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2012年06月19日 (05:55)

まるで無間地獄-始まった河川の放射能汚染

まるで無間地獄-始まった河川の放射能汚染 (06/19)
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2010年07月27日 (23:16)

日本は滅びるだろう:鏡像自我の国は空虚であり、淘汰される

日本はどこで道を踏み誤ったのだろうか。
 明治時代の日本人は個的であり、すぐれていた。しかしながら、大正、昭和へと移行するにつれて、低能・低劣になってきて、愚劣な「大戦」を起こして、破滅した。
 戦後はご破算であったが、結局、愚劣化した。日本人一般は知恵を得るのを恐れている。
 鏡像を破壊して、差異=個が得られるのに、それを恐れているのである。これは、視覚文化ではない。唯物論文化である。それに日本人は染まりきってしまっているのである。
 思うに、日本唯物論の原点は何か、どこか。やはり、江戸であると思う。それは、消費主義の都市であり、精神を知らなかったのである。江戸時代の優れた文化(例えば、芭蕉、浄瑠璃、琳派)はほとんど上方に存するのである。明治維新はこの唯物論文化からの脱却を目指したが、東京という唯物論都市を首都としたために、堕落してしまったと思う。
 日本のトランス・モダンとはトランス江戸である。これによって、日本本来の個=差異的文化社会が復興しうると言えよう。
 

富士通「FMV らくらくパソコン3」発表---大竹しのぶさんもカンタン実演
日経パソコン - ‎1 時間前‎
富士通は2010年7月27日、同社のシニア向けパソコン「FMV らくらくパソコン」の新モデル「らくらくパソコン3」を発表した。「らくらくパソコン3」はNTTドコモのシニア向け携帯電話「らくらくホン7」との連携機能を備え、7月29日から発売する。また、今回からCMキャラクター ...

富士通、中高年向け「らくらくパソコン」、携帯との連携強化
日本経済新聞 - ‎2 時間前‎
富士通は27日、中高年層向けパソコンの新機種を29日に発売すると発表した。NTTドコモに供給する携帯電話「らくらくホン7」との連携を強めたのが特徴で、携帯電話からの写真の取り込みなどが容易にできるなど利便性を高めた。NTTドコモが運営する「ドコモショップ」 ...

らくらくホン7向け専用スタンド同梱の「FMVらくらくパソコン3」
ケータイ Watch - ‎3 時間前‎
富士通は、シニア・初心者向けPC「FMVらくらくパソコン3」2モデルを発表した。らくらくホン7で撮影した写真を手軽にPCへ転送するための専用スタンドが標準同梱される。7月29日からPC取扱店および直販サイト「WEB MART」で販売する。27日開催の報道関係者向け発表会には、 ...

2010年03月15日 (19:15)

現代の人間の意識の異常性の原因は精神性の喪失である:精神に倫理・道徳・「理性」があるのである

近代合理主義=唯物論が人々の意識に浸透して、精神性を排除したのである。その結果、「狂気」が日常的意識になっているのである。
 精神的認識によって、正常な対他認識をともなう自己認識、さらには、妥当な現実認識ができるのである。


参考:

以下には、仏教の八正道がベースになって科学的なないしは哲学科学的な精神陶冶・涵養実践方法が説かれている。
 端的に言えば、西洋人向けの瞑想の奨めであるが、瞑想の行をしなくても、読むだけでも、啓蒙的である。
 私はそれにD. H. ロレンスの『無意識の幻想曲』の読書を奨めたい。これは、東洋的身体意識論であるし、PS理論の即非的極性論に通じる内容をもっているのである。

『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか 』
(ちくま学芸文庫) (文庫)
ルドルフ シュタイナー (著), Rudolf Steiner (原著), 高橋 巌 (翻訳)

八正道(はっしょうどう、aaryaaSTaaGgo-maargo、आर्याष्टाङ्गो मार्गो)は、釈迦が最初の説法において説いたとされる、涅槃に至る修行の基本となる、正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念および正定の、 8種の徳。「八聖道」とも「八支正道」とも言うが、倶舎論 では「八聖道支」としている。この 「道」が偏蛇を離れているので正道といい、聖者の「道」であるから聖道(aaryaamaarga)と言う。
概略 [編集 ]

八正道は四諦 の中の道諦として説かれるから、教学的には四諦の教え以外に八正道が別にあるわけではない。四諦といえば、そこに道諦として八正道があるのだから別に、古来いわれるように四諦八正道と併称する必要はないが、このような総括がインドの様式のようである。

古い『相応部 経典』では、釈迦は、その最初の説法(初転法輪 )で、まず非苦非楽の中道 を説き、それを八正道であるといい、さらに四諦を説いたといわれる。四諦を説いて、その道諦として八正道を説いたのでなく、中道とは八正道であることを説いて、ついで四諦を説いたのである。このことは、四諦という教義的組織は、八正道を中道と説く立場の教義的な裏づけであることを示している。釈迦の説法は、直接に人間の実践を主としており、教理は実践を体系付け裏付けるものである。われわれの仏教の理解も、書物による知識ではなく常に現実における実践を中心としなくてはならない。
正見 [編集 ]

「正しく眼の無常を観察すべし。かくの如く観ずるをば是を正見と名く。正しく観ずるが故に厭を生じ、厭を生ずるが故に喜を離れ、貪を離る。喜と貪とを離るるが故に、我は心が正しく解脱すと説くなり」といわれる。われわれが身心のいっさいについて無常の事実を知り、自分の心身を厭う思を起こし、心身のうえに起こす喜や貪の心を価値のないものと斥けることが「正見」(samyag-dRSTi, sammaa-diTTi)である。このように現実を厭うことが正見であるなら、人間の日常性を否定する消極的なもののように思われる。しかし、その日常性の否定は、真実を積極的に追求することから生まれるから、かえって真実の認識の完成である。この意味で「心解脱」といわれ、正見が「四諦の智」といわれる。

この正見は、以下の七種の正道によって実現される。その点で、八正道は、すべて正見である「智慧」の活動してゆく相である。 八正道は全て正見に納まる。
正思惟 [編集 ]

正思惟(samyak-saMkalpa, sammaa-saGkalpa)とは、出家を思惟し無瞋を思惟し、無害を思惟することである。このうち「出家を思惟する」とはパーリの原文では「ネッカンマ・サンカッパ」(nekkhamma saMkappa)であって、「nekkhamma」とは「否認」「否定」の意味だから、日常的なもののいっさいの否定をいう。財欲、色欲、飲食欲、名誉欲、睡眠欲等の「五欲」にまつわる、人間の日常生活の否定であり、それを思惟することが正思惟である。

この五欲の心の否定は、具体的には無瞋の思惟、無害の思惟である。いわば瞋恚の心や害心のすがたを、ありのままの姿で思惟し、これを捨てることを思惟するのである。自己本位にふるまう人間の行動や、独善的な人間の行為を、思惟によって明らかにして、これを否定するのである。

このように正思惟とは、自我的立場を否定して、無我こそ自己の真実であると見きわめることである。この立場の転換に人間生存の転換がなされる。しかし、それが「正思惟」である限り、このような生の転換も観念的である。そこで、次の「正語」と「正業」が説かれ、正思惟の中に示される行動への意志が実行されるのである。
正語 [編集 ]

正語(samyag-vaac, sammaa-vaacaa)とは、妄語を離れ、綺語を離れ、両舌を離れ、悪口を離れることである。
正業 [編集 ]

正業(samyak-kalmaanta, sammaa-kammanta)とは、殺生を離れ、不与取を離れ、愛欲を離れ、愛欲における邪行より離れることをいう。 この二つは正思惟されたものの実践である。妄語・綺語・悪口・両舌を離れること、これは人格の破壊を斥けるものであり、殺生・偸盗・邪婬を離れることは人間人格の尊重である。
正命 [編集 ]

正命(samyag-aajiiva, sammaa-aajiiva)

「邪命を捨てて、正命によって命を営む」とか「如法に衣服、飲食、臥具、湯薬を求めて不如法に非ず」といわれるのは、如法な生活それが正命であることをあらわす。これは、まちがった生活を捨てて正しい生活を営むことであり、常に無明を滅する方向に動いてゆく生活である。したがって、それは人間の日常性に根差している価値を追求する生活を否定するものである。この点、「正命」はこのようにすべき生活として求められつつあるものである。
正精進 [編集 ]

この「正命」の生活は、ひたすらな努力の中にのみ得られる。このひたむきな努力の生活、それが「正精進」(samyag-vyaayaama, sammaa-vaayaama)である。「未生の悪、不善法の不生のために欲を生じ、勤め精進し、心を摂し努力する」「常に行じて退せざるを正精進という」というのは、これをいう。これが、やがて四正勤 (ししょうごん)として、すでに起こった悪不善を断ずる努力、未来に起こる悪不善を生こらないようにする努力、過去の善法の増長への努力として説かれるようになった。
正念 [編集 ]

このような「正精進」に示される現前の事実的価値追求への否定の努力は、主として過去の集約として与えられた、身体的なものに対する否定である。このような立場から「身にありて身を観察して住し、熱心にして正しく理解し、精神を集中し、明瞭な心と精神集中と、専一なる心とをもって、如実に身体を知る」と説かれるのが「正念」(samyak-smrTi, sammaa-sati)である。

現にあるものとしてでなく、あるべきものとしての「正命」が実現されるのは、身体における日常的なものが克服されることによってである。それが「身の観察であり、精神を集中して如実に知る」ことである限り、真に身体的なものの克服とはなりえないで、やはりイデア的であることを免れない。これを身体的なものとして、生活自身において克服するものそれが「正定」である。
正定 [編集 ]

「心は不乱に住し、堅固摂持し、三昧一心に寂止す」と説かれる。これは心身一致の禅定 において正しい智慧を完成することである。この「正定」(samyak-samaadhi, sammaa-samaadhi)によってはじめて、「正見」が得られるのである。

このようにして、八正道は八聖道として人間完成への道となる。これを人間の実践として、中道であると説くのである。以上の八正道の「正見」こそ真実の智慧の実践であり、それを実現してゆく具体的な道が「正思惟」以下の七支であるから、この八正道は、次のような形で人間の実践道となる。
関連項目 [編集 ]

* 中道

「http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E6%AD%A3%E9%81%93 」より作成
カテゴリ : 原始仏教 | 名数8

2008年10月30日 (18:31)

今、植草氏のブログへのアクセスが禁止されている状態である。以下、キャッシュの転載である。

今、植草氏のブログへのアクセスが禁止されている状態である。以下、キャッシュの転載である。


植草一秀の『知られざる真実』
2008年10月29日 (水)
警察の実態を映し出す証拠映像

10月26日に渋谷から麻生首相の私邸までのウォーキングツアーを実施した若者グループの3人が警察に突然逮捕された。このことは、昨日付記事「麻生首相非正規雇用労働者蔑視発言ほか」で伝えた。

TBSがニュース報道した内容は以下の通り

10月26日20:00のTBSニュース

「麻生首相宅を見学」と称し無届けデモ

26日午後、東京・渋谷で、麻生総理の自宅を見学するツアーと称して無届のデモ行進が行われ、参加者の男3人が警視庁公安部に逮捕されました。

26日午後4時頃、「渋谷区にある麻生総理の自宅を見よう」という、ネットなどでの呼びかけに集まった市民グループおよそ50人がハチ公前から行進を始めました。

しかし、事前に集会やデモ行進の申請をしていなかったため、警視庁公安部は市民活動家の男1人を逮捕、さらに、それを妨害しようと警察官に暴行するなどした男2人を公務執行妨害の現行犯で逮捕しました。

公安部は、再三警告を行ったにもかかわらず、行進などを行ったとしています。

(26日20:00)

このニュース報道の末尾に、以下の表現がある。

「公安部は、再三警告を行ったにもかかわらず、行進などを行ったとしています。」

 警察発表では、無届けのデモであるので、中止するように再三警告したが、市民グループは警告を無視してデモを実施したため逮捕したということになる。

 ところが、若者の市民グループはウォーキングツアーを始める前に、警察と話をし、警察も了解を与えていたことが明らかになった。

 「低気温のエクスタシーbyはなゆー」様 、「カナダde日本語」様 、「雑談日記(徒然なるままに、。)」様 をはじめ、多くの方が動画を提供してくださっている。

 若者たちが警官グループにウォーキングの内容を説明して、了解を得ている場面がビデオに撮影されていた。

 「低気温のエクスタシーbyはなゆー」様 が提供してくださった動画から、若者グループが警察の了解を得ている場面 をご高覧いただきたい。

 ところが、この後、ウォーキングツアーを開始しようとした若者グループが突然逮捕された。

 若者グループは警察と協議し、車道を歩かないことなどの了解を取り、警察もウォーキングを認めている。

 同じく「低気温のエクスタシーbyはなゆー」様 が提供してくださった逮捕場面 である。

 先頭を歩く若者に手前横から帽子をかぶった男性が近づき、そのままぶつかった途端に逮捕されている。その後「こうぼうだ!こうぼうだ!」と叫び、「逮捕しろ!」と叫んでいる男性が公安の私服警官であると見られている。「こうぼう」とは「公妨」=「公務執行妨害」のことである。

 若者が警官に暴力を振るった形跡はまったくない。公安職員と思われる帽子をかぶった男性が、一方的に男性に接近し、接触した直後に「逮捕」の怒声が飛び交っている。

 若者が警察に拘束されようとするところ、同僚メンバーが必死に助け出そうとした。ところが、左からライトブルーのYシャツにグレーのベスト、肩からカメラらしきものを提げた男性が走って体当たりして、拘束した男性を助けようとする同僚から切り離した。この男性も公安職員なのだろう。

 若者が警官と話をしている動画を見たとき、私はすぐに逮捕の動画に登場する公安職員と見られる男が画面右奥に映っていることに気付いた。警官の了解を得てウォーキングを始める場面から、公安職員は把握していたのである。若者が警官と協議している動画 を改めて確認していただきたい。

 このことを「雑談日記(徒然なるままに、。)」様 が詳しくブログで解説してくださっている。

 (追記)「KNのブログ」様がウォーキングツアー先頭の若者に接触した防止をかぶった男性、「公妨」と叫び逮捕を指示した男性、仲間を救出しようとした同僚に体当たりしたライトブルーのYシャツとグレーのベストの男性が相談しながら歩く動画を掲示くださいましたので、その動画にリンク を張らせていただきます。これで、全体の流れが非常によく分かります。(追記ここまで)

 これらの一連の経過をたどると、TBSほかマスメディアが報道している内容 と、真実には「天地の開き」が存在していることがよく分かる。

 TBS報道は「再三警告を行ったにもかかわらず、行進などを行った」と報道している。この報道が、ぎりぎりのところで救われるのは、「公安部は・・・としています」と表現していることだ。

 メディア報道の大きな問題は、警察当局の発表をそのまま垂れ流すことだ。何も知らない一般国民は、垂れ流された情報をそのまま鵜呑みにしてしまう。

 しかし、警察は一般に想定されているような善良な存在ではない。私は深くその真実を知っている。私が巻き込まれた冤罪(謀略?)事件では、私の無実潔白を証明する決定的証拠であった防犯カメラ映像が警察によって消去されてしまったが、今回の渋谷事件では、決定的証拠を市民が撮影していたため、真実を広く国民に知らせることができる。

 渋谷のウォーキングツアーの事例でも、若者は警察と協議し、警察の了解を得たうえでウォーキングツアーを開始しているのだ。「再三警告を行ったにもかかわらず、行進をした」との公安部の説明は、現在得られている動画情報などから得られる状況とは、明らかに食い違っている。

 若者はこうした経緯を経て「逮捕」されている。「逮捕」は基本的人権である「身体の自由」を奪う、極めて重大な国家権力の行使である。渋谷の事例が不当逮捕であるなら、国民の生活の安全を守るはずの警察権力が、極めて重大な人権侵害を犯していることになる。

 この動画を広く流布する必要がある。警察の行動の一端を国民が知ることが可能になる。警察は権力に迎合し、不当に権力を行使する存在であるとの仮説を、これらの動画は説得力をもってわれわれに迫る。

 「雑談日記(徒然なるままに、。)」様 が主張されるように、野党はこの問題を重大な問題として国会で取り上げるべきである。渋谷警察署の警官と公安警察が事前に連絡し、ウォーキングツアーを実施させるように仕向けたうえで逮捕した可能性もある。

 マスメディアは続報をまったく伝えないが、日本の民主主義、警察の実態を知るうえで、この問題は極めて重要である。特別公務員暴行凌虐罪の適用も含めて、事件の徹底的な検証が求められる。

http://72.14.235.104/search?q=cache:ZqSOuuFoZ9kJ:uekusak.cocolog-nifty.com/blog/+%E7%9F%A5%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%96%E3%82%8B%E7%9C%9F%E5%AE%9F&hl=ja&ct=clnk&cd=3&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a

2006年12月17日 (17:06)

検討問題:日本の戦後とは、西欧の近代初期と類似しているように思える

検討問題:日本の戦後とは、西欧の近代初期と類似しているように思える

テーマ:日本再生・東洋ルネサンス計画

敗戦により、天皇が人間宣言して、宗教の時代が終った。それは、日本の「神の死」であったろう。それは、西欧のポスト中世・近代初期の「神の死」と類似するように思える。
 それは、コスモスの崩壊である。自然との絆の崩壊である。唯物科学が蔓延ったのである。その結果が、現代の亡国状況である。漱石が言ったように、日本は滅びる(滅びたの)だろう。
 とまれ、「神の死」から唯物科学主義への移行が、致命的であったようだ。夢野久作の『ドグラ・マグラ』を読みたい。あるいは、ドストエフスキー。

p.s. 日本人の神を失わせたものは何であったのか。折口信夫は、民族の力が、民族の神にあることを知っていた、稀有の日本人である。私は神道の復活が必要だと思う。もっとも、神仏習合的な神道である。




死者の書・身毒丸 (文庫)
折口 信夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E6%9B%B8%E3%83%BB%E8%BA%AB%E6%AF%92%E4%B8%B8-%E6%8A%98%E5%8F%A3-%E4%BF%A1%E5%A4%AB/dp/4122034426/sr=8-1/qid=1166302120/ref=sr_1_1/503-7170974-5841516?ie=UTF8&s=books

_______________________________

「いかなる国民と言えども、科学と理知を基礎として、国を建設しえたものは、今日まで一つもない。・・・社会主義はその本質上、無神論たるべきものである。なぜならば、彼らは劈頭(へきとう)第一に、自分たちが無神論的組織によるものであって、絶対に科学と理知を基礎として社会建設を志すものだと、宣言しているからである。理知と科学は国民生活において、常に創世以来今日に至るまで第二義的な、ご用聞き程度の職務を司(つかさど)っているに過ぎない。・・・国民はまったく別な力によって成長し、運動している。それは命令したり、主宰したりする力だ。けれど、その発生は誰にもわからない。まあ説明することもできない。この力こそ最後の果てまで行き着こうとする、あくことなき渇望の力であって、同時に最後の果てを否定する力だ。これこそたゆむことなく不断に自己存在を主張して、死を否定する力である。聖書にも書いてある通り、生活の精神は『生ける水の流れ』であって、黙示録はその枯渇の恐ろしさを極力警告している。それは哲学者のいわゆる美的原動力であって、また同じ哲学者の説く倫理的原動力と同一物なのだ。が、僕は最も簡単に『神を求める心』と言っておく。民族運動の全目的は、いかなる国においも、またいかなる時代においても、ただただ神の探究のみに存していた。それは必ず自分の神なのだ。ぜひとも自分自身の神でなくちゃならない。
  ・・・
理性はかつて一度も善悪の定義を下すことができなかった。・・・哀れにも見苦しくも、この二つを混同していたのだ。・・・ことにこの特長を備えているのは、半科学である。これは現代にいたるまで、人に知られていないけれど、人類にとって最も恐るべき鞭(むち)だ。疫病よりも、飢えよりも、戦争よりも、もっと悪い。半科学、ーーこれは今まで人類のかつて迎えたことのない、残虐きわまりなき暴君だ。・・・」(p. 437~p. 439)

「神を国民の属性に引きおろすって!」とシャートフは叫んだ。「まるで反対だ、国民を神へ引き上げたのです。第一、ただの一度でもこれに反した事実がありますか? 国民、ーーそれは神の肉体です。どんな国民でも、自己独得の神をもっていて、世界におけるその他のすべての神を、少しの妥協もなく排除しようと努めている間だけが、本当の国民でありうるのです。自己の神をもって世界を征服し、その他の神をいっさいこの世から駆逐することができる、とこう信じている間がのみが、本当の国民と言えるのです。
 ・・・
もし偉大なる国民にして、おのれのうちにのみ真理ありと信じなかったら(・・・)、もしその偉大なる国民が、われこそ自己の真理をもって万人を蘇生させ、救済するの使命を有し、かつそれをなし遂げる力があるという信仰を欠いていたら、その国民は直ちに人類学の材料と化して、偉大なる国民ではなくなるのだ。真に偉大なる国民は人類中において第二流の役どころに甘んじることがどうしてもできない。いや、単に第一流というだけでは足りない。ぜひとも第一位を占めなくては承知しない。この信仰を失ったものは、もうすでに国民ではなくなっているのだ。しかし、真理に二つはない。したがって、たとえいくつもの国民が自己独得の、しかも偉大なる神を有するにせよ、真の神を有している国民はただ一つしかない。『神を孕める』唯一の国民ーーこれは、ロシヤの国民なのだ、・・・」
 ・・・
「僕はロシヤを信じます、僕はロシヤの正教を信じます・・・僕はキリストの肉体を信じます・・・僕は新しい降臨がロシヤの国で行なわれると信じています・・・僕は信じています・・・」とシャートフは夢中になりながら、しどろもどろに言った。( p. 440~p. 443)

『悪霊』(上)米川正夫訳 岩波文庫 


コメント


■安倍政権、内なる高揚感と外なる絶望感・喪失感

2006.12.17 Sunday
安倍政権、内なる高揚感と外なる絶望感・喪失感
http://blog.kaisetsu.org/?eid=492426
kaisetsu (2006-12-17 08:06:29) [コメント記入欄を表示]

2006年12月07日 (12:41)

近代的没倫理自我から即非倫理自己主体へ:現代日本人の没倫理性と日本破滅・亡国の瀬戸際

繰り返すと、先の考察から、近代的自我が、差異を否定する根拠が明確になってきた。極めて単純である。中世・封建時代における他律的道徳が、社会・経済・文化変動によって、崩壊して、個体が、いわば、野放しにされて、自我欲望のまま、言動するようになったということが根因ということである。つまり、中世・封建時代の「倫理」は、他律・外在的であれ、それは、内観性(-i)をもっていたと考えられるが、この崩壊により、主観が内観から離脱して、外観に向けられて【自我投影して、-(-i)】、自我欲望的になった【i*-(-i)⇒-1】ということである。明日野氏の言葉では、倒錯となったのである。闇となったのである。
 この内観を離脱して、外観中心になった近代的自我の力学をここで、明確にしたい。これまで、何度も試論ないし思考実験してきたが、ポイントは、陽認識i が陰認識-iを否定することにある。この力学は、主体投影(自己投影・自我投影)で説明できると考えられる。即ち、反復するが、主体である陽認識iが他者 -iを理解しようとするとき、必然的に、主体の形式である陽的同一性を他者に投影すると考えられるということである。つまり、i*-(-i)⇒-1となるといういおとである。-(-i)の最初の-が、他者否定という記号である。別の記号で表記すると、i→-(-i)=-1である。→は、志向性であるが、他者への志向性が、否定的志向性、反差異・連続的同一性になっているのである。この陽認識は、陽同一性認識と言ってもいいだろう。そして、先には、光認識とも言ったが、これは、誤解・混乱を招くので避ける。正しくは、外観認識である。
 問題は、この陽認識・外観認識・心的認識が、陰認識・内観認識・身体認識を排除することである。あるいは、即非認識、陰陽認識を排除することと言ってもいい。これは、正に、デカルト合理主義の問題である。明晰な観念が、不明晰な観念を排除するという問題であるからである。
 ここで、思考実験しよう。中世的ヒエラルキー価値観から解き放たれ、野放しにされた《個》を想定しよう。これが、近世・近代初期の主観の様態だと考えられよう。不安、拠り所の無さ、頼りなさ、等があるだろう。デカルトやパスカルを襲ったのもこのような一種実存的な不安と考えられる。つまり、《個》の基盤を何処に置くかの問題なのである。もはや、外在・他律的な価値観は崩壊したのである。そう、「神の死」があったと言えるだろう。この、言わば、剥き出しの《個》の様態とは、実は、無垢の即非の様態であると思われるのである。つまり、「わたし」は「わたし」だけであったり、あるいは、「わたし」は「他者」であったりするのである。つまり、A=A、あるいは、A=非Aである。揺らぎの様態であり、実に不安定である。一種、実存様態である。この、いわば、原《個》、素《個》、祖《個》の様態において、不安を解消するには、確固とした基盤が必要である。それを、デカルトは探究して、画期的なコギト哲学を打立てたのである。即ち、当然にも、コギト(我思う)を基盤にしたのである。そして、ここから、明晰で判明な観念だけが採用されて、あいまいな観念が排斥されて、近代合理主義の祖となったのである。デカルトは、差異哲学と近代合理哲学の両者の創始者である。
 思うに、確かに、個において、明晰で判明な観念を肯定したのは、画期的である。つまり、差異、単独者、特異性において、肯定した点がそうなのである。明晰で判明な観念とは、知的には、当たり前のことであり、なんの独創性もないだろう。しかし、個において、そうした点が本質的なのである。これが、近代、プロト・モダン革命である。即ち、i*(-i)⇒+1の自己認識方程式で言うと、主体であるiが純粋・明晰化したと言えるだろう。これが、他者-iの主体同一化(i化)であると考えられるのではないだろうか。純粋i化である。これが、後のカントの超越論的形式ではないのか。これは、実は、反差異・連続的同一性形式である。そして、これが、時空間形式、物質形式へと展開していったと考えられるように思うのである。
 私の仮説では、デカルトは、この連続的同一性形式iで、他者-iを理性化しようとしたのである。つまり、連続的同一性「理性」ないし「知性」で他者・現象を合理化したのである。(コギト哲学は、i即非-iであると考えられる。)結局、i*-(i)⇒-1の近代的自我・近代合理主義が誕生したのである。では、何故、主体iは、他者-iを否定・排除・隠蔽するのか。それは、純粋にi化したからだろう。純粋同一性化は、他者を否定・排除・隠蔽すると考えられるのである。そして、この他者否定の近代合理主義が、西欧近代を形成していくのである。
 ここで、宗教改革(プロテスタンティズム)を考えると、それは、いわば、キリスト教原理主義である。私は、これをルネサンスに対する反動と見ているが、つまり、i*(-i)という即非エネルゲイアへのキリスト教的反動と見ている。つまり、即非エネルゲイアは、フィチーノのプラトン主義(新プラトン主義)や、ピコ・デラ・ミランドラでわかるように、異教を復活させるのであるから、キリスト教としては、見捨てておけなかったのである。(今日でも、ポスト・モダン的異教ルネサンスに対するキリスト教的反動があるだろう。)つまり、即非エネルゲイアをキリスト教信仰に取り込んだのが、プロテスタンティズムと考えられるのである。ここで、差異への反動が生起して、キリスト教的連続性が生まれたのである。【飛躍するが、後の文学における英米モダニズムにおいて、T.S.エリオットが、ポスト・モダン・コスモスへの反動として、イギリス国教会や古典主義を唱えたと言えよう。エリオットは、ポスト・モダンへの反動的作家と見るべきである。】数式から見ると、宗教改革とは、-(i)*(-i)⇒-1であろう。主体iを否定して、-(i)となっていると考えられるのである。ただし、これは、近代的自我と共通である。そう、近代的自我とプロテスタンティズム、そして、近代資本主義は、等価であると言えよう。
 結局、アポリア(難問)である「何故、陽認識は、差異・他者を否定・排除・隠蔽するのか」という問題への答えは、陽認識・視覚認識は純粋化すると、i中心となり、-iを排除するということとなる。ポスト中世の特異な時代において、《個》が剥き出しとなり、その実存的不安の「カオスモス」において、陽認識・視覚認識が純粋化されることになり、そのために、他者・差異-iが排除されたということである。
 だから、結局、否定・排除された-i、そして、さらには、即非エネルゲイアが復権を《無意識に》求めることになるのである。これが、反近代主義、ロマン主義、象徴主義、等々の文化運動である。これは、一言で言えば、ポスト・モダン運動である。そして、「モダニズム」とは、これに対する反動である。つまり、ルネサンスというプロト・モダン=ポスト・モダンに対する反動として、プロテスタンティズムがあったように、文化的ポスト・モダン運動に対す売る反動として、「モダニズム」があったと考えられるのである。(ここで、ついでに述べると、文学や美術の芸術は、モダニズムの洗礼を受けているので、自身が反動となっているのに気づいていないと思うのである。だから、現代、文学や美術や音楽等々の芸術・文化が地に落ちているのである。トランス・モダニズムであるポスト・モダン=プロト・モダンによって、新ルネサンスを形成しないといけない。)深層心理学や構造主義や神話学は、この復権の表出であると考えられる。ただし、これらは、不十分である。何故なら、哲学的に、哲学・数学的に、不明であるからである。また、フロイト心理学は、他者である身体-iを近親相姦に還元するという、短絡化の誤謬を犯しているのである。他者は、多様であり、多元的である。近親相姦に還元できるはずがないのである。母子関係を言えば、それは、子と母との即非関係があると言わなくてはならない。それを、母子同一性(オイディプス・コンプレックス)として捉えるのは誤謬である。つまり、フロイトの自己投影というナルシシズムは、自我(近代的自我)の様態であり、《個》本来の様態ではないのである。つまり、精神分析は、《個》の心理学ではなくて、自我の心理学であり、それは、倒錯の心理学なのである。
 さて、結局、デカルトの合理主義は、主体iの純粋化としては、正しい意味があるだろう。個の明晰思考のために必要な手続きの第一歩である。しかし、単に第一歩に過ぎないのである。つまり、陽認識・視覚認識は、陰認識・身体認識、並びに、即非認識を形成しなくてはならないのである。これが真正なポスト・モダンである。そして、既述したように、スピノザの『エチカ』がこれを実現したと考えられるのである。スピノザの能動的観念の方法とは、陰認識・身体認識の積極・能動的方法である。平明に言えば、共感的認識方法である。共感性とは、正に、即非エネルゲイアの感情性である。そして、この能動的観念の方法は、後のフッサール現象学に通じると考えられるのである。つまり、これは、志向性の理論なのである。他者への志向性の理論と考えられるのである。逆に言うと、フッサール現象学の志向性理論とは、他者への志向性、即ち、陰認識・身体認識、そして、結局、即非認識の理論であると考えられるのである。デカルトの主体 iの連続的同一性の理論を、他者-iへの志向性の理論、即ち、差異的同一性の理論に変更したと言えるだろう。
 前世紀後半のフランス・ポスト・モダン運動であるが、これも既述済みではあるが、結局、後期デリダを除いて、プロト・モダンの中核にある《個》・差異・単独性・特異性を捉えそこなったのである。とりわけ、ドゥルーズの理論は、特異性という術語を強調しながらも、それを連続的同一性に帰結させていたのである。これでは、詐欺である。Aと言いながら、実際は、Bと言っているのであるから。つまり、真正ポスト・モダンとは、主体の、まったき他者(デリダの言葉)への志向性に存するのである。そして、まったき他者とは、不連続的差異論で言う不連続的差異にほかならない。主体と他者とが、根本的に不連続であること、ここにポスト・モダンの核心があるのであり、それを、不連続的差異論が究明したのである。思うに、厳密に言うと、ルネサンスでさえ、不連続的差異を自覚していたか怪しいのである。フィチーノのネオ・プラトニズムを見てわかるようにそれは、流出論・連続論なのであるからだ。しかし、本質は、不連続論であると言わなくてはならないだろう。だからこそ、デカルト哲学が生まれたのであると考えられるのである。
 以上の考察から、現代の認識論的課題は、陰認識・身体認識、そして、即非認識を創造することであると言えるだろう。そして、これは、個的倫理の形成なのである。現代日本は、没倫理であり、荒廃し切っている。近代主義によって、他者を喪失しているからであらである。自己内外の他者・差異発見にこそ、新倫理が生まれるのである。日本はこのように生まれ変わらなくては、滅亡路線をひた走りに走ることになる。

なにとぞ、近代を乗り越えよ!!!
なにとぞ、自己内外の他者・差異を発見せよ!!!
ここにしか、日本の根源的課題はない。
日本は、はっきり言って、滅びつつある。
日本滅亡を防ぎ、復活させるには、これしかないのである。
また、さらには、人類も滅びつつあるのである。
ポスト人類のエポックが近いのかもしれない。
考えれば、即非認識とは神人認識である。
ある意味で、誰もがイエス・キリストになることである。
つまり、テオーシス(神化)である。
これは、東方キリスト教の教義である。
つまり、東洋の叡知である。
東洋の復活である。
西洋文明のサイクルの終焉である。
日本人よ、寝ぼけていてはいけない。
世界は、激変しているのである。
物理学でいう相転移の時代であろう。
差異へと時代は転換しているのである。
差異共振シナジーへと転換しているのである。
これが理解できなければ、日本滅亡は免れない。
ご臨終日本である。
ご愁傷様、日本である。
南無阿弥御陀仏の日本である。
アディオス、ハポン。
日本よ、さらば。
日本は、確かに、滅びつつあるのである。
この現状認識をもたないといけない。
日本エクソダスである。
出日本である。
何処へ。
永遠回帰である。
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