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2010年11月20日 (13:24)

「自我」と個人と個:自己問題:母権制と父権制:差異、精神、東洋回帰:脱西洋文明

テーマ:ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明
以前、本題について論じたが、まだ不明確に感じられるので、再考したい。とは言え、余裕がないので、一言、二言(結局、長文になったが)述べるに留める。
 PS理論の凸i*凹i⇒+1(or 凸)の自己認識方程式であるが、凸iが自我と言えよう。凹iは非自我、無私性、共感性、他である。
 父権とは凸iに傾斜していると考えられる。そのために、凸i⇒+1の傾向をもつのである。つまり、物質+1に同化する傾向があるのである。
 少し説明が必要である。同一性とはどうも、凸iの傾斜に拠るのではないだろうか。つまり、差異共振において、Media Point(MP1)において、凸iの傾斜、自我の傾斜が、他者凹iを抑圧して、⇒+1へと帰結するのではないか。(だから、差異共振による同一性形成とは、一般的ではなく、凸i傾斜に拠るもののように考えれる。)
 凸i=自我はそれにおいては絶対的差異である。しかるに、原言語性をもつので、同一性へと傾斜すると考えられる。
 だから、自我は同一性へと帰結するのである。これが、自我同一性(凸i⇒+1)であり、所謂、利己主義とはここから生まれると言えよう。
 近代合理主義の場合、自我同一性が物質+1と結びついているのであり、唯物論的自我同一性=近代的自我の形成と一致する。
 
 では、それに対して、個とは何か。これは、個人とは異なる。個人主義の個人は、私見では、近代的自我と個との未分化の様態である。そして、今日、個人と個の区別が形成されていないと考えている。
 では、個とは何か。これは、実は、自我凸iと他者凹iとの即非関係、共立・共振関係にあると考えられる。
 また、個は即非性や共立性から⇒-1への共融へと向かうのであり、人間認識図では、第三象限領域を志向する、つまり、超越界を志向すると考えられる。言い換えると、個とは、超越的「個人」なのである。
 ここで留意すべき点は、自我凸iが存するが、それは、同一性や物質と結合するのではなく、あくまで、他者である無我・無私・共感性と関係するのであり、絶対的差異凸iと絶対的差異凹iとの関係であり、同一性や物質はまったくここには関与していないと見るべきである。(-1は暗黒物質、反物質の可能性があるが、超物質、トランス・マターとも言えるかもしれない。)
 ただし、個はMedia Pointを介して、当然、物質界に関係するのである。物質界に関係する個とはどういう様態Modeなのだろうか。
 絶対的差異である個、絶対的超越的である個が物質界と関係するとき、それは、一般的には自我凸iと自我同一性凸⇒+1を介して、関与するだろう。
 つまり、絶対的差異的個とは不連続的に、自我、自我同一性を擬態として設定して、物質界と対処するということではないだろうか。つまり、個において、自我同一性が仮構されるということである。
 しかし、それは、唯物論的自我同一性ではないだろう。何故なら、元基には、超越性が存するからである。ただ、物質+1に対処するために、自我同一性⇒+1を利用すると考えられるのであり、自我同一性は唯物論的ではない。
 しかし、厳密に考えると、果たして、自我同一性によって、物質界に対処するのだろうか。
 それは間違いだろう。そうではなく、自我差異凸iによって、物質界に対処すると考えられる。確かに、凸iである自我は同一性への傾斜をもつが、それ自体は差異、絶対的差異の知性である。
 故に、同一性=言語を介しながらも、自我差異の視点によって、物質界に対処すると考えられる。
 だから、個とは、徹底して、差異、絶対的差異によって、物質界に対処すると考えられる。(追記:個を個者、個子、個単子、等と言えよう。)
 
 次に、この問題をジェンダー論的に、文化史論的に、人類学的に考えると、母権文化とは、凸iと凹iとの均衡の取られていた、差異の文化である。
 それに対して、父権文化とは、凸iに傾斜して、同一性志向、物質志向の文化であると考えられる。
 何度も既述したが、母権文化だけでは、物質主義文化、近代科学・技術は生まれなかったと言えよう。つまり、父権文化の必然性があるのである。確かに、母権制が続くならば、平和共存の社会・世界が継続した可能性がある。しかしながら、それは、停滞の社会でもある。
 父権制は母権制の停滞する差異共存の社会を破壊して、同一性・物質文化の基盤を形成して、いわゆる、文明社会を形成することになったと考えられる。
 問題は西洋文明なのである。これは、強力な父権制文化をもつが、同時に、基礎に母権制をもつのである。
 この母権制が古代ギリシア文化の栄光を産み出し、また、イタリア・ルネサンスの大文化を産み出したと考えられる。しかし、正確に言えば、父権的圧力の下に、母権的エネルギーが開花したと見るべきである。私見では、民主主義もベースは母権制にある。
 とは言え、西洋文明は、父権制優位、母権制劣位であることは言うまでもないし、この父権制優位ないし支配が近代資本主義の怪物を産み出したと考えられる。言い換えると、父権的同一性主義が近代資本主義を形成したのであり、その同一性的メカニズムは、差異を抹殺していくのである。
 ここに、脱西洋文明の力学の必然性があるのである。それは、脱同一性であり、差異への回帰である。新母権制である。新東洋回帰である。それは、霊主体従である。精神が主であり、物質が従である。そして、PS理論は正にそれに相応しい理論である。
 最後に、キリスト教について触れておこう。実は、数十年前から、キリスト教は矛盾した宗教であると直観していた。
 端的に、「父」(ヤハウェ)と「子」(イエス・キリスト)が矛盾しているのである。即ち、前者が父権制であり、後者が母権制である。しかるに、前者が後者を支配しているのである。ここに、キリスト教の精神的歪みがある。
 脱西洋文明志向(トランス・モダン・シフト)において、キリスト教が瓦解することになると考えられる。何故なら、トランス・オクシデントの志向とは新母権制的であり、いわば、「子」(イエス・キリスト)が「父」(ヤハウェ)を凌駕すると考えられるからである。そして、それこそが、「聖霊」の時代(フィオーレのヨアキム)である。
 因みに、ルドルフ・シュタイナーは、キリストとは、アフラ・マズダーであると説いている。
 それは、D. H. ロレンスで言えば、dark God, dark sunである。それは、-1の超越的太陽であると考えられる。プラトンでは、洞窟外の太陽である。
 仏教で言えば、大日如来であり、神道では天照大神である。

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Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation
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2010年06月06日 (20:27)

イスラエルの攻撃、天安艦沈没、原油流失災害、菅政権、等々:ロックフェラー路線のオバマ政権への攻撃

テーマ:ゾロアスター教的「光と闇」の戦争闘争時代

(c)AFP/IDF

AFPBB News
イスラエル、再びガザ支援船を拿捕
2010年06月06日 11:03
【6月6 日 AFP】イスラエル海軍は5日、パレスチナ自治区ガザ地区(Gaza Strip)に向かっていた支援船の第2陣「レイチェル・コリー(MV Rachel Corrie)」を拿捕し、約5時間後にイ……
≫続きを読む

http://www.afpbb.com/article/war-unrest/2733317/5843855


「天安艦の沈没事件に似た不自然な作為的な事件が多い:ロックフェラー路線のあせりや妨害を感じる」

メキシコ湾原油流失事件もなにか作為的であるし、口蹄疫災害もそうだし、何かある。
 オバマ政権のトランス・モダン路線(差異共振平和共存路線)に、ロックフェラー路線が攻撃をしているのではないだろうか。
 天安艦沈没、原油流失、イスラエルの攻撃も、オバマ政権への打撃となるからである。(口蹄疫はいちおう除く。しかし、これも、根本では同一勢力を感じる)
 そういう文脈から見ると菅政権は実に危険であり、きな臭いと言えよう。何かある。

new
3652.韓国国民、選挙で戦争拒否 2010.06.06F
月曜有料版の0章をお送りします。
   
new
3651.菅新政権の見通し 2010.06.05F
1946年10月10日生まれの菅直人氏が総理大臣になった。この政権を占うことにする。
   
国際戦略コラム

 
ガザ支援船また拿捕 平和賞受賞者も乗船

2010年6月6日 朝刊

 【カイロ=内田康】イスラエル軍は五日、アイルランドからパレスチナ自治区ガザに向け航行していた新たな支援船「レイチェル・コリー号」を、ガザ沖の地中海で拿捕(だほ)した。AFP通信によると、十五人の乗船者は船に乗り込んできたイスラエル兵に抵抗せず、負傷者はいなかった。コリー号は軍の監視下で、イスラエル南部アシュドッド港に到着した。

 五月末に起きた国際支援船団拿捕事件で乗船者九人が死亡したことから、アイルランド政府はイスラエルに対し、安全にガザに入港させるよう要請していた。ガザの経済封鎖を続け、自由な航行を認めないイスラエルの方針に、再び批判の声が高まるとみられる。

 イスラエル軍の艦船は五日朝にコリー号に接近し、アシュドッドに入港するよう要請。支援物資はイスラエル政府が検査した上でガザに運ぶと提案したが、コリー号側が拒否したため、拿捕に踏み切った。AP通信によると、現場は公海上だった。

 コリー号は国際支援団体「自由ガザ運動」が運航。アイルランドから車いすや薬品などを運ぶ途中だった。一九七六年にノーベル平和賞を受賞した英国・北アイルランドの活動家マイレッド・マグワイア氏や、アイルランドやマレーシアなどの活動家が乗船。五月末に拿捕された船団に加わる予定だったが航海が遅れ、単独でガザを目指していた。

 「レイチェル・コリー」は二〇〇三年にガザで、イスラエル軍のブルドーザーにひかれて死亡した米国人活動家の名前。

http://www.tokyo-np.co.jp/article/world/news/CK2010060602000064.html

2009年08月26日 (13:14)

物質とは何か:同一性傾斜の発生について:自然環境の苛酷化と父権文明の誕生

これまで、物質と身体を区別し、前者は後者の同一性的抽象に過ぎないと述べた。記号で言えば、⇒+1が身体であり、+1が物質であるが、本来、⇒+1において、⇒と+1は分離できないもの(一如、不分離、不二)であるが、それに対して、無知の状態で、+1を分離させて物質を虚構したと言える。
 本来不分離、一如、不二(ふじ、ふに)のものを分離させる「力」とは何かと言えば、それは当然、同一性志向性である。これが、マーヤーを形成するのである。カント哲学で言えば、超越論的形式である。構造主義の構造である。人間は、とりわけ、父権主義は、これに傾斜ないしは偏向していると考えられる。(思うに、この傾斜はエロスと呼べるだろう。同一性欲望であり、それは、物質的欲望である。そして、支配・権力的欲望と考えられる。父権的欲望と言ってもいいだろう。また、二項対立的欲望である。二者択一的欲望である。そして、アンラ・マンユである。)
 これは、記号で見ると、⇒+1の⇒の先端に存すると考えられるが、この、いわば、同一性原理の発生について精緻に考察しよう。
 同一性原理とは、主観性と客観性の二元論であり、西洋文明の特性である。(それに対して、東洋文明は不二一元論である。あるいは、極性論である。その結晶が即非論である。)
 具象的に検討しよう。眼前に、小楢(こなら)の木を見ているとしよう。これは、確かに、「わたし」の外部に存在している。即ち、「わたし」と小楢は分離している。これは、即非の非である。非の現象である。しかしながら、「わたし」は小楢であるという知覚も可能なのである。映像的にはクローズ・アップすると、そのような即の知覚が生まれやすいのではないだろうか。
 即非知覚において、即の知覚を喪失すると、非の知覚、即ち、同一性的知覚、二元論的知覚が中心化されて、西洋文明的知覚が生起するのである。端的には、近代西洋文明的知覚である。(東洋文明的知覚をコスモス一体的知覚、西洋文明的知覚を機械的知覚と呼べるかもしれない。)
 「わたし」は「わたし」であり、小楢は小楢であり、「わたし」は小楢ではないという知覚・認識が生起するのである。これは、本来のMedia Point 的知覚、即非的知覚、差異共振現象への暴力ないしは抑圧なのである。この、差異への暴力(抑圧)が問題なのである。(これが、戦争や差別等の悪の根因である。)
 端的に、この同一性傾斜はどうして生じるのか。これは、人類の根本的謎の一つである。換言すると、父権主義や一神教の発生の原因である。
 思うに、総体的なMedia Point において、一つのそれまでにない変異が生じたのではないか。Media Point は本来、陰陽的であり、陰へ傾斜する場合、陽へ傾斜するときがあり、常に生成流転的である。ここで、陰を差異、陽を同一性とすると、陽=同一性へと傾斜する力学が発生したと考えられる。これは、男性の誕生とも言えよう。正確には父権主義の誕生である。
 Media Point は生成流転的なので、変化するが、この陽=同一性傾斜は、いわば、変化を否定して、固定作用があり、本来、反自然的である。これは、いったい、何を意味するのか。不自然なものがそこには発生しているのである。
 一種、突然変異である。父権的突然変異、同一性的突然変異である。以前、仮定したことであるが、どうやら、気候変動と関係しているのではないだろうか。あるいは、天変地異ないしは地殻の大変動等と関係しているのではないのか。
 生存のために、同一性傾斜が必要になったのではないのか。つまり、生存環境が生存に厳しくなったとき、安定した身体的生活(エロス的生活)のためには、同一性傾斜が必要になったと考えられよう。
 それを作業仮説とすると、気候風土、自然環境の過酷苛烈な土地で、同一性傾斜が発生すると言えよう。これには、極地や砂漠地域が入る。
 この過酷な環境に対して、生き延びるためには、同一性傾斜が必須であり、主客二元論が生起し、同一性主義的思考が生まれたと考えることはできる。
 思うに、これこそ、人類文明の大革命であろう。(ここで想起するのは、キューブリック監督の有名な『2001年宇宙の旅』である。人類の祖先と想定される原人が棍棒をもって、同類(あるいは、猿)に襲いかかり、食肉するのである。)
 これは、言い換えると、同一性の狂気・無知・盲目・妄想・妄念・妄執等の発生でもある。これが、父権文明、西洋文明の根底・基底・土台に存するものである。
 とまれ、過酷な環境において生存(エロス的に生存)するために、同一性傾斜が必然・変異的に生起したということなる。いわば、自然の悪の側面によって、同一性傾斜(父権文明、ユダヤ・キリスト教西洋文明)が生まれたとことになる。これは、脱母権文明、脱東洋文明の大革命なのである。これで、本件の課題の解明を終えたこととしよう。
 さて、ここで簡単にトランス・モダンへと差異共振的に変異せん(自発的変異)とする現代世界を考えてみると、これまで繰り返し述べてきたように、西洋文明ないしは父権文明の悪、同一性傾斜の悪が巨大化して、無秩序が生起したため、今やそれを相克する時代となっているのである。脱父権文明、脱西洋文明、脱一神教文明の時代を創出せんとしているのである。
 これは、同一性的大革命に並ぶ、大進化である。これは、大革命ではなく、大回帰である。復興・復権・ルネサンスである。大新生である。大一新である。

2007年12月21日 (21:52)

ユダヤ・キリスト教/三位一体教の奸智について:超越的同一性の唯一神とマモン崇拝と金融資本主義

戦後日本人は、アメリカ近代合理主義に洗脳されているので、自分の民族・文化の宗教・神話が奪われていることも感じないし、また、宗教・神話に無理解になっている。度し難い感がある。迷える子羊ならぬ、迷える馬鹿である。
 ところで、クリスマスが近づいたので、クリスマスのこと、また、ユダヤ・キリスト教の狡知についてあらためて考えてみると、ユダヤ・キリスト教の奸智・狡知の多さに気がついた。それは、いわば宗教的詐欺ないしは宗教的盗作(パクリ)である。詐欺教、ペテン教、パクリ教である。では、以下、奸智・狡知・盗作をあげてみよう。

1)クリスマスは、イエスの誕生日の祝祭になっているが、これはフィクションであり、本来のイエスの誕生日は、春か初夏と考えられている。これは、冬至の祭礼を横取りして、クリスマス(キリストのミサ)に変えたのである。太陽崇拝や祖先崇拝が元の祭礼の基礎である。

2)カトリック教会における聖母マリア崇拝であるが、それは、本来、地中海の女神宗教を横取りして、取り入れたものである。イシス・オシリスの宗教・神話が基盤である。聖母子像は、イシス・オシリスが原型である。

3)聖霊であるが、これは、Media Pointにおける超越エネルギーのことを表現していると考えられるのであり、これは、普遍的な現象であり、ユダヤ・キリスト教が独占できるものではないのである。

4)天使であるが、それは、多神教の神々に通じるものだろう。あるいは、大乗仏教の菩薩や如来に通じるだろう。あるいは、神話に通じるものだろう。

5)父と子と聖霊の三位一体であるが、父とは、ユダヤ教の神であり、聖書の神ではないだろう。聖書の神はヤハウェとエローヒーム(神の複数形)の二種類である。子は、女神(母)の子であり、父の子ではない。また、聖霊とは、Media Pointの超越エネルギー(超越エネルゲイア)であり、それは、普遍的現象である。だから、これらは三者は別々であり、一体とはならないのである。三位三体が正しく、三位一体はフィクションである。

6)イエスの死と復活であるが、これは、古代の秘儀・密儀を踏襲したものである。永遠の生命とは、普遍的な思想であり、ユダヤ・キリスト教の独占できる観念ではない。言い換えると、いわば、異教の集約点としてのイエスの宗教があるのであり、いわば、超異教なのである。それをユダヤ・キリスト教としての異教から区別するのは、誤謬である。異教の縮図としてのイエスの宗教があるのである。大異教としてのイエス宗教である。私は、イエスはプラトニストであると考えている。あるいは、東洋的な叡知の伝達者である。参照:『トマスによる福音書』。

7)十字架というシンボルは、普遍的であり、ユダヤ・キリスト教の独占できるものではない。

ざっと、以上のようなトリックがある。
 結局、いちばんの問題は、三位一体というフィクション・錯誤・虚偽である。多元的なものを、無理やり唯一神において統一しようとしているのである。つまり、唯一神という超越的同一性によって統一化しようとしているのである。しかしながら、聖書には、唯一神は存しないから、ユダヤ・キリスト教会の創作である。「父」の創作、これが、詐欺の中心点である。太極原理、ないしは、プラトニック・シナジー理論から言えば、父ならば、それと対等の母がいなくてはならないが、それが存しないのは、都合が悪いからである。陰陽が本来的なのである。イザナミ・イザナギないしは太極的様相が真正・正統なのである。
 結局、いわば、ユダヤ・キリスト教会教とは、本来、さまざまな宗教を取り込んで(横取り、いいとこ取りして)、超越的同一性教を創作したと考えられるのである。
 では、超越的同一性教とは何か。これは、超越的同一性としての自我の宗教であり、また、正に、同一性としての交換価値としての貨幣信仰である。マモン神の宗教、貨幣教(貨幣狂)である。金の信者・亡者である。そして、資本主義、マネー・ゲームに帰結したのである。
 プラトニック・シナジー理論から見ると、Media Pointを実軸へと限定する志向性である。つまり、自己認識方程式から言うと、i*(-i)⇒+1をX⇒+1として、Xが不明になっていて、+1である自我から類推して、Xを超越的同一性の神にしているのである。差異を否定するので、悪魔的である。
 結局、まとめると、狡猾な虚偽的宗教であり、貨幣神宗教であり、悪魔教である。だから、邪教である。ウィリアム・ブレイクが、ユダヤ・キリスト教の父を Nobodady(誰でもない父)と呼んでいたのを想起する。ブレイクの宗教・神話は、純粋なMedia Pointの宗教・神話である。東洋的なのである。柳宗悦(やなぎむねよし)や寿岳文章がブレイクに魅かれたのも、同質性からである。

p.s. 先にも述べたが、唯一神は二種類あることを一言注意しておきたい。ユダヤ・キリスト教の唯一神は、超越的同一性であり、イスラーム教の唯一神は、Media Pointの一(いつ)の神である。私は、We are One.と言ったが、これが、アッラーである。一即多の神すなわち、Media Pointの真正な神である。根元神である。正に、大神である。
 混乱・混同を避けるため、同一性唯一神と差異共振的唯一神に分けることができよう。これでは、煩瑣なので、唯同一神と唯差一神とでも呼ぼうか。簡略して、同一神と差一神か。後で再考したい。

2007年12月21日 (20:03)

ユダヤ・キリスト教/三位一体教の奸智について:又、マモン崇拝である邪教としてのユダヤ・キリスト教

戦後日本人は、アメリカ近代合理主義に洗脳されているので、自分の民族・文化の宗教・神話が奪われていることも感じないし、また、宗教・神話に無理解になっている。度し難い感がある。
 ところで、クリスマスが近づいたので、クリスマスのことを考え、また、キリスト教の狡知についてあらためて考えてみると、ユダヤ・キリスト教の奸智・狡知の多さに気がついた。それは、宗教的詐欺に近いのである。邪教と呼ぶのは少し違うと思う。詐欺教の方が真相に近いだろう。では、以下、奸智・狡知をあげてみよう。

1)クリスマスは、イエスの誕生日の祝祭になっているが、これはフィクションであり、本来のイエスの誕生日は、春か初夏と考えられている。これは、冬至の祭礼を横取りして、クリスマス(キリストのミサ)に変えたのである。太陽崇拝や祖先崇拝が元の祭礼の基礎である。

2)カトリック教会における聖母マリア崇拝であるが、それは、本来、地中海の女神宗教を横取りして、取り入れたものである。イシス・オシリスの宗教・神話が基盤である。聖母子像は、イシス・オシリスが原型である。

3)聖霊であるが、これは、Media Pointにおける超越エネルギーのことを表現していると考えられるのであり、これは、普遍的な現象であり、ユダヤ・キリスト教が独占できるものではないのである。

4)天使であるが、それは、多神教の神々に通じるものだろう。あるいは、大乗仏教の菩薩や如来に通じるだろう。あるいは、神話に通じるものだろう。

5)父と子と聖霊の三位一体であるが、父とは、ユダヤ教の神であり、聖書の神ではないだろう。聖書の神はヤハウェとエローヒーム(神の複数形)の二種類である。子は、女神(母)の子であり、父の子ではない。また、聖霊とは、Media Pointの超越エネルギー(超越エネルゲイア)であり、それは、普遍的現象である。だから、これらは三者は別々であり、一体とはならないのである。三位三体が正しく、三位一体はフィクションである。

6)イエスの死と復活であるが、これは、古代の秘儀・密儀を踏襲したものである。永遠の生命とは、普遍的な思想であり、ユダヤ・キリスト教の独占できる観念ではない。言い換えると、いわば、異教の集約点としてのイエスの宗教があるのであり、いわば、超異教なのである。それをユダヤ・キリスト教としての異教から区別するのは、誤謬である。異教の縮図としてのイエスの宗教があるのである。大異教としてのイエス宗教である。私は、イエスはプラトニストであると考えている。あるいは、東洋的な叡知の伝達者である。参照:『トマスによる福音書』。

7)十字架というシンボルは、普遍的であり、ユダヤ・キリスト教の独占できるものではない。

ざっと、以上のようなトリックがある。
 結局、いちばんの問題は、三位一体というフィクション・錯誤・虚偽である。多元的なものを、無理やり唯一神において統一しようとしているのである。つまり、唯一神という超越的同一性によって統一化しようとしているのである。しかしながら、聖書には、唯一神は存しないから、ユダヤ・キリスト教会の創作である。「父」の創作、これが、詐欺の中心点である。太極原理、ないしは、プラトニック・シナジー理論から言えば、父ならば、それと対等の母がいなくてはならないが、それが存しないのは、都合が悪いからである。陰陽が本来的なのである。イザナミ・イザナギが太極が真正・正統なのである。
 結局、いわば、ユダヤ・キリスト教会教とは、本来、さまざまな宗教を取り込んで(横取り、いいとこ取りして)、超越的同一性教を創作したと考えられるのである。
 では、超越的同一性教とは何か。これは、超越的同一性としての自我の宗教であり、また、正に、同一性としての交換価値としての貨幣信仰である。マモン神の宗教である。
 プラトニック・シナジー理論から見ると、Media Pointを実軸へと限定する志向性である。つまり、自己認識方程式から言うと、i*(-i)⇒+1をX⇒+1として、Xが不明になっていて、+1である自我から類推して、Xを超越的同一性の神にしているのである。
 超越的同一性の神とは、邪神、悪魔である。つまり、ユダヤ・キリスト教とは悪魔教なのである。この点では、邪教である。また、超越的同一性とは同一性交換価値としての貨幣でもあるから、貨幣教である。お金の信者・亡者である。そして、この帰結が、資本主義である。マネー・ゲームの資本主義なのである。お金を渇望する宗教なのである。

2007年10月25日 (11:07)

『近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと ・・・』のp.p.s.の掲載

『近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと近代サイクルとトランス・モダン・エラ』http://ameblo.jp/renshi/entry-10052416843.html
のp.p.sを新たに掲載する。

********************************

p.p.s. 別稿で、詳論すべきであるが、ブッシュ/ネオコンの場合においては、近代合理性ではなく、近代的自我に非合理主義・宗教衝動が連続化して、駆動されているようなことを上述した。
 しかしながら、近代的自我は、同一性中心主義(デリダの「ロゴス中心主義」)であるから、資本の同一性交換価値(貨幣=資本)と連続化する。これは、近代合理性と言えるだろう。だから、ブッシュ/ネオコンの事態はそれなりに複雑である。
 近代的自我があり、それに近代合理性が連続化し、後期近代/ポスト・モダンにおいては、近代的自我・近代合理性に、さらに非合理主義/宗教衝動が連続化するということになろう。即ち、近代的自我・近代合理性・非合理主義(宗教衝動)となる。これが、キリスト教原理主義、キリスト教右派の精神的様態であると考えられる。そして、当然、グローバリズムの正体もこれである。
 ベースはMedia Pointではあるのだが、同一性構造(=近代的自我)が支配的であるために、純粋なMedia Point自体へは回帰できないのである。このMedia Point回帰(=トランス・モダン化)は、プラトニック・シナジー理論のみが、理論的に解明していると考えられる。

2007年10月24日 (02:12)

近代的自我とキリスト教:同一性自我の脱構築と純粋Media Point回帰=東洋的精神の復活

先に、近代的自我と近代合理性との二重性、即ち、前者が主体であり、後者が従の関係にあることを述べた。例えば、ブッシュが馬鹿の一つ覚えのように民主化と唱えるが、民主化とは、近代合理性に入るが、ブッシュの近代的自我においてである。つまり、利己主義、自己中心主義においてである。つまり、民主化=近代合理性は近代的自我=利己主義に利用されているのである。出汁にされているとも言える。
 私はこの二重性の発生の構造を明確にしたいと思っている。以前、この問題について述べたが、新たに検討したいのである。ほとんど解明済みの感もあるが、ここでも、PS理論に即して考えよう。
 Media Pointから同一性の志向が発生する。ここで、同一性構造が生まれる。問題は、この同一性構造(言語構造と言ってもいいだろう。チョムスキーの生成文法論の深層構造とは、これではないだろうか。)は、Media Pointの差異ないしは差異共振性を否定・排除・隠蔽していることである。(ハイデガーの本来的存在は、やはり、この同一性構造と関係するだろう。)
 この差異を否定する同一性は近代的自我となるのである。近代以前においては、同一性は差異を否定しなかったであろう。信仰があり、それは、差異に通じていたと考えられるからである。
 差異を否定する同一性=自我であるが、これは、優越的同一性である。否定される差異は劣位となる。この優劣の原因は何か。
 それは、Media Pointからの同一性志向、言い換えると、同一性衝動が力の衝動であるからであろう。この力が、差異を打ち負かし、勝利するような感情をもたらすので、優越感情を抱くのではないだろうか。
 攻撃衝動と言ってもいいだろう。しかしながら、この力の衝動とは、不安の裏返しであろう。Media Pointから同一性的志向をもつとき、差異自体は不安の種になるだろう。この不安に目をつぶるように、同一性の攻撃衝動が生まれるのではないだろうか。
 いわば、闇を克服した勝利感が優越感ではないだろうか。しかしながら、劣等感を裏にもっていると言えよう。とまれ、差異を否定する同一性的優越感自我が発生する。本当は、同一性的優越感/劣等感自我である。つまり、表立っては、優越感であるが、内面は劣等感があるのである。
 それから、この近代的自我は、同一性の合理性を帯びるようになるのである。これが、近代合理性である。近代的自我と結びついた近代合理性が、近代合理主義である。
 近代的自我は、近代合理性を武器にして、利己主義を肯定するようになるのである。これが、西欧近代主義であり、帰結がアメリカの合理主義である。
 ここで、プロテスタンティズムの問題を考えなくてはならない。これまで述べてきたように、Media Pointから同一性衝動が発生するが、この同一性衝動はMedia Pointの超越性を帯びていたのであり、そのために、この同一性衝動=近代的自我衝動は、宗教性を帯びて、プロテスタンティズムを発生させたと考えられる。ロビンソン・クルーソーである。
 思うに、アメリカ人のプロテスタンティズムはこれで説明できるだろう。Media Pointからの同一性自我衝動なのである。そう、ユダヤ教的衝動と言ってもいいだろう。ユダヤ教とアメリカのプロテスタンティズムは同一性自我衝動という点で通じる。
 これがたいへん危険なのは、超越性を否定的に帯びているので、つまり、差異共振的超越性ではなく差異否定的超越性を帯びているので、いわば、絶対的二元論を発現する点である。つまり、絶対的善悪二元論である。すなわち、プロテスタンティズムは、絶対的善悪二元論的同一性自我衝動であるということである。
 これは、端的に、狂信、カルトである。キリスト教原理主義である。
 この狂信的同一性自我衝動は近代合理性を身につけるのである。自我は優越性を帯びていて慢心している。それは、自我に張り付いた近代合理性、近代的自我と癒着した近代合理性を恣意的に武器として利用するのある。だから、民主主義も狂信的近代的自我によって、都合よく利用されてしまうのである。
 ここで、民主主義について考えた方がいいだろう。これは、古代ギリシア的原理と、キリスト教的原理が重なっているだろう。アメリカの独立宣言には、「神がわれわれを平等に造った」と述べられている。
 当然、キリスト教的民主主義である。これは、狂信的近代的自我と結びついているので、狂信的民主主義となる。キリスト教原理主義的民主主義となる。つまり、ここには、カルト的民主主義があると言える。これが、ブッシュの唱える民主化の本質である。狂気の民主化である。
 以上で、近代的自我とキリスト教の結びつきを試論的に考察した。やはり、判明したことは、キリスト教というよりは、ユダヤ教ないしは一神教が問題である。何故なら、同一性自我衝動は、キリスト教的というより、ユダヤ教的一神教的であるからである。ベースは、ユダヤ教的一神教性である。
 そう、ヤハウェは、「我在りて、在り余れる神である」。正に、自我の神なのである。
 以上から、同一性自我衝動を脱構築する必要があるのである。否定された差異は回帰するのであるが、それは、ポスト・モダンという欠陥のある理論で現われたのである。差異を純粋に、また、意識的に復活させないといけないのである。トランス近代的自我である。
 結局、近代的自我は、Media Pointの同一性衝動/同一性構造から発しているので、これを解体しないといけないのである。差異から同一性へと転換する構造を脱構築しないといけないである。
 それは、Media Pointの純粋化である。Media Pointの、いわば、現象学的還元が必要なのである。純粋Media Pointの復活である。そして、これこそ、本来的な東洋的精神である。

2007年04月11日 (23:13)

「近代的合理主義」と人倫:ユダヤ=キリスト教悪魔文明と新東洋文明

「近代的合理主義」とは、物質・金銭中心主義であり、合理主義という名を付けるのは、「理」に対する一種冒瀆である。

だから、近代的数量主義と言うべきである。

金の多寡を問題にするのであるから。

結局、近代的数量主義によって、人倫は破壊されたのである。

人類滅亡路線となったのである。

確かに、近代的数量主義は、近代的科学を生んだのであるが、今や、人類滅亡的である。

結局、近代的数量主義の問題は、人倫の絆が断たれたことにある。利己主義の正当化が生じたのである。

人類の悪魔化である。

これは、実に厄介である。

西洋文明のもたらした災厄と言えよう。

それは、やはり、ユダヤ=キリスト教に問題があるのである。

これが、人類を悪魔化したのである。

はっきりと、ユダヤ=キリスト教西洋文明から脱却しなければ、人類は、滅亡過程にあると言えよう。

はっきり言って、悪魔文明である。

なぜ、日本人は、眠っているのか。

ユダヤ=キリスト教悪魔西洋文明を乗り越えなくてはならない。

とんだ、食わせ物である。

人類滅亡路線である。

東洋に目覚めよ!

2007年03月24日 (20:27)

MePoの宗教と⇒+1の多神教:イエス教は仏教的か、又は、多神教的か:一神教の多神教化:第三聖書

先に、仏教は、MePo自体の宗教であり、多神教は、MePoの+1への展開をもつ宗教と言った。

そして、一神教は、MePoの-1への展開の宗教と言い、イエスの教え(以下、イエス教)は、仏教か多神教的であると言った。

ここでは、イエス教は、仏教的なのか、それとも、多神教的なのか、明確にしたい。

イエス教を、先に、他者との共生を説く教えであると言い、だから、多神教的であると言った。

他者との共生は、多神教的であるのか。

というか、問題は、MePo自体の宗教というものがあるのか、どうかを考えなくてはならないということだろう。

仏陀の悟り(覚醒)とは、思うに、瞑想によって、MePoに達したことにあるのではないだろうか。MePoは、i*(-i)⇒+1の*⇒であろう。*自体は、虚数軸の原点なので、人間には達することができないのではないだろうか。

とまれ、仏陀の覚醒は、MePoの認識にあったように思える。そして、大乗仏教は、MePo⇒+1の展開を意味すると思うのである。これが、衆生の救済志向である。社会救済志向である。そして、これは、まったくイエス教と一致するものだと思う。

すると、大乗仏教とイエス教は、多神教と同じものとなるだろう。これをどう考えるのか。

端的に言って、大乗仏教とイエス教は、⇒+1になるので、多神教と同質のものと言えよう。しかし、多神教は、自然に向けられたものであり、大乗仏教とイエス教は、社会に向けられたものという点で相違があると言えよう。しかし、三者、同質であると考えられる。

また、一神教であるが、それは、MePo自体を連続的同一性化していると言えよう。そして、超越的同一性=唯一神が存するのである。

さて、ここで、先に検討問題とした超越的同一性と連続的同一性の構造を考察してみよう。

これは、既述したように、一神教と連続的同一性の同形性の問題である。

一神教は、既述・上述したように、MePoにおける⇒-1の展開において発生すると言えよう。このときの、MePoが唯一神となる。

これは、i*-(-i)⇒-1である。

原-他者である-iが否定されるのである。

これは、どういうことなのだろうか。

考えられるのは、超越界における極性変化である。iと-iとの極性を考えると、iに傾斜する場合を考える。すると、それは、iが優位であり、-iが劣位である。

それが、この意味なのではないだろうか。原-主体が、原-他者に優位になるという事象が、i*-(-i)⇒-1なのではないだろうか。

原-主体を原-知(原-思惟)、原-他者を原-身体(原-質料)としてもいいだろう。

そうすると、これは、原-知が過剰となり、原-身体を否定し同一性化するということである。即ち、原-身体ないし身体性への否定と言えるだろう。そして、さらに、原-知を原-左脳性、原-身体を原-右脳性とすると、これは、ヴィジョン、イメージの否定である。これが、一神教のもつ偶像破壊(イコノクラズム)となるのではないのか。

とまれ、ここでは、超越界の極性変化を作業仮説にして考えたのである。

そして、この⇒-1とは、正に、連続的同一性主義と言えよう。これは、MePoの極限的様態であり、極性が破綻したものと言えよう。

つまり、これが、二元論と言えるのではないだろうか。原-主体が原-他者に対して、優位になり、二項対立が発生したということではないのか。

MePoが、二元論的になったと言えよう。つまり、唯一神になったということである。iが唯一神になり、-iが排除されたということである。そして、おそらく、-iの排除が多神教や異教の排除を意味するのである。

この事態を、先に、超越的差異の簒奪と言ったものではないだろうか。しかし、これは、MePo自体の極限的変異と言えるだろう。

そう、MePoのヤハウェ化と言えるのではないだろうか。

しかし、基本的には、MePoは、超越的差異共振性であるから、エローヒーム(神々)が存するのではないだろうか。

しかし、そう考えると、問題は、MePoの性質である。

本来、MePoは、超越的差異共振性をもつのに、それが、超越的連続的同一性化を発生させると考えるのは、矛盾しているのではないかという疑問が浮かぶのである。

この、いわば、矛盾をどう考えるのか。

そう、これは、やはり、矛盾していないと思う。ここで、超越性の、いわば、太極性を考えればいいのである。iが-iを否定する事態とは、陰陽極性で言えば、陽が極まった様相を考えればいいのであり、あくまでもここには、太極性の世界があるということになる。

陽が極まったとは、陰がゼロになったということである。これが、i*-(-i)⇒-1の事象だと思うのである。

あくまで、*ないし太極性は保持されているということである。

つまり、超越的差異共振性の極限としての超越的連続的同一性化であり、MePoがそのような様態をとると考えるのである。

極限という用語が問題ならば、極端でもいいだろう。

だから、超越的連続的同一性化ではあっても、MePoの太極性は喪失していないことになる。超越的太極性の一様相としての超越的連続的同一性ということになる。

この超越的太極性ということが、旧約聖書のエローヒーム(神の複数形)に表現されているのだと思うのである。

つまり、ヤハウェは、イスラエルの民が偶像崇拝(金牛像崇拝)するのに対して、怒り狂って、罰を与えるが、この否定対象である根源的な-iを、本来は認めていると見るべきなのではないだろうか。単純に考えて、否定するというのは、他者の存在を認めているからである。他者の存在がなければ、否定はそもそもないのである。

つまり、超越的連続的同一性=ヤハウェとは、他者を妬んでいるのである。

ヤハウェは、イスラエルの民が自分ではなく、金牛像を崇拝するのを妬んでいるのである。

つまり、他者-iを嫉視しているのである。

本来、差異共振ならば、他者-iと共振するから、民が偶像崇拝しても、それに対して寛容的になるはずである。しかし、民-iを妬むとは、自己iにおける自恃・自負の念が強いのであろう。我こそはである。iの過剰なエネルギーがあると思うのである。そのため、それを、他者-iに投影すると思うのである。

それが、超越的連続的同一性=ヤハウェの本質であると思う。

iの他者-iへの投影である。それが、i*-(-i)⇒-1であろう。

つまり、本来、他者-iと主体iは、共振しているのであるが、主体iが過剰化するときがある。即ち、陽の極まりの時である。そのとき、共振の対象であった他者-iを、過剰な主体iは、妬み、同一性化するのである。主体所有としたいのである。自我所有したいのである。

もし、初めから、共振様相がなければ、他者はないのであるから、主体が過剰になっても、他者は関係ないはずである。

ということで、以上の仮説は証明されたであろう。

そう、ヤハウェ教は、多神教の極端的変異なのである。

ここで、天才D.H.ロレンスの言葉が想起するのである。ロレンスは最晩年、新しい聖書の翻訳を読んで、旧約聖書の神が複数・多元的であること、即ち、多神教的であることを発見して歓喜するのである。

PS理論から言うと、MePoであるヤハウェは、本来、超越的差異共振シナジー様相をもっているのである。それは、他者との共生・共存を意味するのであり、当然、多神教的なのである。

そう考えると、一神教の変容が考えられよう。つまり、ヤハウェの多神教化である。


参考1:
出エジプト記

第20章

EXO20:01
神はこれらすべての言葉を告げられた。
EXO20:02
「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。
EXO20:03
あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。
EXO20:04
あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。
EXO20:05
あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、
EXO20:06
わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。
EXO20:07
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
http://www.is.seisen-u.ac.jp/~zkohta/bible/old_t/1/exo.html#exo20


参考2:D.H.ロレンスの『アポカリプス補遺1』から

In Apocalypse, Fragment Ⅰ, Lawrence tells that God of the Old Testament is polytheistic.
“Now the Bible, we know well, is a great religious book. It is full of God. .....The Jews did a wonderful thing when they focused the whole religious feeling of man upon One God. But that does not prevent their Bible from being full of all the gods. It is this discovery which a man can make in his maturity, to his unspeakable relief.
The Bible is full of all the gods. Nay, even, the Jahveh of the Old Testament is all the gods, except the dying and redeeming gods. But surely the Jehovah of Genesis and Numbers, Samuel, Psalms, Isaiah, Ezekiel, surely he is all the gods in turn, Dionysic, Apollo-like, strange like Ra, and grim like Baal or Bel. You can’t make an idol to Jehovah because he has the qualities of all the ancient gods in turn, Ouranos or Kronos or Saturn, even the old Osiris, or the mysterious gods of the first Sumerians. He is One because he is all of them, not because he is different from any of them. He does not sit absolute and apart, while all the other gods topple, mere fallen into idols. He is himself all the gods and all the idols, savage and fertile, and even he is all the unknown gods that are yet to come.
…………………………
But now, having really read the Bible as a book, not as a one-sided pronouncement, I realize the very truth of the Bible: If this God exists, One and Eternal, then all the other gods exist too. For all the gods are only “sides” of the One God.”(p. 156)
http://ameblo.jp/renshi/theme-10000509927.html

2007年03月19日 (06:59)

身体的他者と超越性:一神教の構造分析

以下は、「問題は、どうして、欧米とりわけアメリカは、世界に対して攻撃的なのか。覇権主義の原因は何か。」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10028346071.html
のコメントを独立させたものである。
____________________________________

まだ、本件については、理論的整理が足りないと思う。後で、詳論するとして、今は、簡単に触れるに留めたい。

連続的同一性は他者・身体性を否定する。しかし、同時に、必要とする。

この他者・身体性と超越性ないし差異共振性との関係を探求したいのである。

超越的次元から、男性的傾斜によって、連続的同一性が発現するが、初期的には、超越的次元を保持していると考えられる。

しかし、超越的差異共振性を否定する。即ち、超越的他者【虚数的他者-iないし、i*(-i)】があるが、それを否定して、連続的同一性を発現する。

つまり、明らかに、齟齬があるのである。超越的他者の否定と肯定があるのである。

これは即非様相ではなくて、二項対立的矛盾様相である。

端的に、分裂性である。

整理すると、超越的身体的他者の同時的否定と肯定があるのである。つまり、弁証法的様相がここにはあるのである。主従の弁証法である。

図式化すると、

MP⇒-1

の構造がここにある。

超越的他者の否定・肯定の弁証法は、この⇒にあると言えよう。これが、一神教の様相空間であろう。

言い換えると、MPにおいて、超越次元を示唆し、同時に、⇒において、超越的他者を否定・肯定するのである。

しかし、あくまでも、この肯定は、連続的同一性的肯定に過ぎない。

換言すると、超越的他者の否定と超越的主体の否定がここに同時生起しているのである。
 
簡単にいえば、二項対立の成立である。

iは-iを否定し、-iはiを否定するということである。

この連続的同一性が逆に超越次元に投影されて、唯一神になると言えよう。

しかし、超越次元は、本来、差異共振次元であるから、神々が存するのである。エローヒームが存するのである。

つまり、エローヒーム(神々)にヤハウェ(唯一神)が投影される様態なのである。

明らかに、「分裂症」である。MPを仲介にして、差異共振性と連続的同一性とが統一されようと意志されるのであるから。

ここで今は留めたい。
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