2008年11月12日 (00:07)

イデアと物質の関係について:今朝見た夢から:イデア的美への郷愁としての「エロース」

一般に人は、寝てるとき見る夢をどう判断されるのだろうか。私はその夢には、大きな意味を与える。というか、夢のヴィジョンが私の心にインパクトを与えるので、夢を真面目に受けとるのである。
 これまで見た夢でいちばん不思議な夢の一つは、不連続的差異論が生まれる数日前に見た夢である。美しい娘が生まれた夢を見たのである。しかし、赤ん坊にしては、頭が大き過ぎたのである。とまれ、私は、それは、ソフィア(叡知)の誕生の夢であると今でも考えている。
 今朝見た夢の核心を言うと、私は登山をしていたが、ある場所で、頂上から降りてきた人たちに出会ったのである。そう、女性(たち)に出会ったのである。透明に輝く美しい眼をした女性(たち)であった。私は彼女を見て、深い感動をおぼえた。私はこれこそ、私が求めていたものだと、涙を流して、感動をおぼえたのである。
 夢の最初の部分は端折るが、私は、「頂上」から降りてきた、澄明な眼をした女性は、イデア界の女性だと考えたのである。ベートーヴェンで言えば、「歓びの歌」のエリジウムの娘たち(又は女神)に当たるのではないだろうか。
 私は、イデア界の美を確信したのである。結局、イデアと物質は不連続なのである。これが私が今朝得た確信である。イデアの美と感覚の美は不連続なのである。もっとも、この点は微妙である。
 これまで、私は、イデアと物質、差異と同一性の即非性について述べてきたが、これだけでは、両者の関係がまだ不明確なのである。つまり、主従関係が不明確なのである。即非の即の部分で、イデアと物質が等価となるのであるが、「非」の側面での関係が不明確なのである。これは、端的に、イデアが主であり、物質は従ということを意味するのである。
 思うに、これでも、夢のヴィジョンの意味を解明していない。主従を超えていると思う。イデアこそ本体、実体であり、物質は仮の宿りであるということである。ここにおいて、プラトン哲学が全面的に肯定されるのである。
 物質とは、イデアの影像に過ぎないと言えば、明快であろう。言い換えると、正にイデア論そのものであり、現象はイデアの影に過ぎないということである。
 ここで私はプラトンやシュタイナーやインド哲学と一致したことになるのである。
 物質的欲望は、いわば、倒錯なのである。美とは何か。それは、イデアの美にほかならない。性愛とは、「エロース」の影に過ぎないのである。「エロース」とは、イデア的美への郷愁である。

2008年08月04日 (22:53)

PS理論は形而上学ではない:トランス形而上学としての即非モード論:トランス・モダン超脱構築主義

PS理論は、一見、新しい形而上学に見える。超越的差異形而上学と呼ばれるかもしれない。しかしながら、Media Pointのコンセプトから見ると、形而上学ではないのである。何故なら、超越性(差異)と同一性が即非様相で関係しているからである。もし、新形而上学ならば、超越性と同一性が切断されていて、前者が優位、後者が劣位の二項対立になるだろう。しかし、前者と後者は即非モードで関係しているのである。この絶妙な関係があるので、トランス形而上学と言える。

p.s. 以下で、Media Pointにおける即非的超構築のことに言及した。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10122829836.html
 結局、即非的超構築主義とは、同一性は形成するが、同一性主義になろうとすると、超越的差異が介在するので、脱同一性主義となり、脱構築(脱構造化)されるのである。だから、ポスト構造主義・トランス構造主義と言えるだろう。
 だから、端的に言えば、同一性と差異との即非様態がそこには出現しているのである。決定的ポイントは、同一性主義が脱構築されていることである。これはいくら強調しても強調しすぎることはない。以前にも指摘したが、同一性主義と同一性は決定的にことなるのである。
 とまれ、Media Pointにおける同一性と差異との即非様態(即非Mode)であるが、この、新たに創造される即非様態を、即非的超構築と暫定的に呼んだわけであるが、確かに、きわめて特異な構築であると言えよう。これは、形而上学的発想に囚われていると、理解できない事象であると考えられるのである。
 一般に構築とは同一性的構築・同一性システムを捉えられているが、この即非様態「構築」とは、それとはまったく異質な「システム」である。同一性主義でもないし、差異主義でもないのである。同一性と差異との即非共振(即非共鳴)様態の発現があるのである。
 これは、まったく新しい事象と言わなくてはならない。もっとも、それは、西洋文明中心にした場合である。日本文化、東洋文化は、根源的には、即非様態文化であると考えられる。しかし、それは、原始的な即非様態文化であり、近代化によって、古くさくなってしまったとは言えよう。しかしながら、今日、トランス・モダンとしての新しい即非共振様態の創造が出現したと考えられるのである。
 そう、古い即非様態とは、近代化されて、連続性を帯びてしまったのと思うのである。そこで、政治経済的には、不正・腐敗等が蔓延ると考えられるのである。
 
p.p.s. 即非的超構築主義とは、トランス・モダン超構築主義である。英語にすれば、Trans-Modern Trans-Reconstructionism となろう。そう、超構築主義はTrans-Reconstructionism ないしは、Trans-Constructionism となろう。【p.s. 後で、超脱構築主義Trans-deconstructionismの方が的確であると考えた。】

3p.s. 最近翻訳がちくま学芸文庫でも見られる神秘学者のルドルフ・シュタイナーであるが、確かに、彼の「思想」をオカルト主義と呼ぶことは正しいのであるが、そうラベル貼りをすると、オカルト主義ではない彼の思想の「哲学」性が排除されてしまうと考えられる。
 シュタイナーの「哲学」の重要性は、トランス・モダン的志向性を明確にもっていることである。近代的世界観=物質主義が全面的に破壊的になり、精神が喪失される事態が発現したが、その近代主義の危機を乗り越えるためには、単に、精神・霊性の世界へと赴くのではなく、近代主義的知性・合理性(近代合理性)を形成した上で、精神世界へと赴かなくてはならないことを述べているのである。
 近代を単に否定しているのではなく、近代を包摂して、脱近代主義へと志向しているのである。これは、トランス・モダン超構築主義と、ある意味で通じる発想である。トランス・モダン(簡略化して)は、モダンを単に否定するのではなく、近代主義の近代性を包摂して、より高次の差異の世界へと転換することを目ざしているのである。
 先にも述べたが、シュタイナーの精神思想は、そのままを無批判に受容するのではなく、知的に、哲学的に、変換して読むべきであると思う。それが、建設的であるだろう。


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コメント

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■無題

ご存じの通り、哲学も人文科学のうちの一つになるわけですが、特に彼のような輩を相手にする場合、一次資料を用いて仮説を証明していくべきです。
解説本は論外、本来なら翻訳すら訳者の解釈に委ねることになってしまうので忌避したいところです。
そういった意味でいうなら、彼が法曹家で博士号を持ち、高額所得者であるというのも証明されているわけではないのです。
ヤフオクの安いパソコンに飛びつくなど、あまり高い年収があるとも思えないのですけどね。
通りすがり 2008-08-03 06:13:38 [コメント記入欄を表示]

■どうも貴重なご意見ありがとうございます。

おっしゃる通りだと思います。
しかし、論破するということに集中するのは、不毛だと思っています。
 これまでの「格闘」でおわかりのように、ほとんど不毛でした。(もっとも、超構築主義という発想が生まれたのは生産的だったと思います。)
 そうですね。彼のようなタイプは、結局、近代的知識人といちおう言えるかと思いますが、今日では、反動化しているのですね。
 Kaisetsu氏との共著を既に考えています。しかし、確かに、原著に当たって、書かなければならず、まだ、いつになるのか予定が立っていません。
 少なくともカント、フッサール、デリダ、ドゥルーズの主著を原著で当たる必要があります。
 ポイントはやはり、フッサールとデリダだと思っています。デリダがフッサール研究で読み落としたものに、トランス・モダン性があると思います。
明月庵 2008-08-04 00:31:07 [コメント記入欄を表示]

■独善性と近代主義

私は、だいぶ前から近代主義は狂気であると言ってきました。もっとも、これは正しくは、後期近代、ないしは末期近代ということにあてはまります。そして、この末期近代主義「精神病」が知識人に蔓延していると感じています。
 このタイプは自分は正しく、他者は批判の対象という独善主義でありますので、
始末に困る次第であります。
 PS理論では、-iにトランス・モダンの意味があると思っていますが、それを、末期近代主義者は否定しています。
 この末期近代主義のパラノイアについては、すぐ論じたいと思っています。
 
明月庵 2008-08-04 01:00:00 [コメント記入欄を表示]

■虚栄心と劣等感

彼は明らかに虚栄心の塊ですね。何かにコンプレックスをもっています。学歴コンプレクスがすぐ思い浮かびます。
 彼に少し似たタイプは周囲にいます。その人の場合、明らかに父親コンプレックスです。父親が有名な学者でした。思うに、彼も、その面があるような感じがします。
父親か祖父かわかりませんが(確か、祖父が学者だと思います)、立派な親か祖父をもって、コンプレックスを感じているような感じがあります。自分のほんとうの人生を生きられない不幸なタイプですね。そう、端的に、劣等感が根源にあると思います。それが裏返しで、優越感志向になっているんだと思います。
明月庵 2008-08-04 01:21:48 [コメント記入欄を表示]

■妄想

末期近代主義的知識人は、パラノイアであり、妄想家です。
だから、法曹家、博士号、云々は確かに怪しい感じあります。
 なにか、ブログで、自分を相当、偽装している可能性はあります。
 英語を最近使っていましたが、初歩的な間違いがありました。それを見ると胡散臭い面があります。
 彼の言う通りなら、日本の哲学界は悲惨ですね。
明月庵 2008-08-04 01:41:31 [コメント記入欄を表示]

■生真面目、糞真面目

彼のこれには辟易します。辟易が彼に対する反応のすべてを物語ると思います。
反論する気がなくなります。
このようなタイプが日本の知識人にはあります。いったいこれはどこに原因があるのでしょうか。
 私の勘では、明治時代の官制的封建主義に根因があるように感じています。
 つまり、絶対主義です。政治的二項対立です。
 
明月庵 2008-08-04 02:16:44 [コメント記入欄を表示]

■思考力

どうも独り言のように書きますが、彼のようなタイプが哲学者ならば、まったく自分で考えることができなくなっていますね。
 これはおそろしいことです。自分で考える力をなくした字義通りに則る、機械人間ですね。
明月庵 2008-08-04 07:03:20 [コメント記入欄を表示]

■感性の抑圧

どうして、彼のようなへ理屈屋が生まれるのかと思ったら、結局、感性を言語観念で抑圧しているからだと思いました。
これは、結局、同一性主義です。感性喪失が、同一性主義狂気を生んでいるということだと思います。
明月庵 2008-08-04 07:16:12 [コメント記入欄を表示]

■おはようございます

独り言でいいんですよ。
また、あとで来ます。
通りすがり 2008-08-04 07:25:50 [コメント記入欄を表示]

■こんばんは。

通りすがりからトンビに改名します。

さて早速なのですが。

>私の勘では、明治時代の官制的封建主義に根因があるように感じています。
>つまり、絶対主義です。政治的二項対立です。

その勘を裏付けるために正確な資料を用意して書いたほうがよいと思います。
明治政府の絶対主義は大日本帝国憲法発布前の政治制度であって、それ以降は立憲君主制です。

官制的封建主義・・・これは造語として意味がつながりません。
また、封建主義という言葉自体が、あまり的確なものとは言えないと思います。
いえ、気分は分かります。

政治的二項対立・・・政治の二項対立でしょうか?
何と何が対立していて、そしてその対立の何が日本の知識人に影響を及ぼしたかを、仮設して述べ、それを証明していくほうがわかりやすいと思います。

どうも、注文ばかりですいません。
でも、知を愛するという哲学の間口を広げていってもらいたいのです。
論理学だけでは殺伐としてしまいますからね。
トンビ 2008-08-04 21:07:37 [コメント記入欄を表示]

■お返事します:1

トンビ様

「官制的封建主義云々」の文はざっと書いたものですが、
以下、思いつくまま答えてみます。

*************

>私の勘では、明治時代の官制的封建主義に根因があるように感じています。
>つまり、絶対主義です。政治的二項対立です。

その勘を裏付けるために正確な資料を用意して書いたほうがよいと思います。
明治政府の絶対主義は大日本帝国憲法発布前の政治制度であって、それ以降は立憲君主制です。

renshiの回答:確かに、おっしゃる通りだと思います。
私の言いたいのは、君主制の部分です。

*************

官制的封建主義・・・これは造語として意味がつながりません。
また、封建主義という言葉自体が、あまり的確なものとは言えないと思います。
いえ、気分は分かります。

renshiの回答:これは、立憲君主制と言うべきでしょうが、
私の言いたいのは、君主制が継続する封建的垂直性が、国家権力と重なっている事態です。

*************

政治的二項対立・・・政治の二項対立でしょうか?
何と何が対立していて、そしてその対立の何が日本の知識人に影響を及ぼしたかを、仮設して述べ、それを証明していくほうがわかりやすいと思います。

renshiの回答
私には、日本の近代知識人のイメージは、父権主義のそれです。あるいは、封建主義のそれです。明治君主制のもっていたヒエラルキーを体現しているイメージがあります。
これは、正に、二項対立、官主民従であり、これを政治的二項対立と呼んだと思います。言い換えれば、官が正義であり、民が悪ということでもあります。
 
明月庵 2008-08-04 22:36:01 [コメント記入欄を表示]

■お返事します:2

ここで、話がそれますが、まだよく考えていませんが、「封建主義」ないしは父権主義の同一性主義と近代主義の同一性主義がイメージでは一致します。しかし、「封建主義」の場合はなんらかの超越性が原点にありますが、近代主義の場合はそれがなくなり、自己・自我が原点になります。しかし、形式はそれほど違わないような感じがしています。
 さて、知識人への影響ですが、この官主民従のヒエラルキー=二項対立が、構造として、近代日本の知識人に植え付けられているのではないかと思うのです。言い換えると、官主民従のイデオロギーが無意識のうちにあるので、知識人は自分は優位にあり、他の人間は劣位にあると感じるのではないでしょうか。
 彼の場合、極端なケースだとは思いますが。
 以上ざっと述べました。今はここで留めます。


どうも、注文ばかりですいません。
でも、知を愛するという哲学の間口を広げていってもらいたいのです。
論理学だけでは殺伐としてしまいますからね。

renshiの回答:いいえ、コメントは、礼節があるものなら、歓迎します。
明月庵 2008-08-04 22:36:32 [コメント記入欄を表示]

2008年07月24日 (18:15)

ナルシシズムと同一性の関係:陽化による自己同一性主義=二項対立の発生と一神教的西洋形而上学

今は簡単に考察するだけであるが(p.s. 詳論となった)、今日の多くの日本人の陥っている自我意識であるが、これは、ナルシシズムが基盤にあると思われるのであり、この力学を明確する必要があると思いついたのである。
 これまで、何度も考察してきたが、今一つ決定力の欠ける考察と言わざるを得ない。そういうことで、精緻に考察を試みたい。
 同一性主義の自我にある自己中心主義エネルギーはどこから来るのか。そこには、尊大な興奮があり、侮蔑・軽蔑・嘲笑・愚弄・見下し・嫌悪・憎悪等があり、高圧・慢心・高慢・傲慢さ等々がある。また、怒りや憤激がある。衝動的であり、独断・専断・独善的である。いわば、病的な同一性心性なのである。
 当然、理論的には、二項対立がある。自我が優越し、他者が劣等である。この自我優位/他者劣位の二項対立性とは、これまで、検討してきたように、同一性による差異(他者)の否定に存すると言えよう。
 端的に、自我による他者の「見下し」の原因は何か。根本から考えると、優越感以前には、劣等感があると考えられるのである。自我は、同一性主義となる以前は、差異に対して、劣等感を感じていたはずである。劣等感ではなくても、少なくとも、「自信喪失」である。
 ここで少し迂回してみよう。女神の神話においては、当然、中心・支配者は女神である。その脇侍のように、女神の子の男性(双子)がいる。【参照:釈迦三尊仏の様式】
 そして、父権神話とは、その補佐であった女神の子が独立することに存する。英雄神話の半面はこれと重なる。
 この女神の子・男性の独立が、同一性形成を導くと考えられる。問題は、何故、女神の支配から独立する必要があるのかである。
 女神の支配とは、原始的な差異共振様相を意味すると私は考えている。だから、原始的差異共振様相から独立する女神の子=「英雄」が存するということである。
 何故、独立するのかと言えば、それは、差異・他者である差異共振様相から分離する要請があるからだろう。つまり、自己同一性(=自我)を形成する要請である。
 そして、いったい、この要請とは何なのかということである。この問題については、既に繰り返し繰り返し検討した。しかし、そこでは、否定的な評価があった。差異共振性における悲・苦が存するので、それを否定・抑圧・排除して、自己同一性(自我)の優位を構築するということことであった。
 しかし、Media Pointにおける太極を考えると、そこには、自然の転変する力学が考えられる。陽極へと志向する力学が生ずるときが考えられる。このときは、当然、陰極を否定する力学となると考えられる。
 PS理論から言えば、陰極-iを否定して、陽極+iへと志向する力学である。暫定的に、陽化と呼んでおこう。当然、同一性化である。理論的には、(+i)*〔-(-i)〕⇒-1と考えられる。平明に言えば、+iの自乗、(+i)^2=-1である。
 しかし、このように考えると、構造主義的である。主観が入らないのである。思うに、自然力学の一環として、構造的に陽化があることは認める必要があるのではないだろうか。
 問題は、陽化が発生して、同一性意識(自我意識、自己同一性意識)が形成されても、否定されたとは言え、陰極-i自体は現存しているのであるから、陰極のもつ「力」ないしは「エネルギー」は隠然として存していると言わなくてはならない。つまり、陽化によって、同一性自己(自我)が形成されても、いわば、無意識においては、陰極-i、差異、他者が存しているのであり、それが、同一性自己(自我)と対立していると考えられるのである。
 即ち、精神現象(正確に言えば、精神身体現象である)において、同一性自己と差異他者の対立が厳然として存在しているということであり、矛盾・葛藤・齟齬の様態にあるということになる。永遠の対立である。
 しかしながら、陽化においては、同一性志向性が優位にあるので、当然、陰極である差異他者は劣位におかれると端的明快に言えるのではないだろうか。これが二項対立の根因・起因であると考えられるのである。だから、同一性自己は他者差異の否定に傾斜する力学をもつのである。ここに、上記の否定感情が入ると言えるだろう。これで、一つの問題、即ち、二項対立の発生原因は解明できたとしよう。【p.s. 一点注意すべきことは、本来、+iと-iは共振様相ないしは極性・対極性様相にあるのであり、他者差異-iの否定は、単に、陰極の否定だけではなく、差異共振(共鳴)性の否定でもあるということである。】
 次は、ナルシシズムである。しかし、この問題はもう以上の考察から自明的であると考えられる。即ち、陽化=同一性化とは、陽極が陽極自体を映すことと言い換えられるのではないだろうか。つまり、「自己」が「自己」を映すということである。そう、鏡像である。つまり、陽極+iが鏡面となり、陽極自体+iを鏡像として映し、それと結合するということである。換言すると、自己鏡像化である。自己が自己を映すのである。自己完結主義である。
 これで、ナルシシズムの説明はつくのではないだろうか。そして、悪の発生もこれで説明できるであろう。同一性自己主義、ここに、ナルシシズムがあり、他者差異否定、つまり、反倫理があるのである。
 さて、最後に、敷衍的に、一神教(ヤハウェ的一神教)について、この視点から見てみよう。
 一神教、つまり、ヤハウェ的一神教であるが、それは、端的に、同一性自己の形而上学と言うことができよう。陽化の形而上学である。多神教・異教・自然宗教を排除するのは、陽化の徹底化と見ることができよう。【イエス教は、本来は多神教、女神教であると考えられる。だから、キリスト教は絶対矛盾的自己同一と言えないことはない。】
 しかし、重要な点は、超越神性ないしは超越性である。それは、多神教にはない点である【p.s.  正確に言うならば、多神教にも、超越性があるのである。でなければ、神性は発生しないだろう。ただし、多神教においては、超越性と自然性とが共鳴する関係にあることが、一神教との決定的差異である。だから、多神教は内在的超越性をもつ考えられるかもしれない。それは、正しいだろう。しかしながら、PS理論は、即非的内在/超越性をもつ言うべきである。】。差異他者を否定したとき、それは、抽象化を意味するのである(抽象芸術と一神教との関係があるだろう)。偶像の禁止である。
 そして、超越性の根源は、イデア界(虚軸)にあると考えられるのである。PS理論から見ると、Media Point が、消失・喪失して、超越性と現象性の絶対的二元論が発生したと考えられるのである。神の世界と現象世界を結ぶものは、何もなくなったのである。ただ、信仰があるだけとなったのである。あるいは、キリスト教で言えば、キリストと聖霊を介すしか、神とのコミュニケーション(語呂合わせすれば、カミュニケーションである。【p.s.  精緻にいうと、一神教においては、神と人間とのコミュニケーションがあるのかどうか難しいところである。プロテスタンティズムを見てわかるように、神からの一方的な恩寵の有無が、救済と関係するのであるから、正確に言えば、コミュニケーション、カミュニケーションがないのである。】)はなくなったのである。
 ここでは、Media Pointの喪失がいちばんのポイントである。【これが、精神文化的に、西洋と東洋を分離するポイントである。】とまれ、ヤハウェ的一神教によって、いわば、超越的同一性自己主義が発生したのである。あるいは、形而上学的自己同一性主義の形成である。そして、これが、西洋文明の支配・主導的精神であり、これが、西洋資本主義を駆動させている精神であると考えることができよう。単に、同一性自己主義ではなくて、超越的ないし形而上学的同一性自己主義であるということである。その帰結が、今日のサブプライムローン問題である。
 根本的に差異共振精神を否定しているので、このような惨禍となるのである。ただし、イエスの精神には、本来、差異共振性があるのであるが、それが、ヤハウェ的一神教性によって、阻害されてしまっていると考えられるのである。

2008年05月18日 (03:14)

V. シャウベルガーの自然理論とプラトニック・シナジー理論:ガウス平面とPS立体

購入したヴィクトル・シャウベルガー(1885〜1958)の自然理論を解説する『自然は脈動する』(アリック・バーソロミュー著)
http://www.kyobunsha.co.jp/shopping/books/ISBN978-4-531-08164-6.html
の1/4弱読んだが、直感した通り、否、それ以上に、シャウベルガーの自然理論が、プラトニック・シナジー理論(以下、PS理論)と共通性をもっていることを察知した。そして、前者の考えを活用して、PS理論が発展できたと考えている。(もっとも、シャウベルガーの理論には、Media Pointの概念はない。この点が相違点である。)以下、今は余裕がないので、簡単に記したい。
 とても、重要な自然理論が説かれていて、簡単には説明できないので、私が思いついたことを述べたい。
 それは、ガウス平面に直交する軸を考えて、三次元空間を考えることである。そして、その垂直軸を天地軸を考えるのである。+iと-iとが引き合うとき(牽引力)は、共鳴して、+1となる。しかし、これは、同時に、天地軸の天へと上昇(浮揚)すると考えるのである。それに対して、+iと-iが反発するとき(斥力)、-1となり、これは、天地軸の地へと下降すると考えるのである。
 そうすると、以上から、上昇らせんと下降らせんが生起すると思われるのである。また、(+i)*(-i)と(-i)*(+i)の順列を考えると、らせんは二本になると考えられる。即ち、二重らせんになると考えられるのである。これが、宇宙・自然の原型となるだろう。
 興味深いのは、シャウベルガーが重力とは対蹠にある浮揚力を考えていることである。これは、樹木などが空へと上昇する力であり、反重力的な力なのである。この点を借用・活用して、天地軸を導入したのである。
 その他、とても明快で、目から鱗であったのは、極性が引き合う力と反発する力をもつと指摘している点である。差異共振性とは、単に、引き合う力だけではなく、対立する力があるのだから、当然、反発する力をもっているのである。この点は、最近、やや不明確になっていたので、助かった。考えてみれば、差異のもつ力とは、他者への接近と同時に、絶対的には一致しないというものである。即非性と表現しているものである。即ち、AはBへの限りなく接近するが、決して、Bにはならないのである。A→Bであるが、A≠Bである。
 もっとも、厳密に考えると、この差異の力と即非性は少し違うようにも思えるのである。差異の力は、限りなく、AはBに近づくが、決して、Bにはならないのである。これを以前、他者への志向性と呼んだ。結局、Aは独立性を保つのである。だから、Aという差異には、垂直性と水平性があるのである。
 この点は、哲学的に微妙なものがあるので、少し考察しよう。Aという差異は、垂直的独立性と水平的共感性がある。後者において、AはBに接近するのである。ほとんど一致するのである。あくまで、Aは単独性・特異性であり、独立した個のままである。しかるに、Bへと接近するのである。
 問題は、Aの独立性である。これは、同一性なのだろうか。否、当然、差異である。ただし、独立性から反発性となるときが、同一性である。つまり、他者であるBに反発し、排除するとき、Aは同一性となるのである。つまり、Aの独立性とは、共感性と一如(いちにょ)なのである。これが、差異である。つまり、差異とは、垂直性と水平性の平行性である。
 ここで、シャウベルガーの自然理論に関係して言うと、Media Pointにおいて、差異は共鳴して、引き合って、⇒+1となり、反発して、⇒-1となるのではないだろうか。これまでは、最初に、⇒+1となり、その後、内的否定により、⇒-1となると考えたのである。もっとも、それ以前には、両者、同時生起すると述べたのではあったが。
 とまれ、Media Pointにおける差異共鳴とは、引き合いが+1となり、反発が-1という両極に展開するということになった。この両者は共立しているということではないだろうか。言い換えると、+1であると同時に、-1であるということであり、又、同時に、+1と-1とは当然、異なるということで、+1と-1は即非関係にあるということではないだろうか。
 そして、+1は差異牽引性=差異であり、-1は差異反発性=同一性ということではないだろうか。つまり、差異と同一性は同時生起ということである。
 では、物質とはどういうことになるだろうか。これまで、同一性-1を物質として考えてきたのであるが、どうなるだろうか。思うに、現象は、±1である。だから、物質というものも、±1ではないだろうか。しかしながら、物質ないしは現象の実質・実体は、差異共振性、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、イデア共振ないしはイデア共鳴である(超越共振・超越共鳴)。そして、これが、「精神」である。つまり、物質ないし現象の本体とは、「精神」ないしはイデア(イデア共鳴)である。
 このように考えると、ポスト・モダンや構造主義の数理も変えないといけなくなるだろう。構造主義は、+1と-1の対立構造で説明がつくのではないだろうか。そして、ゼロ記号であるが、それは、やはり、両者の和である。それは、連続的原点であり、不正確な原点である。そう、構造点と言ってもいいだろう。
 では、ポスト・モダンであるが、それは、やはり、同一性の-1に対して、差異の+1を対峙させているということではないだろうか。デリダの差延とは、正に、この-1と+1との極性を提示しているのではないだろうか。そして、ドゥルーズは、思うに、-1に対して、+1を積極的に説いているが、しかし、-1 を否定して、+1を積極的に説くことは、逆に(アイロニカルに)同一性になることだと思われるのである。つまり、A→Bにおいて、AをBと一致させることだと思われるのである。つまり、差異一致である。極限値である。limitA→Bである。だから、差異はゼロとなり、微分が形成されると考えられるのである。差異は同一性に転化してしまうのである。
 そして、ハイデガー存在論であるが、先には、+1が本来的存在であり、-1が頽落した現存在であると言ったが、どうだろうか。思うに、それは、正しいのではないだろうか。本来的存在は、他者がなく、自己同一性に閉じているのである。つまり、ドゥルーズの差異と同じ、極限値なのである。A→Bなのである。だから、差異共振性がないのである。
 フッサール現象学は⇒+1ないしは⇒±1であろう。
 ここで、特異性のことを言うと、それは、端的に、Media Pointのことを意味するだろう。キルケゴール、ニーチェがそれを示唆したと言えよう。そして、ウスペンスキー、鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周三が、論理的にこれを捉えていたと考えられるのである。不連続的差異論は、これを、明確・明晰に説いた理論と考えられるのである。
 ここで、近代合理主義・近代的自我について触れると、それは、やはり、-1である。+1を否定・抑圧しているのである。しかしながら、正しくは、-iを否定しているのである。
 思うに、ここで、用語を整理した方がいいだろう。-1は同一性であり、+1は差異であるが、共一性としての差異である。そして、(+i)*(-i)が差異共振性ないしは差異共鳴性である。
 以上のように訂正すると、光と影の二重性はどうなるだろうか。端的に、光はどうなるのだろうか。肉眼で見る光とは一般には、やはり、±1の極性現象であろう。そして、思うに、-1が粒子であり、+1が波動ではないだろうか。電磁波の本体は、端的に、差異共振性ないしは差異共鳴性である。虚数的超越共振性である。換言すると、本体が、虚数超越的差異共振性であり、それが、Media Pointにおいて、実数的極性になっているのである。そして、極性の相補性や長距離相関という点で、Media Pointに接近していると言えよう。
 光と影の問題に返ると、-1が影であり、+1が光であろう。では、宗教的な光はどうなるのだろうか。それは、端的に、差異共振性である。超越エネルギーである。それは、Media Pointを介して、「感知」できるだけである。おそらく、dark sunである(darkは不可視ととる)。
 では、さらに、イシス・オシリス神話を考えるとどうなるだろうか。オシリス=ホルスは+1ではないだろうか。イシスとオシリスは、本来、差異共振性を意味するだろう。そして、セトが-1ではないだろうか。
 こう考えると、多神教と一神教の関係が明快になるように思える。多神教において、±1が生起するのである。そして、一神教は、+1を否定・排除・隠蔽して、-1を唯一神とするのである。エロヒームを+1、ヤハウェを-1とすることができよう。そして、前者を否定したものが、ユダヤ教やキリスト教である。聖書はそうではない。【イスラム教であるが、これまで、差異共振性をタウヒード(一性)としていると考えたが、どうやら、+1をアッラーとしているように思えている。つまり、エロヒームとしてのアッラーとなる。だから、ヤハウェとは、逆となる。アッラーを月と表現するなら、ヤハウェは何だろうか。やはり、太陽ではないだろうか。しかし、太陽は二つあると思う。差異共振性の太陽と、同一性の太陽である。ヤハウェは後者である。そして、前者が太光である。アマテラスは何だろうか。太光だと思う。問題は、差異共振性の太光と同一性の光(影)を同一視してしまうことである。この同一視が例えば、日本の国家神道において起ったと言えよう。私は、この一因は国学にあると考えている。
 思うに、アマテラスとツクヨミを極性として見ることが可能である。そうすると、アマテラスは同一性の太陽になるのである。
 どうも、太陽の表象は混乱を招くものである。本来、差異共振性の太光であるが、それが、現象化において、同一性の太陽に同化されやすいのである。この点は後で再考したい。】
 とまれ、以上から見て、PS理論は奇蹟的である。シャウベルガーの説く自然の精妙なエネルギーは、差異共鳴エネルギー=超越エネルギー=イデア・エネルギーで簡単に説明できると考えられるのである。とまれ、『自然は脈動する』をさらに読んで、検討を続けたい。

2008年05月13日 (02:55)

+1と-1と±0に関して:ハイデガー哲学と構造主義とポスト・モダン

既述であるが、ポスト・モダン哲学は、+1(共一性)という差異を追求したが、結局、-1(同一性)との連続性を立ち切ることができずに、両者の連続性ないしは混淆に留まったと考えられる。そして、+1と-1との関係を和として考えて、+1+(-1)⇒±0が帰結されて、この±0とは、構造主義を意味し、結局、構造主義から真に脱却できなかったと考えたのである。
 問題点は、果たして、実軸の計算は和でいいのか、ということと、ハイデガー哲学はポスト・モダン哲学の先駆と考えて、-1と±0との存在論的差異を説いていると見たがそれでいいのか、ということである。
 後者を再検討すると、先に述べたように、ハイデガーの本来的存在を±0(実際は単に、0として見たが、±0とした方がより的確であると思われる)と見て、頽落した現存在を-1と考えて、±0と-1が存在論的差異を形成すると見たのである。実際、ハイデガーの本来的存在はわかりにくいのである。個のようであるが、差異共振性がまったく欠落しているのである。これを±0で捉えていいのだろうか。
 0は本来、構造主義の位置である。だから、ぴったりとはあてはまらないのである。今思いついたのは、+1⇒-1ではないだろうか。これならば、差異共振性のない+1があり、それから、同一性志向性によって、-1になることを意味できるのである。
 どうもその方がよさそうである。だから、ハイデガーの本来的存在は+1であり、頽落した現存在は-1であるということになる。
 そうすると、これは、+1を共一性と言ってきたことを訂正しないといけない。+1ではなく、共一性とは、端的に、自己認識方程式である。そして、⇒+1はフッサール現象学を意味するだろう。
 とまれ、そう訂正することから、ハイデガーの存在論的差異は、+1と-1との差異であることになった。そうすると、ポスト・モダン哲学はどうなるかと言えば、端的に、ハイデガー哲学を踏襲していることになるのではないだろうか。初期デリダの場合、ほとんどそうなると思われる。ただ、ポスト・モダンの場合、構造主義の側面がかなり強いと考えられる点が異なると言えよう。
 そう、ここで第一の問題点と重なるのであるが、ハイデガー哲学の場合、+1と-1との亀裂を説いている。つまり、ハイデガー哲学には、それなりに、不連続性があるのである。しかし、ポスト・モダンになると、+1と-1との連続性ないしは混淆性が存すると考えられるのである。+1と-1とのポスト・モダン的様態は、やはり、和でいいのではないだろうか。即ち、(+1)+(-1)⇒±0である。重要な点は⇒にあると考えられる。±0は端的に、構造主義を意味するだろう。何故なら、±0は、ゼロ記号であるからである。そして、左辺の(+1)+(-1)はポスト・モダン哲学を意味するのではないだろうか。+1と-1との連続的な揺らぎがポスト・モダン哲学ではないだろうか。初期デリダの差延とは正に、そのようなものと考えられる。また、ドゥルーズの差異であるが、思うに、ゼロ記号を使って、差異を連続化しているのである。つまり、やはり、和である。即ち、(+1)+(-1)=±0(ゼロ記号)が生起して、ここで、差異と同一性が一致することになると考えられる。即ち、差異=同一性である。そして、これこそ、連続的差異=微分ではないだろうか。初期デリダの場合は、差異と同一性との混淆的揺らぎがあったが、ドゥルーズの場合は、両者が一体化されてしまい、構造主義ないしはヘーゲル哲学に退行していると思われるのである。
 結局、和とは、連続性ないしは混淆性を意味すると言えるのではないだろうか。ならば、ハイデガーの場合は、和以前の様相にある。とりあえず、それを、+1/-1と表記する。つまり、/は亀裂ないしは境界を意味することになる。
 

2008年05月06日 (15:03)

+1の光と-1の影の関係について:ルサンチマンと同一性=物質の発生の必然性

+1の光と-1の影の関係について:ルサンチマンと同一性=物質の発生の必然性

テーマ:一神教/多神教

今日は、正に、五月晴れの東京である。新宿副都心の高層ビル群が見える。公園等の新緑の森も灰色のビルの海に島のように見える。

 さて、先に、古代エジプト神話(宗教)から霊的太陽+1と物質的太陽-1を分離させて検討したが、まだ不明瞭、あいまいなところが感じられるので、さらに検討したい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10094204738.html
 端的に言えば、+1と-1との関係である。これまでの言い方だと、霊的太陽と物資的太陽が別々の存在であり、二元論的である。
 今日の五月晴れのような明るい爽やかな空を満たす光は、端的に、物質的太陽と同時に、霊的太陽を感じさせるのである。つまり、一如的な太陽である。
 この問題は、これまで、超越光と光との即非様態で説明してきた。しかしながら、+1の光、-1の影という考え方は、それと少しズレるようであるので、再検討である。結局、光が影を生むことの問題である。そう、光は光であり、超越光を示唆するのである。爽やかな光は、超越光を示唆する光ということである。
 問題は、影、物質的太陽とは何かである。目にする太陽の光とは何か。心地よい、五月晴れの光とは何か。そう、影であると同時に、霊的太陽なのではないだろうか。影であると同時に、光である。-1であると同時に、+1であるということではないだろうか。【p.s.  ここは微妙なところである。おそらく、本来的な人間の視覚においては、+1の太陽と-1の太陽が揺らいでいるのである。しかしながら、今日の近代主義化された人間は、-1の影の太陽しか見えないだろう。もっとも、無意識においては、+1の光の太陽を感知しているだろうが、中心化されているのは、影の太陽である。トランス・モダナイゼーションとは、+1の光の太陽を取り戻すことにもなるのである。】
 問題は端的に、同一性の発生力学の意味である。これまでは、同一性主義の発生として、ルサンチマンに基づくものとして捉えてきたが、純粋に自然においてはどうなのだろうか。自然にもルサンチマンがあるのだろうか。
 同一性=物質として捉えてきたが、そうならば、自然には、同一性力学がなくてはならないだろう。つまり、単に共振力学だけではなく、否定力学がなくてはならないということである。マイナス力学である。
 これは、ある意味で不思議なことである。極性は本来、牽引するのであり、反発はしないからである。+iが-iにどうして反発するのか、である。それは、-iが「苦・悲」化したからである。-iの「苦・悲」化とは何か。
 どうも、同一性=物質という図式を訂正しないといけないのかもしれない。否、視点の転換が必要なようだ。自然は、(+i)*(-i)⇒+1である。太陽の光は端的に、+1である。今日の五月晴れの光は、+1である。
 しかし、それを-1の影、即ち、物質的太陽として捉えるのが、近代的自我・近代合理主義(近代科学)である。(もっとも、核融合とは、物質的ではなく、イデア的である。)つまり、光+1を影-1(同一性=物質)として捉えるのである。
 光を影にしているのは、人間の自我である。近代主義とは、だから、本来、+1である光を-1の影として捉える倒錯性なのだと言えよう。
 では、自我において、光+1はどうなるのか。影-1しか見ていないのか。端的に、自我は、影-1しか見ていないだろう。今日の五月晴れの清爽な光は見えないのである。つまり、光+1が感覚に入ってきても、自我はそれを影-1として知覚するということだろう。(光は暗いという私の言葉は、この意味で取るべきかもしれない。)
 ということである。だから、結局、超越光(+i)*(-i)と光+1と影-1の3種類の「光」(三重光)があることになるだろう。そして、以前、述べた超越光と光との即非性はそのまま肯定されるのである。ジョージ・ハリスンの見た光は正に、超越光・即非・光と言えよう。【p.s.  補足すると、人間だけが、影-1(物質の光)を見ると言えよう。動物はただ超越光・即非・光を見ているのだろう。逆に言うと、この影が人間を創ったと言えよう。悪魔が人間を創造したと言えよう。だから、賛えられるべきは、悪魔であろう。では、どうして、人間において、影が発生するのかということになるだろう。それは、出生する身体が他の動物に比べて、虚弱であることから来るのではないだろうか。馬の子どもは生まれるとすぐ立てるのである。】
 では、補足的に、キリスト教の光とは何か。これは、有体に言えば、光+1と影-1の混淆である。ヤハウェ=自我神の影が、イエス=共一性の光に入っているのである。光の中に闇が入っているのである。この闇が悪魔的破壊主義なのである。【ヤハウェは悪魔=物質神である。もっとも、この「おかげで」、物質科学・技術が生まれたと言えよう。一種、プロメテウスである。同一性ロゴスとしてのヤハウェである。】実際、この二重性はどういうことなのだろうか。
 明らかに、分裂性である。ジキルとハイドである。これが西洋人の精神性であろう。問題はこの分裂様態の力学構造である。
 おそらく、基盤は自我=影である。つまり、-1である。その基盤の上に、イエス教が乗っていると考えられるのである。だから、妙な言い方になるが、自我中心的イエス教がキリスト教である。つまり、イエス教の光が自我教の影によって規制されているのである。この枠組みを抑えておく必要が絶対にあるのである。イエス教が自我教(ヤハウェ教)に規制・制限されているということである。
 この自我の第一義性が、西洋人の「自己中心主義」、「自民族中心主義」、オリエンタリズム等を生んでいるのである。だから、ブッシュや中国人権問題等でわかるように、民主主義の下には、鎧の西洋中心主義がほとんどあらわに存在しているのである。この西洋文明の偽善性の構造を剔抉する必要があるのであり、これは、ニーチェがえぐり出したと言えよう。
 だから、今日の問題は、トランス一神教である。トランス・モダン化である。一神教的性格をもっているグローバリゼーションに対して、トランス・グローバリゼーションである。
 以上のように考えると、逆に、一神教は偉大であるとことがわかる。その悪魔的主導性がなければ、近代科学・技術は生まれなかったであろうし、インターネットもなかったからである。また、キリスト教がなければ、近代民主主義もなかったと言えよう(古代ギリシアのは、周知のように、貴族的民主主義である)。
 結局、脱近代主義である。脱西洋主義である。当然、日本の場合は、脱封建主義・脱父権主義でもある。【ここで一言、神道について言うと、神道の本質は、母権多神教(古代レヴァントの女神宗教と類似すると思われる)だと考えられるが、古事記では、明らかに、父権化の作用が入っている。つまり、聖書に似た作業が入っていると考えられる。記紀神話の「脱構築」・脱父権的解明によって、いわば、原神道(古神道)が明確になるだろう。折口信夫の捉えていた神道は明らかに、原神道(古神道)と考えられる。母権神道である。】 

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検討問題:宇宙・世界・自然を創っているもの:数理世界と哲学世界と芸術世界:複素数イデアの根源界

テーマ:検討問題

イデア、神々(神ではない)、エネルギー、等々の本質とは何か。また、明らかに、数理と結びついている。一体、これらは、何であるのか。
 先に、神々とは超越エネルギーであると言った。それは、正しいだろう。それが、現象化して、自然や人間を創っているのであり、人間の意識、自我・自己もその結果である。
 正しくは、超越意識エネルギーがあると言うべきだろう。意識とは、知性と感性との結合であろう。超越意識エネルギーとは、イデア・エネルギーである。デュナミスでは、イデアである。
 では、それが数理と一体であるとはどういうことなのか。それは、数理とは、超越意識であるということではないだろうか。逆に言えば、超越意識とは数理であるということだろう。だから、文科とは理科であるし、理科とは文科であるということである。
 結局、数理が神々=超越意識エネルギーであるということである。だから、数理的世界は哲学的世界ということであろう。つまり、数理世界を、言語表現したのが、哲学世界であるということになろうし、それを芸術表現したのが、芸術世界であろう。結局、数理哲学世界があるということになるだろう。
 とまれ、後で精察したい。

追記:
ガウス平面、そして、オイラーの公式は、数学の結晶のような数理空間を意味するが、オイラーの公式の角度の意味を検討したいと思う。
 直感で言うと、それは、振動にならないのか。イデア振動によって、角度が変化するのではないのか。そうならば、振動による円運動が考えられないだろうか。

p.s. この問題は意外に簡単ではないだろうか。つまり、エネルギー事象とは、極性から成立っているのである。いわば、エネルギー極性があるのであり、これが、数理的に表現できる(p.s. 正しくは、エネルギー極性が数理的ということであろう)ということではないだろうか。
 では、エネルギー極性と数理との関係は何かとなるだろう。おそらく、数理とは、エネルギー極性の力学の原理を表現しているということではないのか。つまり、自然の力学の基本原理を表現しているのではないのか。自然力学原理の普遍言語ではないだろうか。そう、正に、ユニヴァーサル言語であろう。ここでロゴスの問題が出てくる。
 思うに、差異のロゴスと同一性のロゴスがあるのではないだろうか。デリダのロゴス中心主義批判、ドゥルーズのプラトニズム批判は、後者への批判であり、前者には当てはまらないのではないのか。
 思えば、実軸数理は、同一性ロゴスであり、線型である。しかし、虚軸数理ないしは複素数数理は、差異ロゴスであり、非線形であろう。

p.p.s. もっと徹底して言うことができるだろう。つまり、数理とは、イデアであり、エネルギーを包摂しているということではないか。そう、数理イデアないしは数イデアである。これが根源だろう。数イデアが根源にあり、それが、現象世界を発現しているのだろう。
 数イデアと言っても、ピタゴラス派のようではない。それは有理数を意味していたからである。複素数イデアと言うべきであろう。

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検討問題:宇宙・世界・自然を創っているもの:数理世界と哲学世界と芸術世界:複素数イデアの根源界

テーマ:検討問題

イデア、神々(神ではない)、エネルギー、等々の本質とは何か。また、明らかに、数理と結びついている。一体、これらは、何であるのか。
 先に、神々とは超越エネルギーであると言った。それは、正しいだろう。それが、現象化して、自然や人間を創っているのであり、人間の意識、自我・自己もその結果である。
 正しくは、超越意識エネルギーがあると言うべきだろう。意識とは、知性と感性との結合であろう。超越意識エネルギーとは、イデア・エネルギーである。デュナミスでは、イデアである。
 では、それが数理と一体であるとはどういうことなのか。それは、数理とは、超越意識であるということではないだろうか。逆に言えば、超越意識とは数理であるということだろう。だから、文科とは理科であるし、理科とは文科であるということである。
 結局、数理が神々=超越意識エネルギーであるということである。だから、数理的世界は哲学的世界ということであろう。つまり、数理世界を、言語表現したのが、哲学世界であるということになろうし、それを芸術表現したのが、芸術世界であろう。結局、数理哲学世界があるということになるだろう。
 とまれ、後で精察したい。

追記:
ガウス平面、そして、オイラーの公式は、数学の結晶のような数理空間を意味するが、オイラーの公式の角度の意味を検討したいと思う。
 直感で言うと、それは、振動にならないのか。イデア振動によって、角度が変化するのではないのか。そうならば、振動による円運動が考えられないだろうか。

p.s. この問題は意外に簡単ではないだろうか。つまり、エネルギー事象とは、極性から成立っているのである。いわば、エネルギー極性があるのであり、これが、数理的に表現できる(p.s. 正しくは、エネルギー極性が数理的ということであろう)ということではないだろうか。
 では、エネルギー極性と数理との関係は何かとなるだろう。おそらく、数理とは、エネルギー極性の力学の原理を表現しているということではないのか。つまり、自然の力学の基本原理を表現しているのではないのか。自然力学原理の普遍言語ではないだろうか。そう、正に、ユニヴァーサル言語であろう。ここでロゴスの問題が出てくる。
 思うに、差異のロゴスと同一性のロゴスがあるのではないだろうか。デリダのロゴス中心主義批判、ドゥルーズのプラトニズム批判は、後者への批判であり、前者には当てはまらないのではないのか。
 思えば、実軸数理は、同一性ロゴスであり、線型である。しかし、虚軸数理ないしは複素数数理は、差異ロゴスであり、非線形であろう。

p.p.s. もっと徹底して言うことができるだろう。つまり、数理とは、イデアであり、エネルギーを包摂しているということではないか。そう、数理イデアないしは数イデアである。これが根源だろう。数イデアが根源にあり、それが、現象世界を発現しているのだろう。
 数イデアと言っても、ピタゴラス派のようではない。それは有理数を意味していたからである。複素数イデアと言うべきであろう。

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自己認識方程式の意味:イデア界は宇宙調和音楽=コズミック・ハーモニーの世界だろう:神道ルネサンス

テーマ:自己認識方程式(i)*(-i)⇒+1関係

           |+i
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |
-1__________MP_________+1
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |
           |-i




図式化すると、+iと-iを陰陽とする。+1は、光=心、地=ガイア=身体、母権等であり、-1は影、同一性=物質、父権等である。また、+iは原知性、原自己であり、-iは原感性、原他者である。
 宗教・神話的には、+1がエローヒーム、光のイエス、アフラ・マズダであり、-1がヤハウェ、ゼウス、アンリ・マンユである。
 また、Media Point(MP)は、おそらく、カオスである。神話的には、宇宙卵であろうし、神道的には、天之御中主神であると考えられる。
 また、虚軸世界であるが、それは、超越的差異共振調和音楽が奏でられているのではないだろうか。古代からルネサンスへかけての伝統文化における宇宙音楽、調和音楽はここに存しているのではないだろうか。太陽と月の調和音楽。また、円空の言う「法の御音」もここから発しているだろう。英国詩人のキーツの「聴こえない音楽」もそれから発しているだろうし、モーツァルトのジュピターもここからの霊感を受けていると思う。また、シューベルトのグレートもそうであるし、バッハ音楽は言うまでもない。
 本来の美もここから発しているだろう。セザンヌの静物画のハーモニーもここから発しているだろう。「モダン・アート」と呼ばれたものも本来はここを震源としているだろうが、それを、明確に把握できずに、今、行き詰まっていると思う。つまり、原調和を、同一性に連続化してしまって、差異調和ではなく、同一性秩序化しているのである。例えば、モンドリアンの格子状の絵画である。
 東洋美術はもとより、ここに根差すだろうが、行き詰まりは同様である。もっとも、目覚めの徴候はあるが。
 つまり、差異のハーモニー(コズミック・シンフォニー)が根源にあると考えられるのである。それは、現象界においては、現象形象を借りて表現されることになるだろう。不可視の調和を可視的に表現するのである。

p.s. 神話を複雑にするのは、差異共振性が垂直から水平へと転化することにあるのではないだろうか。例えば、イシス・オシリス神話であるが、それは、共一性+1であろう。そして、ホルスは-1ではないだろうか。
 そして、共一性の根源の差異共振性は、ハトホルということになるのだろうか。とまれ、イシス・オシリスが共一性で光+1を意味するならば、それは、また、オシリスである。つまり、イシス・オシリスの共一性=光=ホルス=霊的太陽ということではないだろうか。しかし、このホルスはオシリスと同一ではないだろか。どうもそう思えるのである。
 では、セトとは何か。それは、オシリスを殺害するのであり、そのバラバラにされた遺体をイシスが集めて、復活させるのである。霊的太陽を破壊するとは、セトが-1であることだろう。そして、これは物質的太陽ということではないのか。
 そうすると、問題はオシリス=ホルス(+1=霊的太陽)とセト(-1=物質的太陽)との関係である。肉眼で見る太陽は、当然、後者である。しかしながら、古代エジプト人は、それを以外に、霊的太陽を見ていたと考えられるのである。これはどういう風に説明できるだろうか。
 それは、古代エジプト人が、霊的太陽と物質的太陽の二つの太陽を視覚していて、後者が前者を覆うが、再び、前者は復活するということを意味していたのではないだろうか。【これは、ゾロアスター教で言えば、前者がアフラマズダであり、後者がアンリマンユであろう。】
 さらに問題は王制である。ファラオー支配のことである。ファラオーは本来、オシリス=ホルスを象徴するものであったろう。一種、神人であろう。しかし、ファラオーの意味するものは、オシリス=ホルスであり、人間としてのファラオーではなかった。(これは、天皇制とも関係するだろう。)とまれ、ここには、まだ一神教は存在しない。
 一神教が発生するには、つまり、唯一神が発生するには、排他性が必要である。多神教を排除する原理が必要である。イシス・オシリス神話がある限りはそうならない。
 考えられるのは、父権神話が必要であることである。父権神話があれば、女神を否定し、父権神が発生する。バビロニア神話では、女神のティアマトを英雄マルクトが退治して、(ティアマトの?)心臓を太陽神シャマシュに捧げる。
 このマルクト/シャマシュが父権制の原点を意味しよう。これに倣えば、イシスを否定する英雄が必要である。しかし、古代エジプトではそれはなかったであろう。
 問題は、-1の父権神である。それは、物質的神となるだろう。しかし、超越性はどこから発生するのだろうか。やはり、Media Pointからではないだろうか。そこにおいて、他者=差異否定が発生して、-1となるのだろう。即ち、(+i)*-(-i)⇒-1である。この左辺が超越性であろう。考えるに、正確にヤハウェを表記すれば、⇒-1であろう。また、エローヒームは⇒+1となるだろう。
 結局、西洋文明は、⇒-1(父=ヤハウェ)の支配下の下に、⇒+1(子=イエス)を従えていると言えよう。神道は⇒+1であり、⇒-1の文明に従属していることになる。
 何が問題なのか。神道は、本質的に、⇒-1を知らないのである。一神教を知らないのである。それは他者である。問題は、やはり、明治維新の近代化にある。
 そこで、多神教としての神道は、歪んでしまったと思われるのである。何故なら、⇒+1の宗教とは、他者=差異との共一性を意味するからであり、ナショナリズムとはそぐわないからである。
 結局、神道は、一神教化してしまったと言えよう。それが、国家神道の意味であろう。変質してしまったのである。キリスト教の強みは、一神教ではあっても、⇒+1を従えていることである。つまり、イエスによって、多神教要素を内在している点である。それに対して、国家神道は、多神教の本質を喪失して、一神教となってしまったのだと思う。これが、近代日本の不幸である。
 そして、戦後、神道全体が否定されることになったのである。日本は、二度死んだのである。多神教の復活が必要である。今日に日本は、一神教である。キリスト教以下である。近代主義的一神教である。
 日本トランス・モダンが必須である。差異共振性・共一性を取り戻すことである。神道ルネサンスである。
 

参考:
ホピ族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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ホピ族の住居。(ステレオグラム)1900年。
ホピ族の住居。(ステレオグラム )1900年 。

ホピ族(Hopi)は、アメリカ・インディアン の部族の一。ネイティブ・アメリカン と呼ぶこともある。主にアリゾナ州 北部の6,000km�のインディアン居留区 に住んでいる。居留区はナバホ族 の居留区で周囲を囲まれている。僅かなホピ族は、アリゾナ州西部、コロラド川 沿いの居留区に生活している。同地区のホピ族は、メサ と呼ばれる3つのテーブルマウンテンに居留している。なお、小惑星(2938)のホピ は、ホピ族の名を取り命名されている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9B%E3%83%94%E6%97%8F


もしも、人類の多くが浄化されることになるであろう「大いなる清めの日」の到来が避けられないとするならば、それはマヤの長期暦の1サイクルが終わる13バクトゥンの日(13.0.0.0)、つまり西暦紀元後2012年12月23日ということになるのであろうか。マヤ文明の後を継いだアステカ文明が残した「大陽の暦石」がその日の到来を語っているのかもしれない。



         国立人類学博物館のアステカ室の正面に飾られた「大陽の暦石」。
古代アステカの人々の間で伝承されてきた物語に、「五つの大陽の伝説」がある。この伝説は、過去に4つの大陽(世界)が滅び、その後に5番目の現代の大陽の時代がやってきたことを伝えている。メキシコシティーの国立人類学博物館の代表的な展示物である、アステカのカレンダーストーン(大陽の暦石)には、4つの大陽と、中央に5番目の大陽の姿が刻まれており、「五つの大陽の伝説」を伝えている。

http://www.y-asakawa.com/message/report-mexico3.htm
ホピ族の神話

 浅川嘉富の「ホーム ページ」

2008年04月29日 (18:31)

+1と-1の関係:+1と構造主義との関係:-1/-0/Media Point/+0/+1

先の検討は、影-1と光+1と原光(+i)*(-i)という三元性を説くことになったが、まだ判明ではない感じがあるので、さらに検討することにしたい。今日は、簡単に触れるだけである。
 問題は、光(+1)と構造主義を一致させることになったが、それだと、構造主義と原光が関係することになり、整合性を欠くように感じられるのである。なぜなら、前者は本来、超越性が欠けていると思われるからである。この点をどう説明するのか、である。
 おそらく、光(+1)自体は構造主義と見ていいように思う。というのは、⇒+1となって、超越性が開けると考えられるからである。
 そうならば、先にレヴィ=ストロースの構造主義の「ゼロ記号」をMedia Pointの実軸のゼロ度と見たが、それと光(+1)とはどう関係するのか、説明する必要がある。
 「ゼロ記号」とは特異点であり、余剰・過剰であった。それは確かにMedia Point的である。では、+1はどうだろうか。これは、やはり、水平的な差異共振性であり、Media Pointは欠いている。しかしながら、⇒+1とすると、⇒がMedia Pointなので、光は言わば、崇高さを帯びるのではないだろうか。とまれ、⇒の先端がおそらく、「ゼロ記号」であろう。真に虚軸には開いていないのである。
 とまれ、さらに問題は、+1が光ならば、それはどういう光なのか。私は、宗教的に、エローヒームであると考えたが、どうだろうか。それは、端的には、正しくない。エローヒームは、端的に、自己認識方程式であろう。(+i)*(-i)⇒+1、これが光の神エローヒームの公式であろう。そして、この両辺を否定する自己同一性主義の公式、即ち、-[(+i)*(-i)]⇒-1、これが、影の神ヤハウェーの公式であろう。
 では、+1の光とは何か。構造主義の光とは何か、となろう。これは、なかなか、難問である。思うに、単純に日常目にする光でいいのではないだろうか。そして、-1の影とは日常目にする物である。あるいは、単純に前者は日常の自己であり、後者は日常の自我主義ではないだろうか。
 左辺が入るときに、超越性が入るのであり、天使的であったり、悪魔的であったり、狂気的であったりするのではないだろうか。だから、例えば、ネオコン/ブッシュとは、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。つまり、イラクへの差異共振性(+i)*(-i)⇒+1を否定しているのである。真の民主主義は差異共振主義にあるだろう。
 例えば、アメリカがイラクを真に他者=差異と認識するならば、差異共振性(+i)*(-i)⇒+1が成立するだろう。しかし、他者=差異を否定したので、-[(+i)*(-i)]⇒-1となったと言えよう。-1は、自己同一性主義=ロゴス中心主義(例えば、ロゴスとしての民主主義である)である。光=自己(+1)は排除されているのである。
 思うに、-1と+1はエンテレケイアと考えられいいのではないだろうか。そして、左辺はエネルゲイアでいいのではないだろうか。だから、光(+1)を構造主義と見るのは、正に、エンテレケイアとしての構造主義であり、結果としての二元的構造であろう。ここには、エネルギー作用の結果があるのみではないだろうか。
 だから、構造主義の「ゼロ記号」とは、+1とは異なるだろう。それは、デリダ的に言えば、痕跡ではないだろうか。やはり、Media Pointの実軸点であると思われるのである。
 しかしながら、「ゼロ記号」と+1は、結局は、同じことになるのではないだろうか。何故なら、構造主義(+1)の、言わば、支点が「ゼロ記号」であるからである。つまり、支点の「ゼロ記号」と+1とで均衡がとれているのである。「ゼロ記号」があることで、構造主義(+1)が成立すると考えられるのである。言い換えると、構造主義(+1)の原点・発生点・起点としての「ゼロ記号」である。
 ここでポスト・モダンについて言及すると、ドゥルーズは、「ゼロ記号」を差異としての理論化したのである。これでは、当然、差異が連続化されるだろう。何故なら、差異の対立がゼロ度で融合するのであり、正に、微分としての差異になるだろうからである。
 デリダは、先に述べたように、-1と+1の差異(ズレ)を差延と考えたように思われる。(これは、ほとんど、ハイデガー存在論を踏襲していると思われるのである。)
 今はここで留める。後で再考したい。

p.s. 以上の思考実験は、先の直感とはズレている。私は、+1を差異共振光と見たのであり、+1には差異共振性を見たのであり、構造的対立ではないのである。齟齬をどう見るのか、である。思うに、構造主義をどうみるのかが問題である。例えば、山口昌男の神話構造主義は、両義性の理論であるが、この両義性がいわば、+1の差異共振性であると考えられないだろうか。思うに、これは、また、メルロ=ポンティの両義性の身体現象学と通じると思われるのである。あるいは、初期デリダのパルマコン(ファルマコン)の考え方に通じるのではないだろうか。
 直感では、+1の差異共振性とは、一種の即非性であるが、不十分な即非性である。山口昌男の神話学では、例えば、スサノオは、光であり、且つ、闇であるという両義性を帯びる。これは、スサノオは光であるから、闇ではないが、同時に、闇であるという、即非の論理には達していないだろう。光であり、且つ、闇である、というのは、いわば、未分化の論理である。そう、だから、+1の差異共振性とは、未分化様態と言えるだろう。つまり、連続性を帯びているということである。ならば、+1の光=自己とは、未分化であり、連続性をもっているのであり、まだ、真の自己ではないと言えよう。左辺の差異共振性(+i)*(- i)を認識して、真の自己認識を形成すると考えられるのである。
 だから、+1の光とは、トワイライト(薄明)ではないだろうか。つまり、光と影、光と闇の中間的な「光」ということになるのではないだろうか。

p.p.s. 後で再考する予定であるが、ここで簡単に補足すれば、自己認識方程式において、右辺だけを取り出して、純粋に+1を見ると、それが意味するのは、Media Pointを介した虚軸性(超越性)の喪失(隠蔽)であると考えられる。あるいは、Media Pointの断絶である(参照:三島由紀夫の「断絃の時」)。
 だから、+1は、必然的に、自己同一性主義=自我主義(-1)の影響を被って、いわば、曇る、濁る、混濁すると考えられるのである。正確に言えば、混淆・混合化、そして、連続化である。
 精緻に見ると、自己認識方程式の左辺とMedia Pointが隠蔽されるとは、言い換えると、自己同一性主義(-1)が作用することである。差異共振性が否定されるときに、自己同一性主義(-1)が形成されるのであるからである。つまり、(+i)*(-i)が否定されると、当然、結果は、⇒-1となる。これは、Media Pointの否定・抑圧でもある。
 すると、-1より先行すると思われる+1はどうなるのだろうか。それは、これまで検討してきた通り、差異共振性は否定・抑圧・隠蔽されるのである。内的身体に隠蔽されるのである。正確に言えば、(+i)*(-i)⇒+1が内的身体に隠蔽されるのであるが、このとき、Media Pointを介した虚軸性=超越性が隠蔽されるのである。
 問題は、隠蔽された差異共振性が賦活されるときである。教養的形成や内省(端的にこれが哲学である)を伴う人生経験を経ることで、そのようになると考えられる。自己同一性主義=自我主義(-1)の支配にあって、その賦活された差異共振性はどういう様態をもつだろうか。
 当然ながら、活性化された差異共振性は、自己同一性主義=自我主義(-1)を否定するのである。ここに葛藤・内的闘争が生じると言えよう。(ロマン主義の問題、さらには、反近代主義等の問題はここに収斂するだろう。)即ち、

差異共振性VS自己同一性主義

である。これは、端的に、二項対立の闘争である。19世紀や20世紀初期の文化で言えば、ロマン主義(神秘主義)VS近代合理主義となろう。【ベルクソン等の、いわゆる、生の哲学は前者に入れることができるように思えるが。とまれ、構造主義は、この二項対立を乗り越えた、偉大な理論と言えよう。さらに言えば、フッサール現象学は、構造主義をも超えているだろう。ハイデガー存在論はそれを看過してしまったと私は考える。】
 この内的闘争において、問題は、差異共振性が先行してはいても、自己意識においては、自己同一性主義が支配的、優位であるので、差異共振性が従属的、劣位にあるという点である。このいわば転倒した倒錯した優劣性が支配的であることに留意しないといけない。
 言い換えると、否定性(-1)が支配的であると言えよう。だから、賦活された差異共振性は、内的身体に存しても、否定性(-1)が支配的であるために、その影響を被ると考えられる。自己同一性主義の影響を受けるのである。
 それは、端的に、反動化であろう。否定性を受けるのであろう。つまり、差異共振性は、自己同一性主義を否定して、「自己」を肯定しようとするのである。これは、-(-1)=+1 であろう。
 これは、確かに、差異共振性を意味するだろう。しかしながら、問題は、否定性の存在である。自己同一性主義=自我主義(=近代合理主義=近代自我主義)を否定しているので、物質性を否定することになると考えられるのである。極言すれば、一種、オカルト主義や神秘主義になるのである。【私はドゥルーズ哲学とシュタイナーの霊学は類似すると思っている。】
 何が問題なのか。実はこれこそ、不連続的差異論が問題にした連続性である。端的に、連続性とは、否定的連続性である。つまり、自己同一性主義という否定性が支配的であるので、賦活された差異共振性も正に反動的に否定性を帯びてしまい、連続性を帯びると考えられるのである。これは、非常に矛盾的な事態であると言えよう。
 差異共振性は本来、肯定的な事象であるが、自己同一性主義という否定性の支配下においては、否定性を帯びるのである。これは、どういうことなのか。本来の差異共振性が否定性を帯びるとはどういうことなのか。
 直感で言えば、矛盾した言い方になるが、自己同一性主義化された差異共振性であるということである。-1化された+1である。これは、何か。ここでは、推測ないしは作業仮説で言うが、和になるのではないだろうか。即ち、(-1)+(+1)⇒±0ではないだろうか。
 このゼロこそ、構造主義の「ゼロ記号」ではないだろうか。ゼロ度、ゼロ・ポイント、ゼロ場等々と言えるだろう。そして、これが、ドゥルーズの差異であると考えられる。連続化された差異=微分ということである。また、内在平面という考えも、ここから生まれるだろう。【何故、平面なのか。後で検討。】
 そのように考えると、+1が光であり、構造主義であると先に述べたことは、間違いであることになるだろう。+1が光であることは正しいのである。しかし、それは、構造主義ではないのである。構造主義は、やはり、ゼロ度に存すると考えられるのである。つまり、差異共振主義(+1)が連続的に否定されて(和算)、ゼロになると考えられるのである。
 整理すると、-1/±0/+1である。言い換えると、自己同一性主義/構造主義/差異共振主義である。これが、「内在的な」哲学の様相と考えられる。ドゥルーズ哲学は完全に構造主義の進展に過ぎないことがわかる。では、初期デリダ哲学はどうだろうか。先には、-1と+1の差異が差延であると言ったが、それも訂正されなくてはならない。
 デリダ哲学の源泉の一つであると考えられるハイデガー存在論はそれなりに複雑多様であるが、直感するに、いわゆる世界内存在とは、ゼロ・ポイントをもった自己同一性主義(近代合理主義)ではないだろうか。有体に言えば、ハイデガーの存在とは、ゼロ・ポイント(「ゼロ記号」)ではないだろうか。つまり、本来的存在がゼロ・ポイントであり、頽落した存在は、-1となるだろう。【ただし、構造主義とは異なり、自己意識がある。しかしながら、構造主義とは、差異共振性の連続化なので、そのゼロ度は、自己意識をもつと思われる。後でさらに検討したい。】
 そして、初期デリダは、これを継承して、脱構築主義理論を立てたが、その差延とは、結局、先に述べた+1と-1の差異ではなくて、-1と±0との差異であるように思えるのである。例えば、時間を例にとれば、現在は-1であるが、過去や未来が±0であるように思えるのである。そして、両者から差延が発生すると考えられるのである。
 整理すると、ポスト・モダン理論は、ハイデガー存在論と構造主義の影響下において、ドゥルーズは構造主義のゼロ度の進展として「差異」哲学、デリダはハイデガー存在論の進展としての脱構築主義を立てたと言えよう。
 最後に問題は、+1にあったと言えよう。これが、ポスト・モダン理論では把捉できなかったと考えられるのである。何度も繰り返すことになるが、フッサール現象学が、+1を現代哲学において明晰に認識したと考えられるのである。超越論的主観性とは、それだと考えられるのである。また、キルケゴールやニーチェが、特異性という視点で取り出したものは、不連続性であると思う。つまり、彼らは、不連続性という特異性を明確に指摘した大哲学者であると考えられるのである。不明確ではあれ、Media Pointを示唆した哲学者であると考えられるのである。

3p.s. 内在・即非・超越的哲学としてのPS理論を数的に図式化すれば、

      +i
      ↑
-1/-0/Media Point/+0/+1
       ↓
      -i


となるだろう。

2008年04月27日 (18:20)

+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学

+1と-1の「現象学」について:光と影の超越的現象学

テーマ:プラトニック・シナジー理論

「-1と+1の神学・哲学的意味について:ヤハウェとエローヒーム:闇と光:自我と自己」http://ameblo.jp/renshi/entry-10091501933.html
先の以上の論考は我ながら、思考の赴くまま実験したので、これまでの考え方とは齟齬を来してしまっているので、ここで、もう一度「冷静に」、eliot-akira氏のコメントを参考にしながら、検討したい。
 先ず、eliot-akira氏の意見を見てみよう。

『■Media point と鏡像関係?

「+1と-1の二つの現象がある意味では同時生起するのではないか」

このあいだにゼロの両面鏡を置くことは出来るでしょうか?光と影はお互いの虚像を眺め合いつつある、と。

しかし光は影を作るが、影は光を作ることが出来ない。この不対称性にはどういう意味があるのでしょうか。

自己意識には何らかの「反射」と「屈折」が起こっているように感じます。直接の光(エロヒーム)ではなく、間接的な光(ヤハウェ)といえるかもしれませんね。
eliot-akira 』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10091501933.html#cbox

「ゼロの両面鏡」という考え方は刺激的である。また、光と影が相互に見つめるということ、光と影の不対称性(非対称性)、そして、自己意識の「反射」と「屈折」等も同様である。
 また、『 グノーシス主義においては、キリスト教で「ヤハウェ」と呼称される神以上に、さらなる神々の位階があるとされているそうです。ということは、不可知の根源から放出される光が、神々の媒体を通った後、ヤハウェによって「反射」または「屈折」され、その結果が我々の住む下界である、と見えるのではないかと思います。』
http://ameblo.jp/renshi/entry-10090935683.html#c10122297117
ということも、意味深長である。とりわけ、『ヤハウェによって「反射」または「屈折」され』という点が興味深い。(因みに、私はグノーシス主義はPS理論の観点から見直すべきように感じている。)
 「反射」と「屈折」、これがポイントであろう。私は先に、自己同一性の鏡像は差異のスクリーンに映出すると言った。これは、本来、+1の光を-1の映像に同化することではないだろうか。これが、同一性主義・自己同一性主義の発生ではないだろうか。
 このとき、当然、他者=差異は排除・否定されるのである。つまり、-[(+i)*(-i)]⇒-1ではないだろうか。ここでは、明らかに、錯視があるのである。視覚の不思議である。しかし、不「思議」ではなく、明確に解明されるのである。つまり、本来、+1である光を-1の自己同一性鏡像=影として見てしまうということではないだろうか。
 これが、端的に、仮象としての現象界、ドゥルーズ的に言えば、模像(シミュラクル、シミュラークル)としての現象界である。【参考:http://matsuura05.exblog.jp/7663184/
http://www.asahi-net.or.jp/~dq3k-hrs/simulacre/simframe.htm 因みに、偽装流行であるが、偽装とは、端的に、同一性仮象である。

 この仮象的現象界は、差異共振的光+1を排除しているのであるが、しかしながら、実際は、差異共振的光+1は生起しているのである。光を発現しているが、同時に、それを影=仮象・模像(シミュラクル)として、知覚するということではないだろうか。実際は光+1は発現しているのに、それを排除して影-1 として見てしまうということだろう。【この+1と-1との関係をどう公式化すればいいのか。後で検討したい。】
 この影による自己同一性=自我形成は、正に、自己陶酔(ナルシシズム)であるが、ここには、差異(差異共振)を排除する暴力があるのである。これを父権的暴力と言っていいだろう。原罪があるとするなら、これが原罪であろう。端的に、悪魔的である。悪魔的現象界である。
 この同一性主義メカニズムが、近代的自我主義、近代合理主義、封建的官僚制にあるのである。これが、また、差別のメカニズムである。ポスト・モダンが攻撃した二項対立のメカニズムである。
 この排除のメカニズムであるが、差異共振エネルギーを排除しているので、-1のエネルギーをもつと言っていいのではないだろうか。つまり、-1が+1のエネルギー(差異共振エネルギー、光のエネルギー)を排除すると考えていいのではないだろうか。【宇宙物理学で言えば、-1がブラックホールであり、それが、+1の光を排除するということと考えていいのだろうか。後で検討。】
 問題は、影(闇)が光を排除したとき、端的に、排除された光はどこに行くのか、何処に存するのか。何処に潜在するのか、である。思うに、内的光と外的光は共振する(共一という言葉を造語したいが)。そして、影が内的光・共一・外的光を排除するのであるが、直感で言えば、排除された光は、身体に潜在すると思われるのである。ここは微妙な問題である。排除された光はMedia Pointに潜在するとも言いたい気がするが、身体とMedia Pointとの関係を考えなくてはならない。
 その前に、確認しておこう。影とは実は、光の裏面ということではないだろうか。ここで、D. H. ロレンスの「われわれは光の背中を見ているに過ぎない」という言葉を想起していいだろう。つまり、dark sun(黒い太陽ではなく、不可視の太陽であろう。いわば、霊的太陽である。)こそ、真の光であるということである。光の現象面(仮象面・模造面)としての影ということである。これは、光と影の即非関係と見るのである。プラトン哲学で言えば、分有であろう。(こう考えると、これまでの考え方と整合化する。)
 では、いわば、光の先端である影が排除する光はどこに行くことになるのかという問題に戻ろう。光の排除とは、端的に、差異共振が否定排除されることである。だから、当然、Media Pointの排除である。私は先に、Media Pointにおいて、差異共振性は精神的身体を形成すると言った。だから、光の排除は精神的身体の排除であり、それは、端的に、内的身体の排除である。だから、排除された光は内的身体に行ったと考えていいだろう。
 そして、直感で言うと、Media Pointが差異共振的精神(心)であり、+1が差異共振的身体ではないだろうか。思うに、以前、モームの『月と六ペンス』の主人公の絵画や態度に関して(画家ゴーギャンをモデルとしたストリックランド)身体的霊性ということを言ったが、排除された光は内的身体における差異共振的精神であり、この身体的霊性に関係すると思われるのである。
 端的に言えば、排除された光は内的身体に潜在するということになるだろう。これで解明できたこととしよう。
 結局、光を排除する、影を中心化する同一性主義であるが、それは光を内的身体に排除しているということになる。そして、内的身体に、人間の徳、魂、精神、霊、心、善が存しているのである。プラトンの善のイデアは正に、ここに存するのであるし、カントの実践理性もここに存するのである。【カントは同一性知性批判(純粋理性とは、純粋同一性知性だろう)を原基としたので、差異共振性を不可知にしてしまったと考えられる。また、東洋哲学は、内的身体の哲学、即ち、内的身体哲学と言えよう。西洋哲学はトランス・モダン化するためには、東洋哲学の内的身体論を取り入れる必要があると考える。単に、抽象観念的知性では、差異共振性は捉えられないからである。鈴木大拙や西田幾多郎の理論は、禅という内的身体論に基づいているのである。また、ウスペンスキーは、東洋神秘主義から内的身体論に到達しているのではないだろうか。】
 だから、近代合理主義・近代的自我主義・封建的官僚主義とは、内的身体である善性を排除しているので、当然、悪性=悪徳=悪霊なのである。善性なき近代主義(もっとも、封建的官僚制は、純粋な近代主義ではないが、日本近代化においては、存続したのである。思うに、近代合理主義・近代的自我主義も官僚主義も父権主義という点では共通である。)なのである。【問題は民主主義や自由主義であるが、それは、基本的には、ルネサンス的Media Pointのエネルギーとプロテスタンティズムの含むイエス的差異共振主義を同一性的に基礎付けたものだと思う。だから、それは、基盤は内的身体=善性であると考えられる。端的に、自由とは、本来、この内的身体の精神性に存するのである。内的自由と言う方が明快であろう。】
 以上の検討から、本稿のテーマがより明快に解明されたと言えるだろう。結局、光と影(闇というより、eliot-akira氏の指摘通りに、影が的確である)の即非様相があるということである。これは、既述済みであるが、これで、これまで、私が経験してきた。差異共振的視覚経験をより明確に説明できるだろう。即ち、「私と立山連峰の銀嶺と一体である」という一種神秘的な経験は、影である銀嶺と「わたし」が内的身体の霊を介して、差異共振して、光(+1)を放出した精神現象であると言えるだろう。【そう、神秘主義はこの視点から確認されるべきである。反近代主義の芸術家は、多くが神秘主義的であるが、それは、差異共振的精神現象である光の体験を意味しているだろう。】
 ここで、銀嶺というのがポイントであろう。端的に、光が焦点化されているだろう。雪を頂いた山嶺は強度の光を放出していると言えよう。通常の影を超えて、光を放出していると考えられよう。この放出された光を私は視覚を介して、内的身体で共鳴して、差異共振体験を起したと考えられるのである。
 この銀嶺の強度の光とはどういうことなのだろうか。おそらく、単なる白い光では強度の光にはならないだろう。蛍光灯の白光を見ても、差異共振体験は起らない。何が異なるのだろうか。【ハーマン・メルヴィルの『白鯨』を想起する。】
 思うに、白ということが一つのポイントである。これは、本来、色ではないのである。無色である。ということは、根源的な光、即ち、超越光を意味しているのではないだろうか。ここは実に微妙な問題である。先に、+1が光であると言い、それを影-1として見ると言った。だから、本来、光は差異共振エネルギーの現象化である。ということは、影を仮象ならば、光が超越光ということではないのか。ここは難問である。
 整理すると、影=同一性光とするなら、光=差異共振光=超越光である。用語が混淆してしまい、紛らわしいが、言わんとすることはわかるだろう。
 思うに、影=同一性光の場合は、色彩をもつのである。しかしながら、白光とは、本来、無色彩である。つまり、これは、根源的光、即ち、端的に、光ではないだろうか。
 銀嶺の白とは、この光を意味しているのではないか。だからこそ、「わたし」は視覚を介して、内的身体が賦活されて、銀嶺と差異共振化体験をもったのではないか。つまり、Media Resonance(メディア共鳴)であろう。即ち、雪を頂く山嶺におけるMedia Pointと「わたし」の内的身体のMedia Pointが共鳴したということではないのか。
 ならば、蛍光灯の白光はどうして当てはまらないのだろうか。端的に、強度の問題ではないだろうか。銀嶺の白光と蛍光灯の白光とは、強度が異なるのではないだろうか。端的に言えば、銀嶺は太陽の光を反射しているのであり、蛍光灯は光子を放出しているのである。確かに、銀嶺も光子を放出しているとは言えよう。同じ光子でも、何が異なるのか。
 強度が異なると言ったが、それは、言い換えると、Media Pointの開放の有無に存するのではないのか。思うに、太陽光の場合、Media Pointが開いた光であり、蛍光灯の白光は、Media Point が閉じた光ではないだろうか。いわば、後者は影ではないのか。この問題は難しいので、ここでおいておきたい。
 最後に問題は、色彩の問題である。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。(長い論述となったので、稿を改めて検討を続けたい。)
 

参照:
ゲーテの色彩論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索

色彩論(しきさいろん Zur Farbenlehre)は、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ が1810年 に出した著書。
ゲーテによる光のスペクトル
ゲーテによる光のスペクトル
ゲーテによる闇のスペクトル
ゲーテによる闇のスペクトル

教示篇・論争篇・歴史篇の三部構成からなり、教示篇で色彩 に関する己の基礎理論を展開し、論争篇でニュートン の色彩論を批判し、歴史篇で古代ギリシアから18世紀後半までの色彩論の歴史を辿っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%81%AE%E8%89%B2%E5%BD%A9%E8%AB%96

★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★

色彩と差異共振性:色彩の構造主義とトランス構造主義

テーマ:美術・アート

以下は、次の考察の最後の色彩の問題を取りあげて、考察を継続したものである。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10091680213.html

*******************************

色彩の問題を検討したい。光と影の問題から、色彩の問題が派生するのである。先ず、光を白とすれば、影は黒である。しかしながら、影は光の同一性面である。光は差異共振光である。【用語を整理しよう。+1を光とする。そして、影を「光」とする。すると、光とは差異共振「光」である。】
 影は差異共振「光」の同一性であり、ここにおいて、色彩が生起するのではないだろうか。例えば、緑である。しかしながら、ゲーテの色彩論でわかるように、補色関係が生起するのである。これは、端的に、差異共振「光」の側面に拠るものではないだろうか。
 おそらく、本来、緑と赤が共振した光であり、それが、同一性化によって、緑となるのである。思うに、赤に傾斜したために、緑が排除されて、緑が反射して、緑となるのではないだろうか。
 これは、自己認識方程式で言うと、+iを赤、-iを緑とすると、赤*緑⇒光である。しかしながら、赤に傾斜すると、(+i)^2⇒-1となり、これが、緑ではないだろうか。本来の光は、赤*緑である。しかし、赤に特化したので、緑を排除しているのである。だから、内的身体はバランスを取って、網膜に、赤の残像を発現させるのではないだろうか。
 これは実に興味深い問題である。差異の赤は差異の緑を排除して、結果、同一性の緑色となるのであるが、しかしながら、同一性=緑の基盤には、おそらく、同一性=赤があるのである。そう、これは、正に、構造主義であろう。つまり、差異共振「光」がMedia Pointから放出されるが、現象化において、同一性主義の傾斜が生起する。それが、個別の色彩である。
 具体的に言えば、赤*緑の差異共振「光」があるとしよう。例えば、赤に傾斜するとき、赤が中心化されて、緑が排除される。即ち、赤と緑の二項対立が発生する。そして、排除された緑が色彩として放出されると言えよう。これを見る人が、緑と知覚するのであるが、見る人の内的身体には、差異共振「光」があるので、放出された緑の「光」は、差異共振化されて、緑*赤の差異共振力学によって、赤を発生させるのではないだろうか。この赤が残像となるのではないだろうか。
 精緻化しないといけない。色彩を影=「光」とすると、それは、差異共振「光」の同一性主義化である。それは、他者を排除するのである。他者とは、差異共振「光」である。差異共振極性があり、それが傾斜して、同一性主義化=色彩化するとしよう。この色彩を緑とすれば、補色的に、赤が潜在している。では、この赤とは何だろうか。
 差異共振「光」は対極的な「光」である。これは原型(これは、原光と呼んでいいと思う)である。しかるに、現象化するときに、-1と+1を発現する。例えば、緑は-1である。そして、思うに、緑*赤が+1ではないだろうか。それは、差異共振「光」である。しかし、虚軸では、原光であり、純粋な差異共振性である。
 つまり、問題の核心はMedia Pointの様態にあると思われる。Media Pointにおいて、虚軸の差異共振「光」、即ち、差異共振原光が発出するが、それは同時に、実軸化して、+1と-1を発生させる。+1は純粋な太陽光である。それに対して、同一性に傾斜した「光」=影が発生する。整理するため、+1を差異共振光と、-1を同一性光としよう。即ち、最初に、差異共振原光があり、次に、差異共振光と同一性光が発生するということになる。
 そして、差異共振原光とは、(+i)*(-i)であり、差異共振光とは、具体的に言えば、例えば、赤*緑のような補色的共振関係である。そして、同一性光が当然、個々の色彩である。
 ここで、本題に戻れば、緑の同一性光とは、見る人に対して、緑の視覚と同時に、残像として、赤の視覚を生む。この残像現象であるが、それは、差異共振光の原理に基づくと言えよう。即ち、赤*緑の差異共振光があり、緑の受容に対して、バランス的に、赤を発生させるということではないだろうか。
 だから、色彩論は三元構造である。差異共振原光⇒差異共振光⇒同一性光である。そして、差異共振光の項であるが、ここでは、補色の極性原理がある。これを二元論的な構造と見たのが、構造主義ではないだろうか。だから、ゲーテの色彩論は構造主義の前身であると言えるのではないだろうか。とまれ、整理すると、差異共振原光は、虚軸の垂直原理であるが、差異共振光は実軸の水平原理である。これを確認しておきたい。
 さて、ゲーテの色彩論が構造主義であるということが出たついでに、ゲーテの原植物論等の原型論を考えてみたい。これは、ルドルフ・シュタイナーの霊学(人知学)の霊の問題とも通じるのである。
 原植物とは、有体に、植物のイデアを想起する。都合もあるので、簡単に触れると、これは、色彩論と同様に、差異共振光のレベルに通じるのではないだろうか。つまり、言わば、実軸水平的差異共振原型ではないだろうか。つまり、+1の差異共振性である。言い換えると、Media Pointの実軸的な差異共振性である。そして、これが、理論的には、構造主義と捉えられてきたものと考えられる。そして、プラトンのイデアの一端もこの構造主義であると考えられるだろう。同一性としてのイデアである。
 そして、これは、同一性の構造であり、差異の構造ではないのである。差異共振性とは言え、この差異は同一性的差異に過ぎないのである。
 ここで、ポスト・モダン理論について触れると、結局、ドゥルーズは構造主義の発展に留まり、初期デリダは、思うに、構造主義内の差異に留まったのではないだろうか。おそらく、+1と-1の差異を差延として、-1の同一性主義を解体したのである。しかしながら、これでは、これでは、構造主義内のことではないだろうか。(思うに、ハイデガーもほとんど構造主義ではないだろうか。)
 結局、実軸の差異共振性=構造主義を乗り越える必要があったのである。【山口昌男の神話学も両義性の神話学ということで、結局、構造主義内部である。構造主義のもつ水平的極性を説明しただけだと思われる。】差異ないしは差異共振性の不連続化(即非化)が必要だったのである。この点は既述済みなので、これ以上言わない。
 最後に、シュタイナーの人知学であるが、これは、ほとんど哲学的である。霊的観念論である。彼の悪魔論はほぼ正確ではないかと思う。いったい何が問題なのか。それは、その二元論、霊主体従論にあるのではないだろうか。これでは、精神と身体が分裂しているのである。PS理論では、精神的身体である Media Pointを考えて、いわば、精神・即・身体である。これは、物質的身体の原型でもある。
 この精神と身体との一性(いつせい)があるのであるが、これをシュタイナーの人知学は否定していると思うのである。言い換えると、Media Pointがないのである。垂直性と水平性が分離しているのであり、垂直性が優位であり、水平性が劣位にあるのである。これでは、伝統的な二元論である。だから、それは、水平的な現実に働きかけることができないのである。いわば、逃避的なのである。これは、身体を単に物質的身体としか捉えていないことにも現われているだろう。物質的身体は精神的身体を核としているのである。

2008年04月23日 (02:11)

eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える

eliot-akira氏のコメントに暫定的に答える

テーマ:検討問題

以下、eliot-akira氏のコメントを転載します。とても、鋭い質問だと思います。後で答えたいと思います。
 今簡単に言いますと、以下の最初の質問に関しては、既に、Kaisetsu氏が説かれています。おっしゃる通り、二次元、三次元が可能になると思います。以下のKaisetu氏のブログを参照してください。
http://theory.platonicsynergy.org/

Theories for the Platonic Synergy Concept.

 また、二番目の質問はたいへん興味深いと思います。私は、ホワイトホールのことは考えていませんでした。
 「光を吸収する」ことと「闇を放出する」こととは、とても興味深い事柄だと思います。これも考え方の問題があると思います。例えば、電子を考えると、陽電子があります。電子の流れと陽電子の流れが正反対になると思います。これを使えば、「光の吸収」が「闇の放出」になるのではないでしょうか。(p.s. これは不明瞭な言い方です。電子・陽電子を考えるなら、「光の吸収」と「闇の放出」は同じ事態であっても、異なる事象になりますね。だから、次に言う別の事象という方が適切だと思います。)
 また、両者、別の事象と考えることも可能だと思います。後で、検討したいと思います。
 ホワイトホールですが、よくはわかりませんが、おっしゃる通り、ブラックホールが-1ならば、ホワイトホールは+1になりますね。そして、±0というのは、その通りだと思います。
 

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■質問

Media point を一次元とすると、二次元の media plane や三次元の media space などが可能なのかもしれないと考えが浮かびました。どうでしょうか?

もし不可能なら、なぜそうなのでしょうか。
eliot-akira 2008-04-21 03:38:16

http://ameblo.jp/renshi/entry-10090011698.html#c10121102357



■Whole=Black & White?

これは興味深い題材です。

「光を吸収する」というのは「闇を放出する」ことと同じでしょうか?

ブラックホールに対称するホワイトホールというものがあると聞いた事があります。前者によって吸収される物質や波動が、後者によって放出されるとのことです。これが +1 と -1 によって表現されているのでは?

ということは宇宙という等式において±0という究極的なバランスがある、と見なすことが出来るのかもしれませんね。
eliot-akira 2008-04-17 14:50:36

http://ameblo.jp/renshi/entry-10089001746.html#c10119810222


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母子殺害と犠牲:差異をむき出しにする「神」:絶対的特異性と差異共振性

テーマ:法:憲法・法律・司法・裁判・検察・条約

ここで少し大胆な発想を許されるなら、もし、母子殺害を神が少年に命じたとするならどうだろうか。(それは神ではないという反論は当然あるし、私もそう考えるだろう。)
 ここで、有名なキルケゴールの『おそれとおののき』と考え合わせるとどうだろうか。神はアブラハムに子どものイサクをささげるように告げられて、正に、そうしようとした瞬間に神のストップが入ったのである。しかし、奉献しようとしたのは事実である。
 これを延長して、神へのささげものとして、母子殺害を命じられ、そうしてしまったとしたらどうだろうか。その神が絶対神としたらどうだろうか。神の正義は殺人を命じたのである。しかし、地上の正義は、それは悪とみなす。
 そう、デリダは『死を与える』でこの問題を論じて、結局、現代のわれわれは、日々、アブラハム的奉献を行っていると虚をつかれるようなことを述べている。
 「本土」人は、沖縄人(びと)をアメリカにささげている。原発では、地方の人を、経済のためにささげている。等々である。
 そうすると、この犠牲とはいったいなんなのだろうか、ということになろう。ここに示唆されているのは、きわめて深いアイロニーではないのか。そう、ゆるしの問題ではないのか。特異性=差異共振性の問題だと思う。【p.s.  ここでは、筆がいわばすべっている。アブラハムの場合は、犠牲が苦悩を伴うのであるが、沖縄や原発の場合は苦悩を伴っていない。後者の場合は、犠牲者のあり方が特異性になりうるだろう。差別された側にこの特異性の試練がありうると思う。そう、ヨブ記に似ていると思う。聖書はこの特異性の倫理のあり方を問うている。後で、整理し、再検討したい。p.p.s. もっとも、事実としてみれば、「本土」人が沖縄人を「捧げている」と言えるだろう。だから、キルケゴール/デリダの哲学的事態である。ならば、母子殺人事件はどうなのか。沖縄人を捧げているのとどう違うのか。いったい、裁く権利が我々にあるのか。ここで、カミュ的な問題に逢着する。後で検討を深めたい。】
 関係性が丸裸にされて、根源的な差異がむき出しにされるのではないのか。この根源的な差異が特異性であり、ここから、差異共振性、根源的差異共振性が発するのではないのか。いわば、絶望的希望である。地獄的天国である。
 同一性をすべて剥がされたところから始まる根源的関係性がここでは問題になっているのではないだろうか。そう、正に、絶対矛盾的自己同一である。ニーチェが憐れみを否定するのは、このような意味があるのだろう。

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<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

4月22日12時27分配信 毎日新聞

<光母子殺害>元少年に死刑判決 裁判長は新供述「不自然不合理」、情状「斟酌する理由みじんもない」

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光母子殺害事件の差し戻し審が開かれた広島高裁302号法廷=2008年4月22日午前9時55分、代表撮影
 山口県光市で99年4月、母子を殺害したとして殺人と強姦(ごうかん)致死罪などに問われた当時18歳の元少年(27)に対する差し戻し控訴審の判決公判が22日午前、広島高裁であった。楢崎康英裁判長は「強姦の目的や計画性も否定できない」として、求刑通り死刑を言い渡した。元少年が差し戻し審になって新供述を展開したことを「不自然不合理」とし、弁護側が主張した情状面について「斟酌(しんしゃく)する理由はみじんもない」と述べた。

【関連写真特集】 光母子殺害事件、元少年に死刑判決

 最高裁は06年6月、高裁が認めた情状酌量理由を「死刑を回避するには不十分」として1、2審の無期懲役判決を破棄し、高裁に差し戻した。

 判決によると、元少年は99年4月14日、光市のアパートに住む会社員、本村洋さん(32)方に排水管検査を装って上がり込み、妻の弥生さん(当時23歳)を強姦目的で襲い、抵抗されたため手で首を絞めて殺害。泣き続ける長女夕夏ちゃん(同11カ月)を床にたたきつけた上、首にひもを巻き付けて絞殺した。

 元少年は差し戻し審の公判で、弥生さん殺害について「甘えたい気持ちで抱きつき、反撃され押さえつけたら動かなくなった」とし、夕夏ちゃんについて「泣きやまないので抱いてあやしていたら落とした。首を絞めた認識はない」と述べた。

 供述を変えた理由については、「自白調書は警察や検察に押し付けられ、1、2審は弁護人が無期懲役が妥当と判断して争ってくれなかった」とした。

 判決は「弁護人から捜査段階の調書を差し入れられ、『初めて真実と異なることが記載されているのに気づいた』とするが、ありえない」と、元少年の主張を退けた。

 また、弥生さんの殺害方法について元少年が「押し倒して逆手で首を押さえているうちに亡くなった」としたのに対しても、「不自然な体勢で圧迫死させるのは困難と考えられ、右手で首を押さえていたことを『(元少年が)感触さえ覚えていない』というのは不自然。到底信用できない」とした。夕夏ちゃん殺害についても、「供述は信用できない」と否定した。

 また、元少年が強姦行為について「弥生さんを生き返らせるため」としたことについて、「(荒唐無稽こうとうむけい)な発想であり、死体を前にしてこのようなことを思いつくとは疑わしい」と退けた。

 判決は、「身勝手かつ、自己中心的で、(被害者の)人格を無視した卑劣な犯行」と断じた。

 1、2審は殺害の計画性の無さや更生可能性を重視して無期懲役を選択。最高裁は強姦目的や殺害方法などの事実認定を「揺るぎない」と判断し、情状面からも「量刑は不当で、著しく正義に反する」として審理を差し戻した。

 事件当時、元少年は18歳30日。少年法は18歳未満の被告に死刑を科すことを禁じている。2審の無期懲役判決を差し戻した死刑求刑事件は戦後3例目だが、他の2件は死刑が確定している。【大沢瑞季、安部拓輝、川辺康広】

【特集】 光母子殺害事件 判決の注目点を整理
【関連記事】 光母子殺害:【本村洋さん会見詳細】<1>「裁判所の見解は極めて真っ当」
【関連記事】 光母子殺害事件 検察側の弁論要旨
【関連記事】 光母子殺害事件 弁護側の弁論要旨 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20080422-00000006-maiall-soci


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身体の欠陥と精神:心身関係:Media Pointの精神的身体性:心身相関

テーマ:医学・病気

うつ病は私の周囲にも多い。実母がもう10年近くのうつ病である。おそらく、治らないだろう。
 うつ病は心の病ということで、原因をストレスに見るのだろうが、私は、意外に、身体の故障から精神的障害が生じることもあるのではないかと、逆説的なことを思うのである。
 先に簡単に触れたが、結局、Media Pointが根源であり、ここは、いわば、心と身体が一如である。精神的身体、霊的身体、魂的身体であり、これが基盤・基底となり、物質的身体、肉体が形成されると今は仮説している。
 この根源的な精神的身体は、心であり、且つ、身体である。また、心であり、同時に、身体ではないという即非態でもあろう★。(スピノザの心身平行論は、この精神的身体を仮説すると簡単に説明がつくだろう。スピノザは、この側面を考えなかったのである。)
 だから、当然、心に乱れが生じれば、それが、身体へ影響するのであり、身体に乱れがあれば、心にも影響を及ぼすと言えよう。うつ病の場合は、一般には、前者の場合であり、私がここで述べたいのは、後者である。
 ここで話を拡大して言うと、近代的自我=近代合理主義の狂気と私が言うところの精神のあり方であるが、それは、意外に身体の欠陥から発しているのではないのかと思ったりするのである。
 そう、なんらかのトラウマの可能性はあるが、それ以外に身体の問題がないのかという考え方はどうかということである。
 たとえば、ストレスがあるので、胃潰瘍になるという風に普通は考えられるが、私の作業仮説は、もともと、胃に問題があるので、ストレスの影響を受けやすいのではないのかということである。
 そう、心身相関である。肝臓の悪い人は、どこか精神に問題を抱えていないだろうか。肺臓の悪い人、膵臓の悪い人、心臓の悪い人、等々である。
 私が言いたいことは、結局、きわめて伝統的な心身観(東洋的身体観)に返ることになる。心臓が感情の身体であるというような考えである。肝臓が肝(きも)であり、肝っ玉(大胆さ)を宿すということである。
 この考え方は、Media Pointが精神的身体であるという視点から必然的に出てくるものである。後で精緻に考えたい。

★ここの心と身体の即非性は、直感で言っているので、少し分析が必要である。Media Pointにおける差異=イデアが、心を生み、また、身体を生み出す。これは、同時であるが、様相は異なるのではないだろうか。
 少し、測深想像考察してみよう。Media Pointにおいて、差異共振性と同一性志向性が発生する。後者はフッサールの志向性(ノエシス)と見ていいだろう。それが意識、純粋意識である。しかしながら、前者の差異共振性であるが、それは、いわば、無意識になるのである。そう、無意識であり、身体を形成すると思われる。そして、一般には、身体を物質的身体と捉えるのである。しかしながら、これは、実際は、イデア的身体(差異的身体、差異共振的身体、霊的身体、精神的身体、魂的身体)である。
 だから、この点では、心と身体とは、確かに、即非関係にある。もっとも、この心は同一性的心である。同一性知性である。しかし、精神的知性がありうる。それはどういうものだろうか。
 精神的知性とは、差異共振性=無意識の知性である。それは、また、身体に通じている。端的に言えば、差異共振性=無意識/身体である。だから、精神的知性と身体との関係は、この場合は、イコールではないが、一如であろう。そう、微妙な点がある。
 いったい、差異共振的知性=精神と身体とはどう関係するのか。何故なら、差異共振性も身体であるからである。極言すれば、身体的知性が精神である。この点においては、精神・即非・身体と言うことができる。
 ここでついでながら言うと、Media Pointのもつ差異共振性であるが、それは、超越光の精神的身体(差異共振的身体)と言えるだろう。同一性知覚(通常の視覚)の見る光とは、この超越光の精神的身体から少し洩れる超越光の光輪のようなものではないのか。D.H.ロレンスは光が背を向けていると言っていたが、正に、そうだろう。超越光の背中をわれわれは、現象界において、見ているに過ぎないのだろう。
 思うに、仏像の光背は、超越光を表現しているのだろう。後光とは、正に、裏返しの超越光から洩れるものだろう。
 
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うつ病治療、4人に1人が中断
 うつ病や関連の疾患で受診した経験がある人のうち、症状が治まっていないにもかかわらず、治療を中断するケースが少なくないことが、ファイザーの調査で分かった。精神医療の専門家は「患者が疾患を理解し、安心して治療に専念できる環境を創出できるよう、医師側の意識をさらに高めていく必要がある」と指摘している。(医療介護情報CBニュース)
[記事全文]


# うつ病の治療の基本 - 重症度の波。うつ病治療.com
# 心の風邪「うつ病」を休養と薬でゆっくり治そう - healthクリック
# 家族のための対応ガイド - NHK「うつサポート情報室 」

# 受診経験のある患者における受診行動調査 - ファイザー

# 20〜30代で急増する「社内うつ」 - 日経BP(2006年3月24日)

# 心のケア - Yahoo!トピックス
http://dailynews.yahoo.co.jp/fc/domestic/depressive_disorders/

2008年04月19日 (17:45)

ユダヤ教とプラトニック・シナジー理論:トーラーとイデア

ユダヤ教の誕生―「一神教」成立の謎 (講談社選書メチエ) (単行本(ソフトカバー))荒井 章三 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E6%95%99%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E2%80%95%E3%80%8C%E4%B8%80%E7%A5%9E%E6%95%99%E3%80%8D%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%AE%E8%AC%8E-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E9%81%B8%E6%9B%B8%E3%83%A1%E3%83%81%E3%82%A8-%E8%8D%92%E4%BA%95-%E7%AB%A0%E4%B8%89/dp/toc/4062581140

【・・・「伝承はトーラーの垣根である」という言葉がある(ミシュナ「アボト」[父祖の言葉]三章十三節)。ここでの「トーラー」は本来的な意味での「神の教え」であって、「モーセ五書」を意味するトーラーを初め、預言者も諸冊も含めて、すべての伝承が、本来的な意味での「トーラー」の境界を示し、これを守る垣根としての働きをなすことを意味している。】p.17

【・・・ユダヤ人たちは、トーラーを、単に「モーセ五書」や『聖書(タナッハ)』(・・・)以上のものとして理解している。タルムードを含め、今日までの、あるいはこれから生じる未来のユダヤの伝承や教えの総体なのである。
 トーラーの冒頭の言葉「初めに」(「初めに、神は天地を創造された」「創世記」一章一節)ですらトーラーと結びつけられている。すなわち、トーラーは初めであり、創造原理そのものだった。神はトーラーによって世界を創造し、創造者と被造物との結びつきを初めて可能にしたのである。
「神はトーラーによって天と地とを創造された」。ここには、「箴言(しんげん)」八章二十二節以下の「主は、その道の初めにわたし(知慧)を造られた。いにしえの御業(みわざ)になお、先立って、永遠の昔、わたしは祝別されていた。太初、大地に先立って、わたしは生み出されていた。深淵も水のみなぎる源も、まだ存在しないとき」という「知慧」とトーラーの同定が見られるかもしれないが、トーラーが宇宙の根本原理として世界以前に存在したように、これからも過ぎ去ることなく存在し続けるであろうことが主張されているのである。】p.18〜p.19(色文字強調renshiによる)

私は、特に、シュタイナーによって、ユダヤ教の神の原理が能動的原理であることを知っていたが、以上の荒井氏の明快な言葉で、今更と言うか、目から鱗が落ちた。トーラーとは、通常、モーセ五書を指しているが、単にそれだけではなく、知慧と同定される根源的原理であるということである。すると、これは、イデアとイデア・エネルギー(エネルゲイア)とつながると考えられるのである。端的に言えば、トーラー=イデアであると考えられるのである。
 私は、先に、超越神とは、イデア化の宗教的あり方ではないのかと疑問を提起したが、この図式を使えば、超越神=イデアとなりそうである。もっとも、ユダヤ教では、ヤハウェとトーラー=知慧は区別しているようではあるが。少しこの点を考察してみよう。
 荒井氏の記述では、神がトーラーによって創造したのであり、また、トーラー=知慧(叡知、ソフィアと呼んでいいだろう)は創造以前から存していたとあることから、端的にトーラー=イデアと考えることができそうである。
 問題は、超越神とイデアとの関係である。イデアをデュナミス(潜在態)とエネルゲイア(活動態)に分けて、イデア・デュナミスとイデア・エネルゲイアとしよう。トーラー=知慧はイデア・デュナミスになるだろう。では、イデア・エネルゲイアにするのは何かである。これが、創造である。ユダヤ教では、当然、ヤハウェの意志(光あれ)である。
 プラトニック・シナジー理論(PS理論)では、イデア・エネルゲイア化とは、自然(じねん)と考えるのではないだろうか。つまり、1/4回転によって創造が為されるのであり、それは、自然(じねん)だと考えられる。即ち、差異共振化による1/4回転が生起・発生するのであり、それが創造(天地創造)と考えられるのである。言い換えると、PS理論では、創造神が必要ないのである。イデア・デュナミス=「トーラー」が自然(じねん)にイデア・エネルゲイアとなり、天地を生み出すのである。そう、創造ではなく、産出である。もっとも、広義では、創造も産出も同じことと考えられるが。
 とまれ、ここには、西洋文明と東洋文明の区別が存すると言えるだろう。つまり、創造神が存するのか、否かである。
 ここでは簡潔に直感で言いたい。イデア・エネルゲイアとは確かに、自然(じねん)ではあるが、能動的行為である。だから、この能動的自然(参照:スピノザのナトゥーラ・ナトゥーランス、能産的自然)は、当然、創造的であると言えるのである。自然=創造である。つまり、自然自体がいわば、創造神であるということであり、ユダヤ教のように、イデア=「トーラー」以外に創造神を「設ける」必要はないと考えられるのである。端的に、イデア・即・「創造神」である。有体(ありてい)に言えば、創造神は不要なのである。
 そう考えると、先に私が、イデア知性とはエネルギーを包摂・内包した知性であるということの意味がより明瞭になるだろう。能動・創造性を内包した知性(智慧・叡知・ソフィア)がイデア知性ないしはイデアなのである。【ここで神道を考えるにふさわしいだろう。神道の神ないしは神々とは何か。それは、端的に、イデアであると思うのである。イデアを古代人は神ないしは神々と呼んだと思われるのである(あるいは、超越エネルギーを神ないし神々と呼んだのである)。では、神と神々の区別はどう考えることができるだろうか。これは三柱の神と八百万の神々の区別と言えるだろう。根源的神と被発生的神の相違である。仮説であるが、おそらく、前者の振動数の相違によって後者が説明されると思われるのである。多様な振動数を前者をもちうるのであり、それが、八百万の神々として発現すると考えることができるのではないだろうか。】
 では、イデア=「トーラー」と区別される創造神はどうして発生した(と考えられる)のだろうか。(ヨハネの福音書の「はじめに言葉ありき」の言葉(ロゴス)は、イデア=「トーラー」に相当すると言えよう。p.s. 否、違うかもしれない。以下、参照。)主導的原因と叡知との分離は何を意味するのか。
 PS 理論から見ると、Media Pointの実軸において、同一性=言葉(ロゴス)が形成される。これは、また、同一性志向性=同一性能動性である。つまり、同一性自体が同一性志向性でもある。だから、同一性志向性は同一性主義と言えるだろう。そして、これが、父権的志向性である。
 ここで仮説するに、創造神とは、Media Pointのエネルゲイアであり、それが、同一性志向性=同一性能動性=同一性主義と結びついて発現したものではないだろうか。【だから、フッサールのノエシスに似ているのである。】
 そして、エネルゲイアとは別に、イデア・デュナミスがあるのであり、これが、根源的叡知と考えられるのである。そして、これが、トーラーに相当するのではないかと思われるのである。
 整理すると、Media Pointの同一性エネルゲイアが創造神であり、イデア・デュナミスがトーラーである。イデア・エネルゲイアが同一性エネルゲイアへと転換しとき、イデア・デュナミスと分離したと思われる。これで創造神がトーラーとは区別されることの説明がついたことになる。これは、明らかに、父権的傾斜の衝動である。即ち、同一性傾斜である。【母権的傾斜は、イデア・エネルゲイア=差異共振性の保持ないしは再帰性であると考えられる。】
 そして、ここで、キリスト教を考えると、イデア=トーラーと同一性=言葉(ロゴス)とが「癒着」し、混淆・混同されてしまったのではないだろうか。
 再度整理すると、ユダヤ教の超越神=ヤハウェは、Media Pointの同一性エネルゲイアであり、イデア・デュナミスがトーラーとして存している。しかるに、キリスト教の場合は、イデア・デュナミス=トーラーが同一性=言葉(ロゴス)と混淆されてしまい、知慧と同一性知性(ロゴス)との区別がつかなくなってしまい、また、同一性の強化に伴い、知慧を喪失していったと考えられる。【因みに言えば、ハイデガーが唱える存在の忘却であるが、それは、知慧の喪失ないしはMedia Pointの喪失と見るべきではないだろうか。】ここには、既に、プロテスタンティズムの原型が見られるだろう。
 さて、最後に、先に述べたユダヤ系の東洋性ないしはイデア知性のことであるが、以上から、端的に、ユダヤ教においては、トーラーという形で、イデア知性が存していると考えられるのである。だから、ユダヤ系ロシア人を祖先とするバーンスタインの演奏にイデア知性を感じることはありうることである。
 また、東洋性ということであるが、端的に、それは、Media Point的精神知性の存在のことだと思われる。神道、道教、仏教、ヒンドゥー教等は、これをそれなりに体現していると考えられるのである。
 そうす