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2010年07月11日 (09:16)

即非について再考:差異共立一如態としての「即非」:即非から即一非へ

即非はAが非Aであり、且つ、Aであるという論理である。
 先に問題にしたことは、前者のA即(非A)、又は、A即非Aである。http://ameblo.jp/renshi/entry-10587127583.html つまり、即の部分である。これは何か。
 直近においては、即非は差異共立一如態であると把握したので、即は、等号、イコールではなく、共立でなくてはならない。あるいは、並立である。造語して、双立である。
 しかしながら、即には、「~である」という同一性構造が残っているのではないだろうか。
 共立、並立、双立の場合には、それがなく、差異は差異のままであり、他者の差異と一如様態にある。
 例えば、「わたし」は非「わたし」であるというとき、「わたし」は非「わたし」へと同一性化しているのである。非「わたし」を他者とすれば、「わたし」は他者と同一性化しているのである。これは、凸iから凹iへの転化ではないのか。
 私が考える差異的志向性とは、「わたし」は他者を志向するが、他者と一致することはなく、やはり、「わたし」は「わたし」であるという発想である。
 しかし、「わたし」は非「わたし」であるという即非論は、基本的には、やはり、差異共立一如態を指していると見るのが妥当だと思う。つまり、即とは、一如態を意味すると見るべきだと考えるからである。
 鈴木大拙は、西洋の二元論的区別に対して、東洋の一元性(一体性)を説いているのであり、その一元性が一如性であると考えられる。
 だから、即という用語は語弊が実に大きいのである。混乱させるものである。
 故に、即は一如・一体・一(いつ)性を意味すると見なくてはならない。同一性ではないのである。そう、即と「~である」とは当然、異なると見るべきであるが、両者を混同している誤解があると言えよう。
 だから、色即是空の即もやはり、一如、一体ではないだろうか。つまり、色共立空である。これはわかりやすいのではないだろうか。とまれ、これは後で検討したい。
 ということで、私は即を即一に変更したいと思う。故に、即一非論である。A即一(非A)である。即ち、「わたし」即一「非わたし」である。だから、「わたし」は「川」であるではなくて、「わたし」は「川」と一如・一体であるが正しいのである。
 「~である」は、差異共振の一端である。MP2における差異共振作用において発生する連続性・同一性である。
 ところで、ドゥルーズの生成変化であるが、それは、やはり、差異共振作用における連続性・同一性であるが、それは、他者である凹iに傾斜していると言えよう。つまり、自我凸iの傾斜の反対であるが、それは、逆立ちした近代主義である。つまり、近代の鏡像に過ぎないのである。
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2009年05月10日 (13:16)

「矛盾」の問題:極性的対立(反対)と不整合的対立:絶対矛盾的自己同一と絶対差異対立的自己非同一

先に、オバマ政権は二つの「絶対矛盾」があると言った。一つは、差異共振路線における「絶対矛盾」であり、一つは、差異共振主義と同一性主義の「絶対矛盾」である。
 前者は、民主主義と自由主義との「絶対矛盾」であり、これは極性的対立(反対)なのであり、後者は正に、相容れない対立である。
 思うに、「矛盾」は同一性=物質世界における相互否定の対立を意味すると限定した方がいいのではないか。
 差異共振・即非とは、精神・超越性における相互否定的対立である。
 同一性と差異は峻別されるべきであり、それぞれにおいて対立は異なる論理となるのである。同一性の論理(アリストテレス論理)と即非の論理である。前者の対立を「矛盾」とすることになるのである。
 では、西田哲学の「絶対矛盾的自己同一」の「絶対矛盾」は何か。西田幾多郎は個物と個物の相互限定として、「絶対矛盾」を考えている。それは、一見、同一性=物質の世界のことに見える。
 思うに、西田は同一性と差異を混同している可能性がある。しかしながら、例えば、「私」と「山」は差異共振するのである。その場合、両者は同一性だろうか。否、その場合、両者は共に差異である。
 西田の思想を差異主義とするならば、個物と個物の相互限定は即非的となる。そうならば、同一性と差異との混同はない。
 では、「絶対矛盾」の「矛盾」とは、差異共振・即非論理となる。そうすると、上述の定義からすると、それは間違いである。だから、「絶対矛盾」ではなく、差異共振・即非である。あるいは、「絶対差異対立」である。そう、「矛盾」は差異対立とするといいのである。
 以上の視点から西田哲学を見なすと、明快になるのではないだろうか。絶対差異対立的自己同一理論である。つまり、即非の論理やPS理論に通じると言えよう。
 簡単に、絶対対立的自己同一ないしは絶対差異的自己同一性とすればいいだろう。
 しかし、自己同一という発想も問題である。それは、自己同一ではない。自己非同一である。だから、絶対差異対立的自己非同一である。西田哲学の脱構築である。

追記:反対の一致という観念も問題があるだろう。PS理論から言えば、一致しないのである。反対は共振・共鳴するのであり、即非の論理をもつのである。
 また、ヘーゲル弁証法も当然問題である。対立の統一はありえないからである。西洋哲学は、やはり、デリダが説くようにロゴス中心主義、即ち、同一性主義なのである。

参考:
絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎
     一

 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
 かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)


参考2:

反対の一致coincidentia oppositorum
ニコラウス・クザーヌス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動: ナビゲーション , 検索
ニコラウス・クザーヌス

ニコラウス・クザーヌス(Nicolaus Cusanus、1401年 - 1464年 8月11日 )は、ドイツ の哲学者 ・数学者 ・枢機卿 。

ドイツのモーゼル河畔のクースに生まれる。 ハイデルベルク大学で学び、パドヴァ大学で教会法の博士号を取得。さらにケルン大学で偽ディオニシウス・アレオパギタ らの思想に触れる。その後1430年 司祭 に叙階され、バーゼル公会議 (フィレンツェ公会議 )では指導的な立場で活躍、高名を得る。東西教会の和解のためにも奔走し、教皇使節としてコンスタンティノープル を訪問。1448年 に枢機卿、1450年 ブリクセン大司教。1464年 トーディにて死去。彼の生涯は教会政治家としての実践と、思想家としての理論が融合した類い希なものであった。
思想 [編集 ]

クザーヌスは「知ある無知」や「反対の一致」などという独創的な思想を唱えた。クザーヌスによれば神の本質は、あらゆる対立の統一=反対者の一致である。無限の中では極大と極小(神と被造物)が一致する。すべての被造物は神の映しであり、それぞれの独自な個性を持ちながらも、相互に調和している。中でも人間は自覚的に神を映し出す優れた存在であり、認識の最終段階においては神との合一が可能であるという。

彼の思索は中世の混沌のなかから近代的思考を準備したと高く評価されている。 また、カール・ヤスパース や西田幾多郎 など後生にも多大な影響を与えたと言われている。日本では、生誕600年を期に注目が高まり、研究が進んでいる。

主要著作 [編集 ]

* De concordantia catholica
o 普遍的和合について(カトリック的和合について)
* De docta ignorantia
o 学識ある無知について
* De filiatione dei
o 神の子であることについて
* De dato patris luminum
o 光の父の贈りもの
* De visione dei
o 神を見ることについて
* Trialogus de possest
o 可能現実存在
* Directio speculantis, seu De non aliud
o 観察者の指針,すなわち非他なるものについて
* Complementum theologicum
o 神学綱要
* De venatione sapientiae
o 智慧の狩猟について

日本語訳一覧 [編集 ]

* 『知ある無知』(De docta ignorantia,1440年 )岩崎・大出訳、創文社
* 『隠れたる神についての対話』(De dep abscondito,1445年 )
* 『神の探求について』(De quaerendo Deum,1445年 )
* 『神の子であることについて』(De filiatione Dei,1445年 )大出・坂本訳、創文社
* 『可能現実存在』(De possest,1460年)大出・八巻訳、国文社  1987年
* 『非他なるもの』(De non aliud,1462年)松山康国訳:『ドイツ神秘主義叢書7』創文社 1992年
* 『創造についての対話』(De Genesi,1446年)
* 『知恵に関する無学者考』(Idiota de sapientia,1450年)
* 『信仰の平和』(De pace fidei,1453年)
* 『テオリアの最高段階について』(De apice theoriae,1463年):上智大学 中世思想研究所監修/『中世思想原典集成17 中世末期の神秘思想』平凡社  1992年掲載
* 『光の父の贈りもの』(De dato patris luminum,1445年)/大出・高岡訳、国文社 1993年
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)
* 『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)酒井・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館  2000年掲載
* 『神の子であることについて』『神を見ることについて』(De visione Dei,1453年)/『観想の極地について』坂本尭訳/『知恵の狩猟について』(De venatione sapientiae,1463年)坂本・岩田訳:『キリスト教神秘主義著作集10 クザーヌス』教文館 2000年掲載
* 『神を観ることについて』八巻和彦訳、岩波文庫  2001年(ほかに、説教と書簡を一つずつ掲載)
* 『神学綱要』(Compendium,1463年 )大出・野沢訳、国文社 2002年

関連項目 [編集 ]
ウィキメディア・コモンズ
ウィキメディア・コモンズ には、ニコラウス・クザーヌス に関連するマルチメディアがあります。
"http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%A9%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%82%B6%E3%83%BC%E3%83%8C%E3%82%B9 " より作成
カテゴリ : ドイツの哲学者 | ドイツの数学者 | キリスト教神学者 | キリスト教神秘思想家 | 枢機卿 | 15世紀の数学者 | 数学に関する記事 | 1401年生 | 1464年没

2008年08月01日 (18:33)

主観現象と哲学・理論:専門内部(既成のパラダイム)と専門外部(他者の存在)

私は主観現象の整合的言説化が哲学ないしは理論であると言った。主観現象であることに注意したい。一般に自然科学は、観測データを基にして、それを合理化し、法則を立てる。そして、実証に耐えうるものとする。もっとも、法則となるまでは、仮説であり、しかし、法則自体も、あるとき、新しい発見によって反古にされるのである。物理学で言えば、相対性理論や量子力学の発見を見ればいいだろう。
 この観測データとは、機器を用いて測定した客観的データである。それが、大雑把ではあるが、自然科学的方法である。(もっとも、仮説の構築には、直感・霊感・想像力がきっかけとなるのは言うまでもないだろう。自然科学における主観性の必要がここにある。)
 さて、哲学の場合は、観測データとは、哲学行為者の主観現象であると私は考えるのである。この点で、自然科学とは異なると言えよう。言い換えると心身現象が哲学のデータである。だから、個の様態が基盤となると考えられるのである。
 以上が基本であり、それに対して、哲学史がある。これは、他の分野と同様に、伝統と破壊的創造との歴史と言えよう。もっとも、大哲学者の正典(キャノン)の存在は変転しながら、古典として継続するものである。
 私が考える哲学行為とは、主観現象の整合的言説化であるが、このためには、当然、これまでの哲学を探究して、主観現象の整合的言説化に役立てる必要があると考えられる。しかしながら、主体はあくまでも、哲学行為者の主観現象であり、正典となる哲学ではない。正典はいわば、道具である。その正典の道具を借りて、哲学行為者の主観現象を秩序・合理的に言説化するのが、目標である。
 当然、ここでは哲学行為者の哲学的創造がポイントであり、哲学の正典の訓詁学が問題ではない。主体はあくまで、哲学行為者の主観現象であり、道具は哲学の正典等である。
 ここまでは、それほど問題はないだろう。私がとりわけ言いたいのは、主観現象の様態である。もし、哲学行為者が、専門領域の主観現象に留まっているとすると、専門領域以外の主観現象を知ることができないと考えられるのである。これは、哲学だけでなく、他の領域でも同様である。社会科学領域において、その専門領域の主観現象に留まっているならば、それは、閉じられたものとなろう。もっとも、社会科学においては、哲学よりも、客観的データが重視されることは確かであるが。
 とまれ、哲学においては、主観現象の領域が何よりも重要であると考えられる。それは、専門領域に留まっていれば、当然、枯渇すると考えられる。(それと類似したものは、文学や芸術であろう。)
 さて、ここで、私の哲学的試行錯誤(哲学的試論)であるが、それは当然、私の主観現象を、哲学の正典等の読解を介して、理論化する行為である。私は、必要上、哲学、神話学、宗教、神秘学、文学、芸術(音楽、美術、映画)、そして、経済(アマチュア程度であるが)や自然科学(これもアマチュア程度)等に触れてきた。
 また、読書以外でも、自然や人間に接してきたのである。そのような中から私の主観現象は生まれているのである。だから、哲学領域の専門家の主観現象とは、当然、異なるものである。いわば、哲学領域の他者・外部である。
 この哲学領域の他者・外部の主観現象を、哲学領域の言説化を介して、秩序的に言説化するとき、私の「哲学」・理論が生まれるのである。もっとも、私の場合は、Kaisetsu氏との遭遇によって、まったく予想だにしなかった理論、不連続的差異論が生まれたのである。そして、それからの試行錯誤から、プラトニック・シナジー理論へと進展したのである。
 ということで、私はいわば専門領域の他者・外部の主観現象をもって理論的行為をしているのであるから、当然、専門領域に留まっている専門的哲学研究者(これは、哲学行為者、哲学者ではない)が見ると、アカデミズムから外れた邪道・外道に見えることは確かである。
 しかし、哲学史を見ればすぐわかるように、正典となった哲学者はほとんど初めは異端者である。スピノザがそうであり、また、ニーチェがそうである。これは、哲学だけでなく、自然科学の領域、他の領域でも普遍的に見られる現象である。異端が正統になるのである。
 一言でいえば、創造のためには、旧弊化し、枯渇した領域を活性化するには、既成のシステムにあてまらない他者が必要なのである。
 とういうことで、不連続的差異論やプラトニック・シナジー理論は、哲学的アカデミズムにとっては他者であり、その内部からは当然、理解・認識できないものであると考えられるのである。
 「異端審問官」又は「石頭」のbloghiro-dive氏に以上のように、述べる次第である。

2007年05月24日 (23:22)

虚数的超越性と実数的超越性:「気」の理事無碍論と原理事即非論

以下、Kaisetsu氏の極めて透徹した、「理事無碍、事事無碍」の説明であると思う。理事無碍の方は、霊性と感性/知性の無碍ということで明快であるが、事々無碍の説明は、実に、鋭敏であると思う。私は、事々無碍とは、単純に、物質的事象と物質的事象との共振作用と考えていただけであったからである。実数軸上の不連続な差異と同一性との共振と考えるというのは、すばらしい。事実である。
 今日は、簡単に触れるだけだが、実数軸上の超越性と虚数軸上の超越性との関係の問題である。つまり、虚数的超越性と実数的超越性である。これは、そのままの違いとして考えればいいのかもしれない。
 しかし、私のこれまでのイメージでは、例えば、「気」のようなものは、虚数的超越性が実数的超越性に転化したものと思われるのである。超越性の垂直から水平への転化をこんど考えたいと思っている。
 もっとも、メディア・ポイントにおける虚数性から実数性への転換で既に説明はされているのかもしれない。
 少し具体的に考えてみよう。気功師が、「気」を患者に送ったとする。それは、虚数的超越性から実数的超越性(電磁波)の転換として考えられる。患者の身体には、後者が作用するのである。これは、物質的である。しかしながら、虚数的超越性(本来の「気」)は、どうなったのであろうか。
 これは、患者の身体(物質的身体)ではなくて、患者の精神・心に作用していると思うのである。だから、「気」の作用とは、二重であると考えられる。身体へは実数的超越性が作用し、心へは虚数的超越性が作用するというように考えられるのである。この平行・併存性をどう理解したらいいのであろうか。
 これこそ、正に、Kaisetsu氏の説明した理事無碍論で説明できよう。理としての「気」と事としての「気」との調和で説明できよう。ついでに、朱子学、理気学であるが、これは、理事無碍論で明晰に説明ができるだろう。これまでは、精神としての「気」と物質としての「気」とが混同・混淆・混濁されていたと思うのである。
 つまり、虚数的超越性としての「気」は、心・精神に作用し、実数的超越性としての「気」(電磁波)は、身体に作用するということになる。理事無碍としての「気」である。
 そう、この理事無碍論は強力である。これまで、PS理論の経験論的説明をしようと思って、今一つであったが、理事無碍論が、それである。霊事無碍論でもいいだろう。この点は、後でさらに検討したい。
 最後に、理事無碍論をさらに進展させると、根源的理事即非論があるのではないだろうか。つまり、理(霊)において、根源的に、事(同一性)が配属されているように思えるのである。このまま思考実験すると、言わば、原理事があり、これが、現象化するときに、理と事とに分離して、事は同一性、とりわけ、連続的同一性へと転化する。そして、理が否定される傾向にあるのである。
 しかしながら、知的・精神的訓練によって、理と事とが結びつけられて、⇒+1のような様態が生まれると考えられるのである。
 ということで、同一性とは、単に、現象化において、出現するというよりは、イデア界において、根源的に、原同一性=原事として存しているのではないだろうか。そして、根源的な理、原・理と即非的に合一しているのではないだろうか。原理事即非論である。つまり、差異と同一性が根源的に即非合一しているのではないのかということである。これがイデアの本質ではないのか。

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この筆者は、この鈴木大拙氏の引用テーマとして、「事事無碍法界」としているが、先に引用した鈴木大拙氏の言葉は、将に、「理事無碍」の様相を説明したものである。つまり、Renshi氏の語る「内在と同時に、非内在なのである。これは不思議な事象である。存在するようでいて、存在しないのである。」の部分である。
この近代的合理性では説明できない状況を『霊性的直覚』で丸ごと認めること、さらには、この「理事無碍」こそが「真実」「実在」である認識することが「境地」であって、また、鈴木大拙氏は、むしろ、この「境地」に至ることで心の平安を取り戻すと言っておられると解釈できると思う。
 不連続的差異論から存在論に向かった方向性は非常に賢明であったと今から推測できる。もし、鈴木大拙氏が「Media Point」(ここのMediaの意味はPS理論上定義されたもの)という概念を知っておられれば、おそらく、Media Pointという言葉を使われたと思うのは僭越であろうか。
 少なくとも鈴木大拙氏は、虚数的ゼロと実数的ゼロの差異共振ポイントの存在を認め、これを肯定し、積極的に説明しておられ、此れを『理事無碍』の状態と考えておられる。」と海舌は確信する。
 この確信が生まれたことで、これを数学的に表すことが可能であろう。検討したい。

(補注:鈴木大拙氏が感性と知性の世界を「事」の側に入れるのは現象と捉えているのであり、電磁波や光などと同じく、実数軸上のものと捉えていると解すると理解しやすいと思う。実数軸が不連続である、実数も超越的な存在であることは別に解明されたことである。電磁波や光と言った超越的現状と生活世界の現象とが不連続的であり、差異共振していることを「事事無碍」と言っていると思われる。)
「理事無碍、事事無碍」
注:赤色文字はrenshiによる。
『海舌』 the Sea Tongue by Kaisetsu

http://blog.kaisetsu.org/?eid=553259

2007年05月03日 (16:03)

丸山真男『忠誠と反逆』と超越的宗教

丸山真男の『日本の思想』をずいぶん昔に読んで、興味を持たなかった記憶がある。丹念に記述しているが、近代的合理主義者の枠から踏み出さない人という印象ではなかったかと思う。
 今、『日本政治思想史研究』を少し読んで、儒学の説明が簡潔で要を得ていて明敏であると思った。朱子学は、内在的超越論であることがよくわかる。これは、一神教の超越性には負けると思った。東洋哲学の問題は、この点にあると思う。内在的超越論の問題である。これは、実は、内在論なのであり、ハイデガー/ドゥルーズ哲学と同じである。
 ここで鈴木大拙の即非の論理、西田哲学の絶対矛盾的自己同一論、あるいは九鬼周造の偶然性の論理の凄みがあると言えよう。内在性を破壊して、連続性を切断することが、ブレークスルーのための絶対的要件であるからである。(p.s. 私は即非論と太極論が等価になると思っていたが、やはり、不連続性から見ると、異なるのである。太極論は、確かに、極性の分離を説くが、しかし、極性は連続しているだろう。即非には、切断があるのである。)
 とまれ、よくは知らないが丸山真男の思想は、やはり、近代主義の枠組みで、精いっぱい、トランス・モダンへと糸口を探求していたように思えるのである。
 「歴史の古層」という観念がそれを思わせるのである。これは、端的に、内在的超越性ではないだろうか。これがあると、純粋超越性には到達できないと言えよう。というか、丸山の捉えている「いつ」とは、内在的超越性ではないだろうか。日本神話の「いつ」とは、超越性をもっているのではないだろうか。高天原や天孫降臨という概念には、超越性があると思われるのである。現象界と超越界との分離・切断が感じられるのである。
 どうも、「天皇教」は、多神教日本に超越性をもたらしたのではないのか。超越的多神教となったのではないだろうか。ある意味で、ゼウスを主宰神とするギリシア神話に似たものとなったのではないのか。D.H.ロレンス的に考えると、ゼウスとヤハウェは等価となろう。そうすると、天之御中主神と等しくなるのではないだろうか。(p.s. ゼウスについては、さらに検討を要するだろう。)
 また、後で検討したい。

p.s. 「いつ」に関して、少しズレたコメントをしたが、「いつ」とは、端的に、超越的エネルギーであろう。これが、超越界から発していることを日本神話は捉えていたと思うのである。だから、高天原や天孫降臨の発想につながると思うのである。そう、やはり、古代日本には、一神教が導入されていたと思うのである。古事記は、多神教と一神教との激突的融合の記録ではないのか。
 
参考:ネストリウス派、景教
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%82%A6%E3%82%B9%E6%B4%BE
http://f17.aaa.livedoor.jp/~kmaz/keikyo/keikyou-hi.htm
http://dsr.nii.ac.jp/narratives/discovery/09/
http://theology.doshisha.ac.jp:8008/kkohara/reportdb.nsf/0/b63dc6a92706bce349256cda0047d537?OpenDocument
http://www.e-grape.co.jp/books/96190.htm
http://www010.upp.so-net.ne.jp/iraija21/dokushohome/juujika.html

以下、引用。
________________________________

「・・・もっと炎のようにめらめらと“方法のセンサー”が動いているのは論文「歴史の古層」のほうである。1972年の執筆だが、その後に書き加えがあって、本書のなかではいちばん新しいものになっている。
 ここで丸山は、宣長が指摘した「なる」「つぎ」「いきおひ」の古語をつかまえ、日本的な思想が「生成」に関してどんなカテゴリー(基底範疇)をつかおうとしたかに光をあてた。

 世界の神話では、「つくる」「うむ」「なる」という基本動詞によって世界の発生と神々の発生が説明されてきた。
 これらは一連の神々の動作のように見える。しかしながら「つくる」では、往々にして作るもの(主体)と作られたもの(客体)が分離する。ユダヤ=キリスト教やギリシア自然哲学ではここが明快だ。そして、その分離した主体には「うむ」という自主行為も位置される。「つくる」と「うむ」とは一連なのである。ピュシスとはそのことだ。
 これに対して「なる」は、こうした主体の分離自立を促さないですむ。「なる」には「つくる」がなくてかまわない。では、いったい何が「なる」という動詞の意味なのか。

 本居宣長が注目したのも「なる」である。
 『古事記伝』のその箇所を整理すると、宣長は「なる」には3つの意味があるとした。(1)「無かりしものの生(な)り出る」という意味(神の成り坐すこと=be born)、(2)「此のものの変はりて彼のものになる」という意味(be transformed)、(3)「作す事の成り終る」(be completed)という意味、である。
 なかでも、「生る」(なる)を「生る」(ある)とも訓んでいたことを示せたことが、宣長自慢の発見だった。
 丸山は珍しくこれらの語彙語根を追う。そして日本における生成観念が「うむ=なる」の論理にあることを指摘して、その「うむ=なる」が後世、「なりゆく」「なりまかる」というふうに歴史的推移の説明にもつかわれて、そのような言葉の使い方そのものがどこかで日本人の歴史意識をつくってきただろうことを、ついに告白するのである。
 このように丸山が、宣長の発見した論理を日本人の一般的な歴史意識にあてはめながら説明することは、ぼくが知るかぎりは、警戒心の強い丸山がなかなか見せようとはしてこなかったことだった。しかもそれは、丸山がうっかり見せてしまった“衣の下の鎧”というものではない。ややたどたどしい追究ではあるけれど、丸山はこの考え方に魅せられて、その意味を“方法のセンサー”で追いかけている。
 それが、「なる」につづいて「つぎ」に注目したことにあらわれる。

 宣長にとって、「つぎ」はむろん「次」を示す言葉であるが、同時に「なる」を次々に「継ぐ」ための言葉なのである。
 ついで丸山は古代語の「なる」「つぎ」が中世近世では「いきおひ」(勢)にまで及ぶことを知る。しかも「いきおひ」をもつことが「徳」とみなされていたことを知る。どのように知ったかというと、徳があるものが勢いを得るのではなくて、何かの「いきおひ」を見た者が「徳」をもつのである。
 これは、儒教的な天人合一型の「理」の思想が日本の自由思考をさまたげてきたと見る福沢=丸山の立場からすると、意外な展開であったとおもう。
 儒教・朱子学では、天と人とは陰陽半ばで合一する絶対的な関係にある。しかしながら宣長と丸山が説明する「なる」「つぐ」「いきおふ」という動向の展開は、互いに屹立する両極が弁証法的に合一するのではなく、もともと「いきおひ」にあたる何かの胚胎が過去にあり、それがいまおもてにあらわれてきたとみるべきものである。これはちょっと深いセンサーだった。

 こうしてついに丸山は、「いつ」(稜威)という機能がそもそもの過去のどこかに胚胎していたのであろうことを、突きとめる。
 「いつ」は、ぼくが第483夜の山本健吉『いのちとかたち』 において、ひそかに、しかし象徴的に持ち出しておいた超重要な概念である。スサノオが暴虐(反逆)をおこすかもしれないというとき、アマテラスが正装して対決を決意するのだが、そのスサノオとアマテラスの関係そのものにひそむ根本動向を感じる機関や第三者たちの自覚がありうること、あるいはそこに“負の装置”の発動がありうるということが、「いつ」である。そこではしばしば「伊都幣(いつのぬさ)の緒結び」がある。
 論文を読むかぎり、丸山が「いつ」を正確に捕捉しているとはおもえない。しかし、「いつ」こそが歴史の古層に眠る独自の観念であることには十分気がついている。「なる」「つぐ」「いきおひ」は大過去における「いつ」の発生によって約束されていたわけなのだ。
 それを歴史の古層とみなしてもいいのではないかというふうに、丸山真男がこんなところにまで踏みこんでいたことに、ぼくは再読のときに驚いたわけである。 」
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya0564.html
松岡正剛の千夜千冊 丸山真男『忠誠と反逆』

2007年03月13日 (17:57)

西田哲学はメディア・ポイントの創造哲学である:絶対矛盾的自己同一とメディア・ポイント

以下、著名な西田哲学の根本的哲学を示した論考の意義深い冒頭である。少し引用して、考察しよう。

★引用開始
《瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。》(赤文字強調renshiによる)
★引用終了

今簡単に、PS理論の視点から端的に言うと、絶対矛盾的自己同一(以下、矛盾同一)とは、メディア・ポイントにおける様相のことを表象・表現したものと考えられる。

「時は非連続の連続と成立する」と西田は述べている。「非連続」とは、不連続であり、虚数軸=超越界のことであり、「連続」とは、そのもの通りで、実数軸=現象界のことと考えられる。この「非連続」と「連続」が交差するのが、メディア・ポイントであり、ここに、現在の瞬間があると考えられるのである。そして、「瞬間の同時存在」も「時が永遠の今の自己限定として成立する」ということも同じこと、即ち、メディア・ポイントの現在という「時間」を意味していると考えられるだろう。

ここで、冒頭にある、西田が拘っている、個物の創造性について考えたい。

多の一では、静的であり、創造性(後で、ポイエーシス)がないと西田は説いている。だから、一の多でなくてもならないというようなことも説いている。動的な個物性をどう捉えるのかということである。

これは、端的に、エネルゲイアの問題である。個物・個の創造性は何処に存するのか。それは、先にも述べたように、特異性・特異点、即ち、メディア・ポイントに存すると言えよう。

メディア・ポイント(以下、MP)は、超越性をもち、差異即非・共振シナジー的エネルゲイアをもっている。つまり、可能・潜在的エネルギーをもっているのである。だから、現象界において、個体・個物・個(以下、個)は、他者に対して、メディア・ポイントを介して、差異即非・共振シナジー化することが可能なのである。これが、創造そのものである。MPを介して、個は、他者の個(以下、他個)と即非・共振シナジー的に創造性をもつのである。

整理すると、個は、MPを通じて、超越界の差異即非・共振的、可能・潜在的なエネルゲイア(虚ネルギー)を結びつき、他個をそこへ共振的に引き入れて、両者共振シナジー化させて、両者が融合した新たな個を創造すると考えられるのである。

MP的差異共振シナジー創造である。

これを、西田は、冒頭で晦渋に述べていると考えられるのである。

即ち、個のMPにおける、超越的に内包する虚エネルギーが、創造性をもっていると考えられるのである。

「物と物との相働く世界」という相働的創造世界とは、正に、MPにおける個と他個との差異共振シナジー・創造世界であろう。


★引用開始
《多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、それは形相が質料を形成するという如きことではない。個物は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない。働くということは、何処までも他を否定し他を自己となそうとすることである、自己が世界となろうとすることである。然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、自己が世界の一要素となることである。この世界を多の一として機械的と考えても、または一の多として合目的的と考えても、いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。しかし機械的と考えればいうまでもなく、合目的的と考えても、個物は何処までも自己自身を限定するものではない、真に働くものではない。真に個物相互限定の世界は、ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。モナドは世界を映すと共に、世界のペルスペクティーフの一観点なのである、表出即表現である(exprimer = representer【#「representer」の二番目の「e」はアキュートアクセント付き】)。しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、自己自身を形成するものでなければならない、表現作用的でなければならない。
 その底に一を考えることもできず、また多を考えることもできず、絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界においての個物は、表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、個物が世界を映すという時、個物の自己限定は欲求的である。それは機械的に働くのではなく、合目的的に働くのでもない。世界を自己の中に映すことによって働くのである。それを意識的というのである。動物の本能作用というものでも、本質的には、かかる性質を有(も)ったものでなければならない。故に我々の行為は、固(もと)行為的直観的に起る、物を見るから起るというのである。行為的直観とは作用が自己矛盾的に対象に含まれていることである。多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという時、世界は行為的直観的であり、個物は何処までも欲求的である。私の形というのは、静止する物の形という如きものをいうのでなく、多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。プラトンのイデヤというのも、固此(もとかく)の如きものでなければならない。》
★引用終了

以上の箇所も同様だと考えられる。西田は、MP的差異共振シナジーという視点がないので、あるいは、明確な超越的差異共振性の視点がないために、不器用な晦渋な叙述になっているが、やはり、MP的差異共振シナジー的創造を述べているとと考えられるのである。

「多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用」という箇所も、MPにおける連続的同一性から差異的同一性へ、さらには、差異共振シナジー的創造性へということを述べていると考えられよう。

そう、「多と一との矛盾的自己同一」とは、正に、メディア・ポイントMedia Pointの様相のことと言えよう。

そして、「作られたものから作るものへという世界の自己形成作用」とは、メディア・ポイントの共振的創造作用と言えよう。

ここで注意すべき点を述べると、この共振的創造作用であるが、西田の記述は、直感的に、超越(不連続)性と現象(連続)性との複合性の視点で述べているのであるが、この複合性がメディア・ポイントの様相ではあるのだが、この超越性と現象性との即非性が、絶対矛盾的自己同一という用語で述べられてはいるが、この用語には、多くのことが集約されているために、一見不明確に見えやすい点である。

即ち、絶対矛盾とは、現象的個と現象的他個(他者)との絶対矛盾であるし、また、超越性と現象性の絶対矛盾であるのである。つまり、水平的矛盾と垂直的矛盾がここでは、少なくとも、込められているのである。

それらが、自己同一であるということで、複雑なのである。

これは、PS理論では、差異的同一性、即ち、i*(-i)⇒+1で明示していることである。

とまれ、西田哲学は、メディア・ポイントの創造哲学として解明できると考えられるのである。

___________________________________
絶対矛盾的自己同一
西田幾多郎



     一

 現実の世界とは物と物との相働く世界でなければならない。現実の形は物と物との相互関係と考えられる、相働くことによって出来た結果と考えられる。しかし物が働くということは、物が自己自身を否定することでなければならない、物というものがなくなって行くことでなければならない。物と物とが相働くことによって一つの世界を形成するということは、逆に物が一つの世界の部分と考えられることでなければならない。例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。
 かかる世界は作られたものから作るものへと動き行く世界でなければならない。それは従来の物理学においてのように、不変的原子の相互作用によって成立する、即ち多の一として考えられる世界ではない。爾(しか)考えるならば、世界は同じ世界の繰返しに過ぎない。またそれを合目的的世界として全体的一の発展と考えることもできない。もし然らば、個物と個物とが相働くということはない。それは多の一としても、一の多としても考えられない世界でなければならない。何処までも与えられたものは作られたものとして、即ち弁証法的に与えられたものとして、自己否定的に作られたものから作るものへと動いて行く世界でなければならない。基体としてその底に全体的一というものを考えることもできない、また個物的多というものを考えることもできない。現象即実在として真に自己自身によって動き行く創造的世界は、右の如き世界でなければならない。現実にあるものは何処までも決定せられたものとして有でありながら、それはまた何処までも作られたものとして、変じ行くものであり、亡び行くものである、有即無ということができる。故にこれを絶対無の世界といい、また無限なる動の世界として限定するものなき限定の世界ともいったのである。
 右の如き矛盾的自己同一の世界は、いつも現在が現在自身を限定すると考えられる世界でなければならない。それは因果論的に過去から決定せられる世界ではない、即ち多の一ではない、また目的論的に未来から決定せられる世界でもない、即ち一の多でもない。元来、時は単に過去から考えられるものでもなければ、また未来から考えられるものでもない。現在を単に瞬間的として連続的直線の一点と考えるならば、現在というものはなく、従ってまた時というものはない。過去は現在において過ぎ去ったものでありながら未(いま)だ過ぎ去らないものであり、未来は未だ来らざるものであるが現在において既に現れているものであり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立し、時というものが成立するのである。而(しか)してそれが矛盾的自己同一なるが故に、時は過去から未来へ、作られたものから作るものへと、無限に動いて行くのである。
 瞬間は直線的時の一点と考えねばならない。しかし、プラトンが既に瞬間は時の外にあると考えた如く、時は非連続の連続として成立するのである。時は多と一との矛盾的自己同一として成立するということができる。具体的現在というのは、無数なる瞬間の同時存在ということであり、多の一ということでなければならない。それは時の空間でなければならない。そこには時の瞬間が否定せられると考えられる。しかし多を否定する一は、それ自身が矛盾でなければならない。瞬間が否定せられるということは、時というものがなくなることであり、現在というものがなくなることである。然らばといって、時の瞬間が個々非連続的に成立するものかといえば、それでは時というものの成立しようはなく、瞬間というものもなくなるのである。時は現在において瞬間の同時存在ということから成立せなければならない。これを多の一、一の多として、現在の矛盾的自己同一から時が成立するというのである。現在が現在自身を限定することから、時が成立するともいう所以(ゆえん)である。時の瞬間において永遠に触れるというのは、瞬間が瞬間として真の瞬間となればなるほど、それは絶対矛盾的自己同一の個物的多として絶対の矛盾的自己同一たる永遠の現在の瞬間となるというにほかならない。時が永遠の今の自己限定として成立するというのも、かかる考を逆にいったものに過ぎない。
 現在において過去は既に過ぎ去ったものでありながら未だ過ぎ去らざるものであり、未来は未だ来らざるものでありながら既に現れているというのは、抽象論理的に考えられるように、単に過去と未来とが結び附くとか一になるとかいうのではない。相互否定的に一となるというのである。過去と未来との相互否定的に一である所が現在であり、現在の矛盾的自己同一として過去と未来とが対立するのである。而してそれが矛盾的自己同一なるが故に、過去と未来とはまた何処までも結び附くものでなく、何処までも過去から未来へと動いて行く。しかも現在は多即一一即多の矛盾的自己同一として、時間的空間として、そこに一つの形が決定せられ、時が止揚せられると考えられねばならない。そこに時の現在が永遠の今の自己限定として、我々は時を越えた永遠なものに触れると考える。しかしそれは矛盾的自己同一として否定せられるべく決定せられたものであり、時は現在から現在へと動き行くのである。一が多の一ということが空間的ということであり、多から一へということが機械的ということであり、過去から未来へということである。これに反し多が一の多ということは世界を動的に考えること、時間的に考えることであり、一から多へということは世界を発展的に考えること、合目的的に考えることであり、未来から過去へということである。多と一との矛盾的自己同一として作られたものから作るものへという世界は、現在から現在へと考えられる世界でなければならない。現実は形を有(も)ち、現実においてあるものは、何処までも決定せられたもの、即ち実在でありながら、矛盾的自己同一的に決定せられたものとして、現実自身の自己矛盾から動き行くものでなければならない。その背後に一を考えることもできない、多を考えることもできない。決定せられることそのことが自己矛盾を含んでいなければならない。
 右の如く絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界は、またポイエシスの世界でなければならない。製作といえば、人は唯主観的に物を作ることと考える。しかし如何(いか)に人為的といっても、いやしくも客観的に物が成立するという以上、それは客観的でなければならない。我々は手を有するが故に、物を作ることができるのである。我々の手は作られたものから作るものへとして、幾千万年かの生物進化の結果として出来たものでなければならない。隠喩(いんゆ)的でもあるが、アリストテレスはこれを「自然が作る」η φυσι※ ποιει という。無論斯(か)くいうも、我々の製作が自然の作用だなどというのではない。手が物を作るのでもない。然らば物を作るとは、如何なることであるか。物を作るとは、物と物との結合を変ずることでなければならない。大工が家を造るというのは、物の性質に従って物と物との結合を変ずること、即ち形を変ずることでなければならない(ライプニッツのいわゆるコムポーゼの世界において可能である)。現実の世界は多の一として決定せられた形を有った世界でなければならない。これを何処までも多から一へと考えるならば、そこに製作という如きものを入れる余地がない。これを一から多への世界と考えても、それは何処までも合目的的世界たるを免れない。唯自然の作用あるのみである、生物的世界たるに過ぎない。この世界の根柢に多を考えることもできず、一を考えることもできず、何処までも多と一との相互否定的な絶対矛盾的自己同一の世界にして、個物が何処までも個物として形成的であり物を作ると共に、それは作られたものから作るものへとして、何処までも歴史的自然の形成作用ということができる。
 時が何処までも一度的なると共に、現在が時の空間として、現在から現在へと、現在の自己限定から時が成立すると考えられる如く、世界が矛盾的自己同一として作られたものから作るものへということは、個物が製作的であるということであり、逆に個物が製作的であるということは、世界が作られたものから作るものへということである。我々がホモ・ファーベルであるということは、世界が歴史的ということであり、世界が歴史的であるということは、我々がホモ・ファーベルであるということである。而して絶対矛盾的自己同一の世界においては、時の現在において時を越えたものに触れると考えられる如く、作られたものから作るものへとして、ホモ・ファーベルの世界はいつも現実に形を見る世界である。いわば過去から未来への間に意識的切断面を有つ世界である。作られたものから作るものへの世界は意識面を有つ、そこに映すという意義があるのである。我々は行為的直観的に製作するのである、製作は意識的でなければならない。絶対矛盾的自己同一の世界の意識面において、製作的自己は思惟的と考えられ、自由と考えられる。我々の個人的自覚は製作より起るのである。
 世界の底に一を考えることもできない、多を考えることもできない、多と一とが相互否定的として、作られたものから作るものへといえば、多くの人にはそれが実在の世界とは考えられないかも知れない。多くの人は世界の底に多を考える、原子論的に世界を因果必然の世界と考えている、物質の世界と考えている。矛盾的自己同一の世界は一面に何処までも爾(しか)考えられる世界でなければならない。しかしそれは現実の矛盾的自己同一から爾考えられるのでなければならない。現実とは単に与えられたものではない、単に与えられたものは考えられたものである。我々がそこに於(おい)てあり、そこに於て働く所が、現実なのである。働くということは唯意志するということではない、物を作ることである。我々が物を作る。物は我々によって作られたものでありながら、我々から独立したものであり逆に我々を作る。しかのみならず、我々の作為そのものが物の世界から起る。私のいわゆる行為的直観的なる所が、現実と考えられるのである。故に我々は普通に身体的なる所を現実と考えているのである。作るものと作られたものとが矛盾的に自己同一なる所、現在が現在自身を限定する所が、現実と考えられるのである。科学的知識というのも、かかる現実の立場から成立するのでなければならない。科学的実在の世界も、かかる立場から把握せられるのでなければならない。また我々の身体が運動によって外から知られるといわれる如く(Noire【#「e」はアキュートアクセント付き】)、我々の自己というものも、歴史的社会的世界においてのポイエシスによって知られるのであろう。歴史的社会的世界というのは、作られたものから作るものへという世界でなければならない。社会的ということなくして、作られたものから作るものへということはない、ポイエシスということはない。我々が考えるという立場も、歴史的社会的立場に制約せられていなければならない。

 哲学の出立点については多くの議論があることであろう。我国の今日まででは、大体において認識論的立場とか現象学的立場とかいうものが主となっている。かかる立場からは、私のいう所が独断論的とも考えられるであろう。しかしかかる立場も、歴史的社会的に制約せられたものでなければならない。我々は今日、元に還ってローギッシュ・オントローギッシュに歴史的社会的世界というものを分析して見なければならない。かかる立場から、私はなお一度ギリシヤ哲学の始から考え直して見なければならないとも思うのである。主客対立の認識論的立場というのも、なお一度吟味して見なければならない。知るということも歴史的社会的世界においての出来事である。私は古い形而上学に還ろうというのではない。私はカント以後にロッチェがオントロギーの立場に還って認識作用を考えたと思う。しかしロッチェのオントロギーは私のいう如き歴史的社会的ではなかった。

 多と一との絶対矛盾的自己同一として自己自身によって動き行く世界においては、主体と環境とが何処までも相対立し、それは自己矛盾的に自己自身を形成し行くと考えられる世界である、即ち生命の世界であるのである。しかし主体が環境を形成し環境が主体を形成するといっても、それは形相が質料を形成するという如きことではない。個物は何処までも自己自身を限定するものでなければならない、働くものでなければならない。働くということは、何処までも他を否定し他を自己となそうとすることである、自己が世界となろうとすることである。然るにそれは逆に自己が自己自身を否定することである、自己が世界の一要素となることである。この世界を多の一として機械的と考えても、または一の多として合目的的と考えても、いやしくもそれが実在界と考えられるかぎり、かかる意味において矛盾的自己同一的でなければならない。しかし機械的と考えればいうまでもなく、合目的的と考えても、個物は何処までも自己自身を限定するものではない、真に働くものではない。真に個物相互限定の世界は、ライプニッツのモナドの世界の如きものでなければならない。モナドは世界を映すと共に、世界のペルスペクティーフの一観点なのである、表出即表現である(exprimer = representer【#「representer」の二番目の「e」はアキュートアクセント付き】)。しかも真の個物はモナドの如く知的ではなく、自己自身を形成するものでなければならない、表現作用的でなければならない。
 その底に一を考えることもできず、また多を考えることもできず、絶対矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界においての個物は、表現作用的に自己自身を形成するものでなければならない。多と一との矛盾的自己同一の世界の個物として、個物が世界を映すという時、個物の自己限定は欲求的である。それは機械的に働くのではなく、合目的的に働くのでもない。世界を自己の中に映すことによって働くのである。それを意識的というのである。動物の本能作用というものでも、本質的には、かかる性質を有(も)ったものでなければならない。故に我々の行為は、固(もと)行為的直観的に起る、物を見るから起るというのである。行為的直観とは作用が自己矛盾的に対象に含まれていることである。多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという時、世界は行為的直観的であり、個物は何処までも欲求的である。私の形というのは、静止する物の形という如きものをいうのでなく、多と一との矛盾的自己同一として、作られたものから作るものへという世界の自己形成作用をいうのである。プラトンのイデヤというのも、固此(もとかく)の如きものでなければならない。
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