷をつぶさに見てみると、ヨーロッパの中
世でさえ、人々はまだ平面的に空間を捉えていました。古代人にいたっては、
遺跡に刻まれたレリーフや壁画を見ても分かるように、世界を2次元的なものと
して認識していたようです。「空間が3次元である」という共通の認識は、近代
の発明品と言ってもよく、その歴史はとても浅いものなのです。
---} 216ページ

つまり、半田氏によれば近代以前の人間は「世界を2次元的なものとして認識し
ていた」と衝撃の説を唱え、その根拠は2次元そのものである絵画や壁画だとい
うのです(笑)。その時代、完全な3次元の認識ができずにトンネルや大聖堂が
構築できたと半田氏がどうして信じられるのかが、私には不思議でなりません。

3次元空間の認識なしでは服を編んだり紐を結ぶことさえ不可能なことを考え
ると空間の三次元認識が「近代の発明品と言ってもよく、その歴史はとても浅
いものなのです」という氏の説は詭弁に過ぎないことは明らかです。

半田氏の意味ありげな独特の空間理論を検討した結果、私はその説の核心部分
が妄想を交えた詭弁でしかないと判断いたしました。妄想だとする根拠は次の
とおりです。

半田氏の説がオコツトという冥王星の意識体とのチャネリングによる情報に基
づいて構築されたものであり、そのオコツトの予言が(先日の私のポストで詳
しく批判したように)大はずれし、主張が著しく現実性を欠いているためです。

宇宙にはこの太陽系だけしか存在しないとか、恐竜は実在しなかったとか、細
胞と太陽系は同じものである…といった主張(それも予言を大外した奴の主張)
に現実性があるとは思わないでしょう、常識があれば(笑)

次に、半田氏の空間理論が詭弁であるという根拠は次の通りです。半田氏は問
題の核心となる概念や言葉の定義を自己流の定義に徐々にずらし、半田氏が妄
想で作り上げた理論や概念に置き換えることを行っています。その具体例を挙
げましょう。




半田広宣氏の NOOS 理論における詭弁と妄想(3/3)


(1)三次元空間、四次元空間の認識という言葉の定義を自己流の定義にずらし
  ている例。三次元空間や四次元空間の認識を、三次元「対称性」の認識、
  四次元「対称性」の認識にすり替えている。対称性が実感できない事とそ
  の次元の空間認識があることは別の事柄なのに混同させている。

  しかも、半田氏の言う四次元「対称性」とは時間軸とは無関係な「モノの
  周囲のあらゆるところに同時にいる」(118ページ)という妄想的意味に
  ずらしています。

(2)もちろん、半田氏とて「モノの周囲のあらゆるところに同時にいる」こと
  が現実にできるわけではなく、ここからさらに半田氏独自の妄想的解釈の
  置き換えがなされ、再び「世界が平面であることを発見する」ことや「見
  えている世界のすべては<わたし>である」(144ページ)と認識すること
  だとされています。

  読んでいる時に「それのどこが四次元なわけ?」という疑問を NOOS理論の
  意味ありげな説明で読者を引っかき回して、抱かせないあたりが半田氏の
  詭弁の凄いところ(笑)

(3)半田氏の解釈する四次元時空の意味は、知覚正面(=「観察者が世界と向き
  合った時に見える視界の状態」(96ページ))というごく平凡なものなって
  しまいます。氏によれば『「知覚正面」を三次元平面ではなく、四次元時
  空平面として見ても構わない』(125ページ)そうですから。

(4)五次元空間の認識も半田氏独自の解釈になります。半田氏によれば「目の
  前の空間には、様々な場所を原点とする座標系が存在しており、それぞれ
  が局所的な時空を持っている」からそれを「五次元空間と解釈してもよい」
  (124ページ)そうです。

(5)半田氏には五次元空間の別の解釈もあります。「過去の記憶や未来の想像
  力とは五次元立体そのものなのです」と主張し、その理由はあるレベルに
  達することで『記憶は「永遠の現在」における高次元的対称として見えて
  きます』((146ページ)…だそうです。

(6)半田氏にしては杜撰な詭弁を紹介いたしましょう。

  「四次元対象性とは...私たちの空間認識におけるミクロ方向とマクロ方向
  の対象関係を表している」(107)
  ↓
  「ミクロとマクの入れ替えを可能とするような空間認識を達成すれば、...
  三次元的な世界認識から脱出できる」(107ページ)
  ↓
  「四次元対称性の世界においては大小の概念は何の意味も持たなくなって
  しまう」(107ページ)
  ↓
  「対象から遠く離れれば離れるほどモノは縮んで見えるし、逆に近づけば
  近づくほどモノは大きくなる。(skip)つまり、これは観測という空間にお
  いては、目に映るモノの大きさには大小の概念が意味をなさないというこ
  とを意味しています」(108ページ)
  ↓
  「観察行為の空間、すなわち<わたし>とモノを結ぶ空間においては、四
  次元対称性が成立している」(108ページ)
  ↓
  するってーと何かい、観察行為が三次元的な世界認識からの脱出だと?(笑)

  既におわかりのように、半田氏は我々が通常意味するような「四次元空間」
  や「四次元空間の認識」については何も語っていないのです。半田氏が独
  自に定義した四次元「対称性」の認識を語っているだけなのです。

結論:半田氏の著書を読むことは氏の妄想した NOOS 理論の詭弁展開に追従す
るに過ぎず、四次元や五次元空間とその認識とは何の関わりもないものです。

# 半田氏の妄想理論に付きあってマジに批判する私も大馬鹿者ですねぇ(笑)





半田広宣氏と冥王星の意識体


---{
ところで,半田氏のNOOS 理論が冥王星の意識体とのチャネリングによる情報と
すると,冥王星の意識体は何を情報源としたのでしょうね?チャネラーのみな
さんそう考えない?それとも冥王星の意識体はチャネリングしないのですか?
---}(○さん)

---{
ともかく、神智学ってものを、そういう論調で、半田某さんの冥王星の件と一
緒にされちゃ、まずいかな、と思ったので、コメントさせてもらいました。
---} (○○○○ さん)

私の先の半田広宣氏の NOOS 理論批判におけるオコツト関連の説明がまずかっ
たようです。半田広宣氏の言う「冥王星の意識体」について、補足というか弁
護をさせてください。

半田氏は「冥王星の意識体」が「冥王星に住んでいる」ことは最初から否定し
ており、冥王星という言葉を(NOOS 理論の枠内での)ある種のシンボルとして
扱っていますから上の引用が連想させるものとは、かなりのずれがあります。

半田広宣氏の NOOS 理論は詭弁、妄想だと申し上げたことを訂正する気はさら
さらありませんが、専門に研究している大学関係者が見抜けないでいる程の
「限定されたもっともらしさ(NOOS 理論内部での整合性)」は備えています。

私も半田氏の批判を開始するには(ウスペンスキーの掲示板で4次元について
の検討を行うなどをして)随分と時間を要しました(間抜けな話ですが)。

半田広宣氏は構築する思想、理論の分野をミスしましたのかもしれません、物
理学に隣接さえしていなければ厳密性、実証性云々で批判されずにすんだもの
を。思想、哲学、宗教に限定しておけばいくらでもごまかしができた筈なのに、
そうしなかったのは半田氏が本気だったからでしょうね。その面は評価できる
と思います。Web にある半田氏の過去の苦悩を率直に語った文章などは好感が
持てますし。




『光の箱舟』とトンデモ


最近は『光の箱舟』を絶賛する別の大学の研究者もいるようです。

---{
この本では日本語の成り立ちを源語哲科学的に解き明かすことにより、『古事
記』や『聖書』に隠された宇宙の真理があますところなく明らかにされていま
す。だから、言語、それも特に日本語は「極めて重要な存在論的意味を帯びて
いる」と肌で感じていた次第です。
---} http://www.noos.ne.jp/keijiban/neptune/petit.cgi

と述べて『天孫降臨 マナの壺』を賞賛するような研究者ですが(笑)

トンデモの類は皆、日本語や日本史を神聖視、特別視したがりますね。オコツ
トも日本を特別視していたし。以前、私の Web ページで(旧日本軍の幹部も
かぶれたという)「ひふみ神示」の批判をしたことを思い出しました。

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2006年07月28日 (19:06)

ヌース理論の連続・同一性主義批判:ヌース理論の「位置の等化」概念を批判する

半田広宣氏の『2013:人類が神を見る日』を読んでいるが、「位置の等化」(p.202~p.203)に疑問をもった。そこの記述から見ると、主体と対象とを「等化」するということだが、これでは、完全な同一性化である。主体と対象の差異を否定して、同一性にしているのである。ここで、ヌース理論は、完全な連続・同一性中心主義、即ち、ファシズム・全体主義になっていると言えよう。たいへん、危険な理論である。これは、個を否定する理論であり、オウム真理教に近くなると言えよう。とまれ、理論的には、ポスト・モダン以前である。そう、ヘーゲル哲学と同じである。だから、ヌース理論は、時代錯誤で、危険な理論であると言えるのである。 自然科学の衣を、いちおう、まとっているが、哲学的には、古臭く、たいへん危険なものである。

 ヌース理論は、現代のシャーマニズムに入れることができると思うが、問題は、半田氏の意識の媒介である。もし、オコツトと呼ばれる知的存在が、正しい理論を半田氏に伝えたとしても、半田氏の意識が媒介となっているので、そこには、連続・同一性が入りうるのである。不連続的差異論から言うと、メディア/現象境界には、連続・同一性の構造があるのであり、意識は、通常それに規定されていると考えられるのであり、半田氏の場合も例外ではないと考えられるのである。また、半田氏が、ドゥルーズ哲学の差異=微分論に注目して、特異性論に注目していないのを見ると、これが、信憑性をもつことになるのである。なぜなら、差異=微分論とは、まさに、連続・同一性の理論であるからである。

 ということで、ヌース理論は、半田氏の意識の連続・同一性が無意識に侵入していると考えられるのである。結局、オコツトが純正な理論を伝えてきたと想定しても、半田氏の連続・同一性のバイアスによって、原理論が、歪曲されてしまっていると言えるだろう。

 とまれ、差異が否定され、連続・同一性が明確に説かれているので、ヌース理論は、誤謬・錯誤の理論であると言えるのである。私としては、不連続的差異論/新プラトン・シナジー理論に立って、再構築することを期待するのである。今のままでは、ヘーゲル哲学と量子力学との結合のフィクション的な似非仮説に過ぎないし、また、人を幻惑する妄想的似非仮説になっていて、邪悪な面もあるのである。

 読んでいると、たいへん魅力的である。おそらく、ある本質の領域に触れてはいるので、そうなのであるが、それが、誤って、連続・同一性化されていると思うのである。半田氏には、ヌース理論を徹底的に不連続的差異化することを、期待したい。そうでないと、理論としては、通用しないのである。また、倫理的には、人を誤誘導するので、悪徳的である。

2006年07月08日 (00:34)

半田氏の述べる差異=微分の意味について:連続・同一性の理論であるヌース理論

《無限大=無限小、無限小=無限大、こうした領域の抉り出しのことを僕は「微分化」と呼んでみたい。かのドゥルーズも知覚の強度が生起している場所のことを〈微分化-差異化〉と呼んでいたが、これは全く正しい。ヌースの考え方からすれば、知覚は網膜でも視覚中枢でもなく、光子や電子という微粒子領域そのもので起こっているのだ。》「光のサルベージ」半田広宣氏
http://noos.cocolog-nifty.com/cavesyndrome/2006/07/post_cd4c.html

半田氏の言う差異=微分について、簡単に考察してみたい。
 ドゥルーズを引いて、このことを主張していられるが、不連続的差異論は、ドゥルーズの差異=微分論を論破して成立したものであるから、当然、ヌース理論にも適用されることになる。
 では、差異=微分を根拠とするヌース理論は、不連続的差異論/イデア・シナジー理論(NEW PLATONIC SYNERGY THEORY)から見ると、どの位置を占めるのだろうか。差異=微分とは、不連続的差異の連続・同一性化である。メディア界の連続・同一性面の事象である。それは、光・現象光の発生する領域の事象と言えよう。連続・同一性=差異・微分とは、現象界の単位となるから、確かに、唯物論的単位になるのである。だから、半田氏が、量子力学と一致させるのは、正確なのである。(私は、半田氏は、秀才だと思っている。ドゥルーズ哲学の理解は、実に正確であり、それを踏まえているのである。)だから、ドゥルーズ的差異=微分論に立つ限り、ヌース理論の差異=素粒子論が生じるのは、正解なのである。また、ドゥルーズは、差異を理念としていたから、ヌースにおける差異=理念=素粒子も、必然的帰結である。つまり、半田氏のヌース理論は、ドゥルーズ哲学(一面)と量子力学との結合なのである。だから、独創的な理論ではないのである。応用である。しかし、幾何学的意志には、創造的なものがあると思う。
 しかし、不連続的差異論/イデア・シナジー理論からは、それらは、批判対象となる。そこには、不連続性が欠落しているからである。つまり、それらの理論では、特異性を取り込むことができないからである。特異性・単独性を回避しているからである。これでは、個が、一般性に解消されて、ヘーゲル哲学となるだろうし、全体主義・ファシズムになるだろう。ヌース理論で言えば、自己と他者が背中合わせで一体となっているという思想が、連続・同一性的だと思う。これでは、自己と他者が極性・即非性ではなくて、一体性とその極性を意味しているのであるから、差異が消滅しているのである。
 私は、半田氏に、不連続的差異論を根底から理解していただき、ポスト・ヌース理論を立てて欲しいと思う。今のままでは、難解・晦渋な用語で、理解を混乱させる陳腐・凡庸な理論に過ぎないように思えるのである。また、ドゥルーズ哲学の理解も一面的で、差異=微分を理解しているが、差異=特異性は理解していないと思うのである。以下、不連続的差異論の誕生の基礎部分を理解していただきたいと思う。

「不連続的差異論の誕生」
http://ameblo.jp/renshi/theme-10000271269.html
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  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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