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2010年08月26日 (20:01)

Media Point Mechanics(MP力学)について:差異共立MP1の超越的エネルギーと差異共振MP2の物質的エネルギー:光と暗黒物質

Media Point Mechanics(MP力学)について:差異共立MP1の超越的エネルギーと差異共振MP2の物質的エネルギー:光と暗黒物質


差異共立MP1と差異共振MP2との力学関係、あるいは、前者から後者がどのように発生するのか、その力学を解明したい。(先に思ったのは、空海の両界曼荼羅であるが、金剛界曼荼羅が前者で、胎蔵界曼荼羅が後者ではないかということである。)

 先に、両者のエネルギーは同時生起的であると作業仮説した。この発生力学は霊妙である。これは、いわば、即非転換、即非変換である。MP1では、差異が保持されるが、MP2では、差異が連続化されて、同一性過程に入るのである。

 直感では、両者のエネルギーは異なるはずであるが、どうだろうか。思うに、前者を超越的エネルギー、後者を物質的エネルギーということができるはずである。そして、量子力学とは、本来、前者を扱うものであるが、物質主義の枠(近代的パラダイム)があるので、両者を混淆させているのである。そのために、例えば、長距離相関のようなトリッキーな発想が生まれるのである。この点は既述済みであるが、一言いうと、量子は、前者に存するのであり、それが、後者の領域に、つまり、物質的空間にあるように考えているところから生まれた奇想である。思うに、量子という粒子は単に、物質主義的発想から仮定されたものであり、仮想、虚構、幻影である。本体、実体は、MP1に存するのであり、それは、差異共立様態である。思うに、量子とは超越的双極子と考えるのが適切である。即ち、凸i*凹iである。⇒は、主にMP2を指し示すと考えられる。

 問題は電磁波である。量子論の問題は、上述したように、MP1とMP2とを区別せずに、混同して記述することにある。つまり、超越的存在(超在)と物質的存在(物在)を混同しているのである。そう言おう。MP1の領域とは、霊的領域であり、霊性から物質が生まれるのである。つまり、量子とはいわば霊的双極子(霊極子、霊子)である。霊的エネルギーが物質現象を発生させているのである。霊的エネルギーがMedia Pointを介して、物質変換しているのである。思うに、霊的エネルギーの生成消滅があるはずである。しかしながら、MP1におけるエネルギーとは、生成消滅を反復する、というか、生成と消滅が同時生起しているのではないだろうか。エネルギーの消尽と無尽性があるのではないだろうか。もし、消尽するならば、現象界、自然界は即消滅するはずである。無窮のエネルギーが考えられるのである。

 とまれ、Media Point Mechanicsは結果として、MP1がMP2によって隠蔽されることが重要な事象である。日常においては、MP2に拠る物質的感覚知覚認識を行うのであり、MP1の超越界は隠蔽されたままである。いわば、オカルト状態なのである。(もし、ハイデガーの存在論に積極的な意味があるとすれば、それは、MP1を存在と見ることである。しかしながら、存在というと物質的存在と混淆されたままであるので、少なくとも、超越的存在と呼ぶべきである。)

 さて、ここで問題となるのは、光をどう理解するのかである。光は物質ではないからである。思うに、光は特異な存在である。エネルギーはあるが、質量がないからである。だから、光とは、霊的存在に近いのである。物質化しないということは、同一性化しないということである。つまり、Media Point変換をしないのである。すると、光とは差異共立様態であると考えられる。おそらく、光は霊的エネルギーそのものである。それは、いわば、霊界から直截に現象界に現れたものである。

 では、なぜ、差異共振しないのか、問題である。それは、差異双極子のバランスがとれているからではないだろうか。凸iの傾斜があると同一性化すると考えられる。だから、凸iと凹iとの調和様態として光があるのではないだろうか。調和様態をとりあえず、∞の記号で表記すると、凸i∞凹iが光である。だから、光の方程式は凸i∞凹i⇒である。

 そう、言い換えると、光は神と言っていいだろう。それは、差異共立領域においては、薄明twilightであると思われる。薄明が光へと変換するということになる。とまれ、光の問題は検討課題である。

 さらに問題はマイナス1の事象である。イデア論からすれば、超越界からマイナス1のダーク・マターが生まれないといけない。そう、先進波を考えると、それが、マイナス1と関係するのではないだろうか。先進波がダーク・マターを形成するのではないのか。これも検討問題である。

 直感で言えば、ダーク・マターとは、霊的存在である。だから、MP1に近いのである。思うに、ここには、身体、体の問題がある。MP2がプラス1の物質と関係するならば、MP1はマイナス1の暗黒物質と関係すると考えることができる。だから、マイナス1は霊的身体、霊的体なのではないだろうか。もし、霊界というものがあるなら、それは、マイナス1ではないのか。これもまた検討課題である。



追記:ダーク・マターはダーク・ボディ、暗黒身体、暗黒体とした方がいいのではないだろうか。
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2010年02月06日 (14:55)

検討問題:-iの意識と現象について:潜在性としての-iと顕在作用としての+i

対象と一体となる-iということであるが、一体、そのとき、対象とは何か。先に、-1ではないかと示唆した。
 +1ならば、物質である。客体・存在である。しかし、一体となるとき対象は物質ではないだろう。
 それは何か。光の現象と一体となっているのだから、対象は現象、光現象である。
 現象とは何かと言えば、それは、⇒+1である。⇒付きの+1である。なぜなら、+1は単に物質だからである。では、-iが⇒+1と一体化するということになる。
 少し違う視点で考えよう。-iとは内在的他者である。しかしながら、これが、外在的他者と一体化するのである。
 では、外在的他者とはどう記述できるのか。思うに、それは、内在的他者に還元されるのではないか。つまり、内在的他者としての外在的他者である。
 そうすると、端的に、一体化する対象は内在的他者である。言い換えると、「わたし」の中の他者と一体化するのである。ということは、「わたし」の中には、森羅万象があるということになるだろう。
 そう考えると、プラトンのコーラとは、-iではないだろうか。ここに全可能性ないしは全潜在性があるのであるから。イデアとは、-iにあるのではないだろうか。
 もし、そうならば、+iとはどういう働きをするのか。私は、知的認識作用と考えている。フッサール現象学で言えば、志向性である。それは、他者-iへの志向性である。
 フッサール的に言えば、+iは形相作用ではないだろうか。しかしながら、原形相は-iにあるのではないのか。それを+iは形相として浮き彫りにするのではないだろうか。
 つまり、原形相、潜在的形相が-iである。それ顕在化させ形相にするのが、+iの作用ではないのか。前者が闇の形ならば、後者は光の形成作用である。両者が結合して、闇の形が光の形になるのではないだろうか。この光の形が現象、光現象ではないのか。
 だから、-iが現象と一体化するというのは、当然である。なぜなら、現象は-iを極としてもっているからである。いわば、負極である。つまり、現象とは、正極の+iと負極の-iをもち、両者が共振して生起したものである。
 だから、-iは現象のいわば潜在面へ「融け込む」である。そして、+iは現象の顕在面を知覚するのである。
 今はここで留める。後でさらに検討したい。

2009年12月24日 (14:51)

「聖霊」のときとdark Godのとき:自己認識と超越的他者

以下のAkehino(Kaisetsu)氏の洞察は非常に深い。
 自己認識のときと、超越的他者による自己と他者の認識のときが、まったく異なるということである。
 私が想起したのは、D. H. ロレンスの「聖霊」論である。「父」と「子」の絶対的対立がある。しかし、「聖霊」のときがあり、そのとき両者は和解するのである。つまり、即非のときと言えよう。それは、以下では、□のときに当たるだろう。
 では、the imaginary personの認識のときとは何だろうか。それは、ロレンスが求めた「神」、dark Godのときではないだろうか。darkはblackではなく、unseenの意味ととるべきである。unseen Godである。
 後でさらに検討したい。

***********************

The formation of imaginary action in media point □.


・・・・・

These discontinuous actions is seen as a sequences of vibration.

The discontinuous vibration is the following repetition.

1) □
2) 凸,凹
3) □
4) 凸,凹
5) □
..........
..........
..........

And □ is divided into 凸 and 凹 with imaginary cut knife(Vertical action).

And 凸 will move itself and find 凹 to the automatic target on the horizontal field.

Then only when 凸 meets 凹, 凸 can recognize 凸-self. And at the same time, 凸 will disappear into □.

So at the time "1),3) and 5)..." , 凸 will be able to recognize itself.

On the other hand, we can imagine another person who holds "imaginary cut knife".

Please remember the famous picture of Rene Magritte, " This is not a Pipe".

nepapipe nepapipe posted by (C)天花一海

The person with imaginary cut knife is the same one who indicate "This is not Pipe".

This imaginary person can recognize 凸 and 凹 at the time only as "2) and 4)....".
And at the recognizing moment, 凸 and 凹 will disappear into □.

It is the cause of "the perversion and the mistake" that 凸 and "the imaginary person" cannot recognize 凸 at the same moment.

The recognizing moment is absolutely different between 凸 and "the imaginary person"

Sometimes we say "the imaginary person" as God.

『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu 
***********************

参照1:
原爆ドーム―香椎羊雪集 (論文編3)
著:香椎羊雪
出版社:(株) 近代文藝社

商品レビュー

1 Introduction―The Testment by Prof.Tadao Yanaihara
2 D.H.ロレンスの『アポカリプス』の宗教融合についての一考察―エーリヒ・ザウアーの贖罪論を中心として
3 D.H.ロレンスの『聖霊』についての宗教社会学的考察―ロレンスの聖霊降誕(ペンテコステ)の解釈の問題点を中心として
4 現代キリスト教に見られる儀文的傾向
5 The Dragon and the Holy Spirit:A Note on Lawrence’s
6 The Symbolic Meaning of Ise Shrine:Ise Shrine in Japan and Tabernacle in Ancient Israel

[要旨]
神道は縄文時代の共生と循環の思想を根底としていて、21世紀の重要な思想となり得る。その時代の人間は自然を畏敬し動物にも植物にも宿る神々がいると恐れた。D.H.ロレンスはキリスト教国、英国に生き動き存在した人間だから、これを「キリストの聖霊が宿る」と解釈した。彼の思想と日本の神道思想との接点である。贖罪によるきよめと再生について本論文は言及している。
http://books.livedoor.com/item/405228
参照2:
ファシズム的連続的全体主義からトランス・モダンの差異共振意識へ
テーマ:D.H.Lawrenceの『死んだ男』
これは、論文のテーマの一つであるが、D.H.ロレンスは、同時代の全体主義的潮流に近づいた時期があった。

しかし、ハイデガーとは異なり、それを乗り越えて、トランス・モダンの差異共立ないし差異共振の意識へと進展したと考えられる。

興味深いのは、「隠れた神」と「脊椎的意識」を述べていることである。前者が「精神」であるが、後者が民衆・衆生の身体である。

ロレンスは、この両者が必要であると言っている。ちょうど、大乗仏教の発想と似ているのである。すなわち、前者が悟りであり、後者が衆生救済である。

問題は、後者に関して、極性があると述べていることである。それは、「愛」と「力」の極性である。そして、「現代」は「力」の時代であると述べるのである。「力」は連続的同一性による暴力と言えるのではないだろうか。

ここにおいて、ロレンスは、全体主義的傾向を帯びたのである。

問題は、一見、「隠れた神」と「脊椎的意識」は同一であると思われるのであるから、それを分化しているのは、意外なのである。

これは、天と地と言い換えることができるだろう。

そう、ロレンスは、いみじくも、「隠れた神」の志向をニルヴァーナと言っているのである。

大乗仏教ならば、衆生への志向性をもつのである。

そう、直観では、ロレンスは、大乗仏教的発想に近いのである。

思うに、「隠れた神」が虚数軸・超越界であり、「脊椎的意識」とは、実数軸・現象界ではないだろうか。

ならば、「脊椎的意識」の極性とは、+1と-1のことになるのであはないだろうか。

「愛」が+1で、「力」が-1ではないだろうか。

思うに、「隠れた神」がiで、「脊椎的意識」が-iかもしれない。

これで、天と地とになる。

なにか、ロレンスの考えは、混乱しているように思える。

「隠れた神」=i=天、「脊椎的意識」=-i=地とすると、この両者がロレンスは必要であると述べているのは、i*(-i)のことを言っているように思える。元知と元身体の共振である。

そして、「脊椎的意識」に極性があるというのは、共振性と非共振性ではないのか。

共振性は、⇒+1であり、非共振性は、⇒-1であろう。

「愛」と「力」である。

そして、「現代」は、後者の時代であると説いているのである。これは、ファシズム・全体主義に通じると言えよう。

これは、今日の日本で言えば、従軍慰安婦は、日本軍に強制されなかったという「力」=暴力の発想と共通だろう。

個ではなく、連続的同一性(国家民族主義)に拠る集合的発想である。

ロレンスは、結局、この発想を乗り越えて、+1の思想に到達するのである。差異即非共振の観念である(『死んだ男』)。

ロレンスのコスモスの思想もそういうものだろうし、最晩年の『黙示録論』も、-1を否定して、+1を説いていると言えよう。

思えば、ロレンスには、父権的意識が強いのである。否、母権的意識である。これは、-i*(-i)⇒-1であろう。

ロレンスの言う「力」とは、近代合理主義への反動であろう。だから、等価になってしまうのだろう。

ちょうど、ロマン主義的反動である。

イギリス・ロマン主義の詩人ワーズワースは、underpower下部の力を説いたが、同じであろう。

身体性の反動である。

そう、現代日本の問題はこれであろう。身体の反動である。小泉にしろ、石原にしろ、東国原にしろ、身体性の反動だと思う。

主人への反抗なのである。叛乱なのである。反逆なのである。一種左翼的なのである。

非合理主義なのである。

生の哲学である。

ハイデガー哲学である。

しかし、これは、同時に、i*-(-i)⇒-1でもあろう。

とにかく、連続的同一性主義である。

エネルゲイアというよりは、フォースである。

物質的暴力である。

現代日本の場合、近代主義への反動としての倒錯があると思う。戦後を否定するのは、ある意味では正しいが、それが、反動となり、極端となり、同一になっているのである。

やはり、-i*(-i)⇒-1であろう。

だから、全体主義・ファシズムなのである。

欠落しているのは、差異共振性である。

メディア・ポイントの明晰判明な知性である。

メディア・ポイントの叡知である。

メディア・ポイント・クロス(十字架)の叡知である。
http://ameblo.jp/renshi/entry-10028092189.html
http://ameblo.jp/renshi/theme-10000374060.html
Japonesian Trans-Apocalypse:Trans-Modern New Platonic Trans-Creation

2007年03月23日 (17:26)

MP現象学:メディア・ポイントはどう認識されるのか:内的身体と大地性:メディア・ポイントの太極性

メディア・ポイントを介して、超越性は天上性であり、現象性は地上性であると言ったが、では、大地性はどうなるのか。また、端的に、MPはどう知覚・認識されるのか。

大地性ないし霊的大地性、あるいは、身体的霊性のことであるが、それは、これまで、内的身体性と呼んできた。

そして、端的に言えば、この大地性とは、メディア・ポイントのことと考えられるので、メディア・ポイントの、いわば、経験論的知覚・認識は、内的身体によると考えられるのである。

この内的身体をスピノザの心身平行論は説いていないのであるが、実質は、そこに潜在していると考えられる。

つまり、知と身体との中間態としての内的身体にメディア・ポイントが知覚されると考えられる。ただし、通常は、現象界の同一性とその連続化(自我・無明化)によって、それは、純粋ではなく、混合・混淆・混濁した様態にあると考えられる。

内的身体の純粋化によって、メディア・ポイントは知覚・認識されると考えられる。仏教はこれを説いてきたし、その他の宗教や神話は同様に考えられよう。

言い換えると、純粋メディア・ポイント認識である。当然、自己認識である。

とまれ、簡単にいうと、メディア・ポイントとは大地である。
超越性=天上性と現象性=地上性との即非点としての大地(=内的身体)である。

この観点から見ると、近代主義は、メディア・ポイントにおいて、現象性=地上性の同一性を連続化させて、メディア・ポイントの超越性=天上性を、いわば、簒奪するように否定したように思われる。

本来、メディア・ポイントにおいて、超越性=天上性があるのであるが、それが、現象性=地上性の連続化(近代合理主義、唯物論、近代的自我)によって、盲目的に覆われてしまったように思えるのである。

つまり、認識主体は自身を、連続的同一性空間で満たしていて、それで目が眩んでいる様態なのだと思う(無明)。そう、連続的同一性的無明である。現代の自己愛性人格障害である。本当は、自我愛性人格喪失障害であるが。

ここには、ニーチェのいう賎民性があるし、ロレンスのいう自我栄光化があるし、私のいう劣弱さな心性があると考えられる。

端的に言えば、超越性の喪失である。

というか、より正確に言えば、超越性の否定があるのである。悪霊・悪魔性である。

世界大戦を生んだもの、マルクス主義を生んだもの、イラク戦争を生んだもの、等々は、この超越性の否定=悪霊・悪魔性に拠る。

これまで、この根因の説明として、男性性のもつ連続的同一性の傾斜性を提起した。正確に言うと、同一性への傾斜であろう。

即ち、原始ないし初期メディア・ポイントにおいて、その位階的即非点において、超越的エイドスと現象的形相の位階二相があるが、超越的自己は、現象界において、当然、後者を基礎として、現象知覚・認識を形成していく。すなわち、現象的同一性化である。しかしながら、本来、自然現象は、差異を内包している。この差異は、超越性である。つまり、超越的差異を内包しているのである。便宜的に図式化すれば、同一性・差異・同一性・差異・同一性である。

しかるに、人間の認識、とりわけ、男性の認識は、同一性中心となり、差異を否定・無化し、連続化するのである。即ち、

連続的同一性・連続的同一性・連続的同一性・・・・・

である。これは、+1⇒+1⇒+1の変形として、

-1⇒-1⇒-1と表記できよう。

これが、連続的同一性=悪霊・悪魔性の公式であろう。

さて、メディア・ポイントの位階的即非性から、この悪霊・悪魔性の発現の意味を再考してみよう。

人間の精神性、倫理・道徳性は、メディア・ポイントに於ける超越性に基づくと考えられる。何故なら、ここは、位階性があり、超越性は高貴なものであり、同一性から見ると、高いものであるからである。

善は、ここから発生すると言えよう。

善のイデアがここにあると言えよう。

i*(-i)⇒+1から見ると、左辺の-iが他者、原-他者であり、それは、原自己との関係においては、高貴なものと言えよう。

しかし、メディア・ポイントの地上的同一性を見ると、それは、いわば、水平的な関係にあると言えよう。これは世俗性となる。

つまり、メディア・ポイントにおいて、本来、位階的天地性があり、これが、位階的秩序(コスモス)を形成していると言えよう。

しかるに、近代主義になると、超越性が否定されるので、水平的世俗性が、連続的同一性が価値となるのである。これは、本源的な価値観の否定である。群衆・愚民・衆愚政治化である。

ここで、超越性の否定・無化の意味を考えたいのである。

思考実験として、もし、超越的差異性を現象・世俗界において、ある個人が保持した場合、どうなるのか、である。

そう、思うに、メディア・ポイント的意識があり、また、現象界は同一性界なので、個人は認識において混乱・当惑するだろう。

思うに、初期において、メディア・ポイント的位階的意識は未分化的で、天地の区別が不明瞭であると思うのである。

混淆した意識をもつであろう。

問題は、やはり、一神教的意識、父権的意識である。

これが、天地を引き裂くのである。それまでは、メディア・ポイントに於ける天地混淆意識であったが、ここにおいて、二元論化するのである。

私は以前から近代主義はここといわば血繋がりであると考えている。そして、この点については何度も試論したのである。

人類史の最大の問題がここにあると言っても過言ではない。

直観で言うと、これは、知の問題である。同一性知性の問題である。

左脳の問題である。思うに、先に述べたが、超越性は右脳性であり、現象性は左脳性である。

イデアやヴィジョンは右脳と関係すると思うのである。(これは便宜的に言っているのである。基盤は超越性であり、その物質的発現が右脳ということである。)

これは、表現としては、イメージ表現となるだろう。あるいは、芸術・芸能的表現となるだろう。

ここには、言語による同一性認識がないのである。

言語があっても、それは、超越性のための言語であり、同一性認識のためのものではないだろう。

しかるに、一神教・父権主義の発生とはこの位階への否定としてあったと考えられるのである。

超越性⇒同一性という位階性が否定されて、同一性⇒同一性となったのではないだろうか。つまり、これは、超越性の位置を同一性が占領したということになるのではないだろうか。

同一性⇒同一性の公式において、左辺の同一性がいわば、超越的同一性であり、右辺が連続的同一性ではないだろうか。

左辺の超越的同一性が一神教の神、唯一神ではないだろうか。

そして、これは、当然、同一性・差異・同一性という現象界の差異を徹底して否定・無化するだろう。それが、⇒同一性であろう。

具体的に言うと、ブッシュの軍事的民主化路線とは、正に、この超越的同一性⇒連続的同一性の公式の具現ではないか。

超越的同一性⇒連続的同一性

これを同一性絶対的全体主義と呼びたい。日本は正に、アメリカの超越的同一性の支配を被り、連続的同一性化しているのである。つまり、悪霊・悪魔化である。

しかしながら、本考察によって、根源的悪霊・悪魔は、連続的同一性ではないことがわかるだろう。連続的同一性は結果に過ぎないのである。

大悪霊・大悪魔は、超越的同一性である。言い換えると、唯一神が大悪霊・大悪魔である。

確かに、これも元々は連続的同一性ではあるが、位置が異なるのである。

問題は、超越性を同一性が占領支配することである。

これが、端的に、悪霊・悪魔性である。傲岸不遜である。現代日本は悪霊・悪魔が跋扈している。

いったい、この同一性力学は何なのだろうか。

そう、+1の同一性と-1 の同一性がある。そして、前者は、肯定的なことである。しかし、後者が否定的であり、悪霊・悪魔的である。

超越的差異が+1として同一性化することは、真の知を意味し、人間のエンテレケイアであろう。

しかるに、-1として同一性化することは、邪知であり、悪霊・悪魔的であり、邪道・魔道・外道・極道である。

近代主義は後者であったのである。だから、世界戦争やマルクス主義が生起したのである。

やはり、男性の同一性傾斜を考えることになるのである。

男性は同一性傾斜があるので、当然、超越性を否定・無化する傾向にあると言えよう。つまり、男性は悪霊・悪魔的であるということになるだろう。

男性は悪霊・悪魔である。女性は天使・精霊的なのである。

近代主義が男性=悪霊・悪魔が支配して、女性=天使・精霊が屈服した時代であったと言えよう。

しかしながら、男性=悪霊・悪魔の支配は、同一性知性の時代であった。近代科学・技術、唯物論的科学の時代であった。ここに、積極的な、同時に、危機的な意味があると言えよう。

エネルギーの配分において、同一性へと帰結する時があると考えられる。易経で言えば、陽の極まりである。

これが、近代主義の意味ではないだろうか。

すると、陽極まりて陰に転ず、である。

同一性へと傾斜したエネルギーが反転して、差異へと転換するということではないだろうか。即ち、超越性へと回帰するということではないだろうか。

ここで、メディア・ポイントの位階即非様相を考えると、ここには、デュナミス=ポテンシャル・エネルギーが本源的に存する。

そして、同一性への傾斜は、同一性エネルギーの発動を意味するだろう。しかるに、エネルギー保存則から言うと、同一性エネルギーに放出に対して、それに対する反同一性エネルギーが発出するはずである。

これが、差異エネルギーであり、超越的エネルギーではないだろうか。

差異-同一性-差異-同一性の系列で考えると、近代主義は、同一性が優勢であった。即ち、

劣位・差異ー優位・同一性ー劣位・差異ー優位・同一性

であったろう。

しかるに、これが反転して、

優位・差異ー劣位・同一性ー優位・差異ー劣位・同一性

と転換するのではないのか。

つまり、同一性と差異性との極性バランスがあるのではないだろうか。

思うに、ポスト・モダンとは、反転性をもっていたが、まったく不十分で、同一性、とりわけ、連続的同一性に囚われていた、つまり、実数軸空間に囚われていたので、頓挫してしまったと言えるだろう。

確かに、反転の志向性はあったといえよう。

そして、この反転の潮流は、止まらないだろう。差異・超越性へのエネルギーが賦活・活性化されていると考えられるからである。

この差異・超越性エネルギーの潮流とは、言い換えると、情報革命である。差異的情報がIT等によって爆発的に活性化したのである。

これは、超越性の活性である。そして、宗教の活性化とも言えるだろう。

トランス・モダンの到来である。

政治・経済・社会もトランス・モダン化せざるをえないが、日本は、近代的同一性の泥沼に落ち込んでいる。

そう、反動路線である。知的退化・劣化の日本である。亡国日本である。

トランス・モダンに覚醒せよ、日本!

メディア・ポイントの覚醒(Buddha)だ!

超越的差異共振シナジー・エネルギーを活性化せよ!

トランス・モダン・ヤポネシアン・イノベーションだ!

2007年03月23日 (17:10)

MP現象学:メディア・ポイントはどう認識されるのか:内的身体と大地性:メディア・ポイントの太極性

メディア・ポイントを介して、超越性は天上性であり、現象性は地上性であると言ったが、では、大地性はどうなるのか。また、端的に、MPはどう知覚・認識されるのか。

大地性ないし霊的大地性、あるいは、身体的霊性のことであるが、それは、これまで、内的身体性と呼んできた。

そして、端的に言えば、この大地性とは、メディア・ポイントのことと考えられるので、メディア・ポイントの、いわば、経験論的知覚・認識は、内的身体によると考えられるのである。

この内的身体をスピノザの心身平行論は説いていないのであるが、実質は、そこに潜在していると考えられる。

つまり、知と身体との中間態としての内的身体にメディア・ポイントが知覚されると考えられる。ただし、通常は、現象界の同一性とその連続化(自我・無明化)によって、それは、純粋ではなく、混合・混淆・混濁した様態にあると考えられる。

内的身体の純粋化によって、メディア・ポイントは知覚・認識されると考えられる。仏教はこれを説いてきたし、その他の宗教や神話は同様に考えられよう。

言い換えると、純粋メディア・ポイント認識である。当然、自己認識である。

とまれ、簡単にいうと、メディア・ポイントとは大地である。
超越性=天上性と現象性=地上性との即非点としての大地(=内的身体)である。

この観点から見ると、近代主義は、メディア・ポイントにおいて、現象性=地上性の同一性を連続化させて、メディア・ポイントの超越性=天上性を、いわば、簒奪するように否定したように思われる。

本来、メディア・ポイントにおいて、超越性=天上性があるのであるが、それが、現象性=地上性の連続化(近代合理主義、唯物論、近代的自我)によって、盲目的に覆われてしまったように思えるのである。

つまり、認識主体は自身を、連続的同一性空間で満たしていて、それで目が眩んでいる様態なのだと思う(無明)。そう、連続的同一性的無明である。現代の自己愛性人格障害である。本当は、自我愛性人格喪失障害であるが。

ここには、ニーチェのいう賎民性があるし、ロレンスのいう自我栄光化があるし、私のいう劣弱さな心性があると考えられる。

端的に言えば、超越性の喪失である。

というか、より正確に言えば、超越性の否定があるのである。悪霊・悪魔性である。

世界大戦を生んだもの、マルクス主義を生んだもの、イラク戦争を生んだもの、等々は、この超越性の否定=悪霊・悪魔性に拠る。

これまで、この根因の説明として、男性性のもつ連続的同一性の傾斜性を提起した。正確に言うと、同一性への傾斜であろう。

即ち、原始ないし初期メディア・ポイントにおいて、その位階的即非点において、超越的エイドスと現象的形相の位階二相があるが、超越的自己は、現象界において、当然、後者を基礎として、現象知覚・認識を形成していく。すなわち、現象的同一性化である。しかしながら、本来、自然現象は、差異を内包している。この差異は、超越性である。つまり、超越的差異を内包しているのである。便宜的に図式化すれば、同一性・差異・同一性・差異・同一性である。

しかるに、人間の認識、とりわけ、男性の認識は、同一性中心となり、差異を否定・無化し、連続化するのである。即ち、

連続的同一性・連続的同一性・連続的同一性・・・・・

である。これは、+1⇒+1⇒+1の変形として、

-1⇒-1⇒-1と表記できよう。

これが、連続的同一性=悪霊・悪魔性の公式であろう。

さて、メディア・ポイントの位階的即非性から、この悪霊・悪魔性の発現の意味を再考してみよう。

人間の精神性、倫理・道徳性は、メディア・ポイントに於ける超越性に基づくと考えられる。何故なら、ここは、位階性があり、超越性は高貴なものであり、同一性から見ると、高いものであるからである。

善は、ここから発生すると言えよう。

善のイデアがここにあると言えよう。

i*(-i)⇒+1から見ると、左辺の-iが他者、原-他者であり、それは、原自己との関係においては、高貴なものと言えよう。

しかし、メディア・ポイントの地上的同一性を見ると、それは、いわば、水平的な関係にあると言えよう。これは世俗性となる。

つまり、メディア・ポイントにおいて、本来、位階的天地性があり、これが、位階的秩序(コスモス)を形成していると言えよう。

しかるに、近代主義になると、超越性が否定されるので、水平的世俗性が、連続的同一性が価値となるのである。これは、本源的な価値観の否定である。群衆・愚民・衆愚政治化である。

ここで、超越性の否定・無化の意味を考えたいのである。

思考実験として、もし、超越的差異性を現象・世俗界において、ある個人が保持した場合、どうなるのか、である。

そう、思うに、メディア・ポイント的意識があり、また、現象界は同一性界なので、個人は認識において混乱・当惑するだろう。

思うに、初期において、メディア・ポイント的位階的意識は未分化的で、天地の区別が不明瞭であると思うのである。

混淆した意識をもつであろう。

問題は、やはり、一神教的意識、父権的意識である。

これが、天地を引き裂くのである。それまでは、メディア・ポイントに於ける天地混淆意識であったが、ここにおいて、二元論化するのである。

私は以前から近代主義はここといわば血繋がりであると考えている。そして、この点については何度も試論したのである。

人類史の最大の問題がここにあると言っても過言ではない。

直観で言うと、これは、知の問題である。同一性知性の問題である。

左脳の問題である。思うに、先に述べたが、超越性は右脳性であり、現象性は左脳性である。

イデアやヴィジョンは右脳と関係すると思うのである。(これは便宜的に言っているのである。基盤は超越性であり、その物質的発現が右脳ということである。)

これは、表現としては、イメージ表現となるだろう。あるいは、芸術・芸能的表現となるだろう。

ここには、言語による同一性認識がないのである。

言語があっても、それは、超越性のための言語であり、同一性認識のためのものではないだろう。

しかるに、一神教・父権主義の発生とはこの位階への否定としてあったと考えられるのである。

超越性⇒同一性という位階性が否定されて、同一性⇒同一性となったのではないだろうか。つまり、これは、超越性の位置を同一性が占領したということになるのではないだろうか。

同一性⇒同一性の公式において、左辺の同一性がいわば、超越的同一性であり、右辺が連続的同一性ではないだろうか。

左辺の超越的同一性が一神教の神、唯一神ではないだろうか。

そして、これは、当然、同一性・差異・同一性という現象界の差異を徹底して否定・無化するだろう。それが、⇒同一性であろう。

具体的に言うと、ブッシュの軍事的民主化路線とは、正に、この超越的同一性⇒連続的同一性の公式の具現ではないか。

超越的同一性⇒連続的同一性

これを同一性絶対的全体主義と呼びたい。日本は正に、アメリカの超越的同一性の支配を被り、連続的同一性化しているのである。つまり、悪霊・悪魔化である。

しかしながら、本考察によって、根源的悪霊・悪魔は、連続的同一性ではないことがわかるだろう。連続的同一性は結果に過ぎないのである。

大悪霊・大悪魔は、超越的同一性である。言い換えると、唯一神が大悪霊・大悪魔である。

確かに、これも元々は連続的同一性ではあるが、位置が異なるのである。

問題は、超越性を同一性が占領支配することである。

これが、端的に、悪霊・悪魔性である。傲岸不遜である。現代日本は悪霊・悪魔が跋扈している。

いったい、この同一性力学は何なのだろうか。

そう、+1の同一性と-1 の同一性がある。そして、前者は、肯定的なことである。しかし、後者が否定的であり、悪霊・悪魔的である。

超越的差異が+1として同一性化することは、真の知を意味し、人間のエンテレケイアであろう。

しかるに、-1として同一性化することは、邪知であり、悪霊・悪魔的であり、邪道・魔道・外道・極道である。

近代主義は後者であったのである。だから、世界戦争やマルクス主義が生起したのである。

やはり、男性の同一性傾斜を考えることになるのである。

男性は同一性傾斜があるので、当然、超越性を否定・無化する傾向にあると言えよう。つまり、男性は悪霊・悪魔的であるということになるだろう。

男性は悪霊・悪魔である。女性は天使・精霊的なのである。

近代主義が男性=悪霊・悪魔が支配して、女性=天使・精霊が屈服した時代であったと言えよう。

しかしながら、男性=悪霊・悪魔の支配は、同一性知性の時代であった。近代科学・技術、唯物論的科学の時代であった。ここに、積極的な、同時に、危機的な意味があると言えよう。

エネルギーの配分において、同一性へと帰結する時があると考えられる。易経で言えば、陽の極まりである。

これが、近代主義の意味ではないだろうか。

すると、陽極まりて陰に転ず、である。

同一性へと傾斜したエネルギーが反転して、差異へと転換するということではないだろうか。即ち、超越性へと回帰するということではないだろうか。

ここで、メディア・ポイントの位階即非様相を考えると、ここには、デュナミス=ポテンシャル・エネルギーが本源的に存する。

そして、同一性への傾斜は、同一性エネルギーの発動を意味するだろう。しかるに、エネルギー保存則から言うと、同一性エネルギーに放出に対して、それに対する反同一性エネルギーが発出するはずである。

これが、差異エネルギーであり、超越的エネルギーではないだろうか。

差異-同一性-差異-同一性の系列で考えると、近代主義は、同一性が優勢であった。即ち、

劣位・差異ー優位・同一性ー劣位・差異ー優位・同一性

であったろう。

しかるに、これが反転して、

優位・差異ー劣位・同一性ー優位・差異ー劣位・同一性

と転換するのではないのか。

つまり、同一性と差異性との極性バランスがあるのではないだろうか。

思うに、ポスト・モダンとは、反転性をもっていたが、まったく不十分で、同一性、とりわけ、連続的同一性に囚われていた、つまり、実数軸空間に囚われていたので、頓挫してしまったと言えるだろう。

確かに、反転の志向性はあったといえよう。

そして、この反転の潮流は、止まらないだろう。差異・超越性へのエネルギーが賦活・活性化されていると考えられるからである。

この差異・超越性エネルギーの潮流とは、言い換えると、情報革命である。差異的情報がIT等によって爆発的に活性化したのである。

これは、超越性の活性である。そして、宗教の活性化とも言えるだろう。

トランス・モダンの到来である。

政治・経済・社会もトランス・モダン化せざるをえないが、日本は、近代的同一性の泥沼に落ち込んでいる。

そう、反動路線である。知的退化・劣化の日本である。亡国日本である。

トランス・モダンに覚醒せよ、日本!

メディア・ポイントの覚醒(Buddha)だ!

超越的差異共振シナジー・エネルギーを活性化せよ!

トランス・モダン・ヤポネシアン・イノベーションだ!

2007年03月23日 (13:29)

ドゥルーズ哲学は構造主義理論に過ぎない:メディア・ポイントの位階的超越/現象即非事象構造性

「ニーチェの発見は・・・非人称的で前-個体的な特異性の世界、ニーチェの新たな呼び方では、ディオニュソス的世界・・・」である。『意味の論理学』(上巻)p.194

「・・・ノマド的特異性。個人的でも人格的でもなく単独的な何ものか、・・・。」p. 194

この説明では、ニーチェの哲学は、ドゥルーズ自身の超越論的哲学=内在平面の哲学と等しいことになる。

先にゼロ度空間=構造主義空間の哲学と言ったが、少し補足すると、やはり、問題は、メディア・ポイントのデュナミス/エネルゲイアの様相に関わる。

この点は、重要な問題で、これまで検討したが、さらに精緻化したい。

先ず、既述済みだが、メディア・ポイントMedia Point について簡単に説明しておこう。

ここは、超越的差異即非共振シナジーの空間である。
i*(-i)⇒+1で考えると、*がメディア・ポイントと言えるだろう。そして、⇒は、メディア・ポイントを起点とした同一性化=現象化へのエネルギーないし動態化を意味すると考えられる。

エネルギー論的にいうと、微妙である。

メディア・ポイントMedia Point は、超越的差異即非性の静態性が存すると同時に、動態性が発動するポイントである。だから、静態性・即非・動態性のポイントと言えよう。

即ち、デュナミス・即非・エネルゲイアである。

問題は、エネルゲイアである。これは、虚数エネルギーなのか、実数エネルギーなのか、である。これまでは、両方に関わると考えてきた。

思うに、虚数の即非エネルゲイアがここで、ゼロ度共振するだろう。このゼロ度とは、初期的には、虚数軸上のゼロ度である。つまり、虚数軸のゼロ度のエネルゲイアである。これは、簡単に表記すると、i*(-i)の*において、虚数ゼロ度共振するということと考えられる。

問題は、この虚数ゼロ度共振が、即非的に、同時に(?)、実数ゼロ度共振でもあるということである。実数ゼロ度共振とは、端的に、同一性化である。差異と差異が実数ゼロ度共振して、同一性を形成するのである。これは、⇒+1の意味である。

言い換えると、

メディア・ポイント:虚数ゼロ度共振(差異即非性)⇒実数ゼロ度共振(同一性化)

となるだろう。

虚数ゼロ度共振は、動態であるから、エネルゲイアである。そして、これは、私の考えでは、虚数エネルギーである。しかし、実数ゼロ度共振もエネルゲイアであるが、これは、実数エネルギーである。

つまり、メディア・ポイント:虚数エネルギー⇒実数エネルギーとなる。

そして、この⇒の変換構造を明晰にしたいのである。

思うに、虚数エネルギーはポテンシャル・エネルギーであろう。正確に言うならば、虚数次元のポテンシャル・エネルギーであり、それが、実数次元のエネルギーに転換すると思われるのである。

虚数的ポテンシャル・エネルギー⇒実数的エネルギー

となるだろう。

思うに、虚数的ポテンシャル・エネルギーとは、原-同一性を形成しているのではないだろうか。即ち、原-同一性⇒同一性という事象があるのではないか。あるいは、原-個体⇒個体である。

思うに、この原-同一性ないし原-個体が一般的な意味でのイデアないしエイドスではないだろうか。

いわゆる、花のイデアとか馬のイデアと呼ばれるものである。

アリストテレス的に形相と言った場合は、それは、原-同一性のもつ虚数次元を否定して、原-同一性を実数次元に置いたものだろう。

とまれ、問題は、虚数的原-同一性と実数的同一性との関係である。

思うに、ここは、やはり、即非構造と言うのが妥当だと思われるのである。

メディア・ポイント:虚数的原-同一性・即非・実数的同一性

である。このメディア・ポイントMedia Point の虚数軸・即非・実数軸の即非構造が、最高度に驚異的なものであると言えよう。

これを、メディア・ポイントの即非様相性ないし即非構造性と呼んでいいのではないだろうか。

この変換構造は、即非という概念以外では記述できないのではないだろうか。もっとも、ここに即非構造には、階層性を置く必要があるのではないだろうか。

というのは、超越性-即非-現象性という構造があるからである。

超越性を「天」にすれば、現象性は「地」であろうからである。

通俗に言えば、月とスッポンである。

だから、メディア・ポイントの即非構造は、階層的即非構造となるのではないだろうか。ニーチェ的に言えば、位階的即非構造である。

ニーチェに敬意を払って、メディア・ポイントの即非構造を位階的即非構造と呼んでおこう。

そう、この位階的即非構造であるが、これは、平行論ではないだろうか。即ち、超越的差異共振性と現象的同一性は平行性をもつと考えるべきではないだろうか。

一見、ゼロ度で両者交わっているように見えるが、実は、交わっていないと見るのが正しいのではないだろうか。

問題は、虚数軸的共振性⇒実数軸的同一性の⇒で何が起こっているのかでもある。

即ち、メディア・ポイントMPに於ける虚数軸⇒実数軸の変換において、何が起きているかといえば、当然、同一性化である。⇒+1である。

だから、メディア・ポイントとは、十全に言えば、*であると同時に、⇒であるということになるだろう。即ち、

メディア・ポイントMedia Point:*and ⇒ あるいは、*⇒

である。これが、メディア・ポイントの位階的即非構造の記号である。

さらに追求すれば、⇒の「力学」とは何かである。

少し飛躍的になるが、例えば、虚数軸を右脳空間、実数軸を左脳空間とすると、メディア・ポイントの⇒とは、右脳空間と左脳空間が脳梁で結合しているような様相ではないだろうか。

私が今、イメージしているのは、表裏面のことである。即ち、メディア・ポイントにおいて、虚数軸「面」は、超越的差異共振様相であるが、実数軸「面」は、現象的同一性様相であるということである。

点を面として考えるのは、問題ではあるが、作業仮説的にそう考えてみるのである。

即ち、メディア・ポイントの位階的即非構造であるが、これは、上部が、超越的差異共振様相であり、下部が現象的同一性様相であるということなるだろう。位階的即非構造は、位階的超越/現象即非事象構造であり、簡略して、位階超・現即非事象構造と言えよう。

正確に言うと、上面が虚数的差異共振様相であり、下面が実数的形相同一性様相であろう。

さらに精緻に言うと、上面が虚数的差異共振エイドス(イデア)的様相であり、下面が実数的形相的様相である。

さらに精緻に言うと、上階が虚数的差異共振エイドス(イデア)的様相であり、下階が実数的形相的様相である。

そして、上階と下階の関係であるが、これは、表裏的な平行関係ではないか。

両者は、即非的一如であるが、混淆はしていない。分離的に一如である。

比喩的に言えば、メディア・ポイントは、虚数面と実数面の両面をもっているということになる。

虚数的超越的共振エイドス面と実数的現象的形相面である。

分離的結合、即ち、即非様相である。

両者は、それぞれ、独立し分離していると同時に、一如、一体である。正に、即非事象である。

これが、メディア・ポイント*⇒の意味であろう。

さて、何度も繰り返すことになるが、位階的即非事象空間であるメディア・ポイントMedia Point を、これまで、大半の哲学・理論(科学を含めて)は、連続空間化して捉えていたのである。

思想史的に、大乗仏教の「空」理論が、おそらく、これをもっとも近く把握していたと考えられる。「空」をメディア・ポイントと見ると、明快である。色=同一性現象とすれば、色即是空とは、同一性現象は、メディア・ポイントであり、それは、虚数軸事象であるということになるだろう。

また、空即是色であるが、「空」即ち、メディア・ポイントは、同時に、現象同一性である。

より明快にするなら、虚数軸事象を「無」とした方がいいだろう。だから、無・即非(空)・色であり、色・即非(空)・無である。
だから、色即非無であり、無即非色である。

あるいは、色空無であり、無空色である。

西田哲学の絶対無や九鬼哲学の形而上学性とは、この無のことと考えられる。

さて、最後に、冒頭のドゥルーズによるニーチェ哲学理解の問題であるが、我田引水的にニーチェ哲学を解釈しているのは、明瞭である。

先にも述べたが、ドゥルーズの超越論性=内在平面哲学とは、メディア・ポイントを実数的形相同一性の面ないし階だけで把握しているのである。つまり、超越面ないし超越階を否定して、現象面ないし現象階だけで把握しているのである。

即ち、メディア・ポイントの現象面=実数的形相同一性面がドゥルーズの超越論性=内在平面である。端的に言えば、実数軸上のゼロ・ポイントである。

ドゥルーズ哲学は、構造主義理論に過ぎないのである。

2007年03月17日 (17:11)

メディア・ポイントの様相構造:潜在的自己と顕在的自我の二重構造:潜在エネルギーと内的身体

メディア・ポイントMPの二重構造について、精緻化したい。

つまり、虚数軸・超越性と実数軸・同一性との二重構造の様相についてである。

前者は形而上学性、後者は形而下性と言えよう。

超越界と現象界と言った方が明快だろう。

近代の問題であるが、一見、現象界が主導的に見えるだろう。日本の場合がそうである。しかし、外国を見ればすぐわかるように、アメリカの場合、キリスト教(プロテスタンティズム)のウェイトが大きいのである。

だから、近代とは、単純に、現象界中心とは言えないのである。

アメリカ人を考えれば、キリスト教という形而上学性=超越性があるのである。

おそらく、世俗化=現象化が徹底した点で、日本は、世界でも極端な国になっているのかもしれない。

以上のようなことを含めて、本件を考えたい。

結局、連続的同一性ないし連続性と不連続性・特異性の問題となるだろう。

そう、前者は癒着的であり、後者は理知的であると考えられる。

前者は自我感情・欲望(利己主義)がメディア・ポイントを支配するのであり、後者は自己保存主義がメディア・ポイントを支配すると思うのである。

そう、前者はスピノザの否定的感情であり、後者は肯定的感情が支配するということだろう。

前者は⇒-1であり、後者は⇒+1であるが、このエネルギーの様態の違いが問題である。

連続的同一性エネルギーと差異共振性エネルギーの違いである。

いったい、メディア・ポイントで何が起こるのだろうか。

単純に考えれば、差異共振して、⇒+1となるはずである。

しかし、人間のもつ、先天的傾斜によって、ずれが生じると考えられる。

先にも述べたように、本来、差異共振性があるが、傾斜によって、連続的同一性が発生すると考えられるのである。

すなわち、これまで考えたように、初期においては、差異共振性があるが、それが、連続的同一性によって、否定される傾向があるということである。ここで、二重構造になると言えよう。潜在意識と顕在意識である。あるいは、潜在的自己意識と顕在的自我意識である。これが、メディア・ポイントの近代主義的構造と言えるだろう。言い換えると、潜在的叡知と顕在的無明(無知)である。

あるいは、差異共振性がかなり意識化されている場合もあるだろう。そうすると、差異共振意識と連続的同一性自我意識との併存となるだろうが、これは、矛盾様態なので、分裂的であろう。

さて、結局、メディア・ポイントにおいて、やはり、±1の二重様態が発生しているのであり、この様態は、混淆・混合様態と見るべきであろう。二重混淆様態である。

これは、虚数次元で言うと、いわば、カオスモスではないのか。連続的同一性がカオスであり、差異共振性がコスモスである。両者の混淆としてのカオスモスである。

ここで視点を変えると、一般形式とは連続的同一性であり、特異性とは差異共振性であると言えよう。

そして、世間は、自我・一般形式の世界であり、これが、顕在的に、特異性・差異共振性を隠蔽しているのである。

言い換えると、唯物的現象界は-1であり、共振的現象界は+1である。

思うに、近代主義世界とは、メディア・ポイントにおいて、共振的現象性をねじ込めるようにして隠蔽する捩れの世界である。

しかしながら、思うに、メディア・ポイント自体は完全には否定し隠蔽はできないのではないだろうか。

なぜなら、近代主義世界であっても、メディア・ポイントにおける連続的同一性から生起発現しているからである。

だから、不安定であると言えよう。メディア・ポイントは差異共振性を潜在させているからであり、その潜在エネルギーが作動しているはずであるからである。

これが、潜在的衝動になるはずである。衝迫である。そして、これをさらに抑圧しようとすると、狂気になると言えよう。パラノイアであったり、統合失調症であろう。自己愛性人格障害も、正に、この病気と言えよう。

この潜在エネルギーを、⇒+1の自己認識へと変容させる必要があると言えよう。

この潜在エネルギーは、正しい超越エネルギーと言えよう。しかしながら、連続的同一性に囚われるかぎり、混同・混濁が生じると言えよう。

ポスト・モダンやポスト構造主義は、この様態である。

ドゥルーズは、連続的同一性と差異共振性とを、差異=微分として妥協させてしまったし、デリダは、この混合様態にあって、両義性の戯れをもてあそんだと言えよう。

とまれ、この潜在エネルギーは特異性であり、それを不連続化する必要があるのである。

つまり、連続的同一性ないし連続性の切断が必要なのである。

この方法は、能動的観念、エポケー、仏教的瞑想等があるだろうが、不連続性の観念が一番明快であると考えられる。

では、メディア・ポイントは、何処に位置しているのだろうか。

これは、内的身体だと思う。「大地」である。「地中」・「地下」である。

瞑想や東洋的身体論は内的身体を涵養するものだろう。

身体と意識との中間点としての内的身体である。メルロ=ポンティの身体論は、内的身体と外的身体の両義性を対象にしていると思う。

しかしながら、潜在エネルギー、内的身体の発達は、慎重さが必要である。邪道・魔道に陥りやすい。

差異共振的合理的知性を涵養するようにしないといけないのである。差異共振的同一性の認識を涵養しないといけないのである。

思うに、MP⇒+1が、内的身体の空間ではないだろうか。

2007年03月12日 (09:39)

光について:メディア・ポイントの同一性としての光と相対性理論:東方神学から

本件について再考したい。

ここでは、直観で考える。

メディア・ポイントで、正負の虚数が共振して、エネルゲイアが発生する。それは、また、同一性様態である。正確に言えば、即非的同一性様態である。

これが、⇒+1の意味であろう。

ここで、実数軸の意味を整理したい。これまで、ここは、連続性の様態と見たり、+1の場合を差異的同一性と見てきたが、これは、明らかに不整合である。

今考えられるのは、実数軸は、同一性軸であるということである。つまり、現象化とは、同一性化なのである。近代主義は、これを、連続性の概念で捉えてきたと言えよう。例えば、差異=微分である。しかし、これは、これまで呼んできたように、連続的同一性の見方である。

現象化=同一性化においても、不連続な見方があるのである。それが、差異的同一性の考え方である。即ち、⇒+1である。

差異即非共振シナジーの同一性化としての現象化という考え方である。

ということで、実数軸化とは、同一性化=現象化であり、+1が差異共振的同一性化であり、-1が差異連続的同一性化である。

さて、ここから、もう一度考えると、神のエネルゲイア(光のエネルゲイア)とは、+1のことであろう。これは、ここに差異共振性があるということであり、-1とは、差異連続性があると見ることである。

思うに、作業仮説であるが、古典力学は、-1の考え方であり、光の媒質として、エーテルを考えた。そして、相対性理論や量子力学は、近似的に、+1の考え方と言えよう。

光速度一定とは何か。それは、差異連続性を否定して、差異共振性というか、差異不連続性を説くものではないのか。連続性の見方からすると、エーテルを想定するのである。しかし、観測は、エーテルを否定した。

それは、連続的現象観の否定である。不連続的現象観・自然観への道を開いたと言えよう。

端的に、光速度一定とは何か。

思うに、それは、メディア・ポイントにおける差異・同一性・差異の様相における同一性を意味するのではないのか。

つまり、特異性ないし特異点における同一性ではないのか。あるいは、さらに踏み込んで言えば、虚数軸上のメディア・ポイント、即ち、虚メディア・ポイントにおける、いわば、元同一性を意味するのではないのか。

この元同一性が実メディア・ポイントにおける同一性へと変換するということになると思われるのである。

ここは、まことに微妙、霊妙な領域である。

東方神学からすると、神のウーシア(本体・実体)とは、虚数軸の超越界を指すだろう。そして、神のエネルゲイア(=光)とは、メディア・ポイントを指すだろう。しかしながら、元同一性と同一性があり、この関係が重要である。

(思うに、神の子とは、同一性を指すのではないだろうか。そして、ロゴスも、これを指すのではないだろうか。精緻に言えば、元同一性がロゴスであり、これが、現象化したのが、神の子ではないのか。)

そう、元同一性と光との関係をどう見るのか。

こここそ、霊妙である。

元同一性は光のようであり、また、光のようではないのではないだろうか。

元光ではあるだろう。以前、呼んだように、超光としてもいいだろう。

Kaisetsu氏の考えによれば、白い光と黒い光の共振シナジーの「光」があることになる。

そう、この共振シナジーとしての「光」=超光=元光が、実メディア・ポイントとして、光現象となると言えるのではないか。

東方神学で言う、神のエネルゲイアは、ここの事象を指していると言えるのではないだろうか。即ち、共振シナジーとしての元同一性=超光=元光と同一性現象としての光の即非的一致ではないのか。

そして、神のウーシア(本体・実体)とは、差異共振様相のデュナミスではないのか。

ここで、イデア論を思うのである。超越的形相(エイドス)は、MPにおける元同一性且つ同一性であろう。ここが、また、先に述べたように、コーラである。

イデアと言った時、神のウーシアと神のエネルゲイアの両面があるだろうし、これをこれまで混同してきた向きがあるだろう。

とまれ、光とは、メディア・ポイント(=特異点)における不連続的差異即非共振同一性(エネルゲイア)事象であると言えるだろう。

相対性理論とは、このメディア・ポイントの事象としての光現象を捉えているだろう。光速度一定とは、同一性エネルゲイアのことを指していると言えるのではないだろうか。

換言すると、差異は、メディア・ポイントにおいて、すべからく、同一性エネルゲイア=光化するということではないのか。

光としての差異的同一性ではないのか。

これが、光速度一定の本質ではないのか。

言い換えると、差異と差異との同一性関係のメディアとしての光があり、メディアとしての光の同一性が光速度一定ではないのか。

同一性メディアとしての光があるのではないのか。

これが、自然界の基準となり、光速度一定を意味するのではないのか。

+1とは、現象時空間の単位ということであろう。

そして、この時空単位は、光速度cの同一性ということではないのか。

結局、光速度cは、実メディア・ポイントの同一性であると言えよう。そして、これは、端的に、虚メディア・ポイントの元同一性と関係しているのであるが、元同一性においては、icと-icの即非態の超越性をもっているのである。元エネルゲイアをもつのである。これが、Kaisetsu氏の言うmic*(- ic)⇒+1・Eの左辺のことではないだろうか。

つまり、光は、超越的エネルギーを包摂しているということではないのか。

ダークエネルギーであるが、それは、隠れたエネルギーととれば、この超越エネルギーのことではないのか。

さて、最後に、太陽を考えてみよう。

光現象をもたらす光源の太陽である。

端的に、太陽は、メディア・ポイントの同一性事象の中心と言えるだろう。

簡単に言えば、太陽はメディア・ポイントである。

宗教において、太陽ないし陽光が神となるのは、正しいのである。

大日如来である。天照大神である。

しかしながら、注意すべきは、これは、元知性と元身体との共振シナジーとしての太陽である。

つまり、太陽自体が差異即非様相にあるということである。

元知性を光とすれば、元身体は闇である。光と闇の即非同一性としての太陽となるのである。

私が思っているのは、エジプトのイシス・オシリス神話である。イシスが月であり、オシリスが日である。

だから、単純に、元知性がオシリスであり、元身体がイシスである。

しかしながら、イシスはある意味でオシリスを包摂しているのである。ここで、イシスが太陽となるだろう。天照的である。

思うに、古代人は、太陽を女性表象としたのである。処女生殖の問題とも関係するだろう。聖母マリア崇拝とも関係するだろうし、叡知ソフィアの問題とも関係しよう。

古代人は生み出す力、天地創造する力を女性表象したのである。

これは、差異共振シナジーのことである。そして、ここには、太極陰陽性があるのである。つまり、太母があり、また、陰陽的女男性があるのである。

イシスは、この両面を指すだろう。

そして、日本の天照もそうだろう。陰は月となるのである。そして、陽は日である。

3元論的になるのである。古事記の三柱の神もそうだろう。天之御中主神が、太母・太極であろう。そして、二人の神が陰陽であろう。

ここから見ると、一神教の神が解明されるだろう。それは、本来は、陰陽の陽の神が、太母・太極を簒奪したものであろう。

主体の連続的同一性が差異を否定して、自我絶対化したのが、一神教の神であろう。倒錯なのである。

因みに、大乗仏教であるが、それは、正に、メディア・ポイントの叡知学と言えるのではないだろうか。連続化を切断して、「空」という不連続性を明らかにしたと思えるのである。

「空」ないし「無」は、虚数軸・超越界と見ることもできよう。

思うに、「空」はメディア・ポイント、「無」は超越界と見た方が明快であるのではないだろうか。

2007年03月11日 (21:59)

検討問題:光と特異点:メディア・ポイント上の光と現象界

Kaisetsu氏の、特異性(特異点)に基づく相対性理論の説明が実に興味をそそる。

★引用開始
《アインシュタインが相対性理論を考案したモチーフは、マイケルソン・モーレーの実験結果を率直に認めて、これを前提に世界認識を再構築しようとしたことと考えられる。

マイケルソン・モーレーの実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
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マイケルソン・モーリーの実験(Michelson-Morley experiment)は、アメリカの物理学者、マイケルソンとモーリーが行った有名な実験。
当時、宇宙に充満していると考えられていたエーテルの存在を確かめるために、1881年に行われた。
同じ光源から出た光をハーフミラーを使って二つに分け、違う方向に何度も鏡で往復させてから再び一つに戻して干渉させる。干渉により干渉縞が観測される。もしエーテルが存在し、実験装置がそれに対して運動しているとしたら、実験装置の向きを変えると干渉縞の位相が変化するはずであるが、そのような変化は観測できなかった。
その後も精度を上げ今日まで何度も同様の実験が繰り返されたが、干渉縞の位相の変化が観測されることはない。
この実験はしばしば相対性理論の光速度不変の原理の根拠の一つとして引き合いに出される。



 つまり、地球上で任意に行った実験では、かならず、必然的に、地球の自転、公転、地球の球としての膨らみ等の影響を何らかの形で受けるはずであるが、その後も精度を上げ今日まで何度も同様の実験が繰り返されたが、干渉縞の位相の変化が観測されることはない、のである。

 ここに、「光速度」の特異性という認識が生まれるのである。そうして、この「事実」は、特異であること、そのことによって、新しい「神秘性」「神の摂理」「超越性」を人間に感じさせるのである。

 これが、アインシュタインに「神はサイコロを振らない」という信念を生み、一般人の認識からは非常識と考えられる結果であろうとも、一般認識を超越する世界構造を認識する方向性を求めさせるのである。

 つまり、超越性を信じる、ということである。

◆だから、普遍性とは、個、即ち、特異性にしか、存しないと言えよう。

 アインシュタインが「光速度」の特異性、超越性、神秘性を認識し、その認識を了解した時に、次に進むのが、「普遍化」であり、一般化であり、数的な整合性である。
 つまり、一般の常識的な世界では、ありえない状況を一般化するためには、一般常識を超越した理論、方法論、世界認識を提示する必要があり、これを可能にしたのが、高度に洗練された数学の方法論であった。
 まず、特殊相対性理論において、アインシュタインは、
光速度一定を中心的事実として、アインシュタインは、一般共変性原理(いっぱんきょうへんせいげんり, principle of general covariance)、つまり、『「物理法則は、すべての座標系において同じ形式でなければならない」あるいは「一般座標変換によって物理法則は不変である」という原理』を仮定している。
 つまり、光速度一定という事実を一般化する認識として、『一般共変性原理』を仮定するわけである。
 特殊とは、光速度等に限定しているわけである。(まっすぐ一様な(等速の)回転のない運動)
 つまり、特異なもの、超越したもの、から一般性を予知し、自己認識を再構築して、まず、限定的に全く新しい世界認識を「一般化」「真理」として高度な数学的処理を道具として提示するのである。
 その後、アインシュタインは、一般相対性理論に進むのである。》
★引用終了

『特異点、超越性、メディア・ポイント』
http://blog.kaisetsu.org/?eid=526502


今は、簡単に触れるが、特異性としての光の現象が現存するということである。これが、重要なポイントである。つまり、不連続性を超越界=イデア界から、メディア・ポイントMPを介して、連続性の現象界へと展開するということであるが、しかし、一般の現象と異なるのは、一般の現象は確かに、メディア・ポイントを介してはいるが、メディア・ポイントを隠蔽するように連続的同一性化していると思われるのである。

それに対して、光の現象は、メディア・ポイント=特異点を介するが、これを隠蔽していないと考えられるのである。ここに、光の特異性の一つの様相があると言えるのではないだろか。つまり、光は、連続的同一性化しないで、差異的同一性化しているのである。i*(-i)⇒+1である。

連続的同一性が、i*-(-i) or -i*(-i)⇒-1 である。これが、一般の現象であるように思えるのである。物質現象と言っていいだろう。自我も当然、ここに入るのである。

光は、+1の現象なのである。特異な現象なのである。

つまり、特異点であるメディア・ポイントを開放系として光現象はもっているということではないのか。その他の現象がメディア・ポイントを隠匿してして、閉鎖系となっているのである。

これは何を意味しているのだろうか。

とまれ、+1の現象と-1の現象があるということであろう。

メディア・ポイントが開いているというのは、イデア界に接触しているということであろう。つまり、虚数軸の原点と実数軸の原点が交差して、両軸の世界が交差しているということと考えられるのである。

つまり、光とは、イデア界・超越界・叡知界の光であると同時に、現象界の光であるということではないのか。

宗教的に言えば、無量光(阿弥陀如来)であり、かつ、知覚される現象光である。

形而上的光であると同時に、現象光である。

そう、端的に言えば、超越界を現象界から見た科学的理論が、相対性理論ではないのか。

mic*(-ic)⇒mc^2=+1・E

である。当然、虚数軸が超越界である。そして、実数軸が現象界である。

ここで、思いつきながら、+1が天の方向で、-1が地の方向ではないのか。つまり、上方と下方である。

とまれ、ここでは、光は、連続化せずに、差異共振のまま、現象しているのであると作業仮説しておこう。

この差異共振としての光は、超越界の光とも言ってもよく、これが、現象界から観測すると光速度一定となるのだろう。

そのように考えると、素粒子、量子の本体・実体も差異共振的イデアと言えるのではないだろうか。

そう、差異共振シナジーとしての光である。光を介して、人間は、超越界・イデア界・叡知界・神界・霊界に接すると言えるのではないか。

御来光である。

後で再考したい。

2007年03月11日 (10:44)

特異点とメディア・ポイントMP:一般形式の虚偽と特異性の普遍的イデア性

Kaisetsu氏のブログに以下の考察がある。

《◆◆もし、一般の認識事実と異なる認識事実を主張する事例が万の内に一つあれば、この『万の内の一つ』の認識こそ、真理を探究するためには重要な『事実』である可能性がある。科学認識の発展によって、「特異点」の存在が重要であることが認識されており、僅かな差異が、有る条件下では、劇的な事実の変化を起こしうるからである。つまり、極少数の立場、次元からしか見えない認識事実こそが、本来の『真理』を読み解く大きな手がかりとなることは、往々にして在ることなのである。by Kaisetsu》
「やっと出てきたトランス・モダン思考の主張」
http://blog.kaisetsu.org/?eid=526185

ここで述べられている『万の内の一つ』の認識とは、九鬼哲学では、『偶然性』に相当すると言えよう。

ここには、認識論の基礎問題があると言っていいだろう。

思うに、私事に触れるが、私の人生は、特異性singularityの肯定をどう妥当・正当に理論化するのかにあったように思う。初めは、私の《身体》にある社会との異和感に我ながらてこずっていたが、結局、それは、特異性というもので、一般的個別性や同一性では、処理できない、はみ出すものである。

この私の特異性は、いわば、永遠に特異性であり、他者と一致することはありえないだろう。しかし、ここに基づいて普遍性があり、この普遍性においては、他者と一致するのだろう。普遍的同一性、即ち、真理である。これは、Kaisetsu氏がアインシュタインの相対性理論の光速度一定のもつ絶対的真理を説いていることと共通しよう。そう、特異性⇒普遍性であろう。

私は、長い間、今でもだが、一般的真理というものを疑っている。言語形式の一般性が、きわめて、胡散臭いと思っている。思えば、自分の《身体》にある《真実》と言語表現との乖離に悩んだものである。自分の特異性は、言語表現できないのである。言語表現によるコミュニケーションを胡散臭く感じたものである。もっとも、今では、言語表現は、表徴と見るべきであり、認識や身体性や実体を示唆するもの媒体として見ているが。

私が懐疑する一般性とは、正に、言語の一般形式である。これと一般的真理が結びつくので、一般性に対する懐疑があると言えよう。つまり、言語の一般形式とは、個の特異性とは無縁に形成・成立するものである。いわば、機械的なものである。この、いわば、言語機械のもつ真理は、一般的真理であり、個の特異性とは切り離されているのである。

だから、言語表現とは、言語行為とは、言語機械行為と個の特異性行為との乖離があるはずである。ここに言語行為の胡散臭さがあるのである。前首相の小泉氏の発話は、正に、この乖離が感じられたので、私は、パフォーマンス屋と直覚したのである。

言語行為によく注意すれば、観念だけでなく、音調等を知覚すれば、この乖離が感じられるものである。語調のフォース(力)の様態があるのであり、これを聞き取ればいいのである。また、表情や身振り等も重要である。ちょっとした、動きや間とが重要である。

さて、本件にもどると、言語行為は、言語機械的一般性と個的特異性との二元性を帯びるのである。前者は、表面・表層であり、後者が真相・真実である。

一般的真理は、結局、皮相に言語機械的一般性によって語られるのであり、そこには、個的特異性が欠落しやすいのである。

そう、オウムが反復しているようなものである。貨幣で言えば、交換価値である。

俗世間は、この皮相な言語機械的一般評価で動いているのであり、ここには、個的特異性の価値(=普遍性)が欠落しているのである。即ち、虚偽の俗世間である。

これは、PS理論的には、連続的同一性=一般性と言えよう。ここには、差異の否定・排除・隠匿隠蔽があるのである。

つまり、連続的同一性=一般性という「真理」は、差異・他者を否定したものであり、結局、自己欺瞞なのである。ここには、量的真理は確かにあるだろう。だから、唯物論や交換価値と結びつくのである。これは、言語機械-唯物論-交換価値の、いわば、三位一体ドグマである。換言すれば、近代主義である。近代主義の三位一体である。

では、この一般性ドグマと特異性とはどう関係するのか。あるいは、本論である、特異点やMPとどう関係するのか。

これは言わずもがなであり、一般性は特異性を否定するのである。なぜなら、一般性を固持する自我(利己主義)は、特異性が自我を否定するものであるからである。否定・隠蔽すべきものであるからである。

では、普遍性について言うと、なぜ、私は、特異性に普遍性を認めて、一般性には、虚偽を見るのだろうか。これは、極めて、ニーチェ哲学の問題であるが。

なぜなら、言語機械=一般形式性は、個から分離、浮遊したもので、根がないからである。根とは特異性であり、メディア・ポイントであり、さらには、イデア界である。

私が言いたいのは、言語機械=一般形式性とは、連続的同一性のシステム(俗世間システム)であり、ここでは、間主観(間主体)性ではなくて、言わば、間自我的価値が支配しているのである(阿部謹也氏のいう世間的価値)。より正確に言えば、連続的同一性共同体価値の反射が支配しているのである。換言すると、連続的同一性集合体の集合的自我が支配しているのであり、ここにあるのは、集合的自我であり、集合体の価値が動けば、集合的自我は、自我の価値観をそれに合わせて、流動化させるのである。つまり、集合的価値という相対的価値があるに過ぎず、普遍的価値、普遍性はそこにはないのである。

すなわち、言語機械=一般形式性=連続的同一性は、集合性・集合的自我性と連続し、きわめて、流動的であり、不定なのである。群衆や烏合の衆の世界なのである。

自我と他我との相互反射の世界であり、鏡像の世界であり、個としての自己はここにはないのである。つまり、言語機械=一般形式性=連続的同一性=集合性は、端的に、俗世間的権力・暴力(差別を含む)であり、一定の価値がないのである。ここは、正に、相対流動的な価値しかないのである。そう、正に、流行の世界である。群れの世界なのである。

リーダーらしきやトレンドが、あっちを向けば、烏合の衆は、あっちを向くのである。魚群である。鳥群である。無定見・無見識の世界である。

以上から、一般性とは、信用できない胡散臭いということが証明できたと信ずる。つまり、集合性によって、一般性は動いてしまうのである。

だから、普遍性とは、個、即ち、特異性にしか、存しないと言えよう。個ないし特異性は、集合性とは無縁であり、ひたすら、個の認識に実直である。

これは、消極的理由である。積極的に、どうして、個ないし特異性は、普遍性であるのかと言うと、ここで、本題の考察に関わることになるが、個ないし特異性とは、メディア・ポイントと結びついていると考えられるのである。そして、Kaisetsu氏の言及する特異点とも関係すると思うのである。特異点とは、メディア・ポイントのことであると、作業仮説しよう。

個ないし特異性がなぜ、メディア・ポイントと結びついているのかと言えば、それは、ほとんど自明に近いと思うが、連続的同一性=自我は、差異(=個・特異性)を否定するのに対して、個・特異性は、連続的同一性=自我に対して、批判的距離をもつからである。つまり、人間が出生してから、初期においては、メディア・ポイントは開いているのである。メディア・ポイントの開放系が本来的にあると考えられるのである。これが、個・特異性ないし特異点なのである。ここから、成長過程において、連続的同一性=自我(=無明)化が進展するのである。(p.s. メディア・ポイントが、連続的同一性自我によって、閉じられてしまうのである。)

つまり、メディア・ポイント=個・特異性・特異点の否定としての連続的同一性=自我=言語機械=一般形式性=集合性の展開が俗人の成長であると考えられるのである。

そして、メディア・ポイントは、イデア界に接触している(内在的超越性をもっている)ので、個・特異性は、普遍性に関わると言えるのである。これで、本稿の証明が済んだと言えよう。

ただし、メディア・ポイントは、不連続性・虚数軸と連続性・実数軸とが交差する複合的原点なので、大半の哲学や理論は、不連続的差異論、ないしPS理論による理論的な明確な区分や分離をすることができずにいて、錯誤や混乱を生んだと考えられるのである。

とまれ、一般形式は虚偽であり、個・特異性こそ普遍性であるという命題が証明されただろう。正確に言えば、個・特異性こそ普遍性を志向する、である。

思えば、ニーチェが、これをあの正に特異な哲学で説いたと言えるのである。ニーチェは、一般形式すべてを否定したのである。連続的同一性を絶対否定して、特異性の強度を説いたのである。

ここで、民主主義について言うと、一般形式に囚われる愚民が多いと、衆愚政治となるのであり、真に民主制を成り立たせるのは、個・特異性にほかならないと言えよう。

そう、民主主義には、哲学が、現代的イデア論が必要なのである。PS理論が、トランス・モダン・デモクラシーの理論的根拠を与えると言えよう。

プラトンは、哲人政治を唱えたが、今日でも、同じである。

哲学なき民主主義は、衆愚政治である。全体主義・ファシズムを生むのである。亡国となるのである。

思えば、古代ギリシアの直接民主制は、奴隷制の上に成立したものであり、いわば、貴族的民主制であった。貴族とは何であろうか。

貴族とは、本来は、物質的豊かさを意味するものではなく、やはり、ニーチェが『道徳の系譜』で説いたように、高貴である精神性・魂に基づくと考えれるべきである。

つまり、高貴な民主制である。思うに、古代ギリシア人は、天才的であり、イデア界に通じていたと思えるのである。あの思想性、芸術性、政治性、等々は、イデア界・叡知界からの精神に基づくと考えるべきであろう。

日本の亡国の原因は天皇制にあるのではなく、俗世間的連続的同一性にある。個であること、特異性であることを恐れる怯懦にある。

この怯懦はどこから生まれたのか。

叡知の喪失からである。どこで、叡知を日本人は失ったのか。それは、二つの近代からではないのか。とりわけ、戦後ではないのか。後で、検討したい。

p.s. 九鬼周造の『偶然性の問題』を読み進めているが、《・・・定言性と目的性とは不離の内的関係に立っている。一般概念はそれ自身目的として妥当するものと見ることが出来ることは、その反省判断的課題的普遍性に照らして明らかである。「論理的秩序、すなはち諸事実を概念へ従属せしめる作用は恐らく内的理性または目的因の自発的活動を隠匿してゐる。概念は目的因の論理的記号に過ぎないであらう。斯くして諸々の個体はその存在理由を種に於いて有ってゐるのであらう」とブートルーも言っている(・・・)。》(p. 64)というような箇所を読むと、ここで、述べられている「一般概念」とは私がここで述べた一般形式=連続的同一性と共通すると思う。

さらに、重要なことは、目的因である。一般形式=連続的同一性には、目的因があるのである。それは、個体の盲目の生存という目的因ではないかと思われたのである。

連続的同一性を狂気であると、私はこれまで、数えきれないくらい繰り返し述べてきたが、これを盲目の生存・欲望という目的因をもっていると考えると、その意味が明快になるように思えるのである。

有り体に言えば、動物的欲望・衝動・暴力である。これは、他者を殺戮し、食し、同一化しようとする欲望ではないだろうか。ただ、人間の場合は、言語形式がともなっているということではないのか。

整理すると、言語形式体系(一般形式・形式論理)とは、人間における動物的本能を、より「合理化」したものではないのか。動物的本能を満たすための、組織立った体系ではないのか。

言い換えると、連続的同一性の基礎にある「目的因」とは、ある外的対象を獲得することではないのか。ここでは、他者(「隣人」)は否定されなくてはならないのであり、外部にあるのは、外的対象、外的物体であり、それを獲得するために、主体は、他者を同一性化するのではないのか。「我在り(ヤハウェ)」ではないのか。ここには、知的認識ではなくて、欲望的同一性化衝動があるのではないのか。そして、この衝動の組織化が言語一般形式化ではないのか。

もう少し精緻に考えてみよう。欲望は、身体的連続的同一性作用と言えよう。これによって、主体も身体的連続的同一性化すると言えよう。身体が主体・主観・心を支配するのである。

身体の連続的同一性があり、思うに、反動で、主体も連続的同一性化反作用をもつだろう。この反作用が、主体の連続的同一性=自我を生むと言えるのではないだろうか。

そして、この主体・主観的連続的同一性が、言語一般形式を生むと考えられるのである。すると、根源にある力は、動物的欲動である。身体的連続的同一性である。言語一般形式とは、ゆえに、暴力的であり、狂気的なのではないのか。つまり、動物衝動をもっているということではないのかということである。(p.s. 一神教は、この極限ではないだろうか。動物的本能の極北としての一神教ではないのか。)

そう見ると、この一般形式が、貨幣の交換価値と通じるのは、単に、一般形式だけでなく、動物的衝動・欲動が根源にあるからということになるのでないだろうか。

さて、もし言語形式が動物的欲動と関係するなら、自己・他者認識の言語が、それとは別にあるはずである。それは、どう異なるのか。後者は精神の言語であり、内的言語である。それに対して、言語形式は、外的言語であると言えよう。

内的言語が、宗教、神話、物語、詩歌、等と関わり、そして、外的言語が、物質や交換等と関係したと思うのである。

そして、哲学は、当然、前者の言語である。そして、科学は、後者の言語である。質と量である。ここで、数学の位置が興味深い。思うに、根源的には内的であるが、外的なものにも適用できたということではないだろうか。

そう、フッサール現象学の問題である。

志向性とは、正しくは、差異の志向性、差異・他者の志向性である。しかるに、言語一般形式は、連続的同一性の志向性である。思うに、この二つの正反対の、相矛盾する志向性が人間の内にあり、相克の関係にあるだろう。

しかしながら、西欧近代は、連続的同一性が勝利したのである。

ここに、人類の大危機があると言えよう。

内的本性、差異共振的精神性を喪失したのである。


コメント

■特異点、超越性、メディア・ポイント

海舌
2007.03.11 Sunday
特異点、超越性、メディア・ポイント
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