2008年05月05日 (01:40)

神話の問題点:差異共振性と連続性:原三神性と活三神性:MP論理と神話的現代

http://ameblo.jp/renshi/entry-10093688362.html
直近の考察が混乱したので、新たに考察を始めたい。

問題は、神話における、イデア界と現象界の関係・関連である。端的に言えば、Media Pointの力学表現であると言えよう。
 Media Pointの原三元性(原三神性)(+i)*(-i)があり、これが、Media Pointで多様に発現して、神話となると考えられる。整理すると、原三元性においての原三神性(デュナミス的三神性)と、Media Pointを中心の「神」として、⇒+1の「神」、⇒-1となる「神」のエネルゲイア的三神性(活三神性)の、二段階があると言えよう。
 記紀の三柱の神は、原三神性(三神デュナミス)であり、その他、イザナミ/イザナミ、アマテラス・スサノオ・ツクヨミ、等は、活三神性(三神エネルゲイア)であると考えられる。(イザナミ/イザナギの意見は二元的であるが、太い柱を神とすると、三神となる。また、両者の共振性を入れると三神となる。)簡単に言えば、イデア三神とエネルゲイア三神であろう。
 問題は、活三神、エネルゲイア三神にある。ここでは、傾斜ないしは極性化が顕著になると考えられるのである。言い換えると、共振性と二元性が混淆するようになると思われるのである。即ち、原三神においては、差異共振性が対称的であるが、活三神においては、非対称性が発生すると考えられる。
 例えば、アマテラス/スサノオ/ツクヨミの三神で考えると、アマテラスは、Media Pointや、共一性の+1であったり考えられるだろうし、スサノオは、同一性の-1であったり、Media Pointであったり考えられるだろうし、また、ツクヨミは、アマテラスやスサノオと対極として考えられるだろう。つまり、三神が流動・流転生成的になると考えられるのである。
 これは、一種の混乱であろう。これは、Media Pointの性質から発生していると考えられる。ここは、正しくは、即非様態であるが、古代人は、これを連続化して混淆したと考えられるのである。
 まとめると、原三神性と活三神性の二段階があるが、後者において、共振性と二元性が混淆する。これは、エネルゲイアの傾斜性とMedia Pointの連続化によると考えられるのである。
 このMedia Pointにおける傾斜性と連続性が神話の混沌とした多様性を生み出していると言えよう。聖書も神話と見れば、明らかに、神話的多様性を呈しているのである。
 ここで、一つの例として、インド神話を取りあげると、シヴァ神は、勿論、原三神性に発するが、活三神性では、-1の同一性ではないだろうか。そして、ヴィシュヌは光明であるから、+1の共一性であろう。そして、ブラフマンは、Media Pointであり、原三神性の中心の差異共振性*であろう。そのように、Media Pointの傾斜・連続性の概念から説明できるであろう。端的に言えば、Media Pointのエネルゲイアで説明できるだろう。
 あるいは、ニーチェのアポロとディオニュソスで言えば、アポロは、共一性+1であると同時に、同一性-1である。【この同一性-1の側面をニーチェはソクラテス的な合理主義と把握したと言えよう。】また、ディオニュソスであるが、それは、当然、Media Point であると同時に、破壊性をもっているので、-1の同一性である。だから、通常の同一性論理では、説明できないのである。即非論理、共振論理を含む、言わば、Media Point Logic(略して、MP論理:p.s. Media Point Modeという方が適切であろう。)でないと説明できないのである。また、構造主義論理でも説明できないのである。「ゼロ記号」や両義性という概念では、神話の不連続な、非対称的な多様性を精緻に説明できないと言えよう。
 以上で、神話のもつ連続性の問題点の解明を終えたこととして、次に、以上の視点を活用して、近代化の問題点について考えよう。近代化とは、一言で言えば、新たなMedia Pointの活性化から始まったと言えよう。それは、一種、神話的なのである。ただし、同一性と共一性とが連続化した神話である。インド神話で言えば、シヴァ神とヴィシュヌ神の連続した神話である。ただし、近代主義は、超越性を意識的に排除しているために、超越性が無意識化しているのである。これを抑えておく必要がある。
 端的に言えば、近代合理主義の基底はシヴァ神であり、民主主義の基底はヴィシュヌ神である。また、自由主義の基底には本来ブラフマンがあるだろうが、実際は、シヴァ神へと傾斜しているだろう。とまれ、近代主義はこれら三者が連続的混淆していると考えられる。
 しかしながら、近代主義は、Media Pointを閉じているので、同一性主義なのである。つまり、近代合理主義が基調になっているので、民主主義も自由主義も、同一性主義へと傾斜してしまうのである。これは、また、唯物論への傾斜でもある。つまり、近代主義はシヴァ神中心主義なのである。私が悪魔的破壊主義というのは、この事態である。
 これで近代主義の問題点を神話学的視点で指摘できたであろう。そして、トランス・モダンの意味も、この点から考えると、やはり、Media Pointを開くことが肝腎要(かんじんかなめ)である。これによって、ヴィシュヌ神の民主主義が賦活されるし、ブラフマンの自由主義も差異共振的自由主義となり、同一性資本主義を乗り越えるようになるだろう。これで、検討を終えたい。

追記:ユングとケレーニイ共著の『神話学入門』に、原型と言うべき三女神について多く言及されている。この三女神とはいったい何だろか。これは、ジョーゼフ・キャンベル的に言えば、女神の神話の原型であろう。男性神が中心化する以前の形式であろう。これを以上の視点から見ると、原三神性に相当するだろう。その視点を逆に、記紀神話にあてはめると、三柱の神とは、三女神ではなかったのかということになるだろう。天之御中主神は、大女神ではなかったのか、ということになるだろう。ならば、天之御中主女神となるだろう。これは、一体何だろうか。父権的宗教ないしは神話が生まれる以前の、先史時代の人類の原神ではなかったろうか。D. H. ロレンスが言ったコスモスの大女神ではないだろうか。三島由紀夫が幻視した、地球を取り巻く大蛇ではないだろうか。龍である。八岐大蛇ではないだろうか。三頭龍ではないだろうか。後で再考したい。
 

参照:
天地開闢 (日本神話)
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天地開闢(てんちかいびゃく)とは、天地に代表される世界が、初めて生まれた時のことを示す。

狭義には『日本書紀 』冒頭の「古(いにしえ)に天地未だ剖(わか)れず、陰陽分れざりしとき……」を言うが、この記事では、広義の日本神話 における天地開闢・国土創造のシーンについて記す。

中国神話における天地開闢は天地開闢 (中国) を、キリスト教 の旧約聖書 の創世記 におけるものについては天地創造 を参照せよ。
あらすじ

[編集 ] 古事記

古事記によれば、世界の始った直後は次のようであった。古事記の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)という冒頭は天と地となって動き始めた時であり、天地がいかに創造されたかを語ってはいないが、、一般的には日本神話における天地開闢のシーンと言えば、近代以降は古事記のこのシーンが想起される。神話研究における「天地開闢」は次節の『日本書紀』参照。

世界の最初に、高天原 に相次いで三柱の神(造化の三神)が生まれた。

* 天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)
* 高御産巣日神 (たかみむすひのかみ)
* 神産巣日神 (かみむすひのかみ)

続いて、二柱の神が生まれた。

* 宇摩志阿斯訶備比古遅神 (うましあしかびひこぢのかみ)
* 天之常立神 (あめのとこたちのかみ)

この五柱の神は、特に性別はなく、独身のままに子どもを生まずに身を隠してしまった。それゆえに、これ以降表だって神話には登場しないが、根元的な影響力を持つ特別な神である。そのため別天津神 (ことあまつかみ)と呼ぶ。

次に、また二柱の神が生まれた。

* 国之常立神 (くにのとこたちのかみ)
* 豊雲野神 (とよくもののかみ)

国之常立神と豊雲野神もまた性別はなく、またこれ以降神話には登場しない。
これに引き続いて、五組十柱の神々が生まれた。五組の神々は、それぞれ男女の対の神々であり、下のリストでは、左側が男性神、右側が女性神となっている。

* 宇比地邇神 (うひぢにのかみ) 、須比智邇神 (すひぢこのかみ)
* 角杙神 (つのぐひのかみ) 、活杙神 (いくぐひのかみ)
* 意富斗能地神 (おほとのじのかみ) 、大斗乃弁神 (おほとのべのかみ)
* 於母陀流神 (おもだるのかみ) 、阿夜訶志古泥神 (あやかしこねのかみ)
* 伊邪那岐神 (いざなきのかみ) 、伊邪那美神 (いざなみのかみ)

以上の七組十二柱の神々を総称して神世七代 (かみのよななよ)という。

[編集 ] 日本書紀

日本書紀における天地開闢は渾沌が陰陽に分離して天地と成ったという世界認識が語られる。続いてのシーンは、性別のない神々の登場のシーン(巻一第一段)と男女の別れた神々の登場のシーン(巻一第二段・第三段)に分かれる。また、先にも述べたように、古事記と内容が相当違う。さらに異説も存在する。

[編集 ] 根源神たちの登場

本書によれば、太古、天と地とは分かれておらず、互いに混ざり合って混沌とした状況にあった。しかし、その混沌としたものの中から、清浄なものは上昇して天となり、重く濁ったものは大地となった。そして、その中から、神が生まれるのである。

天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが、神となる。

1. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと)
2. 国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
3. 豊斟渟尊(とよくむぬのみこと)

これらの神々には、性別がなかった。

第1の一書によれば、天地の中に生成されたものの形は不明である。しかし、これが神となったことは変わらない。生まれた神々は次の通りである。なお、白丸で箇条書きされているのは、上の神の別名である。

1. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと)
* 国底立尊(くにのそこたちのみこと)
2. 国狭槌尊(くにのさつちのみこと)
* 国狭立尊(くにのさたちのみこと)
3. 豊国主尊(とよくにむしのみこと)
* 豊組野尊(とよくむののみこと)
* 豊香節野尊(とよかぶののみこと)
* 浮経野豊買尊(うかぶののとよかふのみこと)
* 豊国野尊(とよくにののみこと)
* 豊齧野尊(とよかぶののみこと)
* 葉木国野尊(はこくにののみこと)
* 見野尊(みののみこと)

第2の一書によれば、天地の中に葦の芽のようなものが生成された。これが、神となったとされる。すなわち、本書と同じ内容であるが、神々の名称が異なる。

1. 可美葦牙彦舅尊 (うましあしかびひこぢのみこと)
2. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと)
3. 国狭槌尊(くにのさつちのみこと)

第3の一書でも、生まれた神々の名が異なる。なお、生まれた神は人のような姿をしていたと描写されている。

1. 可美葦牙彦舅尊 (うましあしかびひこぢのみこと)
2. 国底立尊(くにのそこたちのみこと)

第4の一書によれば、生まれた神々の名は下の通りである。この異伝は、古事記の記述に類似している。

1. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと)
2. 国狭槌尊(くにのさつちのみこと)

これらの二柱の神々の次に、高天原に生まれたのが、下の三柱の神々である。

1. 天御中主尊 (あめのみなかぬしのみこと)
2. 高皇産霊尊 (たかみむすひのみこと)
3. 神皇産霊尊 (かみむすひのみこと)

第5の一書によれば、天地の中に葦の芽が泥の中から出てきたようなものが生成された。これが、人の形をした神となったとされる。本書とほぼ同じ内容であるが、一柱の神しか登場しない。

1. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと)

第6の一書も、本書とほぼ同様に、葦の芽のような物体から神が生まれた。ただし、国常立尊は漂う脂のような別の物体から生まれた。

1. 天常立尊(あまのとこたちのみこと)
2. 可美葦牙彦舅尊 (うましあしかびひこぢのみこと)
3. 国常立尊 (くにのとこたちのみこと)

[編集 ] 男女一対神たちの登場

渾沌から天地がわかれ、性別のない神々が生まれたあと、男女の別のある神々が生まれることとなる。これらの神々の血縁関係は、本書では記されていないが、一書の中には異伝として、記されている。

本書によれば、四組八柱の神々が生まれた。四組の神々は、それぞれ男女の対の神々であり、下のリストでは、左側が男性神、右側が女性神となっている。なお、黒丸で箇条書きされているのは、上の神の別名である。

1. 埿土煮尊(うひぢにのみこと)、沙土煮尊(すひぢにのみこと)

二神の別名
* 埿土根尊(うひぢねのみこと)、沙土根尊(すひぢねのみこと)

2. 大戸之道尊(おほとのぢのみこと)、大苫辺尊(おほとまべのみこと)

二神の別名
* 大戸摩彦尊(おほとまひこのみこと)、大戸摩姫尊(おほとまひめのみこと)
* 大富道尊(おほとまぢのみこと)、大富辺尊(おほとまべのみこと)
大戸之道尊の別名
* 大戸之辺尊(おほとのべのみこと)

3. 面足尊 (おもだるのみこと) 、惶根尊 (かしこねのみこと)

惶根尊の別名
* 吾屋惶根尊(あやかしこねのみこと)
* 忌橿城尊(いむかしきのみこと)
* 青橿城根尊(あをかしきのみこと)
* 吾屋橿城尊(あやかしきのみこと)

4. 伊弉諾尊 (いざなきのみこと)、伊弉冉尊 (いざなみのみこと)

第1の一書では、伊弉諾尊、伊弉冉尊は、青橿城根尊の子とされている。

第2の一書では、神々の系図がよりはっきりとしている。

1. 国常立尊
2. 天鏡尊(あまのかがみのみこと)

国常立尊の子。

3. 天万尊(あめよろずのみこと)

天鏡尊の子。

4. 沫蕩尊(あわなぎのみこと)

天万尊の子。

5. 伊弉諾尊

沫蕩尊の子。

さて、本書によれば、国常立尊・国狭槌尊・豊斟渟尊に、以上の四組八柱の神々を加えたものを総称して神世七代 という。

第1の一書によれば、四組八柱の神々の名が異なっている。

1. 埿土煮尊(うひぢにのみこと)、沙土煮尊(すひぢにのみこと)
2. 角樴尊(つのくひのみこと)、活樴尊(いくくひのみこと)
3. 面足尊(おもだるのみこと)、惶根尊(かしこねのみこと)
4. 伊弉諾尊(いざなきのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E5%9C%B0%E9%96%8B%E9%97%A2_%28%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%A5%9E%E8%A9%B1%29


インド神話
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インド神話(インドしんわ)とはインド に伝わる神話 である。特にバラモン教 、ヒンドゥー教 に伝わるものを指す。成立時期や伝承者の層などによって様々な神話があるが、以下、ヴェーダ 神話とブラーフマナ ・ウパニシャッド 神話、叙事詩 ・プラーナ 神話の3つに大別して概説する。概ねヴェーダ神話がバラモン教 に、叙事詩・プラーナ神話がヒンドゥー教に属し、ブラーフマナ・ウパニシャット神話がその両者を繋ぐものと考えてよい。
ヴェーダ神話

呼んで字の如くヴェーダ文献に基づく神話であり、アーリア人 がインドに持ち込んだインド・ヨーロッパ語族 共通時代に遡る古い自然神崇拝を中心とする。紀元前1500年 頃から紀元前900年 ごろに作られた最古のヴェーダ文献であるリグ・ヴェーダ (神々の讃歌)には、未だ一貫した世界観を持つ神話は現れていない。

ヴェーダ神話の初期においては、神々はデーヴァ 神族とアスラ 神族とに分類されている。デーヴァは現世利益を司る神々とされ、人々から祭祀を受け、それと引き換えに恩恵をもたらす存在とされた。代表的なデーヴァは雷神インドラ であり、実にリグ・ヴェーダ全賛歌の4分の1が彼を讃えるものである。

一方アスラは倫理と宇宙の法を司る神々で、恐るべき神通力と幻術を用いて人々に賞罰を下す者として畏怖された。代表的な神はヴァルナ である。アスラはリグ・ヴェーダ初期においては必ずしも悪い意味で用いられなかったが、デーヴァ信仰が盛んになるにつれて信仰が衰えていった。さらに、ヴァルナをはじめ有力なアスラ神がデーヴァとされるようになり、遂にリグ・ヴェーダの中でも末期に成立した部分では神々に敵対する悪魔を指すようになった。

一方イラン神話 においては、アスラに対応するアフラがゾロアスター教 の最高神アフラ・マズダー となり、デーヴァにあたるダエーワ が悪魔の地位に落とされている。

リグ・ヴェーダにはまた、若干の創造神話 が見られる。創造神ブリハスパティ やヴィシュヴァカルマン による万物創造を説く讃歌の他、創造神がヒラニヤ・ガルバ(黄金 の胎児 )として原初の水の中にはらまれて出現したとする説、神々が原人プルシャを犠牲として祭祀を行い世界を形成したという巨人解体神話などが説かれている。

[編集 ] ブラーフマナ・ウパニシャッド神話

ブラーフマナ(祭儀書)文献とは、ヴェーダ本文であるサンヒター(本集)の注釈と祭儀の神学的意味を説明するもので、広義のヴェーダ文献の1つ。ここでは創造神プラジャーパティを最高神とし、彼による種々の創造神話が説かれている。しかし、しだいに世界の最高原理ブラフマン の重要性が認められるようになった。やがてブラフマンは人格神ブラフマー として描かれ、彼による宇宙創造が説かれるようになった。

ブラーフマナ文献中にはまた、祭式の解釈と関連して、人祖マヌ と大洪水 神話、悪魔 の都を破壊する暴風神ルドラ (シヴァ の前身)の説話など、かなりまとまった形の神話が散見され、後のヒンドゥー神話・文学に多大な影響を与えている。

ウパニシャッド(奥義書)も広義のヴェーダ文献の1つで、ヴェーダ文献の最後に成立した事からヴェーダーンタ(ヴェーダの末尾)ともいう。神秘的哲学を説くもので、特にアートマン とブラフマンの本質的同一性(梵我一如 )を説く部分は、後のインド神話の世界観に大きな影響を与えた。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%83%89%E7%A5%9E%E8%A9%B1


2008年01月21日 (02:27)

『タンホイザー』とナチズム:異教とファシズム/全体主義:同一性主義=自我の発生について

以下のエッセイで、ワグナーの『タンホイザー』の異教性とナチズムとの共通性を述べているが、私は疑問に思った。そう、ユングがナチズムを北欧神話の神オーディンの復活だと考えていたのを想起する。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~BLUEMAGI/NorseMythj.htm
http://blog.so-net.ne.jp/plant/2007-04-03

 私はそのような考えが短絡的ではないかと思うのである。神話学的心理学を歴史上問題のある事象にあてはめるのは危険であると思うのである。例えば、太平洋戦争における日本軍は、神道的神話の顕現であると言えるのだろうか。天照大神を反映する全体主義であったのか。とてもそうとは言えないだろう。
 「聖処女」の犠牲によって肉欲の地獄から救われるという神話がどうして、ナチズムと関係するのか。「聖処女」の犠牲がユダヤ人虐殺と関係すると言うのか?
 私の直感では、ナチズムのユダヤ人虐殺は、二項対立から来ている。つまり、自我のもつ同一性主義から来ているのである。だから、国学的ナショナリズムに近いと思うのである。つまり、自我同一性ナショナリズム=全体主義である。これに政治経済状況が強く絡んでいるのである。今は簡単に言うが、神話が関係するというなら、異教神話ではなく、父権神話が関係するのである。これは、ヤハウェのユダヤ・キリスト教神話と見てもいいのである。つまり、ナチズムは、パラドクシカルであるが、ユダヤ・キリスト教的である。
 後で整理したい。

p.s. 参考に、『タンホイザー』の粗筋があるが、興味深い。これは、単純な、精神性と肉欲性との二項対立である。これは二元論であり、いかにも西洋文化である。エリザベート(聖母マリア・キリスト教)とヴェヌス(ヴィーナス・異教)の対立という形式である。
 しかし、これは偽りの対立である。異教とは、つまり、女神的宗教とは、本来、性愛と聖性が一致していたのである(神殿娼婦、聖娼がいた)http://critic.exblog.jp/461734
http://web.kyoto-inet.or.jp/people/tiakio/antiGM/hetaira.html
。天上のヴィーナスと地上のヴィーナスがあり、地上のヴィーナスは、天上のヴィーナスの反映である(ネオプラトニズム的解釈であるが)。
 とまれ、『タンホイザー』はこのような異教本来の枠組みを失った西洋文化、それも近代文化の作品と言えよう。言い換えると、本来の異教精神では、エリザベートとヴェヌスとは一体なのである。だから、中世を背景とするなら、そのようになるのが本来的だと思うのである。
 だから、この分裂・二元論は何を物語るのか。やはり、同一性中心主義による近代合理主義/近代的自我のもつ分裂性・二元論性である。同一性主義による自我は善悪二元論を形成するだろう。しかし、この自我による「道徳」の起因は何か。(ウィリアム・ブレイクなら、この「道徳」を激烈苛烈に批判したものである。)
 先の「同一性、差異、差異共振性について」の考察から見ると、差異=他者の否定に基づく自我同一性道徳である。これは、二項対立であるから、自我同一性が優位であり、差異=他者が劣位である。つまり、自我同一性は正しく、差異=他者は正しくないという価値判断がそこに発生するのであり、これが父権的道徳の起源であろう。(ここで、ニーチェの傑作である『道徳の系譜』を想起するといいだろう。精神の貴族は、自己において価値基盤をもつのであり、自我同一性においてではないのである。自己とは、自己差異、つまり、差異共振性である。それに対して、「道徳」は、差異=他者を否定した自我同一性に存する。)
 さらに質せば、なぜ、自我同一性は、自己優越を感じるのか。この問題は以前、何度も考えたが、そのときは、自我同一性は、起源として、超越性であるので、他者に対して優位をもつというものであった。さて、それでいいだろうか。
 ここで、先に考察した「同一性、差異、差異共振性について」の論考に従えば、差異共振性から同一性が生起する。この同一性が原自我である。ここには、実は、差異共振性が「実存」している。だから、原自我は揺らいでいるのである。同一性でありながらも、差異共振性の揺らぎがあるのである。(思うに、太母文化とは、この差異共振性が太母として中心化されていたのだろう。同一性=原自我は、太母の内に存するのである。イシス/オシリス神話である。)
 私は今、創世記の冒頭を想起しているのである。神霊が原自我に当たるのではないだろうか。そして、水が差異共振性である。そして、それにはたらきかけて、神霊は、天地創造するのである。だから、同一性=原自我の能動的作用があり、それが必然的に自己優越性を意味するのではないだろうか。つまり、意識の問題である。本来、原自己と原他者の共振によって、原自我が生まれたのであるが、それが忘却されているのである。自己認識方程式の左辺が忘却されているのである。
 ここで少し想像すると、差異共振性の「海」ないしは「水」(p.s. これは、より正確に言えば、「光の海」ないし「光の水」であろう。火と水の融合である。御水取りはこの象徴であろう。)から、同一性=原自我は生まれたのであるが、出自を忘却しているのである。それで、母体が「海」や「水」になっているのである。思うに、「海」や「水」は、一種投影ではないだろうか。つまり、同一性=原自我の基盤(インフラ)には、差異共振性=「海」・「水」があるのであるが、それを同一性=原自我は外界の投影するのではないのか。ユング心理学で言えば、シャドウ(影)である。
 ここは微妙なところなので丁寧に考えよう。同一性=原自我(+1)は、確かに、母体の差異共振性を内在、潜在、実存させている。しかしながら、同一性の知は、当然、その差異共振性を真に理解できない。いわば、差異共振性は、影や暈のようになるのである。そして、同一性=原自我は、いわば、宙ぶらりんの状態に置かれるのである。
 しかるに、同一性=原自我は、そのような中途半端な様態から離脱すべく、独立する志向をもつと考えられるのである。つまり、同一性=原自我の独立・自立である。そして、その同一性=原自我の独立・自立志向が、差異=他者の否定となるのである。
 その前に、同一性=原自我は、他者に自己投影する。そこに、同一性の投影像を観る。この同一性=原自我の投影像が同一性主義の基盤になると言えよう。ここにおいて、差異=他者は否定されてゆくのである。同一性が中心化されて同一性主義ないしは同一性中心主義となり、差異=他者をそれに応じて、裁断するのである。正に、二項対立の力学があるのである。
 問題の核心は、投影像にあると言えよう。投影されているのは、本来、差異共振性である「海」や「水」であろう。そこに、同一性=原自我は、同一性の投影を見るのである。ここには、奇妙な二重性が生じているのである。投影像は、差異共振性であると同時に、同一性像である。つまり、ここには、抑圧が生じていると考えられるのである。差異共振性を同一性に縮約する抑圧である。そう、この同一性への縮約・圧縮の力学が、同一性主義=自我に優位性を付与しているものではないか。つまり、本来、差異共振性が源泉・根源であり、ここがエネルギー源である。それ故に、ここを取り込むことにより、同一性=原自我は同一性主義=自我になるのではないだろうか。
 先に、差異=他者の否定と言ったが、実際、ここでは、微妙である。差異共振的差異・他者の否定と言う方が正確であろう。とまれ、投影像を介して、同一性=原自我は同一性主義=自我を形成するのであり、そのときの差異共振的差異・他者を同一性へと縮約・圧縮したときの力ないしはエネルギーによって、同一性主義=自我は、差異=他者に対して、優位の意識をもてるのである。だから、同一性主義=自我の力とは、真に独立・自立した力ではなくて、差異=他者に依存しているのである。これは、確認すべきことである。平たく言えば、自我とは、見栄坊・虚栄家である。
 また、これまでの述べたように、エネルギーの活性化の問題があるのである。同一性主義=自我は、縮約・圧縮した差異共振性からエネルギーを取り込んでいるが、しかし、それは、いわば、エントロピーの増加であり、エネルギーは枯渇するのである。(これは、端的に、うつ病の症状であろう。)
 つまり、同一性主義=自我は、内なる差異共振性に対して、壁をつくっているので、差異共振エネルギーを注入することができないのである。同一性主義という壁が心の領域に生じているのである。言い換えると、同一性主義=自我と差異共振エネルギーが乖離・分裂しているのである。だから、統合失調症の症状でもあるのである。
 新たに差異共振エネルギーを取り込む回路を創る必要があるのである。ここで、陰陽論に用いれば、同一性主義とは、陽主義であり、差異主義とは、陰主義であり、太極が差異共振性であろう。(p.s.  この点に関しては、慎重に、精緻に考えるべきである。太極はMedia Pointであり、差異共振性である。そして、同一性志向性が陽であり、差異志向性が陰ではないだろうか。そして、同一性主義とは、陽が極限化した場合で、陰=差異志向性が無のようになる事態ではないか。とまれ、既述したが、陽を+i、陰を-i、太極を(+i)*(-i)とすればいいと思われるのである。ここで少し議論すると、問題として、どうして、同一性の場合、陰陽が反発するのかということがある。通常は陰陽の極性は引きつけるはずである。どうしたことなのか。これは、やはり、陰陽力学で考えるといいのかもしれない。つまり、陰や陽への傾斜する事態を考えればいいのではないだろうか。陽極へと傾斜するときに、同一性へ傾斜する。そして、陰極のときは、差異へと傾斜する。つまり、太極の流動ダイナミクスである。この考え方は、既に何度も試みてはいる。とまれ、それを作業仮説とすると、陽極へ傾斜して同一性主義となり、陰極へ傾斜して差異主義となるとしよう。前者が近代主義とするなら、後者はポスト・モダンである。問題は、差異共振性を新たに発見することである。特異点・不連続点であるMedia Pointを発見すべきなのである。これによって、太極の連続的振り子運動は乗り越えられるのである。太極の本体へと回帰すべきなのである。同一性と差異との共振、つまり、差異共振性を新たに発見すべきなのである。
p.p.s. ここで、同一性と差異との共振として差異共振を言ったが、差異共振ならば、差異と差異との共振ではないのか、という素朴な疑問が生じるだろう。この場合、同一性は+iであり、差異は-iである。そして、単純に言って、+iを差異と言うことができるのである。これで説明は済むわけだが、もう少し、測深して言うと、同一性+iは、自己内部を思考すると、差異-iに達する。しかし、差異へ傾斜すると、差異主義となり、それは、同一性主義の反転に過ぎなくなる。問題は、+iと-iとの共振するMedia Pointを感知することである。思うに、差異へと測深し出した同一性は、同一性主義から脱して、特異なエネルギーに到達すると思える。これがMedia Pointの様態である。そして、同一性を支点にしつつ、Media Pointの差異共振様態に到達していると考えられる。だから、そこでは、同一性以外の+iと-iとの差異共振が生起しているように思えるのである。同一性以外の+iとは何だろうか。それは、陽としての差異ではないだろうか。そして、-iは陰としての差異である。陽差異と陰差異との陰陽差異共振が発生していることになるのである。)
 最後に、差異共振エネルギーの縮約・圧縮の力学について考察したい。これはおそらく、反動エネルギーである。差異共振エネルギーに同一性の力が圧力をかけるのである。そのとき、反動エネルギーが発生するのである。それが、縮約・圧縮ではないだろうか。
 だから、差異共振エネルギーが十分あるときは、反動エネルギーも強度をもつが、差異共振エネルギーが枯渇すると、反動エネルギーも少なくなり、自我は力を失い、うつ病等の心の病になると考えられるのである。ここで留めたい。

参照:
共同体って何?

bunkatekikeikan09.gif

文化庁「農林水産業に関連する文化的景観の保護に関する調査研究(報告)」リンク より拝借致しました。

このブログのタイトルにもありますが「共同体社会」って一体どんな社会なのか?改めて考えてみるとぼんやりと「みんなで協働している社会」って感じぐらいのイメージしか沸いてきません。日常においても度々共同体という言葉は耳にすることがありますが、どんな社会のことを言うのか?って現代の人々にとっては意外とイメージできないのかなぁって感じています。ちょっと前の日本の社会にも「村落共同体があった」とよく言われます。そこで、改めて
   
    m030 「共同体」とはどんな社会なのか?どんな状態の社会? Shocked
    m030 なんで共同体なのか?(本質は?) Shocked
    m030 共同って何するの m002 Shocked

といろいろと疑問が沸いてきます。何となく「共同体」っていい社会だったように思いますが、その本質を理解することが一番大切かなと思います。そのことを端的に書かれているものが「るいネット」にありますので紹介します。

http://blog.jinruisi.net/blog/2007/10/000274.html


知られざる人類婚姻史と共同体社会


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プラガル終止

2008年01月16日(水)


 今日はお医者さんの日で、書けないことばかりなので、先日のオペラの話。

 チェコのブルノ歌劇場の公演で、主役ハインリヒ・フォン・タンホイザーを演じたエルネスト・グリサレスは、本来はイタリアオペラの歌手だそうで、ドイツ風のヘルデン・テノール(英雄のテノール)を歌うにはちょっと声量不足だったが、あとは、聖処女エリザベート役のダナ・ブレショヴァーも、タンホイザーの親友のヴォルフラム・フォン・エッシェンバッハ役のリヒァルト・ハーンも、きわめて声量も表現力も豊かで、それはもうすばらしかった。3幕の、ヴォルフラムの「夕星の歌」の前後は、泣いちゃったなあ。合唱が、スラブの合唱団にしてはやや細身で、もう一息迫力がほしかった。もっとも、劇場(兵庫県芸術文化センター大ホール)が大きすぎたのかもしれない。オペラは、あんな大きな劇場を想定しては作られていない。

 最後、エリザベートの死の贖罪で救われたタンホイザーが死ぬとき、合唱があって、最後の最後に「巡礼の合唱」のモティーフが出てから、オーケストラだけのコーダに入る。その最後が、なんとプラガル終止をしている。プラガル終止というのは、ファ・ラ・ドの和音からド・ミ・ソの和音に入る進行で曲を終わることで、通称アーメン終止というように、讃美歌の最後につけられる「アーメン」の部分の和声進行だ。

 そうなんだ、このオペラは、ワーグナーが書いた巨大なミサ曲なんだ。ただし、それは、キリスト教を装っているが、きわめて異教的だ。聖処女の犠牲によって肉欲の罪に穢れた騎士が救われるなんて、正真正銘の原始宗教だ。「人身御供」だの「人柱」だのというたぐいの話だ。そういうきわめて原始宗教的な信仰を、19世紀にもなってからワーグナーが宣揚しようとしたのはどうしてだろう。たぶんドイツ民族のアイデンティティ確立のためだと思う。

 ということは、ワーグナーのオペラの台本の構造分析をすると、ドイツ人の深層構造がわかるということだ。いや、それは実はわかっていて、その具体的な現象化がナチズムだったのだ。だから、今では誰もその深層構造には触れないようにしているのかもしれない。現代のドイツ人たち(といっても、知っているのはアドレリアンたちだが)の奇妙な内的混乱は、たぶんそのことと関係があるのだろうと思う。彼らは、表層的にはナチズムを拒否しながら、しかも「聖処女の犠牲で肉欲地獄から救済される騎士」という深層の物語を相変わらず信じ続けているので、困っているのだろう。ナチズムに代わる新しい現象化ができないでいるのだと思う。

 ともあれ、オペラ『タンホイザー』は、こんにちも神聖なプラガル終止で荘厳な「アーメン」を唱えながら異教的な典礼を終わるのだ。ドイツ人は、それを聴くたびに、深層構造を思い出して、表面的には混乱に陥りつつも、内的には恍惚にひたるのだろう。ちょっと恐いね。


http://jalsha.cside8.com/diary/2008/01/16.html
野田俊作の補正項

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参考:

■台本

リヒャルト・ワーグナー

■時

13世紀はじめ

■所

チューリンゲンのヴァルトブルク

■おもな登場人物
ヘルマン
チューリンゲンの領主
エリザベート
ヘルマンの姪
タンホイザー
吟遊詩人、騎士。エリザベートと愛し合っていた。
ヴォルフラム
同じく吟遊詩人、騎士。タンホイザーの友人。エリザベートに淡い恋心を抱いている。
ヴェーヌス
ヴェーヌスベルクに住む快楽の女神

■あらすじ(参考:渡辺護著「ワーグナーの作品」)

■背景

ドイツ中世では、騎士たちもミンネゼンガー(恋愛歌人)として歌う習慣がありましたが、その一人、タンホイザーは、エリザベートとの清い愛があったにもかかわらず、官能の愛を求め、ヴェーヌスベルクにおもむいて、妖艶なヴェーヌスのとりこになっていました。

■第1幕

第1場
 ヴェーヌスベルクの洞窟の中で、タンホイザーとヴェーヌスが歓楽的な愛にふけっています。

第2場
 ヴェーヌスの美しさをたたえながらも、故郷への思いが押さえきれなくなったタンホイザーは、ヴェーヌスと分かれる決心をします。ヴェーヌスは何とかひき止めようとしますが、タンホイザーの意志は堅いものがありました。タンホイザーが去ると同時にヴェーヌスベルクは崩れ落ち、消え去ります。

第3場
 タンホイザーは、いつの間にかヴァルトブルクの城が見える谷に立っています。巡礼の行列が近づき、また遠のいてゆくのを見つめていたタンホイザーは、感動し、地に頭をたれて泣きます。

第4場
 ヘルマンと騎士たちが通りかかり、昔の仲間のタンホイザーをみとめて喜びます。タンホイザーは、官能の情欲におぼれた自分の罪の重さを思い、旧友たちの厚情を容易には受け入れることができませんが、エリザベートが待っていると聞かされると、勇気付けられ、仲間に加わります。

■第2幕

第1場
 ヴァルトブルク城内にある歌の殿堂の広間。エリザベートが登場し、タンホイザーがふたたび歌合戦に参加する喜びを歌います。

第2場
 ヴォルフラムに導かれたタンホイザーが、エリザベートと再会します。喜び合う二人ですが、ヴォルフラムは苦しいあきらめに至らなければなりません。

第3場
 タンホイザーとヴォルフラムが去ったあと、ヘルマンが現われ、エリザベートに優しく歌合戦が近づきつつあることを知らせ、幸運を祈ります。

第4場
 歌合戦を見に、騎士や貴婦人が入場、最後に歌手たちも入場してきます。歌合戦の始まりです。ヴォルフラムをはじめとする騎士たちは、清らかな愛をたたえる歌を歌いますが、タンホイザーはそれらにことごとく反論を唱え、恍惚となってヴェーヌスをたたえます。騎士たちは憤激してタンホイザーに切りかかりますが、エリザベートがそれを押しとどめ命乞いをします。タンホイザーも正気に返って呆然となります。ヘルマンは、このような大罪の許しを乞うには、ローマへ行って教皇の許しを得るほかはないと言い、教皇の許しが得られるまで帰ってくることはならぬと宣言します。タンホイザーは「ローマへ!」と叫んで、遠くを通る巡礼たちの群に加わるため、去って行きます。

■第3幕

第1場
 ヴァルトブルク山麓、エリザベートがマリア像の前でタンホイザーのために祈っています。ヴォルフラムが現われ、彼女に同情して歌います。そこに、罪をあがなった巡礼が通りかかります。エリザベートはその中にタンホイザーの姿を探しますが、無駄でした。彼女はマリア像に祈りを捧げ、タンホイザーの罪が許されるなら自分の命を捨てても良いと言います。

第2場
 一人残ったヴォルフラムは、空にやさしく輝く星がエリザベートの道を照らしてくれるようにと歌います(夕星の歌)。

第3場
 消沈した姿のタンホイザーが現われます。苦しいローマ行きの模様をヴォルフラムに語りますが、教皇から許しを得られなかったタンホイザーは、今やヴェーヌスのみを求めようとしています。ヴェーヌスが現われ、タンホイザーを迎えようとしますが、ヴォルフラムが「エリザベート!」と叫ぶと、タンホイザーは狂気よりさめ、ヴェーヌスは地中へ消え去ります。その時、エリザベートは死骸となって運ばれてきたのです。タンホイザーも、彼女の遺体の前でこときれます。そこへ、若い巡礼たちの一行が、緑の葉の生えた杖を持ってきます。教皇の予言では、それはタンホイザーが救われたしるし。彼は、エリザベートの犠牲によって、救済されたのでした。



http://www.ne.jp/asahi/jurassic/page/rule_f/tanhauser.htm

2007年12月28日 (13:58)

Joseph Campbell:1

神話に関しては、私は、ジョーゼフ・キャンベルの圧倒的な影響の下にある。彼の神話学をユング心理学の適用と一般には考えられているが、彼の本を読めばわかるように、ユング心理学(元型心理学)の応用というよりは、比較神話学であり、普遍的神話学を構築していると見ることができる。
 彼の博覧強記の、しかも、整合性のある著書は、確実に視野が広くなるものである。とりわけ、女神中心主義は、私の神話観を変えてしまった。これは大変な驚きであり続けている。
 かなり翻訳も出たが、しかしながら、彼の主著の『神の仮面』(全四作)は、一巻しか翻訳されていない。それでも、山室静氏の翻訳があるのは、幸運である。
 そう、もう十年くらい前になるのか、彼の本を読んでいたときの至福感を思い出した。また、神話ブームになるかもしれない。何故なら、新太母文化が目前であるからである。というか、実質、もう入っていると言えよう。

追記:最近、私の勘は冴えている。ジョージ・ハリスンはケルト系ではないかと感じたが、それが先日確認できた。そして、神話学者のジョーゼフ・キャンベルもケルト系ではないかと思い、検索したら、キャンベルは、スコットランド(ケルト文化圏)の部族の名前であった。端的に、見事に、ケルト系である。

参照1:
Clan Campbell and Clan MacDonald - The Great Feud

Memories run long in the highlands of Scotland and, we've heard tell, the bitterness between Clans Campbell and MacDonald continues to this day.

The clash between these two ancient Celtic houses, which has lasted for hundreds of years, is not just about lands, religion, Jacobitism, or even betrayal. Rather, it is about power.

・・・・・

Clan Campbell is as ancient a Celtic family as the MacDonalds, though their historical records are inaccessible before their rise to prominence. The Campbells trace their ancestry through Sir Colin Mor Campbell of Lochow, killed in 1294. In English, their name is Clan Dairmid. The surname Campbell is attributed to the gaelic nickname for one of their chiefs, cam-beul, meaning a wry or twisted mouth (perhaps called that by the MacDonalds!).

・・・・・

Some famous Campbells:

Sir Colin Campbell (1792-1863) - Commanded the Highland Brigade at Balaclava and was Commander-in-Chief during the Indian Mutiny (he took the Campbell name from his mother; he was born a MacLiver)
Joseph Campbell - Cofounder of Campbell Soup Company
Sir Henry Campbell-Bannerman (1836-1908) - British Prime Minister
Joseph Campbell (1904-1987) - world famous mythologist and author

http://www.heartoscotland.com/Categories/CampbellsandMacDonalds.htm

参照2:
ここに一つの言葉を引用しておきたい。
 これは、神話学者のジョセフ・キャンベルがグレイトフル・デッドのドラマーであるミッキー・ハートに語った言葉である。ジョセフ・キャンベルは、人類が自らの神話を再創造する時が近付いていると確信していた。 「もうすぐ新しい神話が現れる。それも地球規模のものだ、ミッキー。どのようなかたちで現れるのかはわからないが、これまでの神話の構造と関係があるということははっきりしている。神話の象徴的パターンというのは、結局は脳自身のエネルギーパターンの反映だからね」
                         (『ドラム・マジック リズム宇宙への旅』ミッキー・ハート著)
http://www.ame-ambient.com/Nagaya/innerworld/shinwa/part01.html
対談『新しい神話の創造に向けて』by 龍村仁氏、名嘉睦稔氏 and 長屋和哉 〜 はじめに
Joseph Campbell
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For other uses, see Joseph Campbell (disambiguation) .
Joseph Campbell

Joseph Campbell circa 1984
Born March 26 , 1904 (1904-03-26)
White Plains, New York
Died October 30 , 1987 (aged 83)
Flag of Hawaii Honolulu , Hawaii
Occupation Scholar
Nationality American
Influences Friedrich Nietzsche , Oswald Spengler , Sigmund Freud , Carl Jung , Heinrich Zimmer , James Joyce , Thomas Mann , Arthur Schopenhauer , Leo Frobenius

Joseph John Campbell (March 26 , 1904 – October 30 , 1987 ) was an American mythology professor , writer , and orator best known for his work in the fields of comparative mythology and comparative religion .
Life

[edit ] Childhood and education

Joseph Campbell was born and raised in White Plains , New York [1] in an upper middle class Roman Catholic family. As a child, Campbell became fascinated with Native American culture after his father took him to see the American Museum of Natural History in New York where he saw on display featured collections of Native American artifacts. He soon became versed in numerous aspects of Native American society, primarily in Native American mythology . This led to Campbell's lifelong passion for myth and to his study of and mapping of the cohesive threads in mythology that appeared to exist among even disparate human cultures. He graduated from the Canterbury School (Connecticut) in 1921. While at Dartmouth College he studied biology and mathematics, but decided that he preferred the humanities. He transferred to Columbia University where he received his B.A. in English literature in 1925 and M.A. in Medieval literature in 1927. Campbell was also an accomplished athlete, receiving awards in track and field events.

[edit ] Europe

In 1927, Campbell received a fellowship provided by Columbia to study in Europe. Campbell studied Old French and Sanskrit at the University of Paris in France and the University of Munich in Germany . He quickly learned to read and speak both French and German , mastering them after only a few months of rigorous study. He remained fluent in both languages for the remainder of his life.

He was highly influenced while in Europe by the period of the Lost Generation , a time of enormous intellectual and artistic innovation. Campbell commented on this influence, particularly that of James Joyce , in The Hero's Journey: Joseph Campbell on His Life and Work (1990, first edition:28):

CAMPBELL: And then the fact that James Joyce grabbed me. You know that wonderful living in a realm of significant fantasy, which is Irish, is there in the Arthurian romances; it's in Joyce; and it's in my life.
COUSINEAU: Did you find that you identified with Stephen Daedalus ...in Joyce's A Portrait of the Artist as a Young Man ?
CAMPBELL: His problem was my problem, exactly...Joyce helped release me into an understanding of the universal sense of these symbols...Joyce disengaged himself and left the labyrinth, you might say, of Irish politics and the church to go to London , where he became one of the very important members of this marvelous movement that Paris represented in the period when I was there, in the '20s.

It was in this climate that Campbell was also introduced to the work of Thomas Mann , who was to prove equally influential upon his life and ideas. Also while in Europe, Campbell was introduced to modern art, becoming particularly enthusiastic about the work of Paul Klee and Pablo Picasso . A new world of exciting ideas opened up to Campbell while studying in Europe. Here he also discovered the works and writings of Sigmund Freud and Carl Jung . It was also during this time, as well, that he met and became friends with the young Jiddu Krishnamurti , a friendship which began his lifelong interest in Hindu philosophy and mythology. In addition, after the death of Indologist Heinrich Zimmer , Campbell was given the task to edit and posthumously publish Zimmer's papers.

[edit ] Return to the United States and the Great Depression

On his return from Europe in 1929, Campbell announced to his faculty at Columbia that his time in Europe had broadened his interests and that he wanted to study Sanskrit and Modern art in addition to Medieval literature . When his advisors did not support this, Campbell decided not to go forward with his plans to earn a doctorate and never returned to a conventional graduate program (The Hero's Journey: Joseph Campbell on His Life and Work , 1990, first edition: 54).

A few weeks later, the Great Depression began. Campbell would spend the next five years (1929-1934) trying to figure out what to do with his life (Larsen and Larsen, 2002:160) and he engaged in a period of intensive and rigorous independent study. Campbell discussed this period in The Hero's Journey: Joseph Campbell on His Life and Work (1990, first edition:52-3). Campbell states that he "would divide the day into four four-hour periods, of which I would be reading in three of the four hour periods, and free one of them...I would get nine hours of sheer reading done a day. And this went on for five years straight."

He also traveled to California for a year (1931-32), continuing his independent studies and becoming close friends with the budding writer John Steinbeck and his wife Carol (Larsen and Larsen, 2002, chapters 8 and 9). Campbell also maintained his independent reading while teaching for a year in 1933 at the Canterbury School during which time he also attempted to publish works of fiction (Larsen and Larsen, 2002:214) [2] .

Campbell's independent studies led to his greater exploration of the ideas of the Swiss psychiatrist Carl Jung , a contemporary and estranged colleague of Sigmund Freud . Campbell edited the first Eranos conference papers and helped to found Princeton University Press ' Bollingen Press. Another dissident member of Freud's circle to influence Campbell was Wilhelm Stekel (1868 - 1939). Stekel pioneered the application of Freud's conceptions of dreams, fantasies of the human mind , and the unconscious to such fields as anthropology and literature .

[edit ] Sarah Lawrence College

In 1934, Campbell was offered a position as professor at Sarah Lawrence College (through the efforts of his former Columbia advisor W.W. Laurence). Campbell married one of his former students, dancer and dance instructor Jean Erdman , in 1938. He retired from Sarah Lawrence College in 1972, after having taught there for 38 years.

[edit ] Death

Joseph Campbell died at the age of 83 on October 30, 1987, at his home in Honolulu , Hawaii, from complications due to esophageal cancer [1] shortly after completing filming of The Power of Myth with Bill Moyers .

[edit ] Select works

[edit ] James Joyce and early works

As noted above, James Joyce was an important influence on Campbell. Campbell's first important book (with Henry Morton Robinson ), A Skeleton Key to Finnegans Wake [3] (1944), is a critical analysis of Joyce's final text Finnegans Wake . In addition, Campbell's seminal work, The Hero with a Thousand Faces , discusses what Campbell termed the monomyth -- the cycle of the journey of the hero , an idea which he directly attributes to Joyce's Finnegans Wake (Campbell, 1949:30).

[edit ] The Masks of God

His massive four-volume work The Masks of God covers mythology from around the world, from ancient to modern. Where The Hero with a Thousand Faces focused on the commonality of mythology (the “elementary ideas”), the Masks of God books focus upon historical and cultural variations the monomyth takes on (the “folk ideas”). In other words, where The Hero with a Thousand Faces draws perhaps more from psychology, the Masks of God books draw more from anthropology and history. The four volumes of Masks of God are as follows: Primitive Mythology, Oriental Mythology, Occidental Mythology, and Creative Mythology.

[edit ] The Historical Atlas of World Mythology

At the time of his death, Campbell was in the midst of working upon a large-format, lavishly illustrated series entitled The Historical Atlas of World Mythology. This series was to build on Campbell’s idea, first presented in The Hero with a Thousand Faces, that myth evolves over time through four stages:

• The Way of the Animal Powers -- the myths of Paleolithic hunter-gatherers which focus on shamanism and animal totems.

• The Way of the Seeded Earth -- the myths of Neolithic, agrarian cultures which focus upon a mother goddess and associated fertility rites.

• The Way of the Celestial Lights -- the myths of Bronze Age city-states with pantheons of gods up ruling from the heavens, led by a masculine god-king.

• The Way of Man -- religion and philosophy as it developed after the Axial Age (c. 6th century BCE), in which the mythic imagery of previous eras was made consciously metaphorical, reinterpreted as referring to psycho-spiritual, not literal-historical, matters. This transition is evidenced in the East by Buddhism , Vedanta , and philosophical Taoism ; and in the West by the Mystery Cults , Platonism and Gnosticism .

Only the first two volumes were completed at the time of Campbell's death. Both are now out-of-print.

[edit ] The Power of Myth

Campbell's widest popular recognition followed his collaboration with Bill Moyers on the PBS series The Power of Myth , which was first broadcast in 1988, the year following Campbell's death. The series exposed his ideas concerning mythological, religious, and psychological archetypes to a wide audience, and captured the imagination of millions of viewers. It remains a staple of PBS television membership drives to this day. A companion book, The Power of Myth, containing expanded transcripts of their conversations, was released shortly after the original broadcast, and became a best seller.

[edit ] Thou Art That: Transforming Religious Metaphor

A recent compilation of many of his ideas is titled Thou Art That: Transforming Religious Metaphor. In it Campbell writes:"...Mythology is often thought of as other people's religions, and religion can be defined as mis-interpreted mythology." In other words, Campbell did not read religious symbols literally as historical facts, but instead he saw them as symbols or as metaphors for greater philosophical ideas.

Campbell had previously discussed this idea with Bill Moyers in The Power of Myth:

CAMPBELL: That would be a mistake in the reading of the symbol. That is reading the words in terms of prose instead of in terms of poetry, reading the metaphor in terms of the denotation instead of the connotation.

MOYERS: And poetry gets to the unseen reality.

CAMPBELL: That which is beyond even the concept of reality, that which transcends all thought. The myth puts you there all the time, gives you a line to connect with that mystery which you are (Campbell, 1988:57).

2007年12月25日 (01:52)

天使

天使angelの原義は、神の使いということであるが、これは、プラトニック・シナジー理論では、Mediaである。(また、mediaの単数形mediumの原義は、霊媒である。)
 これをどう定式化するかである。一神教における多神教的要素と考えられている。聖書で言えば、たとえば、エローヒームが天使になれるのではないだろうか。
 PS理論から言うと、差異共振によって発生する諸エネルギーが天使となるだろう。ならば、差異共振エネルギーの諸相が諸天使となるだろう。諸相とは、振動の諸相である。波動の諸相である。
 とにかく、単純に考えると、物質化されない、ある特異な振動をもつエネルギーであろう。物質化されないというのは、連続化・同一性化されないということである。
 単純に考えると、高次元の存質(造語)である。では、問題は何故、同一性化されないのか、である。作業仮説的であるが、ここには、生命とは何かの鍵があるように思える。即ち、Media Pointでの、差異共振エネルギーと連続的同一性エネルギーの間には、当然ながら、差異があり、差異共振性は必ずしも、連続的同一性へと転換されるわけではないのではないだろうか。
 これは、ガウス平面=Media 平面から考えると、1/4回転しない場合ではないだろうか。たとえば、1/3回転であったり、1/2回転であったり、1/5回転であったりする場合がそうではないだろうか。
 それは、実軸にならないので、同一性化=物質化しないと考えられる。どうやら、今は、この説明でよしとしよう。

p.s. もし、天使の超越エネルギー(超越振動)が1/4回転をしないならば、どうして、宗教文学や美術等において、映像化されるのか。そのヴィジョンはどこから来るのかという疑問が出るかもしれない。私が今思ったのは、夢である。私は夢において、人間は、というか、心(霊)は、Media Pointに純粋に近づき、超越界(イデア界)に接することができると、以前考えた。Media Pointに達すれば、確かに、1/4回転しない超越エネルギー(超越振動)も、「視る」こと(vision をもつこと)ができるのではないだろうか。つまり、Media Pointは、単に、虚軸の次元だけでなく、ガウス平面の世界(複素数世界)の集約点であり、ガウス平面全体の超越界に接しているということではないだろうか。
 先に、Kaisetsu氏が数式化されたが、オイラーの公式は現象界を包摂した超越界(高次元)の公式なのだろう。

天使
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Disambiguation

この項目では主としてアブラハムの宗教 の神 の使い について説明しています。

* それよりから派生した一般的・通用的な天使の概念や像については天使 (通用) をご覧ください。
* 漢字 文化圏における、天子 (皇帝 )からの使いについては勅使 をご覧ください。

Disambiguation エンジェルはこの項目天使へ転送 されています。その他の用例についてはエンジェル (曖昧さ回避) をご覧ください。
歌を歌う天使達。ウィリアム・アドルフ・ブグロー (1881)
歌を歌う天使達。ウィリアム・アドルフ・ブグロー (1881)

天使(てんし)は、主として、アブラハムの宗教 (ユダヤ教 、キリスト教 、イスラム教 )の聖典 や伝承に登場する神 の使いである。英語 のエンジェル(angel)はギリシャ語 のアンゲロス(angelos)に由来しており、原義は神の使者を意味する。日本語の聖典中では「み使い」と呼ばれることもあり、日本ハリストス正教会 では神使 (しんし)とも訳す(日本正教会では「天使」という語も併用される)。
天使と神々

天使は、他宗教の神々に近い働きをするため、唯一神教 であるアブラハムの宗教 の中に埋め込まれた多神教 的要素と考える人もいる。

モーセ五書 における「神の使い」「ヤハウェの使い」は、ヤハウェ の顕現体であり、ときにヤハウェと同一視されるが、天使はこれと異なり、「仕える霊」として描写される。旧約聖書 における「仕える霊」「天の軍勢」としての天使への言及は比較的新しく、ユダヤ人のバビロン捕囚期 以降に成立した概念と考えられている。ミカエル 、ラファエル など固有の名前をもった天使は、捕囚期以後に成立した文書にはじめて現れる。3世紀のラビ・シメオン・ベン・ラキシュはこのことを指摘し、これらの天使がバビロニア 王国に捕囚されていた時代に由来するとの説をたてた。

ここから、天使の概念は、アブラハムの宗教 が広まり、他民族を取り込んでイスラエル民族が成立していく過程で、他宗教の神を、唯一神 によって創造された下位の存在として取り込んでいったとする考えがある。またゾロアスター教 の神の組織のあり方に、天使の組織のあり方が類似しており、天使の概念にはゾロアスター教の影響があると言われる。

[編集 ] 天使の姿
多数の羽根を持つケルビム。作者不詳 (1156)
多数の羽根を持つケルビム。作者不詳 (1156)

天使は、主に二つの類に分かれる。第一は、「み(御)使い」と呼ばれる天使である。第二は、セラフィム(熾天使 )・ケルビム(智天使 )・オファニム(座天使 )がそうであるが、多数の眼を持ち、多数の翼等を持った姿の天使である。

第一の天使は、『旧約聖書 』・『新約聖書 』においては、翼など持たず普通の人と変わらない、成人男性 か、若い男子青年の姿で現れる。または姿が見えない。姿が見える場合も、男性の姿であると考えられている。(なお、ガブリエル やミカエル は、熾天使や智天使の位階にあるが、これは、キリスト教で天使位階を論じて、彼らを最高位天使としたためである。彼らは、怪物のような姿では考えられていない)。

初期のキリスト教では、天使は男子青年の姿で、翼を持たなかった。天使が有翼の姿で考えられるようになるのは、オリエント・ペルシアの天使・精霊のイメージなどが混合されて来たためである。

中世ヨーロッパにおいては、絵画から窺える限りでは、天使は有翼で、当時の西欧人の衣装をまとい、「天の聖歌隊」を構成する天使たちは美少年の姿に、大天使ガブリエルは優美な男性の姿に、また、悪と戦う使命を持ったミカエルなどは、鎧をまとい剣を帯びた、雄々しい戦士の姿で描かれていた。

近世 以降、無垢な子供の姿や、女性的な姿、やさしい男性の姿を取って表現されるようになった。これはルネサンス 期にローマ神話 のクピド (女神ウェヌス の使い)からイメージを借りたとされる。

[編集 ] ユダヤ教における天使

天使は、ヘブライ語 ではマルアークといい、原義は「御(み)使い」である。

「仕える霊」としての「み使い」は捕囚期以降の観念であると考えられている。古い文書、とりわけモーセ五書に登場する「ヤハウェの使い」はむしろヤハウェの特別な権限ないし密接な関係にある高次の霊と考えられた。セラフィムやケルブ・ケルビム、あるいはオファニムなども、「み使い」の意味での天使とは考えられていなかった。彼らは、神ヤハウェと密接な関係を持つ高次の霊ではあるが、何か異質な者と考えられていた(この考えはまた、初期のキリスト教の神学者たちも感じていた)。

捕囚期以降、神が多数の霊に仕えられているとする観念が生まれた。この「天の宮廷」にバビロニア神話の影響をみるものもいる。またおのおのの国にはそれを司る天使(国の君)がいるという考え方が生まれた。

ユダヤの伝承では、天使サンダルフォン やメタトロン などが存在し、サンダルフォンなどは、背の高さが世界の大きさの半分に達するなど、「み使い」としての天使とは、かなりイメージや存在が異なる。

[編集 ] キリスト教における天使

キリスト教における天使は、旧約聖書にあるユダヤ教思想の影響を強くうけているが、その後独自の発展を遂げている。聖書では旧約聖書のほか、新約聖書の福音書、使徒行伝、ヨハネの黙示録、エペソ書などに言及される。パウロ書簡や「ユダの手紙」からは、一部のキリスト教会で天使崇拝が行われ、正統派から批判されていたことが推測される。

キリスト教における天使論は偽ディオニシウス・アレオパギタ (偽ディオニュシオス・ホ・アレオパギテース)の『天界の階梯』によるところが大きい。ディオニシウスは旧約時代からの伝承に新約聖書の記述の独特の読み込みを加え、9階梯からなる天使の位階について書いている。

また守護天使という概念が発生したが、守護天使がキリスト教徒にのみ付されるものか、人間全体に付されるものか、そもそも今日のその存在を教えるのかについては、教派により説が異なる。

[編集 ] イスラム教における天使

イスラム教では、天使の存在は信徒(ムスリム )が信仰すべき六信 のひとつである。アラビア語 で単数形マラクでヘブライ語からの借用語 とみられるが、通例、複数形のマラーイカで呼ばれる。マラーイカは唯一神であるアッラーフ が創造した存在であるが、神と人間の間で仲立ちを務める、霊的に神と人間の中間の存在であるとされる。

マラーイカは数多く存在するが、その頂点にあるのがジブリール 、ミカール 、イズラーイール 、イスラーフィール の四大天使である。ジブリールとミカールはクルアーンに登場する。クルアーンには名前と役割の明らかな天使はそれほど登場しないが、ハディース などの伝承において天使に関する様々な言及が存在する。それによれば、天使は神が光 から創造した存在で、主に天上にあって神を助ける役割を帯びている。

[編集 ] 聖書偽典における天使

[編集 ] アダムの家系と天使

聖書 の偽典 のヨベル書 によればアダム の子孫は代々天使と人間の間に生まれた娘と結婚しその一族エノク 、メトシェラ 、ノア (聖書) などが生まれたという。

[編集 ] 堕天使

詳細は堕天使 を参照

創世記 のノアの洪水の部分と旧約聖書の偽典 でエチオピア正教会 の正典エノク書 によれば天使の一部グリゴリ (200名)が人間の娘と交わりネフィリム (天から落ちてきた者たちの意味、通常は巨人と訳されている)を生みだすという事件を起こしたが、大洪水でノアの方舟 以外のネフィリムを含む人間は死に絶えている。キリスト教におけるヨハネの黙示録 による学説では天使の一部はのち神に反逆し堕天使となり、その長は元天使長暁の天使ルシファー で、争いに敗れて地獄の長となったとされる。

[編集 ] バルク書の天使

グノーシス主義 オフィス派派の『バルク書』によれば、第二の男性原理エロヒム(万物の父)と第三の女性原理エデンまたはイスラエル(体は女性、足は蛇身)の間に24の天使が生まれた。この天使をモーゼはパラダイスとよんだ。エロヒムとエデン各12の天使が仕えた。エロヒムの天使がエデンの人身の土からアダムとイヴの体を創った。エロヒムが天に昇ったので怒ったエデンはナハスとアフロディテ(バベル)により人間の霊を苦しめさせた。エロヒムの天使バルクはモーゼや他の預言者、ヘラクレス などに働きかけて人間の霊を天上へ昇らせ救おうとするもモーゼ・預言者はナハス、ヘラクレスはアフロディテの誘惑に敗れる。バルクはイエスに全てを話しついにイエスの霊は天上に昇り後続の人間も救われた。

[編集 ] 参考文献

* グスタフ・デヴィッドスン 『天使辞典』 創元社 (2004年)ISBN 4422202294
* マルコム・ゴドウィン 『天使の世界』 青土社 (2004年) ISBN 4791761030
* ローラ・ウォード/ウィル・スティーズ 『天使の姿―絵画・彫刻で知る天使の物語』 新紀元社 (2005年) ISBN 4775304186
* 稲垣良典 『天使論序説』 講談社学術文庫 (1996年) ISBN 4061592327
* トマス・アクィナス 『神学大全』 (天使論の項は日本語未訳)
* 『天地創造99の謎』吉田敦彦

[編集 ] 関連項目
ウィキメディア・コモンズ には、天使 に関連するマルチメディアがあります。

* 天使の一覧
o アブラハムの宗教を出典としない天使の一覧
* 悪魔の一覧
* 神の一覧
* 仏の一覧
* 世界の宗教
* 天使 (通用)
* 堕天使

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カテゴリ : 天使 | 聖書

Angel
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This article is about the supernatural being. For other uses, see Angel (disambiguation) .
The Archangel Michael by Guido Reni wears a late Roman military outfit in this 17th century depiction
The Archangel Michael by Guido Reni wears a late Roman military outfit in this 17th century depiction

An angel (from Greek : άγγελος, angelos, "messenger", pl. άγγελοι) is a supernatural being found in many religions . In Christianity , Islam , Judaism , and Zoroastrianism , angels, as attendants or guardians to man, typically act as messengers from God .

Angelology (from Greek: άγγελος, angelos, "messenger"; and λόγος, logos , "study") is a branch of theology that deals with a hierarchical system of angels, messengers, celestial powers or emanations, and the study of these systems. It primarily relates to Kabbalistic Judaism and Christianity ,[1] where it is one of the ten major branches of theology.[2]

Some secular scholars believe that Judeo-Christianity owes a great debt to Zoroastrianism in regards to the introduction of angelology and demonology , as well as the fallen angel Satan as the ultimate agent of evil, comparing him to the evil spirit Ahriman . As the Iranian Avestan and Vedic traditions and also other branches of Indo-European mythologies show, the notion of demons had existed long before.[3] [4]

http://en.wikipedia.org/wiki/Angel

2007年12月13日 (01:06)

古事記と易との関係:プラトニック・シナジー理論と古事記/易

古事記の暗号―神話が語る科学の夜明け (文庫)
藤村 由加 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BA%8B%E8%A8%98%E3%81%AE%E6%9A%97%E5%8F%B7%E2%80%95%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%8C%E8%AA%9E%E3%82%8B%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%AE%E5%A4%9C%E6%98%8E%E3%81%91-%E8%97%A4%E6%9D%91-%E7%94%B1%E5%8A%A0/dp/4101258236

ブックオフでちらと見たら、古事記と易との関係が述べられていた。天之御中主神は、太極であるということで、なるほどと思ったが、どうしてこれまで気がつかなかったのかと思った。たかみむすひのかみ、と、かみむすひのかみ、が陰陽となるのである。そう、三つ巴と陰陽太極は同じであるということになる。後で読みたい。
 以下、引用する。

「 天之御中主[あめのみなかぬし]、御をとると天之中になるが、「天中」という漢語があり、天の中央、空の中心、大空の意がある。古事記の高天原(たかまがはら)の中心というより、もっと宇宙的な意味で中心の神だというのだ。易ではそれは万物のすべての大もと、太極にあたる。
 そこから生まれるのが陽と陰の神々である。つまり、高御産巣日神[たかみむすひのかみ]は陽、神産巣日神(かみむすひのかみ)が陰ということだ。最初に、太極、陽、陰と万物を構築していくのになくてはならぬ神々が出現したのである。」p.42

そうすると、先にも少し述べたが、+iが高御産巣日神で、-iが神産巣日神であり、(+i)*(-i)=Media Pointが天之御中主神である。そして、⇒+1が造化である。そうすると、プラトニック・シナジー理論は、古事記の神話叡知をも科学化したことになる。
 とまれ、問題は、ユダヤ・キリスト教ないしは聖書において、この三神共振性が失われていることである。つまり、既述したように、+iだけが創造神(ヤハウェ、エホバ)になっていて、-iや(+i)*(-i)を欠いているように見えることである。
 創世記の神霊は+iであり、水が-iである。そして、「光あれ」が⇒+1である。だから、やはり、(+i)*(-i)=Media Pointが欠落しているように思われるのである。強いて言えば、無からの創造ということで、無がそれに当たるだろう。
 聖母マリアが-iかもしれない。そして、聖霊が(+i)*(-i)=Media Pointかもしれない。後で検討したい。

p.s. ふと考えたのであるが、+iは、一神教の神であり、-iは多神教の神ではないかと思ったのである。換言すると、+iが一(いつ)であり、-iが多である。何度も既述したように、旧約聖書は不思議なもので、神の名が、実は、二つあって、一つは周知のヤハウェ(エホバ)であり、一つはエローヒーム(神の複数)である。思うに、前者が+iであり、後者が-iではなかったか。そうならば、つじつまがあうのである。そして、ユダヤ・キリスト教は、聖書の後者を無視していって、一神教神学を形成したのではないだろうか。つまり、聖書とユダヤ・キリスト教は不連続であるということである。(また、先にも述べたが、創世記は奇妙な箇所があって、天の上の水と天の下の水があるのである。そして、前者が無視されていくのである。)
 とまれ、創世記の神霊がヤハウェとして、水がエローヒームとなるのではないだろうか。そして、この共振によって、光が発生して、天地創造となることになるのである。(もっとも、この光は超越光でもあるだろう。超越光⇒光である。)
 また、この考えから、ギリシア神話の説明もつくだろう。つまり、(+i)*(-i)は、一神*多神であり、ゼウス(主神)とオリンポスの神々の一神/多神の関係の説明がつくのである。
 では、アポロとディオニュソスはどう説明できるだろうか。おそらく、ディオニュソス⇒アポロである。つまり、超越光⇒光の関係ではないかと思うのである。つまり、ディオニュソスとは、Media Pointである。
 では、さらに展開して、プラトンの善のイデアやその他のイデアとは何か。これは微妙な問題だと思う。つまり、超越的差異がイデアであるが、それは、結局、Media Pointへと展開する。つまり、エネルゲイア化するのである。そう、以前述べたように、超越的差異をデュナミス、そして、Media Pointをエネルゲイアと考えることができるだろう。
 端的にイデアは、どちらなのか。否、両方ではないのか。デュナミス/エネルゲイアとしてのイデアではないのか。そして、後世、イデアの現象する際の連続的同一性を側面を捉えて、同一性の観念として捉えられてきたのである。例えば、花のイデア、馬のイデア、机のイデア等々である。おそらく、プラトン自身、不明確であったようにも思えるのである。本当は、Media Pointとしてのイデアを説くべきであるが、プラトンは、その連続/同一性の面をイデアとして説いている面があるのである。例えば、『国家』におけるイデアの模倣の模倣としての芸術論において見られるように。
 とまれ、今はここで留めたい。

2007年12月11日 (19:26)

ファンタジーへの視点:近代合理主義と想像世界と境界=Media:《風》を例にとって

以下、課題への参考も含む意味で、ファンタジーについてまとめるが、「風」というテーマをとりあげて、具体例を出して叙述したい。
 最初に、ファンタジーとは、近代合理主義(近代科学・技術)の世界とそれとの別の世界との《境界》における想像(心像しんぞう、心象しんしょう)の物語であるようなことを言った(小谷真理著の『ファンタジーの冒険』の中で言及されているアイデアを借用した)。
 単に、近代合理主義を無視して、「非合理主義」(空想、想像、夢、幻想、等)の世界を構築するというよりは、両者の境界に立って、「見えてくる」世界を構築したものと考えるということである。わかりやすくするために、

A:近代合理主義の世界(近代科学・技術・日常世界)
B:想像の世界(空想、不思議、幻想、神秘の世界)
C:境界の世界(両者の媒介、Mediaの世界)

としておく。
 そうすると、ファンタジーとは、Aの世界では当然ないが、また、単にBの世界でもなく、AとBの中間・媒介の世界・Mediaの世界であるCの領域にあるということになる。これは、哲学的には、Aでもあり、且つ(かつ)、Bでもあり、また、Aでもなく、Bでもない、という《即非(そくひ)》の様態(ようたい)にあると言える。極めて、不思議な世界というしかないだろう。現実かと思えば、非現実であり、また、非現実かと思えば、現実であるというような世界である。仏教で言えば、《空》の世界であろう。色即是空(しきそくぜくう)、空即是色(くうそくぜしき)。
 さて、ここで、具体的に、ファンタジー世界の重要なテーマである《風》を取り上げて、ファンタジー世界を確認していきたい。ライマン・フランク・ボームの『オズの魔法使い』やパメラ・トラヴァースの『風にのってきたメアリー・ポピンズ』において、《風》が重要な役割が果たしているのがわかる。

【日本では、宮沢賢治の『風の又三郎』、宮崎駿の『風の谷のナウシカ』、ファンタジーではないが、松尾芭蕉の『奥の細道』における「片雲の風」、その他に、はっきりと《風》のモチーフを確認できる。あるいは、風狂、風雅、風趣、風水、等の言葉にも、《風》が重要な観念として使用されている。日本・東洋の美学において、重要な概念である。もっとも、聖書の創世記において、神霊が水の上に風のように漂ったということが書かれているので、単に、東洋美学だけにとどまるものではない。四大(地水火風)の観念は東西共通である。もっとも、東洋では、それに空を加えて、五大とする。すなわち、地水火風空である。空海の「五大に(みな)響きあり」は有名である。ところで、美術で言えば、ボッチチェルリの『春』に、《風》があるだろうし、デューラーの『黙示録の四騎士』には、すさまじく荒れ狂う、狂暴な(又は凶暴な)《風》が感じられるだろう。また、シェイクスピアの『マクベス』において、マクベスの有名なせりふに、「憐れみが、生まれたての赤ん坊のように目に見えない乗り物にのって・・・」があるが、それは疾風のイメージである。また、魔女たちが大気に溶けたり、殺害されるダンカン王が、マクベス城の手前で、この空気は甘美であると言ったりするも、それなりに《風》に関係するだろう。】

 『オズの魔法使い』において、竜巻(トルネードー)がやってきて、ドロシーやトトのいる家ごと、巻き上げて、エメラルドの国(想像の世界)へと連れて行くのであり、竜巻が《風》として、近代合理主義の世界、この場合は、日常世界Aと想像の世界Bの媒介としての役割を果たしている。
 しかし、ここで大事なのは、主人公の少女のドロシーである。実は、ドロシーが想像の世界Bにあっても、日常世界Aとの中間世界、境界の世界、Media の世界に存すると言えるのである。つまり、ドロシーは、《風》(竜巻)と同じ意味合いをもっていると考えられるのである。かつて、文化人類学者の山口昌男は両義性の概念を説いたが、確かに、ドロシーの存在は両義的と言えるのであるが、しかしながら、境界的存在と言う方が明快である。また、注目すべきは、竜巻という現象のあり方である。それは、垂直に家を持ち上げて、想像の世界へと移動させるのである。この垂直性が大事だと考えられるのである。この垂直性が、超越性を意味するように考えられるのである。
 だから、境界の世界、Mediaの世界は、中間の世界だけではなく、垂直性/超越性をもった世界と考えられるのであり、想像の世界Bは垂直性/超越性の世界ではないかと考えられるのである。敷延(ふえん)すると、ファンタジーの世界とは、境界・ Mediaの世界において、水平の世界(日常の世界)から垂直の世界(超越の世界)へと飛躍し、最後は、再び、垂直の世界から水平の世界へと回帰する世界ではないかと考えられるのである。
 次に、『風にのってきたメアリー・ポピンズ』を考えると、これは、正に、今述べてきたことを典型的に表現するものではないかと考えられるのである。東の《風》とともに、メアリー・ポピンズは、桜通り17番地にやってきて、西の《風》とともに去ってゆくのである。そして、境界・Mediaである《風》と一体であるメアリー・ポピンズは、作品世界の中で、不思議な世界Bを喚起するのである。言い換えると、《風》=境界・Media=メアリー・ポピンズは、日常の世界Aと想像の世界Bの両面を融合させるということである。
 さらに、バリの『ピーター・パン』(『ピーター・パンとウェンディ』について言うと、ピーター・パンとは、空中を飛翔する存在であり、正に、《風》の存在であると言えよう。そして、その飛翔であるが、単に、水平的な移動だけではなくて、『オズの魔法使い』での境界のように、垂直的移動もあるように感じられるのである。(映画では、宇宙へと飛翔していて、垂直性が喚起されていた。)
 結局、ネバーランドとは、何かということになるのである。そこは、いわば、時間が止まった、成長が止まった、少年・少女・子供の世界である。それは、永遠の子供の世界、宗教的に言えば、永遠の世界である。だから、水平の世界を超えた、垂直/超越の世界と見ることが可能であると考えられるのである。
 ということで、『ピーター・パン』においても、《風》=境界・Media=ピーター・パンということが考えられるのである。
 
 最後に、以上のファンタジーの世界、すなわち、三相的世界であるが、これは、クロス・オーバー的にみれば、正に、神話世界に共通するのである。日本の宗教学者の折口信夫(おりくちしのぶ)が、「まれびと」という概念を立てたが、「まれびと」とは、正に、境界・Mediaの存在、《風》的存在であることがわかるだろう。また、ケルト神話と共通するが、海の彼方に想像上の島を想定するが、これは、単に水平的位置だけでなく、垂直的位置をも意味すると見るべきだろう。竜宮城というものは、海底にあるのであり、垂直的である。正しく言えば、水平世界と垂直世界との交差点としての場所をそこに確認すべきなのだろう。
 整理すると、ファンタジーの世界や神話の世界は、水平の世界とそれを超越した垂直の世界と両者の交叉(こうさ)するMediaの世界の三相世界から形成されているということになるだろう。そして、この交叉するMediaの世界が核心であると言えよう。

注:当然、Mediaの世界とは、プラトニック・シナジー理論のMedia Pointになる。

追記1:問題は、いわゆる、ハイ・ファンタジーの場合はどうなるのかである。トールキンの『指輪物語』(映画『ロード・オブ・ザ・リング』)はどうなのかである。つまり、その場合、想像の世界が、メインになり、近代合理主義・日常世界が無くなるからである。
 しかしながら、『指輪物語』を読むと、その想像の世界の外界の描写がリアリズム的になされているのがわかるのである。つまり、一見、ハイ・ファンタジーには、近代合理主義・日常世界は消えているが、その想像の世界において、近代合理主義・日常世界のリアリズムが入っているのである。

追記2:近代合理主義・日常世界では、無理があるならば、3次元世界ないしは時空四次元世界と考えるといいだろう。

追記3:ファンタジーの名作と言えば、『不思議の国のアリス』であるが、そこでは、境界=Mediaはどう表現されているだろうか。当然、主人公のアリスがそういう存在であるが、エレメントとして《風》に当たるものがあるだろうか。そう、呼んでいると、なにか狂暴な風が感じられる。白のクイーンなど。とまれ、冒頭の白うさぎが《風》に当たるかもしれない。一種エネルギーである。後でもう少し検討したい。

2007年04月15日 (09:38)

夢:魚群、星の馬、等

夢を見るのも、余裕が必要なようだ。

先週は、ずっと忙しく、昨夜は、よく眠ったが、印象的な夢を見たので、記しておきたい。

三月の、不思議な夢のシリーズは、四月になってから、見なくなった。

今朝の夢は、部分しか憶えていないが、なにか学会に出ていた。そこでは、大江健三郎が居た。また、昔の大学のときの仲間もいた。

そこには、海に関係して、水族館のような透明な水槽があり、夜になると、大きな魚が群を成して、こちらの見るように、浮かんでいるのであった。

とまれ、学会では、考古学上の発見があり、ナイフが見つかった。大江健三郎は、それは、自分の考察を証明するものであることを述べた。

セロファンで包装された本があり、それを剥がそうとして、大江が証明したい、なにかバタイユの本のような人類学上の本であった。タイトルは、星の馬云々というものか、星と馬云々であった。

目覚めてから、大江と神話のことを想起したり、また、「合理主義」思考が支配し、「非合理主義」つまり、超合理主義的なことが見捨てられている現在のことを思った。

とまれ、今朝の夢は、とにかく、大きなフナのような黒い魚群が印象的であった。

また、ナイフの発見と星の馬のモチーフが印象的である。

これまでの夢の文脈から言うと、神剣・聖剣と、あるいは、天河神社に関係するだろう。星の馬ないし星と馬は、天馬、ペガススを意味しよう。

これは、大地母神や女神に関係するものである。

そう、大江健三郎が出てきたのが、不思議である。また、大学のときの仲間が登場した。

それは、文学に関係していると言えよう。

大江健三郎が感銘深く、ナイフの発見によって、自説が証明されたこと述べていたのが印象的である。

連想することがあるが、ここで留めておきたい。

2007年03月30日 (16:10)

夢:続き:断片:海での水泳と学会:アメノウズメと盤座(イワクラ)

今朝も夢を見たので記しておこう。しかし、記憶はあやふやであるので、順序は無視して、思い出せる断片を箇条書きする。

1)海ないし海流に、エクスタシー的に浸っていた感じがある。これは、はっきりとしない記憶である。

2)地図で、女性たちの島を指す。それは、沖縄と台湾とフィリピンの中間辺りである。いわば、竜宮城である。これは、沖縄近海の沈んだ古代王国を想起させる。大洪水の神話を参照。

3)船でその島に行く直行便はない。オーストラリアの方へ行ってしまう。

4)港であろうか、待合室で、島の女性達と話していたようだ。

5)私の地元の海岸で泳いでいる。回りの人と同じような水着を着ていると思ったら、たんに、ランニングとパンツだけである。とにかく、気持ちよく泳いでいる。そう、それは、河口付近の浅瀬であるが、それ以前に、海原で気持ちよく泳いでいたと思う。

6)知りあいの部屋で、稀覯本の辞書を見せてもらう。それ以前に古本屋にいたような感じである。

7)後半になるが、バスの中で、黒人の少年がいて、パイプようなタバコ等を私のポケットに入れる。また、小さなお守り袋のようなものも入れる。バスの席には、小さなテレビがついてる。それは、有料のもので、コインを入れないといけない。少年は、コインを入れるように私にせがむが終着駅が近いので、拒否する。 

その後、鉄道の駅について、駅員に、少年は不良であると教えられ、少年がポケットに入れたものを指し出すが、お守り袋が見つからない。

8)これは、7の続きだと思うが、私はタクシーに運転手に、ある場所を頼むが、地図を見せて近くだと言う。それは、駅の中を通って、地図の上方へ行った地点である。(解読するに、上方は、超越的上方だと思う。つまり、私がバスから降りて向かう学会は、超越界だと思われる。)

9)8の続きであるが、今度は、待合室で、外国の学会に参加する人たちの10数人ほどいる。私はかなり自信をもっている。参加する人たちも、立派に見える。ここいらで目が覚めた。

10)今、思い出したが、それ以前に日本の学会がある。なにかハンドアウトがあったが、思い出せない。それと先ほどの稀覯本の辞書と関係しそうである。

_____________________________

解明:

今は簡単に言うが、琉球の神話とアイルランド神話は他界の観念等において、よく似ているのである。また、琉球の神話は、コスモロジーをもっていて、普遍的な特徴があると思う。

思うに、海にエクスタシー的に浸っていたというのは、ニルヴァーナ=超越界に存していることを意味しよう。現象的に言えば、子宮内存在であろう。海は現象的には、羊水である。

だから、やはり、アメ(天)=アマ(海)である。

大地や岩(盤座[イワクラ])は、メディア・ポイントであろう。これは、中間領域である。

巨石文化であるが、これは、ストーンヘンジ等から見て、太陽信仰と関係する。これは、普遍的である。

岩と渦が関係するだろう。

思うに、メディア・ポイントを底点から見たときが、岩や大地であり、上点(頂点)から見たときが、アメノウズメではないのか。

上層が海で、下層が大地ではないのか。

大海と大地である。

つまり、女性性器と男性性器である。

太陰と太陽である。

これは実に興味深い。

超越界には、超越的太陽があるが、それが太陰であるというのは。

太陽=太陰となる。

用語が混同するので、太極性において、太陰を原陰、太陽を原陽としよう。

つまり、大海=天上界は原陰であり、大地=地上界は原陽となる。

すると、超越的太陽=天照大神とは、原陰である。そして、大地は、男根・ファロス、陽石である。

とまれ、原陰と超越的太陽が一致するのである。海と天が一致するのである。正に、アマ=アメである。

水と光が一致するのである。つまり、超越的即非事象とは、水即光である。

これは正に、お水取りではないか。

光水である。

即非の一(いつ)の側面では水であり、非の面では、光ではないだろうか。

融合と差異である。

水は融合であり、光は差異である。

これが、原陰=超越的太陽=天照大神であろう。

そして、これが、メディア・ポイント(天鈿女命)介して、現象化するのである。メディア・ポイントの基底が猿田彦であろう。これが、盤座であり、岩であり、オンファロスであろう。即ち、男根・ファロスである。

つまり、天鈿女命と猿田彦とはメディア・ポイントして一体である。上点が天の岩戸(子宮や女性性器)であり、底点が盤座であり、オンファロス(ファロス・男性性器)であろう。

しかし、これは、同じものである。天照大神(高天原)が、天鈿女命/猿田彦(=メディア・ポイント:イザナミとイザナギの回った柱)を介して、大地へと天降るのである(天照大神のエネルゲイア)。そこに、日御子が生じるのである(女神の子)。

それは、同時に、八岐大蛇であり、スサノオである。

つまり、もともと、月=日なのである。原陰=超越的太陽=海即非太陽=月即非日なのである。

天照と月読みは一体である。(太陰太陽暦は鋭いのである。)

これが、太母であろう。処女生殖である。竹取物語である。

つまり、太母は、月即非日であり、同時に、子(ファロス)である。つまり、太母は、正に、両性具有なのである。

ただし、生命の進展において、雌雄の分離が発生した。これは、同一性の発生であろう。本来は、差異共振性であるからだ。

そして、文化・社会史的には、父権制・一神教の発生である。

即ち、先に述べたように、超越界と現象界との絶対的分離・乖離が発生してしまうのである(楽園追放)。

「原始、女性は太陽であった」とは、ここから見ると半面の真理である。女性は、水光・月日、女男(めお)・夫婦(めおと)であったのである。正に、太極である。これを玄牝というのは、誤解を呼ぶだろう。玄を黒と理解してしまうからである。原女・原母とは、原女・男である。

ここで古代ギリシアのエレウシスの秘儀で考えると、母デーメーテールと娘コレーとの関係は、メディア・ポイントを介して、超越界と現象界の関係であろう。大地母神とは、超越的太陽である。

そして、ケレーニイが述べる根源的な三柱の女神(デーメーテール/コレー/ヘカティー[月の女神])であるが、超越的起源から言うと、デーメーテールとヘカティーが根源的対である。日と月の即非的対である。日月即非一性である。

だから、「原始、女性は日即非月であった」のである。金銀である。

これが、プラトニック・シナジー理論的トランス・モダン・ジェンダー論となるだろう。

女性は、根源的玉座に復位するだろう。

新母権制である。

男性は、女性の従者になるだろう。

両性の平等にはならないのではないだろうか。

ここで、マゾッホの小説を想起する。

また、エジプト神話を想起する。天上は女性であり、地上は男性である。これは、実に正統な配位であろう。

女神が大地母神となっているのは、転倒なのである。それは、父権的二項対立によって、貶められた価値観である。女神は、メディア・ポイントを介して、天であり、且つ、地なのである。

思うに、易経は、根源的女神教であろう。それは、女媧の理であろう。(女媧の媧であるが、ウズである。これは、女性性器であろう。当然、天鈿女命が関係する。)

いろいろ書きたいことはあるが、今はここで留めておこう。

2007年03月29日 (15:48)

夢:続き:箇条書き:ブラームス、銀色のピアノ、海:天鈿女(アメノウズメ)

今朝も夢を見たが、とても断片的なので、箇条書きにする。夢の事象の順番は無視する。

1)ピアノが、都会の歩道に置いてある。その歩道とは反対の通りに私はいて、ブラームスの演奏が聞え、そのメロディーに魅かれる。ピアノ協奏曲第1番だろうか。プロのピアニストである。その前に、誰かが演奏していたようだが、忘れている。雨が降ってくるので、ピアノをビルの入り口の天井のあるところに移動させる。そこには、銀色のピアノが置いてあったが、それは、誰も演奏しない。

それ以前に、昔の同級生が、音楽をかけ、元気を出すようにさせるが、その音楽には興味が湧かない。それは、朝の音楽なのかと聞いたりする。

2)オフィスのデスクで、アルバイトをするが、ずるく、1時間ほどでそこにおいてあった文庫本を読んでしまう。なにか、昔の日本の話のような感じである。谷崎潤一郎風である。(p.s. 因みに、『細雪』は、三人姉妹の話である。そう、谷崎には、表面に現われた以外のものがあると思う。日本伝統母権文化を体現しているところがあると思う。)

3)その本の中の話だろうか、車輪のついた船があり、船の移動とともに、二人の人魚のような人物がらくらく泳いでいく。船よりも速く泳げるのである。私が船に乗って帰ると言うよりは、別の人が二人乗って帰るような感じであったか、不明瞭である。

この当たり、海に関係しているが、詳細は忘れている。

4)船で運ばれてきた、男女であろうか。押し込まれて疲れている感じである。楽にするために、海中に放り込まれる。何人もの女性が、逆さになり、股を広げて、性器を剥き出しにして、海に浮かんでいる。

5)あるアルバイトの女性と話をしている。私の異性関係について話をしている。私は、見栄を張り、何人も結婚の相手がいると嘘を言った。私は、なにか、ムーサイ(詩神)のことを考えて、そう答えた。

6)血液検査のような場面があった。採血の場面。また、血がこぼれた場面があった。

7)なにか、職場での共同の仕事があるが、よく憶えていないが、ピアノを置いてある入り口からビルに入り、上司らしきに仕事のことを聞かれるが、うまく仕事が捗っていることを簡単に説明する。
______________________________

目新しいものは、ブラームスの音楽、白銀色のピアノ、海である。音楽は、天河弁財天社の続きだろう。海が何を意味するのだろうか。海岸の場面があったと思うが、そこの記憶がない。

思うに、海は、天上と関係すると思う。そう、メディア・ポイントであろう。海岸や港もメディア・ポイントであろう。(p.s. 海は、聖母マリアとも関係するように、太母と関係するだろう。船が向かう先は、天上界・超越界であろう。)

どうも、私の夢の旅が終わりをむかえたようである。

人魚(天女?、天使?)たちが、「竜宮城」(超越界)へ帰還する感じである。

因みに、ブラームスの音楽であるが、交響曲第1番の第1楽章とピアノ協奏曲第1番が好きである。それ以外は、特に聴かない。前者の野性的なリズムは、むかし信州の戸隠神社の奥社で聴いた太鼓の響きを想起させる。荘重であり、崇高性がある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%88%B8%E9%9A%A0%E7%A5%9E%E7%A4%BE
http://www.togakushi-jinja.jp/top.htm

p.s. 以下からわかるように、ブラームスもハンガリーやジプシーと関係がある。バッハとも関係がある。正に、重々しい大地を想起する彼の音楽であるが、ノマッドと関係するのか。

私は、交響曲第1番第1楽章に地霊を感じる。大地と宇宙との垂直的対話、とくに、大地から宇宙へと太々しい柱のように立ち上がるイメージを感じる。ティンパニーが、ドンドンドン・・・と和太鼓のように、泥臭く、リズムを刻み、それに弦楽器が高音でユニゾン的に移動する感じが、独特である。あの響きは、他のどこにも無いものである。特異性である。超越界を表現しているのかもしれない。

p.p.s. 考えたら、交響曲第1番第1楽章のイメージは、山岳が地底から天上へと盛り上がるエネルギーである。(p.s. また、これは、巨木が大地から天へとそびえ立つイメージである。これは、戸隠神社の参道の巨木の杉並木を連奏する。
http://www.dynax.co.jp/sinsen//photo/v/g_sugi.html )

3p.s. 逆さになり、股を広げ、性器を剥き出しにして海面に浮かぶ女性たちは、天上のエロースを意味すると思うが、戸隠神社関連からいうと、アメノウズメと関係しそうである。

4p.s. アメノウズメ天鈿女に興味を持った。これは、卑弥呼と通じるだろう。「ウズ」は、渦であり、メディア・ポイントの螺旋回転を想起する。そう、天鈿女命は、メディア・ポイントを意味している神道の重要な女神であろう。天照大神は、超越界の太陽である。天の岩戸は、メディア・ポイントの頂上の「門」であろう。日本のヴィーナスであるが、また、天上のエロースの表現であろう。後で、調べたい。

5p.s. 「アメ」は「アマ」と通じる。アマは、海人、海女で、海に関係する。天と海とが結びつく。だから、アメノウズメは、海の渦とも関係しよう。渦流である。やはり、メディア・ポイントである。

6p.s. 女性性器とメディア・ポイントあるいは、天の岩戸は関係がありそうだ。古代ギリシアの大地の臍(岩)に股がって、神懸かりになり神託を伝えたデルフォイのアポロン神殿の巫女たちを連想する。子宮は、超越界の比喩ではないだろうか。これらに関して、別稿で検討したい。

アメノウズメ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

アメノウズメ(アマノウズメ)は、日本神話 に登場する女神 。「岩戸隠れ」のくだりなどに登場する芸能の女神であり、日本 最古の踊り子と言える。古事記 では天宇受賣命、日本書紀 では天鈿女命と表記する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%8E%E3%82%A6%E3%82%BA%E3%83%A1


《vol.16 縄文の巫女

 前号(vol.15.土偶は本当に女神か )で土偶を女性と短絡することに疑問を投げかけた。またもし「仮面の女神」を、オホゲツヒメ神話のイメージから呼称しているとしたら適当ではない。むしろ土偶は巫覡(ふげき・シャーマン)像ではないかと私は思う。
 今一度茅野市中ツ原遺跡の「仮面土偶」を見てみる。上半身の文様は入れ墨や身体塗彩のようにも見えるが、乳房表現が無いことから何らかの衣服を着ているのだろう。とすれば、体の前面の襷(たすき)状の模様は袷(あわせ)を表現している。いわゆる右前の着物なのだろう。ただし、へそと陰部がはっきりと表現されているので、そこだけは切り抜いている。さらに、下半身を見ると陰部のまわりにはまったく遮蔽するものはないので、褌(ふんどし)やパンツのようなものははいていないことがわかる。同様の仮面土偶は辰野町泉水遺跡や山梨県後田遺跡に例がある。いずれも陰部を露出している。
 仮面土偶を考える上で比較すべき考古資料としては、時代は下るが古墳時代の陰部を露出した人物埴輪をとりあげたい(愛知県太夫塚古墳・大阪府豊中市釘貫など)。これらには巫女を特徴づける意須比(おすひ・襲衣)の表現が見られることから、辰巳和弘氏は巫女を象ったものだと推測する(『埴輪と絵画の古代学』白水社)。埴輪と土偶は一見関係なさそうなのだが、でも私は土偶の意味を解くヒントがあると思っている。
 なぜなら、縄文時代と古墳時代の間をつなぐ弥生時代には土偶や埴輪のような「土人形」的な造形はあまり発達しないのだが、かわりに土器などに線刻された「絵画」がある。「弥生の絵画」には、陰部が描かれた人物(奈良県唐古・鍵遺跡の壷形土器)。嘴をもつ鳥の頭に表現された(鳥の仮面をかぶった?)人物(岡山県新庄尾上遺跡)がある。
 縄文仮面土偶の特徴である仮面と陰部露出は、弥生時代の鳥装の仮面をするシャーマンに受け継がれ、さらに陰部露出は古墳時代の埴輪の巫女にまで継承されたと考える。
 辰巳氏は陰部を露出する巫女の描写が日本神話にあると指摘する。弟スサノヲの横暴に怒ったアマテラスは天の岩戸に引きこもった。アメノウズメは神がかりして胸の乳を露出させ、裳(も)の紐を陰部までおし垂らした。八百万(よおろず)の神がどっと笑った。不審に思ったアマテラスが少し覗いたところをタヂカラヲが間髪入れず天の岩戸をこじ開けたので、アマテラスは再び姿を現すことになる(『古事記』)。アメノウズメ神話は古代の巫女の所業を描写したものだろう。
 よって「仮面土偶」は巫女の系譜にのるものであり、これを「縄文の巫女」といってはどうか。(ただ、アメノウズメも「女神」でありますので、結局「縄文の女神」でもかまわないのかもしれませんが…)。
茅野市尖石縄文考古館

2002年12月20日
信州発考古学最前線 vol.14〜25

http://homepage3.nifty.com/kamosikamiti/sonota/saizensen/H14win.html 》

《第4信

 さて、「俳優」という言葉は、『日本書紀』(720年編纂)神代巻上の中に初出します。猿女の君の遠祖アメノウズメノミコが手に矛を持ち、天の岩窟戸の前に立って、「巧みに作俳優(わざをぎ)す」とあるのがそれです。そのすぐ後には、舞台の原型になる「槽」の上で「顕神明之憑談(かむがかり)」すると出てきます。

 ということは、「俳優」の元祖はアメノウズメノミコトで、それはもともと、体中に榊の葉を付着させて、植物の霊力を身に纏い、その力を借りて神懸りすることを意味したのです。「俳優」を「ワザヲギ」と読ませているわけですが、その意味は、神霊を招き寄せる(ヲグ)技術ないし作法(ワザ)ということです。あちら側からこの世界に不可思議な力を、次元を超えて取り入れ、四次元的な立体交差点を作り出すこと。「俳優=ワザヲギ」とはそのような超越的な交通の技術であると言えます。

 これが『古事記』(712年編纂)では、アメノウズメは手に矛ではなく、天の香具山の「小竹葉(ささば)」を持ち、「槽」を踏み轟かして、「神懸りして、胸乳(むなち)をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れ」たと記されています。笹は正月に門松として竹を飾るように、神霊を招き入れる依り代です。いわば、神霊を受信するアンテナ。

 ここで、興味深いのは、「神懸り」したアメノウズメがトランス状態に入って思わず胸をはだけ、陰部(女陰)を露出したことです。これはストリップの始まりだとされるところですが、その意味はとてつもなく深く、生命の秘密や神秘にまでつながっていきます。

 そもそも、この「俳優=ワザヲギ」が行なわれるに至った原因は、スサノヲノミコトが乱暴狼藉をはたらいたために、それを嘆き哀しみ怒った天照大神が天の岩戸にさし篭って隠れてしまい、高天原も世界も真っ暗になってしまったことにあります。この暗黒の世界を打開し、再び光ある世界に戻そうと神々が集結して論議し、祭りを行うことになりました。斎部氏の祖先の天太玉命(あめのふとだまのみこと)が鏡の付いた榊を捧げ持ち、中臣氏の祖先の天児屋命(あめのこやねのみこと)が祝詞を奏上し、アメノウズメノミコトが「神懸り」して、それによって天照大神を洞窟の中から再びこちら側に引き戻すことができたのです。そして、天が晴れて光が戻り、世界の災いが解き放たれたというわけです。

 『古語拾遺』という斎部氏の伝承を書いた本には、この時、神々が大いに喜び踊り、口々に「あはれ、あなおもしろ、あなたのし、あなさやけ、おけ」と囃したと記されています。「あはれ」とは「天晴れ」、すなわち天が晴れて光がサーッと差し込むこと。この世界が明るくなることを意味します。そして、「あなおもしろ」とは「ああ、面白い」、すなわちその戻った神の光に照らされて「面が白く」なり、喜びに包まれて光り輝くこと。「あなたのし」とは「ああ、手伸し」、すなわち喜び勇んで自然に「手が伸び」、歓喜勇躍、踊り出すこと。「あなさやけ」とは草木も一緒にその喜びに靡きスイングすること。「おけ」もまた、草木や植物とともに、そよぎ、靡き、揺れることを意味します。

 これは「鎮魂」や「神楽」の起源を語る神話とされていますが、それは光の再生、太陽の死と復活、生命力の更新を象徴しています。このところは、『古事記』では、「高天原動みて、八百万の神共に咲ひき」と記されています。つまり、アメノウズメのトランス・ダンスによって高天原も激しく揺すぶられ、八百万の神々がみなともに笑ったというのです。

 この笑いを「咲く」という字を宛てて、「咲ふ(わらふ)」と読ませているところは、とても美しい表現だと思わずにはいられません。和泉流狂言の秘伝書には、翁のもどき芸である「三番叟」を舞う時は、演者は翁をアメノウズメノミコトだと思って舞うように、と指示されていると萬斎さんは言っていました。ということは、翁は訪れてくる神霊ですから、その神霊を引き出す者の役をアメノウズメと思って舞い、神霊と巫女との霊的合一を実現するということになるのでしょうか。

 ともあれ、「狂言」という言葉もその所作=ワザも大変面白いですね。「正名」でも「真言」でもなく、「狂言」。それこそが世界を笑いと新生に導く方法論だというわけです。なによりも笑いの大切さ。


http://homepage2.nifty.com/moon21/tonysletter04.html

参考:
ヨハネス・ブラームス
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
生涯

ブラームスは、ハンブルク で生まれた。彼に最初の音楽レッスンを行った父は、コントラバス 奏者であった。ピアノの早熟な才能をあらわし、10歳で作曲家でピアニストのエドゥアルド・マルクスゼンに師事。レストラン や居酒屋 でピアノを演奏することによって家計を補った。

彼自身はピアニストとして確かな腕を持っていたが、同時代の名手と比べると地味な存在であった。演奏活動は行っていたが後に作曲専業になることを決意して、放棄した。しかしながら、1859年 と1881年 には、ピアノ協奏曲第1番 とピアノ協奏曲第2番 の初演を自ら行っている。この2曲のピアノ・パートは共に難度が高く、これを自分で弾きこなしたブラームスのピアノ演奏技術は高いものであったのではないかと思われる。

その後、演奏よりも創作活動に興味を持つようになって作曲を始めたが、1851年 になるとすでに自己批判から作品を廃棄し始めていた(19歳以前の作品は記録が残るのみでまったく現存しない)。1853年 にハンガリーのヴァイオリニスト・レメーニイと演奏旅行に行き、彼からジプシー 音楽を教えてもらったことが彼の創作活動に大きな影響を及ぼした。この演奏旅行中に J. ヨアヒム 、フランツ・リスト とロベルト・シューマン に会って作品を見てもらった。シューマンは、「新しい道」と題する評論を「新音楽時報 」誌に発表してブラームスを熱烈に賞賛し、聴衆にブラームスの作品を広めるために重要な役割を演じた。ブラームスは、14才年上のシューマンの妻クララ を知り、1854年のシューマンの投身自殺未遂と2年後の死以降も、生涯に渡ってクララと親しく交流を続けることになった。恋愛に近い関係になった時期もあったようだが、ブラームスが彼女と結婚することはなかった。

1862年 からウィーン に永住したブラームスは以降、作曲に集中し始めた。『ドイツ・レクィエム 』などの作品で高い評価を確立し、偉大な作曲家の一人として注目を集める存在となった。この事は、彼の第1交響曲 を書き上げるための自信になったと考えられる。ウィーン永住からおよそ10年の後、19年の歳月をかけて交響曲第1番は1876年 に完成した。この作品は後に指揮者のビューローをして「ベートーヴェンの10番目の交響曲の様だ」と語らしめた。彼の他の3つの交響曲は、それから比較的短い間隔で書き上げられ、第1番から間もない1877年 には第2番 が、1883年 に第3番 が、そして1885年 に最後の第4番 が、それぞれ発表された。

ブラームスはしばしば春のイタリア を訪問し、気持ちの良い地方の場所を捜して夏の間に作曲した。1889年 12月2日 、ブラームスはトーマス・エジソン の代理人の依頼で「ハンガリー舞曲 第1番」を蓄音機 に録音した。(テンポは相当速い)このとき、初めて自身の老いを自覚したと言われている。翌1890年 、57才になり意欲の衰えを感じ、作曲を断念しようと決心して遺書を書き、手稿を整理し始めた。
ブラームスに対する影響

大部分のロマン派の作曲家と同様に、ブラームスはベートーヴェンを崇拝していた。彼の作品には交響曲第9番 と『ハンマークラヴィア・ソナタ 』を含むベートーヴェン作品の明白な模倣も含まれる。

また古典派の作曲家モーツァルト とハイドン を敬愛していた。彼らの作品の第一版と自筆稿を集め、そのうえ演奏用の版を編集した。古典派への愛情はジャンルの選択においても現れている。彼の手によるソナタ、交響曲と協奏曲では古典的な形式を採用し、ソナタ形式の楽章を作曲した。一般に、ブラームスは全てのロマン派の作曲家の中ではもっとも古典派に近いと考えられており、「新古典派」という呼称で呼ばれることもある。

しかし、シェーンベルク のようにブラームスの音楽に革新的要素を見出す人もいる[1] 。特に晩年の『4つの厳粛な歌』で見られる一つのモチーフの徹底的な展開、声とピアノによるカノン的書法などの対位法をシェーンベルクは「発展的変奏」(英語:developping variation)と呼び、自らの作品において展開することになる。

さらにブラームスはそれ以前のバロック音楽 にも多大な関心を払っていた。とりわけ大バッハ に心酔しており、当時刊行中だったバッハ作品の全集を購読して熱心に研究した。その成果として最も有名なものが第4交響曲の終楽章に置かれた「パッサカリア 」である。そのテーマはバッハのカンタータ第150番の主題を応用したものである。

ブラームスに対する全く異なる影響は 民族音楽 であった。ピアノと声楽のためにドイツ民謡による144曲の歌曲を書いており、彼の歌曲の多くは民族的な主題を反映するか、地方の生活場面を表現したものである。また、『ハンガリー舞曲集』で分かるように、レメーニイから教わったジプシー音楽(当時はハンガリーの民俗音楽だと思われていた)の影響も受け、「ピアノ四重奏曲第1番 」などにその語法を取り込んでいる。


参考2:
ハンガリー舞曲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
《ハンガリー舞曲集(独語 :Ungarische Tänze)》WoO.1 は、ヨハネス・ブラームス がハンガリー のジプシー音楽 に基づいて編曲した舞曲集。もとは4手用のピアノ曲 として書かれた。全部で21曲あり、それぞれの長さは1分程度のものから4分程度のものまでとまちまちである。中でも、管弦楽用に別人によって再編曲された《第5番》がとりわけ有名である。

作曲の経緯

ブラームスは1850年代 の前半に、エドゥアルト・レメーニ の伴奏者としてドイツ の各地で演奏旅行を行い、その時にレメーニからロマ の民族音楽 を教えられて魅了された。それ以来ブラームスはそれをハンガリー の民族舞曲と信じて採譜を続け、1867年 に出版社のジムロック に最初の6曲を送って拒否されている。結局それらが1869年 に出版されると大好評となり、1880年 に第2集が刊行された。

参考3:
kon.2  ヨハネス・ブラームス「ハンガリー舞曲集」
                           Johannes Brahms「UNGARISCHE TANZE」 



ピアノの名手であったブラームスが、ピアノ4手(連弾)用に作った曲集。

1853年、エドゥアルト・レメーニィ(ハンガリー生まれでジプシーの血を引くヴァイオリニスト)の演奏旅行に、ブラームスは伴奏者(ピアノ)としてついて行った。

ジプシースタイルを取り入れた独特の演奏で知られていたレメーニィは、この時ブラームスにハンガリーの民謡の旋律などを教えた。

それをきっかけにブラームスは独自にハンガリーの旋律の採集を始め、その中からまず1869年にピアノ連弾用ハンガリー舞曲集として、10曲を2集に分け

出版。それが大人気だったので、1880年には更に11曲が2集に分けて出版された。

しかしこの曲集が大人気となってしまった為、レメーニィが気を悪くしブラームスに文句を言って訴訟を起こしたが、ブラームスは出版の際に「作曲・ブラームス」

ではなく、「編曲・ブラームス」としていたので、ブラームスが勝った。
http://web.thn.jp/heartful-i/music/ungarische%20tanze.html

2007年03月28日 (13:09)

夢:続き:老賢者と太母:高校生のときの同級生男女のブルーの服

今日は、田舎は、晴れて暖かく、鴬の囀りが増え、雲雀の囀り、その他の鳥の鳴き声が聞える。

今朝も不思議な夢を見た。これまでになく錯綜している。箇条書きにする。

1)私は一人の外国の老爺と会っていた。しかし、この辺が判然とせず、おぼろになっている。なにか親しく話した印象がある。

2)旅館のような場所である。1階と思われる廊下ないしホールから2階や2階への階段が見える。 

3)2と同じ場所だと思うが、わたし(ユング)は、他の老人とともに、部屋に入る。その老人は、書架の2冊の本を指摘する。それらは、わたし(ユング)の書いた本より優れたものであるということを強調したようである。わたし(ユング)は、困り、自分の本を取り、トイレに行くと言って部屋を出るが、そのまま、逃げ出すことにするが、入り口の下駄箱のようなところには、自分の靴が見つからない。わたしは、1階の美容室のような部屋に入り、トイレを借りる。その美容室の店長は、女性で、先に知り合いになっていた。なにか、もう一人女性がいたようである。

4)外国の老爺が、日本に来ている。私は彼を見て、ドトール・コーヒーの店が目の前にあるのを教える。というのは、「外国」で、私は、その老爺にコーヒーを入れてもらったからである。老爺は、ドトールがピントこないようであった。「外国」での、彼と話ことなどを忘れている。(p.s. 今想起したが、なにか、コミュニケーション、コミュニオンcommunionという言葉がキーワードになっていた。即ち、老爺との会話において、私は喜ばしくその言葉を発したと思う。)

5)なにか、学生にビデオを見せたようである。なにか官能的な映画であった。途中で終わりにした。それは、老夫婦となにか若い女性のヌードが関係し、面白みのない映画であった。つまり、老夫婦の話とヌードが噛み合っていないのである。

そのビデオは、確かに、猥褻なものであった。女性の性器が見えるのである。

その後、映画館の場面で、猥褻なような映画が三本(一つはスカトロという言葉がタイトルになっていた)上映されている。二本まともな映画は上映されていない。

6)亡父が生きているときのことになっている。弟が半年ばかり、不眠症気味であると言った。私は、なにか、精神的なものが足りないようなことを言った。

某所から、料金の請求に来て、亡父が払った。

7)これは最後の方の夢であるが、先にメールで大事なことを伝えた同僚の者が、私の高校生のときの同級生を指して、彼は、ロングテールの発見で賞を取ると言った。同級生は、それは、もう一人の同級生が、自堕落な生活をしているのを見て、ロングテールを考えたというようなことを言った。彼は、ほとんど若いときのままである。

電車がホームに入ってくるが、短い車両で、電車はホームの先の方で止まったので、そちらへ走って行った。

学校の会議の場面で、同級生が議長となっている。そして、もう一人の女性の同級生が座っている。ふたりとも、鮮やかなブルーの服を着ているのが印象的であった。

____________________________

解明:これも、これまでの老賢者/太母のテーマの夢であろう。ただし、ユング心理学のこの概念も、真理には、達していないことを示唆しているだろう。

二冊の本とは何だろう。

また、思うに、ここには、超越界のエロース、天上のエロースが表象されていると思う。チベット仏教、タントラ仏教のエロースだと思う。そう、密教のエロースである。

つまり、先にも述べたが、ユング心理学は、個性化として、対立物の統合を説くが、それは、不正確であるということだろう。超越的差異即非性ないし即非的一が本来的なのであるということだろう。コミュニケーションとかコミュニオンとかも同様だろう。

今朝