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2012年03月27日 (08:43)

物質とは何か:その2:凸i*-凹i⇒凹(-1):凹(-1)が物質である

物質とは何か:その2:凸i*-凹i⇒凹(-1):凹(-1)が物質である

テーマ:Neo-PS理論

先に、物質とは差異共振事象の同一性的仮象ではないかと述べたが、今、それとは異なる視点が生じたので、それを簡単に記したい。
 結局、media pointにおいて、同一性化と差異共振事象が同時生起する。両者はなんらか結合して、いわば、複合体を形成していると考えられる。この複合体を仮に同一性的差異共振体ないしは同一性的差異共振複合体と呼んでおく。あるいは、生命体で言えば、同一性的差異共振有機体である。
 問題はこの体、複合体、有機体の結合モードである。つまり、結合のmedia pointの様態である。(先には、比喩的に、メビウスの輪や三日月の光と影を提起したが。)
 根源的に考察する。「母権」的認識様態においては、凹i主導であり、原始差異共振様態と連続的同一性様態が併存している。この初期様態が重要である。
 この二重様態を精緻明晰に捉える必要がある。結局、凸iの様態がポイントである。凹i主導の差異共振体があり、同時に、凸i主導の連続的同一性体(連続的自我体)がある。つまり、両極性(対極性)に拠る二つのモードがここには存している。
 即ち、凹i主導の差異共振体と凸i主導の連続的同一性体である。つまり、凹iと凸iの極性による複合体がここには存する。極性的複合体と呼べよう。あるいは絶対矛盾的複合体ないしは即非的複合体である。これが「母権」的認識様態である。
 では、「父権」的認識様態になるとどうなるのだろうか。それは、完全に凸i主導、凸i支配となる認識様態である。
 そう、簡単に言えば、極性的様態が「抑圧」されると考えられる。では、「抑圧」とは何であろうか。それは、隠蔽である。
 この「抑圧」、隠蔽力学を把捉する必要がある。
 しかし、この力学は「母権」的認識様態の凸i主導性による連続的同一性体という視点で捉えることができよう。
 既述したように、同一性力学は凸i同一性を凹iの他者に押し付ける、押印することである。つまり、同一性型を他者(差異:正確に言えば、絶対的差異、絶対矛盾的差異)に押印することである。論理的に言えば、他者否定である。つまり、同一性力学は他者(差異)否定力学であるということである。
 「母権」的認識様態は極性的様態で説明できたが、この「父権」的同一性支配的認識様態はどう解明できるのか。
 思うに、ここには、分裂様態があると考えられる。本来(「母権」的認識様態においては)、極性的様態である凸iと凹iであるが、「父権」的認識様態になると、同一性支配によって極性的様態が否定されて、同一性体と差異共振体の二つに分裂すると考えられる。つまり、同一性と差異共振性を分裂させるなんらかの分離帯が形成されると推測されるのである。
 この分離帯を同一性デバイドととりあえず呼ぶ。この同一性デバイドが「母権」的認識様態には存在しなかったものである。
 そして、この同一性デバイドが物質を形成する原因であると考えられるのである。
 この同一性デバイドとは結局、カントの感性的形式ならびに純粋悟性(形式)と考えられる。つまり、「父権」的認識様態とは感性的形式且つ純粋悟性(形式)支配の認識様態であると考えられるのである。とりあえず、両者をまとめて、同一性形式と呼ぶ。
 だから、同一性形式が物質形成原因である。
そのように考えると、宇宙・自然世界と人間世界において、同一性形式支配があり、それが、物質現象を構築していると考えられる。
 しかし、同一性形式イコール物質ではない。物質を形成するには、同一性形式と同時に押印される他者(差異)が必要である。前者を凸iとすれば後者は当然凹iである。
 結局のところ、これまで既述したような同一性方程式を変形した、

凸i*-凹i⇒凹(-1)

が物質認識方程式と考えられる。
 そう、端的に、凹(-1)が物質である。(これは、連続的自我でもあるが。)
 ということで、現段階の結論が出たので、ここで終える。

追記:ルドルフ・シュタイナーの精神学で言えば、同一性形式とは悪魔アーリマンである。また、彼はそれをヘーゲルの「精神」であると述べてい





四次元座標としての人間認識構造?

テーマ:manichaeism: 哲学

先に三次元座標を人間認識構造のモデルとして作業仮説したが、どうやら、四次元座標にした方が的確のように思えてきた。
 即ち、x軸、y軸、z軸以外にα軸を考えるのである。

x軸:存在軸:凹と凸
y軸:空間/時間軸:凸kと凹k
z軸:純粋悟性軸:凸jと凹j
α軸:純粋理性軸:凸iと凹i

とざっと思うところを書いた。
 y軸は、感覚に関係する。外的感覚(外官)凸kと内的感覚(内官)凹kである。
 z軸は、凸jが純粋悟性であり、凹jが純粋悟性の他者である。
 α軸は、凸iが純粋理性であり、凹iが純粋理性の他者である。
 以上、思考実験である。





物質とは何か

テーマ:manichaeism: 哲学

既述したことだが、ルドルフ・シュタイナーは彼の精神学は、究極的には物質の究明であると述べていた。霊学を提唱した人物の言であるから、重い。
 とまれ、物質とは差異共振エネルギー、差異共振事象を同一性の視点で捉えたものではないだろうか。
 ある物体の質量が1kgとする。その1kgとは、同一性、量である。これは空間的事象の観測に拠るのである。問題は空間的事象である。カントは物自体は認識できないと述べた。
 ここで思考実験するが、物自体を仮に凹iとすると、純粋悟性凸iは物自体凹iは把捉できない。それは、同一性を物自体凹iに押印するのである。
 だから、凸iに拠る凹iへの同一性の押印が、物質ないしは物体の形成を意味するのではないだろうか。
 しかし、他方では、凸i*凹iの差異共振事象がある。氣の事象、光の事象である。
 思うに、物質とは現象を同一性システムで捉えたものである。現象の本体は差異共振事象であるが、物質とは差異共振事象を同一性システムによって認識したものではないだろうか。
 つまり、現象、差異共振事象は同一性システムに呼応する機構をもっているということになるのではないだろうか。
 というか、差異共振事象を同一性の視点から認識する結果、現象は物質現象であるということになるのではないだろうか。(物自体であるが、それは、凹i、ないし凸i*凹iの差異共振事象の両方にあてはまることにする。今の段階では。暫定的に。)
 つまり、物質とは本来、物質ではなく、差異共振事象であるということになるだろう。差異共振事象の仮象であるということになるだろう。
 今は問題提起のみである。 





z軸凸iは純粋理性、y軸凸jは純粋悟性、x軸凸は純粋光

テーマ:manichaeism: 哲学

今は指摘のみに留める。
 ガウス平面の虚軸を凸iと凹iで表記したが、三次元化したとき、z軸に凸iと凹iをとり、y軸に凸jと凹jをとることにする(先にも述べたが)。
 カントの純粋悟性は凸jとなり、現象、物質、現象光は凹(-1)である。そして、凸(+1)は純粋光と考えられる。これは一般には不可視である。(dark energyはこれを指しているのかもしれない。dark matterもこれかもしれない。)
 そして、純粋悟性を超越する純粋理性はz軸の凸iということになる。
 とまれ、凹jや凹iは純粋他者であるが、どう異なるのか。これは作業仮説であるが、両者、直観ではないだろうか。
 凹jは現象的直観であり、凹iは精神的直観ではないだろうか。この問題は提起のみに留める。
 さて、別のことであるが、

凸i*凹i⇒凸(+1)

の根本自己認識方程式であるが、これは逆転できるのではないだろうかと思ったのである。即ち、

凸(+1)⇒凸i*凹i

である。
 凸(+1)は真の光であり、「神」であると考えると、それが、中軸の極性、双極子を創出したのではないだろうかと思ったのである。
 例えば、旧約聖書の預言者であるが、彼らは、凸(+1)の「神の呼びかけ」を聴いたのではないだろうか。
 とまれ、「父」は凸(+1)⇒凸i*凹iとすると、「子」は凸i*凹i⇒凸(+1)ではないだろうか。
 ならば、「聖霊」はどうなるのだろうか。それは、media pointではないだろうか。
 これも検討課題である。

Cartesian coordinate system - Wikipedia, the free encyclopedia





The coordinate surfaces of the Cartesian coordinates (x, y, z). The z-axis is vertical and the x-axis is highlighted in green. Thus, the red plane shows the points with x=1, the blue plane shows the points with z=1, and the yellow plane shows the points with y=-1. The three surfaces intersect at the point P (shown as a black sphere) with the Cartesian coordinates (1, -1, 1).



http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11204176098.html





過去から未来への動きと未来から過去への動き

テーマ:manichaeism: 哲学

凸i*凹凹i⇒凹(-1)と凸i*凹i⇒凸(+1)の光の方向であるが、前者は物質の世界であり、過去から未来へと時間が動くが、後者は精神の世界であるが、未来から過去へと時間が動くのではないだろうか。

参考:
スカラー波とは - 徹底検索、堀進 - Yahoo!ブログ
超光速が相対論によって無いことになっているのは、超光速であると因果律が逆転するからである。つまり過去から未来へ伝わる波だけでなく、未来から過去へ 伝わる波も存在することになるからである。しかし、云わば量子の内部で超光速であって、外部からこの量子の動きを見ると光速以下になるようになっているの で、その範囲では因果律の逆転は起きないのである。
http://blogs.yahoo.co.jp/horisusumu8/11334501.html
徹底検索、堀進


Nikola Tesla - Wikipedia, the free encyclopedia

Longitudinal wave - Wikipedia, the free encyclopedia
Longitudinal waves, as known as "l-waves", which are waves that have the same direction of vibration as their direction of travel, which means that the movement of the medium is in the same direction as or the opposite direction to the motion of the wave. Mechanical longitudinal waves have been also referred to as compressional waves or compression waves.

Electromagnetic
Maxwell's equations lead to the prediction of electromagnetic waves in a vacuum, which are transverse (in that the electric fields and magnetic fields vary perpendicularly to the direction of propagation).[2] However, waves can exist in plasma or confined spaces. These are called plasma waves and can be longitudinal, transverse, or a mixture of both.[2] [3] Plasma waves can also occur in force-free magnetic fields.
In the early development of electromagnetism there was some suggesting that longitudinal electromagnetic waves existed in a vacuum. After Heaviside's attempts to generalize Maxwell's equations, Heaviside came to the conclusion that electromagnetic waves were not to be found as longitudinal waves in "free space " or homogeneous media.[4] But Maxwell's equations do lead to the appearance of longitudinal waves under some circumstances in either plasma waves or guided waves. Basically distinct from the "free-space" waves, such as those studied by Hertz in his UHF experiments, are Zenneck waves .[5] The longitudinal mode of a resonant cavity is a particular standing wave pattern formed by waves confined in a cavity. The longitudinal modes correspond to the wavelengths of the wave which are reinforced by constructive interference after many reflections from the cavity's reflecting surfaces. Recently, Haifeng Wang et al. proposed a method that can generate a longitudinal electromagnetic (light) wave in free space, and this wave can propagate without divergence for a few wavelengths.[6]


http://en.wikipedia.org/wiki/Longitudinal_wave





作業仮説:三次元座標としての認識世界

テーマ:manichaeism: 哲学

凸iと凹iをガウス平面に直交する軸(z軸)としたい。だから、ガウス平面での空間・時間方程式の記述は凸j*凹j⇒凸(+1)としたい。凸jが空間形式であり、凹jが時間形式である。それらはy軸を形成する。
 そして、凸iを純粋悟性(純粋自我)、凹iを純粋他者にしたい。
 凸iと凹iは時計回りにπ/2回転して、凸jと凹jに変換するとしたい。(この回転力学は後で検討したい。)
 z軸とy軸が超越論的軸である。x軸が経験軸(物質軸)である。そして、純粋理性とは、z軸におけるmedia pointの力学知性ではないだろうか。
 今は問題提起に留める。





現代日本人は他者凹iを排除するので、異常、病的、痴愚的になっている

テーマ:日本亡国の凶相

結局、現代日本の病巣とは凹iの排除にあると思う。即ち、内的他者(差異)、肚、魂の否定である。
 そう、日本伝統文化の廃棄である。これは、GHQやその後の米国の洗脳に拠ると考えられる。
 駄目な日本人。己の民族的文化を廃棄してしまっているのである。魂を棄てているのである。
 つまり、亡魂の民である。ロボット人間である。

追記:より精緻に言えば、凸iという純粋自我「わたしich」の喪失がある。
 凹iが廃棄されているのも、結局、「わたし」が存しないからである。集団我があるだけである。
 結局、純粋自我(純粋悟性)凸iを表わす主語のない日本語は致命的である。日本人は外国語、とりわけ、欧米語を学ぶ必要がある。
 日本語しか理解しない日本人は「未開」状態である。近代以前なのである。
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2012年01月09日 (21:20)

精神的光:二つの視覚感性:media pointの凹i視覚と凸i視覚:to sub-modern

二つの世界:精神界と物質界:「死」と「生」
テーマ:manichaeism: 哲学

物質界がすべてと思うと、一期一会という発想が生まれるだろう。
 しかし、精神界を考えると、当然そうではなくなる。
 結局、人間は、精神界と物質界の両界の住人であるが、前者を忘れているのである。
 物質界において死ねば、「霊魂」は、精神界へと帰還すると考えられる。つまり、個は絶対的には死なないのである。
 物質界は「霊魂」の修行の場であり、「死後」、「霊魂」は精神界へと帰還すると考えられる。
 「霊魂」である個は、物質界において、物質の衣を着ていると言えよう。物質界の原理に服しているのである。
 結局、物質界に存する場合、精神界はほぼ不可知である。人間は物質界の法則に服するのである。しかし、それは、同一性の法則に過ぎない。
 結局、物質界において、物質の衣が強固なため、独立した精神を認識することが困難だと言えよう。
 物質は精神を恐れると言えるのではないだろうか。これはジェンダー的に言えば、父権は母権を恐れるということになるのではないだろうか。そう、母権、女性は、基本的に、凹iであり、第三象限に近い存在である。否、第三象限の存在と言うべきかもしれない。
 ということで、物質界においては、精神界を認識することはきわめて困難であると言えよう。


精神的光:二つの視覚感性:media pointの凹i視覚と凸i視覚:to sub-modern
テーマ:manichaeism: 哲学
先に以下の論考を書いたが、
『光と視覚:「見る」とは何か:同一性的視覚と差異的視覚』http://ameblo.jp/neomanichaeism/entry-11129804530.html
高振動の精神的光について補足したい。
 それはmedia pointにおける凹i⇒凸iにおける第三象限から発する光である。内的光、超越光である。D. H. ロレンス的に言えば、dark rayとなろう。
 結局、この超越光を感受する能力がmedia pointに存するだろう。明確に言えば、media pointにおける凹iに存するだろう。即ち、media pointに差異共振エネルギーが生起するのは(内的に拠るものであれ、外的に拠るものであれ)、凹iが主導的な場合であり、凹iに超越光の感受点がある と考えられる。
 では、そのとき、凸iの視覚はどうなのだろうか。
 結局、凹iが主導的であるとは言え、差異共振であるから、両者が作動しているのである。凹i⇒凸iであるから、闇=陰が光=陽へと浸入していると考えられる。そのときに、超越光=精神的光が感受されるのである。
 だから、より正確に言うと、超越光=精神的光の感受とは、media pointを媒介として、凹iをベースにして、凸iに(も)存するということになるだろう。そう、凹iをベースに即非的視覚感受と言ってもいいだろう。つ まり、media pointを介して、主導的な凹iと凸iの共振状態に超越光=精神的光の感受が存するだろう。当然、凸iの本来の光の視覚にも、超越光=精神的光は感受さ れるのである。
 では、同一性=物質的光はどのように感受されるのか。それは、凸iが主導的になった場合と考えられよう。そのときは、差異共振が同一性志向に脇へ追いやられ、超越光=精神的光は精神的フィルターに濾過された同一性=物質的光に変換していると考えられるからである。
 そして、戦後以降のように近代合理主義=唯物論が支配的になると、超越光=精神的光は完全に排除されて、同一性=物質的光が中心化されるのである。精神的盲目状態である。
 しかしながら、凸iの主導化、同一性=物質的光の支配は、積極的意味があると考えられる。それは先に述べたように、陽極まりて陰に転ずという事態である。
 光が極まったとき、そのとき、闇へと転換するのである。つまり、新たな差異共振が生起するのである。新しい日あるいはdark sunの誕生である。言い換えると、先験的な超越光=精神的光ではなく、真に個的な超越光=精神的光が誕生すると考えられるのである。
 ただし、そのためには、なにか引き金が必要だろう。なんらかのショックが必要だろう。とまれ、絶対的個=差異になることが条件ではあろう。
 また、積極的な関与が必要である。それは闇=陰=凹iの関与である。だから、単純にトランス・モダンではないのだ。光に徹して、闇の深みに測鉛を垂下して、闇を測深する必要があるのである。
 光であり、且つ、闇である。光と闇の即非共振、即一を達成するのである。
 だから、サブ・モダンsub-modernではないだろうか。モダンからサブ・モダンへと深降することで、新しい日を達成するのである。

追記:sub=trans-modern、サブ=トランス・モダンという語も浮んだ。しかし、トランスなのだろうか。


光と視覚:「見る」とは何か:同一性的視覚と差異的視覚
テーマ:manichaeism: 哲学
今は問題提起に留めるが、どうも、視覚は二種類あるように思える。
 私は直観的に対象を見るのであるが、一般には、直観的視覚が少ないように思える。例えば、顔貌、相貌、人相は直観的に「見える」ものであるが、今日の人はそれが見えていないと思う。
 例えば、性格は相貌に出るものであるが、それが今日の人は一般に見えないようである。あるいは、顔写真に、当人の性格が現われるものであるが、今日の人には見えないようだ。
 そう、心や性格は顔貌に現われるのであるが、この力学はどういうものなのか。
 今は簡単に言うが、media pointが心や性格の核であり、その精神振動が表情に出ると考えられる。
 顔は物質的身体だけでなく、精神的身体でもあり、精神が顔貌、相貌、人相となると考えられるのである。精神振動、精神波動が精神的形態を造形しているのである。
 そして、それは当然可視的なのである。精神的に可視的なのである。つまり、精神的視覚があるのである。(それも一種の霊視であろうが。)
 ということで、確かに、少なくとも二つの視覚があるのである。物質的視覚と精神的視覚である。
 だから、それに即せば、二つの光があるということになるのだろうか? つまり、物質の光と精神の光があるのだろうか?
 少し視点を変えると、以前、音楽の精神的感覚と物理的音響感覚について述べた。例えば、バッハの音楽の場合、氣的精神があり、それが、音楽的音響となっていると述べた。つまり、精神的振動を伴った物理的音響がバッハの音楽である。
 このことは視覚についても適用できよう。即ち、精神的振動、精神的光の振動があり、それが、物理・物資的光となるのである。それが、顔貌、相貌、人相の形態となるのである。ただし、粗雑な、粗野な視覚では、それは不可視である。
 では、顔貌の場合、音楽とは異なり、顔という物理的身体に相という精神的身体が重なるということなのだろうか。
 思うに、身体は少なくとも二重的だと思う。遺伝的身体と個的精神的身体がある。
 この二重的身体が人を混乱させるのではないだろうか。そう、美術の場合は、音楽と同様に考えられるが、身体、特に「顔」の場合はそうはならないようだ。
 結局、同一性的視覚と差異的視覚があるのだ。物質的視覚と精神的視覚と言ってもいい。
 結局、前者は光の同一性的相を見ているのであり、光の差異的相を見ていないと考えられる。
 しかし、まだこれまで述べてきたことと不整合、齟齬がある。つまり、物質的光と精神的光があると述べたこととまだ、整合性がない。
 これは、やはり、振動ないし振動の様態(波形)で説明できよう。物質的光は低振動であり、精神的光は高振動であると考えられる。(波形の問題はおいておく。これは検討問題とする。)
 ということで、いちおう、説明がついた。即ち、二つの視覚、同一性・物質的視覚と差異・精神的視覚があり、また、二つの光、物質的光(低振動の光)と精神的光(高振動の光)が存するのである。
 顔貌・相貌・人相について言うと、相とは、精神的光の表出であり、それは、差異・精神的視覚が知覚するのである。しかし、今日、高位の視覚が劣弱なため に、精神的光の表出が不可視になっているのである。丁寧に言うと、高次の精神的光と低次の精神的光がある。高貴な精神の光と劣弱な精神の光である。卑しい 人間はその卑しい精神の光が顔貌・相貌・人相となって表出されるのである。
 思えば、ルドルフ・シュタイナーはこれから、善的人間と悪的人間はその性質が相貌・顔貌・人相にはっきり表出されるようになると予言していた。認識が深化することを考えれば、それは、以上の説明から理解できることである。
 後で整理したい。

追記:一般的には、二つの視覚は混同されている。つまり、未分化的に一致してしまっているだろう。区別していないのである。


2010年02月27日 (14:25)

生命的有機体と物質:即非的物質と純粋物質:超越的物質と純粋物質

先に、身体と物質というテーマで検討したが、まだ、不明瞭な点があるので、検討を続けたい。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10468952279.html

 端的に言えば、生命的有機体(精神生命的有機体)においては、有機体の物質+1に相当するものは、⇒+1における、つまり、⇒と+1との不可分一体における、+1ということなのである。単独の+1と⇒+1における+1とは似て非なるものであることはいくら強調しても強調しすぎることはない。
 では、⇒+1において、⇒と+1との不可分性はどのような力学をもつのだろうか。これは、「気」と物質的様態との関係と言ってもいい。
 結局、生命体とは、⇒の結果としての+1の物質的様態ないしは物質的表層をもつと考えられる。深層は⇒である。問題は、先に述べたように、⇒と+1の次元の質的相違である。即ち、高次元の⇒から、低次元の+1へと帰結するという点が問題である。
 だから、両者不可分であると言っても、不連続な不可分性があるということになるのである。つまり、位階的な即非関係がそこにあるということである。わかりやすく表記すると、A(高次元⇒)(即非)B(低次元+1)ということである。Aを精神的(生命)エネルギーとすると、Bは物質である。そして、生命的有機体においては、この即非の力学が作用しているのであり、物質とは、この力学からB(低次元+1)が分離したものと考えられるのである。
 そして、生命的有機体におけるB(低次元+1)とは、当然、単に物質ではなく、即非的物質ということになるのである。この即非的物質と純粋な物質との相違はいくら強調しても強調し過ぎることはない。前者は、精神エネルギー的物質、高次元の物質と言うことも可能である。
 そして、唯物論的生命科学は、この二つの物質を識別していないと言えよう。例えば、ビタミンと言った時、それは、即非的物質ではなく、単に物質、有機体的物質に過ぎない。しかし、生命体におけるビタミンとは、即非的物質、精神エネルギー的物質、高次元的物質、あるいは、「気」的物質と考えられる。
 この区別はまた、医学・医療において決定的な意味をもっていると考えられる。例えば、うつ病の場合、精神的エネルギーが枯渇していると考えられるが、単に薬だけでは、物質的器官に作用するだけで、精神的「器官」にはたらきかけないので、一般的にはうつ病は治らないと考えられる。精神的「器官」にはたらきかける医療が必要なのである。それは、哲学・認識的な身体的医療である。そう、うつ病とは、身体的認識・意識の病気なのである。
 また、簡単に遺伝子について触れると、それは、即非的物質の基礎的形態と言えるのではないだろうか。作業仮説であるが、Media Pointと即非的物質との境界に生じる基礎的即非的物質が遺伝子ではないだろうか。これは、検討課題である。
 今はここで留める。

2009年03月13日 (22:47)

記憶とは何か:Media Point における差異共振記憶と同一性記憶:PS理論に拠る創造的記憶論:ベルクソンの『物質と記憶』に触発されて

記憶の保存される場所は何処なのか。唯物科学ならば、それは、脳と言うだろうが、新イデア論であるPS理論はそういうわけにはいかない。
 具体直截に考えてみよう。例えば、今、「わたし」は車窓の景色を眺めているとしよう。その景色は、山間を流れる川である。いったい、それは、どこに記憶されるのだろうか。現象とは、根源的には、差異共振現象、即ち、⇒+1である。差異共振現象として「山間の川」があり、それは、それで同一性現象+1である。とまれ、知覚としては、差異共振知覚/同一性知覚が生じていて、それが記憶されると考えられる。
 差異共振/同一性知覚(⇒+1)は、当然、Media Point が源泉である。これは、同一性像を投影するのであるが、この投影像が、同時に、知覚記憶するものではないだろうか。否、精緻に見ないといけない。投影像を見ている「本体」ないしは意識があると考えられる。これは、デカルトの「考えることを疑うことができない」と判断するコギトである。これは、先に述べたように、差異、特異性、他者である。つまり、同一性知覚に対する差異知覚である。
 この差異知覚が記憶する主体であると考えられる。すると、それは、当然、Media Point であるが、Media Point における内的他者・内的差異である-iであると考えられる。そして、これは、同時に、差異共振性そのもの、即ち、(+i)*(-i)である。言い換えると、Media Point の虚軸ゼロ点で記憶していることになる。もしこれが正しければ、これは画期的発見である。
 そう決める前に、実軸ゼロ点と記憶との関係を確認する必要がある。実軸ゼロ点とは、同一性志向性・同一性自己志向性の原点である。構造主義の構造が虚構される点である。これは、同一性像が投影される原点である。ここに記憶はないのか。そう、ここは、同一性自己意識の原点であり、同一性知覚の原点である。だから、投影された同一性像をここで知覚していると考えられる。すると、記憶はここにもあるのである。これも正しければ、これも画期的な発見である。
 上の二点が正しいとすれば、記憶とは、Media Point の二つのゼロ点で行われていることになる。即ち、同一性知覚と差異知覚の二つの知覚で記憶が起きているのである。前者の記憶、同一性記憶とは、物質記憶、事物記憶と言えようし、ほぼ、言語記憶と言えよう。それに対して、後者の記憶、差異記憶とは、差異共振記憶、いわば、芸術・詩・共感的記憶と言えよう。言い換えると、散文的記憶と詩的記憶である。
 結局、両者の記憶があり、それが、Media Point に蓄積されていると言えよう。(こう考えると、オカルティストの説くアカシック・レコードは単に夢想・妄想ではない可能性が強くなってきた。なぜなら、Media Point とは、イデア構造体であるからである。)
 そう作業仮説して、ベルクソンの記憶論と関連させると、ベルクソンの説く記憶とは、主に、同一性記憶であると考えられる。なぜなら、行動・運動と密接に関係をもっているからである。ただし、持続、純粋持続という場合、そこには、Media Point のエネルギーが入っていると考えられよう。そう、ベルクソンが知覚と物質との「連続性」を説くとき、それは、差異共振性を意味していると考えられる。(ベルクソンのいう「連続性」は、PS理論における連続性とは、かなり異なると言えよう。また、ベルクソンのいう「非連続性」も同様である。少し説明すると、ベルクソンの「連続性」とは、知覚とその延長としての物質との一種の連携性を意味するのであり、また、「非連続性」とは、同一性個体のこと、つまり、+1のことである。)
 つまり、ベルクソンは差異共振性と同一性記憶とを混淆させているのである。つまり、PS理論的には、本来、不連続である両者を連続化させているのである。以前、ベルクソン哲学の連続性を批判したことがあるが、それは、正に、この点で証明される。
 関連させて言うと、ベルクソン哲学を「継承」しているドゥルーズ「哲学」について言及すると、それは、確かに、ベルクソン哲学の連続性に影響されているが、ベルクソン哲学にある持続に感じられる特異性と同一性との一種の区別がドゥルーズ「哲学」ではまったく消失してしまっていると考えられるのである。
 つまり、ベルクソン哲学は確かに、持続概念において、差異共振性と同一性を混淆させているが、それを単純に統一しているのではなく、両者の微妙な違い・ニュアンスを示唆しつつ、連続化させているのである。それに対して、ドゥルーズの場合は、その違い・ニュアンスをまったく喪失しているのである。
 さて、本題にもどると、ベルクソンの記憶論からPS理論の記憶論が展開できることになった。それは、創造的記憶論である。差異共振記憶こそ、創造の源泉である。これによって、創造が為されるのである。思うに、夢とは、この記憶を追究しているのでないだろうか。そして、天才たちは、この創造的記憶から天才的な作品を産み出しているのではないだろうか。
 では、それに対して、同一性記憶とはどう作用するのだろうか。これはたいへん重要なポイントである。もし、同一性記憶が不確定になると、差異共振記憶は曖昧になるのではないだろうか。言い換えると、同一性記憶が差異共振記憶に侵入・侵害されて、妄想、幻想、幻覚等が発生するのではないだろうか。いわば、精神病(うつ病やパラノイアや統合失調症等)の発生が考えられるのである。だから、創造的記憶とは、結局、同一性記憶と相俟って、真に、つまり、積極的に創造的になるものと言えよう。
 とは言え、逆に、同一性記憶を強調し過ぎると、当然ながら、創造的記憶が抑圧されて、創造性が枯渇するようになるだろう。日本の受験教育とはそのようなものである。
 そうすると、PS理論的創造的記憶論とは、創造的教育論にもなると言えよう。トランス・モダン・エデュケーションの基盤は、そこに見い出せるだろう。超越性と物質性との共振する教育が為されなくてはならないのである。理系と文系が融合するトランス・モダン教育である。
 とまれ、ベルクソン哲学は、先にも述べたように、トランス・モダン哲学の先駆の一つとして、位置づけることができるのである。

2007年12月30日 (23:54)

視覚と物質主義との関係:視覚の同一性化と差異の視覚の否定

視覚と物質主義との関係:視覚の同一性化と差異の視覚の否定
テーマ:差異と同一性
私の経験から言うと、視覚世界に対して、近代科学は、物質界であると説明する。そのため、意識において、視覚現象界は物質界であると刷り込まれる。それに対して、内面においては、想像世界が広がる。視覚現象界は物質界(唯物世界)であり、内面世界は想像世界の二律背反が生起する。これが、近代主義による心の分裂である。
 内面世界を重視した世界観として、ロマン主義等があるが、結局、資本主義の世界は、視覚現象界=物質界ということが基盤となり、近代科学/技術をもって、進展した。結局、物質性=同一性=近代合理主義が中心化された。
 近代合理主義は明らかに、心を硬直・冷暗(暗黒)化するものである。そして、現代日本はこれに徹底的に染められている。
 明らかに、矛盾・分裂の原点は、視覚現象界を物質界と限定したことにあるだろう。(フッサールは、『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』でこれを問題にした。)正確に言うと、物質界が数量化されるものとしたことにある。ここで、物質の数量的同一性が支配的になったのである。そして、視覚の心が数量的同一性化されたのである。
 丁寧に見ると、視覚の心は本来、差異共振性ないしは差異であるが、これが同一性志向性をもち、自己否定的になる。もっとも、差異共振性ないしは差異は潜在している。この視覚の心の同一性志向性と物質数量性が結びつくのである。その結果、視覚現象界は物質主義的世界と見なされるのである。
 排除された差異共振性・差異は、芸術や宗教等に表現されることになるが、物質世界と心的世界は分裂したままである。これは、モダンの矛盾状況であるが、これが、ポスト・モダンの基盤となる。
 とまれ、資本主義の発達とともに、心的世界は阻害されて、物質数量同一性主義(近代合理主義/唯物論/近代的自我)が中心化される。人間の機械化、ロボット化、家畜化である。
 本来の視覚の心の差異の光が翳り、同一性の暗い光が支配するのである。そう、近代を支配しているのは、暗黒の光である。本来の光が抑圧されているのである。
 もっとも、同一性の光から差異の真光を見ると、めくらんで、それが、闇や無に見えてしまうのである。三島の無がそうであると思われるし、D.H.ロレンスの闇もそうであろう。(ハイデガーの無とは、同一性が差異にぶつかったときの壁の無であるから、差異の無ではない。)ここに近代の悲劇があるのである。物質的同一性(近代合理主義/唯物科学)が刷り込まれているので、差異の光、心の光が見えないのである。
 これで、物質界としての視覚現象界の形成が説明できただろう。差異ないしは差異共振性としての視覚現象界が排除されているのである。同一性の光(闇の光)だけを見て、本源である差異(差異共振性)の光、心の光を否定しているのである。同一性主義(同一性霊=アーリマン)が憑依しているのである。日本においては、とりわけ、東京において、アメリカ権力の同一性霊が取り憑いているように思える。また、マスコミに憑依している。マスコミは悪霊が憑依しているのである。除霊するには、心の光を取り戻す必要がある。そして、根本的には、差異共振社会を構築する必要があると言えよう。

p.s. フッサールの生活世界とは、差異共振性を基礎とする共同体のことであろう。差異共振生活共同体である。
 
参照1:

フッサール は実証科学が着々と成果を挙げていることを認めた上で、しかし「学問に対する一般的な評価の転換」が現れたという。それは

「学問の学問性にかかわるものではなく、むしろ学問一般が、人間の生存にとってなにを意味してきたか、またなにを意味することができるか、という点にかかわる」という。

一九世紀の後半には、近代人の世界観全体が、もっぱら実証科学によって徹底的に規定され、また実証科学に負う「繁栄」によって徹底的に眩惑されていたが、その徹底性たるや、真の人間性にとって決定的な意味をもつ問題から無関心に眼をそらさせるほどのものであった。単なる事実学は、単なる事実人をしかつくら ない。このような傾向に対する一般的な評価の転換は、特に〔第一次大〕戦後避けることのできないものとなったが、われわれも知るように、それが若い世代のうちに、次第にこのような傾向に対する敵意に満ちた気分を惹き起こすまでになった。この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれないということを、われわれはよく耳にする。(p20)

事実学の「このような傾向に対する敵意に満ちた気分」は、老フッサール 自身のものではないだろう。彼はそれが「若い世代のうちに」惹起しているのを知った。そして「この事実学はわれわれの生存の危機にさいしてわれわれになにも語ってくれない」という不満を耳にしたのである。

フッサール は、その気分に同調したり、その不満に直接応えようとしたりするわけではない。ただ、次の点を指摘する。

この学問は、この不幸な時代にあって、運命的な転回にゆだねられている人間にとっての焦眉の問題を原理的に排除してしまうのだ。その問題というのは、この人間の生存に意味があるのか、それともないのかという問いである。

実証科学といえば、まず第一に自然科学 のことだけれども、事情は「歴史性の地平における人間を考察する精神諸科学」、歴史学 に代表される人文諸科学についても同じである。
http://d.hatena.ne.jp/t-hirosaka/20071125/1196005590
恐妻家の献立表
参照2:
$1415 フッサールの「諸学の危機」と相対性理論 「今日どんな本をよみましたか? (112700)」
[ 社会と哲学 ]
以前のこのブログ で、フッサールは、彼が現象学を深めた時期に大論争を呼んだ相対性理論について何も言及していない、ということを書きました。本日はまずこの点につきまして、訂正いたします。

実は、西研氏の哲学的思考 を読む限り、危機とされる「諸学」が何であるかという点について判然といたしません。そこで、「ヨーロッパ諸学の危機」を読み返してみました。そうしたら、なんと頭の部分に書いてありますね。つまり、フッサールが「ヨーロッパ諸学の危機」というテーマに取り組んだ契機の一つには、長い間絶対的な真実である信じられてきた、ガリレオ、ニュートンの打ちたてた物理学が、プランクやアインシュタインによって否定されたことがあった、というわけです。

ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学 ですが、最近では中公文庫から出ております、お値段税別1,190円のお買い得なのですが、ここでは手持ちの「世界の名著」から細谷恒夫訳で引用することといたします。

学問一般といえば、その中には、厳密な、そして最も成果ある学問性の模範として、我々が驚嘆してやまない純粋数学や精密自然科学も含まれるわけであるが、それらの学の危機を語ることなどどうしてできようか。たしかにこれらの学も、その理論体系と方法論全体に関して変わりうるものであることが示されている。現にこの点に関しては、古典物理学の名称のもとで硬直しようとしていた様式、いわゆる古典的完成として数千年のあいだ保持されてきた様式が、ごく最近破られることになった。しかし、古典物理学の理想に対抗して勝ちとった勝利や、純粋数学の意味深く純粋な構成形式をめぐる現在進行中の論争は、従来の物理学や数学がまだ学的でなかったとか、また、それらの学がある種の不明確さやあいまいさにつきまとわれていたとはいえ、その研究の領域においては明証的な洞察を得ていなかった、とかいうことを意味するのであろうか。

と、いうわけで「ヨーロッパ諸学の危機」はニュートン力学崩壊の現場に居合わせたフッサールが、自然科学の基礎付けと、古い論理の価値の再確認を目指して行った講演と、それをもとにした著作であった、と考えるのが妥当ではないかと思います。
http://plaza.rakuten.co.jp/neuron/diary/200608130000/
ニューロンとワイヤの狭間から

参照3:
http://209.85.175.104/search?q=cache:7BaGy1AJoGwJ:www.mus-nh.city.osaka.jp/iso/argo/nl11/nl11-17-26.pdf+%E3%83%95%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%80%80%E5%8D%B1%E6%A9%9F&hl=ja&ct=clnk&cd=11&gl=jp&lr=lang_ja&client=firefox-a

2007年12月05日 (01:27)

思考実験:生命と精神と細胞:Media Pointの霊的生命とメディア平面の物質的生命

京都大学の新たな万能細胞形成の発見のニュースで、ネオコンのブッシュが喜んだということを聞いて、これは、単純に万能細胞を肯定するのは問題のように思えるので、少し考え直す必要があると感じた。
 先に、垂直的振動が原生命であり、原精神であると考えてきた。そして、Media Pointの共振振動によって、物質化されると考えた。つまり、ざっと言えば、原生命=原精神が物質的に誕生するということである。そして、差異が同一性と「融合」する平面、メディア平面が考えた。ここが、万能細胞ではないかと思った。つまり、差異情報があるし、同時に、それが、同一性化(有機体化)へと志向するのかもしれない。つまり、ここでは、差異情報は、連続化し、原有機体化である万能細胞になるのではないだろうか。(このメディア平面とは完全に作業仮説に過ぎないが、思うに、ドゥルーズの内在平面、ハイデガーの存在に当たるように感じられる。ある意味で、構造である。ポスト・モダン構造である。)
 問題は、Media Pointとメディア平面の関係である。前者には、差異共振性があるが、後者には、連続的差異があるのである。だから、ここには、断絶があるのである。前者は不連続であり、後者は連続ということである。
 では、ここで、本件について考えると、これまで、原精神と原生命とを一致させたが、どうだろうか。とまれ、両者は、原知的生命と考えられるよう。すると、原知的生命とメディア平面における物質的生命体(たとえば、細胞)は異なると考えられる。端的に言えば、精神的生命と物質的生命は異なるということである。以前、二三年前、霊学的発想から、霊魂と物質的生命とは異なり、前者が後者に、いわば、付着して、人間生命体になると考えた。つまり、霊が物質的身体と結合して、人間生命体となると考えたのである。どうやら、それに類した考えがここに生じたと言えよう。
 つまり、精神生命(霊的生命)と物質生命(物質身体)とは異質なものであるということである。両者、不連続であるということである。これは、正に、前近代の伝統的文化の思想であると言えよう。魂と肉体(空蝉)である。そう、一般的に、宗教的思想は正しいということになろう。霊と肉体とは不連続なのである。そして、霊は、永遠の生命ということだろう。また、それは、同一体ではなくて、振動体であるから、多様に変化するだろう。この点は後で検討したいので、ここで留める。
 結局、物質的生命科学は、後者の物質生命体を対象としているのであり、前者をまったく考慮・考察していないということになろう。霊学の霊主体従は、間違っていないのである。
 今は、ここで留めたい。

2007年03月16日 (00:30)

ファシズム的連続的全体主義からトランス・モダンの差異共振意識へ

これは、論文のテーマの一つであるが、D.H.ロレンスは、同時代の全体主義的潮流に近づいた時期があった。

しかし、ハイデガーとは異なり、それを乗り越えて、トランス・モダンの差異共立ないし差異共振の意識へと進展したと考えられる。

興味深いのは、「隠れた神」と「脊椎的意識」を述べていることである。前者が「精神」であるが、後者が民衆・衆生の身体である。

ロレンスは、この両者が必要であると言っている。ちょうど、大乗仏教の発想と似ているのである。すなわち、前者が悟りであり、後者が衆生救済である。

問題は、後者に関して、極性があると述べていることである。それは、「愛」と「力」の極性である。そして、「現代」は「力」の時代であると述べるのである。「力」は連続的同一性による暴力と言えるのではないだろうか。

ここにおいて、ロレンスは、全体主義的傾向を帯びたのである。

問題は、一見、「隠れた神」と「脊椎的意識」は同一であると思われるのであるから、それを分化しているのは、意外なのである。

これは、天と地と言い換えることができるだろう。

そう、ロレンスは、いみじくも、「隠れた神」の志向をニルヴァーナと言っているのである。

大乗仏教ならば、衆生への志向性をもつのである。

そう、直観では、ロレンスは、大乗仏教的発想に近いのである。

思うに、「隠れた神」が虚数軸・超越界であり、「脊椎的意識」とは、実数軸・現象界ではないだろうか。

ならば、「脊椎的意識」の極性とは、+1と-1のことになるのであはないだろうか。

「愛」が+1で、「力」が-1ではないだろうか。

思うに、「隠れた神」がiで、「脊椎的意識」が-iかもしれない。

これで、天と地とになる。

なにか、ロレンスの考えは、混乱しているように思える。

「隠れた神」=i=天、「脊椎的意識」=-i=地とすると、この両者がロレンスは必要であると述べているのは、i*(-i)のことを言っているように思える。元知と元身体の共振である。

そして、「脊椎的意識」に極性があるというのは、共振性と非共振性ではないのか。

共振性は、⇒+1であり、非共振性は、⇒-1であろう。

「愛」と「力」である。

そして、「現代」は、後者の時代であると説いているのである。これは、ファシズム・全体主義に通じると言えよう。

これは、今日の日本で言えば、従軍慰安婦は、日本軍に強制されなかったという「力」=暴力の発想と共通だろう。

個ではなく、連続的同一性(国家民族主義)に拠る集合的発想である。

ロレンスは、結局、この発想を乗り越えて、+1の思想に到達するのである。差異即非共振の観念である(『死んだ男』)。

ロレンスのコスモスの思想もそういうものだろうし、最晩年の『黙示録論』も、-1を否定して、+1を説いていると言えよう。

思えば、ロレンスには、父権的意識が強いのである。否、母権的意識である。これは、-i*(-i)⇒-1であろう。

ロレンスの言う「力」とは、近代合理主義への反動であろう。だから、等価になってしまうのだろう。

ちょうど、ロマン主義的反動である。

イギリス・ロマン主義の詩人ワーズワースは、underpower下部の力を説いたが、同じであろう。

身体性の反動である。

そう、現代日本の問題はこれであろう。身体の反動である。小泉にしろ、石原にしろ、東国原にしろ、身体性の反動だと思う。

主人への反抗なのである。叛乱なのである。反逆なのである。一種左翼的なのである。

非合理主義なのである。

生の哲学である。

ハイデガー哲学である。

しかし、これは、同時に、i*-(-i)⇒-1でもあろう。

とにかく、連続的同一性主義である。

エネルゲイアというよりは、フォースである。

物質的暴力である。

現代日本の場合、近代主義への反動としての倒錯があると思う。戦後を否定するのは、ある意味では正しいが、それが、反動となり、極端となり、同一になっているのである。

やはり、-i*(-i)⇒-1であろう。

だから、全体主義・ファシズムなのである。

欠落しているのは、差異共振性である。

メディア・ポイントの明晰判明な知性である。

メディア・ポイントの叡知である。

メディア・ポイント十字架の叡知である。

2007年03月15日 (06:14)

地霊spirit of placeについて:m(ic)*(-ic)=hν⇒+1・E

D.H.ロレンスが言う、一見非合理な観念、地霊(土地の精神)spirit of placeとは何か。古くは、genius lociと言われた。

E=mc^2=hν

の視点を取り入れたい。

あるいは、m(ic)*(-ic)=hν⇒+1・E

の視点である。

土地は、質量mをもつ。そして、物質エネルギーないし実数エネルギー+1・Eをもつ。

これでは、地霊の合理的説明はできない。しかし、虚数エネルギーに注目すれば、m(ic)*(-ic)の超越エネルギーないし振動ν=(ic)*(-ic)m/hがあるだろう。

これが、端的に、地霊ではないだろうか。

つまり、土地自体にも、メディア・ポイントがあり、そこにおいて、超越界が浸透していて、虚数エネルギーないし超越エネルギーが発動しているのではないだろうか。

そうすると、単に、光だけでなく、「物質」一般も、虚数エネルギー又は超越エネルギーを発していることになるだろう。

しかし、これは、公式から光に関わるエネルギー(エネルゲイア)である。

そう、「気」のエネルギーは、この一様相ではないだろうか。

聖地と呼ばれる場所は、地霊ないし超越エネルギー(超越光エネルギー)が強力な場所なのではないのか。

おそらく、これは、ある種の金属の分布とも関係するだろう。

空海が地質的知識をもっていたのは、地霊と金属との関係に拠るものではないだろうか。

参考:

《泰の始皇帝の命を受けた徐福は、錬丹術の専門家だった。日本には錬丹術、修験道、陰陽道すべてに通じた一人の天才がいた。真言密教の開祖、弘法大師空海。

 その空海も、このラインの中に見え隠れしている。

 吉野の近くには丹生川神社があるが、高野山からこの吉野のあたりは不老不死の妙薬の原料となる「丹」、水銀の鉱脈があり、やはり不老不死を求めていた空海は、この地に目をつけた。そして、その中心である高野山を丹生津姫命から借用するとして手に入れ、真言密教の中心地とする。

 錬丹術の「丹」はまさに水銀のことで、徐福も良質な水銀産地を探し求めていた。》

不老不死が繋ぐもの
http://www.ley-line.net/wakasa/wakasa04.html


《吉野の近くには丹生川神社があり、高野山からこの吉野のあたりは「丹」、水銀の鉱脈がありました。空海は、中国で密教以外に土木、建築等々をも勉強し、日本の土木工学に大きな影響を残したことでも有名で、彼が水脈や鉱物資源について学びとったことは想像できます。そのような知識をもった空海はこの地を見逃すないはずがないと思われます。やがて、その中心である高野山を朝廷から手に入れ、真言密教の中心地としたと考えても良いようです。

 熊野、吉野、明日香から平安京にかけて都や天皇陵が並んでいるいるには地理的な偶然かもしれないが、そのことよりも仏教にとって水銀の持つ意味が、重要になってくるのです。

 今は水銀は危険な薬品として使われなくなったが、古くから「赤チン」などや、農薬、水虫薬、遊女達の避妊薬・おしろいなど水銀物が用いられていました。仏教の世界においても、朱色のもとは硫化水銀であり、塗金の時には水銀を混ぜ塗装する要領で金装飾を可能としてきたのです。また、神仙界においては、不老不死の薬と考えられたとされています。

また、空海自身も後に東大寺の別当を任じられたのです。

注:丹生明神   天照大神の妹神の稚日女尊(ワカヒルメノミコト)は「ミズカネ(水銀)の女神」です。その女神の下、この一族は(豪族というより移動し水銀を求め移動していた)、魏志倭人伝で有名な伊都国では八代や佐賀の嬉野の水銀を抑え、勢力を得ていた。そして、彼らは中央構造線にそって九州・四国・紀伊を縦断していったとされている。また、別の同じ先祖をもつ一派が日本海にそって北上したと考えられています。》

弘法大師空海の謎

http://www.geocities.jp/hntmb836/shingon.htm



さて、物質一般が以上のように仮説すると、超越的物質となるだろう。超物質的物質である。


例えば、芭蕉の有名な「閑さや岩にしみ入蝉の声」であるが、

http://www.bashouan.com/psBashouYD.htm

これも、岩の超越的物質としての超越エネルギーと芭蕉の精神が共振しているというように言えるように思うのである。


そう、芭蕉のコスモス的感覚はこの超越的エネルギーに共振する感覚・知覚・思考のことではないのか。これは、また、冒頭のD.H.ロレンスと共通のものと考えられるのである。


宮沢賢治も正にこのタイプではないか。


霊・スピリットも超越エネルギーのことではないだろうか。


PS理論からは、このエネルギーは、共振エネルギーである。


しかし、悪霊や悪魔と宗教・民俗文化で呼ばれるものがあるが、これは何か。


共振エネルギーは善である。だから、悪は、非共振的なものである。

唯物論/近代合理主義が非共振的である。

つまり、超越的現象ないし超越的物質である自然・宇宙・人間において、超越性を阻害する「もの」が悪霊・悪魔であると考えられるだろう。

換言すると、本来、開放系のメディア・ポイントを閉鎖する「もの」が悪霊・悪魔であると言えよう。

メディア・ポイントを閉鎖・隠蔽するのは、連続的同一性志向である。自我同一性志向である。そう、ここに自然と人間の異同があるだろう。おそらく、自然には、一般に、この自我同一性志向はないと思う。

つまり、自然とは、本来、超越的自然、超越的現象なのである。

しかし、人間の主観・認識において、反超越的な連続的同一性が発生すると考えられよう。

この問題については以前、たいへん悩んだが、思うに、身体の虚弱性と脳神経の発達との矛盾が新生児にはあり、そのため、内界知覚に対して、外界知覚に対して、人間は、虚弱性をもつと考えられよう。そのため、主観的知性は、外的他者を主観的同一性化するのではないだろうか。

つまり、外的他者は、主観的知覚にとり、恐怖や不安や苦の対象となるのである。それを克服するために、主観は他者を同一性化するのではないのか。

内面では、i*(-i)⇒+1が存するだろう。しかし、外面においては、
i*-(-i)⇒-1となるのではないのか。

即ち、他者を否定して、連続的に同一性化するのである。このための道具・ツールが、とりわけ、言語である。

「わたし」にとり、本来、特異的対象であるXが、言語化されて、一般的な言語、例えば、「蛇」となる。

しかし、本来、特異な対象Xは、「蛇」ではない。少なくとも、特異な「蛇」であり、一般的な「蛇」ではない。唯名論的X、即ち、haecceity(これ性)である。

人間の認識と身体との齟齬が、このような傾斜を生んで知性を生むようになったと言えよう。

しかし、ここでは正確になる必要がある。

内的認識は、i*(-i)⇒+1の自己認識である。これが、言わば、無意識として人間には本来あると思われる。

(今、思ったが、結局、人間の暴力・狂気・無明は、この身体の虚弱さの反動から生じるのだろう。近代主義がこの帰結である。)

無意識の叡知と外的意識の連続的同一性(連一性)の謬見の二重性が人間にはあるのである。

簡明にするために、潜在的叡知(自己)と顕在的連続知(自我・無知・無明)としよう。あるいは、潜在知と顕在知である。

人間の先天的差異から、後者へと傾斜する。しかしながら、物質主義は発達しない場合は、両者のバランスがとれている。というか。人間は、本来の潜在知に基づいて、叡知の生活・社会を形成すると思うのである。物質的には利便性が欠けてはいるが、叡知が社会を支配しているのである。これは、母権制社会(神話では、女神中心の神話)であると思えるのである。

さて、ここから、問題の悪霊・悪魔を考えると、これは、男性の心性に存するのではないかと思える。

何故なら、男児の方が、女児よりも、心性が連続的同一性(脳で言えば、左脳)に傾斜していると考えられるからである。女性は、左脳と右脳との連結が強いのである。右脳とは、端的に、潜在知であろう。よく、右脳は、イメージや感情の認識を司ると言われるが、これは、ヴィジョン認識を意味しているのではないのか。ヴィジョン認識とは、端的に、イデア認識だと思うのである。叡知認識である。想像力は、やはり、ここに存するだろう。

女性の方が本来、叡知的なのである。古代ギリシア、アテネの守護神は、処女神アテナイ(アポロ神殿に関係する。つまり、汝自身を知れである。)

思うに、今日、女性が感情的と言われるのは、男性の連続的同一性意識の影響を被って、この叡知脳をうまく意識化できていないためではないだろうか。そう。トランス・モダンとは、女性の叡知の復活をも意味するだろう。

さて、そうすると、悪霊や悪魔の起源は、男性の心性にあるらしいことがわかる。男性の心の虚弱性が連続的同一性へと傾斜して、悪霊や悪魔を生むと言えよう。

ここで、イシス・オシリス神話を想起すると、イシスが叡知であり、オシリスが叡知認識であり、オシリスの弟のセトは悪霊・悪魔であろう。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%88

そう、イシスがi*(-i)であり、オシリスが⇒+1で、セトが⇒-1であろう。だから、イシスは元叡知であり、オシリスが叡知であろう。そして、セトが、無明である。

今の試論では、PS理論によると、自然とは、本来、超越的現象なのである。森羅万象、超越的現象となるのである。ただし、人間の虚弱な認識において、連続的同一性の無明が支配して、物質主義となり、人類や地球が危機に瀕すると言えよう。

そう、ここで、物質科学・技術都市文明の問題がある。

自然は、超越エネルギーを発動しているのである。また、確かに、物質も超越的エネルギーを発しているだろう。

しかし、自然的現象物と人工的現象物は違いがあるのではないだろうか。

単に物質的化合物は、非共振的視点から結合させているので、共振エネルギー、超越エネルギーが不足するのではないだろうか。

化成肥料と有機肥料の違いもこの辺にあるのではないだろうか。

また、食品も、ハイブリッドな食品は、「元気」が足りないのではないだろうか。

では、最後に光について再考しよう。

先に、光の特異性は、その超越性と同一性の併存にあると言ったが、以上の考察から、現象一般がそのようなものであることになったので、光の特異性はそのようなものであるとは言えなくなった。

では、光の特異性は何だろうか。

それは、目に見える超越的エネルギーということではないだろうか。確かに、岩から超越エネルギーは発しているだろう。しかし、それは、目には見えないのである。しかしながら、光は可視の超越エネルギーである。極言すると、光は、可視のイデア界である。

お天道様である。天照大神である。

では、ついでに言うと、物質と現象の違いの問題である。物質は、実エネルギー、Eを問題にするが、超越的物質としては、m(ic)*(-ic)の超越エネルギーをもつのである。

言い換えると、差異共振シナジー・エネルギーである

問題は、このエネルギーを物質的にのみ捉えているのではないだろうか。思うに、現象界における多様な、差異共振シナジー・エネルギーをさらに、共振連結すれば、新たな創造が生まれるだろう。

正に、シナジーである。

これは、単に、物質だけでなく、精神においてそうなのである。

そして、精神と物質の両面においてもそうなのである。

いわゆる奇跡とは、総合的な共振結合から生まれるだろう。

思うに、PS理論は、メディア・ポイントのもつ潜在的共振空間において、総合的に、連結する理論であると言えよう。

本当に、最後に、現代日本人の問題を言うと、父権的な虚弱性による近代主義・唯物論・連続的同一性主義が全面に出て、つまり、悪霊・悪魔が主導的になり、超越性・差異共振シナジー・創造性を否定しているのである。

だから、亡国ではある。

戦後のつけである。

とまれ、メディア・ポイントを発見する必要があるのである。

教養(自己認識の叡知)とは本来そのためにあったと言えようが、それが、今や完全に瓦解した。

物質主義の虜になった人間には、何を言っているのか見当もつかないだろう。

内的身体にメディア・ポイントの種子があると言えよう。ここは、思うに、内在的超越界である。ここから、内在的光が発生するのではないだろうか。夢のヴィジョンは、ここから生まれると思うのである。

思うに、夢は、メディア・ポイントを介して、超越界に触れているので、超越界の叡知を触れることができるように思うのである。

また、睡眠において、超越界の超越エネルギーに触れるので、元気回復となるのではないだろうか。

言い換えると、根源的な自己意識ないし元意識に回帰するのではないのだろうか。

あるいは、神仏の様相に回帰しているのである。

そう、死後は、人間は、ここに回帰すると言えよう。

i*(-i)の様相に回帰すると思うのである。

問題は、この元自己意識が複数であるか否かである。

私は、不連続的差異論の検討の時期に、多者という言葉を夢で得た記憶がある。つまり、一者ではなく、多者があるということである。

i*(-i)をIとすると、I1/I2/I3/I4/I5・・・/Inがあるのではないのかということである。

これは、差異即非の共立様相である。

例えば、「わたし」は、Ipである。

「あなた」は、Iqである。

すると、I1*I2*I3*I4*I5*・・・*In

ではないだろうか。差異即非の即非様相である。

今は、ここで留めたい。

2007年01月02日 (21:58)

精神と物質 5:光、認識、現象・物質化とは何か:その2:プラトニック・シナジー・サイエンスの成立

ここでは、主に、本テーマの光について検討したい。
 先の考察(精神と物質 4)から、連続エネルギーが連続的認識と物質化をもたらすと言えるだろう。人間以外の存在は、差異共振シナジー性が未分化(未成熟)であると仮説したのである。
 では、光をどう把捉したらいいだろうか。ここで、一つの作業仮説を立てて思考実験したい。光は、連続化しないという作業仮説である。つまり、光は、差異共振シナジー様相のまま、剥き出しであるということである。つまり、光においては、共振空間、虚次元空間そのままであるということである。つまり、永遠空間のままであるということである。ここには、本来、現象界の連続時空間の尺度は適用できないはずである。しかし、人間の知覚・認識・観測装置は、連続的同一性形式である(カントの超越論的形式)。ここに光を観測するときの根本・原理的矛盾があると言えるだろう。無限速度であるものを、有限連続時空間形式・尺度で観測するとは、完全な齟齬があるのである。これは、結局、結局、唯物科学の問題・限界である。
 とまれ、光の観測に関する脱近代科学(トランス・モダン・サイエンス)の第一歩は、当然、アインシュタインの相対性理論である。光速度一定とは、結局、有限時空連続態の固定枠から見た無限速度の光の速度ではないのか。マイケルソン&モーレーの実験は、エーテルを否定したのである。つまり、連続的媒体の否定である。とりあえず、そういうこととしよう。
 さらに、量子力学になるとこのことがさらに明瞭になると考えられるのである。光は差異共振シナジー様相ないし事象である(作業仮説)。ここには、差異とその零度共振シナジーが成立しているのである。それを、連続的時空間的に観測すると、粒子と波動の二重性をもつということになるのである。あるいは、両者の相補性を説くのである。また、非局所性が成立するのである。
 粒子について言えば、それは、唯物的アトム主義から発生していると言えるだろう。そして、波動は、粒子の振動ということで考えているのだろう。つまり、唯物科学観に拠るのである。しかるに、差異共振シナジー様相が量子の真相であると作業仮説から敷延できるのである。ここは、きわめて重要なポイントで、両者を絶対に混同してはならないことをいくら強調しても強調し過ぎることはないだろう。差異共振シナジー様相とはイデア様相であり、量子とは、それを物質科学から観測した像、連続的同一性像に過ぎないということである。
 ということで、差異共振シナジー様相i*(-i)における差異を物質化して、粒子ないし微粒子としているのであり、シナジー様相を物質化して、波動として観測していると考えられるのである。しかし、差異共振シナジー様相であるから、差異とシナジー相は分離できないない不可分なものなのである。即非態である。相補性とは、この即非態を物質科学的に説明する概念であると言えるだろう。また、非局所性であるが、それは、当然ながら、差異共振シナジー様相の無限空間を指していると考えられるのである。
 以上簡単であるが、ポスト唯物科学、ポスト相対性理論、ポスト量子力学、トランス・モダン・サイエンスとして、プラトニック・シナジー・サイエンスPlatonic Synergy Scienceが成立すると考えられるのである。
 そう、私が先に、心眼で捉えた光は、即非態であると言ったが、それが、この論考により、解明されたと言えよう。光は、即非態・即非相として剥き出しであるということである。太陽光即お天道様即大日如来即阿弥陀如来即天照即アポロ即アフラ・マズダである。
 では、ニーチェが唱えたディオニュソスとアポロとはどう捉えたらいいのだろうか。そう、同じものであろう。差異共振シナジーによる差異的同一性がアポロで、シナジー様態がディオニュソスだろう。そして、これは、両者でコスモスである。そう、D.H.ロレンス等、多くの作家、芸術家、詩人が説いたコスモスとは、このアポロ且つディオニュソスとしての差異共振シナジー様相のことであろう。光の「浄土」である。古代人、中世人、ルネサンス人等は、まったく正しかったのである。近代人が狂っているのである。

2007年01月02日 (20:40)

精神と物質 4:光、認識、現象・物質化とは何か

この問題は、プラトニック・シナジー理論の根幹の一つであろう。おそらく、これから、思考実験が何度も繰り返されることだろうが、近代的自我の検討の反復のようなことはないことを望んでいる(おそらく、そんなことはないだろう。近代的自我、近代合理主義の解明は、もっとも難しかったものであると考えられる。)
 先ず、認識と連続的同一性と物質化について整理しよう。私の仮説は、認識即存在である。志向性が存在を形成するというものである。これは、フッサール現象学の中に、ハイデガーの存在論を包摂させていると言えるだろう。
 だから、連続的同一性志向性は、連続的現象・存在の形成である。この連続現象体は、当然、心身をもっている。つまり、知覚をもち、身体をもっている。これは、当然、人間だけでなく、動物・植物にも当てはまるし、また、奇妙に、怪しく感じられるかもしれないが、鉱物・無機物にも、当てはまると思える。つまり、鉱物・無機物にも、なんらかの知覚と身体を想定するのである。(これについては、別のところで検討したい。)
 シロクマは、シロクマの知覚をもち、身体をもっているし、スズメは、スズメのそれらをもっている。これは、異論がないだろう。これらの知覚/身体は、連続的知覚/身体と呼ぶことができるだろう。
 問題は、即非態とこの連続的知覚/身体との関係である。これまで、人間以外の動物・植物(・鉱物)には、即非態・差異共振シナジー態DRSを認めなかったが、ここで、考え直したい。一般的に、動物には、「母性本能」が強いと言えるだろうし、正しくは、言わば、「親(おや)性本能」・「母父性本能?」が強いのだろう。これをどう見るかである。これは、差異共振シナジー動態ではないのか。今、言えることは、それは、差異共振シナジー動態に何らかの関係をもっているということであろう。しかし、そのものとは言えないだろう。何故なら、差異共振シナジー様相とは、認識、自己認識を意味するからである。動物には、自己認識はなく、ただ、本能として、差異共振シナジー様相に似た結果が発現するということのように思えるのである。そう、思うに、動物の場合は、差異共振シナジー様相まではいかなくて、主客と他者とが未分化のように考えられるのである。猫は、主客と他者とが未分化であると思うのである。だから、動物には、差異共振シナジー様相は存在しないと考えることができるだろう。ただ、未分化的な相関的な様相はあるとは言えるのである。(思うに、ペットを飼うというのは、疑似差異共振シナジー様態を味わっているのではないだろうか。)
 では、この未分化な主客連続化の様態をどう定式化するのか。内在的連続化の記号を~とすれば、i~(-i)と記述できるのではないだろうか。暫定的にそうしておきたい。
 では、人間の場合について、本テーマを追求して行こう。問題は、即非態と連続的同一性態との関係構造である。(明瞭にするため、即非態を共振態ないしシナジー態、そして、連続的同一性態を連続態ないし同一性態と呼んでもいいだろう。態の替わりに、相でもいいだろう。共振相・シナジー相、連続相・同一性相である。)
 人間が出生して、現象・物質化するとき、共振相が、連続相に転化する。虚次元・虚軸から実次元・実軸へと変換する。このとき、帰結的には(終局態・エンテレケイア)、連続態・同一性態としての人間が発生する。しかし、実際のところ、共振相が完全に連続相になったのではなくて、生成過程にあると考えられるのである。つまり、連続相への生成過程としての人間整形である。端的に言えば、言語獲得である。つまり、出生後、新生児は、言葉を憶えることになるのである。勿論、それ以前に、身体知覚経験が研ぎ澄まされるのであるが。
 結局、出生後、連続相への生成過程であるから、共振相/連続相の二重構成をもつと言えよう。あるいは、共振相⇒連続相のプロセスである。これは、連続的同一性志向性と呼んだものである。そして、成長し、言語獲得するときに、このプロセスは、共振相を否定して、連続相中心・優勢になると考えられるのである。つまり、主体/他者の関係で言うと、主体が他者を連続化して、他者を支配しようとする傾斜である。そして、これが、自我形成である。そして、この帰結として近代的自我が成立する。
 問題は、この連続相形成過程における共振相の意味合いである。当然、連続相形成過程においては、共振相は、連続エネルギーへと転換している。つまり、共振相潜在態(デュナミス)が連続相現実態(エネルゲイア)へと転換しているのである。だから、共振相自体としては、認識されずに、連続相・同一性相認識・自我認識を形成されると言える。
 では、問題は、共振相は、連続エネルギーへの転換で消滅する、又は、消費されるのかということである。ここで、作業仮説するのであるが、共振相は原則として零度であるから、連続エネルギーをプラスのエネルギーとすると、保存則的には、マイナスのエネルギーが作動するはずである。これは、比喩的には、潮の満ち引きのようなものであろう。つまり、連続相化に対して、脱連続相化のエネルギーが作用すると思われるのである。図式化すれば、
主体→他者、i→-i(→は連続相化)から、主体←他者、i←-iへの「相転移」ではないだろうか。これは、これまで、他者の同一性化と見たが、そうではなくて、共振相への回帰と考えられるのである。(先に、優越/劣等の二項対立について述べたが、それは、連続相化で十分説明がつくだろう。即ち、主体→他者の連続相化とは、他者を同一性化することであり、そこには、他者の力を受容するので、感受性的には、優劣感情が発生すると言えるだろう。)つまり、連続エネルギーのカウンターとして、脱連続・共振エネルギーが発動するのではないかと考えられるのである。これを仮説として、検討を進めよう。
 だから、結局、人間の認識においては、連続相・同一性認識と共振相・差異認識が併存することになると言えよう。そう、より正しく言えば、自然発生的には、両者が未分化として、あるいは、連続態として、併存している、ないし、混合していると考えられるのである。なぜ、未分化・連続態かと言うと、脱連続・共振エネルギー(差異エネルギー)とは、連続相・同一性認識の内に、内部に、発生するからだと考えられるのである。ここは、正に、不連続的差異論のブレークスルーの領域である。連続相・同一性相認識において、脱連続・共振相・差異認識が発生するので、両者が、未分化・連続化しているのである。言い換えると、両者が弁証法関係・否定関係にあるのである。そして、フランスのポスト・モダン、乃至、ポスト構造主義とは、この両者の未分化・連続態から脱出できなかったと言えるのである(後期デリダは除く)。つまり、差異の連続化、連続的差異=微分をここに仮説してしまうのである。また、大澤真幸氏のアイロニカルな没入もこの未分化・連続態で説明がつくのである。ここにあるのは、反動形式なのである。連続・同一性相という構造の彼岸は、差異ではなくて、未分化・混淆界であったのである。即ち、メディア/現象境界である。これが、ポスト・モダンの領域なのである。
 さて、ということで、脱連続・共振エネルギーが発動するが、それが、連続相・同一性相認識と未分化・連続態を形成するというポスト・モダンの様相を確認した。ここで、先に進む前に、近代的自我の反動様態について触れておくと、それは、ポスト・モダン様態になったときの反動態であると考えられるのである。連続相・同一性相・自我認識が中心化して、脱連続・共振エネルギーを否定・排除・隠蔽するのである。これは、暴力且つ狂気なのである。精神病化である。今日の自己愛性人格障害は、これで説明がつくだろうし、また、パラノイア化や統合失調症(「精神分裂症」)もこれで、おおよそ、説明がつくだろう。
 ここで、不連続的差異論のブレークスルーに関係するが、それは、以上の未分化・連続態を切断して、共振エネルギーを不連続化し、独立させたのである。連続相・同一性相とは不連続な、差異共振シナジー様相、差異共振シナジー相認識、即非認識、共振認識を確認したのである。これはどういう力学なのだろうか。完全な脱連続化である。そう、内在的超越化である。虚次元・虚空間化である。そして、それを明日野氏は、卓越的に、i*(-i)⇒+1と簡潔簡明に数式化したのである。これは、差異的同一性の公式とも言えるのである。そして、これこそ、差異共振シナジー様相と連続的同一性様態との共生・棲み分けである。ここには、差異共振シナジー的合理性、連続的同一性合理性の共創・共存があるのである。共生・共立である。簡単に言えば、差異理性と同一性理性との不連続な共立である。(カントは、この内在的超越的差異理性を捉えることができずに、物自体としたと言えよう。あるいは、実践理性としたのである。フッサールはこれを志向性や間主観性として把捉したと言えよう。)
 では、これはいったい何を意味するのか。零度への回帰、永遠回帰、内在的超越界への回帰とは何を意味するのか。結果的には、連続化の終焉である。自我、近代的自我の終焉である。近代合理主義の終焉である。モダンの終焉である。ポスト・モダンの超克でもあるトランス・モダンの開始である。人類のリセットである。これまで、宗教や神秘主義の領域であったものが、合理化されたのである。というか、宗教や神秘主義の純粋化と言ってもいいのである。これまで、それらは、連続態によって、反動化していたのであるから、プラトニック・シナジー理論によって、純粋化したのである。超宗教・超神秘主義でもあるのである。(これは、諸宗教の反動暴力性を解除して、共生的宗教へと変容させると考えられるのである。)
 そう、これは、やはり、一つのサイクルの終焉と見るべきではないのか。即非態から連続エネルギーが発生して、また、脱連続エネルギーが発生する。その終局が、零度への回帰である。私は、これをずっと西洋文明の終焉と見ているのである。あるいは、一神教・父権的文明の終焉と見ているのである。そういうことだと思う。エネルギー力学からそう言えると思うのである。
 さて、序論的部分を含み説明が長くなったので、本テーマの一つの光については別稿で論じたい。
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