--年--月--日 (--:--)

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2012年04月11日 (23:31)

差異と「差異」:内的他者としての差異と外的他者としての「差異」:陰陽の氣としての「光」と自己軸

後で検討したいが、結局、「わたし」は「山」であり、同時に、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるという即非の論理において、「差異」の問題が生じる。
 私がこれまで述べてきた差異とは、「わたし」は「山」であるというときの「山」のことである。
 しかしながら、一般的には、「わたし」は「わたし」であり、「山」は「山」であるというときの「山」を「差異」と考えるだろう。
 何が異なるかといえば、前者は内的他者のことであり、それに「わたし」が一致することを意味し、後者は外的他者のことであり、それと「わたし」は異なることを意味する。後者は同一性としての他者と言えよう。
 思うに、内的他者への感知がポスト・モダンの最良の収穫ではないだろうか。これは、PS理論では絶対的差異である。
 結局、自己とは「わたし(自我)」であり、且つ「非わたし(非自我)」なのである。この二元論(極性)がPS理論の説くところである。
 そして、さらに、両者が(差異)共振するところがPS理論の核心である。
 ところで、今不明なのは、電磁波や量子の位置付けである。
 粒子であり、且つ、波動でもあるという、例えば、「光」の位置付けであるが、直観で言うと、粒子は⇒凹(-1)であり、波動は⇒凸(+1)である。
 両者は同時生起である。だから、即非的生起と言うこともできよう。
 そうすると、「光」とは、凸i☯凹i⇒凸(+1)、凹(-1)の左辺が本体と考えられる。そう、思うに、それは、氣と呼んでいいのではないだろうか。陰陽の氣が「光」であり、それが、粒子と波動を同時・即非生起させると考えられるだろう。
 そうならば、「光」は自己的であると言えるのではないだろうか。それは本当なのだろうか。どうも躊躇するのである。
 何故なら、自己とは自我且つ非自我(内的他者)であり、自我を陽、凸i、非自我を陰、凹iと見ていいのかすぐには首肯できないからである。
 つまり、人間において、自我の作用は非自我の作用よりもはるかに強いからである。とりわけ、父権主義において。
 だから、人間は陽に傾斜していると言えば済むのだろうか。陽に傾斜していても、陰陽の氣においては、陰は開いているのである。言わば、開放系である。それに対して、人間の自我は閉鎖系であり、非自我を排除しているのである。この違いが決定的であると考えられる。
 やはり、ガウス平面に直交するz軸を加えて、それを自己軸とすべきように思われるのである。
 この点はあらためて検討したいので、今はここで留める。

追記:自己軸であるz軸を考えると、仮に、「プラス」の軸に凸zを、「マイナス」の軸に凹zを置く。凸zが自我で、凹zが非自我となる。
 自我は同一性主義であり、それは、非自我を抑圧、排除する。
 とまれ、z軸のMedia Point(虚軸と実軸のmedia pointと区別する。もっとも、重なるのではあるが。)において、凸z側において、視覚や脳の原点があるのではないだろうか。思うに、第二ガウス平面(z軸とx軸の直交座標であるが、超越論的ガウス平面と言えるかもしれない。)において、凸zと凹の領域、第二象限に、脳の領域があるのかもしれない。視覚はMedia Pointの自我側に存するのではないだろうか。
 それに対して、凹zと凹の領域、第三象限は、内臓の領域ではないだろうか。聴覚はMedia Pointの非自我側に存するのではないだろうか。
 次に、凸zと凸の領域、第一象限であるが、それは、純粋理性、理念の領域ではないだろうか。因みに、純粋悟性は凸zの第二象限側に存するのではないだろうか。
 そして、凹zと凸の領域、第四象限であるが、それは、超越界、コスモス界、真のイデア界(これは、純粋理性、理念の世界とは区別される)ではないだろうか。
 ロレンスがdark sun、dark God、cosmosと呼んだものは、この領域の存すると思われる。
 そう、宗教の真の光(「神」)もここに存するように思われる。マニ教の光も当然、ここである。
 以上、作業仮説、思考実験である。後でさらに検討したい。
スポンサーサイト

2012年02月19日 (10:40)

プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み

プラス1とマイナス1の本性の根本問題:初期PS理論への回帰の試み

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

先の論考『連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版 http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11169036692.html』において次のように述べた。

「連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。
 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。
 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。
 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。
 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。」(色文字・下線は本稿での筆者の強調)

上記のように考え直したが、そうすると、だいぶ以前にPS理論の初期にKaisetsu氏が提起したプラス1が光であり、マイナス1が闇であるという視点に回帰するのがいいように思われるのである。
 その場合、凸iは陽/原光(「アポロ」)であり、凹iは陰/原闇(「ディオニュソス」)である。原光と光、原闇と闇は異なる。
 だから、自己認識方程式凸i*凹i⇒+1において、+1は物質ではなく、光、自己である。凸i*凹凹i⇒-1における-1は、闇、あるいは、自我である。
 これは、認識上の事象である。
 人間以外の自然事象において、自己認識方程式において、+1は自然的身体を意味しよう。それは、氣を本質にもつ物質的身体である。そう、単なる物質は-1と思われる。
 仏教的に言えば、-1は無明の世界である。そして、人間認識図は、これまでのものとは左右逆転(言わば、「鏡の国」化)になるだろう。
 即ち、第一象限が道徳・倫理、法等の世界であり、第二象限が物質的言語的生活世界であり、第三象限が物質的欲望、唯物論の世界であり、第四象限が直観の世界であろう。哲学、数学、芸術は第一象限と第四象限の境界、+1の線分領域に存するのではないだろうか。また、科学であるが、近代科学は凸iに近い第一象限ではないだろうか。そして、相対性理論や量子力学は、凸i*凹iの世界、虚軸の世界に属するのではないだろうか。つまり、精神的世界と一致するのである。
 以上、PS理論読み直しの試みであるが、人間認識図の領域区分はまだ暫定的で未確定なので、当然、再考したい。

追記:以上のように考えると、e^iπ+1=0のオイラーの等式を変形させた、e^iπ=-1の-1は、超越的存在ではなく、自我を意味するだろう。
 自我は人間特有・固有の本性である。ルドルフ・シュタイナーは自我(「わたし」)ichを最重視した。
 もっとも、それを+1の自己に変容することが人間存在の基本的課題であるが。

追記2:上記の初期PS理論において、オイラーの公式に規定されたガウス平面(オイラー・ガウス平面と仮称する)の右半円が光の世界、左半円が闇の世界ということになる。
 あるいは、右半円が自然界であり、左半円が人間・人工界である。
 思うに、虚軸を含めて右半円は精神界とも呼べよう。だから、虚軸を含まない左半円は世俗界(娑婆)とも呼べよう。





連続性(連続的同一性)とは物質的様態ではなく、認識的同一性(言語)様態を意味する:修正版

テーマ:media point

先に、『仮説:連続性とは凸iの凹i支配のことである
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11168826166.html』において以下のように述べた。

「結局、連続性とは物質(自我)化を意味するのであり、これが、人間の自然的原理である。しかしながら、鉱物、植物、動物においては異なるだろう。
 例えば、松の木の生成に、凸iの支配が必要だったのか。そうではなく、それは、Vector Modeと考えられる。
 とまれ、ここは微妙な問題である。
 今の段階では、人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれたのに対して、鉱物、植物、動物においては、差異共振のVector Modeが支配的であると考えられる。
 ならば、連続性とは人間において、生起したものである。正確に言えば、人間の精神において生起したものである。身体は差異共振的であると考えられる。」

上述の「連続性とは物質(自我)化を意味する」と「人間においては、凸iが支配的であり、自我的物質様態が生まれた」の箇所は両者ともに、不正確である。
 連続性は自我化ではあっても、物質化ではない。この場合、物質化は違うレベル、端的に、身体のレベルの問題である。
 凸iの支配が、人間のメルクマールである。これは、人間以外の自然にはありえないと考えられる。サルには、自我がないのである。
 この凸iの支配が連続的同一性をもたらすのであるが、この同一性は物質の同一性とは異なる。何故なら、それは、知覚的認識的同一性であるからである。端的に、それは、言語である。
 ならば、物質的同一性は何か。それは、端的に、凸、+1である。
 つまり、凸i*凹i⇒凸(+1)において、右辺の+1は、物質だけでなく、認識的同一性、言語を意味するということである。
 ただし、気をつけるべきは、物質を帰結する自然現象の場合、左辺は差異共振を意味するが、人間の場合は連続的同一性力学、凸iに拠る凹iの同一性支配を意味するという点である。

2011年12月18日 (09:47)

精神と物質:氣と自己:オイラーの公式と回転:自然精神・自己精神の数学精神哲学的力学

お断り:画像付きは以下の母サイトを見られたい。
http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11109976638.html

シュタイナーの名著『自由の哲学』を読みながら、精神が物質を生んだことに明確に得心したが、では、精神の様態はどうなのだろうかと思った。
 結局、量子は氣である。エーテル体である。それは、物質ではなく、物質を生むものである。
 ならば、精神自体はどうなのだろうか。
 私は以前、自我としての凸iは凸iの極大化、アストラル体としての凹iは凹iの極大化と考えたと思う。前者は、シュタイナー的にはアーリマンであり、後者はルシファーであろう。
 言い換えると、同一性主義と、反同一性主義(反動的差異主義)であると考えられる。
 とまれ、問題は自己を形成している精神エネルギーとは端的に何か、である。
 シュタイナーは『自由の哲学』(34才!の著書)では、自己(「自我」)における思考と意志と感情の三位性を説いている。
 思うに、自己の精神エネルギーは氣の変容したものと考えていいのではないだろうか。氣は植物や宇宙を形成する。それは、差異共振エネルギーである。
 それが、人間の場合、屈折していて、独特の凸iと凹iの相互作用が形成されていると考えられる。(凹i/凸i)*(凸i/凹i)⇒凸(+1)と先に提起したが。そう、これは、西田哲学の絶対矛盾的自己同一の公式となろう。とまれ、問題は、これと氣の場合と異なるのか、否かである。凸i*凹i⇒凸も様態はそのようではないのかという疑問である。凹i/凸iは凸iと似ているが、前者には後者にはない志向性が明確に存しているので異なると言えよう。氣は純粋な差異共振であるが、自己精神エネルギーは屈折した差異共振と考えられる。氣ではあるが、特異な氣、特化した氣である。
 これで、一応、本題は解明した。
 次に、問題は、オイラーの公式の意味する事象である。それは、回転を意味するが、それは端的にどういうことなのか。
 それは自然精神(自己精神)の根源的回転(円運動)を意味すると直観で思う。プラトンは円運動を宇宙の根本的運動と捉えた。
 ならば、そのエネルギーはどういう力学なのか。自然精神、自己精神の力学である。
 差異共振(凸i*凹i⇒)は、端的に回転運動と考えられる。つまり、⇒凸(+1)とは、虚数から実数への転換であり、ガウス平面ではπ/2の回転と考えられる。
 思うに、それは数学的力学である。物理的力学以前に数学的力学である。ならば、精神(氣)とは端的に数学的力学をもっているのである。(PS理論からは自明であるが、明確にする必要がある。)
 つまり、数学的精神(氣)が根源的に存するということである。シュタイナー的に言えば、数学的霊mathematical spiritが存するということである。これは、ピュタゴラス/プラトン主義(数学的哲学主義)でもある。
 結局、自然精神、自己精神とは数学的精神(氣)、数学的霊であり、その力学をもつということである。数学精神的力学、数学霊的力学である。それはまた、直観的哲学でもある。だから、数学・哲学的力学が根源に存することになる。それは狭義に言えば、Kaisetsu氏が説くように、第三象限に属すると言えよう。しかし、広義には人間認識図全体に属すると言えよう。
 今はここで留める。


resurrectionのブログ

 
resurrectionのブログ

ガウス平面で表した人間認識の図
ガウス平面で表した人間認識の図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

《ガウス平面で表した人間認識の図》

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208


オイラーの公式
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%AE%E5%85%AC%E5%BC%8F
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: 案内 , 検索

数学 、特に複素解析 におけるオイラーの公式(オイラーのこうしき、Euler's formula、オイラーの恒等式とも)とは、指数関数 と三角関数 の間に成り立つ等式

e^{i\theta} = \cos\theta + i \, \sin\theta

オイラーの公式の幾何的な表示

をいう。ここに、θ は幾何学的には弧度法 に従う角と見なされる実変数 である。三角関数を複素変数に関する解析的関数と考えることで、この等式は θ を複素変数 と見ても成立している。レオンハルト・オイラー に帰せられるためこの名がある。この公式ははじめ、ロジャー・コーツ によって1714年 に提出されたが、その証明は曖昧なものだった。その後オイラーによって1748年 に再発見され、有名になった。

この公式は複素解析をはじめとする純粋数学の様々な分野や、電気工学 ・物理学 などであらわれる微分方程式の解析において重要な役割を演じる。物理学者のリチャード・ファインマン はこの公式を評して「我々の至宝」かつ「すべての数学のなかでもっとも素晴らしい公式」[1] だと述べている。

また、θ = π のとき、オイラーの等式 と呼ばれる

eiπ + 1 = 0

が導かれる。



角運動量
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A7%92%E9%81%8B%E5%8B%95%E9%87%8F
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』


固定された回転軸をもつ系に対して、力を作用させた時の物理量の関係。力のモーメント \vec{\tau} と位置ベクトル \vec{r} と力 \vec{F} との関係(上の式)、および角運動量 \vec{L} と位置ベクトル \vec{r} と運動量 \vec{p} との関係(下の式)。

角運動量(かくうんどうりょう、英語 :angular momentum)とは、運動量 のモーメント を表す力学 の概念である。

位置 \vec{r} において、速度 \vec{v} で運動している質量 \,m の質点の、原点のまわりの角運動量 \vec{L} は、次式で定義される。

\vec{L} \equiv \vec{r} \times \vec{p} = \vec{r} \times m \vec{v} = m \vec{r} \times \frac{d \vec{r}}{dt}

ここで、\,\timesは外積 を表す記号であり、\vec{p} = m \vec{v} は質点の運動量 である。方向は他のモーメント同様\vec{r}から\vec{p}に回転するとき、右ねじの進む方向である。外積であるので、角運動量の大きさ\,Lは次のように表される。

L=rp\,\sin \theta

ここで、\,\thetaは\vec{r}と\vec{p}のなす角を示す。

角運動量の単位時間当たりの変化量 \tfrac{d\vec{L}}{dt}は力のモーメント \vec{N} \equiv \vec{r} \times \vec{F} に等しい。

\frac{d\vec{L}}{dt}=\frac{d(\vec{r}\times \vec{p})}{dt}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}+\vec{r}\times \frac{d\vec{p}}{dt}=\vec{r}\times \vec{F}\equiv N

ここで次の関係を使った。

\frac{d\vec{r}}{dt}\times \vec{p}=\frac{d\vec{r}}{dt}\times (m\frac{d\vec{r}}{dt})=0 ,\frac{d\vec{p}}{dt}=\vec{F}

このことから、力が動径方向(\vec{r}方向)にあるか、あるいは力が働いていないときは\vec{N}=0となり、したがって、このとき角運動量は時間とともに変化しなくなる。このことを角運動量保存の法則(角運動量の保存則)という。

詳細は「角運動量保存の法則 」を参照

保存則が成り立っている物体に加わっている力、すなわち動径方向(\vec{r}方向)と同じ向きにある力は、その大きさを\,f(r)とすると、次のように表すことができる。

\vec{F}=f(r)\vec{\hat{r}},\,\,\,\,\,\hat{r}\equiv \frac{\vec{r}}{r}

この力は中心力と呼ばれる。

惑星間に働く万有引力は中心力であり、したがって、惑星の角運動量は保存される。保存則は、ケプラーの第2法則「面積速度一定」 と密接な関わりがある。単位時間当たりに惑星の掃く面積は、次のように表され、

\frac{dS}{dt}\fallingdotseq \frac{1}{2}r\frac{ds}{dt}=\frac{1}{2}rv=\frac{1}{2m}L

したがって、掃かれる面積の時間による変化率が一定ならば、角運動量も一定の値をとる。

\frac{dS}{dt}=h\Leftrightarrow L=2mh
等速直線運動 においてはベクトル量 である運動量 \vec{p} が時間によらず一定であるのに対し、等速円運動 においては、運動量の大きさは一定であるが、向きは時間により変化する。外力 \vec{F} が加わらないとき、力のモーメント \vec{N} は \,0 であり、角運動量は等速直線運動でも等速円運動でも時間によらず一定のベクトル量となる。


2010-10-24 仮説:フェルミオンは(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で 編集 このエントリーを含むブックマーク CommentsAdd Star

仮説:フェルミオン は(n+1/2)π回転で⇒+1となる。ボゾンはnπ回転で双極子を形成する

直観では、フェルミ ン(フェルミ 粒子)が物質 を形成する。つまり、⇒+1である。それに対して、ボゾン(ボース粒子)は、⇒である。即ち、双極子、凸i*凹iである。

 そう考えると、ボゾンである光子 が質量 がないのがうまく説明がつくだろうし、フェルミ ンである電子 が質量 をもつのも説明できるのではないだろうか。

 問題はボゾンの「粒子」性をどう説明するかである。これは、直観では、同一性志向 性である。つまり、粒子志向 性であり、粒子自体ではないのではないだろうか。つまり、「波動 」と見た方がよいのではないだろうか。

 後で再検討 したい。

追記:同一性志向 性は、粒子(物質 )のように「見える」であり、実際は粒子ではないと考えられる。それは、双極子であり、それ自体は粒子ではない。いわば、エネルギー 子である。

 問題は、粒子と「波動 」とは何かの問題になっている。いったい、双極子凸i*凹iとは何か。それは、根源的には、-1の超越的物質 から発するだろう。だから、超越的双極子と言えるかもしれない。つまり、「ダーク・マター」の極性である。

 とまれ、問題は何故、双極子が粒子に見えるのかである。観測装置 の対象が粒子(物質 )を基準としているので、そうなるというのは、一理である。

 しかしながら、本質的 理由があるだろう。そう、やはり、Media Point である。それは、穴である。その穴を粒子として取り違えているのではないだろうか。


参考:

素粒子

出典: フリー 百科事典 『ウィキペディア (Wikipedia )』

移動: ナビゲーション , 検索

曖昧さ回避 この項目では、物質 を構成する最小の単位 について記述 しています。その他の用法については「素粒子 (曖昧さ回避 ) 」をご覧ください。

物理学 において素粒子 (そりゅうし)とは、物質 を構成する最小の単位 のことである。

最小の単位 であるということは、それより小さな存在 がないということであり、従って内部構造 を持たず空間 的な大きさを持たない・または空間 ・長さ自体が最小単位 の大きさ(空間 最小単位 の候補の例としてはプランク長 等)とされるのだが、超弦理論 においては全ての素粒子 は有限な大きさを持つひもの振動状態であるとされる。

現在 のところ物質 を構成する素粒子 と考えられているものは、クォーク とレプトン である。だが、これらに内部構造 が存在 することが発見 されれば、その内部構造 を構成するもののほうが素粒子 と呼ばれ、クォーク やレプトン は素粒子 ではないということになる。クォーク やレプトン の大きさはわかっていないが、仮に有限の大きさがあるとしても陽子 のスケール においても点とみなすことができる大きさである。

たくさんの粒子が、実は自然 界にそのまま安定的に存在 しているわけではないので、宇宙線 の観測や加速器 による生成反応により発見 ・研究 された。素粒子 の様々な性質を実験 で調べ、それを理論 的に体系化していくこと、及び理論 的に予言 される素粒子 を実験 で探索していくことが、素粒子物理学 の研究 目的 である。

素粒子 の分類 [編集 ]

ボソン (ボース統計 に従う粒子) [編集 ]

* ゲージ粒子 - 素粒子 間の相互作用 (力)を伝搬する粒子

o 光子 - 電磁気 力 を媒介 する

o ウィークボソン - 弱い力 を媒介 する。 W+, W-, Z0 の3種類。

o グルーオン - 強い力 を媒介 する。8種類存在 する。

o 重力子 - 重力 を媒介 する(未発見 )。

* ヒッグス粒子 - 粒子に質量 を与える(未発見 )。

フェルミオン (フェルミ 統計 に従う粒子) [編集 ]

* レプトン (6種類)

o 荷電レプトン - 電荷 -1 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ 電子 - 原子 の構成要素として一般に良く知られる。電子 の反粒子 は陽電子 と呼ばれる。

+ ミュー粒子

+ タウ粒子

o ニュートリノ

+ 電子 ニュートリノ

+ ミューニュートリノ

+ タウニ ュートリノ

* クォーク - ハドロン の構成要素とされる(6種類)。

o 上系列 - 電荷 +2/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ アップクォーク

+ チャームクォーク

+ トップクォーク

o 下系列 - 電荷 -1/3 を持ち、それぞれに反粒子 が存在 する。

+ ダウンクォーク

+ ストレンジ クォーク

+ ボトムクォーク

クォーク とレプトン の分類表 [編集 ]

クォーク とレプトン は以下のように、世代によって分類される。傾向として、世代数 が大きいほど質量 が大きいとされている。

電荷 第1世代 第2世代 第3世代

クォーク

1. 2/3 アップクォーク (u) チャームクォーク (c) トップクォーク (t)

-1/3 ダウンクォーク (d) ストレンジ クォーク (s) ボトムクォーク (b)

レプトン

-1 電子 (e) ミュー粒子 (μ) タウ粒子 (τ)

0 電子 ニュートリノ (νe) ミューニュートリノ (νμ) タウニ ュートリノ (ντ)

関連項目 [編集 ]

* 標準模型

* 基本粒子

* 素粒子物理学

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B4%A0%E7%B2%92%E5%AD%90
http://d.hatena.ne.jp/antares/20101024

2011年10月24日 (14:09)

『闇と光の拮抗:1:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』

»
resurrection
neomanichaeist resurrection
『闇と光の拮抗:1:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』 amba.to/pWKkM2 『闇と光の拮抗:2:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』 amba.to/pUE1TY 一連の投稿を二つに分けまとめました。御高覧いただければ幸いです
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
『闇と光の拮抗:2:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』 amba.to/pUE1TY 先の一連の投稿を二つにわけてまとめました。御高覧いただければ幸いです。
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
『闇と光の拮抗:1:ツイッターにおけるPS理論の紹介を兼ねて』 amba.to/pWKkM2 先の一連の投稿を二つにわけてまとめました。御高覧いただければ幸いです。
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
ガウス平面で虚軸と実軸の直交する原点がmedia pointとなる。特異点。その虚軸が霊魂であり、実軸が自我である。今は以上で留める。 @neomanichaeist PS理論では凸i*凹i⇒凸(+1)を自己認識方程式と呼ぶ。シンプルに言えば、i*(-i)⇒+1である。*は積。
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
PS理論では凸i*凹i⇒凸(+1)を自己認識方程式と呼ぶ。シンプルに言えば、i*(-i)⇒+1である。*は積。 @neomanichaeist ここでこの理論(PS理論)ははっきりと超越哲学の姿をとる。そして、霊、霊魂の問題を明確にする。それはガウス平面の虚軸の原点に存する。
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
ここでこの理論(PS理論)ははっきりと超越哲学の姿をとる。そして、霊、霊魂の問題を明確にする。それはガウス平面の虚軸の原点に存する。 @neomanichaeist 所謂ポスト・モダンではデリダがこの真理に一番近づいた。しかし、彼はハイデガーに影響されて、超越性を否定した。
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
所謂ポスト・モダンではデリダがこの真理に一番近づいた。しかし、彼はハイデガーに影響されて、超越性を否定した。 @neomanichaeist 闇と光の拮抗動態は常時変化するので、同一性の真理がない。永遠の差異の真理しかない。近代乃至西洋の問題は揺らぎを固定化しようとしたこと
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
闇と光の拮抗動態は常時変化するので、同一性の真理がない。永遠の差異の真理しかない。近代乃至西洋の問題は揺らぎを固定化しようとしたこと @neomanichaeist 結論が出たので、ユング心理学の欠点を言うと、個性化は闇と光を統一させるということが誤謬である。闇と光は拮抗する。
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
結論が出たので、ユング心理学の欠点を言うと、個性化は闇と光を統一させるということが誤謬である。闇と光は拮抗する。 @neomanichaeist 闇と光の拮抗、これこそ真正な陰陽性だろう。この超越的存在の不可視エネルギーを受容した闇の個=他者と光の自我との拮抗こそ、真の内的現実
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
闇と光の拮抗、これこそ真正な陰陽性だろう。この超越的存在の不可視エネルギーを受容した闇の個=他者と光の自我との拮抗こそ、真の内的現実 @neomanichaeist 本題に戻り、まとめると、不可視エネルギーは闇で受容し個=他者・絶対的他者を形成する必要がある。闇は光と拮抗する。
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
本題に戻り、まとめると、不可視エネルギーは闇で受容し個=他者・絶対的他者を形成する必要がある。闇は光と拮抗する。 @neomanichaeist 個即他者・絶対的他者が新社会、新共同体の原点にならなくはならない。真正な民主主義の原点もここになくてはならない。個即他者の民主主義。
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
個即他者・絶対的他者が新社会、新共同体の原点にならなくはならない。真正な民主主義の原点もここになくてはならない。個即他者の民主主義。 @neomanichaeist ここに実に不思議な事象が生起する。不可視エネルギーを受容した陰闇は個となるが、実は個は他者、絶対的他者である
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
ここに実に不思議な事象が生起する。不可視エネルギーを受容した陰闇は個となるが、実は個は他者、絶対的他者である @neomanichaeist 正確に言うと、不可視エネルギーは光と闇の陰陽精神で受容すべきだろうが、基本は闇、陰(陰闇)である。陰闇で受容したとき、それは個を形成する
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
正確に言うと、不可視エネルギーは光と闇の陰陽精神で受容すべきだろうが、基本は闇、陰(陰闇)である。陰闇で受容したとき、それは個を形成する。 @neomanichaeist 不可視エネルギーを闇の側面で受容することが、本来的だろう。光で受容すると自我的、権力的になる。宗教の権力化
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
不可視エネルギーを闇の側面で受容することが、本来的だろう。光で受容すると自我的、権力的になる。宗教の権力化 @neomanichaeist 不可視のエネルギー(dark energy?)を光の側面で認識することは自我的であり、精神的ではない。それを闇の側面で受容することの必要
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
不可視のエネルギー(dark energy?)を光の側面で認識することは自我的であり、精神的ではない。それを闇の側面で受容する @neomanichaeist 宗教の説く「光」とは超越的存在から発するエネルギーだろう。が、本来不可視では?それを闇でなく光で認識する問題がある
23時間前 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
宗教の説く「光」とは超越的存在から発するエネルギーだろう。が、本来不可視では?それを闇でなく光で認識する問題がある @neomanichaeist 五感を光とすると、精神・霊は闇では?光の感覚に闇の感性が浸透するので、それを直観する必要。闇の感性に霊性が存する。.光を超える闇
10月23日 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
五感を光とすると、精神・霊は闇では?光の感覚に闇の感性が浸透するので、それを直観する必要。闇の感性に霊性が存する。この闇から放射能汚染に対処できる。光を超える闇 @neomanichaeist 放射能汚染時代は哲学時代。但し感覚には精神、霊と通じている領域がある。芸術は本来そこ
10月23日 お気に入りに登録 返信 削除
»
resurrection
neomanichaeist resurrection
@
放射能汚染時代は哲学時代。但し感覚には精神、霊と通じている領域がある。芸術は本来そこ @kentarotakahash @thou77angis @seinaonana 五感で感じとれることの中には、放射能は存在しない。非情なロシアンルーレットは知性を働かさないと感知できない。

2011年06月12日 (23:19)

PS理論で世界の構造は解明できた

PS理論で世界の構造は解明できた

テーマ:PS理論:プラトニック・シナジー理論

PS理論によって、世界の構造は解明できたと考えられる。
 media pointと精神的フィルター(連続的同一性形成構造)の二つが世界の根本構造である。そして、二つが不連続であるというのが核心である。
 media pointが生成・創造の種子であるが、根源に凹(-1)がある。そして、それが、展開して、物質現象を発現するのである。
 このmedia pointの不連続性こそ、現象形成の核心であり、これまでの理論はそれを解明することができなかったのである。ドゥルーズの「哲学」でわかるように、通常、連続的に理解してきたのである。
 問題は現象生成(消滅)の意味である。とりわけ、人間現象の意味である。そのレゾン・デートルは何か。
 直観では、media pointは永遠である。それは、超越的存在の凹を背後にもっている。個即超越性である。
 いわゆる、霊spiritとは、media pointないしは超越的media point である。
 これは永遠不滅である。プラトンの不死の魂である。ウパニシャッド哲学のアートマンに相当しよう。そうすると、輪廻転生が生起することになる。ただし、それは、個のそれであり、自我のそれではない。
 問題はmedia pointと凹の関係なのである。凹⇒凸i*凹iはわかるが、果たしてそれだけなのか。
 直観で言うと、凹とは超越的個のことではないのか。つまり、一種の超越的差異ではないのか。
 しかし、凸i*凹iが超越的差異ではないのかという疑問もある。
 凸i*凹iは虚数的差異であり、超越的差異ではないのではないだろうか。
 とまれ、凹は神即個ではないだろうか。「汝はそれなり」は正に、凹ではないのか。

参照:
「意識と本質。」  book
研究会で読んでいる論文の下調べもあって、いままた久しぶりに井筒俊彦 の著作をひもといている。
で、昨日は書店でワイド版岩波文庫の『意識と本質』 を買ってしまった。
たぶん、部屋の中を探せば、1983年の岩波書店版も1991年の岩波文庫版もあるはずだ。
だが、もしかしたら、いつか研究会でみんなで読めたらなあ、そのときには文字が大きくて読みやすい方がいいよなあ(単行本版はすでに入手困難になっている、ぼくの部屋においても入手困難である)、なんて妄想がふと脳裡をよぎったのであろう、最近小さな文字を読むのが至難の技になってきたぼく自身のためにも、こうしてワイド版を購入したというわけ。

この著作は表題の大論文以外にも三つの論文が掲載されている。
以下のとおりである。

意識と本質―東洋哲学の共時的構造化のために
本質直観―イスラーム哲学断章
禅における言語的意味の問題
対話と非対話―禅問答についての一考察

もちろん全体の3/4を占める「意識と本質」がもっとも重要な論文だ。
これは雑誌「思想」に、1980年から1982年にかけて8回に渡って同名のタイトルで連載されたものである。
当時ぼくは大学生で、とにかく言語というものに強い憧憬と劣等感をもっていた。

言語が世界を、身体を統括する。
そう信じていた(今でも少し信じている。言語が世界を平和にすることは難しいけど)。

そこに三十以上の言語を自在に駆使し、この世のあらゆる宗教や思想を自家薬籠中のものとしている、真の博覧強記の知識人である井筒俊彦 が連載を開始した。
わからないながらに、次号(不定期で掲載されていた)が楽しみでならなかった。
当時は植物生化学の実験に明け暮れていた頃で、それと「思想」誌とのギャップの大きさは、かえって井筒思想の輪郭を明確なものにしてくれていた。
実験室で扱われている細胞(ぼくはトウモロコシやホウレンソウの葉肉細胞というものを研究していた)にも神秘があった。
そして同時に井筒の論文そのものがぼくにとっては神秘だった。

いま慌てて何度目かの読み直しを始めている。
そして、このワイド版と同時に購入した『イスラーム思想史』(中公文庫、2005)も合わせて広げている。
この著作もすでに1991年に中公文庫より刊行されていたが、このご時世、新たに「TAT TVAM ASI(汝はそれなり)」という論文(平成元年四月、日本学士院例会における報告文、「思想」1989年6月号に掲載)を新たに加えて発行されたのである。
まだ途中だが、解説の牧野信也によれば「著者が生前にイスラーム神秘主義の探求によって到達した最高の境地が開示されている」とのこと。
タイトルについてだけ、井筒の言葉を引用する。

Tat tvam asi(「汝はそれなり」)は、ウパニシャドの宗教的・哲学的思想の精髄(エッセンス)を一文に収約したものとされ、特にヴェーダンタ哲学の伝統では「大文章(マハーヴァーキャ)」(=根本命題)と称され、古来インド系思想の特徴ある基礎観念として絶大な働きをなしてきたものである。「汝はそれなり」。「汝(トヴァム)」とは個我、すなわち個的人間の主体性の中心軸、いわゆるアートマンのことであり、「それ(タット)」とは全存在世界の根源的リアリティ、万有の形而上学的最高原理、いわゆるブラフマンのこと。要するに、「汝はそれなり」とは、アートマンとブラフマンの一致、すなわち、個的人間の主体性は、その存在の極処において、全宇宙の究極的根底である絶対者、ブラフマンと完全に一致するということを意味する。(421-422頁)


イスラーム思想についての記述のはずなのに、なぜインド思想なのかと云えば、スーフィズムにインド思想が濃厚に流入されてきた時代がアッバス期にあって、そのときの立役者であったバーヤジード・バスターミーについての論考だからだ。

いまの引用を一瞥するだけで、ただちに西田幾多郎 の「私と汝」などを想起するのはそう困難なことではない。

井筒も上記引用のすぐ近くでこのように記述している。

一例をあげるなら、西田幾多郎の語る「二つの我」など。「自分の心の中に現実の我と高次の我との二つの我があって、その二つの我が一致すること」について西田は語り、そのことの主体的覚知を、重大な宗教的出来事として「回心(コンヴァーシオン)」と呼ぶ。二つの我があるという主体的状態は、実は、自我があるべき姿を失って分裂している状態だと彼は言う。(以下略)


そのあとは、西田がウィリアム・ジェームスの思想から自論を展開してゆくプロセスが述べられているが、ぼくたちはここから木村敏の現象学的精神病理学などを思い出すこともできるだろう。

このように書いてくると、ぼく自身が直接間接に井筒俊彦の著作から影響を受けていることがよくわかる。
そのことは、今回は『意識と本質』の「後記」において強く感じられた。
井筒は「自分の実存の『根』は、やっぱり東洋にあったのだと、しみじみ感じるようになった。(…)それは(…)自分自身の内面に私の東洋(原文は傍点)を発見することでもあった」と述べている。
もちろん、それが単なるノスタルジックな東洋趣味でもなければ、「齢七十」近くになってからの弱気な東洋回帰でもないことは云うまでもない。

そうではなくて、東洋思想から開始して東洋思想へと終結するような壮大な<井筒哲学>の始まりを、彼は宣言していたのだ。
その方法として選ばれたのは、副題にも添えられていた「共時的構造化」というものである。
引用ばかりで恐縮だが、要約するよりもはるかに的確なのでご勘弁を。

この操作は(…)、東洋の主要な哲学的諸伝統を、現在の時点で、一つの理論的平面に移し、空間的に配置しなおすことから始まる。つまり、東洋哲学の諸伝統を、時間軸からはずし、それらを範型論的(パラディグマティック)に組み換えることによって、それらすべてを構造的に包みこむ一つの思想連関的空間を、人為的に創り出そうとするのだ。


これを簡単に「構造主義」とか「脱構築」なんて字面で捉えてはいけない。
思想の空間化は、ときとして平坦化の弊害をもたらす危険性がある。
どの思想も等しい比重を持たされて配置されてしまうからである。
だが、地図にも文字通り「地(海)」と「図(陸)」があるように、思想(哲学的諸伝統)もまたそうした色分けが可能となる。
云ってみれば、そのときのセンスこそが、その哲学者のクオリティを決めるのである。

ふつう、人はこの思想地図を作ろうと思う段階で、挫折を余儀なくされる。
地図のピースたる「東洋の主要な哲学的諸伝統」を蒐集することなど不可能だからだ。

井筒俊彦という巨大な知性がいて、われら日本人は幸甚の極みであると感謝しなければならない。
そして、彼が描いた東洋思想の地図はそれほど解釈もされていなければ、その地図を使って、さらなる思想の大海原へと旅たった者も少ないのである。

井筒俊彦という「世界言語」への憧憬と劣等感とが、再び甦ってきた。
http://green.ap.teacup.com/april/8.html
芸術生理学研究所(仮)



Sun, June 12, 2011
復習:黄金比とフラクタル:「わたし」ないし個の問題

テーマ:media point

黄金比で例えば、正五角形は説明できる。だから、花弁の数はこれで説明できる。そして、つるまき植物の葉や花を秩序も同様である。これらはベクトル・モードである。
 では、フラクタルはどうなるのか。これもベクトル・モードと一如である。例えば、正五角形に正五角形のフラクタルができる。
 敷延すれば、物質的現象はこれですべて説明できる。しかしながら、質的ないし個的なものはこれでは説明できないのではないだろうか。「わたし」はそこからは洩れてしまうだろう。
 もっとも、media pointを基点にすると、森羅万象、個的にはなるが、今はそこまで論じないで、質と量の視点から考える。
 もっとも、個についても既述済みだ。それは、凸iの極大化の固定化と凹iの極大化の固定化の「差異」に生じるものである。人間以外では、この固定化はないと考える。
 以上はまったく再確認である。新しいことはなにもない。

2011年05月14日 (21:29)

生命体と無機物:差異共振活性的物質体と差異共振潜在的物質体:凸i傾斜から再差異共振化への進化

生命体は差異共振が生み出すものと考えられる。(知的生命体も同様)
 そして、生命体とは、差異共振性を内在する連続的同一性物質体と考えられる。
 そして、無機物ないしは鉱物とは、生命的差異共振性のない、物質体ということになるが、それでも、なんらかの差異共振があるとは当然考えられる。
 つまり、PS理論では、凸i*凹i⇒凸(+1)が基本方程式なので、物質体凸は、左辺の差異共振様態から生成したということとなる。
 しかしながら、生命体と物質体が異なるのは、左辺の積極的存在の有無にあるのではないだろうか。即ち、生命体の場合は、差異共振様態が生命エネルギー体(「気」)であり、それが、右辺の物質体凸(+1)を活性化していると考えられるのである。言い換えると、生命体の本質は差異共振エネルギー(「気」)であり、それは、精神的エネルギーであるということであり、現象としての物質体は表層、表面に過ぎないということである。
 それに対して、無機物、鉱物のような物質体の場合、本質は右辺であり、左辺は原因に過ぎず、右辺が生成した後は、左辺は潜在的様態、ポテンシャル・エネルギーの様態にあると思われるのである。
 また、有機体の問題があるが、前者はより生命体に近い物質体と考えれば、無機物との違いが明快になるだろう。
 ということで、生命体と物質体(無機物、鉱物)とは、自己認識方程式(現象方程式ないしは存在方程式とも呼べよう)である凸i*凹i⇒凸(+1)においては、共通性をもつものの、その様態はまったく異なることになる。生命体は左辺が主体であり、結果の右辺が表層に過ぎないが、物質体は右辺が主体であり、左辺は潜在態として存するに過ぎないことになる。
 ここで、核分裂における放射能物質を考えると、例えば、ウラン235に中性子を衝突させて、核分裂させるが、その衝突とは、新たな差異共振化であり、その結果、核分裂反応が起きると考えられる。しかし、その反応の結果はあくまで、右辺にあると言えよう。
 以下の核分裂反応式では、凸i*凹i⇒凸(+1)の左辺が→にところに隠れていると見るべきであろう。

 ウラン(U235)+中性子(n) → バリウム(Ba144)+クリプトン(Kr89)+3個の中性子(3n)

http://www.iae.or.jp/energyinfo/energydata/data3005.html

 以上から生命体と物質体(無機物、鉱物)の質的差異の説明を試論したが、さらに問題は知的生命体(あるいは、自己的生命体)と自然の生命体の違いはどう説明できるのかである。
 これは既に解明を試みているのである。植物は差異共振体であり、動物は凹iの傾斜性をもつ。そして、人間は凸iの傾斜性をもつと考えられる。
 何度も既述したが、人間の凸iの傾斜が知を生み出したのであるが、それは、物質的ないし自我的知性であり、植物的様態、動物的様態を阻害すると考えられる。つまり、人間においては自然としての欠損があるのである。
 故に、凹iへ回帰して、再差異共振化へと進展することが、現代の人類の精神的課題である。Re-difference-resonanciation これは脱父権主義=新母権主義でもある。 

2011年03月15日 (23:31)

『気』超越的エネルギーについて:不可視界と物質界:超越的絶対的「知即存在」と『気』の精神

テーマ:神道ルネサンス:気と東洋文明:新マニ教

東日本大『神』災は、『気』、つまり、宇宙エネルギー(コズミック・エネルギー)によって引き起こされたと私は仮説している。
 『気』とは、不可視であり、また、一般には感知されていない。しかしながら、東洋文化は、伝統的に、『気』の文化であり、それを否定することは、東洋文化を否定することである。
 先に述べたように、明治近代西洋化と戦後は近代合理主義を中心化して、日本における東洋文化を否定してきたのであり、そのため、『気』は一般的認識から排除されることになったのである。
 意識や心を形成しているものも『気』と考えられるが、自我のもつ連続的同一性によって、『気』が自我と一体化していて、的確に言えば、即自化しているので、『気』を対象化できないと考えられるのである。
 それは、一般的なことであるが、ここで、私自身の経験に即して考えたい。
 私は戦後以降の物質主義・唯物論的科学教育を刷り込まれて成長した人間であるが、二十歳前後であろうか、シューベルトの『冬の旅』を聴いて、胸中になにかある「存在」、事象が感じられたのである。
 そう、物質科学的知性と胸中の感性、この二つに私の意識は分裂したのである。
 ある意味で私の半生はこれをどう統一するかにあったと言えよう。深層心理学(フロイト、ユング)を読み、また、ユング心理学の研究者であった湯浅泰雄氏の著作を読んで、ユング心理学から『気』の研究へと進んだのに注目した。そう、そこで、胸中の感性は単に自己の主観性だけでなく、物質的身体を超えたものであることが確認されたので、近代的自我を超えた視点をもつことができたのである。
 それは、今から言えば、不可視的エネルギーの確認であったと言えよう。その後、それが、私の中では、「コスモス」cosmos(宇宙)と結びついていったのである。
 しかしながら、この『気』の感性と物質的合理的知性とは分裂したままであった。カントの判断力批判から、構想力(想像力)によって、両者をつなげる試みもしたが、それは、まだ、統一的視点にはならなかったのである。
 その後、いわゆる、ポスト構造主義等の思考に触れて、差異の哲学を知ることになった。ドゥルーズ哲学に触れた後、スピノザ哲学に感動して、個と共同体の「精神」をほぼ形成していたのである。それは、原不連続的差異論であり、原PS理論であった。その後の展開はスレッド、『不連続的差異論の誕生』で知ることができるので、ここでは述べない。
 ここで述べたいことは、『気』の感性、正確には、『気』の精神である。これが、不可視界を形成していることがほぼわかっている。この不可視界は、Kaisetsu氏の人間認識図で言えば、ガウス平面の第三象限に当たると考えられる。

人間認識図

         人間認識図

 そして、『気』の感性、『気』の直観・直感とは、陰陽(凸i*凹i)の共振に存すると思われる。これもほぼ不可視界に存すると思われる。
 問題は、不可視界と『気』の精神との関係である。ここに、宇宙の秘密があると考えられる。
 まだ十分判明していないが、『気』の精神はmedia point(陰陽交叉点)と凹i(陰)に存すると思われるのである。あるいは、media pointに存するのかもしれない。この点がまだ判明していないのである。
 確かに、経験的基礎は凹i(陰・肚)にあるが、主に感知するのは、media point(陰陽交差点・心胸・差異均衡点)のように思えるのである。思うに、以前述べたように、差異均衡が形成されたときに、『気』の精神が発動するので、それは、media pointの賦活であり、また、凹iの直感を意味すると考えられるのである。この問題は、いちおう、これで済んだこととする。
 では、本題に入ると、『気』の精神と不可視界(第三象限、コスモス)はどう関係するのか。
 直感で言うと、『気』の精神は凹(超越的存在)に接触しているのである。あるいは、一体、一如である。以前、即非的事象の一如性について述べたが、即非的事象の半面は『気』の精神と凹の接触、すなわち、第三象限であると思われるのである。即ち、「わたし」は「樹木」であり、且つ、「わたし」は「樹木」でないという即非的事象の前者がそれだと考えられる。それは、神秘主義的融即に似ている。
 そう、差異均衡点で『気』の精神と凹との接触があるというのだから、第三象限的認知は、即非的事象を帯びると言えよう。
 とまれ、本題に集中しよう。『気』の精神と凹の接触であるが、それは、凹i(陰、他者)を介するのであり、このとき、自我中心的態度は否定されるのである。自我はあるが、自我主義ではなくなるのである。
 この他者的精神と不可視界ないし超越的存在は繋がっているのである。ここで、わかりやすくするために、超越的存在を『神』と呼ぼう。宇宙創造神としてもいいし、グノーシス主義的ないしマニ教的に、至高神としてもいい。あるいは、宇宙論的に、ビッグ・バンを形成する超越的原点(母点)と見てもいいだろう。
 ともあれ、そこには、根源的な力・エネルギー(ポテンシャル・エネルギー)が存していると考えられる。
 それはまた、以前に述べた「知即存在」であると考えられる。つまり、「知即存在」である根源的力・エネルギーである。この根源的「知即存在」が他者的精神、凹iに働きかけるのではないだろうか。つまり、超越的絶対的「知即存在」が、個における凹i、他者的精神に働きかけると考えられるのである。端的に言えば、個における凹i、他者的精神において、超越的絶対的「知即存在」がいわば、臨在しているのである。
 そして、超越的絶対的「知即存在」とは、単に、人間を創造・形成し関与するだけでなく、森羅万象を創造・形成し関与すると考えられるのである。
 もし、人間が凹iの他者的精神を喪失した場合、どうなるのだろうか。超越的絶対的「知即存在」は、その力・エネルギーを能動的に発動させることができなくなると考えられる。そのため、未使用の力・エネルギーを人間以外に振り向けるということになるのではないだろうか。
 端的に言えば、あるいは、有り体に言えば、超越的絶対的「知即存在」は、人間が「消費」しない余剰の力・エネルギーを他の事象に振り向けるということになるのではないだろうか。即ち、地球という惑星自体に働きかけるのである。地球のマグマ、活断層、プレートに働きかけるのではないだろうか。
 そうならば、大地が活性化して、火山活動や地震が増加すると考えられるのである。人間によって、使われない宇宙的エネルギーを地球に振り向けるのである。(これを書いたとき、地震が起きた。震度4と外で、市の防災が放送している。なにかまだ揺れそうだ。みしみししている。)
 今回の東日本大『神』災はこのように作業仮説的に説明するのである。
 後でさらに検討したい。

追記:人間に否定される超越的絶対的「知即存在」のエネルギーとは、超越的絶対的「知即存在」にとって、「被造物」である人間によって自己自身が否定されたのであるから、つまり、人間の尊大な行為によって否定されたので、「怒り」、「憤慨」を覚えると言えよう。この「怒り」が人間に向けられるということも考えられる。

2011年01月12日 (13:33)

凸i=原光と凸=物質、又、凹i=原闇と凹=超越的存在:凹凸i*凹i⇒凹(-1/超越的存在)

凸i=原光と凸=物質、又、凹i=原闇と凹=超越的存在:凹凸i*凹i⇒凹(-1/超越的存在)

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

今は一言述べるだけだが、近代的意識において、凸iの自我が突出して、凹iの他者ないし無意識が忘却されていると言えよう。
 凸iは可視的に凸=物質に関わるが、無意識の凹iは不可視的であり、それは、凹=超越的存在に関係すると考えられるのである。いわゆる、神秘主義は、この側面が中心化したものだろう。
 凹=超越的存在は、神と言ってもいいし、霊と言ってもいいだろう。しかし、唯一神や多神教のように一や多が入るのは、凸iの計算が入っていると思われる。だから、第二象限的である。
 そう、凸iは原光であり、凹iは原闇であるが、超越的存在とは、どうも、凹iと強く関わっているように思えるのである。なぜなら、凸iは「光」的であり、物質へと傾斜するからである。
 私が以前、超越光と言ったのは、思うに、凹iを介して、直感した凹が凸iの視覚に感受されたものかもしれない。
 とまれ、凹iと凹との関係を厳密に解明する必要がある。瞑想は凸iの凸を外すことではないだろうか(参照:現象学的還元)。つまり、凹凸iとなることではないだろうか。ならば、凹凸i*凹i⇒凹(-1) となるだろう。つまり、凹iを主体にすると、現象学的還元、あるいは、身心脱落が生じて、超越的存在が直感・直観されるようになるということではないのか。
 近代以前の人間は、凸iの自我は発達していなかったので、そのような心的様態にあり、超越的存在を直感していたのではないだろうか。宗教心・信仰心、あるいは、超越的感性・神秘的感性(民俗学)をもっていたということである。
 しかし、近代となると凸iが拡大・肥大化して、凹iが忘却されるようになり、超越的存在も否定されるようになったということではないだろうか。
 近代合理主義・近代的自我の縛りである凸iの傾斜から脱却する必要があるのである。トランス・モダン・スピリットが形成されるのである。
 しかしながら、近代合理主義・近代的自我で「自己形成」した人間は、凹iを肯定することが恐怖となるだろう。それはまったくの異世界であるからである。絶対的他者である。
 そう、民主主義も資本主義も、トランス・モダン化によって、同一性や物質主義から脱却することになるだろう。共同体的民主主義、共同体的資本主義となるだろう。今はここで留める。




備忘録:感覚は凸iにあるのか、凹iにあるのか:視覚とは何か

テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ

凸iと凹iが共振して、光、⇒+1が生まれるというのは問題ない。
 問題は感覚、感性である。
 結局、凸iの感覚と凹iの感性があるのではないだろうか。近代は、前者に傾斜して、後者を軽視・無視していると思う。
 とまれ、差異共振によって生起した光を知覚するのは、凸iの視覚ではないだろうか。もっとも、これは、近代においてである。
 思うに、凹iによる視覚がありえるであろう。私が超越光と言ったものは、これが感知していると思う。
 整理すると、近代において、凸iの知覚に傾斜しているために、凹iの知覚が軽視・無視されると考えられるのである。
 例えば、光は差異共振様態であるが、凸iに傾斜した知覚は、外的知覚のみしかもたないだろう。
 しかし、凹iの「知覚」をもつなら、光は超越光となるのではないだろうか。そう、凹iの「感覚」はあるのであるが、それは、近代において、軽視、無視されていると思う。いわゆる、感情というのは、凹iの感覚ではないだろうか。
 とまれ、光とは原光と原闇との共振であるのであり、当然、凸iの知覚と凹iの知覚の二つの知覚が少なくともあるのであり、凸iの知覚は物質的視覚であり、凹iの知覚は精神的知覚であると言えるのではないだろうか。
 一般に「心」というとき、それは、この精神的知覚を意味しているのではないだろうか。
 しかしながら、凹iと凸iとは不連続であることを認識する必要がある。今日、凸iの主導によって、凹iが凸iと連続化されているのである。
 凹iと凸iの不連続化こそが、凹iが超越的存在と結びつくことを明確にすると考えられる。
 正に、これである。頭脳と感性の不連続化、これによって、凹iは凹と結びつくのである。

2011年01月04日 (17:53)

『自然との共振・共鳴・一如感・融合感の力学について:凸iの感覚と凹iの魂覚(共覚):物質的科学=外的科学(凸i優位科学)と超越的科学=内的科学(凹i優位科学)』

『自然との共振・共鳴・一如感・融合感の力学について:凸iの感覚と凹iの魂覚(共覚):物質的科学=外的科学(凸i優位科学)と超越的科学=内的科学(凹i優位科学)』

帰省先の田舎に居ると、自然と身体的心性との繋がりが感じられる。今更ながら、これは一体何なのであろう。すなわち、PS理論で解明するとどういうことなのだろうか。

 これまで、差異共振で説明してきた。たとえば、山や木との一如感をそれで説明してきた。「わたし」は「山」であり、また、「山」ではない。あるいは、「わたし」と「川」は一如である、「わたし」は「わたし」、「川」は「川」でありつつ。

 「わたし」が凸iであり、「山」や「川」が凹iであり、両者が共振する。すなわち、凸i*凹iであり、結果が⇒凸(+1)である。思うに、凸は物質であるが、⇒凸(+1)で一如感、一体感を意味させることも可能であろう。(ここで、主体、主語の問題があるが、とばしておく。)

これが従来どおりの説明であるが、結局、自然との一如感とは、差異共振に拠るのであるが、結局、これも既述したことであるが、内的な凹iと外的な凹iとが一致するという点に求められよう。だから、主体の凹iと客体の凹iは同一であるということになる。これは、どういうことを意味しているのか。

つまり、人間身体において、自然と同一のものが存しているということである。これは、常識的なことを述べているように聞こえよう。つまり、唯物論的科学で言えば、物質が、自然と人間で同一であるということになるのである。当然、私が指摘したいことはそうではない。自然と同じダイナミズムが、人間内に存するということである。これも、常識的に、物質的ダイナミズムと見られるかもしれない。しかし、このダイナミズムは少なくとも「気」のダイナミズムと言うべきである。なぜなら、視覚を介するが、一如感は、不可視の心性であるから、物質的とは言えないからである。また、端的に、これは、生命感、元気と結びついているのである。

とまれ、凹iは自然、人間の内的エネルギーに関係する、あるいは、それ自体ではないだろうか。思うに、凸iのエネルギーと凹iのエネルギーがあるのである。易で言えば、陽エネルギーと陰エネルギーということになるだろう。両者が共振して、物質的現象界が生起するということである。

物質的科学では、物質的現象界を、凸iに傾斜した、つまり、同一性(ロゴス)に傾斜した視点で捉えて、凹iの力学、あるいは、差異共振の力学を欠落させていると考えられるのである。これは、近代科学、唯物論的科学の大欠点、大欠陥であると言えよう。これは、また、父権的科学と呼ぶことできるのである。(PS理論は、端的に、凹iないし差異共振の科学である。)

結局、あえて言えば、凹iの科学が必要なのであるが、凸iの科学を物質科学と呼ぶなら、それは感性科学、心的科学、精神科学、内的科学ということになろう。

今日、物質科学、外的科学が支配的で、アカデミックには、感性科学、内的科学が排除されていると言えよう。

そう、正しくは、凸iの科学と凹iの科学、そして、両者の統一として差異共振の科学がなくてはならないと考えられる。

とまれ、端的に、凹iの科学とは何か。これは、超越性と結びつく科学である。凹、-1と結びつく科学であり、非物質的科学、脱物質的科学である。今日、この超越的科学の理論が、公的には、認められていないのであるが、PS理論が、正に、それである。

しかしながら、量子論や宇宙論等によって、現代科学は、実質的に超越的科学の領域に入っているのである。結局、唯物論という、悪魔の枠組みを乗り越える必要があるのである。換言すると、プラトニズム的転回が現代要請されているということである。精神が主であり、物質が従であるという視点である。これは、実は、霊的世界観であるが、PS理論は、現代科学をも説明できる、合理的な理論である。文化史的に言えば、トランス・モダン的転回、新古代的転回がここにはある。

ここで飛躍して、この転回の必然性について考えると、直観では、陰陽力学が根源で動かしていると思えるのである。端的に言えば、凸iの傾斜が起こり、それが、西洋文明を生み、物質科学を創出した。しかしながら、陰陽力学の視点では、凸iの傾斜、つまり、陽の傾斜の後には、凹iの傾斜、陰の傾斜が生起することになるのである。陽極まりて、陰に転ず。陽エネルギーが賦活された後、陰陽均衡原理から言えば、陰エネルギーが賦活されると考えられるのである。

では、凹iエネルギーの賦活によって、物質的世界観が乗り越えられて、新しい精神的世界観が創造されると考えられるのであるが、陽エネルギー、凸iエネルギーが⇒凸、+1と結びつくならば、陰エネルギー、凹iエネルギーは何と結びつくのだろうか。これは、自明である。既に、超越的科学と述べているので、それは、⇒凹、-1と結びつくと考えられるのである。人間認識図では、第三象限に当たる。思うに、差異共振の二つのタイプがあるのではないだろうか。陽・凸i主導の場合、⇒凸、+1となり、陰・凹i主導の場合、⇒凹、-1となるのではないだろうか。

以前述べたが、前者は凸i*凹i⇒凸(+1)で、後者は凹i*凸i⇒凹(-1)となるのではないだろうか。両者において、積の仕組みが異なるように思われるのである。(商も考えられるが、それはおいておく。)

 両者の違いは、回転にあるのではないだろうか。凸iが主導の回転とは、ベクトル・モードが凸、+1へと向かい、凹i主導のそれとは、ベクトル・モードが凹、-1へと向かうのではないのだろうか。これはまったくの作業仮説である。

前者は可視宇宙(現象界)を形成し、後者は不可視宇宙(仮に、ダーク・コスモス)を形成するのではないだろうか。

そう、今日、宇宙科学で問題になるダーク・マター(暗黒物質)、ダーク・エネルギー等は、この不可視宇宙に関るように考えられる。

文学的に言えば、D. H. ロレンスの『逃げた雄鶏(死んだ男)』の「暗い宇宙のバラ」とは、不可視宇宙を指しているように思える。

このように見ると、きれいにまとまるのであるが、作業仮説の力学がまだ解明できないのが、難点である。【ここで付け加えると、人間は、この二つの差異共振の結合体であると考えられる。脳(大脳)は前者により、内臓は後者であろう。そして、両者を視床下部が調整しているのではないだろうか。】

以前述べたのは、凹iが主導のときは、凹凹i=凸iとなるということである。これならば、凹i*凸i⇒凹凹i*凸i⇒凸i*凸i⇒凹、-1となるのである。

そして、逆に言えば、凸iが主導のときは、凸凸i=凸iであり、凸i*凹i⇒凸凸i*凹i⇒凸、+1である。



備考1:

思うに、一神教の一も、原点は共振の志向性にあるのではないだろうか。ただし、砂漠環境においては、「わたし」は岩だらけの山や砂漠とは共振せずに、自然を超越した何かと共振するということではないだろうか。これはとても興味深い点である。日本のような湿潤な自然環境の場合、共振する自然対象があるが【水の要素が重要であり、根源的物質の「水」について後で考察したい。参照:備考3】、その共振する志向性が砂漠環境の場合、対象が物質的ではなくなるということになろう。思うに、日本の場合、視覚を介して、共振する志向性は自然対象へと向かう、砂漠環境の場合、共振する志向性が自然を超越した何かに向かう。日本の場合、対象、凸、+1があるが、砂漠の場合、それがないことになろう。では、砂漠環境の場合、共振する志向性が向かう自然対象を越えた何かとは何か。PS理論では当然、凹、-1となる。思うに、日本においても、自然対象を越えた何かが感じられるのであり、それが、八百万の神々である。【神道は複雑であり、多様な神々が存し、独一神も存する。】しかし、私の経験では、なにか漠然とした不可視の超越感であり、それは、一つとも多数とも言えないような感じである。とまれ、砂漠環境の場合、共振する志向性が超越的であり、それが、唯一神(ヤハウェ、アッラー)へと向かったことは否定できない。共振する志向性が超越的一へと帰着するとはどういうことなのだろうか。やはり、ここには、凸iの傾斜があるのではないだろうか。一として、捉えるという認識は、知的であり、凸i的であるからである。だから、人間認識図で言うと、第二象限に相当する。それに対して、神道は、第一象限と第三象限の両義性をもっているのではないだろうか。

 

備考2:

哲学的には、凹凹i*凸i⇒凹とは、他者凹iの肯定であり、他者が自己になるのである。これは、個=他者、ひいては自由=共同である。しかしながら、ここで問題なのは、他者肯定が形式では、他者否定である符合凹がつく点で、どう齟齬を解消するのかである。【この他者肯定が「否定の否定」の形式をとるのは興味深い。この点は後で検討したい。】他者とは本来、凹iであり、それは、自我凸iに対して、否定的であるし、逆もそうである。この相互否定関係を転換するには、この相互否定性を否定すればいいのではないのか。それが、凹凹i=凸iである。あるいは、凹凸i=凹iである。いわば、「否定の否定」である。とまれ、相互否定の否定が相互肯定であるということであり、凹凹iは他者否定ではなく、逆に他者肯定であるということである。これで証明された。では、この「否定の否定」の意味をヘーゲル哲学と比較しよう。この「否定の否定」とは、正と反の否定的事態に対する否定であり、正と反との共立ないし即非である。ヘーゲル弁証法では、合(ジンテーゼ)であるが、ヘーゲル哲学は、精神が正で、反の物質的同一性を止揚して、同一性概念の合を形成するのであり、それは、同一性哲学なのである。PS理論は、弁証法の正⇒反⇒合ではなく、(正*反)⇒反(正*反)⇒正の二乗である。これは、いわば、反弁証法、差異融合法である。



備考3:エレメントしての水であるが、それは、凹iに関係しているだろう。では、凸iのエレメントは何か。それは火ないし風である。しかし、風の方がいいように思う。

 地水火風の四大をPS理論で考えると、地が+1、水が凹i、火が-1、風が凹iではないだろうか。以前述べたが、聖書の創世記の冒頭は、神霊が風であり、凸i、神霊が上を漂う水が凹iであると考えられる。そこから、天地創造が為されるのであるが、やはり、凸iに傾斜していると言えよう。確かに、東洋的図式ではあるが、水、凹iが劣位になっているので、父権・西洋的と言えよう。

2010年08月04日 (15:01)

連続性と脱連続性:差異極性力学:差異求心力と差異遠心力の均衡法則:日本復活へ向けて

これまで、本件について何度も試行錯誤を行なってきたが、今、簡単に整理しておきたい。
 人間の意識であるが、日常世界は物質的世界を前提として動いている。信号を無視して横断すれば、車に引かれるのである。この日常意識は物質的意識である。それは、物質的同一性的意識(同一性自己意識)である。
 この意識とは、凸iという根源の認知主体が同一性(物質)に一体化していることから生じていると思われる。
 しかし、凸iの根源的認知主体が同一性と結合している様態を的確にできないのである。これまでは、凸i=凹i=+1という錯誤論理で表記してきた。つまり、凸i*凹i⇒+1とは、同一性自己意識においては、凸i=凹i=+1(同一性・物質)となると考えられるのである。
 対差異である凸iと凹iとが共振融合して、同一性+1に転換すると考えられる。共振融合とは、連続的同一性化ということである。このとき、凸iは凹iと一体化しているのである。それが、同一性の意味である。
 本来、絶対的差異である凸iが対となる絶対的差異(絶対的他者)凹iと一体化しているという錯誤論理がここにあるのである。(なお、一体化は、一如化とはまったく別である。また、現象をマーヤー【幻影】と呼ぶのは正しい。)
 この凸i=凹i=+1(同一性方程式と呼ぶことにする)の日常的同一性自己様態において、凸iに傾斜するために、凹iは抑圧・排除される傾向が強いと言えよう。
 しかしながら、根源、いわば、無意識ないし非意識のMedia Pointにおいては、凸iと凹iとは共立している。だから、意識と無意識の葛藤・闘争が隠されているのである。
 同一性自己(自我)において、自己認知主体凸iは、他者凹iを否定するということであるが、それはどういう力学だろうか。
 同一性方程式において、凸iは凹iを否定して、抑圧・排除・隠蔽すると考えられる。つまり、同一性方程式は、凸i=-凹i=+1となるだろう。この-凹iが他者否定を意味しよう。
 しかしながら、もともと、同一性方程式とは誤謬であり、矛盾なのである。差異が同一性化されているからである。
 だから、他者否定とは、正しくは、同一性化された他者の否定である。同一性化された差異は、Identified Difference(以下、IDD) また、同一性化された他者はIdenitified Other(以下、IDO)である。だから、同一性方程式は、IDD=-IDO=+1となる。だから、他者の否定とは、単純な凹iの否定ではないのである。
 この同一性による他者の否定とは、同時に、差異認知主体凸iの否定でもある。つまり、端的に、差異の否定である。
 だから、問題となる抑圧とは、差異の抑圧なのであり、単に他者の抑圧ではないのである。結局、差異共立の抑圧であると考えられる。
 さて、ここで、本題に入ると、連続性は同一性エネルギーであり、脱連続性は脱同一性エネルギーであり、両者は正反対である。これは、形成エネルギーと解体エネルギーとの対としても見えることができよう。生のエネルギーと死のエネルギーとも言えよう。
 問題は後者のエネルギーの力学をどう捉えるのかである。ここでも、作業仮説ないし思考実験であるが、先に、引力と斥力のサイクルを述べたが、ここでは、求心力と遠心力の均衡法則を提起したい。
 つまり、対差異の求心力によって、共振融合が起こり、連続性=同一性エネルギーが生起する。そして、対差異の遠心力によって、脱共振融合作用が起こり、脱連続性=脱同一性エネルギーが発生するのではないだろうか。後者は差異共立エネルギーとも言えるだろう。前者がMP1⇒MP2であるのに対して、後者は MP2⇒MP1である。
 これは、時代形成力学に当てはめると、初期近代は前者が主導し、後期近代は後者が主導的になると考えられるが、前者と後者とはまったく異質なので、前者が支配的形式になったので、後期近代において、後者は前者の支配下に置かれて、認知されずに、不合理な衝動となると考えられるのである。それは、多様な暴力、精神病理として、発現していると考えられる。だから、後期近代とは、いわば、善と悪との闘争の時代になると考えられるのである。ゾロアスター教的時代である。
 あるいは、物質的次元世界観と高次元的世界観の闘争の時代である。三次元的人間と四次元的人間の闘争の時代である。近代的人間とトランス・モダン的人間との闘争の時代である。
 ここで、破滅的危機にある日本について考えると、究極的問題は、戦前と戦後との断層にあると考えられる。端的に言えば、超越的精神と物質的精神の断層である。
 後者によって、戦後日本は物質的に栄えたが、前者を排除しているので、精神的には窮乏したのである。
 今日、日本人は超越的精神を復興させる必然性があるが、それへの糸口が一般には知られていないことが大問題である。宗教的精神に目覚めるのも大事ではあるが、宗教的精神と物質的精神を調和させるのは至難の業である。
 だから、ここで、イデア論的哲学科学が至上に重要になるのである。これによって、超越的精神(高次元的精神)と物質的精神(現象的精神)との均衡調和が形成されるのである。
 それは、20世紀初期において、少数の天才たちによって先鞭がつけられたといえよう。
 しかしながら、不運にも、マイナーな存在として、今日、一般には、忘却されている。また、理解のための端緒がないと言えよう。
 その点から見ると、PS理論は至ってシンプルであり、明快である。それは、超越的精神(イデア)と物質的精神の哲学科学的関係を解明しているのであり、今日の窮境を乗り越えるための知的武器になると考えられる。

People, learn PS theory and apply it to your work or field, so you will be able to conquer the most tremendous crisis Japan has ever faced or fallen into.
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 以下が、宇宙母船です。
    http://ameblo.jp/neomanichaeism
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

Appendix


ブログ内検索
RSSフィード
リンク
このブログをリンクに追加する
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。