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2012年03月07日 (06:44)

自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我

自我に関する整合的視点:父権的自我と母権的自我

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

自我の捉え方が、あいまいになっているので、ここで整理したい。
 凸iは原自我であり、超越論的同一性認識(主に悟性、言語能力)をもつ。外的な志向をもつ。外的感覚(五感)をもつようになると考えられる。
 凹iは内的他者、感情感性欲望である。これは内的志向をもっている。内面に関係する。
 問題は、連続化である。

1)先ず、父権主義化以前の母権主義における連続化を見ると、原初差異共振と連続的同一性(自我)の形成がある。前者が精神的認識であり、後者が自我的同 一性的認識である。しかし、両者は連続的な関係となるだろう。言い換えると、未分化的な結合関係である。原初差異共振が弱化すると、凹iの感情・欲望が強 化されて、連続的同一性(自我)は同一性主義へと向うと考えられる。

2)父権主義化したときは、つまり、凸iが主導的になったときは、凹iが否定される。凸iの悟性文化、文字言語文化が創造される。いわゆる、文明が生起する。
 問題は凸i主導性と自我の関係である。凸i主導の自我が生起すると考えられる。これは、母権主義における自我とは様態が異なると考えられる。何故なら、 母権主義においては、凹iと凸iとの連続性が強いからであるのに対して、父権主義では、凸i主導で、凹iを否定する方向で作用するからである。(もっと も、古代ギリシア文化のように、基底の母権主義に対して、上層の父権主義がいわば、融合する形をとり、初めて差異共振文化が生まれたと考えられる。)
 
1と2から、二つの自我、母権的自我と父権的自我が存することがわかった。
 先に自我方程式は凸i・凹i=+1としたが、こうすると、二つの自我の区別できないことになる。
 二つの自我の様態について、その力学の細部を検討したい。
 自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)であるが、このときは、凸iが自身を凹iに反射させて、凹iを同一性化すると考えたのである。このとき、凸iが主導的であり、凹iは受動的であり、凸iの同一性化を受けているのである。
 この凸i主導は父権的自我を形成すると考えられる。つまり、凸iが支配的であり、凹i(差異、他者)が否定されるのである。
 では、それに対して、母権的自我とはどういう様態なのだろうか。
 母権的自我とは言え、人間は外界の認識のために、なんらかの連続的自我を形成する。それは、凸i主導の自我である。だから、これは、原父権的自我と言うことができよう。
 しかし、母権的自我の場合、凹iの主導性があるのであるから、単純な原父権的自我ではない。
 凹iの「感性」(ここには、精神、感情、欲望が入る)が作用した自我である。
 だから母権的連続的自我とは原父権的自我が凹i主導性を帯びているということになる。
 これは一種の分裂した自我である。父権的同一性はあるものの、それに対する母権的主導性が根強く作用しているのである。一言で言えば、感情作用が強いのである。
 故に、凸iの形成する同一性であるが、それは、感情負荷が強いのである。
 これが先に述べた同一性主義、同一性中心主義の基盤と考えられるのである。
 それに対して、父権的同一性は二項対立的な同一性であり、超越論的である。
 簡単にまとめると、父権的自我は自己認識方程式凸i*凹i⇒凸(+1)において、凸i主導で凹iを同一性化する力学において生起する凸i+1の自我である。
 それに対して、母権的自我は連続的自我=原父権的自我(凸i+1)に対して、凹i主導の「感性」の負荷強度が高い自我であり、両者の両面性、二面性、二重性のある、分裂的な自我ということになる。
 西洋人の自我は一般に前者であり、日本人の自我は後者であると言えよう。
 (自我から自己・個への変容力学については既述してあるが、後で簡単に述べる。)
 日本人が建前と本音を使い分けるのは、母権的自我で説明ができると言えよう。即ち、世間的には凸i+1の同一性自己を言うが、本心は凹i+1(物質的欲望)に存するのである。
 また、これは凸iのもつ悟性を否定するので、思考の一貫性が欠落することになるのである。没論理的な日本人。
 とは言え、果たして、日本人の自我を母権的自我としてだけ捉えいいのだろうか。
 ある種の父権主義があるのはわかるだろう。それは、母権的自我をベースにした同一性主義による父権主義である。これは、感情色が強いので、独善的な父権 主義である。つまり、同一性知性=悟性に基づくのではなく、同一性主義、同一性中心主義の独善に基づくのである。これが、日本の上層部に支配的であり、正 確な真理を認識することなく、同一性主義の疑似父権的自我の思い込みが主導するのである。狂信、盲信、妄想等に陥りやすいのである。
 さて、最後に母権的自我から自己・個へと変容するための方向性を書いてみよう。
 この点では、近代科学や現代科学を学習することはいいことである。それは、父権的自我に拠るものだから、凸iが独立するのである。
 さらには、哲学や数学を学ぶのがより重要である。なぜなら、哲学は凸iを介して、凹i主導のカオスに凸iの知のコントロールをもたらすと考えられるからである。
 数学は凸iの超越論的知性が思考をいわば、純粋知性へと変換させて、凹iのカオスを秩序化するように思えるのである。
 また、すぐれた芸術を通して、凹iが潜在する精神性へと向うことも必要である。もっとも、宗教・神話に触れることも重要である。
 とまれ、一言で言うならば、凸iの知性の強化が必要である。ただし、哲学、数学的知性ももつ必要がある。
 最後に一言言うと、また、直観力を形成することが必要である。
 これは、凸i☯凹i⇒凹(-1)の差異共振から生まれるものと考えられる。人間認識図では第三象限に存する。

追記:直観は原初差異共振能力に潜んでいる。これは、賦活させる必要があるのである。凹i☯凸i⇒凹(-1)である。
 母権的自我の凹iは凸i+1と癒着していて、原初差異共振性、凹iと凸iとの共振性を退化させているのである。
 先に述べたように、凸i指導によって、凹iを独自に認識する必要がある。他者としての凹iを認識する必要があるのである。これはまったき他者である。肚である。また、コスモスである。ミクロコスモスである。新たな差異共振の開化(開花)である。


参考:人間認識図
ガウス平面で表した人間認識の図

original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)
http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208







PS理論の根本的修正へ向けて

テーマ:manichaeism: 哲学

私のこれまでのPS理論的ジェンダー且つ自己論的文化論は単純過ぎたようだ。
 先に、第四の軸、α軸(超越軸)を想定したが、ここでは、便宜的に後期PS理論(オイラーの公式を組み込んだガウス平面を基盤とする差異/同一性理論)を使用する。
 重大の問題の一つは、「自我」である。
 これまで、凸i+1と捉えたが、これは単純過ぎるのである。
 また、「自我」と同一性の問題がある。
 いわゆる自我は凹iが基盤となり、連続化による同一性主義に拠って形成されると考えられる。
 問題は、連続性である。凹iと凸iが連続化されて、同一性化された自己、即ち、自我が生まれるのである。
 だから、自我と同一性は一致する。しかしながら、凸iや凹iが自我というわけではない。
 凹i・凸i=+1が自我、同一性自己である。
 問題は、凹i・凸iの連続体の切断、不連続化である。不連続的差異論は、連続性である「・」を切断したのである。
 その結果、凹i✕凸i⇒凸(+1)となったのである。(✕を不連続化の記号とする。)
 この時、自我・同一性は解体するのである。だから、凹i✕凸i⇒凹(-1)である。凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(-1)である。これは、イデア化であろう。
 とまれ、ここでは、凸iと凹iとの共振が最重要であり、それが、自己ないし個を形成すると言えよう。
 これは、思うに、常時変動している様態をもつのである。変動自己・個、揺動自己・個である。
 ここでは、凸iの知と凹iの感性の両方が重要であり、両者を陶冶的に発展させる必要があると考えられる。
 もっとも、ここで、どうして連続性の切断、不連続化が生じ得るのか考えるべきである。
 ここに真の教養の働きがあるように思える。あるいは、真の芸術の作用である。とりわけ、言語芸術や哲学である。
 教養は、個的精神的活動を意味する。それは、凹i*凸iの連続的同一性体を解体し、質的に変容させると考えられる。即ち、なんらかの凹i✕凸i⇒凹i☯凸i⇒凹(-1)の作用をもたらすと思われるのである。(現代日本の劣化、退化は教養的喪失に拠ると言えよう。)
 ここで、シュタイナーが自我(「わたし」ich)を強調した理由を考えてみよう。
 思うに、彼の自我は上述の同一性・自我ではなく、凹i*凸iないし凸i*凹iの様態に存すると思われる。
 つまり、差異としての自我、個としての自我である。それは、同一性の自我ではない。
 結局、連続化した自我と不連続の自我との混淆・混合・混在が一般的な自我の様態と考えられる。
 不連続的差異論はこの混淆性を解体して、不連続の自我をもたらしたのである。
 とまれ、今日の知的問題は、不連続の自我の形成にある。それが欠落しているために、同一性主義に陥っているのである。それは、利己主義であり、唯物論であり、全体主義である。
 最後にカント哲学に触れると、超越論性とは、端的に、不連続的自我の精神に存するだろう。凸i*凹iである。
 今はここで留める。
 
追記:先に、第四の軸を想定したが、第三軸z軸において、差異共振を考えると、それは、凹(-1)でいいのではないだろうか。つまり、第四の軸α軸は必要ないのではないだろうか。

追記2:肝心なことを書くのを忘れた。
 つまり、先に述べたことに関係するが、母権主義凹i主導が同一性主義を生んだことに対して、父権主義凸i主導のもつ凸iの重要性である。
 つまり、母権主義の文脈における父権主義の意義である。凸iによって、凹i主導が解体されて、凸iと凹iの差異共振が可能になるのである。
 しかし、今日、ベースの凹iが劣化して、凸iが中心化し、支配的になっているのであり、母権主義の文脈が弱化していると言えよう。
 だから、凸iの指導下で、凹iを新たに開拓する必要があるのである。つまり、頭凸iをもって、肚凹iを開発することである。そして、胸media pointを賦活させるのである。

追記3:母権的同一性主義の視点から、D. H. ロレンスの王冠哲学=聖霊論を考え直すことでできる。
 獅子=「父」=闇であるが、それは、実は凸i主導である。そして、一角獣=「子」=光は凹i主導である。
 両者の相克は、連続性におけるそれと見るべきである。そして、王冠=「聖霊」はそれを超克した様態である。それは、凸i☯凹i⇒凹(-1)である。
 とまれ、一角獣=「子」=光を凹iと見ることで、ロレンスのキリスト教批判が意味が解明できる。
 ロレンスは一角獣=「子」=光=凹iが連続性において、同一性主義となるのを見たのである。その帰結が機械文明なのである。それをロレンスは非自己と見 たのである。何故、非自己であるかと言えば、凹iは他者であるからである。自己ないし自我は凸iに存するのであるからである。
 このような意味でロレンスの近代西欧文化、キリスト教的精神、機械文明批判は正しい。
 また、獅子=「父」=闇=凸iであるが、それをロレンスは重要視したが、何故なら、それこそ、差異に通じるからである。
 ただし、ロレンスは、凸iが凹iに通じることを直観していたが、連続性に囚われていたので、凸i優位と凹i劣位の二項対立に陥ってしまったのである。
 しかしながら、晩年において、(新)差異共振化、凸i☯凹i⇒凹(-1)に到達したのである。
 





「聖霊」の力学

テーマ:manichaeism: 哲学

フィオーレのヨアキムの宗教哲学に似たD. H. ロレンスの王冠哲学をPS理論から見ると、「聖霊」はz軸に相当するように思えるのである。
 「父」は凹iをベースにした凸iであり、「子」は凹iであると考えると、「聖霊」は両者の統合であるmedia pointであるが、それは、ガウス平面から屹立したz軸を意味するように思えるのである。
 つまり、z軸は聖霊軸であるということになるのである。
 今は指摘で留める。

追記:先に述べたように、私のこれまでの「ジェンダー」的文化論は練り直す必要がある。
 母権は凹iが中心であるが、連続化によって、同一性中心主義となる(唯物論は母権主義から生まれたと考えられる)。しかし、父権は凸iが中心であり、凹iを排除する。これは悟性主義となる。超越論的同一性主義である。
 文明、父権文明は凸i主導に拠るのである。帰結が西洋文明である。凹iを排除してきたのである。
 だから、ポスト父権文明は新たな凹iと凸iとの共振文明である。つまり、「聖霊」文明である。
 ここで、「聖霊」について、さらに考えると、それは、Neo-PS理論に拠ると、思うに、第四の軸に属するのではないだろうか。
 後期PS理論では第三の軸、z軸となるが、Neo-PS理論では、第四の軸、α軸(仮称)になるのではないだろうか。そう、第四次元である。これが真の超越軸、ないし、超越論軸ではないだろうか。
 これは内的時間軸とも言えるのではないだろうか。
 とまれ、聖霊軸、霊軸、超越軸、精神軸、等である。それは、凸kと凹kの軸である。思うに、凹k☯凸k⇒凹(-1)であるが、media point mixによって、凸k*凹k⇒凸j, or 凸iとなるのではないだろうか。 

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2011年11月30日 (04:47)

「わたしich」とは何か

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

シュタイナーの霊学を読むと、結局、「わたし」ichとは何かが究極の問題であるのがわかる。
 先に、アストラル体は凹i、エーテル体は凸iではないかと示唆した。問題は「わたし」である。
 今想起したのは、以前、Kaisetsu氏が説いた分数公理である。

凹(-1)⇔凸i/凹i

が成立するのではないだろうか。というか、これを作業仮説としよう。
 思うに、これが「わたし」、ich、I である。あえて言えば、右辺である。
 そして、重要なポイントは凹i(陰)である。これがベースである。
 とまれ、これが意味するのは、「わたし」(自己)が根源から発生する最初期の存在であり、アストラル体(凹i)とエーテル体(凸i)はそれの派生であるということ、ないしは、同時期であるということである。
 また、思うに、これこそ、ウパニシャッド哲学の「汝はそれなり」を意味するのではないだろうか。即ち、汝は凸i/凹iであり、それが凹である。
 今はここで留める。

追記:

凹(-1)⇔凸i/凹i

ではなく、

凹(-1)⇒凸i/凹i

の方が正確ではないだろうか。「わたしich」は超越的存在凹(-1)を感じるが、それは、D. H. ロレンスが言うように、正に、Unknown Godであろう。凹(-1)は不可知であると言うべきだろう。
 とまれ、右辺の「自己」は第三象限に属すと考えられる。

参考:

《ガウス平面で表した人間認識の図》
人間認識図
original concept picture of kaisetsu

(海舌が考えた人間認識世界の概念図)

http://photozou.jp/photo/show/240326/40644208

2011年09月10日 (17:06)

光の知覚とは何か:光は同一性を生むのか、それとも差異的なのか:光は差異である:聖なる光と闇

テーマ:検討問題

光は不思議である。光は生命的であり、また、夜明けや夕焼けのように神々しい。
 しかし、そのような「美」的な光とは別に同一性の光があるのではないか。
 問題は差異の光なのか同一性の光なのかである。先の検討では、光は質量がないから、物質ではなく、あえて精神と述べた。
 そうならば、同一性の光は矛盾である。私が言おうとしたことは何なのであるか。物質の光である。それは何か。
 物質の光は不正確な、誤謬の表現である。正しくは、光に照らされた物質の同一性である。
 それは、プラトンのイデアの問題につながる。イデアはポスト構造主義が問題にしたように、確かに、同一性の原型である。ゲーテの原型もそれと一致するだろう。
 思うに、ここには、光と物質の混淆、混同があるのである。光はあくまで、差異と見なくてはならない。差異は精神(霊)spiritである。端的に言えば、この光と物質の混同こそ、連続的同一性を形成すると言えよう。
 そう、人間は知覚・認識において、両者を混同するような力学をもっているのである。それが仏教で言えば、無明である。
 つまり、差異である光を同一性である物質と等号化してしまうメカニズムがあるのである。それは、精神的フィルターである。愚樵氏の言う知的フレーム(?)である。
 これはある意味で神から与えられた人間の試練である。言い換えると、精神を物質と見てしまうように先天的に組み込まれているのである。
 ゾロアスター教では、それをもたらす悪魔をアンラ・マンユと呼んだ。(シュタイナーではアーリマンである。)
 ということで、私が問題にすべきことが明確になった。光を悪とするのはまったくの誤謬である。光と闇は双対であり、両者善である。悪は同一性、すなわち、物質である。
 とまれ、以上から、疑問が氷解した。人間、衆生のもつ弱さから、光を物質=同一性と見てしまうのである。愚かさとも言える。そう、光を物質とするのは、視覚の劣弱さに拠ると言えよう。物質的視覚に閉ざされていると言えよう。
 しかしながら、正確に言えば、混淆、混同があると言うべきである。精神である光と同一性の物質を同一視しているのである。そう、正に、無明というしかない。同一性の闇を差異の光と一致させているのである。
 思うに、これは意外に女性に多いように思う。精神を物質と勘違いしているのである。
 ここで、シュタイナーの精神学の正しさが証明されよう。シュタイナーは物質感覚から精神を離脱させるための瞑想学を説いているのである。それは、つまり、光を物質から離脱させることである。その超物質的な光を瞑想の対象とするのであり、光を瞑想し、さらに、光と闇の超越的世界に参入するのである。
 精神(霊)spiritとは、光と闇の超越的エネルギ-であると言えよう。
 後で、光と闇の関係を精緻に検討したい。

追記:以下のツイッターを見て、ピンときた。やはり、シュタイナーが言う精神が地殻運動と連動するというのは正しいのではないのか。
 つまり、根源は光ないし光/闇であり、それが物質を駆動しているのである。つまり、物質自体には駆動力、起動力はないのである。
 光や光/闇のエネルギーが物質を動かしているのでああるから、当然、精神は物質を動かしうるのである。これで、イエスの奇跡や仏陀の奇跡は説明できよう。ただし、オカルト主義ではない。
 Kaisetsu氏がスカラーには方向性がないと言ったことが意味深長である。
 物質はそれ自体では動かないのである。物質を駆動ささせる光、光/闇の力が必要なのである。
 後でさらに検討したい。


⊃ゥ
sumire2001 ⊃ゥ

そうです。地磁気の乱れは地殻の乱れに時として繋がります。朝のツイートでも予想した通り、1500に茨城沖でM4.8の震度4が発生したようです。 RT @lovelovesarah : あらあれ、午後じゃなかったのか。地磁気がこ (cont) tl.gd/d0hk31

 

2011年08月30日 (19:31)

検討問題:光自己認識方程式と闇自己認識方程式

検討問題:光自己認識方程式と闇自己認識方程式

1)materialityとphysicalityは同じものか:直観では異なる。前者は同一性としての体bodyであり、後者は差異としての体bodyである。

2)光的自己認識方程式は絵画だけではなく、音楽にも、とりわけ、バッハのフーガに適用できるだろう。一般には、ポリフォニーの解明がそれでできるだろう。【予備考察:(1/i)*(i/1)は例えば、主旋律をiとすれば、副旋律が1となるだろう。しかし、副旋律1は逆に主となり、主旋律iを指し示すのである。バッハのフーガは正に、ルネ・マグリットのような陰陽的絵画に似ていると考えられる。】

3)i/iとは思うに、media pointの差異共振様態を示しているのではないのか。私はi/-i⇒-1になることに注意した。これをKaisetsu氏の新しい分数理論(哲学)に拠って考えれば、-iが分母でiが分子だから、ベクトルの根元が-iで先端がiである。これは、陰から陽へと向かうことで、即非差異共振様態をもたらすのである。それは、-i/iとは正反対である。それは、父権的ないし近代的連続的自己様態をもたらすのである。しかし、それも⇒-1になる。しかしながら、それは、第二象限的-1であろう。それに対して、i/-iの場合は、第三象限的-1を意味しよう。
 ここで変形して考えてみよう。

(-i/i)*(i/-i)⇒+1

言い換えると、

(陽⇒陰)*(陰⇒陽)⇒+1(物質現象、自我現象)

あるいは、

第二象限*第三象限⇒第一象限(*第四象限?)

である。
 これは人類の精神の脱物質化ないし脱自我化への至難の業を提示しているのではないだろうか。なぜなら、超越性(-1)への志向性が存しても、陰陽力学によって、+1(物質、自我)へと絡めとられてしまうことを意味すると考えられるからである。
 問題は積ないし精神的フィルターの作用である連続的同一性に拠ると言えよう。思うに、宗教が権威化、権力化するのは、ここの起因があるのではないだろうか。超越性凹(-1)は直観しているのに、現象化して、物質化、自我かしてしまうからである。
 不連続化とは、-i/iの作用を停止、静止させることではないだろうか。そうすると、

(-i/i)*(i/-i)⇒i*(i/-i)⇒-i

となるだろう。つまり、これが瞑想の作用ではないだろうか。精神は-iになるのである。そして、i/-i⇒-1を付加すると、-1-iである。これは正に第三象限である。
 ここで付加(加算)とは何かを考えるべきである。それは、

複素数様態=実数様態(存在様態)+虚数様態(精神様態)

ということではないだろうか。瞑想ないし空様態とは、精神を負の虚数精神様態+負の実数存在様態になるということではないだろうか。
 今はここで留める。

追記:闇または陰陽自己認識方程式?

凹(-1)⇒i/(-i)⇒(i/1)*(1/-i)⇒-〔(-i/1)*(1/i)〕⇒-凸(+1)

i/1は1⇒iだから、物質から陽への志向、1/-iは陰から物質への志向性。前者はわかりやすいが、後者が何を意味するのか難しい。今、当てずっぽうで言えば、前者は頭脳であり、後者は肚ではないのか。言い換えると、上丹田と下丹田である。つまり、差異即非共振のmedia pointではないのか。中丹田の均衡調和である。
 しかし、興味深いのは光と闇は符号が違うだけで形式は同じであることである。ここで、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』を想起する。
 ところで、上下反転と左右反転は意味合いが違うのではないだろうか。上下反転はやはり、上に優位性があり、下が劣位ではないだろうか。それに対して、左右反転の場合はどうだろうか。優劣があったとしても、上下反転ほどではないだろう。果たして、左右は優劣があるのか。西洋では、右が優位であり、左が劣位である。rightは正義であり、左はsinistraからわかるように悪である。
 普通、鏡で見てもそれほど違和感はないが、上下反転は違和感がある。明らかにヒエラルキーがあるのであるし、上意下達である。
 とまれ、上(天)は、⇒ではないだろうか。下(地)は←ではないだろうか。180度回転、i^2回転である。そう、思うに、『不思議の国のアリス』のオリジナルは『地下の国のアリス』であった。地下への落下を意味する。それは、-1の世界への降下では。
 PS理論ガウス平面では、上下が実軸になるのか。それとも、虚軸なのか。
 いろいろ検討したいことはあるが、今はここで留める。

 
参考:

『指し示し分割と「指し示し分数」概念の提示』

通常、分数は、スカラー量として把握されるが、

海舌(明日野)は、分数に、方向性、矢印を持ち込む。

 つまり、

分数表記に、「分子が矢印の先で分母が矢印の根元、というような関係」を持ち込むのである。

量としての、分数の機能も保持する。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813125


『【凸光の一般自己認識方程式】 認識対象の回転と凸光自己認識の差異認識』


凸光の自己認識方程式
凸(+1)⇒i/i⇒(i/1)*(1/i)⇒凸(+1)

を、より、一般化する必要がある。

i=e^i(1/2π)

であり、iとなるのは、θがπ/2などの特別な数値の場合のみであるから、

一般化すると、

Q(θ) = q = e^iθ

である。ここで、Q(θ) = q はθの関数である。

一般化しても、凸光の自己認識方程式
凸(+1)⇒i/i⇒(i/1)*(1/i)⇒凸(+1)

は成立する。
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813123

『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile



参聴:
Bach - The Art of Fugue, BWV 1080 [complete on Organ]
Herbert Tachezi, organ

2011年08月27日 (17:06)

光が自己を認識する過程を多角的に捉えることが可能になるということらしい

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

以下、生成門氏によるKaisetsu氏の「光の自己認識方程式」の解明をざっと読んだが、たいへん意味深長で、刺激的である。精読して、後でコメントしたい。

光による自己認識方程式 (0)

光による自己認識方程式
<PS理論の深化>

海舌氏がまたPS理論を発展させてくれました。応用を目論む四次元能としては嬉しい限りです。早速、その内容の理解に取り組みましょう。

詳しくは「光の思考類推:自己認識方程式の若干の変形」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=813113
を参照してください。

以下は、その内容を元にして私が解釈したことです。

自己認識方程式:(i)*(-i)⇒+1
これは凸i*凹-i⇒+1とも表現します。

これを、海舌氏は次のように変形しています。
i/i⇒(i/1)*(1/i)⇒+1⇒i/i

このように変形する理由は何でしょうか。また、どのような御利益があるのでしょうか。

それは、光が自己を認識する過程を多角的に捉えることが可能になるということらしいのです。

どうしてそのようなことが言えるのでしょうか。

先ず、式は分数で表現されています。一体、認識という過程に分数という数学的表現がどうして出てくるのでしょうか。

分数の意味を考えて見ましょう。

分数とは、文字通り分けたれた数であり、一般的にはa/bと表現します。パンを半分に分けて食べようなどと言いますが、そのときは、一つを半分にするのですから、1=1/2+1/2と表現できるでしょう。

私とあなたが半分づつ(1/2)手にしているのですが、私とあなたでは1です。

分母の2の意味は、私とあなたの2であり、分子の1は、互いに手にした持分です。元の1は私とあなたに分離する前の1です。同じ1でも私の1、あなたの1と、私とあなたの1があります。

これだけ見ても分数というのは奥が深いですね。これ以上の学的な解釈は私には出来ませんので、海舌氏の説明を要約します。

分数とは、
1. 分子を分母が包む
2. 分母の上に分子が置かれる
3. 分子が分母に支配される
4. 分母の背景に分子が存在する
5. 分子が矢印の先で分母が矢印の根元

というような関係であると言っています。
http://www.c-player.com/ad00178?rf=notice&pf=pc
シムダンス「四次元能」




[708] Re:光による自己認識方程式
>> 返信元メッセージを表示
From: Renshi

生成門さん

ご無沙汰しています。

さて、本稿の解説は実に洞察に満ちていると思います。私はKaisetsu氏の光自己認識方程式の意味がすぐにわからなかったですが、生成門氏の分数等の説明が明快です。
 この新しい自己認識方程式の驚異的な点は、
i*(-i)⇒+1⇒i/i⇒i*1/i⇒(i/1)*(1/i)
となることです。
 +1は連続的同一性(物質ないし自我)ですが、それが、虚数的に即非共振様態に変換していることです。正に、正確な自己認識です。
 色々言いたいことがありますが、紙幅の都合、一点言いますと、母⇒子と子⇒母ですが、
後者は「先祖返り」です。始原への回帰です。それは、media pointへの回帰だと思います。そして、それは、実は-1に通じていると思います。光と闇が一致します。

http://www.c-player.com/ad00178/message

2011年07月22日 (01:00)

PS理論的自己様態と連続的自己様態:新母権的自己様態と父権的自己様態:「わたし」とは何か

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

今はざっと言う。
 PS理論は不連続的差異論からの発展・進展である。根本は不連続性である。
 では、これはPS理論的にはどういうことなのか。もっとも復習になるが。
 凸i*凹iが凸(+1)になるが、それが連続的自己(=自我)である。本来、極性であるものが、同一性化されるのである。
 そこにおいて、凹i(他者)が開けても、連続化されているので、差異化されずに、同一性を引きずるのである。つまり、純粋差異、純粋差異共振は生起しないのである。
 思うに、誤まれる神秘主義はそれであるし、ポスト・モダン(ポスト構造主義)もそれであると考えられる。
 ここにおいて、不連続化の意義があるのである。不連続化、切断によって、差異と同一性が絶対的に分離するのである。すなわち、差異共振様態と連続的同一性様態に分離するのである。それらは言い換えると、精神様態と物質様態である。
 では、本件の問題を考えると、自己とは当然、両者をもつものである。自我とは後者である。
 では個とは何か。私はこれまで、個=他者であると言ってきた。すると、個とは純粋差異における凹iのことであると考えられる。つまり、自己における他者というlことになる。
 最後に、シュタイナーのichであるが、それは、自我というよりは、自己であるが、正確に言うと、差異共振様態と連続的様態の並立であろう。
 物質世界に生きる為には、自我(連続態)は必要であるが、それは、仮象的である。根本、本質は差異共振様態である。
 
追記:問題の一つは、凸iとは具体的に何かということである。
 連続的自己において、凸iと凸が一体化する。同一性的自己である。
 では、純粋な凸iとは何かである。凸(+1)とは分離している凸iとは何か、である。凹iは他者であるにのに対して、凸iとは何か、である。
 これは、父権的自己ではないだろうか。それに対して、凹iは母権的自己ということではないだろうか。
 プラトンのコーラとは後者ではないだろうか。
 男性的自己の尊大さは、凸iに拠るだろう。そして、それが、凸(+1)と連続化して、同一性自己(自我)となる。それは又、近代合理主義の原型と思われる。
 次に、個について再考したい。直観では個は確かに、凹iを指すものの、凸iが存在が微妙である。
 しかし、今、凸iを父権的自己としたのだから、個である凹iは凸iとは直接関係をもたないのではないか。
 個は凸i的な尊大さを否定するものである。つまり、凸i*凹iにおいて、凹iに傾斜があると思われる。
 凹iに傾斜をもたせることによって、脱父権的自己になると思われるのである。
 直観では、凸iは存するが、静止的、空的になっているのである。単に容物的である。同一性の容物である。そして、主体は他者

2011年06月18日 (20:12)

凸i(+i)と凸(+1)の関係構造の解明:物質過程から精神過程への不連続的反転

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

PS理論では凸iと凹i(ないし凹iと凸i)の共振が核心である。それはまた、media point(以下、m.p.)と関係する。
 余裕がないので検討できないが、一言いうと、m.p.の構造は二重である。奥(虚軸)では差異共振であるが、物質産出過程では、実軸が中心となり、凸iと凸(物質)が結合するようになるのである。
 その理由は人間は凸iに傾斜しているためである。凸iと凸の結合が物質的認識を形成するのである。大脳皮質の発達となる。
 そして、マイナーな凹iは隠蔽されるようになるのである。そのために、虚軸のm.p.での差異共振が埋れたままになるのである。
 人間認識の問題は凸iの傾斜があるために、物質と精神が連続化していることである。精神は物質から説明されるようになるのである。唯物論。
 結局、⇒凸において、⇒の起点に、つまり、本来のm.p.に移行する力学をどう解明するのかである。
 この問題はだいぶ以前に何回も言及した。繰り返しになるが、最初は⇒凸の形成、物質的身体や物質的認識の形成が為され、その後、反転して、m.p.に回帰する運動を考えてみるのである。
 簡単に言えば、最初はプラス・エネルギーが発動し、その後、反転してマイナス・エネルギーが発動するということである。そして、後者が精神を発達させるのである。この反転は不連続であり、切断である。
 物質界への志向から精神界への志向へとチェンジするのである。それは、マイナーであった凹iが前面に出てくる過程でもある。それが、凸iと共振して、超越的存在凹に連絡するのである。
 しかし、差異共振は凸iでは認識できない。それは、凹iの直観・直感に拠るのである。そのため、第三象限が超越界となるのである。

参考:人間認識図(Kaisetsu氏)
人間認識図

2011年04月12日 (00:46)

仮説:『科学』とは何か:その2:凸iに傾斜する(父権化)と絶対性が連続化され、合理性が歪曲される

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

直近において、『科学』について考察した。(仮説:『科学』とは何か:物質的法則は絶対的であり、基準値はそれに準拠するものと考えるべきである )
 そこでは、凸i*凹i⇒が絶対的法則を意味すると述べた。
 しかし、そう述べる前には、直観では、凹iが絶対的法則ではないかと思ったのである。この点に関連して考察を行ないたい。
 差異共振エネルギーは法則的であり、その根源は虚軸に存するのである。
 それは、ジェンダー論的に言えば、母権的なのである。何故なら、凸iの自我(父権的)傾斜がそこにはないからである。
 ここで注意すべきは物質世界の法則と人間認識の相違である。物質世界の根源は差異共振であると言えるし、人間の認識の根源もそうであるが、人間認識の場合、物質世界と異なり、凸i(陽)に傾斜している点を確認しないといけないと考えられるのである。
 つまり、凸iの傾斜を押さえる為、凹iを重視して均衡を取る必要があると考えられるのである。
 その点から見ると、私が絶対的法則は凹iにあるのではないかと言ったことは、人間認識に関しては正しい。しかしながら、法則は差異共振であり、凸iと凹iとの均衡に存すると言える。
 さて、以上で、前提が整ったので、本題に入ると、『科学』とは二重性をもつことがわかる。即ち、差異共振的法則と人間的認識の二重性である。
 もし、後者において、父権的自我、凸iの傾斜をもつと、それは、連続的同一性を生み出すので、法則と自我とが一体化してしまうと言えよう。
 それは、法則と自我とが混同されているのであり、正しく法則を認識できないことになる。つまり、現実的には、自我の都合で、利己主義的に、法則を歪曲することが起ると考えられるのである。
 故に、科学者は認識において、凹i(陰)に基盤をおくべきと考えられるのである。
 そのような意識がないと、自我と連続化しているので、法則の独立性が保てなくなると言えよう。
 ここで、『科学』を研究する人間が父権的自我の持ち主であったとすれば、それは、『科学』を必然的に捩じ曲げることになるだろう。
 そして、あえて言えば、それが、今日、現代、日本の『科学』領域に起っていることではないかと考えられるのである。
 つまり、『科学』が自我的志向(利己主義)によって、反『科学』あるいは似非『科学』にされるということである。
 カントは超越論的形式という物質界への認識様式を説いたが、差異共振とは超越的法則ということができるのであり、それは、自我的認識・意識から独立するものなのである。
 この『科学』の超越性を認識しないならば、それは、『科学』を邪道化するものと言えよう。
 利己主義によって、絶対的法則を都合よく解釈することに帰結すると考えられるのである。
 この点で、資本主義の利己主義と『科学』が結びついたのは不幸であったと言えよう。また、その物質的手段として、『技術』があるのであるが、それは、本来、『科学』とは異質なものであると言えよう。
 『技術』は『科学』に拠るものとは言え、それは、『科学』の物質的応用と言えよう。つまり、『科学』から『技術』への転換において、自我、利己主義が入ってくることが考えられるのである。
 そう、ここでも、『科学』が偏向すると言えよう。
 とまれ、日本においては、母権的個と父権的自我の二つの「精神」があるが、明治維新以降、とりわけ、戦後以降、父権的自我が支配的であり、『科学』を『技術』と結びついた資本主義に癒着させてきたのであり、そのために、『科学』本来の超越性が無視されてきたと考えられるのである。

2011年04月09日 (22:36)

自我と個について:「わたし」とは何か:凹⇒凹i*凸i⇒凸i*凹i⇒凸

テーマ:自己認識方程式:凸i*凹i⇒凸(+1)

自我は凸i、個は凹iと言えるのではないか。とまれ、今は、自我とは何か、個とは何かを考えたい。
 私が考えるとは、直感的に考える、つまり、内省、省察するということである。(思うに、思考と内省・省察は異なるのではないだろうか。前者は頭で考えるのであり、後者は、内面的に考えるのであるから。だから、いわば、外考と内考があると言うことができる。近代主義は当然、前者に傾斜しているのである。哲学は後者である。)
 この問題で私が参照するのは、人智学のルドルフ・シュタイナーである。彼は、人間における自我を重視している。もっとも、彼の自我とはich(「わたし」)のことであるが。
 ここでは有り体に考えよう。いったい、自我とは何か。確かに、外界への視覚に留意し、頭で考える存在である。
 これはデカルト的自我と言っていいだろう。コギト・エルゴ・スム。
 物質現象世界を生きる「身体」としては、そのような視点になる。自我的視点である。
 しかしながら、自我と「わたし」は同じであろうか。これが大問題である。
 自我とは、物質的現象界を生きる上で、必要な「端末」である。
 そう、物質世界において、自我が主導化する。
 この自我とは物質的な「わたし」と言えよう。だから、物質的でない「わたし」が存するのである。それは当然であるが。
 端的に、精神的な「わたし」が存するのである。
 では、精神的な「わたし」と個とはどう関係するのかが、問題である。
 これまで、私は個とは凹iであると述べてきた。又、それは、同時に他者であると述べてきた。
 だから、自我と個とは対立・矛盾するのである。否、絶対的矛盾・対立である。つまり、やはり、自我は凸iであり、個は凹iであるということになる。
 ならば、「わたし」とは何か、という問題が生じる。
 結局、「わたし」とは、両極的、対極的、双極的観念ではないだろうか。
 ここには、三一性があると言えよう。自我、個、「わたし」である。しかしながら、「わたし」は曖昧な観念である。流動的である。何故なら、常に、自我極に向いたり、個極に向いたり、常時変動しているからである。
 ここで、都合がいいので、ユング心理学の個性化について考えよう。
 ユングは自我と魂(アニマ)との統合として、自己形成=個性化を説いていた。
 だから、私の論理の文脈では、魂とは個凹iになるだろう。
 では、ユングの個性化とは何か。それは、以前述べたが、自我と魂(個)との連続的統合化であると思う。それは、混乱していると言えよう。錯誤である。
 というのは、ユングは、自我と魂(個)とが不連続であることを考えずに、その連続的統一・結合化を個性化と考えているからである。
 PS理論から言えば、自我と個(ないしは魂)は不連続であり、連続的統一化が不可能である。
 PS理論では、自我凸iと個凹iとは、差異共立且つ差異共振するのであり、常に、自我凸i・即非*・個凹iという常時変動生成状態をもつと考えられる。
 とまれ、それが「わたし」の実態であるが、いったい、主導性は何であるのかが重大な問題である。
 自我凸iが主導的なのか、個凹iがそうなのか。
 PS理論から言えば、両者が主導的である。つまり、どちらも主導的ではないと言えよう。
 ただし、傾斜の問題がある。自我凸iに傾斜したときは、差異共振は第二象限に属するし、個凹iに傾斜したときは、それは第三象限に属すると考えられる。
 そういうように考えると、両者、平等、対等、均等である。果たして、そうなのか。自我凸iと個凹iは対等なのか。
 ここでは、直感で述べよう。対等ではない。主導性は後者にあると。
 根源は個凹iに存すると考えられるのである。
 自我凸iは、個凹iのエネルギーを受けて、成立しているように感じられるのである。
 ならば、不均衡がそこにあるのである。つまり、自我凸iと個凹iとの不均衡である。
 これはどういうことなのか。つまり、本来、個凹iが基礎であり、自我凸iは二義的ではないのかということである。
 ならば、個と差異共振とはどういう関係にあるのかが問題である。
 ここで、どうも袋小路に入ってしまったようである。この点については、以前、考えたことがあるので、それを利用してみよう。
 以前の考えとは、⇒凸(+1)においては、凸iが主導的であり、凹⇒凸i*凹iにおいては、凹iが主導的であるというものである。
 これは言い換えると、前者は父権的であり、後者は母権的であるということと考えられる。
 これが、事象の力学(秘密)なのであろうか。つまり、物質化のためには、凸iが主導的であり、脱物質化のためには、凹iが主導的であるということなのか。
 そうならば、端的に、事象において、不均衡、非対称が本質であるということになる。
 これも以前述べたことかもしれないが、超越的存在の凹が分化(自己分割)して、凹i*凸iを産出する。このとき、凹は直接的には、凹iに作用しているのではないだろうか。それから、主導性が凸iへと移り、次に、物質化するということになるだろう。
 言い換えると、最初は、第三象限(精神世界:光の王国)が成立し、次に、第一象限(物質世界:闇の世界)が形成するということになる。
 多くの神話で説かれる原初の混沌とは、第三象限を指しているのではないだろうか。あるいは、media pointがそうかもしれない。(これは課題とする。)そして、天地開闢ないしは天地創造は第一象限の発生を意味するのではないだろうか。
 思うに、根源の「闇」とは第三象限だと思う。それが、「闇」なのは現象世界の「光」から見てのことである。そして、混沌とはやはり、media pointだと思う。それは、「闇」と「光」の中間界であり、D. H. ロレンスのいう薄明twilightの世界(金星Venusで象徴される)である。
ということで、作業仮説的に、原初においては、凹iが主導的であり、現象発現においては凸iが主導的になるとしたい。
 言い換えると、母権が原初にあり、それから父権が生起するということであり、それは、神話学的説明にそぐうものである。
 つまり、多神教が根源にあり、その後、一神教が発生するという力学、宗教・神話力学があるということである。
 ここで、今日、現代の時代のことを考えると、今や、凸i=父権の支配は終わり、新たな凹i=母権主導になりつつあると考えられるのである。
 この力学はどう説明できるだろうか。
 思うに、新たなエポックが始まったと考えられる。これまでの支配的であった西洋文明のエポックの発動のエネルギーが枯渇して、新しいエネルギーが発動していると思われるのである。
 新たな第三象限の発動・起動・駆動である。
 では、そうならば、再び、母権から父権へと進展するのであろうか。否、そうではないだろう。これは螺旋的回帰であり、進展・進化と考えられる。
 再び、父権主義にはならないだろう。父権主義を超克した新母権主義、新母権的統合主義となろう。
 何故なら、今や、父権主義の力学が解明されて、それを克服する知恵があるからである。つまり、新たに、父権主義へ向おうとすると、母権、凹iの抑止がはたらいて、それは制御されると考えられるからである。
 今はここで留めたい。

2010年12月30日 (13:22)

サルトルの『自我の超越』:自我は凸i⇒+1、絶対的内面性・存在は凹iではないだろうか

サルトルの『自我の超越』:自我は凸i⇒+1、絶対的内面性・存在は凹iではないだろうか
テーマ:文学・哲学
以下、永野氏によるサルトルの『自我の超越』の説明は明敏である。
 自我問題であるが、これまで何度も述べたように、自我は凸iか、凸i⇒+1(凸)である。同一性の形式、物質形式である。
 それに対して、サルトルの非自我の純粋意識、絶対的内面性、存在とは、凹iであると思われるのである。サルトルの実存も、自由も、凹iと考えると、明晰になるだろう。そう、他者である。
 「実存が本質に先立つ」も、実存を凹i=他者と考えれば、わかりやすい。そして、それは、絶対的差異であり、当然、「自由」である(通常、自由は自我の自由と考えられているが、それは、恣意に過ぎない)。
 思うに、後期サルトルの混乱は、これを個の原基と捉えず、集団的なものと捉えて、マルクス主義と結合したことであろう。実存を個、絶対的差異、絶対的他者として捉えれば、マルクス主義との「野合」はなかったと考えられる。
 そう考えて、かつて、実存主義と共産主義を結合させたサルトルを激しく嫌悪したことの説明がこれで為されたことになる。長年の宿題が解決したことにな る。(私は若かったから、アルベール・カミュの『シーシュポスの神話』が好きであった。思うに、不条理とは、ロマン主義の延長の概念ではないだろうか。超 越性を予感しながらも、物質的現実に直面させられるというアンチノミーである。)
 ついでながら、私にとって、今年はいろいろなことの清算の年であった。身軽になって、来年は兎のように跳びはねよう。
 皆様よいお年を!
 

「自我と自由―サルトル『自我の超越』について―」

永野潤
第三節 自我の自発性と意識の自発性
 以上のようにサルトルは、純粋な反省を遂行すれば、我々は「自我」を蓋然的な「心的なもの」として排去せねばならないと主張する。これが、『自我の超 越』の主要な論点である。サルトルは、純粋な反省によって「自我」という「超越的なもの」を排除し、「純粋意識」という、絶対的内面性へと到達しようとし ている。その意味で、この議論の中に我々はいわば「外部から内部への運動」を見て取ることができるのである。ここで、「純粋な反省」によってとらえられる 超越論的意識が、「存在 existence」であるとサルトルが主張している点に注目しなければならない。超越論的意識は、
「絶対的存在領域 sphe`re d'existence absolue」だといわれる。こう主張することによってサルトルは、意識が、後の彼の表現を用いて言えば「本質に先立つ実存」であることを強調している のである。つまり、サルトルによる「意識からの自我の排去」とは、意識からあらゆる「本質規定」を取り除く作業でもある。「自我」をはじめとする「心的な もの」とは、反省された意識に外側から与えられる、「超越的」本質のことであった。したがって、「外部から内部への運動とは、「本質から存在への運動」で もあった、ということができる。
 ところが、サルトルは意識が「絶対的な存在領域」であると言うのと同時に、意識が「純粋自発性 spontane'ite's pures の領域」(TE,77)でもあるといっている。これが、我々がこれから問題にしようとしている「意識の自発性」についての議論である。自発性とは、のちの サルトル哲学において「自由 liberte'」という言葉でおきかえられていく概念なのだが、意識が「自発性(自由)である」ということは、実はサルトルにとって唯一の意識の「本質 規定」なのである。「人間は意識として(「自己のもとに現在しているものとして」)実存しており、このことが原理的に意味しているのは、人間が自由として 実存しているということにほかならない。このことこそ、サルトルにとって、根本的に存在論的に定義し言明されうる人間についての唯一の「本質の性格づけ」 である [*1] 。しかし、ここでなされている意識の「本質規定」は、意識に外側から与えられる「超越的」本質規定ではない。それは意識の「超越論的」本質規定なのであサ。「自由とは、実存する意識に後になって付け加えられるぺき規定であるという考えの成立しないように [*2] 」しなければならない。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/6142/ronbun/jiga.html

トランス・モダンとしての道元禅哲学
テーマ:日本哲学:鈴木大拙、西田幾多郎、九鬼周造
以下、正法眼蔵の有名な箇所であるが、以前読んだとき、なんとなくわかったつもりであったが、今や判然とわかるのである。
 PS理論の凹i、他者をこの場合、仏道の真理とすればいいのである。凸iは、自我であり、これを脱落(身心脱落)させて、凹iの心性、心眼をもつことが仏道であると言えよう。
 道元はトランス・モダン哲学を説いていた。
 思うに、仏教というか、禅は、哲学と見るべきである。仏教は宗教ではない。神を説いていないからである。
 ところで、テキストは次を薦めたい。




正法眼蔵(一)全訳注 (講談社学術文庫) [文庫]
増谷 文雄 (著)

第一 現成公案


自己をはこびて萬法を修證するを迷とす、萬法すすみて自己を修證するはさとりなり。迷を大悟するは 佛なり、悟に大迷なるは衆生なり。さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。 佛のまさしく 佛なるときは、自己は 佛なりと覺知することをもちゐず。しかあれども證佛なり、佛を證しもてゆく。
身心を擧して色を見取し、身心を擧して聲を聽取するに、したしく會取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を證するときは一方はくらし。
佛道をならふといふは、自己をならふ也。自己をならふといふは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、萬法に證せらるるなり。萬法に證せらるるといふは、自己の身心および他己の身心をして 落せしむるなり。悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。
人、はじめて法をもとむるとき、はるかに法の邊際を離却せり。法すでにおのれに正傳するとき、すみやかに本分人なり。

http://www.shomonji.or.jp/soroku/




ヤハウェとエローヒーム:父権一神教と母権多神教
テーマ:一神教/多神教⇒新多神教・新多一神教
神秘学者のシュタイナーが、人間はヤハウェ型とエローヒーム型に類別されると述べていた。
 PS理論で言えば、凸i型と凹i型である。日本人の遺伝子にも、両方の型があると思う。
 日本国を基本的に支えてきたのは後者であるが、戦後、とりわけ、今日、民主党に見られるように、前者が支配的になって、亡国を迎えていると思われる。
 父権型は、利己主義、自己中心的、独りよがりであり、他者がないために、社会を国を滅ぼし、民衆を地獄に落とすのである。
 思うに、現在の日本は日本国のカルマによって、大試練を迎えていると言えよう。闇が支配して、光を消滅させようとしているのである。
 とまれ、日本、日本人は生まれ変わる必要がある。本気にならないと亡国は必定である。

参照と参考:

「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵 Ⅲ
HEXのブログ


太陽に手をがざす!
指圧百科:SHIATSU

Kaisetsu氏に拠る、ベクトル・モード計算と二重螺旋構造の解明
テーマ:精神的フィルターとVector Mode
以下、たいへん興味深い解明が為されている。
 先に、私はMedia Pointにおいて、物質と精神が同時生起すると述べたのであるが、それが見事に、DNAの二重螺旋構造という点で解明されていると考えられる。
 私は⇒+1が物質化、⇒-1が精神化として、逆になっているが、単に、ネガとポジの違いであり、後で、考察し直したい。
 重要な点は、Media Pointからベクトル・モードが形成されるが、そこでは、物質、生命体が形成されると同時に、精神、知性が形成されるということである。これは正に、Media Pointの陰陽の為す造化の妙、奥義である。
 だから、Media Pointは創造神と言えるかもしれない。とまれ、余裕のあるとき、緻密に検討したい。 
• 二重螺旋構造とベクトル・モードの演算記号vector mode calculationvmc
所謂、二重螺旋構造は物質的な相互作用によって、遺伝情報と言う精神作用を伝達・保存・消去する構造である。

 物質世界からは、常に、「-1」が出てくる。

 この「-1」を指数分割(1/2乗)することで、虚数(i)を2個表出することが出来る。

 この2個の虚数が
精神世界(電磁関連作用)の場合

(凸+i)*(-i凹)⇒(適合、噛み合っている):mode=-(+i)*(-i)=(+1 or +)


 上記「精神世界(電磁関連作用)の場合」の2個の虚数であると考えることが可能だ。

 つまり、二重螺旋構造は、「物質世界の新陳代謝(ベクトル・モード計算)」と「精神世界の新陳代謝(ベクトル・モード計算)」が連続的に発生するシステムであろう。


海舌(明日野)
• 八卦とベクトル・モードの演算記号vector mode calculationvmc
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


物質形成と精神形成:凸i主導性と凹i主導性:父権と母権
テーマ:検討問題:思考実験・仮説・エッセイ・メモ
先に次のように述べたが、もう少し進展させたい。

凸iが主導で⇒+1(物質)となるならば、凹iが主導したとき、⇒-1となるのか?

私は次のヘーゲル弁証法論理の説明(弁証法論理と即非(差異共振)論理:ヘーゲル弁証法とPS理論的即非論理:トランス・モダン資本主義へ )から以上のことを思ったのである。
 ヘーゲル弁証法は、精神からの物質的形成(外化、疎外態)を説き、そして、それを止揚・揚棄して、精神に復帰する力学論理である。
 問題は、物質形成である。それは、正に対する反であるが、これは、ps理論では、+1である。
 私はその時、凸iが主導的であると感じたのである。しかし、今、判然としない。というか、ただ、凸i、陽が主導して、物質界を作ると思いついたのである。つまり、同一性形成の問題である。凸i、陽の主導性が同一性、さらには物質を形成すると言えよう。
 この同一性があるために、凸iである脳は、物質界を認識すると言えよう。凸iのもつ原同一性(ロゴス性)と物質界の同一性が適合するということである。
 ということで、本題に戻ると、では、凹iが主導したとき、何が生起するのか。
 先に、凹iは肚であると言った。あるいは、下丹田、マニプーラ・チャクラ、太陽神経叢、視床下部等と言えよう。
 凹iが主導したとき生起するのは、直観では、精神・魂である。凹iの主導性は、同一性ではなく、差異共振を形成すると思う。凸iの主導性が同一性かつ物質を形成するなら、凹iの主導性は、精神・魂を形成するということになる。
 つまり、凹iは絶対的差異、他者であるから、凸iの原同一性=ロゴス性が消極的になり、非同一性、非物質性を生成すると考えられる。即ち、陰陽力学と は、本来、物質と精神を同時生起させているのであるが、原父権主義である凸iが主導的であると、物質主義が支配的になると言えよう。
 では、さらに、凹iの主導性・優位のもたらす精神・魂の意味を考えてみよう。私が考えているのは、-1との関係である。
 凹iの精神的感性であるが、それは、超越界と通じているのである。つまり、凹iは「気」と通じていると考えられるのである。ならば、超越界を-1とするなら、凹iは-1と連絡して、人間認識図の第三象限を形成すると言えよう。
 根源は超越界であるが、しかしながら、凹iは-1と連携して、自立的に、超越界ないし超越性を形成するのではないだろうか。そして、シュタイナーの霊学から見ると、それが人間の使命となる。
 凹iと-1の第三象限的思考をもつことで、個的超越界・超越性が形成されるのであり、それは、精神・魂の豊かさを創造すると言えよう。
 そして、凸iの物質文化との調和をそれによって計っていくことが、現代の人間に課させられたもっとも重要な任務であろう。

参考:

チャクラ
チャクラ(cakra, chakra, cakkra, चक्र)は、サンスクリット で「車輪・円」を意味する語。漢訳は「輪」(りん)、チベット語では「コルロ」(khorlo)という。インド起源の神秘的身体論における、物質的な身体(粗大身)と精微な身体(微細身)にある複数の中枢を指す[1] 。
ヨーガでの用法 [編集 ]


各チャクラの位置
ヒンドゥー教 のヨーガ では、人体の頭部、胸部、腹部で、輪または回転する車輪のように光っているように感じられる箇所を言う。数は6または7箇所と言われるが、それとは別に8箇所あるという説もあるなど、一定ではない。画像 では光る蓮華 で表現される。猿であったときの尻尾の名残の尾てい骨から発生する蛇を、チャクラを通じて頭から出すのが目的といった見解がある。
1. ムーラーダーラ(Mooladhara)・チャクラ:会陰
2. スヴァーディシュターナ(Swadhisthana)・チャクラ:陰部
3. マニプーラ(Manipura)・チャクラ:腹部
4. アナーハタ(Anahata)・チャクラ:胸
5. ヴィシュダ(Vishuddhi)・チャクラ:喉
6. アージュニャー(Ajna)・チャクラ:眉間。インド人は、ここにビンディ をつける。
7. サハスラーラ(SahasrAra)・チャクラ:頭頂(Sahasraは千、Araは花弁。6箇所の場合、含まれない。一説に千手観音 の千手千眼はこのチャクラのことという)。
簡易的には背骨の基底部から数えて第1チャクラ、第2チャクラ……という呼び方もする。
チベット仏教の指導者であるダライ・ラマ14世 は、その場所に心を集中すると何かしらがあるという反応が得られると述べている[2] 。
仏教タントラにおけるチャクラ [編集 ]
インド仏教の金剛乗 のタントラ 経典では以下の四輪があるとされていた。
• 応身のチャクラ(臍)
• 法身のチャクラ(胸)
• 報身のチャクラ(喉)
• 頭部の蓮華(脳)
インド密教を継承したチベット仏教 の無上瑜伽タントラでは以下のチャクラがあるとされる[3] 。
• 大楽輪(頭頂)
• 受用輪(喉)
• 法輪(胸)
• 変化輪(臍)
• 守楽輪(秘密処=下丹田にあたる)
中国 [編集 ]
中国の道家 や内丹術 の伝統的な身体論には、インドのチャクラに比すべき丹田 という概念があるが、近代の内丹術の中でも清 代の閔小艮の一派はヨーガの七輪の概念を取り入れている[4] 。
西洋への伝播 [編集 ]
ヨーガ の伝播と共にチャクラの概念も伝播した。数は7箇所で内臓 の各部に充てられるようになった。また、その振動の周波数などを解明したとする研究者もいる。他の行法である近代西洋儀式魔術 などにも概念が取り入れられた。
神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ [編集 ]
チャクラは脊椎に関連するエーテル体 にあるエネルギー・センター(渦)で、肉体の7つの内分泌腺及びメンタル体 、アストラル体 、肉体の調整と活性化を司り、意識の中枢と各身体の中継点としての役割をはたしている。
現在のヒーリングなどの分野では、各チャクラに対応する体表のツボのことを指して「チャクラ」と呼んでいる。体表のツボは単にチャクラからのプラーナ (気 ) の出入口としての役割を果たしているにすぎず、チャクラではないが、ここでは便宜上体表のチャクラと呼ぶことにする。一方、伝統的なヨーガが伝えている 「チャクラ」は、体表のチャクラではなく、人間のエーテル体に存在するほぼ脊柱に沿った7つのチャクラで、ここではこれを脊髄のチャクラと呼ぶことにす る。しかし時代が下るにつれ、この脊髄のチャクラとは異なるチャクラの記述が現われるようになる。ここではこれを神経叢のチャクラと呼ぶことにする。実の ところ主要な7つのチャクラのいずれのチャクラも、これら神経叢のチャクラと脊髄のチャクラが対をなして存在している。しかし現在に至るまで、この2つの チャクラの系統は明確な区別がなされていない。
古代のヒンドゥー教のヨーガでは、脊髄のチャクラが「チャクラ」とされてきた。不滅の身体をもち今も老いることなくヒマラヤで生き続けていると言われているマハー・アヴァター・ババジ が、弟子たちに伝授したクリア・ヨガの伝統では、脊髄のチャクラに関する知識が伝わっている。20世紀前半、クリア・ヨガを初めて西洋に伝えたパラマハンサ・ヨガナンダ は、 著書『あるヨギの自叙伝』(森北出版)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を『心臓の後にある胸椎中枢』としている。ヨガナンダの言うチャクラが脊髄の チャクラであることが分かる。またババジのクリヤー・ヨーガ(ヨガナンダのクリア・ヨガと本質的に同じものと思われる)の普及活動をしているマーシャル・ ゴーヴィンダンは、著書『ババジと18人のシッダ』(ネオデルフィ)の中で、アナーハタ・チャクラの位置を「心臓の高さに当たる脊柱内にある」としてお り、ヨガナンダと同様である。
6-7世紀以降、タントラ教典が編纂された後の近代のヨーガ では、神経叢のチャクラについて言及するようになった。近代のヨーガの指導者として著名なスワミ・ヨーゲシヴァラナンダの著書『魂の科学』(たま出版 ) にはアナーハタ・チャクラの位置について、「このチャクラは、別名、心臓のチャクラとも呼ばれていますが、胸部の両肺に挟まれた心臓内にある微細な空間の 中に位置しています。」という記述があり、ヨーゲシヴァラナンダの言うチャクラが神経叢のチャクラであることが分かる。
また、サマエル・アウン・ベオールの著書『完全なる結婚』(ノーシス書院)には、神経叢のチャクラと脊髄のチャクラの存在について、「原始ヒンズーヨギたちは、脊髄のチャクラとクンダリニー にすべての注意を払い、神経叢のエーテルチャクラには、ほとんど無関心であった。このことはにせ秘教家を驚かせた。」という記述がある。
以上からも、各々のヨーガ行者あるいは神秘家がチャクラの性質及びその位置について言及する場合、神経叢のチャクラあるいは脊髄のチャクラのいずれ か一方についてのみ言及しており、各々のチャクラが、これら2つのチャクラと対をなして存在していること、及び、それらの位置と機能の違いについて、明確 に区別し、自覚されていたとは考えにくい。
体表のチャクラは、先に述べたように本質的にチャクラではなく、チャクラからのプラーナ (気 ) の出入り口である。しかし、そのルートが浄化されていることが心身の健康とチャクラの覚醒の上で重要であるため、ヒーリングの分野において重視されてい る。一方、本来のチャクラは神経叢と脊髄のチャクラであり、神経叢のチャクラは、身体の交感神経系を支配するナディーと関連し、身体の運動的な活動を司っ ている。一方、脊髄のチャクラは、身体の副交感神経系を支配するナディーと関連し、精神的な活動を司っている。神経叢のチャクラと脊髄のチャクラは対に なっており、意識の拡大の過程を通じて、下位のチャクラから順に覚醒していく。
フィクションでのチャクラ [編集 ]
以下は、夢枕獏 の小説「キマイラ・吼」シリーズに登場するチャクラ。
アグニ
仙骨 に あり鬼骨などとも呼ばれ、この1つのチャクラで、7つのチャクラを合わせたよりも更に大きな力を持つとされ、生命進化の根元を司るとも言われる。あまりに 強大な力を持つゆえに、このチャクラを開眼させたまま放っておくと人は獣や鬼に変じてしまうなどという話もあるが、現代のヨーガ実践者でそれを開眼させた 者はおらず、眉唾的なものではある。ただ、古代中国に赤須子(せきしゅし)がそのチャクラを開眼させてしまい、獣(的なもの)に変じた赤須子が村人を数十 人喰い殺し、見かねた老子 が赤須子を封じたという記録が唯一残っている。
ソーマ
月のチャクラなどとも呼ばれ、アグニチャクラの開眼により暴走を始めた肉体(生命力)を統べ得る唯一のチャクラと言われるが、アグニチャクラの存 在自体が定かでないため、更にその存在は疑問視されることがある。ソーマの身体上の位置を、頭頂の更に上(要するに虚空)と主張している。これは人間の身 体を肉体だけでなく、エーテル体なども含めた上での見解である。
脚注 [編集 ]
1. ^ ミルチャ・エリアーデ 『エリアーデ著作集 第10巻 ヨーガ 2』 立川武蔵 、訳、せりか書房、1975年。ISBN 4-7967-0087-0 。
2. ^ F・J・ヴァレーラ 、J・W.・ヘイワード 『徹底討議 心と生命』 山口泰司・訳、山口菜生子・訳、青土社、1995年、109頁。ISBN 4-7917-5382-8 。
3. ^ 平岡宏一 『ゲルク派版 チベット死者の書』 学習研究社〈学研M文庫〉、2001年。ISBN 4-05-901032-4 。
4. ^ 道教と仙学 第4章 各派の丹法の要訣
関連項目 [編集 ]
• ヨーガ
• クンダリニー
• マルマ
• 経絡
• 如意輪観音 (手にチンタマニ(Cintamani cakra チンタ=如意、マニ=宝珠)とチャクラ(法輪 、チャクラム が変化したものという)を持つため中国仏教 では如意輪と訳した。)
• オーラソーマ
• オーラ
参考文献 [編集 ]
• 竹下雅敏 神経叢のチャクラと脊髄のチャクラ ユニティ・デザイン
• C・W・リードビーター 『チャクラ』 本山博 、湯浅泰雄 (共訳)、平河出版社、1978年。ISBN 4-89203-023-6 。 - チャクラ、リードビーターの理論が概観できる。 PDF
• 比較文化研究室( 島岩 )訳『十六ニティヤー女神の海』、『ジュニャーネーシュヴァリー』等
外部リンク [編集 ]
• 七つのチャクラの意味
• 無料チャクラの壁紙
• チャクラ (チャクラとは、「気」とチャクラ、チャクラの活性化の方法など)
• チャクラについて (各チャクラの位置とそれが司る体の領域、意味、色)
• Evolutio Rodurago - チャクラ テスト (英語)
• クラ派の南の伝承におけるシュリー・チャクラの構造
• シャークタ派の密教 シュリー・チャクラの構造を中心として
• 人生の中でのチャクラの活動レベル (チャクラのバランシング方法、活性法、過去生の情報など)

「チャクラ」は、インド に関連した書きかけ項目 です。この記事を加筆・訂正 などしてくださる協力者を求めています (プロジェクト:南アジア )。



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カテゴリ : ヨーガ | 身体論 | ニューエイジ


ベクトル・モード総覧:物質世界の凹と精神世界の凸
テーマ:精神的フィルターとVector Mode
以下、Kaisetsu氏の、いわば、ベクトル・モード総覧はまったく曖昧さがなく、透徹して明快・明晰で、きわめて役に立つ。
 結論の、物質世界での適合状態が凹、マイナスであり、精神世界のそれが、凸、プラスであるのは、実に興味深い。
 物質主義、資本主義の欠陥が指摘されているが、それも興味深い。そこにおいて、凸、プラスが支配するのが、問題であるということであるが、確かに、凸、プラスが支配すると、それは、同一性主義、交換価値中心になり、資本主義の差異共振性が破壊されると言えよう。
 つまり、資本主義内の精神世界=差異共振性=凹、マイナスが、凸、プラスによって、破壊されるということと言えるのかもしれない。
 叡知の共振によって、資本主義は作動するのであり、それが、同一性主義、物質主義が支配的になると、侵食されるということかもしれない。後で、再考したい。
 
参照:


ベクトル・モードの演算記号の初期設定螺旋の記号表記)
(使用例)

 
1) 一般的なオスメス・ネジの場合。(観察者は実軸上、マイナスからプラスを見る)

osumesi121 posted by (C)天花一海

 a2)ボルト実軸プラス方向右回転のベクトル・モード(螺旋運動) 凸+
 d1) ナット実軸マイナス方向左回転のベクトル・モード(螺旋運動) -凹


 (凸+)*(-凹)⇒(適合、噛み合っている):mode= - reason why (+)*(-)=(-)

凸*凹⇒即非:無記号(本来、陰陽記号)
プラス・マイナス符号計算 (+)*(-)=(-)

よって、 (凸+)*(-凹)が互いに適合して噛み合っている場合のベクトル・モードは「マイナス1」 or 簡便に「-」「凹」である。

mode=-(+*-=-)

 2) 一般的なオスメス・ネジの場合。(観察者は虚軸上、マイナスからプラスを見る)

 ia2) ボルト虚軸プラス方向右回転のベクトル・モード(螺旋運動) 凸+i
 id1) ナット虚軸マイナス方向左回転のベクトル・モード(螺旋運動) -i凹

(凸+i)*(-i凹)⇒(適合、噛み合っている):mode=-(+i)*(-i)=(+1 or +)

よって、 (凸+i)*(-i凹)が互いに適合して噛み合っている場合のベクトル・モードは「プラス1」 or 簡便に「+」「凸」である。

 



物質世界の適合状態の効果であるベクトル・モードは「凹、マイナス」であり、精神世界のベクトル・モードの適合状態の効果は「凸、プラス」であることが分かった。

 物質主義、資本主義の根本的欠点・罪悪性は、物質世界で凸(父権性)を効果として求めることに起因すると言えよう。物質世界では母権性(マイナス、凹)を求めるべきである。

海舌(明日野)

http://blog.kaisetsu.org/?eid=812333
『海舌』 the Sea Tongue @ Kaisetsu with Archaic smile


メノラーと母権的父権的文化(母・父権文化):ユダヤ父権文化とユダヤ母権文化の二重性
テーマ:日本伝統文化:神話・宗教祭礼・民俗・芸能
以下、HEX氏のブログに提示されたメノラーのシンボルが興味深い。7は秘数であり、また、女神の数、つまり、母権文化の秘数である。的確に言うと、古代オリエントの女神イシュタル、イナンナの数である。
 そして、それを父権文化であるユダヤ文化がそれなりに引き継いでいるのである。だから、ユダヤ文化は絶対的に父権文化ではなく、ベースに母権文化があると考えられる。
 私が言いたいのは、やはり、母権文化が父権文化と接して、母権的父権文化(母・父権文化と造語したい)が形成されという仮説である。
 ところで、ここで別様の考えを言うならば、ベースの母権文化を利用する父権文化の登場を想定することができるだろう。
 天皇制もそのように考えることもできる。そう、以前、私は、そのように考えていた。母権的太陽神が、父権的太陽神に利用されたのが、天皇制ではないのかと。
 しかし、今や、天皇とは母権文化・社会の精神的存在であることが判明したので、その考えは古くなった。
 とまれ、本題であるが、ユダヤのメノラーの場合は、父権文化が母権文化を取り込んだように思える。だから、母権的父権(母・父権)ではなく、父権的母権(父・母権:造語)と考えられる。
 そう、母父権か父母権の違いは決定的であると思う。即ち、凹i主動性か凸i主導性かの違いがあり、それは根本的違いである。
 だから、メノラーに関しても、7というシンボルは同じあっても、質が異なると考えられる。両班のような苛酷なものは、ユダヤ父権主義を想起させる。つまり、父・母権的であるということである。
 それに対して、天皇制は、母・父権的であるということになる。
 このことから推測されるのは、古代東アジアにおいて、父権的民族と母権的民族との衝突があったが、前者から父・母権主義が、後者から母・父権主義が生ま れたということであり、両者は同じ母権文化の神聖なシンボルを活用したが、しかし、質は正反対であることを認識することが決定的に重要であると言えよう。
 最後にユダヤ文化について一言言うと、私が知る限りでは、旧約聖書は父権神(ヤハウェ)と母権神(エローヒーム)が混在しているのである。つまり、ユダ ヤ父権文化とユダヤ母権文化があると考えられる。一般にユダヤ文化は前者と見られているが、それは誤りである。失われたイスラエル十支族は、この点で、実 に興味深いのである。HEX氏によると、母権文化が基底にあるが、父権文化が掟であったということである。だから、ユダヤ父権文化とユダヤ母権文化のいわ ば、分裂的な二重性をそこに感じるのである。これは、言い換えると、父・母権文化と母・父権文化の混淆を意味しよう。
 そうすると、古代東アジア、そして、古代日本において、この二重性が存した可能性がある。しかしながら、古代日本は母権がベースであるので、この二重性様態があっても、主体は母・父権主義であると考えられる。
 後でさらに最後の点について検討したい。

追記:HEX氏は新羅と日本の関係を述べているが、思うに、新羅を父・母権文化とすると、それが日本に関わった場合、日本に父・母権文化が導入されたことになる。そうすると、古代に日本において、ベースの母・父権文化(天皇制)と父・母権性が混淆したことが考えられる。
 思うに、確かに、現代日本においても母・父権文化と父・母権文化の混在が感じられるのである。そして、後者は利己主義・唯物論・社会主義的であり、日本を滅ぼそうとしていると考えられるのである。
 後で、HEX氏の記述を精読して、考察を精緻化したい。

追記2:7は又、チャクラの数でもある。そして、当然、虹の七色、オクターブの音階数である。シュタイナーの説くサイクル数でもある。
 では、秘数7の源泉は何処にあるのか。以前は、差異共振様態に存すると見たが。光を考えたとき、それは言えよう。虚軸のモードである。
 ここで、想起するに、クンダリニーは三回転半を意味していた。半回転を1とすれば、三回転半は半回転7回である。
 これは、当然、スピンを想起する。虚軸のスピンは、先には、ボソンだったので、これに相応しないことになる。半整数スピンは、フェルミ粒子である。この点は再考したい。
 とまれ、その他の源泉を考えると、第三象限である。しかし、今のところは説明ができない。
 メノラーの形態を見ると、左右にそれぞれ、3があり、中央に1があるのである。これは、易の陰陽の構成に似る。陽爻が3、陰爻が3あり、両者で卦を構成するのである。
 そうすると、やはり、Media Pointではないだろうか。凸iの主導性の場合、双極子は三つ巴、3値となり、凹iの主導性の場合も三つ巴、3値となり、併せて、7となるのではないだろうか。
 今はここで留める。
 

 
参照:

「神道の考察」 日本の成り立ちの鍵 Ⅲ

・・・・・
日本と新羅は縁が深いにも拘らず、度々戦う複雑な関係。
日本書紀の編纂(720年完成)は、唐や新羅と張り合う為に行われた、国史編纂事業である 


     

      新羅の王冠               百済から送られた七枝刀
   

イスラエルの国章(メノラー)       元になったメノラー(燭台)

      
新羅の王冠は、メノラーの7枝が9枝に転化した可能性が感じられる。
百済(扶余族)から送られた、七枝刀の由来も、メノラーの可能性が高い  
七枝刀は、祭礼・儀礼の刀で宝物的意味合いのものである。            

メノラー(燭台)はユダヤ教のシンボルであり、キリスト教のシンボルでも有る
ミトラ多神教由来の、光=火の信仰に繋がる



       
    
両班(ヤンバン)と呼ばれる、              日韓併合初期の両班
古来からの朝鮮貴族の門            欧州人から世界で最も傲慢な貴族階級と言われた

古来、両班(ヤンバン)の地位は圧倒的で、超支配階層。
法の適用外の存在で、一般人から金品を奪い、従わない者は拉致して拷問にかけていた。
一般人から見れば、嫌悪の対象でもあった
両班(ヤンバン)は高級官僚の地位につくものが多かったという

彼らの門飾りも、メノラーに酷似するものが多い


シュメールの生命の木(七枝) キ(蛇の女神)とウル(エンリル)

一般に、七枝のメノーラの起源は、シュメールの生命の木(七枝)=世界樹が起源だと言われている
世界中をシンボルに取り入れている古代文明は幾つかあるが、シュメール起源と見られている

http://ameblo.jp/hex-6/entry-10745559427.html
HEXのブログ


父権的文明は常に敵を作る:凸iの傾斜は凹iを敵とする
テーマ:森羅万象:諸事万端:天象地象:政治経済
父権的文明が起きて、戦争が常態になったと言えよう。父権的文明とは、凸iに傾斜した文明であり、凹iが影(シャドウ)になっているのであり、その投影のために、敵を作ると言えよう。
 投影の対象は、当然、母権的文明である。つまり、東洋文明である。正確に言えば、非父権的文明である。
 問題は、一神教的文明である。ユダヤ・キリスト教的一神教とイスラム的一神教を同じと見るべきなのか。
 仮説的に言うと、一神教性が同じであるとすれば、前者は後者を近親憎悪で憎むことになろう。イスラム教は自身をユダヤ・キリスト教の進展と見ているのであり、その点からして、前者は優位性から後者を否定したくなるだろう。
 ということで、ユダヤ・キリスト教的一神教の場合、他者は母権的宗教であり、他の一神教であると言えよう。
 しかしながら、以前、私はユダヤ・キリスト教的一神教とイスラム教的一神教は異なると述べた。つまり、後者のタウヒード(一化の原理)は、差異共振が基 礎にあると思うのである。つまり、母権モードから一神教が発生しているように思えるのである。つまり、母・父権的であるということである。(そう、ギリシ ア神話のゼウスに近いのではないだろうか。母権が原基である父権主義ということである。)
 そう考えると、ユダヤ・キリスト教がイスラム教を敵対視するのはよくわかると言えよう。

追記:タウヒードを帰一とするならば、一とは、-1の超越界のことではないだろうか。思うに、イスラム教は、凹i凹と凸i凹が混淆しているのではないだろうか。

参考:

タウヒード
タウヒード(アラビア語 表記:توحيد, トルコ語 表記:Tevhid, ラテン語 表記:Tawḥīdあるいは Tawheed, Tauheed とも)とは、イスラーム における一神教 の概念である。イスラームにおいて、タウヒードは〈一化の原理〉を意味すると同時に、世界観 と存在論 、すなわち価値観 の根本である。
また、タウヒード論においては、神の唯一性という言葉で、和訳され論じられることも多いが、神の唯一性という言葉は、アラビア語において(ラテン語表記をすると)waḥḥdat-Allah という明確な表現があるので、正確な訳出とはいえない点で留意する必要がある[1] 。したがって、この記事においては、神の唯一性を起点とした上で、そこで活用された〈一化の原理〉に則りながら、現実解釈のための基本原則を提示する内容を描出することとなる。 タウヒードの反対の概念は、シルク (shirk、多元性)である。
語源 [編集 ]
タウヒードという言葉は、アラビア語の動詞ワハダ (waḥada) の第2型であり、〈一に化す〉、〈一に帰す〉を意味するワッハダ (waḥḥada) という動詞から派生した動名詞である。その原義は、〈一化〉、〈帰一〉を意味する[2] 。
定義 [編集 ]
イスラームにおける唯一神(アッラー )の存在は絶対であり、この理由のために、ムスリムは、キリスト教 世界で信奉されている三位一体説 を否定する。
クルアーンでの言及 [編集 ]
クルアーン (アル・クルアーン)において、タウヒードは随所に言及されている。また、「アッラーのほかに神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という文節は、サラート として知られる1日5回の礼拝において引用される。
シルク(多元性)の概念 [編集 ]
タウヒードの反意語は、シルクである。アラビア語では、分割・分離を意味する。
ムスリムの視点 [編集 ]
スンナ派、シーア派ともに一致しているのは、イスラームにおける最重要な概念であるタウヒードがこの絶対で完全なる創造者を受け入れるということで展開されているということである。ムスリムは、「アッラーのほかに神は無く、ムハンマドはアッラーの使徒なり」という信仰告白 (シャハーダ )を公に唱えることによってムスリムとなり、かつ、自らの信仰を絶えず、再確認することとなる。
スンナ派の視点 [編集 ]
スンナ派の人々は、タウヒードをイスラームの教条(Aqidah)の7つの重要な側面のひとつであると見なしている。
アシュアリー派 の著名な学者の一人である Fakhrud-Din Ibn Asakir は、自らの著書で、スンナ派の信条を記述している。
• アッラーは人々を導き、唯一の神である。
• アッラーは全ての世界(天界、地上界)を作りたもうた。
• 全ての創造物は、アッラーの力により服従されている。
• アッラーは、人生に帰する。睡魔にとらわれることは無い。
• アッラーは、人間が予見できないことについて知っているただ、ひとつの存在であり、全知全能である。
• アッラーの行うことは全て彼の意志に基づく。
• アッラーは報酬を望まず、罪を恐れない。
• アッラーは、創造の前から存在した。過去、未来というものをもたず、また、前後左右上下といった概念にはそぐわない。というのも、アッラーは全だからである。
• アッラーが、宇宙の森羅万象を創造し、時間の存在を望んだ。アッラーは、時間に制限されるということは無く、場所に明示される存在ではない。
神の不可視性 [編集 ]
スンナ派 のムスリムは、神は見ることはできないと信じている。仮に神の姿を見ることができるのであれば、自らの生涯の終わりを意味する死後に訪れる最後の審判の日のみであると信じている。
クルアーンの記述
その日(審判の日)には明るく輝く顔また顔、(さも嬉しげに)主を仰ぎ見る
– 第75章第22から23節, [3]
いや、いや、あの日〔審判の日〕には、主の御顔も拝されまいぞ
– 第83章第15節, [4]
ハディースの記述。アブー・フライラは、人々とムハンマドの対話を以下のように記述している。
(人々)「われわれは、復活の日に神を見ることができるでしょうか?」
(預言者)「あなたがたは、満月の時に、月が見ることができないことで何か問題がありますか?」
(人々)「いいえ、そういうことはございませんが」
(預言者)「それでは、雲が何一つ無いときに、太陽を見ることができないことで、何か問題がありますか?」
(人々)「預言者よ、それも問題はございません」
(預言者)「ほんとうに、あなた方が神を見ようとすることは(あなた方が太陽や月を見るような)ことですよ」
クルアーンとタウヒード [編集 ]
スンナ派の人々は、クルアーンは創造されたものではなく、この視点は、十分にタウヒードの概念と互換可能なものである。ハンバル学派は、以下の視点を提示する。
クルアーンに書かれている言葉や音は永遠であり、それがゆえに、その物語は創造されたものは無い。そればかりではなく、羊皮紙写本や装丁された文書は同じ質を共有しているのである
アブー・ハニーファ は、以下のように述べる。
告白する。クルアーンは神の言葉であり、作られたものではなく、神の直感、啓示は、彼の本質である。一方で、インクや紙といったものはわれわれ人間が作り出したものである
スンナ派(サラフィー)の視点 [編集 ]
タウヒードは、3つの側面を持っている。
• 神の唯一性(Tawheed-ar-Ruboobeeyah)とは、「神は、創造者であり、創始者であり、設計者であり、全てを養ってくださるものであり、安寧を与えてくださるものであるという唯一の神であることを信じる」ことである。
この信仰は、ヨーロッパにおけるカルヴァン派 や1600年代にニューイングランド に移住したピューリタン の信仰と相通じるものがある。この信仰に基づくと、人々は、神に全面的に依存している存在だと考えることになる。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。
地上を匍い廻る動物にしても、全部アッラーの養い給うところ。何処に棲み、何処に潜むかということまでご存知。ことごとく明白な啓典(万物の運命を記載した天の書物)に記録されておる
– 第11章第6節, [5]
アッラーこそは万物の創造主。あらゆるものを世話し給う。天と地の全ての鍵を持ち給う。アッラーのお徴をありがたいとも思わぬどもは、いまに必ず損をする
– 第39章第63節, [6]
• 唯一神への帰依(Tawheed-al-Ulooheeyahあるいは、Tawheed-al-Ebaadah) とは、神以外のものは決して、崇拝の対象としてはならないということである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例(クルアーン第59章第22節から第24節[7] )である。
「これぞこれ唯一無二の御神、アッラー。目に見える世界も、目に見えぬ世界をもともに知悉し給う。お情け深い、慈悲深い御神」
「これぞこれ唯一無二の御神、至高の王、聖なる御神、限りなき平安の神、誠実の守護者、万物の保護者。偉大で、その権力限りなく、尊厳この上もなきお方。ああ勿体無い、恐れ多い、人々がともに並べる(邪神ども)とは比較にならぬ高みにいます御神におわしますように」
「これぞこれアッラー、蛮勇を創造し、創始し、形成するお方。あらゆる最高の美名を一身に、集め給う。天にあるもの、地にあるもの、全て声高らかに賛美し奉る。ああ限りなく偉大、限りなく賢い御神よ」
• 偶像崇拝の完全否定(Tawheed-al-Asma-Sifaat)とは、神の不可視性とイスラーム化以前のカアバ で数多くの神が神像として祀られていたことからその信仰を否定する考えである。
タウヒードのこういった側面は、クルアーンに散見される。以下は、その一例である。
皆さん、自分で刻んだ偶像を拝んでなんとなさる
– 第37章第95節, p.41
言ってやるがよい、「天と地をすべ治めるものは誰か。」言ってやるがよい、「アッラーだ」と。言ってやるがよい、「それなのに、お前たち、(アッ ラー)を差し置いて、他の(偶像)どもを神と仰ぐことにしたのか。自分自身に対してすら良くすることも悪くすることもできないようなものどもを
– 第13章第16節, [8]
ムスリムの人々(サラフィー [9] )にとって、以下のような行動は、シルクと見なされるのである。
• スーフィー 信仰 - 早期のムスリムやスーフィーと呼ばれる聖者の墓所へ巡礼を行ったりすること。
• 死から逃れるための礼拝
クルアーンを逐語的に解釈するのであれば、イブン・タイミーヤ が 説くように、神は、体の各部分を持たず、しかし、クルアーンやハディースに記述がある「手」、「目」、「顔」といった属性を持っている。しかし、それぞれ は、人間が知っているような形状をしてはいない。そして、サラフィーは、神は天上界に住んでいると信じているのである。
シーア派の視点 [編集 ]
シーア派 においても、タウヒードは絶対なものである。
神の属性 [編集 ]
シーア派は、神は見ることができるとは信じていない。また、アッラーはどんな形は何であれ、体を持っているという考えも拒否している。
クルアーンのいくらかの一節では、アッラーの体についての記述が見受けられる。例えば、「アッラーと並べて他の神を拝んではならぬ。もともとほかに 神は無い。全ての物は滅び去り、ただ(滅びぬは)その御尊顔(アッラー自身ということ)のみ。一切の摂理はその御手にあり、お前たちもいずれはお側に連れ 戻されていく[10] 」という一節である(第28章第88節)。シーア派の解釈は、「アッラーを除いて」という形になる。シーア派の論議では、この節は文字通り解釈してはならないのである。
また、シーア派の間で議論になる点は、神は、手を持っているというクルアーンの随所に記述がある点である。そのことは、神の力、あるいは慈悲を意味すると彼らは解釈している。例えば、「アッラーの手は鎖で縛られている(第5章第64節)[11] 」という文章で始まる一節である。しかし、シーア派の人々はこの文章に続く「アッラーの手は拡がっている」という文章を引用することで、この節の寓話性を説く。
神の属性のリスト [編集 ]
神は、以下のような積極的な属性を持つと信じられている。
1. カディーム(Qadím) - アッラーは永遠である。始まり、そして終わりは無い。
2. カディール(Qadir) - アッラーは、全能である。アッラーの力は、全てのものに及ぼす。
3. アリーム('Alim) - アッラーは全知である。全てのことを知っている。
4. ハイ(Hai) - アッラーは生きている。それも永遠に。
5. ムリド(Muríd) - アッラーは、全ての事象に対して慎重である。混乱することは無い。
6. ムドゥリク(Mudrik) - アッラーは全てを受け入れてくる。全てを見聞する。あらゆる場所に存在している。ただし、目や耳を通して、見聞しているわけではない。
7. ムタカリム(Mutakalim) - アッラーは世界の創造主である。アッラーは、言葉を作った。
8. サディーク(Sadiq) - アッラーは真実である。
また、消極的な属性を持つ。
1. シャリク(Sharík) - アッラーは妻を持たない。
2. ムラカブ(Murakab) - アッラーは作られたものではなく、物質的なものでもない。
3. マカン(Makán) - アッラーは、どんな場所、体に制限されない。
4. フルル(Hulúl) - アッラーは体を持たない。
5. マハーレ・ハワディス(Mahale hawadith) - アッラーは変化しない。
6. マリ(Marí) - アッラーは見ることができない。なぜならば、体を持たないからである。
7. イフティヤジュ(Ihtiyaj) - アッラーは、独立した存在である。アッラーは、飢えていない。というのもアッラーは、どんなものも持っていないからである。
8. シファテ・ザイード(Sifate zayed) - アッラーは、あらゆる制限を受けない。
クルアーンとタウヒード [編集 ]
シーア派の人々は、神が「神の永遠でない行動の一つ」としてクルアーンを創り人々に贈ったものと認識しているので、したがって、シーア派の信仰は、 スンナ派とは対照をなし、クルアーンは、創造物であるということになる。シーア派の人々は、ムハンマドの「神は存在した(その時には時間の概念があっ た)、したがって、神のそばには何もない」というハディースを引用する。
たとえ、そうであったとしても、シーア派の人々は、クルアーンは完全なものであると信じているのである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BF%E3%82%A6%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%89
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