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2007年01月16日 (02:14)

検討問題:ファシズムの哲学:トランス・モダン・ジャパンと禅ルネサンス

最近の日本を見ていると、戦前のことが気になってくるので、駅前の本屋で、その時期の、新書等の本を探した。結局、満州国の問題がキーポイントであると感じた。『王道楽土の戦争 戦前・戦中篇 吉田 司 (著)』 http://www.amazon.co.jp/%E7%8E%8B%E9%81%93%E6%A5%BD%E5%9C%9F%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89-%E6%88%A6%E5%89%8D%E3%83%BB%E6%88%A6%E4%B8%AD%E7%AF%87-%E5%90%89%E7%94%B0-%E5%8F%B8/dp/4140910453/sr=8-2/qid=1168874747/ref=sr_1_2/503-7170974-5841516?ie=UTF8&s=books




を少し立ち読みして、岸信介が、その黒幕であり、また、戦後日本の「社会主義」体制を創った人物であると書いてあったからである。
 そこで、ファシズム、全体主義の理論化を再考する必要を感じたのである。これまでは、弁証法にその哲学的基盤を見てきたのであるが、それでは、単純なので、もう少し詳論する必要があると感じたのである。
 また、社会主義の全体主義とどう違うのかも大事である。これは、ある意味で、ヘーゲルとマルクスの違いのようなものかもしれない。そう、直観では、やはり、ヘーゲル哲学が、ファシズム・全体主義に通ずる。
 ここでは問題提起するだけなので、直観のまま書こう。
 心的主体性と身体的他者性の二元論で考えよう。前者の連続的同一性(連一性)が西洋近代主義であり、その反動として、後者の連続的同一性が起こったと思う。おそらく、これが、ファシズム・全体主義の起因である。アンチ西洋近代主義があると思う。つまり、身体的他者の心的主体性への反動である。これは、霊的、宗教的、精神的になりうるのである。そして、石原莞爾の世界最終戦争論は、正に、日蓮宗に裏打ちされたそのようなイデオロギーと言えよう。(思うに、ネオコンも、これに近いところがあるのではないだろうか。)
 問題は、心的主体性と身体的他者性の連続性である。これが、大澤真幸氏の説くアイロニカルな没入を引き起こすのであるが、この未分化連続性が、両者を相互転換させると言えよう。
 とまれ、もう一つの問題はナショナリズムである。これは、基本的には、身体的他者的連一性から発すると言えよう(p.s.  これは、どうだろうか。心的主体的連一性からも、ナショナリズムは発生しないのか。思うに、国家主義は、確かに、心的主体的連一性から発するだろうが、ナショナリズムは、泥臭いのであって、やはり、身体的他者的連一性から発すると見るべきだろう。思うに、ヘーゲルの国家主義は、両者が一致したものと言えるように思えるのである。後で再考。)。国家へと吸収されて行くのである。民主主義を標榜しても、身体的他者的連一性があるので、連続的同一性である国家に同化されるのではないだろうか。
 ここで、社会主義を考えると、それは、一見、心的主体的連一性に見える。しかし、それは、表面だけである。ここが、ヘーゲルとマルクスの関係の問題である。社会主義は、思うに、ヘーゲル哲学のアイロニカルな没入ではないのか。つまり、観念論と唯物論のアイロニカルな没入があるのではないか。
 ここで、少し発想を変えると、心的主体的連一性と身体的他者的連一性は、究極的には、一致するのではないか。二元論であるが、極限状況的には一致すると思えるのである。(近代的自我の狂気は正に、この両者の一致ではないのか。)つまり、観念論即唯物論である。
 この視点からすると、社会主義とファシズム・全体主義は一致すると言えよう。ここには、結局、差異・他者が存していないのである。つまり、すべては、連続的同一性である。
 ならば、戦前の日本、戦前の昭和期は、連続的同一性が支配した時代と言えるだろう。そして、また、戦後、民主主義憲法をもったが、岸信介でわかるように、連続的同一性主義の支配は継続したと言えるのではないか。そして、さらに、小泉/半安倍路線は、これの継承ではないのか。小泉政権は、これの突出したものではなかったか。
 現代日本の超迷妄は、この点にあるのではないのか。近代/現代日本は、差異・他者を忘失してきたのではないのか。前近代の日本には、差異・他者はあったのであるが、近代日本となり、それが否定・排除・隠蔽されたのではないか。
 私は排仏毀釈が日本人の精神に破壊的作用をもたらしたと考えているが、それと、この差異・他者の喪失は関係するだろうか。鈴木大拙が明らかにしたように、日本伝統文化は、禅が浸透しているのである。では、禅とは何かとなるが、それは、簡単に言えば、自我の解体としての空の悟達である(道元:身心脱落)。あるいは、世俗の次元を超えた空の次元の体得である(井筒俊彦)。結局、鈴木大拙の即非認識に帰着すると言えよう。つまり、禅は、日本人の精神にとって、差異・他者を形成していたと言えよう。これで、排仏毀釈の破壊的作用の意味がわかる。それは、日本人の精神における差異・他者を否定したのであり、日本人を連続的同一性の自我へと転換したのである。つまり、正に、近代化なのである。漱石文学は正に、これを問題にしている(『こころ』や「私の個人主義、他)。
 そう、明治維新とは、日本の文化大革命であったのだ。日本の差異・他者的精神を形成した禅・仏教が否定されたのである。これは、当然、西欧近代主義と等しいのであるし、さらに、西欧の個人主義がないために、ハイパー近代主義になったと言えよう。そして、これが、現代今日の昏迷の安倍政権にも継続していると言えよう。
 私が戦前のことが気になったのは、正しかったのである。近代日本の、いわば、トラウマのハイパー近代主義=ハイパー連続的同一性主義が回帰していると考えられるのである。そう、これは、実は、小泉政権が蒔いた種と言えよう。
 トランス・近代日本が必要である。前近代日本へと回帰する必要があると言えよう。近代主義の連続的同一性主義の構造から脱却しないといけないのである。
 トランス・モダン・ジャパンである。脱国家主義である。そう、禅を、日本人は取り戻さないといけない。禅ルネサンスである。
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2006年09月03日 (19:31)

東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義日本の分裂二重性の超克

東京父権的近代主義批判:一神教的父権主義日本と「縄文」的母権主義日本の分裂二重性の超克
テーマ:ポスト・ニッポン/太陽国ルネサンス
一つ日本社会における問題点を指摘すると、現代日本人の殺伐とした攻撃的な精神性は、上述した超越的同一性構造に拠るとは言えるものの、それだけでは、不十分だと考えられる。現代日本人、とりわけ、東京人の殺伐さは、近代的自我に拠るとは言え、極めて極端なものに思えるのである。つまり、差異の否定・排除・隠蔽の度合が極めて強く、病理的になっているのである。近代的自我そのものが、病的であるが、それが、徹底していると思うのである。近代的自我病理に、東京人が集団的に染まっているように思えるのである。そして、これは、日本人全体に感染するのである。
 この原因は、思うに、東京における生活の、過度の同一性自我意識にあると思う。一種過度の競争心であるが、病的な競争心である。己の差異を忘失しての病理的な競争心である。これが、どこから生まれたのか。つまり、ここには、個がないのである。単に、近代的自我が、個・差異・特異性を暴力的に排除している社会様態がここにはあるのである。
 この問題は、とても本質的な重要さをもっていると思う。何故、東京社会において、近代的自我意識が跋扈して、個・差異・特異性を攻撃的に否定・排除・隠蔽するのか。東京の問題点がある。これは、日本人の個・差異・特異性にも、当然、関係する重大の事柄である。何故、東京社会には、近代的自我、近代的合理主義、近代主義が、跋扈するのか。直観では、マインドコントロール・洗脳があると思う。また、何か、地方出身者の精神の有り様にも関係していると思う。現代、江戸っ子の精神がほぼ消えている。(漱石が『坊ちゃん』で問題化したのは、ここに何か関係するようにも思えるが。)
 とまれ、近代的自我として、攻撃的であること、マッチョ的であることが、東京において、ステータスの有り様となっているのだ。これは、一体どこから生まれたのか。私に言わせれば、このような無粋さ、野蛮さを価値としている起因は何であるのか。ひとことで言えば、ここには、父権主義がある。もっとも、近代的自我が、父権主義的である。いくら、民主主義云々と説いてもそうである。
 何か、東京社会には、根本的な倒錯があるのだ。それは、何か。父権主義と結びついた近代的自我である。これは、欧米の個人主義とは異なるのである。何故なら、欧米は、ルネサンスに発する個人主義・差異主義がベースにあるからである。他方、その反動としてのプロテスタンティズム的同一性自我ある図式である。日本の近代的自我には、このルネサンス的個人主義・差異主義が欠落している。ルネサンスとは、換言すると、母権的個人主義だと、私は考えている。そう、差異共振主義があると思うのである。日本、とりわけ、東京社会には、これが、欠落している。これは、いったい何なのか。狂気の社会なのである。
 考えられるのは、日本の父権主義と欧米の近代的自我主義とが結びついたものが、この東京近代的自我である。では、日本の父権主義とは何だろうか。私は、ここに、日本社会の元凶を見ている。西洋の近代主義も、狂気的ではあるが、日本の父権主義も狂気的である。狂気+狂気の、二重狂気である。私は、以前に、日本の父権的部族主義という考え方をした。これは、先には、豪族主義と呼んだ。(思うに、ヤクザ社会に共通する何かがあるのではないだろうか。)
 この父権的部族主義、豪族主義とは何か。また、病的な競争心とは何か。深い精神病理・社会病理・狂気の病巣がある。差異を徹底して憎悪して排除する「精神」が、東京社会を、支配している。差異への狂気的な憎悪、これは、何か。これが、東京、日本を、狂わせている元凶だと思う。
 ここでは、直観で述べよう。一つは、日本のナショナリズムがあると思う。国学から発するナショナリズムである。これは、連続・同一性主義であり、差異を排除している。一つは、・・・。
 そう、どうも、バビロニア神話他におけるような父権神話と同質の純粋な父権主義があるのではないだろうか。それは、言わば、純粋父権主義、絶対的父権主義である。二項対立暴力である。差異である母権主義を完全否定する父権主義である。どうも、これが、日本社会にあると思う。二年前に、日本の母権主義と父権主義の分裂的二重性について言及した。前者は、「縄文」文化であり、後者は、「天皇族」文化である。そして、これが、不連続であると私が、その時、考えたのである。つまり、差異と同一性との分裂があるということになるだろう。今考えても、日本の社会の歴史は、この母権的差異と父権的同一性の分裂的二重社会の歴史と言えよう。これは、現代においても、まったく変わらない。自民党/公明党は、これを利用しているのである。小泉/安倍自民党は、この二重性に立っているのである。

火焔土器

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Jomon_vessel_3000-2000BC.jpg

 ようやく、見え始めてきたようだ。思うに、日本社会には、ユダヤ・キリスト教と共通するような父権主義をもつ部族(「天孫降臨族」)がある時代に到来して、伝統的であった母権的社会(「縄文」的母権社会)を支配するようになった。しかし、その支配のために、後者の宗教文化を前者は利用したのである。それが、「天皇制」である。「天皇(日御子)」信仰とは、本来、イシス・オシリス宗教、聖母子・聖母マリア信仰、等に通ずる宗教であると考えられる。それを、父権主義が利用して、天皇制に祭り上げたのである。原日本人は、「天孫降臨」父権民族に、いわば、騙されているのである。この構図は、現代の自民党/公明党支配でも、まったく、変わらないと考えられるのである。

王冠型土器

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:Oukankeidoki.jpg

 ということで、私が問題にした、日本の父権主義、父権的部族主義とは、純粋・絶対父権主義であったという仮説になったのである。(もっとも、今の段階では、作業仮説であるが。)つまり、ユダヤ・キリスト教的一神教的父権的民族が、古代日本に到来して、強力な父権主義を、世界的に稀な母権社会である日本に、分裂的にもたらしたのである。これが、日本社会の、日本人の、本質的構図・構造であると考えられる。

遮光器型土偶

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%BB%E5%83%8F:JomonStatue.JPG

 だから、日本近代とは、きわめて、異常な社会なのである。つまり、欧米の父権的近代主義と日本の父権主義を合わせたものであるからである。過剰な父権主義がここには存しているのである。私が、近代的自我の狂気と考えたもの正体がこれである。結局、ハイパー父権主義、ハイパーな近代主義が、現代日本、東京に存しているのである。私が、東京社会の病的な競争心と見たものの根因とはここにあったと考えられるのである。日本的ユダヤ・キリスト教的父権狂気なのである。それがベースとなり、ルネサンス的個人主義、母権的差異主義を除いた、西洋近代的自我が形成されているのである。
エウレカ!!!


注:本稿は「イデア・共振シナジーと歓喜:極性シナジーと能動/反動」http://ameblo.jp/renshi/entry-10016573185.html
の後記p.p.s.を独立させたものです。

2006年07月22日 (10:18)

日本の知性の問題:連続・同一性中心主義の知識が、支配し、差異の合理性が無視される精神風土の問題

私事を言わせていただくと、私は、生前の亡父に悩まされた。具体的なことは言うまい。ただ、人の話を無視する自己中心主義者であり、多くの人に物心ともに多大な迷惑をかけたことだけは言っておきたい。
 なぜ、こんなことをいうのかと言うと、その亡父の父権主義には、今日の日本を絶望的にしているものに通じるものがあると思われるからである。
 そう、簡単に言えば、差異共振性をまったく否定・無視・阻害・排除した連続・同一性中心主義が両者共通だと思うのである。この狂信的な頑なさが、日本を、どん底に落としているのである。おそらく、この類型は、日本の多くの場所で、見られると思うのである。官僚・役人を初め、マスコミ人、知識人・文化人、その他、このタイプである。
 この日本的父権主義を超克しない限り、日本は、没落するだろう。この恐ろしく傲慢な、狂信的な、連続・同一性中心主義・父権主義は、いったい、どこから、生まれたのだろうか。太平洋戦争の狂気も、ここから発しているだろう。私は、以前、これを、父権的部族主義と呼んだ。
 私なりに、洞察してみよう。この恐ろしい傲慢さ・狂信さには、ルサンチマンがある。陰惨冷酷さがある。深い闇がある。つまり、差異共振シナジーの原光がないのである。一切が闇である。やさしさのかけらもない。酷烈無惨である。そう、D.H.ロレンスが、『黙示録論』の最初の方で述べている自己栄光化の衝動につながるのである。ニーチェが執念深く剔抉した、キリスト教的陰惨な奴隷根性に結びつくだろう。「賎民」の欲望である。この日本的「賎民」が父権主義と結びつき、日本社会を、暗黒にしているのである。そう、精神の虚弱さ、劣弱性である。
 原因は、以前考えたが、暗い精神的環境ではないだろうか。勿論、暗い貧しい環境も一つの要因かもしれないが、それ以上に、暗い精神的環境が根因ではないかと思われるのである。
 そう、彼らは、本当の光に触れたことがないのだろう。闇しか見てこなかったのではないだろうか。だから、闇しか知らないのである。即自的差異共振性、可能的差異共振性に対して、差異共振シナジー・エネルギーが与えられなかったと考えられる。そう、叡知が与えられなかったのだろう。真の教養の欠落があるのではないだろうか。精神の教養に触れていないと思われるのである。だから、成長後、精神教養を忌避するのだろう。俗物である。俗物と言うのも的確だ。
 俗物・没精神教養人・「賎民」、彼らが、父権的部族主義を形成している。一言で言えば、精神の伝統文化の切断・断絶(比較参照:三島由紀夫の「断絃の時」)があったのだろう。私の直観では、これは、意外に明治維新に起こったと思う。西郷隆盛らを見捨てた、明治維新。伊藤博文、山県有朋、福沢諭吉らの明治。ここに、日本精神文化の断絶が起こったのではないだろうか。二つの明治維新があるのではないか。
 独断、偏見、誤解を恐れずに言えば、国学が胡散臭く、怪しいのである。本居宣長が胡散臭いのである。彼の大和心は、実は、漢心である。即ち、二項対立なのである。つまり、日本近代主義の原点がそこにあると思うのである。この二項対立が、日本の根源的な精神文化・差異共振文化(日本母権的多神教精神文化)を否定・排除したと考えられるのである。国学の一神教文化が、明治天皇制を生み、差異共振文化である神仏習合を破壊したと思うのである。国学的日本一神教が、日本の精神文化の破壊をもたらしたと思うのである。小泉首相の靖国参拝は、国学の国粋主義に通じるだろう。そう、やはり、ここである、日本の癌の病巣は。

p.s. もう一点つけ加えると、この連続・同一性中心主義であるが、上述からわかるように、実は、差異共振性がないことはないのである。即ち、即自的差異共振性、可能的差異共振性(=精神の種子・卵)は、本来、誰にでも先天的に備わっていると考えられるのであるが、この精神の種子・卵のための光の教養・知的養分が与えられなかったために、連続・同一性中心主義になったと考えられるのである。だから、ネガティブとなり、自己肯定的になれず、絶対的闇となり、他者を否定する連続・同一性中心主義になったと考えられるのである。自己の絶対的暗黒が、他者への暴力になるのだろう。小泉異常気象首相であるが、やはり、幼いころに、精神の養分を与えられなかったのであろう。精神の闇を抱えてしまったのである。その悲しみが、ルサンチマンとなり、自己中心主義化して、冷酷無残になると言えよう。

p.p.s. 追記から、即自的差異共振性=精神の種子・卵の見方から、光の教養とは、一種、光の精子になるのではないかと思った。即ち、即自的差異共振性=精神の種子・卵は、未受精であり、それが、精神光の精子によって受精して、即自且つ対自的差異共振シナジーになると思うのである。未受精の暗黒精神、これが、日本の闇の真相であろう。

2005年11月12日 (17:44)

日本人の精神構造について:日本人は、戦前、戦中と変わったか

小泉首相の靖国参拝であるが、私は、それは、国民国家ナショナリズムというよりは、封建主義的ナショナリズムであると述べて、批判した。しかしながら、小泉首相を支持する人が過半数であるから、ここで、小泉首相と日本人をパラレルにして考えたいと思った。(現代の政治・社会状況は、全体主義、ファシズム的であり、戦前、戦中と酷似しているだろう。)
 即ち、日本人は、戦前・戦中と変わっていないというのが、私の意見である。天皇制である。これは、象徴天皇制ではなくて、明治天皇制である。即ち、一神教的天皇制である。尊王攘夷的天皇制である。かつてと異なるのが、鬼畜米英が、中国・朝鮮になり、天皇が米国になっていることだけであろう。構造は同一である。つまり、日本人は、知らず、一神教的発想になっているのである。日本の始原的な多神教は、一神教に形骸化していると思う。あるいは、一神教の指揮下にあると思う。確かに、多神教と一神教のダブルスタンダードがあるが、ベースは、一神教である。お上である。この一神教の支配下において、日本人の差異が隠蔽されているのである。これが、先の倒錯的衆院選挙を生んだものでもあるが。
 思うに、日本人は、民族的には、差異を自立的に構築するというよりは、「舶来」のもので、差異の代理を崇拝してきたと言えよう。かつては、中国・朝鮮が崇拝の対象であり、明治以後は、欧米が崇拝の対象である。これは、構造的には、まったく変わっていない。おそらく、江戸時代から変わっていないのではないだろうか。
 日本人には、もとより、特異性をもった天才たちがあまた居た。また、特異性の社会・文化ももっていた。しかし、この日本特異性文化・社会が一神教体制によって喪失したと言えよう。思うに、日本人の精神構造は、メディア界的であると考えるのが妥当のように思える。揺らいでいるのである。利己主義ではあっても、自己主張は弱い。集団と個人との中間で揺らいでいるのである。半個人半集団主義だ。これは、ちょうど魚群や鳥群のように、群を成していて、集団生活するのである。小泉改革に集団で賛成するのである。集団の首長としての首相であろう。この集団とは、思うに、村落集団ではないだろうか。閉鎖的な村落集団である。村長としての首相である。封建主義的な要素もあるが、基本は、村落集合体だと思う。これは、全体主義である。全体の意志に従うのが正しいのである。つまり、日本人には、根っからの全体主義があるのである。しかし、他方、特異性の日本人も存しているのである。思うに、この特異性の人を日本人は、村落共同体の首長・宗教的首長(天皇)にしてきたのだろう。これは、実は、特異性の力を畏れているのである。だから、崇めて、避けようとしているのである。さわらぬ神にたたりなし。御霊信仰。つまり、日本人の村落共同体の原理は、特異性と共同体の宗教的関係である。そして、特異性を祭り上げて、共同体を維持するのである。
 思うに、これは、極めて原始的な社会である。非合理主義の社会である。(しかし、今や新自由主義路線となったので、はっきりと、酷烈苛烈な経済合理主義を身心に刻むこととなるだろう。)この原始的共同体はいったい何なのだろうか。ジェイムズ・フレーザーの古典の『金枝篇』の世界である。文化人類学の世界である。これは、原始的農耕社会の残滓なのか。しかし、フレーザーの王権的共同体とは、実は、父権的社会であろう。母権的社会ではないだろう。母権的社会とは、女王の社会であるが、女王とは、自然の象徴である。そして、自然とは、恐怖の対象であろうか。自然を恐怖の対象とするのは、父権制であろう。その論理から言えば、日本の原始的共同体とは、父権的原始共同体である。そして、もし、日本が本来、母権制の国ならば、それは、父権制によって破壊されたことが考えられるのである。父権制の民族によって、国が破壊されて、改造されたと考えられる。つまり、それまであった母権的社会が、解体されて、父権的共同体ができ上がったといえよう。思うに、これは、ほとんど、父権的封建主義的共同体であろう。思うに、より正確に言えば、母権的社会の基層に父権的支配層が形成されということかもしれない。母権制を多神教、父権制を一神教とするならば、多神教のベースの上に一神教が支配しているということになる。とまれ、日本社会は、母権制から父権制にチェンジした時期があったと思う。これは、以前に述べたが、天孫降臨民族による革命だと思う。つまり、父権的天皇制による日本革命があったのである。天照やヒミコの母権的日本が破壊されて、その上に天皇制的父権制の日本が形成されたのである。思うに、この革命がトラウマのように日本人にあるのかもしれない。舶来崇拝はここから発しているのではないか。 
 とまれ、母権制/父権制のダブルスタンダードの日本共同体が考えられる。これが、日本全体主義を生んでいるのだろう。甘えの構造もここからだろう。また、無責任体制を生んでいるのだろう。ここから脱するには、母権制/父権制のメディア・現象界の相補性から脱するには、イデア界に回帰する必要がある。不連続的差異に回帰する必要がある。新自由主義革命は、この点で、不連続的差異回帰への笞となるだろう。苦痛を伴う目覚めへの契機である。母権的父権制ないし多神教的一神教という日本共同体を破壊する必要がある。これは、新世紀代において、あまりにも時代後れであるからだ。自我の特異性、不連続性を肯定することだ。コギトを徹底することだ。日本集合体的自然的態度をエポケーすることだ。日本を現象学的還元をすること。非日本である。絶対的特異性となること。絶対的個、絶対的不連続的差異になることである。我在り・スムである。宇宙的自我としての我在りである。梵我一如である。天上天下唯我独尊である。

2005年09月12日 (04:51)

自我/近代主義/ファシズムと叡智の喪失:日本における一神教とメディア界の復活

自我/近代主義/ファシズムと叡智の喪失:日本における一神教とメディア界の復活


先の考察を続けよう。メディア界が現象化して、「現実」があるのである。近代においては、反動性である自我と「現実」(資本主義経済)とが「連続」しているのである。 そう、反感による独善衝動である自我は、本質的に倒錯的である。自己の暴力性に気がつかず、自己善を信じているのである。
 先に、精神分析の説を借りて、死の欲動、死の本能が自我にはあることを述べたが、不連続的差異論の観点から説明する必要がある。簡単に言えば、反感による攻撃衝動である。憎しみによる攻撃衝動である。これは、差異共存志向性がいわば死んでいるのであり、否定相となっているのである。そして、この否定相となった志向性が死の欲動に当たるのではないだろうか。心の闇である。このような反動、倒錯、攻撃的自我は、差異共感性、差異共存志向性を喪失しているので、つまり、理性を失っているので、邪悪である。そして、この暴力的感情・情動をもった自我に対して、権力的情動を注ぐ者が、リーダー、支配者に選ばれる。
 つまり、ファシズムでは、自我による反動・暴力・権力的情動が社会を支配するのである。つまり、自我に対する解毒剤のような智慧、文化、叡智がないところでは、自我主義が蔓延して、ファシズムに対する免疫がなく、感染するのである。つまり、自我主義が跋扈した社会に、ファシズムはその温床を見出すのである。自我を解体する、あるいは、自我を相対化する叡智がなくなれば、自我/近代主義における資本主義はファシズム化すると言えよう。
 日本において、今、「改革」ファシズムが実現した。では、何故、日本において、自我に対抗する叡智が、喪失したのであろうか。これは、政治/経済/文化/社会/歴史的問題である。これは、実に大きな問題であるが、ここでは、不連続的差異論の見地から言うと、何故、日本人は、肯定・積極的なメディア界を喪失したのかと換言できる。これは、折口信夫の新神道論とも関係する。折口は、日本人は、宗教的情熱を永く失っていると考えた。そして、敗戦は、新しい神道を生み出す好機と見たのである。しかし、日本人は、折口の意向をまったく無視した。宗教とは、実は、メディア界の問題である。そして、差異・個の問題であり、漱石が問題にしたものでもある。
 思うに、近代日本と戦後日本の問題である。そして、民衆、人民の問題であり、また、言語の問題である。問題はきわめて複雑なので、ここで、直観で言おう。父権的自我が、母権的差異を、日本では、侮蔑している文化・社会状況があると私は考える。この点が、欧州と異なるのだ。欧州文化は、母権的差異が基盤にある。そう、日本にはマッチョであることを美意識とする父権制が今でも残っている。母権的差異性、差異共存志向性を女々しいものとする父権的価値観があると思う。男尊女卑である。これが、日本問題の元凶だと思う。それは、以前、政府が、イラクに行ったNGOのメンバーに自己責任を取れと言ったことと通じる。そう、マッチョであり、暴力性を価値観とする父権制が日本には色濃くあるのだ。だから、刺客も生じるのである。(首相と暴力団との関係も取りだたされている。)これは、ある意味で、武士、武家の文化である。というか、一種野蛮性の文化である。これが、日本文化・社会にあるのである。アングロ・サクソンも野蛮性があるが、計算づくのものである。
 そう、粗野であること、荒々しくあることが、美徳のように、日本では今でも捉えられている。威勢のよさが評価される。これは、ヤクザ文化とも言えるだろう。そう、これが、日本社会に巣くっているだろう。西欧には、中世において、宮廷愛文化があった。女性が主となり、求愛するのである。これは、母権文化である。日本の場合、母権文化が、おそろしく破壊されてきたと思う。とにかく、日本にある凶暴・狂暴・野蛮な「文化」。この根因は何なのだろう。これが、日本の真の開化を阻害しているのだ。とにかく、日本的父権制、これが元凶である。どうも精神の基盤の喪失があると思う。私は、いつも、廃仏毀釈、神仏分離政策が、日本人の精神性を破壊したと感じるのである。私見では、神仏習合は、日本の地域と一体となっていた。いわば、土着化されていた。これが、日本の大地や都市を「精神」化していたと言える。つまり、神仏によるメディア界で、日本の土地を包んでいたのである。しかし、日本においても自我化の傾向が生じる。それが、国学だろう。これが、天皇制・父権・一神教的イデオロギーを生んでいく。思うに、日本における一神教の覚醒のようなものがあると言えよう。これと、下級武士が結びついたと言えるだろう。そう、廃仏毀釈、神仏分離令以前に、日本において、多神教文化は崩壊していて、一神教性が芽生えていったのではないだろうか。日本における「ユダヤ・キリスト教」文化性である。これは、ルサンチマン宗教であり、反動・暴力的である。野蛮である。そして、これが、明治維新で、天皇制国家となって発現したのではないだろうか。日本的ユダヤ・キリスト教=天皇教が、日本におけるマッチョ/野蛮文化を造ったのではないだろうか。この鋳型が近代日本にはあると思う。そして、戦後においては、アメリカがいわばこれを利用するようにして、日本を支配してきたと言えよう。小泉ファシズムは、この帰結ではないだろうか。そう、日本人は、内から一神教を形成して、野蛮化したのではないか。だから、日本の解放とは、ポスト一神教、ポスト父権制を意味するだろう。ならば、日本人が、アメリカに共鳴する内在的原因があるのである。野蛮な一神教・父権制が共通なのである。日本の多神教を復活するには、差異共存志向性を肯定しなくてはならない。肯定・積極的なメディア界の復活である。





人相と人格相:その1

人を人相で見るのは、浅い、皮相な見方、浅薄である。人は、人格相で見ないといけない。小泉氏は、一見人相はよさそうであり、岡田氏は、人相はよくない方だ。しかし、人格相から見ると、小泉氏には、凶相がある。凶悪さが現れている。岡田氏の人格相は、単に生真面目である。凶悪な人格相の人を選んだのだから、この結果は、計り知れない恐ろしいものとなる。日本人は、心眼を失っているから、このような途方もなく由々しき選択をしたのである。
 私にははっきりと凶相が見える。小池にも見える。別に私は霊能者ではない。ただ、自分の直観を信じているだけである。そう、「霊」というものは、実は、「霊」ではない。「霊」ではなくて、不連続的差異論におけるメディア界なのである。魂とか、心とか、倫理とかは、実は、メディア界のことである。このメディア界を確信していれば、人格相が見えてくるのである。つまり、メディア界に他者のメディア界が映されるのである。
 どういうことかというと、人間の実在は、メディア界である。これが、現象化しているのである。そして、メディア界の差異共感性、差異共存志向性を誠実に、正直に保持している人は、それが、心を映す鏡となるのである。明鏡としてのメディア界である。フッサール現象学で言えば、志向性である。純粋志向性である。これを、ねじ曲げている人、濁らせている人、即ち、志向性を喪失している人は邪悪な人であるから、その歪みがメディア界に生じるのである。そして、このメディア界の歪みが凶相となって、顔の人格相に現れるのである。小泉氏の人格相は明らかに、凶相であり、凶悪である。そして、確かに、外見や発言は表面的には、真摯そうに見える、聞こえるが、それに同化されるというのは、自身のメディア界、すなわち、心や魂や倫理が歪んでいたり、喪失されているからである。表面で物事を判断しているのである。悪魔のペテン師に魅入られたアホな愚劣な国民と多くの日本人はなってしまった。
 後で、このメディア界的人格性についてさらに考察してみたい。

p.s. ついでに言えば、ホリエモンは、ある独創的な洞察力をもつブログ(『世に倦む日々』)で述べられていたが、確かに、人相と人格相が悪化したと言える。誠実さを無くしたのである。魂を悪魔に売ったと思う。





女男のメディア界の差異性:差異共存志向性と連続・同一性

先に、試論で、人間は、他の動物と比べて、差異共存志向性が過剰であり、それの受け皿となる極がないために、連続・同一性=言語・象徴という現象界へと転化されると述べた。
 では、女男の差異はどう説明できるのだろうか。私は、これまで、女性の方が男性よりも、差異が強いと言った。しかし、正確に言うならば、極性が違うと言うべきである。女性は、差異共存志向性であるマイナス強度に偏差があり、男性は、連続・同一性のプラス強度に偏差がある。もっとも、これは、相対的である。このように見たとき、現象化において、女男のどういう違いが生まれるだろうか。
 先ず、女性について見ると、メディア界が、差異共存志向性の強度(マイナス強度)をもっているので、これに補完するものとして、連続・同一性への転化である現象化が生起するのであるが、思うに、この転化・現象化は、差異共存志向性を積極的に帯びていると考えられる。つまり、差異共存内包的現象化が、女性存在であると言える。
 では、男性の場合は、連続・同一性の強度(プラス強度)が強いのであるが、それでも、存在する差異共存志向性によって、外連続・同一性=言語・象徴化=現象化が生起する。しかし、このとき、女性のように差異共存志向性が積極的に関与することはない。なぜならば、男性の現象化の場合、差異共存志向性の転化において、連続・同一性のプラス強度が介在するからである。つまり、女性の場合は、差異共存志向性の転化は、直截であり、積極的であるが、男性の場合、いわば、中間に、連続・同一性のプラス強度が関与するのである。この中間のプラス強度が、差異共存志向性のマイナス強度をいわば遮蔽するように作用するのではないだろうか。そう、こう考えたらどうだろうか。差異共存志向性の強度に押されるように連続・同一性の強度が連続・同一性=言語・象徴=現象化する。つまり、男性の場合は、二重になるのである。差異共存志向性に駆動されながらも、連続・同一性志向性が現象化すると言えよう。
 もう少し整理しよう。というか、考えを少し修正しよう。人間の場合、メディア界が過剰であり、この過剰さが、現象化を生む。これは、これまで通りである。そして、女性の場合、差異共存志向性であるマイナス強度が強く、これをもって、現象化すると言える。これもこれまで通りである。しかし、男性の場合、メディア界が、連続・同一性のプラス強度が強い状態で、現象化すると言い直そう。だから、当然、男性の場合は、連続・同一性=言語・象徴=現象化が強く、差異共存志向性は弱くなっているのである。では、男性の場合、差異共存志向性はどうなっているのだろうか。(急に思いついたが、右脳が差異共存志向性であり、左脳が連続・同一性志向性ではないだろうか。)思うに、メディア界においては、差異共存志向性と連続・同一性志向性の両義性が存しているが、しかし、現象化したとき、男性の場合、連続・同一性=言語・象徴性に同一化して、差異共存志向性を隠蔽するのではないだろうか。なぜならば、男性の特徴である連続・同一性のプラス強度が、言語・象徴と同一化しやすく、内在していた差異共存志向性を排出・隠蔽するからではないだろうか。もう少し丁寧に言うと、プラス強度が言語・象徴と同一化するのであり、マイナス強度である差異共存志向性が、正に、無意識化されるのだと思う。これは、精神分析の言うような抑圧や排除ではない。それは、自然に排出・隠蔽されるのである、女性の場合が、差異共存志向性を内在させた現象化であるのに対して。
 では、反感や反動はどうなるのだろうか。それは、これまで、述べてきている、冷暗化等で説明できるだろう。

p.s.  女性は、差異共存志向性が強いということは、女性が、男性よりも、芸術的、文化的であること、そして、右脳/左脳の両義性をもつことを意味しているだろう。女性が、例えば、編み物、衣服、織物、ファッション等々を志向するのは、メディア界の差異共存志向性に起源があると言えよう。なぜならば、それは、差異と差異とが共存的に連結される領域であり、テクスチャ、テキスタイルの領域であるからである。また、脳梁が女性は男性よりも太い、大きいのは、女性における右脳/左脳の両義性を証明しているのではないだろうか。
 結局、女性は、男性よりも、内在的には、多元的な能力に優れているのである。メディア界的能力をもっているのである。男性の場合は、メディア界を排出・隠蔽した連続・同一性=言語・象徴の能力が強いということになる。近代科学、近代主義は、正に、男性的である。哲学という行為は、女性的な領域を男性的な志向で構成する営為ではないだろうか。
 とまれ、今日、男性的領域(父権制/近代主義/新自由主義)は、行き詰まり、女性的領域(母権制/ポスト近代主義・メタ近代主義/差異共存主義)にシフトしていると言えよう。何故だろうか。後で、このパラダイム・シフトについて、考察したいが、簡単に言うと、近代主義への懐疑が強まり、脱近代主義(ディーモダン)への必然的展開があり、それによって、女性的領域、メディア界が発見されてきたことがあるだろう。ポストモダン、ポスト構造主義は、このようなものである(が、理論的不備のため、頓挫してしまった)。巨視的なスケールで見た場合、ポスト近代主義、脱近代主義の潮流は否定できない事実である。そして、これが、女性的領域への移行・シフトを意味しているのである。

p.p.s. 触れるのを忘れたが、一般に、女性がきれい好きというのは、どう説明できるのか。それはやはり、差異共存志向性のもつ根源的調和性に拠ると考えられるだろう。この調和が美を希求するのである。因みに、コスモス(宇宙)とは、古代ギリシアでは、秩序であり、美を意味していた。そして、化粧品(cosmetics)は、これ(cosmos)からの派生である。

参考
cos・met・ic/kzmétik | kz-/
[名]

1 ((通例~s))化粧品.

2 (表面的な)体裁の繕い, ぼろ隠し.

━━[形]

1 表面的に繕った, ぼろ隠しの

a cosmetic solution

その場しのぎの解決, 弥縫びぼう策.
2 美容のための, 化粧用の.

3 《外科》整形の;補綴ほてつの

cosmetic surgery

整形外科. ⇒ PLASTIC SURGERY
[ギリシャ語kosmētikos(kósmos秩序+-IC=秩序ある→美容の)]
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