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2010年11月22日 (00:09)

「暴力装置」について:精神的権力論と唯物論的権力論

私は「暴力装置」という概念は、唯物論的であるし、機械論的であると述べたし、この考えを変えるつもりはない。
 「自衛隊」、国防軍、防衛軍、軍部を「暴力装置」と呼ぶのは実に一面的、皮相に過ぎない。
 そもそも、「装置」とは、物質的器具のことであり、「自衛隊」、他は生きた人間の組織や営為を意味するのであるから、物質的器具ではありえないのであるから、暴力「装置」は誤りである。
 また、「暴力」であるが、これは、明らかに、悪としての物理的強制力を意味するのであり、「自衛隊」等をそう呼ぶのは、誤解以外の何ものでもない。
 確かに、権力はこれまで暴力を振るってきた。戦争や死刑等がそうである。
 しかしながら、外国の国家暴力に対して、自国が武力的に対抗しないのは、当然、自滅的である。この武力を暴力と呼ぶのは、明らかに誤謬である。それは、自衛・防衛のための物理的力能である。それは、自衛・防衛・国防という精神性・理念をもつものであり、それを単に道徳的に悪を意味合いをもつ暴力と形容することは間違いである。
 確かに、物理的、物質的に見れば、自衛・防衛・国防は「暴力」である。しかし、それは、物理的・物質的還元であり、精神現象を捨象しているのである。正に、唯物論的視点以外の何ものでもないのである。
 マックス・ウェーバーが、トロツキーの「暴力装置」を採用したということは、正に、それは、唯物論的概念ということであり、ウェーバーの社会学の精神性とは、異質なものであると言える。言い換えると、ウェーバーが、「暴力装置」概念を採用したとき、彼は唯物論的であったと言えるのである。
 とまれ、「暴力装置」概念がウェーバーに拠るのではなく、永久革命論者のトロツキーのものであるというのは、この概念の唯物論性の決定的証拠である。


参照:

『◆ 2010/11/21(日) 『イデアル・ティップス』 って知ってる?

・・・・・

じつは、「暴力」という言語に関しては、マックス・ヴェーバー自身が、左翼が言い出した政治用語だと書いているのだ。次がヴェーバーの文章だ。

 「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」 と トロツキーは こう喝破したが、この言語は実際正しい。 (『職業としての政治』)

 「極左暴力主義者」のことを「トロツキスト」と言うときの あのトロツキー である。
ここで、ヴェーバーは、別に過激なトロツキストを擁護し、弁護しているのではない。

 ヴェーバーは、次のように言いたいのである。ヴェーバーの意図するところは、
「 “暴力・violence” という激しい言葉でしか表現できない荒々しい物理的強制力を、国家という共同体は独占している!
国家が独占している究極の強制力こそ “暴力” なのだ!」 と。
 ここでヴェーバーの意図するところは、
「国家が独占する究極の強制力は、“暴力・violence” という言葉でしか表現できない。
“force” や ”power”、また “武力” や ”威力” では、意味が薄くなるので駄目!」 ということである。』


たたかう老人! 飯山一郎の ハッタリなしの 口演会場 _
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2009年08月08日 (01:01)

現象について:西洋文化ないしは近代文化は身体と物質の混同している

この問題は既述済みであるが、明確に説く必要がある。今は余裕がないので、一言言うだけだが、例えば、感覚を考えよう。「わたし」が木を見るとしよう。視覚認識がある。この木の現象は、「わたし」の視覚において捉えているのであって、それは、あくまで視覚現象である。しかし、近代合理主義は、視覚現象の対象を物質現象と把握したのである。しかし、ここには飛躍があるのである。視覚現象はあくまで視覚現象であり、物質現象ではないからである。
 対象を物質とすることで、思考においてどれほどの混乱をもたらしたことだろうか。対象を物質とするのは、仮説であり、それを本質とするのは飛躍なのである。
 しかし、PS理論によって、対象が何であるか明快である。それは、差異共振エネルギーの現象様態であるということである。言い換えると、イデア現象様態であるということである。その現象様態を同一性的に抽象すると物質という虚構体が生まれるのである。
 そう、物質は虚構・「仮象」である。本体はイデア・エネルギー(「量子」)である。イデア・エネルギーの現象様態の同一性的抽象という虚構が物質ということである。

追記:感覚は、当然、身体である。

2009年04月12日 (12:44)

物質とは何か:自然現象と人工物:精神現象・イデア現象の唯物論的解釈に基づく物質科学・技術

先に、物質とは仮象であり、自然とは感覚態であり、精神現象であると言った。
 では、例えば、機械やそれによって作られた人工物は、どう捉えたらいいのだろうか。
 例えば、都市における物体・「モノ」は何なのか、である。それも精神現象なのだろうか。物質科学・技術によって作られた、例えば、コンクリートのビルとは、精神現象なのか?
 先には、街路樹は精神現象であると言ったが、ビルはどうなのか。物質科学・技術とは、⇒+1の+1、即ち、同一性=物質を抽象する科学・技術である。即ち、自然という精神現象・差異共振現象・即非現象から、同一性=物質を抽象し、加工する科学・技術である。
 問題は、⇒+1と+1との関係である。⇒を外すことが抽象である。では、⇒を外すとは、実際どういうことなのか。
 具体的に言えば、石灰石が多い山を考えよう。物質科学・技術(・産業)は、その山を石灰石という物質がある山と考えて、山を切り崩して、石灰石を採石するのである。
 これが、端的に、⇒を外すことである。精神現象・感覚態としての山は破壊され、山から物質の石灰石が採集されたのである。そう、山という精神現象・感覚態を炭酸カルシウムCaCO3に抽象・還元したのである。
 問題は、物質の「科学」である。それは一体何なのか。カルシウムと炭素と酸素が結合して、炭酸カルシウムが形成されるが、その結合の科学とは何なのか。
 それは、イオン結合である。そして、イオンとは、電荷のことであり、電子の力学である。そして、電子とは、端的に何かと言えば、それは、エネルギーである。+iと-iの対差異イデア・エネルギーということになる。
 つまり、イオン結合において、⇒が存するのであり、炭酸カルシウムとは、⇒炭酸カルシウムであり、やはり、精神現象ないしはイデア現象の結果として存することになるのである。つまり、物質科学・技術とは、実は、精神現象・イデア現象を唯物論的に解釈したものということになるだろう。言い換えると、物質科学・技術は、精神現象・イデア現象の終点を抽象化したものであり、あくまで、仮象ないしは仮構科学・技術に過ぎないのである。
 ということで、物質とは何かという問いであるが、精神現象・イデア現象・対差異共鳴現象の終点を抽象化したものということができよう。いわば、精神現象・イデア現象の外面が抽象されたものということになる。言い換えると、精神現象を同一性化したものが物質なのである。
 だから、コンクリート・ビルであるが、それは、精神現象の諸対象を、抽象原理(線形科学)によって、組み立てたものである。つまり、精神現象の抽象化としての同一性=物質を同一性=物質的原理(抽象科学・技術)によって、組み立てたものである。
 つまり、コンクリートのビルは、同一性=物質原理によって、貫徹されたものと言えるのである。だからこそ、都市生活は、精神を圧迫するのである。そこには、悪魔の波動があると言えよう。
 後で整理したい。

追記:しかしながら、真正な芸術的建築家が設計した「ビル」には、差異・差異共鳴原理が入るので、その「ビル」は、精神現象化して、美的感動を与えるのである。だから、トランス・モダン化として、都市の差異共鳴原理化が必要になると言えよう。
 西洋で言えば、中世やルネサンス期の大寺院・大聖堂は、差異共振原理の形状をもつと考えられる。
 そう、同一性=物質抽象原理を超えて、差異共振原理・Media Point原理を万象に渡って適用させるべきである。トランス・モダナイゼーションである。


石灰石
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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結晶質石灰岩(大理石)

石灰石(せっかいせき、limestone)は、鉱物 である方解石 ・霰石 、あるいは岩石 である石灰岩 ・結晶質石灰岩 (大理石)を、資源として扱うときの鉱石 名または商品名。
物質名 鉱物名 岩石名 鉱石名・
商品名 産状
堆積岩名 変成岩名
炭酸カルシウム
(CaCO3) 方解石
霰石 石灰岩 結晶質石灰岩
(大理石) 石灰石
大理石 鍾乳石・石筍など

関連項目 [編集 ]

* 炭酸カルシウム
* 鉱物 - 方解石 ・霰石
* 岩石 - 石灰岩 、結晶質石灰岩 (大理石)
* 鉱石
* 露天掘り

参考文献 [編集 ]

* 野瀬重人・沼野忠之  『岡山の岩石』 日本文教出版〈岡山文庫〉、2001、ISBN 4-8212-5212-0 。

外部リンク [編集 ]

* 石灰石鉱業協会
* 炭酸塩アトラス
* 石灰石・ドロマイトとは (吉澤石灰工業株式会社)

執筆の途中です この項目「石灰石」は、地球科学 に関連した書きかけの項目 です。加筆・訂正 などをして下さる協力者を求めています 。(Portal:地球科学 )
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%81%B0%E7%9F%B3 " より作成
カテゴリ : 鉱石

イオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
イオン(ion, 発音記号 áiən)は、原子 あるいは分子 が、電子 を授受することによって電荷 を持ったものをいう。電離層 などのプラズマ 、電解質 の水溶液 、イオン結晶 などのイオン結合 性を持つ物質内などに存在する。
イオンの種類 [編集 ]

電荷による種類 [編集 ]

陽イオン [編集 ]

電子を放出して正の電荷を帯びた原子、または原子団を陽イオン(ようイオン、positive ion)、あるいはカチオン (cation) と呼ぶ。金属イオンはすべて陽イオンである。

陰イオン [編集 ]

電子を受け取って負の電荷を帯びた原子、または原子団を陰イオン(いんイオン、negative ion)あるいはアニオン (anion) と呼ぶ。ハロゲン はすべて陰イオンとなる。

気相のイオン [編集 ]

物理学 、化学物理学 の分野では、気相 のイオンに対して、陽イオンの代わりに正イオン(せいイオン、positive ion、カチオン)、陰イオンの代わりに負イオン(ふイオン、negative ion、アニオン)が多く用いられる。大気電気学 では、気相のイオンを大気イオン (たいきイオン、atmospheric ion)と呼ぶ。

「マイナスイオン」に関する注意 [編集 ]

流行語にもなった「マイナスイオン 」は、定まった科学的定義がないために科学用語として認められていない和製英語 である。しかし一部では負イオン(負の大気イオン)の意味で「マイナスイオン」が使われる場合があり、2002年前後を中心に国内の学会で日本の多くの研究者が使用した実態があった。

構成による種類 [編集 ]

単原子イオン [編集 ]

一つの原子からなるイオン

多原子イオン [編集 ]

複数の原子団からなるイオン

錯イオン [編集 ]

電子を放出したり、受け取ったりして正または負の電荷を帯びた錯体 を錯イオン(さくイオン、complex ion)と呼ぶ。

クラスターイオン [編集 ]

電荷を帯びたクラスター をクラスターイオン(cluster ion)と呼ぶ。

イオンの表し方 [編集 ]

化学式の右肩に価数を記す。ただし、1価の場合は符号のみ記す。

* 水素イオン(1価の陽イオン) - H+
* 硫酸イオン(2価の陰イオン) - SO42-

イオンの名称は、陽イオンについては「元素名+イオン」(例:水素イオン)、陰イオンについては「元素名 - 「素」 + 化物イオン」(例:硫化物イオン)と表す。ただし、どちらも例外が多い。原子1個のイオンを単原子イオン、複数の原子で構成されるイオンを多原子イオンと呼ぶ。

また、主なイオンの名称とイオン式を覚えておけば、物質名から化学式がある程度推測できる。

* 硝酸ナトリウム ⇒ ナトリウムイオン + 硝酸イオン

NaNO3 → Na+ + NO3-

* 水酸化マグネシウム ⇒ マグネシウムイオン + 水酸化物イオン

Mg(OH)2 → Mg2+ + 2OH-

イオン化 [編集 ]

電荷的に中性な物質が、正または負の電荷をもつ原子あるいは原子団に変化する物理現象をイオン化 (ionization)、または電離と呼ぶ。正と負のイオンから構成される電解質 (塩 )の結晶が溶液中で溶解したり、融解したりして正または負のイオンとして個々に振舞うことも電離という。

中性原子がイオン化する場合、原子に属していた1個あるいは数個の電子が他の原子または原子団に移る。このとき、イオンの持つ電荷量は電気素量(すなわち電子の持つ電荷量)の整数倍に等しい。電子を受け取った原子または原子団は負電荷に帯電して陰イオンとなり、電子を放出した方は正電荷に帯電して陽イオンとなる。電子を放出する際には原子核からのクーロン力の束縛から解放される為に、電子は光子 を吸収したり、原子同士の衝突によりエネルギーを受け取って励起される必要がある。逆に電子を受け取る場合は、励起エネルギーの分を放出して安定化する。

一方、原子の方は電子構造 により安定化の度合いが異なるので、励起に必要なイオン化エネルギー の値や、電子を受けとる際の安定化エネルギーである電子親和力 の値は、元素の種類やイオン化の進行状況の違いによってそれぞれ異なるエネルギー値をとる。一般的には、電子構造 が閉殻やオクテットの構造をとるとき原子は安定化されるので、典型元素 においては価電子が閉殻やオクテットの構造をとることで電子配置的に安定なイオンとなる。例えば、アルカリ金属 はイオン化エネルギーが小さいため陽イオンになりやすく、反対にハロゲン やカルコゲン は陰イオンになりやすい。

また、個々のイオンは物質の高次構造においては正負の電荷が対(電気的に中性)を形成することで安定化する機構を有する。例えばイオン結晶 の中では、イオンはクーロン力 によってイオン結合 し規則正しい結晶 構造を形成することで、巨視的な電荷の偏りが中和され安定化している。代表例である塩化ナトリウム では、ナトリウム と塩素 が両者ともイオン化し、それらが静電的相互作用 によってイオン結合 している。

あるいは、極性溶媒ではイオンの電荷は溶媒分子を配向させるので(溶媒和 )、気相や非極性溶媒よりも安定化される。あるいは溶媒分子を配位する場合はより安定化する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%82%AA%E3%83%B3

2009年03月04日 (01:07)

同一性=物質と同一性自己:物質とは同一性自己投影像、仮象、マーヤーだ:ヘーゲル弁証法の脱唯物論性

先にヘーゲル弁証法について分析していたとき、合(ジンテーゼ)において、同一性=物質を否定して、同一性認識ないしは同一性知性を「精神」が包摂すると言った。この同一性=物質と同一性認識(同一性知性)の関係をより詳述したい。同一性認識(同一性知性)とは当然、同一性自己認識と重なると見ることができるので、同一性=物質と同一性自己との関係を子細に見ていきたい。
 この問題は先に述べた鏡像自己の問題に返るとわかりやすい。即ち、差異共振面に、同一性像を投影して、その鏡像を自己(同一性自己)と認識すると言った。それは、自己本来の差異共振性(差異共振像)を否定・抑圧して、同一性を差異共振鏡面に投影し、そこに反照する鏡像と同一化して、同一性自己像を形成するということである。
 問題は、原点にMedia Point があり、また、虚軸ゼロ点と実軸ゼロ点の両方が存していることである。しかし、鏡像自己においては、出発点は、実軸ゼロ点と考えられる。この「意識」が虚軸ゼロ点の差異共振性(差異共振像)に劣等感を覚えて、反感をもち、虚栄優越的に、それを否定して、同一性像を鏡面に投影して、鏡像自己と一体化すると考えられる。
 とまれ、重要なポイントは、実軸ゼロ点は、同一性志向性の原点であると考えられることである。では、核心の問題である同一性自己はどこにあるのだろうか。そう、志向性とは、端的に、認識性というということである。だから、同一性志向性とは、同一性認識性ということである。
 だから、実軸ゼロ点に同一性認識性、つまり、同一性自己の原点があるということになる。ここから、鏡面に同一性自己を投影するのである。そして、鏡面は、実際は差異共振像なのである。
 では、同一性=物質はどうなるのか。それは、差異共振鏡面に投影された同一性認識性が形成するものではないだろうか。つまり、同一性志向性=同一性認識性が差異共振鏡面に同一性像を形成するのであり、その同一性像が物質の原像ではないだろうか。フッサール現象学で言えば、同一性志向性がノエシスであり、差異共振鏡面に投影された同一性像がノエマではないだろうか。つまり、同一性志向性=同一性認識性が差異共振鏡面に同一性像を反映しているのであり、実は、同一性=物質自体は本来存在しないのではないだろうか。(フッサールは精神がすべてなくなれば、自然もなくなると述べていた。)
 ということは、同一性=物質とは、主観的な像であり、客観的な実在ではないことになる。正に、マーヤーである。仮象である。
 そこで、本件のテーマを考えると、+1とは同一性志向性=同一性認識に拠る仮象・マーヤー(幻像)であると言える。だから、ヘーゲルの合(ジンテーゼ)とは、同一性=物質を廃棄して、同一性志向性=同一性認識を「精神」に包摂したものと端的に言えるのである。正に、止揚である。そして、「精神」は、実軸ゼロ点を包摂した、連続的虚軸ゼロ点と考えられるのである。
 以上のように見ると、ヘーゲル弁証法は、唯物論を克服していることがわかるのである。しかしながら、それは、差異、超越性を同一性志向性に一致してしまっているので、全体主義的なのである。とまれ、同一性志向性精神を取りだしたことはヘーゲル弁証法の偉大な功績である。
 私はこれまで、ヘーゲル哲学はマルクス/エンゲルスの唯物弁証法を土台と考えていたが、そうではないのである。ヘーゲル哲学は同一性=物資を廃棄して、いわば、同一性志向性精神を説いているのである。フッサール的に言えば、ノエシスを説いているのである。同一性認識性を説いているのである。
 さて、今は示唆するだけだが、以上の考察を、ベルクソンのイマージュ哲学ないしは純粋持続哲学に適用すると興味深いだろう。物質は正に、イマージュなのである。それは、純粋持続が形成するイマージュなのである。しかしながら、ベルクソンは、物質を幻像とは見ていない。だから、物質と記憶という二元論になるのである。

2008年09月09日 (22:41)

近代合理主義/近代的自我/唯物論の敗北:「影」の逆襲とトランス・モダン

今日の日本社会の病理、そして、世界社会の病理は、ひと言で言えば、近代合理主義/近代的自我/唯物論の敗北といえる。もっとも日本の場合は、正確に言えば、封建的近代主義である。
 近代主義は、「光」であり、非近代主義を否定して、「闇」に葬り、「影」となったのである。そして、今日、この「闇」・「影」の逆襲を受けているのである。
 今日、近代主義的「光」に対して、もろもろの「闇」=「影」が発生している。そこには、強烈・激烈・酷烈に、「悪」があるのである。そして、同時に、超越光が潜んでいるのである。そう、「影」を取り戻す必要があるのである。近代主義が否定・抑圧・排除・隠蔽した「闇」には、潜在・可能的超越光が潜んでいるのである。
 哲学的には、「闇」ないしは「影」には差異(差異共鳴性)が潜むのである。しかし、当然ながら、単に差異だけではなく、否定反動を含むのである。この否定反動は、同一性主義否定暴力だけでなく、差異からの反動性を含むといえよう。(ちなみ、フロイトの死の欲動概念であるが、それは、同一性主義否定暴力と差異的反動を区別していないのではないだろうか。後で検討である。)そう、だから、いわば、近代主義/同一性主義的活断層である。(ドゥルーズ哲学の差異とは差異的反動ではないかと思う。つまり、連続的差異である。また、差異的反動=連続的差異とは、オカルト主義の「霊」ではないだろうか。とは言え、シュタイナーのアーリマンとは、この同一性主義否定暴力であり、ルシファーとは差異的反動のことではないだろうか。後で検討。)
 そして、「影」には、真正の差異、差異共鳴性が潜在している。これは、どういう様態なのだろうか。同一性主義的否定面以外の「影」ということではないだろうか。つまり、少なくとも、「影」は三重ではないだろうか。すなわち、一つは同一性主義的否定性であり、一つは反動的差異であり、一つは純正差異ではないだろうか。
 だから、「影」の純正差異に到達するには、同一性主義的否定性と反動的差異性を乗り越える必要があると言えよう。仏教が言う空や虚空とは、この乗り越えによって到達する純正差異(Media Point)と言えるのではないだろうか。
 一番の問題は、この問題の経済領域における意味である。私が批判する同一性主義的金融資本主義とは、純正差異に到達していない「影」に支配されていると思われる。暴力的であり、狂気的である。
 では、経済領域において、どうやって純正差異を発現させたらいいだろうか。理論的に言えば、差異共鳴資本をそれとして、活用することである。差異共鳴資本の活用とは何か。具体的に言えば、先にも言ったが、技術革新への転化であり、社会保障制度への消費ではないだろうか。あるいは、事業への投資があるだろう。それを同一性主義的価値化することは、反動である。どう、端的に貨幣でいうと、貨幣価値は確かに、同一性価値=交換価値であるが、そこには、差異共鳴価値が潜在・内在していることを見なくてはならない。言い換えると、イデアとしての、ないしは、即非様相としての貨幣ということになるのではないだろうか。つまり、Media Pointとしての貨幣価値である。サブプライムローンのような金融資本主義は、同一性主義的なのであり、差異を完全に喪失しているのである。
 では、具体的には、どのように差異共鳴価値としての貨幣・資本を実現するのか、である。思うに、先にも示唆したが、差異共鳴価値贈与を企業が積極的に行うことで、そうなるのではないだろうか。これこそ、小さな政府が生まれる契機ではないか。
 後は、利益に差異共鳴価値税をかけることではないだろうか。それは、累進課税である。所得税である。とりわけ、利子による利益に対しては、差異共鳴課税をかけるべきだと考えられる。
 法的には、差異共鳴価値法を制度化すべきである。そう、これこそ、民主主義の経済法である。差異共鳴価値法は、思うに、企業の純粋創造力を高めるのではないだろうか。競争は、差異共鳴力にとって換わるのではないだろうか。今はここで留める。

清酒3万本に使用、回収へ=「辰之巳」から原料購入-熊本の酒造会社

9月9日13時24分配信 時事通信

 米粉加工会社「三笠フーズ」(大阪市北区)が農薬やカビ毒に汚染された事故米を食用に転売していた問題で、熊本県城南町の「美少年酒造」が事故米混入の可能性がある破砕米32.4トンを三笠フーズの関連会社「辰之巳」(大阪市)から仕入れ、「鬼ころし」など清酒7種8品目の計約3万本を製造、出荷していたことが9日、分かった。
 緒方直明社長が記者会見し、明らかにした。
 既に全国各地に流通しているが、美少年酒造は新たな出荷を自粛するとともに、流通分については自主回収する方針。
 同社によると、今年1月から5月にかけ、辰之巳から低価格帯の清酒原料に使用するため「国産米」として購入。問題発覚後、緒方社長が辰之巳に問い合わせたところ、「事故米は一切入っていないという報告を工場から受けている」などと回答を得た。しかし、8日に九州農政局などが調査した結果、伝票などが一致。混入した可能性のあることが分かった。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080909-00000094-jij-soci

2008年09月01日 (22:30)

# 同一性主義の狂気の妄想性について:トランス・モダン・セラピー

2008年08月27日 (20:32)

今日の同一性主義狂気について:同一性言語知性と差異感性身体との極性

これは、先の試論の続きのようなものであるが、端的に、同一性主義において、非合理性=狂気がどう発生するのか、その力学を明確にしたい。もっとも、この問題はこれまで、それなりに考察はされてきたが、まだ、あいまいな点があるのでここで検討する次第である。
 思うに、図式化するとわかりやすいが、ここでは的確な図式化が難しいのでおおまかにかいてみる。


      +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↓  
            ↓
           抑 圧
            ↓
      境界____↓_____境界
            ↓
            ↓
            ↓
      -i  差異・感性・身心性


↓は否定・抑圧・排除・隠蔽を表す。そして、実線の横線は、知性と感性の境界である。近代合理主義は境界の下部を抑圧して、排除するのである。つまり、近代合理主義による近代的自我とは、境界上部の世界が中心となっていて、下部世界は無意識となっているのである。言い換えると、上部界が光で、下部界が闇である。
 そして、近代主義が進展すると、下部界は意識にとって消えているのである。
 しかしながら、心の基盤・土台・根源は下部にあるのである。正しく言えば、さらに下部にあるMedia Pointであるが。今はわかりやすくするために、そのように考える。
 ということで、近代合理主義は同一性主義世界を形成するが、それは、同時にエネルギーや創造性の枯渇を意味する。当然ながら、下部から新しいエネルギーを取り入れなくてはならないのであるが、下部を抑圧しているので、取り入れることができないのである。
 そう、上部と下部の二元論・二項対立の世界がそこにはあるのである。喩えて言えば、身心の活断層である。
 さて、上部の抑圧があっても、下部は活動しているのであるから、上部へと、いわば、噴出するのである。衝き上げである。衝動である。つまり、↑の方向へと作用するのである。


    +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↑ 
            ↑
           狂 気
            ↑
      境界____↑_____境界
            ↑
            ↑
            ↑
      -i  差異・感性・身心性

 
 しかしながら、同一性主義自我は、それをまったく感知できないのである。なぜなら、同一性主義知性は、いわば、自己完結ないしは自己閉塞しているので、他者である差異・感性・身心性の突き上げを認知できないからである。
 故に、下部の衝動が上部を、いわば、襲うのである。これが、非合理性=狂気なのである。近代的自我はこの下部の盲目の衝動に発作的に襲われるのである。それで、狂気的攻撃性を爆発されると考えられるのである。
 より精緻に言えば、下部の世界は他者の世界であるから、ここでの内的他者の否定は外的他者の否定となるのであり、ここで、同一性主義自我は暴力的言動を発すると考えられるのである。
 この近代主義的狂気であるが、これが西洋近代主義の帰結であると考えられる。もっとも、西洋近代に台頭した差異であるが、それは、ポスト・モダンへと発展したが、既述したように、袋小路に突き当たったと考えられるのである。
 この西洋近代の行き止まりを乗り越える哲学がプラトニック・シナジー理論であると考えられる。トランス・モダン哲学である。
 差異を不連続化して、同一性と差異とを共鳴化する理論である。知性と感性を共鳴化する理論である。
 とまれ、差異を掬い上げるには、端的には、東洋的身心論が必要である。新東洋的身心論が必要なのである。

2008年08月27日 (11:07)

精神の高次元化の必要に迫られているのではないか:同一性知性と差異感性:東洋的心身性とPS理論

私は近代合理主義/近代的自我そして唯物論は狂気であると言ってきたが、それは、言い換えれば、同一性主義狂気ということである。
 この狂気を乗り越えるには、高次元差異を認める必要があると思う。これは、PS理論では、Media Pointという基点の確認である。
 思うに、今日の世俗主義社会において、高次元を確認することは難しい。高次元は感性を介しているのであり、感性が近代合理主義によって、抑圧・排除されている。
 そう、言葉の問題がある。言葉は知性をもたらすものであるが、それは、同一性知性である。言葉から差異や感性を認識する方法はあるだろうか。端的に言って、差異や感性は言葉から逃れるものと考えられる。
 しかし、微妙な問題である。簡単に言えば、例えば、空という言葉の場合、概念・観念とは別に、感性を喚起し、想像的である。これは、特に、詩の場合であるが、詩ではなくても、空という言葉に、感性的内包性を強く与えることはできる。
 この感性的内包性であるが、ここにエネルギーがあると言えよう。しかし、近代合理主義はこのエネルギーを否定するという内的暴力をもち、このために、「他者」を排除することになっている。
 そう、近代合理主義という同一性主義は内的暴力であり、同時に、外的暴力である。精神的暴力であり、帰結的に、物理的暴力となる。
 とまれ、この「空」の場合を整理すると、「空」という言葉の感性的内包性=エネルギー=差異を否定するのは、同一性主義である。それは、同一性自己主義=自我主義であるし、物質主義である。
 同一性知性とは+iの志向であり、それが他者=差異-iを否定し、-1となる事態である。即ち、(+i)・[-(-i)]=-1である。そして、-(- i)という他者(差異)の否定が、暴力、内的暴力、精神的暴力である。これが、例えば、イジメや差別等を生むと考えられる。
 だから、近代主義は自己矛盾しているのである。同一性知性を目指すが、同時にそれが、他者否定である精神的暴力なのである。結局、この問題については、ポスト・モダンが鋭く異議を唱え、差異の視点を打ち出したわけである。しかしながら、これまで指摘してきた理由(ドゥルーズの場合は絶対的差異の否定、デリダの場合は超越性の否定)からポスト・モダン哲学には、重大な欠陥が生じて、差異を十分に進展できずに、停滞したと考えられるのである。(そう、資本主義の根本的欠陥もここにある。同一性主義であり、内在する差異性を否定してしまうのである。)
 この暴力、内在的暴力をもった近代主義が乗り越えることが、今日の喫緊の課題、最大の課題と言ってもいいだろうが、どうやって、感性・差異的エネルギーを解放するのかということになるのである。
 同一性主義知性には、感性は把握できないのである。その理由は端的に、感性は身体に存するからである。それも、精神的身体、内的身体にである。
 この内的身体を取り戻す必要があるのである。伝統的には、禅仏教や東洋的身体論は、この内的身体を陶冶する身体理論である。これが、今日、「知」の世界において、喪失しているのである。
 日本のアカデミズムの世界は、同一性主義文明である西洋文明崇拝によって、東洋的な内的身体論が喪失しているのである。そう、管見では、メルロ=ポンティの身体論は、東洋的身体論に接近したが、やはり、同一性知性の範囲に留まっている面があると思う。
 その点から見ると、過小評価されている故湯浅泰雄氏のパイオニア的研究をほとんど最高度に評価すべきではないか。

湯浅泰雄全集
http://nenji.smbs.gr.jp/No_12/hakuabooks.html
身体論―東洋的心身論と現代 (講談社学術文庫) (-) 湯浅 泰雄 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E8%AB%96%E2%80%95%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E7%9A%84%E5%BF%83%E8%BA%AB%E8%AB%96%E3%81%A8%E7%8F%BE%E4%BB%A3-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B9%AF%E6%B5%85-%E6%B3%B0%E9%9B%84/dp/406158927X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1219801095&sr=1-1

 氏は、東洋的心身論と言っているが、それは的確な命名である。この東洋的心身性にこそ、Media Pointが内在していると考えられるのである。
 そう、今日、現代こそ、東洋的心身論に回帰すべきである。もっとも、これは、トランス・モダン的回帰である。単に、先祖返りではない。つまり、近代主義=同一性主義を乗り越えるための、東洋的心身論であるからこそ、トランス・モダン論なのである。
 そして、そこにPS理論の視点を入れることで、再イデア論化が可能になるのである。つまり、東洋的心身性とはMedia Pointの様相であり、その心身性をイデア化することで、再イデア論が可能になり、東洋的心身性のインテリジェンス化が可能になるのである。
 ということで、近代主義=同一性主義の乗り越えは、先ず、東洋的心身性の形成し、さらには、その再イデア論化が必要であるということになる。この点から言うと、PS理論は東洋的イデア論である。
 最後に付け加えると、西洋人の作品ではあるが、東洋的心身論、あるいは宇宙的心身論をD. H. ロレンスの『無意識の幻想曲』は説いているのである。ロマン主義的性向を批判的に見さえすれば、この著は、驚くべき開眼をもたらすだろう。
 そう、身体的感性叡知の復権が求められているのである。

2008年03月23日 (00:48)

ポスト・モダン様態の近代的自我の心的病理相について:差異エネルギーを無意識的に暴圧する近代的自我

近代的自我の「狂気」についてはほぼ解明できたと思っているが、まだ多少不明瞭な箇所があるので、ここで検討したい。
 結局、問題点は、同一性主義が自己完結して、差異とは乖離してしまうのか、それとも、差異のエネルギーに突き動かされて、同一性主義が暴力化するのか、である。
 先に前者の考えをとったが、それ以前はずっと後者の考え方をしてきたのである。また、直近の結論では、両者同じことであると述べたと思う。精緻に考える必要がある。
 ポスト・モダン様態では、同一性の生成エネルギーが衰退して、差異のエネルギーが発動するようになるとしよう。これは、陰のエネルギーの発動と考えられる(仮説)。
 近代的自我は差異の抑圧否定によって成立する。つまり、近代的自我の同一性主義と差異(共振性)には壁がある。しかしながら、ポスト・モダン様態においては、差異エネルギーが賦活されて、同一性主義の壁を圧迫すると考えられる。しかしながら、近代的自我はそれをまったく感知していないので、無意識の差異(共振)エネルギーの圧力の影響を受けることになると考えられる。つまり、賦活された差異エネルギーの圧力に対して、同一性主義の近代的自我はそれを無意識のうちに、抑圧するのであるが、差異エネルギーが当然、動態なのである。同一性主義による無意識の抑圧も動態となるのであり、それは、端的に、無意識の暴力的なもの、即ち、衝動的な暴力的なもの、非合理な暴力的なものになると考えられよう。
 正に、この暴力的なものが、狂気と言えるだろう。(私が近代的自我は狂気であると言うのは、特にポスト・モダン様態において言えるだろう。)差異的なものを無意識の内に衝動的に暴圧するのである。この衝動的暴圧が狂気と言えよう。(そう、近代的自我は傲慢でもあるので、狂気暴圧的傲慢さをもつとも言えよう。端的に、悪魔的様相である。)
 ということで、本件であるが、やはり、先の結論通り、同一性主義は、差異から乖離すると同時に、差異のエネルギーを暴圧するので、反動的衝動性をもつのである。これは、確かに、パラノイアであり、「統合失調症」であり、また、うつ病的であろう。
 今日の心の病の内因がここにあるのではないだろうか。また、先にも言ったが、差異を意識・認識する教養知性が欠落していることも、心の病を蔓延させている一つの要因だと思われる。
 最後に付加すると、このポスト・モダン様態の近代的自我はどうなるのだろうか、という問題があるのである。狂気の様態であるが、どうなるのか。差異エネルギーはさらに賦活されると考えられるので、差異エネルギーの動態の強化と同時に近代的自我による無意識の暴圧衝動が生起するので、近代的自我の狂気は度を増して、そのままでは、決定的に狂人廃人となるだろう。
 差異を感知し、意識し、認識し、差異を主体とすることを学ぶ必要があると考えられるのである。これは、同一性主義にとり、驚天動地であろう。新しい天地である。

2008年01月09日 (15:04)

近代的自我の発生:再々・・・考:同一性化が差異化に先行するという根本的志向性がある

以下のように走り書きしたが、結局、近代的自我の形成の問題にまた戻ることになる。既に、少なくとも百回は論じているのではないかと思えるが、ここで確認したい。
 結局、Media Pointの新たな発動(ルネサンス)によって、どうして、同一性が差異を否定することになったのか、ということが核心である。これまでの議論から言えば、南欧イタリア・ルネサンスで発動したプロト・モダンが、西欧において、プロテスタンティズムによって、モダン化されたということになる。言い換えると、南欧モダンが西欧モダンへと転換したのである。
 この切り替えが、同一性による差異の否定を意味するのである。つまり、太母的な南欧文化から父権的な西欧文化へとモダンが展開したということである。これはこれでいいが、問題は、単に西欧だけでなく、世界にそれが伝搬したということから、ある必然性・一般性をもっていた観念の動きであることがわかるので、その意味を解明する必要があるのである。
 結局、これまで述べたことの確認となるが、第一に、Media Pointから同一性の志向が発動する。これは、太極原理から言えば、陽化である。この原理から同一性が先行して、差異が否定されたと考えられる。しかしながら、第二に、差異の志向性が生まれる。これが、ポスト・モダンであるが、同一性と連続化しているので、差異は純粋化されない。そして、第三に、差異が同一性から切り離される。これが、トランス・モダンである。
 結局、近代的自我の形成とは、Media Point=太極の根源的志向性によって生じたということになる。つまり、同一性への志向性が先行し、その後、差異へ志向するという方向性が根本にあることが原因であるということになる。ただし、西欧近代が特殊なのは、(それまでは、あるいは他の地域では、同一性への志向性が先行していても、本源的な差異、すなわち、Media Pointのエネルゲイアが残されていたということ、つまり、差異共振性が共同体のルールとしてなんらか存在していたと考えられるのであるが、)同一性への強い傾斜があるということである。これはユダヤ・キリスト教によってもたらされたと考えられるのである。(イタリアの場合は、ユダヤ・キリスト教と言っても、地中海の太母文化が強いので、ユダヤ・キリスト教が弱められているのである。しかしながら、イギリスにおいては、異教的なケルト文化があったのに、どうして同一性化されたのか、ということが解明されなくてはならない。思うに、イタリアに比べて、共同体の破壊が激しかったことが原因だと思うのである。後でさらに検討したい。)
 ということで本件を終えたい。

p.s. イギリスにおける共同体破壊は、直接的には、歴史上の囲い込み運動によってもたらされたと考えられる。結局、そこには、貨幣経済の浸透があるのである。しかしながら、共同体の破壊は、それ以前に文化破壊があったように思えるのである。つまり、ケルト文化の衰退があったと思われるのである。つまり、精神的文化の衰退があり、貨幣経済が浸透して、共同体の破壊が生じたのではないかと思われるのである。プロテスタンティズムが発生するというのは、従来の精神的文化の崩壊に対する、新たな精神的文化の発生を意味すると思われる。
 そして、イギリスにおけるケルト文化性であるが、それは、近代化によって、逆に活性化されていったのではないだろうか。つまり、衰退し埋もれていたケルト文化が、危機的に、新たに覚醒化したのではないだろうか。言い換えると、衰退していたMedia Pointが活性化したということになる。
 ここで、近代日本について考えると、似たような面があるだろう。日本の神道文化・仏教文化は衰退していたが、明治維新によって、(排仏毀釈はあったが、)それなりに活性化したのではないだろうか。ただ、問題は戦後文化である。アメリカの近代合理主義が中心化して、伝統的精神文化が衰退してしまった点である。ここでは、活性化ではなくて、衰退があるのである。逆に言えば、それほど、洗脳効果があったということになるだろう。それに対して、三島由紀夫の爆発的反抗もあったが。
 もっとも、今日、日本の危機は深まり、破局的になっている。日本精神文化ルネサンスが必要になっているのである。それは、同時に、社会・政治・経済的な復興につながることになるのである。

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近代同一性主義の狂気について

近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。
 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。
 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。)
 しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。
 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。
 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。
 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。
 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。
 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。
 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。
 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。
 近代主義からのエクソダスが必要である。
 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。
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