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2010年08月14日 (18:05)

言語と現象力:言語表現ないし言語芸術とは何か:Media Point実在論:資本主義から資本的トランス・マテリアル・エコノミーへの転回

言語と現象力:言語表現ないし言語芸術とは何か:Media Point実在論:資本主義から資本的トランス・マテリアル・エコノミーへの転回


文学の言語表現とは何か。例えば、「レリーフ状のコンクリートの河岸の上部には、家並みが見える。」という言語表現を考察しよう。

 これはどういうことなのか。単に観念的に読み取ることができるが、それは文学として読んだことにはならない。そう、私は読書体験ないし読書追体験を説きたいのである。

 では、言語による体験とは何か。これは、一見、通常の、日常の体験と比べて、疑似体験、ヴァーチャルなものと捉えられることが多いだろう。

 しかしながら、良質の文学書を読むと、凡庸な日常よりもはるかにすぐれた「体験」があることがわかる。いったい、「現実」とは何か。思うに、文学的体験とは、夢の体験に似ているだろう。私の場合は、夢を見ているときは、それが実在だと思っているのである。

 これは、Media Pointの多様な連結で説明がつくのではないだろうか。思うに、差異共振というよりは、差異共立の多元的共立で説明できるのではないだろうか。

 結局、精神にとって、実在感とは、Media Pointに基づくものであろう。(ハイデガーが存在論を説いたが、存在とは、端的に、Media Pointのことであると考えられる。フッサールは超越論的主観性を説いたが、いわば、その虚を俗物のハイデガーに突かれたことになる。確かに、超越論的主観性だけでは、存在は出てこないだろう。つまり、ノエシス的な視点では無理だろう。だから、ノエシス/ノエマが存在であると言えば、よかったのである。)だから、こそ、夢体験に実在感があるのであり、文学体験にも実在感があると言える。

 ここで、唯物論的実在主義の誤謬が現れると言える。それは、同一性=物質中心主義の誤謬である。確かに、物質的現実、物質的実在がある。それは、現象的実在・現実である。それを唯一の実在性とするのが誤りなのである。近代主義はそれを主に追求してきたのであり、物質的現実を発展させたのであるが、精神的実在、現実に否定的ないし過小評価的なために、本質的な実在感、リアリティを喪失したのである。つまり、本質的に空虚となったのである。ニヒリズムである。近代末である。

 結局、越近代として、本源のMedia Pointを確認・信認する必要があるのである。これは、認識のプラトン的転回ということができよう。これは、プラトン的ルネサンスを意味する。新たな心精が点火されるのである。これは、結局、物質的現実を否定するのではなく、それを超越的に包摂した新たな実在、高次の実在を肯定することなのである。そう、トランス・マテリアルな高次の実在の肯定なのである。

 そうすると、科学はトランス・マテリアル・サイエンスとなる。では、経済はどうなるのだろうか。これが今日枢要な問題である。

 資本主義は、マテリアリズムを伴って発展したのである。つまり、資本的マテリアリズムである。その帰結がリーマン・ショックである。資本的マテリアリズム的富を追求した帰結である。ここでは、トランス・マテリアルな側面が否定されているのである。

 言い換えると、ここには、Media Point的視点がないのである。つまり、Media Point的なエコノミーがないのである。

 端的に、資本的マテリアルな富とは、Media Pointのもたらすのであるが、その生産母体を否定しているのである。資本家を凸iとすれば、労作家は凹iとなり、両者の共立的創造作業によって、資本的生産が生まれるが、共立的創造とは、経営者の知恵を意味するだろう。だから、資本家―経営者―労作者の「三位一体」・トライアドが富を創造するのであるが、資本主義においては、富をトライアドを再創造する形で配分されるのではなく、それを破壊する形で配分されるのである。これは、資本的マテリアリズムに拠ると考えられる。資本的マテリアルが支配するのであり、そのために、資本的トライアドが破壊されるのである。故に、資本的トライアドを肯定する資本的トランス・マテリアルな視点が必要である。これは、差異共立創造の視点である。これにより、産業、企業、会社は資本的マテリアルな富を包摂した資本的トランス・マテリアルな富=価値=力を成長させると考えられるのである。この資本的トランス・マテリアルな価値が、トランス・モダン・エコノミーの主導的価値になると思われるのである。

 これは、競争に勝つトランス・マテリアルなパワーをもった経済である。
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2010年05月23日 (16:48)

社会民主主義の崩壊と国家身体/差異共同体エコノミー主義

ユーロの危機、そして、日本経済の危機、それらは、社会民主主義的公共投資経済の終焉を意味すると思われる。言い換えると、国家主導経済、社会主義的経済の終焉である。
 思うに、国際資本は国家主導経済/社会主義的経済を利用して、国家の債務が膨張させてきたと思われる。そして、リーマン・ショックであり、ユーロ・ショックである。
 経済哲学的には、同一性資本経済が終焉したのであり、本来の差異資本経済へと回帰する必要があるのである。
 成長、富とは、差異共振生産・創造に拠るものであり、それは、市場経済に基づくのである。
 しかし、近代後期やポスト・モダンにおいて、同一性資本(金融資本)が肥大化して、差異資本創造を抑圧してきたのである。そのために、不健全な国債発行による財政赤字が増大してきたと考えられる。
 喩えれば、同一性資本(正確に言えば、連続的同一性資本:悪魔的資本)は国家身体のガン細胞、悪性腫瘍であり、国家身体を滅ぼすのである。
 以上から、世界は第二ルネサンスが必要であることがわかる。あるいは、トランス・ルネサンスである。
 即ち、同一性原理を超克して、差異原理に徹底することである。同一性資本を制御して、差異資本の成長を目指す政策が必須であるということである。米国、英国では、そのトランス・モダンの方向へ歩み出している。
 故に、鳩山政権のような社会主義的バラマキ政策は、反動的、時代錯誤的であり、同一性資本の猛禽類の餌食になるのである。
 必要なのは、減税であり、低所得層に対してであり、また、累進課税の強化であり、企業減税は大企業に有利なので、望ましくないだろう。
 また、思うに、共同体基金を民間で作るべきではないだろうか。それによって、共同体社会を守護するのである。
 つまり、国家・政府の負担に頼るのではなく、個の共同体社会を形成して、それによって自己を守る方向が望ましいのではないだろうか。貯金はその基金に回して、管理維持すべきように思えるのである。
 国家に頼らない自治共同体の構築である。しかしながら、アナーキズムではない。国家は政治・司法・行政の公的な機構として必要であるが、必要最小のものが望まれるのである。
 とまれ、今や、同一性のベルリンの壁は崩壊して、差異の差異への回帰が始まっているのである。新たな1/4回転である。

2010年05月05日 (09:53)

オバマ・トランス・モダン政権:差異共振共同体的自由市場経済(自由共同体エコノミー)へ向けて

テーマ:自由共同体主義:自由主義*共同体主義

既述したように、オバマ政権はトランス・モダン政権であり、米国の伝統的な「民主主義」に回帰している。
 それは、共同体的な自由主義、自由主義的な共同体主義である。(参考:Kaisetsu氏のLiberal Communism)
 一見、大きな政府に見えるがそうではなくて、国家が共同体志向となり、アンチ共同体的同一性主義的資本主義(同一性主義的金融資本主義)を制御するのである(思うに、「規制」という用語は不適切である。制御、コントロールが正しい。)。
 だから、国家は基本的には小さくなるのである。それは、自由共同体経済(トランス・モダン・エコノミー)を形成するための管制塔になるのである。即ち、自由共同体経済の法的原理として国家が機能するようになると思われるのである。とまれ、国家共同体となり、多様な自由共同体経済が勃興するものと考えられるのである。
 
************************
米財務長官「大手金融機関への特別税、市場安定を促進」
【ワシントン=岩本昌子】ガイトナー米財務長官は4日、米上院財政委員会の公聴会に出席した。ホワイトハウスが1月に提案した資産規模500億ドル以上の大手金融機関から徴収する特別税について「金融機関がデリバティブ(金融派生商品)などのリスクの高い取引に走る傾向を抑制し、金融市場の安定を促進する」と、上院での法案可決を呼びかけた。

 特別税が導入されれば、今後10年で約900億ドルが徴収され、金融危機の際に企業救済に使った公的資金の穴埋めにあてる。対象となるのは全金融機関の1%以下のため、同長官は「地方銀行への影響はほぼない。かえって、中小金融機関の競争力を高める効果がある」と語った。

http://www.nikkei.com/news/category/article/g=96958A9C9381959CE2E7E2E2938DE2E7E2E7E0E2E3E2E2E2E2E2E2E2;at=ALL

米財務長官、金融危機責任料徴収で議会の理解求める
ロイター - ‎1 時間前‎
[ワシントン 4日 ロイター] ガイトナー米財務長官は4日、上院財政委員会で証言し、大手金融機関から金融危機責任料を徴収する計画について、金融機関の行動がより慎重になるとして理解を求めた。 金融危機責任料は10年間にわたって大手金融機関に課金し、不良資産 ...

2010年02月16日 (18:14)

二つの資本主義:金融資本『帝国』の超克:有機的共同資本主義と無機的金融資本主義

以下、スロー人氏の問題提起は透徹したものである。金融資本、世界金融資本が世界を支配し、国家を統制するということである。いわば、ネグリとハートの説く『帝国』の形成である。
 問題は、交換価値における同一性価値(追記:この記述はいわば後付であるが、正確さを期して訂正した)にとって替わる、共同価値を客観的に導入できるかである。
 問題は、商業における交換価値であるが、それは、単に、量的価値だけでなく、質的価値も内包しているのではないだろうか。簡単な例をあげると、例えば、ブルーレイ・レコーダーを購入するとしよう。価格の差がほとんどないときは、機能の優れた製品、つまり、質的価値の高いものを買うだろう。例えば、価格が10万円ならば、機能がいいもの、あるいは、使い勝手がいいものを購入するのだろう。
 また、たとえ、A社の製品が9万5千円で、B社のものが10万円であっても、やはり、機能性、使い勝手を考えると、B社のものを買うという選択をすることが考えられる。
 安く買うという合理的原理であるが、これは、それは、単に量的価値原理だけではなく、質的価値原理が入っているのである。
 当然ながら、いくら安くても、劣悪な商品は買わないのである。
 ということで、交換価値には、表面的な量的価値だけでなく、質的価値、差異的価値が内包されていると見ることができる。(追記:マルクスが説いた使用価値であるが、それは、実に貧弱な発想である。端的に、同一性的使用価値であり、質的、差異的価値が抜けているのである。仮に例えば、お米5kgはすべて2000円であり、産地も銘柄も生産年度も無視されるのである。お米の使用価値は、単に、5kgの量的価値であり、味や汚染等は問題にされないのである。『資本論』の欠陥の一つはそこにあると言えよう。)
 では、問題は、交換価値に内包されている質的価値・差異的価値の評価の仕方である。
 金融資本とは、本質的には、
+1⇒+1⇒+1⇒・・・の世界であろう。ここには、資本主義の内的本質の(+i)*(-i)⇒である共同生産力が欠落しているのである。
 つまり、金融資本主義と共同資本主義とは似て非なるものであるということになるだろう。今は、余裕がないので、検討できないが、前者に対抗するには、後者を進化させることではないだろうか。 

追記:尻切れトンボなので、補足すると、金融資本は、共同資本(と資本主義のコアの部分を呼ぶ)に拠る交換価値の質的価値・差異的価値をすべて、同一性価値に抽象還元してしまうということである。つまり、交換価値における質的価値・差異的価値を無視するということである。つまり、一般的に、生産物の売買における質的価値・差異的価値を、金融資本は完全に無視して、同一性価値のみの増殖を目的とするのである。
 つまり、金融資本とは、共同生産ではなく、交換価値の同一性価値(利益)の増殖を目的とするだけであり、共同資本生産体(産業)の質・差異的価値は度外視するのである。言い換えると、金融資本とは、共同資本生産体の質・差異価値を無視して、ただ交換価値の同一性価値の増殖のみを追求する無機的な経済体であるということになる。共同資本生産体を有機的資本主義とするならば、金融資本主義とは、無機的な資本主義である。後者は、いわば、悪性のウィルスである。母体を破壊するウィルスである。
 だから、金融資本に対するコントロールが必要なのである。米国の場合、本来、コントロールする法律(例えば、グラス・スティーガル法)がどんどん無くされていき、リーマン・ショックになったのである。(とまれ、有機的資本主義は、多神教的資本主義であり、無機的資本主義は一神教的資本主義とも呼べよう。)
 この問題は極めて、哲学的、あるいは、イデア論的である。本質は共同資本主義であるのに、帰結が金融資本主義である。
 ps理論から見ると、Media Pointに当たる経済体が必要なのである。思うに、例えば、共同有機的資本銀行がそれに当たるのではないだろうか。それは、金融資本的投資は禁止されて、共同有機的資本的融資が認められるのである。
 これは、オバマ大統領が目指しているものだが、ウォール・ストリートから大変な反対にあっている。
 とまれ、金融資本とは、健全な有機的共同資本主義に巣くったガン細胞のようなものである。これを治療する方法が必要である。減価通貨制度はそのようなものの一つであるが、その他、様々な方策があり、それを連携させる必要があると言えよう。それについては後で検討したい。

追記2:記述がやや不明瞭である。簡単に言えば、共同有機体的資本主義とは、実に、自然(じねん)的なのであるが、金融無機的資本主義は、同一性主義=唯物論=メカニズムであるということである。前者を生命体とすると、後者は死体である。だから、消滅貨幣は説得力があるのである。
 また、前者はエネルゲイア(現実態)であり、後者はエンテレケイア(終局態)である。つまり、活動態と終末態である。先に、ミイラ崇拝、ゾンビ主義と言ったが、その通りである。
 最後に言おう、有機体的共同資本主義は善であり、無機的金融資本主義は悪である。この悪の超克がトランス・モダン・ゾロアスター教的使命・エンゲージメントである。

追記3:結局、資本主義とは、異質な経済のキメラであるということになる。哲学的に言えば、差異と同一性の連続的同一性主義なのである。つまり、フッサール的に言えば、自然的態度の経済的具現化である。
 資本主義の超越論的力学が同一性力学に飲まれて、認識できないのである。
 とまれ、現今の資本主義は、本来、相互に不連続である有機体(生命)と無機質(物質)が、不合理に連続的に接合されたような経済体なのである。「分裂症」的経済なのである。整合性の欠落した経済体なのである。
 これを切り離して、前者を独立させるべきであり、そうすると、後者の病巣は死滅するはずである。ゾンビ退治である。

************************ 

くたばれ、「Too big Too fail」

 「Too big Too fail」。日本では数年前の金融危機のさい、小泉政権の大臣だった竹中氏などがよく使っていたセリフだが、このセリフの本家本元のアメリカでも、近年の金融危機下で同じセリフが大声で叫ばれている。


 その結果は、国民から巻き上げた税金を原資にして、いわば博打の胴元である金融業者のためにそれを融通してあげたわけだ。


 儲かったのは、金融業者だ。日本でも大銀行はますます超大銀行となり、アメリカでもゴールドマンサックスやJPモルガンなどの勝ち組ばかりか、シティーバンクなどの負け組も救われたのだった。そして、彼らはこの博打を始める前よりも肥大化したのだ。


 簡略して言えば、この金融危機を利用して、デリバティブなどの紙切れでしかない見せ金を、国民の現金、キャッシュで、つまり国民の犠牲の上に、現金化・キャッシュ化したということだ。

http://ameblo.jp/adco/entry-10460281893.html
スロー人ロハス-自由と資本主義と礼節

2008年06月05日 (13:56)

同一性へ傾斜している人間の問題:同一性主義という悪の支配する現代世界と差異大進化

先に思考実験的に「わたし」とは何か等に関して考察したが、自然一般において、同一性と差異が同時生起することが了解された。しかしながら、人間においては、明らかに、同一性へと傾斜していると考えられる。もっとも、(父権的)文明を形成し始めた人類が、急激に同一性へと傾斜したということが事実かもしれない。とまれ、今日見られる人類の同一性傾斜が自明であると思われるので、その事態に基づいて検討したい。
 同一性傾斜とは、明らかに、暴力が主導的になるということである。他者を排除して、自己同一性=自我を中心化するということである。この同一性傾斜が、今日の物質文明を生んだと言えよう。宗教的には、これまで述べたように、ユダヤ・キリスト教的一神教がこの原動力であると考えられる。もっとも、それに類するものは、父権主義一般であると思われる。
 同一性傾斜は近代合理主義・近代的自我を生んだ。問題は、差異への回帰である。もともと、自然は、一般には、同一性と差異との均衡があると思う。それが、本能と呼ばれるものではないだろうか。動物が、本能から子供を育てるのは、差異(差異共振性)からであろう。人間は、同一性傾斜のために、差異の志向が排除・抑圧されるので、子供に対して、暴力的になるのである。
 今日、一番の問題の一つは、同一性傾斜が資本主義の交換価値=貨幣価値の増加と結びついていることである。それは、差異=他者を排除して、破壊的に邁進するのである。有り体に言えば、同一性傾斜とは、悪である。悪への傾斜である。エゴイズムである。
 結局、精神的には、排除・抑圧されている差異を取り戻すことが、健全な秩序のある自然・社会のために必要である。しかしながら、今日の人間は、一般に、近代合理主義・近代的自我という同一性傾斜に浸透されているので、差異を明確に認識できないのである。
 近代合理主義は、唯物論と結びつき、物質科学・技術となり、資本主義を駆動させる要因の一つである。
 端的に言えば、いかにして、差異を意識に、家庭に、社会に、経済に、自然に、等々、取り戻すことができるのかが、一番の問題である。
 そう、悪人とは、同一性主義の人間であり、差異の欠落しているような人間である。普通人間は、同一性傾斜によって、差異が抑圧されているのであるが、まったく差異を否定しているわけではない。もし、完全に同一性だけとなれば、悪人だけの社会となり、それは、自滅するだろう。
 問題は、同一性中心主義の人間が支配的な位置、即ち、権力的な位置に存することである。権力とは、公的な、社会的な暴力装置である。ホッブズ的に言えば、個々の人間の暴力を、権力の暴力で制御するということである。しかし、これは、自明ながら、根本的な解決にはならない。暴力が中心化して、暴力が支配することになるからである。そして、自滅することになるだろう。
 端的に、どうやって、差異を社会に取り戻すのか。ポスト・モダンは、挫折・頓挫してしまったが、問題は、トランス・モダンとして、トランス同一性・脱同一性の志向として、継続・進展しているのである。
 いわば、差異革命が必要である。国家の差異化、経済の差異化、政治の差異化、教育の差異化、等々である。
 そう、価値観の転換が必要である。これまで、同一性的価値を重視してきたのである。それは、利己主義であり、国家主義であり、量価値主義である。父権主義である。これは、端的に、二項対立であり、差別の体系である。同一性とは差別なのであり、差異こそ、「平等」である。
 不連続的差異論が明らかにしたように、一般に、同一性傾斜のもつ連続性(連続的同一性)のために、純粋差異が認識できないのである。同一性が差異と連続化して、差異自体が反動となるのである(参照:アイロニカルな没入)。
 そう、差異進化、差異大進化、difference evolutionが必要である。私見では、差異がコスモス的に賦活されていて、そのために、大反動が今日起きているのである。活性化した差異を同一性は反動的に排除・抑圧・隠蔽して、結果、同一性は、ますます狂気・邪悪・暴力化するのである。
 このように見ると、哲学・理論的には、問題は明確・明瞭・明快である。実践の問題である。プラクティスの問題である。差異へと覚醒するようにはたらきかけること、そして、同一性主義の邪悪さを認識し、批判すること。同一性主義の実践的解体。同一性主義を乗り越えること、これが、今日の根本的な課題である。
 さて、最後に、自由主義と民主主義について、以上の点をふまえて、再確認したい。
 自由主義とは何か。それは、根本的には、イタリア・ルネサンスの個の発動が原動力であると思う。だから、差異が原点である。しかるに、近代主義化によって、同一性が主導的になり、近代的自我に基づいて、自由が唱えられる。ここには、倒錯があるのである。
 自由は差異を源泉とすることを確認すべきである。だから、自由主義は、差異自由主義と考えなくてはならない。今日は、同一性自由主義になっているのである。また、民主主義であるが、同一性が差別であり、差異が「平等」であると考えられるのであり、民主主義は差異化が必須であるということである。今日の民主主義は、同一性民主主義であり、いわば、形骸化しているのである。

2008年01月25日 (01:59)

現代資本主義論とトランス・モダン経済のための諸考察:その1

私は経済(尚、ここには、政治的経済ないしは経済的政治の意味が込められている)の素人であるが、素人なりに、現代経済に対して強い疑念・疑問・疑義をもっている。また、強い不安ももっている。
 端的に言えば、経済学に対する不信感が強いのである。つまり、平たく言えば、金儲けのための経済技術になっていて、経済学ではないのではないだろうか、という疑念があるのである。
 とまれ、これから、素人なりに、哲学的に、現代経済を探求していきたい。哲学・理論的研究は、ポスト・モダンを乗り越えた、トランス・モダンとなっているが、トランス・モダンの視点は、経済へ向けられたときどうなるのか、それを考察していきたい。
 
 さて、最初に、いったい現代資本主義の原動力は何か、利益のシステムとは何か、経済と社会との関係は何か、等々を考えてみたい。もっとも、本質は素人談義なので、無知は承知で考察するので、間違っている点があれば指摘していただきたい。
 先ず、哲学的に言えば、資本主義は、差異価値を同一性価値へと展開していく経済システムである。基盤は差異価値である。それが、商業的行為によって、同一性価値(貨幣価値)に還元され、その同一性価値の増加(「経済成長」)を目指すシステムであるということである。
 問題は、基盤の差異価値が同一性価値によって支配されるということである。いわば、自分の母体を食らう子供のようなものである。とまれ、この矛盾、二重価値に目を向ける必要がある。
 この二重価値性の問題は、価値の転倒に存すると言えよう。前提となる差異価値が同一性価値によって支配されて、同一性価値中心主義が生起するということである。これが、金融資本中心主義となる。今日の資本主義はこれである。同一性価値としての金融資本が、いわば、自立したもののように、グローバル経済を動かしているのである。
 この同一性価値としての金融資本は、同一性観念として存在するのであり、哲学的には、構造的なものであり、実は、物質的なものではない。だから、現代資本主義を唯物論的と呼ぶのは、正しくはない。本当は、数量的同一性構造論である。もっとも、これが、唯物論と強く結びついているのである。
 また、確認すべき重要な点は、差異価値を同一性価値へと還元するということは、必然性があるものの、そこには暴力が作用しているということである。この暴力は、自然のもつ暴力である。しかしながら、問題点は、同一性価値中心主義となり、暴力が恒常化することである。具体的に言えば、戦争が経済にとって恒常化することである。
 換言すると、差異から同一性への転換は、一つの自然の暴力である。誰でも、生存するためには、暴力をふるうのである。しかしながら、問題は、この同一性暴力が中心化されて、暴力主義が肯定されることである。この点にも注意しなくてはならない。
 整理すると、資本主義経済とは、差異価値を同一性価値へと展開し、その同一性価値が中心化された経済であり、また、差異価値から同一性価値への転換は、一つの自然の暴力であり、必然的であるが、同一性価値中心主義によって、暴力が中心化されてしまっているということである。
 このように見ると、現代資本主義の問題点がわかりやすくなるだろう。(ここで、休みを入れる。仕事がたまっている。)

2007年12月21日 (03:07)

Black hole in Britain's public finances deepens

私は先に、サブプライムローンをブラック・ホールに直感で喩えたのであるが、新聞記事に出たのを見るのは初めてだと思う。

Black hole in Britain's public finances deepens

* Angela Balakrishnan
*
o Angela Balakrishnan
o Guardian Unlimited,
o Thursday December 20 2007

The black hole in Britain's public finances deepened today after official figures showed the current account gap hit a record high, as the credit crunch knocked tax receipts from the City.

Separate figures also revealed the first year-on-year fall on mortgage lending in more than two years, as the housing market continued to slow.

In the three months to September, the current account gap leapt to all-time high of £20bn, equivalent to 5.7% of UK growth, the Office for National Statistics said. Deficits from previous quarters were upwardly revised as well.

The sharp deterioration was mainly driven by a weak contribution from financial services. The City has fuelled a large part of British economic growth in recent years, helping to plug the hole in public finances. However, the global credit crunch has seen many firms write off huge losses in recent months.
http://www.guardian.co.uk/business/2007/dec/20/economics.housingmarket

2007年09月23日 (23:27)

貨幣論:続き:同一性・自我・物質・交換価値・資本のハイパー・モダンと差異のトランス・モダン

「同一性資本から差異資本へ:量的経済から質的経済へ:トランス・モダン差異共生経済へ」
http://ameblo.jp/renshi/entry-10048167048.html
先に、上の論考を行なったが、今一つ整理がされていないので、ここで、丁寧に再考したい。
 
 私が問題にしたいのは、同一性ー自我における欲望の様態についてである。問題は、同一性ー自我という欲望において、貨幣の交換価値が深く結びついていることである。ここでは、差異ー自己は抑圧されて、隠蔽されている。
 私は、交換価値は抽象的一般的価値であり、無限的であると言った。つまり、同一性ー自我ー交換価値の欲望は無限増加を目指すと考えられるのである。そう、なぜ、無限増加を欲望するのか。資本主義は、この無限増加を駆動させるシステムであると考えられる。
 同一性ー自我ー交換価値(貨幣)ー資本の無限欲望システムということになる。そして、これに物質を加えることができる。
 同一性ー物質ー自我ー交換価値(貨幣)ー資本の無限欲望システムである。近代合理主義、自然科学・テクノロジーは、この経済システムと融合している。
 これは、ユダヤ・キリスト教西洋文明が生み出した恐るべきシステムである。もっとも、現代、その欠陥・破綻が明瞭になっているのである。
 問題は、差異のシステムの構築・創造にあると言える。言い換えると、トランス・モダン社会システムの構築・創造である。そして、プラトニック・シナジー理論は、その基本的概念を提示しうると考えられるのである。
 とまれ、差異を救うことが必要なのである。以上の同一性システムにおける抑圧・隠蔽された差異を先ず考えよう。これは既述であるが、再論すると、初めは、同一性の発現が行なわれ、その後、差異が発動するが、同一性は差異の賦活を抑圧する。ここに、同一性と差異との闘争が生起するのである。近代合理主義は、同一性(自我・物質)によって、賦活された差異(精神・想像力等)を否定し、抑圧する。しかし、差異の賦活は脱近代主義を志向する。ポスト・モダンは、脱近代主義の運動であるが、近代主義から脱却はできずにいた。
 問題は賦活された差異の抑圧としてのハイパー・モダン(過剰近代)の問題が、今日生じているのである。(思うに、これは、ポスト・モダンの問題と捉えてもいいのかもしれない。)
 つまり、差異は賦活されてエネルギーをもっているが、それに対して、同一性ー自我はそれを肯定できずに、強く否定して抑圧しようとする。しかしながら、賦活された差異のエネルギーはなんらかの発現を求めている。ここで、病的な、狂気的な衝動が発動すると考えられるのである。先に、Kaisetsu氏は、大澤真幸氏のアイロニカルな没入論を卓抜に捉えたが、このアイロニカルな没入という事象が、この病的な、狂気的な衝動と関係すると思われるのである。
 即ち、ハイパー・モダンとしてのポスト・モダン事象が現在、発現していると考えられるのである。そして、これが、現代資本主義、金融工学をもつグローバリゼーションと連関していると考えられるのである。
 つまり、賦活された差異のエネルギーの倒錯的な駆動が、現代資本主義のエネルギーになっていると考えられるのである。つまり、反動エネルギーが世界資本主義を駆動させていると考えられるのである。
 例えば、サブプライムローンにおける融資の異常性であるが、それは、同一性の反動として考えられるのである。魔女の予言を信じるマクベスのspeculation(思惑・憶測・投機)である。
 同一性(交換価値)に対する病的な思惑・欲望が支配していると考えられる。この病的な思惑・欲望は、抑圧された差異のエネルギーに駆り立てられているのではないかと考えられるのである。
 もし、なんらかの差異の意識・認識があれば、サブプライムローンの融資は、極めて危険であると判断できたはずである。しかし、ハイパー・モダン/ポスト・モダンにあっては、差異は反動化して、アイロニカルな没入を行い、同一性強化へと作用すると考えられるのである。
 何が言いたいのかと言えば、ハイバー・モダン/ポスト・モダンにあっては、アイロニカルな没入が諸事象に浸透するのであり、同一性(交換価値)は、同一性自体で自己増殖するようになると考えられるのである。つまり、反動化した差異のエネルギーは、狂気(パラノイア)となり、同一性の意識(近代合理主義)を麻痺させるのであり、同一性自体が目的化して、肥大化すると考えられるのである。これは、狂気(パラノイア)から発動しているので、超同一性の衝動が支配して、バブルへと邁進すると考えられるのである。
 先の考察では、同一性ー自我の欲望によって、交換価値の無限化が追求されると言ったが、現代においては、単にそうではなくて、反動化した差異の倒錯したエネルギーが狂気(パラノイア)となり、同一性=交換価値の無限的追求が為されると考えるべきであろう。
 ということで、差異、不連続な差異、絶対的差異、超越的差異、そして、即非的差異を取り戻さないといけないのである。トランス・モダンへとパラダイム・シフトする必要があるのである。
 同一性資本主義から差異資本主義へと変容するのであるが、これは、人類世界の進化を意味するだろう。私は、ポスト・ユダヤ/キリスト教西洋文明としての新世界文明を意味すると考えている。以上は、プラトニック・シナジー理論による解明である。

2007年09月19日 (23:11)

サブプライムローン問題と『マクベス』:連続的同一性=交換価値のもつ魔力の反復としての投機・バブル

今は余裕がないので詳論できないが、一言本件について述べておこう。
 シェクスピアのいわゆる四大悲劇の一つに『マクベス』がある。主人公のマクベスは武将であるが、自分が王になるという魔女の予言に魅せられて、ダンカン王を殺害して、王位を奪うが、結局、魔女の言葉に誑(たぶら)かされるように、善良な武将たちに反撃されて、殺される陰惨・凄惨な悲劇である。
 私は、主人公マクベスをそそのかした魔女の予言が正に、サブプライムローン・バブルの問題に通じると感じた。王の臣下に過ぎないマクベスが魔女の誘惑する言葉に魅せられて、王位を自ら簒奪したのである。魔女の予言がバブルの投機speculationに相当するだろう。
 貧乏人のあなたたでも、住宅を買うことができ、さらには、利益を増やせますよという誘惑の言葉が、魔女の予言である。つまり、サブプライムローンの貸し手は、魔女になったのであるし、同時に、マクベスにもなったのである。貧乏人ではあるが、彼らに貸せば、たいへんな利益になるのだと、バブルに魅せられたのである。
 私は、この根因は、連続的同一性(自我)=交換価値のもつ魔力にあると思う。マルクスがシェイクスピアの劇からよく引用して貨幣の魔力を提示したように、交換価値の魔力が現実に存在しているのである。
 これは、差異(叡知)を否定しているので、また、自己中心主義であるので、この交換価値=連続的同一性の魔力に打ち勝てないのである。金融資本主義が続く限りに反復されると思う。
 差異化しないといけないのである。つまり、同一性=量的資本主義ではなく、差異=質的資本主義(共生的資本主義)にパラダイム・シフトしない限り、永続すると考えられるのである。
 質的に投資しないといけないのである。これは、ひいて言えば、日本の公共投資もそうである。箱物や道路では量的な公共投資に過ぎず、財政をさらに地獄化するのである。質的な、差異的な公共投資が必要なのである。
 今はここで留めたい。
 

参考:

 確かにそのとおりとわたしも思う。本来であれば、サブプライムの話を聞いただけで、「ん? それは危ないのではないか。いつか破綻するのではないか?」と踏みとどまるのが正しい判断だ。それが、「住宅価格が上昇しているから大丈夫」と勝手に思い込んで、どんどん突き進んでしまった。もし、過去を振り返り反省を生かすことができていたら、回避できただろう。

 すべてのバブルは、それが崩壊してみれば「強者どもが夢のあと」の虚脱感が漂う。いま、米国のローン会社、ローンを小口債券化した人々、それをファンドに組み込んで、グローバル・エクイティ・オプチュニティーズ(ゴールドマン・サックスの商品)などというしゃれた名前で売り飛ばした人々、週給 500ドルでありながら、住宅の価格上昇を前提に30万ドルで住宅を買ってしまって人々、すべてにえも言われぬ虚脱感が漂っている。数カ月前のあの「言われ無き熱狂(サブプライムのリスクを正しく評価していなかった、と白状したグリーンスパン元FRB長官の言葉)」は何だったのか、みな胸に手を当てて考え込んでいる。

http://www.nikkeibp.co.jp/sj/2/column/a/98/index4.html

サブプライムには「徳政令」しかない

経営コンサルタント 大前 研一氏
2007年9月19日

2007年01月13日 (16:41)

エネルゲイアとエネルギーの関係:精神と経済:連続的同一性経済と差異共振シナジー経済

エネルゲイアとエネルギーの関係:精神と経済:連続的同一性経済と差異共振シナジー経済


テーマ:プラトニック・シナジー経済


先に、虚次元エネルゲイアと実次元エネルギーに区別したが、これは、いわば、精神と物質の区別と同形である。ここで、経済について考えると、これまで、近代主義的経済は、物質主義的経済であった。近代資本主義は、正に、近代合理主義/唯物論に基づく経済であると言えよう。(ここで自由主義の問題があるが、これは後で検討したい。)だから、物質主義ではない、精神的経済が考えられることになるだろう。(物質とは精神の心的主体による連続的同一性であるから。物質は、精神現象の一様態である。)
 とまれ、精神とは、差異共振シナジー・エネルゲイアであるから、これに即した経済が考えられる。差異共振シナジー経済(共振経済ないしシナジー経済)である。
 この共振経済において、価値は、差異共振シナジー・エネルゲイアに基づく創造にあると言えよう(生産は、物質主義的含みがあるので、創造と呼ぶ)。つまり、差異共振シナジー創造(共振創造、シナジー創造)である。
 では、差異創造(シナジー創造)をする創造共振経済体(産業や企業も物質主義的含みがあるのでこう呼ぶ)は、具体的にどのようなものなのだろうか。創造共振経済体は、共振シナジー価値を創造するものである。そして、この価値を体現する通貨・貨幣が必要である。これは、差異価値メディアである共振通貨・シナジー通貨・差異通貨である。通価である。そして、この社会のコントロールする「国家」、共振政体が必要である。共振政治が必要である。共振治者が必要である。
 実際には、現在の企業・産業を共振創造経済体に変容すべく、税体系を改変する必要があるだろう。共振創造の方向へと導くのである。例えば、温暖化の問題は、正に、共振社会・共振世界の問題であり、それは、共振政治によって、その解決を図っていかなくてはならない。共振政治家は、差異共振人なので、精神的価値の富者でなくてはならない。資産ではなくて、共振創造価値の富で評価されなくてはならない。
 今日の金融資本主義は、連続的同一性価値の支配した経済であり、倒錯しているのである。toxandoria氏が提示した優良企業は、基本的理念が、共振シナジー経済的であると考えられるのである。つまり、現代の資本主義は、連続的同一性経済と差異共振シナジー経済の二つが存しているのであり、前者は、破壊的であり、後者へと変換する必要があると言える。
 後でまた、考察をしたい。
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