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2011年11月28日 (12:35)

氣霊の世界への飛翔:氣霊世界旅行の夢:大変革期と東日霊の時代

テーマ:manichaeism:

最近はよく眠れるようになった。そして、「霊界」へ魂が移動していると考えられる夢を見ることが増えた。
 わかりやすく言うと、氣の降りる場所への旅行の夢である。バスの中で、ある中年の女性が、満たされた表情で、旅行した場所で何日も留まってしまったということであった。私が「居るだけでも気持ちよかったでしょう」というと首肯いていた。
 また、途中、車中、広島の病院の最上階や屋上が、氣に優れていて療養する人が多いという情報もあった。
 もっと夢を見たが、今思い出せないが、言いたいことは、おそらく、この魂の氣霊界(氣霊海)への飛翔は私個人に限定された事象ではなく、一般的な事象のことのように思える。つまり、多くの人に氣霊界が積極的に訪れているように思えるのである。
 そう、氣霊の何かが人間の魂にはたらきかけているのだろう。
 聖霊力学から言うと、陽凸iへの傾斜が終わり、陰凹iへの傾斜が形成され出したと思われるのである。
 陰凹iへの道が開けたのである。それは、不可視の穴のようなものである。ブラック・ウィンドウ、ダーク・ウィンドウ、black windows, dark windows, black doors, dark doors, dark holes, dark burrows, etc.
 夢とは氣霊界(第三象限)の映しであると考えられるが、それは、凸iの光のイメージを活用するのだろう。つまり、media pointで夢映像が形成されると思われるのである。media point dreamsである。いわゆる、霊的ヴィジョンとは、これで説明できよう。聖書の預言書のヴィジョンもそうであるし、中世、鎌倉時代に見られる宗教的ヴィジョンもそうである。
 そう、やはり、氣霊界が開かれる時代があるのである。それは、根本的変革期である。今の時代は、新たな時代への大変革へ向っていると言えよう。
 近代の終焉は当然であるが、西洋の終焉であると推測される。以前、アイオーンの時代と言ったが、日本的霊性の時代でもあるし、さらに、東洋的霊性の時代でもあると考えられる。
 東霊の時代、日霊の時代、東日霊の時代。
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2010年11月23日 (13:43)

第二稿:日本伝統文化は個-共同主義である:近代化は集合化:母権*父権⇒差異共立・共振/陰陽文化

以下は、先の考察を校正し、又、追記を付加したものである。Kaisetsu氏の女媧論が実に意義深い。
 やはり、母権・大女神の女媧が始原であり、その後、伏義が生起して、陰陽化したと考えられる。

 初めに女神ありき!


日本伝統文化は個-共同主義である:近代化は集合主義になった:母権*父権⇒差異共立・共振/陰陽文化

テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明

日本伝統文化は個主義であり、且つ、共同主義である。
 どこかで、これが失われたのである。
 私の直観では、国学の排外主義が胡散臭いのである。何度も既述したが、本居宣長が胡散臭い。大和心と漢心と分けるのが、そもそも、「漢心」である。国学に私は近代主義の基盤を見るのである。
 それに対して、坂本龍馬らの開国主義はまったく異質なものであり、本来の東洋主義に根差す開国主義である。明治維新以後の脱亜入欧とはまったく異質な、正反対の視点である。
 これまでの視点から言えば、脱亜入欧路線は父権主義であり、坂本龍馬らの路線は母権主義である。
 母権主義が近代日本において、その基礎となりつつも、敗れたものである。
 そう見ると、やはり、日本国は、古代ギリシアのように、母権文化が原基にあり、その上に強力な父権文化が侵入した歴史をもっているように思われる。
 即ち、父権的民族が母権的原日本に侵入して、日本国が生まれたと思う。
 思うに、天皇制はその所産である。しかし、ギリシア神話におけるゼウスが両義的であり、母権的な要素を強くもっていることを考えると、天皇とは単に父権的なものだけでなく、母権的なものと考えられる。つまり、天皇はイエス・キリストに類似しているのである。
 つまり、一方では父権的であり、他方では母権的であるということである。
 しかし、近代において、天皇制は父権的な制度・機関になったが、母権的視点から言えば、天皇とは女神なのである。つまり、天照大神である。大女神としての天皇である。
 天皇制を批判する人間は多いが、天皇を大女神と見れば、日本の再生に大いに寄与すると思える。
 そう、神話学的に言えば、女神(大女神)の子としての天皇である。

途中。

追記:武士であるが、私はこれも母権文化が母体であると推測している。

追記2:先に言及したが、その後、いくぶん翻した視点であるが、母体の母権制の社会に、父権的民族が侵入したとき、母権でもない、父権でもない、即非的文化が生まれると述べた点であるが、しかし、この視点は本稿の論点から見ると、不十分である。
 つまり、原基として、母権文化があることを認める必要があるのである。これが大前提である。
 そして、この基礎の母権文化が父権文化と衝突することで、新たに変容したのではないかと考えられるのである。これを父権的変容と呼んでいいのかわからない。
 父権文化は一言で言えば、知性の文化である。言語、文物、物質的経済の文化である。また、政治権力の文化である。
 ここでも、古代ギリシアに範をとると、口承文化が文字文化になったと考えられる。例えば、ホメーロスは吟唱詩人であったが、その口承詩が叙事詩となったのである。
 思うに、母権的口承の秘教(密教)文化があったのであるが、支配的な父権文化のために、それが、文字化、文字言語化されるようになったと思われる。例えば、エレウシスの秘儀が、プラトン哲学に鮮やかに反照されていると考えられるのである。
 これは、文字言語的一般化・普遍化と言えよう。それは、同一性化・ロゴス化でもあるが、ベースは差異である。とまれ、父権化を暫定的に、文字情報化(ロゴス化)と呼んでおこう。
 すると、日本においても、母権文化の文字情報化(ロゴス化)が為されたと考えられる。それが、端的に、記紀である。そして、本題においては、天皇制である。
 結局、天皇制とは母権文化の、広義の文字情報化(ロゴス化)であると考えられる。
 とまれ、父権化によって、母権文化は知性化されたと考えられるのである。
 ここで、思考実験的に、私論・見解を変えることになるが(これまで、私は母権文化は凸i*凹iの均衡の取れた文化を捉えていたのである)、母権文化を凸i*凹iにおいて、凹iが優位の文化と考えると、それは、本来、凹i⇒-1、即ち、人間認識図の第三象限の文化(神秘的文化:秘儀・密儀文化:シャーマニズムはこれに入るだろう)をもっていたと考えられる。
 この様態に、父権文化の優位の凸iが入ると、実に、凹iと凸iの均衡が形成されることになるだろう。つまり、凹i優位の母権文化に凸i優位の父権文化が参入することによって、凸i*凹iの差異共立・共振の文化が生まれたのではないだろうか。それは、端的に陰陽文化である。(追記:だから、自己認識方程式は凹i*凸i⇒+1と変換されるべきである。)
 もっとも、以後、父権文化が支配・主導的になっていくので、この均衡が破壊されて、父権的同一性・物質・権力文化が形成されていったということではないだろうか。
 とまれ、結局、母権文化への父権文化の侵入・参入は、差異共立・共振文化、陰陽文化が生んだのではないだろうか。
 そして、その母体は母権制である。この点はいくら強調してもし過ぎることはないだろう。

追記3:以下、Kaisetsu氏の「女娲」論はきわめて興味・意義深い。以下の「女娲」像は正に、エジプト神話のイシス他のオリエントの女神を想起させる。
 女神のシンボルは♀(ヴィーナス、金星でもある)であるが、これは、エジプト神話のアンクに似ているのである。○が太陽であり、+が地球である。そして、この太陽が女神の子(天皇)なのである。また、ケルト十字は、+と○を重ねたものである。


参照:

* 三輪山も「御娲山 Mi Wa San」である。
* 倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。


倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。



050223006a_3 050223006a_3 posted by (C)天花一海
深圳雕塑:女娲补天。



倭wa人の本来の漢字は「娲wa人」であり、天孫である意味である。

 倭人の本来の漢字は「娲人」であり、天孫である意味である。

 女娲こそ、最も古いトーテムであり、「女娲が天を紡いだ。」「女娲が土で人間を創造した。」

 中国の中原を最初に支配した文明は、「娲人」である。

ここで、「女偏」が重要な意義を持っている。

 女性が「天地創造」の「母体」である。

 女偏を「姓」に持つ氏族が、天孫の末裔である。

 また、倭が蛇をトーテムとし、漢委奴国王印が蛇を印の装飾に用いていることも、本来、wa が「女娲」である証拠である。

 海舌



女娲(拼音:nǚ wā),中华上古之神,人首蛇身,为伏羲之妹,风姓。起初以泥土造人,创造人类社会并建立婚姻制度;而后世间天塌地陷,于是熔彩石以补天,斩龟足以撑天。


女媧は古代中国神話に登場する女神。三皇の一人に挙げる説もある。姿は蛇身人首と描写される。伏羲とは兄妹または夫婦とされている。


女媧は中国少数民族の苗族が信奉した神

http://blog.kaisetsu.org/?eid=812179

『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile

参考:
ミャオ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
ミャオ族 / モン族
Hmong women at Coc Ly market, Sapa, Vietnam.jpg
伝統的衣装を着た花モン族。ベトナム 、サパ の市場にて。
総人口

400 - 500 万
居住地域
中華人民共和国の旗 中国 300 万
ベトナムの旗 ベトナム 790,000(1999年)
ラオスの旗 ラオス 450,000(2005年)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ 170,000(2000年)
タイ王国の旗 タイ 150,000(2002年)
フランスの旗 フランス 15,000
フランス領ギアナの旗 フランス領ギアナ 1,500
言語
ミャオ語
宗教
シャーマニズム 、仏教 、キリスト教 他

ミャオ族(ミャオぞく、苗族(びょうぞく))は中国 などに住む少数民族 である。モン族(ベトナム語 : H'Mông)ともいう。中国では貴州省 に最も多く、他に湖南省 、雲南省 、四川省 、広西チワン族自治区 、湖北省 、海南省 にも住み、タイ 、ミャンマー 、ラオス 、ベトナム などにも住む。歴史上移住を繰り返した民族である。


・・・・・
歴史 [編集 ]
伝説 [編集 ]

中国の伝説では紀元前26世紀 頃、漢民族 の原型である華夏民族の君主・黄帝 が蚩尤 の民族の討伐作戦を行い、涿鹿(たくろく、河北省 と遼寧省 の省境付近)で破ったという。戦いは黄河の台地で行われた。華夏は地理の悪条件にもかかわらずコンパスを用い正確に蚩尤民族を破った。敗れた蚩尤民族はミャオ族とリー族 に分裂した。ミャオ族はこの後、南東方向に移動した。ミャオ族は漢民族 からは「蛮」と見なされ差別されたが、一部は周 王朝時代に華夏民族と同化し、一部は春秋の強国である楚 や呉 の建国に関わった可能性がある。中国の学会では楚は異民族の国とされているが、現代ミャオ族と、先史時代の伝説中の三苗や、楚や呉を構成した民族との関連は今のところ定説はない。現代のミャオ族と繋がるのは、漢代の長沙・武陵蛮以降と見られている。
揚子江定住 [編集 ]

漢人がこの流浪の民を苗(ミャオ)と呼び始めたのは先秦 時代である。そのころ苗(ミャオ)族は、苗民(ミャオミン)、尤苗(ヨウミャオ)、三苗(サンミャオ)と呼ばれ、揚子江 流域に住んでいたが、漢人に攻撃され南下した。六朝 時代、揚子江南部を支配する南朝は北方民族の侵入に苦しめられており、ミャオ族を歓迎しなかったが、五胡 による揚子江北部の破壊により、ミャオ族が大量に南朝に流入し一部は漢人と同化した。
西南中国へ移住 [編集 ]

唐 王朝時代初頭、六朝時代に同化しなかったミャオ族は貴州・雲南など西南中国へ移動した。その後ミャオ族が雲南に南詔 を建国したとする説もある。いずれにせよ、ミャオ族も他の少数民族同様に南詔で暮らしていたものだろう。[1]

ミャオ族が最も多く住む貴州・雲南一帯は13世紀 の元 王朝によって中国の版図に入った。

一方、中国南方各地で武装蜂起が起こっていた元 末の1357年 、楊完者 (ヤン・オルジョイ)率いるミャオ族の軍団が元朝の公認を受けて、徽州 にいる朱元璋 の軍を攻撃するも撃退された。その後も各地で暴れまわり、楊完者は付近の張士誠 に滅ぼされた。残ったミャオ族は朱元璋に降り、家臣愈 の軍などに入れられたが、その後も反逆が相次いだ。

明 代、貴州・雲南一帯に移住漢族が増えると土着ミャオ族との摩擦がおこり、大小100回を越すミャオ族反乱が起こった。なかでも、1448年 に発生した反乱は大規模で、明は20万の大軍を動員して1451年 にようやく鎮圧したともいう。この他、1457年 - 1459年 、1538年 - 1551年 にも大きな反乱が発生した。明の少数民族政策は少数民族首長の世襲支配権を認める土司 政策というものだったが、清 代にはミャオ族地区への漢族移住がさらに増え、中央が地方官を任命する直接支配すなわち改土帰流 政策(土司=少数民族首長支配を改め、流官=中央任命の地方官支配に帰すこと)が進められた。同化政策に抵抗する苗族は三次(1735年 - 1738年 、1795年 - 1806年 、1854年 - 1873年 )にわたる反乱を起こした。特に張秀眉 が指導した最後の反乱は大規模で、ミャオ族人口の三分の一だけが生き残ったともいう。
中国国内のミャオ族 [編集 ]

中国国内のミャオ族(苗族)は漢・蔵(チベット)語族、苗・瑶(ヤオ)語派に属し、三つの方言集団に分かれ、各々の「自称」が異なる。湖南省西部のコーション(Qo xiong)、貴州省東南部のムー(Hmub)、貴州省西部と雲南省のモン(Hmong)である。従来は女性の服飾の色や文様に基づいて、黒苗・白苗・青苗・紅苗・花苗などと区別されることが多く、清代には『苗蛮図冊』などの図録が作成されて、当時の漢族の苗族観を知ることが出来る。地域で言えば、湖南西部(湘西)は紅苗、貴州東南部(黔東南)は黒苗、貴州西部(黔西)から雲南(文山、屏辺)では花苗・白苗・青苗などと呼ばれる。黒苗もスカートの長短から長裙苗と短裙苗に分かれる。後者の自称はガノォウ(Ghab nao)である。漢語表記の「苗族」は、各集団の自称に近い「総称」であり、民族識別によって多様な人々が「苗族」の名称でまとめられた。[2] 民族識別は1953年に始まり、54年に38の少数民族を確定し、65年に15、1982年に2つの少数民族が加わり、現在の中国は55の少数民族と圧倒的多数の漢族からなる総計56の多民族国家であるとされている。民族識別は、スターリンが提唱した言語、地域、経済生活、文化に現われる心理素質の4つの共通性が基準とされたが、問題点も多い。中国における「民族」概念は政治性を帯びており「創られた民族」の性格が強い。苗族は山地で常畑や焼畑を営む人々と、盆地や平野で水稲耕作を営む人々に分かれ、分布は広域にわたり、他民族と高度を住み分けるか交錯雑居する場合もある。焼畑を営む人々は移動がさかんで山伝いに移住した結果、現在のラオス、ベトナム、タイにも同系統の言語や類似する文化を持つ人々が生活することになった。

中国国内の苗族について考える場合、中国の古代~近代の歴史文献上で「苗」と記述されている人々と、1949年中華人民共和国成立以降の民族識別で「苗族」と認定された人々とを区別して論じる必要がある。苗族の淵源を、漢代の『書経』「舜典」記載の「三苗」や、『後漢書』西南夷伝の長沙「武陵蛮」に遡る説もあるが、現在の苗族との連続性は明らかではない。古代の「三苗」以降、中国の史書は長い間南方民族を「蛮」と表記し、現在に繋がるとされる文献上の「苗」の初出は、宋代の紹煕5年(1194)、朱子が潭州(現在の長沙)に役人として赴任した際の、「苗」を「五渓蛮」の一つの「最軽捷者」とする記録(『朱子公集』巻71)である。ただし、「三苗」の国は揚子江中流域や、洞庭湖から鄱陽湖にかける地域(現在の湖南・湖北・江西)にあったとされ、現在でも貴州省のミャオ族には、先祖は江西にいた、もしくは東方の大きな川の畔や水辺にいたという口頭伝承が残っている。恐らく、宋代以降に漢族の南下に伴い、揚子江流域から山岳内陸部に移住してきたと考えられるが、史料上で歴史的変遷を確定するのは難しい。最近では漢族の先祖とされる黄帝と争い敗北した蚩尤を非漢族の代表と見なし、蚩尤や一緒に闘った九黎の子孫が「三苗」であるとして、ミャオ族の先祖を蚩尤に遡る説も登場したが、これは1990年代半ばに入って中華民族の多元一体を強調する中央の学説に対抗して現れたミャオ族側の知識人による新たな言説である。文字が無く口頭伝承で歴史を伝えてきた苗族には古代と現代を結ぶ客観的史料は存在しない。しかし、民族意識の高揚に伴い、蚩尤始祖説は定説の如く語られるようになってきている。


・・・・・


宗教 [編集 ]

ミャオ族の多くは独自の精霊信仰 を維持し、祖霊や祖先を信仰しているが、漢族文化に影響を受けた人々もおり、一部の人々はキリスト教 、仏教 に改宗している。地域により精霊信仰の信仰概念、用語が異なる。
タイのミャオ族の精霊信仰 [編集 ]

以下では特にタイのミャオ族の精霊信仰について述べる。タイのミャオ族は中国文化に影響を受けた精霊崇拝を行っている。[15] さらにシャーマンによる儀礼を持つ。タイのミャオ族は大きく白ミャオ族と青ミャオ族に分けられるが信仰は似通っている。

世界観は陰界(yeeb ceeb)と陽界(yaj ceeb)によって構成されており、さらに天界(ntuj)をつけ加える場合もある。 陰界は精霊と死んだものが行くあの世のことである。ミャオの信仰において、あの世は山の中もしくは地下にあると考えられている。陽界は精霊と人間の住むこの世と考えられている。

精霊は基本的にダー(Dab)と呼ばれるが、さまざまな種類と呼び名がある。

* 陰界の精霊

陰界にはツォー・ニュン(Ntxwj Nyug)と呼ばれるあの世を統括する精霊がおり、死者の魂を審判し、転生の先を決めるとされている。さらにニュー・ヴァー・トゥアム・テーム(Nyuj Vaj Tuam Teem)がその仕事を補佐しており、魂の年齢を管理している。シャーマンの守護精霊(Siv Yis)もここに住むといわれる。

* 陽界の精霊

基本的には善意のある守護霊(Dab quas)と森などに住む悪意のある精霊(Dab qus)に分かれる。守護霊は家の柱、竈などさまざまな場所を守護していると考えられている。また、それぞれの男系の氏族長が祖先霊(Dab xwm kab)の祭壇を持っている。祖先霊の祭壇の隣には薬の精霊(Dab tshuaj)を作ることもある。さらに女性の寝室には結婚生活を守護する精霊(Dab roog)が祀られている。また、外界と家内をつなぐ家の入り口の敷居には敷居の精霊(Dab txhiaj meej)がおり、悪い精霊が家内に入ってくることを防いでいる。森の中には悪い精霊(Dab qus)がすんでいるとされる。特に、ポン・ツォーン(Pog Ntxoog)呼ばれる老女の精霊は恐れられている。
また、病気や驚いた際に人体より抜け出てしまうプリン(plig)と呼ばれる魂の概念があり、タイのピー信仰のクワン に近い。治療の際にはシャーマンによるフー・プリン(Hu plig)と呼ばれる招魂が行われる。

* 天界の精霊

天界には、人間を助けるヨーム・スア(Yawm Saub)という精霊がいるとされている。この精霊はミャオの洪水神話や、初めての結婚などの神話に登場する。
また雨をつかさどる龍(Zaj Laug)や虹(Zaj sawv)もいるとされるが、在所は海の下もしくは湖の下の宮殿であるとされている。その他にも太陽の精霊(Nkauj Hnub)、月の精霊(Nrang Hli)、雷神(Xob)などが知られている。

神話 [編集 ]

* 洪水神話:太古の洪水の際にミャオ族の一組の男女が天の精霊(ヨーム・スア Yawm Saub(タイ・ミャオ族))の指示に従い、瓢箪(船、太鼓の場合もある)にのって逃れる神話がある。
* 射日神話:ミャオ族の英雄(カー・ユウアム Kaj Yuam(タイ・ミャオ族))が太古に九つあった太陽を八つ射落とした神話がある。中国の射日神話と類似している。

・・・・・

外部リンク [編集 ]

* レコードチャイナ:ミャオ族(苗族) (日本語)
* チャイニーズ・オデッセイ (英語)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%A3%E3%82%AA%E6%97%8F

2007年11月01日 (00:04)

検討問題:西洋文明と東洋文明

自己認識方程式であるが、i*(-i)⇒+1の左辺のiは父権制、左辺の-iは母権制を意味するのではないのか。
 もっとも、逆にして考えることもできるが、結局同じことになる。思うに、大きな時代の始まりは、エネルギーが賦活されるのであるが、近代とは、新たなエネルギーの時代であり、Media Pointが賦活されたということかもしれない。初期は、ルネサンスであり、超越性と現象性が未分化的に融合していたが、プロテスタンティズムとなると、近代的自我の同一性が強化されて行き、超越性が薄れて行く。
 明治維新を考えると、やはり、近代の動きではあるが、超越性と現象性が未分化であったと思う。そう、ルネサンス的と言えるかもしれない。明治ルネサンスである。しかしながら、日本の場合は、国家主義が強く、また、全体主義傾向が強かった。これは、西欧のように、時間をかけて、近代化したのではないから、超越性が全体主義化に作用したように思える。
 この問題は、ポスト・モダンにおける超越性の問題と通じるので、後でさらに検討したい。昨日、超越性と現象性との連続化について述べたが、それでいいようにも思われる。言い換えると、超越性と同一性との癒着である。あるいは、差異と同一性の混淆・混同である。
 後で整理したい。

p.s. iは能動的であり、-iは受動的ではないだろうか。西洋文明は前者中心であり、能動的同一性主義である。それに対して、東洋文明は両者を均衡させていたのではないだろうか。陽と陰のバランスを取っていたように思う。しかし、西欧近代主義は、陽中心主義となり、陰性を否定して、バランスを破壊していった。
 東洋文明は、Media Point文明であろう、本来。明治維新は、確かに、近代化であり、超越性に駆動されている。しかしながら、それは、父権性ないしは近代的自我へと傾斜した。つまり、超越性が直截に自我と連続化したのだと思う。それが、全体主義となったのではないだろうか。Media Pointからのエネルギーが徐々に近代的自我へと進展するときは、超越性が次第に弱化するが、近代日本の場合は、急激に近代化して、その余裕がなく、超越性が直に同一性へと接続したように思える。いわば、ショートしたのではないだろうか。狂気である。
 とまれ、確認すると、西洋文明はi中心の文明であり、東洋文明は本来Media Pointを基盤として文明であったが、西欧近代化によって、自己の基盤を喪失するようになったと言えよう。
 原因は、西洋文明の言葉には、東洋文明を翻訳する適切なものがなかったためと言えるだろう。同一性主義の文明と差異の文明では、相反的なのである。もっとも、既述したように、西洋文明は19世紀後半から東洋文明へと接近していたのである。
 
p.p.s. 直感では、-iがコスモスと関係していると思えるのである。これをどう考えたらいいのか。理論的には、iと-iとの相互作用において、コスモスが生起するのである(参考:聖書の天地創造)。
 近代的自我のように、-iを否定して、i中心であると、コスモスは隠蔽されたままである。しかしながら、-iを意識化すると、当然ながら、iと-iとの相互作用が意識される。つまり、賦活化される。-iにおいて、コスモスを感じるというのは、それは、実際は、iとの相互作用を意味すると考えられるだろう。思うに、禅や瞑想は、この相互作用の賦活化にあると思う。根源との繋がりを、宗教的に言えば、神性との接触をもたらすと言えよう。臍下丹田というのも同様の発想であると思う。
 このように考えると、単純に、-iが母権的とは言えないのかもしれない。母権的とは、相互作用があるのではないだろうか。この点は後で再検討。

2007年10月28日 (21:14)

『カラマーゾフの兄弟』のイワンの思想について:脱キリスト教としてのイワンの批判的宗教思想

今日、散歩したついでに、駅前の本屋に立ち寄り、雑誌『ユリイカ』11月号で、ドストエフスキーの特集をしているので、少し立ち読みした。
 ちらと見ただけだが、それから触発されて、イワンの有名な大審問官の話等を想起して、それは、脱キリスト教を意味しているのではないかと閃いたので、少し書きたい。
 最後に読んだのは、20年以上前になると思うので、細かいところは、忘失している。確かに、当時、大審問官の話が一番印象深かった。私は、アリョーシャが、イワンに接吻するのを見て、それは、イワンにキリスト教を見たのではないかと判断したのである。しかしながら、今思うとそれは、間違いだと思うのである。
 バフチンが説くように、ドストエフスキーの文学は、ポリフォニー的であり、単純に受けとることができない。言わば、複雑系である。だから、大審問官の話もポリフォニー的に考えなくてはならない。
 さて、書こうとして、私の中で、大審問官の話と子どもの虐殺の話が混線しているのに気づいた。とまれ、両者をいっしょにして、イワンの思想を考えたい。イワンの思想は、明らかに、矛盾したものである。それは、即非の論理によって明確になるだろう。イワンは一方では、宗教、信仰を重視しているが、他方、無辜(むこ)の子どもが虐殺される現実があるので、そのような信仰は要らないという主張、あるいは、世俗的欲望に満足した大衆はもはやキリストを必要としないという現実がある。つまり、宗教・即非・非宗教である。この場合は、当然、キリスト教である。だから、キリスト教・即非・非キリスト教である。これが、イワンの思想である。
 ここで考えるべきことは、無辜(むこ)の子どもが虐殺される現実、あるいは、世俗的欲望を満足した大衆の存在する現実は、西欧文明を考えての発言であると思える点である。つまり、イワンの宗教/キリスト教批判とは、端的に、西欧キリスト教批判であると考えられるのである。つまり、ロシア正教自体は批判していないと考えるべきであろう。
 では、ロシア正教とは何かとなる。あるいは、ギリシア正教とは何かとなる。これは、東洋的なキリスト教というべきである。東洋性とは、Media Point性ということである。個において、直截にMedia Pointに触れているということである。つまり、個において、直截に、神性に触れているということである。トルストイの神の国は汝のうちにありという発想である。
 プラトニック・シナジー理論から言うと、Media Pointの東洋的宗教ということになるのである。今はここで留めたい。

p.s. 以上の論考だと、宗教・即非・非宗教、及び、西欧キリスト教批判とロシア正教肯定という二点の主張となり、まだ明快にはなっていない。後者は凡庸な主張である。前者の方が、意味がある。
 私の直感は、ドストエフスキーの思想ではなくて、『カラマーゾフの兄弟』の思想は、脱キリスト教であり、個の宗教であるということである。この論の方がラディカルである。確かに、ドストエフスキー自身の思想は西欧キリスト教批判であり、ロシア正教肯定である。これは、平凡である。作品のポリフォニーを読み解かなくてはならない。
 私が思い浮かべているのは、イワンが、無辜(むこ)の子どもが虐殺されるならば、それを認めている宗教は受け入れないと述べていることである。ここにあるのは、キリスト教的歴史観に対する批判である。すなわち、キリスト教があまねく世界に行き渡り、最後の審判で、悪魔を倒して、神の国が到来するというキリスト教史観への批判である。いわば、キリスト教的ロゴス中心主義に対する批判である。
 この点で、明らかに、イワンの批判は、キリスト教全体への批判に達しているのである。つまり、ロシア正教をも批判対象となっているのである。
 ならば、イワンの思想は何か。それは、無辜の子どもへの虐殺を認めない点に存している。それは、特異性の思想である。虐殺される、一人一人の無辜の子どもという特異性に対する思想である。正に、差異の思想である。ここにおいて、イワンの信仰とは、特異性・差異・個の信仰となっているのである。ここには、キリスト教を超脱した差異の宗教があると言えるだろう。脱キリスト教的信仰であり、それは、PS理論から見れば、Media Pointの信仰・宗教である。ドストエフスキーはロシア正教をも超えた、差異的普遍的宗教を無意識で捉えていたと考えられるのである。思うに、それは、ロシア正教の基盤にある東洋的宗教である。ベルジャーエフはドストエフスキーの宗教をディオニュソス的であると述べているが、正に、そうだろう。ディオニュソス的とは、プラトン的ということであり、東洋的ということなのである。

p.p.s. イワンのキリスト教史観への批判は、的確適切なる、ブッシュ/ネオコン的キリスト教原理主義/民主主義批判になるだろう。
 

参考1:
http://www.kt.rim.or.jp/~igeta/russian/dosato.html
http://www.coara.or.jp/~dost/5.htm


参考2:
ベルジャーエフ著『ドストエフスキーの世界観』(斎藤栄治訳。ベルジャーエフ著作集の第2巻。白水社1960年初版。)より。

ドストエフスキーの作品は極めて高度にディオニュソス的(=動的・激情的・生成的な混沌さを有しているさま。)である。ディオニュソス主義は悲劇を生む。なぜならばディオニュソス主義はただ高揚された人間性を示すからであり、こうした光景に接した後では、一切のものが色褪(あ)せたものに見える。それは別の宇宙、別の世界を訪ねたあとで、測定され、組織されたわれわれの世界、三次元のわれわれの空間に帰ってくるようなものである。ドストエフスキーを入念に読むことは、人生の一事件であって、精神はそこから火の洗礼を受ける。ドストエフスキーによって作られた宇宙に生活したひとは、まさに存在の未聞の形態の示現を見たのである。なぜならばドストエフスキーは何よりもあらゆる形態の沈滞と硬化に対立した偉大な精神の革命家であったから。

★ベルジャーエフ(1874~1948)氏は、ロシアの哲学者。
http://www.coara.or.jp/~dost/5-a-3.htm


参考3:
「本論文では、まずはロシア的理念を考える上で不可欠なロシア正教について述べる。第二章では、ロシア的理念を提唱する思想家のそれぞれのロシア的理念について述べる。本論文では、ドストエフスキー、ソロビヨフ、イリイーン、ベルジャーエフの4名を挙げる。第三章では、ドストエフスキーの作品を通して、ロシア的理念を考察することによりロシア的理念に対し、理解をより深める。ドストエフスキーは幼い頃から聖書に触れていた。彼が28歳の時シベリアへ流刑され、たった一冊の聖書のみが与えられ、擦りきれる程読んだ話は有名である。その後の作品にはキリスト教の場面が多く見られ、ドストエフスキーの作品を理解する為には、キリスト教の深い理解が必要とされる。また、『作家の日記』の中で、ロシア的理念について多くを語っていることから、ロシアの未来について真剣に考えていた作家の一人であると言えるであろう。」
『ロシア正教とロシア的理念-ドストエフスキーの作品を通して-』

http://wwwsvr5.obirin.ac.jp/graduateschool/thesis/1999/19741215.htm


参考4:
レフ・トルストイ
出典: フリー引用句集『ウィキクォート(Wikiquote)』
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[編集 ] レフ・トルストイ

Ле́в Никола́евич Толсто́й (Leo Nikolayevitch Tolstoy). ロシアの小説家、社会改革家、道徳哲学者。

[編集 ] 出典が明らかなもの

* すべての幸福 な家庭 は互いに似ている。不幸 な家庭はそれぞれの仕方で不幸である。
o 『アンナ・カレーニナ』冒頭。

* ひとつの、明確な、疑い得ない神 の宣言がある。これが啓示を通じて世界に知られる諸権利の法なのだ。
o 『アンナ・カレーニナ』第8部。

* 芸術 とは、人が己に起こった最高のまた最善の感情を他者に伝えることを目的とする人間の活動である。
o 『芸術とは何か』

[編集 ] 帰せられるもの

* 作家 がわれわれにその魂の内奥の働きを開かす程度にしたがってのみ、作家はわれわれにとって愛すべきものとなり、また必要なものとなる。

* すべての人は、それぞれ何をもっているかではなく、他の人々に愛をもっているかによって生きる。

* 誰もが世界を変革することを考える、だが誰も己を変えようとは考えない。

* 政府 とは、それ以外の人々に対して暴力を振るう人々の団体である。

* 政府は、自らが奴隷状態におき抑圧している臣民に対して、軍隊を必要とする。

* 歴史家 とは、誰も質問していない問いに答えようとする聾のようなものだ。

* 真実 だけでできていたなら、歴史はすばらしいものだったろうに。

* 我々のこの生活においては、もし人がなんの虚飾ももっていなかったら、生きるのに十分な理由は存在しない。

* 愛 は生命だ。私が理解するものすべてを、私はそれを愛するがゆえに理解する。

* 金銭 は新しい形の奴隷制度である。そして個人間のものではない、つまり古い主人と奴隷の間にはいかなる人間的関係もない、という点で、古い単純な奴隷制度から区別される。

* ニーチェ は愚かで常軌を逸している。

* 生きているものだけが善 をなす。

* 神 の国は君のうちに、またすべてのもののうちにある。

* 我々が知りうる唯一のことは、我々は何も知らないということである。そしてこれが人間の知恵 が飛翔しうる最高の高みなのだ。

* もっとも単純でもっとも短い倫理上の教訓は、他人から奉仕されるのは可能な限り最小限にし、可能な限り最大限他人に仕えろということだ。

* 人生 の唯一の意義は人類に仕えることにある。

* たったひとつだけ、重要な時候というものがある。現在だ。現在は時間のうちでもっとも重要だ、というのも、現在は我々が時間に力を及ぼすことのできる唯一の機会だからである。

* 敵 を取り除くためには、敵を愛さなければならない。

* 真理 は、金と同じく、その大きさによってではなく、どれだけ金ならぬものを洗い流したかによって購われる。

* 子羊を食らう前に泣く狼と、泣かない狼では、どちらがより酷いだろうか。


参考5:
ロシア正教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ロシア正教会 (-せいきょうかい、ロシア語 Русская Православная церковь)は、東方正教会 に属するキリスト教 教会 である。
コローメンスコエの、カザンの生神女聖堂とペレードヌイェ門(宮殿正門)
コローメンスコエ の、カザンの生神女 聖堂とペレードヌイェ門(宮殿正門)

正教会は一カ国に一つの教会組織を具える事が原則だが(ロシア正教会以外の例としてはギリシャ正教会 、ルーマニア正教会 など。もちろん例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無い。よって教義や全正教会の性格については東方正教会 の項を参照。

現在のロシア正教会の指導者はモスクワ総主教 (モスクワおよび全ロシアの総主教)。現在の総主教はアレクシー2世 (在位:1990年 - )である。

その管轄はロシア、ベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンをはじめとした旧ソ連邦諸国や、海外のロシア正教会系の教区に及んでいる。なお、ウクライナ正教会(UOC(MP)) は事実上の自治教会、日本ハリストス正教会 は自治教会となっている。

無神論を標榜する旧ソ連 邦から、一貫して弾圧を受け続け甚大な被害を蒙ったロシア正教会であるが、旧ソ連邦崩壊後には復活を遂げ、教勢を増している。

なお、本項では同じく東方正教会に属する日本ハリストス正教会の訳語を断り無く用いる場合がある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A


参考6:
東方正教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

東方正教会(とうほうせいきょうかい、英語 : Eastern Orthodox)は、キリスト教 の教派 のひとつ。単に正教会(Orthodox Church)とも言い、東方教会 と呼ばれる場合もある。また英語から入った慣例により、ギリシャ正教、ギリシャ正教会 と呼ぶこともある。

日本 には主にロシア正教 から伝道され、日本ハリストス正教会 に結実している。

いわゆる使徒継承教会 のひとつで、1世紀にまでさかのぼる歴史をもつ。「最も古いローマカトリック教会 (西方教会)から東方正教会が分離した」といった認識や言説は今日でも散見されるが、事実に大きく反する。ローマ教皇が東方教会に対して西方教会に対するのと同じような権限を行使し得た史実は無いからである。東方正教会もローマカトリックも自らを「使徒の教会」としているのであって、いずれかを「本家」とするような解釈は著しくローマカトリック側の見解に偏ったものであるといえよう。東西教会のいずれも自らを正統であると自認しており、かつ他方と起源を同じくすることを認めているのである。
東方正教会は8世紀から11世紀にかけて西方教会との差異を深め、11世紀頃に東西に分裂したとされるが、1054年の「ケルラリオスのシスマ 」と呼ばれる東西教会の相互破門は完全な分裂に帰結したとは言えず、その後も東西教会の交流は続いていた(後述参照)。より確定的な分裂の契機となったのは1204年の第四回十字軍 であり、これにより東方正教徒の反西方教会感情と、それによる東西教会の決別が決定的となった。

成立期において東地中海地方を主な基盤としたことから「東方正教会」の名があるが、今日では世界五大陸すべてに信徒が分布する。各地域の教会は、国をおもな単位として、信仰と精神性と伝統を共有し、相互に独立と自主性を認め合いつつ、温和な連携を保っている。諸教会の諸主教・諸首座主教のなかで、コンスタンティノポリス (英語名コンスタンティノープル、現在のイスタンブル )の総主教 が名誉上の首位であり、世界総主教(エキュメニカル総主教 )と呼ばれる。いわば、コンスタンティノポリス教会 を名誉上の首座として尊敬しつつ、各主教を核に連帯を保っている国別の正教会の総体が東方正教会であるといえる。

東方正教会に属する日本ハリストス正教会では、イエス・キリストを、ギリシャ語・ロシア語由来の読み方でイイスス・ハリストスと読むなど、用語上、日本の慣例的な表記と異なる点がある。以下、この記事では日本ハリストス正教会で使われている用語を断りなく用いる場合がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%96%B9%E6%AD%A3%E6%95%99%E4%BC%9A

2007年03月09日 (19:36)

近代主義の彼岸とイデア界:近代主義という大無明とトランス・モダンという新大妙光

九鬼周造の『偶然性の問題・文芸論』の「情緒の系図」にある和歌や九鬼の分析を読むと、現代の日本が何を喪失したのか、直観的にわかる。

先に、メディア・ポイントMPを近代主義は喪失したと述べたが、正に、そのことが直観されるのである。

「教養」の喪失と言ってもいいのだが。

教養とは、自我から自己・個への成就のための知であろう。

近代主義は、自我主義であり、自己・個を否定するのである。

現代日本の惨状の原因は、ここにあると言っても過言ではない。

PS理論的に言えば、メディア・ポイントの不連続性・超越性の様相、即ち、イデア界の否定が根因としてあるのである。

形而上学や宗教や芸術等は、このイデア様相を志向してきたのであるが、これが、戦後教育、唯物科学教育によって否定されてきたのである。

思えば、私も、完全に唯物科学教育を受けて、主観性の発展を自己否定してきたのである。

私は、ロマン主義と唯物科学の矛盾に、思えば、長い間、悩んできた。ロマン主義は、神秘主義やオカルティズムにも通じるものであるが、イギリス・ロマン主義は、啓蒙主義との関係が深いのである。

思えば、唯物科学の物質主義のフレームワークをどう突破するかが問題であったのである。近代合理主義は、物質的合理主義を前提としているから、それを超越する発想をあざ笑う(あざ笑った)のである。

そう、唯物科学の反動として、神秘主義やオカルティズムやニューエイジ・ニューサイエンスの動きがあったと言えよう。しかし、それらは、反動性を強くもっている。

ポスト・モダンは、確かに、近代を乗り越える処方箋をもたらすように見えた。しかしながら、それも、軽薄に終わった。

私は、三島由紀夫のファンではないが、彼の最高のものは、「文化防衛論」だと思っている。戦後日本への憂国の現われとして、「どこかで断絃の時があったのだ」という一言が鋭く私を刺し貫いた。

「断絃の時」なのである。これは、今や、メディア・ポイントの喪失ないし隠蔽として、理論化できるのである。

そして、本稿の冒頭にもなるのである。そして、この問題は、現代日本で先鋭化しているが、世界全体における問題でもあると言えよう。イデア界・叡知界の喪失なのである。

宗教的次元の喪失と言ってもいいのだが、宗教は、一般に非合理主義の態度を取るので、批判知性を喪失する傾向にあるので、強く主張はしない。宗教を哲学化するとイデア論になると思うのである。この宗教の知性・叡知・合理化が実に根本的に重要なのである。

PS理論は、これを為すものである。

九鬼周造の『偶然性の問題』は、形而上学と経験論とを併せ、重ねて、論じた卓抜した哲学書である。形而上学は、イデア論となるしかないと思うのである。

ここで、飛躍するが、思うに、問題は、ロゴス論にあったと思うのである。あるいは、理性論である。西洋哲学では、理性、知性、悟性、等の区別が実に曖昧である。

この混乱は、ロゴス論にあると思うのである。

ロゴスは、古代ギリシア哲学の用語である。それが、ヨハネの福音書の冒頭に使用されたのである。「初めに、ロゴスありき」である。これを、近代西欧は、「初めに、言葉ありき」と誤訳した。

確かに、ロゴスと言葉は、重なる側面もあるが、一致しない。

そう、ロゴスとは、大乗仏教の法(ダルマ)とほぼ等しいと思うのである。

西洋哲学は、理性を比率等として考えたのである。ratioである。

そう、理とは何か、である。

理はロゴスや法と等しいであろう。

そして、直観では、これは、叡知と等しいのである。

すべては、形而上学的智である。

これを、西洋哲学は、言語化していくのである。

ロゴス⇒言語の方法である。

ソクラテス/プラトンで言えば、対話術(これが、「弁証法」の原義である)である。ここに、西洋哲学、西洋叡知学のエッセンスがあると言えよう。

無知の知、あるいは、クザーヌスの「知性ある無知」である。

そう、プラトンとアリストテレスの分裂にすべての元凶があると言えよう。プラトンは、形而上学的現象学を説いたのであり、考えれば、現象学の始祖とも言えるのである。そして、アリストテレスは、近代科学の始祖とも言えよう。

この二元論に現代西洋文明の超危機の根因があると言えよう。

いったい何が問題なのか。

これは中世の普遍論争に見ることができるが、私見では、一般性と普遍性の取り違いが問題なのである。

これは実に単純なことなので、これを錯誤した人類史とは何か、と思わざるを得ない。

即ち、一般性は言語形式であり、普遍性は言語形式を超えた形而上学的真理である。この両者を西洋哲学は、ロゴスや理性や知性や悟性と呼んできたのである。これが大混乱の起源であると思う。

近代主義、近代合理主義、近代的自我の「狂気」の根因がここにあるのである。

結局、個物・個体のhaecceity(個体原理)に普遍性があるのであり、それが、形而上学的普遍性に通じるのである。これは、一見逆説的であるが、そうなのである。

九鬼哲学では、偶然性である。

西洋哲学の観念論は、一般性=言語形式=観念=ロゴス=理性と捉えて、形而上学的叡知を完全に外したのである。カントの純粋理性批判は、この理性と形而上学的叡知との混濁である。

そして、この頂点的帰結がヘーゲル哲学である。

そして、これが、マルクス主義やファシズム=国家社会主義を生んだと言える。現代日本はこの最大・最悪の帰結である。

この一般性と普遍性との混同であるが、結局、個物・個体と一般性が結合(野合)してしまったのである。これが、近代合理主義を生んだのである。

そう、この原因は、アリストテレス哲学にあると言えよう。個物・個体の形相を、イデア界ではなくて、現象・物質的経験界に求めたからである。

個物・個体の形相は、イデア界にあると見るが正しいのである。そして、このイデア界的形相が普遍性なのである。

つまり、内在的超越的形相=イデアが普遍性なのであり、一般性は、単に言語形式に過ぎないのである。

ここで、東洋について言うと、大乗仏教という真に偉大な叡知・思想があったため、知性において形而上学性を保持したのである。大大乗仏教である。

つまり、西洋哲学的見地から言うと、東洋哲学は、イデア論を基礎的に保持しているのである。ということは、逆に言えば、プラトン哲学の東洋性なのである。プラトン哲学は東洋哲学と言うべきなのである。対話術も、東洋性ではないのか。

とまれ、大乗仏教哲学をもつ東洋思想は、初めから、形而上学的知性、叡知学であったのである。

そして、この帰結が鈴木大拙の即非の論理であり、九鬼周造の偶然性の論理であると言えるだろう。(西田哲学も、一つの帰結であるが、彼の言語表現に問題はあるだろう。思うに、どうも、連続性と不連続性との混乱があるように思えるのである。)

日本は、東洋哲学をもち、その上で、西洋哲学を移入し、その結晶が両者の思想・哲学であり、世界に誇るべき成果である。

しかし、日本は、西洋コンプレックスのために、正しい自己評価ができないできてしまったのである。

物質文明へのコンプレックスである。

確かに、世界は、地球は、西洋近代物質主義暴力・狂気文明に侵略されたのである。

そして、その大惨状が今も続いているのである。人類終末期を迎えているのである。

さて、問題は、日本である。なぜ、自己を見失ったのか。持論では、排仏毀釈にある。国家神道にある。ここで、日本は、思想的バランスを喪失したのである。

国学は、キリスト教の影響を受けているのである。それは、一神教的志向をもっているのである。これが、他者を喪失させたと思われるのである。

では、なぜ、一神教は他者を喪失させるのか。

一神教は、結局、自我を肯定してしまうからである。自我と唯一神とを一体化させてしまうのである。確かに、本来、一神教の神は形而上学的次元、イデア界的次元に存している。そして、この次元は、自我からは超越した次元である。

しかし、いかに、自我から超越した次元とは言え、唯一神の同一性は、自我の同一性と連続化してしまうのである。凡人・愚者の有り様である。

結局、自我即唯一神となるのである。これが、狂気なのである。

これが、近代的自我である。

自我が普遍性となれば、当然、他者はなくなるのである。

これが、狂気・暴力を生むのである。

確かに、キリスト教等、一神教は、本来的には、優れた宗教であるが、しかし、自我と結びやすい宗教であることは否定できないだろう。

「主」という主語が、他者である述語を支配してしまうのである。

「主」という超越的同一性が、他者・差異を否定しまうのである。

PS理論は、「主」の超越的同一性を否定・無化するものである。

その代わりに、イデアである差異即非様相を置くものである。ここには、差異的同一性があるのであり、自己と他者との共振シナジー様相があるのである。

そう、一神教的「主」が、ここでは、解体して、他者との対話を永遠継続しているのである。

そうすると、一神教とは何か、ということになるだろう。

これまで私が述べてきたことは、それは、自我に傾斜しているということである。あるいは、父権主義であるということである。

「主」・唯一神の「我」とは何か。それは、自我であるのか。「復讐するは我にあり」。もし、イデアが神ならば、それは、「我」になるだろうか。

それは、元知と元身体との即非関係である。あるいは、元自己と元他者との即非関係である。そのイデア・叡知を「我」と言うのだろうか。それは、「我」、「自我」ではありえないだろう。それは、少なくとも、元個、元自己である。あるいは、元自他である。元・我ー汝である。根源的複数性である。

だから、やはり、一神教は自我に傾斜している邪教ではないだろうか。

2006年11月02日 (17:54)

写真と精神:精神的視覚と「写実」:同一性主義批判と新東洋文明曙光(はてなダイアリーから)

先に、映画 と精神 について、簡単に言及したので、ここで、本件について簡単に触れたい。もっとも、これは、芸術 と精神 ないし感覚と精神 の問題として一般化できるが、一般論 は、ここでは置いといて、写真 と精神 に限定したい。(そう、これは、デザイン と精神 、等々と展開するだろう。)

 映画 については、ベラ・バラージュの古典 の『視覚的人間 』があるが、

http://www.amazon.co.jp/gp/product/4003355717/sr=8-1/qid=1162439021/ref=sr_1_1/249-9325302-2790723?ie=UTF8&s=books

精神 の表現技術 の方にウェイトが置かれているだろう。(この書は、思うに、映画 の一種モダニズム的理論 だろう。)

 映画 の精神 表現については、精神 的視覚性が映画監督 に必須の資質だと思っている。つまり、美術 的資質である。それに物語 の資質等が加わって、映画芸術 が可能になるだろう。小津安二郎 の映画 (少し過大評価 ではないかと思われるが)は、やはり、美術 的側面というか、絵画的側面が強いだろう。

 では、本件の写真 と精神 のテーマ については、どうだろうか。これも、直観では、精神 的視覚性が基礎だと思うのである。つまり、やはり、美術 的資質である。(映画 や写真 は美術 芸術 に入るものであるし、漫画やアニメもそうである。しかし、精神 表現がなくてはならない。)

 精神 的視覚とは、何か、ということになる。これは、「イデア 」的視覚であるし、ヴィジョン的視覚とも言えるだろう。(神秘的に言えば、透視 に近いのであるが、「霊視」になると、これは、逆の二元 論となり、病理的倒錯である。)これを、プラトニック・シナジー理論 の視点から考察 すると、これは、とりもなおさず、不連続的差異 の即非共立的視覚ということではないだろうか。精緻に言えば、不連続的差異 即非共立的「同一性」志向視覚ではないだろうか。これを図式化しよう。

差異1☯差異2☯・・・☯差異n   (差異即非界)

において、☯→=(即非→同一性)が、プラスの志向性として生起するし、同時に、☯→dd (discontinuous difference:即非→不連続的差異 )が、マイナス の志向性として生起すると考えられる。

 精神 的視覚、イデア 的視覚とは、☯→=(即非→同一性)における→=(→同一性)に存するのではないだろうか。光の志向性と言ってもいいだろう(それに対して、→dd は、闇の志向性と呼べるのではないだろうか)。換言すると、精神 的視覚=光の志向性とは、即非共立ヴィジョンをもった「同一性」視覚ということになろう。これは、不思議 なヴィジョンではあるが、単純化すると二重のヴィジョンであるが、正確には、多重多層複合融合的ヴィジョンである。この精神 的視覚能力が、美術 的資質・才能 ・天才である。これで、すでに、写真 と精神 のテーマ は、解決しただろう。結局、現象に対して、精神 的視覚を向けて、撮影したものが写真 芸術 である。(後、闇の志向性と写真 の問題があるが、これは、課題としておこう。)

 さて、最後に、「同一性」の問題を考えたい。先に、連続 的同一性と不連続 的同一性(特異性的同一性)を区別した(これは、量的同一性と質的同一性と言い換えることもできるだろう)。しかし、同一性という言葉 は、差異の現象に対して、直に使用すると落ち着きが悪いと感じられるのである。

 →同一性と言えば問題がないのである。とまれ、精緻・厳格に検討しよう。連続 的同一性とは、差異=微分 であり、虚構に過ぎない。つまり、真正な事象には、存在 しない、ヴァーチャル なものである。では、実際の→同一性を分析的にみてみよう。

 零度差異共振 シナジーによって、諸・不連続的差異 が連結し、連続 化し、同一性となる。ここで、作業仮説であるが、諸・不連続的差異 が、それぞれ、同一性になるとしよう。つまり、差異1、差異2,・・・差異nが、すべて、同一性になるということである。つまり、差異k=同一性(連続 的同一性)【差異k→同一性が正確である】である。しかし、この多数の同一性・連続 的同一性の集合連続 体自身が、一つの連続 的同一性体を形成していると考えられるのである。ということで、差異k→同一性の連続 的集合体として、連続 的同一性体を考えることができる。(これから、→を連続 的同一性志向性を意味 する記号としよう。)差異k→同一性→同一性体となる。

 私が、これまで、連続 的同一性と呼んだものは、=同一性体(同一性個体)のことである。では、不連続 的同一性とは何かとなると、当然、→同一性体(同一性個体)のことである。簡単に言えば、→である。つまり、志向性には、差異即非共立性・差異共振 シナジー性があるということである。メディア 界があるということである。始点が存しているということである。根源が存しているということである。

 ということで、同一性の問題は、→(志向性)があるか、否かの問題なのである。近代主義とは、この→を否定・無化した観念体系であると言えるのである。結局、連続 ・同一性主義ないし連続 ・同一性中心主義である。これで、同一性の問題は解決したとしよう。

 では、→を否定・無化した近代主義は、この否定によって、どういう事象を引き起こすのかという原理的問題がある。実際的結果は、超大惨事 ・破局・悲劇・悪夢 であったことは、否定できない。理論 的に考察 しよう。→を否定・無化することは、自然 の根源的力=エネル ゲイ アを否定することになるのである。すると、当然、根元的力がブロック されるので、反動 的力が作用するのである。反作用である。この反動 的力が暴力 なのである。社会学 的に言えば、ホッブズ の万人の万人に対する戦争 である。あるいは、狂気である。パラノイア や人格障害 のような精神 病理・狂気である。そして、近代資本主義 の攻撃力である。つまり、資本 を連続 ・同一性化したために、資本 のもつ差異的エネル ゲイ アを否定しているので、暴力 ・狂気・非合理主義的な連続 ・同一性主義的資本主義 が生まれたのである。西欧・米資本主義 とは、このようなものであり、植民地主義 、帝国主義 、冷戦 、等々を生んだのである。結局、近代という時代は、人類史において、最悪の時代として記録されるのは、確実である。《悪魔 》が支配したのであるから。

 とまれ、今や、大局的に見ると、否定・無化された→が復活し、ポスト ・西欧近代のエポック 、即ち、新東洋文明の黎明期 を迎えているのである。反動 であったフランス・ポストモダン もとっくに終焉して、今や、真のポスト ・西欧近代、ポスト ・ウェスタン ・モダン である。ネオ ・プロト モダン である。ネオ ・ルネサンス である。東洋ルネサンス である。

 しかしながら、現代日本は、世界でいちばん、近代主義に汚染されて、超倒錯の社会 になっているのである。近代狂人 たちの社会 なのである。近代狂気から覚醒しないといけない。

f:id:sophiologist:20061102172928j:image

http://www.zion-jpn.or.jp/pics/k02.jpg

 狂気近代日本からのエクソダス である。今や、新東洋文明という約束の地が見えたのである。ピスガ山越えである。そう、ヘルダーリン 、キルケゴール 、メルヴィル 、ニーチェ 、フッサール 、鈴木 大拙 、西田幾多郎 、ウスペンス キー、D.H.ロレンス 、折口信夫 、多くの天才たちが、ピスガ山に達して、新たな約束の地である新東洋文明を指し示していたのである。

Overcome Continuous Identity Modern!

Practice and Realize Exodus

from the Most Insane Modern to New Orient !


http://d.hatena.ne.jp/sophiologist/20061103

から

2006年11月02日 (02:19)

連続的差異と同一性:近代の終焉と新東洋文明

今は、簡単に触れるに留めるが、私が問題にしたいのは、先に述べた不連続的同一性と連続的同一性の問題である。領域で言えば、メディア/現象境界の事象である。これは、正確には、不連続的差異論の問題であるが。同一性の問題に関して、重要な問題なので、精緻に考察したい。
 端的に言えば、差異=微分の連続体・積分に基づく同一性と不連続的差異の同一性(特異性の同一性)の問題である。もっとも、これは、不連続的差異論の成立の基礎になった問題で済んでいるものではあるが、近代科学の問題に関係するので、ここで取りあげるのである。ここで、図式化すれば、☯→=が、メディア界から現象界への図式図である。Kaisetsu氏の自己認識方程式を使用すれば、(i)・(-i) ⇒1である(この記号の方が、内在超越性ないし超越次元性を提示できるので、的確である。もっとも、Kaisetsu氏は、一人称と限定して、厳密化しているが。)。差異=微分ないし連続的差異という虚構・仮構は、☯ないし(i)・(-i)という事象を認識せずに、連続同一性とその集合を意味するのである。連続同一性を、ci(continuous identity)とすれば、ciの連続・集合体として根源界があることになるのである。ci, ci, ci, ・・・ci が、連続同一性集合体である。そして、これを積分したものが現象的同一性である。∫ciである。ここでは、連続同一性のciが共通単位となったいるのである。
 しかし、☯ないし(i)・(-i)という事象においては、当然、ciは存しないのであり、差異1☯差異2☯・・・☯差異n(思うに、差異1(i)・(-i)差異2(i)・(-i)・・・(i)・(-i)差異nと表現できるのではないか)が存在しているのであり、ここにあるのは、個々別々の不連続的差異の極性共立即ち即非である。どこにも、ciは存しないのである。ただし、即非的同一性が形成されるだろう。→=ないし⇒1である。これを私は、先に不連続的同一性と呼んだのである、ciが連続的同一性であるのに対して。
 フッサール現象学にも通じるが、近代科学は、ciをベースにして、それを数量形式=「物質」形式化して成立しているのであり、☯ないし(i)・(-i)という事象、あるいは、志向性を認識していず、無視している結果になっているのである。結局、差異=微分=連続的同一性=「物質」形式が、近代科学、唯物科学の基礎・基盤・大前提なのである。
 問題は同一性である。近代科学の同一性(ヘーゲルの観念形式)だと、個物・個体は、一般的個体になり、特異性を喪失しているのである(参考:ヘーゲル哲学:個別性は一般性である。)。ここでは、唯名論的個物・個体が、実念論的観念と一致するのである。これは、まったくの画一性、機械的同一性である。この連続的同一性が、近代的現代を支配しているのである。資本主義も、連続的同一性資本主義なのである(有り体に言えば、金融資本主義である)。そして、これを、フッサールは晩年の『ヨーロッパ諸学(諸科学)の危機と超越論的現象学』で説明していると考えられるのである。
 私が言いたいのは、事象は、不連続的同一性、特異性的同一性であるのに、それを、連続的同一性であると誤解していることである。これは、フッサールの『危機』を不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論の視点から言い換えたものである。つまり、現象という事象としての「もの」は、不連続的同一性=特異性的同一性であるにもかかわらず、近代的人間は、それを、連続的同一性として誤謬して見ているということである。つまり、近代科学幻想で、現象を見ているのであり、真の現象事象を看過されているということなのである。生活世界は、この真の現象事象を経験したものにほかならないだろう。近代主義は、連続的同一性幻想・妄想・狂信なのである。
 今や、近代は、完全に、終焉したのである。これが、ポスト西欧近代主義ないしポスト近代西欧主義である。では、いったい何が、ここで、出現したのだろうか。コスモス、プラトニック・シナジー界、メディア界、「玄牝」・太極(陰陽太陽)、等が出現しているのである。新たに、古代、東洋、アジア、母権制が復活しているのである。新しい古代ー東洋ーアジアー母権制である。新しいコスモス、新しいガイアである。新しい多神教である。新しいイシス・オシリスである。私は、
新東洋文明と呼びたい。
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