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2007年10月28日 (11:49)

Media Pointから同一性の発生へ:脱同一性=連続性化としてのMedia Point回帰

ふとひらめいた。
同一性の形成についてである。Media Pointが同一性へと転化するのである。つまり、Media Pointと同一性が重なるのである。Media Pointが同一性の表面をもつといってもいい。差異が同一性化されるのである。差異は同一性になったのである。ここには、差異の錯誤があるのである。同一性が中心化されて、差異に対して「不感症」になるのである。同一性絶対主義と言えるだろう。差異への完全盲目である。同一性に一体化して、めしいたのである。差異が見えなくなったのである。
 自我同一性絶対主義であるから、個がないのである。個核・個芯がないのである。同一性様態の中で考えるので、ありきたりである。
 そう、差異は、Media Pointは完全に無意識となっている。闇となっているのである。ハイデガーの本来的存在、D.H.ロレンスの闇、三島由紀夫の無はこれではないだろうか。同一性自我の裏面である。
 この同一性は差異に気づけない。精神病様態である。同一性が支配しているのである。この同一性支配から脱却できないのである。同一性癒着とも言える。同一性の連続空間に存しているのである。内在空間である。ここを突破するには、差異を取り戻すには、差異と同一性を分離しないといけない。それは、不連続的差異論によって実現した。
 問題は、同一性=連続性空間において、差異が独自化し出すときである。それまでは、Media Pointが同一性へと張り付いたのである。しかし、Media Pointは、同一性発現から、差異へと回帰するのである。私は先に、差異-iが回帰すると言ったが、これは、正しくは、i*(-i)が回帰するのである。
 思うに、同一性を構築した後、Media Pointは自己自身へと回帰するのではないだろうか。このとき、同一性=連続性空間に閉じられたままなのが、ポスト・モダンである。Media Pointへの回帰運動はあるが、同一性=連続性空間が強固なので、純粋Media Pointへは回帰できないのである。実軸のMedia Pointにせいぜい達するだけである。
 今はここで留めたい。後で、詳述したい。

p.s. ひとこと述べておくと、差異への回帰とは、Media Point自体への回帰であるが、それは、差異即非共振様相である。それが、同一性=連続性空間で発生するのであるが、同一性論理では、差異即非共振論理が理解不可能である。絶対矛盾的自己同一の事態なのである。連続性・同一性が支配している西洋哲学は、この差異の論理=即非論理を取り出すことができなかったのである。(例外はウスペンスキーである。)言い換えると、差異・即非・同一性という差異即非共振論理を取り出すことができなかったのである。
 そう、同一性=連続性に捉えられた西洋文明は、差異への回帰様態であるポスト・モダン期において、狂気の度を高めると言えよう。それは、新植民地主義である。対日年次改革要望書である。近代的自我の自由民主主義である。(p.s. 差異エネルゲイアは、同一性=連続性空間では、絶対主義ないしは全体主義的同一性となる。キリスト教的独善主義となるのである。この同一性=連続性の絶対主義/全体主義はキリスト教原理主義となり、また、新自由主義=新植民地主義となるのだろう。)
 結局、トランス・モダン・エラへとイニシアティブをもって行為すべきなのである。
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2007年01月02日 (03:22)

近代の「光」は暗く、陽光は明るい:モダンの闇からトランス・モダンの光へ

ここで、端的に、光とは何かを問題としたい。自己認識方程式から光を考えよう。
 i*(-i)⇒+1の左辺が、自己認識の「光」ではないか。左辺は、これまで、玄光・真如光・真光等と呼んでいるものである。差異共振シナジー・即非態である。これを類似的に適用すると、太陽の光の定式もこれである。即ち、陽光も、i*(-i)で表現できるのである。
 しかし、問題は現象・物質化は、マイナス化である。即ち、i*-(-i)=i*i⇒-1である。すると、現象の光とは、-1となるのではないか。太陽光は、i*(-i)であると述べたことと齟齬することになる。この矛盾をどう解決するのか。(このことは、前々から、気にはなっていた事柄である。つまり、現象光・太陽光は、即非態なのか連続的同一性なのか、決めかねていたのである。)
 ここでも、直観で述べよう。私が、好きな景色は、海に近い川の土手の道の木立のある家の、晴天の光あふれる光景である。この光に感動するのである。これは、連続的同一性の光なのだろうか。物質としての光なのだろうか。これは、私の精神的視覚で捉えた光ではないのか。そうだと思う。単に肉眼で捉えた光ではないだろう。私の心身視覚で捉えた光であろう。これを、私は、コスモスの光と考えているのである。とまれ、i*(-i)の差異共振シナジー相としての光である。
 では、物質としての光はどういうことになるのだろうか。連続的同一性としての光は何処にあるのだろうか。ここで、量子としての光子を考えよう。それは、粒子と波動の相補性をもつと考えられている。量子とは、これまでの考えから見ると、メディア・現象境界上の「存在」である。というか、差異共振シナジー事象を現象界・物質界の視点から観察・把捉したものである。折衷的「存在」なのである。つまり、光と光子は異なるのである。光は、i*(-i)であるが、光子は、光を連続的同一性のスクリーンで把捉した様態となる。つまり、比喩的に言えば、光の影としての光子なのである。
 というように考えると、やはり、私の心眼で視覚した光はi*(-i)であり、それが、現象光・太陽光なのである。物理学で把捉した光は、光を連続的同一性・物質の視点から見たものに過ぎないと考えられるのである。そう、だから、物理学よりも、心眼の方が、太陽光を的確に捉えていると言えるだろう。そして、宗教上の光も、太陽光そのものと言えるだろう。阿弥陀如来の無量光、大日如来、御来光、天照、ゾロアスター教の光、聖書の光、等々は、太陽光そのものであろう。そう、太陽光は、正に、お天道様である。アポロである。この点は、今は、ここで留めたい。
 さて、では、何故、近代の理性・合理性は、暗いのか。これは、30年以上も前から思っていたことである。当時、直観的に、ニュートンやガリレオの「光」は暗いと感じたのである。そう、近代合理主義の光は、暗いと、私は、長年感じてきたのである。ロマン主義の影響もあるが、「光は暗い」ともともと感じていたのである。それは、今から思うと病的な感性ではあるだろうが、近代合理主義の光は暗いということを示唆していた点では間違っていないと思うのである。近代合理主義は、これまでの検討から、物質的合理主義であり、連続的同一性の理性であるということである。これは、i*-(-i)⇒-1の倒錯なのである。これは、明日野氏が闇と定義したものなのである。明日野氏の定式から、近代合理主義の光は暗いことがわかるである。もっとも、それを光と呼ぶことが問題ではあろう。これは、啓蒙主義にも関係する。啓蒙の光は、明るかったのか。これは、暗かったのではないか。何故なら、近代合理主義と連続化していたからである。つまり、近代的自我と連帯していたから啓蒙主義は、暗いと言えるだろう。
 結局、近代合理主義とは、連続的同一性主義であり、現象物質主義であり、当然、差異を否定・排除・隠蔽しているので、暗いのである。光とは差異共振シナジーであるのに、近代合理主義は、それを否定して、光を物質化していいるのである。これで、本件の問題が解決されたとしよう。
 ここで、ダークエネルギーの問題について簡単に触れると、物質エネルギーは、連続的同一性の志向性である。それは、-のエネルギーである。しかし、光は、本来、i*(-i)⇒+1の差異的同一性のエネルギーである。つまり、現代物理学は、差異的同一性のエネルギー、+のエネルギーを捉えていないことになるだろう。これが、ダークエネルギーではないのか。もっとも、転倒しているのである。物質エネルギーは、闇であり、本当は、「ダークエネルギー」を呼ばれるべきである。そして、ダークエネルギーと呼ばれているものこそ、ライトエネルギーと呼ばれてしかるべきだろう。そう、結局、心眼で見ている太陽光を、近代合理主義は見ていないのである。
 最後に、D.H.ロレンスの黒い太陽、『老子』の玄牝、黒い聖母、等について少し考えてみよう。この「黒・玄」とは何か。以前の私の直観で言うと、イシスが闇で、オシリスが光である。イシスの闇からオシリスの光が生まれるのである。このイメージは今でも、否定しがたいものがある。私のイメージでは、闇から光が生まれるのである。夜明けを考えれば、わかるように、夜の闇から夜明けの光が誕生するのであり、そのイメージは崇高なものがあるだろう。この闇と「黒・玄」が関係すると思われるのである。
 ここでも直観で言おう。目映い(眩い)太陽を見ると、光が黒くなるだろう。この点では、黒い光になるのである。この目映さの黒さとは何か。盲目である。つまり、裸眼では、太陽を見つめることができないのである。盲(めしい)になるのである。これは、いわば、超光である。そう、この超光を指しているのではないだろうか。即ち、太陽光とは、超光ではないか。この超光を黒い太陽、玄牝、黒い聖母と呼んだのではないのか。だから、太陽光そのものである。この黒・玄とは、闇ではなくて、正に、超光であると思う。
 
初めに光ありき、それは、超光であった。そして、それは、即非ロゴスであった。(新ヨハネの福音書)


参考:


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%89

太陽光
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E9%99%BD%E5%85%89

原子核融合
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8E%9F%E5%AD%90%E6%A0%B8%E8%9E%8D%E5%90%88


http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%99%B9

ゲーテの色彩論
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%86%E3%81%AE%E8%89%B2%E5%BD%A9%E8%AB%96

啓蒙思想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%92%99%E6%80%9D%E6%83%B3

ダークエネルギー
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC
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