2008年11月04日 (01:04)

思考実験:光とは何か:2:光の粒子は質量ゼロ:非物質・即非・物質としての光:複素数としての光?

先に、光は粒子ではなく、Media Pointではないかと考えたが、問題は質量がないことをどう捉えるのかということにある。
 先には、質量がないことから、粒子ではないと考えたが、質量がないということではなくて、質量がゼロであると捉えるべきではないかと考え直したのである。無いというと存在が無くなるように思えてしまうが、ゼロならば、有であり、質量ゼロと捉えることができる。
 そうすると、光は、やはり、粒子性をもつのである。質量ゼロの粒子である。これならば、問題はない。
 では、残った問題は、同一性=物質の公式から見ると、光は物質になるが、それでいいのだろうか。言い換えると、粒子は物質なのか、という問題である。
 今、暫定的に述べると、光は非物質であり、且つ、物質であるとしよう。非物質とは、超越性、イデア性である。虚数性である。
 そうすると、光は、複素数になるだろう。虚数が超越性であり、実数が物質性である。
 次の問題は、波動性である。結局、超越波動が根源にあり、それが、Media Pointを介して、同一性=物質面において、波動形態として発現するということではないだろうか。
 思うに波動こそが、Media Pointの変換性を明示するものではないだろうか。端的に、波動とは、超越波動の物質面における痕跡ではないだろうか。それに対して、粒子とは、超越波動が同一性化したものである。
 結局、光とは、二重様態をもつということである。いわゆる、粒子と波動の相補性と呼ばれるものであるが、それは、粒子と波動の二重様態性と言えるだろう。
 だから、有名な二重スリットの実験であるが、それは、光の二重様態が作用しているのであり、思うに、粒子は、両方のスリットを通過しているのではないだろうか。つまり、光は単に粒子ではなくて、粒子・且つ・波動なのであるから、そのような二重スリットの通過が考えられるのではないだろうか。
 言い換えると、光の粒子は、波動的粒子であり、分散すると言えるのではないだろうか。言い換えると、分散的粒子、分散多重粒子である。
 このように考えると、問題の非局所的長距離相関も解明されるのではないだろうか。正反対の方向に分化した2つの粒子、2つの分散粒子であるが、それらは、Media Pointによって、2つの粒子は共振・共鳴していると考えられるので、一方の粒子の収束は、Media Resonance(メディア共鳴)によって、他方の粒子の収束を意味するのである。Media Pointにおける共振・共鳴とは、物質的次元を超えて生起するのであり、非局所的に見えるのであるが、実相は、高次元の事象と考えられる。つまり、高次界で起っていることが、非局所的長距離相関に見えるのである。光ではなく、超越光=イデアが問題になっていると考えられるのである。

2008年07月13日 (15:01)

次元について:三次元空間、四次元時空間、五次元超時空間

次元については、これまでの検討では、+1が四次元時空間であり、虚軸が高次元、即ち、五次元であると考えた。しかし、先の簡単な応用では、実軸を空間、虚軸を時間としたが、そうすると、齟齬が生じるので、ここで、さらに検討をしたい。
 問題は、時間とは何か、ということになる。アインシュタインのエネルギー公式、E=mc^2から言うと、光速に時間が含まれている。つまり、PS理論で言うと、実軸の1に、時間が含まれていると考えられる。だから、自己認識方程式(+i)*(-i)⇒+1の右辺に時間が表現されていると考えられるだろう。
 イデア・エネルギー(トランス・エネルギー)を考えるならば、

Trans-Energy=m(+ic)*(-ic)⇒E=mc^2

である。
 そう考えると、虚軸(イデア界)において、いわば、超光があると考えられる。それが、±icで表現されちると考えられる。
 だから、虚軸は、思うに、超時間・超空間、即ち、超時空間のように思われるのである。つまり、高次元=五次元とは、五次元時空間にように思えるのである。
 虚軸に想定される超時空間(イデア界)であるが、それは、超光が形成する世界であり、いわば、超光界である。これは、諸宗教で表現された天国・極楽・浄土等々であると考えられる。
 では、想定された超時空間とは何か。思うに、超時間、超空間と分けられるだろうか。直感では分けられるのである。この問題はおいておこう。
 とまれ、結局、今の時点では、実軸において、-1が三次元空間であり、+1が四次元時空間であり、虚軸が五次元超時空間ということになる。
 因みに、Media Pointがエネルギー・ポイント(エネルギー変換点、エネルギー・トランスフォーマー)であり、推測するに、重力の中心ではないだろうか。ここで思考実験であるが、-1の方向が重力とするなら、+1が反重力の方向ではないだろうか。ダークエネルギーの方向ではないのか。
 +1とは、イデア・エネルギーがもたらすものであるから、ダーク・エネルギーの真相とは、イデア・エネルギー=トランス・エネルギーということになるのではないだろうか。
 では、問題は、-1と+1の関係である。思うに、表現の仕方に問題があるのではないだろうか。
 考えるに、+1とは、実質的に、⇒+1のことであり、Media Pointが開かれて、イデア界が浸透しているのであるのに対して、-1とは、実質的に、+1のことであり、Media Pointが閉じられて、イデア界が浸透していないのである。つまり、単純に物質世界である。
 この視点から考えると、ダークエネルギーとは、イデア・エネルギー=トランス・エネルギーということになるだろう。だから、現代の宇宙科学は、ダークエネルギーを、唯物科学の延長で捉えようとしているのであり、それは、結局、不毛な作業になると思われるのである。ダークエネルギーは、Media Pointを介したイデア界=高次元に求めるべきであると考えられるのである。今は、ここで留める。

p.s. もう少し、整理してみよう。よりシンプルな言い方をすると、自己認識方程式は、差異(+i)/同一性(+1)/差異(-i)という形式(この形式を差異・同一性形式と仮に呼びたい)を意味しよう。
 この差異・同一性形式(簡略して、差同形式)から、差異を否定すると、同一性主義(-1)が出現する。これが、物質主義となるのである。そして、これが、今日の唯物科学を生み出しているのである。
 問題は、差同形式と同一性主義の関係である。物質主義は差異を否定しているので、同一性は+1から-1に転換すると思われるのである。
 つまり、同一性の+1とは、極性差異±iがあって、形成されるものと考えられのであり、極性差異が否定された同一性は、-1となると考えられるのである。
 物質科学は、差異(イデア)を否定しているので、同一性は-1であると考えられるのである。しかしながら、現象とは、差同形式をもつので、+1である。これが、現象の真相である。つまり、いわば、差同現象が真相であると考えられるのである。
 だから、物質エネルギーは-1の同一性(マイナス同一性)であり、差同エネルギーは+1の同一性(プラス同一性)と考えられる。そして、今日の宇宙科学は、前者中心なので、後者を看過しているということではないだろうか。そして、後者が、ダークエネルギーの本体ではないだろうか。マイナスとプラスで正反対となる。
 そうすると、またまた考えが変化して、ダークエネルギーは+1であるが、それは、イデア・エネルギー=トランス・エネルギーとは、異なるものであるということになる。
 ということで、今の段階での暫定的考えは、-1が物質エネルギーであり、+1がダークエネルギーであり、(+i)*(-i)がイデア・エネルギー=トランス・エネルギーであるということになる。
 さらに検討を続けたい。

2007年04月24日 (21:58)

光と空間の関係:超越光の垂直的下降(⇒地極点)と平面・球面形成:超越光による現象時空四次元の構築

今は、簡単に触れるが、暗闇の中では、意識・「脳」において、空間知覚が実に不明確・不明瞭である。

光を視覚して、空間が明確になる。

話が逸れるが、夢の中の空間意識はどうなっているのだろうか。確かに、ヴィジョンを見ているのであり、それなりに、覚醒時の空間性は保持しているように思える。

思うに、夢の中でも、ヴィジョンは、光のヴィジョンであるので、その光を介して、空間意識を保持するのではないだろうか。これは保留しておく。

さて、本題に戻ると、光が空間意識を構築するとはどういうことなのか。

これは、きわめて、超越論的問題である。プラトン、カント、フッサール哲学的問題であり、また、仏教的問題であるし、当然、相対性理論、量子力学等の現代物理学に関わる問題である。

ここでは、直観を述べるに留めたい。

暗闇において、私は、空間知覚がなく、不安の様態にある。

しかし、光が現れるや否や、明瞭に空間が出現して、私は、明晰に現象界を確認する。

即ち、垂直性、広がりをもった空間が明確になる。

ここで、ついでに垂直経験について触れよう。私が小児の頃、ブランコに乗って、立ち上がったとき、私は世界が力にみなぎるようにして生まれたような感じをもったことを憶えている。そのときは、なにか、光がほとばしるような感じもあったと思う。

垂直性とは、質的な意味があると思うのである。それは、力やエネルギーの発出と関係しているように思えるのである。

これは、木や植物の垂直的伸びと関係するのではないだろうか。

作業仮説として、超越的共振エネルギーの発動として考えたい。

つまり、現象化が、下降のエネルギーによると考えられるのに対して、垂直的伸びは、上昇のエネルギーによるものであると言えるだろう。それとも、単純に上昇の力に拠るものと言うべきかもしれない。

そして、エネルギーとは、m(ic)*(-ic)⇒mc^2と考えられるから、超越光⇒現象光が関係していると言えよう。

とまれ、左辺が垂直次元と関係しよう。(ここでは、位相(?)的に、虚数次元と垂直次元を一致させて考えている。)

結局、光、現象光とは、超越光の発現であるから、光は、基本的には、垂直次元を構築するものと言えないだろうか。そう作業仮説しよう。

では、他の次元、いわば、平面次元はどう構築されるのだろうか。

ここで思考実験、空想遊戯してみると、垂直の超越光が降下して、現象化が生起して、そのとき、平面が形成されるとしよう。この平面は、降下した超越光の極点(以下、地極点)の地の引力(重力)に引かれて、球面となるとしよう。これは、球体の発生となる。

そして、地極点に対峙して、天極点があるだろう。ここに天の引力があるとするのである。

とまれ、超越光による垂直降下があり、その結果、平面が生起して、地極点によって、平面が球面になり、地(地球)が形成されるとしよう。

問題は、平面の発生である。

垂直の超越光・超越エネルギーに対して、どうして、平面が発生するのか。

これは、意外に簡単に説明できるのではないか。

フレミング左手の法則を見よう。

フレミングの左手の法則
 上図のように電流を流すと、導体は青い矢印の方に動く。この力を電磁力という。
 電磁力の働く方向を知るには、左手の親指、人差し指、中指をそれぞれ直角に開き、人差し指を磁界の方向(N→S)、中指を電流の流れる方向に合わせる。そのときの親指の向きが電磁力の働く方向(導体の動く方向)である。


http://www.ipc.shizuoka.ac.jp/~eiymoti1/gijutu/shiryo/electricity/freming.html

電磁力の方向を超越光、超越エネルギーの方向とすれば、平面は、磁界の方向と電流の方向によって形成されると言えるだろう。

これで、三次元空間が構築が説明できるだろう。

そして、球面や球体であるが、それは、磁界と電流とが、地極点の引力(重力)によって、曲げられることによって発生するということになる。

問題は、地極点とは何かである。それは、超越エネルギー、下降エネルギーの極点である。エンテレイケイア(終局態)である。⇒+1ないし+1ではないだろうか。

メディア・ポイントを介して、現象的帰結としての+1ではないだろうか。

ここには、確かに、E=mc^2の質量mにおける重力があるだろう。

言い換えると、超越光の帰結としての地極点であり、重力である。(思うに、これで、光が重力によって曲がることが説明できるのではないか。)

とまれ、超越光/現象光の垂直次元に対して、磁界と電流の平面が形成され、そして、地極点重力によって球面・球体が形成されるということになる(すべては、思考実験、空想遊戯である)。

そう、これで、超越光/現象光による三次元空間の構築の説明になるのではないだろうか。

とりあえず、そういうこととしよう。

では、時間はどう発生するのだろうか。

これは、簡単ではないだろうか。即ち、超越エネルギーの現象化によって、時間が発生するのではないだろうか。つまり、超越エネルギーの現象エネルギー化は、いわば、虚数次元から実数次元への変換であり、無限から有限への変換であり、当然、有限化されたエネルギーが時間であると考えられるのである。

端的に、E=mc^2における光速が、有限の時間を形成していると言えるだろう。

以上から、超越光/現象光による三次元空間と時間の形成の説明が作業仮説的にできたとしよう。そして、空間と時間を合わせて、超越光/現象光による時空四次元の構築の説明ともなる。

後で、再検討する。

p.s. 天極点については、述べていないが、ここで簡単に言うと、天極点とは、端的に、イデア界であろう。

思うに、不連続的差異論形成期において、つまり、2004年だと思うが、コの字型で、イデア界とメディア界と現象界を図化した。即ち、コの字の上部の水平部がイデア界であり、垂直部がメディア界であり、下部の水平部が現象界であると考えたのである。そこから考えると、地極点は、垂直部と下部の水平部との交点であり、天極点は、垂直部と上部の水平部の交点であろう。思うに、両者、メディア・ポイントを形成していると言えよう。だから、両者、メディア・ポイントの天地極性を形成していると言えるように考えられる。

2007年03月13日 (21:41)

超越的現象としての自然・宇宙・人間:西田哲学を参考にしてPS理論と物理学の関係を考える

先に、「絶対矛盾的自己同一」の冒頭を読み、PS理論と物理学の関係を新たに考えられるのではないかと思った。

西田は、一即多、多即一との「間」を述べていると思う。つまり、メディア・ポイント的「間」である。

創造性の「間」である。

とまれ、物理学、相対性理論を考えよう。

一を超越界としよう。そして、多を現象界としよう。

個体が相互限定すると西田は述べている。

★引用開始
《例えば、物が空間において相働くということは、物が空間的ということでなければならない。その極、物理的空間という如きものを考えれば、物力は空間的なるものの変化とも考えられる。しかし物が何処(どこ)までも全体的一の部分として考えられるということは、働く物というものがなくなることであり、世界が静止的となることであり、現実というものがなくなることである。現実の世界は何処までも多の一でなければならない、個物と個物との相互限定の世界でなければならない。故に私は現実の世界は絶対矛盾的自己同一というのである。》
★引用終了
http://www.aozora.gr.jp/cards/000182/files/1755.html

かなり晦渋な説明である。とまれ、言っていることは、物とは、一の多であるあるが、それでは、静的であるから、多の一でなくてはならないということである。これが、「個物と個物との相互限定の世界」ある。

これは、差異ー同一性ー差異のことを意味しているように思える。つまり、同一性が差異を相互限定しているのである。

すなわち、同一性が物理性であると言えるのではないだろうか。

例えば、同一性は時空間形式である。それは、+1であろう。

差異は同一性=時空間形式=+1によって相互限定されるということだろう。

ここには、重力や電磁気力の関係があるだろう。

とまれ、問題は光である。

差異が同一性化されると、物質となり、エネルギーをもつ。

mc^2=Eである。

同一性化された差異は、質量mをもつ。

しかし、これは、光速度と関係して、エネルギーをもつ。

ic*(-ic)がメディア・ポイントでの差異(即非差異)の光である。差異(即非差異)の元光ないし超光である。

差異は、虚数軸上を光速度で移動しているということなのだろうか。虚数的光速度である。

とまれ、メディア・ポイントで、差異が共振同一性化する。つまり、物質化すると考えられる。

つまり、差異の物質化であり、物質エネルギー化である。すなわち、

ic*(-ic)⇒mc^2=Eである。

この質量mは、物質である差異同一性の力ではないのか。

そう、即非差異の虚エネルギーが、メディア・ポイントで、同一性化して、実エネルギーになる。そのとき、同一性の力、質量が発生するのではないのか。

この質量=力が時空間形式の力ではないのか。

あるいは、mc^2のエネルギーが時空間形式の力ではないのか。

個物は、このエネルギー形式をもつのであるから。

つまり、個物は、実エネルギーないし質量を属性にもつのである。

この実数性が時空間形式ではないのか。

icないし-icではなくて、cという実・光速度が発生するのであるから。(icないし-icは虚・光速度であろう。)

実数性は、物理量をもつと言えよう。そして、マクロ的には古典的力学の世界を構築するのではないのか。

言い換えると、実数性が、有・存在を意味しよう。

そして、虚数性が、無・非存在を意味しよう。

だから、現象界において、実数性が発生して、物質性を形成しているのである。

しかしながら、実数とは、メディア・ポイントにおいて発生するのであるが、ここには、また、虚数が存しているのである。

つまり、現象界とは単に、実数=物質の世界だけではなくて、虚数性を内包していると言えるのである。

マクロ的な知覚・認識においては、実数=物質が中心的になるだろう。

しかし、ミクロ的な認識においては、虚数=差異(不連続的差異、即非差異、イデア)が中心的になると言えよう。

これは、メディア・ポイントにおける「絶対矛盾的自己同一」である。

そして、光の特異性は、単に、実数=物質に関わるだけでなく、虚数=差異に関わる点にあるのではないか。

一般に物質は、実数性である。mないしmc^2ないし+1で十分である。

しかしながら、光は物質(粒子)でありながら、同時に、虚数=差異=超越性である。そう、虚数=超越性である。

このために、量子力学において、粒子と波動の相補性や非局所的長距離相関が発生すると言えよう。

これはどういうことなのか。

光は、思うに、物質であり、同時に、非物質なのである。超越性・イデアなのである。

つまり、同一性であり、且つ、超越性である。

これは、他の物質にはない特異性である。

相対性理論とは、Kaisetsu氏の説くように、光の絶対的普遍性を説くものであろう。

即ち、光速度一定とは、光の超越的普遍性を意味しているということだろう。

言い換えると、一般の物質は、mc^2で閉じるのであるが、光は、ic*(-ic)という超越性を内包していると言えるのではないだろうか。

これは、端的にどういうことなのであろうか。

一般の物質は、メディア・ポイントが、いわば、閉塞・閉鎖するのであるが、光は、メディア・ポイントの超越的現象であるということではないのか。

一般の物質は、連続的同一性であるが、光は、差異的同一性、即ち、超越的同一性ではないのか。

ということは、光は連続化しないということだろう。同一性化はするが、連続化はしないということではないのか。

不連続的同一性が光の特異性ではないのか。

そうすると、相対性理論や量子力学から判明することは、現象界とは、実は、メディア・ポイントにおいて、超越界に接しているのであるから、端的に、超越的現象界と言えるのではないだろうか。

ただ、連続的同一性(3次元空間ないし4次元時空間)の認識では、この超越界は洩れてしまうのである。

光現象において、現象界は超越界に連絡していると言えるのではないだろか。

だから、光は、即、超越光なのであろう。

つまり、光速度一定とは、超越界を観測しているということではないのか。

ic*(-ic)の超越界である。

これが、神仏ではないのか。
プロフィール

sophio・scorpio

  • Author:sophio・scorpio
  • 2004年(平成16年)9月23日、ブログ上で、ODAウォッチャーズ氏(ブログ『海舌』)と遭遇して、新しい理論、不連続的差異論が誕生しました。まったく思いもよらぬ出来事でしたが、この結果、独創的な理論が生まれたと自負しています。とても簡潔な理論ですが、文系、理系の分化を乗り越えた統一的理論で、多くの分野・領域に適用可能だと考えられます。
最近の記事
最近のコメント
最近のトラックバック
月別アーカイブ
カテゴリー
ブロとも申請フォーム

Appendix

ブログ内検索
RSSフィード
リンク