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2007年09月07日 (21:50)

「市場化された場に於ける共同体主義」と同一性を包摂する差異共振主義

「市場化された場に於ける共同体主義」はKaisetsu氏による新しい社会経済概念であり、今日・現代における経済と社会共同体との相互形成を方向性を見事に説いている。非常に明快な概念であり、左翼的な社会民主主義とは似て非なるものである。つまり、左翼的な社会民主主義とは、社会主義に基づくものであり、市場経済を否定的に捉えている。それに対して、「市場化された場に於ける共同体主義」(市場的共同体主義?)は、自由主義資本主義経済による「社会共同体」の解体に対して、政治的に新しい社会共同体を創造させようという発想ではないかと思われる。
 さて、ここで、プラトニック・シナジー理論(PS理論)から見ると、これは、Media Pointの差異(超越的差異)における同一性=物質=貨幣=資本を包摂・分有した、差異共振的様態であるのではないだろうか。
 つまり、グローバリゼーションは、冷戦後、これまでの民主主義的倫理の枠を無視して、同一性中心主義を目指した。このため、世界のすべての国における伝統的な社会共同体は破壊されていった。端的に、超格差主義である。また、地球環境破壊である。この同一性絶対主義によって破壊された伝統的共同体に替わる差異共振共同体の創造として、「市場化された場に於ける共同体主義」が出現していると考えられるのであるが、これは、同一性から超越的差異である Media Pointに回帰して、同一性を包摂・分有した差異共振様態として説明できるのではないかということである。

p.s. 少し補足すると、問題は哲学的に言うと、端的に、差異の問題なのである。以前に述べたように、私はイタリア・ルネサンスは、古代ギリシアに継ぐ、差異の新たな発動であると考えている。しかし、この差異が近代主義へと変容するのである。即ち、ルネサンスからプロテスタンティズムへの展開である。私は、プロテスタンティズムは差異を内包していると考えている。つまり、差異が同一性へと進展して行くが、そのとき、同一性をバックアップしたのがプロテスタンティズムであると考えられる。アメリカ・インディアンをジェノサイドしたイデオロギーがプロテスタンティズム(正確には、ピューリタニズム)である。
 そして、時代は飛ぶが、グローバリゼーションは、この最終的帰結であると考えられる。つまり、ルネサンスから発した差異の同一性化の果てがグローバリゼーションである(ネオコンのキリスト教原理主義はプロテスタンティズムの帰結であると考える)。
 この近代主義の帰結において、世界は、同一性=交換価値主義的金融資本主義によって、伝統的社会共同体が無惨にも破壊されているのである。また、自然破壊も黙示録的である。
 この差異→同一性の帰結において、今や、一方で純粋差異そのものへと回帰しているのである。精神性への回帰でもある。ここにおいて、差異共振性の精神が復活するのである。これが、現代の差異である。古代ギリシア、イタリア・ルネサンスに発動した差異が、現代において、再生するのである。同一性という資本のあり方を包摂しつつ(市場化)、差異共振性をもつ社会共同体への志向がここに発動しているのである。ポスト新自由主義としての、市場化共同体主義ないしは、自由主義的差異共振体主義である。ここにおいて、リベラリズムとコミュニタリアニズムとが統合して、リベラル・コミュニタリアニズムとなると言えよう。



参照:以下、toxandriaの日記から引用させていただく。

■ [参考情報 ]“われ歌う、ゆえにわれあり”のルチアーノ・パヴァロッティ逝くCommentsAdd Star

[副 題]パヴァロッティの死、“飽くなき美の政治化”を夢みた咎で、この世と煉獄の間を彷徨う“美しい人”と対極の人生


・・・・・・・


●以下は、[007-08-28付toxandoriaの日記/美容整形的“安倍改竄内閣”の“偽装右翼一派”の真相、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070828 へのTB&レスを参考として再録するものです。

●日本の勘違いした『美しい人』は、“さまよえるオランダ人”(Der fliegende Hollaender/下記<注>)のごとく政府専用機 で世界を飛び回るばかりのようです(本日、安倍首相はAPEC でブッシュ大統領 らと会談するためオーストラリアへ出発した)。

<注>さまよえるオランダ人(Der fliegende Hollaender):リヒャルト・ワーグナー作曲のオペラ。ドイツの詩人ハイネの同名の作品にワーグナーがヒントを得て作曲した。その物語は“限りない美の現実(政治)化(?)”を夢想した神罰で、この世と煉獄の間を永遠にさまよう、カルト化した(?)オランダ人の顛末。

[TB](Mr.kaisetsu to toxandoria)、http://blog.kaisetsu.org/?eid=586587

『市場化された共同体主義について』

『市場化された場に於ける共同体主義』は、海舌の造語である。これまで、説明なく使ってきた。

これの具体的資料は市場化された場に於ける共同体主義

日本も含めて、やっと、この「市場化された場に於ける共同体主義」への移行が現実化しつつある、という認識から少し説明したい。

これは、ブリュッセルとワシントンの対立とも関連している。

 ⇒(参照、記事)ブリュッセルとワシントン

端的には、toxandoria氏が次で暴露している小泉政治 の偽装的自由民主主義の末路である。

 ⇒(参照、記事)『toxandoria の日記、アートと社会』、2007-08-28 美容整形的“安倍改竄内閣”の“偽装右翼一派”の真相

つまり、高度情報化の進展過程で起こっている野獣的な自由主義 に対する制御の問題である。歴史的に、こうしたプロセスは、経済の分野で始まる。市場化に 取り残されている地域の市場化促進と、野獣的で庶民が無防備に虐待されている先進諸国の暴政の制御の問題がクローズアップされてきている。

まず、アンチ小泉を安倍政権 自体が明白に打ち出しつつある。⇒(参照、記事)アンチ小泉

ブッシュ政権も、サブプライム 問題を、住宅困窮者への救済という社会正義の問題からのアプローチで解決しようとしている。 南米諸国の自律的行動も同じコンテキストである。

但し、封建的な制度の解体と非効率な公務員制度、官僚機構の解体は一層促進する必要がある。市場化された後の、共同体の再構築の問題である。

[レス](toxandoria to Mr.kaisetsu)

toxandoria  『kaisetsuさま、記事紹介&TBありがとうございます。

「市場化された後の、共同体の再構築」については、おそらく意識をほぼ共有しつつあるのではないかと思います。

実は、やや異なる角度からのアプローチで「小泉政治 の偽装的自由民主主義」の本質が更によく見えてきたような気がしています。

それは、この「市場化された後の、共同体の再構築の問題」の深淵にはユダヤ教 、イスラム教、キリスト教の暗闘の歴史(=生誕地の風土にかかわる世界認識の問 題)が影を落としているということです。「小泉政治 の偽装的自由民主主義」は、おそらく、このことを意図的に無視しているようです。

しかし、イスラム教原理主義によるテロの問題も、ここに気付かぬ限り解決の手がかりは得られないはずです。

特に、安倍の美しい国の余りにも“アナクロという意味で日本的すぎる精神環境”(=土着精神ゆえの風土病的宿痾)は「市場化された後の、共同体の再構築」を途轍もなく勘違いしていると思います。

逆説的な意味ではありますが、安倍の“神がかった美しいアナクロニズム ”は、この「余りにも日本的な偽装右翼の病理」を抉り出す結果となり、「安倍の美しい国」は一種の毒物療法的意味で“怪我の功名”と化しつつあるようです。

ただ、悲しむべきことですが、このリアリズムが一切目に入らない安倍はオロオロと立ち往生するばかりです。

多大な犠牲を払った上ではありますが、そして彼らの間に未だ大きな温度差は存在しますが、既に欧米の人々の多くは、このことへの真剣な対処に向かって舵を切りつつあるのだと思われます。』 (2007/09/06 15:44)

(連想的・参考資料)

お茶の水女子大学 教授、土屋賢二 ・著『われ笑う、ゆえにわれあり』(文春文庫)

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070907/p1

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』

 
参考:
共同体主義
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

共同体主義(きょうどうたいしゅぎ、コミュニタリアニズム、英:communitarianism)は、20世紀後半のアメリカ を中心に発展してきた共同体 (コミュニティ)の価値を重んじる政治思想 。コミュニタリアン。

共同体主義は現代政治思想業界においてジョン・ロールズ らが提唱する自由主義 (リベラリズム)に対抗する思想の一つであるが、自由主義を根本から否定するものではない。共同体の価値を重んじるとは言っても、個人 を共同体に隷属させ共同体のために個人の自由や権利を犠牲にしても全く構わない、というような全体主義 ・国家主義 の主張ではなく、具体的な理想政体のレベルでは自由民主主義 の枠をはみ出るラディカルなものを奨励することはない。むしろ共同体主義が自由主義に批判的であるのは、より根源的な存在論 レベルにおいてであり、政策レベルでは自由民主制に留まりつつも自由主義とは異なる側面(つまり共同体)の重要性を尊重するものを提唱する。 イギリスの社会学者ジェラード・デランティ の整理によれば、共同体主義には、自由主義的共同体主義(リベラル・コミュニタリアニズム)、ラディカル多元主義、公民的共和主義、統治的共同体主義(ガヴァメンタル・コミュニタリアニズム)の四潮流があるという。

共同体主義者に分類される主要な論者

* チャールズ・テイラー
* マイケル・サンデル
* マイケル・ウォルツァー
* アラスデア・マッキンタイア
* アミタイ・エツィオーニ
* 藤原保信
* 宮崎哲弥
* 菊池理夫

[編集 ] 関連項目

* 公民的共和主義 (civic republicanism) / 公民的人文主義(civic humanism )
* 自由主義
* リバタリアニズム
* 文化多元主義

[編集 ] 参考文献

* ジェラード・デランティ『コミュニティ』NTT出版株式会社 ISBN 4-7571-4121-1

[編集 ] 外部リンク

* 「Communitarianism」 - スタンフォード哲学百科事典 にある「共同体主義」についての項目。(英語)

執筆の途中です この「共同体主義」は、哲学 に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 して下さる協力者を求めています。(ウィキポータル 哲学 )
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93%E4%B8%BB%E7%BE%A9 " より作成

カテゴリ : 政治思想 | 文化地理学 | 哲学関連のスタブ項目
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2006年08月13日 (23:46)

ルネサンスとプロテスタンティズムの構造力学:差異と同一性の対立構造力学

ルネサンスとプロテスタンティズムの構造力学:差異と同一性の対立構造力学
テーマ:差異と同一性
以下は、次の論考の後記を独立させたものです。
「同一性・イデオロギー自我の利己的欲望の構造について:同一性自我と差異自我」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10015772189.html

_________________________

 補足説明をして、以上の問題を明快なものにしたい。
 プラス・エネルギーが発生するときは、確かに、差異共振性が否定される連続・同一性志向性が発動し、現象自我が形成されると見ていいだろう。これの帰結が父権神話、超越一神教である。
 それに対して、マイナス・エネルギーが、均衡力学的に発生すると、今度は、差異共振性へと様相が転換する。いわば、相転移となる。
 だから、コスモスの「歴史」ないし「進化」は、エネルギー極性力学の往復運動、そして、螺旋運動と見ることができるだろう。そして、父権神話や聖書は、いわば、純粋なマイナス・エネルギー作用の様態を表現していると考えられる。
 では、プロテスタンティズムの場合はどうかと言えば、それは、純粋ではない。これは、以前から述べていることだが、ルネサンスの反動としてプロテスタンティズムがあるということである。ルネサンスが、プロトモダン、すなわち、差異・不連続的差異の発動であったとするなら、それは、マイナス・エネルギーの発動を意味する。だから、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーに対する反動なのである。即ち、プロテスタンティズムとは、マイナス・エネルギーの事象を受けているということであり、前提として、差異・不連続的差異があるのである。
 ということで、近代主義、近代的自我、近代合理主義とは、差異への連続・同一性の反動と見ることが正しいのであり、以上に述べた、同一性と差異との絶対的二元論は生起していないとみるのが正しいのであるから、ここで、訂正する次第である。だから、これまで述べてきたように、差異・差異共振性に対する反動として、連続・同一性現象自我(主義)を把捉するのが正しいことになる。
 だから、なぜ、連続・同一性現象自我は、差異・差異共振性(=物自体)を脅威と見て、否定・抑圧・攻撃・破壊・隠蔽等するのかという理由は、父権的連続・同一性自我が、必然的に、差異・差異共振性を否定する構造をもっているということになる。つまり、ユダヤ・キリスト教において、決定的に成立した父権的連続・同一性自我をもつ西洋文明は、新たに発生したマイナス・エネルギーによる差異・差異共振性の自我文化・社会に対して、論理的に否定的な作用をもつということなのである。換言すると、父権的連続・同一性構造を西洋文明はもっているので、イタリア・ルネサンスの差異・差異共振自我文化に否定的に反応して、反動として、宗教改革を発動させたということになるのである。
 では、さらに、論を詰めると、差異主義であるルネサンスに対する、父権的連続・同一性構造の反動の様態はどのようなものであったのかという問題が生じる。ルネサンス後の反動はそれとして理解できるが、ルネサンスが発生したとき、それは、父権的連続・同一性構造にとってどういう関係にあったのかということである。結局、ルネサンスとは単にイタリアに限定された「思想」ではなくて、これは、いわば、コスモス的事件であったと考えられるのである。即ち、マイナス・エネルギーが、新たに発動して、人間の主体のエネルギー力学が変容したと考えられるのである。つまり、内在的に、即自的に、主体の変容が生じたのである。だから、この内在・即自的な、自我のマイナス・エネルギー化に対して、父権的連続・同一性自我構造は、反動化したということではないだろうか。自我主体エネルギー構造力学の問題なのである。換言すると、内在的に発生した差異・差異共振性に対して、父権的連続・同一性自我構造は、否定・抑圧・隠蔽するということなのである。そして、この歴史的結果が、プロテスタンティズムであり、近代的自我・近代合理主義であったと考えられるのである。つまり、これまで、述べてきた通り、近代的自我とは、反動であり、極言すれば、邪道・外道なのである。だから、近代科学も唯物論も、反動知性なのである。反動権力的知性なのである。
 以上で、本件の補足説明としたい。

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sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
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