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2011年11月28日 (15:45)

恥毛(恥舌)軍門勝利について:ルサンチマン力学と父権主義:新母権的共同体へ向けて

恥毛(恥舌)軍門勝利について:ルサンチマン力学と父権主義:新母権的共同体へ向けて

テーマ:manichaeism: 哲学

resurrection
neomanichaeist resurrection

7)父権主義とは物質文明を意味し、母権主義は精神文明を意味するが、西洋父権文明は物質文明、資本主義文明を発達させたのであり、その帰結が原発爆発放射能汚染であり、TPPであり、民主党、恥毛(恥舌)悪魔軍門の勝利である。以下を参照されたい。 sophio.blog19.fc2.com/blog-entry-176…

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6)これで終えるが、恥毛(恥舌)問題は、結局、精神文化、精神社会、精神政治、精神経済の問題である。唯物論に染め上げられた現代日本人の思考を超克する必要、必然性がここに示唆さていると言える。これは言い換えると、父権的近代主義から母権的脱近代主義、母権的共同体主義への大転換を意味する
1分前 お気に入りに登録 返信 削除

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5)恥毛問題であるが、最初に述べたように、ルサンチマン力学は頭脳、合理主義では解決できないのである。何故、プラトンが『国家』でイデア論を説いたか考える必要がある。古代ギリシアは直接民主制の弊害に悩まされていた。大哲学者プラトンは物質界を超える魂の次元の必要を提唱したのである。
5分前 お気に入りに登録 返信 削除

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4)某国は恥毛(恥舌)の独裁主義の勝利にほくそ笑み、民主党に続く、日本支配の道具に使用するだろう。某国の走狗となるのは目に見えている。愚民は墓穴を掘ったのであり、自らを断頭台に送ったのである。悪汚詐禍塵に葬送の言葉を贈るしかないだろう。オウンゴールお目出度う。愚民人口削減ができた
13分前 お気に入りに登録 返信 削除

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3)恥毛(恥舌)のルサンチマン力学であるが、単に破壊主義だけではなく、利己主義であるから、背信することなぞ気にかけないのである。彼を信頼した人間はすべて裏切られるだろう。とまれ、経済的には彼は新自由主義者であり、社会的絆、共同体性、民主主義は完全に否定される。愚民の暴挙でもある。
17分前 お気に入りに登録 返信 削除

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2)恥毛(恥舌)のルサンチマン(怨恨、怨嗟)の由来は育ちによる差別や環境が大きいと言えよう。(本来は内在的)このルサンチマン力学は権力、権威あるものを単純に否定することを目指しているのであり、単に破壊主義で、創造が欠落しているのである。破壊欲であり、破壊すれば満足なのである。続く
24分前 お気に入りに登録 返信 削除

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1)恥毛(恥舌)の問題は、頭脳では解明、解決はできない。これは無意識ないし魂の次元の問題だからだ。愚民、衆愚政治の問題も同じである。先述したように、俗人・凡人にはルサンチマン(怨恨、怨嗟)が生じるのであり、自分よりすぐれたもの(誰かの説明では少し上位)を憎悪し、否定するのだ。続く

参考:

橋下徹氏・大阪維新の会と公明党が裏取引 なにが維新の会と既成政党の戦いだ

維新の会は自民党出身者で作り、国民新党やみんなの党の支援も受けて、その上公明党とも取引しているなんて、ちゃっかり自分は既成政党と持ちつ持たれつなんじゃないですか。

http://ameblo.jp/don1110/entry-11091475758.html
donのブログ
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2008年04月16日 (19:28)

「絶対的なもの」と超越性:同一性中心主義=ロゴス中心主義と超越的差異共振性

以下のtoxandoriaの日記には、ハンナ・アレントの全体主義批判の言葉があり、興味深い。PS理論から検討してみよう。

・・・引用開始・・・

・・・ここは、感銘を受けたフレーズ 、そして自らの心象風景とスナップ 画像などを折にふれ、ご紹介するページです。



・・・・・本文・・・・・



何とも悩ましい話だが、活動(必然的に時の政治権力の影響を蒙る、我われ一般国民の日常生活のコミュニケーション 活動)の最中に真っ先に判明するのは、五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能であるということだ。



な ぜなら、それが何であるのか誰も具体的には知らないからである。たしかに 誰もが、それについての概念は持っているのだが、具体的なレベルでは、それについてまったく異なるものをイメージしている。活動がこうした人間の複雑性に依存しているものである限り、西欧哲学---その伝統の最後尾にいる哲学者たちは、結局のところ、活動の制御を目論んでいるのだが---の最初の破局は、 原理的に独裁政権下意外では不可能な統一=単一性が実現されるための必要条件 なのである。



二番目に判明するのは、活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会 な ど、絶対的なるものとして何でも使えるということだ。あらゆる事柄が等しくお誂え向きであり、要するに「何でもあり」なのである。どこかのイカサマ師が思いつきかねない狂気の理論に対する場合と同じように、現実はほとんど抵抗を示さないように見える。いかなることも可能なのである。



三番目に判明するのは、ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、あるいは、ニーチェ が 言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になるということだ。なぜなら「理想」とか正義それ自体は、もはや尺度として存在するのではなく、世界内で達成も生産も可能な、ひとつの目的=終焉になってしまったからである。言い換えるなら、哲学の実現 は哲学を終わらせ、まさに「絶対的なるもの」の実現は世界から絶対的なるものを追放するということである。



そして、最後には、「人間(man)」(一人または少数の政治権力者による狂想の脳内表象)の見せかけの実現が「人間(men)」(絶対多数の国民・市民の現実生活)を文字どおり廃棄(破壊)してしまうのである((  )内はtoxandoriaによる注記)。---「思索日記」「1951年 9月」より 



・・・・・



以上は、[ハンナ・アレント 著、ジェロ ーム・コーン編、高橋勇夫訳『政治の約束』(筑摩書房 )の<緒言>]の引用・転記であるが、このアレントの文章は、(中曽根・・・小渕~森~小泉~安部~福田)の流れを辿りつつ与党政権がファシズム 的性格を強めてきた必然性を予見しているようで不気味である。



http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/



・・・引用終了・・・



renshiのコメント開始:



1)『五感を「超越」する「絶対的なるもの」---真、善、美---は把握不能である』



という点であるが、これは、明らかに、プラトン哲学のイデア論を批判していると考えられるが、「・・・把握不能である」というのは正しいと考えられる。なぜなら、超越性ないしは絶対的なもの、言い換えると、精神性は、同一性の知性によっては、確かに把握不能であるからである。つまり、近代的合理性知性によっては、超越性ないし絶対的なものの把握は不可能である。しかしながら、プラトニック・シナジー理論から見ると、超越性ないしは絶対性は、イデアとして「存している」と考えている。

 また、西欧哲学の破局が必要条件であるというのは、同一性中心主義=ロゴス中心主義である西欧哲学という意味ならば妥当する考えである。しかしながら、ハンナ・アレントが考えるようには、単純ではないのである。デリダが明らかにしたように、同一性中心主義と差異とが複雑に関係しているのが、西欧哲学なのであり、単純に西欧哲学の破局が必要条件ではないのである。西欧哲学の批判が必要なのである。



2)『活動の目的に奉仕させようと思えば、例えば人種や無 階級社会 な ど、絶対的なるものとして何でも使える』



という点であるが、これは正に、イデオロギーの問題である。たとえば、ブッシュがイラクの民主化というイデオロギーで、「絶対的なもの」を使用するのである。

 問題は、不連続的差異論が明らかにしたように、絶対的なものと日常的な活動を不連続化することが絶対的な条件である。両者を混淆することに全体主義や宗教や政治のイデオロギーが発生すると考えられるのである。



3)『ある目的に絶対的なるもの---例えば、正義、あるいは、ニーチェ が 言うような一般的「理想」---を適用することによって、まず不正で残忍な活動が可能になると』



これは、すぐ上のイデオロギーの問題と同じである。超越性ないしは絶対性と同一性的合理性との混同によって、「不正で残忍な活動が可能」になるのである。人類は、父権文明化して以来、これを行ってきているのである。確かに、人類は、同一性=物質的合理性の知性を発達させたが、それを、超越性ないしは絶対性と混淆混同してきたので、狂信・狂気・非合理主義化してきたのである。

 最後にひと言いうと、アレントのプラトン哲学やそれを源泉にする西欧哲学とりわけ、観念論哲学批判であるが、全体主義を経験した西欧の経験としては理解できるものである。しかしながら、その批判は、日常的な活動に限定する理性を求めていると考えられるが、具体的な日常的活動を判断するときの理性的根拠をどこに求めるのだろうか。私見では、それは、個の差異においてしか、ありえないと考えられるのである。日常的活動は集合的なもので、集合性に巻き込まれやすい。しかしながら、日常的活動において、理性・知性を保つには、個の差異が必要なのである。そして、個の差異において、超越性【絶対性という言い方は問題があるだろう。差異における超越性は絶対性なのだろうか。絶対的差異という点では、絶対性である。絶対的なものという言い方はあいまいではある。】が現れるのである。プラトニック・シナジー理論では、それは、超越的差異共振的理性と見るのである。



renshiコメント終了




**********************************************

酔狂の風景/『HP、新レンブラントの眼』の開設(ご案内) CommentsAdd Star

参考情報

●HP『レンブラントの眼』が諸般の事情により崩壊したため、新たに『HP、新レンブラントの眼』を開設しました。

●未だ試作版のつもりなので、これからも試行錯誤になると思います。一応、当ブログ 『toxandoriaの日記 』とイメージ 的に整合を図るつもりですが、目下、思案投首の状態です。なお、URL は以下のとおりです。

『新レンブラントの眼』、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/

同上・ページ1「toxandoriaの日記、アート と社会 へのリンク 」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage1.html

同上・ページ2「酔狂の風景」、http://www1.odn.ne.jp/rembrandt200306/newpage2.html

toxandoria

toxandoria
『toxandoria の日記、アートと社会』


http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20080415/p1

2007年05月12日 (22:31)

日本の悪しき父権主義を破壊しないといけない。新闘争宣言である。新我が闘争である。

以下、toxandoriaの日記の最新号であるが、今日読んでいたディケンズの『オリバー・ツイスト』の泥棒稼業の親玉であるフェイギン(狡猾なユダヤ人の老人)が、新参のものに諭していた同一性(連続的同一性)の思想と共通すると思った。そう、泥棒稼業は、他者を否定して、他者の所有物を取るのである。同一性と強奪には、なにか共通のものがありそうだ。 
 ブッシュは、偽りの大義を掲げて、イラクに侵略し、強奪した。ここでは、民主主義、同一性民主主義があるのである。イラク=アメリカとならなくてはならないのである。つまり、イラクの他者・差異を否定して、民主主義に同一性化する。そして、それは、強奪なのである。他者の否定は、他者の強奪なのである。 
 どうも、また、同一性(ただしくは、連続的同一性)と父権主義は関係する。また、同一性は、当然、近代主義に通じる。だから、同一性、強奪、父権主義、近代主義、これは、セリーである。そして、民主主義は出汁にされているのだ。
 今は、言うだけだが、民主主義は、本来、母権主義に関係するのである。欧米の母権主義が民主主義を生んだのではないだろうか。キリスト教は、父権主義と母権主義の折衷である。  
 また、歴史的に見て、ルネサンスは母権主義的であり、プロテスタンティズムは父権主義的である。 
 日本の場合、先にも述べたように、母権主義が父権主義に利用されているのだ。きわめて、たちの悪い、父権主義が、同一性全体主義を今日生もうとしているのだ。  
 日本の悪しき父権主義を破壊しないといけない。新闘争宣言である。新我が闘争である。

p.s. 父権主義であるが、ずいぶん昔、古事記を読んでいたとき、大国主命には、とても親近感をもった。これこそ、日本の理想的父であると思った。しかしながら、今日の日本男児は、父権主義で、利己主義、見栄坊で、傲慢である。今、思ったのは、大国主命とは、母権主義から生まれた理想的父ではないだろうか。母権的父性主義である。それに対して、後者は、母権主義を否定する、悪しき父権主義である。

p.p.s. 北川氏の訳は、原文とは違うのではないだろうか。'we have
a general number one, without considering me too as the same,
and all the other young people.'
の箇所であるが、これは、「私も、同じものとして考えること、あるいは、その他すべての若者をそう考えることなく、私たちは一般的な一をもっている」ということではないのか。つまり、個を考えなくても、既に、一般的な一が存在しているということである。この方が、同一性(連続的同一性)としては、正しい見方となろう。


参考:
「わしたちのような小さな団体では」この提案に多少の修正を加えねばならないと感じたフェイギンはいった、「一般的な一という数があるんだよ。というのは、おまえさんだって、わしのこと、ほかの若い連中のことを一と数えなけりゃ、自分を一とは考えられんのだからな」『オリバー・ツイスト(下)』第四十三章、北川悌二訳 角川文庫 p.201
'That stands to reason. Some conjurers say that number three is
the magic number, and some say number seven. It's neither, my
friend, neither. It's number one.

'Ha! ha!' cried Mr. Bolter. 'Number one for ever.'

'In a little community like ours, my dear,' said Fagin, who felt
it necessary to qualify this position, 'we have a general number
one, without considering me too as the same, and all the other
young people.'

'Oh, the devil!' exclaimed Mr. Bolter.

'You see,' pursued Fagin, affecting to disregard this
interruption, 'we are so mixed up together, and identified in our
interests, that it must be so. For instance, it's your object to
take care of number one--meaning yourself.'

'Certainly,' replied Mr. Bolter. 'Yer about right there.'

'Well! You can't take care of yourself, number one, without
taking care of me, number one.'

'Number two, you mean,' said Mr. Bolter, who was largely endowed
with the quality of selfishness.

'No, I don't!' retorted Fagin. 'I'm of the same importance to
you, as you are to yourself.'


「・・・第一はおまえさんの一、第二はわたしの一なんだよ。おまえさんが自分の第一を大切にすればするほど、おまえさんはますますわしの第一にも注意しなけりゃならなくなる。・・・」p.203

'Only to show you my meaning clearly,' said the Jew, raising


his



eyebrows. 'To be able to do that, you depend upon me. To


keep my



little business all snug, I depend upon you. The first is your



number one, the second my number one. The more you value


your



number one, the more careful you must be of mine; so we come


at



last to what I told you at first--that a regard for number one



holds us all together, and must do so, unless we would all go


to



pieces in company.'







http://www.gutenberg.org/dirs/etext96/olivr11.txt




The Project Gutenberg EBook of Oliver Twist, by Charles Dickens
_____________________________________



●実は、(プロローグ)で注目した(a)『グローバリズム 時代における経済戦線での安全確保のためとする、経済同友会 ・幹部による集団的自衛権 (米軍と融合した)と先制攻撃の容認論』と(b)『負け組みの若者らによる職場としての戦争待望論』及び、この伊吹大臣の発言には、ある共通点があります。そこで観察されるのは、“底なしの不安心理”を一種のエネルギー源として、まるでクローン細胞のように増殖する自己回帰的でフラグメント化(fragmentation/断片化)した、まるで金太郎飴のように同じ相貌の(無反省に同じ精神環境を複製・コピーするという意味で・・・)非個性的な意識です。

●別に言えば、それは「ファシズム 的なシンクロの光景」(参照、http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070321 )です。しかも、よく観察してみると、このような意識でのシンクロ化傾向は(a)、(b)の両極端だけでなく、一般の大多数の国民層でも広がりつつあることが分かり不気味な思いがします。例えば、我われ一般国民は、本や化粧品等の買回り品を購入するとき、あるいは旅に出るとき、実は自分にあまり自信がないので、つい売れ筋や上位ランクを選んでしまうという傾向があります。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20070512






toxandoria






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『toxandoria の日記、アートと社会』

2007年03月16日 (14:20)

ファシズム・全体主義について:メディア・ポイントのカオスとコスモス:メディア・ポイントの脱連続化

現代日本の反動の意味について再考しよう。即ち、小泉/安倍、石原等の反動路線、全体主義路線は、PS理論的にどういう意味をもっているのか。

結局、国家民族主義という自我「一神教」的父権的近代主義思想がここにはあるだろう。

現行憲法を改正しようとするのは、向上させるというよりは、国家民族主義(=国家統制経済=国家社会主義)を復活させるためであろう。

また、問題は、末近代である「ポスト・モダン」の、大澤真幸氏の「アイロニカルな没入」の問題でもある。

理論的に言うと、勿論、連続的同一性という暴力の問題であるが、その起因が不明確なのである。

近代主義は、近代的合理主義的自我による連続的同一性であり、機械的な合理主義である。ここにおいて、他者が否定されるのである。

思うに、近代主義は、唯物論的科学・技術・経済を発達させてきたが、これが、飽和状態を迎えると言えると思う。

それが、末近代=「ポスト・モダン」の時代だと思う。

精神の腐敗・堕落が生じるのである。

そう、思うに、核心は、メディア・ポイントにおけるエネルギー様態の問題だと思う。

近代主義は、メディア・ポイント(以下、MP)において、エネルギーが、i*-(-i)⇒-1の様態に向ったと思う。自我主義且つ物質主義的エネルギー様態である。

この連続的同一性的エネルギーが流れているときは、それはそれで、能動態であろう。

しかしながら、i*(-i)⇒+1の差異共振的同一性のエネルギーも本来、潜在していると言えるのではないだろうか。いわば、デュナミスである。

MPにおける、エネルギー様態ないし様相が問題である。

超越的エネルギーが同一性エネルギーに変換するポイントである。

端的に言えば、虚数軸の超越エネルギーが存し、且つ、実数軸のエネルギーが発動している。両者のエネルギーがここにはあるだろう。

思うに、現象とは、本来、⇒+1である。差異共振的同一性である。

しかし、人間の場合が特殊で、⇒-1と⇒+1の両者に分岐すると思われるのである。

連続的同一性と差異共振的同一性が同時に生起すると思われるのである。

つまり、人間現象は、矛盾する2つの様態が生起するのである。しかしながら、女性の場合は、本来、両者のバランスが取れているように思えるのであり、男性の場合、前者に傾斜していると思うのである。

とまれ、成長は、それなりに、連続的同一性=自我を形成するようになるだろう。もっとも、差異共振的同一性=自己も、なんらかの方法で、形成するようになると考えられる。

しかし、近代主義においては、前者中心となり、後者が否定されるようになった。

だから、当然ながら、存在する後者は反転するはずである。

正確に考えよう。

ここでは、主に、男性の意識、男性の近代的自我意識を考える。

男性は、身体的感覚の虚弱性から、他者感覚に対して、主体的投影を行い、同一性化すると考えられる。ナルシシズムである。

つまり、他者への恐怖・不安があり、そのため、他者自体を認識できずに、主体の同一性を投影して、幻影化して認識するのである。

これが、連続的同一性認識、自我認識である。

ここでは、言語が主要な道具となる。

この主体的投影あるいは、主観的投影とは何か。

思うに、初期的には、差異共振的感覚様態があり、ここから、外界認識を形成するのであるが、このとき、言語によって、対象が、観念化される。

つまり、本来、主体・主観は、外的対象と共振しているが、主体・主観のもつ知性によって、外的対象を認識しようとするのである。

これは、外的特異性に対する認識である。外的対象として、例えば、特異性対象Xがあるとしよう。

これに対して、主体・主観性は、言語を与えて、Yと呼ぶのである。
X⇒Yである。

問題は、主観的投影の問題である。

これは、対象の否定的同一性化である。主観は、対象を否定し、主観的投影を行い、同一性化、即ち、連続的同一性化するのである。

これは、差異共振的認識とは別である。対象が主体に苦を与える場合、主観は、対象を否定し、主観投影して、同一性化するのである。

ここには、欺瞞・虚偽・幻影性があるだろう。

主観にとり、否定的な他者を認識するのではなく、否定して、主観投影して、同一性化するのであるから。

反知性的な感情・欲望による疑似的認識である。

ここでは、差異共振エネルギーは否定されるのである。即ち、
i*-(-i)⇒-1である。

また、この否定は、主観的評価をもたらすだろう。他者を否定して、主観は、優越しているのであると。これは、自己倒錯である。

反知性的な感情・欲望が基礎としてあるのだから、非合理的な自己評価である。自我優越・慢心・傲りの発生である。

これが、男性的自我の有り様であろう。あるいは、連続的同一性自我の有り様である。

もっとも、これ以外に、差異共振的認識があるので、正当な知的認識が形成されると言えよう。i*(-i)⇒+1である。

とまれ、そうすると、主観において、錯誤と真理の2つの様態があると言えよう。

長くなったので、簡潔にすると、結局、MPにおいて、±1の様態が生起するのである。

問題は、-1の場合である。

超越エネルギーの共振性が否定されて、「力」(暴力)になるのではないのか。

+1の場合は、共振性が肯定されて、「愛」になるのではないのか。ロレンス的に言えば、そうなるが、理論的に言えば、知・叡知・真理である。

つまり、「力」と「知」である。

「知」には、当然、共感性、「愛」、誠実さ、等々が含まれるのである。だから、真知と呼んでもいいだろう。真智である。

それに対して、「力」は、暴力・傲慢・慢心・侮蔑・憎悪・悪意等々を含むのである。

理性は、本来、前者であるが、近代西欧文化の混乱から、後者の同一性を含むことになったのである。つまり、「力」は、連続的同一性の「知」を含むからである。

ここに問題があると言えよう。近代西欧において、差異共振性の「知」と連続的同一性の「知」が混淆されたのである。

後者は、自我の一般的知である。言い換えると、言語形式知である。

AはAであり、A以外の何ものでもない。Aは絶対的にAであり、他者ではない。例えば、リンゴはリンゴであり、他の何ものでもない。

しかしながら、リンゴを投げつければ、一種武器になるのである。
リンゴは、リンゴでなくなり、武器となるのである。あるいは、リンゴ且つ武器である。

とまれ、この連続的同一性は、主観の排他的な同一性から発していると言えよう。

ここに「知」の問題があるのである。

簡単にすれば、連続知と共振知である。

どちらも、同一性であるから、そう区別した方が明快である。

とまれ、連続知と共振知を近代西欧は混淆して、理性としたのである。一般に悟性を前者に入れるが、カントのように、純粋理性に前者も入っているのである。

とまれ、「力」は連続知であり、「知」は共振知である。

そして、繰り返すが、近代主義は、前者が後者を否定する様態となったのである。

問題は、この否定された共振知である。

基本的には、両者が存しているのだから、否定された共振知は、潜在しているのである。

問題は、否定された共振知の様態である。

否定は、暴力である。作用・反作用で言うと、当然、反作用が生起すると考えられる。これは、「力」(フォース)の次元の問題である。

つまり、これは、暴力と反動との関係になるのである。否定された共振知の反動として、「力」としての共振知というものが発動すると考えられるのである。

これは、端的に、矛盾である。何故なら、共振知は、「力」ではありえないからである。これは、叡知であるからである。

では、「力」となった共振知とは何か。それは、疑似共振知である。

共振知とは、本来、自己と他者との共振性であり、倫理・道徳を形成するのである。だから、この反動的な疑似共振知とは、反動的な倫理・道徳ということになるだろう。

また、連続的同一性の反動であるから、同形になると考えられるのである。連続的同一性的倫理・道徳である。

即ち、全体主義・ファシズムである。

ロレンスが「力」と呼んだものがこれである。

これで、現代日本の全体主義・ファシズムの意味が説明できよう。

近代主義の反動としての全体主義・ファシズムなのである。私は、これまで、近代主義は全体主義・ファシズムになると言ってきたが、このように考えると、それは単純過ぎる言い方なので、ここで訂正すると、近代主義は、他者を否定する主観的連続的同一性のあり方であるが、それは、力学から反転するのであり、その反転が全体主義・ファシズムである。

ただし、潜在的には、共振知があると言えよう。これを問題にしよう。

真の共振知はどうなるのか。ここで、最初にロレンスの場合を考えると、確かに、「力」の志向は、反動であり、全体主義的であった。しかしながら、ロレンスの場合は、共振知のエネルギーがあると考えられるのである。そして、だからこそ、それが、最後に発現して、トランス・モダン的共振知性に達したと考えられるのである。

ならば、問題は、メディア・ポイントMPの様相である。

ロレンスの場合は、メディア・ポイントが開いているのである。だから、i*(-i)⇒+1の有り様を強くもっていたと考えられるのである。

そう、ロレンスは、母権的な志向をもっていたのである。女性的と言っていいだろう。しかるに、男性的要素の連続的同一性をも強くもっていた。これが、反動を生んだと言えよう。

では、一般にはどうなのだろうか。

男性の場合、連続的同一性に傾斜しているので、差異共振知は、形成しにくいだろう。もっとも、潜在的には、差異共振知はあるのである。そう、男性の場合、単純な反動作用が起こり、全体主義になるように思うのである。アイロニカルな没入性である。

だから、男性の場合は、教養知や哲学知が必要だと思う。ここにおいては、差異共振知が説かれているからである。もっとも、西洋哲学は、連続知が強く入っているので、注意しないといけない。

そう、だから、東洋哲学や宗教・神話や世界古典文学・芸術に接する必要があると言えよう。

差異共振叡知という教養知の必要である。私自身を考えると、トルストイを読んだときに、初期的に、差異共振知が発出したように思う。あるいは、ゴーゴリの『死せる魂』である。あるいは、シェイクスピアである。思うに、これらは、教養形成過程に必要だと思う。

ということで、連続的同一性とその反動の全体主義・ファシズムの「アイロニカルな没入」の様相があるのであるが、メディア・ポイントを考えると、どうなのだろうか。

全体主義の問題は、結局、水平の問題、実数軸の問題であった。しかし、MPは、虚数軸、垂直性が入るのである。

超越性の問題である。

ここでどうも、考え直す必要があると思う。

実数軸の問題も、結局、メディア・ポイントの事象である。だから、なんらか、虚数軸・超越性の問題が関係しているはずである。

連続的同一性から考え直さないといけない。

私の疑問点の一つに、連続的同一性が、優越性を形成すること原因が何かと以前から思い、それなりに検討した。

あるときは、それが、イデア界から発するから優越性をもつと述べた。どうも、今、この説を支持したい。

メディア・ポイントを介して、連続的同一性=自我形成がなされる。つまり、根源には、超越性があるのである。これが、優越性の出発点であろう。

それで、主観投影して、他者否定し、同一性化するのではないだろうか。

つまり、主観は、本来、超越的主観性なのである。フッサールの説く超越論的主観性と考えていいのかもしれない。もっとも、後者は、自我を還元して形成されるものである。

そう、フッサールの超越論的主観性でいいと思う。これが、連続的同一性化して、自我となるのであり、根源を忘却しているのである。(思うに、ハイデガーの存在の忘却であるが、これは、超越論的主観性ないし超越的主観性の忘却と言うべきであろう。)

以上のように考えると、根源に超越論的主観性(以下、超越主観性)がある。これが、メディア・ポイントを介して、連続化や同一性化するのである。

(思うに、フッサールの場合、明瞭になっていないのは、他者の問題かもしれない。間主観性とは、他者の問題である。だから、生活世界となるのだろう。)

そう、超越主観性とは実は、超越客観性である。あるいは、超越他者性である。これらが、超越即非共振性i*(-i)を形成しているのである。

そうすると、連続的同一性/全体主義の作用反作用であるが、それも、メディア・ポイントを介して、発生しているのであるが、この場合、虚数次元が隠蔽されて潜在的となっていると考えられる。

しかしながら、エネルギーが発現するのだから、認識的に隠蔽されると言うべきだろう。

つまり、連続的同一性/全体主義は、盲目的に超越性が発動していると言えるだろう。だから、ここには、優劣差別的発想があるのである。ユダヤ人差別である。朝鮮人・中国人差別である。

ここに無いのは、差異共振知である。つまり、連続的同一性自我力学のために、また、超越性の否定のために、否定・排除・隠蔽されているのである。

そう、結局、連続知によって、不連続性の知である共振知が否定されているのである。

ロレンスの場合、共振知が強くあったが、それが、連続知によって、「力」へと捩じ曲げられていたと言えよう。

そう、メディア・ポイントの問題である。ここでは、不連続性と連続性が交差するのであり、連続知=自我知に囚われていると、不連続性の知を認識できないのである。反動化するのである。

あるいは、本来、不連続性ないし共振知を連続性で理解してしまうのである。これは、多くの哲学者に起こったことである。

そう、不連続性と連続性は、メディア・ポイントで交差しているので、混同・混濁・混乱するのである。

二重性があるが、しかし、共振知は、連続性のために一体化として発現するので、ほとんど区別ができなくなるのである。(一神教の一元性の問題もここにあるだろう。)

ロレンスの「力」も正にそのようなものであった。

結局、メディア・ポイントの明晰化が必要なのである。思うに、禅・座禅や瞑想行であるが、それは、このメディア・ポイントの明晰化に役立つのではないだろうか。即ち、自我という連続的同一性の作用を鎮静化して、平静・冷静になり、自己を見つめるのである。自我的高揚・高ぶりを鎮静して、自己を見つめるのである。

そう、禅・瞑想は、メディア・ポイントの発見の鋭敏な心身的手法のように思えるのである。

なぜ、鈴木大拙が、即非の論理を発見できたのか、西田幾多郎が、それと類似した思想を発見できたのか。また、九鬼周造が、偶然性の哲学をどうして発見できたのか。また、より先に、清沢満之が、内観主義によって、超越性を発見できたのか。これらの基盤に、大乗仏教の心身的思想があると思うのである。

ウスペンスキーの「ターシャム・オルガヌム」であるが、それは、彼がロシア人で、東方キリスト教の心身的瞑想方法(へシュカスム)を知っていたからではないだろうか。

私自身を言えば、不連続的差異論形成以前、スピノザの能動的観念の影響下において、特異性としての個に基づく共振性を、直感的ながら、形成していたように思うのである。つまり、メディア・ポイントを明晰化していたと思うのである。そして、その後、ODA ウォッチャーズ氏と遭遇して、不連続的差異論が形成されたのである。

とまれ、脱連続化する必要があるのである。それによって、不連続性、超越性、共振性が明確に発現するのである。

超越論的主観性/間主観性の形成とも言えよう。

そうすると、現代日本の全体主義化に対して、脱連続化を進める必要がある。これは、PS理論の普及活動や政治・社会批判活動、等が必要なのである。

ブログは、いわば、モナドであり、特異点であり、脱連続化・脱全体主義のために相応しいメディアであると言えよう。
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