2008年08月31日 (13:01)

無知(愚)の知と「汝自身を知れ」:何故、己を知るのが難しいのか:自我優越の「天」と身体の「地」の結婚

「汝自身を知れ」、これは、古代ギリシアの有名な、デルフォイのアポロ神殿での、神託である。
 以下の参考資料がとても役に立つ。今は簡単に言うが、私の理解は、「汝自身」とは、自分の諸々の「欲望」ではないかと思う。知の欲望があり、富の欲望があり、精神的欲望があり、身体的欲望があり、社会・社交的欲望があり、等々である。
 思うに、個の諸欲望を妨げているのは、見栄や虚栄心である。というか、ある方向に傾斜した欲望が、他の欲望を阻害するようになると思う。ある方向に傾斜した欲望とは端的に執着、我執であり、妄念的になりうるのである。
 仏教は、これからの脱却(解脱)を、説いているが、これが、実際は実に困難である。ある方向に傾斜した欲望、執念は、他の欲望を圧倒するのである。執念の一番は自我優越傾斜ではないだろうか。他者よりも優越であらんとする欲望、自我優越欲望が、最大のものではないだろうか。
 例えば、出世し高い地位に就きたいとか、人に称賛されたいとか、人にはできないことをしたいとか、その他様々な自我優越欲望があるだろう。
 もっとも、これはこれで意味があることである。ただ、それが、他の欲望を圧倒すると、バランスが崩れて、自己欲望に囚われて、自己に対して無知(愚・無明)となるのである。つまり、自己無知とは、囚われの状態を意味しよう。これは、ある欲望が自己を支配しているのであり、自己はその被束縛状態が認識できないのである。
 ある一つの自我優越志向欲望が他の諸欲望を支配しているので、自己盲目・自己無知となっているのである。資本主義ならば、交換価値という利益への欲望が至上である。これは、また、同一性主義そのものである。
 では、この自我優越欲望=自己無知に対して、どう対処し、自己知を獲得できるのだろうか。確かに、無知の知(愚闇の知)は一つのポイントではあるが、積極的ではないと思う。
 思うに、今は、暫定的に言うが、一つの方法は、他者の気持ち・思い・心を汲むことではないだろうか。いわば、ボーモン夫人の「美女と野獣」の教訓のようなものではないか。外見に囚われて、心を尊重しないときが、自己無知ではないのか。
 また、端的な自己認識に関してであるが、自我が否定するものは、実は、自我が望んでいるものの可能性があることである。諸欲望のぶつかり合いがあるのであり、そこから、ヒエラルキーが生じて、ある欲望を他の欲望が否定するのである。つまり、二項対立的価値観が存しているという問題である。結局、多元多様な欲望を認めるべきだと思う。そう、自我優越欲望とは端的に、二項対立的価値観である。自己同一性を、他者よりも優越化しようとする発想である。
 ここにおいて、知と身体との「結婚」が可能になるだろう。「天」と「地」の「結婚」である。差異共鳴である。西洋文明は「天」を中心化して、「地」を貶めてきたのである。封建主義、近代主義がそうである。
 後でプラトンの「コーラ」について検討したいが、思うに、「コーラ」は、「地」ではないかと直感するのである。PS理論では、-iである。「天」が+iであるから、「地」は-iとなるのである。父権制が+iで母権制が-iではないのか。
 もっとも、この点は微妙なのである。今の私の考えでは、負父権制とは、「天」へ傾斜しているのであるが、母権制とは、「天」と「地」との共鳴性ではないかと思っている。【これは、またジェンダー論、女性の脳論に関係する。例えば、男性の脳は左脳傾斜していて、同一性主義であるが、女性の脳は、両脳の共鳴性が主導的ではないのかということである。しかし、現代の女性は男性教育つまり左脳教育を受けているので、本来的な両脳の共振文化=母権文化を喪失しているのではないか。】
 この視点から見ると、「コーラ」は、「天」と「地」との共鳴性ということになる。どちらが本当なのか。「地」なのか、「天」と「地」との共鳴なのか。しかしながら、これは、ある意味で愚問ではないか。「地」は「天」という同一性傾斜性にとっては、差異である。そして、本源的には、「天」と「地」とは共鳴相にあるのである。だから、「地」という差異は、「地」との共鳴相を本来意味するのである。
 この点から見ると、「コーラ」とは、「地」であるし、「天」と「地」との共鳴相であると言えるように思うのである。差異は差異共鳴性なのである。【これは、大女神と大地母神との関係にもあてはまるだろう。大女神は、言わば、「天」と「地」との共鳴神であり、大地母神は当然、「地」の神である。しかしながら、両者は一体であると見るのが正しいだろう。大地の女神とは、「天」と「地」の共鳴原神である。端的に、コスモスの女神である。】
 今はここで留める。


参考:

「汝自身を知れ・・・汝自身を知れ・・・」そう、心の中で何度も反芻(はんすう)した・・・。

3ヶ月ほど考え続けた挙げ句、ソクラテスは、このように考えるようになった。
「余りにも近くにあるものに対して、意識を留めることがなかった。そこから自分の感覚は無感覚と無意識に支配されていたのである」

さてこの自分の意識の状態を知った時、自分が自分の主(あるじ)になっていない現実をつくづくと思い知らされるソクラテスであった。それからソクラテスは、無感覚と無意識を排除し、自分の心の状態を目覚めた状態にしておくことを強く意識するようになった。

http://www.st.rim.or.jp/~success/sokuratesu_ye.html


「汝自身を知れ」という言葉に殉教した男

ソクラテス異聞

2007年08月13日 (22:29)

三島由紀夫の『鏡子の家』:三島の毒を通した《光》:Media Pointの太極性

今日、三島由紀夫の『鏡子の家』
http://www.mishimayukio.jp/sakuhin36_2.html#kyoko
を買った。税込みで780円。買う前に、店内で冒頭から立ち読みしたが、引き込まれていた。決して、三島由紀夫の文体はうまくはない。文体なら、太宰治の方が、優れた日本語を創造していると思う。では、何故、三島由紀夫を読みたくなったのか。それは、彼の文章にある毒に惹かれるからだと思う。それは、悪意であり、そして、結局はルサンチマンだと思う。簡潔に言えば、生存へのルサンチマンである。生への恨みが三島にはあると思う。これは、彼の文章を読む人ならば、すぐわかるだろう。そう、アンチ・ヒューマニズムである。政治的には、戦後民主主義への心底の憎悪がある。思想的には、当然、ニヒリズムである。
 ニーチェは積極的ニヒリズムを説いたが、三島には積極性はない。無に対する異様な郷愁をもっていたと思う。ある意味で、究極の仏教徒ではなかったろうか。仏陀、釈迦牟尼シャカムニは、輪廻する世界から解脱を説いたのである。それは、一種、肯定的ニヒリズムである。こういうと、ニーチェとの違いがわからなくなるが、ニーチェは地上の生を求めていたのであるが、仏陀や三島は、言うならば、死の生を求めていたのである。
 ここで、よく言われるが、西洋と東洋の根本的相違が現れているだろう。生の西洋であり、死の東洋である。前者は生死であり、後者は死生である。(思うに、アルベール・カミュは、珍しく、東洋的ではないだろうか。)ここで、僭越ながら、私に関して言うと、やはり、東洋側である。確かに、死は恐く、生への執着はないことはないが、通奏低音として、死への憧憬があるのではないだろうか。
 結局は、死と生との「絶対矛盾的自己同一」が基本ではないのだろうか。そして、これが本稿のポイントにつながるのである。私が今日、思いついたのは、三島由紀夫の生への否定・死の肯定から、根源的には、PS理論で言えば、Media Pointにおいて、生のエネルギーと死のエネルギー、言い換えると、正のエネルギーと負のエネルギーが拮抗して、最初は正のエネルギーが現象化するが、それが消滅すると、死のエネルギー、負のエネルギーが発動・発現するのではないのかということである。これは、考えれば、以前述べたことではあるが、三島由紀夫に関連しては、考えなかったことであるし、また、Media Pointについては、以前は、明確に提起されていなかったので、今日、ここで提起するのは、有意義であると考えられる。
 死のエネルギー、乃至は、負のエネルギーと言うと、すぐに、フロイトの死の本能(死の欲動)を想起するのである。それは、破壊的な本能である。フロイトは、これで、それまでのエロス中心の自説の変更を余儀なくされたのである。つまり、人間の本能の中心はエロス(フロイトの場合は、正しくは、近親相姦欲望である)であるとした自説を翻して、タナトス(死の本能)が人間の本能の基盤にあるとしたのである。これは、いわば、フロイトからアンチ・フロイトへの転向と言っていいくらいである。ポスト・フロイトになったのである。これは、第1次世界大戦の恐ろしい経験をした患者が決して生(エロス)を求めず、破壊的な死を求めたことから、理論化したことである。また、死の本能は、フロイトの孫による糸巻き遊びにも見られるとフロイトは説いたのである。言語形成に、死の本能=破壊本能が主導的であると見たのである。
 では、生のエネルギーと死のエネルギーの一種の対極性という考えとフロイトの死の本能説は共通しているのだろうか。この問いはここまま置いておき、PS理論から展開したい。(あるいは、読者自身に考えていただこうか。)
 PS理論では、イデア界の差異即非共振性があり、これが連続化して、Media Pointに変換する。もっとも、ここでは、差異の不連続性は保持されている。この差異即非の不連続性が最初に存することに注意しなくてはならない。不連続性が自身を保持しつつも、連続化するのである。不連続性と連続性の即非様態と言えるだろう。そして、この連続性が展開して同一性を形成して、現象世界を生起するのである。(思うに、イデア界からのなんらかの回転で、Media Poitが形成され、さらになんらかの回転で、現象界が出現するのではないだろうか。以前、二回の1/4回転が必要だと述べたことがある。この点は新たに考えたい。)
 つまり、PS理論の視点では、不連続性(イデア界)⇒不連続性/連続性(Media Point)⇒連続的同一性(現象界)へと変換すると見るのである。これは、言い換えれば、死⇒死/生⇒生ということになるだろう。
 この視点から見ると、生のエネルギーとは、Media Pointから現象を形成する力である。そして、対極になる死のエネルギーは、逆方向のエネルギーであると言えよう。ここで、図式を変えると、死←死/生←生となる。
 時間の不可逆性があるが、それは、生・生成から死・消滅へと不可逆に流れるということである。ここに、形成するエネルギー、そして、破壊するエネルギーを見たい。生を形成する力を構造エネルギーとすれば、死をもたらす破壊する力は、脱構造エネルギーとなるのではないだろうか。
 思うに、《自然》の力は、生の構造エネルギーから死の脱構造エネルギーへと展開するようになっているのではないのか。私は今のところは、Media Pointの対極性として考えているのであるが。思うに、Media Pointから同一性が形成されるエネルギーが発動し、構造化が済むと、Media Pointの力は、今度は、同一性を破壊する脱構造エネルギーへと転換する志向をもっているのではないのか。思うに、以前、Kaisetsu氏が、エネルギー保存則から、プラス・エネルギーとマイナス・エネルギーで±ゼロとなることを述べていたのを想起する。
 ここで、直感から話すと、Media Pointにおいて、同一性志向性があるので、差異は連続的同一性化されるのである。そして、これが、現象化である。これは言語の発生ともつながることである。(だから、道具の発見ともつながるだろう。)しかし、差異が発動するときがあると思うのである。(このことは以前、繰り返し検討したことがあるが、うまくまとまらなかった。)思うに、連続的同一性形成へのエネルギー、あるいは、構造エネルギーがあり、それが消費されるときがくる。例えば、人間の成長を考えればいいだろう。若いときまでは、成長が盛んであり、心身の形成、とりわけ、身体の成長のためのエネルギーが主導的である。しかし、その後、成長エネルギー(ホルモンと関係するだろう)が無くなり、衰退するエネルギー(負のエネルギー)が作用するのではないだろうか。老化のエネルギーと言ってもいいだろう。
 このように具体性から、私の言いたい、生・正のエネルギーと死・負のエネルギーの対極性は考えられるのではないだろうか。もっとも、対極性というのは、少し言い足りない考え方ではある。そう、陰陽・太極性と呼んだ方がいいようだ。つまり、陽のエネルギーがあり、そして、陽が極まれば、陰に転ずということで、陰のエネルギーへと展開するということになる。だから、生・死/正・負エネルギーの太極性と呼ぼう。(やはり、回転と関係していると思う。後で、この点について考えたい。以前言及したことがあると思う。)
 構造エネルギーから脱構造エネルギーへの必然的な変換となる。差異論で言えば、同一性エネルギーから差異エネルギーへの変換である。前者は同一性形成エネルギー(近代合理主義がここに入る。近代科学や唯物論が入る)であるが、ここでは、差異が否定されるのである。つまり、差異への破壊エネルギーである。具体的には、環境破壊や戦争や諸々の犯罪を生むのである。そして、それがそれが衰退・消滅して、差異エネルギーが発動する。これは、差異を肯定するエネルギーで、差異共振エネルギーである。これは、同一性形成エネルギーによって否定・破壊されたものを修復するだろう。これは、実は創造エネルギーでもある。平和のエネルギーでもある。(これは、本来的な女性のエネルギーである。「喜劇」的なエネルギーでもある。喜劇とはこの場合、真正の意味の喜劇である。つまり、旧秩序→破壊・混沌→新秩序という図式をもつ文学が喜劇である。)
 では、このマイナス・エネルギー(脱構造エネルギー、死のエネルギー、差異のエネルギー)はどういう仕組みをもつのだろうか。つまり、Media Pointにおいて、どういう仕組みをもつのか。
 Media Pointは、死/生ないしは不連続性/連続性ないしは差異/同一性の空間である。つまり、死→生、不連続性→連続性、差異→同一性、脱構造→構造のエネルギーがプラス・エネルギーであるのに対して、死←生、不連続性←連続性、差異←同一性、脱構造←構造のエネルギーがマイナス・エネルギーであるということになるのではないだろうか。
 そうならば、マイナス・エネルギーはイデア界・虚界の性質をなんらか帯びていると言えるのではないだろうか。つまり、言い換えると、イデア界・虚界という根源界への回帰エネルギーではないだろうか。永遠回帰エネルギーではないだろうか。そうだろう。死のエネルギーなのだから、死=イデア界・虚界へと帰還しようとするエネルギーなのだと考えられる。
 ということで、冒頭の三島由紀夫に戻るのである。三島由紀夫のアンチ・ヒューマニズム、毒・悪意・生へのルサンチマンとは、死のエネルギーに拠るのであり、それが、極端・過激な形で、後年発現したということではないだろうか。確かに、極端である。
 おそらく、どこか間違っているのだろう。死のエネルギーを私は創造エネルギーであると言った。なぜなら、これは、差異共振エネルギーであるからである。だから、三島の場合は、差異エネルギーが、同一性への反動としての面が強かったと思うのである。自死した1970年昭和45年は、まだまだ、戦後の近代合理主義の主導的な時代、高度成長がまだ続いていた時代であったのだから。そう、戦後的近代主義への反動が三島の毒を造っているのだ。
 しかしながら、三島の毒には、真正の死のエネルギーがあって、それが、今日、必要なエネルギーなのである。永遠回帰のエネルギーである。仏陀・釈迦牟尼のエネルギーである。三島の毒を透過して見える死のエネルギー=創造エネルギーを評価すべきなのである。
 時代は、世界は、戦争や環境破壊や犯罪に満ち溢れている。それは、同一性エネルギー、構造エネルギーによるのである。ジェンダー的に言えば、父権的エネルギーである。しかし、他方、それを乗り越える差異エネルギー、脱構造エネルギー、平和エネルギー、母権的エネルギーである死のエネルギー・永遠回帰エネルギー・仏陀エネルギーが発動しているのであり、さらに前者を凌駕するように強化されると考えられるのである。占星術的コスモス史では、魚座から水瓶座への転換を説いているのである。水瓶座は調和・友情・平和を意味するのである。
 では、暇を見ては、『鏡子の家』を読もう。 


参考:

三島は昭和34年(34歳の時)に満を持して「鏡子の家」を発表した。「金閣寺」の成功の後に、渾身の力を込めて発表した自信作だった。しかし、この作品は批評家から全く評価されず、冷たい黙殺をもって迎えられた。

「鏡子の家」には、三島の分身とされる4人の青年が登場する。
ボクサーの俊吉は、全日本チャンピオンになるが、ちんぴらに襲われて拳をつぶされ、右翼団体に加入する。

美貌の新劇俳優の収は、醜貌の女高利貸しに金で買われ、最後にこの女と心中してしまう。

日本画家の夏雄は、自分を天使だと信じている。
商社マンの清一郎は、世界の崩壊を信じている。

この小説について、例えばヘンリー・スコット=ストークスは次のように解説している。

三島のこういう四つの顔を配した『鏡子の家』は、一九五〇年代の三島文学の中では最も雄弁に著者自身を語るものといえるだろう。四人が代表する三島の四側面は、いずれもこのころまでは目立たなかったが、やがて六〇年代に入ってはっきり現われてくる。

峻吉に代表される右翼的偏向は、一九六五年以降はとくに顕著になるし、人間は肉体が美しいうちに自殺しなければならないという信念も、六〇年代後半には明確になる。同じことは、流血によって存在の保証をつかもうとする収の欲望や「完全な芝居」への夢についてもいえる。

だが『鏡子の家』の最大の特徴は、四人の登場人物のうち三人までが世界の,崩壊を必至と考えていることだろう。この意味で、三島のニヒリズムは浪曼派のそれと非常に近い。

江藤淳は、三島を指して、挫折した日本浪曼派の最後のスポークスマンだと言い、戦後の三島作品に繰り返し現われる世界崩壊への期待は、浪曼派最大の特色の一つだったと書いている。

「鏡子の家」が評価されなかった理由はいろいろあるけれど、一言でいえばこの4人の登場人物のどれにもリアリティーがなかったことだろう。三島は4人の人物に自分を分け与えるに当たって、彼の持つ二つの側面のうち、市民的幸福を唾棄するニヒルな面だけを投入した。

「僕は俗気があります」と自分から認めていながら、彼は自分の世俗性とその背後に潜む不全感を作品の中に書き込むことを避けた。これでは登場人物が一面的な作り物に堕してしまうのも当然といえる。

ここまで順風満帆、やることなすことすべてが思う壺にはまってきた三島にとって、「鏡子の家」の失敗は大変な打撃だったらしい。彼は大島渚との対談で、「鏡子の家」発表後の文壇の反応について「その時の文壇の冷たさってなかったですよ」と語り、「それから狂っちゃったんでしょうね、きっと」とうち明けている。事実、この頃から三島由紀夫狂乱がはじまるのである。

http://www.ne.jp/asahi/kaze/kaze/misima.html
畑に家を建てるまで  

2007年04月16日 (02:56)

新訳 ハムレット (角川文庫):超越界と現象界:ミメーシスとプラトン主義

久しぶりに、『ハムレット』を読んだ。本屋でちらと見て、直観で、いい翻訳に思えたので、買ったのであったが、正解であった。

実に、ヴィヴィッドな、歯切れのいい、訳である。

とまれ、この新訳の『ハムレット』を読んで、スピード、速度のエネルギーを強く感じた。

とにかく、スピードである。エネルギッシュなスピードである。疾風怒濤である。

これについては、後で考察しよう。

また、明確に感じられたのは、ハムレットの意識のもつ、「永遠の相」、あるいは、形而上学、超越性の次元である。

確かに、これまで、なにか神秘的な次元の示唆を感じたが、なにか、作品世界における、単なる枝葉の部分だと思ったが、今、その次元が明確に作品世界を構成していることが感じられた。

さる故人から、シェイクスピアとダンテの比較を、ずいぶん昔に示唆されたことがあるが、そのときは、まったくピンと来なかった。両者異質なものと考えていたからであった。

しかし、今や、はっきりと、シェイクスピアの作品世界を構成する層として、宗教的次元、超越的次元、形而上学的次元があることが了解された。

やはり、ルネサンスの作品である。そして、また、プロテスタンティズムの倫理がエネルギーになっているのを感じるのである。

後で、さらに考察を行いたい。

p.s. やはり、文学作品の翻訳は、訳者の日本語能力がものを言う。河合祥一郎氏は、福田恆存氏、小田島雄志氏というこれまでのシェイクスピアの名訳者を超えたと言えよう。

シェイクスピアは、もう現代には合わず、古くさくなってしまったと思っていたが、このような名訳によって、シェイクスピアは、蘇ったと言えよう。

ところで、作品世界であるが、『夏の夜の夢』は、妖精の次元と人間界との二重構造であり、前者が後者を支配している構造になっているが、この超自然的次元と、『ハムレット』における宗教・超越的次元とパラレルであると考えられるだろう。

p.p.s. ハムレットの有名な「リアリズム」論(芝居は時代の鏡である)であるが、この超越的次元と「リアリズム」(ミメーシス)の関係を見なくてはならない。いわゆる、写実主義ではない。超越的次元を基盤として、現象界を、シェイクスピアは観察しているのである。内省的観察なのである。そう、シェイクスピアは、プラトニストだと思う。イデア論的発想が見られるのである。ルネサンスの新プラトン主義の影響を当然考えられるが、それよりは、シェイクスピアの特異な視点として、イデア論的意識があると思われるのである。プラトニストとしてのシェイクスピアである。この視点によって、おそらく、シェイクスピアの作品が解明されるのではないだろうか。ケルト文化とプラトン主義、ここにイギリスの秘密があるのではないだろうか。イギリス経験論は、ロックやヒュームだけではなく、超越性が入っていると思うのである。超越的経験論ないし超越的現象学である。イギリス文学の美術性は、どうも、ここに関係するのではないだろうか。


新訳 ハムレット (文庫)
ウィリアム シェイクスピア (著), William Shakespeare (原著), 河合 祥一郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E8%A8%B3-%E3%83%8F%E3%83%A0%E3%83%AC%E3%83%83%E3%83%88-%E3%82%A6%E3%82%A3%E3%83%AA%E3%82%A2%E3%83%A0-%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%94%E3%82%A2/dp/4042106145/ref=sr_1_1/503-9545992-4786306?ie=UTF8&s=books&qid=1176653530&sr=8-1

2007年03月17日 (15:54)

ロレンスの「愛」と「力」の極性論について:王冠の思想又は聖霊の思想について:獅子と一角獣の対極性

先に、全体主義に関連して、ロレンスの「愛」と「力」の極性論に言及したが、ここでは整理したい。

ロレンスの思想は、対極性の思想である。それは、英国王室の紋章にある獅子と一角獣を対極性に見立てたものである。

即ち、獅子が「力」であり、一角獣が「愛」である。

これは、さらに、「父」と「子」の対極性とされるのである。

ロレンス自身の混乱は、自身の思想を否定するように、「力」の思想を説いた点にあると言えよう。

元々は、対極のバランスを説いているのであり、それが、「聖霊」の様相なのである。

これは、PS理論で言うと、例えば、iが獅子であり、-iが一角獣になるだろう。この調和が⇒+1であり、そして、「聖霊」ということになると思うのである。

即ち、i=獅子=自己であり、-i=一角獣=他者である。この自己と他者との共振が、⇒+1=「聖霊」というように考えることができるだろう。

ロレンスの考えを敷延するなら、キリスト教は、他者-iに傾斜しているのであり(隣人愛)、異教ないし旧約聖書は、主体iに傾斜しているということである。この両者が拮抗し、バランスをとる様相が「聖霊」である。

そして、PS理論的には、「聖霊」とは、メディア・ポイントに於ける差異共振的同一性ということになるだろう。

問題は、先にも述べたが、メディア・ポイントにおいて、連続性=自我があると、反動化すると考えられるのである。

「力」の志向性は、i*-(-i)⇒-1である。しかし、これでは、近代主義と同じである。

先の説明と齟齬となる。先において、全体主義は、近代主義の反動であり、-i*(-i)⇒-1であると述べたのである。

どうも、整理し直さないといけないようだ。

ロレンスの思想は、複雑である。ロレンスは、獅子を肉体、一角獣を精神と見ている。

だから、iが一角獣であり、-iが獅子と見ないといけない。すると、ロレンスにとり、キリスト教とは、i*-(-i)⇒-1であったのであり、「力」の肯定とは、-i*(-i)⇒-1であり、これで、先に言った全体主義の図式となるのである。

ハイデガーは、この図式の哲学を説いたと考えられるが、ロレンスは、この全体主義的図式から脱却できたと考えられるが、どうして脱却できたのであろうか。

それは、一つは、同時代の全体主義の動きを知り、反感をもったことがあるだろう。しかしながら、内在的要因があるはずである。

それは、紀行文『エトルリアの場所』Etruscan Placesにあるように、古代エトルリア人の文化のもつ特異性と対極性の文化に触れて、彼自身が本来もつ対極性の思想が蘇ったからだと思われるのである。

他者を「力」で克服するのではなく(古代ローマ帝国のやり方)、他者と共振する様相が復活したのだと思われるのである。

PS理論から見ると、ロレンスは、メディア・ポイントにおいて、+1と-1の間で揺れ動いていたと考えられるのである。

即ち、共振性と連続性との間で揺れ動いていたのである。そう、自己と自我の間の揺らぎである。

これは、虚数軸と実数軸との混淆的揺らぎである。

正確に言うと、差異共振的同一性と連続的同一性との間の揺らぎである。

思うに、この原因は、ロマン主義にあるのではないだろうか。ロマン主義は、実は、全体主義的なのだと思うのである。即ち、-i*(-i)⇒-1だと思うのである。

そして、晩年において、ロレンスの知性iと身体-iとのバランスが創造されるときが来たのである。そして、全体主義から脱却したと考えられるのである。

すると、「聖霊」とは差異共振シナジー・エネルギーのことであるが、それは、やはり、超越的共振エネルギーであろう。i*(-i)である。そして、コスモスと「わたし」は一体であるというのは、端的に、i*(-i)⇒+1ということではないだろうか。即ち、コスモスとは、イデア界である。

ロレンスの言うコスモスとしての太陽は、プラトンの善のイデアの「太陽」と等価であろう。

そう、悟り・仏陀としてのコスモスの太陽であったのだろう。

参考:

エトルリア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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エトルリアの領域 紀元前750年(濃いくさいろ)、紀元前750年から同500年にかけての拡張(薄いくさいろ)。12の都市国家は二重丸で示した
エトルリアの領域 紀元前750年(濃いくさいろ)、紀元前750年から同500年にかけての拡張(薄いくさいろ)。12の都市国家は二重丸で示した

エトルリア(Etruria)は、紀元前8世紀 〜紀元前4世紀 ごろにイタリア半島 中部にあった都市国家集団。12の都市国家の連合体であった。古代ギリシア や古代ローマ とは異なる独自の文化を持ち、独自のエトルリア語 を使った。エトルリア語はアルファベット で記述されているので、文字を読むことはできるが、意味はすべては解読されていない。当時としては高い建築技術を持ち、その技術はローマに吸収された。

紀元前4世紀、ローマ の勢力が強くなると、端の都市から順に少しずつローマに併合され、最終的には完全にローマ文化圏になり消滅した。 しかし、その名前は近世イタリア のエトルリア王国 や現代イタリアのトスカーナ州 (エトルリア人の土地の意)として残った。

[編集 ] 関連項目

* エトルリア人
* エトルリア語
* エトルリア美術

ウィキメディア・コモンズ に、エトルリア に関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%88%E3%83%AB%E3%83%AA%E3%82%A2 " より作成

カテゴリ : 先史ヨーロッパ | エトルリア


エトルリア美術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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カリュクスクラテル フランソワの壷同様神話描写が見られる黒陶
カリュクスクラテル フランソワの壷同様神話描写が見られる黒陶

エトルリア美術(エトルリアびじゅつ)は、イタリア 中部のエトルリア (現在のトスカナ 地方にほぼ相当する)を中心とした、古代民族エトルリア人 の美術活動およびその作品を指す。起源は紀元前10世紀 に始まるビラノーバ文化 にある。青銅器時代 から鉄器時代 への転換期に出現したこの文化は、イタリア中部を中心に栄え、円錐形を上下に組み合わせた黒陶骨壺を伴出する土壙墓に特徴を有し、紀元前700年 以降のエトルリア文化 と共通する本質的要素を有していることから原エトルリア文化 と見なされている。

紀元前7世紀 末までのエトルリア美術は、東方化様式時代であり、アナトリア 、北シリア 、フェニキア の美術の影響が認められる。特に装身具などの青銅器や貴金属器が特徴的であり、陶器としてはカノポス型骨壺(人頭形蓋付き骨壺)、薄手式ブッケロ などを有していた。スフィンクス 、グリフォン などの動物文、ロータス文、ロゼット文などの植物文にこの時代の東方的要素を見ることができる。この時代は、鉱物資源の開発やギリシア および東方との貿易によって経済基盤の確立した時代でもあり、ベイオ (ウェイイ)、タルクイニア 、チェルベテリ 、ブルチ などの都市が発展し、豊かな副葬品を伴う墓(カンパーナの墓、レゴリーニ・ガラッシの墓など)が数多く造られた。またローマ を中継地とする塩の道 によって南イタリアのギリシア美術 とも直接的な接触をもち、紀元前7世紀 後半から、コリント式陶器を模した陶器も製作されるようになった。ギリシア美術との接触は、タルクイニア で墓室壁画を生み、チェルベテリ やウェトゥロニア で等身大彫刻を誕生させた。紀元前6世紀 に入るとギリシア美術の影響はさらに強くなり、紀元前5世紀 中頃までのアルカイク時代 に、エトルリア美術はほぼ30年ほど遅れてギリシア美術の様式変遷を繰り返した。特に紀元前6世紀 後半からはイオニア地方 の美術要素が濃厚に見られ、将来品としてのギリシア陶器が副葬品として数多く出土している。フランソアの壺 をはじめとして、ヨーロッパの美術館に収蔵されているほとんどのギリシア陶器の優品は、エトルリア出土のものである。エトルリア出身の美術家で唯一名前の伝わるウルカ は、紀元前6世紀 末に活躍した彫刻家で、ベイオ 出土のアポロン像 は彼の作風を伝えていると考えられている。この時代のエトルリア美術は彩色塑像や青銅製の燭台をはじめとする装飾具に優れた水準を示し、金属製工芸品にはギリシアのそれを凌駕する作品も数多く認められる。ただしギリシアのごとく、社会制度、倫理、宗教観などが一致した、人間像中心の美術ではなく、貴族たちによって支えられた美術であるため、洗練性と地方性を有し、内在的様式展開の活力に欠ける美術であった。

紀元前6世紀 初頭に確立するエトルリア式神殿は高い石造基壇と豪華な彩色テラコッタ装飾を有する木造建築で、その発達した段階のタイプは、ローマの神殿建築にも影響を与えた。土木事業においても、石材を巧みに利用して城壁、城門、排水路などを建設し、前 5 世紀からはアーチも使用している。都市計画ではマルツァボット のごとく、ヒッポダモス式 と言われる碁盤目状の街区を造り、社会制度の発展を反映している。またタルクイニア を中心とする墓は、壁画によって装飾され、宴会、競技、踊り、鳥占い、釣りなどを主題とする現世肯定の明るくおおらかな絵画であった(牝牛の墓、鳥占い師の墓など)。これらの墓はヒュポゲウム式 であり、生前の住宅室内の空間を模したものもある。紀元前6世紀 末か紀元前5世紀 初頭はギリシアのアッティカ地方 の美術が大きな影響力を有していた。それは壁画(豹の墓 など)や塑像(ヘルメス像 )などに明確に見ることができる。

紀元前5世紀 前半、エトルリアは南イタリアに有していた領土を放棄し、ローマ以北の故地に撤退する。このため、マグナ・グラエキア との直接の交流を失い、ギリシア美術の影響は弱まり間欠的となった。これによりギリシア古典期の美術の要素は少なくなり、経済的停滞とあいまって、エトルリアの各都市を中心にした地方化が進んだ。この時代は古典時代 と呼ばれているが、統一的な様式としてエトルリア美術をとらえることは困難である。紀元前4世紀 に入ると、徐々にローマの勢力がエトルリアを圧迫し、その社会状況は美術のうえにも認められる。タルクイニア の船の墓 や戦士の墓 などのごとく、冥界のデーモン的存在が描出されるようになり、彫刻においても以前の活力は見られなくなった。しかし、アレッツォ から出土したキマイラ像 などのような青銅像、テラコッタ製肖像、石棺浮彫などには優れたものが多く、ヘレニズム時代 の紀元前4世紀 末からは写実性に優れた作品が認められるようになった。紀元前3世紀 以降エトルリアはローマの政治的支配を受けたが、なお文化的には独自性を有し、特に彫刻、建築に優れたものがあった。それゆえに、ローマ美術 の形成に大きな役割を果たしたわけであるが、紀元前2世紀 末からは、ローマ美術の中に吸収されていった。

エトルリア美術は地中海 地域で開花した多くの古代美術と同じく、約5世紀間にわたってギリシア美術の影響下に栄えた美術であった。しかし、イタリア中部という一定の閉鎖性をもつ地理的条件のゆえに、この地方と民族固有の要素を持ち続けた美術でもあった。すなわち、東方化時代の優れた装飾文、アルカイク時代の精妙な工芸品、それに神殿建築やアーチを用いた土木技術、紀元前4世紀 以後の写実主義 、これらはローマ美術の形成に大きな影響を与え、その意味でギリシア美術とローマ美術の仲介の役割を果たした。

[編集 ] 関連項目
ウィキメディア・コモンズ に、エトルリア美術 に関連するマルチメディアがあります。
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カテゴリ : エトルリア | 美術史 | イタリアの歴史

2007年02月18日 (03:22)

女性と男性について:『嵐が丘』における悲劇から喜劇への転換について:PS理論の視点から

どうも、左回転、右回転という考えを持ち込んだら、混乱してしまったので、それは、置いておきたい。

 混乱の原因は、⇒+1と⇒-1の考え方にある。私は、虚数軸が実数軸へ転換することを考えていたが、それが誤りだと思う。そうではなくて、虚数軸のiと -iとは、差異共振様相のときは、+1へと転化し、連続的同一性様相のときは、-1へ転化すると、単純に見ればいいと思うのである。つまり、軸の変換ではなくて、実数軸上の転換と見るべきなのである。

 では、それに基づいて考え直してみよう。すると、男性は、知性による連続的同一性、即ち、i*-(-i)⇒-1の傾斜があるとなるだろう。そして、女性は身体による連続的同一性化、即ち、-i*(-i)⇒-1の傾斜があるとしよう。

 -1は、差異的同一性の否定であるから、差異共振シナジー・エネルギーが抑圧されていると言えよう。とまれ、以上の作業仮説によれば、男性は身体を否定し、女性は知性を否定することになるだろう。少し異論もあるが、この線で考えよう。

 そう、問題は意識と無意識である。男性はiに傾斜して、女性は-iに傾斜しているとしよう。つまり、男性の意識はiに傾斜し、女性の意識は-iに傾斜していると考えるのである。

 そうすると、男性は-i=身体に無意識であり、女性はi=知性に無意識であるということになろう。

 そういうこととして、先の考察、すなわち、『嵐が丘』のキャサリンの考察をやり直そう。

 ヒースクリフとキャサリンは、男性と女性の典型かもしれない。ヒースクリフは、キャサリンを自我的に独占化する。キャサリンは、身体的に、ヒースクリフを同一性化する(「私はヒースクリフ」)。しかし、キャサリンは、やはり、身体的に、金持ちのエドガーと同一性化するのではないのか。否、違うだろう。エドガーに対しては、無意識的な知性が反応しているのではないだろうか。貧乏人のヒースクリフと結婚したら、一生貧乏のままであると、キャサリンの無意識の知性が考えているのではないのか。キャサリンの自我は、無意識的であり、同一性が欠落していると言えるのではないのか。無意識的な自我である。というか、非同一性的自我である。多元的非自我である。しかし、自我というよりは、半自我ではないだろうか。だから、非同一性的半自我ないし多元的半自我ではないのか。

 つまり、キャサリンの「自我」は未発達であり、いわば、多元分裂的である。ここには、差異はあるが、同一性はないのである。⇒+1がないのである。

 キャサリンの半自我について、明晰に理論化する必要があるだろう。それは、何か。男性の場合は、連続的同一性自我が形成される。女性の場合は、連続的同一性身体が形成される。では、女性の「自我」はどうなるのか。

 思うに、それは、とりあえず、半自我でいいのかもしれない。男性のような連続的同一性自我にはならない。やはり、多元分裂的自我ではないだろうか。連続的同一性身体が女性においては主導的であり、「自我」は、従的なのである。身体が主で、知性が従である。

 では、この従的知性ないし従的自我は何なのか。同一性ではないだろう。同一性は身体であるから。ならば、差異なのか。おそらく、差異の可能性はあるだろう。女性の知性は差異である可能性はあるのである。ただ、身体的同一性によって曇らされると言えよう。

 女性の勘が鋭いとはこのことではないだろうか。女性の知性は差異であり、自我観念同一性によっては曇らされてはいないということになるだろう。

 ここで、キャサリンを考えると確かに、キャサリンの思考には、鋭敏さを認めざるを得ないだろう。ヒースクリフと結婚したら、一生貧乏のままである。そして、エドガーと結婚することで、二人とも貧乏から脱することができる。倫理的ではない(他者がない)が、ここには、ある明晰さがある。

 しかしながら、キャサリンの知性は差異的同一性(+1)ではなく、差異的多元性ないし差異的分裂性である。これは、⇒∞であろうか。否、やはり、⇒-1 であろう。これは、連続的同一性身体を意味するのだから。そして、連続的同一性とは、半面で、多元的分裂性を帯びるのではないだろうか。キャサリンの場合は、知性的多元分裂であった。男性の場合は、身体的多元分裂ではないだろうか。

 身体的多元分裂とは何だろうか。感覚分裂ではないのか。感覚細部への偏執ではないのか。この細部感覚が多元分裂するということではないのか。パラノイアである。パラノイア的多元分裂である。

 ジェンダーについては、ここで留めるが、最後に、『嵐が丘』の結末を考えたい。ヒースクリフは、キャサリンの亡霊を見ることで、精神的に和解することになるのであるが、これは何を意味するのか。

 ヒースクリフの憎悪(ルサンチマン)が消えて、赦しの精神が現われるのである。これは、一見、ヒースクリフの連一性自我の肯定のように思われるかもしれないが、これは、亡霊との関係であるから、差異共振性ではないだろうか。差異的同一性ではないのか。生者ヒースクリフと亡霊キャサリンとの間には距離があるから、連続的同一性にはなり得ないのであるから、差異的同一性であると考えられるのである。

 そうすると、『嵐が丘』という凄絶なジェンダー的連一性悲劇が解体して、差異的同一性というある種の喜劇がここに発生したと言えるだろう。(ここで、喜劇は、ジャンル的に捉えないといけない。『神曲』が原題では、『神聖喜劇』であるが、この意味においてである。)

 結局、ヒースクリフが他者を確認したことになるだろう。キャサリンの亡霊が他者である。いわば、亡霊ということで、超越性がここにあり、その距離をもって、同一性を確認しているのである。だから、差異的同一性なのである。

 だから、『嵐が丘』は、喜劇に入るのである。近代的自我喜劇である。では、この悲劇から喜劇への転換のポイントは何か。

 そう、一種恩寵のような意味をもつ亡霊の出現であろう。やはり、超越性の出現である。i*(-i)の出現である。これが、⇒+1となったと思われるのである。超越界・叡知界・イデア界の出現である。これは、トランス・モダンの小説ということになるのかもしれない。

2007年02月04日 (20:42)

学識ある無知について

『コスモスの崩壊―閉ざされた世界から無限の宇宙へ 』
アレクサンドル・コイレ (著), 野沢 協
の初めの部分に、クザーヌスの哲学の引用がかなりあり、難しいながらも、この哲学は、単に、「対立の一致」の思想でなく、プラトニック・シナジー理論ないし即非理論の先駆に思えたので、『学識ある無知について』を早速、読み出した。ドイツ人哲学者に多くある、息の長い文体で、また、内容も晦渋である。以下、i*(-i)⇒+1に相当する部分と思えるので、引用する。

「われわれの認識は、理性的(比量的)なやり方によっては決して矛盾したものをその始元において結合しえないのであるが、それというのも、われわれは本性上、われわれに明らかにされたものの中を動き回っているにすぎないからである。われわれの本性は、かような無限の力から遥かに遠く離れているために、無限の距離を隔てて対立する矛盾そのものを一挙に結合することができない。それゆえに、われわれは、絶対的最大者が無限であり、何ものとも対立せず、かつ最小者と一致することを、一切の理性的論議を超えて、比量的に捉えられない仕方で観るのである。ところで、・・・最大者と最小者は、「絶対的に」という意味の超越的な名辞としてであって、物質(moles)や力の量に及ぶどのような縮限をも超えて、その絶対的単純性のうちに万物を包括するという仕方で存在しているのである。」『学識ある無知について』平凡社ライブラリー p.27

p.s. ジョルダーノ・ブルーノの対立の一性の理論は、明らかに、クザーヌスの哲学に由来するように思える。
 ところで、クザーヌスやブルーノの哲学は、即非理論の先駆であると思えるが、どうして、哲学の主流から外れてているのだろうか。これは、対極性と弁証法が混同されているからであろう。ヘーゲル哲学は、前者を後者に、換言すると、差異を連続的同一性に同化吸収してしまったのである。これが要因の一つであると思う。
 また、ポスト・モダンのドゥルーズが、どうして、クザーヌス、ブルーノ、フッサールを評価しなかったのかと問えば、後者の理論・哲学は、内在的超越論であり、ドゥルーズの内在性の理論に合わなかったからである。内在性の思想は、近代主義的である。思うに、超越性の理論がルネサンスから近代合理主義への変化において、抜け落ちていくことになるのである。
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ニコラウス・クザーヌス
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ニコラウス・クザーヌス
ニコラウス・クザーヌス

ニコラウス・クザーヌス (Nicolaus Cusanus、1401年 -1464年 11月8日 )は、ドイツ の哲学者 ・数学者 ・枢機卿 。
ドイツのモーゼル河畔のクースに生まれる。 ハイデルベルク大学で学び、パドヴァ大学で教会法の博士号を取得。さらにケルン大学で偽ディオニシウス・アレオパギタ らの思想に触れる。その後1430年 司祭 に叙階され、バーゼル公会議 (フィレンツェ公会議 )では指導的な立場で活躍、高名を得る。東西教会の和解のためにも奔走し、教皇使節としてコンスタンティノープル を訪問。1448年 に枢機卿、1450年 ブリクセン大司教。1464年 トーディにて死去。彼の生涯は教会政治家としての実践と、思想家としての理論が融合した類い希なものであった。

[編集 ] 思想

クザーヌスは「知ある無知」や「反対の一致」などという独創的な思想を唱えた。クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。

彼の思索は中世の混沌のなかから近代的思考を準備したと高く評価されている。 また、カール・ヤスパース や西田幾多郎 など後生にも多大な影響を与えたと言われている。生誕600年を期に日本でも注目が高まり、研究が進んでいる。

[編集 ] 主要著作

* De concordantia catholica
o 普遍的和合について(カトリック的和合について)
* De docta ignorantia
o 学識ある無知について
* De filiatione dei
o 神の子であることについて
* De dato patris luminum
o 光の父の贈りもの
* De visione dei
o 神を見ることについて
* Trialogus de possest
o 可能現実存在
* Directio speculantis, seu De non aliud
o 観察者の指針,すなわち非他なるものについて
* Complementum theologicum
o 神学綱要
* De venatione sapientiae
o 智慧の狩猟について

[編集 ] 邦訳一覧

* 『知ある無知』(De docta ignorantia,1440年 )岩崎・大出訳、創文社
* 『隠れたる神についての対話』(De dep abscondito,1445年 )
* 『神の探求について』(De quaerendo Deum,1445年 )
* 『神の子であることについて』(De filiatione Dei,1445年 )大出・坂本訳、創文社
* 『可能現実存在』(De possest,1460年)大出・八巻訳、国文社 1987年
* 『非他なるもの』(De non aliud,1462年)松山康国訳:『ドイツ神秘主義叢書7』創文社 1992年
* 『創造についての対話』(De Genesi,1446年)
* 『知恵に関する無学者考』(Idiota de sapientia,1450年)
* 『信仰の平和』(De pace fidei,1453年)
* 『テオリアの最高段階について』(De apice theoriae,1463年):上智大学中世思想研究所監修/『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』平凡社 1992年掲載
* 『光の父の贈りもの』(De dato patris luminum,1445年)/大出・高岡訳、国文社 1993年
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)
* 『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)酒井・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館 2000年掲載
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)/『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)坂本・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館 2000年掲載
* 『神を観ることについて』八巻和彦訳、岩波文庫 2001年(ほかに、説教と書簡を一つずつ掲載)
* 『神学綱要』(Compendium,1463年 )大出・野沢訳、国文社 2002年

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学識ある無知について (単行本(ソフトカバー))
ニコラウス クザーヌス (著), Nicolaus Cusanus (原著), 山田 桂三 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%A6%E8%AD%98%E3%81%82%E3%82%8B%E7%84%A1%E7%9F%A5%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9-%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9/dp/4582760775/sr=8-1/qid=1170504949/ref=sr_1_1/503-7170974-5841516?ie=UTF8&s=books





神を観ることについて 他二篇 (文庫)
ニコラウス クザーヌス (著), Nicolaus Cusanus (原著), 八巻 和彦 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%82%92%E8%A6%B3%E3%82%8B%E3%81%93%E3%81%A8%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6-%E4%BB%96%E4%BA%8C%E7%AF%87-%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9-%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9/dp/4003382315/sr=1-1/qid=1170509567/ref=sr_1_1/249-2110018-5082754?ie=UTF8&s=books



個と宇宙―ルネサンス精神史 (単行本)
エルンスト カッシーラー (著), 薗田 坦 (翻訳)
http://books.yahoo.co.jp/book_detail/30550871
http://www.amazon.co.jp/%E5%80%8B%E3%81%A8%E5%AE%87%E5%AE%99%E2%80%95%E3%83%AB%E3%83%8D%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%82%B9%E7%B2%BE%E7%A5%9E%E5%8F%B2-%E3%82%A8%E3%83%AB%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%83%88-%E3%82%AB%E3%83%83%E3%82%B7%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%BC/dp/481580155X/sr=8-14/qid=1170581110/ref=sr_1_14/503-7170974-5841516?ie=UTF8&s=books





東アジア共同体をどうつくるか (新書)
進藤 榮一 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%85%B1%E5%90%8C%E4%BD%93%E3%82%92%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%8B%E3%81%8B-%E9%80%B2%E8%97%A4-%E6%A6%AE%E4%B8%80/dp/4480063404/sr=1-1/qid=1170505399/ref=sr_1_1/249-2110018-5082754?ie=UTF8&s=books

2007年01月12日 (23:53)

『月と六ペンス』(行方昭夫訳 岩波文庫)の梗概

月と六ペンス (文庫)
モーム , 行方 昭夫
http://www.amazon.co.jp/%E6%9C%88%E3%81%A8%E5%85%AD%E3%83%9A%E3%83%B3%E3%82%B9-%E3%83%A2%E3%83%BC%E3%83%A0/dp/4003225422/sr=8-2/qid=1168513921/ref=sr_1_2/503-7170974-5841516?ie=UTF8&s=books

★主要な登場人物★

「僕」:語り手、作者のモームと考えられる。名前が出てこないが、作者モームでいいのだろう。

チャールズ・ストリックランド:いわば、主人公である。画家になる以前は、平凡な証券マンであった。画家ポール・ゴーギャンをモデルにしたということである。

ストリックランド夫人(エイミー・ストリックランド):晩餐会での社交を楽しむ人物で、文学や美術に興味がある。また、同情心のある女性で、家の調度品を優雅にする。

ローズ・ウォータフォード:女性作家

マカンドルー大佐夫妻:マカンドルー夫人とストリックランド夫人は姉妹である。

ダーク・ストルーヴ:凡庸な画家で、感傷的で世話好きだが、鑑賞眼があり、ストリックランドを評価した。

ブランチ・ストルーヴ:最初は夫ダークに尽くしていたが、ストリックランドの魔力にかかり、夫と別れ、ストリックランドと再婚するが、悲劇の人生となり、自殺する。

ニコルズ船長:マルセイユで、ストリックランドと知り合いになり、タヒチ島に住む。

ティアレ・ジョンソン:タヒチのル・ド・ラ・フルール」の経営者

アタ:タヒチ島の女性で、チャールズ・ストリックランドの妻となる。

ブリュノ船長:フランス人で、ストリックランドの知りあい。島を購入して、椰子の林を創ったことに満足している。

クートラ医師:病気のストリックランドを診療した。


★粗筋と引用★

「わたし」は作家で、売れっ子となり、作家のサロンに出入りして、そこでストリックランド夫人に出会う。そして、ストリックランド夫人のパーティーに参加することになり、夫のチャールズ・ストリックランドと知り合いになる。そのとき、「わたし」は次のように夫について記している。「社交性のないのは明白だが、男ならそれがなくとも何とかなる。しかし彼には、並みの人間と違う風変わりなところすら何ひとつない。お人よしで正直なだけが取り柄の、退屈な、さえない男だった。」(p.49)

しかし、その後、「わたし」は、ローズ・ウォータフォードに、チャールズが妻を捨てて家出したことを聞かされる。「だが、あのときはショックだった。何しろ、ストリックランドは間違いなく四十歳になっており、こんな年齢の人間が色恋沙汰に関与するなど、とても不快に思えたからだ。」(p.55)

「わたし」は、ストリックランド夫人から、パリに行った夫のチャールズのことの調査を依頼される。チャールズは、パリのクリシ街に住んでいた。彼は、色恋沙汰で、妻を捨てたのではなく、絵を描きたいからであることを、「わたし」に告げる。
『「絵を描かなくてはならんと言っているのが分からんのかね。自分でもどうしようもないのだ。いいかね、人が水に落ちた場合には、泳ぎ方など問題にならんだろうが。水から這い上がらなけりゃ溺れ死ぬのだ」
 彼【チャールズ】の声には真実の情熱がこもっていて、僕は我にもあらず魂をゆさぶられた。彼の内部で何か激しい力が苦闘しているように感じられた。とても強力な圧倒的な力であり、彼は自分の意志とは無関係にその力に支配されているように感じられた。僕にはしかとは理解できなかった。悪魔的なものに取りつかれていて、彼が突然ひっくり返され、引き裂かれるとしても、おかしくなかった。それなのに、外見上はごくありふれて見えるのだ。・・・
だぶだぶのズボンをはき、汚れたままの手だ。あごには赤い無精ひげが生え、目は小さく、鼻ばかりが大きく攻撃的で、顔はぶざまで粗野だ。口は大きくて、唇は分厚く好色そうだ。これでは、外部しか見ない者には、まったく見当もつかないだろう。」(pp. 94〜95)

「わたし」はロンドンに戻り、チャールズ・ストリックランドがただ一人で、絵の修業をしていることを報告した。結局、マカンドルー夫妻がストリックランド夫妻の子どもを引き取った。ストリックランド夫人は一人新生活を始めた。

五年ほど立ち、「わたし」はパリに行き、チャールズ・ストリックランドに会った。また、前からの友人ダーク・ストルーヴを訪問した。「・・・彼は生まれついての道化者だった。職業は画家だったが、三流の画家に過ぎなかった。ローマで知り合いになった・・・。綺麗だが平凡きわまりない絵葉書のような絵を描くことに、真実の情熱を抱いていた。」p.123

妻のブランチとは、ストーヴは仲がよかった。彼は、ストリックランドが大芸術家と考えている。「美というものは、芸術家が自らの魂を痛めながら、世の混沌の中から創造する。不思議な素晴らしいものだ。そして、芸術家が創造してからも、誰にでも作品の本質が理解できるわけじゃない。本質が分かるためには、芸術家と同じ魂の痛み、創造の苦悩を体験しなければならない。作品とは、言うなれば芸術家が歌って聞かせるメロディーであり、それを自分の心で正しく聴くためには、知恵と感性と想像力がなくてはならない。」p.137

ダーク・ストルーヴが「わたし」をチャールズ・ストリックランドの行きつけのカフェに連れていった。彼は、チェスをやっていた。彼は極端に痩せていた。頬骨は目立つし、目もぎょろりと大きく見えた。こめかみには深い皺(しわ)がある。身体は幽霊であった。
「この六ヶ月は、日に一個のパンと一瓶のミルクで食いつないでいたと聞いた。」

ストリックランドは、絵の修業を絶え間なく行なっていた。「彼を突き動かした情熱を画面に注ぎ込んでしまえばということであろうがーー作品にはいっさいの関心を失う。」「俺は気にしない。自分に見えているものを描きたいだけだ。」p.146,p.147

ストリックランドが病気になり、ダーク・ストルーヴは、彼を自分の家に連れてきて、自分のアトリエを使わせた。妻のブランチは最初激しく反対したが、ストリックランドの看病をまめまめしくした。その後、ストリックランドは起き上がれるようになった。「矛盾した言い方だが、彼【ストリックランド】の官能性は奇妙に霊的であるように思えたのである。彼にはどこか原始的なところがあった。古代ギリシア人の林野の神サテュロスやファウヌスのような半人半獣神のようなところがあった。・・・彼に取りついた魔神は善悪以前に存在した原始的な力なのだから。」p.183

その後、ダークに会ったが、妻ブランチがストリックランドに恋して、夫を離婚することを告げた。そして、ブランチとストリックランドは結婚したが、その後、ブランチが自殺したということを知らされる。また、アトリエには、ストリックランドの描いた妻をモデルにした絵があった。その絵にダークは畏敬の念に打たれたのである。ストルーヴはその絵の説明をした。「ストリックランドは、束縛の絆を全部はじき飛ばしてしまったのだ。・・・思いもよらぬ力を持った新しい魂を発見したのだ。新しい作風には、とても豊かで独特な描線の大胆な単純化、肉体を奇跡的とも言える熱烈な官能性をこめて描く絵の具の使い方、肉体の重量感を異常なまでに感じさせる立体感があった。しかもそれだけではなく、新しい、心を不安にさせるような霊的なものが加えられていた。この霊的なものは想像力を誰も足を踏み入れていない道へと誘い、永遠の星の光しかない虚空の空間の存在を暗示した。この空間において、赤裸々(せきらら)な魂は新しい神秘の発見に向かって、おずおずと乗り出して行くのだった。」p.245

その後、「わたし」はストリックランドに会った。ストリックランドはブランチを死に対して冷酷な態度を示した。ニヒリズムを述べた。そして、ストリックランドの絵を見せてもらった。「これらの絵には、自らを表現しようと試みている真の強い迫力があることだけは、実感せざるを得なかった。・・・おそらく、ストリックランドの物質的なものの中に、漠然とではあるが、何か精神的な意味を発見したのであろう。」pp.268〜269

「ストリックランドの生涯で、性欲はごく些細な地位しか占めていなかった。・・・理性を奪うような性本能を憎んだ。・・・ストリックランドが通常の性の解放を嫌ったのは、芸術的な創造とから得られる満足と比べて、それが野卑と感じたからかもしれない。」p.280

「わたし」はたまたまタヒチに旅行して、そこで、ストリックランドと再会した。「わたし」はタヒチでスコルズ船長に出会った。彼は、マルセイユでストリックランドと知りあった。彼らは、四ヶ月くらいマルセイユで一緒に暮らした。二人はマルセイユの下層生活をしたのであった。最初、無料宿泊所に居たが、その後、タフ・ビルの世話になった。白黒混血児(ムラート)で、船乗り宿のあるじでった。ストリックランドとタフ・ビルは喧嘩をした。

ホテルの経営者ティアレ・ジョンソンと話をする。ティアレは、ストリックランドのことをよく覚えていた。ストリックランドは、タヒチにデジャヴュ(既視感)をもったことを告げた。そして、「わたし」はエイブラハムという、医局の正式スタッフになるのを辞退して、アレクサンドリアに住み着いた男のことを告げた。

ティアレは、ストリックランドの女房を世話したと言った。アタという土地の娘であった。そして、ストリックランドはアタをモデルにして絵を描いた。「その後の三年間は、ストリックランドの一生でもっとも幸福な時期であったと思う。アタの家は島をめぐる道路からおよそ八キロの所にあった。」p.334

ティアレから中年のフランス人のブリュノ船長を紹介された。ブリュノ船長はストリックランドに共感をもった。『「・・・彼【ストリックランド】も私【ブリュノ船長】も気づかなかったけれど、二人とも同じものを目ざしていましたからね。」
「あなたとストリックランドのように、およそかけ離れた二人が目ざす共通のものって、いったい何ですか」微笑を浮かべながら僕は聞いた。
「美ですよ。」』p.345

「彼に取りついた情熱は、美を創造しようという情熱でした。その情熱のせいで、心の安まるときがありませんでした。あちらこちらと移動を繰り返すことにもなりました。神聖な憧憬に取りつかれた永遠の巡礼で、内部の悪魔は暴君でした。世間には真実を追求するあまり生活の基盤さえ台無しにする人がいますが、ストリックランドも同様です。彼の場合は美が真実にとって代わっただけなのです。私【ブリュノ船長】は彼に深い同情を覚えるだけです」p.346

ブリュノ船長は、一つの島を購入して、妻と開墾して、椰子の木を植えて、林を作ったことに満足感をもっている。『労働の尊さ」を実感できると言った。また、強い意志と強い性格以外に、神への信仰があったから成功したと言った。

二人はクートラ医師のところに着いた。クートラ医師はフランス人で、病気のストリックランドの診療に出かけた。しかし、ストリックランドは、ハンセン病に罹っていた。そして、二三年後、ストリックランドの危篤の知らせが、クートラ医師のところに来て、クートラ医師は、密林の中、アタの家に向かった。

クートラ医師はアタの家に入り、壁面の絵を見た。
『目がしだいに暗さに慣れて、絵の描かれた壁面を見つめていると、全身から心を揺さぶられるような感じに襲われた。クートラ医師は絵画については無知であったが、ここに見る絵には、強烈な感銘を与えるものがあった。床から天井まで、壁面すべてが奇妙で丹念な構図で覆われていた。筆舌に尽くし難い不思議な構図であった。彼は息を飲んだ。とても理解できぬし、分析もできぬ、ある感動で心が満たされた。天地創造を目撃した者が感じたであろうと想像される、畏怖(いふ)と歓喜を覚えた。とてつもない、官能的な、情熱的な絵だった。しかしまた、人を慄然(りつぜん)とさせる何かがあり、彼は恐怖感にとらわれた。これは、自然の隠れたる深淵にまで侵入し、美しくもあり、かつ恐ろしくもある秘密を発見した男の作品だ。人間が知るには罪深過ぎる秘密を知った男の作品だ。どこか原始的で慄然(りつぜん)たるものがあった。人間の描いたものとは思えなかった。彼は以前うわさに聞いた黒魔術を思い出していた。美しく、かつ淫らであった。
「やれやれ、まさに天才だ!」』pp. 365〜366

アタは夫の約束通り、偉大な絵を燃やしてしまった。クートラ医師は、「僕」に果物の絵を見せた。「果物には異常なほど生き生きとしたところがあった。事物がまだ一定の決まった形をとる前の、地球の歴史の混沌(こんとん)たる初期に創造されたかのように思われた。」p.374

「僕」はタヒチを去って、ロンドンに帰った。ストリックランド夫人に会った。彼女は夫の絵を飾ってあった。「モデルはタラバオの奥地の彼自身の家族で、女はアタで赤ん坊は長男であろう。」
「僕」は夫人と子どものロバートに、アタやその子どもついての話を除いて、ストリックランドの話をした。


★小説の地誌空間★

この小説は、
第一部として、ロンドン
第二部として、パリ
第三部として、タヒチ
に分けることができるだろう。

第一部は、没個性的な生活、証券マンの生活、ストリックランド夫人との生活がある。
第二部は、画家たちの生活がある。パリ(おそらく、モンパルナス)の生活である。
第三部は、タヒチでの、文明から離れた、個性を実現する生活が描かれている。ティアレ、ブリュノ船長、クートラ医師、アテ、そして、ストリックランドと、個性豊かな人間たちが描かれている。

ポール・ゴーギャン
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自画像(1893年)
自画像(1893年)

ポール・ゴーギャン(Eugène Henri Paul Gauguin, 1848年 6月7日 - 1903年 5月9日 )は、フランス のポスト印象派 の最も重要かつ独創的な画家 の一人。「ゴーガン」とも表記・発音される。

1848年、二月革命 の年にパリに生まれた。父は共和系のジャーナリストであった。ポールが生まれてまもなく、一家は革命後の新政府による弾圧を恐れて南米ペルー のリマ に亡命した。しかし父はポールが1歳になる前に急死。残された妻子はペルーにて数年を過ごした後、1855年、フランスに帰国した。こうした生い立ちは、後のゴーギャンの人生に少なからぬ影響を与えたものと想像される。

フランスに帰国後、ゴーギャンはオルレアン の神学学校に通った後、1865年、17歳の時には航海士となり、南米やインドを訪れている。1868年から1871年までは海軍に在籍し、普仏戦争 にも参加した。その後ゴーギャンは株式仲買人となり、デンマーク 出身の女性メットと結婚。ごく普通の勤め人として、趣味で絵を描いていた。印象派展には1880年の第5回展から出品しているものの、この頃のゴーギャンはまだ一介の日曜画家にすぎなかった。勤めを辞め、画業に専心するのは1883年のことである。

1886年以来、ブルターニュ地方のポン=タヴェンを拠点として制作した。この頃ポン=タヴェンで制作していたベルナール 、ドニ 、ラヴァル らの画家のグループをポン=タヴェン派 というが、ゴーギャンはその中心人物と見なされている。ポン=タヴェン派の特徴的な様式はクロワソニズム(フランス語で「区切る」という意味)と呼ばれ、単純な輪郭線で区切られた色面によって画面を構成するのが特色である。

1888年には南仏アルルでゴッホ と共同生活を試みる。が、2人の強烈な個性は衝突を繰り返し、ゴッホの「耳切り事件」をもって共同生活は完全に破綻した。
タヒチの女(浜辺にて)(1891年)オルセー美術館 蔵
タヒチの女(浜辺にて)(1891年)オルセー美術館 蔵

西洋文明に絶望したゴーギャンが楽園を求め、南太平洋(ポリネシア )にあるフランス領の島・タヒチ に渡ったのは1891年4月のことであった。しかし、タヒチさえも彼が夢に見ていた楽園ではすでになかった。タヒチで貧困や病気に悩まされたゴーギャンは帰国を決意し、1893年フランスに戻る。叔父の遺産を受け継いだゴーギャンは、パリにアトリエを構えるが、絵は売れなかった。(この時期にはマラルメ のもとに出入りしたこともある。) 一度捨てた妻子にふたたび受け入れられるはずもなく、同棲していた女性にも逃げられ、パリに居場所を失ったゴーギャンは、1895年にはふたたびタヒチに渡航した。
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館)
『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』1897-1898年(ボストン美術館 )
3人のタヒチ人(1899年)
3人のタヒチ人(1899年)

タヒチに戻っては来たものの、相変わらずの貧困と病苦に加え、妻との文通も途絶えたゴーギャンは希望を失い、死を決意した。こうして1897年、貧困と絶望のなかで、遺書代わりに畢生の大作『われわれはどこから来たのか われわれは何者か われわれはどこへ行くのか』を仕上げた。しかし自殺は未遂に終わる。最晩年の1901年にはさらに辺鄙なマルキーズ諸島 に渡り、地域の政治論争に関わったりもしていたが、1903年に死去した。

ポール・セザンヌ に「支那の切り絵」と批評されるなど、当時の画家たちからの受けは悪かったが、死後、西洋と西洋絵画に深い問いを投げかける彼の孤高の作品群は、次第に名声と尊敬を獲得するようになる。
ウィキメディア・コモンズ に、ポール・ゴーギャン に関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9D%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%82%AE%E3%83%A3%E3%83%B3 " より作成

カテゴリ : フランスの画家 | 19世紀の美術家 | 1848年生 | 1903年没


インターネット美術館
http://www2.edu.ipa.go.jp/gz/h-inb1/h-pim/h-ggn/IPA-inb360.htm

2006年06月18日 (21:26)

V.ウルフの『灯台へ』の哲学分析:二つの「モダニズム」:過剰近代と内超近代

V.ウルフの『灯台へ』の哲学分析:二つの「モダニズム」:過剰近代と内超近代
テーマ:文学・哲学
『灯台へ』(1927年)ヴァージニア・ウルフ作 岩波文庫

灯台へ 岩波文庫
ヴァージニア ウルフ (著), Virginia Woolf (原著), 御輿 哲也 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4003229118/qid=1150631122/sr=8-1/ref=sr_8_xs_ap_i1_xgl/503-0226866-3012711

灯台へ

表現方法:文学史的には、「意識の流れ」と呼ばれる表現方法である。より、的確に言えば、人物意識「対位法・ポリフォニー」と言うべきものである。
例えば、p.52〜p.54

【哲学的には、推察するに、ヴァージニア・ウルフの意識には、言うならば、コスモス(コスモス体)が息衝(いきづ)いて、そこにおいて、登場人物が「差異」としてありつつ、他の登場人物である「差異」と共振している様相のように思えるのである。登場人物1を差異1、登場人物2を差異2、登場人物nを差異nとすると、例えば、差異1→差異2へと、流動的に、あるいは、内在的(内部意識的)に移動するのである。それまでの、小説は、語り手や主人公の視点・感覚意識(以下、感識と略す)が中心となって、物語が展開することが普通であったが、この小説作品では、視点・感識が、差異から差異へと共振的に移行するのである。これは、音楽の対位法・ポリフォニーに類似していると言えるだろう。差異を声部として、ある声部から他の声部へと展開するのである。あるテーマをもっているから、フーガに似ていないこともないだろう。
 とまれ、作家の創造的意識・感識において、多数の登場人物=差異が共振していて、差異でありつつ、内的に「連通」していると考えられるのである。この差異と差異の共振過程が、対位法・ポリフォニー又はフーガに似ているのである。ここで注意すべき点は、これは、コラージュやパスティーシュに一見似ているが、似て非なるものである。何故なら、それらは、差異が不連続のままで、差異間において、共振していないからである。つまり、いわば、窓のないモナドのように、差異と差異とが、孤立して並立しているのであるから。それに対して、ヴァージニア・ウルフの小説時空間(タイム・スペース)においては、差異は他の差異と共振しているのであり、窓があるのである。差異が他者である差異と共振して、「連通」しているのである。この違いは、絶対的であり、十分注意する必要があるだろう。モナドではなくて、共振差異が生成する多元・多様な共振界がここにはあるのである。
 これは、思うに、画期的に独創的な作品ではないだろうか。「意識の流れ」とは、プルーストやジョイスの小説において、確認された「モダニズム」小説の主要な表現方法の一つであるが、しかし、思うに、それらにおいて、差異は共振せずに、孤立(モナド化)しているように思えるのである。だから、「意識の流れ」は、二種類考えられるのである。モナド的「意識の流れ」と共振差異的「意識の流れ」である。
 この共振差異は、最初に述べたように、コスモスに息衝いていると考えられるのである。だから、作家ヴァージニア・ウルフの意識・感識には、ミクロ・コスモスがあり、そこには、多元的な共振差異が息衝いていると換言できるだろう。この共振差異を量子論(量子力学)の用語を借りて、パーティクル(素粒子)と呼ぼう。即ち、ヴァージニア・ウルフの作品世界は、パーティクル(素粒子)の共振する世界であるということである。プルーストやジョイスの小説世界はモナドの世界であると言えるのではないだろうか。
 パーティクルの世界、共振差異の世界を、シナジーや連創の世界とも呼べるだろう。シンパーティクル(SYNPARTICLE)・共素粒子・共差異の世界でもある。さらに、造語して、共粒子・連粒子・共連粒子の世界とも言えるだろう。
 さて、このパーティクル・共差異の世界であるが、「モダニズム」期において、ヴァージニア・ウルフ以外に、D.H.ロレンスの「作品」に存しているのである。ただし、思想的に表現されている傾向が強いと言えるだろう。しかしながら、小説作品においては、パーティクル・共差異は、コスモス的な場の力になっているように思えるのである。ロレンスの作品のもつ何か異様な臨場感の喚起力に、パーティクル・共差異が変換しているように思えるのである。
 とまれ、思想的表現として、ロレンスの紀行文の『エトルリアの地場(地)』におけるタルクィニアの墓の壁画においてロレンスが発見した「触れ合い」感に、このパーティクル・共差異のコスモスを、典型的に見出すことができるだろう。
 さて、終わりに、「モダニズム」を再定義する必要がある。モナド的「モダニズム」と共差異的「モダニズム」である。前者をハイパー・モダン(過剰近代)、そして、後者をイマネント・トランス・モダン(内在超越近代、略して、内超近代、内越近代)と呼べよう(ポスト・モダンの用語は混乱していて、語弊があるので、避ける)。これまで、ハイパー・モダン(過剰近代)が主流になって、イマネント・トランス・モダン(内超近代)が傍流であったのである。
 このように見るならば、現代、どちらが、未来的で、どちらが反動的であるかは、瞭然である。ハイパー・モダンは、いわば、高度近代主義であったのである。それは、現代の状況の先駆けであったと言えよう。そして、ポスト・ハイパー・モダンとして、イマネント・トランス・モダンを評価する必然性があると言えるだろう。ここで、イマネント・トランス・モダンの哲学の集大成を試みたフランスの哲学者ジル・ドゥルーズが、ヴァージニア・ウルフとD.H.ロレンスを積極的に評価していること、そして、ジョイスやT.S.エリオットやエズラ・パウンドにはほとんど言及していないこと(エリオットに関しては皆無だろう)を想起すべきだろう。(ただし、プルーストは、高く評価していた。プルーストに関しては、微妙なところがあり、私見では、ハイパー・モダンとイマネント・トランス・モダンの中間態のように思えるのである。だから、先の評価を少し修正しないといけない。)】

p.s. 過剰近代(モナド的「モダニズム」)と内超近代(共差異的「モダニズム」)は、出発点において、似ている面がある。それは、神話を創作に活用する点である。T.S.エリオットの『荒地』やジョイスの『ユリシーズ』における神話の活用は、有名である。また、D.H.ロレンスは、彼ら以上に、神話を活用した。ウルフは、それほどでもないが、神話を見ることはできるだろう。
 この問題は、以前言及した、弁証法構造主義と対極性構造主義の区別に関わると考えられる。即ち、過剰近代は前者に、内超近代は後者に関わると考えられる。だから、両者の出発点は、メディア界と現象界の境界、メディア/現象境界である。しかしながら、方向性が正反対なのである。過剰近代は、差異を取り込むような形態をとるが、現象界・同一性を志向するのであり、内超近代は、同一性から差異へと志向するのである。因みに、toxandoria氏の、本稿へのコメントを敷延すると、小泉内閣の「改革」は、過剰近代であり、小沢一郎の「変革」は、内超近代である。
 ということで、ハイパー・モダンとイマネント・トランス・モダンの共通性と異質性の説明を終えたこととしよう。

p.p.s. ここで、ハイパー・モダンの形成の原因を考えたい。これは、イマネント・トランス・モダンと、言わば、双子であろう。なぜならば、モダンが、成熟し、高度化すると、当然、反転するからである。過剰になると、当然、反対の極にもどる力学が作用すると考えられるのである。即ち、モダンは、中世的メディア界を否定して、生まれた個物の世界である。しかし、近世においては、まだ、メディア界の差異が息衝いていた、ルネサンスのように。しかし、近代が深まるにつれて(プロテスタント化)、差異を喪失し、同一性化が強化される。しかし、さらに近代が進展すると、近代の極限に達して、力やエネルギーが反転すると考えられるのである。この反転する領域が、メディア界と現象界の境界、メディア/現象境界である。そして、ここでは、メディア界=差異へと進展する方向性が、積極的であり、現象界=同一性へと、言わば、後戻りする方向性は、反動的である。この二つの正反対の方向性が、二つの「モダニズム」になったと考えられるのである。
 では、過剰近代が、モナド的「モダニズム」になったとはどう説明できるだろうか。それは、正に、弁証法構造主義で説明できるだろう。ここでは、差異は同一性によって統一(ジンテーゼ)されるのである。「正」としての自我同一性があり、「反」としての差異や他者があり、それをさらに否定して、統一的自我の「合」が成立するのである。この統一的自我とは、いわば、絶対的自我であり、差異を否定し尽くした同一性であるから、窓がない近代自我、即ち、モナドなのである。言わば、モナド自我である。おそらく、これは、コギト・エルゴ・スムから、スムを排除したコギトであろう。だから、ハイパー・モダンの場合、近代自我=モナド=コギトなのである。
 以上のように考えると、モナド的「モダニズム」と共差異的「モダニズム」のコントラストが明確・明解になる。同じ「モダニズム」であるが、似て非なるものである。また、換言すると、前者は、いわゆる、構造主義であるのに対して、後者は、トランス構造主義である。
 最後に、この視点から現代社会・世界がよく判別できるだろう。小泉「改革」とは、toxandoria氏のコメントから示唆されるように、モナド的同一性幻想・妄想・詐術なのである。みんな、ばらばらなのである。そして、モナド的同一性である貨幣(マモン)=金融資本中心主義が、違法に、支配するのである。ライブドア、村上ファンド、福井日銀総裁、等々である。新自由主義は、モナド的同一性「モダニズム」である。マヤカシである。
 そして、小沢一郎の共生主義とは、正に、共差異的「モダニズム」、即ち、イマネント・トランス・モダンの政治である。
 
 

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コメント

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■モナド的「モダニズム」に共鳴しました

renshiさま、TBありがとうございます。

モナド的「モダニズム」と共差異的「モダニズム」に共鳴しました。

今まで、まさに歴代の自民党政治がやってきたことは、各モナド間の矛盾と乖離を放置してきた“モナド的「モダニズム」”です。

小泉政治は、その傷口が拡大し過ぎた矛盾と乖離を糊塗するために国民を悪辣なトリックで騙したと考えられます。

そして、渦中の「日銀・福井総裁のスキャンダル」は、その悪辣なトリックのシナリオを炙り出す契機となるような気がします。

toxandoria (2006-06-18 21:45:31)

■悪辣なトリックとモナド・同一性の幻想・妄想・詐術

toxandoria 様

どうもたいへん示唆的で有意義な指摘をありがとうございます。この考えが、小泉似非改革に当てはまるとは思いませんでした。
 そうですね。モナドは、正に、古典派経済に通じますね。見えざる手とモナドの予定調和は一致します。新自由主義は、市場原理&小さい政府という見えざる手で、モナド化した国民を欺いたのです。これは、実にあざとい、悪魔的手法です。結局、見えざる手=予定調和イデオロギーが、悪辣なトリックなのですね。このイデオロギーによって、政治家も国民も盲目状態です。そして、幻想・妄想の下には、同一性というおぞましいマモン・貨幣至上主義が隠れています。即ち、利己的欲望・打算です。悪魔的欲望が支配しています。悪魔は、甘く囁くのですね。うぶな国民は悪辣なサディストのプレイボーイに、貢がされました。
renshi (2006-06-19 00:39:46)

2006年06月06日 (02:18)

『宝島』R.L.スティーブンソン作

『宝島』(1883年) ロバート・ルイス・スティーヴンソン作

場所:
ベンボー提督屋(宿屋):ブラック・ヒルの入り江にある

登場人物
「わたし」=ジム・ホーキンズ:主人公



リヴジー医師

「船長」:フリント船長:ビルと呼ばれる:頬に刃傷がある。アルコール中毒、船員衣類箱をもってきた

黒犬(ブラック・ドッグ):「船長」を探している

ピュー:盲人

トリローニさん:大地主

レッドルース爺さん:猟場番人

のっぽのジョン・シルヴァー:片足で、ホークのもとで働いて、片足を無くした。財産家。細君は黒人。


物語:
第1部:老海賊
第1章:「ベンボー提督屋」へ来た老水夫
「死人の箱にゃあ十五人―――
 よいこらさあ、それからラムが一罎と!」と古い船歌を老水夫が歌った。
第2章:黒犬(ブラック・ドッグ)現れて去る
第3章:黒丸(呼び出し状)
第4章:船員衣類箱:中には、油布でくるんだ書類のような包みと帆布の袋。敵方は、包みを探すため、ベンボー提督屋を荒らす。ジムたちを探す。
第5章:盲人の最後:税務監督官ダンス氏の馬でピューは殺される
第6章:船長の書類:大地主(トリローニさん)の屋敷へジムとダンス氏は行く:大地主とリヴジー医師の話:フリント船長はこの上なしの残忍な船長。ジムのもっていた包みを開ける。中には、一冊の帳簿(会計簿)と封をしてある
一枚の紙があった。一枚の紙には、ある島の地図があった。
《その島は長さ約九マイル、幅五マイルで、ふとった竜が立ち上がったといったような形をしていて、陸でかこまれた良港が二つあり、中央部には「遠眼鏡山」と記された丘があった。・・・赤インクで書いた十字記号が三つあって、――その二つは島の北部に、一つは南西部にあり、あとのほうの十字記号のそばには、おなじ赤インクで、・・・、「宝の大部分はここに」――と書いてあった。》
裏には、同じ筆跡で、詳しく書かれていた。
 大地主のトリローニさんとリヴジー医師とジムは、その島へ航海することを決心する。

第二部:船のコック
第7章:ブリストルへ行く:トリローニさんの手紙:ブリストルで、旧友のブランドリーの周旋で、スクーナ船(ヒスパニオーラ号)を見つけ、ジョン・シルヴァーを見つけ、そして、ジョンと二人で、屈強な老練な水夫の一団を見つけた。ブランドリーは航海長を見つけ、シルヴァーは副船長を見つけた。トリローニさんのロマン主義:「さあ、海へ! 宝なんぞどうだっていい! 小生を夢中にさせているのは海の輝きです。」(p.70)
 ジムは爺さんと、「ベンボー提督屋」に向かい、母に会う。そこを離れて、ブリストルへ駅馬車で行く。さまざな船などに感嘆しながら、ジムはトリローニさんに会う。明日出帆と言う。

第8章:「遠眼鏡屋」の店で
「わたし」ジムは、「左の脚がほとんど股のつけ根のところから切断されていて、左の脇の下に松葉杖をはさんでいた」のっぽのジョンを見た。松葉杖を「おどろくほど器用に使いこなし、それを当てて鳥みたいにぴょんぴょん飛びまわっていた。たいそう背が高くがんじょうな男で、顔はハムのように大きく、――醜男で青白いが、利口そうでにこにこしていた。」「わたし」は、トリローニさんの手紙を渡す。店には、黒犬(ブラック・ドッグ)がいたが、逃がしてしまう。
「わたし」とジョンは、旅館に着き、大地主さんとリヴジー医師に会う。

第9章:火薬と武器
副船長のアローさんと大地主さんはうまくいっているが、スモレット船長は、すべて不満に感じている人間である。彼の意見で、火薬の置き場を移動する。

第10章:航海
副船長のアローは、自堕落で、役立たずの人間であった。ある波の強い晩に彼は消えていた。肉焼き台と呼ばれているコックは、みんなに好かれていた。また、フリント船長と呼ばれた鸚鵡(おうむ)がいた。
 大地主さんとスモレット船長は、よそよそしい関係が続いた。ヒスパニオーラ号の船員たちには、飲み物や食べ物がふるまわれていた。中部甲板に、林檎(りんご)の樽が置かれていて、誰でも食べることができた。「わたし(ジム)」は、仕事の後、甲板で、声がしたので、林檎の樽へ入った。そこで、シルヴァーの声を聞いたのであった。

第11章:林檎樽のなかで聞いた話
シルヴァーは「肝心なのは稼ぐことじゃねえ、貯めることだ。・・・ばかにゃてえしてやくにたたねえとも、それにちげえねえさ、―――金だってなんだってな。」という。分限紳士(海賊)は、一航海で、何百ポンドの金が入るが、シルヴァーは、それを使わないで、そっくり貯めておくと言う。
 シルヴァーの企みは、大地主と医者に宝島の金を見つけさせて、帰りの航海で、かれらをやっつけることだった。シルヴァーはディックを仲間に入れた。舵手(コクスン)のイズレール・ハンズがいた。
 見張りの者が「陸だぞう!」と叫んだ。

第12章:戦争会議
「船からはるか南西に、二つの低い山が二マイルばかり離れて見え、そのなかの一つの背後に、もう一つもっと高い山がそびえていて、その山頂はまだ霧に包まれていた。三つとも、とがっていて円錐(えんすい)形をしていた。」
シルヴァーは島の前方の島は、髑髏(どくろ)島と呼ばれ、海賊たちにとって大事な基地と言った。彼らは、北の方の山を前檣(ぜんしょう:フォーマスト)山と呼んでいる。また、三つの山が南の方へ一列に並んでいて、前檣山、大檣(メインマスト)山、後檣(ミズンマスト)山である。雲のかかった大檣山を海賊は遠眼鏡山と呼んでいる。
 「わたし」ジムは、スモレット船長、大地主さん(トリローニ)とリヴジー先生に、シルヴァーの企みを話した。スモレット船長は好機を捉えて、謀反人たちにうってかかることを提案する。敵方の大人は19人に対して、こちらの大人は6人であった。

第3部:わたしの海岸の冒険
第13章:どうして海岸の冒険を始めたのか
宝島を前にして、船員たちは不平不満をもつようになり、険悪になっていった。船長は、そこで、シルヴァーに船員たちの不平を解消させる機会を与える為に、水夫たちに、午後の間、上陸を許可することを提案した。
 上陸組が編成された。6人、船に留まり、シルヴァーを含めて13人が乗り込み始めた。そのとき、突然、「わたし」は、向こう見ずな考えが浮かび、上陸するボートに乗り込んだのである。そして、ボートの舳(へさき)が岸辺の樹木の間に突っ込むと、「わたし」は一本の枝をつかんでぶら下がり、いちばん近くの茂みへおどりこんだ。シルヴァーの呼ぶ声を無視して、まっすぐにひた走りに走った。

第14章:第一撃
「わたし」は、シルヴァーの話し声を聞いた。そして、彼らの話を盗み聞きすることにした。シルヴァーがトムに話している間、叫び声がした。それは、死の絶叫であった。それは、アランであった。トムは、シルヴァーたちがアランを殺したと考えた。そして、背を向けて去っていったが、シルヴァーは自分の松葉杖を投げて、その杖の先がトムの背中に刺さり、彼は倒れた。そして、シルヴァーは馬乗りになり、ナイフを二度突き刺した。
 「わたし」は、すぐ逃げることにした。恐怖で、狂気じみた疾走であった。そして、いつの間にか、あの二つの峰のある小山の麓に近づいて、森にやってきた。

第15章:島の男
「わたし」は、森の中で、怪物のように思えた男ベン・ガンに遭遇した。彼は、フリントが宝を埋めたときに、フリントの船にいたと言った。フリントは、六人の部下と宝を埋めたが、彼らを殺害した。当時、ビリー・ボーンズは副船長であり、のっぽのジョンは操舵手だった。
 ベン・ガンは、3年前、別の船に乗っていて、宝島にやってきたが、一人置き去りにされたことを述べた。
 突然、雷のような砲声が聞こえた。戦いが始まったのである。やがて、「わたし」は、英国国旗(ユニオンジャック)が森の上空に翻っているのを見た。

第4部:防禦柵
第16章:医者がつづけた物語 どうして船を捨てたか
【語り手が、ここで、ジム・ホーキンズから医者のリヴジーに変わる】
ハンターと「わたし」(イヴジー医師)は、小型端艇(ジョリボート)に乗って、上陸することにした。防禦柵のところへ行き、一つの丸い丘のほとんど頂上のところから清水が湧いていた。その泉を囲んで、堅牢な丸太小屋がつくってあった。「わたし」が気に入ったのは、泉であった。ヒスパニオーラ号の唯一の不備は、水であった。そのとき、人間の断末魔(だんまつま)の悲鳴が聞こえた。「わたし」は、ジムが殺されたと思った。二人は、スクーナー船に戻った。そして、「わたし」は、計画を船長に話した。小型端艇に武器や食料を積んだ。船に残っていたシルヴァーの手下の六人を、おとなしくさせた。荷物を丸太小屋にもっていき、「わたし」はヒスパニオーラ号に戻った。水夫のエーブラム・グレーを仲間に入れて、島に向かった。

第17章:医者がつづけた物語 小型端艇(ジョリボート)の最後の航行
不運にも、潮が引き潮になった。スクーナー船には大砲があり、その砲声があった。ボートには当たらなかったが、あおり風のせいか、ボートは沈んでいった。そして、「わたし」たちは、荷物は沈んでしまったが、無事に岸まで歩くことができた。

第18章:医者がつづけた物語 第1日目の戦闘の終り
戦いがあり、老人のレッドルースが撃たれて、亡くなる。船長が航海日誌を書いていた。そのとき、呼び声がした。ジム・ホーキンズの声であった。

第19章:ジム・ホーキンズがふたたび始めた物語 防禦柵内の守備隊
ジムはベン・ガンから離れて、防禦柵の裏手に行って、味方に歓迎された。休戦旗があがり、シルヴァーが自分でやってきた。

第20章:シルヴァーの使命
シルヴァーは、宝の海図や自分の仲間を殺さないことを条件に、ここから無事に連れ出すことを言うが、スモレット船長はそれを拒否する。

第21章:攻撃
物別れに終わった後、攻撃が始まった。敵と味方の人数の割合は、結果、9対4になった。(その後、8対4になった。)

第5部 わたしの海の冒険
第22章:どうして海の冒険を始めたか
「わたし」(ジム)は、「停泊所の東側を外海から分けている例の出洲(です)を下っていって、昨夕見かけたあの白い岩を見つけだして、ベン・ガンがボートを隠しておいたのがそこかどうかをつきとめようという」計画をたてた。そして、実行した。ベン・ガンのボート(革舟)を発見した。
 次に、夜陰に乗じて、ヒスパニオーラ号の錨綱を切って、漂流させ、船を座礁させようと考えた。

第23章:退潮(ひきしお)が流れる
錨綱が緩んだので、「わたし」は、綱を切った。船尾から垂れている一本の軽い綱をつかんで、船中を覗いた。船が20度も曲がったとき、船中から叫び声が聞こえた。「わたし」は革舟の底に寝そべり、眠ってしまった。

第24章:革舟の巡航
「わたし」が眼がさめたときは、もうすっかり夜が明けていた。宝島の南西端にあった。ホールボール岬の北の森の岬で上陸しようとした。そして、ヒスパニオーラ号を見つけた。「わたし」は、近づいて、革舟を蹴って、第二斜檣につかまった。それから、ヒスパニオーラ号が、革舟をたたきこわした。

第25章:海賊旗を引きおろす
赤帽の男が死んで横たわっていた。そして、イズレール・ハンズが青白い顔していた。「わたしは新しい司令官としての自分の地位に得意然」としていた。

第26章:イズレール・ハンズ
「わたし」とハンズの闘い。ヒスパニオーラ号は乗り上げて、甲板は45度傾いた。「わたし」は、肩のところをマストに突き刺された、そして、もっていたピストル二挺とも発射した。舵手は、海中に落ちた。

第27章:「八銀貨」
「わたし」は海から上がり、防禦柵へ帰った。しかし、「わたし」は捉えられた。シルヴァーたちが、占領していたのである

第6部:シルヴァー船長
第28章:敵の宿営で
「わたし」は、自分がこれまで、盗み聞きして、シルヴァーたちの裏をかいたことをしゃべった。シルヴァーの仲間は、「わたし」をやっつけようとするが、シルヴァーは、「わたし」をかばって、制する。「・・・わしはこの子(ジム)が好きなんだ。こんあええ子は見たことがねえ。・・・」
 水夫たちは、会議する為に、外へ出た。シルヴァーと「わたし」が残された。「おめえ(ジム)はもうすこしで殺されるかもしれねえところだ。・・・やつらはわし(シルヴァー)を排斥(へえせき)しようとしてるからな。だがな、ええか、わしはどんなことがあっても、おめえに味方してやる。・・・わしにゃあ、あめえが頼りになる男だってことがわかったんだ。わしは自分にこういったのさ。ジョン、おめえはホーキンズに味方しろ。そうすりゃあホーキンズはおめえに味方してくれるぞ。おめえはあの子の切り札だし、それから、ジョン、あの子はおめえの切り札だってこたあまちげえないしだぞ! もちつもたれつなんだよ。おめえが自分の証人を救えば、あの子はおめえの首を救ってくれるだろうよ!ってな」
そして、シルヴァーは医者が自分に海図をくれたことを話した。

第29章:ふたたび黒丸
海賊たちの会議があり、黒丸(呼び出し状)をシルヴァーに渡した。それに、シルヴァーは反論し、また、海図を彼らに見せた。そして、彼らを懐柔(かいじゅう)した(彼らを再び、自分の味方にした)。

第30章:仮釈放
医者のリヴジーが丸太小屋にやってきた。そして、治療した。そして、シルヴァーは、リヴジーと「わたし」との話をさせる。

第31章:宝さがし―――フリントの方針
宝探しの探索で、人間の骸骨が見つかる。死体はまっすぐ島の方向をさしていた。

第32章:宝探し―――木の間の声―――
前面の木立ちの真ん中から、声が聞こえた。
「死人の箱にゃ十五人―――
  よいこらさあ、それからラムが一罎(びん)と!」
海賊どもは、これが、フリントの幽霊の声だと思った。しかし、シルヴァーが不安を取り去る。
彼らは、黄金の場所に近づいた。
しかし、「わたし」たちの前には、大きな掘った穴があった。意味は明白であった。宝物の70万ポンドは奪われ、なくなっていたのだ。

第33章:首領の没落
穴をはさんで、海賊たちと「わたし」とシルヴァーが立っていた。そこへ、銃声があり、メリーは撃たれた。シルヴァーが止めの銃を撃つ。そこへ、リヴジー先生、グレーとベン・ガンがやってきた。そして、先生は、ベン・ガンの宝隠しの話をする。島に置き去りのされたベン・ガンは、宝を島の北東隅の二つ峰の山にある洞穴に運んでいたのであった。
「先生は、あの攻撃のあった日の午後に、この秘密をベン・ガンから聞きだし、また、その翌朝、停泊所に船がいなくなったのを見ると、シルヴァーのところへ出かけていって、いまではもう不要となった例の海図を彼にやり、・・・、防禦柵から二つ峰の山まで安全に移る機会を手に入れるため、なにもかも渡してしまった。」
「わたし」たちは、快艇(ギッグ)のところに着き、そして、北浦をさして海路でまわってゆこうとした。ヒスパニオーラ号に出会った。「わたし」たちは、ベン・ガンの宝蔵に近いラム入江に漕いでいった。
 洞穴に入り、大きな山のような硬貨と、四辺形に積み上げられた金の延べ棒があった。
 その夜、たのしい晩餐が行われた。

第34章:それから結末
黄金を船に積む作業が何日か続けられた。そして、船は出帆した。ヒスパニオーラ号は、ある湾内に投錨した。そのとき、シルヴァーが硬貨の袋をとって逃げた。その後、彼らはブリストルに到着した。そして、黄金を、分け合った。

2006年03月20日 (01:47)

茶道のせかい 帰化人のことなど:女神の文化とギリシア悲劇のことなど

以下の記事に、次のようにある。

「2003/07/10 Thu 23:27 祇園まつりはインターナショナル

 ごずてんのうさんて、知ってはりますか?
 天皇家の家系図みてもあらしませんえ。

 祇園祭りのご祭神はほかならぬ牛頭天皇なのであって、今ではスサノウノミコトが牛頭天皇となってるんだそうだ。神話の世界だからおっとりと聞いておくほうがいいのだろう。

 八坂神社によれば、「天照大神の弟のスサノヲノミコト(素戔嗚尊),その妻,クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)が,一説に都に流行る疫病を静めようとインドから牛頭天皇を呼び寄せ、66の鉾を神泉苑に送ったことに始まる。」という。

 そうなるとご祭神はインドにおわしたのだ。牛の頭とどういうカンケイがあるのか、こちらもおっとりと聞いて来たので今もって分からないでいる。 」

牛頭天皇とは、「女神」の文化・社会のシンボルではないだろうか。インドは、牛が聖獣である。そして、牡牛は、「女神」の文化のシンボルである。また、日本古代は、神道は、「女神」の文化・社会を意味すると考えられるのである。だから、私見では、スサノオは、女神の子である。アマテラスの子であり、「日御子」に当たるのではないだろうか。つまり、イシス/オシリスに相当するものとして、アマテラス/スサノオである。もっとも、スサノオは、父権文化・社会の英雄の姿ももっている。
 とまれ、私見では、アマテラス(女神:牡牛)/スサノオ(女神の子)である。
 ここで、想起するのは、ディオニュソスである。どう位置づけるのかである。今思ったのは、アポロとディオニュソスは一体であるということである。つまり、両者はメディア界の極性ではないと思うのである。+エネルギーがアポロであり、−エネルギーがディオニュソスではないかと思うのである。ニーチェの『悲劇の誕生』の世界である。光と闇は、一体であろう。とまれ、アポロとディオニュソスは、女神の双子である。光と闇、+と−の双子である。女神は、根源・イデア界である。 
 この図式をスサノオに当てはめると、スサノオは二重性をもつはずである。そして、確かに二重性をもっている。秩序破壊者としてのスサノオ(−エネルギー、ディオニュソス)であり、秩序構築者としてのスサノオ(+エネルギー、八岐大蛇の征服者)である。これで、いちおう、牛頭天王の問題をいくらか解明したとしよう。
 次に、《「花街・祇園は江戸中期に門前の水茶屋から発展したもの。」ともいう。 》とあるが、花街・祇園とは、また、女神を想起する。そう、祇園祭とは、正に、東アジアの女神文化・社会を象徴表現しているのではないか。
 さて、以上から考えると、女神は、双子をもつだろう。そして、父権文化・社会の始まりには、双子や兄弟の神話が多いが、それは、女神文化・社会の裏返しなのだろう。『ギルガメシュ叙事詩』のギルガメシュとエンキドゥーの一種双子・兄弟性。そして、聖書のカインのアベル殺し。ローマ神話のロムルスとレムスの兄弟。海幸・山幸。
 さて、このように考えてきて、ギリシア悲劇のことを思うのである。+エネルギー(アポロ)は、父権制となり、−エネルギー(ディオニュソス)は、脱父権制となる。これは、現象界とメディア界のことと言ってもいいだろう。現象界とメディア界の争闘である。思うに、父権的現象界の傲りに対するメディア界側の批判がギリシア悲劇の叡知なのではないだろうか。デルフォイのアポロン神殿の神託やバッカスの反逆は、そのことを意味しているのではないか。メディア界とは、いわば、バランス界である。このバランスを現象界は崩しているのである。しかし、私の直観は、さらに、イデア界への志向を感じるのである。そう、エウリピデスの『バッカスの信女たち』におけるバッカス(ディオニュソス)の支配者に対する復讐であるが、それは、ちょうど現代ポスト近代期に通じる動きがあると思うのである。つまり、現象界的父権制に対する、バッカス(−エネルギー)のエネルギーの発動である。そして、それは、父権制を解体するのである。その脱構築とは、当然、イデア界を志向していると言えるだろう。歴史を見ると、エウリピデスが、紀元前5世紀の作家で、プラトンが、ほぼ紀元前4世紀の哲学者である。古代ギリシア社会は、父権制が腐敗して、−エネルギーが発動して、イデア界を志向していたのではないか。そして、そこに、大哲学者プラトンが出現したということではないだろうか。結局、ギリシア悲劇とは、現象界中心主義に対するメディア界のバランス志向であり、またさらに、イデア界を志向していたということになるだろう。
 とまれ、今は粗雑なまま書き記すに留める。

参考:ギリシア文化
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kodai/23-greece5.html
デルフォイの神託
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/0401/delphoi.html?PHPSESSID=6fb63c89bc928139b35caccb857371f4
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茶道のせかい 帰化人のことなど 2006/03/19
 京都の歴史には帰化人は切っても切れない関係がある。祗園祭りで有名な八坂神社の「八坂氏」、上賀茂神社の「賀茂氏」、太秦地区の「秦氏」など、すべて文化を伝播した豪族であり、「帰化人」なのであった。松尾神社、伏見稲荷神社も秦氏の奉祀した神社である。

 桂川の大堰を築堤したり都城の造営等、また絹織物の技に秀でていた彼らが京の都に大きく貢献したことははかり知れない。

 3年前になるが、祗園まつりの茶会にでかけた私は、「八坂氏」が高麗の人だったことをあらためて知り驚いたことがあった。その日のことをノートブックに書いている。
・・・
http://www.janjan.jp/column/0603/0603181018/1.php?PHPSESSID=3b87cdc570afdf8888810891767fe781
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祇園祭
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長刀鉾
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長刀鉾

祇園祭は日本各地の祇園社と呼ばれる神社 に対して行われる祭り である。代表的なものは京都 の綾戸国中神社 と八坂神社 が合同で行う祭りで、京都三大祭り(他は上賀茂神社 ・下鴨神社 の葵祭 、平安神宮 の時代祭 )の一つである。日本三大祭りの一つとされることも多い。7月を通じて行われる長い祭りである。とくに山鉾巡行や宵山が有名。宵山には屏風祭の異名がある。

一説には、869年 、疫病の猖獗を鎮める祈願を込めて、卜部日良麿が66本の矛で牛頭天王に御霊会を行ったのがその起源であるという。970年 から毎年行うようになった。その後、応仁の乱 や第二次世界大戦 などでの中断はあるものの、現在も続いており、千年を超える歴史がある。かつては祇園御霊会(ぎおんごりょうえ)とよばれていた。その略で、現在でも祇園会と呼ぶこともある。
ちなみに諺で「後の祭り」というものがあるが、これは祇園祭の大一番である山鉾巡行が終わり、この後の祇園祭がたいしてメインとなるものがないことからこの諺が言われるようになったとされる。
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スケジュール

* 7月1日 - 吉符入(きっぷいり)。祭りの始まり。
* 7月2日 - くじ取り式。山鉾巡行の順番を決めるもの。室町時代から競争を避けるために行われるようになった。ただし、さきの巡行の先頭の長刀鉾、5番目の函谷鉾、 21番目の放下鉾、22番目の岩戸山、23番目(さきの巡行の最後)船鉾、あとの巡行の先頭の北観音山、次の橋弁慶山、あとの巡行の最後の南観音山は「くじ取らず」と呼ばれ、順序が予め決まっている。京都市役所 の市会 議場で行われる。
* 7月10日 神輿洗い
* 7月10日から13日まで -山建て鉾建て。分解収納されていた山・鉾を組み上げ、懸装を施す。
* 7月14日 - 宵々々山
* 7月15日 - 宵々山
* 7月16日 - 宵山
* 7月17日 - 山鉾巡行。祇園祭のハイライト。山鉾からは祇園囃子のコンチキチンという独特の節回しが聞かれる。現在のような囃子ができたのは江戸時代から。また豪奢な山鉾の飾りも見どころの一つ。かつては山鉾巡行自体が17日(前祭・さきのまつり)と24日(後祭・あとのまつり)の2度行われていたが、1966年より 17日に統合された。鉾の数は現在は32基で、これも時代によって変化している。山鉾は午前9時に四条烏丸を出発し、午前中にコースを回る。見所の一つは辻回しと呼ばれる鉾の交差点での方向転換である。鉾の車輪は構造上方向転換が苦手であるため路面に青竹を敷き水をかけ滑らして向きを90度変える。
* 7月17日 - 神輿渡御。山鉾巡行で浄められた御旅所へ、八坂神社から神輿が渡る神事。この夜から7日間滞在する。誰とも言葉を交わすことなく七夜お参りすれば、願いが叶うというのが「無言参り」。
* 7月24日 - 花傘巡行。上述の後祭の変化したもの
* 7月28日 - 神輿洗い
* 7月30日 - 夏越祭(なごしまつり)。祭りの終わり。

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山鉾一覧
蟷螂山(屋根上のカマキリが動く)
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蟷螂山(屋根上のカマキリが動く)

* 鉾
o 長刀鉾
o 函谷鉾
o 鶏鉾
o 月鉾
o 船鉾
o 綾傘鉾
o 四条傘鉾
o 菊水鉾
o 放下鉾
* 山
o 岩戸山
o 保昌山
o 郭巨山
o 伯牙山
o 芦刈山
o 油天神山
o 木賊山
o 太子山
o 白楽天山
o 孟宗山
o 占出山
o 山伏山
o 霰天神山
o 蟷螂山
o 北観音山
o 南観音山
o 橋弁慶山
o 鯉山
o 浄妙山
o 黒主山
o 役行者山
o 鈴鹿山
o 八幡山

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カテゴリ : 日本の祭り | 日本の年中行事

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デルポイ
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世界遺産 デルフィの古代遺跡
(ギリシャ )
競技場跡
競技場跡
(英名) Archaeological Site of Delphi
(仏名) Site archéologique de Delphes
登録区分 文化遺産
登録基準 文化遺産(i),(ii),(iii),(iv),(vi)
登録年 1987年
拡張年
備考
公式サイト ユネスコ本部(英語)
地図
デルポイの位置
世界遺産テンプレートを使用しています

デルポイ(ギリシア語 :Δελφοι、デルフォイとも)はギリシア本土、パルナッソス山 のふもとにあった古代ギリシア の都市国家 (ポリス )である。現在は遺跡 となっており、ユネスコ の世界遺産 (文化遺産)に登録されている。


デルポイの遺跡は、アポロン 神殿 を中心とする神域と、都市遺構からなる。神域に隣接して、有力な各諸都市の財産庫も築かれていた。 古代ギリシアにおいてデルポイは世界のへそ (中心)と信じられ、ギリシア最古の神託所であるボイポス・アポロンの神殿の神託 で有名であった。デルポイの神託はすでにギリシア神話 の中にも登場し、人々の運命を左右する役割を演じる。デルポイの神託が登場する神話には、オイディプス 伝説がある。

神がかりになったデルポイの巫女 によって、謎めいた詩の形で告げられるその託宣は、神意として古代ギリシアの人々に尊重され、ポリスの政策決定にも影響を与えた。また時には賄賂を使って、デルポイの神託を左右する一種の情報戦もあったといわれる。デルポイに献納する便のために、ギリシアの各都市はデルポイに財産庫を築いた。これは一種の大使館の役割を果たしたとも考えられる。

史実において有名なデルポイの神託には、ヘロドトス の『歴史』が伝えるアテナイへの二つの神託がある。ペルシア戦争 時にアテナイは初め滅亡を暗示する神託を得たのち、再び使者を立て、以下の神託を得た。

されどアイギス 保つゼウス の御娘 は、
木の壁のみを守りとてアカイア人 に与え給う。 ヘロドトス『歴史』

これをアテナイ市街を焼き払って当時は木造の壁に守られていたアクロポリスに籠城すると解釈するものがあったが、テミストクレス は「木の壁」を船を指すものと解釈し、三段櫂船 を造らせて、サラミスの海戦 にペルシア軍を破った。

またソクラテス の友人はデルポイで「ソクラテスより賢い人間はいない」という神託を得て、その哲学 的探求を促した。この神託に疑問を持ったソクラテスは当時知者とされた人々を訪ねてまわり、結果として、真の知者はおらず、ただ「知っていると思っている」人ばかりがいることを見出し、「知らないと思っている」点でのみ、わずかに自らがそれらの人々より賢いと思うに到った、と、プラトン の『ソクラテスの弁明 』他の古代の証言は伝えている。

その後ギリシアの政治的地位の低下と伝統的宗教の衰微とともに、キリスト教 を待たず、古代末期にはすでにデルポイの神託はかつての地位を失った。プルタルコス は、デルポイの神託について、その衰微を中心として数篇の著作を残している。
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交通

・アテネより高速バス
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世界遺産

この世界遺産は、文化遺産の世界遺産登録基準 における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

* (i) 人類の創造的天才の傑作を表現するもの。

* (ii) ある期間を通じて、または、ある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、町並み計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。

* (iii) 現存する、または、消滅した文化的伝統、または、文明の、唯一の、または少なくとも稀な証拠となるもの。

* (iv) 人類の歴史上重要な時代を例証する、ある形式の建造物、建築物群、技術の集積、または景観の顕著な例。

* (vi) 顕著な普遍的な意義を有する出来事、現存する伝統、思想、信仰、または、芸術的、文学的作品と、直接に、または、明白に関連するもの。

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関連項目

* 世界遺産の一覧
* Delphi

"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%87%E3%83%AB%E3%83%9D%E3%82%A4 " より作成

カテゴリ : ギリシャの世界遺産 | 世界遺産 | 古代ギリシア
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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