2008年09月09日 (22:41)

近代合理主義/近代的自我/唯物論の敗北:「影」の逆襲とトランス・モダン

今日の日本社会の病理、そして、世界社会の病理は、ひと言で言えば、近代合理主義/近代的自我/唯物論の敗北といえる。もっとも日本の場合は、正確に言えば、封建的近代主義である。
 近代主義は、「光」であり、非近代主義を否定して、「闇」に葬り、「影」となったのである。そして、今日、この「闇」・「影」の逆襲を受けているのである。
 今日、近代主義的「光」に対して、もろもろの「闇」=「影」が発生している。そこには、強烈・激烈・酷烈に、「悪」があるのである。そして、同時に、超越光が潜んでいるのである。そう、「影」を取り戻す必要があるのである。近代主義が否定・抑圧・排除・隠蔽した「闇」には、潜在・可能的超越光が潜んでいるのである。
 哲学的には、「闇」ないしは「影」には差異(差異共鳴性)が潜むのである。しかし、当然ながら、単に差異だけではなく、否定反動を含むのである。この否定反動は、同一性主義否定暴力だけでなく、差異からの反動性を含むといえよう。(ちなみ、フロイトの死の欲動概念であるが、それは、同一性主義否定暴力と差異的反動を区別していないのではないだろうか。後で検討である。)そう、だから、いわば、近代主義/同一性主義的活断層である。(ドゥルーズ哲学の差異とは差異的反動ではないかと思う。つまり、連続的差異である。また、差異的反動=連続的差異とは、オカルト主義の「霊」ではないだろうか。とは言え、シュタイナーのアーリマンとは、この同一性主義否定暴力であり、ルシファーとは差異的反動のことではないだろうか。後で検討。)
 そして、「影」には、真正の差異、差異共鳴性が潜在している。これは、どういう様態なのだろうか。同一性主義的否定面以外の「影」ということではないだろうか。つまり、少なくとも、「影」は三重ではないだろうか。すなわち、一つは同一性主義的否定性であり、一つは反動的差異であり、一つは純正差異ではないだろうか。
 だから、「影」の純正差異に到達するには、同一性主義的否定性と反動的差異性を乗り越える必要があると言えよう。仏教が言う空や虚空とは、この乗り越えによって到達する純正差異(Media Point)と言えるのではないだろうか。
 一番の問題は、この問題の経済領域における意味である。私が批判する同一性主義的金融資本主義とは、純正差異に到達していない「影」に支配されていると思われる。暴力的であり、狂気的である。
 では、経済領域において、どうやって純正差異を発現させたらいいだろうか。理論的に言えば、差異共鳴資本をそれとして、活用することである。差異共鳴資本の活用とは何か。具体的に言えば、先にも言ったが、技術革新への転化であり、社会保障制度への消費ではないだろうか。あるいは、事業への投資があるだろう。それを同一性主義的価値化することは、反動である。どう、端的に貨幣でいうと、貨幣価値は確かに、同一性価値=交換価値であるが、そこには、差異共鳴価値が潜在・内在していることを見なくてはならない。言い換えると、イデアとしての、ないしは、即非様相としての貨幣ということになるのではないだろうか。つまり、Media Pointとしての貨幣価値である。サブプライムローンのような金融資本主義は、同一性主義的なのであり、差異を完全に喪失しているのである。
 では、具体的には、どのように差異共鳴価値としての貨幣・資本を実現するのか、である。思うに、先にも示唆したが、差異共鳴価値贈与を企業が積極的に行うことで、そうなるのではないだろうか。これこそ、小さな政府が生まれる契機ではないか。
 後は、利益に差異共鳴価値税をかけることではないだろうか。それは、累進課税である。所得税である。とりわけ、利子による利益に対しては、差異共鳴課税をかけるべきだと考えられる。
 法的には、差異共鳴価値法を制度化すべきである。そう、これこそ、民主主義の経済法である。差異共鳴価値法は、思うに、企業の純粋創造力を高めるのではないだろうか。競争は、差異共鳴力にとって換わるのではないだろうか。今はここで留める。

清酒3万本に使用、回収へ=「辰之巳」から原料購入−熊本の酒造会社

9月9日13時24分配信 時事通信

 米粉加工会社「三笠フーズ」(大阪市北区)が農薬やカビ毒に汚染された事故米を食用に転売していた問題で、熊本県城南町の「美少年酒造」が事故米混入の可能性がある破砕米32.4トンを三笠フーズの関連会社「辰之巳」(大阪市)から仕入れ、「鬼ころし」など清酒7種8品目の計約3万本を製造、出荷していたことが9日、分かった。
 緒方直明社長が記者会見し、明らかにした。
 既に全国各地に流通しているが、美少年酒造は新たな出荷を自粛するとともに、流通分については自主回収する方針。
 同社によると、今年1月から5月にかけ、辰之巳から低価格帯の清酒原料に使用するため「国産米」として購入。問題発覚後、緒方社長が辰之巳に問い合わせたところ、「事故米は一切入っていないという報告を工場から受けている」などと回答を得た。しかし、8日に九州農政局などが調査した結果、伝票などが一致。混入した可能性のあることが分かった。 
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080909-00000094-jij-soci

2008年09月01日 (22:31)

同一性主義の狂気の妄想性について:トランス・モダン・セラピー

後で考察したいが、先に同一性主義の狂気に言及したが、その狂気とは、非合理的衝動のことであったが、もう少し様態について言うと、妄想性がそこにあるのである。非合理的衝動だから、妄想性は入ってきておかしくないが、どのように妄想が発生するの、そのメカニズムを明らかにしたいと思う。
 これは実は、同一性主義批判の簡単な応用問題である。つまり、同一性主義という暴力構造ができあがると、同一性自己(自我)は、独善化するのである。自我は正しく、他者は誤りであるという二項対立形式が発生し、ある事象に対して、独善的に裁断するのであるが、この独善的裁断が妄想的ということである。二項対立(善悪二元論)的価値形式を、他者に適用するために、ありもしない観念(妄想)を他者に押しつけるのである。【p.s.  「ありもしない観念(妄想)」であるが、もう少し明確する必要があるだろう。ある人においては、妄想は、自我のシャドウ(影:否定された分身)の投影であるし、別の人においては、被害妄想である。これは、二項対立形式の優位系列が、反感によって、集合表象化したものと考えられよう。】
 思うに、今日の心の病(うつ病等)は、内因的には、近代合理主義/近代的自我/唯物論に、すなわち、近代的同一性主義に拠ると私は述べているが、あるうつ病の人のもつ妄想性はこの同一性主義の心因で説明ができるのではないだろうか。
 思うに、今日、近代的同一性主義(日本の場合は、封建・近代的同一性主義)から脱出することが求められていると言えよう。トランス・モダンが処方箋である。

p.s. 一言で言えば、差異=他者を排除した同一性主義短絡的自己完結回路が原因である。同一性主義的二項対立形式暴力・狂気・妄想が、独り歩きしているのである。最高度に危険な、超危機的な時代である。トランス・モダンへと超転換するときである。

It is high time for us to make
one of the greatist historic changes
from modern to tran-modern.

Turn into Trans-modern!


参考:

年間10兆円を超える市場規模に成長した情報サービス産業。しかし、肥大化・複雑化するプロジェクト、厳しくなる納期と顧客からの要求、疲弊する技術者、より厳しさを増す価格競争、人材不足などの課題が山積し、業界全体には悲壮感すら漂います。どうすればこの窮状を抜け出せるのか、自社をどういった方向に導けばよいのか、答えのない状況で苦しんでいる多くのSIerが、売上高至上主義のビジネスモデルからの転換に迫られているにもかかわらず、その構築ができていません。
http://coin.nikkeibp.co.jp/coin/wat/semi/0809/

2008年08月27日 (20:32)

今日の同一性主義狂気について:同一性言語知性と差異感性身体との極性

これは、先の試論の続きのようなものであるが、端的に、同一性主義において、非合理性=狂気がどう発生するのか、その力学を明確にしたい。もっとも、この問題はこれまで、それなりに考察はされてきたが、まだ、あいまいな点があるのでここで検討する次第である。
 思うに、図式化するとわかりやすいが、ここでは的確な図式化が難しいのでおおまかにかいてみる。


      +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↓  
            ↓
           抑 圧
            ↓
      境界____↓_____境界
            ↓
            ↓
            ↓
      -i  差異・感性・身心性


↓は否定・抑圧・排除・隠蔽を表す。そして、実線の横線は、知性と感性の境界である。近代合理主義は境界の下部を抑圧して、排除するのである。つまり、近代合理主義による近代的自我とは、境界上部の世界が中心となっていて、下部世界は無意識となっているのである。言い換えると、上部界が光で、下部界が闇である。
 そして、近代主義が進展すると、下部界は意識にとって消えているのである。
 しかしながら、心の基盤・土台・根源は下部にあるのである。正しく言えば、さらに下部にあるMedia Pointであるが。今はわかりやすくするために、そのように考える。
 ということで、近代合理主義は同一性主義世界を形成するが、それは、同時にエネルギーや創造性の枯渇を意味する。当然ながら、下部から新しいエネルギーを取り入れなくてはならないのであるが、下部を抑圧しているので、取り入れることができないのである。
 そう、上部と下部の二元論・二項対立の世界がそこにはあるのである。喩えて言えば、身心の活断層である。
 さて、上部の抑圧があっても、下部は活動しているのであるから、上部へと、いわば、噴出するのである。衝き上げである。衝動である。つまり、↑の方向へと作用するのである。


    +i 同一性言語知性(近代合理主義)
            ↑ 
            ↑
           狂 気
            ↑
      境界____↑_____境界
            ↑
            ↑
            ↑
      -i  差異・感性・身心性

 
 しかしながら、同一性主義自我は、それをまったく感知できないのである。なぜなら、同一性主義知性は、いわば、自己完結ないしは自己閉塞しているので、他者である差異・感性・身心性の突き上げを認知できないからである。
 故に、下部の衝動が上部を、いわば、襲うのである。これが、非合理性=狂気なのである。近代的自我はこの下部の盲目の衝動に発作的に襲われるのである。それで、狂気的攻撃性を爆発されると考えられるのである。
 より精緻に言えば、下部の世界は他者の世界であるから、ここでの内的他者の否定は外的他者の否定となるのであり、ここで、同一性主義自我は暴力的言動を発すると考えられるのである。
 この近代主義的狂気であるが、これが西洋近代主義の帰結であると考えられる。もっとも、西洋近代に台頭した差異であるが、それは、ポスト・モダンへと発展したが、既述したように、袋小路に突き当たったと考えられるのである。
 この西洋近代の行き止まりを乗り越える哲学がプラトニック・シナジー理論であると考えられる。トランス・モダン哲学である。
 差異を不連続化して、同一性と差異とを共鳴化する理論である。知性と感性を共鳴化する理論である。
 とまれ、差異を掬い上げるには、端的には、東洋的身心論が必要である。新東洋的身心論が必要なのである。

2008年08月27日 (11:07)

精神の高次元化の必要に迫られているのではないか:同一性知性と差異感性:東洋的心身性とPS理論

私は近代合理主義/近代的自我そして唯物論は狂気であると言ってきたが、それは、言い換えれば、同一性主義狂気ということである。
 この狂気を乗り越えるには、高次元差異を認める必要があると思う。これは、PS理論では、Media Pointという基点の確認である。
 思うに、今日の世俗主義社会において、高次元を確認することは難しい。高次元は感性を介しているのであり、感性が近代合理主義によって、抑圧・排除されている。
 そう、言葉の問題がある。言葉は知性をもたらすものであるが、それは、同一性知性である。言葉から差異や感性を認識する方法はあるだろうか。端的に言って、差異や感性は言葉から逃れるものと考えられる。
 しかし、微妙な問題である。簡単に言えば、例えば、空という言葉の場合、概念・観念とは別に、感性を喚起し、想像的である。これは、特に、詩の場合であるが、詩ではなくても、空という言葉に、感性的内包性を強く与えることはできる。
 この感性的内包性であるが、ここにエネルギーがあると言えよう。しかし、近代合理主義はこのエネルギーを否定するという内的暴力をもち、このために、「他者」を排除することになっている。
 そう、近代合理主義という同一性主義は内的暴力であり、同時に、外的暴力である。精神的暴力であり、帰結的に、物理的暴力となる。
 とまれ、この「空」の場合を整理すると、「空」という言葉の感性的内包性=エネルギー=差異を否定するのは、同一性主義である。それは、同一性自己主義=自我主義であるし、物質主義である。
 同一性知性とは+iの志向であり、それが他者=差異-iを否定し、-1となる事態である。即ち、(+i)・[-(-i)]=-1である。そして、-(- i)という他者(差異)の否定が、暴力、内的暴力、精神的暴力である。これが、例えば、イジメや差別等を生むと考えられる。
 だから、近代主義は自己矛盾しているのである。同一性知性を目指すが、同時にそれが、他者否定である精神的暴力なのである。結局、この問題については、ポスト・モダンが鋭く異議を唱え、差異の視点を打ち出したわけである。しかしながら、これまで指摘してきた理由(ドゥルーズの場合は絶対的差異の否定、デリダの場合は超越性の否定)からポスト・モダン哲学には、重大な欠陥が生じて、差異を十分に進展できずに、停滞したと考えられるのである。(そう、資本主義の根本的欠陥もここにある。同一性主義であり、内在する差異性を否定してしまうのである。)
 この暴力、内在的暴力をもった近代主義が乗り越えることが、今日の喫緊の課題、最大の課題と言ってもいいだろうが、どうやって、感性・差異的エネルギーを解放するのかということになるのである。
 同一性主義知性には、感性は把握できないのである。その理由は端的に、感性は身体に存するからである。それも、精神的身体、内的身体にである。
 この内的身体を取り戻す必要があるのである。伝統的には、禅仏教や東洋的身体論は、この内的身体を陶冶する身体理論である。これが、今日、「知」の世界において、喪失しているのである。
 日本のアカデミズムの世界は、同一性主義文明である西洋文明崇拝によって、東洋的な内的身体論が喪失しているのである。そう、管見では、メルロ=ポンティの身体論は、東洋的身体論に接近したが、やはり、同一性知性の範囲に留まっている面があると思う。
 その点から見ると、過小評価されている故湯浅泰雄氏のパイオニア的研究をほとんど最高度に評価すべきではないか。

湯浅泰雄全集
http://nenji.smbs.gr.jp/No_12/hakuabooks.html
身体論―東洋的心身論と現代 (講談社学術文庫) (-) 湯浅 泰雄 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%BA%AB%E4%BD%93%E8%AB%96%E2%80%95%E6%9D%B1%E6%B4%8B%E7%9A%84%E5%BF%83%E8%BA%AB%E8%AB%96%E3%81%A8%E7%8F%BE%E4%BB%A3-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%B9%AF%E6%B5%85-%E6%B3%B0%E9%9B%84/dp/406158927X/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1219801095&sr=1-1

 氏は、東洋的心身論と言っているが、それは的確な命名である。この東洋的心身性にこそ、Media Pointが内在していると考えられるのである。
 そう、今日、現代こそ、東洋的心身論に回帰すべきである。もっとも、これは、トランス・モダン的回帰である。単に、先祖返りではない。つまり、近代主義=同一性主義を乗り越えるための、東洋的心身論であるからこそ、トランス・モダン論なのである。
 そして、そこにPS理論の視点を入れることで、再イデア論化が可能になるのである。つまり、東洋的心身性とはMedia Pointの様相であり、その心身性をイデア化することで、再イデア論が可能になり、東洋的心身性のインテリジェンス化が可能になるのである。
 ということで、近代主義=同一性主義の乗り越えは、先ず、東洋的心身性の形成し、さらには、その再イデア論化が必要であるということになる。この点から言うと、PS理論は東洋的イデア論である。
 最後に付け加えると、西洋人の作品ではあるが、東洋的心身論、あるいは宇宙的心身論をD. H. ロレンスの『無意識の幻想曲』は説いているのである。ロマン主義的性向を批判的に見さえすれば、この著は、驚くべき開眼をもたらすだろう。
 そう、身体的感性叡知の復権が求められているのである。

2008年03月23日 (00:48)

ポスト・モダン様態の近代的自我の心的病理相について:差異エネルギーを無意識的に暴圧する近代的自我

近代的自我の「狂気」についてはほぼ解明できたと思っているが、まだ多少不明瞭な箇所があるので、ここで検討したい。
 結局、問題点は、同一性主義が自己完結して、差異とは乖離してしまうのか、それとも、差異のエネルギーに突き動かされて、同一性主義が暴力化するのか、である。
 先に前者の考えをとったが、それ以前はずっと後者の考え方をしてきたのである。また、直近の結論では、両者同じことであると述べたと思う。精緻に考える必要がある。
 ポスト・モダン様態では、同一性の生成エネルギーが衰退して、差異のエネルギーが発動するようになるとしよう。これは、陰のエネルギーの発動と考えられる(仮説)。
 近代的自我は差異の抑圧否定によって成立する。つまり、近代的自我の同一性主義と差異(共振性)には壁がある。しかしながら、ポスト・モダン様態においては、差異エネルギーが賦活されて、同一性主義の壁を圧迫すると考えられる。しかしながら、近代的自我はそれをまったく感知していないので、無意識の差異(共振)エネルギーの圧力の影響を受けることになると考えられる。つまり、賦活された差異エネルギーの圧力に対して、同一性主義の近代的自我はそれを無意識のうちに、抑圧するのであるが、差異エネルギーが当然、動態なのである。同一性主義による無意識の抑圧も動態となるのであり、それは、端的に、無意識の暴力的なもの、即ち、衝動的な暴力的なもの、非合理な暴力的なものになると考えられよう。
 正に、この暴力的なものが、狂気と言えるだろう。(私が近代的自我は狂気であると言うのは、特にポスト・モダン様態において言えるだろう。)差異的なものを無意識の内に衝動的に暴圧するのである。この衝動的暴圧が狂気と言えよう。(そう、近代的自我は傲慢でもあるので、狂気暴圧的傲慢さをもつとも言えよう。端的に、悪魔的様相である。)
 ということで、本件であるが、やはり、先の結論通り、同一性主義は、差異から乖離すると同時に、差異のエネルギーを暴圧するので、反動的衝動性をもつのである。これは、確かに、パラノイアであり、「統合失調症」であり、また、うつ病的であろう。
 今日の心の病の内因がここにあるのではないだろうか。また、先にも言ったが、差異を意識・認識する教養知性が欠落していることも、心の病を蔓延させている一つの要因だと思われる。
 最後に付加すると、このポスト・モダン様態の近代的自我はどうなるのだろうか、という問題があるのである。狂気の様態であるが、どうなるのか。差異エネルギーはさらに賦活されると考えられるので、差異エネルギーの動態の強化と同時に近代的自我による無意識の暴圧衝動が生起するので、近代的自我の狂気は度を増して、そのままでは、決定的に狂人廃人となるだろう。
 差異を感知し、意識し、認識し、差異を主体とすることを学ぶ必要があると考えられるのである。これは、同一性主義にとり、驚天動地であろう。新しい天地である。

2008年01月09日 (15:04)

近代的自我の発生:再々・・・考:同一性化が差異化に先行するという根本的志向性がある

以下のように走り書きしたが、結局、近代的自我の形成の問題にまた戻ることになる。既に、少なくとも百回は論じているのではないかと思えるが、ここで確認したい。
 結局、Media Pointの新たな発動(ルネサンス)によって、どうして、同一性が差異を否定することになったのか、ということが核心である。これまでの議論から言えば、南欧イタリア・ルネサンスで発動したプロト・モダンが、西欧において、プロテスタンティズムによって、モダン化されたということになる。言い換えると、南欧モダンが西欧モダンへと転換したのである。
 この切り替えが、同一性による差異の否定を意味するのである。つまり、太母的な南欧文化から父権的な西欧文化へとモダンが展開したということである。これはこれでいいが、問題は、単に西欧だけでなく、世界にそれが伝搬したということから、ある必然性・一般性をもっていた観念の動きであることがわかるので、その意味を解明する必要があるのである。
 結局、これまで述べたことの確認となるが、第一に、Media Pointから同一性の志向が発動する。これは、太極原理から言えば、陽化である。この原理から同一性が先行して、差異が否定されたと考えられる。しかしながら、第二に、差異の志向性が生まれる。これが、ポスト・モダンであるが、同一性と連続化しているので、差異は純粋化されない。そして、第三に、差異が同一性から切り離される。これが、トランス・モダンである。
 結局、近代的自我の形成とは、Media Point=太極の根源的志向性によって生じたということになる。つまり、同一性への志向性が先行し、その後、差異へ志向するという方向性が根本にあることが原因であるということになる。ただし、西欧近代が特殊なのは、(それまでは、あるいは他の地域では、同一性への志向性が先行していても、本源的な差異、すなわち、Media Pointのエネルゲイアが残されていたということ、つまり、差異共振性が共同体のルールとしてなんらか存在していたと考えられるのであるが、)同一性への強い傾斜があるということである。これはユダヤ・キリスト教によってもたらされたと考えられるのである。(イタリアの場合は、ユダヤ・キリスト教と言っても、地中海の太母文化が強いので、ユダヤ・キリスト教が弱められているのである。しかしながら、イギリスにおいては、異教的なケルト文化があったのに、どうして同一性化されたのか、ということが解明されなくてはならない。思うに、イタリアに比べて、共同体の破壊が激しかったことが原因だと思うのである。後でさらに検討したい。)
 ということで本件を終えたい。

p.s. イギリスにおける共同体破壊は、直接的には、歴史上の囲い込み運動によってもたらされたと考えられる。結局、そこには、貨幣経済の浸透があるのである。しかしながら、共同体の破壊は、それ以前に文化破壊があったように思えるのである。つまり、ケルト文化の衰退があったと思われるのである。つまり、精神的文化の衰退があり、貨幣経済が浸透して、共同体の破壊が生じたのではないかと思われるのである。プロテスタンティズムが発生するというのは、従来の精神的文化の崩壊に対する、新たな精神的文化の発生を意味すると思われる。
 そして、イギリスにおけるケルト文化性であるが、それは、近代化によって、逆に活性化されていったのではないだろうか。つまり、衰退し埋もれていたケルト文化が、危機的に、新たに覚醒化したのではないだろうか。言い換えると、衰退していたMedia Pointが活性化したということになる。
 ここで、近代日本について考えると、似たような面があるだろう。日本の神道文化・仏教文化は衰退していたが、明治維新によって、(排仏毀釈はあったが、)それなりに活性化したのではないだろうか。ただ、問題は戦後文化である。アメリカの近代合理主義が中心化して、伝統的精神文化が衰退してしまった点である。ここでは、活性化ではなくて、衰退があるのである。逆に言えば、それほど、洗脳効果があったということになるだろう。それに対して、三島由紀夫の爆発的反抗もあったが。
 もっとも、今日、日本の危機は深まり、破局的になっている。日本精神文化ルネサンスが必要になっているのである。それは、同時に、社会・政治・経済的な復興につながることになるのである。

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近代同一性主義の狂気について

近代同一性主義とは、差異を完全に否定してしまう観念システムであり、差異に理性を見出す立場から見ると、これは完全な狂気である。
 これまで述べてきたように、同一性は視覚と関係する。ここでは発生的に考察する必要がある。思うに、人類文化は、近代以前においては、Media Pointが開かれた心性をもってきたと考えられる。しかるに、近代において、これが否定される事態となったのである。近代以前の集合的共同体が解体して、同一性自我(自我同一性)が支点となったのである。
 問題は、同一性自我と視覚との関係である。近代以前は、視覚はMedia Pointから発していたため、超越的光を見ることができたと考えられる。もっとも、宗教観念に染まった形であったと思われる。とまれ、少なくとも、視覚は、本源的視覚であった。私の表現では、ヴィジョン的視覚であった(ヴィジョンとは、Media Pointのもつ超越的光の影像である)。そこにおいては、外界との共振性があり、まだ、自我同一性は未発達であった。集合的心性であったと考えられる。(もっとも、西欧においては、中世において、個の文化が生まれてはいるが、それは、少数者であると思われる。)
 しかるに、近代化の過程において、自我同一性が形成されていくわけであるが、それには、外界認識において、同一性的投影を行い、それによる同一性認識によって、自我同一性を形成していったように思えるのである。
 問題は、同一性的投影である。これは、それまでのMedia Point的な共振的様態を否定して、即ち、内的な差異を否定して、同一性を外的に投ずるということである。ここで視覚の分裂が生じているのである。本来、ヴィジョン的視覚があったが、同一性的投影によって、ヴィジョン性は否定されて、同一性イメージが形成されたのである。これは他者否定的な映像であり、利己主義的な映像なのである。つまり、二項対立・二元論的な視覚像である。
 結局、近代同一性主義とは、同一性視覚によって基礎づけられていると考えられるのである。そして、他の感覚も同一性視覚によって、規定されたと言っていいだろう。そして、これが経験論の感覚を導くと考えられるのである。ロックのタブロ・ラサとは、同一性感覚によってもたらされたものと考えられる。
 文化史的に言えば、同一性視覚とは、遠近法を生んだと言うことができる。東洋文化においては、とりわけ日本文化においては、西欧文化の導入以前においては、近代西欧とは異なり、Media Pointが開かれていて、遠近法は形成されなかったのである。
 ということで、近代同一性主義を形成を同一性視覚から導いた。そして、当然ながら、真の理性の基盤であるMedia Point、差異を否定しているので、これは、自我中心主義、利己主義となり、暴力・狂気的な自己となるのである。
 さて、問題は、どうして同一性視覚が投影されるのか、という点を説明する必要がある。上で、集合的心性、集合的共同体の解体を述べたが、同一性視覚とは、これに関係すると言えよう。即ち、近代以前においては、集合性ないしは共同体性が自己を拘束していて、同一性視覚の形成を抑えていたと考えられるのである。しかし、集合性・共同体性が解体すると、同一性視覚の形成が促されることになり、結局、自我同一性が形成されることになったと考えられる。社会史的には、集合性・共同体性の解体とは、資本主義の発達がもたらしたと見ることができよう。
 今日、この同一性視覚に基づく近代同一性主義が狂気となっているのである。もっとも、世界的には、トランス・モダンの潮流があるので、問題なのは、日本人である。戦後という特殊な歴史によって、近代合理主義万能の価値観を形成したので、近代同一性主義狂気の度合いが強いのである。端的に、トランス・モダンの潮流の中で、反動様態となると考えられるのである。この反動が狂気をもたらしていると考えられるのである。そう、何度も既述したが、Media Pointからのエネルギーが活性化して、自我=同一性主義に押し寄せ、それを自我=同一性主義が塞き止めようとするが、塞き止められたエネルギーが反動的に自我に狂気をもたらすと考えられる。つまり、自我の理解できない差異のエネルギーが押し寄せるが、それを塞き止めようとする力に対して反動のエネルギーが発動して、非合理的な衝動、すなわち、狂気をもたらすのである。つまり、非合理な情動=狂気が発動するということである。言い換えると、差異のエネルギーを抑圧する暴力的衝動である。
 これは実に危機的な危険な事態である。トランス・モダンの芽を破壊するのである。思うに、この近代同一性主義狂気は、これからますます度合いを強めて、当人を破壊して行くだろう。心の病が増加するのである。また、凶悪犯罪も増加するのである。
 近代主義からのエクソダスが必要である。
 最後に、うつ病について考察してみよう。これは、私見では、Media Pointのエネルギーの発露を抑圧するところから発病するのだと思う。同一性主義の自我回路ができあがり、それは、差異エネルギーを排除するのである。しかしながら、エネルギーの源泉は差異であるから、差異を閉ざすと、エネルギーが枯渇する。これがうつ病の原因ではないだろうか。近代同一性主義は、狂気であり、自滅に至るのである。

2007年10月25日 (01:56)

近代的自我とキリスト教:その2:Media Pointと近代サイクルとトランス・モダン・エラ

以下の引用箇所は、一年以上前の愚考である。


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【同一性自我狂気病は、正に、近代主義の帰結と言えよう。この大本は、プロテスタンティズムと言っていいだろう。また、デカルトのコギトの半面の同一性からである。そう、超越論的同一性なのである。形而上学的同一性なのである。単なる現象界の同一性ではないのである。これこそ、デリダが問題にした「ロゴス中心主義」である。カント哲学の超越論的形式と等しいだろう。超越論的同一性形式と言ってもいいだろう。これは、ヒエラルキー的同一性秩序をもつものである。つまり、同一性が高位・優位にあり、差異が低位・劣位にあるという価値観である。これは、メディア界の対極性・極性を分離二元論にしたものとも言えよう。プラスとマイナスが対極を為していたが、同一性化とは、プラスを優位とし、マイナスを劣位としたのである。しかし、本来両者が極性を為していたのである。例えば、天と地との分離的二元論であるが、本来、天と地とは、対極性で一体のものである。正に、陰陽を形成していたのである。つまり、プラス・エネルギーが作用・作動して、陰陽が分離して、陽が陰に対して、優位に立ったと言えよう。】
Mon, September 11, 2006 05:07:32
『同一性自我狂気病、自我精神病(自己愛性人格障害)について:超越論的構造におけるポストモダン事象』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10016888944.html

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その他の、近代的自我の二項対立の発生に関する拙稿を読んでみたが、いろいろ考察(試行錯誤)しているが、決定打がないようである。上の引用はその中でも比較的明快な論である。つまり、「何故、同一性(=自我)は、差異に対して優越を覚えるのか」という問いに対してである。
 一見易しそうな問題であるが、明確な答えが出ていないのである。本件の問題を考察する上でも、この問題には、本来、的確に答え置かなくてはならない。とまれ、今、急に答え出そうとするよりは、本件の問題を補足ないしは補正していきたい。
 ポイントとして押さえておくべき点は、Media Point(思うに、Media Pointという視点ができたおかげで、考察の支点ができたと言えよう)から同一性が発生するときに、近代的自我においては、差異(Media Point)を否定する様態になることである。
 つまり、同一性が優位となり、差異が劣位となるということである。ここでは、同一性=優位、差異=劣位の二項対立が発現しているのである。
 ここで、同一性による差異の否定という事態を考えると、それは、この優劣の二項対立の事態と重なると見ていいだろう。すなわち、優越という様態は、否定という様態と同じと見るのである。優劣=否定ということになる。この同一性>差異という事態が近代的自我を意味すると言えよう。(p.s.  差異であるが、ここでは、純粋なMedia Pointではなく、連続化したMedia Pointである。不連続的Media Pointではなく、連続的Media Pointになっているのである。この連続メディア空間が近代的思想において支配的であったのである。ポスト・モダン思想もここにおいてであった。いわゆる、「非合理主義」というものは、ここでの差異と考えられたと言えよう。ロマン主義、神秘主義、生の哲学、神話、宗教、等々。)
 この点で留めておいて、本件について考察を続けよう。同一性優位の近代的自我であり、ここに近代合理性を形成されていくのであるが、同一性=近代的自我は優位であるから、近代合理性は近代合理主義となると言えよう。
 問題は、キリスト教との関係である。一見関係なさそうに見えるが、プロテスタンティズムを考えると、それは相関しているのである。
 Media Pointからの同一性志向によって、同一性=近代的自我=近代合理主義は形成されるのであるが、先にも述べた通り、Media Pointは、超越的エネルゲイアをもつのである。ここが、重要な論点の一つである。
 すなわち、超越的エネルゲイアに賦活されて、同一性志向性ないしは同一性衝動が発動すると考えることができるだろう。この超越的エネルゲイアが、同一性形成に関わっているのである。端的に、これは、同一性=光のエネルゲイアではないだろうか。言い換えると、現象を形成するエネルゲイアと等価ということではないだろうか。
 少し比喩的な言い方になるが、同一性=光が差異=闇を支配するような事態ではないだろうか。ちょうど、夜明けである。夜の闇の中から、夜明けの光が差しこみ、歓喜が生まれるような事態ではないだろうか。自我の目覚めである。そう、それを神と呼んだであろう。一神教の神、光の神、火の神である。
 問題は、同一性=近代的自我は、超越的エネルゲイアに駆動されているので、「神性」をもつのではないかということである。ここでは、近代的自我というよりは、一神教的自我、一神教的父権的自我によりあてはまる考え方ではないだろうか。
 しかしながら、ルネサンスからプロテスタンティズムへの移行に際して、これと同質の事態があったと考えられるのである。つまり、近代的自我の発生は、一神教的自我・一神教的父権的自我の発生を反復したと考えられるのである。一神教的古代が復活したのである。もっとも、正確に言えば、聖書的古代が復活したと言えよう。結局、近代的自我の形成においては、超越的エネルゲイアによる「神性」が属性として存在したと考えられよう。
 ここで、同一性=優位、差異=劣位、すなわち、同一性>差異という二項対立性をもつ近代的自我とこの「神性」の関係を考えたい。端的に言って、どうして、同一性は差異に対して優位になるのかという問題がある。
 上記の引用の考え方では、プラス極がマイナス極に対して優位なるからとなっている。つまり、i⇒-iという事態であるからということである。これは、これで明快である。原形相ないしは原知が、原質料ないしは原身体へと同一性的に志向しているのであり、他者=差異である-iを同一性化するのである。だから、i・-(-i)⇒-1(近代的自我)ということになる。つまり、iが超越的エネルゲイア=「神性」によって、差異-iに対して、優位になるということになる。すなわち、超越的エネルゲイア=「神性」が優位の原因ということになる。エネルゲイアのある極が優位であるというのは、肯定できるだろう。これは経済である。
 とりあえず、この考えを作業仮説として、先に進みたい。つまり、超越的エネルゲイア的同一性志向性は、働き掛けられる差異よりも、必然的に優位に位置するということである。
 以上の考察から、本件の問題にもどると、近代的自我(つまり、近代西欧的自我)は、超越的エネルゲイア(=「神性」)的同一性自我であり、これが、プロテスタンティズム的近代的自我になったと考えられるのである。
 さらなる問題は、Media Pointとこのプロテスタンティズム的近代的自我の関係である。言い換えると、Media Point⇒同一性における⇒の意味である。ここも重要な論点である。
 これは、聖書の神の問題と通じると言えよう。私は先に、一神教の神は二重であると言った。それは、Media Point性と同一性衝動との二重性である。それは、聖書のいわゆる両義的な表現から考えられることである。
 先に、近代的自我形成は一神教的自我・一神教的父権的自我形成と同質であると言ったが、ここから、この問題への解答は自然に出てくる。すなわち、Media Point⇒同一性の⇒において、Media Pointと同一性衝動の二重性があるということである。
 演繹的に考えよう。Media Pointが基点(起点・原点)としてあり、そこから、同一性衝動が発動するのである。だから、本源としてのMedia Pointがあり、同時に、同一性衝動があるということになる。だから、二重性は証明された。
 ここで、ついでながら言うと、私はプロテスタンティズムはルネサンスを、いわば否定的に内包していると考えているが、それは、Media Pointをプロテスタンティズムが始点にしていることからである。言い換えると、ルネサンスとは、Media Pointの決定的な発現であると考えられるのである。(ここで、補足的にいうと、ハイデガーの『存在と時間』は、Media Pointを喪失しているのであり、無神論的プロテスタンティズムとでも言えよう。そして、三島由紀夫であるが、彼は、Media Pointへと到達しようとしていたのである。しかしながら、近代的自我が強いために、反動的であったのである。しかし、三島由紀夫の方がハイデガーよりも、前進的である。)
 さて、次に、プロテスタンティズムの進展を考えると、それは、近代合理主義となり、起点のMedia Pointの超越性(宗教性)を喪失するのである。これが、いわば、盛期近代主義である。
 しかしながら、時代は進展する。私の考えでは、初期近代が、i⇒-iであったが、後期近代になり、-i⇒iの事態が発生したように思えるのである。つまり、差異からの反転である。これが、ポスト・モダン事象を生んだと言えよう。
 思うに、単純に-i⇒iを肯定すると、逆に-1となる。-i・-i⇒-1である。これは、例えば、神秘主義やオカルト主義である。あるいは、身体中心主義である。そう、アイロニカルな没入はこれで説明がつくだろう。
 問題は、初期近代のi⇒-iと後期近代の-i⇒iとの相互関係の定式化にあるのである。ポスト・モダン哲学は、両者を混淆しているのである。両者を混淆空間(ドゥルーズ&ガタリのカオスモスやデリダの差延:Media Mixed Spaceという概念を考えてもいいだろう。これが、後期近代/ポスト・モダン空間である。)で捉えているのである。この問題は、プラトニック・シナジー理論の(+i)*(-i)⇒+1の公式において、解決されたと考えられるのである。
 問題は、ブッシュ一派のネオコンないしは超巨大資本家の「闇の権力」をどう捉えるかである。彼らには、キリスト教ないしはユダヤ教が宗教的絆である。端的に、キリスト教原理主義をどうとらえるのかである。
 やはり、これは、後期近代におけるアイロニカルな没入で説明できるのではないだろうか。つまり、後期近代において、差異が賦活されるのである。それも、 Media Pointによる超越的エネルゲイアの発動と考えられよう。差異的な発動である。ここで、超越性が再生するのであるが、このとき、先にあげたように、- i⇒iが-i・-(i)⇒-1となる事態が発生して、それが、宗教性の発生となるのではないだろうか。それは、近代的合理主義を否定するだろう。
 問題は、ブッシュの唱える民主化である。これをどう見るのか。先には、近代合理性と結びつけたが、ネオコンなのだから、やはり、キリスト教的民主主義を考えた方がいい。「神が我々を平等に造った」である。後期近代/ポスト・モダン的宗教性において、ブッシュは民主化を絶対的価値にしているのだろう。勿論、宗教的衝動・非合理主義的衝動においてであるから、近代合理性はないのである。だから、イデオロギーなのである。
 では、ブッシュにおいて、近代的自我はあるのだろうか。先の考えでは、近代的自我が基盤となっているのである。盛期近代においては、それに近代合理性が連続化された。しかし、後期近代において、宗教的衝動が賦活されるので、近代的自我という基盤に、非合理主義が連続化されると言えよう。ということで、ブッシュにも当然、近代的自我はあり、それに非合理主義としてのキリスト教が連続化しているのである。これが、キリスト教原理主義である。
 以上で本件は解明されたとしよう。

2007年05月31日 (22:45)

私の親の世代から思う:彼らの唯物論はどこから生まれたのか。

私の人生は、亡父への嫌悪・憎悪・反発・殺意・怨み、等が原点であったように思う。
 大正の後半の生まれである。家庭の恥を晒すことになるので、詳しく書かず、抽象観念的になるが、何故、このような人間が生きているのか。このような人間が生きている世の中は断罪に値すると若い頃思った。
 とにかく、利己主義、自己中心主義、冷酷無惨な人間であった。精神がなかった。
 また、母を見ると、昭和初期の生まれであるが、子どもの頃は、お国のためと滅私奉公で働いたようだ。
 両親の性格は異なるが、ただ共通しているものがあった。それは、物質主義である。没精神性である。没霊的である。唯物的、金銭中心主義的であった。
 両親ともに、無教養であった。それはそれでいいのであるが、彼らの唯物主義は、いったいどこから生まれたのか、不思議である。
 私が戦後の唯物教育を受けて、染まる下地は、両親の唯物性にあったように思う。
 いったい、大正や昭和初期の唯物論はどこから生まれたのか。没精神性はどこから生まれたのか。
 思うに、思考する習慣が彼らにはないのである。現在の思考停止の国民のように。
 そう、父親は、電気関係や機械の工作が好きな人であり、一見、理科系的ではあるが、思考が狂っていた。
 今、急に思い浮かんだが、やはり、夢野久作の、唯物科学を批判している『ドグラ・マグラ』を読む必要が絶対にあるということである。
 亡父は帳簿は丁寧に記した。字は綺麗であった。しかし、思考は完全に狂っていたのである。そう、一種、パラノイアであったと言えよう。
 どうも、パラノイアということに鍵がありそうだ。これは、正に、近代的自我の狂気である。
 ここで、飛躍的敷延して、日本の戦前の狂気は、パラノイアに拠るのではないだろうか。そして、今日・現代の日本の狂気もそうである。偏執狂である。
 これは、同一性主義の帰結である。だから、思うに、両親の育った昭和の初期の時代には、同一性主義・パラノイア性が社会に蔓延していたのではないだろうか。
 そう、だから、集団的パラノイアである。全体主義と言ってもいい。これは、差異を否定して、同一性が全体化する事態である。つまり、昭和の初期の時代に、差異を否定する事態が起きたのである。
 今、ここで、226事件や515事件等が浮かんだ。また、アナーキズムのことも浮かんだ。思えば、私は一時アナーキズムに傾いた時期があった。しかし、私はアナーキズムの欠点をわかったいたつもりである。それは、他者を否定することである。バクーニンを考えればいいのである。自己の思想のためには、殺害、暴力的破壊を辞さないのである。
 つまり、アナーキズムは自由を求めながら、この点で、同一性主義に陥っているのである。否定反動的でなのである。だから、私は、スピノザ主義的アナーキズムを考えたのである。これは、他者を能動的観念化して、連合化する発想である。そう、不連続的差異論が生まれる前、私の内部に生じた思想は、このスピノザ主義的アナーキズムであった。これは、実は、PS理論に近いのである。ただ、不連続性や超越性が明快にはなっていないのである。
 ということで、昭和初期に同一性主義が生まれたのだろう。これは、ロシア革命を生んだ無神論的唯物論に類似するように思える。つまり、昭和初期の日本とは、ロシア革命前夜に近い同一性・唯物的思潮があったように思えるのである。
 今日は、これ以上書けないが、とにかく、私の両親の唯物主義は、昭和初期の同一性・無神論・唯物思想に影響を受けているのではないだろうか。だから、昭和初期の時代思潮を考えるには、ロシアとの相関を見ないといけないように思えるのである。後で、再考したい。

2007年05月19日 (21:48)

酸素と超酸素(「気」):O{i*(-i)}+O{i*(-i)}⇒O2{i*(-i)}

O+O⇒O2
ここで、思考実験で、O{i*(-i)}+O{i*(-i)}⇒O2{i*(-i)}としよう。簡略化して、i*(-i)をIと表記しよう。OI+OI⇒O2Iとなる。
 思うに、「気」というものは、このO2Iを指しているのではないだろうか(p.s. 狭義においては、「気」はIである)。物質科学では、O2を検証できるが、O2Iを検証できない。何故なら、超越界を想定していないからである。
 Iは、物質、この場合は、酸素のメディア・ポイントに存しているだろう。ここに、「気」(プラーナ)が共振しているのである。
 夜明けの大気が気持ちがいいのは、光(超越光を含む)によって、酸素が超越化して、「気」を増加させるからではないだろうか。
 また、光合成であるが、これも、やはり、単に、酸素を発散させているというよりは、「気」のある酸素を生みだして、植物のある周囲の空気を精神的清浄化しているのではないだろうか。
 たいへん興味深い問題であるが、今は、とりあえず、簡単に提示するに留めておく。

p.s. 結局、この「酸素」の問題は生命の問題に深く関わる。血液は、ヘモグロビンが、酸素を運ぶ。
 問題は、超越性、超越エネルギー、超越波動であるi*(-i)の問題である。超越光/光の問題でもある。
 今は、思考実験で言うだけだが、端的に、生命とは、i*(-i)ないしic*(-ic)のことではないだろうか。宗教的には、お水取りにあるように、火*水である。
 とまれ、直観では、i*(-i)が、生命の種子・卵・胚のように感じられる。そう、情報と言ってもいい。生命は、天の情報の現象化のことかもしれない。超越情報の現象が生命ではないのか。
 だから、物質にも、なんらかの生命性が存しているのである。

2007年05月06日 (15:31)

「わたしは絶対に正しい」という近代的自我の解明:近代知と教育:近代的悪魔・悪霊シンドローム

Kaisetsu氏の日教組批判に関係した問題であるが、わたしとしては、このタイプは、周辺に多いし、また、現在の日本の教員に対する呪詛があるので、愚考したい。
 思うに、論を明快なものにするため、近代的自我、近代知、教育を三幅対にして、考えたい。哲学的には、同一性と差異の問題であるので、この視点から考えたい。
 近代的自我の狂気については、証明が済んでいるが、それが、そのままこの問題に適用されるから、ある意味で、問題は済んでいるのであるが、現実として、狂気の教育・教員が存在しているから、現実的批判が必要ではある。
 ここでは、エッセイ風に述べたい。私がいつも不思議に思うのは、近代的自我のタイプと個をもった共振性のある人間とに明確に分かれることである。もっとも、現代人は、前者が圧倒的に多い。だから、狂気の社会になってはいるのである。狂人が多数なら、正気の人が狂人扱いされるのである。そう、狂人民主主義、狂民主義である。
 とまれ、前者であるが、端的に、共感性が欠落しているのである。仁義が欠落しているのである。大道廃れて仁義有り、という言葉があるが、大道廃れて仁義なしが、現代日本である。
 以下の資料を見ると、私は、この意味に関して勘違いしているので、考え直すと、老子の言う道教の自然的あり方が廃れて、道徳云々というようになるということである。そう考えると、確かに、現代日本にあてはまるし、多くの世の中にも当てはまるだろう。
 しかしながら、この言葉は、現代日本にとりわけ当てはまると思う。言葉はあるが、心がないのが現代日本であるからだ。テレビで放送される役人や社長等で謝罪する言動を見れば、心がないのがすぐわかる。ただ、言葉だけである。「心を伴わない言葉は天には届かない。」と『ハムレット』の悪王クローディアスが懺悔の途中に述べている。また、ハムレットは、ポローニアスに何を読んでいるのかと聞かれて、「言葉、言葉、言葉」という答える。
http://bymn.pro.tok2.com/hanatop/index.html
正に、現代日本である。言葉の国で、心喪失国である。
 そして、これこそ、近代的自我、近代的理性のあり方なのである。そして、ついでにいうと、「ポスト構造主義」とは、この言葉中心主義を解体するものであった。差異理論とは、そういうものであった。言葉からの差異を問題にしていたのである。
 しかし、言葉の国と言ったが、また、同時に言葉の無い国なのである。これは、『ハムレット』の言語論とも通じるのである。即ち、心のない言葉とは、ただ、器、容器であり、中身がないのであるから、言(事)の無い葉である。つまり、無責任な言葉なのである。そして、これは、実は、官僚言語、役人言語と通じるのであり、そして、当然、文部科学省の言語と通じるのであり、教員の言語と通じるのである。端折って述べているが、いちいち説明するが煩瑣である。
 私は、心無き言語を一般形式言語と考えている。これは、本当の言葉(誠の言葉)である特異性の言語とは異質である。今思い出したが、70年代後半にかけて、日本言語社会は、一般形式言語が流通するようになったことを、私は、苦々しく、暗い憤りをもって嫌悪していた。流通言語とか読んだものである。分別臭い言語なのである。『ハムレット』の世界に対応するのである。
 つまり、貨幣経済、とりわけ、貨幣の数量が問題となる経済社会で、この問題が起きるのである。貨幣の交換価値に合わせて、言語や人間が造られるのである。マルクスの言った疎外である。物神性である。(思えば、マルクスがシェイクスピアの劇をよく引用していたのを想起するが、それは的確である。なぜなら、シェイクスピアの劇は、中世・ルネサンスの差異的世界が崩壊して、近代的合理主義の世界への悲惨な転換を描いているからである。)
 そう、一般形式言語は貨幣言語と言っていいのである。構造主義と言ってもいいのである。この問題は、現代思想で論じられてきたので、ここで留めるが、これは、ヘーゲル哲学であると言ってもいいのである。
 結局、現代哲学の問題に返ることになるのである。つまり、個・特異性の問題である。一般形式性と個・特異性の問題である。
 近代は前者中心であったのであり、脱近代主義とは、後者への転換を意味するのである。(PS理論は、これを徹底して、現代的差異的イデア論を打ち立てたである。)
 しかしながら、理論的な進展とは別に、日本社会の知的後進性は度し難いものがあるのである。大学人は未だに、近代主義、近代的自我、近代的合理主義のままなのである。彼らは、ポスト・モダンを深く理解しなかったし、また、専門の盲目の安全地帯にこもって、知の動向さえ理解しようとはしなかったのである。
 ポスト・モダンは問題のある思想であったが、それは、トランス・モダンへの胚珠をそれなりにもっていたのである。つまり、ポスト・モダンとは、簡単に言えば、モダンとトランス・モダンとの過渡的思想であったということである。さらに言えば、ドゥルーズの思想にあるように、構造主義の枠内にあったのであり、実際はポスト構造主義(あるいは、脱構造主義)ではなかったし、ポスト・モダンでいちばん俊敏であったデリダは、確かに、脱構築によって、モダンの枠をいったん解体したものの、その理論の不器用さによって、脱構築後の知の様態が不合理主義ないし否定神学にとどまって、深化ができなかったのである。
 とまれ、フランス現代思想は、問題の多いものであったが、それなりに脱近代主義を志向していたのであるが、その動向を日本の知識人・大学人は創造的に探究できなかったのであるし、また、端から無視していたのである。これは、当然、日本の高等教育に当てはまることである。近代主義という衰退する知に執着しているのである。
 そう、ついでに言えば、安倍首相の戦後レジームからの脱却は、脱近代主義とは言えるが、やはり、アイロニカルな没入性をもっているのである。それは、戦前・戦中的反動性をもつのである。つまり、PS理論から言えば、近代主義への反動なのである。近代主義に連続しているので、反動なのである。超越的に脱近代化できないのである。
 さて、日本社会の近代主義的反動性であるが、それは、結局、個・自己を一般形式性へと同一性化していることから来ていると言えよう。つまり、個・自己の差異・特異性を否定・排除・隠蔽して、一般形式性を真理として、他を誤謬として排除しているのである。これが、「わたしは絶対に正しい」という自我意識を生むのである。Kaisetsu氏がとりあげた日教組問題は、正に、近代的自我、近代主義、近代的理性主義にあるのである。
 このような個・差異・特異性を排除する近代主義的教育では、画一性しか生まない。創造性が生まれようがないのである。それで、子どもの心・精神は荒廃し、粗暴、凶暴・狂暴、野蛮等になるのである。
 また、当然、知的能力が落ちるのである。つまり、日本を亡国にしているのは、この近代主義に染まっている知識人・大学人・文化人、官僚・役人、教員等である。
 創造性の点では、文科系の学問は悲愴・悲惨である。西洋の猿まねであるし、とりわけ、哲学が悲惨である。西洋哲学が哲学となっているのである。日本哲学、東洋哲学が無視されているのである。
 そう、ここで、端的に、何故、近代的自我、近代主義、近代的理性主義へと向かうのか、個・差異・特異性ではなく、一般形式へと同一性化するのかと言えば、一つは、怯懦が原因だと思う。(今、想起したが、生前、岡本太郎はキチガイ扱いされていたのに、死後、今では、天才的画家扱いである。私は、岡本太郎は文化批評家として優れていたと思うが、画家としては、悪くはないが、やはり、人為的だと思う。これ見よがしである。無理が感じられるのである。平俗に言えば、力んでいるのである。自己顕示欲満々なのである。)
 怯懦であることが、相互主観性になって、日本社会を形成していると思うのである。そして、これが、当然、傲慢となるのであり、自己中心の社会にしているのである。そう、怯懦であるとは、真理に達していないので、妄想的である。
 では、「わたしは絶対に正しい」の基因は何だろうか。それは、これまで述べたように、個・差異・特異性(超越性)を否定・排除・隠蔽した連続的自我心性にあるが、何故、自我が正しいのか言えば、それは、連続的自己(自我)が、超越性を否定しながらも内包しているからだと考えられるのである。
 つまり、超越性こそ、真の倫理・道徳の源泉である。そして、人間は先天・先験的にこれをもっているのであるが、連続的自己形成は、これを否定するのである。いわば、天、神、倫理を否定するようにして、自我形成するのである。しかしながら、天、神、倫理のもつ義性の感情(これに要注意)をともなっているのである。だから、「わたしは絶対に正しい」と神を否定し、蔑(なみ)しつつ、神の感情は横取りしてもっているのである。つまり、超越性と連続的同一性とが融合しているのであり、超越性自体を否定しつつ、反動的に超越化しているのである。そう、反動的超越性をもつので、連続的同一性自我は、「わたしは絶対に正しい」と主張するのである。
 現代日本人は、この反動的超越的自我傲岸不遜症に罹っているのである。ここには、神の横取りがあるのであり、悪魔的人間化である。日本人の悪魔化、これが、「わたしは絶対に正しい」の意味である。
 そして、とりわけ、大学人・知識人・文化人、官僚・役人・教員にこれが顕現・現前化しているのである。日本悪魔化である。もっとも、アメリカの悪魔病に感染してはいるのであるが。
 

参考1:

( 冒頭の老子の言葉を直訳すれば、「国民社会から大いなる道が見失われて乱れてくると、仁義の道徳が強調されるようになる」ということ。意訳すれば、「仁義の道が強調されるのは大道が廃れた結果である」ということになる。 )
http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C0560.HTML


参考2:

(『大道廃れて仁義有り』(「老子」より)
author :
大道廃れて仁義有り、知恵出でて大儀有り。
六親和せずして孝慈有り、国家昏乱して忠臣有り。

道が廃れて、仁義が叫ばれ、
知恵が偽りを生み、為政者によりて、制度や法律が作られる。
親・兄弟姉妹・夫婦の不仲より、親孝行・子への慈愛等が求められ、
国が乱れて、忠臣等との言葉が生まれるに至った。

仁義・知恵・孝慈・忠臣等々の概念は、道が廃れた結果として、
存在ならしめているのであって、それらの言葉が生まれることは
善いことではなく、世の退廃・人心の堕落を意味している、と
老子は云ってるのであろう!
現象世界に現れる一切の存在は、太極から生じた陰陽の顕れであり、
相反する概念が対をなし、現世の価値判断・判断基準は
その対立概念から生れてくるという。
我々人間は、自分の意思で生まれることはなく、
親も、国も、時代すら、何一つとして選べない。
道が廃れた時代に生まれ合わせた宿命の中、
無為自然を説く、老子の教えに縁を持てたことは、運命であろうか!
道徳などを必要としない社会の実現に向けて、
21世紀の覚者たちは、歩み始めている。)
http://www.sen-boku.com/unmei/index.php?eid=13

館・占卜 運命一考
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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