2007年12月30日 (23:54)

視覚と物質主義との関係:視覚の同一性化と差異の視覚の否定

視覚と物質主義との関係:視覚の同一性化と差異の視覚の否定
テーマ:差異と同一性
私の経験から言うと、視覚世界に対して、近代科学は、物質界であると説明する。そのため、意識において、視覚現象界は物質界であると刷り込まれる。それに対して、内面においては、想像世界が広がる。視覚現象界は物質界(唯物世界)であり、内面世界は想像世界の二律背反が生起する。これが、近代主義による心の分裂である。
 内面世界を重視した世界観として、ロマン主義等があるが、結局、資本主義の世界は、視覚現象界=物質界ということが基盤となり、近代科学/技術をもって、進展した。結局、物質性=同一性=近代合理主義が中心化された。
 近代合理主義は明らかに、心を硬直・冷暗(暗黒)化するものである。そして、現代日本はこれに徹底的に染められている。
 明らかに、矛盾・分裂の原点は、視覚現象界を物質界と限定したことにあるだろう。(フッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でこれを問題にした。)正確に言うと、物質界が数量化されるものとしたことにある。ここで、物質の数量的同一性が支配的になったのである。そして、視覚の心が数量的同一性化されたのである。
 丁寧に見ると、視覚の心は本来、差異共振性ないしは差異であるが、これが同一性志向性をもち、自己否定的になる。もっとも、差異共振性ないしは差異は潜在している。この視覚の心の同一性志向性と物質数量性が結びつくのである。その結果、視覚現象界は物質主義的世界と見なされるのである。
 排除された差異共振性・差異は、芸術や宗教等に表現されることになるが、物質世界と心的世界は分裂したままである。これは、モダンの矛盾状況であるが、これが、ポスト・モダンの基盤となる。
 とまれ、資本主義の発達とともに、心的世界は阻害されて、物質数量同一性主義(近代合理主義/唯物論/近代的自我)が中心化される。人間の機械化、ロボット化、家畜化である。
 本来の視覚の心の差異の光が翳り、同一性の暗い光が支配するのである。そう、近代を支配しているのは、暗黒の光である。本来の光が抑圧されているのである。
 もっとも、同一性の光から差異の真光を見ると、めくらんで、それが、闇や無に見えてしまうのである。三島の無がそうであると思われるし、D.H.ロレンスの闇もそうであろう。(ハイデガーの無とは、同一性が差異にぶつかったときの壁の無であるから、差異の無ではない。)ここに近代の悲劇があるのである。物質的同一性(近代合理主義/唯物科学)が刷り込まれているので、差異の光、心の光が見えないのである。
 これで、物質界としての視覚現象界の形成が説明できただろう。差異ないしは差異共振性としての視覚現象界が排除されているのである。同一性の光(闇の光)だけを見て、本源である差異(差異共振性)の光、心の光を否定しているのである。同一性主義(同一性霊=アーリマン)が憑依しているのである。日本においては、とりわけ、東京において、アメリカ権力の同一性霊が取り憑いているように思える。また、マスコミに憑依している。マスコミは悪霊が憑依しているのである。除霊するには、心の光を取り戻す必要がある。そして、根本的には、差異共振社会を構築する必要があると言えよう。

p.s. フッサールの生活世界とは、差異共振性を基礎とする共同体のことであろう。差異共振生活共同体である。
 
参照1:

フッサール は実証科学が着々と成果を挙げていることを認めた上で、しかし「学問に対する一般的な評価の転換」が現れたという。それは

「学問の学問性にかかわるものではなく、むしろ学問一般が、人間の生存にとってなにを意味してきたか、またなにを意味することができるか、という点にかかわる」という。

一九世紀の後半には、近代人の世界観全体が、もっぱら実証科学によって徹底的に規定され、また実証科学に負う「繁栄」によって徹底的に眩惑されていたが、その徹底性たるや、真の人間性にとって決定的な意味をもつ問題から無関心に眼をそらさせるほどのものであった。単なる事実学は、単なる事実人をしかつくら ない。このような傾向に対する一般的な評価の転換は、特に〔第一次大〕戦後避けることのできないものとなったが、われわれも知るように、それが若い世代のうちに、次第にこのような傾向に対する敵意に満ちた気分を惹き起こすまでになった。この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれないということを、われわれはよく耳にする。(p20)

事実学の「このような傾向に対する敵意に満ちた気分」は、老フッサール 自身のものではないだろう。彼はそれが「若い世代のうちに」惹起しているのを知った。そして「この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれない」という不満を耳にしたのである。

フッサール は、その気分に同調したり、その不満に直接応えようとしたりするわけではない。ただ、次の点を指摘する。

この学問は、この不幸な時代にあって、運命的な転回にゆだねられている人間にとっての焦眉の問題を原理的に排除してしまうのだ。その問題というのは、この人間の生存に意味があるのか、それともないのかという問いである。

実証科学といえば、まず第一に自然科学 のことだけれども、事情は「歴史性の地平における人間を考察する精神諸科学」、歴史学 に代表される人文諸科学についても同じである。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20071125/1196005590
恐妻家の献立表
参照2:
$1415 フッサールの「諸学の危機」と相対性理論 「今日どんな本をよみましたか? (112700)」
[ 社会と哲学 ]
以前のこのブログ で、フッサールは、彼が現象学を深めた時期に大論争を呼んだ相対性理論について何も言及していない、ということを書きました。本日はまずこの点につきまして、訂正いたします。

実は、西研氏の哲学的思考 を読む限り、危機とされる「諸学」が何であるかという点について判然といたしません。そこで、「ヨーロッパ諸学の危機」を読み返してみました。そうしたら、なんと頭の部分に書いてありますね。つまり、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機」というテーマに取り組んだ契機の一つには、長い間絶対的な真実である信じられてきた、ガリレオ、ニュートンの打ちたてた物理学が、プランクやアインシュタインによって否定されたことがあった、というわけです。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 ですが、最近では中公文庫から出ております、お値段税別1,190円のお買い得なのですが、ここでは手持ちの「世界の名著」から細谷恒夫訳で引用することといたします。

学問一般といえば、その中には、厳密な、そして最も成果ある学問性の模範として、我々が驚嘆してやまない純粋数学や精密自然科学も含まれるわけであるが、それらの学の危機を語ることなどどうしてできようか。たしかにこれらの学も、その理論体系と方法論全体に関して変わりうるものであることが示されている。現にこの点に関しては、古典物理学の名称のもとで硬直しようとしていた様式、いわゆる古典的完成として数千年のあいだ保持されてきた様式が、ごく最近破られることになった。しかし、古典物理学の理想に対抗して勝ちとった勝利や、純粋数学の意味深く純粋な構成形式をめぐる現在進行中の論争は、従来の物理学や数学がまだ学的でなかったとか、また、それらの学がある種の不明確さやあいまいさにつきまとわれていたとはいえ、その研究の領域においては明証的な洞察を得ていなかった、とかいうことを意味するのであろうか。

と、いうわけで「ヨーロッパ諸学の危機」はニュートン力学崩壊の現場に居合わせたフッサールが、自然科学の基礎付けと、古い論理の価値の再確認を目指して行った講演と、それをもとにした著作であった、と考えるのが妥当ではないかと思います。
http://plaza.rakuten.co.jp/neuron/diary/200608130000/
ニューロンとワイヤの狭間から

参照3:
http://209.85.175.104/search?q=cache:7BaGy1AJoGwJ:www.mus-nh.city.osaka.jp/iso/argo/nl11/nl11-17-26.pdf+%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%80%E5%8D%B1%E6%A9%9F&hl=ja&ct=clnk&cd=11&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a

2007年12月05日 (01:27)

思考実験:生命と精神と細胞:Media Pointの霊的生命とメディア平面の物質的生命

京都大学の新たな万能細胞形成の発見のニュースで、ネオコンのブッシュが喜んだということを聞いて、これは、単純に万能細胞を肯定するのは問題のように思えるので、少し考え直す必要があると感じた。
 先に、垂直的振動が原生命であり、原精神であると考えてきた。そして、Media Pointの共振振動によって、物質化されると考えた。つまり、ざっと言えば、原生命=原精神が物質的に誕生するということである。そして、差異が同一性と「融合」する平面、メディア平面が考えた。ここが、万能細胞ではないかと思った。つまり、差異情報があるし、同時に、それが、同一性化(有機体化)へと志向するのかもしれない。つまり、ここでは、差異情報は、連続化し、原有機体化である万能細胞になるのではないだろうか。(このメディア平面とは完全に作業仮説に過ぎないが、思うに、ドゥルーズの内在平面、ハイデガーの存在に当たるように感じられる。ある意味で、構造である。ポスト・モダン構造である。)
 問題は、Media Pointとメディア平面の関係である。前者には、差異共振性があるが、後者には、連続的差異があるのである。だから、ここには、断絶があるのである。前者は不連続であり、後者は連続ということである。
 では、ここで、本件について考えると、これまで、原精神と原生命とを一致させたが、どうだろうか。とまれ、両者は、原知的生命と考えられるよう。すると、原知的生命とメディア平面における物質的生命体(たとえば、細胞)は異なると考えられる。端的に言えば、精神的生命と物質的生命は異なるということである。以前、二三年前、霊学的発想から、霊魂と物質的生命とは異なり、前者が後者に、いわば、付着して、人間生命体になると考えた。つまり、霊が物質的身体と結合して、人間生命体となると考えたのである。どうやら、それに類した考えがここに生じたと言えよう。
 つまり、精神生命(霊的生命)と物質生命(物質身体)とは異質なものであるということである。両者、不連続であるということである。これは、正に、前近代の伝統的文化の思想であると言えよう。魂と肉体(空蝉)である。そう、一般的に、宗教的思想は正しいということになろう。霊と肉体とは不連続なのである。そして、霊は、永遠の生命ということだろう。また、それは、同一体ではなくて、振動体であるから、多様に変化するだろう。この点は後で検討したいので、ここで留める。
 結局、物質的生命科学は、後者の物質生命体を対象としているのであり、前者をまったく考慮・考察していないということになろう。霊学の霊主体従は、間違っていないのである。
 今は、ここで留めたい。

2007年03月16日 (00:30)

ファシズム的連続的全体主義からトランス・モダンの差異共振意識へ

これは、論文のテーマの一つであるが、D.H.ロレンスは、同時代の全体主義的潮流に近づいた時期があった。

しかし、ハイデガーとは異なり、それを乗り越えて、トランス・モダンの差異共立ないし差異共振の意識へと進展したと考えられる。

興味深いのは、「隠れた神」と「脊椎的意識」を述べていることである。前者が「精神」であるが、後者が民衆・衆生の身体である。

ロレンスは、この両者が必要であると言っている。ちょうど、大乗仏教の発想と似ているのである。すなわち、前者が悟りであり、後者が衆生救済である。

問題は、後者に関して、極性があると述べていることである。それは、「愛」と「力」の極性である。そして、「現代」は「力」の時代であると述べるのである。「力」は連続的同一性による暴力と言えるのではないだろうか。

ここにおいて、ロレンスは、全体主義的傾向を帯びたのである。

問題は、一見、「隠れた神」と「脊椎的意識」は同一であると思われるのであるから、それを分化しているのは、意外なのである。

これは、天と地と言い換えることができるだろう。

そう、ロレンスは、いみじくも、「隠れた神」の志向をニルヴァーナと言っているのである。

大乗仏教ならば、衆生への志向性をもつのである。

そう、直観では、ロレンスは、大乗仏教的発想に近いのである。

思うに、「隠れた神」が虚数軸・超越界であり、「脊椎的意識」とは、実数軸・現象界ではないだろうか。

ならば、「脊椎的意識」の極性とは、+1と-1のことになるのであはないだろうか。

「愛」が+1で、「力」が-1ではないだろうか。

思うに、「隠れた神」がiで、「脊椎的意識」が-iかもしれない。

これで、天と地とになる。

なにか、ロレンスの考えは、混乱しているように思える。

「隠れた神」=i=天、「脊椎的意識」=-i=地とすると、この両者がロレンスは必要であると述べているのは、i*(-i)のことを言っているように思える。元知と元身体の共振である。

そして、「脊椎的意識」に極性があるというのは、共振性と非共振性ではないのか。

共振性は、⇒+1であり、非共振性は、⇒-1であろう。

「愛」と「力」である。

そして、「現代」は、後者の時代であると説いているのである。これは、ファシズム・全体主義に通じると言えよう。

これは、今日の日本で言えば、従軍慰安婦は、日本軍に強制されなかったという「力」=暴力の発想と共通だろう。

個ではなく、連続的同一性(国家民族主義)に拠る集合的発想である。

ロレンスは、結局、この発想を乗り越えて、+1の思想に到達するのである。差異即非共振の観念である(『死んだ男』)。

ロレンスのコスモスの思想もそういうものだろうし、最晩年の『黙示録論』も、-1を否定して、+1を説いていると言えよう。

思えば、ロレンスには、父権的意識が強いのである。否、母権的意識である。これは、-i*(-i)⇒-1であろう。

ロレンスの言う「力」とは、近代合理主義への反動であろう。だから、等価になってしまうのだろう。

ちょうど、ロマン主義的反動である。

イギリス・ロマン主義の詩人ワーズワースは、underpower下部の力を説いたが、同じであろう。

身体性の反動である。

そう、現代日本の問題はこれであろう。身体の反動である。小泉にしろ、石原にしろ、東国原にしろ、身体性の反動だと思う。

主人への反抗なのである。叛乱なのである。反逆なのである。一種左翼的なのである。

非合理主義なのである。

生の哲学である。

ハイデガー哲学である。

しかし、これは、同時に、i*-(-i)⇒-1でもあろう。

とにかく、連続的同一性主義である。

エネルゲイアというよりは、フォースである。

物質的暴力である。

現代日本の場合、近代主義への反動としての倒錯があると思う。戦後を否定するのは、ある意味では正しいが、それが、反動となり、極端となり、同一になっているのである。

やはり、-i*(-i)⇒-1であろう。

だから、全体主義・ファシズムなのである。

欠落しているのは、差異共振性である。

メディア・ポイントの明晰判明な知性である。

メディア・ポイントの叡知である。

メディア・ポイント十字架の叡知である。

2007年03月15日 (06:14)

地霊spirit of placeについて:m(ic)*(-ic)=hν⇒+1・E

D.H.ロレンスが言う、一見非合理な観念、地霊(土地の精神)spirit of placeとは何か。古くは、genius lociと言われた。

E=mc^2=hν

の視点を取り入れたい。

あるいは、m(ic)*(-ic)=hν⇒+1・E

の視点である。

土地は、質量mをもつ。そして、物質エネルギーないし実数エネルギー+1・Eをもつ。

これでは、地霊の合理的説明はできない。しかし、虚数エネルギーに注目すれば、m(ic)*(-ic)の超越エネルギーないし振動ν=(ic)*(-ic)m/hがあるだろう。

これが、端的に、地霊ではないだろうか。

つまり、土地自体にも、メディア・ポイントがあり、そこにおいて、超越界が浸透していて、虚数エネルギーないし超越エネルギーが発動しているのではないだろうか。

そうすると、単に、光だけでなく、「物質」一般も、虚数エネルギー又は超越エネルギーを発していることになるだろう。

しかし、これは、公式から光に関わるエネルギー(エネルゲイア)である。

そう、「気」のエネルギーは、この一様相ではないだろうか。

聖地と呼ばれる場所は、地霊ないし超越エネルギー(超越光エネルギー)が強力な場所なのではないのか。

おそらく、これは、ある種の金属の分布とも関係するだろう。

空海が地質的知識をもっていたのは、地霊と金属との関係に拠るものではないだろうか。

参考:

《泰の始皇帝の命を受けた徐福は、錬丹術の専門家だった。日本には錬丹術、修験道、陰陽道すべてに通じた一人の天才がいた。真言密教の開祖、弘法大師空海。

 その空海も、このラインの中に見え隠れしている。

 吉野の近くには丹生川神社があるが、高野山からこの吉野のあたりは不老不死の妙薬の原料となる「丹」、水銀の鉱脈があり、やはり不老不死を求めていた空海は、この地に目をつけた。そして、その中心である高野山を丹生津姫命から借用するとして手に入れ、真言密教の中心地とする。

 錬丹術の「丹」はまさに水銀のことで、徐福も良質な水銀産地を探し求めていた。》

不老不死が繋ぐもの
http://www.ley-line.net/wakasa/wakasa04.html


《吉野の近くには丹生川神社があり、高野山からこの吉野のあたりは「丹」、水銀の鉱脈がありました。空海は、中国で密教以外に土木、建築等々をも勉強し、日本の土木工学に大きな影響を残したことでも有名で、彼が水脈や鉱物資源について学びとったことは想像できます。そのような知識をもった空海はこの地を見逃すないはずがないと思われます。やがて、その中心である高野山を朝廷から手に入れ、真言密教の中心地としたと考えても良いようです。

 熊野、吉野、明日香から平安京にかけて都や天皇陵が並んでいるいるには地理的な偶然かもしれないが、そのことよりも仏教にとって水銀の持つ意味が、重要になってくるのです。

 今は水銀は危険な薬品として使われなくなったが、古くから「赤チン」などや、農薬、水虫薬、遊女達の避妊薬・おしろいなど水銀物が用いられていました。仏教の世界においても、朱色のもとは硫化水銀であり、塗金の時には水銀を混ぜ塗装する要領で金装飾を可能としてきたのです。また、神仙界においては、不老不死の薬と考えられたとされています。

また、空海自身も後に東大寺の別当を任じられたのです。

注:丹生明神   天照大神の妹神の稚日女尊(ワカヒルメノミコト)は「ミズカネ(水銀)の女神」です。その女神の下、この一族は(豪族というより移動し水銀を求め移動していた)、魏志倭人伝で有名な伊都国では八代や佐賀の嬉野の水銀を抑え、勢力を得ていた。そして、彼らは中央構造線にそって九州・四国・紀伊を縦断していったとされている。また、別の同じ先祖をもつ一派が日本海にそって北上したと考えられています。》

弘法大師空海の謎

http://www.geocities.jp/hntmb836/shingon.htm



さて、物質一般が以上のように仮説すると、超越的物質となるだろう。超物質的物質である。


例えば、芭蕉の有名な「閑さや岩にしみ入蝉の声」であるが、

http://www.bashouan.com/psBashouYD.htm

これも、岩の超越的物質としての超越エネルギーと芭蕉の精神が共振しているというように言えるように思うのである。


そう、芭蕉のコスモス的感覚はこの超越的エネルギーに共振する感覚・知覚・思考のことではないのか。これは、また、冒頭のD.H.ロレンスと共通のものと考えられるのである。


宮沢賢治も正にこのタイプではないか。


霊・スピリットも超越エネルギーのことではないだろうか。


PS理論からは、このエネルギーは、共振エネルギーである。


しかし、悪霊や悪魔と宗教・民俗文化で呼ばれるものがあるが、これは何か。


共振エネルギーは善である。だから、悪は、非共振的なものである。

唯物論/近代合理主義が非共振的である。

つまり、超越的現象ないし超越的物質である自然・宇宙・人間において、超越性を阻害する「もの」が悪霊・悪魔であると考えられるだろう。

換言すると、本来、開放系のメディア・ポイントを閉鎖する「もの」が悪霊・悪魔であると言えよう。

メディア・ポイントを閉鎖・隠蔽するのは、連続的同一性志向である。自我同一性志向である。そう、ここに自然と人間の異同があるだろう。おそらく、自然には、一般に、この自我同一性志向はないと思う。

つまり、自然とは、本来、超越的自然、超越的現象なのである。

しかし、人間の主観・認識において、反超越的な連続的同一性が発生すると考えられよう。

この問題については以前、たいへん悩んだが、思うに、身体の虚弱性と脳神経の発達との矛盾が新生児にはあり、そのため、内界知覚に対して、外界知覚に対して、人間は、虚弱性をもつと考えられよう。そのため、主観的知性は、外的他者を主観的同一性化するのではないだろうか。

つまり、外的他者は、主観的知覚にとり、恐怖や不安や苦の対象となるのである。それを克服するために、主観は他者を同一性化するのではないのか。

内面では、i*(-i)⇒+1が存するだろう。しかし、外面においては、
i*-(-i)⇒-1となるのではないのか。

即ち、他者を否定して、連続的に同一性化するのである。このための道具・ツールが、とりわけ、言語である。

「わたし」にとり、本来、特異的対象であるXが、言語化されて、一般的な言語、例えば、「蛇」となる。

しかし、本来、特異な対象Xは、「蛇」ではない。少なくとも、特異な「蛇」であり、一般的な「蛇」ではない。唯名論的X、即ち、haecceity(これ性)である。

人間の認識と身体との齟齬が、このような傾斜を生んで知性を生むようになったと言えよう。

しかし、ここでは正確になる必要がある。

内的認識は、i*(-i)⇒+1の自己認識である。これが、言わば、無意識として人間には本来あると思われる。

(今、思ったが、結局、人間の暴力・狂気・無明は、この身体の虚弱さの反動から生じるのだろう。近代主義がこの帰結である。)

無意識の叡知と外的意識の連続的同一性(連一性)の謬見の二重性が人間にはあるのである。

簡明にするために、潜在的叡知(自己)と顕在的連続知(自我・無知・無明)としよう。あるいは、潜在知と顕在知である。

人間の先天的差異から、後者へと傾斜する。しかしながら、物質主義は発達しない場合は、両者のバランスがとれている。というか。人間は、本来の潜在知に基づいて、叡知の生活・社会を形成すると思うのである。物質的には利便性が欠けてはいるが、叡知が社会を支配しているのである。これは、母権制社会(神話では、女神中心の神話)であると思えるのである。

さて、ここから、問題の悪霊・悪魔を考えると、これは、男性の心性に存するのではないかと思える。

何故なら、男児の方が、女児よりも、心性が連続的同一性(脳で言えば、左脳)に傾斜していると考えられるからである。女性は、左脳と右脳との連結が強いのである。右脳とは、端的に、潜在知であろう。よく、右脳は、イメージや感情の認識を司ると言われるが、これは、ヴィジョン認識を意味しているのではないのか。ヴィジョン認識とは、端的に、イデア認識だと思うのである。叡知認識である。想像力は、やはり、ここに存するだろう。

女性の方が本来、叡知的なのである。古代ギリシア、アテネの守護神は、処女神アテナイ(アポロ神殿に関係する。つまり、汝自身を知れである。)

思うに、今日、女性が感情的と言われるのは、男性の連続的同一性意識の影響を被って、この叡知脳をうまく意識化できていないためではないだろうか。そう。トランス・モダンとは、女性の叡知の復活をも意味するだろう。

さて、そうすると、悪霊や悪魔の起源は、男性の心性にあるらしいことがわかる。男性の心の虚弱性が連続的同一性へと傾斜して、悪霊や悪魔を生むと言えよう。

ここで、イシス・オシリス神話を想起すると、イシスが叡知であり、オシリスが叡知認識であり、オシリスの弟のセトは悪霊・悪魔であろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%88

そう、イシスがi*(-i)であり、オシリスが⇒+1で、セトが⇒-1であろう。だから、イシスは元叡知であり、オシリスが叡知であろう。そして、セトが、無明である。

今の試論では、PS理論によると、自然とは、本来、超越的現象なのである。森羅万象、超越的現象となるのである。ただし、人間の虚弱な認識において、連続的同一性の無明が支配して、物質主義となり、人類や地球が危機に瀕すると言えよう。

そう、ここで、物質科学・技術都市文明の問題がある。

自然は、超越エネルギーを発動しているのである。また、確かに、物質も超越的エネルギーを発しているだろう。

しかし、自然的現象物と人工的現象物は違いがあるのではないだろうか。

単に物質的化合物は、非共振的視点から結合させているので、共振エネルギー、超越エネルギーが不足するのではないだろうか。

化成肥料と有機肥料の違いもこの辺にあるのではないだろうか。

また、食品も、ハイブリッドな食品は、「元気」が足りないのではないだろうか。

では、最後に光について再考しよう。

先に、光の特異性は、その超越性と同一性の併存にあると言ったが、以上の考察から、現象一般がそのようなものであることになったので、光の特異性はそのようなものであるとは言えなくなった。

では、光の特異性は何だろうか。

それは、目に見える超越的エネルギーということではないだろうか。確かに、岩から超越エネルギーは発しているだろう。しかし、それは、目には見えないのである。しかしながら、光は可視の超越エネルギーである。極言すると、光は、可視のイデア界である。

お天道様である。天照大神である。

では、ついでに言うと、物質と現象の違いの問題である。物質は、実エネルギー、Eを問題にするが、超越的物質としては、m(ic)*(-ic)の超越エネルギーをもつのである。

言い換えると、差異共振シナジー・エネルギーである

問題は、このエネルギーを物質的にのみ捉えているのではないだろうか。思うに、現象界における多様な、差異共振シナジー・エネルギーをさらに、共振連結すれば、新たな創造が生まれるだろう。

正に、シナジーである。

これは、単に、物質だけでなく、精神においてそうなのである。

そして、精神と物質の両面においてもそうなのである。

いわゆる奇跡とは、総合的な共振結合から生まれるだろう。

思うに、PS理論は、メディア・ポイントのもつ潜在的共振空間において、総合的に、連結する理論であると言えよう。

本当に、最後に、現代日本人の問題を言うと、父権的な虚弱性による近代主義・唯物論・連続的同一性主義が全面に出て、つまり、悪霊・悪魔が主導的になり、超越性・差異共振シナジー・創造性を否定しているのである。

だから、亡国ではある。

戦後のつけである。

とまれ、メディア・ポイントを発見する必要があるのである。

教養(自己認識の叡知)とは本来そのためにあったと言えようが、それが、今や完全に瓦解した。

物質主義の虜になった人間には、何を言っているのか見当もつかないだろう。

内的身体にメディア・ポイントの種子があると言えよう。ここは、思うに、内在的超越界である。ここから、内在的光が発生するのではないだろうか。夢のヴィジョンは、ここから生まれると思うのである。

思うに、夢は、メディア・ポイントを介して、超越界に触れているので、超越界の叡知を触れることができるように思うのである。

また、睡眠において、超越界の超越エネルギーに触れるので、元気回復となるのではないだろうか。

言い換えると、根源的な自己意識ないし元意識に回帰するのではないのだろうか。

あるいは、神仏の様相に回帰しているのである。

そう、死後は、人間は、ここに回帰すると言えよう。

i*(-i)の様相に回帰すると思うのである。

問題は、この元自己意識が複数であるか否かである。

私は、不連続的差異論の検討の時期に、多者という言葉を夢で得た記憶がある。つまり、一者ではなく、多者があるということである。

i*(-i)をIとすると、I1/I2/I3/I4/I5・・・/Inがあるのではないのかということである。

これは、差異即非の共立様相である。

例えば、「わたし」は、Ipである。

「あなた」は、Iqである。

すると、I1*I2*I3*I4*I5*・・・*In

ではないだろうか。差異即非の即非様相である。

今は、ここで留めたい。

2007年01月02日 (21:58)

精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立

ここでは、主に、本テーマの光について検討したい。
 先の考察(精神と物質 4)から、連続エネルギーが連続的認識と物質化をもたらすと言えるだろう。人間以外の存在は、差異共振シナジー性が未分化(未成熟)であると仮説したのである。
 では、光をどう把捉したらいいだろうか。ここで、一つの作業仮説を立てて思考実験したい。光は、連続化しないという作業仮説である。つまり、光は、差異共振シナジー様相のまま、剥き出しであるということである。つまり、光においては、共振空間、虚次元空間そのままであるということである。つまり、永遠空間のままであるということである。ここには、本来、現象界の連続時空間の尺度は適用できないはずである。しかし、人間の知覚・認識・観測装置は、連続的同一性形式である(カントの超越論的形式)。ここに光を観測するときの根本・原理的矛盾があると言えるだろう。無限速度であるものを、有限連続時空間形式・尺度で観測するとは、完全な齟齬があるのである。これは、結局、結局、唯物科学の問題・限界である。
 とまれ、光の観測に関する脱近代科学(トランス・モダン・サイエンス)の第一歩は、当然、アインシュタインの相対性理論である。光速度一定とは、結局、有限時空連続態の固定枠から見た無限速度の光の速度ではないのか。マイケルソン&モーレーの実験は、エーテルを否定したのである。つまり、連続的媒体の否定である。とりあえず、そういうこととしよう。
 さらに、量子力学になるとこのことがさらに明瞭になると考えられるのである。光は差異共振シナジー様相ないし事象である(作業仮説)。ここには、差異とその零度共振シナジーが成立しているのである。それを、連続的時空間的に観測すると、粒子と波動の二重性をもつということになるのである。あるいは、両者の相補性を説くのである。また、非局所性が成立するのである。
 粒子について言えば、それは、唯物的アトム主義から発生していると言えるだろう。そして、波動は、粒子の振動ということで考えているのだろう。つまり、唯物科学観に拠るのである。しかるに、差異共振シナジー様相が量子の真相であると作業仮説から敷延できるのである。ここは、きわめて重要なポイントで、両者を絶対に混同してはならないことをいくら強調しても強調し過ぎることはないだろう。差異共振シナジー様相とはイデア様相であり、量子とは、それを物質科学から観測した像、連続的同一性像に過ぎないということである。
 ということで、差異共振シナジー様相i*(-i)における差異を物質化して、粒子ないし微粒子としているのであり、シナジー様相を物質化して、波動として観測していると考えられるのである。しかし、差異共振シナジー様相であるから、差異とシナジー相は分離できないない不可分なものなのである。即非態である。相補性とは、この即非態を物質科学的に説明する概念であると言えるだろう。また、非局所性であるが、それは、当然ながら、差異共振シナジー様相の無限空間を指していると考えられるのである。
 以上簡単であるが、ポスト唯物科学、ポスト相対性理論、ポスト量子力学、トランス・モダン・サイエンスとして、プラトニック・シナジー・サイエンスPlatonic Synergy Scienceが成立すると考えられるのである。
 そう、私が先に、心眼で捉えた光は、即非態であると言ったが、それが、この論考により、解明されたと言えよう。光は、即非態・即非相として剥き出しであるということである。太陽光即お天道様即大日如来即阿弥陀如来即天照即アポロ即アフラ・マズダである。
 では、ニーチェが唱えたディオニュソスとアポロとはどう捉えたらいいのだろうか。そう、同じものであろう。差異共振シナジーによる差異的同一性がアポロで、シナジー様態がディオニュソスだろう。そして、これは、両者でコスモスである。そう、D.H.ロレンス等、多くの作家、芸術家、詩人が説いたコスモスとは、このアポロ且つディオニュソスとしての差異共振シナジー様相のことであろう。光の「浄土」である。古代人、中世人、ルネサンス人等は、まったく正しかったのである。近代人が狂っているのである。

2007年01月02日 (20:40)

精神と物質 4:光、認識、現象・物質化とは何か

この問題は、プラトニック・シナジー理論の根幹の一つであろう。おそらく、これから、思考実験が何度も繰り返されることだろうが、近代的自我の検討の反復のようなことはないことを望んでいる(おそらく、そんなことはないだろう。近代的自我、近代合理主義の解明は、もっとも難しかったものであると考えられる。)
 先ず、認識と連続的同一性と物質化について整理しよう。私の仮説は、認識即存在である。志向性が存在を形成するというものである。これは、フッサール現象学の中に、ハイデガーの存在論を包摂させていると言えるだろう。
 だから、連続的同一性志向性は、連続的現象・存在の形成である。この連続現象体は、当然、心身をもっている。つまり、知覚をもち、身体をもっている。これは、当然、人間だけでなく、動物・植物にも当てはまるし、また、奇妙に、怪しく感じられるかもしれないが、鉱物・無機物にも、当てはまると思える。つまり、鉱物・無機物にも、なんらかの知覚と身体を想定するのである。(これについては、別のところで検討したい。)
 シロクマは、シロクマの知覚をもち、身体をもっているし、スズメは、スズメのそれらをもっている。これは、異論がないだろう。これらの知覚/身体は、連続的知覚/身体と呼ぶことができるだろう。
 問題は、即非態とこの連続的知覚/身体との関係である。これまで、人間以外の動物・植物(・鉱物)には、即非態・差異共振シナジー態DRSを認めなかったが、ここで、考え直したい。一般的に、動物には、「母性本能」が強いと言えるだろうし、正しくは、言わば、「親(おや)性本能」・「母父性本能?」が強いのだろう。これをどう見るかである。これは、差異共振シナジー動態ではないのか。今、言えることは、それは、差異共振シナジー動態に何らかの関係をもっているということであろう。しかし、そのものとは言えないだろう。何故なら、差異共振シナジー様相とは、認識、自己認識を意味するからである。動物には、自己認識はなく、ただ、本能として、差異共振シナジー様相に似た結果が発現するということのように思えるのである。そう、思うに、動物の場合は、差異共振シナジー様相まではいかなくて、主客と他者とが未分化のように考えられるのである。猫は、主客と他者とが未分化であると思うのである。だから、動物には、差異共振シナジー様相は存在しないと考えることができるだろう。ただ、未分化的な相関的な様相はあるとは言えるのである。(思うに、ペットを飼うというのは、疑似差異共振シナジー様態を味わっているのではないだろうか。)
 では、この未分化な主客連続化の様態をどう定式化するのか。内在的連続化の記号を〜とすれば、i~(-i)と記述できるのではないだろうか。暫定的にそうしておきたい。
 では、人間の場合について、本テーマを追求して行こう。問題は、即非態と連続的同一性態との関係構造である。(明瞭にするため、即非態を共振態ないしシナジー態、そして、連続的同一性態を連続態ないし同一性態と呼んでもいいだろう。態の替わりに、相でもいいだろう。共振相・シナジー相、連続相・同一性相である。)
 人間が出生して、現象・物質化するとき、共振相が、連続相に転化する。虚次元・虚軸から実次元・実軸へと変換する。このとき、帰結的には(終局態・エンテレケイア)、連続態・同一性態としての人間が発生する。しかし、実際のところ、共振相が完全に連続相になったのではなくて、生成過程にあると考えられるのである。つまり、連続相への生成過程としての人間整形である。端的に言えば、言語獲得である。つまり、出生後、新生児は、言葉を憶えることになるのである。勿論、それ以前に、身体知覚経験が研ぎ澄まされるのであるが。
 結局、出生後、連続相への生成過程であるから、共振相/連続相の二重構成をもつと言えよう。あるいは、共振相⇒連続相のプロセスである。これは、連続的同一性志向性と呼んだものである。そして、成長し、言語獲得するときに、このプロセスは、共振相を否定して、連続相中心・優勢になると考えられるのである。つまり、主体/他者の関係で言うと、主体が他者を連続化して、他者を支配しようとする傾斜である。そして、これが、自我形成である。そして、この帰結として近代的自我が成立する。
 問題は、この連続相形成過程における共振相の意味合いである。当然、連続相形成過程においては、共振相は、連続エネルギーへと転換している。つまり、共振相潜在態(デュナミス)が連続相現実態(エネルゲイア)へと転換しているのである。だから、共振相自体としては、認識されずに、連続相・同一性相認識・自我認識を形成されると言える。
 では、問題は、共振相は、連続エネルギーへの転換で消滅する、又は、消費されるのかということである。ここで、作業仮説するのであるが、共振相は原則として零度であるから、連続エネルギーをプラスのエネルギーとすると、保存則的には、マイナスのエネルギーが作動するはずである。これは、比喩的には、潮の満ち引きのようなものであろう。つまり、連続相化に対して、脱連続相化のエネルギーが作用すると思われるのである。図式化すれば、
主体→他者、i→-i(→は連続相化)から、主体←他者、i←-iへの「相転移」ではないだろうか。これは、これまで、他者の同一性化と見たが、そうではなくて、共振相への回帰と考えられるのである。(先に、優越/劣等の二項対立について述べたが、それは、連続相化で十分説明がつくだろう。即ち、主体→他者の連続相化とは、他者を同一性化することであり、そこには、他者の力を受容するので、感受性的には、優劣感情が発生すると言えるだろう。)つまり、連続エネルギーのカウンターとして、脱連続・共振エネルギーが発動するのではないかと考えられるのである。これを仮説として、検討を進めよう。
 だから、結局、人間の認識においては、連続相・同一性認識と共振相・差異認識が併存することになると言えよう。そう、より正しく言えば、自然発生的には、両者が未分化として、あるいは、連続態として、併存している、ないし、混合していると考えられるのである。なぜ、未分化・連続態かと言うと、脱連続・共振エネルギー(差異エネルギー)とは、連続相・同一性認識の内に、内部に、発生するからだと考えられるのである。ここは、正に、不連続的差異論のブレークスルーの領域である。連続相・同一性相認識において、脱連続・共振相・差異認識が発生するので、両者が、未分化・連続化しているのである。言い換えると、両者が弁証法関係・否定関係にあるのである。そして、フランスのポスト・モダン、乃至、ポスト構造主義とは、この両者の未分化・連続態から脱出できなかったと言えるのである(後期デリダは除く)。つまり、差異の連続化、連続的差異=微分をここに仮説してしまうのである。また、大澤真幸氏のアイロニカルな没入もこの未分化・連続態で説明がつくのである。ここにあるのは、反動形式なのである。連続・同一性相という構造の彼岸は、差異ではなくて、未分化・混淆界であったのである。即ち、メディア/現象境界である。これが、ポスト・モダンの領域なのである。
 さて、ということで、脱連続・共振エネルギーが発動するが、それが、連続相・同一性相認識と未分化・連続態を形成するというポスト・モダンの様相を確認した。ここで、先に進む前に、近代的自我の反動様態について触れておくと、それは、ポスト・モダン様態になったときの反動態であると考えられるのである。連続相・同一性相・自我認識が中心化して、脱連続・共振エネルギーを否定・排除・隠蔽するのである。これは、暴力且つ狂気なのである。精神病化である。今日の自己愛性人格障害は、これで説明がつくだろうし、また、パラノイア化や統合失調症(「精神分裂症」)もこれで、おおよそ、説明がつくだろう。
 ここで、不連続的差異論のブレークスルーに関係するが、それは、以上の未分化・連続態を切断して、共振エネルギーを不連続化し、独立させたのである。連続相・同一性相とは不連続な、差異共振シナジー様相、差異共振シナジー相認識、即非認識、共振認識を確認したのである。これはどういう力学なのだろうか。完全な脱連続化である。そう、内在的超越化である。虚次元・虚空間化である。そして、それを明日野氏は、卓越的に、i*(-i)⇒+1と簡潔簡明に数式化したのである。これは、差異的同一性の公式とも言えるのである。そして、これこそ、差異共振シナジー様相と連続的同一性様態との共生・棲み分けである。ここには、差異共振シナジー的合理性、連続的同一性合理性の共創・共存があるのである。共生・共立である。簡単に言えば、差異理性と同一性理性との不連続な共立である。(カントは、この内在的超越的差異理性を捉えることができずに、物自体としたと言えよう。あるいは、実践理性としたのである。フッサールはこれを志向性や間主観性として把捉したと言えよう。)
 では、これはいったい何を意味するのか。零度への回帰、永遠回帰、内在的超越界への回帰とは何を意味するのか。結果的には、連続化の終焉である。自我、近代的自我の終焉である。近代合理主義の終焉である。モダンの終焉である。ポスト・モダンの超克でもあるトランス・モダンの開始である。人類のリセットである。これまで、宗教や神秘主義の領域であったものが、合理化されたのである。というか、宗教や神秘主義の純粋化と言ってもいいのである。これまで、それらは、連続態によって、反動化していたのであるから、プラトニック・シナジー理論によって、純粋化したのである。超宗教・超神秘主義でもあるのである。(これは、諸宗教の反動暴力性を解除して、共生的宗教へと変容させると考えられるのである。)
 そう、これは、やはり、一つのサイクルの終焉と見るべきではないのか。即非態から連続エネルギーが発生して、また、脱連続エネルギーが発生する。その終局が、零度への回帰である。私は、これをずっと西洋文明の終焉と見ているのである。あるいは、一神教・父権的文明の終焉と見ているのである。そういうことだと思う。エネルギー力学からそう言えると思うのである。
 さて、序論的部分を含み説明が長くなったので、本テーマの一つの光については別稿で論じたい。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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