2008年07月31日 (11:25)

「近代日本」の終焉とトランス・モダン日本:官僚体制の脱構築と国民経済の差異共振化

「近代日本」の終焉とトランス・モダン日本:官僚体制の脱構築と国民経済の差異共振化

テーマ:滅びゆく日本と新倫理社会へ

大分県教育委員幹部にも、また、国民にも、「公」の知性空間がないようである。思うに、一神教なら、超越界から超越神が、個人をみそなわしているという意識がはたらきうる。
 問題は、「公共」空間を普遍化することである。このためには、厳しさが必要である。今日、日本のあらゆる領域で、「公共」普遍空間が喪失している。
 これは、近代日本の終末を意味していると言えよう。ポスト・モダンは、端的には、脱構築主義は、たんに流行で終ってしまったようだ。
 脱構築主義を包摂したトランス・モダンが今日要請されていると考えられる。脱構築主義は、官僚体制を脱構築し、国政を差異化する。この国政差異化によって、国民経済の差異化、端的に、差異共振化がプログラムとなるだろう。
 整理すると、近代日本の終焉とは、明治日本がもっていた個の可能性を今日失って、単に「近代的自我主義」になり、普遍意識が喪失したことを意味する。個においてこそ、普遍・「公共」意識が成立するのである。個において、真の共同体が形成されうるのである(言うなら、個的共同体・差異共同体である。差異共振体、差異共鳴体と言ってもいい。)。
 新しい個、それは、旧態の「近代的自我」を脱構築し、Media Pointに覚醒したときに生まれるだろう。
 そう、先に述べたが、小泉構造改革は、ある意味では、旧態の日本社会主義的共同体を脱構築・破壊したのである。そして、国民は、不連続的差異になったのである。この不連続的差異が、否定的には、無差別殺人のような形で発現していると思われる。
 結局、新しい政治・経済(国民経済ないしは国民精神経済)は、この脱構築後の不連続的差異の共鳴(新個的共同体主義:Media Point共同体)を目ざすものにならなくてはならない。


 
<大分教員汚職>70万円で採用なら…口利き依頼の両親告白

7月31日2時32分配信 毎日新聞

 大分県の教員採用汚職事件に絡み、長男を教諭にするために、県教委幹部への口利きを依頼して現金など70万円分を知人に渡したとする両親が毎日新聞の取材に応じた。両親のうち母親(64)は「親とすれば『それぐらいのお金で採用してもらえるならば』と思っていた」と話しつつ「今となっては、人として親として、本当に恥ずかしいことをした」とも述べ、親心と良心のはざまで揺れる心境を吐露した。

 長男は他県の大学を数年前に卒業。在学中から大分県で高校教諭になることを目指していたが、そんな時、母親の知人から「教委上層部と仲のいい人がいる。話をしてあげるが、まずはお金がいる」と持ち掛けられた。

 母親は「いくらでお願いしたらいいか」と尋ねたところ「最低でも20万円」との答えが返ってきた。このため採用試験前に知人へ5万円の商品券を、知人の親族とみられる仲介者には現金20万円をそれぞれ渡した。

 長男は、試験は不合格となったが臨時講師に採用された。その翌年と翌々年にも仲介者にそれぞれ現金20万円を支払ったが、本採用にはなれなかった。4年目にも仲介者に5万円を支払ったが結局本採用は果たせず、教諭になるのをあきらめかけたところ、まったく別のつてで私立高校に本採用となった。

 その後は知人とも疎遠となり、母親は「だまされていたかもしれない」と振り返る。

 母親は「もし300万円で絶対先生にしてくれるというのならば(支払っても)いいと、当時は思っていた。悪いことと分かっていてもね……」と話した。父親(63)も「これが親の本音」と付け加えた。

 金を渡したことは忘れていたが、一連の事件の発覚で、当時の記憶がよみがえったという。「私と同じように口利きを頼んだ親はたくさんいると思います」と述べた。【佐藤敬一】
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080731-00000018-mai-soci


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同一性主義としての国家主義と差異共振主義:国家主義からトランス・モダンへ

テーマ:トランス・モダン社会の創造・構築

これは、正に、差異共振(共鳴)の問題である。イスラエル人の妻とイラン人の夫の結婚という差異共振性を、イスラエルやイランは認めないのである。つまり、両者、同一性主義(国家主義)を楯にしているのである。
 思うに、これは、ギリシア悲劇の『アンチゴネー』を想起させる。国家主義者のクレオンとそれに対する神々の文化に仕える「個」としてのアンチゴーの対立。
 付加的に言えば、先にも述べたが、広義のギリシア神話には、相対立する価値の調和への志向が見られるのである。差異共振主義が見られるのである。これについて、後で検討したい。



イスラエル 夫婦引き裂く法の壁 イラン人夫、行き場失う

7月30日1時18分配信 毎日新聞


夫ハッサンさんが長女を抱きかかえ、笑顔で手を振る写真を見つめる妻イラニットさん=テルアビブで前田英司撮影
 【テルアビブ(イスラエル中部)前田英司】イスラエル人女性とイラン人男性の夫婦が、イランなど「敵国」出身者の入国を禁じたイスラエルの法律によって、別居を余儀なくされている。夫は結婚によってイスラエルを敵視する母国にも戻れず、トルコで不法滞在を続ける日々。幼子を抱えイスラエルで暮らす妻は今月、夫の入国と滞在を認めるようイスラエル最高裁に提訴。家族を引き裂いた国家の扉が開く日を待ち望んでいる。

 「こんなに苦しむと分かっていれば結婚しなかった」。テルアビブ近郊の自宅で、妻イラニットさん(36)はこう言って涙ぐんだ。夫ハッサンさん(41)との間には、長女ベルちゃん(1)がいる。父親の顔を忘れないよう、インターネット経由のビデオ電話に向かうのが日課だ。

 「私は兵役にも就いて国に奉仕してきた。それなのに……」。イラニットさんの怒りは収まらない。

 イラニットさんは、両親が60年代にイランからイスラエルに移住したイラン系ユダヤ人。流ちょうなペルシャ語を話す。05年夏、旅先のトルコ・イスタンブールで、イランから働きに来ていたハッサンさんと出会った。ハッサンさんはイスラム教徒だが、「宗教の違いなど関係ない」と意気投合。06年春に同地で結婚した。

 イラニットさんは結婚を前に、イラン人男性との婚姻についてイスラエル内務省に相談していた。必要書類を提出して審査を受ければ滞在許可が下り、4年後には市民権を得られるはずだった。

 ところが、挙式後の申請は却下され、昨年春に再び申請しようとすると、「時間切れ」だと拒否された。再申請の直前に国会で、イスラエルと敵対するイランやレバノン、シリア、イラクの国民にイスラエルへの入国を禁じる新法が可決、成立したからだ。

 「敵国」から妻を迎えたハッサンさんは、治安当局による身柄拘束を恐れ、母国に戻れないでいる。トルコ滞在ビザの失効後もイスタンブールに残り、建設現場で働きながら生活している。

 イラニットさんを支援するテオドール・シュバルツバーグ弁護士は「出身国だけで一律に入国を禁じるのは間違いだ」と指摘。「この夫婦にはイスラエル以外に安心して住める場所はない」と訴え、人道的な観点からも夫の入国を認めるべきだと訴えている。

 【ことば】ユダヤ人

 イスラエルの帰還法は「ユダヤ人の母親から生まれた者、またはユダヤ教に改宗した人」と定義する。世界中に散らばる人口は約1300万人(07年)。イスラエルに約540万人、米国に約530万人がいる。欧州のほかモロッコやイラク、イエメンなどアラブ諸国にも住んでいる。イスラエルは帰還法に基づき各国のユダヤ人を受け入れており、昨年はイランから約200人が移住した。
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080730-00000002-maip-int

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アメリカの覇権的プラグマティズム

テーマ:東アジア:朝鮮半島・中国・台湾・ロシア

これは、アメリカの通常の外交方法であるが、一見ご都合主義に似ているが、そうではないだろう。アメリカの覇権主義の一環としての、表面的なご都合主義である。思うに、ここには、アメリカ外交のプラグマティズムがあるように思える。そう、覇権のための戦略があり、それに基づいて、「ご都合主義」的に行動していると思う。


米委員会、帰属先「韓国」に戻す=ブッシュ大統領、竹島問題に介入

7月31日8時33分配信 時事通信

 【ワシントン30日時事】米政府機関の地名委員会が竹島(韓国名・独島)の帰属先を「韓国」から「主権未定」に変更した問題で、米国家安全保障会議(NSC)のワイルダー・アジア担当上級部長は30日、「現時点では、変更には正当な根拠がない」として、帰属先を「韓国」に戻す決定が下されたことを明らかにした。
 同部長によると、地名委員会による帰属先変更に関して韓国政府が「極めて高いレベル」で米政府に接触し、見直しを要求。これを受けてブッシュ大統領がライス国務長官に再検討を指示し、帰属変更が覆された。韓国の聯合ニュースによれば、ブッシュ大統領は同ニュースとのインタビューで「すべての紛争は韓国と日本の間で解決されなければならない」と語ったという。
 地名委員会による帰属先変更は韓国で大きな問題となっており、韓国政府は8月6日にソウルで行われる米韓首脳会談で取り上げることも検討していた。ブッシュ大統領は訪韓を前にこの問題に介入、韓国に配慮を示した形だ。 
http://headlines.yahoo.co.jp/
hl?a=20080731-00000031-jij-int

2008年02月09日 (18:09)

『茶の本』The Book of Tea by Okakura-Kakuzo

翻訳は裏切りだと言われるが、翻訳はまた創造でもあるだろう。

「さて禅に注意を向けてみると、それは道教の教えを強調していることがわかるであろう。禅は梵語の禅那[ぜんな](Dhyana)から出た名であってその意味は静慮[じょうりょ]である。精進[しょうじん]静慮することによって、自性了解[じしょうりょうげ]の極致に達することができると禅は主張する。静慮は悟道に入ることのできる六波羅蜜[ろっぱらみつ]の一つであって、釈迦牟尼[しゃかむに]はその後年の教えにおいて、特にこの方法を力説し、六則をその高弟迦葉[かしょう]に伝えたと禅宗徒は確言している。」 村岡博訳 岩波文庫   p. 47

「さて禅道に注意を向けてみると、それが道教の教えを強調していることがわかる。禅とは瞑想[めいそう]を意味するとサンスクリット語「ディヤーナ」から出た名である。禅は、ひたすら瞑想を通して最高の自己実現に到達しうると主張する。瞑想は仏性に達する六つの道の一つであり、禅宗徒の断言するところによれば、釈迦牟尼[シャカムニ]はその晩年の教えの中でこの方法を特に力説し、その主要な弟子カーシャパ〔迦葉かよう〕にその規則を伝えた。」 桶谷秀昭訳 講談社学術文庫 p. 45

"If now we turn our attention to Zennism we shall find that it emphasises the teachings of Taoism. Zen is a name derived from the Sanscrit word Dhyana, which siginifies meditation. It claims that through consecrated meditation may be attained supreme self-realization. Meditation is one of the six ways through which Buddhahood may be reached, and the Zen sectarians affirm that Sakyamuni laid special stress on this method in his later teachings, handing dwon the rules to his chief desciple Kashiapa. "
ibid. p. 187

原文から見ると、桶谷訳の方が原文に正直である。しかし、村岡訳の方が喚起力があるのである。例えば、meditationを静慮(じょうりょ)や、 supreme self-realizationを自性了解(じしょうりょうげ)と訳す点である。原文の意を汲んだ訳である。達意の訳である。

p.s. 村岡訳では、原文の最後の行のthe rulesを六則と訳しているが、これは、桶谷訳の方が正しい。つまり、誤訳である。しかし、大過ないものである。

p.p.s. 私は村岡訳の『茶の本』を最高に支持する。桶谷訳は凡庸な訳であり、岡倉天心の思想を的確に伝えていないと思う。この名著は、今日でも十分通じる鋭敏な思想を伝えている。岡倉天心とは、天才的な思想家である。


茶の本 (岩波文庫) (文庫)
岡倉 覚三 (著), 村岡 博 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E8%8C%B6%E3%81%AE%E6%9C%AC-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E5%80%89-%E8%A6%9A%E4%B8%89/dp/4003311515/ref=pd_bbs_1?ie=UTF8&s=gateway&qid=1202546264&sr=8-1

2008年01月22日 (00:35)

モダン/ポスト・モダン文化バブルと漢籍教養:物質的逆境と真の文化社会創造:トランス・モダンの訪れ

今日、聴く気のないCDをブックオフに売った。二束三文である。一枚平均50円〜70円である。ポピュラー音楽ならば、60〜70年代のものは、もうほとんど聴かないと思うが、売る気にはならなかった。それらは、心・魂の記念・記録である。また、クラシック音楽classical musicであるが、バロック音楽を含めて古楽のものは手放したくなかった。ロマン派以降は売ってしまった。
 この売るか売らないかの基準は何だろうか。結局、音楽の特異性があるかどうかであろう。言い換えると、差異共振性があるか否かであろう。私は70年代初期のポピュラー音楽には、精神性があると言ってきたが、それは、差異共振性と言える。また、古楽であるが、それも精神性があるのである。やはり、差異共振性があるということなのである。
 ということで、基準は、精神性=差異共振性の有無である。すると、ロマン派以降や70年代後半以降の音楽は何なのか、ということになるだろう。とくにポピュラー音楽は、クズ・カスと言えよう。ロマン派以降は、若気の至りである。
 結局、まとめていうと、文化バブルであると思う。モダン/ポスト・モダンの文化バブルだと思う。霊学のシュタイナーは、近代が終った後、人類は近代を異質なものとして見るだろうというようなことを言っていたように思える。(どうも記憶があいまいである。)
 トランス・モダンの視点に立つと、近代という時代は、中世とは違った意味で暗黒であることがわかる。大暗黒である。戦争等による殺戮は、中世をはるかに越えている。結局、シュタイナーが言うように、西洋近代は唯物論の時代である(あった)のである。今日、唯物論の時代の、いわば、断末魔を迎えているのである。終末論的、「黙示録」的終末論的である。
 トランス・モダンの視点から観ると、ほんとうに、近代とは特殊な時代である。人類史における特異な時代である。近代以前、そして、これから迎えるだろうトランス・モダンにおいては、精神性、超越的精神性を人類は積極的に肯定していた(する)のである。この点から言うと、人類史の大汚点のようなエポックであった(ある)。精神の光を喪失した闇の時代なのである。ジョージ・ハリスンが、Living in the Material Worldで歌った"Who can see it"他は、トランス・モダンの歌である(itはヒンズー教の光を指している)。彼は、超越光を見ていたのである。そして、これから、多くの人が見るようになるだろう。そう、シュタイナーは20世紀前半から人類はエーテル体におけるキリストを見るようになると予言していた。(シュタイナーのキリストとは、 Media Pointの超越光のことと見ることができるのである。)
 さて、文化バブルのことに戻ると、結局、日本では、近代以前の書籍が復興すると考えられる。漢籍が再重視されるようになろう。漢籍には、魂がある。また、日本の古文も復興するだろう。そして、仏教、とりわけ、神道が復興するだろう。東洋・日本の美術も復興するだろう。そう、日本・東洋ルネサンスである。
 物質的には、暗黒の時代に入るが、逆境こそ、魂・心を磨くときである。近代という悪夢を乗り越えて、ほんとうの文化世界を創造するときなのである。トランス・モダンへと飛翔すべきである。


参照:

Artist: George Harrison
Album: Living In The Material World
Title: Who Can See It

I've been held up,
I've been run down
I can see quite clearly now
Through those past years,
When i played towing the line.
I only ask, that what i feel,
Should not be denied me now,
As it's been earned, and
I have seen my life belongs to me
My love belongs to who can see it

I've lived in fear,
I've been out there,
I've been 'round and
Seen my share
Of this sad world
And all the hate,
That it's stirred
I only ask,
That what i know,
Should not be denied me now
As it's been learned,
And i have seen my life belongs to me
My love belongs to who can see it

I only ask, that what i feel,
Should not be denied me now
As it's been earned, and
I have seen my life belongs to me

My love belongs to who can see it.

My love belongs to who . . .

http://lyrics.astraweb.com/display/155/george_harrison..living_in_the_material_world..who_can_see_it.html


Artist: George Harrison
Album: Living In The Material World
Title: The Light That Has Lighted The World

I've heard how some people, have said
That i've changed
That i'm not what i was
How it really is a shame
The thoughts in their heads,
Manifest on their brow
Like bad scars from ill feelings
They themselves arouse
So hateful of anyone that is happy
Or 'free'
They live all their lives,
Without looking to see
The light that has lighted the world

It's funny how people, just won't
Accept change
As if nature itself - they'd prefer
Re-arranged
So hard to move on
When you're down in a hole
Where there's so little chance,
To experience soul

I'm greatful to anyone,
That is happy or 'free'
For giving me hope
While i'm looking to see

The light that has lighted the world

http://lyrics.astraweb.com/display/460/george_harrison..living_in_the_material_world..the_light_that_has_lighted_the_world.html

2007年11月07日 (23:37)

思うに、いちばんいいのは、小沢氏のよい面である国民差異主義と、その他の政党の国民差異主義が統合することである。つまり

今回の小沢氏の辞意撤回で、小沢氏は、自民党や民主党の両方に睨みを利かせることができるようになったのではないだろうか。
 小沢氏は、二面性の持ち主、善と悪の持ち主である。アブラクサスである。アメリカにとっては、辞意撤回の方が、不利である。
 しかしながら、問題は一つは捩れ国会である。膠着状態となり、国民生活に被害が及ぶ。今度の衆院選挙が大岐路である。
 宗主国アメリカはいろいろ情報操作してくるだろう。しかしながら、ブッシュ政権ももう終焉が近い。郵政民営化凍結と財政再生、これが、ポイントである。
 思うに、いちばんいいのは、小沢氏のよい面である国民差異主義と、その他の政党の国民差異主義が統合することである。つまり、民主党でも、自民党でもない、第三の政党を創ることである。国民党である。もっともその余裕があるのか、である。世界は大転換する、いわば、相転移のエポックを迎えているだろう。つまり、差異共振主義である。

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「私にとって最後の一戦」小沢代表の辞意撤回理由全文

2007年11月07日18時37分

 民主党の小沢一郎代表が、同党両院議員懇談会で辞意撤回を正式に表明した。鳩山由紀夫幹事長の説明と小沢代表の発言は以下の通り。

 【鳩山由紀夫幹事長】 小沢代表が新たな気持ちで続投して頂く決意を固めて頂きました。(よっしゃー、拍手)。ご意見一つ一つをすべて小沢代表にご覧頂いた。菅、輿石代行と共に、我々の思いはこうだと皆様方の思いを説明した。両院議員の皆様の、日本を、国の未来を大変心配する中、恥を忍んでと。参院選挙は勝利したが、いつ解散総選挙があるかもしれない。国民が期待する政治をつくりだすために、小沢代表に新たな決意で臨んでもらいたい。私どもが日本のおやじと敬愛する小沢代表にリーダーシップを果たして頂くようお願いし、私の報告とする。

 【小沢一郎代表】 このたび党首会談をめぐり、国民、民主党の支持者、党員、同僚議員に多大のご迷惑をおかけしたことを心よりおわびする。皆様のご叱正(しっせい)を頂き、二日間沈思黙考し、私の政治生命を来たるべき総選挙にかけると決意した。

 ご承知の通り、いまだなお、不器用で口べたな東北気質だ。振り返るとそれが今回の混乱の一因では。当初から党員、国民に私の思いを打ち明け、丁寧に説明すべきでなかったかと思う。国民、党員、同僚の皆様に私の思いを率直に語る。

 私は14年前、自民党を離党し、日本に議会制民主主義を定着させ、国民のための政策を実現する仕組み作りを目指した。これが14年間の私の唯一の行動原理で将来も変わることはない。次の総選挙で民主党政権を実現しなければ死んでも死にきれないと必死だった。幸い先の参院選で参院の第一党という極めて重い地位をいただいたが、その大勝利の瞬間から二つの思いが深くなった。

 一つ目は次の衆院総選挙では何としても必ず勝利し、絶対に民主党政権を樹立しないといけないが、参院選勝利後の楽観的考え方では勝利がおぼつかない。前回の3倍の議席で勝つことが絶対条件だ。この厳しい現実を直視しないで総選挙勝利はあり得ない。参院選勝利の余勢で勝てるほど甘くはない。正直参院選の全国遊説では、日常活動をもっとやれと厳しく言われた。自民党に負けない活動で国民の理解、支持を得てもっともっと強くなるのが総選挙勝利の最低条件だ。

 次の総選挙は敗北は許されない。その責任の重さと党の現状への危機感を私は毎日かみしめてきた。次の総選挙が私にとって最後の一戦であることは間違いない。

 衆院では自民党が圧倒的多数を占める衆参ねじれ国会で、マニフェストで約束した国民生活第一の政策をどうやって実現するかだ。参院の同僚が一生懸命努力して法案を作り、いくつかの法案が可決し衆院に送付されるが、ねじれ国会では年金、子育てといった民主党の主要政策は実現困難だ。これで国民に許されるか、次の総選挙に勝ち、ねじれを解消するまでお待ち頂きたいと言い続けられるだろうか。国会の半分を担う民主党の責任への思いが深くなった。

 この二つを同時に解決する方法はないか。場合によっては、政権の一翼を担えば、私たちの主要政策がいま実現し、政権担当能力を目に見える形で国民に示し、総選挙で勝つ可能性が高まるのではと考えた。最難関の安全保障で最大限の譲歩を示し、連立を打診されたとき、二つの課題を解消する一つの方法と考え、政策協議について役員会に話した。しかし政策協議に応じず、政権交代を目指すとの声が多く、私は直ちに福田首相に伝えた。

 今思えば、それで総選挙に向けて頑張ろう、私が先頭に立つと、まとめればよかったと考え、反省している。しかし、その後いろんな憶測や誤解で混乱が生じたのでけじめをつけないといけないと思い、代表辞職願を提出した。いかにも不器用なやり方だった。しかしそれにもかかわらず三役、衆参両院議員が混乱を治めてくれた。心から感謝する。みなさまのご厚意に私も新たな覚悟を持って答えないといけない。もう一度代表を務め、最後の決戦にあたりたい。どうぞ皆さんご協力お願い申し上げます。

 そして、本日を再スタートの第一歩とし、菅さん、鳩山さん、輿石さんとともに衆院選挙対策本部を立ち上げ、衆参一体の選挙協力態勢を確立したい。

 一年半前、私は自分が変わらないといけないと約束した。死にものぐるいで頑張る。みんなで政権交代に向けて頑張ろうではありませんか。

 最後に国民におかれても、政権交代を実現し、国民生活第一の政策を実行するためのご支持をお願いします。

http://www.asahi.com/politics/update/1107/TKY200711070289.html

2007年11月05日 (12:41)

簡単に言えば、差異共振主義である。反対すべきアメリカではあるが、現実問題、アメリカとつきあってい

以下、小沢一郎の辞任表明のポイントを書き抜く。
 私は先に、小沢氏の二面性として、大資本自由主義と国民差異主義(いわゆる、国民のための「民主主義」)をあげて、二大政党制はその表現の一つに過ぎないから、大連立を受ける可能性を示唆した。
 いろいろ、憶測を飛び交い、真相が見えにくくなっている。私見では、大連立の話の出所はアメリカであるとしたが、それは、それでいいようである。アメリカが小沢を取り込もうとしたのである。
 しかしながら、とまれ、政策協議は肯定してもいいはずである。それで検討してうまくいかなければ、仕方がないが、今回のように、政策協議も否定するのは、単細胞である。
 思うに、もし大連立をしたならば、アメリカよりの政治が進んだはずである。しかし、今のままでは、アメリカよりどころか、政治瓦解の方向である。
 民主党は力量不足であるというのは正しい自己認識である。また、左翼的党人がいるのでは、民主党は、発展しないだろう。なぜなら、左翼は、近代的自我主義だからである。
 今のままでは、民主党は分裂して、「小沢党」と「組合党」に分離するだろう。すると、前者は自民党と連立ないしは合体する可能性が強い。水と油の民主党であるから、それは適切な方向と言えるだろう。
 問題は、小沢氏の二面性である。一方はアメリカ的合理主義であり、他方は国民差異主義である。この二面性が、民主党をまとめていたのだろう。テロ特措法問題は、後者がはたらいたと言えよう。しかしながら、大連立の問題では、前者がはたらいたのだろう。
 確かに、アメリカに対抗しないといけないが、単純な反対・否定では当然だめである。アメリカといわば妥協するように、こちらの主張を言っていかなくてはならない。この方法を理論的には何といったらいいのだろうか。
 一種の差異共振的自己保存主義だろう。簡単に言えば、差異共振主義である。反対すべきアメリカではあるが、現実問題、アメリカとつきあっていかなくてはならない。それは、他者への対応である。否定すべき他者ではあるが、共振して、差異的知性を見いだし、実践していくべきなのだろう。日本の国益のために、アメリカと共振するのである。

p.s. 思うに、連立とは切り離して、政策協議はできるはずである。(p.s. これは、ありえない。連立を前提に政策協議の提案があった。)また、野党共闘の方向もあったはずである。結局、

1)大連立を受け入れる
2)大連立を避けて、政策協議を行なう
3)大連立せずに、野党共闘で衆院選挙を戦う

この3つの選択肢があった。これは、慎重に考えるべきである。私のこれまでの考えは、3である。やはり、今回の大連立の提案は、アメリカの画策と考えて、慎重に対処すべきである。小沢氏の独断専行は問題であるが、また、民主党内の政策協議反対も問題である。
 非常に困難な政局である。今は、最悪の状況である。今の動きは、力学的に必然である。少なくともアメリカの画策の勝利である。
 
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一つ、11月2日の党首会談において、福田総理は衆参ねじれ国会で、自民・民主両党がそれぞれの重要政策を実現するために、民主党と連立政権をつくりたいと要請をするとともに、政策協議の最大の問題である、我が国の安全保障政策について、きわめて重要な政策転換を決断されました。

二つ、民主党は先の参議院選挙で与えていただいた参議院第1党の力を活用して、マニフェストで約束した年金改革、子育て支援、農業再生をはじめ、「国民の生活が第1」の政策を次々に法案化して、参議院に提出していますが、衆議院ではいまだ自民党が圧倒的多数を占めている現状では、これらの法案を今成立させることはできません。逆にここで政策協議を行えば、その中で国民との約束を実行することが可能になると思います。

 三つ、もちろん民主党にとって、次の衆議院総選挙に勝利し、政権交代を実現して、「国民の生活が第1」の政治を実行することが、最終目標であります。私もそのために民主党代表として全力を挙げて参りました。
 しかしながら、民主党はいまださまざまな面で力量が不足しており、国民の皆さまからも、自民党は駄目だな、民主党も本当に政権担当能力があるのか、という疑問が提起され続け、次期総選挙での勝利は大変きびしい情勢にあると考えております。

四つ、以上の考えにもとづき、2日夜の民主党役員会において、福田総理の方針を説明し、政策協議を始めるべきではないかと提案をいたしましたが、残念ながら認められませんでした。それは、私が民主党代表として選任した役員のみなさまから不信任を受けたに等しいと考えています。よって、多くの民主党議員・党員を指導する民主党代表として、また党首会談で誠実に対応してもらった福田総理に対し、けじめをつける必要があると判断をいたしました。

(尚、赤色強調はrenshiによる)

http://www.news.janjan.jp/government/0711/0711040138/1.php

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参考:
離党期待 与党手ぐすね 『解散遠のいた』一転強気

2007年11月5日 07時06分

自分が写るポスターの前を通り、記者会見に臨む民主党の小沢一郎代表=4日午後、東京・永田町の民主党本部で
写真

 与党は、小沢一郎民主党代表の辞任表明によって、参院選の大勝から続く民主党の攻勢が弱まるとみて、政局の主導権奪還に意欲を示している。「当面、衆院解散に追い込まれることはなくなった」との見方にとどまらず、小沢氏が民主党を飛び出し、参院の与野党逆転を解消する糸口がつかめるかもしれない、という期待感さえ出ている。 (渡辺隆治)

 自民党の渡辺喜美行政改革担当相は四日夜、愛知県豊橋市で記者団に「民主党はチャンスをピンチにしてしまった。われわれは、ピンチをチャンスにしたい」と語った。

 福田首相は「大連立」でねじれ国会の苦境を脱出しようとしたが、民主党は役員会で拒否を決めた。民主党内では、大連立に前向きな小沢氏に批判が集中した。これに着目した自民党は、民主党内の小沢不信を増幅させるため、小沢氏の「ほめ殺し」作戦に転換した。

 自民党の伊吹文明幹事長は四日午前、大阪市での街頭演説で「小沢氏は現状では駄目だと自覚して党首会談に臨んだ。民主党議員の多くはそのことを理解していない」と指摘。大島理森国対委員長もNHK番組で「小沢氏は立派だ。首相と小沢氏が三度、計三時間話し合ったのは貴重だ」と強調した。

 また、「大連立は小沢氏の方が持ち掛けた」との情報を盛んに流し、民主党内の分断を図った。

 孤立した小沢氏は代表の辞任を決意。作戦が予想以上の効果を挙げた自民党の幹部は「この混乱で民主党の支持率は10ポイントぐらい下がるはずだ。当然、衆院解散を迫る勢いもなくなるだろう」とほくそ笑む。

 与党は、今後の小沢氏の動向にも関心を寄せている。民主党内で孤立した小沢氏が、影響下の議員を引き連れて離党し、自公と連携すれば、参院で過半数を回復する芽が出てくる。

 公明党幹部は「小沢氏は民主党に残るのか、出るのか。出るとすれば、何人連れてくるのか」と期待を膨らませる。自民党幹部は「誰が民主党から抜けて、どう取り込むかまで既に考えている」と明かす。

 ただ、世論の批判は、唐突に密室で大連立を持ち出した福田首相にも向かっている。民主党に対する国民の信頼低下を対岸の火事と笑っている場合ではない。

(東京新聞)

http://www.chunichi.co.jp/s/article/2007110590070641.html



連立持ちかけ「形の上ではこちらから」 町村官房長官

2007年11月05日12時11分

 町村官房長官は5日午前の記者会見で、福田首相が「連立政権が成立すれば補給支援特措法案の成立にはこだわらない」と確約したという小沢民主党代表の説明について「特措法を成立させる意思がなければ、党首会談をこのタイミングでやる意味はない。法案成立にこだわらないと小沢氏が受け取ったのは理解に苦しむ」と述べた。

 町村氏はまた、「(自衛隊の海外派遣は)国連安保理もしくは総会決議で認められたものに限るというのは小沢代表の持論だ。基本法(恒久法)の法制化を前提として、補給活動を遅滞なく継続することにお互い協力する(という趣旨だった)」との認識を示した。

 どちらが連立を持ちかけたかという点については「まさにあうんの呼吸。形の上ではこちらからお話しした、ということだ」と述べた。連立を組んだ場合の閣僚ポストについて議論したかどうかは「ポストをうんぬんする時間的余裕がなかったと考えるのが常識的だ。どういう政策協議をどういうテーマでやるかという一番単純な点が第一歩。閣僚ポストの話ができようはずがない」と語った。

http://www.asahi.com/politics/update/1105/TKY200711050139.html


2007年10月16日 (20:50)

まず、政治・経済の力学ではなく、私個人の印象・感想を語りたい:日本差異共振伝統文化とPS理論

まず、政治・経済の力学ではなく、まったく私個人の印象・感想を語りたい。
 私は、農業地帯で育った。比較的近くに海がある。車なら、20分未満で行ける。とまれ、子どもの頃は、茅葺の家が周囲にほとんどであり、私も、それに住んでいた。また、道路状況も悪く、私が高校に自転車通学したときは、舗装された道路は、全体の五分の一程度であった。とにかく、私の印象は物質的貧しさである。これが、精神風景の基調である。
 しかし、いつ頃からであろうか。新築の家が増え、道路がほとんど舗装され、また、海岸には、企業の研修所等の建物が立派に建つようになっていた。そう、いろいろな大規模店も増えた。国道沿いの店舗がなにか外国風に見えたものである。時期的には、バブル頃であろう。外見的に羽振りがよくなったのである。
 私は、近隣の真新しくなった住宅を見て、この建物を造るための富はどこから入ったのだろうかと思ったのである。昔は、茅葺屋根のあばら家だったものが、新築の二階建てのモダンな住宅に変身したのであるから。海岸の、松林にたつ企業の研修所のような立派な建物を造る富はどこから来たのだろうか、素朴に疑問に思ったものである。
 私は単純素朴に、この田舎をモダンにする富はどこから来たのかと思ったのである。なにか、私が育った田舎ではなく、外国に居るような感じがした。外見の、物質的豊かさが、貧しい田舎を変身させてはいたのである。私は、その頃には、東京に住んでいたので、浦島太郎のような感じもしたものである。
 そう、私の思いは、前述したように、この富はどこから来たのかという疑問であった。なにか降って湧いたように感じられたからである。そのときは、東南アジア等の貧国から奪った富ではないかと思ったりした。とにかく、不自然な感じがしたのである。物質的貧しさが精神的風景であったのに、なにか突然、派手にモダンに変身したのであるから。
 結局、この変身は、金融資本の跋扈によるものと今では言えよう。金融資本が、マクベスの魔女の予言のように、農民を王にしたのだろう。金ぴかの農民にかえたのだろう。そう、ここには、公共投資が大きいと言えよう。農業地帯の道路は、今やほぼすべて舗装されている。道路も新たに造られたりした。結局、日本の政府は借金で、外見モダンな田舎を造ったのだ。そして、下の記事からもわかるように、借金する必要がないのに、米国債を買って、日本経済を歪めてしまったということだろう。ここには、国家社会主義と金融資本主義の癒着があると言えよう。これが、日本経済の癌である。岸信介路線と米国金融資本家との癒着構造が癌細胞である。
 安部前首相が戦後レジームからの脱却を唱えたが、それは形式的には正しいと言えよう。皮肉なのは、それが、祖父の岸信介路線からの脱却を意味したことである。
 ここで大雑把に、日本のこの癌細胞を死滅させる方法を考えたいが、今は、方向性だけを述べるにとどめる。結局、問題は、日本近代の特殊性が今日も尾を引いていることである。欧米の近代化を考えると、たとえば、イギリスの場合は、絶対王政があり、それが、ピューリタン革命(懐かしい言葉だ)で破壊されるが、名誉革命で、王制が戻るが、しかし、実質は、中産階級が支配的になり、自由主義、民主主義が進展したのである。私は、既述したように、欧米におけるルネサンスの意味が大きいと考えているが、欧米近代の基盤には、ルネサンスがあると言っても過言ではないだろう。これは、周知のように、個を基盤とする世界観の出現を意味する。だから、ここから、プロテスタンティズムが生まれるのも必然であると言えよう。私は西洋文明を批判するが、この個の世界観だけは、積極的に評価せざるをえない。
 しかしながら、個と自我が混淆されて理解されたのである。というか、個と自我は、自然状態では、混淆しているのである。これが、不連続的差異論/プラトニック・シナジー理論が本質としてもっている解明点である。今日の哲学的問題もこの点にあると言えるのであるが、日本においては、どうなのだろうかということである。
 日本文化における個とは何か、である。これについては、以前愚考したが、日本的個というものはあるのである。それは、実は、PS理論に近いものであったと思えるのである。即ち、日本的個とは、本来、差異共振的であると思えるのである。日本語のもつ「述語」中心性がそれを示唆していると思われるのである。「空を見る」というとき、主体である「私」と客体である「空」は、「見る」という述語において、一如であるのである。これが、端的に差異共振的であると考えられるのである。
 ただし、当然、自我的同一性は強くはなかった。そう、日本近代化とは、結局、日本文化の差異共振性を忘却して、西洋的自我主義を導入することではなかったと思えるのである。つまり、それまで日本文化にはなかった、自我的同一性を取り入れたのではなかったということである。そう、ここに勘違いがあるのである。西洋においては、ルネサンスに基づいた近代文化があるのであり、それは、個=差異の文化なのである。それから、自我、近代的自我へと進展したのである。だから、西洋近代文化は、ルネサンスとプロテスタンティズムの混淆であると言えるのである。しかしながら、近代日本は欧化において、ルネサンスを忘却して、プロテスタンティズムの近代的自我を取り入れただけのように思えるのである。
 明治維新まで日本文化がもっていた差異共振性を否定して、近代的自我、近代合理主義を取り入れたと思うのである。思うに、日本の近代化とは、中国の文化大革命に並ぶような叡知の放棄・破棄を意味するのではないだろうか。
 日本は自己喪失・自己忘却・自己棄却して、近代化したのである。それもいびつな近代化であった。ルネサンス抜きに近代化であった。あるいは、皮相・浅薄・軽薄な近代化であったのである(そう、日本軽薄近代化と呼べるだろう)。つまり、自己本質を喪失した浮ついた近代化であったのである。これが、現代日本の亡国状況の根因であると考えられるのである。自己の魂を喪失した近代化であったのである。漱石は滅びると考えたのであるが、それは正鵠を射ていたと言えよう。
 三島由紀夫が魂のことを言ったが、この点で正しかったのである。戦後の問題というよりは、日本近代化の問題であったのである。だから、亡国日本から復活するには、日本の魂を復興させなくてはならないのである。差異共振文化を復活させなくてはならないのである。プラトニック・シナジー理論は日本伝統文化の創造的復活をも意味するのである。近代を、とりわけ、日本近代を乗り越えなくてはならない。トランス・モダン・ジャパンである。

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「アメリカはいかにして日本を滅ぽしたか」  マクロ経済
アメリカはいかにして日本を滅ぽしたか
ビル.トッテン著”日本は日本のやりかたで行け”から、マィヶル・ハドソン氏の{1985年プラザ合意の教訓とその影響}と題する諭支の要約です。

 プラザ合意の真の目的とは……

1985年9月22日、ニューョ−クのプラザ・ホテルで、日本は金利を引き下げることにより、ドルの為替相場を支えることに同意した.いわゅる「プラザ合意」である。これは世界経済安定のために、先進諸国が協調して相場に介入した事例として語られているが、ハドソン氏によれぱ、それは表向きのことにすぎないという。
http://sun.ap.teacup.com/souun/130.html

「日本はなぜ負債大国になったか」  マクロ経済
平和時に政府が借金を増やす理由は、富に対する課税を怠ったことに起因する。

現在の財政政策の悲劇は、生産的な産業投資よりも、非生産的で寄生的な富の方が簡単に税金逃れができる点にある。

過剰の富や、不労所得者の所得へ課税する代わりに、必需品や生産的な直接投資、労働者階級への課税を増加すれば、産業の発展や繁栄は抑制されてしまう。

税制の改正は、金融および不動産投資家に、寄生的かつ投機的な収益を求めることを奨励する。
この新しい財政哲学は、世界競争に向けた生産性や生産高拡大のための再投資に必要な収益を産業界から奪いかねない。

国民はこの「新しい」税制政策がいかに深刻な影響を与えるか理解していない。
http://sun.ap.teacup.com/souun/126.html
晴耕雨読

2007年10月03日 (18:49)

「恐怖の大王」の郵政民営化を支持した日本人の《無知》の根源は何か:霊智・叡知ルネサンスへ向けて

「恐怖の大王」の郵政民営化が既に動き出したが、料金を見ただけでも、恐怖の「インフレ」であり、絶句する。
 あの二年前の狂気の小泉衆院選挙は何であったか。
(参考:http://ameblo.jp/renshi/archive1-200508.html )
一言で言えば、多くの国民が批判的思考力を失っていたということで説明できるだろう。マスコミ等の宣伝によって、洗脳されてしまったのである。これは、個として、思考し、生きていないことに原因がある。
 ただ、感情・欲望に囚われて、脱利己の知性によって思考していないことからくるのである。私は、何度も述べたが、前小泉首相に対する根本的な疑念があった。どうみても、あの話し方は、パフォーマンスにしか見えなかったのである。胡散臭かったのである。それが直観でわからないというのは、精神がなくなっている証拠である。
 ブログ等では、多くの憂国の士が居て、それが、ほとんど唯一の救いである。とまれ、どうして日本人は精神的知性を喪失したのか、簡単に述べたい。
 これは、ほとんど自明であるのだが、戦後の唯物論教育と物質主義的生活が原因である。唯物科学教育は、自我を強化して、自己へと変容する契機を提起しなかった。道徳教育云々は反動的である。哲学・叡知教育が必要である。
 つまり、日本が救われるには、叡知へのパラダイム・シフトが必要である。生まれ変わらないといけない。つまり、結局、郵政民営化を超克できなければ、財政的に没落零落する。アメリカ的格差が拡大する。思うに、日本人には、試練が必要である。今のような、無思想状態は亡国状態であり、亡国は必然である。
 だから、亡国からの新生を私は考えている。亡国で滅亡したままなのか、それとも、復活するのか、である。微妙なところである。
 とまれ、精神・霊智・叡知ルネサンスが必須である。

p.s. 是非、プラトニック・シナジー理論を学んでいただきたい。ポスト・モダン理論が致命的に不十分であったのであり、そのため、物質的現実に対する知性・叡知が衰退してしまったのである。プラトニック・シナジー理論はアンシャン・レジームである近代を乗り越える知性・叡知の武器である。

p.p.s. 戦後の唯物論による日本人洗脳とは、思うに、アメリカと岸信介による、日本人支配の方策によるものではなかったのか。少なくとも、日本人に精神を捨てさせたナニカがある。やはり、アメリカの占領政策が大きいと思う。日本人を精神的に去勢させる占領政策である。後で、検討したい。そう、三島由紀夫の狂気の原因もここにあるだろう。三島は知的胆力が足りなかったとは言えるが。これは、大江健三郎の問題にもつながる。
 占領政策で、日本の政治家が肝を抜かれたということもあると思う。三島が天皇制を狂乱的に訴えたのは、やはり、精神の喪失によると言えよう。戦前の天皇制と日本人の精神は結びついていたのである。そして、戦後、人間宣言で、日本人の精神は瓦解した。折口信夫は、独り、新神道を夢見た。超越性の問題である。日本文化の超越性・霊性を否定されたのである。日本の霊性、これが、占領政策によって否定されたのである。霊的亡国である。亡国日本が甦るためには、ユダヤ/キリスト教西洋文明の霊的超克が必要である。霊的ルネサンスである。

2007年07月29日 (15:10)

日本の衰退という現実を認める:復興は可能か

日本の現状を理論的に言えば、近代主義の末期症状であろう。近代合理主義が物質主義・唯物論を形成して、拝金主義を助長した。経済的唯物論が蔓延した。
 人間主体から言うと、近代的自我主義であり、哲学的に言えば、同一性中心主義である。これは、反個人主義である。自我主義と個人主義は、似て非なるものである。
 この没個人主義を生む日本社会の圧力は何だろうか。私は、学生の頃、最近は見ないが、そして、その後、アクの強さで嫌いになったが、あるピアニストの話しを聴いて、個性が自分に足りないと思い、個性的でありたいと強く思うようになった。とまれ、個が重要であるという思想は、その後、変わらない。
 個は、自我とは正反対である。個は、自己に誠実であるのであって、外界は、言わば、二義的である。自我は、外界中心で、見えの世界、顕示の世界に生きている。人の目を気にして生きている。
 このように書いてくると、日本の衰退の哲学的意味が見えてくるだろう。没個主義で、自我中心主義になってしまったことだろう。
 創造、独創、アイデア等は、個主義から生まれるのである。政治家がわかりやすいだろう。政治家に個がなくなっているのである。世襲議員は、自力で切り開いて来なかったから、単に、自我が肥大しているだけである。
 個とは孤独である(個独)。孤独を恐れ、群れる日本社会には、未来はないだろう。
 そう、日本人全体が虚弱になっているのである。端的に言えば、退化しているのである。文学で言えば、大江健三郎の退化があるだろう。教養主義を模倣しているだけである。音楽、美術も枯渇しているだろう。科学嫌いも多い。
 何度も繰り返すが、これは、近代主義の帰結である。近代主義を乗り越えるはずだったポスト・モダンは、連続性に後退したために、近代主義の同一性構造を乗り越えられなかったのである。
 日本の未来は厳しい。退化する日本は、滅びるのだろう。

2007年07月11日 (16:18)

日本国のパラサイト群=癌細胞である政官財の悪徳権力家の心理について:または、権力亡者心理分析

日本国を食い物にしているパラサイトな権力亡者たち。
参考:『きっこの日記』:「国による大犯罪の告発!」
http://www3.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=338790&log=20070711
私は、彼らは、同質の心理ないし性格をもっていると感じるのである。というか、悪人特有の心理があると思うのである。ということで、それを分析したい。権力的悪人心理分析。
 端的に、彼らは、腹黒いのである。表面を飾るのが巧みである。そう、彼らは、一種すぐれた読心術や透視能力をもっている。人心を読むのが巧みなのである。お人よしの日本国民はいいカモである。これは、支配者の能力である。西洋人が、非西洋人を、過去、現在、支配してきたのは、この能力があるからである。
 神話でいうと、堕天使ルシファーであろう。神に近いものでありながら、傲慢で天から落とされて、悪魔になったのである。
 そう、彼らは、人心を読み、騙して、略奪することにたけているのである。つまり、国民のためを装って、自らの物質的権力欲望の満たすため、国民を騙すのである。
 そう、彼らは、「エリート」である。国民より、自分たちの方が、優秀だと思っているのであり、自分たちが、権力によって、私利私欲を満足させるのは当然と思っているのである。だから、年金にしろ、政治資金にしろ、偽装問題にしろ出て来るのである。
 傲慢さがあるのは、当然であるし、また、私がこれまで、解明してきた近代的自我をもった人間どもである。ニーチェで言えば、ルサンチマン(怨恨)をもった者どもである。自分は、才能があるのに、その対価を得ていないという不満をもっているのである。
 そう、同一性能力に秀でているのであり、これは、認めるべきである。ただ、彼らには、非凡なものとなるための差異が根本的に欠落しているのである。だから、優秀な凡人的悪人なのである。
 日本国民は、一般に、騙されやすいタイプである。人を疑うことをあまりしない、というか、物事を深く考えないタイプである。批判的知性が欠落した国民である。だから、パラサイトな悪人どもは、易々と、騙せるのである。国民が物事を皮相に捉えるので、権力亡者どもは、皮相を取り繕うのである。
 国民が、批判知性の訓練を受けていないから、易々と、表面的に誤魔化せるのである。個として、差異として、特異性として、自己を捉える人ならば、権力亡者どもは、直観的にわかるものである。この隙をパラサイトな権力的悪人は、利用するのである。ある意味で、国民自身のツケ、自業自得性はあるが、しかし、知にたずさわる者が、批判知性を欠落させているので、国民だけを責めるわけにはいかない。
 彼らの同一性的悪賢さとまた、執念深さを忘れてはいけない。嫉み深いのである。隙あらば、人を、常に、貶めようとしているのである。憎悪の塊である。
 同一性に長けているので、言葉がうまいのである。騙しの才能の天性をもっているのである。羽賀研二のようなものである。
 結局、彼らを、権力の座から、外すためには、国民の英断が必要である。鬼は外である。

2007年05月15日 (01:31)

現代日本政治カルト状況と日本的近代主義による同一性=全体主義:日本的差異=霊性の復活へ向けて

toxandoria氏の激烈な現代政治のカルト批判
http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070514/p1
を読むと、日本の病巣がはっきり浮かんでくる。そして、それについては私なりにさんざん述べてきたので、ここでは、詳論しない。
 今は、簡単に触れるだけだが、現代日本の政治・社会的カルト状況は、実は、近代主義の帰結なのである。近代主義的同一性は、結局、連続化して、ただ、唯一の同一性へと帰結するのである。そう、オーウェルの描いたビッグ・ブラザーである。ただし、日本の場合のビッグ・ブラザーは、一人の総統が中心というよりは、同一性共同体が中心である。これは、ある意味で、村落共同体的である。
 結局、問題は、近代主義は、封建主義を打破して形成されたものであるが、この否定が、実は、同一性による二項対立という差別をもたらしたのである。封建主義はあきらかに差別主義であるが、それを否定した近代主義も差別主義なのである。
 そう、ここには民主主義の問題があると言えよう。「人間は、平等にequal創られた」とアメリカの独立宣言にある。同一性とは、実は、差異の否定・排除・隠蔽であり、この点で明らかに差別主義なのである。同一性が優位であり、差異が劣位である。(そう、高野連の魔女狩りは、この同一性主義によると言えよう。)
 図式化すれば、優位/劣位=同一性/差異である。つまり、平等思想を徹底すると、同一性主義となり、差異が否定されるのである。というか、根本的に、平等思想は、差異を否定するので、全体主義が帰結されるのである。これは、ヘーゲル哲学に顕現していることである。(これらは、既述済みである。)
 民主主義は、確かに、封建主義を打倒する重要な観念であるが、しかし、やはり、限界があるのである。つまり、民主主義は、同一性主義=全体主義へと展開する必然性をもつのである。
 だから、以前から述べているが、差異的民主主義、超越的民主主義が必要なのである。平等ではなくて、差異が基礎となるのである。あるいは、特異性と言ってもいい。
 現代日本の全体主義・魔女狩り・原理主義的潮流を見ると、これは、確かに、民主主義の帰結と言えるだろう。あるいは、近代的民主主義の帰結である。
 また、それだけでなく、日本における父権主義がこれに関係しているのである。父権主義は、封建主義であるが、これが、色濃く現代日本に残っているのである。欧米ないし西欧の民主主義は、個的民主主義である(ルネサンスは、個の活性化であり、私見では、プロテスタンティズムはこの個を取り入れているのである)。しかるに、日本の場合は、父権的民主主義である。これが、なおさら、民主主義を同一性主義=全体主義化させていると考えられるのである。
 この点をもう少し詳しく見よう。同一性主義は、差異を否定する。そして、父権主義は、父権的二項対立性をもち、その点で、同一性主義と結びつきうるのである。
 端的に言うならば、父権主義と近代的自我は同形である。父権主義は、母権という差異を否定して、父権的自我中心主義である。つまり、母権の否定・排除・隠蔽があるのであり、ここに父権的同一性二項対立が成立するのであるから、近代的自我と同形なのである。
 ということで、ルネサンスを経由していない日本は、近代化において、近代的自我と父権主義とを結びつけたと考えられるのである。だから、同一性主義=全体主義が必然的に帰結する傾向にあると言えよう。そして、それが、現代日本なのである。
 欧米の近代化とは、ルネサンスを経ているので、個=差異が基盤になっているのである。そして、ここから近代主義が発生するのである。つまり、差異と同一性との緊張関係が欧米には本来あるのである。
 イギリス人は、経験的個人主義であるから、全体主義を忌み嫌うのである。因みに、ブレアの失敗の一つの要因はここにもあるだろう。
 そう、差異と同一性との緊張関係が、いわゆるポスト・モダン思想を生んだと考えられるのである。つまり、欧米の基盤にある差異の発動なのである。流行としてのポスト・モダンは終ったが、しかしながら、後期デリダに見られるように、差異主義は生きていると見るべきである。
 この観点から見ると、現代日本の政治・社会的カルト状況は、欧米にある個=差異の視点の欠落にあるということになるだろう。日本では、日本なりの個の文化があったが、それが、近代化において、排除されてきたと思うのである。
 今は、簡単に言うだけだが、個=差異と霊性=精神性は、結びついているということである。欧米は、宗教性を脱色化したとは言え、精神のベースにキリスト教は今でもあるのである。欧州の都市には、教会がはっきり目に付くのであり、それが、共同体精神の焦点を構成していると思えるのである。
 これはそれほど突飛な考えではなく、ルネサンスにおける宗教性を見ればすぐわかることである。今、日本に来ているダ・ヴィンチの受胎告知を見ればいい。
 日本は、明治維新においては、排仏毀釈を行い、仏教の影響力を排除して、国家神道によって国民の霊性=精神性を収斂させたと言えよう。私見では、この時代の日本人には、個=霊性があったのである。
 しかし、太平洋戦争の敗戦によって、アメリカに占領されて、日本国憲法が生まれて、立憲民主政の国として再出発することになった。しかし、このとき、日本人は、戦前を否定して、日本人固有の個=霊性を喪失したのである。というか、それを否定・排除して、近代的合理主義を肯定したのである。ここに、現代日本の政治・社会カルト状況の始点があると考えられるのである。
 そして、戦後においては、残っている父権主義と近代主義が融合して、同一性癒着的政治体質が形成されたと考えれるのである。整理すると、日本的個=霊性の喪失、近代主義、父権主義、これらが結びついて、同一性主義=全体主義=カルト主義が形成されたのである。
 そう、差異は霊性である。超越性である。日本が復活するには、差異=霊性=超越性の復活が必要なのである。
 後で、霊的世界について、述べてみたい。
 
p.s. 論理の流れが乱れているが、論旨は明快だと思う。後で、より整合的にまとめたい。
 
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■ポスト・モダンの幻影⇒対立するものの同一化現象

ポスト・モダンの幻影⇒対立するものの同一化現象
2007.05.14 Monday | author : Kaisetsu
http://blog.kaisetsu.org/?eid=550049
kaisetsu 2007-05-15 00:59:29
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
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